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イタリア社会共和国陸軍(ENR)の将軍 ―「祖国の名誉」のために戦う者たち―

1943年のイタリア王国の休戦後、イタリアは内戦状態に陥った。北部は「ファシスト政権の後継政権」たるイタリア社会共和国(RSI政権、通称サロ共和国)が誕生し、その元首にはグラン・サッソから救出されたムッソリーニ統帥が就任した。

南部にはローマを脱出したバドリオ元帥の政権、すなわちイタリア王国政府(通称南王国)が連合国側の「共同交戦国」としての立場を確立した。

 

RSI政権はドイツや日本をはじめとする枢軸国に承認され(フィンランドヴィシー政権下のフランスのように枢軸側でも承認しない国家もあったが)、正式にファシスト・イタリア政府の後継政権としての立場を確立し、三国同盟の一角として交戦を継続した。しかし、実態はドイツの傀儡政権であった。

 

今回は、このRSI陸軍に合流した将軍たちについて紹介しよう。

RSI軍は三軍全てにおいて人材が不足していた。高級将校は国王への忠誠からRSIへの参加を拒否した者も多く、南王国軍やレジスタンス運動に参加したり、ドイツ当局やRSI政府によって逮捕された者も多い。休戦前にはファシスト寄りだった将軍でも合流しない者も割といたのも事実であった。

 

そんな中、様々な理由でRSI軍に合流した将軍たちがいた。今回は、代表的なRSI陸軍の将軍9人について紹介しよう。

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今回紹介する9人。左から、ナヴァリーニ将軍、アーゴスティ将軍、カルローニ将軍、ガンバラ将軍、グラツィアーニ元帥、グッツォーニ将軍、プリンチヴァッレ将軍、ファリーナ将軍、デ・チア将軍だ。

ロドルフォ・グラツィアーニ

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ロドルフォ・グラツィアーニ陸軍元帥

まず最初は、RSI軍唯一の元帥、ロドルフォ・グラツィアーニ陸軍元帥だ。
RSI政権では国防大臣を務め、共和国軍の創設と立場向上に尽力した人物である。

グラツィアーニ元帥はバドリオ元帥と並ぶファシスト政権期におけるイタリア軍部の重要人物だ。植民地戦争や植民地統治ではその苛酷な手段で現地人に恐れられ、「現地人の破砕者」という異名も付けられている。

リビア再征服での悪名高い手法としては、「抵抗を続ける首長の手首を縛って飛行機からその居住地域に突き落とす」というえげつないことをしている。

エチオピア戦争では南部戦線を指揮し、1日30km以上も「捕虜を一切とらない」攻勢を行ったことで知られる。戦争終結後はエチオピア副王となり、恐怖政治でエチオピアを支配し、若いインテリの組織的な抹殺やムスリム兵による正教会聖職者虐殺を実行した。その苛酷な統治が祟って1937年2月には暗殺未遂事件が発生したが、さらに苛酷な統治を行う結果となり、報復としてアディスアベバで「エチオピア人に対する三日間の自由な略奪」をMVSNに許可した。

このような苛酷な植民地支配によってイタリアは終始反乱に悩まされ、15万人から25万人に駐留軍を増援することとなった。

第二次世界大戦のイタリア参戦時には陸軍参謀長の立場にあり、撃墜死したバルボ空軍元帥の後任としてリビア総督に就任、エジプト侵攻を指揮した。グラツィアーニは軍需物資の供給がないことや、インフラが脆弱であることから侵攻には反対していたが、ドイツのゼーレーヴェ作戦発動に焦る統帥の命令から侵攻を開始した。

結局、イタリア軍部隊は英軍の反攻作戦によって敗北し、その無謀な作戦計画の責任を取らされる形でグラツィアーニは辞任した。グラツィアーニとしては、自らの増援要請を拒否された結果この仕打ちであるため、不憫である。自らの計画を拒否されたにもかかわらず、ギリシャ戦線での失敗の責任を取らされたバドリオとは似通うものがある。しかし、バドリオとは異なり、ファシスト政権への忠誠は失わなかった。

グラツィアーニは休戦後、RSI政権に合流し、国防相に任命された。グラツィアーニは国王とバドリオの「裏切り」を厳しく非難し、共和国軍の創設に尽力した。まず、最初の問題はリッチGNR総司令官との意見の対立であった。リッチは全軍をGNRとして統轄することを考えていたが、グラツィアーニは逆にGNRを国軍の一部として編入することを主張していた。リッチはGNRの国軍への編入はその政治性が失われるとして反対し、両者の意見対立は長く続いていた。結局はリッチの主張が通る形になり、1943年12月にGNRは国軍とは切り離された独自の組織となった。GNRはMVSNとカラビニエリを統合した組織であったが、これは「縁結び」と取り沙汰された。

しかし、1944年8月14日の政令によって、グラツィアーニの意見が実を結び、GNRの国軍への合体が行われることになった。ムッソリーニはリッチがグラツィアーニの配下に置かれるのを不服とすることをわかっていたため、リッチをファシスト少年団の総裁に任命する事で、一応彼のメンツを守ったのであった。

こうして編成された新生ファシスト共和国軍は勇敢に戦い、多くの戦果を挙げた。グラツィアーニも「必ずや再びローマ進撃を成し遂げるだろう」と激励したが、共和国軍に戦局を変えるほどの力はなかった。1945年4月27日正午、コモ湖南部のチェルノッビオ司令部がパルチザンによって包囲され、遂にグラツィアーニは降伏した。

グラツィアーニは29日夕方、ミラノ東方のゲーティにて米軍の第四機甲軍団司令官クリッテンバーガー将軍の前で降伏文書に署名した。それから数日後、フィレンツェのラジオを通じてグラツィアーニはRSI軍に最後の令達を放送したのであった。

なお、戦後は戦犯として逮捕され、1950年の軍事裁判で19年の禁固刑に処されたが、トリアッティ法相の恩赦で同年8月には釈放となった。その後はネオ・ファシスト政党「イタリア社会運動(MSI)」に参加している。

 

ルフレド・グッツォーニ

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ルフレド・グッツォーニ陸軍大将

グッツォーニはマントヴァ出身の将軍。
ムッソリーニの娘婿である外相ガレアッツォ・チャーノとは非常に仲が悪く、彼の日記(所謂「チャーノ日記」)では、「濁った卑しいチビでデブな染めた髪の男(torbido, infimo, piccolo, grasso e coi capelli tinti)」と表現されていた。

エチオピア戦争に参加、征服後はエリトリア総督(1936~37)となる。アルバニア戦争においては遠征軍を指揮し、小規模な戦闘の後にアルバニア全土を制圧、併合後はアルバニア占領軍の司令官を務めている。

第二次世界大戦のイタリア参戦後、フランス侵攻において第4軍を率いたが、準備不足からフランス軍の要塞線攻略で多くの損害を被った(しかし、これはグッツォーニ将軍の責任というよりムッソリーニの無茶な戦争計画によるものである)。

バドリオ参謀総長の辞任後の人事異動で、カヴァッレーロ新参謀総長のもとで参謀副総長に任命される。また、ギリシャ侵攻の指揮を執るソッドゥ大将にかわり、陸軍次官にも任命された。1943年になると、第6軍と島嶼駐屯軍の司令官となっていたグッツォーニ将軍は、上陸する連合軍からシチリア防衛のために戦った。グッツォーニは連合軍のシチリア上陸目標は東南地帯であると確信していたが、ドイツ軍のケッセルリンクらはこの意見を無視し、西武地帯が上陸目標であると主張していた。結局、グッツォーニ将軍の予想が当たり、連合軍は東南地帯から上陸をおこなった。ミンスミート作戦の成功もあってドイツ軍は上陸目標はシチリアではなくサルデーニャギリシャであると考えていたため、シチリアの枢軸軍は総崩れとなったのである。

RSI政府樹立後は、RSIへの忠誠を誓ったがファリナッチらにシチリアでの敗北の責任を問われ、「裏切り者」と糾弾された。RSI政権によるシチリア防衛戦の将官への「裏切り者」としての糾弾は、グッツォーニ以外にも、パンテッレリーア島守備隊司令官だったパヴェージ提督や、アウグスタ軍港司令官のレオナルディ提督らに対しても行われた。彼らはRSIへの忠誠を誓わなかったため、欠席裁判で死刑となった。しかし、グッツォーニはRSI軍の人材を探すドイツ軍の助けによって処刑執行を免れた。結局、これらの糾弾は、シチリア戦での敗北責任のスケープゴートに過ぎなかった。実際は彼らが「背信行為によって連合軍に味方していた裏切り者」という事実は存在しない。こうして、グッツォーニはその後、RSI軍のリグーリア軍集団の司令官に任命された。

 

ガストーネ・ガンバラ

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ガストーネ・ガンバラ陸軍中将(左の人物)

ガストーネ・ガンバラ陸軍中将は、スペイン内戦の終盤でイタリア義勇軍「CTV部隊」の司令官(1938~39)を務めた人物で、最終局面のカタルーニャ制圧戦を指揮、共和国政府の首都であったバルチェロナを陥落させ、フランコ政権を勝利に導いた。
その後、国際的に承認されたスペイン・フランコ新政権のイタリア大使としてマドリッドに派遣され、イタリアの第二次世界大戦参戦までスペイン大使を務める。

第二次世界大戦のイタリア参戦後、彼はイタリアに呼び戻されてフランス侵攻軍の15軍団を指揮する。フランス降伏後はアルバニアに駐屯する第八軍団の司令官に任命され、ギリシャ侵攻に参加する。

ギリシャ降伏後は北アフリカ戦線に派遣、バスティコ元帥の元で参謀長を務め、トブルク包囲戦やビル・エル・ゴビの戦いを指揮した。ビル・エル・ゴビの戦いではファシスト青年大隊が少ない装備ながら連合軍相手に果敢に勇猛に戦っている。なお、ドイツアフリカ軍団司令官のロンメルとは他の伊軍将官同様に仲が悪かったらしい。

1942年になると、ガンバラはイタリアに召還され、バルカンに駐屯する第11軍団指揮官に任命され、パルチザン掃討作戦に参加している。

休戦後、ドイツ軍に逮捕されたが、RSI軍への合流によって釈放される。彼はグラツィアーニ元帥によってRSI陸軍(ENR)参謀長に任命された。

その後はRSI政権と運命を共にし、1945年に連合軍の捕虜となった。コルターノ収容所に抑留されたが、1947年にフランコ将軍の招きでスペインに移住した。なお、大戦中のパルチザン掃討作戦を指揮したため、戦後はユーゴスラビア政府に戦争犯罪人と指名されたが、イタリア政府はそれに応じなかった。

 

エネア・ナヴァリーニ

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エネア・ナヴァリーニ陸軍中将

エネア・ナヴァリーニ将軍はエチオピア戦争で南部戦線を指揮し、その功績で少将に昇格した。第二次世界大戦でイタリアが参戦した後は、ギリシャ侵攻に参加し、第56歩兵師団「カザーレ」の師団長を務めた。同師団はギリシャ軍への追撃戦で活躍している。

ギリシャ降伏後、北アフリカ戦線に派遣される。彼はドイツアフリカ軍団のエルヴィン・ロンメル元帥に信頼されたイタリア軍指揮官の一人であり、伊軍将官は基本的にロンメルとは不仲だったが、彼は信頼できる仲だったようだ。ロンメルを補佐し、エル・アラメインの戦いでは第11軍団を指揮。この活躍で中将に昇進した。

チュニジア戦線での敗北後、イタリアに戻った。本土戦に備えてカンパニアに駐屯する第19軍団の指揮官となるが、休戦発表後に北イタリアに移動し、RSI軍に合流する。RSI軍では特殊部隊の訓練指導を任せられていた。

 

マリオ・カルローニ

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マリオ・カルローニ将軍

マリオ・カルローニ陸軍准将は、ナポリ出身の将軍。

第二次世界大戦のイタリア参戦時にはアルバニア駐屯軍の指揮官で、ギリシャ侵攻に参加。その後、ロシア戦線で指揮するが、彼の息子ブルーノ・カルローニが1942年に戦死する。休戦後、ドイツ軍の捕虜となるが、RSI軍への合流を条件に解放される。

RSI軍に合流した後、ゴッフレード・リッチ将軍の後任として山岳(アルピーニ)師団「モンテローザ」の師団長に就任する。1945年にはグイード・マイナルディ大佐の後任としてベルサリエリ師団「イタリア」も率いた。両師団を率いて連合軍に果敢に戦い、連合軍の足止めに成功したが、戦い抜いた後にブラジル軍部隊に降伏した。

戦犯として逮捕されたが、1947に無罪となった。しかし、大佐に降格となり、全ての軍事勲章を剥奪された。戦後は妻と共にRSI軍のベルサリエリ兵とアルピーニ兵の慰霊施設の建設を働きかけたが、その要求は市議会によって拒否されている。

 

ティート・アーゴスティ

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ティート・アーゴスティ陸軍少将

ティート・アーゴスティ将軍は、ソマリアの叛乱鎮圧でエリトリア人部隊を率いて活躍した。エチオピア戦争ではソマリ人アスカリ兵部隊と騎兵部隊を率いてハラル制圧に成功し、その武勲によって大佐に昇進している。
第二次世界大戦のイタリア参戦後、東アフリカ戦線で軍を指揮する。英軍の反攻作戦後はオロミア地方のシャシャマンマ防衛戦を指揮する。残存部隊の撤退を成功させ、激戦の末に英軍の捕虜となった。この活躍によって三度目の銀勲章を受勲した。

休戦後、負傷していたため本国への帰還となったが、北部に逃亡してRSI政権に合流した。RSI軍では擲弾兵師団「リットーリオ」の師団長を任されることになった。エミリアロマーニャのゴチックラインで対パルチザン戦に従事し、その後はピエモンテに移動して国境の山岳地帯で米仏軍を中心とする連合軍に対して防衛戦を指揮した。

戦いの後、連合軍の捕虜となったが、収容所内で自殺を遂げた。

 

アミルカーレ・ファリーナ

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アミルカーレ・ファリーナ将軍

アミルカーレ・ファリーナ将軍は、休戦時はトゥーロン占領軍司令官であった。

休戦後にRSI軍に合流し、ドイツ軍との対立で辞任したプリンチヴァッレ将軍の後任として、海兵師団「サン・マルコ」の師団長に任命された。
リグーリア軍集団編入となった同師団を指揮し、連合軍上陸に備えてジェノヴァ防衛任務を従事している。

アルド・プリンチヴァッレ

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アルド・プリンチヴァッレ将軍

アルド・プリンチヴァッレ将軍は、サルデーニャ島の主要都市サッサリ出身の将軍。

エチオピア戦争ではエリトリア駐屯軍に所属し、SIM(陸軍諜報部)の将校だった。戦闘指揮には参加しておらず、後方で活動していた。

第二次世界大戦のイタリア参戦時はサッサリ旅団第152歩兵連隊の指揮官であった。ユーゴスラヴィア侵攻には第11歩兵師団の参謀長としてスロヴェニア制圧を成功させる。その功績により准将に昇進。その後はロシア戦線で歩兵師団の指揮を執った。

休戦後、RSI軍に合流した最初期の将軍の一人だった。新設された共和国軍の海兵師団「サン・マルコ」の師団長に任命されたが、ドイツ軍との意見対立から辞任に追い込まれる。その後、サルデーニャ島に逃亡し、連合軍側に降伏した。

 

アメデーオ・デ・チア

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アメデーオ・デ・チア陸軍少将

アメデーオ・デ・チア将軍はカラーブリアのロクリ出身のアルピーニの将軍。
第二次世界大戦のイタリア参戦後、ピントール将軍が指揮する第一軍に所属し、アルピーニ部隊を指揮してフランス侵攻に参加。

その後、ジョヴァンニ・エスポジート将軍の後任として山岳師団「プステリア」の師団長に就任、ギリシャ戦線で指揮をする。ユーゴスラヴィア侵攻では同師団を指揮し、モンテネグロ制圧を成功させた。この武勲により四度目の銀勲章を受勲した。

1941年夏になると、第58歩兵師団「レニャーノ」を指揮して、リグーリア海岸の防衛任務に就く。アントン作戦が発動されるとフランス南部に進駐し、ニッツァ(ニース)を本部とするプロヴァンス占領軍の司令官を務めた。

休戦後、ドイツ軍の包囲を受けてRSI軍への合流を決める。しかしこれは逮捕を免れるための合流であり、本心からではなく消極的な協力であった。リグーリア軍集団の司令官に任命されたが、一か月で解任され、軍事裁判所の所長に就任した。山岳師団「モンテローザ」が設立されたが、同胞(イタリア人)と戦いたくなかったため、指揮官への就任を拒否した。

 

以上である。他にもRSI軍に合流した将軍はいたが、写真資料が無かったり、そもそも資料自体が不足している例も多く、調べるのは中々大変である。

今度は海軍や空軍の高級将校についても紹介していきたい。ではまた。