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東アフリカ戦線におけるイタリア海軍の役割(1940-41) ―イタリア紅海艦隊の孤独な戦い―

久々の更新です。今回は、エリトリアのマッサワ港を母港に、紅海やインド洋で活動したイタリア海軍の紅海艦隊について詳しく紹介します。

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マッサワ軍港のイタリア紅海艦隊

1936年、エチオピア戦争が終盤になってくると、ムッソリーニは東アフリカ方面に展開した海軍部隊の支援のため、「アフリカの角」における海軍基地・港湾設備と艦隊の強化を命じた。これは、東アフリカへの物資輸送を円滑に行うためであり、エチオピア帝国完全制圧後、イタリア領東アフリカ帝国(A.O.I.)が成立すると、本国と植民地間の貿易の円滑化も図られた。また、英国の重要な通商路である紅海を抜けるスエズ―インドルートを脅かす意味合いもあった。これは英国との対立関係が徐々に浮き彫りになっていったからであるが、スエズを英国に抑えられている以上、仮に英国と戦争状態になった場合、イタリア本国からの補給が滞る危険性を孕んでいることは明らかであった。実際、第二次世界大戦時は東アフリカ戦線には本国からの補給は全く届かなかった

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エリトリアの地図(現在の領土)。紅海艦隊の母港マッサワ港は中心部に位置する。東端の港町がアッサブ港。

紅海艦隊の母港はエリトリア最大の港湾都市マッサワ(現在エリトリア第二の都市)で、またマッサワ以外にもエリトリア東部のアッサブ港も海軍の基地として使われていた。マッサワ陥落後は紅海艦隊最期の抵抗拠点としてアッサブが使われている。ソマリアモガディシオキスマヨ(キシマイオ)は封鎖突破船の母港だった。イタリア輸送船団は英海軍によるインド洋封鎖を突破しようと試みた。

イタリア参戦時(1940年6月10日)の紅海艦隊の構成は以下の通りである。

◆第三駆逐戦隊

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駆逐艦「フランチェスコ・ヌッロ」

駆逐艦「フランチェスコ・ヌッロ」「ナザリオ・サウロ」「ダニエーレ・マニン」「チェーザレ・バッティスティ」

◆第五駆逐戦隊

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駆逐艦「レオーネ」

駆逐艦「レオーネ」「ティグレ」「パンテーラ」

水雷戦隊

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水雷艇「ジョヴァンニ・アチェルビ」

水雷艇「ジョヴァンニ・アチェルビ」「ヴィンチェンツォ・ジョルダーノ・オルシーニ」

◆第21MAS艇戦隊

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「MAS213艇」

「MAS204艇」「MAS206艇」「MAS210艇」「MAS213艇」「MAS216艇」及び武装小型艇7隻、サンブーキ艇数隻

◆第7潜水艦艦隊

■第81戦隊

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潜水艦「アルベルト・グリエルモッティ」

潜水艦「アルベルト・グリエルモッティ」「ガリレオ・フェッラーリス」「ルイージ・ガルヴァーニ」「ガリレオ・ガリレイ

■第82戦隊

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潜水艦「アルキメーデ」

 

潜水艦「ペルラ」「マッカレー」「アルキメーデ」「エヴァンジェリスタ・トッリチェッリ」

◆仮装巡洋艦戦隊

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仮装巡洋艦「ラム2」

仮装巡洋艦「ラム1」「ラム2」

◆補助船部隊

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通報艦「エリトレア」

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砲艦「ジュゼッペ・ビリエーリ」

通報艦「エリトレア」、砲艦「ポルト・コルシーニ」「ジュゼッペ・ビリエーリ」、機雷敷設艦「オスティア」、タンカー「ニオベ」、給水船「シレ」「セベト」「バッキリオーネ」、病院船「ラム4」、タグボート「アウゾニア」

 

これ以外にも空軍から譲り受けた水上機数機や、海軍アスカリ兵が操作する武装小型艇、多数の輸送船なども存在したようである。

艦隊は旧式の駆逐艦と、潜水艦を中心とする小規模な艦隊であり、更に紅海の高温多湿の気候は艦艇に悪影響を及ぼしていた。整備環境も満足ではなく、このような状況での準備不足の参戦は紅海艦隊が限定的な役割しか果たせない原因となった。

 

次は、イタリア紅海艦隊の指揮官たちを見てみよう。

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紅海艦隊の2人の司令官。カルロ・バルサモ提督(1939年~1940年12月)と、マリオ・ボネッティ提督(1940年12月~1941年4月)。

第二次世界大戦時の紅海艦隊は二人の提督によって指揮された。

カルロ・バルサモ(Carlo Balsamo)提督は1890年4月20日軍港都市ターラントで生まれた。本名はカルロ・バルサモ・ディ・スペッキア・ノルマンディア(Carlo Balsamo di Specchia Normandia)と長く、その名前から想像がつくとは思うが貴族出身で、ナポリ発祥の侯爵家の出である。彼は1939年からマッサワ軍港の司令官となり、1940年12月に召還されるまで第二次世界大戦初期の紅海艦隊を率いた。バルサモ提督はボネッティ提督と交代で本国に召還された後、同盟国である日本に派遣され、東京に駐在する海軍の駐在武官として務めた。1943年9月のイタリア王国休戦後は、国王に忠誠を誓ったため日本当局に抑留されている。

マリオ・ボネッティ(Mario Bonetti)提督1888年3月3日、ペトラルカの出身地として知られるアレッツォで生まれた。第一次世界大戦時は潜水艦の艦長として銀勲章を受勲される活躍を見せた。本国に召還されたバルサモ提督の後任としてマッサワ軍港の司令官に任命され、東アフリカ戦線の崩壊まで紅海艦隊を指揮した。彼が司令官に就任した頃、英軍は東アフリカ戦線で反撃を開始し、イタリア軍に有利であった戦況は変わりつつあった。年が明けてケレンでの攻防戦が始まると、東アフリカ帝国の崩壊は時間の問題となり、ボネッティ提督は最後の抵抗を試みる。

 

では、第二次世界大戦におけるイタリア紅海艦隊の戦歴を見てみよう。

◆紅海艦隊、出撃開始

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バルコニーから英仏宣戦布告演説をするムッソリーニ統帥

1940年6月10日にムッソリーニ統帥は英国及びフランスに宣戦布告し、イタリア王国は枢軸国側で第二次世界大戦に参戦した。海軍参謀長ドメニコ・カヴァニャーリ提督率いるイタリア海軍最高司令部(スーペルマリーナ)は、紅海艦隊に積極的な攻勢を命令した。紅海艦隊の司令官であるバルサモ提督もそれに応じることとなった。

しかし、現状は想像以上に最悪の状況であった。他のイタリア軍の例と同様に、紅海艦隊も準備不足の状態での参戦であったため、当然攻撃準備は整っていなかった。その上、地中海艦隊とは異なり、マッサワを根拠とする紅海艦隊は軍港設備も劣悪で、先述した通り艦艇の整備も満足に出来なかった。開戦後は英国にスエズ運河を封鎖されるため、本国からの支援も一切期待できなかった。

バルサモ提督は最高司令部からの命令を了承したが、積極的な攻勢をすぐに行うことが不可能である事は理解していた。ひとまず、現状最も有効な策だと思われる方法でバルサモ提督は最高司令部からの期待に応えることにした。それは、潜水艦戦隊による待ち伏せ攻撃による連合国船団への攻撃任務であった。

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英国東洋艦隊を指揮したラルフ・レーザム卿。1941年のイタリア紅海艦隊壊滅後は、マルタの司令官となって引き続きイタリア海軍との戦いを続ける。

敵側の海軍を見てみると、英国の東洋艦隊はイタリア紅海艦隊とは比べ物にならないほどに大規模であり、インド洋は「英国艦隊の裏庭」であった。フランス海軍は東アフリカ方面には海軍基地をジブチしか持っていなかったため、通報艦等6隻ほどしか所属しておらず、イタリア紅海艦隊にとっては脅威ではなかった。

潜水艦部隊には各地点での待ち伏せ攻撃を命じた。「マッカレー」はポートスーダン(6月10日出発)、ガルヴァーニ」はオマーン(6月10日出発)、ガリレイ」はアデン南部沖(6月12日出発)、「フェッラーリス」は紅海東部(6月12日出発)、「トッリチェッリ」はバブ・エル・マンデブ海峡(6月14日出発)、「アルキメーデ」はジブチ(6月19日出発)、「ペルラ」はジブチ・タジュラ湾(6月19日出発)での待ち伏せ攻撃を命じられた。潜水艦部隊では唯一「グリエルモッティ」だけ待ち伏せ攻撃には参加せず、マッサワ軍港での待機となった。

 

◆塩化エチル漏洩事故の発生

しかし、始まりは順調にはいかなかった。「フェッラーリス」「ペルラ」「マッカレー」「アルキメーデ」では高温多湿の環境によって空調設備の故障が発生し、塩化エチルの漏洩事故が発生した。これによって乗組員は中毒を起こし、体調不良で錯乱状態になっていった(「ペルラ」では艦内が64度にまで達した)。更に、船団攻撃を成功させていたガリレイ」も英海軍の駆潜艇の攻撃を受けて、塩化エチルの漏洩事故が発生した。その結果、「ガリレイ」は換気のために水上航行を強いられる結果となった。

こうした漏洩事故により、「アルキメーデ」はアッサブ港に避難して応急修理した後、マッサワ港に帰還してドッグ入りとなった。「ペルラ」は中毒と高温に苦しみながらも、軽巡「リアンダー」を中心とする英艦隊と交戦した結果、多くの船員が戦死し、応急修理の後マッサワ港に帰還してドッグ入りとなった。「フェッラーリス」もマッサワ港に帰還して修復を受け、「マッカレー」はポートスーダン南東沖のバル・ムーサ・ケビル島にて座礁し、英軍への降伏を拒否した乗組員たちはスーダンから陸路で司令部に救援要請を伝え、海軍と空軍の共同作戦によって、乗組員は救出された。待ち伏せ攻撃に参加していなかった「グリエルモッティ」はこれが初任務となり、「マッカレー」の生存者を救出し、英空軍の哨戒を振り切りマッサワ軍港に帰還した。

この結果、3隻が修復のため行動不能になり、1隻が喪失した。

 

◆潜水艦部隊による戦果

塩化エチルの漏洩事故によって散々な結果の出だしとなったイタリア紅海艦隊であったが、潜水艦部隊は待ち伏せ攻撃によってまずまずの戦果を挙げた。

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「トッリチェッリ」との戦闘の結果、爆沈した英駆逐艦ハルツーム

1940年6月16日には、アデン南部沖にてガリレイ待ち伏せ攻撃によって、英軍の大型タンカー「ジェームズ・ストーヴ」を撃沈した。6月23日には、オマーン沖にて待ち伏せ攻撃したガルヴァーニ英領インドの哨戒艇「パターン」を撃沈している。更に同日、ペリム島沖での「トッリチェッリ」との戦闘の結果、英国海軍の駆逐艦ハルツームが爆沈している。少し間を開けて9月6日にはギリシャ船籍の大型タンカー「アトラス」「グリエルモッティ」が撃沈する戦果を挙げている。

 

◆「ガリレイ」の降伏と更なる悲劇の発生

ガリレイが船団攻撃の際に攻撃を受けて水上航行を強いられる結果となったと先述したが、この結果艦隊全体にまで影響が広がる悲劇が発生した。ガリレイでは塩化エチルの漏洩事故によって、大半の乗員が中毒を起こし、換気のため潜行時間が限られてしまい、更に中毒の影響で船員はマトモな判断すら出来なくなっていた

6月18日、輸送船を発見したガリレイは主砲を警告のために発射し、この輸送船を停止させた。この輸送船はユーゴスラヴィア船籍の「ドラヴァ」であったが、当時ユーゴスラヴィアは中立国であったため、ガリレイは航行を許可した。この時、輸送船を停止させるために警報で撃った主砲の音が、近くを航行していた英国海軍の砲艦「ムーンストーンに傍受されていた。ムーンストーントロール船を改造した砲艦で、ガリレイを発見した英軍機からの報告を受け、ガリレイ捜索のために駆り出されていた。ムーンストーンに捕捉されたガリレイは交戦したが、塩化エチルの漏洩は解決していなかったため、浮上しての戦いを強いられてしまった。そして、ムーンストーンの攻撃が直撃し、ナルディ艦長他多くの士官が戦死、戦闘指揮が不可能な状態となり、残りの船員は降伏を選択した

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降伏後、英駆逐艦「カンダハー」に曳航される潜水艦「ガリレイ

ガリレイはその後、アデンに曳航された。英海軍はガリレイから作戦命令書を手に入れ、イタリア潜水艦部隊の待ち伏せ作戦が完全に英海軍に知られる形となった。この情報をもとに、英海軍は6月24日、ガルヴァーニ駆逐艦部隊の爆雷攻撃で撃沈した。更に、6月21日には「トッリチェッリ」爆雷攻撃をするが、「トッリチェッリ」は損傷を受けたものの退避に成功。その後、「トッリチェッリ」はマッサワ軍港を目指したが、ペリム島沖にて英艦隊の追撃を受けて撃沈された。しかし、「トッリチェッリ」も最後まで抵抗し、英国海軍も駆逐艦ハルツーム」を失う損害を受けた

二つの「漏洩」の結果、イタリア紅海艦隊は潜水艦全8隻のうち、4隻(「ガルヴァーニ」「トッリチェッリ」「マッカレー」「ガリレイ」)を失い、3隻(「ペルラ」「アルキメーデ」「フェッラーリス」)が修復で行動不能となった。つまりは、3隻の修復完了まで行動が可能だった潜水艦は待ち伏せ攻撃に参加していなかった「グリエルモッティ」のみとなったのである。更に、この悲劇は戦闘開始から僅か3週間の間に起こっていた。

◆東アフリカ戦線初期の戦況

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1940年8月19日時点での東アフリカ戦線のイタリア軍の占領地域。これに加え、フランス降伏によってジブチ港の使用権を得ていた。

しかし、この段階では東アフリカ戦線はイタリア陸軍の善戦によって、イタリア軍有利の状態であった。アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ空軍大将率いるイタリア領東アフリカ軍(A.O.I.軍)はスーダンゲダレフ及びカッサラーへの攻勢を開始。7月4日、ルイージ・フルーシィ将軍率いる部隊がカッサラーを制圧し、7月5日にはピエトロ・ガッツェラ将軍率いる部隊が同じくスーダンガッラバト要塞及びクルムク要塞を陥落させた。更に、ガッツェラ将軍の部隊は英領ケニアに侵攻を開始。7月16日に国境都市のモヤレを制圧後、続けてマンデラを制圧。国境から100km地点のブナまで進軍した。

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イタリア領東アフリカ帝国副王、アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ空軍大将。東アフリカ方面軍の総司令官を務めた人物だが、優秀な飛行家としても知られていた。

8月3日からはグリエルモ・ナージ将軍率いる部隊が英領ソマリランド侵攻を開始し、イタリア軍は多くの犠牲を出しながらも、8月3日に首都ハルゲイサを制圧。トゥグ・アルガン峠での英軍による最後の抵抗をイタリア軍が撃破した後、8月19日にイタリア軍港湾都市ベルベラを陥落させ、侵攻開始からわずか2週間足らずで英領ソマリランド全土を制圧したのであった。

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フィアットCR.42"ファルコ"戦闘機(ヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館所蔵)

東アフリカ戦線のイタリア空軍は旧式機が目立ったが、マリオ・ヴィシンティーニ大尉(第二次世界大戦最高の複葉機エースで、東アフリカ戦線のトップエース)を始めとするスペイン内戦を経験したヴェテランパイロットが多く、戦闘機部隊は5カ月間の間に25機の英軍機を撃墜し、善戦していた爆撃機部隊も拠点爆撃や地上部隊攻撃で活躍し、更に海軍の救援任務(例:潜水艦「マッカレー」の生存者への食糧投下)にも従事している。アッサブ、グーラ、アディスアベバモガディシオなどに空軍基地を置き、戦闘機(フィアットCR.42"ファルコ"、フィアットCR.32など)と爆撃機(サヴォイアマルケッティSM.79"スパルヴィエロ"、サヴォイアマルケッティSM.81"ピピストレッロ"、カプロニCa.133"カプロナ"、カプロニCa.311など)を中心とした。10月にはロードス島を出発し、マナーマ油田(バーレーン)及びダーラン油田(サウジアラビア)への長距離爆撃を成功させた4機のサヴォイアマルケッティSM.82“カングーロ”がエリトリアのズーラに到着した。彼らはマッサワの飛行場に到着する予定であったが、英空軍がマッサワ爆撃を行ったため、迂回してズーラに到着した。4500kmもの距離を飛行してきた彼らは、その後出発し、道中でポートスーダンへの爆撃を実施し、ベンガジ経由で全員がイタリアに帰還することが出来た(詳しくは同ブログの過去記事「エットレ・ムーティ空軍中佐と中東への長距離爆撃作戦 ―中東油田地帯ヲ爆撃セヨ!」―を参照)。

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イタリア軍が制圧したジブチフランス軍国境要塞の一つ。

更に、エチオピア-ジブチ国境にて、イタリア陸軍・空軍とフランス陸軍・空軍の小規模な戦闘が発生していた。イタリア陸軍はフランス軍の国境要塞群を制圧し、空軍はジブチ港を爆撃していた(この際激しい対空砲火によって爆撃機2機が撃墜されている)。その報復としてフランス空軍もエチオピア国境のドゥアンレーを爆撃している。6月24日にヴィッラ・インチーサ休戦協定がイタリア・フランス間で署名されたことにより、6月25日には伊仏両軍は休戦を実現した。この結果、イタリア軍はフランスが支配していたジブチ港の使用権を手に入れジブチ-アディスアベバ鉄道を活用することで物資の円滑な輸送が可能となった。更にジブチの非武装化と全装備のイタリア軍への接収が行われた。しかし、駐ジブチ・フランス軍司令官であるポール・レジェンティオーム将軍はヴィシー政権に従うことを拒否し、アデンに脱出して自由フランス軍に合流した。
東アフリカ戦線におけるイタリア陸軍・空軍の連勝ムッソリーニにとって喜ばしいことであり、ヒトラーも絶賛する祝電を打ったほどであった。この結果、海軍は大敗北を喫していたが、紅海艦隊の役目は最初から限られていたが故に、どちらにせよ英海軍の優位は変わらないと見られており、現状での影響は少ないように感じられた

 

◆紅海戦略の再考

紅海艦隊司令官のバルサモ提督は、潜水艦8隻のうち7隻が行動不能となった事を受け、紅海における運用戦略の再考を迫られることとなった。バルサモ提督は残存艦隊による小艦隊を形成し、それによる英船団攻撃を実行するように方針転換した。しかし、制海権は完全に英軍に握られていたため、英船団攻撃は沿岸部における夜間攻撃に限られてしまった

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機雷敷設艦「オスティア」

ここで、潜水艦以外の紅海艦隊の艦艇がどういった行動をしていたかを確認してみることとする。イタリアが第二次世界大戦に参戦した6月10日、機雷敷設艦「オスティア」通報艦「エリトレア」の護衛のもとで、マッサワ沖からアッサブ沖にかけてのエリアに機雷原を設置した。仮装巡洋艦「ラム1」は商船に擬態して輸送船攻撃の任務に従事(または哨戒任務)することとなり、水雷艇「オルシーニ」MAS艇部隊はマッサワ軍港周辺の哨戒任務に従事した。準備が済んでいなかった仮装巡洋艦「ラム2」はマッサワ軍港の対空防衛任務を任され、病院船「ラム4」は緊急時に負傷者をイタリア本国に移送する役目を担った。潜水艦「ペルラ」が英艦隊の追撃を受けると、第五駆逐戦隊の駆逐艦「パンテーラ」「レオーネ」及び水雷艇アチェルビ」、第三駆逐戦隊の駆逐艦「バッティスティ」「マニン」が救援に向かった。

潜水艦の喪失による方針転換後、残存艦隊による英船団攻撃を開始する。7月26日、駆逐艦「ヌッロ」を旗艦とする小艦隊(「ヌッロ」「バッティスティ」及び潜水艦「グリエルモッティ」)が英国船団捜索のためにマッサワを出発するが、発見できずに帰還した。

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英空軍による爆撃で損傷した水雷艇アチェルビ」。三番目の煙突が大きく傾いていることがわかる。

8月6日、英空軍がマッサワ軍港を爆撃し、水雷艇アチェルビ」が大破炎上した。アチェルビ」は修復が不可能なほどの重傷で、航行不能となり以後出撃出来ず、マッサワ軍港の対空任務のみに従事することとなった。仮装巡洋艦「ラム1」は任務を中断し、マッサワ軍港の対空防衛のために港での待機となった。英海軍・英空軍はマッサワキスマヨといったイタリア領東アフリカの沿岸都市への攻撃を度々実行していた。

8月頃、修復中だった潜水艦(「フェッラーリス」「ペルラ」「アルキメーデ」)の修復が完了し、任務に復帰した。8月14日に再就役した「フェッラーリス」アデン沖英戦艦「ロイヤル・サブリン(後のソ連戦艦「アルハンゲリスク」)」が通過するという情報を受けて、攻撃のために出撃した。バブ・エル・マンデブ海峡にて英駆逐艦を発見、再激するが反撃の爆雷攻撃を受けて8月19日にマッサワ軍港に帰還。その後、8月24日~31日にかけて第三駆逐戦隊及び第五駆逐戦隊、潜水艦部隊が連日夜間に船団捜索任務に従事したが、船団を発見できずに帰還した。

9月6日には潜水艦「グリエルモッティ」は哨戒中にファラサーン諸島沖にて英国のBN4船団を発見した。「グリエルモッティ」は魚雷を発射し、ギリシャ船籍のタンカー「アトラス」を撃沈する事に成功している。しかし、その後は駆逐戦隊・潜水艦部隊共に連日の出撃にもかかわらず、船団を発見する事は出来ず、戦果を挙げられなかった。空軍部隊も英船団の攻撃任務を実行しているが、大した戦果を挙げられていない。

10月20日夜間、マッサワ沖にてイタリア艦隊と英国のBN7船団が遭遇した。イタリア艦隊は駆逐艦「ヌッロ」を旗艦とし、「サウロ」「パンテーラ」「レオーネ」で構成されていた。対する英国のBN7船団は32隻の輸送船で構成され、ニュージーランド海軍の軽巡「リアンダー」を旗艦として、駆逐艦1隻、スループ3隻、掃海艇2隻が護衛していた。23時21分に「パンテーラ」が英船団の煙を確認し、戦闘を開始した。6月21日早朝に両艦隊は衝突、その結果双方が損害を受けた。イタリア側は駆逐艦「キンバリー」の雷撃によって、旗艦「ヌッロ」を撃沈され、第三駆逐戦隊司令官コンスタンティーノ・ボルシーニ少佐が戦死した。英国側はハーミル島のイタリア軍の沿岸砲台の攻撃を受けて駆逐艦「キンバリー」が大破・航行不能となり、その後「キンバリー」はポートスーダン港まで「リアンダー」に曳航された。また、輸送船1隻が損害を受けた。双方に損害があったものの、イタリア艦隊による船団攻撃は失敗に終わった。失敗の理由として、イタリア艦隊は船団捜索のために速力で艦隊を二つ(一方は「ヌッロ」「サウロ」、もう一方は「レオーネ」「パンテーラ」)に分けていたことにより、英船団の護衛艦隊に立ち向かえるだけの火力が無かったことが挙げられる。

結局、方針転換をしたものの、イタリア艦隊は大した戦果を挙げる事が出来なかった。更に、戦力不足の紅海艦隊にとって、駆逐艦1隻を戦闘で失ったのは打撃となった。12月には紅海艦隊司令官であるバルサモ提督は本国に召還となり、後任の司令官にはマリオ・ボネッティ提督が就任した。年末も艦隊による船団捜索が行われたが、発見できずに帰還した。

 

◆1941年:東アフリカ戦線の崩壊

1941年に入ると、陸軍の状況も悪化していった英軍が大規模な反攻作戦を開始したのである。それに加え、東アフリカ帝国各地ではエチオピア人による反イタリア蜂起が頻発するようになり、イタリア軍を悩ませた。また、本国からの補給に期待出来ない東アフリカのイタリア軍は徐々に物資不足に悩まされることとなっていってしまった。

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英軍によるエリトリアへの逆侵攻(1941年)

英軍は1940年12月18日、英軍がソマリア北西部国境のエル・ウァク基地を襲撃し、これを陥落させた。これは小さな勝利であったが、イタリア軍崩壊の前触れとなったのであった。年が明けると、1月19日に英軍は占領地域の奪還を開始し、イタリア軍が占領していたスーダンカッサラーが陥落した。エリトリアへの逆侵攻を開始した英軍は、1月31日にはアゴルダト、2月2日にはバレントゥを陥落させ、イタリア軍ケレンまで撤退することとなった。

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ケニアの国境都市モヤレを解放した後、戦利品のイタリア軍旗で記念撮影をする南アフリカ軍の兵士たち。

他方、南部方面ではイタリア軍は占領していたケニアから追い出され、2月初めには英軍はソマリアへの侵攻を開始。アフマドゥキスマヨといった南部の主要都市が次々と制圧され、2月25日には遂にソマリア首都モガディシオが陥落する事態となった。英軍はソマリアでの伊軍掃討戦に移り、わずか数日で英領ソマリランドも奪還している。ソマリアに展開していたイタリア輸送船団は戦況悪化のため、インド洋の封鎖突破のために出港したが、その殆どは失われることとなった。封鎖突破船「ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」他いくつかの輸送船はヴィシー政権下のマダガスカルに到達した。イタリア輸送船団はそこから封鎖を突破して同盟国である日本やタイに向かいたかったが、実現せず、英軍によるマダガスカル侵攻によりこの安全な場所も無くなった。結局、イタリア輸送船(軍艦除く)で開戦後に極東に辿り着いたものは、開戦時に極東周辺やインド洋に展開していた輸送船のみであった。

イタリア空軍も陸軍の劣勢と共に劣勢になっていった。本国からの補給も途絶えた空軍部隊のパイロットたちは連日の出撃と空戦によって疲労困憊状態だった。2月にはトップエースであるヴィシンティーニ大尉が戦死し、多くのヴェテランパイロットが東アフリカの大空に散った。

紅海艦隊司令官のボネッティ提督も英海軍によるマッサワ攻撃も時間の問題であると考え、決戦に備えて準備を始めた。この結果、艦隊による船団攻撃任務は2月初めの作戦をもって終了した。2月2日夜間から3日早朝にかけて行われた船団攻撃では、駆逐艦「サウロ」「ティグレ」「パンテーラ」の三隻が、軽巡「カレドン」を旗艦として、駆逐艦1隻、スループ2隻で護衛されたBN14船団(計39隻の輸送船で構成)を攻撃し、2隻の輸送船に雷撃で損傷を与えたが、大きな影響は無かった。

 

◆艦隊の脱出、神戸とボルドーへの逃避行

ボネッティ提督は3月が決戦になると判断し、マッサワ港の陥落を考えて長距離航行能力を擁する艦はマッサワを脱出し、同盟国や中立国に避難し、それが無理な艦はマッサワ軍港に残り、艦隊決戦に利用される(無理な場合は自沈)こととなった。この結果、通報艦「エリトレア」及び仮装巡洋艦「ラム1」「ラム2」はインド洋を通って同盟国である日本の神戸港を目指し、天津を母港とするイタリア極東艦隊と合流することになり、潜水艦「ペルラ」「グリエルモッティ」「フェッラーリス」「アルキメーデ」喜望峰をぐるっと回って大西洋に抜けてフランス・ボルドーベータソム基地(イタリア海軍大西洋潜水艦部隊の母港)を目指すこととなった。通報艦「エリトレア」仮装巡洋艦2隻は2月19日にマッサワ軍港を脱出、潜水艦艦隊は3月初めにマッサワ軍港を脱出した。

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マッサワ軍港からボルドーまでの潜水艦部隊の脱出経路。

日本に向かった3隻は2月27日にモルディヴ軽巡「リアンダー」に撃沈された仮装巡洋艦「ラム1」を除き、3月に無事神戸港に到着した。日本は当時中立国であったため2隻は抑留され、1941年12月に日本が真珠湾攻撃後、正式に第二次世界大戦に参戦した事で、太平洋戦線での任務に従事した。ボルドーを目指した潜水艦4隻は1隻の喪失も出すことなく、無事に全てボルドーに到着した。その後、4隻は大西洋艦隊所属となり、船団攻撃で活躍した。

 

スエズ運河とポートスーダンへの特攻作戦

 マッサワに残った艦のうち、駆逐艦「パンテーラ」「ティグレ」「レオーネ」の第五駆逐戦隊はスエズ運河攻撃駆逐艦「サウロ」「バッティスティ」「マニン」の第三駆逐戦隊はポートスーダン攻撃が決定した。残りの艦は軍港の防衛任務に就いた。3月31日、第五駆逐戦隊はスエズ運河攻撃に出発するが、4月1日に「レオーネ」座礁したため、マッサワ軍港に引き返した。その後、「パンテーラ」及び「ティグレ」も第三駆逐戦隊と共にポートスーダン攻撃に参加することとなった。

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駆逐艦「パンテーラ」を先頭に航行する第五駆逐戦隊

2隻がマッサワ軍港に帰還した4月1日からは英軍によるマッサワ攻撃が開始した。翌日、第三駆逐戦隊(「サウロ」「バッティスティ」「マニン」)及び第五駆逐戦隊(「パンテーラ」「ティグレ」)はマッサワ軍港を出発し、ポートスーダン攻撃に向かった。結局、この攻撃は無謀なものであった。この攻撃作戦の結果、「サウロ」「マニン」は英海軍航空隊の攻撃を受けて撃沈、「パンテーラ」「ティグレ」も英海空軍の攻撃で撃沈された。「バッティスティ」は機関が故障したため、サウジアラビア沖にて自沈した。

 

◆マッサワでの最終決戦

連合軍によるマッサワ包囲戦は激化するが、紅海艦隊司令官ボネッティ提督は降伏勧告を二度拒否し、最後まで抵抗した。水雷艇「オルシーニ」「アチェルビ」砲艦「ビリエーリ」機雷敷設艦「オスティア」は空軍と砲撃で傷つきながらも、最後まで抵抗した後、閉鎖艦として港内に自沈したMAS艇部隊は3日間連続で一晩中英艦隊への攻撃を行い「MAS213艇」の雷撃によって軽巡ケープタウンは大破・航行不能となった。ケープタウンは沈まなかったが、約1年間修復することとなった。

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「MAS213艇」の攻撃で大破した英軽巡ケープタウン

最後の抵抗として、ボネッティ提督は英軍が使えないように港湾設備の徹底的な破壊を命じ、設備を出来るだけ破壊、残った資材を海に投げ捨てた。これによって再度マッサワ港が使えるようになるまで1年以上の歳月を有した。最後の抵抗の後、ボネッティ提督らマッサワ守備隊は連合軍に降伏した。その後、ボネッティ提督はインドの捕虜収容所に終戦まで収監され、戦後もイタリア海軍に所属した。

 

◆アッサブ港での最後の抵抗

5月にアンバ・アラジ要塞での抵抗が終わり、東アフリカ帝国副王であるアメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ空軍大将が連合軍に降伏したが、それですぐに東アフリカ戦線が終結はせず、ナージ将軍、ガッツェラ将軍、アーゴスティ将軍といった降伏を拒否した指揮官が各地で戦いを続けた。

アッサブ港に展開していた紅海艦隊の残存艦も例外ではなかった。アッサブ港には紅海艦隊の小型艇数隻が存在した他、大規模な空軍基地もあった。6月10日から11日にかけて軽巡「ディード」を旗艦とする英軍の上陸艦隊と空軍部隊はアッサブ港を攻撃、上陸を開始した。この結果、イタリア紅海艦隊は完全に消滅した。また、アッサブ戦にて、英領インド帝国哨戒艇パールヴァティが、機雷敷設艦「オスティア」が設置した機雷によって撃沈されている。これは、東アフリカ戦線最後の海軍での戦没艦であり、最後の紅海艦隊の戦果であった。

 

この結果、本国から遠く離れた戦場で孤独に戦い続けたイタリア紅海艦隊は、様々な理由から限られた役割のみに限定されてしまい、その戦果も小規模なものであった。

現状、確認できているイタリア紅海艦隊の主な戦果は

◆撃沈:5隻

・大型タンカー「ジェームズ・ストーヴ」

(アデン南部沖にて潜水艦「ガリレイ」の雷撃で撃沈)

・英領インド哨戒艇「パターン」

(オマーン沖にて潜水艦「ガルヴァーニ」の雷撃で撃沈)

駆逐艦ハルツーム

(ペリム島沖にて潜水艦「トッリチェッリ」と交戦、その後爆沈)

ギリシャのタンカー「アトラス」

(ファラサーン諸島沖にて潜水艦「グリエルモッティ」の雷撃で撃沈)

・英領インド哨戒艇パールヴァティ

(アッサブ沖にて機雷敷設艦「オスティア」の機雷で撃沈)

◆大破・航行不能:2隻

駆逐艦「キンバリー」

(ハーミル島の沿岸砲台の攻撃で大破・航行不能)

軽巡洋艦ケープタウン

(マッサワ沖にて「MAS213艇」の雷撃で大破・航行不能)

◆損傷:3隻他

・輸送船3隻他

(駆逐戦隊との戦闘の結果)

 

まとめると、非常に小規模な戦果である。これに対し、イタリア紅海艦隊は日本に脱出した2隻(通報艦「エリトレア」及び仮装巡洋艦「ラム2」)と、フランスに脱出した4隻(潜水艦「アルキメーデ」「フェッラーリス」「ペルラ」「グリエルモッティ」)を除いて全滅という結果となった。

このような結果に至った原因は、紅海という高温多湿な環境による機材故障の多発、それを改善する整備設備の不足、そして本国からの支援も期待できないという離れた戦場であったことが大きい。更に艦艇の多くは火力不足で、それに旧式艦であった。空軍との連携も他の戦場同様に上手くいっていなかった夜間戦闘が不利であるにもかかわらず、夜間戦闘を強いられたことも理由の一つに挙げられるだろう。

それに加えて、ガリレイ」降伏による情報漏洩によって、イタリア側の潜水艦作戦が完全に把握されたことは大きな問題であった。