「イタリアを救いたかった男」ヴィットーリオ・アンブロージオ将軍 ―ユーゴスラヴィア侵攻と「祖国の解放」への意志―
前回のギリシャ戦線の記事は時間を掛けた割に出来が悪かったので削除することとした。今回は、その削除した記事の中で後に紹介する、と言っていたユーゴスラヴィア侵攻を指揮したヴィットーリオ・アンブロージオ(Vittorio Ambrosio)将軍について調べてみることとしよう。ユーゴスラヴィア侵攻におけるアンブロージオ将軍の作戦指揮は、第二次世界大戦時のイタリア軍のエピソードの中でも特に高く評価出来るものの一つだ。ではあるのだが、如何せん東アフリカ戦線のナージ将軍と同様に知名度はあまり高いとは言えない。
ヴィットーリオ・アンブロージオ将軍は、それに加え中々に興味深い人物である。第二次世界大戦での功績というと、ユーゴスラヴィア侵攻を指揮し、わずか短期間で迅速にユーゴスラヴィアの制圧を進めていった智将であると同時に、大戦終盤でカヴァッレーロ将軍の後任としてムッソリーニによって統合参謀総長に任命され、イタリア軍全体を束ねる立場となったが、その一方、水面下では戦争離脱とムッソリーニ政権の打倒を画策し、腹心のカステッラーノ将軍と共にクーデターを実行・成功させた人物なのだ。
しかし、この「救国クーデター」の後成立したバドリオ元帥の政権は上手く戦争離脱をすることが出来ず、結果的にイタリアは泥沼の内戦状態に陥る結果となった。つまりは、結果的に言うとこの「救国クーデター」が妥当であったかは微妙なところである(クーデター自体は首尾よく進んだのであるが)。それに、ファシスト側からすれば、「全軍を束ねる立場であるにもかかわらず、統帥を裏切った裏切り者」ということになる。だが、彼自身の「祖国イタリアを救いたかった信念」というのは評価したい。
今回はそんなアンブロージオ将軍について調べてみる事とする。
◆その出自と騎兵将校としての武勲
1879年7月28日、ヴィットーリオ・アンブロージオ(Vittorio Ambrosio)は北イタリア・ピエモンテの中心都市、トリノで生まれた。トリノはアンブロージオが生まれる14年前まで統一イタリア王国の首都であり、更にはその前身となったサルデーニャ王国、サヴォイア公国の首都として、サヴォイア王家のお膝元で栄えてきた都市であった。国境に近いことからフランスの影響も強いことで知られ、独特の文化が育っていった町だ。特に、Baratti & Milano(1875年創業)を始めとする老舗カフェテリアのチョコレートはイタリアで最も、いや世界で最も美味しいといっても過言ではないだろう。
また、トリノは後にFIAT社の城下町として栄え、ミラノやジェノヴァと並び、北イタリアの主要工業・産業都市として発展していった。現在においてはトリノオリンピックの開催地として知られているが、歴史的にもトリノは非常に重要な都市のひとつであった。この地で育ったアンブロージオは14歳の頃(1893年)に、南イタリアの中心都市であるナポリの王立士官学校に入学した。北イタリアのアルプスに抱かれた大地から、南イタリアの照り付ける太陽の元に向かった若きアンブロージオは、新鮮な気持ちを味わったことだろう。
幼い頃から乗馬に親しんでいたアンブロージオは、騎兵将校となるべく士官教育を受けることとなった(ピエモンテは優秀な騎兵を輩出している地でもあった)。3年後、17歳のアンブロージオはバルサミコ酢で有名なモデナに移動し、モデナの陸軍士官学校に入学。19歳になった1898年、優秀な成績で卒業したアンブロージオは晴れて騎兵少尉として任官されたのであった。
彼の初の実戦参加は1911年に発生したオスマン帝国とのリビアを巡る戦争であった(伊土戦争)。アンブロージオはこの戦争に大尉として参加している。イタリア軍はこの戦争で世界で初めて航空機を投入し、世界初の航空爆撃を実行するなど、先駆的な手段でオスマン帝国軍を追い詰めた。アンブロージオは連隊長として騎兵連隊を率いて、トリポリ戦線で武勲を挙げたのであった。戦争終結後、第一次世界大戦が開戦する前年である1913年にイタリアに帰国している。
1915年に第一次世界大戦にイタリアが参戦すると、宿敵オーストリア=ハンガリー軍と戦うためにアルプス戦線に送られた。アンブロージオはこの世界大戦で軍参謀としての手腕を発揮し、頭角を現した。1916年の第六次イゾンツォ川の戦いでは、ゴリツィア市の制圧に貢献し、その武勲から少佐に昇進している。更に第3騎兵師団の参謀として活躍した一連の戦果から1917年2月には中佐に昇進、その後のカポレットの大敗後には部隊の立て直しに尽力し、1918年1月に大佐に昇進した。その後、第26歩兵師団の指揮を任せられ、オーストリア軍との決戦であるヴィットリオ・ヴェネトの戦いでは師団長として歩兵部隊を指揮、祖国の勝利に貢献したのであった。
◆カステッラーノとの出会い
第一次世界大戦は終わり、ヨーロッパに平和が訪れた。アンブロージオは戦後、第26歩兵師団「カターニア」の参謀長に任命され、新たにイタリアに併合されたボルツァーノ市に派遣された。1922年にはイタリア陸軍のエリート騎兵部隊として知られる、サヴォイア竜騎兵連隊の指揮も任せられている。その後、ピネローロの騎兵学校の教官として教鞭をとる傍ら、1926年には准将に昇進し、将軍となった。そして、ピネローロ騎兵学校の校長に就任している。1932年には少将に昇進し、第二快速師団「エマヌエーレ・フィリベルト・テスタ・ディ・フェッロ」の師団長となった。1935年にはパレルモを本部とするシチリア駐屯軍の司令官に任命されたのであった。
このシチリアにいる時、アンブロージオはとある青年将校と運命的な出会いをする。それが、親しい友人となり、後に腹心となるジュゼッペ・カステッラーノ(Giuseppe Castellano)だった。カステッラーノはシチリア出身の両親の下で、トスカーナのプラートに生まれた青年将校だった。生年月日は1893年9月12日なので、アンブロージオとは一回り年下である。しかし、二人とも国王への忠誠心から、階級を越えた間柄になり、互いに信頼するような間柄になっていったのである。
カステッラーノも天才的な士官であった。モデナの陸軍士官学校を優秀な成績で卒業し、その後は砲術学校で戦術を学び、第一次世界大戦に出征後、戦後は戦術学校で学んだ。両親がシチリア出身で、シチリアに親しみを持っていたカステッラーノは任官された後、主な任地がシチリアであった。1935年にシチリアで敵軍の上陸作戦を想定した大規模な陸軍大演習が行われ、シチリア駐屯軍司令官であるアンブロージオ少将はこの指揮をとることとなった。カステッラーノはこの演習でアンブロージオ将軍の直属の部下として活動したが、既に親しい関係だった二人は、この僅か一週間の演習期間の間に、軍人としてだけでなく、個人的な友人としても親しい関係となったのであったのである。そして、この演習を経てアンブロージオは中将に昇進している。
◆イタリア・ユーゴスラヴィア関係の変遷
1938年までシチリア駐屯軍司令官を務めた後、彼はユーゴスラヴィア国境に展開する第二軍の指揮を任されることとなり、そのまま第二次世界大戦に突入した。アンブロージオ将軍はユーゴスラヴィアでの活躍が知られているが、ここでユーゴスラヴィア侵攻に至るまでのイタリアとユーゴスラヴィアを取り巻く環境について説明する。
イタリアにとって、バルカン半島というのは歴史的にも自らの勢力圏として認識しており、それはムッソリーニ率いるファシスト政権期に特に強化されることとなった。「英雄詩人」ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio)が同志と共に起こした「フィウーメ進軍(Impresa di Fiume)」は、イタリア人住民が多いフィウーメ(現クロアチア領リエカ)市がユーゴスラヴィア(1929年まではセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国(Stato degli Sloveni, Croati e Serbi)だが、便宜上ユーゴスラヴィアと表記)領になった事に抗議して起こされた行動だったが、結局イタリア軍に鎮圧され、1920年にイタリア・ユーゴ間で締結したラパッロ条約によってフィウーメ市は「フィウーメ自由市」となった。
このため、政権を手に入れたばかりのムッソリーニはユーゴスラヴィア方面に目を向けた。当時のイタリア国民は今までの「弱腰外交」に落胆しており、1923年のコルフ島事件でギリシャに対して強硬的な外交を見せたムッソリーニに対して支持が集まっており、更に「骨抜きにされた勝利」の雪辱を晴らすという意志もあった。ムッソリーニはフィウーメのイタリアへの併合を実現するためにユーゴスラヴィア政府と交渉し、その結果両国の「友好条約」として1924年にローマ条約が締結、フィウーメはイタリアを割譲させる事に成功した。続く1925年のネットゥーノ条約にて、ラパッロ条約でイタリア領となった領土の再確認も含め、両国の国境が正式に確定したのである。これにより、両国関係は表面上安定したものとなり、イタリア人人口の多かったフィウーメの獲得もダンヌンツィオが武力で達成できなかったことを、ムッソリーニが外交で達成した、という目に見えるムッソリーニの成果であった。
その後、アルバニア共和国の経済的な属国化、ギリシャのヴェニゼロス政権との友好条約締結、更にブルガリア王室との政略結婚と、ファシスト・イタリアはバルカン半島に急速に勢力圏を築いていった。しかし、そこで最大の障害となったのが、仮想敵フランスと緊密な友好関係を築いている、旧セルビア王家カラジョルジェヴィチ家が王家になっているユーゴスラヴィア王国であった。ムッソリーニはユーゴスラヴィアとの表面上は友好関係を維持していたものの、ユーゴスラヴィア内部の民族対立を利用してユーゴスラヴィアの分裂を画策していた。
それに利用されたのがアンテ・パヴェリッチ(Ante Pavelić)率いるクロアチア人民族主義組織の「ウスタシャ」であった。1927年にパヴェリッチはイタリア側に初の接触をし、1929年にパヴェリッチがイタリアに亡命すると、パヴェリッチとウスタシャはイタリアの庇護下となり、マリオ・ロアッタ(Mario Roatta)将軍率いるSIM(陸軍諜報部)はウスタシャのテロリストを訓練した。ウスタシャの訓練官を務めたヴラド・チェルノゼムスキ(Владо Черноземски, マケドニア独立主義者でブルガリア国籍の男)はウスタシャ党員と共にユーゴスラヴィア国王アレクサンダル1世(Aleksandar I Karađorđević)の暗殺を計画したが、これにはロアッタ将軍率いるSIMも関わっていたとされる。
アレクサンダル1世はマルセイユに向かい、仏外相ルイ・バルトゥー(Louis Barthou)に迎えられた。チェルノゼムスキはそれを狙い、マルセイユにウスタシャ党員とともに潜伏していた。しかし、他の暗殺実行メンバーが準備不足と判断し、訓練官であったチェルノゼムスキ自身が暗殺を実行、車に乗っていたアレクサンダル1世と同乗していたバルトゥー外相を射殺したのである。チェルノゼムスキは暗殺の後にフランス警察と群衆によってリンチにされ、その場で死亡。死後、「欧州で最も危険なテロリスト」と呼ばれた。
この暗殺事件はイタリアの外交に大きな波紋を与えた。ウスタシャを支援していたイタリアと、フランス及びユーゴスラヴィアの関係は急速に冷却化していったのである。しかし、1935年にユーゴスラヴィアで新たにミラン・ストヤディノヴィチ(Milan Stojadinović)政権が成立すると状況は変化した。ストヤディノヴィチはセルビア中心主義的な「ユーゴスラヴィア急進同盟(JRZ)」を率いた銀行家であった。
ストヤディノヴィチは冷却化していたイタリアとの関係を改善し、後に友好不可侵条約を締結した。しかし、ストヤディノヴィチをただの親伊政権と考えるのは誤りである。ストヤディノヴィチはスイスのような中立外交を展開して国土を防衛する事を目的としたのである。ストヤディノヴィチ政権はイタリアとの協力と、ハンガリー及びブルガリアへの接近によって東南欧ブロック形成を目指し、ドイツとの友好関係やフランスとの伝統的な友好条約延長も行っている。そして、イタリア及びオーストリア(後にドイツ)との国境にはスロヴェニア人の将軍レオン・ルプニク(Leon Rupnik)将軍に命じて要塞線を構築し、クロアチア人の懐柔も行って国内の安定にも力を注いだ。
しかし、これらの外交方針はルーマニアとの同盟とバルカン協商の維持を求めるパヴレ摂政(Pavle Karađorđević)の方針と対立を引き起こす事になった。パヴレ摂政はルーマニアとの対立とバルカン協商の解体を恐れ、ストヤディノヴィチを解任に追い込んだ。後任の首相には親独派のツヴェトコヴィッチ(Dragiša Cvetković)が起用され、防共協定にも積極的姿勢を示していくことになる。ストヤディノヴィチの解任は再び伊・ユーゴ関係の悪化に繋がり、イタリアは再びウスタシャ支援を始めた。これに対し、ユーゴスラヴィア政府はアルバニアとの友好条約締結を画策し、イタリアからの自立を求めるアルバニア王ゾグ1世(Zogu I)にイタリアによるアルバニア分割案を暴露したのであった。
ユーゴスラヴィアやアルバニアとの対立加速、ギリシャにおけるメタクサス政権の誕生、そしてドイツによるバルカンでの影響力の拡大はイタリアのバルカン外交を破綻させていった。こうして、「ドイツの南下を防ぐため」に行われたアルバニア侵攻を契機とし、イタリアの対バルカン政策は完全に「外交での影響力の拡大」から「武力での影響力の拡大」に本格的にシフトさせたのであった。その結果、第二次世界大戦にイタリアが参戦するとギリシャへの侵攻を開始したのである。
ユーゴスラヴィアのパヴレ摂政は、1941年3月20日に三国同盟への加盟に調印。その結果、ユーゴスラヴィアはイタリア・ドイツの同盟国となった。しかし、3月26日に突如として発生したドゥシャン・シモヴィッチ(Dušan Simović)将軍らによるクーデターによって、パヴレ摂政は失脚し、若き国王ペータル2世(Peter II)が親政を行った。このクーデターは英国の援助工作によって実行されたものであり、新たに成立したシモヴィッチ将軍の臨時政府は三国同盟加盟に署名したツヴェトコヴィッチ前首相ら閣僚を逮捕、同盟条約への加盟を破棄した。これによってユーゴスラヴィアと枢軸国の関係は急激に悪化することとなり、ムッソリーニとヒトラー、更にはハンガリー首相テレキ・パール伯(Teleki Pál)もユーゴスラヴィアへの侵攻を決定したのであった。
◆ユーゴスラヴィア侵攻作戦
ユーゴスラヴィア国境に展開する第二軍を指揮するアンブロージオ将軍は、ユーゴスラヴィア侵攻を指揮することとなった。こうして、「ユーゴスラヴィア遠征軍」となった第二軍の副参謀長は、アンブロージオ将軍の親友であるカステッラーノ大佐が務め、アンブロージオ将軍を補佐した。こうして、1941年4月6日にアンブロージオ将軍率いる第二軍はユーゴスラヴィアへの侵攻を開始したのである。
ユーゴスラヴィア国境に展開する第二軍は8個歩兵師団と1個山岳(アルピーニ)師団、2個機械化師団、戦車師団「リットーリオ」、3個快速師団から編制されており、4月6日に迅速に国境を突破してスロヴェニア方面に侵攻を開始した。一方で、南部のアルバニア方面からはアレッサンドロ・ピルツィオ・ビローリ(Alessandro Pirzio Biroli)将軍率いる第九軍の4個師団がモンテネグロ方面に進撃を開始。そして、既にイタリア領になっているザラ市(現クロアチア領ザダル)含むアドリア海沿岸地域はエミーリオ・ジリョーリ(Emilio Giglioli)将軍率いる9000人の守備隊(3個機関銃大隊や1個ベルサリエリ大隊などで構成されていた)が展開していた。
イタリア陸軍の侵攻開始に呼応し、空軍と海軍も行動を開始した。空軍はジュゼッペ・チェンニ(Giuseppe Cenni)大尉ら急降下爆撃機部隊や、コジモ・ディ・パルマ(Cosimo Di Palma)中尉ら爆撃機部隊が活躍し、ユーゴ輸送船団や敵陣地への爆撃で戦果を挙げている。アドリア海沿岸のスプリト(イタリア語ではスパラート)では港湾設備や船舶などを爆撃、モンテネグロのコトル港(イタリア語ではカッタロ)では港湾への爆撃だけでなく、近くの軍事基地も甚大な被害を与えた。4月9日にはユーゴスラヴィア海軍は陸軍と共同でイタリア領のザラ市への攻撃作戦を実行しようとしたが、駆逐艦「ベオグラード」を旗艦とする派遣艦隊がシベニク沖にて伊空軍機の攻撃を受けたため撤退、陸軍部隊も守備隊の反撃に遭い、ユーゴ軍の作戦は失敗に終わっている。ザラ守備隊はその後ユーゴ軍部隊の包囲下に置かれたが、その後南下した第二軍によって解放された。
スロヴェニアに進撃を開始したアンブロージオ将軍率いる第二軍は6日のうちにサヴァ川沿いに達し、敵陣地を占領した。第二軍はスロヴェニアの首都リュブリャナ(イタリア語ではルビアナ)を、第九軍はドゥブロヴニク(イタリア語ではラグーザ)の占領を目標としていた。ユーゴ軍側はスロヴェニア人の将軍であるレオン・ルプニク将軍の指揮で、要塞線「ルプニク・ライン」を建設していたが、アンブロージオ将軍率いる第二軍は順調にこの要塞線を突破することに成功し、4月11日にはイタリア軍によってリュブリャナは陥落し、制圧下に置かれたのであった。更に、翌日にはクロアチアのカルロヴァツも占領下に置いている。迅速な進撃によって、アンブロージオ将軍は第一目標をクリアすることが出来た。
続いて、アンブロージオ将軍の目的はダルマツィア海岸を南下し、制圧することであった。また、ユーゴ軍部隊に包囲されているジリョーリ将軍率いるザラ守備隊の援護も目的となった。既にクロアチアの首都ザグレブ(イタリア語ではザガブリア)は制圧されていたため、パヴェリッチ率いるウスタシャはザグレブに「帰還」。「クロアチア独立国家」の成立を宣言したのであった。ビローリ将軍率いる第九軍はアルバニア国境を越えたユーゴ軍部隊をシュコドラ(イタリア語名スクタリ)で迎撃し、これを壊滅させた。その後、南下してきたアンブロージオ将軍率いる第二軍と合流、モンテネグロのツェティニェやポドゴリツァを制圧していった。
合流した第二軍と第九軍は、4月15日にはシベニクとスプリト、4月17日にはドゥブロヴニクとヘルツェゴビナのモスタルを陥落させることに成功し、占領下に置いている。更に、ユーゴ軍包囲下に置かれたザラ守備隊も解放する事に成功した。こうして、迅速な進撃でダルマツィア海岸一帯を完全に制圧したイタリア軍は、4月16日にドイツ軍部隊と合流し、両独裁者の間で祝電が取り交わされた。この前日には国王ペータル2世とシモヴィッチ首相はユーゴスラヴィアを脱出し、英軍の支配下にあるパレスチナに逃れた。そうして、ユーゴ亡命政府を組織している。この結果、最早抵抗は無意味と感じたユーゴ軍参謀総長ダニロ・カラファトヴィチ(Danilo Kalafatović)将軍は4月17日に枢軸軍への降伏文書に調印し、ユーゴスラヴィアは完全降伏したのであった。
ユーゴスラヴィア侵攻におけるアンブロージオ将軍の指揮は素晴らしいものであり、迅速にユーゴ領内を進撃、各拠点を次々と抑え、ダルマツィア海岸一帯を完全制圧するという目的を完全に成功させたのであった。ユーゴスラヴィア侵攻におけるイタリア軍はドイツ軍及びハンガリー軍との共闘によって、まさに枢軸軍の結束を立証したモデルケースであり、ギリシャ戦線で雪辱を味わっていたイタリア軍にとっても、この迅速な進撃と目的達成は、「同盟国としての責務を果たす」という立場を示すのには十分な戦果であったと言えよう。この結果、アンブロージオ将軍はイタリア陸海空軍の最高位勲章である、サヴォイア軍事勲章をヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に叙勲されるという、非常に名誉の勲章を与えられたのであった。
◆ユーゴスラヴィア分割
ユーゴスラヴィアが降伏した後、ユーゴスラヴィアはまるでピッツァのように枢軸国に切り分けられることとなった。ユーゴスラヴィアで多くの貢献を果たしたイタリア(なお、死傷者は約3300人と枢軸軍の中で最も多い)は、ユーゴスラヴィアに大きな勢力圏を手に入れる事が出来た。
リュブリャナ(伊語でルビアナ)を中心とするスロヴェニア南部は「ルビアナ県(県都リュブリャナ/ルビアナ)」、ダルマツィア海岸一帯(カッタロ県含む)は「ダルマツィア総督府(首都ザラ)」としてイタリア本土に併合された。ダルマツィア総督府はザラ県、スパラート県(県都スプリト/スパラート)、カッタロ県(県都コトル/カッタロ)の三県で構成され、元々支配していたザラ周辺を拡大するかたちで成立した。本土に併合された領域では、特に「イタリア化」が加速することとなり、ルビアナ県はエミーリオ・グラツィオーリ(Emilio Grazioli)、ダルマツィア総督府はジュゼッペ・バスティアニーニ(Giuseppe Bastianini)が高等弁務官/総督を務めることとなった。これらの領域ではユダヤ系住民に対する保護は行われたが、それに対してパルチザンへの弾圧は非常に苛酷なものであった。特にグラツィオーリによるルビアナ統治はその苛酷さで知られている。
更には、グラツィオーリはイタリア軍に降伏していたスロヴェニア人の旧ユーゴ軍将軍のレオン・ルプニク将軍(国境要塞「ルプニク・ライン」を作った人)が反共主義者であったことから、彼が共産パルチザンに襲撃された事件を契機に協力関係を持ち掛け、その結果ルプニク将軍はリュブリャナの市長として、イタリア当局に協力している。更には、スロヴェニア人の対パルチザン組織として「スロヴェニア白衛軍(ベラ・ガルダ)」と呼ばれた「MVAC,Milizia Volontaria Anti Comunista(反共義勇軍)」を組織。また、ユーゴスラヴィアの占領軍を指揮したアンブロージオ将軍とロアッタ陸軍参謀長は、共産パルチザンに対抗するために、旧ユーゴ軍のセルビア人兵残党を中心とするドラジャ・ミハイロヴィチ(Draža Mihailović)将軍率いる「チェトニク」とも協力関係を結ぶという独自の支配体制を構築した。
ザグレブに「帰還」したアンテ・パヴェリッチ率いるクロアチア人民族主義者組織「ウスタシャ」は、「クロアチア独立国家」の成立を宣言していた。「ポグラヴニク(総統)」となったパヴェリッチはイタリア側と協議し、クロアチア王トミスラヴ2世(Tomislav II)として、サヴォイア王家の分家であるサヴォイア=アオスタ家出身のスポレート公アイモーネ(Duca di Spoleto, Aimone di Savoia-Aosta)を迎え入れることを要請し、この結果イタリアの影響下に置かれた「クロアチア王国」が成立したのである。
しかし、ダルマツィア沿岸部はイタリア本土に併合されたため、旧ユーゴ海軍提督のクロアチア人提督ジュロー・ヤクチン(Đuro Jakčin)海軍少将率いる新生クロアチア海軍は軍備を制限された。また、先述したように、ウスタシャと敵対していたチェトニクとも協力関係をイタリア当局は結んでいたため、クロアチア当局はやや複雑な関係にあった。しかし、多くのイタリア兵器がクロアチア側に供給されるなど、基本的には緊密な協力関係であった。
続いて、モンテネグロについてだ。イタリア軍の占領下に置かれたモンテネグロは、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の妃であるエレナ王妃(Elena di Savoia)が、最後のモンテネグロ王二コラ1世(Nicola I)の娘であったため、エレナ王妃は「祖国の再建」を望んだ(モンテネグロは第一次世界大戦の結果、セルビアによって無断で併合されてユーゴスラヴィアの一部となっていた)。そのため、ガレアッツォ・チャーノ(Galeazzo Ciano)外相は旧モンテネグロ王家の現当主ミハイロ・ペトロヴィチ=ニェゴシュ(Michael Petrović-Njegoš)に新モンテネグロ王位戴冠の打診をしたが、ミハイロはこれを拒否したため、モンテネグロ王位はヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が兼ねることとなり、モンテネグロはイタリアの同君連合となった。
セクラ・ドルジェヴィッチ(Секула Дрљевић)率いる連邦党や、クルスト・ポポヴィッチ(Крсто Поповић)将軍率いる反セルビア民兵組織「ゼレナシ(緑)」はイタリア当局に協力した。イタリアのモンテネグロ統治は、当初はモンテネグロ王国の復活としてモンテネグロ人によって歓迎されたが、実態は占領統治であり、独立と主権の回復を望んでいたモンテネグロ人は大きく落胆した。
外交官のセラフィーノ・マッツォリーニ(Selafino Mazzolini)がモンテネグロ知事に就任し、ドルジェヴィッチを議長とするモンテネグロ議会をツェティニェに設置するなど法整備を進めるが、共産パルチザンによる大規模叛乱が発生してしまう。その後、ビローリ将軍率いるアルバニア及びモンテネグロ駐屯軍(第九軍)がこれを制圧した後、軍政を開始した。ビローリ将軍はモンテネグロのチェトニクとの協力関係を結び、その他の対伊協力民兵組織と共に対パルチザン戦に投入している。
最後に、既にイタリアの同君連合下に置かれていたアルバニアは、コソヴォ、マケドニア西部、更にモンテネグロ国境地帯を併合し、「大アルバニア」を成立させた。アルバニア首相シェフケト・ヴェルラツィ(Shefqet Vërlaci)はこれを喜び、更に国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世もアルバニアに公式訪問をして両国の友好ムードが広く宣伝された。なお、ヴェルラツィはゾグ1世の政敵で、そのためにイタリアの協力者となったのである。
◆陸軍参謀長への就任
アンブロージオ将軍は第二軍の司令官として、ユーゴスラヴィア(特にスロヴェニア)での占領統治を指揮した。しかし、1942年1月20日をもって、ロアッタ将軍と交代となり、ローマに戻って陸軍参謀長の職に就任することとなった。2月5日にはカヴァッレーロ(Ugo Cavallero)参謀総長が、アンブロージオ将軍の腹心であるカステッラーノ大佐をリュブリャナからローマに召還し、准将に昇進させると同時に、軍参謀本部で軍の重要問題についての検討・提案及び決定事項の確認という新任務を与えた。
このカステッラーノの召還には、当然ながらアンブロージオ将軍が関わっていた。陸軍参謀長となったアンブロージオ将軍は、気の許せる腹心のカステッラーノを「若いが有能な軍人」としてカヴァッレーロ参謀総長に強く推薦し、その結果、カステッラーノの召還が決められたのであった。なお、この時点でカステッラーノ准将は49歳であったが、40代での参謀本部付将官はイタリア陸軍では初めてであり、「若き将軍」として話題になったという。
アンブロージオ将軍が陸軍参謀長になった頃、戦局は大きく変わっていた。特にドイツによるソ連侵攻と、日本とアメリカの参戦は大きかった。イタリアも同盟国としてソ連とアメリカに宣戦布告、後の超大国を相手に戦わなければならなくなったのである。北アフリカ戦線と東部戦線ではイタリア軍は今のところ順調に軍を進めていたが、アンブロージオ陸軍参謀長はこの頃からイタリアの未来を悲観視し、万が一の時に備えて戦争終結のための策を模索していた。同志であったカステッラーノ准将も、アンブロージオのこの策に乗ったのであった。
1942年秋になってくると、エル・アラメインでの敗北を受けて北アフリカ戦線は崩壊の一途をたどっていった。東部戦線においても、ドン川戦線でイタリア派遣軍はソ連軍を相手に苦戦していた。更に、ヴィシー・フランス領の北アフリカ(モロッコ及びアルジェリア)にアメリカ軍を中心とする連合軍部隊が上陸を開始し、戦線は拡大した。地中海戦線ではイタリア海空軍の奮戦でマルタ島が陥落寸前にまで陥ったが、賢明な英軍側の補給によってマルタ島はギリギリで持ちこたえ、エル・アラメインで枢軸軍が敗走したことで、イタリア軍が計画していたマルタ島の制圧は完全に失敗に終わった。
フランス領北アフリカへの連合軍の上陸は、イタリア軍指導部を非常に驚かせた。速やかにイタリア軍はヴィシー・フランスの支配下であったチュニジアと南フランス、更にコルシカ島に軍を進め、これを占領下に置いた。また、フランスの影響下に置かれていた中立国のモナコ公国にも軍を侵攻させ、モナコ国務大臣エミール・ロブロ(Émile Roblot)はイタリアの占領軍に従い、"傀儡政権"を成立させている。ドイツ軍と共同で実行したイタリア軍によるヴィシー・フランス全土制圧作戦は円滑に行われ、自沈を免れたいくつかの旧フランス艦艇がイタリア海軍に編入されるなどしたが、急速に戦局が変化したために、ムッソリーニも精神的に苦しくなっていった。
更に、連合軍機によるイタリア主要都市への連日の空爆は更に多くなっていった。これによる被害は非常に大きく、市民の厭戦機運も日に日に高まるのに加え、軍需工場の被害も甚大であり、ただでさえ低い工業生産力が更に低くなっていった。そして、連合軍側によるプロパガンダも加速し、それがイタリア国内の厭戦・反ファシズム機運拡大に拍車をかけていったのである。アンブロージオ陸軍参謀長は、この戦局の急激な転換を受け、本格的に戦争離脱を模索することとなる。
◆統合参謀総長アンブロージオ、戦争離脱への道
1943年に入ると、もはや戦局は絶望的になっていた。3月までにドン川戦線のイタリア派遣軍は壊滅した。更に北アフリカ戦線も1月23日にリビアの首都トリポリが連合軍によって遂に陥落し、北アフリカのイタリア軍はチュニジアに追い詰められたのである。この両戦線での敗北を受け、ムッソリーニはカヴァッレーロ参謀総長の解任を決定した。こうして、1月30日にカヴァッレーロ元帥はムッソリーニから参謀総長解任を通告され、2月1日をもって参謀総長から解任されたのである。
カヴァッレーロ元帥の後釜として、新たな統合参謀総長に選ばれたのはアンブロージオ陸軍参謀長だった。アンブロージオ将軍はユーゴスラヴィア侵攻での手腕を始め、軍人としては高く評価されていたが、ファシスト党員ではなく、更に党首脳とも親密な人物ではなかったため、次期参謀総長候補として有力視されてはいなかったが、戦局の打開に悩むムッソリーニはアンブロージオ陸軍参謀長を呼び出し、2月1日をもって参謀総長として任命することを伝えたのであった。
アンブロージオ将軍自身もこの突然の任命に困惑したが、これを受け入れた。ムッソリーニから今後の方針を質し、新参謀総長アンブロージオは遠征軍の本国への帰還と本土の防衛強化、最高司令部の権限の縮小、更に同盟国ドイツに対して然るべき態度を取ることを答えた。ムッソリーニ自身も、ヒトラーへの事実上の従属状態を苦々しく思っていたため、これに対して大賛成であった。ムッソリーニも、アンブロージオは信頼できる優秀な軍人として、大いに期待していたようである。
しかし、アンブロージオとしては、既に腹の中では戦争離脱の道を模索していた。彼の中心にあるのは、他の陸軍主流派と同様に「王政の維持」であった。敗戦によって国内が混乱し、そして王政廃止に至ってしまうという状況を防ぐことが目的であった。それに加え、最早この戦争の敗北は「王政の廃止」どころの話ではなく、「イタリアという国家の滅亡」をも齎してしまうという危機感に駆られ、それを防ぐための「戦争離脱の道」をアンブロージオとその同志カステッラーノは模索していたのである。
かくして、東部戦線に派遣されたイタリア遠征軍は「一時的休養」の名目のもと引き揚げられることが決定した。これは、本土防衛強化が目的であったが、万が一休戦した時にドイツが攻撃してきた場合に備えるためという意味もあった。チュニジアでは、ロシア帰りの名将ジョヴァンニ・メッセ(Giovanni Messe)将軍が帰国したエットレ・バスティコ(Ettore Bastico)元帥に変わってイタリア軍の立て直しに尽力することとなった。メッセ将軍はこの地で北アフリカでの最後の抵抗を行うこととなる。
ムッソリーニは統合参謀総長と陸軍参謀長だけでなく、政府閣僚も人事異動をして高まった厭戦機運を拭きとろうと考えた。戦局の悪化は、イタリア側とドイツ側の不和を次第に呼び起こし、ムッソリーニも日に日にドイツへの嫌悪感を募らせていった。しかし、「同盟国としての責務を果たす」ということで、三国同盟条約に違反する単独講和の考えは拒否していた。
人事異動によって外相を解任され、ヴァチカン駐箚大使となったチャーノはアンブロージオ参謀総長とカステッラーノ准将を私邸に招き、「ムッソリーニ逮捕計画」を明らかとした。これはアンブロージオとカステッラーノにとっても大きな衝撃であった。チャーノはムッソリーニの娘エッダの婿、言ってしまえばムッソリーニの義理の息子だったのである。そんな娘婿ですら、クーデターを計画するということは、ファシスト党の重鎮にも味方がいるということに喜びを持つのと同時に、深い感銘を受けたのである。こうして、「ムッソリーニ逮捕計画」が始動したのである。
アンブロージオ参謀総長は逮捕計画を進める一方で、ムッソリーニ自身をドイツとの同盟解消に導くために定例報告で苦言を呈した。しかし、ムッソリーニ自身はこんな状況でありながらも枢軸側の勝利を信じており、アンブロージオの意見を聞き入れなかった。興味深いことに、ムッソリーニは日本軍が欧州にまで支援にやってきてくれると信じており、更に長期戦に耐えられないアメリカが戦争を離脱すると考えていたという。更には、スバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose)率いる自由インド仮政府と共にインド人らが決起し、枢軸側に加わるだろうと考えた。ムッソリーニが日本やインドへの大変な思い入れがあった、というのは興味深いだろう(実際、真珠湾攻撃の知らせを聞いた時のムッソリーニは狂喜乱舞したという。バルバロッサ作戦の知らせを聞いた時とは正反対の反応である)。
1943年5月13日には、メッセ将軍率いる北アフリカ軍が遂に全面降伏した。 こうして、チュニジアは陥落し、北アフリカ戦線は完全に終結する事態となった。こうなると、残っているのはイタリア本土と島嶼部のみである。連合軍による激しい包囲戦の結果、「ムッソリーニのマルタ島」と連合軍に呼ばれ、堅牢な要塞島となっていたパンテッレリーア島(6月11日)とランペドゥーザ島(6月13日)が遂に陥落した。ランペドゥーザと共にペラージェ諸島を構成するリノーザ島(6月13日)とランピョーネ島(6月14日)に陥落し、連合軍はシチリアに迫りつつあった。
アンブロージオ参謀総長らイタリア軍首脳部は連合軍の次の上陸地点をシチリアであると考えていたが、英軍の欺瞞作戦「ミンスミート」にまんまと騙されたドイツ軍側はサルデーニャが次の上陸地点と認識していたため、シチリアではなくサルデーニャへの駐屯軍の強化を行った。現地を視察したアンブロージオ参謀総長は現実的にサルデーニャ上陸は考えられないだろうと分析している。帰国後、アンブロージオはムッソリーニにドイツによる資材供給の約束の反故を指摘し、ドイツとの関係再検討を迫ったが、これも徒労に終わった。その後、イタリア軍のバルカン及びフランスからの撤退を進言したが、これも却下されている。
シチリア防衛軍総司令官であるアルフレード・グッツォーニ(Alfredo Guzzoni)将軍は連合軍のシチリア上陸目標は東南地帯であると分析し、逆にドイツ軍のケッセルリンク元帥は西部地帯であると主張した。結局、連合軍は東南地帯に上陸を開始したため、グッツォーニ将軍の分析が正しかった結果となった。ミンスミート作戦の結果に加え、ここでもドイツ軍は裏をかかれる結果となった。こうして、7月9日の夜、連合軍の空挺降下が始まり、シチリア侵攻作戦「ハスキー」が宣言されたのであった。
当初、アンブロージオ参謀総長が直接第12軍団の指揮官としてシチリア防衛を指揮することとなったが、結局はローマでの参謀総長としての任務が優先されたために、フランチェスコ・ジンガレス(Francesco Zingales)将軍が指揮する事態となった。とはいえ、状況は圧倒的に連合軍側が有利であった。イタリア軍はドイツ側からの約束が果たされない為に、遂に燃料が枯渇する事態となり、海軍に関しては大型艦はおろか、中型・小型艦の行動すらも制限されており、連合軍に制海権を奪われている状態では上陸部隊の迎撃すらも困難であった。空軍も燃料の枯渇と、人員・機材の不足によって圧倒的物量を誇る連合軍の空軍部隊に対して不利な戦いを強いられていた。この頃になり、「イタリア最高の戦闘機」と称されるマッキ MC.205V"ヴェルトロ"、FIAT G.55"チェンタウロ"、レッジアーネ Re.2005"サジッタリオ"が部隊に配備されるが、時既に遅し。フランコ・ルッキーニ(Franco Lucchini)を始めとする優秀な空軍パイロットたちが、シチリア及び本土防空戦で空に散っていった。
シチリアのイタリア軍は何とか連合軍の進撃に対抗していたが、最早戦局の行方は明らかであった。更に、それを畳みかけるように、1943年7月19日、首都ローマが初空襲を受けた。ムッソリーニも、イタリア軍首脳部も、更にはローマ市民も、ヴァチカンの存在と豊富な文化遺産から、「ローマは爆撃対象にはならない」と思っていたのだが、現実は甘くない。ローマ史上初の航空爆撃である。アメリカ陸軍航空隊のドゥーリットル少将指揮下の爆撃機隊、500機を越える四発爆撃機大編隊は3時間に渡ってローマを空爆したのであった。古代ローマ時代の遺跡が多い歴史的中心部(Centro Storico)は避けられたが、約1000トンの爆弾が投下され、それに低空からの機銃掃射が加えられて約1500人の市民が死亡し、4万人もの人々が被害に遭った。この犠牲者の中には、カラビニエリ長官であったアツォリーノ・アーゾン(Azolino Hazon)将軍も含まれている。アーゾン将軍はアンブロージオ参謀総長の信頼の厚い友人であった上に、ムッソリーニ逮捕計画の協力者であったことから、アンブロージオにとっても非常に辛い出来事となった。
建物の被害も甚大で、兵站基地となっていたローマ・ティブルティーナ駅、大学地区に隣接するサン・ロレンツォ地区などの労働者街は爆撃地点となり、激しく破壊された。建物や人々への被害も甚大であったが、それより問題であったのは、イタリア全体への精神的なショックであった。空襲の翌日、ムッソリーニ、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世、教皇ピオ12世がそれぞれ空襲の被災地を訪れた。統帥は自らの著書に、市民からはどこでも好意をもって迎えられたと書いている。国王の視察には、被災者は冷たい敵意のある視線を向けたという。そして、教皇の視察は市民から熱狂的な歓声で迎えられ、祈りの言葉が町に響いた。
ムッソリーニがローマ空襲の知らせを聞いた時、丁度フェルトレ郊外でヒトラーと会談をしている時だった。ローマ空襲はまさにムッソリーニにとっても青天の霹靂であり、その知らせを聞いたムッソリーニはすっかり青ざめてしまったが、同行していたアンブロージオ参謀総長はムッソリーニに戦争離脱の旨をヒトラーに伝えるべきと進言したが、それは拒否されることとなった。アンブロージオとしては再三に渡る進言も悉く拒否されたために、「イタリアを救う道はムッソリーニ逮捕しかない!」と決意し、逮捕計画を急ぐこととしたのであったのである。
こうして、7月24日にファシスト党の重鎮ディーノ・グランディ(Dino Grandi)によってファシズム大評議会(ファシスト政権期イタリアの最高諮問機関)でムッソリーニ解任動議が開始され、7月25日深夜に、賛成19票、反対7票、棄権1票という結果でムッソリーニの統帥解任と国王への統帥権の返上が決定されたのである(大評議会員ファリナッチはムッソリーニの解任に賛成であったが、グランディ案には反対するという特殊な立場を示した)。そして、午後に国王への謁見のためにサヴォイア離宮に向かい、謁見を終えたところでカラビニエリに逮捕され、ムッソリーニは失脚したのであった。こうして、アンブロージオとカステッラーノが中心となって計画したムッソリーニ逮捕計画が、グランディが仕組んだファシスト党内の謀反と合わさって、ムッソリーニの解任に繋がったのである。その後、国王は新たな首相にバドリオ元帥を指名、組閣を命じたのであった。この辺の紆余曲折は長くなるので省略する。
◆休戦と逃避行
ムッソリーニ失脚後も、ひとまずはバドリオ政権も枢軸国側での戦闘継続を表明したため、水面下では休戦交渉が進んでいるが、連合軍との戦いは続いた。アンブロージオは参謀総長の職を継続し、連合軍との最後の戦いに挑んだ。前の空襲から一か月も経たないうちに、1943年8月13日にローマは二度目の爆撃を受けている。8月17日には遂にシチリア最後の拠点であるメッシーナが陥落し、シチリアは完全に連合軍の占領下となったのであった。こうして、連合軍が支配するシチリアと、その対岸に位置するカラブリアで両軍のにらみ合いが続いた。
9月3日には連合軍がシチリア海峡を越えて、上陸作戦「ベイタウン」を発動、カラブリア最大の都市レッジョ・カラーブリアに上陸を開始した。これはイタリア半島の戦いの始まりとなったが、同日、密使としてアンブロージオ参謀総長が送り出したカステッラーノ准将がシチリアのカッシービレで連合軍代表団との休戦に調印していた。
こうして、9月8日にイタリア王国の休戦が発表されたが、アプヴェーアを通じて既にイタリアの休戦交渉を察知していたヒトラーはドイツ軍にイタリア侵攻を命令。ドイツ軍はイタリア本土及びイタリア軍占領下の地域を制圧していき、現地のイタリア軍部隊を武装解除していった。翌日、バドリオ元帥と国王一家はローマを脱出、アンブロージオ参謀総長もそれに追従し、ペスカーラからガッビアーノ級コルベット「バイオネッタ」に乗って南部のブリンディジに逃げたのであった。しかし、この行動は後に「ローマ防衛を放棄した」として、当時の軍首脳部や王家共々、アンブロージオは非難の対象となったのである。
南部のブリンディジに遷都したイタリア王国政府は通称「南部王国政府」と呼ばれ、1943年10月13日には旧同盟国のドイツに宣戦布告、「共同交戦国」としての立場を確保した(連合国側ではあるが、「連合国」としての立場は得られず、幾分ドイツや日本に比べてマシにはなったが、戦後も敗戦国扱いであることには変わりない)。これに対して、イタリア北部にはガルダ湖畔のサロを中心として、ムッソリーニ率いるイタリア社会共和国(RSI政権)が誕生していた。これはファシスト・イタリアの後継政権として、枢軸国側での戦闘を継続したのである。こうして、イタリアは内戦状態となったが、王国政府の共同交戦軍の行動は限られ、事実上「RSI政権vs南部王国」という構図の内戦というより、「RSI政権vsパルチザン」という構図の内戦となった。
11月18日には、アンブロージオ将軍は参謀総長を辞任し、新たな参謀総長にはチュニジア戦で連合軍の捕虜となり、イタリア分裂後は連合軍側への協力を条件に解放されたメッセ元帥が任命された。彼もアンブロージオ将軍と同じく熱心な王党派であった。結局、アンブロージオが模索した「戦争離脱による祖国イタリアの解放」は逆にRSI政権の誕生とパルチザン運動の勃発による泥沼の内戦化を引き起こすという結果となり、願いは果たされることはなかった。
その後、参謀総長を辞任したアンブロージオは半年のみ陸軍監察官を務め、引退した。こうして失意の中人知れず1958年11月19日、リグーリアの保養地アラッシオでこの世を去ったのであった。
アンブロージオ将軍とカステッラーノ将軍による「戦争離脱工作」は、志こそ立派であったが、実際はイタリアは悲惨な内戦状態に突入するきっかけを作ってしまい、現在の国内対立まで禍根を残す結果となってしまったのである。南北分裂は戦後のイタリアの立場を若干良くさせるのには役に立ったかもしれないが、その代償は大きかったため、結論を言えば失敗だった。そもそも、王政の維持も果たされず、寧ろ逆にパルチザン闘争の結果、王党派とは利害が一致しない、反ファシストらの政治闘争の勝利に終わったのである。
◆主要参考文献
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