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ドメニコ・カヴァニャーリ海軍参謀長と第二次世界大戦開戦時のイタリア海軍の戦略

今回はドメニコ・カヴァニャーリ海軍参謀長と第二次世界大戦開戦時の王立イタリア海軍の戦略について紹介してみたいと思う。理由としては、Twitterのアイコンを変更して、せっかくカヴァニャーリ提督のアイコンにしてみたので彼の紹介をしてみたいなぁと思ったからである。

というか、カヴァニャーリ提督は第二次世界大戦のイタリア海軍を語るには欠かせない人物だ。何故か?それは、結果的に彼の戦略がイタリア海軍の敗北をもたらしたともいえるからである。

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ドメニコ・カヴァニャーリ提督

ドメニコ・カヴァニャーリ提督は1876年7月20日ジェノヴァで生まれた。

彼は1934年に海軍参謀長に就任し、そこから1940年のターラント空襲で辞任するまで海軍参謀長を務めた人物である。

つまりは、イタリア海軍の戦争準備を指導したのは彼であった。

カヴァニャーリ提督はファシスト政権、そしてムッソリーニ統帥に最も近しい海軍提督の一人であり、ファシスト政権による冒険的な膨張外交に対しても無批判だった。その忠実さ故にムッソリーニとの関係は実に良好で、ターラント空襲の失態でドゥーチェはカヴァニャーリ提督を海軍参謀長から解任したものの、ドゥーチェは彼の名誉を守り、尊重したことからもそれを伺える。

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イタリアの主力戦艦「リットーリオ」

カヴァニャーリ提督は戦艦と潜水艦を重要視する戦略に基づき、戦争準備を進めた。戦艦を重視したのは敵軍への心理的抑止力としての「現存艦隊主義」に基づくものであった。これに基づき、イタリア海軍は「リットーリオ」級4隻の建造を進め、それに加えて第一次世界大戦時に建造された「コンテ・ディ・カヴール」級戦艦2隻と「カイオ・ドゥイリオ」級戦艦2隻の大改装を行った。これらの戦艦の完成は1942年を予定としていたため、1940年のイタリア参戦時点で行動可能だったのは、1937年に改装が終わった「コンテ・ディ・カヴール」級二隻のみであった。

しかも、「現存艦隊主義」をカヴァニャーリ提督が採用していた理由はそれだけではない。第二次世界大戦開戦後、イタリア海軍は燃料不足に悩まされていた。開戦前からイタリア海軍は石油備蓄が少なかったことに悩んでいたが、それを思い知らされた。イタリアは同盟国であるドイツは石油のイタリアへの安定的な供給を約束したが、果たされなかったのである。燃料不足で大型艦を思うように運営できないイタリア海軍は「現存艦隊主義」に頼らざるを得なかったと言える。

しかし、「現存艦隊主義」によって軍港内でその存在感をアピールしていたイタリア海軍の戦艦は、逆に英海軍によるターラント空襲で狙われることになった。つまり、一か所に集まっていた伊戦艦は英海軍の航空攻撃で大打撃を被ったのである。ターラント空襲の結果、「コンテ・ディ・カヴール」「カイオ・ドゥイリオ」及び「リットーリオ」の三隻の主力艦は修復のためドッグ入りとなって行動不能になった。そのため、行動可能なイタリア海軍の主力艦は「ヴィットーリオ・ヴェーネト」と「ジュリオ・チェーザレ」、「アンドレア・ドーリア」のみとなったのである。その後、「カイオ・ドゥイリオ」と「リットーリオ」は数か月の修復を得て復帰したが、「コンテ・ディ・カヴール」は損傷が激しく、結局修復は終わらなかった。リットーリオ級戦艦「ローマ」は1942年に就役したが、「インペーロ」は未完で終わっている。

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潜水艦「グリエルモ・マルコーニ

続いて、潜水艦重視の戦略であるが、この戦略によってイタリア海軍は開戦時には実にソ連に次ぐ世界第二位の潜水艦保有数であった。潜水艦艦隊の運営には後にRSI海軍の参謀長となるマリオ・ファランゴラ提督が指揮している。彼もまた、ファシスト政権の熱狂的な支持者であった。

開戦時のイタリア海軍の潜水艦は計117隻(アドゥア級17隻、アルゴナウタ級7隻、ペルラ級10隻、シレーナ級12隻、アルキメーデ級2隻、アルゴ級2隻、バリッラ級4隻、バンディエーラ級4隻、ブラガディン級2隻、ブリン級5隻、カルヴィ級3隻、フィエラモスカ級1隻、フォカ級3隻、グラウコ級2隻、H(アッカ)級5隻、リウッツィ級4隻、マメーリ級4隻、マルチェッロ級11隻、マルコーニ級6隻、ミッカ級1隻、ピサーニ級4隻、セッテンブリーニ級2隻、スクァーロ級4隻、X級2隻)である。この潜水艦重視の戦略は成功したと言える。現に、イタリア海軍の潜水艦艦隊は各地の海域で多くの戦果を挙げた。

また、これに加えてイタリア海軍は敵泊地攻撃用の小型潜水艦の開発が進められた。これはいわゆる「ポケット潜水艦」であり、1938年にCA型が完成、1941年にそれを一回り大きくしたCB型が完成した。CB型は本格的に量産が進められ、22隻が発注された。CB型ポケット潜水艦は本来の用途では使われなかったが、黒海ではソ連海軍の潜水艦を次々と撃沈する戦果を挙げ、RSI海軍でも数少ない艦艇として活躍した。

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「イタリアのレーダーの父」ウーゴ・ティベリオ博士

カヴァニャーリ提督はレーダーを重要視せず、軽視した。彼は保守的であり、十分に長い期間を経て試験されていない新技術を導入する事には反対であったのだ。故に、ウーゴ・ティベリオ博士を始めとする優秀なレーダー技術者がイタリアにいたにもかかわらず、予算は与えられなかった。

しかし、これはマタパン岬の惨敗で間違いだとわかることになった。

マタパン岬の夜戦で、イタリア艦隊は優れたレーダーを持つ英艦隊に奇襲を受け、実に僅か一夜にして「ザラ」級重巡3隻と駆逐艦2隻を失い、乗員4000人のうち3000人が戦死するという悲惨極まる敗戦を経験したのである。「マタパン岬」の名はイタリア海軍史において汚名として残されたのであった。その結果、イタリア海軍はレーダー開発を大急ぎで進めることになるが、それはまた別の機会に紹介しよう。

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レジアーネ Re.2001OR艦上戦闘機

さて、このマタパン岬の敗北でイタリア海軍は空母の役割の重要性が改めて認識されたが、それ以前まではカヴァニャーリ提督率いる海軍首脳部によって海軍は「空母不要論」を採用していたのである。

これはムッソリーニが日ごろから主張していた「イタリア半島は巨大な不沈空母」であるという考えに基づくものであった。内海である地中海において、空母の必要性は低いと考えられていた。それに加えて空軍の威信を高めんとするバルボ空軍元帥の影響力も海軍の「空母不要論」に拍車をかけていた。つまりは、イタリア空軍を強化して地中海全体を網羅できるほどの力を持てば、空母などいらん!というわけである。ただ、海軍側も空母開発を全くしなかったわけではなく、新造空母の計画や、戦艦「インペーロ」の空母改装計画も存在した。

結局、イタリア海軍はマタパン岬の惨敗で空母の重要性を痛感したため、急いで空母建造に取り掛かった。客船「ローマ」は空母「アクィラ」に、客船「アウグストゥス」は空母「スパルヴィエロ」に改装されたが、結局未完に終わった。

 

結局、カヴァニャーリ提督の戦略は第二次世界大戦におけるイタリア海軍の失敗に繋がった。故に、カヴァニャーリ提督の解任後に新たに海軍参謀長に就任したアルトゥーロ・リッカルディ海軍大将は戦略の失敗を是正するために、新たに戦いに適した戦略を立てることを強いられたのである。