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「潜水艦大国」イタリアの潜水艦隊の活躍・第二部 ―海の狼、再度出撃せよ!―

さて、今回もイタリア海軍の潜水艦について紹介しよう。自分自身も調べていったら想像以上にイタリア潜水艦の世界は奥が深く、すっかりイタリア潜水艦が大好きになってしまった。なので、以前の投稿に引き続きイタリア潜水艦をちまちま紹介しようと思う。今回は以下の潜水艦を紹介。

アンミラーリ級「アンミラーリオ・カーニ」
ピサーニ級「ヴェットール・ピサーニ」
マメーリ級「ピエル・カッポーニ」
マルコーニ級「グリエルモ・マルコーニ
マルコーニ級「ルイージ・トレッリ」
アルゴナウタ級「セルペンテ」
スクアーロ級「スクアーロ」
ブリン級「エヴァンジェリスタ・トッリチェッリ」
ブリン級「アルキメーデ」
マルチェッロ級「エンリコ・ダンドロ」
マルチェッロ級「コマンダンテカッペリーニ

 

アンミラーリ級潜水艦

アンミラーリオ・カーニ」

イタリア海軍最大の排水量を誇る大型潜水艦

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潜水艦「アンミラーリオ・カーニ」

アンミラーリ級潜水艦の一隻。就役は1941年4月1日。
アンミラーリ級潜水艦はイタリア海軍最大の排水量を持つ大型の潜水艦で、武装も魚雷発射管14門(前8門+後6門)、魚雷搭載本数36本を備え、主砲に47口径100mm二連装砲、更に対空砲としてブレダ社製の重機関銃を搭載した。これは実に、大戦間を通じて最大の数値であり、遠く孤立した海域でも通商破壊に従事できるようにと設計されていた。

アンミラーリ級潜水艦は計4隻作られ、「アンミラーリオ・カーニ」「アンミラーリオ・カラッチョロ」「アンミラーリオ・ミッロ」「アンミラーリオ・サン・ボン」いずれも大戦勃発後の1941年に就役している。この大型潜水艦は多くの戦果を挙げることを期待されていたが、「アンミラーリオ・カーニ」を除く3隻は本来の任務予定地であった大西洋ではなく、大きな戦果を挙げることもなく地中海で戦没した。

それに対して、「アンミラーリオ・カーニ」はアンミラーリ級の中で最も戦果を挙げた。就役後、「カーニ」はまず大西洋ではなく地中海で活動することとなった。艦長はカルロ・リアンナッツァ少佐で、リビアキレナイカのバルディアへの輸送任務に従事することとなった。その大型の船体が輸送任務に適していたからであった。10月15日にターラントを出発し、バルディアに物資輸送を完了した後、22日に帰還した。11月にも再び同様の任務に従事した。輸送任務を終えた後、5回の攻撃任務を実行した。

1942年10月、地中海での任務を終えて、「カーニ」はようやく大西洋での任務を行うこととなった。ジブラルタル海峡を越えて大西洋に進出し、大西洋での任務に加えて、可能ならばその能力を生かしてインド洋での任務も行うこととなった。「カーニ」は136日間を海で過ごしたが、これはイタリア潜水艦でも最長であったそうだ。かくして、「カーニ」は通商破壊で数隻の輸送船を撃沈することには成功したが、期待に反してその戦果は何とも評価しがたいものであった。

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戦後、中将にまで昇進したジュゼッペ・ロセッリ・ロレンツィーニ艦長

1943年6月29日にボルドーのベータソム基地に帰還した「カーニ」は艦長が交代となり、新たな艦長としてジュゼッペ・ロセッリ・ロレンツィーニ中尉が就任した。彼は元々マルチェッロ級潜水艦「アンジェロ・エーモ」の艦長だった人物で、大西洋で輝かしい戦果を挙げていた。その後、「カーニ」はロレンツィーニ艦長の元で遣日潜水艦作戦に従事する事となったのである。長距離航行はアンミラーリ級にとって適しており、既にイタリア潜水艦で最長の任務期間を過ごした「カーニ」にとっては最適であった。道中では英海軍の仮装巡洋艦アストゥリアス」を雷撃で大破させることに成功している。その後、「アストゥリアス」は護衛艦に曳航されケープタウンに辿り着いた。

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雷撃で大破した仮装巡洋艦アストゥリアス

しかし、日本への航行途中でイタリアの休戦が発表されることとなり、休戦時、「カーニ」はモーリシャス沖を航行していた。ベータソム基地のエンツォ・グロッシ司令はイタリア社会共和国(RSI)海軍への合流を宣言し、配下の潜水艦指揮官にもドイツ側での戦闘継続を求めたが、ロレンツィーニ艦長は王国政府のド・クールタン海軍参謀長からの命令を守り、ルートを逆戻りして南アフリカのダーバンで英海軍に武装解除された。その後、「カーニ」は共同交戦海軍に合流することとなり、ターラントに戻って訓練任務に使われた。戦後の1948年に解体。なお、ロレンツィーニ艦長は戦後も海軍に残り、1965年に中将にまで昇進、1970年~73年まで海軍参謀長を務めた。

アンミラーリ級は期待に反して残念な戦果となったが、その航行期間の長さからも、この潜水艦の設計が間違っていたわけではないことがわかる。同型艦3隻が地中海で短期間のうちに戦没したのも、大型故に透明度の高い地中海での行動に適していなかったからであったと言えるだろう。

 

ピサーニ級潜水艦

「ヴェットール・ピサーニ」

第二次世界大戦におけるボルゲーゼ公の初代旗艦

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潜水艦「ヴェットール・ピサーニ」

ピサーニ級のネームシップ。就役は1929年6月29日。
イタリア海軍の最大の勝利の貢献者とも言える、ユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ司令が第二次世界大戦のイタリア参戦後、最初に指揮をした潜水艦である。艦名のモデルとなったヴェットール・ピサーニは14世紀のヴェネツィア海軍の提督で、キオッジャ戦争でジェノヴァ艦隊を打ち破って勝利を齎した人物だ。「ピサーニ」はスペイン内戦にも参加していたが、第二次世界大戦時には既に旧式艦となっていた。

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ユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ艦長

ボルゲーゼ艦長のもとで、エーゲ海諸島のレロ港(現在のギリシャ領レロス)を母港として作戦に従事した。6月~7月の間にカラーブリア沿岸やマルタ島周辺で数回の攻撃任務に参加した後、8月にはボルゲーゼ艦長は艦を離れ、後任の艦長はマリオ・レジオ少佐が務めた。ボルゲーゼ公はこの後、アドゥア級「シィレー」の艦長となり、アレクサンドリア港攻撃やジブラルタル攻撃といった大胆な作戦を成功させるのであった。

その後は、アドリア海での哨戒任務や沿岸防衛任務に従事する傍ら、ポーラ軍港を母港として訓練任務に従事する事となった。既に旧式化して摩耗している古い潜水艦にとってはこれくらいしか役目が無かったのである。休戦後は共同交戦海軍に合流し、その後も訓練任務にを続け、1948年に解体された。

 

マメーリ級潜水艦

「ピエル・カッポーニ」

戦艦への攻撃も成功させた「中型潜水艦の祖」

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潜水艦「ピエル・カッポーニ」

マメーリ級潜水艦の一隻。就役は1929年1月30日。
マメーリ級は第一次世界大戦後に初めて建造された中型潜水艦で、言わば戦間期におけるイタリア中型潜水艦の祖とも言える存在であった。

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英戦艦「バーラム」に雷撃を成功させた潜水艦「カッポーニ」。当時の絵葉書。

「カッポーニ」はスペイン内戦にも参加したが、第二次世界大戦開戦時には既に旧式艦となっていた。開戦後、艦長ロメオ・ロメイ中尉のもとで、エーゲ海諸島のレーロ港を母港に活動した。1940年6月22日夜間、マルタ沖にて武装商船「ハルガ」に遭遇し、これを雷撃で撃沈することに成功した。

7月6日から12日の間はマルタ周辺での哨戒任務に従事、11日には戦艦を含む英船団と遭遇、これを攻撃したが激しい反撃を受けて離脱した。11月9日、英海軍のマルタ輸送作戦「コート」の妨害のため、夜間にクイーン・エリザベス級戦艦「バーラム」及び空母「アーク・ロイヤル」を含む護衛艦隊に雷撃を実行、雷撃は命中して激しく爆発し、「バーラム」に損害を与えた。「バーラム」は撃沈を免れたが、翌年の11月25日に再び潜水艦の雷撃を受けて撃沈されることとなった。

1941年3月末にラ・スペツィア軍港に移籍となったが、道中にストロンボリ沖にて英潜水艦「ロークウァル」の攻撃を受けて撃沈されてしまった。

 

マルコーニ級潜水艦

グリエルモ・マルコーニ

大科学者の名を冠した武勲艦

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潜水艦「グリエルモ・マルコーニ

マルコーニ級潜水艦のネームシップ。就役は1940年2月8日。
マルコーニ級は第二次世界大戦時のイタリア海軍でも最も活躍した潜水艦の一つで、特に「レオナルド・ダ・ヴィンチ」はイタリア潜水艦で最大の撃沈トン数を誇る活躍を見せていることで有名だ。マルチェッロ級潜水艦の改良型で、大西洋での行動を念頭に置いた大型の潜水艦であった。

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撃沈された英駆逐艦エスコート」

「マルコーニ」の最初の任務は地中海で始まった。艦長はジュリオ・キアランベルト少佐で、ナポリを母港とした。まず、7月2日にジブラルタル沖にて英船団を攻撃し、対潜戦に従事する英駆逐艦「ヴォーティガン」を雷撃で大きな損害を与えた。「マルコーニ」は無傷で離脱した。7月11日には再びジブラルタル海峡で英船団を攻撃した。英駆逐艦エスコート」及び「フォレスター」は「マルコーニ」を迎撃するために爆雷を投下したが、「マルコーニ」は軽度の損傷で済み、逆に「マルコーニ」の雷撃によって英駆逐艦エスコート」は撃沈された。

修復後、「マルコーニ」は大西洋での任務に従事することとなった。道中、9月19日には中型商船「アルミランテ・ホセ・デ・カランサ」を撃沈し、ボルドーのベータソム基地に到着した。10月27日から11月28日まで北大西洋での初任務に従事し、11月6日深夜にスコットランド西部沖にて英船団を攻撃したが、駆逐艦「ヘイブロック」の激しい爆雷攻撃によって損傷、離脱した。11月9日には輸送船「ヴィンガランド」を雷撃で撃沈している。その後、1941年1月16日から2月27日までポルトガル沖での作戦行動に従事することになったが、機関の故障が発生し2月10日にベータソム基地に帰還した。

修復後、艦長がパオロ・ポッリーナ中尉に変わった。5月13日から6月20日までジブラルタル海峡西部にて作戦行動を行い、5月30日には雷撃でタンカーを撃沈したが、護衛する英駆逐艦2隻の爆雷攻撃で僅かに損傷した。6月1日にはポルトガル船籍の輸送船を撃沈し、更に立て続けにタンカーを含む輸送船4隻を撃沈している。8月に入ると再びジブラルタルで行動し、8月11日には英国海軍のグリムスビースループ「デトフォード」に雷撃を実行。ポッリーナ艦長はこれを撃沈したと認識したが、実際は撃沈は免れていた。14日にはユーゴスラヴィア船籍の輸送船を撃沈。

しかしその後、ポッリーナ艦長は罹患し、艦長はリヴィオ・ピオマルタ大尉に変わった。10月から任務に参加したが、アゾレス諸島にて消息を絶った。「マルコーニ」は沈没したと考えられるが、未だその沈没原因は不明である。一説ではドイツの潜水艦に敵艦と誤認され撃沈されたともいわれ、もう一説では英駆逐艦爆雷で撃沈したともいわれている。

 

マルコーニ級潜水艦

ルイージ・トレッリ」

伊独日を渡り歩いた波乱の戦歴を歩んだ潜水艦

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潜水艦「ルイージ・トレッリ」

マルコーニ級潜水艦の一隻。就役は1940年5月15日。
ルイージ・トレッリ」はマルチェッロ級潜水艦「コマンダンデ・カッペリーニ」と共にイタリア、ドイツ、日本の枢軸三国の海軍を渡り歩いた波乱万丈の戦歴を歩んだことで知られている潜水艦だ。

「トレッリ」はフランス休戦後、ベータソム基地での配備となった。プリモ・ロンゴバルド艦長のもとで、南大西洋で作戦行動を開始した。1941年1月の間に計四隻の輸送船を立て続けに撃沈する輝かしい戦果を残している。その後、新たなる艦長アントニオ・デ・ジャコモ中尉のもとで再び任務に従事、7月にノルウェー船籍のタンカーを撃沈することに成功したが、9月に英艦隊の攻撃を受けて激しく損傷、基地に帰還して修復した。修復後、1942年に入ると「トレッリ」はカリブ海で行動した。2月19日にはバルバドス沖にて英国の輸送船を、2月25日にはギアナ沖にてパナマ船籍のタンカーを撃沈する事に成功した。その後、ビスケー湾で連合軍の哨戒機の攻撃を受けて損傷、応急修理後ベータソム基地に帰還し、修復を受けた。

1943年に入ると、「トレッリ」は遣日潜水艦作戦に参加することとなった。艦長はエンリコ・グロパーニ艦長に変更され、貴重な資材や対空レーダーを載せて日本に向かった。「トレッリ」には日本陸軍のレーダー専門家、佐竹金次郎技術中佐も乗艦していた。6月にベータソム基地を出発した「トレッリ」は連合軍による哨戒網を突破し、8月26日にスマトラ島のサバン基地に到着した。船員たちはシンガポールで束の間の休息を得たが、帰国準備中にイタリア王国の休戦が発表され、共に遣日潜水艦作戦でやってきていた「カッペリーニ」「ジュリアーニ」と共に「トレッリ」も接収され、船員は拘束された。イタリア社会共和国(RSI政権)成立後、船員たちは社会共和国か王国かの忠誠を迫られ、王国へ忠誠を誓った者は収容所送りとなったが、社会共和国への忠誠を誓った船員は引き続き枢軸側での作戦行動に参加する事が出来た。「トレッリ」はドイツ海軍に接収されて「UIT-25」という新たな艦名が付けられたが、船員は先述した社会共和国側に忠誠を誓ったイタリア人船員とドイツ人の船員の混合となった。

「UIT-25」となった「トレッリ」はアジア・太平洋領域での哨戒任務に従事した。また、神戸とペナン基地の輸送任務にも従事した。1945年5月のドイツ降伏時、「UIT-25」こと「トレッリ」は神戸にて修復中であった(同時にイタリア社会共和国ムッソリーニら政府首脳部がパルチザンに殺害され政権は崩壊した)。1945年7月15日に日本海軍はこれを接収し、新たに「伊号第504潜水艦(伊504)」と命名日本海軍籍として戦うこととなった。「伊504」は連合軍の日本本土上陸に備えて呉鎮守府部隊に配属となったが、もはや終戦は間近であった。「伊504」は日本の終戦まで軍事行動に従事し、日本の降伏が宣言された以降も続けていた。8月30日にはアメリカ軍のB-25爆撃機を対空砲火で撃墜することに成功しており、これはイタリア潜水艦の最期の戦果となったのである。1946年4月16日、「伊504」こと「トレッリ」は、「伊503」こと「カッペリーニ」と共に連合軍によって紀伊水道南方にて海没処分となった。こうして、数奇な運命を辿ったイタリア潜水艦の戦歴は幕を閉じたのであった。

 

アルゴナウタ級潜水艦「セルペンテ」

地中海で活躍した「蛇」

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潜水艦「セルペンテ」

アルゴナウタ級潜水艦の1隻。就役は1932年11月12日。
アルゴナウタ級潜水艦はシレーナ級、アドゥア級、ペルラ級、プラティーノ級と共に「クラッセ600(セッテチェント)」シリーズの潜水艦である。艦名の「セルペンテ」はイタリア語で蛇を意味する。

開戦時はリビアのトブルク軍港に配備されていたが、その後、ターラント軍港を経てシチリアのアウグスタ軍港配備となった。艦長はアントニオ・ドッタ中尉(後に少佐に昇進)。1940年9月19日、トブルク港沖にてピザーニ級潜水艦「マルカントニオ・コロンナ」によって敵潜水艦として誤認され、雷撃されたが回避することに成功し事無きを得ている。10月1日にはクレタ島周辺で英駆逐艦部隊に遭遇し、爆雷によって損傷、母港に戻って修復した。12月22日にはマルタ近郊にて英国の巡洋艦隊を攻撃し、英駆逐艦ハイペリオン」の撃沈に成功したと言われる(一説によると雷撃ではなく機雷で沈んだとも言われる)。1941年には地中海西部で積極的に攻撃任務を行った。

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撃沈された駆逐艦ハイペリオン

1941年9月になると、艦長がレナート・フェッリーニ中尉に変わった。その後、英国海軍によるマルタ補給作戦「ハルバード」妨害に従事し、戦艦「ネルソン」に雷撃を成功させた(他の説によると、潜水艦による雷撃ではなく、空軍の雷撃機によるものともいわれる)。しかし、「ネルソン」は損傷したが、撃沈は免れた。1942年5月以降はポーラ軍港の配備となって訓練任務に休戦まで従事した。休戦後は自沈。

 

スクアーロ級潜水艦「スクアーロ」

襲い来る鋼鉄の「鮫」

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潜水艦「スクアーロ」

スクアーロ級潜水艦のネームシップ。就役は1930年10月11日。
スクアーロ級は優れた性能を持つ中型潜水艦で、この級の改良型としてアドゥア級を始めとする「クラッセ600」シリーズが生み出された。

「スクアーロ」は紅海などの暖かい海域での運用が想定されていたが、第二次世界大戦中は地中海で行動することとなった。「スクアーロ」はサメという意味。開戦後、ジュゼッペ・ミジェカ中尉のもとでエーゲ海諸島のレロ港を母港として行動を開始したが、地中海東部では特に戦果を挙げるようなことはなかった。

その後、艦長がロドヴィーコ・グリオン中尉に変更となると、1941年7月23日にキレナイカ沖にて待ち伏せ攻撃を行い、大型タンカーを雷撃で撃沈することに成功した。翌日には英国海軍の駆逐艦2隻に遭遇、爆雷攻撃を受けたが回避することに成功。9月には英海軍の「ハルバード」作戦妨害に従事。これ以降12月までマルタ周辺にて作戦行動を行うが、英海軍による激しい対潜水艦攻撃によって苦しめられた。

1942年5月からはポーラ軍港にて訓練任務に就くこととなった。連合軍がイタリア半島への侵攻を進めてくると、連合軍艦隊への襲撃作戦「ゼータ」に参加することとなり、イオニア海の沿岸防衛に従事することとなった。しかし、休戦発表によってアウグスタ港にて連合軍に武装解除され、その後は共同交戦海軍に合流、再び訓練任務に使われた。1948年解体。

 

ブリン級潜水艦

エヴァンジェリスタ・トッリチェッリ」

紅海にて英艦隊の包囲を受けた不運なる潜水艦

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潜水艦「エヴァンジェリスタ・トッリチェッリ」

ブリン級潜水艦の一隻。就役は1939年5月7日。
ブリン級潜水艦はアルキメーデ級潜水艦の発展型で、ネームシップの「ベネデット・ブリン」を除き、開戦時は全て紅海のマッサワ基地に配備されていた。

マッサワ軍港の潜水艦隊指揮官ジーノ・スパゴーネ中佐は、「トッリチェッリ」に紅海での英船団攻撃を命じた。これを受けて、サルヴァトーレ・ペロージ少佐が艦長を務める「トッリチェッリ」は紅海での哨戒任務に従事することとなる。6月14日に「トッリチェッリ」は出撃したが、21日に英駆逐艦爆雷攻撃を受け、損傷のため基地に戻る事を決断した。

しかし、その道中で23日早朝にバブ・エル・マンデブ海峡のペリム島沖にて、スループ「ショアハム」を旗艦とする英船団と遭遇した。この英船団は2隻のスループに護衛された船団で、「トッリチェッリ」に爆雷攻撃を実行。「トッリチェッリ」は戦闘を避けようとしたが、英駆逐艦3隻が船団に合流し、「トッリチェッリ」の追撃戦を開始した。2隻のスループと3隻の駆逐艦に包囲された「トッリチェッリ」はもはや為すすべはなかったが、ペロージ艦長は最後まで抵抗して奮戦した。最終的に、英艦隊の攻撃によって「トッリチェッリ」は航行不能となったが、ペロージ艦長は最後の抵抗として鹵獲を防ぐために艦を自沈させた。ペロージ艦長他乗組員らは艦と運命を共にする覚悟でいたが、その意志に反して乗組員らの多くは英艦隊によって救出され、捕虜となった。彼の不屈の闘志は高く評価され、イタリア軍最高名誉である金勲章を受勲している。

 

ブリン級潜水艦「アルキメーデ」

紅海、大西洋、そして飢えと渇きの地獄の日々

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潜水艦「アルキメーデ」

ブリン級潜水艦の一隻。就役は1939年4月18日。
「アルキメーデ」は同型艦の「トッリチェッリ」「ガルヴァーニ」及び「グリエルモッティ」と共にマッサワ軍港に配備されていた。なお、初代潜水艦「アルキメーデ」はスペインに輸出され、「ヘネラル・モーラ」として就役している。

「アルキメーデ」は1940年6月19日にシニョリーニ艦長の元で紅海での初任務に従事したが、塩化エチルガスの漏洩事故が発生し、これによって死者まで出る事態となった。「アルキメーデ」は一時的にアッサブ港に避難し、その後マッサワ軍港で改修工事を受け、塩化エチルの除去作業が行われた。8月31日に改修が完了し、ピオマルタ新艦長の元で任務を再開した。この段階ではイタリア軍は東アフリカ戦線で善戦し、陸軍はソマリランド全領域とケニア及びスーダン国境地帯を占領下に置いていた。

しかし、年が明けて1941年になると、英軍は東アフリカでの反攻作戦を開始し、イタリア軍は苦境に立たされていた。これにより、紅海艦隊司令官のマリオ・ボネッティ提督は、「アルキメーデ」を始めとする紅海艦隊残存艦をフランス及び日本へ退避させることを決定した。「アルキメーデ」はこれにより、フランス・ボルドーのベータソム基地に向かうこととなった。1941年3月3日、艦長サルヴァドーリ中尉の元で、「アルキメーデ」はマッサワ軍港を出発してボルドーに向かった。5月7日に「アルキメーデ」はボルドーに到着、ベータソム基地のイタリア大西洋艦隊に編入された。

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「アルキメーデ」艦長を務めたジャンフランコ・ガッザーナ・プリアロッジャ少佐

大西洋艦隊に編入された「アルキメーデ」の指揮は、潜水艦エースとして名高いジャンフランコ・ガッザーナ・プリアロッジャ少佐が指揮を執った。「アルキメーデ」は大西洋での作戦行動を開始し、1942年5月23日にはブラジル沖にてアメリカ海軍の巡洋艦ミルウォーキー」及び駆逐艦「モフェット」を雷撃、激しい爆発を起こし、損傷を与える事に成功した。6月15日深夜にはブエノスアイレス沖にてパナマ船籍の輸送船を撃沈し、更に翌日にはコロンビア船籍の輸送船も攻撃した。
プリアロッジャ艦長が「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の指揮に移り、艦を離れると新たな艦長グイード・サッカルド大尉が就任した。10月9日、「アルキメーデ」は大型兵員輸送船を撃沈し、更にその翌日にも再び大型兵員輸送船に攻撃した。

11月17日に「アルキメーデ」はベータソム基地に戻ったが、「アルキメーデ」は大型であるため、遣日潜水艦作戦への参加艦として選定された。その後、1943年4月15日に、ドイツ海軍補給艦による合流地点(フェルナンド・デ・ノローニャ諸島)でアメリカ海軍の哨戒機の襲撃を受け、撃沈された。「アルキメーデ」船員の生存者は何とか泳いで島まで辿り着いたが、そこには飢えと渇きの地獄が待っていた。遠くに船が目撃されると船員たちはそれに助けを求めて一人、また一人と消えていき、更に飢えで何人も死んでいった。最後の一人となったジュゼッペ・ロ・コーコ副艦長が撃沈から27日後に漁船に発見され、救出されたが、その他の船員は一人も生き残ってはいかなった。

 

 マルチェッロ級潜水艦

「エンリコ・ダンドロ」

地中海と大西洋の両海域での戦果を挙げた武勲艦

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潜水艦「エンリコ・ダンドロ」

マルチェッロ級潜水艦の一隻。就役は1938年3月25日。

マルチェッロ級は優れた速力と機動性を持つ大型の潜水艦で、第二次世界大戦時においても多くの戦果を挙げている。「エンリコ・ダンドロ」はその一隻で、開戦時はナポリを母港として同型艦の「ロレンツォ・マルチェッロ」「ジャコモ・ナーニ」「アンドレア・プロヴァーナ」と共に第21潜水艦隊を構成した。

艦長リッカルド・ボリス少佐の指揮のもと、「ダンドロ」は任務を開始した。1940年6月13日(開戦から3日後)には「ダンドロ」は軽巡洋艦「ラ・ガニソニエール」を中心とするフランス艦隊(軽巡「ラ・ガニソニエール」「ジャン・ド・ヴィエンヌ」「マルセイエーズ」及び駆逐艦「ブーロネー」「ブレストーズ」で構成)に遭遇、これに雷撃したが回避され攻撃は失敗した。その後、いくつか地中海で任務に従事した後、ボルドーのベータソム基地での配備となり、大西洋に移動した。

1940年8月16日にジブラルタル海峡を通り、その道中で英国の輸送船を撃沈し、更にオランダ船籍のタンカーを雷撃で大破させた。9月10日にベータソム基地に到着。10月12日から、「ダンドロ」は北海方面での任務に出発した。アイルランド沖に手輸送船を発見したが、海が嵐で荒れており、攻撃は失敗した。11月15日にベータソム基地に戻った。年が明けて1941年1月24日、スコットランド沿岸での任務に出発した。1月31日には英国のタンカーに遭遇、これを雷撃で撃沈する事に成功。2月18日まで哨戒任務に従事した後、英海軍による攻撃を避けながら2月23日にベータソム基地に帰還した。4月9日にジブラルタル海峡西部にて戦艦を含む英艦隊を発見したが、これの攻撃には失敗。27日にベータソム基地に戻った。

1941年初夏、「ダンドロ」は地中海戦域に戻ることとなった。6月19日に地中海に戻り、7月7日にナポリに到着した。艦長はヴァルテル・アウコーニ中尉に変更となり、彼の元でチュニジアでの待ち伏せ攻撃を実行したが、戦果は挙げられなかった。その後、英国のマルタ補給作戦「ハルバード」の妨害に従事。11月2日にはアルジェリア沖にてタンカーを雷撃で撃沈し、更に8日にも輸送船を撃沈した。12月に入ると、その大型の船体を利用してリビア・デルナへの輸送任務に従事することとなり、連合軍の哨戒機の攻撃を受けたが無事に成功させた。

その後、艦長はアルベルト・カンパネッラ大尉が就任した。1942年7月21日、「ダンドロ」は英国海軍の航空母艦「イーグル」に雷撃し、これは命中した。しかし、英軍のカウンター爆雷攻撃によって「ダンドロ」は激しく損傷、基地に帰還することとなった。なお、「イーグル」はこの翌月に再び潜水艦の雷撃を受けて撃沈されている。修復後、英国のマルタ補給作戦「ペデスタル」妨害に従事するが、英船団の攻撃の際に爆雷攻撃を受けて再び大きく損傷、修復することとなった。
その後、ジャコモ・スカーノ大尉が新艦長に就任し、11月27日、アルジェリア沖にて哨戒中の英海軍コルベットを攻撃。更に1943年1月1日の新年の朝、再びアルジェリア沖にて英船団に対する攻撃を実行した。4月15日には敵艦から雷撃を受けたが、回避する事に成功、その後艦長は再び変更となり、後任の艦長にはアルド・トゥルチョ中尉が就任した。

新艦長のもとで、「ダンドロ」はシチリア防衛戦に参加することとなった。1943年7月16日、「ダンドロ」は哨戒任務中にシラクーザ沖で2隻の巡洋艦と4隻の駆逐艦から構成された英艦隊を発見。「ダンドロ」は直ちに攻撃を行い、雷撃で軽巡洋艦クレオパトラ」を大破させた。「クレオパトラ」は深刻な被害のため、曳航されてマルタで応急処置をされた後、アメリカのフィラデルフィアで修復された。翌日、「ダンドロ」は連合軍の哨戒機の攻撃を受けて損傷、一時的にクロトーネ港に避難した。

休戦時、「ダンドロ」はターラントの工廠で修復されていた。連合軍によって武装解除された後、共同交戦海軍に合流、バミューダに送られて訓練任務に使われた。

 

マルチェッロ級潜水艦

コマンダンテカッペリーニ

枢軸三カ国で数奇な運命を辿ったもう一つの潜水艦

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ドイツ潜水艦「UIT-24」となった「コマンダンテカッペリーニ

マルチェッロ級潜水艦の一隻。就役は1939年9月23日。
コマンダンテカッペリーニ」は、「ルイージ・トレッリ」と共にイタリア海軍、ドイツ海軍、そして日本海軍と、枢軸三カ国の海軍を渡り歩いた潜水艦として知られている。余談だが、パスタの「カペッリーニ(Capellini)」とは無関係。「カッペリーニ(Cappellini)」はリッサ海戦時に戦死した指揮官で、そもそも発音が違う("Cappellini"も正しく発音するならば「カッペッリーニ」になるが、ここでは慣例的に「カッペリーニ」表記を採用)。日本では発音が分かりやすいからか、パスタの「カペッリーニ」を「カッペリーニ」と表記する例があるが、これは間違いである。

カッペリーニ」は開戦時、ラ・スペツィアを母港として地中海で活動した。艦長はクリスティアーノ・マージ少佐。1940年6月6日、ジブラルタル海峡の通過を試みたが、英国艦隊に迎撃され、雨あられ爆雷攻撃によって損傷、退避する。この結果、スペイン領モロッコのセウタ港にて応急修復を行った。スペインは中立国だったが、当局は「カッペリーニ」の乗員に協力し、最大24時間の滞在が許された。応急修復を完了した「カッペリーニ」はラ・スペツィア軍港に戻り、そこで本格的な修復を受けた。

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カッペリーニ」艦長、サルヴァトーレ・トダーロ大尉(後に少佐)

カッペリーニ」は修復後、艦長がサルヴァトーレ・トダーロ大尉に変更され、ベータソム基地を根拠地とする大西洋潜水艦隊に配備となった。大西洋での行動を開始した「カッペリーニ」は大西洋にて円滑に任務を遂行した。10月15日にはベルギー船籍の輸送船「カバロ」(英国の航空機部品を輸送していた)を撃沈したが、トダーロ艦長は生存者を救出し保護することを決め、中立国ポルトガル支配下アゾレス諸島に彼らを送り届けた。この寛大な行為は輸送船の船員たちには感謝されたが、ドイツ潜水艦隊のカール・デーニッツ提督はこれに難色を示している。
12月22日から「カッペリーニ」は再び任務を開始した。1月5日はカーボベルデ沖にて英国の貨物船「シェイクスピア」を撃沈した。ここでも、トダーロ艦長(少佐に昇進)は生存者を救出し、カーボベルデまで送り届けた(カーボベルデは中立国ポルトガル領)。更に14日にはギニアコナクリ沖で英国の武装商船「ユーミーアス」を撃沈に成功した。しかし、英国の哨戒機の襲撃を受けて損傷、一時的にカナリア諸島にて応急修復をした。スペイン当局は「カッペリーニ」に応急修復のために三日間の滞在を許可し、その後ベータソム基地に帰還した。修復後、スコットランド西部にて英国の輸送船に成功し、6月29日に再びベータソム基地に帰還した。

その後、トダーロ少佐は「デチマ・マス」の所属となり、艦を離れた。7月、新たな艦長にはアルド・レンツィ中尉が就任した。彼の元でフリータウン沖にて「カッペリーニ」は船団襲撃を行い、英輸送船「ミゲル・デ・ラニレガ」を損傷させた。その後、1942年になると艦長はマルコ・レヴェディン中尉に変更となった。5月中に2隻の輸送船をブラジル沖で撃沈する事に成功している。9月に発生したラコニア号事件では、ドイツ潜水艦に撃沈された捕虜輸送船「ラコニア」のイタリア人捕虜を始めとする生存者の救出に従事している。1943年4月まで「カッペリーニ」はブラジル沖での哨戒任務に従事したが、ここでは特に戦果を挙げなかった。

カッペリーニ」はベータソム基地に帰還すると、遣日潜水艦作戦に参加することとなった。長距離輸送用に「カッペリーニ」は改造され、機関銃の砲弾や新型戦車の青写真といった貴重な資材が搭載され、1943年5月11日にベータソム基地を出発した。艦長はヴァルテル・アウコーニ大尉で、彼は元々「ダンドロ」の艦長であった。しかし、日本までの道のりは困難であった。道中は連合軍の厳しい哨戒網に加え、船体破損すら引き起こす程の暴風雨が吹き荒れていた。苦難の道のりを越えた「カッペリーニ」は7月9日にスマトラ島のサバン基地に到着した。7月28日には「ジュリアーニ」、8月26日には「トレッリ」が到着している。

搭乗員らはシンガポールで束の間の休息を過ごしたが、そこで思いがけないイタリア休戦の知らせが届いた。そこで、「カッペリーニ」はドイツ海軍に拿捕され、「UIT-24」という新たな艦名が付けられた。船員の多くはRSI政権への忠誠を誓ったため、そのままドイツ海軍籍の「UIT-24」で任務を続けた。ボルドーの第12潜水艦隊扱いとなった「UIT-24」はボルドーに戻ろうとしたが、南大西洋に達したところで機関の故障が発生し、ペナン島に帰還し、修理のために神戸に向かうことなり、1944年6月6日、「UIT-24」は神戸にてドッグ入りとなった。

1945年5月にドイツが降伏すると、「UIT-24」は日本海軍によって接収され、「伊号第503潜水艦」と名付けられ、「伊504」こと「トレッリ」と共に呉鎮守府部隊に配属となり、連合軍の本土上陸に備えた。その後、戦い続けた「伊503」は1946年4月16日、米海軍によって紀伊水道南方にて海没処分となり、その戦歴に幕を閉じたのであった。

 

今回はこの辺にしておこう。いやぁ、それにしても、イタリア潜水艦の世界は本当に奥が深い。調べていてとても楽しい!今後とも気になった潜水艦があったらどしどし紹介しようと思う。ではまた。