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伊日交流史・第三弾 ―イタリアと日本の航空交流史、両国を「空」で繋いだ4つの事例―

前回、イタリアが伝えた大砲技術が日本陸軍に大きな影響を与えたことを紹介した。今回も流れに乗って、日伊の交流関係について調べてみたいと思う。

今回注目するのは、ずばり「航空史」だ。イタリアと日本は、二度のローマ-東京飛行を始めとして「空」での繋がりが結構ある。当時、イタリアが世界的にも「航空先進国」であったことも大きな理由だろう。

今回扱う事例は主に以下の4つ

・アルトゥーロ・フェッラーリンによる史上初の欧州-極東間飛行

日本陸軍に輸出したフィアット BR.20"チコーニャ"爆撃機とその技術の影響

第二次世界大戦中のローマ-東京連絡飛行

日本海軍によるカプロニ社ジェット機のライセンス契約 

というわけで今回は日伊交流の歴史を「航空機」をテーマに探ってみよう。

 

◆日伊航空交流の始まり、史上初の欧州極東飛行

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アルトゥーロ・フェッラーリン(Arturo Ferrarin)

イタリアと日本の航空交流の始まりは、飛行士アルトゥーロ・フェッラーリンによる1回目のローマ-東京飛行だった。この飛行計画は元々、第一次世界大戦イタリア軍に従軍した文学者、下位春吉が親交のある「英雄詩人」ガブリエーレ・ダンヌンツィオに提案し、企画されたものであった。下位春吉はイタリア文学を専門とする文学者であったが、イタリア軍のアルディーティ部隊に従軍するという興味深い経歴を持つ人物だった(後に日本にムッソリーニファシズムを紹介した人物として広く知られている)。ダンヌンツィオも詩人でありながら、陸軍航空隊の一員として敵国の首都ウィーン上空でプロパガンダのビラ撒きをしたり、海軍の一員としてMAS艇で敵軍港ブッカーリを奇襲して大戦果をあげたりと英雄的な人物だった。

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ダンヌンツィオ(左)と下位春吉(右)

ダンヌンツィオと下位は国際空路開拓の一環として、互いの祖国であるイタリアと日本を繋ぐ長距離飛行を計画した。1919年3月にはこの飛行計画が発表され、イタリア政府や日本の新聞社がこの一大計画を支援した(一説にはムッソリーニの同乗も計画されたという)。同年10月に出発が予定され準備が進められたものの、その一カ月前に起きたフィウーメ進軍(イタリア系住民が多いフィウーメ(現リエカ)市がイタリアに編入にならなかったことに対して、ダンヌンツィオらが決起して同市を武力占領した事件)によって計画はオジャンになってしまった。

これを受けてイタリア政府はアンサルド社やカプロニ社から16機の航空機と機材を購入し、プロジェクトを国家規模に拡大して再出発させた。既に日本側の支持も取り付けている以上、後戻りは出来なかったのである。当時は、第一次世界大戦時に航空機が使用されたとはいえ、まだまだ初期段階であって極東飛行は非常に危険で冒険的な計画だった。更に、イタリアは第一次世界大戦前夜の1911年に起こったオスマン帝国との戦争(伊土戦争)において、世界初の航空機の軍事利用及び世界初の航空爆撃を行っており、世界的な「航空先進国」としての自負があったのである。

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ローマ-東京飛行の経路。第二次世界大戦時の二度目の極東飛行とは異なり、南周りのコースである。

このプロジェクトで重要な役割を果たし、世界初の同一機体によるヨーロッパ-極東間の飛行を成功させたのが、飛行士のアルトゥーロ・フェッラーリンであった。フェッラーリン中尉はダンヌンツィオと共にウィーンでのビラ撒き飛行に参加したフランチェスコ・フェッラーリンの従兄で、当時24歳の若き飛行士であった。

フェッラーリンは当初はあくまで予備飛行要員としての参加だった。彼が飛行士として乗るアンサルド S.V.A.9機には、共に機関士としてジーノ・カッパニーニ軍曹が乗った。この飛行は第一次世界大戦終結していたとはいえ、未だにきな臭い雰囲気の世界情勢の中を飛ぶもので、当時の航空技術も長距離飛行に関しては未知数であり、危険性は非常に高かった。ロシアでは白軍と赤軍の内戦が起こっていたため、北周りではなく南周りのルートを採用することとなったが、南周りも危険だった。当時、アナトリア半島では希土戦争が発生しており、不時着したパイロットがトルコ軍に捕らえられて機体が破壊される事態にも遭っている。フェッラーリンと共に飛行していたジーノ・マシェロ中尉の機体は同じく冷却器トラブルで不時着したものの、なんとかギリシャ側に着陸したため捕らえられずに済んだのである。

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北部イタリア、ダンヌンツィオの邸宅である「ヴィットリアーレ」に展示されたアンサルド S.V.A.機。フェッラーリンがローマ-東京飛行を達成した機体もこれと同タイプの機体である。

シリアのアレッポでは強風と積雪が阻み、バグダッド上空ではアラブ人からの狙撃を受けるなど困難を切り抜けたが、フェッラーリン機はパキスタンで嵐を避けるために緊急着陸してしまった。しかし、そこでインド人の反英武装組織に取り囲まれてしまったが、尾翼のトリコローレをブルガリア国旗(ブルガリア第一次世界大戦で英国と戦ったドイツの同盟国だったため)だと勘違いしたインド人らはフェッラーリンを解放し、それどころか機体の修理を手伝ってくれたという。

この冒険飛行で本来日本への飛行を担うはずであった本隊機が次々と事故で墜落したため、残った予備飛行隊のフェッラーリン機とマシェロ機がこの使命を受け継ぐこととなった。こうして広東に辿り着いた2機だったが、マシェロ機が水田に墜落し、乗員は無事だったものの機体は全損となった。マシェロは予備機が待機する上海に船で向かったが、遂に同一機体でここまで飛行したのはフェッラーリン機のみとなった

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長い飛行を終え、日本に到着したフェッラーリン。和服を着て日本刀を携えた彼は、すっかりサムライ気分である。

そうして、1920年5月31日、東京にフェッラーリンとマシェロの2機は到着し、ローマから東京にかけての約1万8000kmの超長距離飛行を達成したのであった。フェッラーリンの飛行は同一機体による世界初の欧州-極東間の飛行でもあり、世界的にも素晴らしい偉業であったのである。その後、フェッラーリンは航空機レースや長距離飛行などに参加して名声を集め、第二次世界大戦が勃発すると空軍パイロットとして復帰したが、1941年にSAIアンブロジーニ107機の試験飛行で事故死してしまった。

ちなみに、『紅の豚』には主人公ポルコの友人として空軍士官のフェラーリン少佐が搭乗するが、この人物は彼がモデルである。

 

日本陸軍フィアット社製の「イ式重爆撃機

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著書『制空』で知られる、世界的な航空理論家ジュリオ・ドゥーエ(Giulio Douhet)。伊土戦争での「世界初の航空爆撃」にも参加した彼は、戦略爆撃の重要性を説き、世界的の航空理論に大きな影響を与えている。

1922年にムッソリーニがローマ進軍で政権を掌握し、政権を樹立した。ムッソリーニは著書『制空』で知られる航空理論家のジュリオ・ドゥーエ将軍を招き、またダンヌンツィオのウィーンビラ撒き飛行にも参加したアルド・フィンツィを空軍次官に任命し、彼の元でイタリア空軍は世界的にも早い段階で1923年に独立した空軍として設立された。独立したイタリア空軍は陸軍航空隊と海軍航空隊を合併して誕生し、「イタリア空軍の父」イタロ・バルボ空軍元帥のもとで発展を遂げることとなる。

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中国に派遣されたイタリア空軍の顧問。左がロベルト・ロルディ将軍(1933-35)で、右がシルヴィオスカローニ将軍(1935-37)。イタリアは中国空軍の発展に大きな役割を果たしている。

時は進んで1930年代の極東。当時、イタリア空軍が影響を与えていたのは、日本ではなく中国だった。イタリアは中国市場を重要視し、中国での影響力拡大を推進していた。特に軍需関連分野の市場であり、1933年~35年にかけてはイタリアは中国に空軍顧問を派遣、その影響もあって総額4800万リレの軍用機と関連機器を売却している。1933年、最初に派遣された空軍顧問はロベルト・ロルディ将軍で、彼は蔣介石との信頼関係を構築して中国空軍の発展に重要な役割を果たしたが、イタリア政府と対立したため1935年に解任された。その後派遣されたシルヴィオスカローニ将軍は第一次世界大戦時のエースパイロットでもある人物だった。スカローニ将軍はロルディ将軍の突然の解任に気を悪くした蒋介石との関係を修復するのに苦労したという。日中戦争が開始された時点ではイタリア空軍の顧問はまだ中国に常駐しており、中国空軍の航空部品の大半がイタリア製であると日本側はたびたび指摘していた

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東條英機将軍。後の内閣総理大臣関東軍参謀長時代にイタリアの対日接近を高く評価し、イタリア航空技術の日本への導入のきっかけを作った。

イタリア政府の中国での影響拡大の方針は、ソ連の中国での影響拡大を防ぐ「反共的方針」に基づくものであり、これはドイツも同様であった。しかし、中国政府がエチオピア戦争での対イタリア経済制裁に賛同した事に対して、上海総領事として中国で勤務した経験もあったガレアッツォ・チャーノ外相は遺憾とし、日中戦争勃発後、1938年8月にイタリアは中国への航空機売却を停止し、12月には空海使節の完全撤退を決定、これによってスカローニ将軍はイタリア本国に帰国した。これ以降、イタリアは中国との関係重視政策を転換し、日本との関係を重視するようになる。11月29日にはイタリアは満州国を承認し、その姿勢を示した。日本側も、関東軍東條英機参謀長がイタリアの親日路線を評価し、100万ドル相当のフィアット社製の戦車を購入すると約束してそれに応えている。これを機に日本とイタリアは経済関係を強めていき、両国の経済協定、そして満州国とイタリアの経済協定につながった。

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日本に輸出されるフィアット BR.20"チコーニャ"爆撃機

1938年には日本はイタリアからフィアットBR.20"チコーニャ"爆撃機を85機輸入し、これは「イ式重爆撃機」として日本陸軍が中国戦線で使用した。運用指導のためにイタリア空軍の武官やフィアット社の技術者が派遣されたが、訓練期間は短期間ですぐに戦線に投入されたために日本陸軍航空隊のパイロットが当機を上手く運用出来なかった

しかし、当機の武装は現地部隊にも高く評価され、当機に搭載されたブレダ社製のSAFAT航空機関銃は陸軍の航空機関銃開発に大きな影響を与えている一式戦闘機「隼」や三式戦闘機「飛燕」、四式戦闘機「疾風」といった数々の陸軍の主力戦闘機に搭載されたホ103航空機関銃はSAFAT航空機関銃と同一規格の弾丸を使用している。また、その前に作られたホ102航空機関銃は完全にSAFAT航空機関銃のコピー品だった。

 

◆大戦時のローマ-東京飛行「G要求」

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1942年の極東飛行に使われたサヴォイアマルケッティSM.75RT。その前に立つのはモスカテッリ中佐他、イタリア空軍の搭乗員と日本当局の人々。

こうして経済的にも軍事的にも協力関係を進めていったイタリアと日本は、1940年9月にドイツ・イタリア・日本の間で締結された三国軍事同盟によって更に協力関係を強化し、正式な同盟国となったのである。大戦が進んでいくと、欧州方面での戦局の打開がドイツ・イタリア両国のみでは困難になっていき、日本からの戦略物資の輸入が求められた。当時はソ連は「連合国」としては参戦していなかったため、シベリア鉄道経由での輸送が可能でもあったが、東部戦線が開戦するとそれも不可能となった。

イタリア海軍とドイツ海軍はこれに対して潜水艦での「遣日潜水艦作戦」を開始し、イタリア海軍からは「カッペリーニ」「トレッリ」「ジュリアーニ」の3隻が極東まで辿り着くことに成功している。また、東アフリカ戦線の戦局の悪化により、イタリア紅海艦隊の残存艦(通報艦「エリトレア」及び仮装巡洋艦「ラム2(後にカリテア2と改称)」)が日本に辿り着き、日本の参戦と共にアジア・太平洋戦線で活動を再開している。更にイタリアは天津に租界を擁してたため、そこに所属する極東艦隊も活動した。

その海軍によるイタリア・日本の連絡とは別に、イタリア空軍はローマ-東京連絡飛行を計画した。これは1920年のフェッラーリンによるローマ-東京飛行に続き、2回目の飛行であり、十分なノウハウもあった。更にイタリア空軍はこれまでに、イタロ・バルボ空軍元帥による2回に渡る大西洋横断飛行や、エットレ・ムーティ空軍中佐によるバーレーン油田地帯への長距離爆撃も成功させており、長距離飛行のノウハウは十分だった。

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極東飛行を指揮したアントニオ・モスカテッリ(Antonio Moscatelli)中佐。

飛行にはサヴォイアマルケッティ社のSM.75輸送機が選ばれ、長距離飛行に耐えうるように改造されている。具体的には馬力アップしたアルファロメオ社製の128エンジンを搭載し、防弾装甲や大容量燃料タンクを搭載、更に尾翼デザインを変更して銃座も撤去した。この特別機はSM.75RT(Roma-Tokyoの頭文字)と呼ばれている。

機長にはアントニオ・モスカテッリ中佐が選ばれた。彼は大西洋往復22回の経験を持ち、イタリア空軍最高の急降下爆撃機エースであるジュゼッペ・チェンニが所属した第97急降下爆撃航空群を指揮していた人物でもあった。モスカテッリ中佐含め計5名の人員が選ばれ、出発の準備が進められた。

1942年6月29日、ローマを出発して日本に向かった。今回のルートは最短距離で日本に向かう関係から、フェッラーリンの時とは異なり南周りではなく北回り、つまりはロシア上空を通って日本に向かうルートだった。しかし、これには問題が生じた。イタリアはソ連と既に敵国の関係だったが、日本はソ連と日ソ中立条約を結んでおり、ソ連を刺激しないためにも事前協議で反対していた。イタリア側は日本側の強い要望を受けてこれを受け入れて南周りで向かうことにしたものの、燃料消費が激しく、倍近い飛行距離に加えて気象条件の悪い南周りルートは結局断念せざるを得なくなった。そのため、ソ連上空を通って日本に向かわざるを得なくなった。当然、ソ連とイタリアは交戦状態であるために激しい対空砲火を受けるなど危険にも度々晒されているが、何とか内モンゴルの包頭飛行場に到着している。同地で日本側の歓迎を受けたモスカテッリ中佐らは1日間の休養の後、再び出発して日本に向かった。

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ローマに到着し、無事帰国を果たしたSM.75RT機とモスカテッリ中佐ら

7月3日17時4分、東京にSM.75RT機は到着した。実に8300kmの距離を戦時中という危険な状態でありながら飛行を達成した。これは唯一の事例であり、ドイツ空軍も日本陸海軍航空隊も達成できなかった偉業である。

しかし、日本側ははるばる辿り着いたモスカテッリ中佐らを福生基地内の宿舎に軟禁した。理由は当然、ソ連上空を通ったからであった。日本側はソ連側を刺激しない為にこの事実を公表せず、更にやはり帰路に関しても南周りのルートを要請した。それに加えて特使として「作戦の神様」こと、辻政信陸軍中佐の同乗も要求したが、思わぬ冷遇に腹を立てたモスカテッリ中佐らは干渉を避けるため重量過多を理由に辻中佐の同乗を断り、7月16日の早朝に密かに東京を出発し、帰路についた。

当然ではあるが、結局帰りも北回りルートだった。帰路も約8000kmを飛行し、7月20日にローマに無事帰還したのである。ローマではムッソリーニ統帥らや日本陸海軍の武官が一行の帰還を歓迎したのであった。その後も再度極東飛行の計画が進められたが、日本側は南周りの要求を断固撤回しなかったため両者の折り合いが付かず、行われることはなかったのである。

 

日本海軍と、カプロニ社製ジェット機のライセンス契約

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「イタリアのジェット機の父」セコンド・カンピーニ技師。イタリア初のジェット機「カプロニ・カンピーニN.1(C.C.2)」を設計した人物である。

1943年9月、バドリオ首相率いるイタリア王国政府は連合国と休戦した。しかし、イタリアは戦争から離脱したわけではない。その後ドイツ軍に解放されたムッソリーニ統帥によって、北部及び中部イタリアにファシスト政権の後継政権たる「イタリア社会共和国(RSI政権)」が誕生し、イタリアは南北に分断され、内戦状態に陥った日本はRSI政権を「正統なイタリア政府」として承認し、「イタリア」は三国同盟を維持しつつ抗戦を再開したのである。

日本海軍はジェット機開発を進める上で、イタリアの休戦以前からイタリアのカプロニ社が開発したジェット機「カプロニ・カンピーニN.1(C.C.2)」と、開発中のターボジェットエンジンに興味を抱いていた。休戦後、日本海軍は1944年6月にRSI政権下のカプロニ社とこのジェット機とエンジンのライセンス契約を結んだ。更に9月には新型ガスタービンエンジンの購入も打診している。

このカプロニ社のジェット機自体の説明もしておこう。時を戻して1940年8月、カプロニ社はイタリア初のジェット機「カプロニ・カンピーニN.1(C.C.2)」の初飛行に成功していたこれは「世界で初めて飛行したジェット機」として国際航空連盟にも承認された...のだが、実はこの1年前にドイツのハインケル社が秘密裏にジェット機「ハインケル He178」の初飛行に成功しており、後に記録は覆されることとなった。

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イタリア初のジェット機「カプロニ・カンピーニN.1(C.C.2)」。ヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館に実物が保存されている他、地上試験機の残骸がミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館に保存されている。

とはいえ、当時は世界初の偉業として認定され、世界的にも有名になった。日本でもこの事実は伝えられ、日本の航空雑誌にもデカデカと書かれた日本ではこれのみならず、フェッラーリンの影響かイタリア機に対する評価は高かったようで、ドッリオ大尉がテストパイロットを務めて数々の世界記録を達成したレダ社のBa.88"リンチェ"戦闘爆撃機も非常に高く評価されていたようである。

さて、この「カプロニ・カンピーニN.1(C.C.2)」であるが、若き航空技師セコンド・カンピーニ氏によって設計されたモータージェット機で、カプロニ社によって作成された。カプロニ社は「世界初のジェット機」として知られる「コアンダ=1910」(ルーマニア人技師のアンリ・コアンダが設計し、カプロニ社の設備で生産された)を以前作成しており、その経験が買われてイタリアのジェット機開発を担ったのである。

ちなみに、1941年12月8日、日本海軍が真珠湾攻撃をした知らせがイタリアに渡ったその時、ムッソリーニ統帥はフージェ空軍参謀長を伴って当機の試験飛行に立ち会っていた。彼は日本の参戦を聞いて熱狂的に喜んだという。ドイツが対ソ侵攻した時とは反応が真逆であるのも興味深いが、アメリカという大国が敵に回った事に対する事の恐怖よりも、日本が完全に味方側になった事の方が彼としては嬉しかったようだ。

こうして試験飛行を繰り返した「カプロニ・カンピーニN.1(C.C.2)」であるが、その後はターボジェット化を目指した研究が行われ、またジェット戦闘機やジェット爆撃機への発展も計画されていった。しかし、開発途中でイタリアの休戦が訪れたため、開発プロジェクトは中止になってしまった。

その後、RSI政権が誕生すると他の航空企業と同様にカプロニ社は生産を再開し、RSI空軍やドイツ空軍向けに航空機を生産した。RSI政権支配下のイタリア航空企業は、生産効率が悪くなるどころか、寧ろ休戦前よりも生産効率が良くなったという。その後、休戦後の混乱から脱してRSI政権がようやく機能し始めると、極東でジェット機開発を進める日本はジェット機開発のノウハウがあるカプロニ社と先ほど述べたようにライセンス契約を結んだのであった。これは先述したように以前から日本国内でイタリアのジェット機開発が高く評価されていたためと考えられる。

イタリアに派遣されて航空機研究を行っていた庄司元三海軍中佐がカプロニ社から資料提供を受けて日本に持ち帰ることとなった。しかし、庄司中佐らが乗っていた潜水艦が欧州戦線の終結によって降伏することとなり、彼は睡眠薬で自殺を遂げたのであった。これにより、カプロニ社のジェット技術は日本に届くことはなかった

しかし、技術は届かなかったが、戦前から行われていたカプロニ社のジェット開発が日本のジェット開発に影響を与え、刺激を与えた事は事実である。なお、第二次世界大戦末期の1945年に初飛行した日本海軍開発の日本初のジェット機橘花は、ドイツのメッサーシュミット社が開発したMe 262の技術を参考にして作られたものだった。カプロニ社の技術が日本に届いていたら、これとは異なる形になっていただろう。

 

今回は両国の航空を結んだ4つの事柄について紹介してみたが、調べてみたらもっとあるかもしれない。今後とも調べていきたい。

 

↓第一弾 幕末・明治日本の近代化におけるイタリアとの貿易(日伊修好通商条約)

https://associazione.hatenablog.com/entry/2018/10/05/235417

 

↓第二弾 イタリアから日本に伝わった大砲技術と日露戦争(二十八糎榴弾砲)

https://associazione.hatenablog.com/entry/2019/02/04/235530