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カナード翼を持った推進式戦闘機「SAIアンブロジーニ S.S.4」 ―先進的「過ぎた」不遇の「イタリア版震電」―

アニメ『荒野のコトブキ飛行隊』を見ていた際に、日本の戦闘機「震電」が出てきたので、「そういえばイタリアにもこんなんあったよなぁ」と思ってちょっと調べてみました。その名は、「SAIアンブロジーニ S.S.4」初飛行は何と1939年3月で、何と第二次世界大戦の開戦前です。震電の初飛行は1945年8月なので、実に6年ほど早い初飛行を遂げたエンテ型・推進式戦闘機でした。この手の戦闘機でもう一つ代表的な、アメリカの「カーチス XP-55 "アセンダー"」も1943年7月が初飛行なので、それよりも4年近く早いということです。私も驚きました。

正直な話、私は航空機の設計についてはサッパリなので、「イタリアもこんなん作ってたんやで!」的なノリで紹介しようと思いますので、細かいところが間違っているかもしれませんがご容赦ください(なのでスペックについてはあまり記述しません)。それでは、「イタリア版震電はどのような航空機であったか、見ていってみましょう。

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SAIアンブロジーニ S.S.4

SAIアンブロジーニ S.S.4は、イタリアの航空機企業「SAIアンブロジーニ社」によって開発された機体です。SAIアンブロジーニ社は「イタリアの緑の心」と言われる中部ウンブリア州のパッシニャーノ・スル・トラジメーノにあった企業で、1922年にアンジェロ・アンブロジーニ技師によって起業された会社でした。しかし、アエルマッキ社やカプロニ社のような「大手」ではなく、あくまで小規模なメーカーでした。

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セルジョ・ステファヌッティ(Sergio Stefanutti)

そんなSAIアンブロジーニ社に、一人の天才技師が現れます。彼の名はセルジョ・ステファヌッティ(Sergio Stefanutti)といい、北部フリウーリのウーディネ出身の若き航空技師でした。彼は最初からS.S.4を設計したわけではなく、その前段階としていくつかの試作機の設計を得て発展していきました。

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最初の試作機「SAIアンブロジーニ S.S.2」

最初の試作機はSAIアンブロジーニ S.S.2と呼ばれる機体で、概ねデザインはS.S.4に似通っていました。これは1935年に初飛行し、飛行試験も良好に終わりました。この時点ではまだ実験機に過ぎず、戦闘機としての運用は考えられていなかったようです。なお、S.S.とは、セルジョ・ステファヌッティのイニシャルを取ったものでした。

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第二の試作機「SAIアンブロジーニ S.S.3」

その後、S.S.2の試験が良好だったことを受けて、エンジンを取り換えるなど改良を経て二番目の試作機「SAIアンブロジーニ S.S.3」が完成しました。これは1937年に初飛行を達成。この第二の試作機の成功を受けて、本格的に迎撃戦闘機としての運用を考慮した「SAIアンブロジーニ S.S.4」の開発が開始します。

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1枚目が「SAIアンブロジーニ S.S.4」。比較用に、2枚目がアメリカの「カーチス XP-55 "アセンダー"」、3枚目が震電

こうして開発された「SAIアンブロジーニ S.S.4」武装は30mm機関砲×1、20mm機銃×2。1939年3月の試験飛行の結果、時速544km/hを記録しました。この機体の欠点としては、まずパイロットの脱出時に後ろのプロペラに巻き込まれてバラバラになる、という点がありました。また、その独特な構造から着陸が難しいことも指摘されました。

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アンブロージオ・コロンボ(Ambrogio Colombo)

とはいえ、そういった欠点を除けば最初の飛行テストで示された性能は良好でした。この革新的な試作機を試験飛行したのは、曲芸飛行の世界選手権でも活躍し、自らも航空技師であったテストパイロットのアンブロージオ・コロンボ(Ambrogio Colombo)。この良好な飛行結果を受けて、アヴィアーノ空軍基地に輸送される予定でしたが、彼はその前に再度試験飛行を希望し、翌日に再びカスティリオーネ・デル・ラーゴの飛行場での試験飛行が行われます。しかし、これは悲劇を起こしました。

コロンボを乗せたS.S.4は離陸後、飛行して45分が経った頃、組み立て時の欠陥が理由で補助翼が破損してしまいました。彼は急いで滑走路に向かいますが、残り2kmの地点で墜落して木に衝突。機体は破壊され、パイロットのコロンボも死亡してしまったのです。この事故の結果を受けて、イタリア空軍はこの先進的な機体を採用せず、更にはSAIアンブロジーニ社もエンテ型・推進式の戦闘機開発を中止することとなりました。こうして、革新的な設計の機体は日の目をみることなく、その開発に幕を閉じたのです。設計者のステファヌッティ自身も、この機体の開発から手を引き、SAIアンブロジーニ207などの高性能木製戦闘機の開発に力を注ぐことになりました。

結局、その後イタリアでは同様の機体が作られることもなく、更に世界でも「カーチス XP-55 "アセンダー"」や「震電」などが開発されたものの、実用化にも至らず、ジェット機の潮流がやってきたことによって、忘れ去られました。