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ファシスト・イタリアのバルカン政策の変遷

イタリア統一後、イタリア政府はバルカン半島を自らの勢力圏として認識していたが、ファシスト政権期になるとそれは更に加速した。

以下にファシスト政権期のバルカン政策の要点の年表をまとめてみました。

 

年表
1923.8:コルフ島事件発生。ムッソリーニ政権はギリシャに対して強硬姿勢を見せる。
1923.9:コルフ島事件収束。ギリシャはイタリア側の主張を受け入れる。
1924.1:ローマ条約締結。ユーゴからイタリアへフィウーメ市の割譲が決定される。
1925.7:ネットゥーノ条約締結。イタリア・ユーゴの両国国境が制式に確定。
1926.11:第一次ティラナ協定締結。アルバニアへの影響力を強める。
1927.6:パヴェリッチ、イタリアに初の接触
1927.11:第二次ティラナ協定締結。アルバニアを経済的な属国に置くことに成功。
1928.9:ギリシャ・ヴェニゼロス政権とイタリアが友好条約を締結。伊希関係の修復。
1928.9:アルバニア、王政移行。ゾグ1世はイタリアからの自立を目指す。
1929.9:パヴェリッチ、イタリアに亡命。イタリアはウスタシャへの支援を開始。
1930.10:イタリア王女ジョヴァンナとブルガリア国王ボリス3世の政略結婚。ブルガリアがイタリア影響下に置かれる。
1934.10:ユーゴ国王アレクサンダル1世の暗殺事件が発生。ウスタシャの関与が指摘され、ウスタシャを支援していたイタリアとユーゴの両国関係が急速に悪化。
1935.6:ユーゴにてストヤディノヴィチ政権が成立。伊・ユーゴ関係の修復。後に友好不可侵条約が締結。
1936.4:ギリシャにて王政復古メタクサス新体制はエーゲ海で影響力の強めるイタリアと対立、再び伊希関係の悪化。対英接近を開始。
1939.2:ユーゴ首相ストヤディノヴィチが失脚。パヴレ摂政の路線との不一致。
1939.4:イタリア、アルバニアに侵攻。アルバニアを同君連合化。
1940.10:イタリア、ギリシャに侵攻を開始。
1941.1:ギリシャ首相メタクサス、死亡。
1941.4:ギリシャ軍降伏。イタリア、ギリシャの大部分を占領統治。ギリシャ併合案は却下。ピンドス山脈一帯にイタリアの傀儡政権「ピンド公国」成立。
イタリア含む枢軸国、ユーゴスラヴィアに侵攻→解体。
イタリア、スロヴェニア及びダルマツィア併合。
サヴォイア=アオスタ家のアイモーネ公を王とするクロアチア王国成立(ウスタシャ政権)。モンテネグロ、イタリアの同君連合化。

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第二次世界大戦時のバルカンにおけるイタリア影響圏

コルフ島事件

ムッソリーニによる対バルカン政策は、コルフ島事件でイタリアの強硬外交を示した後、外交によってバルカンをイタリアの影響下に置いていくところから始まる。

コルフ島事件とは、バルカンでの国境確定を巡って派遣されたイタリア軍将官のエンリコ・テッリーニ将軍がギリシャ人テロリストに殺害された事により、ムッソリーニギリシャ政府に最後通牒を通告、ギリシャ政府がそれを拒否した事でイタリア艦隊がギリシャのコルフ島に上陸・占領した武力衝突事件である。

国際連盟の介入によって全面衝突は避けられたが、ギリシャ謝罪と賠償を受け入れ、イタリアは「強硬的な外交」を世界に示した。これは、今までの「弱腰外交」に不満を持っていたイタリア人によって支持され、成立したばかりのムッソリーニ政権の支持率の上昇に大きく貢献した。しかし、イタリア・ギリシャ関係はヴェニゼロス政権の成立までは緊張関係となった。

 

フィウーメの割譲とユーゴスラヴィアとの国境画定

その次に、ムッソリーニが目を向けたのはユーゴスラヴィア(1929年まではセルブ・クロアート・スロヴェーン王国だが、便宜上ユーゴスラヴィアと表記)だった。詩人ダンヌンツィオが同志を率いて起こした「フィウーメ進軍」は、イタリア人住民が多いフィウーメ(リエカ)市がユーゴスラヴィア領になった事に抗議して起こされた行動だったが、結局イタリア軍に鎮圧され、1920年にイタリア・ユーゴ間で締結したラパッロ条約によってフィウーメ市は「フィウーメ自由市」となった。

ムッソリーニはフィウーメのイタリアへの併合を実現するためにユーゴスラヴィア政府と交渉し、その結果両国の「友好条約」として1924年にローマ条約が締結、フィウーメはイタリアを割譲させる事に成功した。続く1925年のネットゥーノ条約でラパッロ条約でイタリア領となった領土の再確認も含め、両国の国境が正式に確定した。これにより、両国関係は表面上は安定したものとなり、イタリア人人口の多かったフィウーメの獲得もダンヌンツィオが武力で達成できなかったことを、ムッソリーニが外交で達成した、という目に見えるムッソリーニの成果であった。

 

二度のティラナ協定とアルバニアの経済的な属国化

ムッソリーニの対バルカン外交は成果を挙げており、ムッソリーニは対岸に位置するアルバニアを次の標的に定めた。当時のアルバニアはアフメト・ゾグ大統領による共和政が成立しており、政権を握ったゾグ大統領は政権の安定の為にも後ろ盾としてイタリアへの接近を望んだ。

アルバニアのイタリアへの接近はムッソリーニにとって格好のチャンスであった。アルバニアはWW1時にイタリアが侵略しており、イタリアの連合国側での参戦を決定づけた「ロンドン密約」でもアルバニアはイタリアの勢力圏に定められていた。密約の内容を反故にされたイタリア軍1920年に「ヴァロナ戦争」と呼ばれる一連の軍事行動を起こしたものの、アルバニア側の抵抗と国際社会の非難によってアルバニア領土要求断念とヴァロナ(ヴロラ)港からの撤退を余儀なくされていた。

アルバニアをイタリアの勢力圏と認識しているムッソリーニは1926年と27年の二度に渡るティラナ協定によってアルバニアを経済的な属国とする事に成功した。アルバニアは戦略的な重要拠点である上に、産油国でもあったため、石油資源に乏しいイタリアにとってアルバニアの獲得は重要なモノであった。1935年にはAGIPの子会社AIPAを設立し、アルバニア油田の利権を完全に獲得している。

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ゾグ王とイタリア外相ガレアッツォ・チャーノ

ギリシャとの関係回復

ギリシャとイタリアはコルフ島事件の結果、緊張関係が続いていましたが、希土戦争でギリシャが敗れた事で王政が崩壊、共和政が成立すると状況が変化する。

共和国の首相にエレフテリオス・ヴェニゼロスが就任すると、彼はギリシャの外交的な孤立状況を打開するために、ヴェニゼロスはローマのヴィッラ・トルローニアに訪れ、ムッソリーニと直接親愛を深め、イタリアとの友好条約の締結にこぎつけた。

これによって伊希関係は回復し、ギリシャの外交的な孤立は緩和された。ヴェニゼロスの外交はユーゴスラヴィアアルバニア、トルコとの関係の改善も上手く行ったが、ブルガリアとの関係の改善には失敗した。

 

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ムッソリーニとヴェニゼロス

ブルガリア王家との政略結婚

ムッソリーニブルガリアをイタリアの影響下に置くために、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の王女であるジョヴァンナ(ブルガリア語ではイオアンナ)を、ブルガリア王であるボリス3世の妃として政略結婚させた。ボリス3世とジョヴァンナの挙式はアッシジで行われ、これによってイタリア・ブルガリア関係は急速に緊密になっていき、両王家の交流も盛んになった。ブルガリアはイタリアの影響を多く受けることになり、ブルガリア政界の多くはイタリアの影響下に置かれていた。

しかし、ドイツでナチ党政権が成立すると、ブルガリア軍部は次第にドイツ寄りになっていった。ブルガリアの民衆は伝統的な親ロシア的でもあり、ブルガリアが諸国列強の影響によって大きく揺らいでいた。ボリス3世はこの状況に対して、「我が軍はドイツびいき、我が妻はイタリア人、我が国民はロシアびいき。ブルガリアびいきなのは私一人だ」と嘆いたという。

 

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閲兵するブルガリア首相ボグダン・フィロフとムッソリーニ

ウスタシャの支援とユーゴスラヴィア国王暗殺事件

ムッソリーニバルカン半島への影響力を拡大させたかったが、その一番の障害が旧セルビア王家カラジョルジェヴィチ家が王家になっているユーゴスラヴィア王国であった。ムッソリーニユーゴスラヴィアとの表面上は友好関係を維持していたものの、ユーゴスラヴィア内部の民族対立を利用してユーゴスラヴィアの分裂を画策していた。

それに利用されたのがアンテ・パヴェリッチ率いるクロアチア民族主義組織の「ウスタシャ」であった。1927年にパヴェリッチはイタリア側に初の接触をし、1929年にパヴェリッチがイタリアに亡命すると、パヴェリッチとウスタシャはイタリアの庇護下となり、マリオ・ロアッタ将軍率いるSIM(陸軍諜報部)はウスタシャのテロリストを訓練した。ウスタシャの訓練官を務めたヴラド・チェルノゼムスキ(マケドニア独立主義者でブルガリア国籍の男)はウスタシャ党員と共にユーゴスラヴィア国王アレクサンダル1世の暗殺を計画したが、これにはロアッタ将軍率いるSIMも関わっていたとされる。

アレクサンダル1世はマルセイユに向かい、仏外相ルイ・バルトゥーに迎えられた。チェルノゼムスキはそれを狙い、マルセイユにウスタシャ党員とともに潜伏していた。しかし、他の暗殺実行メンバーが準備不足と判断し、訓練官であったチェルノゼムスキ自身が暗殺を実行、車に乗っていたアレクサンダル1世と同乗していたバルトゥー外相を射殺したのである。チェルノゼムスキは暗殺の後にフランス警察と群衆によってリンチにされ、その場で死亡。死後、「欧州で最も危険なテロリスト」と呼ばれた。

この暗殺事件はイタリアの外交に大きな波紋を与えた。ウスタシャを支援していたイタリアと、フランス及びユーゴスラヴィアの関係は急速に冷却化していったのである。

 

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暗殺されたユーゴ王アレクサンダル1世とルイ・バルトゥー仏外相

ストヤディノヴィチ政権の成立、伊・ユーゴ関係の改善

しかし、1935年にユーゴスラヴィアで新たにミラン・ストヤディノヴィチ政権が成立すると状況は変化した。ストヤディノヴィチはセルビア中心主義的な「ユーゴスラビア急進同盟(JRZ)」を率いた銀行家であった。

ストヤディノヴィチは冷却化していたイタリアとの関係を改善し、後に友好不可侵条約を締結した。しかし、ストヤディノヴィチをただの親伊政権と考えるのは誤りである。ストヤディノヴィチはスイスのような中立外交を展開して国土を防衛する事を目的としたのである。ストヤディノヴィチ政権はイタリアとの協力と、ハンガリー及びブルガリアへの接近によって東南欧ブロック形成を目指し、ドイツとの友好関係やフランスとの伝統的な友好条約延長も行っている。そして、伊墺国境にはルプニク将軍に命じて要塞線を構築し、クロアチア人の懐柔も行って国内の安定にも力を注いだ。

しかし、これらの外交方針はルーマニアとの同盟とバルカン協商の維持を求めるパヴレ摂政の方針と対立を引き起こす事になった。パヴレ摂政ルーマニアとの対立とバルカン協商の解体を恐れ、ストヤディノヴィチを解任に追い込んだ。後任の首相には親独派のツヴェトコヴィッチが起用され、防共協定にも積極的姿勢を示していくことになる。

ストヤディノヴィチの解任は再び伊・ユーゴ関係の悪化に繋がり、イタリアは再びウスタシャ支援を始めた。これに対し、ユーゴスラヴィア政府はアルバニアとの友好条約締結を画策し、イタリアからの独立を求めるアルバニア王ゾグ1世にイタリアによるアルバニア分割案を暴露したのであった。

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ムッソリーニミラン・ストヤディノヴィチ

ギリシャにおける王政復古メタクサス体制の成立

共和政ギリシャは次第に内部が混乱していき、遂には主導権を握っていたヴェニゼロスが亡命に追い込まれた。ヴェニゼロス亡命後、1935年にギリシャでは王政復古がなされたが、不安定なギリシャ情勢を安定化させるため、王党派の軍人イオアニス・メタクサスが政権を樹立した。

メタクサス将軍の政権は「八月四日体制」と呼ばれるファシズムに似た手法を用いる権威主義体制であり、メタクサス将軍自身も「ギリシアムッソリーニ」と呼ばれ、ローマ式敬礼を採用していた。しかし、その一方でメタクサス政権はバルカンとエーゲ海で勢力を拡大するイタリアとは対立し、拡大するドイツの影響を受けつつも英国との友好関係を維持し、ユーゴのストヤディノヴィチ政権と同様、中立体制を目指した。だが、これはイタリアとギリシャの関係の悪化に繋がり、ムッソリーニはピンドス山脈のアルーマニア人の「解放」も視野に、ギリシャ制圧への準備を進めていくことになった。

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ローマ式敬礼を行うメタクサス将軍

ドイツのバルカンにおける影響力の拡大

ドイツでアドルフ・ヒトラー率いるナチ党が政権を握ると、ドイツはバルカン半島への影響力を増していった。ドイツはイタリアの勢力圏であったブルガリアユーゴスラヴィアアルバニアギリシャといったバルカン諸国への影響力を強めていき、その結果イタリアの影響力は徐々に低下していったのである。

ムッソリーニとチャーノは「アドリア海はイタリアの海」であるという自負から、ドイツのこれ以上の南下を許すつもりはなかった。ムッソリーニは「アドリア海ハーケンクロイツが翻るのを許すことはできない」とも発言している。

結局、ナチ・ドイツのバルカンへの影響力の拡大がイタリアのバルカン政策を全て台無しにした。ドイツはイタリア影響下にあった中東欧諸国を次々と侵蝕し、交渉で合意したはずのイタリアの優先権すらも無視したものであった。挙句、ヒトラーはイタリア側に無断でドデカネス諸島のトルコへの割譲も提案している。

 

アルバニア戦争、アルバニアの同君連合化

アルバニア大統領アフメト・ゾグは1928年に憲法を改正し、アルバニアを王政移行させて自らアルバニア王ゾグ1世と名乗った。王政移行後のアルバニアは徐々にイタリアからの自立を目指していった。ゾグ王はアルバニアの内政改革によって、南北の文化統一やナショナリズムの形成、ゾグ式敬礼による権威主義体制の強化を行った。軍事に関しても、ゾグ王自身が人脈を駆使して集めた外国人顧問と共に軍の近代化に務めていた。

しかし、ムッソリーニは駐アルバニア公使ヤコモーニや駐在武官パリアーニ将軍の進言もあり、既に経済的に属国化されているアルバニアの完全制圧を目論んでいた。これにはドイツのバルカンにおける影響拡大が理由であった。既にユーゴスラヴィアはドイツの影響下に置かれており、ストヤディノヴィチ政権は崩壊していた。ドイツもアルバニアの油田を狙い、ゾグ王に接触していた。イタリアとの関係が再び冷却化したユーゴスラヴィアも、イタリアによるアルバニア分割案をゾグ王に暴露していた。その結果、アルバニアとイタリアは急速に対立を深めていった。

そして、ムッソリーニは遂にアルバニアへの侵略を決意し、遠征軍を派遣した。アルバニア軍は近代化を進めていたとはいえ、イタリアという大国の軍相手にはあまりにも貧弱であった。首都ティラナは陥落し、ゾグ1世は国外に逃亡、アルバニア全土は数日間の内にイタリア軍によって制圧された。国王が去ったアルバニアはイタリアの同君連合となった。東アフリカ帝国に続き、アルバニア王位はイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が兼ねることになったのである。

アルバニア侵攻の理由が「ヴァロナの復讐」にあったことは後付けの理由に過ぎない。実際はドイツの南下を防ぐためにアルバニアを防波堤とする目的であり、ストヤディノヴィチ政権崩壊によって伊・ユーゴの協力関係が瓦解した事により、アルバニアへの武力での支配に行動を移したのであった。結局、アルバニア侵攻は「ドイツによる南下を防ぐため」に実行されたのである。つまりは、ドイツに対抗したのであって、ドイツのチェコスロヴァキア分割を模倣したわけではない。

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ゾグ式敬礼を行うアルバニア将兵

武力でのバルカン制圧への転換、第二次世界大戦の勃発・ギリシャ侵攻

アルバニアへの侵攻は、イタリアのバルカン政策を「外交での影響力の拡大」から「武力での影響力の拡大」に本格的にシフトさせた。ドイツがポーランドに侵略を開始して第二次世界大戦が開始すると、ムッソリーニは当初は中立を宣言したものの、1940年に英仏に対して宣戦布告、イタリアは枢軸国側で参戦した。

エーゲ海諸島総督チェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキ(クァドルンヴィリの一人)はギリシャ政府に対する挑発行為として、潜水艦「デルフィーノ」でティノス港を襲撃させた。これによってギリシャ海軍の軽巡洋艦「エリ」が撃沈されたが、ギリシャ政府はイタリアの仕業だと理解していたものの、挑発には乗らなかった。

ムッソリーニギリシャが連合国側の拠点と使われることを恐れ、プラスカ中将にギリシャへの攻撃を命じた。イタリア軍によるギリシャ侵攻が開始されたが、ギリシャ軍の猛烈な反撃と英軍の参戦、そしてイタリア軍の装備不足などの理由で戦線は膠着した。しかし、イタリア軍は本土から増援を行い立て直しに成功、伊軍支援のために参戦したドイツ軍と共に再びギリシャに攻勢を行い、ギリシャは降伏した。

ギリシャ降伏後、ギリシャの大部分はイタリア占領下に置かれた。ギリシャ北部のピンドス山脈一帯では、メツォヴォを首都とする「ピンド公国」が成立した。これは、アルーマニア人の民族国家とされ、アルキヴィアデス・ディアマンディ率いる「ローマ軍団」が統治するイタリアの傀儡政権であった。

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ピンド公国の中枢を担った「ローマ軍団」

ユーゴスラヴィア侵略、そして解体へ

ユーゴスラヴィアは当初三国同盟に加盟したが、クーデタの発生によってこれは撤回された。なお、ブルガリアはこの時三国同盟に加盟し、正式にイタリアと軍事同盟関係になった。ユーゴスラヴィアでのクーデタに対して、ヒトラーは激怒し侵略を決定した。ムッソリーニもそれに応じ、勢力圏と定めていたユーゴスラヴィアへの侵略に応じた。

ヴィットーリオ・アンブロージオ将軍率いるイタリア軍は迅速にユーゴ領を制圧していった。ハンガリー軍とブルガリア軍も参戦し、ユーゴスラヴィアは崩壊した。

解体されたユーゴスラヴィアは枢軸諸国の勢力圏に組み込まれていった。ドイツはセルビアミラン・ネディッチの「セルビア救国政府」を成立させ、ヴォイヴォディナはハンガリーマケドニアブルガリアに併合された。

そして、イタリアはスロヴェニアとダルマツィアを併合し、スロヴェニアを「ルビアナ(リュブリャナ)県」、ダルマツィアを「ダルマツィア県」とした。イタリア領に併合されたスロヴェニアの支配者となったのは、エミーリオ・グラツィオーリだった。彼は当初スロヴェニア文化への敬意を示しており、無理な同化政策を行わなかった。しかし、それはパルチザン闘争の活発化によって転換していった。

方針を転換したグラツィオーリは、「反共義勇軍」のようなスロヴェニア人協力者による対パルチザン組織を創設し、イタリア軍と共にスロヴェニア人の抵抗運動を激しく弾圧した。リュブリャナは有刺鉄線で張り巡らされ、スロヴェニアでのパルチザン闘争はより一層過激になっていった。グラツィオーリは、旧ユーゴスラヴィア軍のスロヴェニア人中将であるレオン・ルプニクをリュブリャナ市長に任命した。彼はかつて、イタリア-ユーゴ国境の要塞線「ルプニク線」の建設を指揮した人物であった。ルプニク中将は反共主義者であり、それを理由にイタリア軍に協力した。

続いて、クロアチアサヴォイア=アオスタ家のアイモーネ公を「クロアチア王トミスラヴ2世」とする王国が成立した。ウスタシャのパヴェリッチはクロアチアに帰還し、この王国でウスタシャの独裁政権を成立、パヴェリッチは政府首班となった。

イタリアの同君連合となっていたアルバニアコソヴォなどを併合する事で、「大アルバニア」を形成することに成功している。

モンテネグロはイタリアの同君連合となり、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世モンテネグロ王位を兼ねた。伊王妃であるエレナはモンテネグロ最後の王ニコラ1世の王女であり、王国の復活を望んでいたからであった。モンテネグロの旧王家であるペトロヴィッチ家の当主、ミハイロはモンテネグロ王位を戴冠するというイタリアの要請を拒否した。ミハイロは戦後を見通し、イタリアの勝利を信じなかったのである。ミハイロの拒否によって、モンテネグロは形式上は独立国であるもののイタリアの同君連合となり、王位はヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が兼ねることになった。

ドルジェヴィッチやラドヴィッチといった連邦党政治家や、反セルビア民兵組織「ゼレナシ」を率いたポポヴィッチ将軍らはイタリア当局に協力した。イタリアのモンテネグロ統治は、当初はモンテネグロ王国の復活としてモンテネグロ人によって歓迎されたが、実態は占領統治であり、独立と主権の回復を望んでいたモンテネグロ人は大きく落胆した。後にRSI外務次官となるマッツォリーニが高等弁務官を務め、事実上のモンテネグロ総督となったが、モンテネグロ人の大規模蜂起に遭遇。
その後、占領軍司令官であるビローリ将軍によって統治が行われたが、彼の徹底的な蜂起軍の弾圧によってモンテネグロは平定された。

イタリアにおけるバルカン支配は1943年の休戦まで続いたが、休戦後はドイツ軍の支配下に移り、後にRSI政権が成立しても殆どはイタリア支配に戻らなかった。

 

ざっと概要を書いてみたが、イタリアとバルカンの関係は興味深いと改めて思う。

ファシスト政権中期あたりまでは外交でイタリアがバルカン半島への影響力を拡大する事に成功するものの、ナチ政権の成立とドイツのバルカン半島への影響力拡大によってイタリアの影響力が奪われていき、その結果武力による勢力圏の確保に移る、という変遷は非常に面白い。今後とも詳しく調べていきたい。