「黒シャツを着たユダヤ人将軍」アルベルト・リウッツィ将軍 ―様々な「顔」を持った「忘れられた英雄」―
ファシスト政権下のイタリアでは、ナチス・ドイツへの接近に伴い、所謂「人種法(Leggi razziali)」と呼ばれる一連の反ユダヤ法案が成立した。しかし、ここで勘違いしてはいけないのは、それ以前のイタリアでは概して「イタリア・ファシズムとユダヤ人の関係は良好だった」という点だ。これはイタリアにおけるユダヤ人問題と、ムッソリーニの対ユダヤ人認識から考えることが出来る。
イタリアでは反ユダヤ主義は浸透していたが、イタリア系ユダヤ人は完全に同化していた上に、国内のユダヤ人の数は約4万2千人と少なかった。その上、多くのユダヤ人はムッソリーニ政権成立後には熱狂的なファシストとなったため、ナチス・ドイツのような「人種主義政策の土壌となるようなユダヤ人問題」は存在しなかった。指導者であるムッソリーニ自身もバラバーノヴァやベルクソンといったユダヤ人知識人から強い影響を受けており、ユダヤ人を特に好いてはいなかったが、反ユダヤ的感覚も抱いていなかった。この姿勢が、ナチス・ドイツ成立後にヒトラーの人種主義との対抗という意味を込めて強調されることになる。また、この時期はユダヤ教の自由を保障する法律が制定され、ムッソリーニもシオニズム運動に対して好意的な姿勢を示した。
これらの「ユダヤ人への寛容ムード」も、エチオピア戦争を機に徐々に変化していくが、少なくとも「人種法」でユダヤ人が公職追放を受けるまで、多くのユダヤ人ファシストが政権中枢にも多くいたことは事実である。そこで、今回はユダヤ人ファシストの黒シャツ将軍で、軍人としてだけではなく、サッカー選手や海軍技師、政治家など様々な「顔」を持ったアルベルト・リウッツィ将軍という人物の経歴を見てみよう。
◆その出自と第一次世界大戦
1898年3月1日、アルベルト・リウッツィはオーストリア国境にほど近いウーディネ県のアルタ・テルメという小さな温泉地で生まれた。彼の父トゥッリオ・リウッツィはユダヤ系の出自の軍医師だった。しかし、当時のイタリアではユダヤ人は生活の中に溶け込み、ユダヤ系の出自を持っていても本人は意識していなかったし、周囲の人々も気にしていなかった。要するに、他の「イタリア人」に同化していた。
リウッツィはウーディネにある工業高校を卒業したが、第一次世界大戦の勃発後、父の影響でイタリア軍に参加する事になった。父トゥッリオは軍医としてイタリア軍に従軍していたのである。また、ウーディネは第一次世界大戦時はルイージ・カドルナ将軍のイタリア軍最高司令部が設置されており、「戦争の首都(capitale della guerra)」とも呼ばれていた。こういった環境がリウッツィを軍人の道に進ませることとなった。
リウッツィはモデナの陸軍士官学校(モデナのドゥカーレ宮殿内にある)に入り、訓練を経てアルピーニ(山岳兵)少尉として任官された。アルピーニ大隊「トルメッツォ」の第8連隊に所属し、山岳戦でオーストリア兵に果敢に戦った。カポレットの大敗でイタリア軍は一時壊滅状態になるも、アルマンド・ディアズ将軍の元で立て直しに成功し、遂にはヴィットーリオ・ヴェネトの戦いで宿敵オーストリアを完全に破ることに成功したのであった。リウッツィは戦時中の活躍によって、終戦までに3度勲章を叙勲され、中尉に昇進した。
戦争が終わると、1919年にリウッツィはラッファエーラ・リグニャーナという女性と結婚した。彼らは幸せな家庭を築き、やがて4人の子ども(トゥッリオ、エンマ、アンナ・マリーア、アルベルト)が出来た。長男トゥッリオはアルピーニの将軍になった。末っ子のアルベルトは父の戦死後に生まれたため、父の名前が付けられた。
◆スポーツ選手としてのリウッツィ
リウッツィはスポーツマンとしても知られていた。陸上競技ではフリウーリとヴェネトで数回トップの成績に輝いた経験を持っていたが、これはチャンピオンだった父の影響もあったようだ。また、1922-23シーズンではウーディネのサッカーチーム「ウディネーゼ・カルチョ」の選手として弟のジュゼッペ・リウッツィと共に参加し、キャプテンとしてこのチームを率いた。以前後に空軍参謀長となるリノ・コルソ・フージェ将軍がカルチョ・パドヴァで選手をしていたことを紹介したが、リウッツィとはシーズンが異なるため選手としては対戦しなかったようだ(フージェは1919-20のシーズン)。
なお、キャプテンとして「ウディネーゼ・カルチョ」を率いたリウッツィであったが、チームの成績は芳しいものではなかった。プリマ・ディヴィジオーネのグループBで、最下位の11位になってしまい、セコンダ・ディヴィジオーネに降格となったのだ。そういったことからか、キャプテンとしてのリウッツィの能力はあまり評価されていないようである。
ボクシングについても熱心であり、同じフリウーリ出身のプリモ・カルネラとは親交があった。プリモ・カルネラは身長2mほどの巨体を持つ「歩く山岳(La montagna che cammina)」と呼ばれたプロボクサー選手で、世界ヘビー級チャンピオン。戦後には来日し、日本プロレスに参加、あの力道山とも対戦した人物だ。
◆黒シャツの将兵として、そして海軍技師、政治家として
1922年、ムッソリーニはローマ進軍で政権を手に入れた。1923年2月にはファシスト党の私兵であった「黒シャツ隊」は「国防義勇軍(Milizia Volontaria per la Sicurezza Nazionale、略称M.V.S.N.)」と改称し、陸軍・海軍・カラビニエリと共にイタリア軍を構成する「第四の軍」となった。この後、イタリア空軍(1923年3月独立)がこれに加わり、イタリア軍は五個の軍で構成されることとなる。
MVSN創設に伴い、リウッツィはMVSNに参加して黒シャツを着た。彼は陸軍大尉に相当する「百人隊長(centurione、ローマ軍のケントゥリオに由来)」の地位を手に入れ、黒シャツの中隊を率いる事となった。当然、ユダヤ人としての出自は意識されなかった。彼はカリスマ的な隊長で、また誰とでも親し気に会話が出来る外向的な人物だった。その人格から部下だけでなく、多くの人に慕われたようだ。
リウッツィは黒シャツの将校だったが、技術者出身という経験を生かして海軍で技師として働いた。彼の名は特に優秀な潜水艦技師として知られ、14年間多くの潜水艦の設計に関わった。興味深いことに、彼が戦死した後に建造されたリウッツィ級潜水艦は彼の名前が付けられている。1934年に海軍参謀長となったドメニコ・カヴァニャーリ提督は潜水艦を重要視したため、リウッツィら潜水艦技師らは寵愛を受けたのだった。リウッツィは潜水艦だけでなく、石油掘削装置や民間の客船の設計にも関わった。リットーリオ級戦艦などに搭載された「プリエーゼ式水中防護隔壁」の設計で知られるウンベルト・プリエーゼ提督とも、同じくユダヤ系という出自からも関係があったと思われる。
リウッツィは政治にも参加した。1936年には故郷に近いウーディネ県のジェモーナ・デル・フリウーリという町の市長を務めた。この街は元々ジェモーナという名前であったが、1935年にファシスト政権によってジェモーナ・デル・フリウーリに改称されていた。市長となったリウッツィは自己の利益よりも他者、すなわちここでは市民の利益を優先する人として政治的に反対する市民にさえも広く慕われるようになった。これは上述した彼自身の人柄の良さが大きかった。また、ウーディネに駐屯する第13師団の指揮官も務めていた。
◆もう一人のユダヤ人将校、カミッロ・バーラーニ
エチオピア戦争ではカミッロ・バーラーニ(Camillo Bárány)というユダヤ系の出自を持つ黒シャツ将校がアンバ・アラダムの戦いで戦死した。余談だが、彼のこともここで少し紹介しよう。彼の祖先はハンガリー人亡命者で、ジュゼッペ・ガリバルディと共にシチリアで「ハンガリー軍団」の一員として戦った人物だった。
メキシコに住んでいた若きバーラーニはガリバルディの孫であるジュゼッペ・ガリバルディ(祖父と同名であるため、区別するためにペッピーノと呼ばれる)と共に独裁者ポルフィリオ・ディアスの打倒運動に加わり、フランシスコ・マデロら革命家たちと共に戦っている。第一次世界大戦が勃発によりヨーロッパに戻った彼は、フランス外人部隊に加わり、ペッピーノが率いるイタリア人義勇兵部隊「ガリバルディ軍団」に参加。イタリア軍が第一次世界大戦に参戦すると、「ガリバルディ軍団」は解散し、メンバーはイタリア軍に入隊した。
アルピーニ中尉として大戦を戦い抜いたバーラーニはダンヌンツィオのフィウーメ進軍では「同志」として参加する。その後、ファシズムに接近して黒シャツ隊の一員となった彼はムッソリーニと共にローマ進軍に参加した。MVSNの一員となった彼はグラツィアーニ将軍率いる部隊の一員としてリビア再征服に従軍している。MVSNはファシスト政権が展開した「大地の戦い」と呼ばれる大規模干拓事業にも大量動員された。バーラーニはその一員として干拓に参加し、サルデーニャのムッソリーニア(現アルボーレア)や、ラツィオのリットーリア(現ラティーナ)といった新都市の建設にかかわった。
バーラーニは中隊長としてエチオピア戦争に従軍し、アンバ・アラダムの戦いの中でエチオピア兵の狙撃を受けて戦死してしまった。彼はユダヤ人の出自を持つファシスト軍人として広く知られていた彼は、政権によってイタリア軍最高位の金勲章を叙勲された。しかし、彼もまた「人種法」の制定により、「忘れられた英雄」となったのであった。
◆スペイン内戦への従軍
リウッツィ将軍の話に戻すとしよう。イタリア軍は1936年にエチオピア帝国征服を完了したが、その直後にスペインで内乱が発生したため、ムッソリーニはこれの介入を決定した。これに伴い、MVSN准将(Console generale)にまで昇進していたリウッツィは、スペイン内戦に介入するマリオ・ロアッタ将軍率いるイタリア軍義勇兵部隊「CTV部隊(Corpo Truppe Volontarie)」に参加することとなる。
翌年の1月にはリウッツィは第三黒シャツ師団「ペンネ・ネーレ」隷下の第11旅団隷下「バンデラス」の指揮を任され、スペインに派遣された。しかし、彼は二度と故郷イタリアの土を踏むことはなかった。1937年3月8日、イタリア軍側はグアダラハラでスペイン共和国軍に対して攻勢を開始し、リウッツィ率いる第11旅団も進軍した。
しかし、イタリア軍側の攻撃は霧による視界不良もあり成功せず、共和国軍側の反撃を許した。この反撃に参加した国際旅団にはイタリア人義勇兵の「ガリバルディ大隊」が参加しており、奇妙なことに「ファシスト政権に従ったイタリア人と、ファシスト政権に反抗したイタリア人」の戦いが起こっていた。この戦いはイリオ・バロンティーニ率いる「ガリバルディ大隊」の活躍によって国際旅団側はイタリア軍相手に大勝し、イタリア軍側はこの大敗の結果、「ファシズムの最初の敗北」として反ファシストの宣伝材料とされた。
国際旅団側が反撃を開始した3月12日、スペイン共和国空軍がイタリア軍部隊への爆撃を実行した。この爆撃は「ペンネ・ネーレ」師団を襲い、前線で指揮をしていたリウッツィ将軍のフィアット・アンサルド装甲車に爆弾が直撃、その結果リウッツィ将軍は運転手と共に戦死を遂げたのであった。
この英雄の戦死に対して、ファシスト政権はイタリア軍最高位の勲章である金勲章を叙勲し、1939年~40年にかけて就役した潜水艦の名前にも彼の名をつけた(リウッツィ級潜水艦)。しかし、彼の戦死後の1938年7月にはイタリアで反ユダヤ法案である「人種法」が成立してしまう。こうして、イタリア人はアーリア民族であるとされ、ユダヤ系の出自を持つ人々はそれから除外されてしまったのだ。その後の法処置(これを総称して通称「人種法」と呼ばれる)によってユダヤ人とイタリア人の結婚の禁止、ユダヤ人の商業・産業活動の禁止、公職追放が決められ、ユダヤ人ファシストや軍人らは追放されてしまった。このため、リウッツィ将軍というユダヤ系の出自を持つ英雄の存在も記憶から消し去られてしまったのである。
戦後、リウッツィ将軍の妻ラッファエーラが中心となって、フランコ将軍の協力もあり戦死した場所に記念碑的な廟が作られた。しかし、後にフランコ政権下のスペインに多くの外国人観光客が訪れるようになると、老年のフランコはそれに配慮して1969年にリウッツィの記念碑の解体を命じた。これによってリウッツィ将軍は完全に「忘れられた英雄」となってしまったのであった。
リウッツィやバーラーニといった「黒シャツを着たユダヤ人」は、今となっては完全に「忘れられた存在」となってしまった。「人種法」の制定前は活躍したユダヤ人たちが数多くいたのは確かであるため、そんな「忘れられた存在」である彼らのことを調べてみたら面白いだろう。今後とも調べていこう。