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東アフリカ戦線の智将、グリエルモ・ナージ将軍 ―ソマリランドにおける大勝と、ゴンダールでの最後の抵抗―

前回のエットレ・バスティコ(Ettore Bastico)将軍について調べてみたが、今回もイタリア陸軍の将軍シリーズでやってみようと思う。今回はグリエルモ・ナージ(Guglielmo Nasi)将軍について調べてみる事とする。ナージ将軍は第二次世界大戦、本国から遠く離れた東アフリカ戦線で戦闘を指揮した将軍で、東アフリカ戦線初期には東部地区軍を統括し、英領ソマリランド制圧戦を大勝に導き、戦線崩壊後も西部のゴンダールを拠点に抵抗し、最後まで戦い抜いた将軍であった

そんな東アフリカ戦線きっての智将であるナージ将軍について、詳しくは知られていないように感じる。そもそも、東アフリカ戦線全体がそうかもしれないが。以前、紅海艦隊やアオスタ公アメデーオ空軍大将といった、海空での東アフリカ戦線のアプローチはしたが、陸軍でのアプローチはしていなかった。ということで、今回はナージ将軍の人生を紐解き、東アフリカ戦線の理解を進めることを目的とする。

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白馬に乗るグリエルモ・ナージ(Guglielmo Nasi)将軍

 

◆その出自とアフリカでの戦いの始まり

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グリエルモ・ナージ(Guglielmo Nasi)将軍

1879年2月21日、グリエルモ・ナージは首都ローマ近郊の港町、チヴィタヴェッキアに生まれた。チヴィタヴェッキアは「ローマの外港」とも言われる重要な港町で、日本の慶長遣欧使節団が上陸したのもこの町である。彼は1896年にモデナの陸軍士官学校を卒業後、砲兵少尉に任官された。1905年には砲兵中尉に昇進した。

1911年に伊土戦争が勃発すると、ナージ中尉は第8砲兵連隊の連隊長としてリビアに出征、1912年7月1日のアッ=サフサーフの戦いでオスマン帝国軍部隊を巧みな戦術で打ち破る活躍を見せた。この結果、その働きが認められ、銀勲章を叙勲され、大尉に昇進している。第一次世界大戦においては、第14歩兵師団の参謀長として活躍し、計3回銀勲章を叙勲される働きを見せた。その結果、終戦時までには中佐に昇進した。

第一次世界大戦終戦すると、政情は混乱していたが、イタリアに平和が訪れた。とはいえ、未だに混乱が続いていたリビアに派遣され、第81歩兵師団の参謀長を務めている。その後、1919年から1925年までトリポリタニア植民地(当時はリビア植民地は統一されておらず、キレナイカトリポリタニアフェザーンの三植民地に分かれて統治されていた)駐屯軍の首席補佐官として務め、エミーリオ・デ・ボーノ(Emilio De Bono)元帥を補佐した。1925年、大佐に昇進。1926年、パリの駐仏イタリア大使館駐在武官として派遣された。1928年になると、ナージはパリでの任務を終え、一度故郷のチヴィタヴェッキアに戻った。

 

◆「リビア再征服」

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リビア再征服時のトリポリタニアキレナイカ知事のピエトロ・バドリオ元帥(Pietro Badoglio,左)と、副知事のロドルフォ・グラツィアーニ(Rodolfo Graziani, 右)。エチオピア戦争時でも、バドリオは北部戦線を、グラツィアーニは南部戦線を指揮した。優れた手腕で植民地戦争を遂行していったが、リビア人やエチオピア人にとっては「悪魔のコンビ」であった。

士官学校で教鞭をとった後、第三歩兵連隊の連隊長に任命。1931年にはナージは伊土戦争での活躍からリビア戦での実力が買われ、植民地省に勤務することになり、リビアに派遣された。当時、リビア植民地では「砂漠のライオン」オマル・ムフタール(Omar al-Mukhtar)率いるサヌーシー教団が大規模な叛乱を起こし、事実上の「戦争状態」となっていた(リビア再征服, Riconquista della Libia)。リビアに送られたナージ大佐は首席補佐官として、抵抗鎮圧のために新たにトリポリタニアキレナイカ知事に就任したピエトロ・バドリオ元帥(Pietro Badoglio)と、副知事のロドルフォ・グラツィアーニ(Rodolfo Graziani)将軍を補佐、キレナイカ方面での指揮で武勲を挙げた。1933年にはその働きにより准将に昇進し、将軍となった

リビア平定が終結した後、1934年にグラツィアーニ将軍の後任として、キレナイカ知事に就任しているが、その直後にリビアキレナイカトリポリタニアフェザーンの三地域が統合され、リビア総督に就任したイタロ・バルボ(Italo Balbo)空軍元帥のもとで「リビア植民地」として再編されたため、これはリビア平定に貢献したナージに贈られた一種の名誉称号的なものとなった。リビア平定後はエチオピア戦争に備え、キレナイカで第一植民地歩兵師団「リビア」を編成。

 

◆「ヒンデンブルク防壁」とオガデン戦線

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南部戦線でエチオピア帝国軍を指揮した、デジャズマッチ・ナシブ・ザマヌエル(Nasibù Zamanuel, ነሲቡ ዘአማኑኤል)将軍。参謀長のトルコ人義勇兵ワヒブ・パシャと共に防衛線「ヒンデンブルク防壁」を構築し、イタリア軍に強固に対抗した。しかし、グラツィアーニによる容赦ない毒ガス攻撃を受けた結果、以後後遺症に苦しみ、亡命先のスイスで死亡した。

1935年にエチオピア戦争が勃発すると、グラツィアーニ将軍と共に南部戦線で戦うこととなる。ナージ将軍が指揮したのは先ほどの第一植民地歩兵師団「リビア」で、兵員の殆どがリビア人で構成されていた。これに対して、エチオピア帝国軍側の将軍、デジャズマッチ・ナシブ・ザマヌエル(Nasibù Zamanuel, ነሲቡ ዘአማኑኤል)将軍は、トルコ人義勇兵ワヒブ・パシャ(Wahib Pascià)を参謀長として重用し、オガデン地方に防衛線「ヒンデンブルク防壁」を構築する事で対抗している。

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捕虜となったエチオピア帝国軍将軍、ラス・デスタ・ダムタウ(Destà Damtù)。ハイレ・セラシエ帝の義理の息子(テナグネウォルク皇女の婿)。エチオピア皇室の一員。エチオピア戦争時はナシブ・ザマヌエル将軍と共に、南部戦線の指揮官。皇帝に忠実であり、アディスアベバ陥落後も南部でレジスタンス運動を指揮、イタリア軍を苦しめた。しかし、グラツィアーニ暗殺未遂事件直後にナージ率いるイタリア軍に逮捕され、絞首刑で処刑された。

これにより、ナージ率いる「リビア」師団も多くの損害を受けるが、グラツィアーニによる容赦ない攻撃命令によってこれを突破する事に成功し、最終的にハラールを陥落させ、エチオピア戦争の終結を迎えている。終戦と共に、ナージは新たに設立されたハラール行政区の知事となった。また、少将に昇進。ハラール知事としては、レジスタンス鎮圧にも尽力し、最終的にデスタ・ダムタウ(Destà Damtù)将軍率いるレジスタンス軍を鎮圧する事に成功した。1938年には中将に昇進している。

また、ナージはハラール知事として、現地語のハラリ語を理解し、積極的に他種多少な民族構成の現地人との交渉を行って協力関係を結んでいったナージは軍人としてでだけでなく、他民族との「外交官」としても優れた交渉術を持っていたのである。彼はエチオピアのソロモン王朝に反対していた現地民らを懐柔し、イタリア軍の協力者にしていった。このナージの手法は、後にゴンダールでの最後の抵抗時でも発揮されることとなる。1939年5月に一度ハラール知事を辞めて、首都アディスアベバ周辺を統治するショア知事に任命された後、1940年6月10日、イタリアが第二次世界大戦に参戦したことによって速やかにハラール知事に戻っている。

 

ジブチを巡るフランス軍との戦い

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イタリア軍が制圧した、ジブチ・ロワイヤダのフランス軍の国境要塞。フランス軍イタリア領東アフリカ帝国とフランス領ジブチとの国境にこのような要塞群を設置して防衛を強化していた。

イタリアが第二次世界大戦に参戦した後、ナージ中将はイタリア領東アフリカ帝国(A.O.I.)のハラール行政区の知事であった。そして、A.O.I.東部地区を統括する軍司令官として防衛線を敷いたのである。東アフリカ帝国副王の肩書を持つ東アフリカ方面軍総司令官アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ(Amedeo di Savoia-Aosta)空軍大将のもとで、東アフリカでの戦いは緩やかに始まった。

6月18日から、ナージ将軍はイタリア領エチオピア-フランス領ジブチ国境から軍を進撃させ、フランス軍の国境要塞群で小規模な戦闘が発生した。ナージ将軍率いる東部地区のイタリア陸軍は南部のアリ・サビエ要塞と北部のダッダート要塞を攻撃。更に、要塞群が開けている国境のアッベ湖周辺でも伊仏両軍による戦闘が開始された。フランス軍部隊が撤退したため、イタリア軍部隊は首尾よく国境の要塞群を制圧していった。とはいえ、フランス領ジブチ植民地への明確な攻撃命令はなされていなかったため、あくまでこれらは防衛の副産物であった。そのため、ナージ将軍はフランス領ジブチへの徹底的な攻撃は行うことはしなかった。

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第二次世界大戦開戦後、ジブチにて兵士を閲兵する駐ジブチ・フランス軍司令官のポール・レジェンティオーム(Paul Legentilhomme)陸軍准将。休戦に反対してジブチを脱出後、自由フランス軍に合流。その後、東アフリカ戦線ではイタリア軍と戦い、シリア戦線ではヴィシー・フランス軍と交戦した。

6月21日、伊空軍部隊はジブチ港を爆撃(この際激しい対空砲火によってカプロニ Ca.133偵察爆撃機2機が撃墜されている)。また、夜間にはサヴォイアマルケッティ SM.81"ピピストレッロ"三発爆撃機が再度ジブチの港湾設備を爆撃し、その報復としてフランス空軍のポテ25戦闘爆撃機エチオピア国境のドゥアンレーを爆撃している。6月24日にヴィッラ・インチーサ休戦協定がイタリア・フランス間で署名されたことにより、6月25日には伊仏両軍は休戦を実現した

この結果、イタリアはフランスが支配していたジブチ港の使用権を手に入れ、ジブチ-アディスアベバ鉄道を活用することで物資の円滑な輸送が可能となった。更にジブチの非武装化と全装備のイタリア軍への接収が行われた。しかし、駐ジブチ・フランス軍司令官であるポール・レジェンティオーム(Paul Legentilhomme)将軍ヴィシー政権に従うことを拒否し、アデンに脱出して自由フランス軍に合流している。

 

ソマリランドでの大勝

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英領スーダンのカッサラーに攻撃を開始するイタリア軍部隊。

フランス降伏後、イタリア軍は本格的に英国との戦いを開始した東アフリカ戦線もそれに呼応し、東アフリカ軍総司令官アオスタ公はスーダンのゲダレフ及びカッサラーへの攻勢を開始。7月4日、ルイージ・フルーシィ(Luigi Frusci)将軍率いる部隊がカッサラーを制圧し、7月5日にはピエトロ・ガッツェラ(Pietro Gazzera)将軍率いる部隊が同じくスーダンのガッラバト要塞及びクルムク要塞を陥落させた。更に、ガッツェラ将軍の部隊は英領ケニアに侵攻を開始。7月16日に国境都市のモヤレを制圧後、続けてマンデラを制圧。遂には国境から100km地点のブナまで進軍した。

イタリア軍は順調に戦線を有利に進めていたイタリア軍司令部はその後、英軍の紅海における補給路を脅かすために英領ソマリランドの制圧を決定した。英国の最重要植民地であるインドと、地中海を結ぶ紅海の補給路を遮断する事で、英軍に大打撃を与える、というものである。そのために、英軍の重要中継地となっているソマリランドを制圧するという作戦であった。そして、長期的に見て、北アフリカではスエズを落とし、地中海ではマルタとジブラルタルを落とし、植民地に頼り切る英国本土を干上がらせよう!という計画である。

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ソマリランド侵攻の地図。左がベルトルディ将軍率いる左翼部隊、右がデ・シモーネ将軍率いる中央部隊で、途中分岐して最も右に行っているのがベルテッロ将軍率いる右翼部隊である。これらが各拠点を制圧した後、それぞれが連携してベルベラへの進撃を開始した。

このソマリランド進撃は東部地区を統括するナージ中将に任せられた。ナージ率いる兵員4万人は三縦隊に分かれ、左翼部隊はシスト・ベルトルディ(Sisto Bertoldi)中将、中央部隊はカルロ・デ・シモーネ(Carlo De Simone)中将、右翼部隊はアルトゥーロ・ベルテッロ(Arturo Bertello)准将がそれぞれ指揮に当たった。基本的に東アフリカ戦線のイタリア軍は旧式装備が目立ったが、デ・シモーネ将軍の中央部隊は12輌のM11/39中戦車と12輌のCV35豆戦車、更にFIAT 611装甲車も配備していた。それに加え、即席の装甲車両なども含んでいた。更にこれらの部隊にオルランド・ロレンツィーニ(Orlando Lorenzini)大佐率いる二個植民地旅団が追加された。

英領ソマリランドアーサー・レジナルド・チェイター(Arthur Reginald Chater)司令官率いる守備隊1万3000人が防衛していた。ナージ将軍は8月3日にソマリランド侵攻作戦を発動し、軍を進撃させる。そうして、国境地帯の拠点を制圧しつつ進軍を開始。8月5日には、サヴォイア快速師団や2個黒シャツ大隊(MVSNの部隊)を含むベルトルディ将軍率いる左翼部隊がアウダル地方の中心都市であり、重要な貿易湾であるゼイラを制圧した。これによって、ジブチ-ソマリランドのルートを完全に断つことに成功している。

同日、機甲部隊を含むデ・シモーネ将軍率いる中央部隊は、空軍の対地支援攻撃のもと、後の英領ソマリランドの首都ハルゲイサへの攻撃を開始翌日の8月6日にはハルゲイサを迅速に陥落させることに成功している。デ・シモーネ将軍はハルゲイサで中央部隊の再編制を行い、2日間進軍を停止した。

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イタリア軍によって制圧された英領ソマリランドの首都、ベルベラ。東アフリカ戦線における一連の勝利は、イタリア軍の緒戦での戦いで最も成功した勝利と言える。

リビア人植民地兵のラクダ騎兵部隊を中心とするベルテッロ将軍率いる右翼部隊も、8月6日に首都ハルゲイサから東に120kmほど行った場所にある拠点、アドエイナを陥落させているこうして、三方面から進軍したイタリア軍部隊は揃い、首都ベルベラへの進撃を開始した。これに対して、東アフリカ軍総司令官のアオスタ公は進撃を急がせたが、ナージ将軍は雨の影響で路面に泥濘が多く、路面状態が悪化していたために進軍を遅らせ、デ・シモーネ将軍の中央部隊が再編成を終えた8月8日に再進軍を開始した。

ここまで順調に勝利を重ねていたナージ将軍であったが、英軍側がトゥガ・アルガン峠で最後の抵抗を試みた。英軍は防衛線を張り、イタリア軍を迎撃。このトゥガ・アルガン峠での激戦は8月11日から6日間も続き、イタリア軍側(現地のアスカリ兵を含む)は約2000人近い戦死者を出す結果となった。しかし、ナージ将軍率いるイタリア軍は英軍守備隊を激しく追撃し、英軍側は包囲を恐れて退却を余儀なくされたのである

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ソマリランド征服時点(1940年8月19日)の東アフリカ戦線におけるイタリア軍の支配領域。赤色は開戦前からのイタリア領東アフリカ帝国(A.O.I.)、ピンク色がこの時点で占領している英国植民地(ソマリランドケニア北部、南スーダン)、橙色は使用権を得たヴィシー・フランス領ジブチ

こうして、チェイター司令官ら英軍ソマリランド司令部はソマリランドの放棄を決定し、8月16日に英軍部隊の多くは包囲される前に速やかに海路でアデンまで撤退したのであった。この結果、ナージ将軍率いるイタリア軍部隊は英軍の残存部隊を追撃・撃破した後、8月19日にソマリランド首都ベルベラに入城し、英領ソマリランド全土の制圧を完了したのであった

このナージ将軍による「ソマリランドでの大勝」の知らせはムッソリーニは勿論、ヒトラーも絶賛する祝電を打っている。ナージ将軍は砂漠と荒野の広がる戦場で巧みに軍を三分割して指揮し、各拠点を封じて英軍の補給路と退路を断った後に、三部隊が再び連携して首都を叩く、という戦略で輝かしい勝利を手に入れたのであった。

 

ソマリランドの占領統治

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グリエルモ・ナージ(Guglielmo Nasi)将軍

ナージ将軍によって征服された英領ソマリランドであったが、形式上は東アフリカ帝国のソマリア行政区に組み込まれたが、「征服地」故にソマリア知事のグスタヴォ・ペセンティ将軍(Gustavo Pesenti)の指揮下ではなく、ナージ将軍が「ソマリランド軍事総督」として、旧英領ソマリランドの占領統治を管理した。

しかし、英軍は撤退時にソマリランドの港湾設備を徹底的に破壊していたために、利用するためのインフラ修復が急務となった。インフラ整備の傍ら、イタリア式の建築もソマリランドの占領地域で試みられているが、そのほかのスーダンケニアの占領地同様に短期間で支配が終わった事から、どうしても数は少なかった。

イタリア軍ソマリランドで大勝したものの、損害もそれなりに多かったため、軍需物資が不足してしまった。スエズが封鎖されているために海上輸送による大規模物資運搬が不可能であったため、アウレリオ・リオッタ(Aurelio Liotta)空軍将軍率いる空軍特別補給コマンド(S.A.S.)がエチオピアへの物資運搬をしていたが、航空機では装甲車両を始めとする軍需物資運搬は数がどうしても制限されてしまった。

 

◆反撃の狼煙、戦線の崩壊

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装甲車両とイタリア兵。

結局、その後東アフリカ帝国軍総司令官であるアオスタ公は物資の不足からスーダンケニアへの再進撃を停止していた。しかし、この3カ月ほどの温存期間の結果、完全に敵に塩を送る結果となってしまったのである。伊軍が物資の補給の遅延故にゆっくりしたスピードで回復していたのに対して、英軍は急速に兵力を増強させて反撃の機会を狙っていた。更に、英軍はデブレ・マルコスを中心とするエチオピア北西部のゴジャム地方にて、エチオピア人によるイタリア当局への叛乱工作を行っていた。

英軍は反撃の狼煙をあげた。1940年12月18日、英軍がソマリア北西部国境のエル・ウァク基地を襲撃し、これを陥落させた。これは小さな勝利であったが、イタリア軍崩壊の前触れとなったのであった。この結果、敗北の責任を取らされてソマリア知事兼エル・ウァク基地司令官のグスタヴォ・ペセンティ将軍は解任、本国に送還された。

後任のソマリア知事には、ナージ将軍の後任としてソマリランドの占領統治をしていたデ・シモーネ将軍が就任した。この結果、名実ともにソマリア植民地が完全統一された。英領ソマリランドは再度英国に奪還されるまでの間、イタリア領東アフリカ帝国(A.O.I.)のソマリア行政区に編入され、ソマリアは「史上最大のソマリア領域」を手に入れたのであった。アジュラーン帝国の末裔で、イタリア当局に協力していた主要ソマリ人貴族のオロル・ディンレ(Olol Dinle)もこれを称賛した。

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エリトリアにおける英軍による逆侵攻の地図。

年が明けると、1941年1月19日に英軍は占領地域の奪還を遂に本格的に開始し、イタリア軍が占領していたスーダンのカッサラーが陥落したエリトリアへの逆侵攻を開始した英軍は、1月31日にはアゴルダト、2月2日にはバレントゥを陥落させ、イタリア軍はケレンまで撤退することとなった。他方、南部方面ではイタリア軍は占領していたケニアから追い出され、2月初めには英軍はソマリアへの侵攻を開始。アフマドゥやキスマヨといった南部の主要都市が次々と制圧され、2月25日には遂にソマリア首都モガディシオが陥落する事態となった。英軍はソマリアでの伊軍掃討戦に移り、わずか数日で英領ソマリランドも奪還している。

東アフリカ戦線はもはや壊滅状態であった。伊軍第25植民地師団は帝都アディスアベバ東方のアワシュ渓谷地帯で防衛戦を繰り広げていたが、英軍の侵攻によって4月5日に力尽きた。これによって帝都への道が開かれ、伊軍司令部は帝都放棄を決定。翌日にはアディスアベバは英軍によって陥落したのである

帝都を脱出した東アフリカの伊軍総司令官アメデーオ公は、アンバ・アラジ山岳地帯のトセッリ城塞での防衛戦をおこなった。4月17日にはデシエが陥落。イタリア軍は軍需物資の欠乏に悩まされながら戦ったが、5月15日に統帥からの降伏許可の電文が届き、17日にアメデーオ公は英軍に降伏、東アフリカのイタリア軍主力は降伏した。

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自由ベルギー軍のオーギュスト=エドゥアール・ジリアールト(Auguste-Édouard Gilliaert)陸軍少将と、ベルギー領コンゴ公安軍の兵士たち。ジリアールト将軍率いる自由ベルギー軍アフリカ軍団は、東アフリカ戦線に参加してガッツェラ将軍率いるジンマのイタリア軍を降伏に追い込んだ。

こうした結果、主力降伏後もいくつかの部隊が各地で籠城戦を繰り広げた。アメデーオ公の降伏によって、東アフリカ軍総司令官の役職を受け継いだガッツェラ将軍は4万人の兵を率いてエチオピア南部のジンマを拠点とした一方で、ナージ将軍はエチオピア北西部に位置する旧首都のゴンダールを拠点とすることとした。しかし、3か月に渡る籠城戦の末、6月21日にジンマは陥落。ガッツェラ将軍率いる残存部隊は西部に撤退していたが、オーギュスト=エドゥアール・ジリアールト(Auguste-Édouard Gilliaert)将軍率いる自由ベルギー軍部隊の追撃を受け、7月3日にガッツェラ将軍は降伏した

こうして、東アフリカ戦線で最後まで組織だった抵抗をしているイタリア軍部隊は、ゴンダールを拠点とするナージ将軍の部隊のみとなってしまった

 

ゴンダールでの最後の抵抗

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ゴンダール戦における英軍の侵攻経路。

ガッツェラ将軍の降伏の後、ナージ将軍はその役職を引き継ぎ、最後の東アフリカ軍総司令官として就任した。更に、大将に昇進し、名誉職として上院議員の席も与えられている。こうして、ゴンダール周辺での最後の戦いは始まった

ナージ将軍配下の兵士は約4万人で、ゴンダールを最後の拠点として、エチオピア北西部のアムハラ地方にあるタナ湖北方の北西陣地に陣を構えた。ナージ将軍は、周囲を英軍に囲まれて支援物資も全く届かない状況において、物資が困窮する中で残された全てを利用するために努力した。食糧消費を管理して減らし、現地人との協力体制を築き、資材は全て余すところなく活用し、更にタナ湖の漁業区画を管理下において、効率的に食糧供給を行うことで、残されたもので最大限の活用を行った。特別航空補給コマンド(S.A.S.)による秘密空輸作戦によって、現地人から食料を買うための資金が届けられ、こうしてナージ将軍は現地人から食糧を奪い取るのではなく、合法的な手段で協力関係を結び、あくまで対等な交易関係として食糧を購入した

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東アフリカ戦線のイタリア軍の即席装甲車両。東アフリカ戦線のイタリア軍は英軍によってスエズが封鎖されているために、本国からの海上輸送が出来ず、装甲車両が不足した。そのため、現地で即席でこういった装甲車両を作って戦力を補充した。

兵器に関しては、装甲車両が圧倒的に不足していたために、農業用トラクターを改造して即席の装甲車両を作り、戦力の増強に務めている航空戦力で稼働状態にあるものは、FIAT CR.42"ファルコ"戦闘機が2機、カプロニ Ca.133偵察爆撃機が1機、ゴンダールのアゾゾ空軍基地にあるのみであった。 

ナージ将軍の部隊には騎兵集団「アムハラ」の団長であるアメデオ・グイレット(Amedeo Guillet)大尉もいた。男爵家出身の騎兵将校グイレットは、エリトリア人やイエメン人から構成された騎兵集団「アムハラ」の指揮官として、数々の戦場で武勲を挙げ「悪魔の司令官」と呼ばれていた。アゴルダト撤退戦では騎兵突撃で歩兵部隊だけでなく、英軍のマチルダII歩兵戦車さえも数輌撃破して、味方の撤退の血路を開くと言う奇跡的な戦果を挙げている。

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アメデオ・グイレット(Amedeo Guillet)大尉率いる騎兵集団「アムハラ」。左の人物がグイレット大尉。

ゴンダール北方に築かれたウォルケフィット要塞では、マリオ・ゴネッラ(Mario Gonella)中佐率いる二個黒シャツ大隊が最後まで抵抗した。一方はアンジェロ・サンテ・バスティアーニ(Angelo Sante Bastiani)曹長が、もう一方はエンリコ・カレンダ(Enrico Calenda)中尉が指揮した。今までイタリア軍側に協力していたエチオピア人貴族(ラス)の旧エチオピア帝国軍将軍アジャレウ・ブッル(Ajaleu Burrù)が連合軍側に寝返ったため、ウォルケフィット要塞は完全に英軍の包囲下に置かれた。5月10日、ゴネッラ中佐は英軍からの降伏勧告を拒否し、徹底抗戦する事を決定する

その後、ウォルケフィット要塞は英空軍の激しい空爆に襲われるが、6月22日のイタリア軍の反撃ではバスティアーニ曹長とカレンダ中尉の黒シャツ大隊が英軍拠点を陥落させ、制圧する事に成功している。英軍側に協力していたアジャレウ・ブッルは捕縛されたが、ナージ将軍は彼を殺さないように兵士らに命じた。バスティアーニはこれらの働きにより、イタリア軍最高位の金勲章を叙勲されている。

しかし、状況は再度厳しくなった。ウォルケフィット要塞は再度英軍の反撃を受け、2度目の降伏勧告を通告された。ゴネッラ中佐は再度拒否したが、チャールズ・クリストファー・フォークス(Charles Christopher Fowkes)少将率いる英軍部隊によってウォルケフィット要塞は完全に包囲される事態となり、8月25日の英空軍の激しい爆撃によって、カレンダ中尉も戦死してしまった。包囲下の中、駐屯軍は最後まで抵抗し、食糧が枯渇したゴネッラ中佐らウォルケフィット要塞守備隊は、9月28日に降伏した。英軍は彼らの勇気を称賛し、武装したままの降伏を許可している。

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エリトリア人アスカリ兵を描いた絵ハガキ。東アフリカ戦線では、イタリア軍最高位の金勲章を叙勲したウナトゥ・エンディシャウ(Unatù Endisciau)伍長を始めとし、多くのエリトリア人・ソマリ人・エチオピア人・イエメン人の現地人兵(アスカリ)が活躍し、激戦の中で戦死した。

8月に入ると、アウグスト・ウゴリーニ(Augusto Ugolini)大佐率いる守備隊が守るクルクァルベール要塞に対する攻撃も開始された。ウゴリーニ大佐率いるクルクァルベール守備隊は、アルフレード・セッランティ(Alfredo Serranti)少佐率いるカラビニエリ部隊(イタリア人兵200名、現地人ザプティエー160名)、アルベルト・カッソーリ(Alberto Cassoli)少佐(老兵,Seniore)率いるMVSN(黒シャツ隊)部隊675名から構成されていた。アスカリ兵たちはエチオピアレジスタンスの拠点を襲撃して武器や弾薬を手に入れ、英軍はこれに対抗してクルクァルベール要塞への激しい爆撃を実行した。

英軍はクルクァルベール要塞への包囲を実行した。イタリア軍部隊は飢えと渇きに襲われ、苦しんだ。特に水の不足は深刻となっていた。しかし、イタリア軍部隊は最後まで抵抗した。デブレ・タボールの戦いでは、エリトリア人アスカリ兵のウナトゥ・エンディシャウ(Unatù Endisciau)伍長は英軍の降伏勧告を拒否し、致命傷を受けながらも英軍の陣地を突破して味方側を救うために情報を伝え、戦死した。彼はこの武勲から、イタリア軍最高位の金勲章を叙勲している。

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クルクァルベール包囲戦でイタリア軍側が使った即席装甲車両。

残存イタリア空軍部隊のイルデブランド・マラヴォルタ(Ildebrando Malavolta)空軍少尉率いるCR.42戦闘機2機編隊は、約100機もの英空軍爆撃機部隊と、それを護衛する戦闘機部隊に対して絶望的な戦いを繰り広げたマラヴォルタ少尉のCR.42はこの状況で英空軍のウェルズレイ爆撃機グラディエーター戦闘機を数機撃墜するなど素晴らしい武勲を挙げたが、絶望的な戦力差は埋められず、10月24日にゴンダール航空戦にて3機の敵戦闘機の追撃を受けて撃墜、戦死した。こうして、東アフリカ帝国のイタリア空軍部隊は完全に壊滅したのである。

最終的に、11月21日までクルクァルベール要塞の抵抗は続き、激戦の中カラビニエリ隊司令官のセッランティ少佐と、MVSN部隊司令官のカッソーリ少佐は戦死し、生き残ったウゴリーニ大佐らは抵抗する術も失い、降伏した

クルクァルベール要塞の陥落によって、ゴンダールへの道は完全に開かれた。こうして、ナージ将軍率いるゴンダール守備隊は、11月中旬から最後の抵抗をすることとなった11月11日、英軍の第25アフリカ旅団及び第26アフリカ旅団はゴンダール市への攻撃を開始する。また、ゴンダール包囲戦にはエチオピア帝国皇太子(ハイレ・セラシエ1世の息子)のアスファ・ウォッセン・タファリ(Asfauossen Tafarì)率いる自由エチオピア帝国軍部隊も参加していた。アスファ・ウォッセン・タファリは後にアムハ・セラシエ(Amhà Selassié)として、後に名目上のエチオピア帝国最後の皇帝となった。

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ナージ将軍が司令部としていたゴンダールのファシラデス城。17世紀にエチオピア皇帝ファシラデスが建造し、自らの宮殿に使っていた城。現在はユネスコ世界文化遺産に登録され、観光地として栄えている。

もう既にナージ将軍らイタリア軍部隊に抵抗する術はなく、武器・弾薬も使い果たしている状態であった11月27日、英軍の攻撃によって、抵抗を続けていたアゾゾ空軍基地が完全に陥落こうして、翌日11月28日、ナージ将軍が司令部を置いていたファシラデス城(エチオピア皇帝ファシラデスが建造し、王宮として使った城)を英軍は包囲その結果、最後まで抵抗したナージ将軍は現地民間人の被害を最小限に留めるために、英軍の降伏勧告を受け入れ、残っていた約2万2千人の将兵は降伏したのであった最終的に、二日後の11月30日に、最後まで抵抗していた残存部隊も降伏、完全に組織だったイタリア軍の抵抗は終わったのである

降伏したナージ将軍は東アフリカ帝国軍総司令官のアメデーオ公と共にケニアの捕虜収容所に送られた。1942年3月3日、アオスタ公が収容所内で病死すると、東アフリカのイタリア兵捕虜を束ねる存在となった。1943年の休戦後、バドリオ元帥率いる共同交戦軍に合流することを条件として解放され、帰国した。1947年のパリ講和条約の結果、ソマリアが新生イタリア共和国信託統治領として再度イタリアの管理下に置かれることとなった。これにより、英国との合意でナージ将軍はソマリアでの軍政長官に任命されたが、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエはこれに対して激しく非難し、その結果イタリア政府はこの決定を取り下げざるを得なかった。1971年9月21日、モデナにて92歳で死亡した

 

ナージ将軍については、イタリア人歴史家のアンジェロ・デル・ボカ(Angelo Del Boca)「王立イタリア陸軍最高の指揮官」と称している。デル・ボカは普段はイタリア軍の将軍たちの評価に結構辛辣であるが故に、ナージ将軍が優れた指揮能力を持っていたことがわかる。更には、占領地であったエチオピア側からもナージ将軍は高く評価された。ゴンダール生まれのエチオピア人歴史研究家ソロモン・アディス・ゲタフーン(Solomon Addis Getahun)は、デル・ボカのナージ将軍に対する評価を支持し、ゴンダール包囲戦におけるナージ将軍の民間人に対する行動と態度は素晴らしいものであったと評価した

東アフリカ戦線序盤では、フランス軍との小規模衝突から始まり、巧みな指揮でソマリランド制圧を達成、そして、東アフリカ戦線崩壊後も最後までゴンダール周辺での徹底抗戦を指揮し、現地人との協力体制などを駆使して限られた資材や装備のみで効率的に抵抗、英軍側を苦しめた。この手腕は、やはり高く評価出来る。間違いなく、第二次世界大戦イタリア軍の将軍らでは、トップクラスの名将と言えるだろう

 

◆主要参考文献

B.Palmiro Boschesi著, L'ITALIA NELLA II GUERRA MONDIALE, Mondadori, 1975

Gastone Breccia著, Nei secoli fedele, Le battaglie dei carabinieri (1814-2014), Mondadori, 2014

Indro Montanelli著, L'Italia delle grandi guerre, BUR Biblioteca Univ. Rizzoli, 2015

Angelo Del Boca著, Gli italiani in Africa orientale:2, Mondadori, 1999

Pietro Maravigna著, Come Abbiamo Perduto la Guerra in Africa, 1948

吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939~1945 ―第二次大戦を駆け抜けたローマ帝国の末裔たち―』イカロス出版・2006

吉川和篤著『Benvenuti!知られざるイタリア将兵録【上巻】』イカロス出版・2018

石田憲著『ファシストの戦争 ―世界史的文脈で読むエチオピア戦争—』千倉書房・2011