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「イタリアのレーダーの父」ウーゴ・ティベリオ博士とイタリア海軍のレーダー開発史

今回の更新は、イタリア海軍のレーダー開発史と、レーダー開発を主導した「イタリアのレーダーの父」こと、ウーゴ・ティベリオ博士について紹介します。

前回のブログ更新で説明したが、イタリアのレーダー開発は遅れていた。海軍参謀長であったカヴァニャーリ提督は保守的で、レーダーなどの新しい電子技術を信用しなかったからである。

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「イタリアのレーダーの父」ウーゴ・ティベリオ博士

イタリアのレーダー開発のパイオニアであったウーゴ・ティベリオ博士は1904年にモリーゼの中心都市、カンポバッソで生まれた。彼は電子工学のスペシャリストであり、天才的な科学者だった。彼の頭脳をイタリア海軍が最初から信じていれば、イタリア海軍は破滅的な敗北から救われただろう....しかし、そんなことを言っても意味はない。

この若き天才はイタリア海軍の研究所の教官を務めていたが、暗号通信のパイオニアだった陸軍のルイージ・サッコ博士が彼に注目し、共に軍部に働きかけて1936年にはレーダー開発の研究所「海軍電波通信研究所(Regio Istituto Elettrotecnico e delle Comunicazioni della Marina,通称RIEC)」の設立に成功する。

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RIEC所長を務めたジャンカルロ・バッラウリ博士

所長には強磁性の研究で知られるジャンカルロ・バッラウリ博士(海軍大佐)が就任し、イタリア海軍のレーダー研究は開始された。しかし、カヴァニャーリ提督率いる保守的な海軍首脳部によって資金はわずか(約2万リレ)しか与えられていなかった上に、人員も少なかった。なお、サッコ博士は陸軍にもレーダー開発を働き掛けたが、こちらはそもそも応じすらしなかった。研究所を設立するだけ海軍はマシだったのである。所長であったバッラウリ博士も数々のプロジェクトを手掛けていたため多忙であり、レーダー研究だけを重点的に携わるわけにはいかなかった。

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ティベリオ博士と共にレーダーを開発したネッロ・カッラーラ博士

しかし、少ない予算と人員の中、ティベリオ博士は共同研究者であるネッロ・カッラーラ博士と共に研究を進めた。カッラーラ博士は「マイクロ波」の名付け親である物理学者であり、電磁波関係の専門家だった。ティベリオとカッラーラ両名は共に海軍教官であったため、教鞭を取りながら研究を続けた。少ない予算、少ない人員、そして限られた研究時間が彼らを苦しめたが、2人はめげなかった。そして、2人は1936年にイタリア初のレーダー(E.C.1)開発に成功した。

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無線研究の大御所、グリエルモ・マルコーニ博士

しかし、その年にはレーダー開発に大きな影響力を持っていたグリエルモ・マルコーニ博士が病死してしまう。ムッソリーニ統帥とも親しかった大御所学者マルコーニの死によって彼が進めていた様々なプロジェクトは中止となり、レーダー開発研究も失速した。1939年には実用的なレーダー開発に成功したものの、これを重要視しなかった海軍は結局量産化を行わず、結局このレーダーは試作段階で終了した。

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マタパン岬の惨敗で撃沈されたザラ級重巡洋艦「ポーラ」

しかし、イタリア海軍はマタパン岬の惨敗でレーダーの必要性を痛感する。優れたレーダーを持つ英海軍は夜戦でイタリア艦隊を奇襲し、重巡洋艦「ザラ」「ポーラ」「フィウーメ」及び駆逐艦「アルフィエーリ」「カルドゥッチ」が撃沈され、約3000人の戦死者を出した悲惨な事態となったのである。

そこで、アルトゥーロ・リッカルディ海軍参謀長は冷遇されていたウーゴ・ティベリオ博士のレーダー研究を全面的に支持し、レーダー開発の予算が与えられた。

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海軍兵器の開発者、アルフェオ・ブランディマルテ技術大尉

レーダーの開発チームに海軍兵器の開発者であったアルフェオ・ブランディマルテ技術大尉が加わった。彼はドイツに派遣されてドイツ製レーダーの技術を得ていた。ブランディマルテ大尉は設計に携わり、ティベリオ博士とカッラーラ博士と共にイタリアのレーダー開発研究の主要人物となった。ティベリオ博士らは研究を大急ぎで進め、年内に新型レーダーの開発に成功した。なお、ブランディマルテ大尉は1943年の休戦以降はローマのレジスタンス組織に参加し、裏切りによってSSに逮捕、1944年に「ラ・ストルタの虐殺」の犠牲者の一人となった。

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艦艇用レーダー「グーフォ」

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陸上設置用レーダー「フォラーガ」

こうして完成した艦艇用レーダー「グーフォ(フクロウの意味)」と陸上設置用沿岸監視レーダー「フォラーガ(オオバンの意味)」は1942年から量産されたのである。

「グーフォ」は戦艦「ヴィットーリオ・ヴェーネト」や軽巡洋艦「カピターニ・ロマーニ級」などの軍艦に搭載され、「フォラーガ」は地上基地に設置された。

イタリア海軍は「グーフォ」を50機、「フォラーガ」を150機発注したが、結局イタリアの工業生産力の低さ故か、休戦時点で完成したのは「グーフォ」が13機、「フォラーガ」が14機のみであった。

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「グーフォ」レーダーを搭載した軽巡「アッティリオ・レゴロ」

しかし、「グーフォ」レーダーは優れた性能を発揮し、搭載された艦艇は効果的に戦果を挙げた。特にカピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦「シピオーネ・アフリカーノ」による戦果は有名で、夜間攻撃において「グーフォ」レーダーの威力をいかんなく発揮、メッシーナ海峡の封鎖作戦(シッラ作戦)を実行しようとする英海軍の魚雷艇部隊を襲撃して1隻を撃沈、2隻を大破させる事に成功し、連合国側の封鎖作戦を失敗させている。

 

優れた性能を持った「グーフォ」レーダーであったが、量産時期が遅れた故にイタリア海軍の窮地を救うには遅すぎた。それに加えて、イタリアの工業生産力の低さがたたり、更に戦果は限定的となったのである。イタリア海軍首脳部が仮にティベリオ博士らのレーダー開発を戦間期に重視していれば、イタリア軍はマタパン岬の惨敗を経験する事無く、英海軍とも夜戦で互角に戦うことが出来たと十分に言えるだろう。

 

なお、ウーゴ・ティベリオ博士は戦後にピサ大学で電子工学の教授として1974年まで教鞭をとり、1980年にリヴォルノで亡くなったようだ。

共同研究者であったネッロ・カッラーラ博士は戦後に海軍用レーダーの企業「SMA」(1943年にフィレンツェにて設立)でレーダー開発に携わっている。