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1940年の王立ギリシャ海軍の構成 ―イタリア侵攻時のエーゲ海の艦隊―

第二次世界大戦時の王立ギリシャ海軍はそれなりの規模であったが、海軍の近代化を進めている最中に第二次世界大戦に突入してしまった。規模的には仮想敵国であるトルコ海軍には優っていたが、もう一つの仮想敵国であるイタリア海軍には当然ではあるが、大きな差があった。1940年10月、イタリア軍の侵攻によってギリシャ第二次世界大戦に参戦することとなるが、当時のギリシャ海軍の戦力を見てみることとしよう。

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装甲巡洋艦「イェロギオフ・アヴェロフ」甲板にて。左が王立ギリシャ海軍参謀長のアレクサンドロス・サケラリオウ提督で、右が「アヴェロフ」のゴレミス艦長。

1940年のギリシャ参戦時、ギリシャ海軍を率いていたのは1937年に海軍参謀長に就任したアレクサンドロス・サケラリオウ海軍中将であった。彼は熱心な王党派で、メタクサス将軍による王党派クーデター時にも大きな役割を果たした人物である。サケラリオウ提督は、戦争の足音が近づく欧州において、国防のためにも海軍の近代化を推し進めていたが時期が遅く、海軍の近代化はイタリア軍の侵攻にまで間に合わなかった。

1940年の段階でのギリシャ海軍艦艇は以下の通り。

 

 

・戦艦2隻
装甲巡洋艦1隻
軽巡洋艦1隻
駆逐艦14隻
水雷艇9隻
・潜水艦6隻
魚雷艇2隻
・掃海艇4隻
練習艦1隻
機雷敷設艦3隻
・その他艦艇18隻

では、代表的な艦の詳細を見てみよう。

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装甲巡洋艦「イェロギオフ・アヴェロフ」

 

ギリシャ海軍の旗艦は装甲巡洋艦「イェロギオフ・アヴェロフ」である。「アヴェロフ」はギリシャでは「戦艦」に分類されていた。1911年に就役した軍艦で、イタリアで建造された。設計はイタリア海軍のピサ級と変わらない。

バルカン戦争、第一次世界大戦、希土戦争と激戦を戦い抜いてきた武勲艦。第二次世界大戦時も旧式であったが、海軍の旗艦を務めた。ギリシャが陥落すると、指導部による自沈命令を無視し、英国海軍のアレクサンドリア港に避難。その後も連合軍側で作戦に従事し、インド洋にまで派遣された。現在も記念艦として残っている。

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急降下爆撃を受ける戦艦「キルキス」

ギリシャ海軍が保有した戦艦は旧式のキルキス級で、元はアメリカで建造されたミシシッピ級である。旧「ミシシッピ」は「キルキス」、旧「アイダホ」は「レムノス」としてギリシャ海軍に売却され、就役した。1914年に就役した2隻は、1932年まで現役の戦艦として使われた後、訓練用の練習戦艦となり、その後第二次世界大戦時には港の浮き砲台として機能していた。しかし、1941年4月23日にサラミス軍港が急降下爆撃を受け、2隻は撃沈されている。

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軽巡洋艦「エリ」

軽巡洋艦「エリ」は1914年に就役したアメリカ製の軍艦で、元は清が「飛鴻」としてアメリカに発注したものであったが、辛亥革命の影響でキャンセルとなったため、ギリシャ海軍が買い取った。就役後、第一次世界大戦とその後の希土戦争で戦い、1920年代にはフランスで大規模な改装を行った。

しかし、「エリ」はギリシャの参戦前に、1940年8月15日のティノス攻撃によって、イタリア海軍の潜水艦「デルフィーノ」によって撃沈されたのであった。当時はまだギリシャは中立国で、これはギリシャ侵攻を目論むイタリアによる秘密工作であった。この時の恨みは根深く、戦後にギリシャ海軍はイタリアの賠償艦「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」に対して、同名の「エリ」と名付けている。

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駆逐艦「ヴァシリッサ・オルガ」

駆逐艦はヴァシレフス・ゲオルギオス級2隻、イドラ級4隻、ドゥクサ級2隻、エートス級4隻、テュエッラ級2隻の計14隻である。

ヴァシレフス・ゲオルギオス級はギリシャ海軍の近代化計画で建造された駆逐艦で、「ヴァシレフス・ゲオルギオス」と「ヴァシリッサ・オルガ」から構成。英国で建造された。就役は1939年。「ヴァシレフス・ゲオルギオス」は爆撃で撃沈されたが、ドイツ海軍によって浮揚・修復され、「ZG3」として再就役。1943年に自沈。「ヴァシリッサ・オルガ」はギリシャ陥落後も連合国側で戦ったが、1943年9月にレロス島沖で急降下爆撃を受けて撃沈された。

イドラ級はギリシャがイタリアに発注した駆逐艦で、ダルド級と同設計。「イドラ」「プサラ」「スペツァイ」「コンドゥリオティス」の4隻があったが、「イドラ」及び「プサラ」は1941年4月に急降下爆撃を受けて撃沈し、「スペツァイ」及び「コンドゥリオティス」はギリシャ陥落後に脱出し、その後も連合軍側で戦った。

ドゥクサ級はギリシャがドイツに発注した駆逐艦。全4隻だが、その内「ドゥクサ」は第一次世界大戦中に撃沈され、「ヴェロス」は戦間期に解体された。「アスピス」及び「ニキ」が第二次世界大戦時も戦い、ギリシャ陥落後も連合国側で戦った。

エートス級は元々アルゼンチンが発注したものがキャンセルとなったのでギリシャが購入したもの。全4隻。英国製。「エートス」「エラックス」「パンテル」は陥落後も連合国側で戦ったが、「レオン」のみ1941年にスダ湾にて急降下爆撃を受けて撃沈した。

テュエッラ級は英国で建造された駆逐艦。全4隻だが、「ナフクロトゥーサ」は希土戦争で戦没し、「ロンチ」は戦間期に解体された。残る「テュエッラ」と「スフェンドニ」が第二次世界大戦時も戦い、1941年の空襲で「テュエッラ」は撃沈、「スフェンドニ」は陥落後も連合国側で戦った。

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潜水艦「プロテウス」

第二次世界大戦時のギリシャ海軍で最も多くの戦果を挙げたのは潜水艦である。潜水艦「プロテウス」を始めとする6隻の潜水艦は旧式であったにもかかわらず、船団攻撃で多くの戦果を挙げている。しかしその分消耗も大きく、「ニレフス」と「パパニコリス」の2隻を除き、全て戦没している。

当時ギリシャ海軍トップ撃沈数であった「プロテウス」は、1940年12月にイタリア海軍の水雷艇「アンタレス」によって撃沈され、「グラウコス」は1942年4月に爆撃を受けて撃沈。「トリトン」はドイツ海軍の駆潜艇「UJ2102」によって1942年11月に撃沈され、「カトソニス」も1943年9月にドイツ海軍の駆潜艇「UJ2101」に撃沈された。なお、「トリトン」と「カトソニス」を撃沈した2隻のドイツ駆潜艇は元々ギリシャ海軍の掃海艇で、陥落後にドイツ海軍が鹵獲したものであった。

 

第二次世界大戦時のギリシャ海軍は、一部の艦を除き大した活躍はせず、また大規模な海戦に参加することもなかった。多くはイタリア軍及びドイツ軍によって撃沈されるか、あるいは陥落後に鹵獲されることとなり、陥落後も戦い続けた軍艦も撃沈されたものが多い。その後、英国から貸与された艦が加わって多少増強されたギリシャ海軍は終戦まで戦い続けた。しかし、政治的な理由から水兵の叛乱も起こっており、死傷者を出す事態にまで発展している。

主要国の海軍だけでなく、こういった中小国の海軍を調べてみても面白いだろう。今後、他にも気になってみたら調べてみたい。

「世界初の高速道路を生んだ男」ピエロ・プリチェッリ ―ファシスト政権とイタリアの自動車史―

「世界初の高速道路」は実はイタリアだった―そんな話を聞いて、多くの人は驚くだろう。おそらくはドイツやアメリカが世界初と思っていた方が多いのではないだろうか。「世界初の高速道路」は1924年に開通したミラノ―ガッララーテ間の高速道路(アウトストラーダ)である。断じてアウトバーンではない!ドイツのアウトバーンが開通するのは1930年代である。何故か知らないが、これは日本語版Wikipediaには載っていない。毎度のことだが、日本語ウィキはイタリアに怨みでもあるのか?

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「世界初の高速道路」を生んだ男、ピエロ・プリチェッリ

世界初の高速道路はピエロ・プリチェッリ(Piero Puricelli)というミラノ出身の技師によって設計された。彼の元で1922年に高速道路建設が計画され、2年の歳月を経て完成した。FIAT社の公式サイトでは「ピエロ・ピュリチェッリ」として紹介されていたが、表記的に正しい発音はピエロ・プリチェッリなので、そちらに修正した。

よく、「世界初の高速道路」は1911年にアメリカで開通したロングアイランド・モーターパークウェイが挙げられるが、こちらはあくまで娯楽用の自動車専用道路であった。一般向けの都市間高速輸送のために設計された、という現在における高速道路の概念からすると、イタリアのミラノ―ガッララーテ間の高速道路が初となる。それ以前のものは、全てが娯楽用やリクリエーション用、レース用であった。

アウトバーンを「世界初の高速道路」と紹介している例もあるが、そちらは完全なる事実の誤認である。都市間移動のためにせよ、娯楽用にせよ、アウトバーンは全くもって「世界初」ですらない。そもそも、アウトバーンが作られたのは1930年代だ。勘違いも甚だしい。

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当時のイタリアの高速道路の例

ムッソリーニは国内インフラを整えるためにも、この高速道路に注目した。その後、ムッソリーニ率いるファシスト政権のもとで「太陽道路」と呼ばれる高速道路(アウトストラーダ)建設が行われるようになり、現在のイタリア全土を網羅するアウトストラーダの原型となったのである。ちなみに、設計者のプリチェッリ氏は有名なモンツァ・サーキット(イタリア語ではアウトドーロモ・ナツィオナーレ・ディ・モンツァ)も設計している。

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ムッソリーニ統帥は車好きで知られた。左から二番目はかのエンツォ・フェラーリである。

そもそも、ファシスト政権下のイタリアでは車が重視された。当時のイタリアでは、「海を見た事があるイタリア人より、自動車に乗った事のあるイタリア人の方が多い」と言われるほどである。これはムッソリーニが車好きであったことも由来するだろう。ムッソリーニ統帥は無類の車好きで、モータースポーツも愛した。彼の愛車はアルファロメオであった。ファシスト政権期のアルファロメオ社には後にフェラーリ社を創業するエンツォ・フェラーリが務めていたことでも知られている。

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石油企業AGIPの広告

ファシスト政権下で自動車が普及した理由は、レンタカーだった。レンタカーの普及により、自家用車が高くて手が出せない市民でも車に親しむことが出来た。これによって、金持ちだけが独占していた交通手段を、考えられないくらい多くのイタリア人たちが少なくとも一度は利用することが出来たのである。

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初の「大衆車」FIAT 508

同時に、高級車しか存在しなかったイタリア自動車産業に、新たに「大衆車」という概念が生まれた。これを作ったのはFIAT社で、1932年にFIATバリッラ508がミラノの自動車サロンに出展され、「最初の大衆車」として歓迎された。しかし、高級車メーカーであるランチャ社はFIAT社の方針をヨシとせず、「自動車はブルジョワのための贅沢品であるから、壮麗かつ煌びやかな外観を持つべき」と批判している。

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FIAT 500 "トポリーノ"

更に、1936年には「新しいイタリアの小型車」として、初代FIAT 500(チンクエチェント)、すなわち「トポリーノ(子ネズミ)」が登場した。この新型大衆車にはドゥーチェ自身が乗り、「昨日と経済性を兼ね備えた小型車の理想を完璧に再現した車」とまで評価した。価格は他の車よりかなり安く、8千リレほどであったが、自家用車の普及には繋がらず、主流はレンタカーのままであった。なお、ランチャ社はこの「トポリーノ」を「おもちゃのようだ」と批判し、空気力学を生かしたデザインの新型車「アプリリア」を発売している。FIAT社のチンクエチェントは時と共に形を変え(現在は三代目)、現在でもイタリアだけでなく、世界各地で大衆車として愛されている。なお、かのルパン三世の愛車は二代目チンクエチェントである。イタリアだとよく見かけるので、旅先で見かけたら「おぉぉおぉ!!ルパン!!!」ってなること間違いなし(当社比)。ちなみに、イタリア本国においてもルパン三世は大人気作品である。

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ミッレ・ミリア

イタリアの自動車の普及は、モータースポーツ人気も引き起こした。これはイタリアが現在に至るまでモータースポーツ大国になった素地と言えるだろう。自動車レースは人々を熱狂させ、特に農村の住民には人気だった。公道を使う白熱したレースが行われ、人々はこれを楽しんだ。ミッレ・ミリアなど、現在まで続く数多くのレースが初開催されたのもこの時期であり、イタリア本土だけでなく、アフリカの植民地でもレースが行われており、その関係でサーキットも多く造られた。

 

こういった感じだ。イタリアが自動車大国となった背景にはファシスト政権が大きく関わっていたというのは確かだろう。こういった話が、イタリアの再評価に繋がれば幸いである。そう!世界初の高速道路はイタリアなのである!この事実を忘れないで欲しい。