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サンマリノ共和国におけるファシスト政権史(1923-44) ―中立を宣言した山上の小国ファシズムの悲哀―

現在、イタリア半島には三つの国家が存在する。一つ目はイタリア共和国、二つ目はローマ市内にある「世界最小の国家」ヴァチカン市国、そして三つ目がサンマリノ共和国だ。サンマリノ共和国は周囲をイタリア領(エミリア・ロマーニャ州マルケ州)に囲まれた小国で、「現存する世界最古の共和国」である。国土面積的には世界で五番目に小さく、ワイン畑が広がるのどかな国だ。アクセスはイタリアのリミニ駅前からのバスで北部国境から入国するのが一般的だが、ウルビーノからのバスで南部国境から入国することも出来る(本数は少ない)。

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美味しいサンマリノワイン。後ろに見えるのは、サンマリノ共和国の国政を司るプブリコ宮。

ローマ皇帝ディオクレティアヌスによるキリスト教迫害を受け、マリーノ(マリヌス)というダルマチア出身の石工がティターノ山に籠城し、301年に建国したとされる。彼は後に聖人として「聖マリーノ(サン・マリーノ)」と呼ばれて国家の名前の由来となった。その後徐々に共和政と呼べるような国家形態が出来上がり、1291年に教皇ニコラウス4世(ニッコロ4世)が共和国を承認したことで、名実ともに国家として認められた

小さな共和国は歴史上様々な脅威に襲われたが、独立を現在まで維持してきた。これは独自の外交手腕によるものが大きい(特にナポレオン時代の外交官アントニオ・オノーフリは知られている)。それでも、歴史上に三度の占領統治を経験しているが、いずれも様々な理由によって短期間に終わっている。一度目はチェーザレ・ボルジアによって10カ月間占領されたが、彼の父である教皇アレクサンデル6世が死に、自らも重病となったため権威は失墜しサンマリノは解放された。二度目はジュリオ・アルベローニ枢機卿の軍勢によって約4カ月間占領されたが、ジローラモ・ゴジサンマリノ市民の抵抗運動と、教皇クレメンス12世が共和国の独立を尊重したことでサンマリノは解放されている。三度目は第二次世界大戦中に起こった。これは後に詳述しよう。

今回注目したいのは、サンマリノ共和国におけるファシスト政権史である。サンマリノ共和国は「自由」を尊重しているが、戦間期から第二次世界大戦時にかけてはファシスト政権が成立しており、イタリアに次いで世界で二番目に成立したファシズム体制であった。この小さな国のファシズム体制が、どのような変遷を辿っていったか見てみよう。

 

サンマリノにおけるファシズム体制の成立

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ジュリアーノ・ゴジ(Giuliano Gozi)

まず、サンマリノ共和国におけるファシズム体制の成立の前に、第一次世界大戦時のサンマリノ共和国について確認してみよう。サンマリノ共和国は第一次世界大戦時は他の戦争と同様に中立を宣言した。リソルジメント—すなわち、イタリア統一戦争の時と同じように、サンマリノ共和国は「同胞」たる義勇軍を派遣した。この義勇兵として参加したのが、サンマリノファシスト党の創設者であったジュリアーノ・ゴジ(Giuliano Gozi)だった。ゴジ家はサンマリノの名門といえる伯爵家で歴代執政を輩出し、「英雄」たるジローラモ・ゴジの家系でもあった。

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サンマリノ義勇兵の記念碑「アラ・デイ・ヴォロンターリ(Ara dei Volontari)」。ファシスト政権期にジュリアーノ・ゴジ外相の命で作られた。リソルジメント第一次世界大戦に参加したサンマリノ義勇兵の名が刻まれている。設計者はジーノ・ザーニ(Zino Zani)。

ジュリアーノ・ゴジは1894年8月7日に首都サンマリノ市で生まれた。彼は第一次世界大戦が始まった時はイタリアのボローニャ大学に在学中の学生だった。しかし、「同胞」であるイタリアがオーストリアに宣戦布告して参戦すると、ゴジはイタリア軍義勇兵に志願し、イタリア軍に入隊した。士官学校を経てアルピーニ(山岳兵)中尉に任官されたゴジは前線で奮戦し、イタリア軍最高名誉である金勲章を叙勲されている。

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ジュリアーノ・ゴジがアルピーニ兵として戦ったアルプス戦線の前線。

なお、このサンマリノ義勇兵であるが、いくつかの問題が発生した。「敵国」であったオーストリア=ハンガリーサンマリノのこの行動を「中立違反」として非難し、外交関係を断絶をさせた。また、「同胞」たるイタリアもサンマリノが正式参戦しなかったことから、オーストリアのスパイや脱走兵を匿っていると疑い、電話線を切断するという暴挙に出ている。とはいえ、サンマリノ義勇兵は戦場で戦って戦果を挙げた。特に野戦病院はイタリア戦線で重要な役割を果たしている。カポレットの敗戦で殆どの建物が破壊された後でさえも、新しい野戦病院が直ちに作られてイタリアの負傷兵の救助と援助を行った。ドイツ降伏後の1918年11月30日、サンマリノ義勇兵による戦時中の活動は終わり、サンマリノ国旗がトリエステ市長に贈呈された。

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伝統的な衣装のサンマリノ軍儀仗兵。サンマリノ共和国は国防には頼りないが、独自の軍隊を保有している。警察組織もイタリアとは別のものが存在している。

第一次世界大戦が終局に向かい、中央同盟国が崩壊に向かっていった1918年9月、ジュリアーノ・ゴジはサンマリノに帰国し、報酬金といくつかの勲章を贈られたが、報酬金の受け取りを拒否している。この数カ月前にジュリアーノ・ゴジはサンマリノ共和国の外相に任命された。彼は1943年に「一時的に」失脚するまで外相であり続けた。

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プブリコ宮前で記念撮影をするサンマリノファシスト党員。左からマリーノ・ロッシ教授(Marino Rossi)、ジュゼッペ・マステッラ(Giuseppe Mastella)、フランチェスコ・バルシメッリ(Francesco Balsimelli)。マステッラを除き執政経験者である。

第一次世界大戦後、サンマリノ義勇兵の帰還は国民から歓迎された。戦死した兵士は「偉大なる社会の家」にその名が刻まれたが、これはサンマリノ人の最高の名誉だったという。しかし、サンマリノ共和国はイタリア同様に経済不況に陥った。政治的にも不安定になり、もはや自由主義は機能しなくなっていたのである。一方、同様の事態に陥っていたイタリアではベニート・ムッソリーニ率いるファシズム運動が支持を急速に伸ばしつつあった。1921年には「イタリア戦闘者ファッシ」を母体として「国家ファシスト党」が誕生する。ジュリアーノ・ゴジ外相はこれを模倣し、1922年8月に「サンマリノファシスト党(Partito Fascista Sammarinese)」を成立させた。サンマリノファシストたちは中産階級の支持を取り付けて、社会主義者の家を襲撃して周った。

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サンマリノを訪れたムッソリーニ統帥。左の人物がジュリアーノ・ゴジ外相。

こうして大多数の支持を得ていったサンマリノファシスト党は、1922年10月に成立したイタリアのファシスト政権に続いて、1923年4月の選挙で大勝、世界で二番目のファシスト政権が成立したのであった。執政(サンマリノ国家元首)の一人にはジュリアーノ・ゴジ自身が選ばれ、ファシスト最初の執政となった。同年10月の選挙では執政が二人ともファシストから選出され、更にすべての社会主義組織が禁止された。事実上、ファシズム独裁政権が始まりを告げたのである。

 

戦間期サンマリノファシスト政権

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ファシスト政権期の執政就任式。サンマリノ共和国の国家元首は2人の執政で、任期は半年。3年間の再選は認められていない。このシステムはファシスト政権期でも維持された。

サンマリノ共和国におけるファシズム体制は、イタリアのファシズム体制とは異なり、最初から共和政ファシズムであった(イタリアはRSI政権期を除けば君主制ファシズムである)。更に、議会をファシスト党員による議会に改組しているものの、その枠組み自体は残され、半年ごとに選出される2人執政制度も維持されたままであった要するに、「自由主義の守護者」たる伝統的な共和政を維持しつつも、ファシスト体制を取り入れたという、世界でも類を見ないファシスト政権なのである。(ジュリアーノ・ゴジという有力者がいたとはいえ)個人独裁ではないという点も興味深いだろう。

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リミニ-サンマリノ鉄道。英軍による空爆によって破壊され、数十年間放置されていたが、車輛と一部路線が2012年に修復された。鉄道路線として今後復活させるプロジェクトが進められているという。

その後、サンマリノはイタリアのファシスト政権と密接な関係となり、ムッソリーニ統帥も何度かサンマリノ共和国を訪れている。1933年にイタロ・バルボ空軍大臣が二度目の大西洋横断飛行を成功させると、それを記念して彼をサンマリノ名誉市民に任命している。1932年にはイタリア政府の負担でサンマリノ史上唯一の鉄道である「リミニ-サンマリノ鉄道」が開通した。これは首都サンマリノ市とイタリアのリミニ市を繋ぐ鉄道であった。このほか、先述した「アラ・デイ・ヴォロンターリ」を始めとする数々の建築がファシスト政権期に作られ、現在も残っている。この時活躍した建築家がサンマリノ出身のジーノ・ザーニ(Gino Zani)だった。戦間期はイタリアと同様に、歴史の中で最も建築が加速した時期と言えるだろう。

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エチオピア戦争に派遣されるサンマリノ義勇兵部隊。

更に1935年に「同胞」であるイタリアがエチオピア帝国に侵攻を開始すると、サンマリノイタリア軍義勇兵を派兵している。続けて発生したスペイン内戦介入にも義勇兵は派遣された(アルバニア戦争は短期間に終わったため参加しなかった)。こういった「親イタリア外交」はジュリアーノ・ゴジ外相のファシスト政権期に強く行われ、外交的にサンマリノ共和国はイタリアの属国に成り下がったように見られた。とはいえ、フランスやアメリカとの伝統的な友好関係も維持されていた。

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エツィオ・バルトゥッチ(Ezio Balducci)博士。ボローニャ大医学部出身。サンマリノファシスト党の有力ファシストで、1929年10月から翌年4月まで執政を務めている。党内派閥の一派を率いたが、粛清により失脚した。

とはいえ、ファシスト体制も盤石とはいかなかった。国内の反ファシストはもはや力を持たなかったが、ファシスト党内に反体制派が存在した。1933年には元執政のファシスト党エツィオ・バルトゥッチ(Ezio Balducci)博士率いる一派が主流派ファシストへのクーデターを企てたが、ローマのイタリア当局に逮捕されて失敗に終わっている。この結果、特別法廷によってバルドゥッチら反体制派ファシストらは重労働刑が処され、ファシスト党内の反体制派は粛清された。

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ファシスト政権期に作られたジローラモ・ゴジ像。ジュリオ・アルベローニ枢機卿サンマリノ支配に市民を率いて抵抗した「救国の英雄」である。

ジュリアーノ・ゴジは計5回執政に選出されている(1923.4~10, 1926.4~10, 1932.4~10, 1937.4~10, 1942.4~10)。ジュリアーノ・ゴジ伯は外相と内相、そして党書記長を1943年の失脚まで務めただけでなく、マンリオ・ゴジ(Manlio Gozi)やフェデリーコ・ゴジ(Federico Gozi)といった同家の出身の人物を要職に就任させている。またゴジ家の祖先に当たる救国の英雄ジローラモ・ゴジの像もこの時に作られた。

 

◆「中立国」サンマリノ第二次世界大戦

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第二次世界大戦時のイタリア-サンマリノ国境。中立を示す看板が掲げられている。また、家屋の屋根には爆撃を防ぐために中立を意味する十字架が描かれた。

1939年、ナチス・ドイツポーランドに侵攻を開始し、第二次世界大戦が開戦した。友好国イタリアは準備不足から中立を宣言し、同じくサンマリノ共和国も中立を宣言した。翌年6月にイタリアは英国及びフランスに宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦したが、第一次世界大戦同様に中立を維持したままであった。同年9月17日にはサンマリノ共和国が英国に宣戦布告したという誤報が流れたが、サンマリノは中立を引き続き宣言した。

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イタロ・バルボ空軍元帥。数々の空軍イヴェントを開催し、イタリア空軍を精鋭として育て上げた「イタリア空軍の父」である。サンマリノ共和国名誉市民であり、出身地フェッラーラがサンマリノから比較的近かったことからサンマリノ市民にも親しまれた。

とはいえ、サンマリノファシスト政権であったため、中立といえども「親枢軸中立」であった。スイスやスペインに近いかもしれない。1939年にはイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世との間に友好善隣条約の更新を行っており、イタリアとの友好関係を再確認している。また、例の如く義勇兵イタリア軍に派兵していた。この義勇兵派遣とは別に、党から追放されたエツィオ・バルトゥッチ博士はイタリア軍の一員として参加したようである。医師出身である彼は北アフリカ戦線の野戦病院で従事したが、バルディアの戦いで英軍の捕虜となっている。1940年6月28日にサンマリノ共和国名誉市民であったイタロ・バルボ空軍元帥がトブルク上空で味方からの誤射によって戦死すると、哀悼の意を述べている。

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三つ山のタルト(Torta Tre Monti)。サンマリノの隠れた銘菓。実は第二次世界大戦中の1942年からドマニャーノの会社が販売を開始した。もしかしたら避難民にも振舞われていたかも?

中立国であったが、周囲をイタリア領に囲まれたサンマリノは、経済的にも厳しい状態となった。1941年1月10日、政権によって貧困者のための公営食堂がサンマリノ市に開設され、毎日約600食の食事が提供された。少ないように感じるが、サンマリノ市の人口(現在ですら4000人程度)からするとこれくらいで良いのかもしれない。こういった食事提供はファシスト党の女性団体によって主導された。2月5日にはボルゴ・マッジョーレとセッラヴァッレなど他のカステッロでも食事提供が開始されている。

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若き日のフェデリコ・フェリーニ

第二次世界大戦時のサンマリノ共和国は、人口をはるかに超える(当時の総人口は1万2000人程度)10万人もの難民を最終的に受けいれた。この難民の中にはイタリア映画の巨匠フェデリコ・フェリーニも含まれていた(彼はリミニ出身だった)。1943年の終わりには7000人以上のリミニ市民が共和国の領域に避難していた。翌年中旬になるとその二倍ほどにまで多くなり、結果的にリミニ以外からも多くの人が集まって10万人もの避難者を受け入れたのである。多くはエミリアロマーニャトスカーナ、ウンブリア、マルケといった周辺の地方から来た人々だった。また、1942年9月にはイタリアの「人種法」を模倣した反ユダヤ法案を制定したものの、そこまで効力はなかった。実際、け入れた10万人の難民のうち、約千人がユダヤ人難民だったのである。同時に、サンマリノ人は「アーリア人種」とされ、「アーリア人種」以外の人種(ユダヤ人など)との結婚は禁止され、外国人との結婚も厳しく制限された(しかしイタリア人は外国人には含まれない)。

外交関係にも変化が起こった。サンマリノとドイツは第一次世界大戦以降国交が成立していなかった(サンマリノは中立国故に講和会議に参加していなかったため)が、「準枢軸国」とも言える立場にいたサンマリノはナチ政権下のドイツと国交を成立させた。人種法案の成立もそこに由来していると言える。なお、同じく枢軸国だった日本とは国交が成立しておらず、両国が本格的な国交を開始するのは1961年の両国間の領事関係成立が初である(1996年に正式な外交関係が樹立)。

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サンマリノを守護する衛兵。その長い歴史において堅牢な城壁で独立を守っていたサンマリノ共和国だが、近代になると独立を維持するには十分とは言えない貧弱な武装だった。

国防に関しては、貧弱な装備であるがサンマリノ軍は防衛のために武装した。近代的な装備は4つの大砲(国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世からの寄贈)、80挺のカルカノ小銃、2挺の機関銃(アオスタ侯アメデーオからの寄贈)のみであり、残るは伝統的な石弓や刀剣、ランスなどであった。これらの武装は現在もサンマリノで見る事が出来る。

 

◆英軍によるサンマリノ空爆と侵攻

戦局は次第に連合国有利になっていった。遂にシチリア島に連合軍が上陸し、イタリア軍は敗北の色が濃くなっていた。1943年7月25日にはイタリアで王党派クーデターが発生し、ムッソリーニ統帥は失脚する。後任の政権は元イタリア軍参謀総長ピエトロ・バドリオ陸軍元帥によって組閣された。この政権は当初は枢軸国側での交戦維持を宣言したが、水面下では連合軍側との交渉を進めていた。

イタリアでのファシスト政権崩壊の煽りを受けて、3日後にはオノフリオ・ファットーリ(Onofrio Fattori)将軍らによるクーデターが発生し、サンマリノファシスト体制は一時的に崩壊するに至った。追放されたバルドゥッチ一派の裁判の無効が宣言され、政治犯の釈放なども行われた。また、イタリアとの外交関係を見直し、ファシスト政権下で失われた主権の一部をバドリオ政権との交渉で取り戻した。アメリカや英国との関係の悪化を改善するために様々な手段が取られたが、上手く機能していない。イタリア同様にファシストへの「復讐」—暴力行為も各地で発生し、サンマリノファシスト党書記長のジュリアーノ・ゴジも自宅に監禁された。

しかし、この「自由主義の復古」は短期間に終わった。9月8日にバドリオ政権は連合国と休戦し、速やかにドイツ軍がイタリア半島を制圧したからである。9月23日にはドイツ軍によって解放されたムッソリーニ統帥が新ファシスト政権、イタリア社会共和国(RSI政権)」の樹立を宣言する。10月25日、エルヴィン・ロンメル元帥率いるドイツ軍とサンマリノ共和国政府は協議し、中立と独立を再確認した。

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最後のファシスト執政、フランチェスコ・バルシメッリ(Francesco Balsimelli)。

この影響で、ジュリアーノ・ゴジらサンマリノファシストらは返り咲いた。1944年1月にジュリアーノ・ゴジらはサンマリノファシスト党の後継政党に当たる「サンマリノ共和ファッショ(Fascio Repubblicano di San Marino)」を創設し、復古ファシズム政権を作り上げた。これは完全にRSI政権の与党となった共和ファシスト党を模倣したものであった。いわば、サンマリノ版RSI政権とも言えるが、サンマリノは元々共和国であるため国家体制が変わったわけではない。

復古ファシズム体制はRSI政権を「正統なイタリア政府」として承認し、新たな協定を締結した。これによって、RSI政権から支援物資の補給を受け取っている。しかし、サンマリノの人口を25000人と見積もっていたため、避難民の数(約10万人)を合わせると圧倒的に物資が不足したサンマリノはイタリアからやってきた避難民によって溢れかえっていたのである。この食糧と物資の不足の中、避難民のための避難場所を提供するためにサンマリノ市民は尽力し、食糧が無料で配給された。2月には配給委員会が設立され、食糧及び生活必需品の輸出を禁止し、それらを徴発したファシスト政権期に新たに作られた慈善病院は避難民の患者を収容し、政府官邸や教会、衛兵の兵舎などさえも避難民の避難所となったのである。

4月には最後のファシスト執政、フランチェスコ・バルシメッリ(Francesco Balsimelli)サンツィオ・ヴァレンティーニ(Sanzio Valentini)が就任した。サンマリノ国内でもイタリア同様にパルチザン闘争が起こり始めた。国土の狭さ故に小規模ではあったが、サボタージュ運動も発生している。

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サンマリノ市の城壁にある空爆のモニュメント。

ただ、サンマリノはこんな状態でもドイツやRSI政権の傀儡政権ではなく、列記とした「中立国」として機能していた。しかし、英国はサンマリノがドイツ側の傀儡政権となっていると考え、最悪な行動を起こした(そもそも英国はサンマリノ共和国の中立を公式に承認したことはなかった)。英空軍による中立国サンマリノへの4回に渡る連続爆撃の実行である。1944年6月には約250発以上の爆弾が首都サンマリノ市に降り注ぎ、63人の一般市民が死亡し、数多くの市民が負傷した。建物への被害も甚大で、鉄道に関しては完全に破壊されて現在に至るまで復興していない。この空襲の時、防空壕として役に立ったのが、この鉄道のトンネルだった。戦火を逃れてサンマリノに難民としてやってきた人々はこのトンネルの中で戦争が終わるのを待っていた。トンネル内は衛生的に良い環境とは言えなかったが、献身的なサンマリノ市民の行動によって、彼らの命は守られたのである。この爆撃はサンマリノに大きな影響をもたらした。ファシスト政府はこれを反連合国のプロパガンダに利用したが、それでも中立を維持した。なお、戦後の1961年になってようやく、英国側はこの爆撃は誤った情報に基づくものだったことを認め、サンマリノ側に賠償金を払って謝罪している。

爆撃の影響は大きかった。電気も止まり、製粉所やパン工場は機能を停止、食糧供給も絶望的な事態となった。しかし、市民の尽力によって古いかまどや牛車といった「伝統的な方法」を使うことで食糧をなんとか賄った。

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サンマリノ領内の英兵。後ろにはサンマリノの象徴たるティターノ山が見える。

サンマリノへの中立侵害はこれだけには終わらなかった。1944年9月になると、連合軍の進撃に追われたドイツ軍とRSI軍は、サンマリノ領内を通って撤退した。これは共和国の中立を侵害するものであった。枢軸軍がサンマリノ領内を通るとなると、当然それを追撃するために連合軍もサンマリノ領内に侵入することとなる。こうして、サンマリノは戦場となったハリー・ホッペ将軍率いるドイツ軍及びRSI軍と、アーサー・ホルワージー大佐率いる英軍及び英領インド軍が、サンマリノ領内のファエターノ、モンテ・プリート小教区で衝突し、双方に600人近くの死者を出した。なお、ドイツ軍は撤退時に僅かに残っていた工場施設すらも破壊している。この戦いに勝利した英軍はサンマリノ共和国を制圧し、これによって復古ファシズム体制は崩壊、ジュリアーノ・ゴジらファシストらは逮捕されることとなった「中立国」であるはずのサンマリノ共和国のファシズム体制は、外国軍の進駐によって崩壊したのであった(サンマリノ史上三度目の外国軍による占領である)。なお、この英軍の侵入は先述した爆撃とは異なり、英政府は公式に謝罪を拒否している。理由は先にドイツ軍がサンマリノの中立を侵害したため、これは中立侵害には当たらない、という見解であった。英国占領下に置かれたサンマリノ共和国では、1944年11月の選挙で42票賛成、5票反対の結果、2000人ものファシストらの追放が決定された。こうして、サンマリノファシスト政権は完全に崩壊したのである。

 

意外と知られていないサンマリノ共和国史。小国における特異なファシズムは興味深いと思うし、中立を侵害された小国という歴史も興味深いだろう。ただ、現状として、日本語で確認できる資料はイタリア文化会館に置かれている1冊(ジュゼッペ・ロッシ著/マンリオ・カデロ、菅博訳『サンマリノ共和国—自由と平和を守り抜いた世界最古の共和国—』日高データバンク・1987)のみで、イタリア語文献も基本的にサンマリノに行かなければ手に入らないのがネックである(ただ、サンマリノの書店に行けば割と売っている)。インターネットで確認出来るものは断片的なものに過ぎず、正直全く役に立たない。「自由主義の守護者」たるサンマリノ共和国にとって、ファシスト政権期というのは一種の「黒歴史」に近いようで、観光ガイドにも載っていない。故に、専門書でしか確認出来ないのが難点である。TBSの番組で「600年間戦争なし」と紹介されたのも、明らかなウソである(大戦中に中立を侵害されて戦火に巻き込まれている以上、戦争なしとは言えない)。それでも、サンマリノファシズム史に興味がある!という人がいれば是非サンマリノ現地に行ってほしい。ファシズム体制期に作られた建築は残っているし、少ないものの名残も感じられるだろう。

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サンマリノ神社の鳥居。とてもイタリア半島にあるとは思えない風貌だ。

サンマリノ自体はそうでなくても、観光地としては素晴らしい場所だ。Twitterでも紹介したが、日本人としては是非とも「サンマリノ神社」に寄っておきたいところ。地味ではあるが、ヨーロッパ唯一の神社本庁公認の神社である。便が悪いのが難点だが、サンマリノに旅行に行かれた際は是非とも行ってみてほしい。ブドウ畑と大きな池に囲まれた「聖域」は、風の音だけが聴こえて来た人の心が洗われることだろう。

 

というわけで、皆さんもサンマリノ共和国に行こう!