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イタリア社会共和国空軍(ANR)の編制 ―祖国の空を守れ!大空の勇者たち―

今までRSI軍については、陸軍と海軍は記事を書いていたが、空軍についてはまだだったので紹介しよう。RSI空軍については今まで全くの無知といっても過言では無かったが、調べていくとそれが中々結構奥が深く面白い。

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RSI空軍仕様のフィアット G.55 "チェンタウロ"戦闘機(ブラッチャーノの空軍歴史博物館にて)。国籍マークが休戦前とは異なり、ファスケスが3本ではなく2本で、円形から四角に変わった。

休戦後、RSI政権が誕生すると、陸軍や海軍同様に再建が進められ、RSI空軍参謀長となったエルネスト・ボット空軍大佐らが、ドイツ空軍のヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン元帥の許可を得て再建されることとなった。RSI支配下であった北部イタリアは航空機の生産基地を含んでいたため、休戦後も引き続き航空機の生産が行われた。逆にドイツ占領下になったことで、工業生産力も上昇したとか。

こうして再建されることとなったRSI空軍は徐々に拡大し、三つの戦闘航空群、補助飛行隊(後に第一戦闘航空群に統合)、雷撃集団、更に輸送部隊、空挺部隊、対空部隊などを擁した。順を追って説明していこう。

RSI空軍の首脳部

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ANRの四人の空軍参謀長。左からエルネスト・ボット空軍大佐(1943-44)、アッリーゴ・テッサーリ空軍准将(1944)、マンリオ・モルフェーゼ空軍大佐(1944)、ルッジェーロ・ボノーミ空軍准将(1944-45)。

その前に、RSI空軍の首脳部について軽く触れておこう。RSI空軍最初の空軍参謀長となったエルネスト・ボット空軍大佐は、スペイン内戦とWW2での空軍エースの一人に数えられるヴェテランパイロット。スペイン内戦での負傷により、右足は義足となっていた。彼はムッソリーニ統帥やグラツィアーニ国防相の強力なバックアップを得て、空軍再建に尽力した。そんな彼を支えたのが、空軍副参謀長のジュゼッペ・バイロン空軍中佐であった。ボット大佐の誘いによってRSI空軍に参加したバイロン中佐は、バルボ元帥の大西洋横断飛行やスペイン内戦にも参加した腕利きのパイロット。第二次世界大戦ではプンタ・スティーロ沖海戦での英艦隊追撃や、バトル・オブ・ブリテンギリシャ戦線、北アフリカ戦線など各地で戦っていた。更に、戦闘機隊総監にはティート・ファルコーニ空軍大佐が任命された。彼は航空レースでも活躍した経験を持つフランス・ボーソレイユ出身ヴェテランパイロットで、当時の世界新記録も打ち上げている。エチオピア戦争、スペイン内戦にも参加し、第二次世界大戦ではフランス戦、マルタ包囲戦、北アフリカ戦線と各地で戦った。また、第一次世界大戦時のエースパイロットであるマルツィアーレ・チェルッティ空軍准将のような重鎮も参加していた。

このように、RSI空軍には名だたるヴェテランパイロットが多く揃っていた。しかし、彼らはドイツ空軍によるRSI空軍吸収の企てや、ファリナッチら党内過激派との対立によって苦しい思いをすることとなる。その結果、空軍参謀長が相次いで立て続けに辞任を余儀なくされた。ボット大佐の後任にはアッリーゴ・テッサーリ空軍准将、その後はマンリオ・モルフェーゼ空軍大佐が空軍参謀長に就任したが、ドイツ空軍との方針対立によっていずれも短期間で辞任した。両方共、第一次世界大戦やスペイン内戦に参加した経験豊富なヴェテランパイロットである。また、ボット大佐辞任後、空軍副参謀長であるバイロン中佐も辞任し、彼の後任としてレーモ・カドリンゲル空軍大佐が空軍副参謀長に就任した。彼はバルボ元帥の大西洋横断飛行にも参加した爆撃機パイロットであった。その後、ルッジェーロ・ボノーミ空軍准将が新参謀長に任命されると、ようやくRSI空軍は安定することになる。理由として、ドイツ空軍がドイツ本土防衛のために本国に引き上げたため、ANR併合の危険性は解消されたからであった。同時に、これはRSI空軍による防空任務が急務となっていることを意味していた。

RSI空軍の戦闘機部隊

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三つの戦闘航空群を率いた司令官たち。左から第一戦闘航空群「アッソ・ディ・バストーニ」司令官アドリアーノヴィスコンティ空軍少佐、第二戦闘航空群「ジジ・トレ・オセイ」司令官カルロ・ミアーニ空軍少佐、第三戦闘航空群「フランチェスコ・バラッカ」司令官フェルナンド・マルヴェッツィ空軍大尉。いずれも名だたるエースパイロットである。

さて、ここでRSI空軍を構成する部隊の説明に戻るとしよう。まずは、三つの戦闘航空群と補助飛行隊からだ。第一戦闘航空群「アッソ・ディ・バストーニ」、第二戦闘航空群「ジジ・トレ・オセイ」、第三戦闘航空群「フランチェスコ・バラッカ」、更に補助飛行隊「モンテフスコ・ボネ」が存在したが、これは後に第一戦闘航空群に吸収された。

第一戦闘航空群「アッソ・ディ・バストーニ(棍棒のエース)」を率いたアドリアーノヴィスコンティ空軍少佐は、第二次世界大戦のイタリア空軍を代表するエースパイロットである。イタリア空軍トップ・エースとも言われ、パイロットとしてだけでなく、カリスマ的な指揮官としても優秀な人物で、名門貴族ヴィスコンティ家の出身だった。この戦闘航空群には、ルイージ・ゴリーニ空軍准尉カルロ・マニャーギ空軍軍曹、更にイタリアでは珍しい夜間戦闘機パイロットとして知られるルイージ・トルキオ空軍中尉といったエースが存在した。

第二戦闘航空群「ジジ・トレ・オセイ」を率いたカルロ・ミアーニ空軍少佐は、スペイン内戦に参加した腕利きの戦闘機パイロット。第二次世界大戦ではギリシャ戦線やロシア戦線、更にシチリア防衛戦で活躍し、エースとなった。戦後は民間パイロットとなって1994年まで存命だった。なお、部隊名の「ジジ・トレ・オセイ」とは、「ジジ」は1942年にリビア上空で戦死したルイージ・カネッペレ中尉の愛称、「トレ・オセイ」は「三匹の鳥」を意味する。この戦闘航空群には、RSI空軍トップエースとして知られる2人のパイロット、ウーゴ・ドラーゴ空軍大尉マリオ・ベッラガンビ空軍大尉が所属した。

第三戦闘航空群「フランチェスコ・バラッカ」を率いたフェルナンド・マルヴェッツィ空軍大尉第二次世界大戦のイタリアを代表するエースの一人。第二次世界大戦中期まで、急降下爆撃機を操縦し、部下のマッツェイ曹長とクレスピ軍曹と共に英軽巡サウサンプトン」を撃破する戦果を挙げたことで知られる。後に戦闘機パイロットへ転身し、RSI空軍に参加した。戦後は運送会社を経営している。

後に第一戦闘航空群に吸収される補助飛行隊「モンテフスコ・ボネ」は、1943年11月に編制され、ジュリオ・トッレージ空軍大尉によって率いられた。ジョヴァンニ・ボネ空軍大尉エンニオ・タラントラ空軍軍曹といったエースが参加していたが、ボネ大尉が戦死した後に同飛行隊は第一戦闘航空群に吸収された。

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マッキMC.205V"ヴェルトロ"戦闘機(但し、これは休戦前仕様。ミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館にて)

これらの戦闘機部隊は、訓練終了時に終戦となった第三戦闘航空群を除き、イタリア本土防空で活躍し、圧倒的に数の優勢を誇る連合軍機に対して果敢に戦いを挑み、多くの戦果を得ている。そして、多くのエースも生まれたが、その分犠牲者も多かったのは確かであった。これらの戦闘機部隊にはフィアットG.55"チェンタウロ"戦闘機とマッキMC.205V"ヴェルトロ"戦闘機のようなイタリア機、更にドイツ機のメッサーシュミット社のBf109とBf110が使われた。北部に残っていたフィアットCR.42"ファルコ"、フィアットG.50"フレッチャ"、マッキMC.200"サエッタ"、マッキMC.202"フォルゴーレ"、レッジアーネRe.2001、レッジアーネRe.2005"サッジタリオ"、SAIアンブロジーニ207といった機体も使われていた。これらは一部は防空任務にも使われたが、主に訓練機として使われた。偵察機としては、カプロニCa.309ギブリ(スタジオ・ジブリの名前の元ネタ)が使われている。

RSI空軍の雷撃機部隊

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第一雷撃集団「ブスカーリア」を指揮した二人の司令官。カルロ・ファッジョーニ空軍大尉(1943-44)と、マリーノ・マリーニ空軍大尉(1944-45)。

続いては雷撃機部隊についてである。第一雷撃集団「ブスカーリア」は1年前に戦死したと思われていた雷撃機エースのカルロ・ブスカーリア少佐の名前に由来する。「思われていた」というのは、彼は撃墜された後に奇跡的に生き延び、休戦後は南部の王国政府の元で共同交戦空軍の一員として参加していたことが後に判明したからだ。

この部隊を率いたのは雷撃機パイロットとしてブスカーリア大尉と共に名を挙げ、地中海での英船団攻撃では総重量約20万トンもの敵艦を撃沈した経験を持つカルロ・ファッジョーニ空軍大尉であった。この雷撃機部隊はSIAI-マルケッティSM.79"スパルヴィエロ"爆撃機を主装備としていた。SIAI-マルケッティ社は元々王家であるサヴォイア家に由来するサヴォイアマルケッティ社であったが、RSI政権期に名前が変更され、戦後もそのままであった。ファッジョーニ大尉率いる第一雷撃集団は、連合軍が上陸を目論むアンツィオ及びネットゥーノでの防衛戦に投入され、RSI海軍の水上艦艇と協力し、敵上陸艦隊を多数撃沈する戦果を挙げている。しかしその分損害も多く、司令官であるファッジョーニ大尉自身も戦死することとなった。

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アンツィオ上空のSM.79"スパルヴィエロ"爆撃機

司令官であるファッジョーニ大尉が戦死し、更に部隊名の元となったブスカーリア大尉が敵側で参加していることが明らかになったことで、部隊名は戦死したファッジョーニ大尉の名前を取って「ファッジョーニ」に変更となった。後任の司令官はマリーノ・マリーニ空軍大尉が就任。彼の元で同部隊は新たな作戦に投入されていった。代表的なものはジブラルタルへの攻撃作戦である。休戦前からイタリア空軍はジブラルタルへの空爆を何度も実行していたが、休戦後もそれは継続された。RSI空軍の雷撃機部隊はジブラルタル港を攻撃し、敵艦数隻を撃沈した後、ほぼ無傷で帰還したのであった。更にその後も同集団は連合軍支配下の南部・中部イタリアや北アフリカの港湾・沿岸攻撃で戦果を挙げたのであった。

RSI空軍の輸送部隊

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SIAI-マルケッティSM.82"カングーロ"。RSI政権期には輸送機として使われている。エットレ・ムーティ空軍中佐が指揮したバーレーンサウジアラビア空爆はこの機体を使っていた。

輸送部隊としては、パンテッレリーア島上空で戦死したマリオ・トラブッキ軍曹の名を取った「マリオ・トラブッキ」部隊が存在した。これはドイツ空軍の制御下に置かれ、東部戦線への物資・兵員輸送にも使われ、1944年夏に解散となった。輸送機としては爆撃機が使われ、フィアットBR.20"チコーニャ"、SIAI-マルケッティSM.79"スパルヴィエロ"、SIAI-マルケッティSM.81"ピピストレッロ"、SIAI-マルケッティSM.82"カングーロ"、カントZ.501"ガッビアーノ"、カントZ.506"アイローネ"といった機体が使われた。

RSI空軍の空挺部隊

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最後の「フォルゴーレ」司令、エドアルド・サーラ空軍少佐。

最後に、空挺部隊についてである。RSI空軍は1943年12月にエドヴィーノ・ダルマス空軍中佐の指揮の元、空軍降下学校が設立されて訓練が実施された。翌年1月からは「アズッロ」大隊と改称されている。イタリア人義勇空挺兵はモンテ・カッシーノの戦いでもドイツ軍降下猟兵と共に勇敢に戦い、更に東部戦線にも派遣されている。アンツィオ・ネットゥーノ防衛戦が開始されると、休戦後に成立した義勇空挺団を前進とする「ネンボゥ」部隊が果敢に戦い、米軍上陸部隊に多くの損害を与えた。RSI空軍は戦力強化のために「アズッロ」大隊と「ネンボゥ」空挺団の統合を決定し、三つの大隊(「ネンボゥ」「フォルゴーレ」「アズッロ」)から成る「フォルゴーレ」空挺連隊が編成されたのであった。「フォルゴーレ」空挺連隊はローマ防衛戦に投入され、ローマ近郊のポンティーノ戦線で「デチマ・マス」と共に奮戦し、英軍はRSI軍の抵抗に苦戦し、多くの損害を受けることとなった。ローマ陥落後、空軍は空挺部隊の再編成を行い、更に「チクローネ」「フルミネ」の空挺大隊と、「ウラガーノ」砲兵団を編制した。

1944年秋から同空挺連隊は西アルプスの国境地帯に配備となり、山岳師団「モンテローザ」と共に、進撃する仏米連合軍に対して果敢に戦った。1945年1月にはカリスマ的指揮官として知られるエドアルド・サーラ少佐が最後の「フォルゴーレ」連隊長となり、5月にサン・ヴァンサン(ヴァッレ・ダオスタの温泉地)にて米軍に降伏するまで戦ったのであった。

 

こんな感じである。RSI空軍だけでなく、イタリア空軍について調べてみると結構面白い!全くの無知であるが、これからもどんどん調べていきたいところだ。