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エットレ・ムーティ空軍中佐と中東への長距離爆撃作戦 ―中東油田地帯ヲ爆撃セヨ!―

地味に空軍関係について書くのは初めてである。理由としては、私自身、イタリア空軍を始めとする空軍自体に詳しくない、というか今まであまり興味がなかった。

ただ、そんな私でも面白いと思ったイタリア空軍の功績がある。第二次世界大戦中の中東への長距離爆撃だ。イタリア空軍は地味に長距離飛行で名を挙げている。二度のローマ-東京飛行、二度の大西洋横断飛行は有名だろう。特に、第二次世界大戦中のイタリア-日本間の長距離飛行はドイツ空軍も成し遂げなかった偉業であった(それなのにマイナーであるが)。それについてはまたの機会に述べるとしよう。

そんなイタリア空軍はその長距離飛行のノウハウを生かして、中東への長距離爆撃を実行していたのである。具体的にはパレスチナバーレーンサウジアラビアへの爆撃である。その長距離爆撃を指揮したのは、ファシスト党書記長だった空軍中佐、エットレ・ムーティだった。

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飛行服姿のエットレ・ムーティ空軍中佐

エットレ・ムーティ空軍中佐は、ファシスト党書記長という職でありながら、政治家としての才能に恵まれなかった。しかし、彼は飛行家として有り余る才能があった。エチオピア戦争やスペイン内戦での爆撃任務で武勲をあげ、「翼のエル・シッド」のニックネームを得た。大戦では中東への長距離爆撃を計画し、無事成功させたのである。

ムーティはフィウーメ進軍に参加した時にダンヌンツィオに「緑目のジム(Gim dagli occhi verde)」というニックネームを付けられたが、それは長く使われる彼の通称となり、スペイン内戦に義勇兵パイロットとして参加した時は、「Gim Valeri(ジム・ヴァレリ)」という偽名で参加している。

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政治家としてのムーティ(左)。右はチャーノ外相。

そもそも、彼が党書記長になった理由は、解任されたスタラーチェの後任として、友人であったチャーノの推薦で1939年に就任したのであった。彼は就任当初から「行動的ではない」この役職を嫌い、空軍軍人として戦う事を望んだ。結局彼は空軍中佐として、フランス侵攻での爆撃を皮切りに再びパイロットとして復帰したのであった。彼の早すぎる党書記長辞職は、ムーティを書記長として推薦したチャーノと、チャーノの岳父であるムッソリーニの関係を悪化させる結果となってしまった。それにより、チャーノとムーティ自身の関係も悪化することになってしまう。

 

中東への長距離爆撃!バーレーン・サウジ爆撃―

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サヴォイアマルケッティ SM.82爆撃機

爆撃機パイロットとして復帰したムーティは、フランス降伏後、中東への長距離爆撃作戦を計画した。この作戦はロードス島を出発し、キプロス上空を通過、バーレーンの油田施設を攻撃し、エリトリアの基地に辿り着くルートで、英軍の石油供給を妨害する事が目的であった。これは実に4500kmという長距離であったが、ムーティ中佐はサヴォイアマルケッティSM.82“カングーロ”を長距離爆撃仕様に改造し、綿密な爆撃計画を立てた。

1940年10月19日、作戦は実行に移された。4機のSM.82爆撃機ロードス島の飛行場を出発し、バーレーンを目指した。バーレーンは19世紀に英国の保護国になって以降、英国の支配下にあった。バーレーンのハキム(首長)であるハマド・イブン・イーサ・アール・ハリーファ第二次世界大戦開戦に伴い、1939年9月に連合国側での参戦を宣言した。バーレーンは英国にとって重要な石油供給元であった。

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当時のバーレーン首長ハマド・イブン・イーサ・アール・ハリーファ

バーレーンは地理的に戦場からは遠く「安全」であるとされていた。しかし、突如イタリア空軍のSM.82が飛来し、バーレーン首都マナーマにあった油田施設が攻撃を受けたのである。イタリア空軍の爆撃は二つの製油所に大きなダメージを与え、「安全圏」への爆撃はバーレーンに大きな混乱をもたらした。この爆撃の結果、英国は「安全圏」と思われていたバーレーンの防衛を強化する事となった。

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サウジアラビアの油田

続いて、マナーマ油田爆撃に加えて、イタリア空軍の爆撃機部隊は当初爆撃予定ではなかったサウジアラビアのダーラン油田への爆撃を実行した。サウジアラビアは1930年代に油田が発見された事によって産油国となった。サウジ国王イブン・サウードは英国との関係を重視した他、ルーズベルト大統領とは個人的な友好関係があった。

WW2勃発後、サウジアラビアは中立を宣言したが、英国との関係を重視してドイツとの国交を断絶している。即ち、サウジアラビアは連合国寄りとはいえ、公式には中立国であった。また、イタリアの友好国であるイエメンとサウジアラビアは対立関係にあった。中立国サウジアラビアの油田攻撃を実行した理由はその辺があったのかもしれない。イタリア空軍部隊はダーラン油田への爆撃を実行し、サウジアラビアの油田パイプラインは被害を受けた。

イタリア空軍の長距離爆撃部隊は、バーレーンサウジアラビアへの爆撃作戦を無事成功させた上に、一切の被害を出さず無傷で全機がエリトリアのズーラ基地に辿り着いたしたのであった。本来はマッサワの飛行場に到着する予定であったが、英空軍がマッサワを爆撃したため、急遽少し離れたズーラの飛行場に到達した。その後、4機は補給を受けた後、帰路につき、道中でポートスーダンを爆撃しながら、ベンガジ経由で全員が祖国への帰還に成功したのであった。

 

 中東への長距離爆撃! ―パレスチナ諸都市への空爆

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「イタリア空軍の父」バルボ空軍元帥(右)と談笑するムーティ

ムーティ中佐はこれらのバーレーン・サウジ爆撃の一方で、もう一つの中東への長距離爆撃作戦を指揮していた。それは、パレスチナへの爆撃作戦であり、こちらは計画を立てるだけでなく、爆撃隊のパイロットとして直接作戦に参加している。
パレスチナ爆撃作戦はバーレーン・サウジ爆撃に先立ち、1940年7月から実行された。エーゲ海ロードス島を出発したイタリア空軍の爆撃機部隊は、ハイファに対して爆撃が行われ、ハイファへの爆撃は英国の重要な製油精製施設があったために実行された。この爆撃にムーティ中佐自らハイファの爆撃任務に参加している。

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爆撃されて炎上するハイファの石油精製施設

ハイファへの爆撃は数度行われたが、これによって英軍は甚大な被害を受けた。爆撃されて炎上した石油精製施設は数日間燃え続け、その結果石油精製施設は使用不可能になったのである。その後も爆撃が続けられ、石油パイプラインは被害を受けた。
ハイファ爆撃に加え、イタリア空軍は中心都市テルアビブや港湾都市アッコに対しても爆撃が実行された。テルアビブへの爆撃では英空軍の追撃を避けるため、イタリア爆撃機部隊が誤って市街地に爆弾を投下、多くの民間人死者を出している。これに加えて、ドイツ空軍やヴィシー・フランス空軍もテルアビブを爆撃している(シリア・レバノン戦線の余波)。これらのパレスチナ諸都市への爆撃は1941年6月まで行われた。

これらの長距離爆撃の成功により、イタリア空軍はその後も長距離爆撃を実行した。1942年には英軍の占領下に置かれたエチオピア及びエリトリアへの長距離爆撃も実行している。更に、休戦によって計画は立ち消えになったが、1943年には空軍は大西洋を越えてニューヨークへの長距離爆撃を実施する計画を立てていた。海軍によるニューヨーク攻撃作戦と同様に、実行されていたら仮に実質的な損害は少なくとも、大きな心理的なダメージを与えることが出来たであろう。

 

バトル・オブ・ブリテン、SIA、そして暗殺

ムーティは一連の中東への長距離爆撃作戦の成功によって多くの名声を得た。続けてムーティはCAIの爆撃機パイロットとして、バトル・オブ・ブリテンにも参加した。しかし、英空軍は優れたレーダー管制による迎撃戦を展開、イタリア空軍の爆撃機部隊は思うように戦果を挙げられず、25%の機体を失った。

イタリアに帰国したムーティは、1943年から空軍諜報部(通称SIA, Servizio Informazioni Aeronautica)に所属し、時にはスペイン領内に墜落した米軍機から機材回収(特にレーダー)の為にスペインへ向かう事もあった。しかし、7月25日にムッソリーニが失脚し、バドリオ政権が成立すると、ムーティは急遽イタリアに帰国する事になった。ムーティはローマに戻ったが、8月24日にカラビニエリ兵によって暗殺された。彼はその後2年間続く、ファシストに対する「報復」の最初の犠牲者となったのである。

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航空機とムーティ

ファシズムの殉教者」となったムーティは、その後成立したイタリア社会共和国(RSI政権)によって英雄視された。RSI政権で成立したフランチェスココロンボ大佐が率いるGNRの独立機動部隊にはムーティの名がつけられ、ラヴェンナ(ムーティの出身地)に展開した「黒い旅団(ブリガーテ・ネーレ)」にも彼の名が付けられている。

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ブラッチャーノの空軍歴史博物館に展示されたムーティの絵画

いかがだったであろうか。私がこの事実を知ったのは、ブラッチャーノの空軍歴史博物館で買ったムーティ中佐の本を読んだからであった。それまでムーティ中佐のことは知っていたものの、短期間書記長を務め、ムッソリーニ失脚後に暗殺された事くらいしか知らなかった。しかし、調べてみたら彼は第二次世界大戦時のイタリア空軍を代表する軍人の一人と言ってよいほど、空軍軍人として華々しい戦果を挙げていた。
このムーティ中佐の功績を知って、今まであまり興味が無かったイタリア空軍についても調べてみようと思えた、いわばきっかけを与えてくれた人物でもある。

今後は陸軍や海軍だけでなく、イタリア空軍についても調べていきたい。思えば、『紅の豚』の舞台にもなっているし、イタリアは戦間期において航空先進国だった。ならば、空軍について調べてみるのが、最も良いのかもしれない。これを機に、イタリア空軍についても(知識不足ではあるが)その本質をどんどん調べていきたい。