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イタリア社会共和国海軍(MNR)の海上部隊 ―ファシストの艦隊―

さて、今回はRSI海軍について紹介しよう。

1943年の休戦後、王立イタリア海軍の艦艇の殆どはマルタ島で連合軍に引き渡された。また、その道中でドイツ軍に撃沈されてしまった。

そして、イタリアに残っていた艦艇もドイツ軍に接収されたものが多かった。駆逐艦や潜水艦はドイツ海軍によって軒並み接収されている。

故に、RSI海軍側に残った艦艇は本当に僅かであったのである。

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RSI海軍次官スパルツァーニ海軍少将からボルゲーゼ司令への軍旗授与式

RSI海軍というと、「陸戦部隊」としての「デチマ・マス」の活躍は割と知られている。しかし、海上部隊、すなわち「海軍」としてのRSI海軍の戦果はどうだろう?あまり知られていないように思う。

ここでは、そのRSI海軍の海上部隊の実態に迫ってみることにする。

 

RSI海軍の形成と所属艦艇

まずは、RSI海軍に合流した主な部隊を見てみよう。

ラ・スペツィア軍港の「デチマ・マス」(第10MAS艇部隊)

ラ・スペツィア軍港のウォーモ・ラーナ部隊及び駆潜艇部隊

ヴェネツィア軍港のアドリア海艦隊

◆フランス・ベータソム軍港の大西洋潜水艦艦隊

ルーマニア・コンスタンツァ軍港の黒海ポケット潜水艦艦隊

しかし、合流したこれらの艦隊にしても、ドイツ海軍はそのまま残存艦隊の指揮権を彼らには与えず、残存艦隊は基本的にドイツ海軍に接収された。

例えば、ベータソム基地の潜水艦「バニョリーニ」「ジュリアーニ」「カッペリーニ」「トレッリ」はそれぞれ「UIT-22」「UIT-23」「UIT-24」「UIT-25」としてドイツ海軍で就役している。

とはいえ、乗員がドイツ人のみで占められたわけではなく、これらの接収された艦艇はRSI海軍に忠誠を誓ったイタリア人乗員と、ドイツ海軍の乗員の混合であった。

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RSI海軍のCB型ポケット潜水艦

RSI海軍側に残ったのは、MAS艇(小型魚雷艇)、MS艇(大型魚雷艇)、VAS艇(駆潜艇)、MTM艇(爆装艇)、MTSM艇・MTSMA艇(高速魚雷)一部のコルベット、ポケット潜水艦、人間魚雷といった小型艇に限られていたのである。

しかし、例外として名目上RSI海軍側に残った大型艦艇もある。それは「建造中の艦艇」もしくは「修復中の艦艇」であった。

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空母「アクィラ」

建造中であった空母「アクィラ」及び空母「スパルヴィエロ」、リットーリオ級戦艦の「インペーロ」、カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦「カイオ・マリオ」、修復中の戦艦「コンテ・ディ・カヴール」、重巡洋艦ボルツァーノ」「ゴリツィア」など。

しかし、建造中のR級潜水艦のように、完成前にドイツ海軍に接収されたものもある。

 

RSI海軍に合流した提督たち

続いて、人員についてである。王立イタリア海軍の艦艇の殆どが連合軍側に渡ったために、RSI海軍は艦艇だけでなく人員も不足していた。

RSI海軍には、マリオ・ファランゴラ海軍上級中将、アントニオ・レニャーニ海軍中将、ウバルド・デッリ・ウベルティ海軍大将、ジュゼッペ・スパルツァーニ海軍少将、ローモロ・ポラッキーニ海軍中将といった将官らが参加した。

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RSI海軍に合流した海軍将官たち。左から、ファランゴラ海軍上級中将、レニャーニ海軍中将、デッリ・ウベルティ海軍大将、スパルツァーニ海軍少将、ポラッキーニ海軍中将。

それぞれ軽く説明をしておくと、ファランゴラ提督とレニャーニ提督は共にファシスト政権の熱烈な支持者で、潜水艦艦隊の司令官であった。RSI合流後はファランゴラ提督は海軍総司令官、レニャーニ提督は海軍大臣に就任したが、レニャーニ提督は就任数か月で交通事故で死亡している。なお、レニャーニ提督の息子であるエミリオ・レニャーニ海軍大尉は第18戦隊所属のMAS568艇の艇長として、黒海にてソ連海軍の重巡洋艦モロトフ」を大破させた戦果で知られる。
デッリ・ウベルティ海軍大将は中世の皇帝派(ギベッリーニ)貴族、ファリナータ・デッリ・ウベルティ(ダンテの『神曲』地獄編でも登場)の子孫。第二次世界大戦時は海軍総司令部の一員で、海軍の宣伝官として映画製作にも関わっている。アメリカの詩人エズラ・パウンドとも親密な関係であった人物だ。RSI海軍合流後も引き続き、海軍司令部の一員、そして海軍の宣伝官として活動した。

スパルツァーニ提督はRSI海軍の代表的な提督の一人。スパルティヴェント岬(テウラダ岬)沖海戦ではリットーリオ級戦艦「ヴィットーリオ・ヴェーネト」の艦長として参加。休戦時は海軍総司令部の一人であり、他の提督らがファシストと決別する中、RSI政権に合流。フェッリーニ大佐(レニャーニ提督死後の海軍次官)の後任として海軍次官に就任し、RSI海軍の地位向上に尽力した。

ポラッキーニ提督は第二次世界大戦開戦時はヴェネツィア軍港の司令官で、軽巡「カドルナ」を指揮してプンタ・スティーロ沖海戦で戦った。その後は、ポーラ軍港の潜水艦隊指揮官としてギリシャで指揮をした後、ベータソム基地司令官に就任。部下であるグロッシ艦長が指揮する潜水艦「バルバリーゴ」が米戦艦「メリーランド」及び「ミシシッピ」を立て続けに撃沈したという報告を受け、これに対して異議を唱えたが、ベータソム基地司令官を解任させられ、リヴォルノ軍港司令官に左遷(後任は皮肉にもグロッシ大佐だった)。なお、ポラッキーニ提督の指摘通り、グロッシの報告は「虚偽の報告」だった。休戦後、逮捕を恐れてRSI海軍に忠誠を誓ったが、密かにカドルナ将軍のCLN(国民解放委員会、レジスタンス組織)に協力する。後にRSI当局によって逮捕されたが、証拠不十分で釈放となっている。

 

「デチマ・マス(Xª Flottiglia MAS)」

だが、RSI海軍に合流した人物として名が知られているのは、将官らよりも「デチマ・マス」の面々であろう。実際、RSI海軍の中枢を担ったのは主に彼らであった。

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カリスマ的指導者、ユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ海軍中佐

RSI海軍の幹部であり、「デチマ・マス」の司令官であったユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ中佐が最も有名だろう。彼は名門貴族ボルゲーゼ家の出身という出自でありながら、熱烈なファシストという一風変わった人物だ。休戦までは潜水艦「シィレー」を旗艦として指揮を執り、特にアレクサンドリア港攻撃での戦艦「クイーン・エリザベス」及び「ヴァリアント」の撃沈を成功させた戦果で知られる。ニューヨーク攻撃作戦も計画していたこと(結局実行には移されなかったが)。休戦後は降伏を拒否し、いち早くドイツ軍に接触して「デチマ・マス」の兵員で海上部隊を創設、そして新設されたRSI海軍の幹部となった。カリスマ的な指導者として「デチマ・マス」を指揮し、陸戦部隊と海上部隊を率いて連合軍とパルチザンを苦しめた名指揮官である。なお、戦後はネオ・ファシストとして暗躍し、1970年にはクーデタ未遂事件を起こしている。そのため、イタリアでボルゲーゼ司令というと、「海軍の指揮官」というよりも「クーデタ未遂事件の首謀者」というイメージの方が強いようだ。

 

ボルゲーゼ中佐の部下として参加した人物も優秀な人物が多い。

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マリオ・アリッロ海軍大尉

副官のマリオ・アリッロ大尉は潜水艦「アンブラ」艦長として、英国海軍の軽巡「ボナヴェンチャー」撃沈やアルジェ港攻撃の指揮で知られる人物である。ラ・スペツィアの海軍技術博物館でも彼の展示があることから、彼の活躍はイタリア海軍に語り継がれているのだろう。

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ルイージ・フェッラーロ少尉

ルイージ・フェッラーロ少尉は潜水工作部隊「ガンマ」のスーパーエースとして知られる人物。1943年夏、駐土イタリア大使館の外交官としてトルコ領内に単独で潜入、イスケンデルン港やメルスィン港にて身一つで作戦を実行し、連合軍の船舶を時限爆雷で多数撃沈した(ステッラ作戦)。RSI海軍ではヴォルク中尉のもと、「ガンマ」部隊に引き続き参加している。

 

他にも、潜水艦「バルバリーゴ」の艦長として米戦艦二隻を撃沈した「戦果」で知られるベータソム基地司令官エンツォ・グロッシ大佐や、オトラント海峡海戦で仮装巡洋艦「ラム3」の艦長を務めたジョヴァンニ・バルビーニ大佐、さらには外交官出身という異色の経歴を持つブルーノ・ジェメッリ中佐といった人物らも参加している。

 

RSI海軍は艦艇と人員は不足したが、集まった人員は優秀な将兵が多かった。故に彼らは苦境の中で活躍する事が出来たのだろう。

 

RSI海軍海上部隊の活躍

さて、RSI海軍海上部隊の活躍を見てみよう。

RSI海軍海上部隊の主任務は基本的に沿岸の哨戒任務と機雷敷設であった。そんなRSI海軍海上部隊の初陣は、アンツィオ及びネットゥーノにおける防衛戦である。

「デチマ・マス」陸戦部隊はパルチザン掃討作戦での戦果で知られ、主にそのイメージで「デチマ・マス」自体も語られるイメージが多い。ウンベルト・バルデッリ中佐率いる海兵大隊「バルバリーゴ」及び砲兵大隊「サン・ジョルジョ」は、編成して間もなくアンツィオ及びネットゥーノにて上陸する連合軍部隊と死闘を繰り広げている。

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RSI海軍のM.T.S.M.A艇

海上部隊もこの時、アンツィオ防衛戦に参加しているのだ。「デチマ・マス」のM.A.S.艇や高速魚雷艇(MTSM艇とMTSMA艇)が繰り返し攻撃を行い、RSI空軍のカルロ・ファッジョーニ大尉率いる第一雷撃集団「ブスカーリア」と共に、連合軍の上陸舟艇や揚陸艦に対して雷撃、数多く撃沈する戦果を挙げている。

ルーマニア・コンスタンツァ基地で活動していた黒海のポケット潜水艦部隊は、休戦後に一度はルーマニア海軍に接収されたが、RSI海軍が編成された後、RSI海軍に再配備された。このポケット潜水艦部隊は黒海で活動を続けたが、休戦前のようにソ連艦隊を撃沈するといった目ぼしい戦果を挙げることはなく、ソ連軍の到着まで哨戒活動を続けたのみであった。残ったポケット潜水艦はソ連軍の到達前に自沈されている。

アドリア海沿岸のポーラ軍港に配備された数隻のCB型ポケット潜水艦も、RSI海軍所属となって活動を続けた。彼らの主任務は黒海同様に哨戒任務であった。

MAS艇部隊はティレニア海アドリア海で行動し、沿岸警備と哨戒任務中に連合軍の艦船8隻の撃沈に成功している。これは北イタリアの各紙で大々的に報道され、グラツィアーニ元帥は陸戦部隊の活躍を含め「デチマ・マス」の奮闘を讃えている。

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セルジョ・デンティ軍曹

RSI海軍海上部隊の最期の戦果は、1945年4月16日深夜から17日早朝にかけてリグーリア海のオネーリア沖で発生した海戦である(オネーリア沖海戦)。

これは、RSI海軍「デチマ・マス」のセルジョ・デンティ軍曹が駆るMTM艇(バルキーノ)が、フランス艦隊に対して攻撃を実行。その攻撃は成功し、フランス海軍の駆逐艦トロンベ」は大破し、航行不能になった。その後、「トロンベ」はトゥーロン軍港に牽引されて解体となった。デンティ軍曹はその後、フランス海軍の捕虜となった。

 

代表的な戦果は以上である。

優秀な人材が揃っていたRSI海軍ではあったが、海上部隊において圧倒的な装備不足を補うことは出来なかったのである。