Associazione Italiana del Duce -ドゥーチェのイタリア協会へようこそ!-

同人サークル"Associazione Italiana del Duce"の公式ブログです。

イタリア最強のエースパイロット、テレシオ・V・マルティノーリ ―第二次世界大戦における伊空軍トップエースの軌跡―

第二次世界大戦の各国空軍/航空隊のトップエースというと、ドイツ空軍のエーリヒ・ハルトマン、フィンランド空軍のエイノ・イルマリ・ユーティライネンなどはパッと知られている。しかし、第二次世界大戦におけるイタリア空軍のトップエースというとどうだろうか。多くの人はパッと思いつかないだろう

イタリア空軍のエースと言えば、ルッキーニやヴィスコンティが有名だが、彼らは「未確認撃墜戦果」を含めればイタリア空軍最高のトップエースとなるが、それを含めなければ撃墜数はトップではない。では、公式の撃墜数で第二次世界大戦の伊空軍トップは誰なのか?となると、この人物、テレシオ・ヴィットーリオ・マルティノーリ(Teresio Vittorio Martinoli)である。

知名度は残念ながら高いとは言えない。イタリアのWW2トップエースでありながら、日本語wikiも存在しない有様である。各国のエースパイロットがキャラクターのモデルになっている『ストライクウィッチーズ』においても、設定上は「ロマーニャ最強のウィッチ」のテレーザ・マルティノーリとしては存在するものの、キャラクターヴィジュアルは2019年3月現在は公開されていない。また、名前の原語表記も誤植なのか"Nartinoli(ナルティノーリ)"と書かれている。二次創作的な意味でも不遇のエースと言えるだろう。理由は不明であるが。

今回はそんなマルティノーリの生涯について見ていってみようと思う。

 

複葉機エースとして

f:id:italianoluciano212:20190326211701j:plain

テレシオ・ヴィットーリオ・マルティノーリ(Teresio Vittorio Martinoli)

テレシオ・ヴィットーリオ・マルティノーリは1917年3月26日、北部イタリアのピエモンテ州ノヴァーラに生まれた。マルティノーリは子どもの頃から空への憧れを持っており、パイロットを目指した。しかし、勉学に励んでいたある日、一家を支えていた彼の父が亡くなったために勉強を放棄して働かなくてはならなくなった。こうして、マルティノーリは溶接工の職に就くこととなる

しかし、彼は夢を捨てきれなかった。1937年にマルティノーリはグライダー免許を所得し、翌年にはパイロット免許を所得したのであった。欧州に軍靴の音が近づく1939年、マルティノーリは遂にパイロットに志願し、イタリア空軍(レージャ・アエロナウティカ)に入隊。ブレシア近郊のゲーティにある空軍学校に入り、軍曹として卒業した。こうして、マルティノーリは晴れて少年からの夢であった空軍パイロットになったのである。軍曹となった彼は、トリノに駐屯する第53航空団第151航空群第366飛行隊に配属となったが、第二次世界大戦開戦の直前にトラーパニに駐屯する第157航空群第385飛行隊に配属になっている。

f:id:italianoluciano212:20190326233017j:plain

制服姿のマルティノーリ。上官からは「第六感があるのではないか」と言われたほど、卓越した戦闘力の持ち主であった。

この部隊はFIAT CR.42"ファルコ"複葉戦闘機を装備した部隊であったため、マルティノーリは大戦序盤では彼は複葉機エースとして名をあげることとなる。1940年6月10日、ムッソリーニ統帥が英国及びフランスに宣戦布告し、イタリア王国第二次世界大戦に参戦した。その3日後の1940年6月13日、マルティノーリはチュニス上空にてフランス空軍のポテ630双発重爆撃機を撃墜し、初戦果を挙げたのであった。

1940年9月、マルティノーリは北アフリカのカステルベニートを基地とする第二航空団第13戦闘航空群第78飛行隊に移動する。この部隊もCR.42装備であった。翌月、サヴォイアマルケッティSM.79"スパルヴィエロ"爆撃機部隊の護衛任務中に、マルサ・マトルー上空にて英軍のグラディエーター戦闘機を撃墜して戦果を挙げている。この飛行隊は同任務中にグラディエーターとハリケーンを合わせて10機を撃墜した(その内グラディエーター1機が先述したマルティノーリの戦果である)。この働きから、マルティノーリは銀勲章を叙勲されている。

その後、彼は第10戦闘航空群第84飛行隊に移動。1941年1月5日にはバルディア上空にて英空軍のブレニム双発爆撃機を撃墜し、着々に戦果を挙げていったが、CR.42戦闘機を駆る複葉機エースとしての戦果はこれで終わった。この直後に彼の部隊は新型機のマッキ MC.200"サエッタ"に装備が変更されたが、マルティノーリはこの機体では戦果を挙げる事無く、間もなく別部隊への移動となった。

 

◆伊空軍最強のトップエースへ

f:id:italianoluciano212:20190326231758j:plain

同僚と共に映るマルティノーリ(左)

次にマルティノーリが配属となった部隊はゴリツィア駐屯の第四航空団第9航空群第73飛行隊であった。今まで転属が多かったマルティノーリであったが、以後はずっとここの部隊にいることとなる。更に9月には新型機のマッキ MC.202"フォルゴレ"が部隊に導入され、この機体の素晴らしい性能と合わせて、マルティノーリのエースとしての能力が開花することとなる。マルティノーリらはローマに飛行してムッソリーニ統帥に歓迎された後、マルタ航空戦に参加するためにシチリアのコーミゾ基地に送られた。

MC.202に乗り換えたマルティノーリは次々と戦果を挙げていった。1941年10月19日、マルティノーリはマルタ上空でハリケーン戦闘機2機を連続で撃墜し、MC.202での初戦果を挙げたのを皮切りに、その3日後に再びハリケーン戦闘機を撃墜、翌月1日にはブレニム双発爆撃機を撃墜して戦果を重ねていった。こうして名実ともにエースとなったマルティノーリは一時的に春までの間短い休暇を楽しんだ。

f:id:italianoluciano212:20190326231833j:plain

北アフリカにて、民族衣装を着て記念撮影を撮るマルティノーリたち。

翌年5月にマルティノーリは任務を再開する。北アフリカに移動したマルティノーリは、5月4日にスピットファイア戦闘機を1機し、復帰後さっそくその実力を見せた9日から16日までの間に、マルタ上空にてスピットファイア4機を連続で個人撃墜した(その内2機は未確認撃墜)。29日、リビア東部アクロマ上空で行われた空戦では、激しい砂嵐で視界が悪い中、約120機のP-40戦闘機と交戦する。その結果、1機を撃墜し、2機を損傷させて撃退に成功した。

6月9日にはビル・アケム上空にてP-40を2機連続で撃墜し、1機を損傷させている。その後も戦果を重ねていき、10月に北アフリカを去るまでの間に、P-40戦闘機を7機(個人撃墜3機、未確認撃墜2機、共同撃墜2機)・1機損傷、P-39戦闘機を1機撃墜、スピットファイア戦闘機を4機撃墜(内2機は共同撃墜)、A-20双発攻撃機を1機共同撃墜している。なお、エースとして知られるルッキーニとは彼は同僚だった。

 

◆本土防衛戦における活躍

f:id:italianoluciano212:20190326232714j:plain

マッキ MC.205V"ヴェルトロ"戦闘機(共同交戦空軍仕様)。ヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館所蔵。FIAT G.55"チェンタウロ"と並び、第二次世界大戦のイタリア最高の戦闘機と評価される傑作機。北部のRSI空軍、南部の共同交戦空軍、両方共で使われている。

アフリカから撤退したマルティノーリたちは、1943年からはシチリアでの防衛戦に参加する。部隊にはイタリア最高の戦闘機と名高い新型機マッキ MC.205V"ヴェルトロ"戦闘機が導入された。7月4日にはアメリカ陸軍航空隊の爆撃機部隊を迎撃し、護衛するP-38"ライトニング"双発戦闘機を1機撃墜し、またB-17"フライングフォートレス"戦略爆撃機1機も共同撃墜した。彼の個人撃墜戦果は未確認戦果を除き、この時点で20機に達していた。6日にはスコルディーア上空にて2機のP-38と2機のスピットファイアを共同撃墜したが、その日の夕方基地がB-26爆撃機部隊の攻撃を受け、迎撃準備中のマルティノーリ機を含むMC.205V数機が地上破壊された。マルティノーリ自身は急いで脱出したため無事であった。

このような絶望的な状況であったが、マルティノーリら第73飛行隊は残っていた2機のMC.202を駆り出撃、7月10日にシラクーザ上空にてスピットファイア2機を共同撃墜している。その後、再度マッキ MC.205Vに乗り、任務を再開する。しかし、もう既にシチリア戦は完全に連合軍の優勢となっており、マルティノーリら残存部隊はイタリア半島に撤退していた。更に、この時点でムッソリーニ統帥は王党派クーデタによって失脚しており、後任の首相にはバドリオ元帥が就任していた。

バドリオ政権は水面下では連合軍側との交渉を続けていたが、表面上は枢軸国側での交戦継続を表明していたため、イタリア軍はバドリオ政権のもと、連合軍との最後の戦いを進めていた。連合軍によるシチリア制圧の最終局面において、マルティノーリは8月15日、メッシーナ海峡上空にてスピットファイア1機を撃墜、枢軸国側のパイロットとして最後の戦果を挙げたのである。その2日後、17日にメッシーナが陥落し、完全にシチリアは連合軍に制圧されたのであった。

 

◆共同交戦空軍のパイロットとして

f:id:italianoluciano212:20190326232457j:plain

カラーブリア州の中心都市、レッジョ・カラーブリアの海岸。連合軍はベイタウン作戦でここに上陸し、イタリア半島への侵攻を開始した。メッシーナ海峡を超えれば、そこはもうシチリアである。

1943年9月3日、連合軍はベイタウン作戦を発動し、遂にイタリア半島の「つま先」に当たるカラーブリアの中心都市レッジョ・カラーブリアへの上陸を開始した。その5日後にはバドリオ政権は無条件降伏宣言(休戦宣言)を発表。戦争は終わるかに思えた。しかし、「同盟からの離脱」を不服とするドイツは速やかにイタリアの制圧を開始し、更に翌日には国王一家とバドリオ政権は首都ローマから夜逃げ同然で脱出、臨時首都をイタリア半島の「かかと」に当たるブリンディジに移したのであった。

ローマはドイツ軍によって制圧され、後に解放されたムッソリーニ統帥が北部・中部イタリアを支配するファシスト政権「イタリア社会共和国(RSI政権)」を設立し、「正統なイタリア政府」として南部のブリンディジ政権と対立することとなる。このブリンディジ政権は10月13日にはドイツに宣戦布告し、連合軍側で戦うことを決めた。しかし、連合軍側はこれを認めず、あくまで連合軍側ではなく「共同交戦国」として、共闘のみの関係を築いた。そのため、イタリアは戦後も「戦勝国」にはなれなかった。これは、ルーマニアフィンランドのような他の枢軸離脱国と同様の立場である。

とはいえ、イタリア王国政府は連合国側で戦うことに決めた。この結果、南部に合流した残存のイタリア空軍部隊を集めて、「イタリア共同交戦空軍(Aeronautica Cobelligerante Italiana)」が編成される。対する枢軸国側についたRSI空軍は「イタリア社会共和国空軍(ANR)」を設立した。しかし、両空軍が交戦することはほぼ無かった。理由は、RSI空軍はイタリア本土の防空任務や連合軍への攻撃任務に就いていたのに対して、共同交戦空軍はバルカン方面での攻撃任務や補給任務を任されていたからであった。逆にこの結果、空における「同胞殺し」は殆ど発生しなかった。

f:id:italianoluciano212:20190326232049j:plain

イタリア社会共和国空軍(ANR)のメッサーシュミット Bf109戦闘機。Bf109はハルトマンやバルクホルンを始めとする多くのドイツ人エースを生み出した名戦闘機であるが、大戦末期にはイタリアのRSI空軍にも配備されている。例えば、エースのヴィスコンティが乗っていた。

イタリアのエースたちはこの2つの空軍に二分された。ヴィスコンティやマルヴェッツィらは北部のANRに合流したが、マルティノーリは共同交戦空軍側に合流し、国王に忠誠を誓った。彼は再びMC.205Vでバルカン方面に出撃。11月1日、モンテネグロポドゴリツァ上空にてドイツ空軍のユンカース Ju 52輸送機1機に遭遇。この輸送機は2機のメッサーシュミット Bf109戦闘機の護衛を受けていたが、護衛機の攻撃を回避し、マルティノーリはJu 52を撃墜し、共同交戦空軍での初戦果を挙げたその結果、彼の個人撃墜スコアは未確認戦果を除いて22機に達したが、これが彼の最後の戦果となった。

f:id:italianoluciano212:20190326232316j:plain

共同交戦空軍のP-39戦闘機。国籍マークが三本のファスケスではなく、トリコローレ(三色旗)に変更されている点も注目。

1944年8月25日、ナポリ近郊のカンポ・ヴェズーヴィオ飛行場(一時的に連合軍が作った臨時基地)にて、マルティノーリはMC.205Vからアメリカ製のP-39戦闘機への転換訓練中に事故死した。こうして、第二次世界大戦のイタリア空軍最強エースはこの世を去ったのであった。享年27歳の若さである。彼の生涯戦果は個人撃墜22機、未確認撃墜4機、共同撃墜14機、損傷4機、共同損傷4機であった。

 

彼の卓越した飛行能力の高さは、もっと評価されるべきであると思う。しかし、何故かルッキーニやヴィスコンティに比べて知名度が低い。もしかしたら、共同交戦空軍側で戦っているからなのだろうか。よくわからない。