第二次世界大戦時のイタリア陸軍とイタリア海軍の食事事情を調べてみた
イタリア陸軍の食事事情
第二次世界大戦時のイタリア陸軍の食事事情というと、「砂漠パスタ」を連想する人がいるかもしれない。まぁアレは虚偽の事実であるのだが、日本のインターネットではデマが非常に広がっており、頭を抱えている。
ただ、一切の根拠がないわけではない。史実的には一応「パスタは北アフリカに運ばれている」という事実は存在したようである。
ただ、パスタといっても日本人が想像するスパゲッティではなく、スープと一緒に煮こんで食べるショートパスタ....いわゆるミネストラである。つまり、スパゲッティのように茹で汁を捨てる、ということはしない。
当然ながら、砂漠の前線では食べられてはいない。そもそも、パスタどころか飲み水に困っていたような前線でパスタを食べる余裕など存在しない。
北アフリカ戦線に運ばれたパスタは、トリポリやベンガジといった沿岸部の都市司令部で食べられていたようだ。
「砂漠パスタ」のデマは、「沿岸部の後方の司令部」で食べられていたものが、「砂漠の前線」で食べられていたと改変され、更に茹で汁として使ったスープも一緒に食べる「ミネストラ」ではなく、茹で汁を捨てる「スパゲッティ」として改変されたのである。他に、「ドイツ軍に助けを求めた」とか、その手の「ヘタリアイメージ」が追加されていった。なんというか、アレである。
この「ミネストラ」はイタリア軍では陸軍や海軍でよく食べられていた。理由としてはスープとして配膳がしやすいからだ。スパゲッティは効率が悪いのである。
なお、北アフリカ戦線の前線では1人当たりビスケット2枚と牛肉の缶詰(かなり不味かったらしい)のみで、それすら補給状態によって届かないこともあった。その辺の現状は『炎の戦線エル・アラメイン』という映画で詳細に描かれている。しかも前述した通り、飲み水も不足していた。時にはガソリンが表面に浮いた水を飲むハメにもなった。
こんな状況ではパスタなんぞ茹でられんのは明らかである。
この牛肉の缶詰は「A.M.(軍事支給の略)」と書かれていたが、あまりの不味さにイタリア兵からは「死んだアラブ人(Arabo Morto)」と呼ばれていたそうだ。
現地で徴発が可能な場合は、家畜の解体や食糧の自給も行った。アフリカ戦線ではラクダがイタリア兵の腹を満たしたこともあった。
場所が変わって、極寒のロシア戦線では堅く焼いたパンと水で薄めたスープが兵士に食べられており、たまに「ごちそう」としてポレンタが食べられていた。こちらの食糧事情は北アフリカに比べて良かったようである。
任務が過酷なベルサリエリとアルピーニは高カロリーの特別食が配られていた。この特別食は演習時や行軍後には他の兵科にも配給されている。
ここまでは遠征地での食事事情である。当然ながら、イタリア本国では食事事情は大きく異なる。ここで、イタリア本国の兵舎の食事の一例を見てみよう。
朝食:コーヒー、乾パンorクラッカー2枚
昼食:パスタor野菜スープorリゾット、肉料理、パン、果物、ワイン
夕食:野菜スープ、パスタ、チーズ、果物、牛肉の缶詰or牛肉のスープ、ワイン
割と良い感じだ。イタリア人は伝統的に朝食をあまり食べないので、簡素である(なおムッソリーニはキチンと朝食を食べており、健康の秘訣だった)。
これは一般兵の食事であり、将官や将校・下士官とは大きな格差があった。これは両者に心理的に大きな隔たりを作っていたと言われる。一応、戦時中は「原則的に」全階級が同じ食事を与えられることになっていたが、実際は違ったようだ。
イタリア陸軍はこんな感じである。次に、イタリア海軍の食事事情を見てみよう。
イタリア海軍の食事事情
日本陸軍と海軍の食事事情が大きく異なったように、イタリアもそうであった。
例えば、重巡洋艦「ザラ」の昼食メニュー(1933年)を見てみよう。
魚介のアンティパスト(前菜)、アサリのヴェルミチェッリ、魚料理、チョコレートのスフレ、果物、ワイン。
結構豪華である。海軍らしく、魚介類が多いのが素晴らしい。
次に、重巡洋艦「ポーラ」の朝食メニュー(1933年)。
マカロニのパイ、シタビラメのフィレ・モッツァレッラ添え、鶏むね肉のピエモンテ風、ボルシチ(ズッパ・アッラ・ルッサ)、ドルチェ。
本当に朝食か?ってくらい豪華である。イタリア人朝食食べない論はどこに行った。
おそらくだが、これらは水兵ではなく、士官以上の食事であっただろうと思われる。
流石に水兵用の食事でここまで豪華ってことはないだろう....
これらは平時の食事である。次に戦時中に最も過酷な任務を担った潜水艦の食事事情を見てみよう。
こちらは潜水艦「グリエルモ・マルコーニ」の食事メニューである。
1941年10月21日、大西洋での作戦時のもの。
レンズ豆のピクルス、レンズ豆のミネストローネ、牛タンのサラミ・レンズ豆のピューレ添え、フルーツのシロップ漬け、コーヒー。
ワインはビアンコかロッソか選べる。
メニュー下のイラストもかわいらしい。潜水艦の食事で使われるものは瓶詰や缶詰の保存食が使われたようだ。それでも、結構美味しそうである。ただ、レンズ豆多いな....
こちらは、潜水艦「ヴェレッラ」の食事メニューである。
1941年8月21日、「グリエルモ・マルコーニ」と同様に大西洋での作戦時のもの。
キノコのオレキエッテ、牛肉のロースト じゃがいもとズッキーニ添え(Arrosto di bue con patate e zucchine)、ナシ、リキュールorコーヒー、ワインはビアンコかロッソか選択可能。
フルーツはナシだが、流石に生ではないと思うので缶詰だろうか。
調べてみて大体わかったが、やはり海軍の方が食事が美味しそうだ。日本に初めてイタリア料理を伝えたアントニオ・カンチェーミ氏も、もともとはイタリア紅海艦隊(後に極東艦隊)の艦隊司令官付きのシェフであった。そう考えると、当時からイタリア海軍の食事レヴェルは十分に高かった、と言えるだろう。
陸軍と海軍のこの差...陸軍兵士の士気が下がるのも頷ける。
以前、イタリア海軍のイヴェントでは当時の海軍の食事を再現して振舞っていたそうなので、もし参加できるのであれば、そういったイヴェントにも参加してみたいものだ。
そういえばイタリア空軍の食事事情はどうなんだろう?陸軍と同じような感じもするが、今度はそちらも調べてみたい。
イタリア海軍の食事については別記事で詳しくまとめたので、よければこちらもご参照あれ。
デ・ヴェッキという男 ―ファシストのソマリア統治―
ローマ進軍において重要な役割を果たした四人のファシストは、クァドルンヴィリ(いわゆるファシスト四天王)と呼ばれ、党の終身最高幹部となった。
今回は四人の中でも、チェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキという人物、そして彼の重要な功績であるソマリア統治の話をしよう。
チェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキは、1884年11月14日、ピエモンテ州のカザーレ・モンフェッラートの地主の家に生まれた。カザーレ・モンフェッラートはワインの産地としても名高い町である。年としてはムッソリーニより一歳年下だ。
地主の息子として弁護士となり、絵を描くことが好きで、美術にも造詣が深い「文化人」だった。詩を作ることも趣味だったようである。
デ・ヴェッキは熱心な王党派ファシストとして知られている。ファシズムにはムッソリーニの国家主義に同調して参加したようで、ファシズムの社会主義的な側面には最後まで共鳴できなかった。
ファシスト政権期におけるデ・ヴェッキの重要な功績は主に三つ挙げられる。それは、ソマリア総督時代(1923年~1928年)、国民教育相時代(1935年~36年)、エーゲ総督時代(1936年~40年)であるだろう。
ここでは主にソマリア総督時代について述べるが、あと二つの時代についても少し述べておくと、国民教育相時代はイタリアの教育政策を牛耳り、教育行政の自治を廃した中央集権化を一段と強化した。つまりは、教育行政の「ファシズム化」を行った。
そして、エーゲ海諸島総督時代は、対ギリシャ工作を行い、開戦前夜には潜水艦「デルフィーノ」に極秘の命令を出し、当時中立だったギリシャのティノス軍港を攻撃、ギリシャ海軍の軽巡洋艦「エリ」を撃沈している。これらはギリシャへの挑発であった。また、「スパツィオ・ヴィターレ」構想を作り上げたのもこの頃であると思われる。
さて、ではデ・ヴェッキのソマリア総督時代について述べるとしよう。
1923年12月、ソマリア総督に就任したデ・ヴェッキはモガディシオに渡った。デ・ヴェッキはソマリアにおける中央集権化と支配の強化を図った。そのために、保護国であった二つのスルタン国の征服と併合を実行した。
一つ目のスルタン国はミジュルティニア・スルタン国で、ソマリア北部を支配していた。ハーフーン岬やボサソを擁していた。
二つ目のスルタン国はオッビア・スルタン国で、ソマリア中部を支配していた。ガルカイヨやホビョ(オッビア)を擁していた。
ミジュルティニアの併合は1924年に円滑に行われたが、オッビアでは大規模な反乱が発生し、その中でも最も大規模な反乱がオマル・サマタールによる叛乱だった。この叛乱は規模を増して拡大し、エチオピア帝国領であるオガデンやモガディシオまで及んだ。
デ・ヴェッキ率いるイタリア軍はサマタールの叛乱鎮圧に苦戦し、エリトリアの現地兵を増援で派遣し、多くの犠牲を出しながらも1925年に叛乱を鎮圧した。この叛乱鎮圧でエリトリア人水兵のイブラヒム・ファラグ・モハメド曹長がソマリ人叛乱軍に対する沿岸防衛で武勲を挙げている。彼は後に伊軍最高勲章である金勲章を受勲している。
スルタン国が征服された後、ガルカイヨは「ロッカ・リットーリオ」、ハーフーンは「ダンテ」と改称されている。
また、1915年のロンドン条約に基づき、1924年にキシマイオを含むオルトレジュバ(ジュバランド)植民地が英国領ケニアから割譲されていた。この植民地は最初はソマリア植民地と別々に扱われたが、1926年にソマリア植民地に統合されている。
これにより、「ソマリアの統一」がなされた(英領ソマリランドを除く)。
さて、次はソマリアの植民地経済である。
ソマリアは入植者によって開発が行われ、特に南部ではアブルッツィ公によって農業開発に力が入れられた。1920年にはアブルッツィ公によってヴィッラブルッツィ(現ジョーハル)、1924年にはピエモンテ人の入植者によってジェネーレ(現ジャナーレ)といった新たな都市が築かれていった。
1924年には首都モガディシオからアフゴーイまでの鉄道が開通し、1927年にはソマリア鉄道の延伸によってヴィラブルッツィまで鉄道が伸びた。この鉄道は農業都市で採れた作物を輸出港のモガディシオに運ぶ、いわばソマリアの大動脈として機能した。
モガディシオのほか、メルカ(現マルカ)港も輸出港として栄えた。
特にヴィッラブルッツィはソマリアの農業都市の中で最も栄えた。アブルッツィ公は都市の繁栄に尽力し、1930年代には数千人のイタリア人がこの街に入植した。ソマリア植民地最大の企業である「サイス(Sais)」という農業会社も設立している。アブルッツィ公は探検家や登山家としても知られ、第一次世界大戦時は海軍提督として艦隊も指揮している。1933年にアブルッツィ公が亡くなると、公はこの町に埋葬された。後にイタリア海軍は軽巡洋艦に彼の名を付けている。
南部は農業に適している土地も多かったが、北部は砂漠地帯が多かった。そんな北部ソマリアの経済の中心として栄えたのが、現在のハーフーンである「ダンテ」市だった。
ダンテ市にはミラノ人によって当時世界最大の塩田が作られた。この塩田が、ダンテ市の経済の中心となったのである。ダンテ市とオルディオ市にはラグーナを横断する長いロープウェイが作られた。これは、塩田で採れた塩を運ぶためのものであった。ファシスト政権当時にはイタリア本国から観光客が訪れることもあった。
ダンテ市のあるハーフーン岬はまさに「アフリカの角」であり、アフリカ最東端だった。近くのグアルダフィ岬にはファシズムのシンボルである「ファッショ」を模したフランチェスコ・クリスピ灯台も1924年に作られている。これは現在も残っており、ソマリアにおける歴史的なイタリア建築として知られている。
フランチェスコ・クリスピ灯台と同様に、ファシスト政権期には多くのイタリア・ファシズム建築が作られた。特にモガディシオには現在でも多くのイタリア建築が残っている。エリトリアのアスマラのイタリア建築群がUNESCO世界文化遺産登録されたので、こちらの登録も望みたいところである。
デ・ヴェッキの後任のソマリア総督の話であるが、グイード・コルニ総督(1928年~1931年)とマウリツィオ・ラーヴァ総督(1931年~1935年)の時代には、ソマリアのイスラーム文化や社会構造を尊重し、それらの部族間の文化統合を行うことで、ソマリ人のイタリア支配を強化した。また、「シャヴェッリのスルタン」オロル・ディンレのようなソマリ人有力者を味方につける事で、多くのソマリ人をイタリア植民地現地兵として動員することが可能となり、その後のエチオピア戦争では多くのソマリ人がイタリア兵として参加、その勝利に貢献したのである。なお、ラーヴァ総督はファシスト党ローマ支部の創設者の一人だが、ユダヤ系ファシストであった(そのため、後に「人種法」が施行された際に公職追放を受けている)。
ソマリア植民地を統一することでイタリアによる直接統治の円滑化を進め、アブルッツィ公と共にソマリアの経済発展を導いたデ・ヴェッキであるが、その強引な手段はソマリ人の大規模叛乱を起こし、その鎮圧で多くの犠牲者を出してしまった。
なお、イタリア植民地時代に作られたソマリア鉄道であるが、第二次世界大戦時の英軍によるソマリア侵攻時に破壊されており、その後のイタリア信託統治時代も再建されず、現在に至るまでソマリアに鉄道は存在しない。