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イタリアの「駄作機」とエースたち:第五話 ―夜間防空システム構築への貢献!Ca.314-RA雷撃機とアンマンナート大尉―

第二次世界大戦時のイタリアを代表する雷撃機と言えば、サヴォイアマルケッティ社のSM.79"スパルヴィエロ"だろう。元々レース機から発展したこの高速爆撃機は、1940年11月のターラント攻撃で英軍雷撃機の威力を目の当たりにしたイタリア空軍によって、雷撃機としても運用されるようになり、地中海戦線で多くの敵艦船を海の藻屑にした。

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カプロニ Ca.314-RA雷撃機と、アラミス・アンマンナート(Aramis Ammannato)大尉

だが、雷撃機開発で遅れをとっていたとはいえ、第二次世界大戦時のイタリアが持っていた雷撃機はSM.79だけではない。SM.79の後継機として開発されたサヴォイアマルケッティ SM.84雷撃機(SM.79より信頼性が低かったと言われるが、SM.79同様に多くの雷撃機エースを生んだ機体である)や、CANT Z.506B"アイローネ"水上雷撃機、試験段階で終了したが、FIAT G.55S戦闘雷撃機などが存在した。

そんな中で、「イタリア初の雷撃機」を開発した経験を持つカプロニ社も雷撃機を開発・生産した。それがカプロニ Ca.314-RAであった。しかし、登場時期の遅さと、既存の機体に比べて性能が劣っていたため、実戦では殆ど運用されずに、ほぼ訓練用として使われたのであった。

だが、Ca.314-RAは興味深い使われ方をした。それは、アラミス・アンマンナート(Aramis Ammannato)大尉率いる夜間戦闘機部隊の訓練演習においての使用であった。詳細は本文で説明するが、この意外な使われ方は非常に役に立ち、北イタリアの夜間防空ネットワークの構築にも一役買ったのであった。

というわけで(?)、今回の『「駄作機」とエース』第五話は、アンマンナート大尉率いる夜間戦闘機部隊によるCa.314-RA雷撃機の意外な使われ方を紹介しよう。

 

カプロニ Ca.314-RA雷撃機

   With アラミス・アンマンナート

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カプロニ Ca.314-RA雷撃機

カプロニ Ca.314-RA雷撃機はカプロニ社が開発・生産した雷撃機である。Ca.314はCa.310"リベッチオ"偵察爆撃機から発展した一連のシリーズにおける最終系であり、最も成功した機体と言われる。設計者はCa.310同様にチェーザレ・パッラヴィチーノ(Cesare Pallavicino)技師である。『「駄作機」とエース』第一話のCa.310で紹介したように、発展元であるCa.310はとても優れた機体とは言えなかった。しかし、カプロニ社はCa.310を始点として改良を続け、その最終系であるCa.314はほぼその欠点は改善されていたのである。

Ca.314の前進となったカプロニ Ca.313スウェーデン空軍フランス空軍ドイツ空軍クロアチア空軍でも使われた優秀な機体で、特にスウェーデン空軍では主力機として使われている。また、スウェーデン空軍のCa.313はCa.313-RAのような雷撃機型も存在していた。これはスウェーデン空軍でT.16と呼称されている。

少し、イタリアの雷撃機の歴史を振り返ってみよう。1940年11月11日深夜から翌日12日の早朝にかけて行われた、英海軍航空部隊のソードフィッシュ雷撃機によるターラント軍港攻撃は、イタリア海空軍に大きな影響を及ぼした。この攻撃は「コンテ・ディ・カヴール」「カイオ・ドゥイリオ」「リットーリオ」の実に3隻のイタリア主力戦艦を行動不能に追い込んだ、大惨事であった。

しかし、これは英国側からすれば長年英国が注目していた雷撃機の効果が発揮された瞬間でもあった。この惨事は、当時の海軍参謀長ドメニコ・カヴァニャーリ(Domenico Cavagnari)提督が失脚する騒ぎにもなり、イタリア主力艦隊はその行動を大きく制限されることとなっている。これを受け、イタリア空軍は雷撃機の重要性を認識し、今まで放置していた雷撃機開発を再開させることとなった。しかし、イタリアが雷撃機のノウハウを持たなかったわけではない

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カプロニ Ca.33重爆撃機。魚雷搭載型が試作され、「イタリア初の雷撃機」にもなった。第一次世界大戦に活躍した優秀な重爆撃機であり、イタリア陸軍航空隊以外にはフランス陸軍航空隊やアメリカ陸軍航空隊でも使われている。

実は、イタリアは第一次世界大戦の時点で既に雷撃機の試作型を作っていたのだ。第一次世界大戦で優秀な爆撃機開発で名を馳せた名門、カプロニ社であったが、重爆撃機カプロニ Ca.33を改造し、雷撃機とする計画を立案した。これはポーラ軍港に停泊するオーストリア=ハンガリー海軍の主力艦隊を叩くという目的のもと計画が進められ、その結果2機のCa.33が約800kgの魚雷を搭載出来るように改造されたが、結局実戦には投入されずに終わった

その後、雷撃機の実験は1920年に行われたものの、結局のところ雷撃機の開発はそこでストップし、そのまま第二次世界大戦時まで放置されることとなったのである。世界的にも非常に早い段階で雷撃機の有用性が出ておきながらも、それが理解されずに埋もれてしまった点は非常に悲しい(そして、後々後悔するというのはイタリアあるあるという感じではある)。

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カプロニ Ca.314-RA雷撃機

カプロニ Ca.314-RAはそんな「雷撃機開発の先駆者」としてのカプロニ社のプライドが生み出した機体、と言えるかもしれない。しかし、その結果は残念と言える。既存のイタリア空軍の主力雷撃機であり、すでに旧式化していたSM.79と比べ、最高速度実用上昇高度航続距離魚雷搭載量など、全てにおいて勝る部分が無いという有様だったのである。ゆえに、雷撃機部隊はCa.314-RAの配備が進められても、実戦での運用は行わなかった

更に、生産時期の遅さも問題だった。Ca.314の初飛行は1940年であったが、部隊への配備が行われたのは1942年の後半から1943年の初頭にかけてであり、Ca.314が偵察機として運用され始めたのも、結局は1943年の半ば、つまりは休戦直前にまでずれ込む結果となった。しかし、Ca.314の実戦での戦果が全く無かったわけではない。特に知られている戦果は、1942年8月の試験実戦運用において、Ca.314-RAはイタリア輸送船団を護衛し、襲来した敵潜水艦を雷撃で撃沈することに成功したというものがある。Ca.314-RAも航空機不足に悩まされたイタリア空軍ゆえに、SM.86のような戦地での「実地試験」が行われていたのである。

さて、このCa.314であるが、生産時期の遅さの割には実に400機以上も生産されている。工業生産力が低いイタリアとしては、これは結構多い方と言えるだろう。Ca.314は主に3タイプ存在し、偵察爆撃機型のCa.314-SC(Ca.314A型とも)雷撃機型のCa.314-RA(Ca.314B型とも)対地攻撃機型のCa.314Cが存在した。それぞれCa.314-SCは73機、Ca.314-RAは80機、Ca.314Cは254機が生産されている。

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飛行するCa.314。Ca.314は様々なタイプが存在したが、基本的にそのほかのCa.310の発展型と同様に偵察機として運用されることが多かった。

Ca.314-RAの武装は、12.7mm機銃×2と、後部に7.7mm旋回機銃×1が存在した。魚雷搭載重量は最大900kgである。最高速度は時速395km航続距離は1690km実用上昇高度は6400m程である。先ほど「性能的にCa.314-RAはSM.79に勝るところは一切ない」と説明したが、ここでSM.79と比較してみると、SM.79の武装は12.7mm機銃×3と、7.7mm機銃×2、魚雷搭載量は最大1250kg最高速度は時速430km航続距離は2300km実用上昇高度は7000mという感じである。なお、大きさを比較してみるとCa.314-RAは全長11.8mだが、SM.79は全長15.6mで、Ca.314-RAのほうが若干小型になっている。

というわけで雷撃機部隊において実戦で使われなかったCa.314-RAであったが、計80機も生産されたことから雷撃機部隊でも訓練用には導入されている。とはいえCa.314-RA型が訓練機として使われたのは雷撃機部隊だけではなかったアラミス・アンマンナート大尉率いる第41爆撃航空団第60航空群第235飛行隊は、ドイツ・ドルニエ社製のDo 217 J-1夜間偵察機及びJ-2夜間戦闘機を導入しているが、その夜間防空任務の訓練時に使われたのが、Ca.314-RAであったのである。

ここで、アラミス・アンマンナート大尉の紹介をしておこう。アンマンナート大尉は第二次世界大戦において、大戦中盤までは優秀な爆撃機エースとして、大戦終盤は夜間戦闘機乗りとして活動した人物であった。また、兄アトス(Athos Ammannato)と弟ポルトス(Porthos Ammannato)も空軍パイロットで、それぞれ爆撃機エースとして活躍した「三銃士」だった。イタリア空軍では、こういった兄弟でパイロットとして活躍するケースは割と多い(マエストリ兄弟、ルースポリ兄弟等)。三兄弟でスペイン内戦に参加し、経験を積んだヴェテランのパイロットで、兄アトスは1941年2月に戦死し、イタリア軍最高位の金勲章を叙勲されている。

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ドルニエ Do 217夜間戦闘機

さて、何故Do 217の訓練時に役に立ったのかというと、Ca.314は強力な探照灯を持っていたからである。Do 217の夜間訓練において、その強力な探照灯敵機発見の演習に非常に効果的だったのだ。効果的な夜間戦闘機を開発していなかったイタリアはドルニエ社からDo 217のJ-1夜間偵察機型及びJ-2夜間戦闘機型の輸入を決定したわけだが、これが1942年9月であった(一応、カプロニ Ca.331B"ラフィッカ"夜間戦闘機のような優れた機体も存在したのだが、生産が休戦までに間に合わなかった)。同時期にCa.314-RAの配備が進められ、この機体が訓練に使われることになった。Ca.314と、ウーゴ・ティベリオ(Ugo Tiberio)博士が開発した陸上設置用対空電探「フォラーガ」を用いた演習でアンマンナート大尉率いる夜間戦闘機部隊は夜間における敵機捜索の訓練を積んでいったのであった。この本格的な演習を通じて、イタリア北部の工業地帯をカヴァーする夜間防空ネットワークを構築していった

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戦後、イタリア大統領サンドロ・ペルティーニ(Sandro Pertini, 左)と、アラミス・アンマンナート(右)。アンマンナートは大戦中の事故で視力を失ったが、戦後は世界盲人連合の幹部になるなど、積極的に視覚障害者の権利を守るための活動をした。

その結果、アンマンナート大尉は1943年7月17日、J-1機でヴァレーゼ近郊のチズラーゴ発電所を爆撃しようとする英空軍のアブロ ランカスター四発爆撃機を迎撃し、これを撃墜したのであった。Ca.314-RAは雷撃機としては大した運用はされなかったが、訓練用の機体としては活躍し、イタリアの夜間防空ネットワーク構築に重要な役割を果たしたと言えよう。また、Ca.314はあまり目立たなかったものの、大戦終盤の偵察任務において、その優秀な性能を示していることも抑えておくべきだろう(第二次世界大戦時のカプロニ社の機体は優秀ではあるが、偵察機として運用が多いために、どうしても地味な印象が多い)。Ca.314の残存機体で共同交戦空軍に回収された機体は、戦後まで残り、新生イタリア共和国空軍(Aeronautica Militare)でもしばらく使われたようである。

なお余談であるが、ドルニエ Do 217というと、イタリア的には結構悪名高い(?)機体である。というのも、Do 217はイタリア休戦直後にフリッツXで戦艦「ローマ」を撃沈した機体であったからだ。「ローマ」爆沈の悲劇により、全乗組員1946人のうち、将官2人(ベルガミーニ提督とカラチョッティ参謀長)、士官86人、その他乗組員1264人が犠牲になった。残る596人はイタリア艦隊の巡洋艦水雷艇によって救助されている。

 

今までの『「駄作機」とエース』はこちら。

...今更であるが、「駄作機」という括りは果たして妥当なのだろうか?なんというか、「駄作機」というより、いわゆる「傑作機」に比べて活躍しなかった機体の活躍エピソード...みたいな感じになっている気がするが。

正直な話、ネタ切れ感が半端じゃないのと、実用化に至らなかった機体などを「駄作機」として紹介していいのか微妙なところから、今後このシリーズが続くかは微妙である。まぁもし新たなネタを発掘出来たらまた紹介しよう。

第一話↓

associazione.hatenablog.com

第二話↓

associazione.hatenablog.com

第三話↓

associazione.hatenablog.com

 第四話↓

associazione.hatenablog.com

 

 

◆参考文献

・Arrigo Petacco著, Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale, Mondadori, 1995

・Giorgio Apostolo著, Aeroplani Caproni, Gianni Caproni and His Aircraft 1910-1983, Museo Caproni, 1992

・John F. D'Amico著, Regia Aeronauctia: Pictorial History of the Aeronautica Nazionale Repubblicana and the Italian Co-Belligerent Air Force 1943-1945: 002, Squadron, 1986

・Donald Nijboer著, Air Combat 1945: The Aircraft of World War II's Final Year, Stackpole Books, 2015

・Franco Pagliano著, Aviatori italiani 1940-1945, Mursia, 2004

・B.Palmiro Boschesi著, L'ITALIA NELLA II GUERRA MONDIALE, Mondadori, 1975

・Giovanni Massimello, Giorgio Apostolo著, Gli assi italiani della seconda guerra mondiale, LEG Edizioni, 2012

・David Mondey著, The Hamlyn Concise Guide to Axis Aircraft of World War II, Book Sales, 2002

・Franco Pagliano著, Aviatori italiani 1940-1945, Mursia, 2004

・B.Palmiro Boschesi著, L'ITALIA NELLA II GUERRA MONDIALE, Mondadori, 1975

・Giovanni Massimello, Giorgio Apostolo著, Gli assi italiani della seconda guerra mondiale, LEG Edizioni, 2012

吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939~1945 ―第二次大戦を駆け抜けたローマ帝国の末裔たち―』イカロス出版・2006

吉川和篤著『Viva!知られざるイタリア軍イカロス出版・2012

吉川和篤著『Benvenuti!知られざるイタリア将兵録【上巻】』イカロス出版・2018

 

イタリアの「駄作機」とエースたち:第四話 ―試作機を戦場で「実地試験」!SM.86急降下爆撃機とスカルピーニ軍曹―

今回の『「駄作機」とエース』は、失敗に終わったイタリアの急降下爆撃機開発の象徴とも言える、サヴォイアマルケッティ SM.86急降下爆撃機と、そのパイロットとして「実戦試験」を行ったエリオ・スカルピーニ(Elio Scarpini)軍曹について紹介するとしよう。イタリア空軍では基本的に試作機の十分な試験飛行を行うのだが、SM.86に至っては第二次世界大戦にイタリアが参戦し、急降下爆撃機の導入が急務になっていたことから試作機段階で「実戦試験」として戦場に投入されたのである。

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サヴォイアマルケッティ SM.86急降下爆撃機と、エリオ・スカルピーニ(Elio Scarpini)軍曹。

エリオ・スカルピーニ軍曹は優れた曲芸飛行パイロットとして知られており、サヴォイアマルケッティ社のテストパイロットとして務めていた。現在のイタリア空軍曲芸飛行部隊「フレッチェトリコローレ」の母体と呼べる飛行隊に所属し、後に空軍参謀長となるリノ・コルソ・フージェ(Rino Corso Fougier)将軍とも親しかった。第二次世界大戦にイタリアが参戦すると、スカルピーニ軍曹は空軍に復帰するが、急降下爆撃機開発に手をこまねいていたイタリア空軍は、経験豊富な彼の腕を買い、試作機であるSM.86の「実地試験」を任せたのであった。

なお、その「実戦試験」の結果、思ったように性能が振るわずSM.86は僅か2機しか生産されず試作機段階で開発が終了となってしまったが、試作機が戦場でいきなりテスト!というのはさながらロボットアニメとかその辺っぽい感じがする(まぁ活躍出来ればもっとよかったのだが、そんなことはなかった。仮にそうなら試作段階で終わってない)。では、この愛すべき「駄作機」と、共に戦場を舞ったエースのを見てみよう。

 

サヴォイアマルケッティ SM.86急降下爆撃機

  With エリオ・スカルピー

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サヴォイアマルケッティ SM.86急降下爆撃機の試作1号機

戦間期、航空理論家であるアメデーオ・メコッツィ(Amedeo Mecozzi)大佐らの意見やスペイン内戦時に得た教訓によって、他国の空軍同様にイタリア空軍でも急降下爆撃の有効性が認められるようになり、急降下爆撃機開発が開始された。しかし、急降下爆撃機は地上攻撃機の延長と考えられ、本格的には進んでいなかった

サヴォイアマルケッティ社のアレッサンドロ・マルケッティ(Alessandro Marchetti)技師は急降下爆撃機の開発を開始。こうして完成したのがSM.86の前身となった、イタリア初の急降下爆撃機サヴォイアマルケッティ SM.85である。SM.85は1935年に試験飛行に成功したが、テスト結果では満足いく結果は得られなかった。とはいえ、急降下爆撃機が必要であったイタリア空軍はこの機体の量産を決定し、試作機2機を含む計34機が量産され、イタリア空軍初の急降下爆撃機部隊(第96急降下爆撃航空群)がこの機体で作られた。パンテッレリーア島にこの部隊は配備され、マルタ攻撃を念頭に置いたのである。

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「イタリア初の急降下爆撃機サヴォイアマルケッティ SM.85

SM.85はその見た目から「翼の生えたバナナ」パイロットたちに呼ばれた。木金混合の胴体に、全木製主翼を持ち、武装12.7mm機銃×2で、爆弾の搭載量は最大800kgだった。急降下爆撃機の導入を急いだイタリア空軍はこの機体で部隊を編成したものの、試験飛行でも様々な欠点が明らかになっていた

高度を上げるのに非常に時間が掛かり、機動性が悪かったことが指摘され、急降下中の飛行性が悪く、不安定であることが判明した。とはいえ、そこまで深刻な問題ではない、と判断されて量産が決定、パンテッレリーア島に配備されたわけである。しかし、問題はここからだ。SM.85の致命的な欠点がパンテッレリーア島に配備されてから明らかとなった

パンテッレリーア島は地中海に浮かぶ孤島で、連合軍からムッソリーニマルタ島とも呼ばれて高度に要塞化された島であった。「イタリア初の急降下爆撃機」SM.85はこの島に配備となり、英国の地中海の心臓であるマルタ島を叩く重要な役割を担ったのであった...が、そこで、SM.85は思わぬ悲劇に遭遇する。それは、照り付ける強い日光と吹き付ける海風であった。全木製の翼を持つSM.85にとって、これはひとたまりもなく、たちまち機体は歪みを引き起こし、事故が多発。実戦に投入された機体も対空砲火で深刻な損害を受けた。悲惨なことに、全機が飛行不可能に追い込まれたのであった。

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サヴォイアマルケッティ SM.86急降下爆撃機

だが、こういった悲劇の前から、サヴォイアマルケッティ社はSM.85が力不足であることはテスト飛行の結果からも予想は付いており(流石に全機が飛行不可能になるとは思わなかっただろうが)、早くも1938年の段階から改良型であるSM.86の開発を行っていた。こうして開発されたのが、サヴォイアマルケッティ SM.86急降下爆撃機である。

SM.86はSM.85を基礎としているものの、機体は洗練されたデザインで、SM.85の欠点を隅々まで解決しているためほぼ別の機体と考えて良いだろう武装はSM.85と変わらず12.7mm機銃×2で、爆弾の搭載量は最大800kgであったが、エンジンと機体を強化したことにより最高速度巡航速度上昇限度航続距離等、全てにおいてSM.85より優れた性能を出した急降下時の不安定さも改善されたが、重量が増加したため運動性能に関しては大きな変化はなかった。

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エリオ・スカルピーニ軍曹(Elio Scarpini)

SM.86のテスト飛行には、経験豊富なテストパイロットであるスカルピーニ軍曹が担当した。SM.86はテスト飛行で良好な結果を示した。そんな中、第二次世界大戦にイタリアが参戦し、更にパンテッレリーア島に配備されたSM.85が全機飛行不可能という悲惨な状態に陥ることとなった。空軍参謀長フランチェスコ・プリーコロ(Francesco Pricolo)はこの事態を受けて、急遽ドイツ・ユンカース社のJu-87(所謂シュトゥーカ)の導入を決定し、急降下爆撃機の人員をオーストリアグラーツに派遣している。

一方で、戦力を揃えるためにイタリア国内での急降下爆撃機開発も継続された。急降下爆撃機の戦力配備を急いだイタリアは、まさに「猫の手も借りたい」状態であり(現状でイタリアに急降下爆撃機の戦力はゼロだった)、このため試験飛行中のSM.86も戦場に投入し、「実地試験」を行うこととしたである。こうして、スカルピーニ軍曹は第96急降下爆撃航空群に配備され、シチリアのコーミゾ基地に配属となったのであった。

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実戦部隊に配備されたスカルピーニ軍曹のSM.86

スカルピーニ軍曹とSM.86の「実地試験」はまず、1940年9月のマルタ攻撃に始まった。これはスカルピーニ軍曹及びSM.86の初の実戦参加ともなった。12機のJu-87"ピッキアテッロ"と共に作戦に問題なく従事し、マルタ島南部の空軍施設爆撃に成功、効果を挙げている。ひとまず作戦は成功したため、その後10月27日にギリシャへの攻撃のためにプーリアのレッチェ基地に移動する。こうして10月28日にギリシャとの戦争が開始すると、11月4日にスカルピーニ軍曹が駆るSM.86は4機のJu-87と共に出撃し、ギリシャ戦線に出征、イオアニーナのギリシャ空軍基地への攻撃に成功し、無事帰還した。

さて、このマルタとギリシャにおける2度の「実地試験」を経て、Ju-87と共に行動したことによってSM.86の最終的な評価が決まった。結局、無事作戦を遂行し、成功させたものの、性能的にJu-87に何一つ勝るところはないという厳しい評価を下され、イタリア空軍首脳部は国産急降下爆撃機開発に見切りをつけることとなったのであった。サヴォイアマルケッティ社はそれでも諦めずにSM.86の改良作業を続けたものの、12月21日にはテストパイロットであったスカルピーニ軍曹がJu-87での作戦時に戦死を遂げたこともあり、翌年8月に最後の飛行を終えて開発は中止となったのである。同時期に、進められてた他社の急降下爆撃機開発も中止となり、イタリアの国産急降下爆撃機開発は完全な失敗という結果に終わったのであった

 

サヴォイアマルケッティ SM.86はまさにイタリア国産急降下爆撃機開発の迷走を体現した機体と言えるだろう。

『「駄作機」とエース』シリーズ

第一話↓

associazione.hatenablog.com

 第二話↓

associazione.hatenablog.com

 第三話↓

associazione.hatenablog.com

 第五話↓

associazione.hatenablog.com

 

 

◆参考

吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939~1945 ―第二次大戦を駆け抜けたローマ帝国の末裔たち―』イカロス出版・2006

吉川和篤著『Viva!知られざるイタリア軍イカロス出版・2012

・Emilio Brotzu著, Scuola Collegamento 10; Dimensione Cielo, aerei italiani nella 2 guerra mondiale, Edizioni Dell'Ateneo & Bizzarri, 1977

・Giuseppe Pesce著, Il bombardamento in picchiata e la regia aeronautica,Mucchi, 1976

・Giorgio Apostolo著, Tuffatori Savoia Marchetti SM85–SM86, 2009

・David Mondey著, The Hamlyn Concise Guide to Axis Aircraft of World War II, Book Sales, 2002

・Franco Pagliano著, Aviatori italiani 1940-1945, Mursia, 2004

・B.Palmiro Boschesi著, L'ITALIA NELLA II GUERRA MONDIALE, Mondadori, 1975

・Giovanni Massimello, Giorgio Apostolo著, Gli assi italiani della seconda guerra mondiale, LEG Edizioni, 2012