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「イタリア初の撃墜王」マリオ・デ・ベルナルディ ―水上機レーサーとして、そしてイタリア初のジェット機パイロットとして―

イタリア空軍が2013年に作成したポータルサイトで、"I grandi aviatori(偉大なる飛行士たち)"というサイトがある。こちらでは、「イタリア空軍の父」イタロ・バルボ元帥や、初の欧州-極東飛行(ローマ-東京飛行)を達成したアルトゥーロ・フェッラーリン、数々の世界記録を達成したテストパイロットのフリオ・ニクロ・ドッリオなどの輝かしい功績を持つ空軍軍人たちを紹介している。

その中に、「イタリア初の空のエース」であるマリオ・デ・ベルナルディ(Mario de Bernardi)も紹介されている。彼は第一次世界大戦で初めて敵機を撃墜したイタリアの飛行士で、歴史的にも敵機を撃墜した初めてのイタリアの飛行士だったファシスト政権期には英雄的存在として宣伝された人物でもあり、水上機レース「シュナイダー・カップ」では優勝を果たし、曲芸飛行で名を挙げ、更にテストパイロットとして新たな航空機の開発に携わった。そのテストパイロット業務の中にはイタリア初のジェット機「カプロニ・カンピーニ C.C.2」の試験飛行も含まれていた。

彼の名前は以前別の本を読んだときに知っていたので、これを機に調べてみた。数々の功績を挙げた偉大なる飛行士、マリオ・デ・ベルナルディの生涯を見てみよう。

 

パイロットになるまで

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マリオ・デ・ベルナルディ(Mario de Bernardi)

マリオ・デ・ベルナルディ1893年6月1日に、かつてルカーニアと言われたバジリカータ州の北東端、プッリャ(プーリア)州との境に位置するヴェノーザ(Venosa)という町に生まれた。ヴェノーザは現在「イタリアの最も美しい村(I borghi più belli d'Italia)」協会にも所属している、景観の良い町である(そのため、いくつかの映画の撮影地としても使われている)。ムッソリーニ政権時代に財務大臣を務めた人民党政治家ヴィンチェンツォ・タンゴッラ(Vincenzo Tangorra)の出身地でもあった。

デ・ベルナルディは幼い頃からスポーツが大好きで、様々なスポーツイヴェントに積極的に参加した。1909年には16歳でアマチュアの自転車選手として大会に参加、優勝している。その才能から、将来はプロの自転車競技選手になることも期待されていた。しかし、彼はスポーツマンである一方で、軍事や戦争にも関心があった。

そして1911年、18歳になった彼は祖国を思う強い志から、イタリア陸軍(Regio Esercito)に志願する。時は丁度、イタリアのジョリッティ政権はリビアの獲得を目論み、オスマン帝国との戦争を開始した頃だった(伊土戦争)。デ・ベルナルディは志願兵として従軍し、オスマン帝国軍と戦うためにリビアの地に送られた。なお、リビア戦線では後に名将として名を馳せるジョヴァンニ・メッセも士官として参加していた(彼もデ・ベルナルディ同様に南部の出身であった)。

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伊土戦争における、世界初の航空機による爆撃。この戦争でイタリアは世界で初めて航空機を戦争に投入したが、これはデ・ベルナルディ青年に大きな影響を与えた。

伊土戦争では、イタリア軍は「世界で初めて航空機を戦争に投入したこと」で知られている。そして、それだけでなく、飛行船と航空機を用いて、オスマン帝国軍に対して「世界初の航空爆撃」を実行した。デ・ベルナルディ青年はこの歴史的な光景を目撃し、空への強烈な憧れを抱くこととなる。翌年、オスマン帝国との戦争はイタリアの勝利に終わるが、帰国したデ・ベルナルディは軍の航空機パイロットとなることを心に決めたのであった。そうと決めた彼は、1914年にフリウーリのアヴィアーノ飛行学校に向かい、訓練の後、パイロットの免許を所得したのであった。こうして、デ・ベルナルディは陸軍航空隊第一飛行機部隊に所属している。

 

◆「イタリア初の空のエース」の誕生

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陸軍航空隊時代のデ・ベルナルディ

1915年、イタリアはオーストリアに宣戦布告し、第一次世界大戦に参戦した。デ・ベルナルディはモデナの陸軍士官学校に入る。1916年1月に卒業した後、工兵少尉に任官されたデ・ベルナルディは陸軍航空隊の航空機大隊に配属された。同年3月20日、ニューポール11戦闘機の訓練を終え出撃許可が下り、1916年5月にデ・ベルナルディは陸軍航空隊第75戦闘機中隊に配属された。彼の任務は度々領空に侵入している、オーストリア軍の航空機からヴェローナの町を守ることだった。こうして、デ・ベルナルディヴェローナ上空での初の空戦でオーストリア機を1機撃墜し、「イタリア初の空のエース」となったのであった。彼はその戦果から銅勲章を叙勲されている。

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第91戦闘機飛行隊のメンバー。右から四番目がデ・ベルナルディ

その後、デ・ベルナルディは一度戦場を離れ、民間企業のテストパイロットとして活動している。また、1917年5月には初のトリノ-ローマ間の航空機による郵便輸送を成功させている。1918年1月になると、彼は再度戦場に戻り、第91戦闘機飛行隊に配属された。この飛行隊は、「イタリア最強の戦闘機エース」フランチェスコ・バラッカや、フルコ・ルッフォ・ディ・カラーブリアといった、名だたるエースパイロットたちが所属している部隊であった。こうして、デ・ベルナルディ終戦までに新たに4機の敵機を撃墜する事に成功し、個人撃墜スコアは5機となり、名実ともに「エースパイロット」となったのであった終戦後の1919年、ローマのチェントチェッレ空港の式典で彼の乗るスパッドVII戦闘機が墜落事故を起こすが、機体は全損となったものの、彼自身は無傷で生還したのであった。また、デ・ベルナルディ野戦病院で出会ったフィレンツェ出身のマリア・ヴィットーリア・ファロルジ(Maria Vittoria Falorsi)と結婚した。

 

水上機レーサー、デ・ベルナルディ

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彼が世界記録を達成したFIAT CR.1戦闘機。

1923年、ムッソリーニ率いるファシスト政権は、陸軍航空隊と海軍航空隊を合併し、イタリア空軍(Regia Aeronautica)を創設した。これによって、デ・ベルナルディも空軍の所属となり、また大尉に昇進した。彼はグイドーニア空港での試験飛行の指揮を任せられるようになり、再度テストパイロットとしても活躍するようになる。1925年5月5日には、FIAT CR.1戦闘機で250kgの重量を課した状態での500kmの飛行で、平均時速254.123km/hを達成し、これは今まであったフランスの飛行士の記録を塗り替え、新たな世界記録となった。こうして、デ・ベルナルディは少佐に昇進した。

時を遡って1923年、デ・ベルナルディ水上機の免許も所得した。当時、イタリアは世界的にも水上機レースの強豪国であり、第一次世界大戦後のシュナイダー・カップでは、1919年、1920年1921年と連続で優勝を手に入れており、その力を世界に示していた。しかし、その後は英国代表やアメリカ代表にリードを許してしまっていた(なお、1925年の優勝者は東京大空襲やローマ空襲を指揮した人物として知られる、アメリカのジミー・ドゥーリットルである)。それを巻き返すため、彼は水上機レース選手としても活躍することとなる。1925年、彼はマッキ M.20水上機で国際レースに参加していき、華々しい戦果を挙げていった。

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レース水上機、マッキ M.39。デ・ベルナルディが1926年の「シュナイダー・カップ」で優勝を達成した機体。ブラッチャーノの空軍歴史博物館にて。

ファシスト政権も国家の威信を掛けてイタリア代表の支援を開始した。デ・ベルナルディは1926年のシュナイダー・カップに参加することとなった。アメリカのハンプトン・ローズで開催されたこの戦いに、デ・ベルナルディは新型エンジンを搭載したマッキ M.39で参加し、アメリカ代表を撃破、無事優勝を手に入れ、イタリア代表の強さを再び世界に示したのであった。

翌年の1927年のシュナイダー・カップにもデ・ベルナルディはイタリア代表として開催された。今回は久々のイタリアでの開催となり、開催地は「水の都」ヴェネツィアであった。水上機レースの舞台としてはこの上ない機会であり、イタリアの栄光を示すには十分であった。今回は、デ・ベルナルディはマッキ M.52機で参加。残念なことに、エンジントラブルによってレースは棄権してしまうこととなったが、怪我の功名か、デ・ベルナルディはこの機体で479.290km/hの速さに達し、世界記録を塗り替えたのであった。翌年、彼は再びこの機体で新たに世界記録を塗り替え、512.776km/hにまで達している。なお、この機体はスタジオ・ジブリのアニメ映画『紅の豚』にも登場しているとか。

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マリオ・カストルディ(Mario Castoldi)技師。世界で最も優れた航空機技師の一人と評価される。

なお、これらの名レース水上機を設計したマリオ・カストルディ(Mario Castoldi)技師は、後に第二次世界大戦のイタリア空軍が誇る戦闘機、マッキ MC.200"サエッタ"、マッキ MC.202"フォルゴレ"、マッキ MC.205V"ヴェルトロ"を設計する人物である。特にMC.202は大戦中期の主力戦闘機として活躍し、ルッキーニやマルティノーリといったイタリア空軍最高の戦闘機エースたちも愛用した機体だった。MC.205Vも、登場時期の遅さ故に戦果をあまり挙げられなかったが、休戦後もRSI空軍と共同交戦空軍の両方で使われ、「第二次世界大戦のイタリア最高の戦闘機」と称される傑作機である。カストルディ技師の作る優秀な水上機と、デ・ベルナルディの優れた操縦テクニックが合わさって、イタリアは再び水上機レースの世界で王者となったのであった。

 

◆曲芸飛行パイロットとして

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マリオ・デ・ベルナルディの娘、フィオレンツァ(Fiorenza de Bernaldi)。後に「イタリア初の女性旅客機パイロット」として知られることとなる。

デ・ベルナルディは曲芸飛行パイロットとしても名を挙げたことで知られ、世界各地で活動した。1928年5月22日、娘のフィオレンツァ(Fiorenza de Bernaldi)が誕生する。彼女は後に、「イタリアで初めての女性旅客機パイロット」として名を知られるようになる。これは当然、飛行士である父の影響が強かった。

1929年11月3日、デ・ベルナルディはミラノの国際曲芸飛行大会で優勝を果たしている。彼はその後、欧州諸国を飛び回り、各地での曲芸飛行ショーでその技を披露し、人々を喜ばせた。しかし、1930年に発生したイルピニア震災では故郷ヴェノーザも大きな被害を被った。そのためか、彼は同年休暇を取っている。彼は国内でも様々な航空イヴェントに参加した。例えば、レダ Ba.15軽飛行機では、バリッラ少年団のヴィットーリオという少年を乗せ、彼と共に飛行するというパフォーマンスを行っている。映画"O la borsa o la vita(かばんか、人生か)"にも出演し、曲芸飛行を披露した

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ロベルト・ロルディ(Roberto Lordi)将軍。中国に空軍顧問として派遣され、蒋介石からの信頼も得て中国とイタリアの友好関係の樹立に貢献した。

デ・ベルナルディは中国にまで派遣された。当時のイタリアは中国市場を重要視し、中国での影響力拡大を推進していた。特に軍需関連分野の市場であり、1933年~37年にかけてはイタリアは中国に空軍顧問(ロベルト・ロルディ将軍とシルヴィオスカローニ将軍)を派遣、その影響もあって総額4800万リレの軍用機と関連機器を売却している。

この中国とイタリアの接近を受けて、デ・ベルナルディはカプロニ Ca.113と共に上海に派遣され、中国でも曲芸飛行ショーを行った。しかし、1935年にイタリアがエチオピア帝国に侵攻し、中国が国際連盟のイタリア経済制裁に合意したため、イタリアと中国の関係が悪化。そうした結果、イタリアは中国との友好関係から、日本との友好関係にシフトする。その結果、デ・ベルナルディも中国を離れることとなり、イタリアに帰国する。しかし、彼はその後再びギリシャに飛んだ。

 

◆新兵器開発への協力

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無人航空機」の試作機アエロナウティカ・ロンバルダ A.R.1機。1943年6月に完成するが、無線制御システムを搭載せずに試験飛行を行い、停戦を迎えた。

1930年、デ・ベルナルディはカプロニ社のテストパイロットとなった。1933年には、カプロニ Ca.111偵察爆撃機を駆り、ローマ-モスクワ間の約2600kmの飛行を僅か10時間で成功させた。この成功を受け、ドイツ空軍当局はイタリア機に注目し、デ・ベルナルディはモスクワからの帰国時にベルリンに寄り、ドイツ空軍からの歓迎を受けている。しかし、デ・ベルナルディのテストパイロットとしての成果で最も有名なものは、新兵器、無線操縦機とジェット機の開発への協力であった

第二次世界大戦の開戦によってギリシャから帰国したデ・ベルナルディは、イタリア空軍が推し進める興味深い計画に協力する。それは、無線操縦機(Aereo Radio Pilotato)計画で、これは世界でも初めての試みであり、「飛行機を遠隔制御する」、すなわち無人航空機の開発であった。これによって人員と機材、両方が不足するイタリア空軍にとって、問題解決の糸口になると考えられた。敵艦船に無人機から爆撃をする、というものだったが、これは結局殆ど成功しなかった。1943年になってようやく試作機「アエロナウティカ・ロンバルダ A.R.1」機が完成するが、結局無線制御システムを搭載せずに試験飛行を行ったのみで停戦を迎え、計画は放棄された

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「イタリア初のジェット機」カプロニ・カンピーニ C.C.2。当時は「世界で初めて飛行したジェット機」として世界からも認められていた。ブラッチャーノの空軍歴史博物館にて。

もう一つ、彼が関わった新兵器開発としては、イタリアのジェット機開発がある。カプロニ社は世界初のジェット機「コアンダ=1910」(設計はルーマニア人のアンリ・コアンダ技師)を試作したことでも知られており、ジェット機開発の実績があった(なお、実験機は事故で全損となり、飛行には失敗している)。イタリアのジェットエンジン開発のパイオニアであったセコンド・カンピーニ(Secondo Campini)技師は空軍からの支援を受け、ジェットエンジンの開発を進めていた。カンピーニ技師はカプロニ社に試作機製造を依頼し、こうして「イタリア初のジェット機」であるカプロニ・カンピーニ C.C.2が完成する。

このテストパイロットに、経験豊富なデ・ベルナルディが選ばれた。デ・ベルナルディは世界的にもその栄光が知られており、ファシスト政権も「新たなイタリア空軍の栄光」である「世界初のジェット機の飛行」を成功させるには、ピッタリの人材として考えていたのである。こうして、1940年8月27日にデ・ベルナルディが駆るカプロニ・カンピーニ C.C.2は初飛行に成功したのであった。これは、世界に「世界初のジェット機の飛行」として宣伝され、国際航空連盟にもこれは承認された。しかし、後に実は1年前にドイツが秘密裏にジェット機「ハインケル He178」での飛行に成功していたことが判明し、この記録は覆されることとなってしまった。

なお、第二次世界大戦への日本軍参戦の知らせを聞いたムッソリーニ統帥は丁度この機体のデモンストレーション飛行に立ち会っており、更にその少し前の1941年11月30日に行われたミラノからローマまでの飛行も日本でも報道されていた。それ故か、日本海軍は自国製のジェット機開発において、カプロニ社のジェットエンジンに関心を抱き、イタリア休戦後にRSI政権下のカプロニ社と1944年6月にライセンス契約を結んでいる(欧州戦線終結によって青写真を乗せた潜水艦が拿捕され、実際に日本に届くことはなかったが....)。

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1959年にデ・ベルナルディが亡くなった時の雑誌の表紙。

1941年からは戦闘機のテストパイロットとして、またある時は郵便輸送機のパイロットとして活動した。休戦後はRSI政権期のカプロニ社で活動していたことから、大戦後は一時期彼自身も命を狙われることもあったが、それでも彼はその後も航空機の世界で生きた。1955年には自ら設計した軽飛行機も発表している。1959年4月8日、軽飛行機のプレゼンテーション飛行をしていたが、飛行中に心臓発作を起こしてしまう。しかし、彼は何とか意識を保ちながら機体を着陸させることに成功した。無事に機体を着陸させることに成功したが、人々が駆け寄ってきたとき、彼は既に亡くなっていたのであった。

 

マリオ・デ・ベルナルディはその生涯の中で、様々な功績を遺した。イタリア史上初の敵機撃墜、水上機レーサーとして「シュナイダー・カップ」の優勝、数々の世界記録の達成、曲芸飛行パイロットとしての活躍、そして無人機やジェット機開発への協力。これらは一人の功績としてはあまりにも多すぎる功績だろう。イタリアは多くの優秀なパイロットを生んだが、ここまで多くの功績を挙げたパイロットはなかなかいない。