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第二次世界大戦のイタリアは「戦勝国」であったか?

第二次世界大戦のイタリアは途中で寝返り、戦勝国になった」というコピペがネットでは蔓延している。

当然であるが、これは大きな嘘である。

確かに1943年の休戦後のバドリオ政権(イタリア王国政府)とパルチザンは、北部を支配するムッソリーニイタリア社会共和国(RSI政権,サロ共和国)と(イタリアを占領する)ナチス・ドイツに対して、「イタリア内戦(Guerra civile in Italia)」で勝利した。つまりは、「ナチ・ファシスト」に対する勝利は手に入れたと言えよう。しかし、それは第二次世界大戦での戦勝を意味するものではないし、事実、イタリア王国政府(バドリオ政権→ボノーミ政権→パッリ政権)は「連合国」としてすら扱われてはいない

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RSI政権期のムッソリーニ

1943年の休戦後、イタリアは北部・中部を支配するイタリア社会共和国(ファシスト側)と、南部のイタリア王国(王党派)として分かれ、内戦状態に陥った。しかし、ここで注意しなければならないのは、この「南部王国」は内戦の主体では無かった点だ。この「イタリア内戦」、そしてイタリア戦線で主体となったのは、英国やアメリカを中心とする連合軍と、それと敵対するドイツ軍及びRSI軍、そしてナチ・ファシストに抵抗するパルチザンたちだった。南部王国は「共同交戦国」としての立場を与えられたものの、「連合国」としての立場は与えられず、連合国側の信頼も得れなかった。故に、後方支援が主なものであった。

「共同交戦国」とは立場的に、降伏後のルーマニアブルガリアフィンランドあたりと同じだ。つまりは「旧枢軸国であるが、途中で連合国側に寝返った」国々というわけである。これらは確かに日本やドイツより立場は多少マシになったものの、結局戦後は「敗戦国」として扱われており、「戦勝国」としては扱われていない下に載せた講和条約の内容からしても明らかである。そもそも、「イタリアは"戦勝国"である」とか言ってる連中は、フィンランドルーマニアなどに対しても同じこと言っているか?と言われたら言っていない。所詮はそのほかのイタリアdisと同様の悪意を持った低質なデマであることがわかる。

 

また、1945年7月14日に敗戦直前の日本に対してイタリアが宣戦布告した事実が存在するが、これは諸外国によって完全に無視される形となり、事実上無効化された。

イタリア社会共和国(RSI政権)の崩壊後、イタリアの内戦状態は終結し、イタリア王国政府は「単一のイタリア国家」となった。欧州戦線の終結によって、戦後の立場向上を求めたイタリア政府は、「共同交戦国」としての対独/RSI戦の参加(といっても実際は大して戦闘はしていない)だけでなく、「連合国」として参戦したという既成事実が欲しかった。参戦していれば多少は戦後の講和条約で有利に働くだろうという魂胆だ。

そこで目を付けたのが、未だ連合国と戦争状態にあった日本だ。休戦後、王国政府の駐米大使として派遣されていた反ファシストのアルベルト・タルキアーニ(Alberto Tarchiani)は、対日宣戦布告を新政府の首相となっていた行動党のフェッルッチョ・パッリ(Ferruccio Parri)に提案。其の結果、戦後の交渉を有利に進めるために、南米諸国のように日本に対して形式的な宣戦布告を果たしたのが1945年7月14日だった。

しかし、これは事実上「無かったこととされた。日本の降伏後、サンフランシスコ講和会議が開かれたが、イタリア代表は招かれなかった。英首相チャーチルや米国務長官顧問ダレスら連合国首脳人の強い反対によって、イタリア新政府の対日宣戦布告は認められず、結局イタリアは対日戦においても「連合国(戦勝国)」としての立場は得られず、国際的に「敗戦国」として扱われたのであった。その結果、下のような厳しい講和条約を結ぶ事になったのであった。結局、その後日伊両国は個別で国交を回復しており、この宣戦布告は完全に無効化されたのである。

戦後における日伊両国の国交の回復については、1951年(昭和26年)9月27日、東京にて、吉田茂首相とブラスコ・ランツァ・ダイエータ駐日イタリア外交代表との間で「日本国とイタリアとの間の外交関係の回復に関する交換公文」が交わされ対日平和条約の発効日(1952年4月28日)を期して戦争状態を終結させ、外交関係を再開することが合意された。これにもとづき、11月15日、在ローマ在外事務所が開設(初代所長は井上孝治郎)している。

なお、ランツァ・ダイエータ外交代表は戦後の初代駐日イタリア大使になったわけだが、この人物、実はチャーノ外相の親友だったりする。

 

結局、イタリアは「敗戦国」である。

 

☆1947年のパリ講和条約の内容(イタリアの講和条約)

イタリアは「共同交戦国」となり、新政権が戦犯を自ら裁き、処罰する権利を与えられていた。しかし、講和条約で与えられた条件は他の敗戦国と同様に厳しいものであった。

 

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イタリアが第二次世界大戦の敗戦で失った領土の地図

では、ここで第二次世界大戦のイタリアの講和条約である、1947年のパリ講和条約の内容を軽く見てみよう。

まずは、領土の割譲である。当然であるが、第二次世界大戦中にイタリアが占領下に置いた地域は全て放棄することになった。

1940年6月以前の領域では、

フランスへ:テンダ(現フランス領テンド)を始めとする国境地域(フランスはヴァッレ・ダオスタも要求したが、アメリカの介入によって防がれた)の割譲

ユーゴスラヴィアへ:イストリア半島の大部分(トリエステには自由地域を設置)、ザラ市を始めとするアドリア海沿岸地域の割譲

アルバニアへ:全領土の解放、セサノ島(旧オスマン帝国領の島)の割譲

ギリシャへ:旧イタリア領エーゲ海諸島(ドデカネス諸島)の割譲

中国へ:天津租界の返還

植民地全植民地(リビア及び東アフリカ)の放棄

これらの失った領域にいるイタリア系市民は、イタリア市民権を失うこととなった。それに加え、特にユーゴスラヴィア領ではイタリア系住民への虐殺行為なども発生したために多くのイタリア人たちがイタリア本土に難民として押し寄せる結果となった

 

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イタリアの賠償金

続いて、賠償金についてであるが、ソ連(約1億USドル)ユーゴスラヴィア(約1億2500万USドル)エチオピア帝国(約2500万USドル)ギリシャ(約1億500万USドル)アルバニア(約500万USドル)に対して合わせて約3億6000万ドル(当時のレート)が支払われた。

これに加えて、1946年9月に先んじて締結されていたエジプトとの和平条約によって、エジプトに計450万英ポンドの賠償金が支払われている。

また、これらの賠償金以外にも戦時中に被害を受けた連合国国民(英国やフランスなど)の資産への弁償も存在した。

 

軍備制限も行われ、残存の殆どの艦艇は戦勝国賠償艦として引き渡されるか、スクラップとして解体された。フランスおよびユーゴスラヴィアとの国境地帯に建設された要塞群解体が命じられ、パンテッレリーア島などの島嶼部は武装化されている。海軍は空母や戦艦、潜水艦などの建造・保有が禁止となり、ミサイルや核兵器に関しても開発・保有・購入が禁止となった。しかし、これは西ドイツ同様に、後にNATO加盟によって大部分が緩和されることになる

興味深いエピソードとしては、空軍で爆撃機保有・建造も禁止されたため、爆撃機としても運用が可能なSM.82をマルタ騎士団に「輸送機」として「譲渡」し、NATO加盟で爆撃機保有が緩和されると返還してもらう...という言ってしまえば「コスい」事もしていた。そういうしたたかさがイタリアらしいと言えるのだが。

 

☆イタリアにおける「戦犯」の定義

そして、最後に戦犯の拘束と裁判を義務付けられた。しかし、ここで重要になったのが、イタリアにおける「戦犯」の定義である。1922年にムッソリーニ政権が成立して以降、ファシスト党支配下にあったイタリアは、他国のように「ファシスト=コラボ(戦犯)」という意味合いで汚名を着せる事が難しかった
バドリオ内閣自体がかつてのファシスト党員で構成されていたのも問題であった。法相ガエターノ・アッツァリーティ(Gaetano Azzariti)と商業産業相レオポルド・ピッカルディ(Leopoldo Piccardi)はかつてユダヤ人の迫害法案である「人種法」の制定に重要な役割を果たし、この「人種法」の積極的な支持者だった。財務相イードユング(Guido Jung)はベネドゥーチェと共にIRI(産業復興機構)を創設したユダヤ人の元ファシストであり、内相ウンベルト・リッチ(Unberto Ricci)は公共事業省の幹部であり、デ・ボーノ元帥の元でファシスト警察長官を務めた経験があった。

ファシスト政権期にナポリの都市改造を指揮したピエトロ・バラトーノ(Pietro Baratono)は官房副長官に任命されたが、彼はムッソリーニに信頼されて直接ナポリ知事に任命された人物であった。為替・通貨相ジョヴァンニ・アカンフォーラ(Giovanni Acanfora)と財務相ドメニコ・バルトリーニ(Domenico Bartolini)は両者共に主要銀行の総裁だが、彼らとてファシストとの関係が深かったことは言うまでもない。人民文化相グイードロッコ(Guido Rocco)は、伝統的な外交官であったが、ファシスト政権期に外務省の広報官として国外向けのプロパガンダを指揮した人物であった。当然ながら、バドリオ新政権の「南王国軍」の幹部らは、1943年の休戦までイタリア軍の戦争指導者であり、連合軍と敵対する存在であった。このイタリア初の「反ファシスト」政権は、実に内閣の殆どが「元ファシスト」や「戦争指導者」であり、ムッソリーニに仕えた身であったのである。真の意味での「反ファシスト」政権が生まれるには、バドリオ政権後のイヴァノエ・ボノーミ政権の成立まで待たなければならない
そもそもバドリオ元帥自身もムッソリーニに仕えた身であったし、リビア再征服やエチオピア侵略といった植民地戦争、第二次世界大戦初期には参謀総長を務めていた戦争指導者であった。植民地戦争における悪行は、RSI国防相となったロドルフォ・グラツィアーニと並び非常に悪名高い。
その為、「ファシスト」を裁く事となれば、「新政府」の内部崩壊に繋がる危険性があった。故に、明らかに起訴が可能なファシスト党員の罪は「1943年9月8日(バドリオ政権による無条件降伏宣言)以降のコラボ行為」のみであった
その結果、告発を受けた人々の大半はバドリオ政権と敵対したRSI政権の関係者であったムッソリーニの解任に賛成したファシストに関しては、デ・ヴェッキ、グランディ、ボッタイといった大幹部であっても罪には問われなかったのである。つまり、裁かれるべき「ファシスト」は、ここで「サロ・ファシスト」に限定され、1943年以降RSI政権側に付かなかったファシストへの制裁は緩やかなものであった

1944年9月に設けられた最高裁の判事・弁護士たちは大半が元ファシスト党であり、RSI政権下で働いた下級職員を処罰するための臨時法廷の職員もまた同じであった。当然、このような状態での訴訟手続きでは一般市民の信認を得る事は難しかった。
1946年2月のパージ委員会廃止までに取り調べを受けたRSI政府職員39万4千人の内、解雇されたのはわずか1580人であった。尋問された者の大半はGattopardismo(豹変主義、Gatto(猫)とPardo(豹)を合わせた言葉)と述べ、ファシスト党の圧力の前で二重ゲームをやっていたと主張した。そもそもファシスト政権期において公務員はファシスト党員であることが義務付けられていたため、尋問する側も彼らの状況に同情的であった
ジャンピエトロ財務相らRSI政権幹部や、グラツィアーニ元帥やボルゲーゼ司令官らといったRSI軍上層部に対する鳴り物入りの裁判の後、政府や行政に対する粛清の約束はうやむやとなった。
しかし、その裁判を受けた人々でさえ、1946年のトリアッティ法相による特赦によって釈放される事となった。釈放されたファシストや政治家の中には、ネオ・ファシスト政党のMSI(イタリア社会運動)に合流する者も多かった。特にRSI海軍の幹部だったユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼは、1970年代にクーデター未遂事件を起こし、イタリアを揺るがした。
当初は行動党レジスタンス出身のフェッルッチョ・パッリ政権によって急進的なパージが行われたが、その暴力的な手段によって早くも1945年秋には反動化する結果となった。後にデ・ガスペリ政権が成立すると、1946年2月にはパージを指揮した高等弁務官事務所も閉鎖された。3カ月後には最初の特赦が行われ、5年以下の禁固刑は全て取り消しとなった。投獄されたイタリア人の大部分は獄中生活を殆ど経験しなかったのである

これらの新政府の判断は、ファシストと関係が深かったローマ教皇庁がイタリアにおける左派勢力の拡大を望まず、権威の安定の為にも事態を穏便に済ませようと新政府や占領軍に対して圧力を掛けていたということも、大きな理由の一つであった。

裁判で処刑されたのは50人程度(ローマ警察署長ピエトロ・カルーソや、フェラーラ知事エンリコ・ヴェッツァリーニらなど)だったが、私刑行為で虐殺された人々はこれに含まれない休戦後からデ・ガスペリ政権成立まで、レジスタンスによる私刑行為がイタリアでは横行した。休戦直後に元党書記長のエットレ・ムーティ空軍中佐(中東への長距離爆撃作戦を指揮した)が暗殺されたことを皮切りに、各地でRSI軍高官やファシストへの暗殺・襲撃行為が相次いだ。カルーソに対する裁判の際も、証人として出廷したドナート・カッレッタ(悪名高い「アルデアティーネの虐殺」に関わったレジナ・コエリ監獄の所長)が暴徒によって襲撃される事件が発生した。カッレッタは法廷で暴徒によって襲撃され、遂には殺害された。死体は監獄の外壁に逆さ吊りにされた後にテヴェレ川に投げ捨てられた。
有名なものでは、フィレンツェでの哲学者ジョヴァンニ・ジェンティーレの殺害や、コモ湖畔でのムッソリーニを含むRSI政権首脳部の処刑などが挙げられる。ムッソリーニらの殺害は正当な裁判プロセスを踏むものでも、パルチザン組織の命令でもなく、ヴァルテル・アウディシオという一人のパルチザンの命令によって行われたものであった
左派色が強いボローニャでは残虐な「ファシスト狩り」が行われ、ファシストでなくても、個人的な敵対関係や女性関係であってもレジスタンスと揉め事を起こせば誰でも裁かれる事態が発生した。これらの行為は当然ながら正しい裁判プロセスを踏んでいなかった。先述した「死の三角形」における殺戮も、このボローニャを中心に起こっている。
イタリアは枢軸国から連合国側へ何の痛みもなく移行(戦争を離脱)したと考えられがちだが、実際はそうではなく地獄のような内戦状態を経験していたのであった。

 

P.S.

というかまず、 講和条約でこれだけモリモリに色々課せられているのに、「戦勝国」なわけないだろって話なんですよね。どこの世界に、領土を奪われ、賠償金を払わされ、軍備を制限される「戦勝国」があるんだって話ですね。

 

◆主要参考文献
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河島英昭著『イタリア・ユダヤ人の風景』岩波書店・2004
石田憲著『地中海新ローマ帝国への道―ファシスト・イタリアの対外政策1935-39―』東京大学出版会・1994
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