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米本土空襲計画「"S"作戦」とアッティーリオ・ビゼオ空軍准将 ―イタリア空軍、ニューヨークを爆撃せよ!―

第二次世界大戦時、日本海軍航空隊はアメリカ本土に対して爆撃を実行した(アメリカ本土空襲)。しかし、実はこの手の「アメリカ本土に対する航空機による爆撃」というのはイタリア空軍やドイツ空軍でも同時期に考えられていたことだった。

特にイタリア空軍は、バルボ空軍元帥らが二度目の大西洋横断飛行でシカゴを訪れており、この大西洋を横断した長距離爆撃に関心があった。しかも、ムーティ(Ettore Muti)中佐らによるバーレーン油田地帯への長距離爆撃や、モスカテッリ(Antonio Moscatelli)中佐らによる大戦中の極東飛行など、長距離飛行に関しても十分なノウハウがあった

実際、アメリカが参戦すると、イタリア空軍の准将であるアッティーリオ・ビゼオ(Attilio Biseo)という人物が、この米本土爆撃作戦の必要性を説き、本格的な爆撃計画を考案することとなる。しかし、1943年の休戦によってこれは頓挫してしまうこととなってしまう(空軍と同様にイタリア海軍も同様に米本土の泊地攻撃作戦を計画していたが、これも中止となった)

この「幻」の米本土空襲作戦はどのように実行されようとしていたのか?そして、アッティーリオ・ビゼオ将軍とは何者なのか?少し見てみよう。

 

◆アッティーリオ・ビゼオという人物

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アッティーリオ・ビゼオ(Attilio Biseo)

アッティーリオ・ビゼオは1901年10月14日、ローマで生まれた。彼は若くして海軍に入隊、第一次世界大戦時は潜水艦の船員であった。その後、1923年に陸軍航空隊と海軍航空隊が合併してイタリア空軍が発足すると、ビゼオはヴァレーゼの飛行学校に入り、免許を所得。そして、海軍から空軍に移動した。

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数々の空軍イヴェントの開催地となった、トスカーナの町オルベテッロ。オルベテッロはかつて空軍の水上機基地が置かれ、現在もその名残が残っている。これは航空公園に展示された二度の地中海横断飛行の石碑。ビゼオが参加した二つの横断飛行の日付や目的地が書かれている。

空軍に移籍したビゼオは水上機パイロットになり、バルボ空軍大臣が開催する様々な空軍イヴェントに参加して名声を得ていった。例えば、有名なものはスペインを目的地とした西地中海横断飛行と、ソ連を目的地とした東地中海横断飛行だった。これらは今後計画されている大西洋横断飛行の予行練習的なものであった。

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ブラッチャーノのヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館にて。中央がイタロ・バルボ空軍元帥。その右側にはヴァッレ空軍参謀長の写真がある。その下にいるのがビゼオ。

一度目の大西洋横断飛行が計画されると、今までの活躍からジュゼッペ・ヴァッレ空軍参謀長に遠征空軍の副参謀長に選ばれた。また、ビゼオはムッソリーニ統帥の「お気に入り」のパイロットでもあった。こうして、一度目はブラジルのリオ・デ・ジャネイロ、二度目はアメリカのシカゴを目的地とする大西洋横断飛行をビゼオは無事に成功させた。この二度の大西洋横断飛行の経験は、後にビゼオが「"S"作戦」を考案する重要な下地となっている。

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ソルチ・ヴェルディのSM.79CS機。

その後、ビゼオはレース機パイロットとしても活躍することとなる。第二次世界大戦時には優秀な雷撃機として知られることとなるサヴォイアマルケッティ SM.79"スパルヴィエロ"は、当初レース機として開発された。ビゼオはこの機体で1935年8月にローマから東アフリカのマッサワ間を僅か11時間45分(平均時速359km/h)で飛行することに成功したのであった。その後の試験飛行でもビゼオは6つの世界記録を達成し、SM.79の優秀さを世界に示している。

更には、1937年にはピアッジオ社製の新型エンジンを搭載したレース機仕様のSM.79CSでイストル・ダマスカス・パリ・レースに参加する。このレースは第205爆撃飛行隊"ソルチ・ヴェルディ(緑色のネズミ)"の8機が参加し、ビゼオはムッソリーニ統帥の息子であるブルーノ・ムッソリーニと共に機体を操り、3位に入賞する。このレース、実に1位はラニエーリ・クピーニのSM.79CS、2位はジョヴァンニ・バッティスタ・ルッキーニのSM.79CSであり、1位から3位まで全て"ソルチ・ヴェルディ"のSM.79CSが独占するということとなった。

そして、その翌年にはビゼオはブルーノ・ムッソリーニ、そして後に大戦中のローマ-東京飛行を達成するアントニオ・モスカテッリと共に、長距離飛行用に改造したSM.79T型3機で、ローマ・ダカールリオ・デ・ジャネイロ間の大西洋横断飛行を実行。約9800kmの距離を24時間22分(平均速度393km/h)で飛行したのであった。これらの成功はビゼオ自身の名声を高めるのと同時に、イタリア空軍の威信を高め、国際的にその栄光を知らしめることに成功したのであった。

第二次世界大戦開戦前に、ビゼオは爆撃機パイロットとして、スペイン内戦の義勇空軍に参加し、経験を積んでいる。第二次世界大戦にイタリアが参戦すると、ビゼオは北アフリカ戦線を担当する第五航空管区の司令部に所属となった。その後、第23爆撃航空団の司令官となり、その成果によって准将に昇進している。1941年5月には第9爆撃航空旅団"レオーネ"の指揮をエンリコ・ペッツィ大佐から引き継いでいる。

 

◆米本土空襲計画「"S"作戦」

1941年12月、日本軍による真珠湾攻撃を受け、アメリカは連合国側で参戦する。ビゼオはこれを受け、物量に勝るアメリカに打撃を与えるには、アメリカで人口が集中する重要な大都市—すなわち、ニューヨークのマンハッタンに対する攻撃を考えた。彼は今までの長距離飛行の経験もあり、大西洋を横断して爆撃することは十分可能であると考えていた。ビゼオはある程度の構想を練った後、1942年4月の会議でウーゴ・カヴァッレーロ参謀総長も参加する会議でこの計画を話した。出席者全員がこの案に驚いたが、カヴァッレーロ将軍はビゼオの案に関心を持って聞いていた。

ビゼオは続けた。アメリ東海岸の都市はヨーロッパから遠く離れており、安全と見なされているため警戒感が薄いと考えられていること(1940年のバーレーン油田の爆撃も、欧州から離れているため安全とみられており、そのため警戒が薄く、イタリア軍の爆撃が成功した、という背景がある)、先日アメリカのドゥーリットル隊によって行われた東京初空襲の被害を説明し、この爆撃の必要性を説いた。

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イタリア海軍の航空母艦「アクィラ(Aquila)」。マタパン岬の大敗後に急いで建造が開始されたものの、1943年の休戦によって建造が中止となり、結局完成しなかった。

しかし、カヴァッレーロ将軍はビゼオの意見に同意しつつも、「我々は空母を持っていないため、それは不可能だ」と指摘した。確かにそうであった。日本海軍による真珠湾攻撃にしろ、ドゥーリットルによる東京初空襲にしろ、空母を用いた作戦であった。イタリア海軍はマタパン岬の大敗によって、空母の重要性を感じ、空母2隻(アクィラとスパルヴィエロ)の建造を急がせていた他、リットーリオ級4番艦インペーロの空母改装案も出ていたが、未だに完成していなかったのである。

この会議は結局お開きとなったが、その7か月後、1942年11月に突然ビゼオはリノ・コルソ・フージェ空軍参謀長から呼び出しを受けた。何と、作戦は海軍との共同作戦で実行されることとなったのである。フェルナンド・シルヴェストリ空軍将軍が指揮を執り、海軍はルイージ・サンソネッティ海軍大将が指揮をすることとなった。

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CANT Z.511水上機。四発エンジンの長距離水上機で、元々は大西洋を飛行する旅客水上機として開発されたが、ニューヨーク攻撃作戦の機体として白羽の矢が立った。

イタリア空軍・海軍共同によるニューヨーク・マンハッタン攻撃作戦は「"S"作戦(Operazione "S")」と名付けられた作戦の手順は、ボルドーのBETASOM基地から離陸した水上機が大西洋上で着水し、イタリア海軍の潜水艦の補給を受けてから再び離水、ニューヨークへの爆撃を実行し、帰りも同様に補給して帰還する、という計画であった。機体はCANT Z.511水上機が選ばれた。この機体は四発エンジンの長距離飛行用水上機で、元々は大西洋を飛行する旅客水上機として開発されたものであった。

この機体は軍用としての転用も考えられており、最大4000kgの爆弾を搭載可能であった。更には、特殊工作任務用に、人間魚雷「マイアーレ」やポケット潜水艦の搭載も可能とされた。しかし、この計画は既に大西洋の制海権は枢軸側にとって厳しいものとなっており、連合軍側の日々強力となっている対潜技術によって、燃料補給を担当する潜水艦が撃沈される場合も考えられた。

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正式にニューヨーク爆撃作戦の機体に選ばれたサヴォイアマルケッティ SM.95。戦後も旅客機としてアリタリア航空で使われたほか、エジプトの航空会社も利用した。

そのため、CANT Z.511に代わる機体が考えられた。そこで、次に白羽の矢が立ったのは、サヴォイアマルケッティ SM.95だった。この機体は、サヴォイアマルケッティ SM.75輸送機から発展した長距離飛行が可能な機体だった。SM.75機は1942年6月~7月にはローマ-東京間の長距離連絡便を成功させており、その成果もあり、更にそれを発展させたSM.95が作られたのである。最大離陸重量は21600kgで、CANT Z.511よりも遥かに多くの爆弾を搭載することが可能であった。この機体ならば、心理的な効果のみならず、実際の効果も期待出来た。こうして、ニューヨークへの長距離爆撃作戦は計画されていき、その機体となるSM.95は1943年5月に初飛行に成功したのであった。CANT Z.511からの転換により、事実上空軍単独の作戦となった。

機は熟した。本格的な作戦準備を進める前に、1943年5月10日、フージェ空軍参謀長はムッソリーニ統帥の許可をもらおうとしたが、意外にその答えは「No.」であった。理由は、ニューヨークには多くのイタリア系アメリカ人が住んでいるため、彼らに対して爆弾で攻撃することに対して拒否感を示したためであった。そのため、ムッソリーニ統帥は「爆撃」は許可しないが、「心理的攻撃」のみを許可した。それは、かつてダンヌンツィオが第一次世界大戦時に敵国オーストリアの首都、ウィーンに飛行した際に、爆弾ではなく宣伝ビラを撒いた、その手法に倣うものであった。

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第一次世界大戦時、「英雄詩人」ダンヌンツィオによる帝都ウィーン上空での「ビラ撒き」。この時も爆弾ではなく「宣伝ビラ」が撒かれたが、ムッソリーニは彼の手法をリスペクトしたのだろうか?

こうして、計画は変更され、爆弾ではなく宣伝ビラ、ではなく「イタリアを象徴する三色旗(トリコローレ)のパラシュートをつけたシチリア産オレンジ」のみとなった。シチリア産オレンジが選ばれた理由は、連合軍がシチリアに進撃中であったため、「シチリアからの贈り物」という意味だろう。突如飛来した爆撃機から、爆弾が投下!...するかと思いきや、自ら(連合軍)が今まさに進行しているシチリアのオレンジが投下される、というのは興味深い。これも、ダンヌンツィオ流の「嘲り」を真似たのだろうか。逆にこの結果、爆弾を搭載しない分、多くの燃料を搭載することが可能となり、ニューヨークへの飛行以上の飛行が理論上可能となった。

ニューヨーク「爆撃」の計画は1943年9月に実行予定となった。計画は予定通りに進められ、7月にムッソリーニ統帥が逮捕されて、バドリオ政権が成立してからも、表面上は枢軸側で戦闘を継続していた(一部の将軍や政府高官を除き、休戦工作の事実は知らされていなかった)ため、継続して準備が進められていた。

そのため、休戦当日まで実行部隊は休戦工作なんて全く知らずに準備を進めていた。そのため、9月8日の休戦発表は完全に寝耳に水という形となり、急遽作戦は休戦の混乱によって中止となってしまったのであった。使われるはずであったSM.95機も、進駐したドイツ軍によって接収され、ドイツ空軍機として使われている。

作戦を進めていたビゼオもドイツ軍によって逮捕され、協力を拒んだためにポーランドの収容所送りとなっている。連合軍によって後にビゼオは解放され、チリに渡ってその地で民間航空会社を設立している。1960年にイタリアに帰国し、その6年後である66年に出身地であるローマでこの世を去ったのであった。

 

仮に、イタリア空軍によるニューヨークへの「オレンジ爆撃」が実行されていたら、興味深いことになっただろう。わざわざ遠く離れた敵国上空まで来て、爆弾ではなくオレンジを落とす...「敵にオレンジを贈る」とは本当に面白い事を考えるものだ。