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マルタ上空に散った飛行士、フリオ・ニクロ・ドッリオ ―テストパイロットからエースになった空の男―

 第二次世界大戦のイタリア空軍はフランコ・ルッキーニやアドリアーノヴィスコンティを始めとする多くのエースパイロットを生んだ。その中にはテストパイロットとして数々の世界記録を達成し、第二次世界大戦では多数の敵機を撃墜して空軍のエースとなったフリオ・ニクロ・ドッリオ(Furio Niclot Doglio)大尉という人物がいる。この特異な経歴を持つエースについて今回は調べてみよう。なお、日本では一般的にドッリオと呼ばれるが、イタリアではニクロと呼ばれるようである(ニクロ・ドッリオが姓なので、略してニクロと呼ぶ)。

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フリオ・ニクロ・ドッリオ(Furio Niclot Doglio)空軍大尉

◆テストパイロットになるまで

フリオ・ニクロ・ドッリオは、1908年4月24日にサヴォイア家のおひざ元として発展したイタリア王国最初の首都、ピエモンテ州トリノで生まれた。母のアマリアはピエモンテ出身だったが、父シルヴィオサルデーニャ島カリャリ出身だった。イタリアではやや特殊な姓をしているのもそれが由来だろう。また、ドッリオには2人の姉、シルヴィアとエルザがいた。トリノ出身だが、学生時代のドッリオは父の故郷であるカリャリで過ごした。フェンシングと乗馬が上手かったという。高校卒業後、彼はローマの王立技術学校に入学する。1930年、ドッリオは技術学校を卒業し、晴れて航空技師になったのである。彼はこの時、22歳であった。

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イタロ・バルボ空軍元帥。数々の空軍イヴェントを開催し、イタリア空軍を精鋭として育て上げた「イタリア空軍の父」である。

翌年、民間パイロットの資格を早速得ると、12月8日にはスポーツ新聞「イル・リットリアーレ」主催のローマの航空デモンストレーションに参加する。これには「イタリア空軍の父」であるイタロ・バルボ空軍大臣も出席していた。このイベントでドッリオはフィアットAS.1機に乗り、ピエロ・タルッフィを相手に約20kmの集会レースを繰り広げた。ピエロ・タルッフィは後にF1ドライバーとして世界的な著名人になる人物で、この時点でもオートバイのヨーロッパ選手権で優勝したチャンピオンであった。

24歳の頃、ドッリオはローマ・リットーリオ空港で活動するCNA社のテストパイロットとなり、また飛行学校の教官も務めた。彼は若いパイロットを育て、またCNA社のテストパイロットとして自らも500回を越えるアクロバット飛行を行い、飛行時間は1500時間を超えた。また、1933年5月10にはエルダ・パーチェと結婚している。

 

◆世界記録への挑戦

ドッリオはテストパイロットとして世界記録への挑戦を開始した。1932年12月28日、ドッリオは水上機仕様のフィアットAS.1(CNA社のエンジンを搭載)で、上空7362mの高度を記録した。これは水上機部門での高度の世界記録を塗り替えるもので、ドッリオにとっての初めての世界記録の達成でもあった。更にCNA エタ水上機仕様で1933年11月6日には上空8411mを記録し、自らの世界記録を塗り替えている

1933年12月24日にはCNA エタ軽飛行機で高度10008mにまで達し、これによって軽飛行機部門の高度世界記録を達成したのであった。これらの成功によって、ドッリオはブレダ社の目に留まり、レダ社の主席テストパイロットとして引き抜きを受けた

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ドッリオが数々の世界記録を立ち上げた戦闘爆撃機レダ Ba.88"リンチェ"。テスト飛行では良好だったが、武装を装備させると性能が悪化することが後に明らかとなる。

1937年4月1日には、ブレダ社のテストパイロットとして、戦闘爆撃機レダ Ba.88"リンチェ"によって距離100kmの世界速度記録を塗り替えた平均時速は平均時速517.836km/hで、今までの世界記録であるフランスの飛行士の前の記録を大きく上回った。更にその9日後(4月10日)には同じくブレダ Ba.88によって距離1000kmの世界速度記録も塗り替えたのである(平均時速475.518 km/h)。更に、ブレダ Ba.88にピアッジオ社製の新型エンジンを取り付けた試作機では、12月5日は距離100kmで平均時速554.375km/hを記録しており、再びその自らの記録を塗り替えている

12月9日にはドッリオはブレダ Ba.88に1000kgの武装を装備して飛行し、平均時速524.19km/hを達成した。これにより、1日で三つの世界記録を達成するという快挙を成し遂げている1つ目は500kgの武装を装備して距離1000kmの世界速度記録を更新、2つ目は1000kgの武装を装備して距離1000kmの世界速度記録を更新、3つ目はそもそも距離1000kmの世界速度記録さえも更新していた

通算9個の世界記録(CNA社3個、ブレダ社6個)を達成したドッリオはこれによって一躍時の人となり、海外の航空技術者からも注目された。国際航空連盟からはルイ・ブレリオ・メダルを贈られている。この功績からドッリオは空軍から銀勲章を叙勲されているが、彼はブレダ社を去り、ローマの自宅で2児の父(息子の名前は長男がステーファノで、次男がジャン・フランチェスコだった)として暮らした。父シルヴィオと同じく大工として第二次世界大戦の発生まで過ごしていた。彼と父シルヴィオが作った家はまだローマに残っているそうだ(彼の飛行士としての偉業が刻まれているとか)。

 

 ◆大戦の勃発と現役への復帰、そして英国本土航空戦

1940年6月、イタリアは英国及びフランスに宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦した。これを受けて、ドッリオは空軍への現役復帰を志願。チャンピーノ空港に基地を置く第51航空団第21航空群第355飛行隊に配属となり、第355飛行隊の隊長としてローマ防空任務に就いた。彼の乗機はフィアット G.50"フレッチャ"戦闘機で、初任務は6月17日のローマ上空の哨戒任務であった

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英国上空のフィアット G.50"フレッチャ"戦闘機

1940年9月10日にイタリア空軍はバトル・オブ・ブリテン(英国本土航空戦)への派遣を決定し、遠征空軍としてリノ・コルソ・フージェ将軍率いる「イタリア航空軍団(CAI, Corpo Aereo Italiano)」が創設された。これを受けて、ドッリオは9月14日にその一部となる第56戦闘航空団第20航空群第353飛行隊に配属となり、ベルギーの基地に送られた。ドッリオは第353飛行隊隊長として、10月27日にラムズゲートを爆撃するフィアット BR.20"チコーニャ"爆撃機編隊を護衛し、爆撃を成功させた。これが英国本土航空戦での初任務となり、ドッリオは任務をこなしていった。ドッリオはここで計85回の任務をこなしたが、他のCAIのパイロットと同じく大きな戦果を挙げることはなかった。

 

北アフリカへの移動と初の撃墜戦果

1941年1月3日、CAI遠征空軍は作戦を終了し、本国への帰還が決まった。しかし、ドッリオの第353飛行隊を含む第20航空群の戦闘機隊は北アフリカ戦線での戦局の悪化により、そのままリビアへ移動することとなった。なお、第353飛行隊所属のG.50戦闘機は少数がベルギーに残され、ドイツ空軍第2航空艦隊所属機として、北フランス沿岸の防空哨戒飛行を春まで行っている。北アフリカ戦線に移動したドッリオは、1941年5月時点には北アフリカにいるが、その間はドッリオもフランスに残っていた可能性がある。

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北アフリカ上空のフィアット G.50"フレッチャ"戦闘機

北アフリカ戦線に移動したドッリオは、6月30日に初の撃墜戦果を挙げた。その日、北アフリカ沖でドッリオのG.50はドイツ空軍のシュトゥーカ急降下爆撃機編隊を護衛していた。この急降下爆撃機編隊は艦船への攻撃を実行しようとしていた。それの迎撃に英空軍のホーカーハリケーン戦闘機3機が現れたが、ドッリオは1機を撃墜し、2機を追撃してこれを撃退することに成功したのである。ドッリオはこの戦果によって基地への帰還後、すぐに銅勲章を叙勲された。

 

 ◆地中海での激闘とエースへの道

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ドッリオ大尉と乗機のマッキ MC.202"フォルゴレ"戦闘機。

1942年6月になると、第151飛行隊の飛行隊長となった。更に、彼はフィアットG.50 "フレッチャ"から、新型機のマッキ MC.202"フォルゴレ"に乗機を乗り換えた彼の他の撃墜戦果はこの"フォルゴレ"で為されたものであり、戦争中盤のイタリア主力戦闘機として活躍したその性能の優秀さを示していると言えるだろう

彼はシチリアのジェーラ基地を拠点に、マルタ上空での戦いに参加した。1942年6月はイタリア海空軍は英軍によるマルタへの英軍の補給を妨害するべく、地中海で激闘を繰り広げていた。その激闘にドッリオも参加したのである。MC.202戦闘機での彼の初戦果は7月2日だった。その日、ドッリオは部下の僚機と共に10機のMC.202で3機のサヴォイアマルケッティSM.84爆撃機を護衛していた。彼の部下には急降下爆撃機乗り出身のエースとして知られるエンニオ・タラントラ軍曹もいた。ドッリオは迎撃に現れた英空軍のC.S.ジェリー軍曹のスピットファイア戦闘機を撃墜し、これがマルタ攻防戦での彼の初戦果となった。タラントラ含む僚機もスピットファイア戦闘機を撃墜し、計8機のスピットファイアがこの戦闘で撃墜されている。

その後もドッリオ率いる第151飛行隊は戦果を挙げていき、7月11日にはドッリオは通算5機の撃墜を達成し、正式にエースパイロットとなった。7月13日には更に2機のスピットファイア戦闘機を撃墜し、撃墜数は7機となったこの内、6機がここ数日間(7月2日~7月13日の間)のうちにマルタ上空の戦いで挙げられたことからも、ドッリオの戦闘機パイロットとしての腕の優秀さが示されていると言えるだろう。

 

◆早すぎるエースの死

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ドッリオ大尉を撃墜したジョージ・F・バーリング。

しかし、ドッリオのエースとしての栄光は長続きしなかった。7月27日、カナダ人エースであるジョージ・F・バーリング機のスピットファイア戦闘機にマルタ上空で撃墜されたのである。機体は空中で爆発したために、遺体は発見されなかった。ドッリオはエースパイロットと1942年7月に連続して戦果を挙げ始めていたところで、早すぎる戦死を遂げた。戦死後、ドッリオはイタリア軍最高の勲章である金勲章を叙勲されている。

ドッリオはテストパイロットとして通算9個の世界記録を達成し、更に第二次世界大戦ではエースパイロットとして活躍した。彼の偉業は後世に伝えられるべきであろう。彼の墓所は彼が育ったサルデーニャカリャリのボナーリア墓地にある。サルデーニャに訪れる際は墓参りに訪れたいものだ(私はまだサルデーニャには行った事が無い)。