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第二次世界大戦時のイタリア軍用航空機企業とその代表機 ―イタリア空軍を支えた11社―

イタリアは航空機先進国であったが、第二次世界大戦時も大小様々な航空機企業が乱立しており、これは戦時体制には仇となって航空機生産の非効率化を生んだ。工業生産力が低かったイタリアにとって、多数の企業が多種多様な航空機を開発・量産するという事態は、整備や補給の面でも苦労することとなり、更に機体の種類は豊富だが全体の生産機数は低かった。イタリアにおける航空機企業の乱立はロマンではあったが、戦時量産体制には支障をきたすことになったのである。

さて、そんなイタリア航空機企業であるが、今回は第二次世界大戦時に軍用機を生産した11の航空機企業(カプロニ社、アエルマッキ社、フィアット社、サヴォイアマルケッティ社、レッジアーネ社、IMAM社、CANT社、ピアッジオ社、ブレダ社、SAIアンブロジーニ社、フラテッリ・ナルディ社)の歴史を各社の代表的な機体と共に紹介してみようと思う。

 

カプロニ社

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カプロニ・カンピーニN.1

+代表的な機体

・カプロニ・カンピーニN.1

(イタリア初のジェット機)

・カプロニ・スティパ

(特徴的な見た目の実験機)

・カプロニ Ca.309"ギブリ"偵察機

(スタジオ・ジブリの元ネタ)

・カプロニ Ca.311偵察爆撃機

(英国も購入しようとした最新鋭偵察機)

・カプロニ Ca.133"カプロナ"爆撃機

(東アフリカ戦線の主要爆撃機)

 

イタリアの代表的な航空機企業の一つ。航空パイオニアとして知られるジャンニ・カプロニ伯爵によって1908年にミラノ近郊のソンマ・ロンバルドで創業した。ソンマ・ロンバルドは現在ミラノ・マルペンサ空港が置かれている町である。なお、ジャンニ・カプロニ伯爵はスタジオ・ジブリのアニメ映画『風立ちぬ』にも登場している。もっと言ってしまえば、スタジオ・ジブリの名前の元になったCa.309"ギブリ"偵察機は、カプロニ社が開発した機体である(ジブリは宮崎監督が"Ghibli(ギブリ)"をジブリと読み間違えたことで名前が付いたらしい)。

カプロニ伯爵はイタリア初の国産飛行機「カプロニ Ca.1」を1909年に設計を完成させ、1910年に初飛行を遂げている。カプロニ・スティパやカプロニ Ca.60といったユニークな航空機の開発で知られる企業で、またイタリアでは唯一ジェット機開発に深くかかわった企業であった。世界初のジェット機「コアンダ=1910」はルーマニア人のアンリ・コアンダ技師が設計し、カプロニ社が開発した機体であり、イタリア初のジェット機(当時は「世界で初めて飛んだジェット機」と言われた)であるカプロニ・カンピーニN.1を開発したのもカプロニ社だ。ちなみに、真珠湾攻撃の知らせがイタリアに渡った時、ムッソリーニ統帥はフージェ空軍参謀長と共にカプロニ・カンピーニN.1の試験飛行に立ち会っていたそうだ。

カプロニ社は第一次世界大戦での爆撃機開発を経てイタリア有数の航空機企業に発展を遂げる。民間旅客機開発でも知られたが、軍用機開発においては、ユニークな機体を生み出す一方で他社との競争力は低く、フィアット社やアエルマッキ社に敗れていった。とはいえ、優秀な設計の航空機も多く、例えばCa.311偵察爆撃機は頑丈で使い勝手がよく、1940年には英国が購入しようとしたほどであった(同盟国ドイツが反対し、更にイタリアの参戦によって頓挫したが)。

一方で、航空機以外にも船舶の生産もおこなっており、軍艦の機関開発やMAS艇、CA級及びCB級ポケット潜水艦、人間魚雷「マイアーレ」といった小型海軍兵器を開発している。これらの小型兵器は第二次世界大戦時、海軍で利用されて多くの戦果を挙げている。

なお、日本海軍はカプロニ社のジェット機開発に興味を抱き、RSI政権下のカプロニ社とライセンス契約を結んだ。イタリアで航空機研究を行っていた庄司元三技術中佐がカプロニ社から資料提供を受け、日本に持ち帰ることとなったが、乗艦したUボートがドイツ降伏によって連合軍に拿捕されたため日本にカプロニ社の技術が届く事は無く、庄司中佐も自殺を遂げてしまったのであった。

 

アエルマッキ社

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マッキ MC.205V"ヴェルトロ"

+代表的な機体

・マッキ MC.205V"ヴェルトロ"戦闘機

(第二次世界大戦時のイタリア最優秀戦闘機)

・マッキ MC.202"フォルゴーレ"戦闘機

(大戦中期の主力戦闘機)

・マッキ MC.200"サエッタ"戦闘機

(大戦初期の主力戦闘機)

 

イタリアの代表的な航空機企業の一つ。第二次世界大戦時はイタリアを代表する数々の名戦闘機を生んだ企業として知られる。創設者は航空パイオニアのジュリオ・マッキ技師で、1913年にロンバルディア州ヴァレーゼで創業した。

第二次世界大戦時は全期間を通じて、イタリア空軍の主力戦闘機を開発した。イタリア空軍の最優秀戦闘機と称されるマッキ MC.205V"ヴェルトロ"戦闘機を始めとし、マッキ MC.202"フォルゴーレ"戦闘機やマッキ MC.200"サエッタ"戦闘機といった優秀な機体を生んだ。マッキの戦闘機はフィアット社の戦闘機と共に生産数も多く、イタリア空軍の主力戦闘機として活躍し、休戦後もRSI空軍で使われた。フィアット社と共にレース機の生産でも名を挙げている。

 

フィアット

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フィアット G.55 "チェンタウロ"

+代表的な機体

フィアット G.55"チェンタウロ"戦闘機

(RSI空軍でも活躍した傑作戦闘機)

フィアット CR.42"ファルコ"戦闘機

(世界最後の複葉戦闘機)

フィアット G.50"フレッチャ"戦闘機

(イタリア初の単葉戦闘機)

フィアット BR.20"チコーニャ"爆撃機

(日本にも輸出された双発爆撃機)

 

現在ではイタリア最大の自動車企業、そしてイタリアのみならず、世界有数の巨大企業として発展している大企業。1899年にジョヴァンニ・アニェッリによってトリノで自動車企業として設立された。

イタリア初の大衆車である初代FIAT 500(チンクエチェント)、通称"トポリーノ(子ネズミ)"を作ったことでも知られる。ちなみに二代目FIAT 500はルパン三世の愛車として有名だ。現在売られているのは三代目。ちなみに、アルファロメオ、ランチャ、マゼラーティといった他の主要なイタリア自動車メーカーはフィアット社の傘下にある。フェラーリ社も一時的に傘下に置かれていたが、少し前に独立した。

さて、このフィアット社であるが、当時はイタリア有数の航空機企業の一つでもあった。マッキ MC.205V"ヴェルトロ"戦闘機と並ぶ、イタリア最高の戦闘機、フィアット G.55"チェンタウロ"戦闘機の生産でも知られ、他にもイタリア最高の代表する機体を生産した。世界最後の複葉機であるフィアット CR.42"ファルコ"戦闘機、そしてイタリア初の単葉戦闘機フィアット G.50"フレッチャ"戦闘機はバトル・オブ・ブリテンにも参加している。ファルコはアフリカ戦線でも戦果を挙げ、複葉機の世界最高エースパイロットであるヴィシンティーニ大尉を生んだ傑作機だ。フィアット BR.20"チコーニャ"爆撃機は日本にも輸出され、「イ式重爆撃機」として使われている。

 

サヴォイアマルケッティ

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サヴォイアマルケッティSM.79"スパルヴィエロ"

+代表的な機体

サヴォイアマルケッティ SM.79"スパルヴィエロ"爆撃機

(イタリアを代表する高速爆撃機)

サヴォイアマルケッティ SM.82"カングーロ"爆撃機/輸送機

(バーレーンも爆撃した機体)

サヴォイアマルケッティ SM.81"ピピストレッロ"爆撃機

(スペイン内戦で活躍した爆撃機)

サヴォイアマルケッティ SM.75輸送機

(1942年のローマ-東京飛行を成功させた輸送機)

サヴォイアマルケッティ SM.85急降下爆撃機

(イタリア初の急降下爆撃機)

サヴォイアマルケッティ S.55

(大西洋横断飛行を達成した双胴の飛行艇)

 

イタリアの代表的な航空機企業の一つ。上部イタリア水上機会社(SIAI)として1915年にミラノで設立された。創業者は実業家のドメニコ・ロレンツォ・サントーニ。名前から分かる通り、当初は水上機専門の企業として造られた企業だった。社名に王家である「サヴォイア」の名を冠したため、RSI政権期には「SIAI-マルケッティ社」と改称され、戦後も王政が崩壊して共和政になったため、企業名はそのまま変わらなかった。

第二次世界大戦時において、優秀な爆撃機を生んだ企業として知られる。サヴォイアマルケッティ社を代表するサヴォイアマルケッティ SM.79"スパルヴィエロ"はイタリア空軍を代表する主力爆撃機で、イタリア空軍が参加した全ての戦線で戦った。

また、長距離飛行のノウハウがあった。戦間期にはイタロ・バルボ空軍元帥率いる遠征部隊がサヴォイアマルケッティ S.55で二度の地中海周遊飛行や、二度の大西洋横断飛行を達成した。大戦中はエットレ・ムーティ空軍中佐によるバーレーン及びサウジアラビアの油田への長距離爆撃任務(サヴォイアマルケッティ SM.82"カングーロ")や、1942年のローマ-東京長距離飛行も達成(サヴォイアマルケッティ SM.75)している。

 

レッジアーネ社

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レッジアーネ Re.2005"サジッタリオ"

+代表的な機体

・レッジアーネ Re.2005"サジッタリオ"戦闘機

(本土迎撃戦で活躍した傑作機)

・レッジアーネ Re.2002"アリエテ"戦闘爆撃機

(ドイツ空軍でも賞賛された戦闘爆撃機)

・レッジアーネ Re.2001OR艦上戦闘機

(試作された空母艦上戦闘爆撃機)

・レッジアーネ Re.2000"ファルコ"戦闘機

(艦載機としても使われた高性能機)

 

イタリアの航空機企業の一つ。1901年、ロマーノ・リーギ技師によってレッジョ・ネッレミリアにて創業した。レッジアーネ社の航空機は優秀であったが、マッキやフィアットとの競合で敗れ、中々空軍に採用されなかった。採用時期が遅く、量産数が少なかったものが多いのが悲しいところである。

レッジアーネ Re.2005"サジッタリオ"戦闘機は、フィアット G.55"チェンタウロ"戦闘機やフィアット G.55"チェンタウロ"戦闘機といったイタリア空軍最高峰の戦闘機と並ぶ機体とされ、休戦後はRSI空軍と共にドイツ空軍でも終戦まで使われ、ベルリン防空戦でも戦っている。優れた艦載機の生産でも知られ、レッジアーネ Re.2000"ファルコ"戦闘機は、カタパルト発進出来る機体として、戦艦「ヴィットーリオ・ヴェーネト」や水上機母艦「ジュゼッペ・ミラーリア」といった大型艦に搭載されている。また、イタリア唯一の空母艦載機としてレッジアーネ Re.2001OR艦上戦闘機も生産されたが、肝心の空母(空母「アクィラ」及び「スパルヴィエロ」)が休戦までに完成しなかった。

 

IMAM社

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IMAM Ro.43水上偵察機

+代表的な機体

・IMAM Ro.43水上偵察機

(海軍の主力水上偵察機)

・IMAM Ro.37"リンチェ"偵察機

(各国への輸出で成功を収めた複葉偵察機)

・IMAM Ro.57bis急降下爆撃機

(戦闘機として開発された急降下爆撃機)

・IMAM Ro.41訓練機

(実戦でも使われた訓練戦闘機)

 

イタリアの航空機企業の一つ。1923年、ナポリにてニコラ・ロメオ技師によって創業された航空機企業。珍しく南部に本社を置く航空機企業である。前進は鉄道企業で、オランダ・フォッカー社の航空機をライセンス生産して航空機産業に参入し、フィアット社の生産代行も行っている。IMAM社の航空機はそこまで成功したとは言えないが、IMAM Ro.43水上偵察機はイタリア海軍の主力水上偵察機として使われ、IMAM Ro.41訓練機は訓練機でありながら航空機不足により北アフリカの防空戦で戦い、更にRSI空軍でも使われるなど、多くの機体が活躍したのも事実であった。

 

CANT社

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CANT Z.506 "アイローネ"水上機

 +代表的な機体

・CANT Z.506B"アイローネ"水上機

(地中海で活躍した傑作軍用水上機)

・CANT Z.1007bid"アルチョーネ"爆撃機

(全木製の優秀な爆撃機)

・CANT Z.501"ガッビアーノ"水上機

(洋上偵察と海上救難で活躍した水上機)

・CANT Z.1018"レオーネ"爆撃機

(イタリア最高の爆撃機とも称された傑作)

 

イタリアの航空機企業の一つ。CANT(カント)は"Cantieri Aeronautici e Navali Triestini(トリエステ空軍・海軍工廠)"の略称で、元々はCNT("Cantiere Navale Triestino"、すなわちトリエステ海軍工廠)として1907年にフリウーリのモンファルコーネで造られた。造船所として出発し、1923年に航空事業に参入、CANTと改称。

CANT社はフィリッポ・ザッパータ技師のもとで、多くの優秀な航空機を生んだ。特に知られているのは水上機爆撃機である。CANT Z.1007bid"アルチョーネ"爆撃機は、全木製であるが、優れた運動能力と安定性を誇り、CANT Z.1018"レオーネ"爆撃機と共に「イタリア最高の爆撃機」とまで称されるほど優秀な機体であった。水上機も優秀で、CANT Z.501"ガッビアーノ"水上機第二次世界大戦時は既に旧式であったが、頑丈で扱いやすく、長距離偵察や海上救難、哨戒任務など様々な用途で使われた。CANT Z.506B"アイローネ"水上機は民間用水上機から発展した機体で、雷撃機や哨戒機としてギリシャ戦線などで活躍し、救難用にドイツ空軍でも使われていた隠れた傑作機だ。

 

ピアッジオ社

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ピアッジオ P.108

 +代表的な機体

・ピアッジオ P.108B爆撃機

(連合軍機に匹敵した優れた四発爆撃機)

・ピアッジオ P.50-I試作爆撃機

(特徴的なデザインをした試作四発爆撃機)

・ピアッジオ P.32爆撃機

(哨戒機として使われた全木製双発爆撃機)

・ピアッジオ P.23R記録機

(高速長距離爆撃機として宣伝された記録機)

・ピアッジオ P.16重爆撃機

(逆ガル翼の先進的な試作三発爆撃機)

 

イタリアの航空機企業の一つ。1884年にリナールド・ピアッジオが創設した。本社はトスカーナ州のポンテデーラに置く。一般的にはイタリアの国民的スクーター「ヴェスパ」で知られている企業で、現在ではオートバイメーカーとして広く知られており、イタリアのオートバイメーカーの最大手と言っても過言ではない。モト・グッツィやアプリーリアも傘下としており、本社が置かれるポンテデーラには大きな博物館(入館料無料!)もある。

元々ピアッジオ社は船舶用の部品メーカーとして創業された歴史のある企業で、その後20世紀に入って鉄道や航空機事業にも参入した。ピアッジオ社自身が開発した航空機の殆どは採用されず、あまり成功したとは言えないが、例えばピアッジオ P.108B爆撃機はイタリア空軍に採用された唯一の四発爆撃機として、連合軍機と匹敵する傑作機と言われた。また、ピアッジオ社が開発した航空エンジンは様々な軍用航空機に使われ、陰からイタリア空軍を支えた。大規模な工場を持っていたため、他社の航空機生産も行っている。

例えば、ポンテデーラのピアッジオ博物館にも展示されている航空機エンジン「ピアッジオ P.XI RC40」は、ピアッジオ社製の軍用航空機だけでなく、爆撃機「ブレダBa.88"リンチェ"」、爆撃機「カプロニ Ca.135 bis」、爆撃機「CANT Z.1007 bis"アルチョーネ"」、爆撃機サヴォイアマルケッティ SM.79"スパルヴィエロ"」などといった大戦期の多くの軍用航空機に使われた。

また、ヴェスパを生んだコッラディーノ・ダスカニオ技師は、イタリア初の近代ヘリコプター「D'AT 3」を1930年に開発し、その飛行記録は数年間破られることはなかった。

 

レダ

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レダ Ba.65"ニッビオ"地上攻撃機

 +代表的な機体

・ブレダ Ba.65"ニッビオ"地上攻撃機

(海外でも使われた低性能な多用途機)

・ブレダ Ba.88"リンチェ"戦闘爆撃機

(劣悪な性能の空軍近代化のシンボル)

・ブレダ Ba.201急降下爆撃機

(逆ガル翼の試作急降下爆撃機)

・ブレダ Ba.25訓練機

(イタリア以外にも世界各国で使われた複葉訓練機)

 

イタリアの航空機企業の一つ。1886年にエルネスト・ブレダ技師によってミラノで操業した機械工学・軍需企業。軍用機としての性能は劣悪なものが多く、例えばBa.88爆撃機は使い物にならないほど劣悪な性能で、空襲時のおとりとして使われている。しかし、一方で世界各地への輸出でまずまずの商業的成功を収めており、例えばブレダ Ba.25訓練機は軍の近代化を進めるエチオピア帝国に輸出され、帝国親衛隊の航空部隊で使われた。後にイタリア軍エチオピア帝国に侵攻を開始したが、もしかしたら両軍のイタリア航空機同士が航空戦で戦闘したのかもしれない。

航空機企業としてより、銃火器の生産で知られており、第二次世界大戦時にイタリア陸軍の主力装備となった「ブレダM30軽機関銃」や「ブレダM35機関砲」などを開発した。元々は鉄道や農業機械をメインに生産する機械工学企業で、イタリア農業の機械化にも一役買っている。第一次世界大戦を機にイタリアを代表する軍需企業に成長し、それはファシスト政権期に更に強められることとなった。

 

SAIアンブロジーニ

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SAIアンブロジーニ207

  +代表的な機体

・SAIアンブロジーニ207戦闘機

(全木製戦闘機の完全版)

・SAIアンブロジーニ403"ダルド"戦闘機

(優れたスピードを誇る試作全木製戦闘機)

・SAIアンブロジーニ S.7訓練機

(戦後も使われた洗練された訓練機)

・SAIアンブロジーニ S.S.4 戦闘機

(時代を先取りしたイタリア版震電)

 

イタリアの航空機企業の一つ。1922年、アンジェロ・アンブロジーニ技師によってウンブリア州トラジメーノ湖畔パッシニャーノ・スル・トラジメーノで創業。空軍で採用された機体は少ないものの(先進的な機体は保守的な空軍上層部にウケが悪かった)、洗練されたデザインや時代を先取りした設計など、優れた機体も多い。

例えば、イタリア空軍に採用され、RSI空軍にも使われたSAIアンブロジーニ207戦闘機は、全木製戦闘機の完全版とも言える存在で、僅か750馬力のエンジンで時速620km以上を出すという素晴らしい設計であり、さらに全木製であることから低コストで大量生産が可能と言う夢の機体であった。1939年に初飛行したSAIアンブロジーニ S.S.4 戦闘機は、完全に時代を先取りした設計で、カナード翼を持つイタリア版「震電」とも言える機体だった。しかし、その先進性故に当時は認められず、空軍には採用されずに試作機段階で終了となっている。

 

フラテッリ・ナルディ社

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ナルディ FN.305連絡機

+代表的な機体

・ナルディ FN.305練習機

(空気力学的に洗練された優れた高性能機)

 

イタリアの航空機企業の一つ。1935年にナルディ三兄弟(エウステ、エリオ、ルイージ)によってミラノにて創業。小さな航空機企業だが、ナルディFN.305は空軍に採用されて量産している。ナルディ社の工場は小規模であったため、量産はピアッジオ社やサヴォイアマルケッティ社で行われている。この機体は商業的にも成功し、ドイツやフランスなど、他の国々にも輸出された。小企業だが戦後も何とか生き残り、民間機であるナルディFN.333は現在でも使われている。

 

他にもロンバルダ社やウンブラ社、AVIA社といったいくつかの小企業があるが、殆ど採用されていない上に、多過ぎるのでここでは紹介しない。

調べてみて思ったが、イタリアは航空機企業が多過ぎる。これは戦争には向かないのは明らかである。航空機先進国であったが故、多くの企業が航空機産業に進出したのが仇となったと言えるだろう。