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「空の果て」を目指した男、マリオ・ペッツィとカプロニ Ca.161 ―レシプロ複葉機による高高度飛行の世界記録達成―

戦間期のイタリア空軍は世界的にも先進的で、以前ブログで紹介したフリオ・ニクロ・ドッリオ(Furio Niclot Doglio)のようなテストパイロットたちによって、数々の世界記録を達成したことでも知られている。そんな中で、イタリア人パイロットが達成した世界記録の中で、2019年現在においても記録が破られていないものがある。その一つに、マリオ・ペッツィ(Mario Pezzi)による「レシプロ複葉機による高高度飛行記録(高度17083m)」だ。今回はその前人未到の記録を達成した飛行士と、その記録機について紹介しよう。

 

パイロットになるまで

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マリオ・ペッツィ(Mario Pezzi)

マリオ・ペッツィは1898年11月9日に、北イタリア・ピエモンテ州のクーネオで生まれた。ペッツィ家は伝統的な軍人一家で、父のルイージ・ペッツィ(Luigi Pezzi)は砲兵の将軍であった。そういった環境から、兄のピオ(Pio Pezzi)とエンリコ(Enrico Pezzi)と共に、マリオも軍人としての道を歩むこととなる。こうして陸軍の士官となったマリオ・ペッツィは兄弟と共に第一次世界大戦に参加したが、兄のピオは大戦で戦死している。1918年2月、マリオは少尉に昇進した。

同年5月、マリオ・ペッツィは陸軍航空隊のパイロットになるために飛行学校に入り、9月には陸軍航空隊134分隊に配属された。晴れてパイロットになったのである。終戦後、1923年の空軍創設と共に空軍の所属となった。兄エンリコも同様に空軍に入隊し、その後偵察機部隊を率いてリビア再征服で活躍している。マリオは1926年には正式にパイロット免許を所得して空軍の中で地位を獲得していった。

 

前人未到の記録への挑戦

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高高度飛行記録を達成したカプロニ Ca.161(Caproni Ca.161)

1934年、マリオ・ペッツィは高高度記録飛行の部門司令官となった。こうして、彼の空への挑戦は始まった。彼が高高度記録飛行に利用した飛行機は、カプロニ社製のCa.161だった。設計者は飛行船研究で知られるナポリ出身の技師、ロドルフォ・ヴェルドゥーツィオ(Rodolfo Verduzio)で、曲芸飛行機カプロニ Ca.113をもとに開発されている。イタリアらしい開放式の操縦室で、操縦者であるペッツィは飛行服として、気圧の変化に耐えるために宇宙服のような与圧服を着る事となった

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宇宙服のような与圧服を着るマリオ・ペッツィ。

最初の機体はピアッジオ社製のエンジン「P.XI R.C.72」を搭載した機体で、1937年5月8日にペッツィによって高度15655mにまで達した。一度目の世界記録の達成だった。しかし、同年6月30日、英国のパイロット、M.J.アダムの駆るブリストル・タイプ138によって高度16440mの記録が達成され、記録が塗り替えられてしまった。

しかし、ペッツィは諦めなかった。これを受け、ピアッジオ社はより強力なエンジン「P.XI R.C.100」を搭載、こうしてパワーアップしたCa.161"bis"によってペッツィは再度高校度記録に挑戦。ペッツィの駆るCa.161bisは高度17083m(56047フィート)にまで飛行し、新たな高高度飛行記録を達成したのであった。こうして樹立された世界記録は、「レシプロ複葉機による高高度飛行記録」として、2019年現在も破られていない

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ニコラ・ディ・マウロ(Nicola di Mauro)

また、カプロニ Ca.161機はもう一つ、現在でも破られていない世界記録を保持している。それは、水上機型のカプロニ Ca.161イドロ(Idro)による「水上機による高高度飛行記録(高度13542m)」である。これはニコラ・ディ・マウロ(Nicola di Mauro)というテストパイロットによって、1939年9月25日に達成された記録で、2019年現在も破られていない。

 

◆その後のペッツィ兄弟

不屈の精神で世界記録を再度達成し、世界にその名を知らしめたペッツィは、その成果によって金勲章を授与され、大佐に昇進した。一方で、兄のエンリコ・ペッツィもエチオピア戦争での活躍から空軍大佐に昇進していた。マリオ・ペッツィは東アフリカに移動し、ディレ・ダワ空軍基地の司令官を務めた。兄のエンリコはスペイン内戦で活躍し、三度目の銀勲章を叙勲した後、レッジョ・エミリア空軍基地の指揮を執り、新設された第41爆撃航空群の司令官となった。同階級であり、同じスピードで昇進し合うペッツィ兄弟は、良いライヴァル同士だったのかもしれない。

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兄のエンリコ・ペッツィ(Enrico Pezzi)。1942年2月に空軍准将に昇進。当時、イタリア空軍で最も若い将軍だった。

1940年6月10日に第二次世界大戦にイタリアが参戦すると、ペッツィ兄弟は別々の戦場で戦うこととなる。マリオ・ペッツィは東アフリカ戦線で副王である空軍大将アメデーオ公の元で空軍の指揮を執り、イタリア軍が劣勢になっていく1941年に入ると首席補佐官となった。しかし、アンバ・アラジの戦いでイタリア軍が敗北した後、英軍の捕虜となった。その後、1943年の休戦後、南部のブリンディジ政権に協力することを条件に解放され、共同交戦空軍で指揮を執った。戦後も空軍の高官として活躍し、1967年8月26日に死亡。最終階級は空軍中将だった。

一方、兄のエンリコ・ペッツィは北アフリカ戦線とマルタ航空戦における戦闘指揮で戦果を挙げ、1942年2月に准将に昇進、当時空軍の将官では最も若かった。その後、東部戦線に派遣され、東部戦線のイタリア空軍部隊の指揮を執るが、12月に乗機の輸送機サヴォイアマルケッティSM.81"ピピストレッロ"がソ連軍によって撃墜され、戦死してしまった。

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グイドーニア飛行場にて、視察に訪れた国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世と話すマリオ・ペッツィ。