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イタリア戦略爆撃機編隊、ジブラルタルを爆撃せよ! ―第274爆撃飛行隊とピアッジオ P.108B四発爆撃機の戦歴―

「地中海の鍵」と呼ばれたジブラルタル地中海の出入り口であるジブラルタル海峡を抑える要衝として知られ、スペイン継承戦争の結果ジブラルタルは英国の支配下となり、現在も英国の海外領土として機能している。第二次世界大戦時、地中海の制海権・制空権を英国と争うイタリアにとっては、ジブラルタルはマルタと並び非常に重要な場所であった。ジブラルタルを英国が擁している以上、イタリアは地中海に封じ込められ、大西洋に出ることは難しかったからである。そのため、第二次世界大戦時、イタリア空軍・海軍はジブラルタル港への攻撃を頻繁に実行していた

イタリア海軍はユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ(Junio Valerio Borghese)司令率いる「デチマ・マス(Xª MAS)」が何度も港湾内に潜入し、多くの艦船を撃沈して英海軍を悩ませていたことはよく知られている。英国の映画『潜航電撃隊(原題:The Silent Enemy)』でそれが英国側にとってどれだけ脅威であったかが描かれている(参照:https://associazione.hatenablog.com/entry/2018/09/04/222314)

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厳重な警戒態勢が敷かれた夜間のジブラルタル。夜空を対空用のサーチライトで隙間なく監視している。

そういった海軍の活躍と同時に、イタリア空軍もジブラルタルへの爆撃を何度も実行していた。イタリア空軍によるジブラルタル攻撃は4段階に分けられる。1段階は、開戦直後の1940年7月から1942年4月まで行われた、サヴォイアマルケッティ SM.82"マルスピアーレ"三発爆撃機編隊による計8回の爆撃である。SM.82機は元々輸送機として開発された機体だが、バーレーン及びサウジアラビアの油田地帯への長距離爆撃作戦での実績もあり、長距離爆撃機としても優れた性能を持っていた。

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ヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館のサヴォイアマルケッティ SM.82"マルスピアーレ(カングーロ)"三発爆撃機。元々は輸送機として開発されたが、ジブラルタル爆撃やバーレーン・サウジ爆撃など長距離爆撃で戦果を挙げている他、空挺部隊の降下任務にも使われている多用途機だ。

2段階目は、第274爆撃飛行隊のピアッジオ P.108B四発爆撃機編隊による大規模爆撃で、1942年6月から1942年10月まで計5回行われた3段階目は第132雷撃航空群のサヴォイアマルケッティ SM.79"スパルヴィエロ"雷撃機編隊によるジブラルタル港湾の艦船への雷撃作戦で、1943年6月頃に実行4段階目は休戦後、RSI(イタリア社会共和国)空軍(ANR)の第一雷撃集団「ファッジョーニ」のSM.79雷撃機編隊によって、1944年6月に二度実行されている(3段階目はカルロ・ファッジョーニ大尉の記事( https://associazione.hatenablog.com/entry/2019/01/22/013447)、4段階目はRSI空軍の記事(https://associazione.hatenablog.com/entry/2018/12/22/014259)にて少し書いてあるので参照)

今回は、この2段階目、ゴーリ・カステッラーニ中佐率いる第274爆撃飛行隊によって行われたジブラルタル爆撃作戦について扱おうと思う。連合軍機に匹敵する優秀な戦略爆撃機と言われる「ピアッジオ P.108B」を装備した爆撃機部隊の活躍を見てみよう。

 

◆ピアッジオ製の新型爆撃機の登場

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飛行するピアッジオ P.108B四発爆撃機

ピアッジオ P.108B四発爆撃機は、連合軍機に匹敵する性能を誇り、「イタリア最高の重爆撃機」と称されるイタリアで唯一実用化された四発エンジンの戦略爆撃機である。開発・生産はトスカーナ州のポンテデーラを本拠地とするピアッジオ社で行われた。ピアッジオ社は戦後に「イタリアの国民的スクーター」と言われる「ヴェスパ(ベスパ)」を開発したことで知られているが、当時は航空機エンジンの開発で知られていた(ヴェスパの開発にP.108開発での技術を流用したというウワサもある)。

P.108Bを設計したのはアメリカ帰りの航空機設計者、ジョヴァンニ・カシラギ(Giovanni Casiraghi)だった。彼はアメリカで得た技術を用いて、当時のイタリアでは考えられていなかった発想で、革新的な機体を生み出した。それがP.108Bで、空軍のコンペで他社の爆撃機を破り、採用に至ったのであった。防御火器にはブレダSAFAT機関銃の12.7mm機銃が6挺、7.7mm機銃が2挺搭載されている。P.108Bはイタリア版B-17と称されるように、丈夫な機体で護衛なしで戦略爆撃が可能な機体として期待された。試作機は1939年11月24日に初飛行を実現している。初飛行は満足いくものであったため、量産化が決まり、爆撃機部隊への配備が決定した。

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第274爆撃飛行隊を率いたブルーノ・ムッソリーニ(Bruno Mussolini)大尉。ムッソリーニ統帥の次男で、レースや爆撃任務で武勲を得て、優秀なパイロットとして知られていた。

P.108Bの配備が決定した部隊が、第274爆撃飛行隊である。第274爆撃飛行隊はムッソリーニ統帥の次男であったブルーノ・ムッソリーニ(Bruno Mussolini)大尉によって率いられた部隊であった。P.108は爆撃機タイプのP.108Bのほか、P.108A(攻撃機タイプ)、P.108C(民間輸送機タイプ)、P.108T(輸送機タイプ)といくつかのタイプが存在したが、イタリアの工業生産力の低さと、配備決定の時期が遅かったが故に、爆撃機タイプのP.108Bの総生産数は僅か24機に過ぎず、そのため、P.108Bは優れた爆撃機であるにもかかわらず、配備されたのは第274爆撃飛行隊のみであった。

P.108Bは優れた機体ではあったが、他のイタリア爆撃機とは大幅に設計が異なる革新的な機体であったため、人員の訓練にも時間が掛かる事となった。1941年8月7日には、第274爆撃飛行隊の隊長であるブルーノ・ムッソリーニ大尉と同乗していた2人の士官が、P.108Bのテスト飛行時の事故により死亡してしまうという痛ましい事故も発生している。ブルーノはムッソリーニ統帥の次男であっただけでなく、優れたパイロットとしてレース飛行や爆撃任務で名を挙げていたために、この事故は非常に衝撃的なものであった(サボタージュによる事故という説もある)。なお、この事故はムッソリーニ統帥に与えた心理的なダメージも非常に大きかったと言われる。

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ゴーリ・カステッラーニ中佐(Gori Castellani)。「米本土空襲計画」の発案者として知られるアッティーリオ・ビゼオ准将や、ムッソリーニ統帥の次男であるブルーノ・ムッソリーニ大尉らと共に、優れたレース機パイロットとして知られた。大西洋横断飛行で金勲章を叙勲されている。スペイン内戦ではゲルニカ爆撃にも参加。第二次世界大戦開戦後はマルタやバルカンでの爆撃任務に参加し、中佐に昇進した。

ブルーノの死後、ブルーノの戦友であり、共に優秀なレース機パイロットとして知られたゴーリ・カステッラーニ(Gori Castellani)中佐が第274爆撃飛行隊の指揮を引き継いだ。ブルーノの事故を含め、何度か事故があったこともあり、P.108Bの訓練は想定以上に長引くこととなった。このため、初飛行は1939年であるものの、初任務は1942年にまでずれ込むこととなる。こうした訓練の後、1942年6月9日に2機のP.108Bが初任務を終えた。これは地中海西部、バレアレス諸島周辺海域での哨戒任務で、英海軍の駆逐艦を発見して爆撃している。

 

◆第274爆撃飛行隊、ジブラルタルを爆撃せよ!

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ジブラルタルへの夜間爆撃の準備を進めるP.108B編隊。

こうした経験を積んだカステッラーニ中佐率いる第274爆撃飛行隊は、すぐにジブラルタルへの爆撃作戦の準備を始めた。こうして、P.108Bによる最初のジブラルタル爆撃は1942年6月28日の深夜から29日の早朝にかけて行われたが、これは初任務から僅か数週間しか経過していなかった。5機のP.108Bで構成されたジブラルタル爆撃部隊が、サルデーニャ島のデチモマンヌ空軍基地に集結した。爆撃部隊の隊長は第274爆撃飛行隊の隊長であるカステッラーニ中佐で、彼が爆撃部隊の総指揮を執った。

デチモマンヌ基地から攻撃目標のジブラルタルまでは往復約2720km。彼らにとってP.108Bによる初の長距離飛行任務でもあった。1942年6月28日の夜21時、5機のP.108Bはデチモマンヌ基地を離陸、ジブラルタルに向けて夜のフライトを開始したのであった。しかし、道中でセンプリーニ機のP.108Bがエンジントラブルを起こし、途中で帰還することとなった。そのため、ジブラルタル攻撃部隊は4機となった。

約4時間後の29日早朝1時、カステッラーニ率いる4機のP.108B編隊はジブラルタル上空に到達した。ジブラルタルは空襲に備えて厳重な警戒態勢が敷かれていた。しかし、カステッラーニは霧が濃かったためにすぐに爆撃は行わず、地上の英軍対空部隊がP.108B編隊を発見した後にジブラルタルへの空爆を開始した。4機のP.108Bは約8000kgの爆弾をジブラルタルへ投下することに成功し、英軍の軍事設備への被害と死傷者を齎し、英国への打撃を与える事に成功したのであった。

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イタリア空軍によるジブラルタル爆撃を讃える当時のイタリアの新聞。

無事に爆撃を終えたP.108B編隊はデチモマンヌ基地への復路飛行を開始した。カステッラーニの乗る隊長機は無事にデチモマンヌ基地に帰還したが、残り3機は燃料不足で不時着することとなった。2機はスペイン領内に不時着して失われ、もう1機はマヨルカ島に不時着したものの、現地当局の協力によって燃料を再補給した後、デチモマンヌ基地に帰還した。このため、ジブラルタル爆撃に出発したP.108B編隊5機のうち、爆撃を無事に成功させて帰還したのは1機のみで、1機は爆撃前にエンジントラブルで帰還、1機は不時着したものの再補給後帰還、2機が不時着で失われる結果となった。

しかし、英国側の反撃で撃墜されたものはなく、イタリア空軍側は「ほぼ無傷」でジブラルタルという要衝の爆撃を完了することが出来たのであった。この事実はイタリア空軍に好意的に受け止められ、カステッラーニ中佐の優れた指揮も高く評価されることとなった。そのため、P.108B編隊によるジブラルタル攻撃は継続された。

その後、同年7月3日、9月24日、10月20日、10月21日と最初の任務を含め計5回のジブラルタル爆撃任務が実行されている。しかし、警戒を強めた英軍側の反撃によって損害も多くなってしまい、初回のようには思ったように戦果を挙げられていない。とはいえ、遠くの英軍基地を直接叩くというのは、プロパガンダ的にも大きく宣伝された。一連の爆撃の指揮により、カステッラーニ中佐は銀勲章を叙勲されている

 

◆その後の第274爆撃飛行隊とP.108

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カラー写真のP.108B四発爆撃機

1942年11月に連合軍がヴィシー政権支配下のフランス領北アフリカへの上陸作戦(トーチ作戦)を開始すると、カステッラーニ中佐率いる第274爆撃飛行隊はジブラルタルへの攻撃任務を取りやめてこれに対する対応に従事せざるを得なくなった。P.108Bは枢軸側の重爆撃機の中でも特に航続距離が長かったため、重宝されることとなったのである。

P.108B編隊はアルジェやオランといった仏領アルジェリアの拠点への夜間爆撃を実行した。これは連合軍側に打撃を与え、地上展開していた連合軍航空機も多数撃破されている。しかし、英空軍のボーファイター夜間戦闘機によって2機が撃墜されている。とはいえやられっ放しではなく、P.108B編隊の中には搭載された機銃で敵機に反撃し、ボーファイターを撃墜して一矢を報いた機体もあった。

カステッラーニ中佐率いるP.108B編隊はその後も北アフリカでの爆撃・偵察任務に従事したが、戦況の悪化と整備のために1943年1月20日の任務を最後に、本土に戻った。連合軍のシチリア上陸時、第274爆撃飛行隊は8機のP.108Bで構成されていた。こうして、P.108B編隊は最後の作戦に従事することとなり、シチリアに展開した連合軍拠点を叩くことが彼らの主任務となった。P.108B編隊は度々夜間爆撃を実行したが、2機が英空軍の夜間戦闘機であるボーファイター及びモスキートに撃墜されている。

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ドイツ空軍仕様のP.108T四発輸送機。ドイツ仕様にいくつか改造が施されている。東部戦線での兵員輸送で重宝され、撤退戦において活躍した。

結局、シチリアは陥落し、その後の休戦によって残っていたP.108はドイツ軍に接収されたり、接収を防ぐために破壊されたりすることとなった。ドイツ空軍に接収されたP.108T(輸送機タイプ)はその最大負荷量の多さから大型輸送機として使われ、東部戦線への兵員輸送に重宝されている。ドイツ軍の撤退戦で大きな役割を果たしたことは非常に興味深いだろう。

 

P.108Bは優れた性能を持った戦略爆撃機であったが、結局配備された時期が遅く、故に生産数も少なかった。そのため、ジブラルタル爆撃など、各戦線で挙げた戦果は興味深いものの、全体での戦果で考えた場合は限定的なものに過ぎない。同じ役割を担ったアメリカ軍のB-17"フライングフォートレス"の生産数が1万機を超えていることを考えると、全生産数が僅か24機というのは、いくらなんでも少なすぎることがわかるだろう。いくら優れた機体であっても、生産数が少なすぎては話にならない。

P.108Bは発展形として更に重武装にしたP.108MやP.133といった後継機が開発されていたものの、休戦によって中止になった。結局、P.108Bもイタリアの航空行政の失敗に巻き込まれた不運な傑作機であったと言えるだろう。

米本土空襲計画「"S"作戦」とアッティーリオ・ビゼオ空軍准将 ―イタリア空軍、ニューヨークを爆撃せよ!―

第二次世界大戦時、日本海軍航空隊はアメリカ本土に対して爆撃を実行した(アメリカ本土空襲)。しかし、実はこの手の「アメリカ本土に対する航空機による爆撃」というのはイタリア空軍やドイツ空軍でも同時期に考えられていたことだった。

特にイタリア空軍は、バルボ空軍元帥らが二度目の大西洋横断飛行でシカゴを訪れており、この大西洋を横断した長距離爆撃に関心があった。しかも、ムーティ(Ettore Muti)中佐らによるバーレーン油田地帯への長距離爆撃や、モスカテッリ(Antonio Moscatelli)中佐らによる大戦中の極東飛行など、長距離飛行に関しても十分なノウハウがあった

実際、アメリカが参戦すると、イタリア空軍の准将であるアッティーリオ・ビゼオ(Attilio Biseo)という人物が、この米本土爆撃作戦の必要性を説き、本格的な爆撃計画を考案することとなる。しかし、1943年の休戦によってこれは頓挫してしまうこととなってしまう(空軍と同様にイタリア海軍も同様に米本土の泊地攻撃作戦を計画していたが、これも中止となった)

この「幻」の米本土空襲作戦はどのように実行されようとしていたのか?そして、アッティーリオ・ビゼオ将軍とは何者なのか?少し見てみよう。

 

◆アッティーリオ・ビゼオという人物

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アッティーリオ・ビゼオ(Attilio Biseo)

アッティーリオ・ビゼオは1901年10月14日、ローマで生まれた。彼は若くして海軍に入隊、第一次世界大戦時は潜水艦の船員であった。その後、1923年に陸軍航空隊と海軍航空隊が合併してイタリア空軍が発足すると、ビゼオはヴァレーゼの飛行学校に入り、免許を所得。そして、海軍から空軍に移動した。

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数々の空軍イヴェントの開催地となった、トスカーナの町オルベテッロ。オルベテッロはかつて空軍の水上機基地が置かれ、現在もその名残が残っている。これは航空公園に展示された二度の地中海横断飛行の石碑。ビゼオが参加した二つの横断飛行の日付や目的地が書かれている。

空軍に移籍したビゼオは水上機パイロットになり、バルボ空軍大臣が開催する様々な空軍イヴェントに参加して名声を得ていった。例えば、有名なものはスペインを目的地とした西地中海横断飛行と、ソ連を目的地とした東地中海横断飛行だった。これらは今後計画されている大西洋横断飛行の予行練習的なものであった。

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ブラッチャーノのヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館にて。中央がイタロ・バルボ空軍元帥。その右側にはヴァッレ空軍参謀長の写真がある。その下にいるのがビゼオ。

一度目の大西洋横断飛行が計画されると、今までの活躍からジュゼッペ・ヴァッレ空軍参謀長に遠征空軍の副参謀長に選ばれた。また、ビゼオはムッソリーニ統帥の「お気に入り」のパイロットでもあった。こうして、一度目はブラジルのリオ・デ・ジャネイロ、二度目はアメリカのシカゴを目的地とする大西洋横断飛行をビゼオは無事に成功させた。この二度の大西洋横断飛行の経験は、後にビゼオが「"S"作戦」を考案する重要な下地となっている。

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ソルチ・ヴェルディのSM.79CS機。

その後、ビゼオはレース機パイロットとしても活躍することとなる。第二次世界大戦時には優秀な雷撃機として知られることとなるサヴォイアマルケッティ SM.79"スパルヴィエロ"は、当初レース機として開発された。ビゼオはこの機体で1935年8月にローマから東アフリカのマッサワ間を僅か11時間45分(平均時速359km/h)で飛行することに成功したのであった。その後の試験飛行でもビゼオは6つの世界記録を達成し、SM.79の優秀さを世界に示している。

更には、1937年にはピアッジオ社製の新型エンジンを搭載したレース機仕様のSM.79CSでイストル・ダマスカス・パリ・レースに参加する。このレースは第205爆撃飛行隊"ソルチ・ヴェルディ(緑色のネズミ)"の8機が参加し、ビゼオはムッソリーニ統帥の息子であるブルーノ・ムッソリーニと共に機体を操り、3位に入賞する。このレース、実に1位はラニエーリ・クピーニのSM.79CS、2位はジョヴァンニ・バッティスタ・ルッキーニのSM.79CSであり、1位から3位まで全て"ソルチ・ヴェルディ"のSM.79CSが独占するということとなった。

そして、その翌年にはビゼオはブルーノ・ムッソリーニ、そして後に大戦中のローマ-東京飛行を達成するアントニオ・モスカテッリと共に、長距離飛行用に改造したSM.79T型3機で、ローマ・ダカールリオ・デ・ジャネイロ間の大西洋横断飛行を実行。約9800kmの距離を24時間22分(平均速度393km/h)で飛行したのであった。これらの成功はビゼオ自身の名声を高めるのと同時に、イタリア空軍の威信を高め、国際的にその栄光を知らしめることに成功したのであった。

第二次世界大戦開戦前に、ビゼオは爆撃機パイロットとして、スペイン内戦の義勇空軍に参加し、経験を積んでいる。第二次世界大戦にイタリアが参戦すると、ビゼオは北アフリカ戦線を担当する第五航空管区の司令部に所属となった。その後、第23爆撃航空団の司令官となり、その成果によって准将に昇進している。1941年5月には第9爆撃航空旅団"レオーネ"の指揮をエンリコ・ペッツィ大佐から引き継いでいる。

 

◆米本土空襲計画「"S"作戦」

1941年12月、日本軍による真珠湾攻撃を受け、アメリカは連合国側で参戦する。ビゼオはこれを受け、物量に勝るアメリカに打撃を与えるには、アメリカで人口が集中する重要な大都市—すなわち、ニューヨークのマンハッタンに対する攻撃を考えた。彼は今までの長距離飛行の経験もあり、大西洋を横断して爆撃することは十分可能であると考えていた。ビゼオはある程度の構想を練った後、1942年4月の会議でウーゴ・カヴァッレーロ参謀総長も参加する会議でこの計画を話した。出席者全員がこの案に驚いたが、カヴァッレーロ将軍はビゼオの案に関心を持って聞いていた。

ビゼオは続けた。アメリ東海岸の都市はヨーロッパから遠く離れており、安全と見なされているため警戒感が薄いと考えられていること(1940年のバーレーン油田の爆撃も、欧州から離れているため安全とみられており、そのため警戒が薄く、イタリア軍の爆撃が成功した、という背景がある)、先日アメリカのドゥーリットル隊によって行われた東京初空襲の被害を説明し、この爆撃の必要性を説いた。

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イタリア海軍の航空母艦「アクィラ(Aquila)」。マタパン岬の大敗後に急いで建造が開始されたものの、1943年の休戦によって建造が中止となり、結局完成しなかった。

しかし、カヴァッレーロ将軍はビゼオの意見に同意しつつも、「我々は空母を持っていないため、それは不可能だ」と指摘した。確かにそうであった。日本海軍による真珠湾攻撃にしろ、ドゥーリットルによる東京初空襲にしろ、空母を用いた作戦であった。イタリア海軍はマタパン岬の大敗によって、空母の重要性を感じ、空母2隻(アクィラとスパルヴィエロ)の建造を急がせていた他、リットーリオ級4番艦インペーロの空母改装案も出ていたが、未だに完成していなかったのである。

この会議は結局お開きとなったが、その7か月後、1942年11月に突然ビゼオはリノ・コルソ・フージェ空軍参謀長から呼び出しを受けた。何と、作戦は海軍との共同作戦で実行されることとなったのである。フェルナンド・シルヴェストリ空軍将軍が指揮を執り、海軍はルイージ・サンソネッティ海軍大将が指揮をすることとなった。

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CANT Z.511水上機。四発エンジンの長距離水上機で、元々は大西洋を飛行する旅客水上機として開発されたが、ニューヨーク攻撃作戦の機体として白羽の矢が立った。

イタリア空軍・海軍共同によるニューヨーク・マンハッタン攻撃作戦は「"S"作戦(Operazione "S")」と名付けられた作戦の手順は、ボルドーのBETASOM基地から離陸した水上機が大西洋上で着水し、イタリア海軍の潜水艦の補給を受けてから再び離水、ニューヨークへの爆撃を実行し、帰りも同様に補給して帰還する、という計画であった。機体はCANT Z.511水上機が選ばれた。この機体は四発エンジンの長距離飛行用水上機で、元々は大西洋を飛行する旅客水上機として開発されたものであった。

この機体は軍用としての転用も考えられており、最大4000kgの爆弾を搭載可能であった。更には、特殊工作任務用に、人間魚雷「マイアーレ」やポケット潜水艦の搭載も可能とされた。しかし、この計画は既に大西洋の制海権は枢軸側にとって厳しいものとなっており、連合軍側の日々強力となっている対潜技術によって、燃料補給を担当する潜水艦が撃沈される場合も考えられた。

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正式にニューヨーク爆撃作戦の機体に選ばれたサヴォイアマルケッティ SM.95。戦後も旅客機としてアリタリア航空で使われたほか、エジプトの航空会社も利用した。

そのため、CANT Z.511に代わる機体が考えられた。そこで、次に白羽の矢が立ったのは、サヴォイアマルケッティ SM.95だった。この機体は、サヴォイアマルケッティ SM.75輸送機から発展した長距離飛行が可能な機体だった。SM.75機は1942年6月~7月にはローマ-東京間の長距離連絡便を成功させており、その成果もあり、更にそれを発展させたSM.95が作られたのである。最大離陸重量は21600kgで、CANT Z.511よりも遥かに多くの爆弾を搭載することが可能であった。この機体ならば、心理的な効果のみならず、実際の効果も期待出来た。こうして、ニューヨークへの長距離爆撃作戦は計画されていき、その機体となるSM.95は1943年5月に初飛行に成功したのであった。CANT Z.511からの転換により、事実上空軍単独の作戦となった。

機は熟した。本格的な作戦準備を進める前に、1943年5月10日、フージェ空軍参謀長はムッソリーニ統帥の許可をもらおうとしたが、意外にその答えは「No.」であった。理由は、ニューヨークには多くのイタリア系アメリカ人が住んでいるため、彼らに対して爆弾で攻撃することに対して拒否感を示したためであった。そのため、ムッソリーニ統帥は「爆撃」は許可しないが、「心理的攻撃」のみを許可した。それは、かつてダンヌンツィオが第一次世界大戦時に敵国オーストリアの首都、ウィーンに飛行した際に、爆弾ではなく宣伝ビラを撒いた、その手法に倣うものであった。

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第一次世界大戦時、「英雄詩人」ダンヌンツィオによる帝都ウィーン上空での「ビラ撒き」。この時も爆弾ではなく「宣伝ビラ」が撒かれたが、ムッソリーニは彼の手法をリスペクトしたのだろうか?

こうして、計画は変更され、爆弾ではなく宣伝ビラ、ではなく「イタリアを象徴する三色旗(トリコローレ)のパラシュートをつけたシチリア産オレンジ」のみとなった。シチリア産オレンジが選ばれた理由は、連合軍がシチリアに進撃中であったため、「シチリアからの贈り物」という意味だろう。突如飛来した爆撃機から、爆弾が投下!...するかと思いきや、自ら(連合軍)が今まさに進行しているシチリアのオレンジが投下される、というのは興味深い。これも、ダンヌンツィオ流の「嘲り」を真似たのだろうか。逆にこの結果、爆弾を搭載しない分、多くの燃料を搭載することが可能となり、ニューヨークへの飛行以上の飛行が理論上可能となった。

ニューヨーク「爆撃」の計画は1943年9月に実行予定となった。計画は予定通りに進められ、7月にムッソリーニ統帥が逮捕されて、バドリオ政権が成立してからも、表面上は枢軸側で戦闘を継続していた(一部の将軍や政府高官を除き、休戦工作の事実は知らされていなかった)ため、継続して準備が進められていた。

そのため、休戦当日まで実行部隊は休戦工作なんて全く知らずに準備を進めていた。そのため、9月8日の休戦発表は完全に寝耳に水という形となり、急遽作戦は休戦の混乱によって中止となってしまったのであった。使われるはずであったSM.95機も、進駐したドイツ軍によって接収され、ドイツ空軍機として使われている。

作戦を進めていたビゼオもドイツ軍によって逮捕され、協力を拒んだためにポーランドの収容所送りとなっている。連合軍によって後にビゼオは解放され、チリに渡ってその地で民間航空会社を設立している。1960年にイタリアに帰国し、その6年後である66年に出身地であるローマでこの世を去ったのであった。

 

仮に、イタリア空軍によるニューヨークへの「オレンジ爆撃」が実行されていたら、興味深いことになっただろう。わざわざ遠く離れた敵国上空まで来て、爆弾ではなくオレンジを落とす...「敵にオレンジを贈る」とは本当に面白い事を考えるものだ。