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イタリア極東艦隊の戦歴と天津のイタリア租界 ―伊日関係と苦難の日々―

第二次世界大戦時、日本の同盟国であったイタリアは極東に勢力圏、天津租界を持っていた。イタリアは天津を母港とする「極東艦隊」を保有しており、兵士も駐在していた。この「極東艦隊」は後に紅海艦隊の残存艦が合流して規模を拡大、日本海軍と共にアジア・太平洋戦域で戦った。今回は、そんな彼らと極東のイタリア人を取り巻いた環境についてを紹介しよう。

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イタリア極東艦隊

イタリアの天津租界の歴史は1900年にまでさかのぼる。1900年の義和団事件にイタリアは介入し、八カ国連合軍の一角として出征、中国の天津への租界開設と北京への駐兵権を清朝に認められたのである。これは、清朝崩壊後の中華民国でも継続された。

第一次世界大戦で1917年に中華民国の段祺瑞国務総理は連合国側で参戦し、ドイツとオーストリア=ハンガリーに宣戦布告をした。これにより、天津の両国租界は中国政府に接収されたが、オーストリアの租界は1927年にイタリア租界に組み込まれたのである。

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中国に派遣された空軍顧問、ロベルト・ロルディ将軍(1933-35)とシルヴィオスカローニ将軍(1935-37)

ファシスト政権期のイタリアは中国市場を重要視し、中国での影響力拡大を推進していた。故に、中国権益を狙うドイツや日本とはしばしば衝突していたのである。特に軍需関連分野の市場であり、1933年~35年にかけてはイタリアは中国に空軍顧問を派遣、その影響もあって総額4800万リレの軍用機と関連機器を売却している。空軍顧問のほか、海軍顧問と金融財政顧問も派遣されており、特に金融財政顧問にはファシスト政権初期に財政再建を実現した元財務相アルベルト・デ・ステーファニが派遣された。しかし、イタリア陸軍の軍事顧問派遣は、1937年に試みられたが、同様に中国で影響力を拡大していたドイツの反対で頓挫していた。

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アルベルト・デ・ステーファニ

日中戦争が開始された時点ではイタリア空軍顧問はまだ中国に常駐しており、中国空軍の航空部品の大半がイタリア製であると日本側はたびたび指摘していた。イタリア製の戦車も数多く中国に輸出されており、日本軍と戦った。

イタリア政府の中国での影響拡大の方針は、ソ連の中国での影響拡大を防ぐ「反共的方針」に基づくものであり、これはドイツも同様であった。しかし、中国政府がエチオピア戦争での対イタリア経済制裁に賛同した事に対して、上海総領事として中国で勤務した経験もあったガレアッツォ・チャーノ外相は遺憾とし、日中戦争勃発後、1938年8月にイタリアは中国への航空機売却を停止し、12月には空海使節の完全撤退を決定した。これ以降、イタリアは中国との関係重視政策を転換し、日本との関係を重視するようになる。11月29日にはイタリアは満州国を承認し、その姿勢を示した。

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日本に輸出されるフィアットBR.20「チコーニャ」爆撃機

日本側も、当時関東軍参謀長であった東条英機がイタリアの親日路線を評価し、100万ドル相当のフィアット製戦車を購入すると約束してそれに応えた。1938年には日本はイタリアからフィアットBR.20「チコーニャ」爆撃機を85機輸入し、これは「イ式重爆撃機」として日本陸軍が中国戦線で使用した。これを機に日本とイタリアは経済関係を強めていき、両国の経済協定、そして満州国とイタリアの経済協定につながった。伊日関係が進展すると、明らかにイタリアは中国政府に敵対する姿勢を見せるようになったが、中国政府はイタリア租界の接収をしなかった。

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巡洋艦「クアルト」

さて、当時のイタリアと極東の情勢はこんな感じであった。続いて、本題に入るとしよう。

天津租界を有していたイタリアは天津に「極東海軍司令部」を設置し、天津を母港とする「イタリア極東艦隊」を持っていた。しかし、どんどん縮小されていき、第二次世界大戦のイタリア開戦時にはわずか2隻で、砲艦「エルマンノ・カルロット」と機雷敷設艦レパント」のみだった。東郷平八郎提督の葬儀に参加した巡洋艦「クアルト」を含め、イタリア極東艦隊に所属していたいくつかの艦艇は既に除籍、もしくは他の艦隊に移っていたのである。

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エルマンノ・カルロット要塞とイタリア兵

艦隊だけでなく、海兵部隊「サン・マルコ」も駐屯していた。これは天津イタリア租界の防衛のための部隊であった。陸軍は駐屯せず、天津租界は海軍の管轄であった。この司令部であったエルマンノ・カルロット要塞は、義和団事件で戦死したエルマンノ・カルロット中尉から名前を取ったもので、1926年に完成した。ここには、満州皇帝溥儀や、ムッソリーニ統帥の長女であるエッダも訪れている。なお、現在も残っており、中国武警の部署が設置されている。

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ファスケスがそのまま残る旧イタリア文化館。現在はスポーツセンター。

エルマンノ・カルロット要塞だけでなく、ファシスト政権はこの狭い租界に所狭しと体制建築を建設した。数々のイタリア建築が現在も残っているので、天津に観光する際は見に行ってみても面白いだろう。

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砲艦「エルマンノ・カルロット」

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機雷敷設艦レパント

第二次世界大戦が開戦しても、イタリアと中国は戦争状態ではなかったため、フェッルッチョ・ステフェネッリ天津総督率いる極東艦隊は戦闘を行うことはまだなかった。日本と中国は戦争状態であったが、中国はこの時点ではイタリアに宣戦布告をしていない。それに加え、1940年には南京にて汪精衛(汪兆銘)の中華民国国民政府が成立すると、イタリア政府は日本との同盟に基づき、重慶の蔣介石政権ではなく、南京政権を「正統な中国政府」として承認したのである。それに加え、真珠湾攻撃後に中華民国重慶政権がイタリアに宣戦布告した際も、イタリアは重慶政権を正統な政権とは承認していなかった上、既に中国は海軍を殆ど失っており、イタリア極東艦隊が中国艦隊と戦うことはなかった。

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通報艦「エリトレア」

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仮装巡洋艦「ラム2」

1941年にエリトリアもマッサワ軍港が陥落し、イタリア紅海艦隊が壊滅すると、スエズを封鎖された紅海艦隊の残存艦は日本やボルドー目指して航行した。日本には通報艦「エリトレア」と仮装巡洋艦「ラム1」「ラム2」が目指したが、「ラム1」はモルディヴ沖にてニュージーランド海軍の軽巡「リアンダー」によって撃沈されている。これにより、無事に日本まで辿り着いたのは「エリトレア」「ラム2」の二隻のみであった。日本政府は二隻を歓迎したものの、当時の日本はまだ英国と開戦しておらず、神戸港にて二隻は抑留され、自由な行動を許されなかった。イタリア空軍の極東飛行の際もそうだが、日本側は同盟国であるにもかかわらず、イタリア人を冷遇し過ぎであるように感じる。これも、枢軸国の連携のなさをヒシヒシと感じる。
日本が真珠湾攻撃を実行、枢軸国側で正式に参戦したことで、二隻は自由な行動を許され行動を開始した。なお、仮装巡洋艦「ラム2」は「カリテア2」と改称されている。イタリア極東艦隊は、船団護衛の他、遣日潜水艦作戦で極東までやってきたイタリア潜水艦やドイツ潜水艦の補給作業も担当した。

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アントニオ・カンチェーミ氏

なお、紅海艦隊(後に極東艦隊所属)の総料理長であったアントニオ・カンチェーミ氏は、1944年、日本で初めて本格的なイタリア料理を振舞った人物として知られる。彼は戦火の中、訪れる事になった異国の地にイタリア料理を伝え、戦後も帰国せずにイタリア料理を通じて伊日親善に尽力した。そんな彼が開いた日本初のイタリアンレストラン「アントニオ」が南青山にあるという。いつか行ってみたいものだ。

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潜水艦「ルイージ・トレッリ」

遣日潜水艦作戦で極東にやってきた潜水艦「ルイージ・トレッリ」及び潜水艦「コマンダンテカッペリーニ」、「レジナルド・ジュリアーニ」も合流した。

つまりは、休戦時点でのイタリア極東艦隊は以下の通りであった。

◆砲艦「エルマンノ・カルロット」

機雷敷設艦レパント

通報艦「エリトレア」(紅海艦隊より合流)

仮装巡洋艦「カリテア2」(紅海艦隊より合流)

◆潜水艦「ルイージ・トレッリ」(遣日潜水艦作戦)

◆潜水艦「コマンダンテカッペリーニ」(遣日潜水艦作戦)

◆潜水艦「レジナルド・ジュリアーニ」(遣日潜水艦作戦)

2隻のみの状態から7隻にまで増えていた。これは快挙である。

 

しかし、1943年にイタリア王国政府が休戦すると、状況は一変した。極東イタリア軍の本部であったエルマンノ・カルロット要塞は日本軍に包囲され、小規模な戦闘の後に、後に成立するイタリア社会共和国(RSI政権)側へ忠誠を誓わなかったイタリア人は強制収容所送りとなった。イタリア租界は南京の中華民国国民政府によって併合され、RSI政権もそれを認めた。後に1947年のパリ講和条約でイタリアは正式に天津のイタリア租界を放棄、中国に復帰した。RSI側に忠誠を誓ったイタリア軍人は日本海軍やドイツ海軍に協力することを「許可」された。

日本及び日本占領下の地域では、イタリア人は「敵性外国人」として抑留されていった。しかし、彼らがRSI政権に忠誠を拒否して「裏切り者」のバドリオ政府に味方をした「敵性外国人」であったというのは疑わしい事実であった。既に「イタリア人は裏切り者」というムードが高まっていた日本において、RSI政権に忠誠を誓ったからといってイタリア人が信頼を得られたわけではない。軍人や外交官ならまだしも、民間人であればなおさらである。実際、伊日の経済協定締結に尽力したイタリア商務参事官のローモロ・アンジェローネ氏は熱烈なファシスト党員であったが抑留されており、彼は収容所から不当の抑留について抗議している。京大でイタリア語講師を務めていたフォスコ・マライーニ氏は収容所の悲惨な環境に抗議し、自らの小指を斧で切断し看守に見せつけた。このエピソードはよく知られている。収容所のイタリア人らには、生命を維持する最低限度の食糧しか与えられず、その食糧すらも抑留者を管理する警察官によって横領されていた。栄養失調で痩せ衰えたイタリア人たちは外部からの差し入れなどによって飢餓と戦っていたのである。

休戦発表時に船団護衛中であった通報艦「エリトレア」は、日本海軍の追撃を振り切ってセイロンで英海軍に武装解除を受けた。仮装巡洋艦「カリテア2」は神戸港で自沈、機雷敷設艦レパント」及び「エルマンノ・カルロット」は上海港で自沈した。これらの行動は全て王国海軍参謀長デ・コールテン提督の命令によるものであった。「イタリア艦艇は連合国、もしくは中立国の港で武装解除を受ける。到達が不可能な場合は自沈せよ」という内容であった。しかし、命令を忠実に従ったイタリア人に対して日本人は激しく怒り、酷い扱いをしたのは言うまでもない。港湾内で自沈された「カリテア2」、「レパント」及び「エルマンノ・カルロット」は日本軍によって浮揚・修復され、「カリテア2」は「生田川丸」、「レパント」は「興津」、「エルマンノ・カルロット」は「鳴海」として日本海軍で再就役を果たした。「生田川丸」は1945年に米軍の空爆で撃沈するが、「興津」と「鳴海」は終戦まで生き残り、中国海軍に接収された。

潜水艦「トレッリ」「カッペリーニ」「ジュリアーニ」の三隻は、ドイツ海軍に拿捕され、RSI海軍に忠誠を誓ったイタリア人乗員とドイツ人乗員の混合で運営された。なお、RSI政権とドイツが降伏した後は「トレッリ(UIT25)」「カッペリーニ(UIT24)」は日本海軍に接収されて、「伊504」「伊503」として就任している。なお、「ジュリアーニ(UIT23)」は英海軍に1944年に撃沈され、戦没している。

 

いかがだったであろうか。第二次世界大戦時の同盟国でありながら、活躍が隠れがちなイタリアは極東の地にて知られざる活動をしていたのである。しかし、突如の休戦によって極東のイタリア人は苦難の日々を送ることになった。戦時中であったとはいえ、彼らを苦しめたのは我々日本人であったことを忘れてはならない。