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「潜水艦大国」イタリアの潜水艦隊の活躍・第三部 ―海の狼たちの奮戦記―

またまたイタリア潜水艦についての記事を書こう。潜水艦はいいぞ(洗脳済み)

今回は機雷敷設潜水艦や輸送潜水艦といったマイナーな潜水艦も取り扱ってみた。今回紹介するのは以下の通り。

シレーナ級潜水艦「スメラルド」
シレーナ級潜水艦「ナイアデ」
マメーリ級潜水艦「ゴッフレード・マメーリ」
ブラガディン級潜水艦「マルカントニオ・ブラガディン」
ミッカ級潜水艦「ピエトロ・ミッカ」
フォカ級潜水艦「ゾエア」
セッテンブリーニ級潜水艦「ルイージ・セッテンブリーニ」
トリトーネ級潜水艦「フルット」
トリトーネ級潜水艦「ムレーナ」
トリトーネ級潜水艦「バリオ」
アルキメーデ級潜水艦「初代アルキメーデ(ヘネラル・モーラ)」
アルキメーデ級潜水艦「初代トッリチェッリ(ヘネラル・サンフルホ)」
アルゴ級潜水艦「アルゴ」
R級潜水艦「ローモロ」
R級潜水艦「レーモ」
R級潜水艦「R12」

 

シレーナ級潜水艦「スメラルド」

第二次世界大戦において初めて魚雷を発射した伊潜水艦

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潜水艦「スメラルド」

シレーナ級潜水艦の一隻。就役は1934年11月29日。

シレーナ級はアドゥア級、ペルラ級、プラティーノ級、アルゴナウタ級と共に「クラッセ600」シリーズの潜水艦である。潜水艦「スメラルド」は第二次世界大戦において初めて魚雷を発射したイタリア潜水艦として知られている。1940年6月11日に、潜水艦「スメラルド」はアレクサンドリア西部沖にて敵輸送船団を発見、これを攻撃するために魚雷を発射した。これは、イタリアの参戦(6月10日)翌日という速さであった。しかし、海は荒れていたため、目標に当たることはなかった。艦長はカルロ・トダーロ中尉だが、有名な潜水艦エースであるサルヴァトーレ・トダーロ艦長の血縁とは関係がない(ちなみに、サルヴァトーレ・トダーロ艦長の弟もカルロという名である)。

なお、「スメラルド」はスペイン内戦にも参加しているが、大した戦果は挙げていない。7月8日の夜間には再び英船団を発見、これを攻撃したが反撃の爆雷攻撃によって損傷、トブルク軍港に帰還した。しかし、トブルク軍港の設備では限定的な修復しか出来ず、シチリア・アウグスタ軍港に移動してそこで本格的な修復を受けた。

修復後、秋から再び行動を開始したが、大した戦果は挙げられなかった。1941年9月15日に哨戒任務に出発したきり、消息不明となった。触雷で撃沈されたと考えられる。

 

シレーナ級潜水艦「ナイアデ」

短き命と地中海での活躍

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潜水艦「ナイアデ」

シレーナ級潜水艦の一隻。就役は1933年11月16日。

「ナイアデ」は第二次世界大戦における活動期間は短いが、地中海において戦果を挙げた潜水艦である。スペイン内戦にも参加した。艦長はルイージ・バローニ中尉。1940年6月12日、英船団に遭遇したため、これを攻撃したが、敵側が有利であったため撤退した。同日夜、アレクサンドリア沖にてノルウェー船籍の大型タンカー「オルカンゲル」を発見し、これを魚雷で撃沈することに成功した。任務を終えた「ナイアデ」はトブルク軍港に帰還した。

その後、艦長はピエトロ・ノタルバルトロ中尉に変更となった。同年12月、「ナイアデ」はエジプト侵攻中の陸軍の支援のために北アフリカ沿岸で活動した。12月14日夜間、シディ・バッラーニ沖にて、英駆逐艦「へレワード」及び「ハイペリオン」と遭遇した。二隻は激しい爆雷攻撃を行い、「ナイアデ」は大破した。最早抵抗は不可能と判断され、「ナイアデ」は鹵獲を防ぐために自沈処理されたのであった。

 

マメーリ級潜水艦

「ゴッフレード・マメーリ」

偉大なる作詞家の名を冠した旧式潜水艦

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潜水艦「ゴッフレード・マメーリ」

マメーリ級潜水艦のネームシップ。就役は1929年1月20日

艦名の「ゴッフレード・マメーリ」はイタリアの作詞家で、現在のイタリア共和国国歌である『マメーリの賛歌(インノ・ディ・マメーリ)』もしくは『イタリアの兄弟(フラテッリ・ディターリア)』の作詞者として知られる。日本のカラオケでも歌えるあの曲だ。ちなみに、王国時代の国家は違う曲(『王室行進曲(マルチャ・レアーレ)』)である。なお、計画名は「マメーリ」ではなく、「マザニエッロ(Masaniello)」で、こちらは17世紀にナポリのスペイン当局の重税に対して反乱を起こした漁師の名前である。1927年に艦名が「マメーリ」に変更となった。1926年12月に進水したが、試験航行中の1928年9月に漁船との衝突事故を起こした。また、翌年には潜航中に一人の船員が命を落とす痛ましい事故が起こっており、何かと運の悪い潜水艦であった。

30年代はイタリア領エーゲ海諸島にて演習任務に従事していた。第二次世界大戦開戦時には既に旧式艦となっていたが、メッシーナ基地を母港に戦闘任務に参加した。艦長はニコラ・マイオナーラ大尉。1940年8月2日早朝、マルタ沖にてギリシャ武装商船「ラウラ」と交戦し、魚雷を発射したが失敗。その後、潜水艦に搭載された主砲(アンサルド社製35口径102mm砲)で攻撃し、撃沈に成功した。その後は英国の船団襲撃任務に参加したが、目立った戦果は挙げられず、旧式艦故に機関の不調によってポーラ軍港にて訓練任務に従事することとなった。

1942年には老朽化した機関の改修が行われ、再び戦闘任務に復帰した。その後は敵潜水艦の哨戒任務に従事したが、敵と遭遇することはなかった。1943年の休戦時、「マメーリ」は任務中であったため、そのまま連合軍に登降した。その後は共同交戦海軍に合流し、他の旧式潜水艦と共にバミューダにて訓練任務に従事。1948年解体。

 

ブラガディン級潜水艦

「マルカントニオ・ブラガディン」

機雷敷設任務で活躍できなかった機雷敷設潜水艦

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潜水艦「マルカントニオ・ブラガディン」

ブラガディン級潜水艦のネームシップ。就役は1931年11月16日。

ブラガディン級は機雷敷設任務を想定して造られた潜水艦である。艦名の「マルカントニオ・ブラガディン」は、オスマン帝国との戦争で活躍したヴェネツィア共和国軍の将軍の名前であった。1935年、訓練中にマメーリ級潜水艦「ティート・スペーリ」と衝突事故を起こしてしまった。二隻は激しく衝突したが、不幸中の幸いで、犠牲者も出さず、更に船体の損傷は軽微であった。

第二次世界大戦開戦時、「ブラガディン」はメッシーナを母港とした。バンディーノ・バンディーニ艦長のもとで、1940年6月24日にナポリからトブルクへ航空機部品の輸送任務に従事した。無事にトブルクに荷物を輸送することが出来たが、「ブラガディン」がトブルク軍港に滞在中の6月28日、リビア総督であったイタロ・バルボ空軍元帥が装甲巡洋艦「サン・ジョルジョ」の対空砲火によって誤撃墜されるという痛ましい事故が発生している。なお、これにはムッソリーニによる暗殺陰謀説も存在する。「ブラガディン」はターラント軍港への帰還時に英軍機によって3度の爆雷攻撃を受けて損傷、4人の船員が命を失った。

修復後、マリオ・ヴァンヌテッリ新艦長の元で10月に任務に復帰した。「ブラガディン」はエーゲ海にて本来の用途である機雷敷設任務に従事した。興味深いことに「ブラガディン」は機雷敷設に特化した潜水艦として設計されたが、第二次世界大戦時に「ブラガディン」が機雷敷設任務を行ったのはこの時だけだった。ピュロス沖に24の機雷を設置している。1940年12月から翌年の10月までは北部アドリア海での哨戒任務に従事した。その後、再びターラント軍港に配備となり、北アフリカへの輸送任務に従事。新艦長ルイージアンドレオッティ中尉のもとで、12月17日にターラント軍港からベンガジまで物資輸送を行った。その後も度々敵の襲撃を受けながらも、休戦直前まで北アフリカでの輸送任務を行っている。ランペドゥーザ沖では英潜水艦の魚雷攻撃を受けたが、幸運にも全て避けることに成功した。

1943年9月7日、サレルノの連合軍上陸艦隊を迎撃するため、イオニア海での待ち伏せ攻撃を行った。しかし、翌日に休戦が発表されると、「ブラガディン」はアウグスタ港にて連合軍による武装解除を受けた。その後、共同交戦海軍に所属し、ハイファ港にて英海軍の訓練任務に使われている。1948年に解体。

 

ミッカ級潜水艦「ピエトロ・ミッカ」

機雷敷設任務を想定して造られた潜水艦

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潜水艦「ピエトロ・ミッカ」

同型艦はない。就役は1935年10月1日。

「ミッカ」は機雷敷設任務を想定して造られた潜水艦で、同じく機雷敷設任務を想定して造られたが失敗に終わったブラガディン級の反省を生かして造られた。設計者は優れた技術将校として知られるヴィルジニオ・カヴァッリーニ技術中佐。

「ミッカ」は多くの機雷敷設任務に従事した。第二次世界大戦にイタリアが参戦した後、1940年6月12日夜間、アレクサンドリア沖に40個の機雷を敷設している。二か月後の8月12日夜間、「ミッカ」は再びアレクサンドリア北西沖にて40個の機雷を設置した。この機雷原の設置により、英艦隊は被害を受けている。その機雷敷設能力によって、西アフリカ・フリータウン沖での機雷原設置任務が計画されたが、結局行われなかった。1941年3月に改修工事を受けたが、その結果、機雷敷設任務ではなく、ブラガディン級と同様に輸送任務に従事することとなった。それ以降、リビアエーゲ海諸島での輸送任務に従事した他、地中海での船団攻撃任務にも従事した。1943年7月29日、サレント半島沖にて英潜水艦「トルーパー」の攻撃で撃沈。

 

フォカ級潜水艦「ゾエア」

イタリア最後の機雷敷設潜水艦

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潜水艦「ゾエア」

フォカ級潜水艦の一隻。就役は1938年2月12日。

フォカ級潜水艦はヴィルジニオ・カヴァッリーニ技術中佐によって設計された機雷敷設潜水艦である。ブラガディン級と「ミッカ」という機雷敷設潜水艦を経て造られたイタリア海軍最後の機雷敷設潜水艦で、小型で安価な優れた潜水艦だった。「ミッカ」より小型であるが、多くの機雷を搭載することが出来た。また、その機雷を搭載する大きなスペースのため、輸送任務にも適しており、多くの荷物を運ぶことが出来た。

「ゾエア」は平時では訓練任務に使われていた。開戦時、「ゾエア」はターラントを母港とする第49潜水艦戦隊に所属していた。まず、「ゾエア」が行った任務は輸送任務だった。1940年6月18日、「ゾエア」はナポリから弾薬をトブルクまで運び、24日にターラントに戻った。6月29日、アレクサンドリア沖にて機雷敷設任務に従事した。しかし、設置中に2つの機雷が誤作動によって爆発してしまった。敷設後、クレタ島沖にて敵軍の攻撃を受けて損傷、帰還して修復した。10月10日には再び機雷敷設任務に従事し、ハイファ沖にて機雷原を敷設した。なお、同様にハイファ沖で機雷敷設任務に従事していた姉妹艦「フォカ」は任務中に撃沈されている。

1941年春になると、「ゾエア」はその大きなスペースのため、北アフリカエーゲ海諸島における輸送任務に従事することとなった。ドイツアフリカ軍団のためにバルディアにガソリンを輸送した際は、ロンメル将軍が「ゾエア」の乗組員の元に訪れ、感謝している。夏には操作ミスによってターラント湾内で沈没事故を起こすが、直ちに浮揚・修復され、任務に復帰した。1942年6月にデルナへの輸送任務を行ったが、帰路で英空軍の爆撃機によって攻撃を受けて損傷した。修復後、連合軍のサレルノ上陸に備えてイオニア海での待ち伏せ攻撃に従事することとなったが、休戦によってマルタで連合軍によって武装解除された。1948年解体。

 

セッテンブリーニ級潜水艦

ルイージ・セッテンブリーニ」

アルゼンチン海軍でも使われた優れた設計

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潜水艦「ルイージ・セッテンブリーニ」

セッテンブリーニ級潜水艦のネームシップ。就役は1932年1月25日。

セッテンブリーニ級潜水艦は国際的な名声を得たヴィルジニオ・カヴァッリーニ技術中佐によって設計された潜水艦で、同設計の3隻は「タランティーノ級」としてアルゼンチン海軍に輸出された。この3隻は戦後しばらくまでアルゼンチン海軍で現役であった。就役後、「セッテンブリーニ」は地中海からスエズ運河を抜けてアッサブまで向かう遠洋航海を行った。この遠洋航海は実に満足する結果であり、同潜水艦の優れた設計を証明するに至った。

スペイン内戦にも参加し、1937年9月3日にはソ連の輸送船「ブラゴエフ」を撃沈し、続けてソ連の石炭輸送船の撃沈にも成功している。第二次世界大戦時は既に旧式艦であったが、ターラント軍港守備隊として配備された。1940年8月、哨戒中に敵駆逐艦を発見するが攻撃には失敗した。9月にはメッシーナ軍港に配備され、イオニア海エーゲ海にて活動した。1941年4月23日には英海軍の巡洋艦に対して雷撃を行った。7月10日夜間にはリビア沖にて駆潜艇2隻を発見し、これを攻撃。更に翌日の夜にも駆逐艦2隻に攻撃を実行した。15日には再び駆潜艇を攻撃して損傷させる事に成功し、16日にはタンカーを攻撃したが、魚雷は当たらず船体の下を通り過ぎた。

その後、新艦長マリオ・レジオ大尉のもとで、1941年11月8日夜間に軽巡洋艦「ペネロペ」「オーロラ」などで構成される英船団攻撃を実行したが、失敗。1942年10月にはポーラ軍港配備となって訓練任務に従事したが、翌月末にはリビアへの輸送任務に従事。任務後、再び訓練任務に従事した。1943年になると、連合軍のシチリア上陸に対抗してシチリア及びカラーブリア沿岸での防衛任務に就いた。休戦時はイオニア海での任務中であり、その後アウグスタを経由してマルタで連合軍側の武装解除を受けた。その後、共同交戦海軍に合流し、バミューダにて訓練任務に従事することとなったが、演習中に米海軍のバックレイ級護衛駆逐艦「フラメント」と衝突事故を起こし、撃沈された。生存者は僅か8人(14人とも)であった。

 

トリトーネ級潜水艦「フルット」

海の藻屑と消えた最新鋭のイタリア潜水艦

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潜水艦「フルット」

トリトーネ級潜水艦の一隻。就役は1943年3月20日

トリトーネ級潜水艦(フルット級潜水艦とも言われる)は第二次世界大戦時において、R級やポケット潜水艦を除き、最後に造られたイタリア潜水艦である。地中海における潜水艦戦力を補填するために造られたが、イタリアの工業生産力の低さの象徴とも言えるような存在であり、設計段階よりも実際はスペックが低かった。「フルット」のカタログスペックと実際のスペックの差は大きく、かなり深刻であった。航行距離の短さ、燃料消費の多さ、潜航中の速度の遅さなどが試験航行中に明らかとなっていった。

このような重大な欠陥を抱えながらも、「フルット」は就役した。艦長フランチェスコ・カプリーレ中尉のもとで、1943年7月10日に最初の任務のためにコルシカ・ボニファチオ港を出発した。しかし、「フルット」が再び帰還する事は無かった。メッシーナ海峡を越えたところで、「フルット」は音信不通となったのである。戦後に連合軍側から明らかにされた情報によると、7月11日にカターニア沖にて英海軍の魚雷艇三隻の攻撃を受けて沈没されていたことが判明した。生存者はいなかった。

 

トリトーネ級潜水艦「ムレーナ」

最後に就役した第二次世界大戦のイタリア潜水艦

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潜水艦「ムレーナ」

トリトーネ級潜水艦の一隻。就役は1943年8月25日。

第二次世界大戦時のイタリア潜水艦では最も遅い時期に就役した潜水艦である。この後すぐにイタリア王国は休戦するからだ。就役したの8月末。休戦は9月8日なので、活動期間はわずか1週間と少しに過ぎない。艦長に就任したのは潜水艦「ベネデット・ブリン」や「レオナルド・ダ・ヴィンチ」を指揮して多くの戦果を挙げた潜水艦エース、ルイージ・ロンガネージ・カッターニ大尉だった。この時、カッターニ大尉はボルゲーゼ中佐率いる「デチマ・マス」に所属していた。

休戦時、カッターニ艦長率いる「ムレーナ」はジブラルタル攻撃作戦の準備を終え、任務に向かうために航行中であった。休戦発表を受け、カッターニ艦長はド・クールタン参謀長が誤った命令を信じている可能性を考え、ひとまずラ・スペツィア軍港に向かって、ボルゲーゼ司令に会った。艦長が艦を離れている間、他の船員が「ムレーナ」を自沈させた。ボルゲーゼ司令は休戦を不服として、戦闘継続を主張したが、カッターニ大尉は国王への忠誠からこれに従わなかった。「ムレーナ」はドイツ海軍によって浮揚・修復され、新たに「U.I.T.16」という名前が付けられた。その後、修復のためにラ・スペツィアからジェノヴァに移送されたが、修復が完了する事は無かった。1944年9月4日の米軍によるジェノヴァ空襲によって、姉妹艦である「スパリーデ(U.I.T.15)」と「グロンゴ(U.I.T.20)」と共に撃沈されたからである。

 

トリトーネ級潜水艦「バリオ」

ドイツ占領下で完成した潜水艦

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潜水艦「ピエトロ・カルヴィ(旧バリオ)」

トリトーネ級潜水艦の一隻。進水は1944年1月23日。

「バリオ」はトリトーネ級潜水艦の第二系統グループの一隻で、休戦時はまだ建造中であった。ドイツ軍が接収した後、ドイツ海軍の潜水艦として「U.I.T.7」と改名され、1944年1月23日に竣工した。しかし、ドイツ海軍の元で戦闘任務を行うことはなく、その後連合軍の空襲でモンファルコーネ工廠が被害を受け、放棄された。

モンファルコーネ解放後、「バリオ」は浮揚され、1952年までターラントのアルセナーレに移された。戦後に「バリオ」はイタリア海軍での再就役が決定し、ターラントでの改修工事を行った。その結果、1959年に再進水し、1961年に再就役となった。艦名は「バリオ」から「ピエトロ・カルヴィ」に変更となり、1971年の除籍まで活動した。

 

アルキメーデ級潜水艦

「初代アルキメーデ(ヘネラル・モーラ)」

「初代トッリチェッリ(へネラル・サンフルホ)」

スペイン海軍で活躍した二隻の潜水艦

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潜水艦「アルキメーデ(後のヘネラル・モーラ)」

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潜水艦「ヘネラル・サンフルホ(旧初代トッリチェッリ)」

「ヘネラル・モーラ」と「ヘネラル・サンフルホ」はスペイン海軍で活躍した二隻の潜水艦で、元はイタリア海軍のアルキメーデ級潜水艦「初代アルキメーデ」と「初代トッリチェッリ」だった。艦名はブリン級に受け継がれている(両方共第二部にて戦歴を紹介している)。

「初代アルキメーデ」は就役は1934年8月1日。

就役後、「初代アルキメーデ」はスペイン内戦に参加したが、そのまま1937年のうちにスペイン国粋派海軍に売却され、「ヘネラル・モーラ」と改称された。艦名は「モーラ将軍」を意味するが、これはスペイン内戦における国粋派の指導者の一人、エミリオ・モーラ将軍の名に由来する。「ヘネラル・モーラ」となった「初代アルキメーデ」はスペインの旗の下で活躍した。スペイン内戦中には数々の船舶を撃沈する活躍を見せた。1937年5月に砲艦「グラナダ」と武装商船「ラピド」、6月にはタンカー「カンペロ」、7月には輸送船「カボ・デ・パロス」、更に翌年1月にはオランダ船籍の輸送船「ハンナ」も撃沈している。内戦後も長くスペイン海軍で現役で使われ続け、1959年に除籍。

「初代トッリチェッリ」は就役は1934年12月10日。

「初代トッリチェッリ」は「初代アルキメーデ」と同様にスペイン内戦に参加した。その際、1936年11月21日深夜にカルタヘナ港を襲撃し、共和国海軍の軽巡洋艦「ミゲル・デ・セルバンテス」を大破させる戦果を挙げた。また、翌年2月にはバルチェロナへの夜間砲撃で港湾設備に損害を与えた。1937年4月、「初代アルキメーデ」と同様にスペイン国粋派海軍に売却となり、「ヘネラル・サンフルホ」という新たな名前が付けられた。艦名はスペイン内戦の国粋派指導者の一人、ホセ・サンフルホ将軍に由来する。余談であるが、前述のモーラ将軍もサンフルホ将軍もこの段階で事故死しており、そのためスペイン国粋派のリーダーが事実上フランコ将軍のみとなっていた。「ヘネラル・サンフルホ」はスペインの旗のもとで戦い、5月には兵員輸送船「シウダード・デ・バルセロナ」を撃沈。8月には輸送船「シウダード・デ・レウス」を砲撃したが、フランス領海に逃げたため追撃には失敗。更に翌年1月には英輸送船「エンデュミオン」を撃沈した。内戦後もスペイン海軍で使われた。第二次世界大戦時の1943年2月7日、カルタヘナ沖にて墜落したドイツ航空機の乗組員の救助を行っていたが、英潜水艦「トーベイ」にイタリア潜水艦と誤認され攻撃を受けてしまった。このため、これ以降中立国船籍だと認識しやすくするために「ヘネラル・サンフルホ」は独自の塗装を行った。その後も長い間現役であり続け、1959年に除籍された。

 

アルゴ級潜水艦「アルゴ」

トリトーネ級の原型となった優秀な中型潜水艦

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潜水艦「アルゴ」

アルゴ級潜水艦のネームシップ。就役は1937年8月31日。

元々はポルトガル海軍が発注したものであったが、イタリア海軍で就役した。優れた性能を持つ中型潜水艦で、トリトーネ級潜水艦の原型となった。第二次世界大戦開戦後、「アルゴ」は西地中海でいくつかの任務に従事した後、ベータソム基地配備となり、大西洋で行動を開始した。1940年12月1日、アイルランド沖にてカナダ海軍の駆逐艦「サグネイ」を雷撃。「サグネイ」はこれによって21人の死者を出す大きな被害を受け、翌年5月までバロー工廠にて修復工事を受けた。12月5日、英国の輸送船「シルヴァー」を大西洋で撃沈した。その後も大西洋で任務を遂行したが、度々敵の激しい追撃を受けて損傷し、地中海に戻ることとなった。1942年11月12日、アルジェリア・ベジャイア沖にて英国輸送船団を発見。これを攻撃し、大型輸送船「アワテア」と対空艦「ティンワルド」の二隻を立て続けに撃沈する事に成功した。1943年6月19日早朝、英国のタンカーに雷撃したが、撃沈には至らなかった。連合軍がシチリア上陸作戦を開始すると、防衛戦に参加したが、英軽巡艦隊の爆雷攻撃を受けて大きく損傷し、モンファルコーネ工廠にて修復を受けた。休戦時は修復中であったが、船員の手によって自沈された。その後、ドイツ軍が浮揚・修復して艀として使った後、戦後に解体。

 

R級潜水艦「ローモロ」「レーモ」「R12」

日本を目指した長距離輸送用潜水艦

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潜水艦「ローモロ」

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潜水艦「レーモ」

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潜水艦「R12」

R級潜水艦はイタリア-日本間の長距離輸送用に造られた潜水艦である。第二次世界大戦終盤、もはやイタリア・ドイツのみで戦争を短期間に終わらせる見込みは既に失われており、その状況で資源を供給源となったのが日本であった。そのため、イタリア-日本間の輸送は重要であった。東部戦線開始後、ソ連を通じての輸送は不可能となっており、イタリア空軍はサヴォイアマルケッティSM.75を長距離飛行型に改造してローマ-東京飛行を行ったが、イタリア海軍は潜水艦を用いての輸送を考えた。

そこで造られたのがR級潜水艦である。イタリア海軍の潜水艦はアンミラーリ級を除いて長距離航行には適しておらず、またスペースが小さく輸送任務には適していなかった。この問題を解決するために、ヴィルジニオ・カヴァッリーニ技術中佐によって設計されたR級潜水艦は輸送物資を詰め込めるスペースを確保し、更に長距離航行に適した優れた設計の潜水艦であった。その代償として武装は軽微であった。イタリア海軍では最大の輸送潜水艦であったが、R級は竣工時期の遅さゆえに全く活躍も出来なかった。

ネームシップである「ローモロ」は、就役は1943年6月19日。「ローモロ」とはローマ建国の父であり、初代ローマ王であるロームルスのイタリア語読みである。輸送潜水艦として造られた「ローモロ」はひとまず、地中海での輸送任務に従事することとなった。こうした急務のため、他の攻撃任務用の潜水艦とは異なり、乗組員の訓練期間は非常に短く、練度の面でも心配があった。「ローモロ」の任務はサルデーニャの鉱山から鉱物をイタリア本土に輸送する役割が与えられた。既に燃料の枯渇により主力艦隊の出撃は不可能となっており、地中海の制海権は完全に連合軍側にあったため、海上輸送は非常に困難となっていたからである。しかし、連合軍側の対潜装備は日進月歩であり、枢軸国側の潜水艦も思うように行動できる状態ではなかった。1943年7月15日、「ローモロ」はターラントを出発し、初めての任務に出発した。だが、「ローモロ」が帰還することはなかった。7月18日、英軍の対潜哨戒機に捕捉され、「ローモロ」は撃沈されたのであった。生存者はいなかった。

「レーモ」は就役は「ローモロ」と同じ1943年6月19日。「レーモ」はロームルスの弟レムスのイタリア語読み。兄ロームルスとの決闘の末に死亡した。「レーモ」は「ローモロ」同様に資源輸送の任務に従事することとなった。しかし、「ローモロ」同様に乗組員の訓練期間は非常に短かった。1943年7月15日、「レーモ」は「ローモロ」と共にターラントを出発した。連合軍側はこの二つの潜水艦が「秘密兵器」の輸送に関わっているという情報を握っていたが、イタリア側の資料にそのような記述はない。同日、カラーブリア沿岸にて浮上航行中の「レーモ」は英潜水艦「ユナイテッド」の魚雷攻撃を受けた。「レーモ」はたちまち撃沈され、乗組員は艦橋にいて海上に投げ出された2人を除き、全員が戦死した。

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現在もガエータ港に残るR級潜水艦「R12」の艦橋部分

「R12」は、R級最後の潜水艦。起工が1943年5月13日と遅く、休戦時もラ・スペツィアで建造中であった。ドイツに接収された後、「U.I.T.3」という名称がつけられ、ドイツ占領下で1944年9月29日に竣工した。ドイツは同盟国である日本との間を航行できる長距離大型輸送潜水艦を欲しがってはいたが、「R12」は任務に従事する事はなかった。連合軍の対潜能力の前では、地中海を脱出することすら困難だったのである。その後、1945年4月にはドイツ人の手によってラ・スペツィア軍港で自沈された。

戦後、イタリア海軍によって浮揚され、修復・改修されて新たに「GR 523」という艦名が付けられた。改修によって更に軽量化されていた。まずはラ・スペツィア軍港で配備され、その後はヴェネツィア軍港、最後にアンコーナ港での配備となった。第二次世界大戦時の潜水艦であったことから、戦後は映画の撮影にも使われている。映画撮影時には撮影用に改造され、輸送潜水艦故に撤去されていた主砲をダミーで設置させるなどされていた。1978年に除籍となったが、アブルッツォ州のオルトーナにて艦橋が記念艦として保存された。2011年には、ローマでの共和国建国記念日のパレードに牽引されて参加した。2016年には艦橋はガエータのガッリナーロ造船所に移動され、そこで新たに記念艦として保存されている。