Associazione Italiana del Duce -ドゥーチェのイタリア協会へようこそ!-

同人サークル"Associazione Italiana del Duce"の公式ブログです。

エチオピア帝国軍を率いた7人の将軍たち ―ኢትዮጵያ ታበፅዕ እደዊሃ ሃበ አግዚአብሐር―

エチオピア帝国軍の将軍たちについて色々調べてみたのでまとめてみた。エチオピア戦争時に帝国軍を率いてイタリア軍と戦った7人の将軍たちについてである。

f:id:italianoluciano212:20181001024220j:plain

紹介する7人の帝国軍将軍

ここで紹介するのは、

◆北部戦線指揮官

ラス・ムルゲタ・イェガッズ将軍(陸軍大臣)

ラス・エムル・ハイレ・セラシエ将軍

ラス・カッサ・ダルゲ将軍

ラス・セユム・マンガッシャ将軍

デジャズマチ・ハイレ・セラシエ・ググサ将軍

◆南部戦線指揮官

ラス・デスタ・ダムタウ将軍

デジャズマチ・ナシブ・ザマヌエル将軍

の7人をここで紹介する。

 

ラス・ムルゲタ・イェガッズ

(生年不明~1936年2月27日)

f:id:italianoluciano212:20181001022253j:plain

ラス・ムルゲタ・イェガッズ将軍

アビシニア戦争時に将校として戦っている老将軍。

メネリク2世時代には財務相、女帝ザウディトゥ時代も財務相と外相を歴任。1926年以降陸軍大臣を務めており、反乱軍鎮圧でも活躍した。

エチオピア戦争時は陸軍大臣及びマハール・セファリ地域軍司令官。東京日日新聞の特別通信員としてアディスアベバに訪れた庄司勇之助と会見し、日本側に柔軟な姿勢を示しており、日本からのガスマスク購入を打診している(その後、エチオピアはドイツからガスマスクを大量輸入したため、実際に日本から輸入されたかは不明)。

しかし、外国人に依存するハイレ・セラシエ帝に苦言を呈する伝統主義者・守旧派であり、外国人義勇兵を嫌っていた。参謀長代理を務めたキューバ義勇兵アレハンドロ・デル・バジェが防衛線の維持を進言したが、彼はこれを無視。アンバ・アラダムの戦いにて、攻撃に固執して息子と共に戦死した。

 

ラス・エムル・ハイレ・セラシエ

(1892年11月23日~1980年8月15日)

f:id:italianoluciano212:20181001022521j:plain

ラス・エムル・ハイレ・セラシエ将軍

皇帝ハイレ・セラシエの従弟で、幼馴染。皇室の一員。

ラス(地方豪族)の中でも特に重要な人物。

エチオピア侵攻時に優れた指揮でイタリア軍を苦しめた名将。アディスアベバ陥落直前に皇帝より副王に任命され、西部のゴレに成立した「エチオピア抵抗政府」の指導者としてレジスタンス組織の結集の象徴となった。抵抗組織「黒い獅子」を指揮して、ゲリラ戦で抵抗したが12月に伊軍の包囲を受け降伏、1943年に解放されるまでイタリアのポンツァ島収容所で過ごした。

解放後、帝冠評議会の一員となり、インド、アメリカ、ソ連の駐在エチオピア大使を務める。駐ソ大使の経験からか、思想が徐々に左傾化し、土地改革にリベラルな「赤いラス」として知られた。1960年のクーデターの際には首相として担がれ、80年に病死した際はデルグ政権によって国葬が催された。

 

ラス・カッサ・ダルゲ

(1881年8月7日~1956年11月16日)

f:id:italianoluciano212:20181001022708p:plain

ラス・カッサ・ダルゲ将軍

ハイレ・セラシエ帝の又従兄で、皇帝に忠実な人物。

彼は軍人と言うよりも政治家であったが、北部戦線の指揮官として、ラス・エムルやラス・セユムと共に指揮。ロシア人義勇兵テオドロ・E・コノヴァロフを軍事顧問として重用し、テンビエンの戦いでも戦車を用いるイタリア軍相手に優れた指揮能力を発揮した。エチオピア敗北後、皇帝と共に亡命。4人の息子がいたが、その内3人はイタリア軍の占領に対するレジスタンス運動を指揮し、捕縛され処刑された。1941年、帝冠評議会の初代議長になった。

 

ラス・セユム・マンガッシャ

(1887年6月21日~1960年12月15日)

f:id:italianoluciano212:20181001022811j:plain

ラス・セユム・マンガッシャ将軍

皇室の一員。北部のティグレ地方軍の指揮官を務め、クリスマス攻勢や二度に渡るテンビエン会戦で活躍。

エチオピア併合後、本国に残って抵抗したが伊軍に逮捕され家族と共に収容所に送られた。その後、アオスタ公アメデーオが彼らを手厚く扱ったため、友好関係を築いた。

その後、「自宅軟禁」としてアディスアベバで過ごす。エチオピア解放戦では「ギデオン軍団」の一員として軍勢を率いている。

 

デジャズマチ・ハイレ・セラシエ・ググサ

(1907年~1985年)

f:id:italianoluciano212:20181001022917j:plain

デジャズマチ・ハイレ・セラシエ・ググサ将軍

皇帝ヨハンネス4世の曽孫に当たり、ハイレ・セラシエ帝の義理の息子(ゼネヴェウォルク皇女の婿)。皇室の一員。

ゼネヴェウォルクの埋葬地を決める際に皇帝と対立が生じ、それ以降両者は対立、皇帝は彼に「ラス」の称号を与えなかった。

エチオピア戦争時はメックエルの指揮官であったが、戦闘開始後数日でデ・ボーノ率いるイタリア軍に降伏。帝国軍を裏切って伊軍に協力し、イタリアによって「ラス」の称号を与えられ、「皇帝の息子の降伏」は伊軍側にプロパガンダとして使われた。エチオピア解放後、一時的に英軍によってティグレ知事に任命されたが、後にハイレ・セラシエ帝によってイタリアに協力した罪を問われ逮捕、禁固刑となった。

 

ラス・デスタ・ダムタウ

(1892年~1937年2月24日)

f:id:italianoluciano212:20181001023028j:plain

ラス・デスタ・ダムタウ将軍

ハイレ・セラシエ帝の義理の息子(テナグネウォルク皇女の婿)。皇室の一員。

エチオピア戦争時は南部戦線の指揮官。皇帝に忠実であり、エチオピア併合後も南部戦線で抵抗運動を指揮、イタリア軍を苦しめた。しかし、グラツィアーニ暗殺未遂事件直後にイタリア軍に逮捕され、絞首刑で処刑された。

 

デジャズマチ・ナシブ・ザマヌエル

(1893年~1936年10月16日)

f:id:italianoluciano212:20181001023135j:plain

デジャズマチ・ナシブ・ザマヌエル将軍

フランス語やイタリア語に堪能で、元々は外交官として活躍した。

エチオピア戦争時は南部戦線を指揮。トルコ人義勇兵ワヒブ・パシャを参謀長として重用し、軍の組織と防衛線「ヒンデンブルク防壁」構築に従事。この強固な要塞群と塹壕によって、南部戦線の伊軍指揮官グラツィアーニは苦戦した。

エチオピア併合後は皇帝と共に亡命するが、伊軍の使用した毒ガスの後遺症と結核で苦しみ、スイスで客死した。

 

以上である。人物の読み方は基本的に岡倉登志著『エチオピアの歴史』及び石田憲著『ファシストの戦争―世界史的文脈で読むエチオピア戦争―』を参照にしている。

HoIシリーズなのでエチオピアMODを作る時に役に立てばいいな~的な感じのまとめなので、「ここ違うよ!」って感じのがあったら指摘お願いします。