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統帥(ドゥーチェ)と「チェファルーの魔術師」 ―アレイスター・クロウリーの「魔法学校」に対するファシスト政権の対応―

皆さんはアレイスター・クロウリー(Aleister Crowley)という人物をご存じだろうか。『とある魔術の禁書目録』を始めとする多くのサブカルチャー作品にも登場する、世界的に知られるオカルティストである。

イメージ的には「魔術師」だろうか?

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アレイスター・クロウリー(Aleister Crowley, 左)とムッソリーニ

そんなアレイスターが実はファシスト政権期のイタリアに「魔術学校」を設立して活動していたということはあまり知られていない。しかも、その「魔術学校」で死者も出る事態となり、ムッソリーニによってアレイスターは国外追放を受けることとなる。現実主義者のムッソリーニだが、図らずもこういった形でオカルティズムと接点を持つこととなった(当然、その後はそういったことは殆ど無いのだが)。

というわけで、今回はアレイスター・クロウリーイタリアでの活動と、それに対するファシスト政権の反応について少し調べてみることとしよう。

あっ、私は以前『禁書目録』シリーズが結構好きだったので敢えて「アレイスター」と呼んでいますが、彼のことを呼ぶならファミリーネームの「クロウリー」の方が本来は良いでしょう。単純に好きで読んでいるので気にしないでください。

 

◆「魔術師」アレイスターと「テレマ僧院

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アレイスター・クロウリー

アレイスター・クロウリーはいわゆる「テレマ思想(セレマ思想)」の創始者として知られている。彼自身が「エイワス」と呼ばれる存在から啓示を受け、それを記したものがテレマ思想の根本聖典とされる『法の書』だ。『禁書』でも出てきたアレである。アレイスターは魔術結社「銀の星」を設立し、このテレマ思想の伝道(というか、宗教としての「布教」に近い)に勤しむが、当然有名になるにつれて世間の冷ややかな目に晒され、その行動が問題視されるようになった。それゆえに、英国・イングランド出身であったアレイスターは、自らのユートピアとして故郷の英国ではなく、イタリアを選んだ

アレイスターがユートピアとして選んだのは、シチリア島チェファルー(Cefalù)であった。チェファルーはシチリアの州都パレルモからほど近く、現在では有名な観光地として知られている町だ。「イタリアの最も美しい村(I borghi più belli d'Italia)」協会にも所属している景勝地である。

アレイスターがイタリア滞在を開始した1920年は、実にイタリアは戦後の混迷を極める時期であった。アドリア海沿岸のフィウーメ(現クロアチア領リエカ)では、「英雄詩人」ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio)が同志とともに街を制圧し、更に国内でも政治は混乱し、ファシスト社会主義勢力が台頭していた。この混乱はむしろアレイスターにとっては都合がよく、この混乱に乗じてすんなりシチリアの地に移住することが出来た。当時のシチリアはマフィアを始めとする反社会的勢力も数多く存在し、非常に混沌としていたのである。

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チェファルーのビーチで瞑想する「テレマ僧院」の信者。ジェーン・ウルフ(Jane Wolfe)という人物で、アレイスターの信者になる前はアメリカの著名な映画女優だった。

さて、アレイスターはこうして1920年シチリア・チェファルーに「テレマ僧院(Abbazia di Thélema)」を設立する。英国から遠く離れたこの地にはアレイスターの知名度は低く、アレイスターを攻撃しようとする英国メディアの手は届かなかった。彼はこの地をユートピアとして、テレマ思想の布教と、魔術の探求に努めた。アレイスターを慕う信望者が多く集まり、その活動は徐々にシチリアの地元社会に知られていった。

こうして、アレイスターのシチリアでの生活は成功していったが、活動の拡大に伴い、ここでも再び世間から危険視されることとなる。チェファルーのビーチにはアレイスターの信望者たちが瞑想を行うなど、異様な光景が目に入るようになっていった。地元の住民たちはアレイスターらの異常な行動を騒ぎ立て、子どもを怪しげな儀式に使用しているとウワサを立て始める。これに対して、シチリアのイタリア当局も市民の訴えを受け、アレイスターを危険分子として目をつけることとなった

1922年10月末にローマ進軍によってムッソリーニ政権が誕生すると、状況は更に変化することとなる。当時のパレルモ知事がチェファルーでのアレイスターの行動を危険視、新たに政権を獲得したムッソリーニ首相に相談をした。しかし、ムッソリーニは駐伊・英国大使に報告するなどをしたが、実際に問題が起こったか定かではないためにこれを重要視せず、ひとまず静観する姿勢を示した

 

◆儀式の死者とイタリアからの追放

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死亡したラウル・ラヴデイ(Raoul Loveday)

だが、一つの事件でアレイスターの立場は非常に悪化することとなった。1923年2月、アレイスターの信望者であり、「テレマ僧院」の"学生"であったラウル・ラヴデイ(Raoul Loveday)という人物がテレマ僧院内で死亡したのである。ラヴデイは23歳のオックスフォード大学の学生で、アレイスターを崇拝してテレマ僧院に「入学」したのであった。彼の死因は病死儀式で使用した猫の血液を飲んだことでチフスに感染し、それによって死亡したのである。

ラヴデイの妻であるベティ・メイ(Betty May)はラヴデイの死を受けてアレイスターを激しく非難、バッシングしていた英国メディアに情報を流し、アレイスターは英国メディアから激しい攻撃を受けた。この死亡事故(事件?)によって、アレイスターの立場は極度に悪化し、一度は静観を決めていたムッソリーニも無視するわけにはいかなくなった。こうして、ファシスト政権は警察にテレマ僧院の家宅捜索を命じ、年内にはアレイスターらに対してイタリアからの国外追放を命じたのであったのである。

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テレマ僧院の廃墟の現在の外見。

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テレマ僧院の廃墟の内部。

そんなこんなで1923年のうちにテレマ僧院は完全に崩壊したわけであるが、現在もチェファルーにはテレマ僧院の廃墟が残っており、アレイスターのシンパらによって一種の「聖地」となっているそうだ。

 

◆参考文献

Marco Pasi著, Aleister Crowley e la tentazione della politica, Edizioni Franco Angeli, 1999

・Pierluigi Zoccatelli著, Aleister Crowley - un mago a Cefalù, Edizioni Mediterranee, 1998