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伊日交流史 ―日伊修好通商条約と明治初期の日本・イタリア関係―

数百年維持してきた鎖国体制が崩壊し、江戸幕府は西洋諸国と修好通商条約を結んだ。最も有名なものは、米蘭露英仏と結んだ安政の五か国条約が知られているが、その後、統一を果たしたばかりのイタリア王国や、後にドイツ統一を成し遂げるプロイセン王国などとも修好通商条約を結んだことはあまり知られていない。

2016年は伊日国交樹立150周年記念の年だった。すなわち、日伊修好通商条約の締結(1866年)から150年経ったのである。めでたい。

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2016年に開催された伊日国交150周年記念イヴェント「イタリア・アモーレ・ミオ!」

さて、日伊修好通商条約とはいかなる条約だったのだろうか。サルデーニャ王国という小国がイタリア統一を成し遂げたばかりの状況(この段階ではまだローマ遷都もしていない)で、何を求めて極東の小国、日本と修好通商条約を結ぶに至ったのだろうか。

日伊修好通商条約は、意外にも両国にとって非常に重要な存在だった。そのキーワードはずばり、「蚕」である。

当時、イタリア経済において養蚕製糸業は重要な役割を果たしていた。しかし、当時のイタリアでは微粒子病と呼ばれる病が流行り、これに感染した蚕は繭を作る事が出来なくなってしまった。これにより、イタリアの養蚕製糸業は大きなダメージを受けていたのである。

それにより、イタリアは無病で良質な蚕を求めた。そこで白羽の矢が立ったのが極東の島国、日本であった。日本の蚕は良質なことで知られていたのだ。

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海軍提督ヴィットーリオ・アルミニョン

イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、シャンベリ(サヴォイア公国時代の首都、中部イタリア併合の担保としてフランスに併合された)出身のヴィットーリオ・アルミニョン海軍提督に日本及び清朝との通商条約を結ぶことを命じ、全権を委任した。

そして、両国間の交渉の末、1866年8月には調印された日伊修好通商条約を締結し、これが伊日国交の始まりとなった。なお、アルミニョン一行は条約締結の日、御殿山下台場に船で降り立ったが、迎えに来るはずの隊列や馬が間に合わなかったため、一行は仕方なく歩いて締結の場に向かった。日本側はこれを受けて、イタリア人は他の外国人と違って横柄な態度をしない、という好印象を受けたようである(逆に、他の外国人は武力(黒船とか)を用いて横暴な態度をする、という印象だったようだ)。

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アルミニョン一行が乗っていた「マジェンタ号」

日伊両国は締結の翌年から本格的な国交を開始したが、これは両国に重要な役割をもたらした。蚕種の輸出額は日本の輸出総額の23%以上を占める年もあり、そのおよそ7~8割はイタリア市場に流れるものだった。日本の良質な蚕は北イタリアの養蚕製糸業を支えることで結果的にイタリア経済を活性化させ、日本側は貿易で得た膨大な収入を用いて近代化を進めていったのである。

言ってしまえばWin-Winの関係だったが、日伊修好通商条約も日本にとっては「不平等条約」であったのは確かである。すなわち、領事裁判権があった。

ただ、駐日イタリア公使アレッサンドロ・フェ・ドスティアーニ伯爵と日本政府は領事裁判権の廃止で合意したものの、英国との摩擦を避けたいイタリア外相ヴィスコンティ・ヴェノスタがこれを拒否した事で交渉は水泡に帰したようだ。

これに関して、詳しく説明すると、英国によるイタリアへの警戒心があった。明治政府は外国人の移動範囲を横浜などの居留地とその周辺のみとしていた。しかし、蚕の原産地は内陸部にあったため、駐日イタリア公使フェ・ドスティアーニ伯爵は領事裁判権の廃止も視野に、日本内陸部へのイタリア人の旅行許可を欲していた。しかし、英国はイタリアの独走が自国への生糸輸出を妨げると考え、これに警戒感を示したのである。

アレッサンドロ・フェ・ドスティアーニ伯爵はブレシア出身の外交官で、ブレシアは養蚕製糸業が盛んであったため、養蚕製糸業にも知識があった。日本以外にもガージャール朝ペルシア帝国やブラジルなど各国に赴任経験があったヴェテラン外交官であり、まさに日本公使として適任の人物であった。

フェ・ドスティアーニ伯爵の申請によって2人のイタリア人の内陸部への旅行許可が下りたが、それに対して駐日英国公使ワトソンが抗議し、「最恵国条款」によって英国人への旅行許可も与えなければならないと訴えた。これを受け、日本側は慎重に行動するようになった.....のだが、フェ・ドスティアーニ伯爵は日本政府からも信頼を得ていたため、副島種臣と結んだ「暗黙の合意」によって、イタリア人が内陸部を訪れる事が出来る特権を得られた。これらの内陸部を訪れたイタリア人たちは全てが蚕の仕入れ人であり、イタリア政府とは直接的な繋がりがない純粋な商人たちだった。

 

結果的に紆余曲折を経て、領事裁判権は廃止され、「不平等条約」は改正されるに至るのであるが、最終的に英国の圧力で失敗したが、イタリア側からアプローチをかけていた、という点は面白い。一般的に日独伊防共協定の成立まで希薄と考えられがちな伊日関係だが、意外にも明治初期において両国が互いに重要なパートナーシップを築いていた、という点はとても興味深いだろう。