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イタリア海軍の提督兄弟、ブリヴォネージ兄弟:前編(伊土戦争・第一次世界大戦編) ―兄は空、弟は陸で戦った海軍士官兄弟―

第二次世界大戦時のイタリア軍では兄弟で高名な軍人となった人物も珍しくはない。例えば兄マリオ・ヴィシンティーニ(Mario Visintini)が空軍の戦闘機パイロットとして、第二次世界大戦時の複葉戦闘機トップエースになり、弟リーチオ・ヴィシンティーニ(Licio Visintini)が海軍の「デチマ・マス」士官としてジブラルタル攻撃のフロッグマン部隊指揮官だった、ヴィシンティーニ兄弟がいる。他にも空軍パイロット一家で高名な爆撃機エースとして知られたマエストリ兄弟(Fratelli Maestri)アンマンナート兄弟(Fratelli Ammannato)などが知られている。

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ブリヴォネージ兄弟。左が兄ブルーノ・ブリヴォネージ(Bruno Brivonesi)、右が弟ブルート・ブリヴォネージ(Bruto Brivonesi)。

しかし、兄ブルーノ・ブリヴォネージ(Bruno Brivonesi)と弟ブルート・ブリヴォネージ(Bruto Brivonesi)のように、高位の提督兄弟というのは実に珍しい。兄ブルーノ・ブリヴォネージは第二次世界大戦開戦時のリビア隊司令弟ブルート・ブリヴォネージは開戦時の第一艦隊第五戦艦戦隊司令官であった。私も調べているとき、あまりに名前が似過ぎているので同一人物の誤字かと思ったほどである。しかし、調べてみるとこの二人が兄弟であることがわかり、中々興味深い経歴を歩んでいることを知った。それも、第一次世界大戦時に兄ブルーノは空で、弟ブルートは陸で戦ったというのだ。というわけで、今回は、兄弟揃って海軍の提督となったブリヴォネージ兄弟について調べてみることとしよう。以下、兄はブルーノ、弟はブルートと名前で表記する。名前が似ているので間違えないように注意されたし。

 

アンコーナに生まれし兄弟

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中部イタリア・マルケ州の州都、アンコーナの港。ブリヴォネージ兄弟が生まれた町である。造船業が有名で、古くからアドリア海沿いの海運都市として発展した。ここの海鮮料理はイタリアでも屈指の美味しさなので、是非旅行の際はお試しあれ。

ブリヴォネージ兄弟は中部イタリア・マルケ地方の中心都市アンコーナで生まれた。父はベネデット・ブリヴォネージ(Benedetto Brivonesi)、母はイーダ・コスタンツィ(Ida Costanzi)だった。兄ブルーノは1886年7月16日生まれ、弟ブルートは1888年11月22日生まれであるため、2歳離れた兄弟であった。アドリア海に面するアンコーナの町で育ったブルーノとブルートのブリヴォネージ兄弟は、そういった環境の影響からか二人そろって海軍士官への道を志し、リヴォルノの海軍士官学校に入学する。

当時のリヴォルノの海軍士官学校の校長はかのパオロ・タオン・ディ・レヴェル(Paolo Thaon di Revel)大佐であった。タオン・ディ・レヴェルは後にイタリア海軍唯一の海軍元帥(Grande ammiraglio, 直訳では大提督)となる人物で、伊土戦争や第一次世界大戦におけるオスマン帝国海軍やオーストリア海軍を相手とする数々の海戦で華々しい勝利を手に入れ、「海の公爵(Duca del mare, ドゥーカ・デル・マーレ)」の称号を持った海軍の英雄である。ローマ進軍後にベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)政権が成立した際は、同じく第一次世界大戦の英雄であった陸軍のアルマンド・ディアズ将軍(Armando Diaz)と共に、ムッソリーニに協力的な立場を示し、海軍大臣に就任している(ディアズ将軍もタオン・ディ・レヴェル提督と同じく、ファシスト政権期に第一次世界大戦の戦功によって元帥となった)。

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パオロ・タオン・ディ・レヴェル(Paolo Thaon di Revel)提督。イタリア海軍史上唯一の海軍元帥(Grande ammiraglio)となった人物で、伊土戦争や第一次世界大戦の数々の海戦を指揮し、勝利に導いた名提督である。

こうして未来の海軍元帥タオン・ディ・レヴェルの元で海軍士官としての道を着々と歩んだブルーノとブルートの兄弟は、ブルーノは1907年に少尉として任官ブルートも二年遅れて(二歳離れているのだから当然だが)1909年に同じく少尉として任官した。こうして、二人は晴れてイタリア海軍士官となった。そんな中、1908年12月28日にシチリア島北東のメッシーナ震源として、マグニチュード7の大震災が起こる(メッシーナ地震)。この地震の影響は当時の南イタリアにとって壊滅的な被害をもたらし、シチリアの人口の半分と、対岸に位置するカラブリアの人口の1/3が犠牲となり、死傷者は12万人とまで言われる。イタリアは古代から地震大国であったが、近代欧州における最悪の犠牲者数を出す地震となった。

一足早く海軍士官となったブルーノは直ちにこの震災の救助活動に派遣された。特に震源に近い大都市であったメッシーナとレッジョ・カラーブリアは都市そのものが崩壊したも同然の状態で、街全体が再建するにはかなりの時間を有することとなる(地震そのものの被害だけでなく、津波による被害も甚大であった)。ブルーノの献身的な被災者への救助活動は高く評価され、当時の政府であるジョヴァンニ・ジョリッティ(Giovanni Giolitti)首相から銅勲章を叙勲されている。なお、この時のジョリッティ政権の対応はかなり迅速で、国家全体がシチリアカラブリアの被災民への援助活動を精力的に行った。この頃、近代イタリアで初めて「耐震」の基準が作られたという。

被災地の救助活動から戻ったブルーノは、当時海軍で注目されていた飛行船の操舵手としての教育を受けることとした(1910年1月)。イタリア海軍では1907年の気球による実験から航空戦力への期待が高まるようになり、これは伊土戦争期にいっそう高まった。ブルーノが飛行船の操舵手としての志願をした1910年、丁度同時期に新大陸のアメリカでは艦体からの世界初の飛行機発進を実現させていた。

イタリア海軍でも同様に、航空戦力に対する注目が存在した。ブルーノは現在空軍歴史博物館が置かれている、ローマ近郊ブラッチャーノ湖畔のヴィーニャ・ディ・ヴァッレにて、2月から本格的な訓練を開始した。ブルーノは海軍士官であったが、航空に関しても興味を持っており、以前から自作グライダーも制作している。翌年1911年8月に飛行船の操舵手として正式になったブルーノはさっそく、北イタリアのモンフェッラートで開催された、統合参謀総長アルベルト・ポッリオ将軍(Alberto Pollio)主催の大演習に参加することとなる。この時、ブルーノが操縦する海軍の飛行船「P.2」には国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(Vittorio Emanuele III)と、タオン・ディ・レヴェル提督が乗艦するという名誉を得た(云わばお召し艦)。

 

オスマン帝国との闘い、海と空での武勲

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レ・ウンベルト級2番艦戦艦「サルデーニャ」。1895年就役。伊土戦争では主力艦の一隻として活躍、リビア上陸艦隊の支援などの任務を果たした。第一次世界大戦にも参加したが、旧式艦故に限定的な任務のみしか果たせていない。1923年解体。

1911年9月に、イタリアがオスマン帝国に対して宣戦布告し、伊土戦争が開戦する。ブルーノは飛行船「P.3」の操舵手として、オスマン帝国領だったリビアに出征。負傷者の輸送に加え、トリポリタニア上空における諸任務を遂行した。その中には偵察任務や、爆撃任務も含まれている。陸軍と同様に、海軍も飛行船によるリビア爆撃を実行しており、これらの一連の飛行船による爆撃は「世界初の航空爆撃」として認識されている。この歴史的な偉業から、ブルーノは銀勲章を叙勲された。

その一方で、陸軍はそれに加え、ジュリオ・ガヴォッティ大尉(Giulio Gavotti)が駆るエトリッヒ・タウベ機が帝国軍部隊に対して爆撃を敢行、「世界初の国家間戦争への航空機の投入」に加え、「世界初の航空機による爆撃」という偉業も果たしたのであった。そう考えると、海軍の航空認識は陸軍より限定的であり、遅れていたともいえるだろう(例えば、イタリアを代表する航空理論家であるジュリオ・ドゥーエ(Giulio Douhet)将軍も陸軍の所属である)。

なお、遅れて海軍士官に任官した弟ブルートは、伊土戦争において兄とは異なり海軍航空隊への道は進まず、順当な海軍士官の道を歩んだ(1911年に中尉に昇進)。レ・ウンベルト級戦艦2番艦「サルデーニャ」の艦橋に乗艦し、同艦は姉妹艦であるレ・ウンベルト級3番艦「シチリア」を旗艦とするラッファエーレ・ボレーア・リッチ・ドルモ提督(Raffaele Borea Ricci D'Olmo)率いるイタリア主力戦艦の一隻として、戦艦「サルデーニャ」はリビア上陸艦隊の支援、地上部隊の支援、敵根拠地への砲撃などで活躍、この働きからブルートは大尉に昇進した。なお、この時、ボレーア・リッチ・ドルモ提督率いる主力艦隊は、実験的に気球部隊の実戦投入も行っている。海軍艦隊によるリビア砲撃の際に、気球部隊がリビア上空を偵察し、弾着観測をして戦局に大きく貢献した。

 

◇海軍航空隊の発足

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ブルーノが操縦した試作飛行機。1909年のローマにて。

伊土戦争が終結し、イタリアは勝利した。イタリアに帰国したブルーノとブルートの二人は、弟ブルートは引き続き戦艦「サルデーニャ」の艦橋要員を務め、「サルデーニャ」が属するヴェネツィア軍港に戻った。一方、兄ブルーノは南部イタリアのターラント軍港を根拠地とするイタリア海軍第一艦隊(戦艦を主力とする主力艦隊)の旗艦・戦艦「ダンテ・アリギエーリ」の第二砲術長として同戦艦の艦橋要員となった。戦艦「ダンテ・アリギエーリ」は1913年に竣工したばかりの新造戦艦である。

イタリア海軍はリビアでの航空戦力の有用性の認識によって、この戦艦「ダンテ・アリギエーリ」に水上機を搭載することを決定した。海軍では、陸軍同様に航空戦力に関する研究が進められており、海軍を代表する航空パイオニアであるアレッサンドロ・グイドーニ大尉(Alessandro Guidoni)を中心として、航空機の軍艦への搭載を計画していた。この計画は1912年から始まり、まずは巡洋艦ピエモンテ」に飛行甲板を設置するという話から始まった。また、同時に魚雷を搭載して投下可能な飛行機の開発も進められていた(当時はまだ雷撃機という概念は存在しない)。

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戦艦「ダンテ・アリギエーリ」。1913年就役。同型艦はない。第一次世界大戦開戦時のイタリア第一艦隊の旗艦で、大戦中はタオン・ディ・レヴェル提督の旗艦としてアドリア海で戦った。戦間期にはムッソリーニシチリア訪問にも使われたが、軍縮によって1928年に解体された。

こうして、正式にイタリア海軍航空隊が1913年に発足し、「ダンテ・アリギエーリ」第二砲術長となったブルーノもここに所属した。彼は以前より航空分野に関心があり、1909年にはローマにて試作飛行機のテストパイロットも務めている。「ダンテ・アリギエーリ」を始めとする主力艦に水上機が搭載されることが決定されると、ブルーノはヴェネツィアで訓練を行い、水上機パイロットとしての免許を所得した。

訓練中、アドリア海で彼の乗る水上機海上に墜落する事故が行ったが、怪我も負わずに帰還するという偉業を成し遂げている。訓練後、「ダンテ・アリギエーリ」にブルーノが操縦する水上機が搭載され、いくつかの記念飛行が行われたが、結局海軍首脳部は未だ信頼性がそこまで高くない水上機よりも飛行船を好み、更に運用上集中管理の方が有利と判明したため、「ダンテ・アリギエーリ」への水上機搭載は短期間で終了し、巡洋艦「エルバ」を水上機母艦として運用する案が採択されたのであった。

 

◇ポーラ軍港爆撃と収容所での経験

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イタリア海軍航空隊の飛行船「チッタ・ディ・イェージ」。艦長はブルーノが、副艦長はド・クールタンが務めた。竣工したばかりの新造飛行船であり、敵地への爆撃目的で建造された。

両者共に第一次世界大戦が開戦するまでに海軍大尉にまで昇進していたボスニアサライェヴォでオーストリア皇位継承者夫妻が暗殺される事件(サライェヴォ事件)が発生し、それを機に第一次世界大戦が勃発。イタリアは中立を宣言したが、海軍は戦争準備を進めた。戦艦「ダンテ・アリギエーリ」の水上機搭載中止を受け、ブルーノは海軍が保有する飛行船「チッタ・ディ・イェージ」の艦長に任命されている。

「チッタ・ディ・イェージ」は1913年に竣工したばかりの新造の飛行船で、総体積約15,000立方メートルの爆撃用の船体だった。イード・シェルージ(Guido Scelsi)大佐率いる海軍航空隊の設立と共に、ブルーノはその副司令官に任命されていたが、イタリアの参戦可能性が高まってくると彼はこの新造飛行船の艦長に任命された。「チッタ・ディ・イェージ」の設計者はロドルフォ・ヴェルドゥーツィオ(Rodolfo Verduzio)技師で、彼は後にカプロニ社に移籍し、「複葉機における最高高度」を記録したカプロニ Ca.161を開発した人物として知られることとなる人物だ。また、開発には後にイタリアのロケット・宇宙開発のパイオニアとして知られることとなるガエターノ・クロッコ博士(Gaetano Arturo Crocco)も技師として参加している。

1915年、イタリアはオーストリアに宣戦布告し、連合国側で第一次世界大戦に参戦することとなる。さっそく戦いが開始すると、ブルーノが艦長を務める「チッタ・ディ・イェージ」に重要な任務が下る。それは、アドリア海沿いに位置するオーストリア主力艦隊の軍港であったポーラ軍港の爆撃任務だった。オーストリア海軍の主力艦隊は基本的に港から出てこなかったため、アドリア海制海権は既にイタリア海軍側にあるとはいえ、オーストリア海軍の主力艦隊はイタリアにとって脅威であった。そのため、ポーラ軍港への航空爆撃を実行し、オーストリア艦隊を無力化することで安全を確保しようとしたのである。これには、イタリアも伊土戦争で航空爆撃の実戦経験があったことも大きく由来していた。なお、この時「チッタ・ディ・イェージ」艦長であるブルーノを補佐した副艦長は、のちに王国最後の海軍参謀長となるラッファエーレ・ド・クールタン中尉(Raffaele de Courten)であった。

「チッタ・ディ・イェージ」はフェッラーラを基地としてポーラ軍港の爆撃を決定する。偵察飛行船「P.4」から受けた情報を受けて、ブルーノとド・クールタンは天候が回復した夜間の8月4日深夜から翌日早朝に掛けてポーラ軍港の爆撃を計画した。夜間爆撃ならば鈍重な飛行船でも効率的に敵軍港を爆撃出来るだろうと考えられたためである。綿密に作戦計画は立てられ、遂に8月4日の夜9時に「チッタ・ディ・イェージ」はフェッラーラ航空基地を離陸し、ポーラ軍港の爆撃作戦に向かった

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ポーラ沖にて撃墜された「チッタ・ディ・イェージ」

「チッタ・ディ・イェージ」はポーラ軍港に到着し、闇に紛れて爆撃をすることには成功したが、予想以上にオーストリア海軍側の対応は早く、激しい対空砲火が「チッタ・ディ・イェージ」を襲った。ブルーノは急いで戦域を離脱し、何とか対空砲の範囲外から出たが、流れ弾が当たったことによってガス袋に穴が開いており、「チッタ・ディ・イェージ」はみるみるうちに高度を失うこととなった。こうして、「チッタ・ディ・イェージ」はポーラ沖にて遂に着水したが、ブルーノらはオーストリア側に鹵獲されないように急いで飛行船を破壊し、自沈した。こうして、直ちに駆け付けたオーストリア海軍の魚雷艇によって、ブルーノとド・クールタンを含む6人の乗組員は捕虜として捕らえられ、オーストリアのマウトハウゼン捕虜収容所に移送されたのであった。

マウトハウゼン収容所は苛酷な収容所として知られており、イタリア軍だけでなく、友軍のセルビア軍やロシア軍の捕虜たちも囚われ、オーストリア側は彼らを近郊の鉱山で強制労働をさせていた。食糧事情も酷く、飢餓と過労、更に疫病で捕虜約9000人(捕虜全体の25%にも及ぶ)がこの地で命を落としている。なお、このマウトハウゼン収容所は後にナチス・ドイツオーストリアを併合(アンシュルス)すると、ナチ体制の強制収容所として「再利用」されることとなる。そういった意味でも、二つの大戦において悪名高い収容所であり、収容所内に囚われたブルーノやド・クールタンたちも健康状態は著しく悪化することとなった。収容所内の重病人は捕虜交換で本国に帰還出来ることになったため、「チッタ・ディ・イェージ」の乗組員らは結核患者の"フリ"をして、何とか本国に帰ろうとした無事、彼らの名演技(?)がオーストリア側に認められ、大戦終盤となった1917年5月の捕虜交換によって、「チッタ・ディ・イェージ」の乗組員たちは何とか本国に帰ることが出来たのであった。

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ローマのヴィットリアーノ(ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂)内部にある海軍博物館に残る、飛行船「チッタ・ディ・イェージ」の軍旗。

本国に帰還したブルーノら「チッタ・ディ・イェージ」の乗組員はポーラ軍港の爆撃成功と、無事敵を欺いて帰還したことから、軍部から称えられ勲章を叙勲された。特に艦長であったブルーノはその功績から2回の銀勲章を叙勲されている。ブルーノは後にこの時の収容所での経験を自らの書籍に書いて出版している。

帰還したブルーノはすぐさまヴェネツィア基地でマッキ M.3水上偵察機パイロットとして戦線に復帰し、その後シチリアに移ってパレルモでテストパイロットも務めている。なお、この時弟ブルートもヴェネツィアを拠点とする海兵部隊に所属していたため、二人は感動の再会を果たした。大戦末期にブルーノはカプーアの新設された海軍航空隊基地の司令官を任せられ、カプロニ Ca.44重爆撃機で構成される爆撃機部隊を編制中、オーストリアがイタリアに降伏し、終戦を迎えることとなったのであった。

 

◇海軍士官、陸で戦う

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ジーナ・エレナ級戦艦のネームシップ「レジーナ・エレナ」。1907年就役。最高速度が21ノットで、当時の戦艦としては高速だった。第一次世界大戦時は主力戦艦の一隻であるが、潜水艦による攻撃を恐れて限定的な役割を果たすのみであった。1923年解体。

一方で、弟ブルートは開戦時は戦艦「サルデーニャ」の艦橋要員を務めていたが、その後ジーナ・エレナ級戦艦のネームシップである戦艦「レジーナ・エレナ」の艦橋要員に移動した。「レジーナ・エレナ」は大戦中、ターラントブリンディジアルバニアのヴロラ(イタリア語ではヴァロナ)の間の船団の護衛を行って転々としたが、イタリア海軍側がアドリア海制海権を有していることもあり、目立った戦闘もなかった。

また、オーストリア海軍の潜水艦の攻撃を恐れて、戦艦「レジーナ・エレナ」は戦闘任務には参加せず、専ら安全度の高いイオニア海及び下部アドリア海における船団護衛任務のみを主体として行動した。大戦序盤で兄ブルーノがオーストリア軍の捕虜になって以来、海軍の消極的な態度はブルートの精神を逆撫ですることとなった

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ピアーヴェ川の前線で戦う海兵隊員たち。後の「サン・マルコ海兵連隊」の母体となった。

1915年10に海軍では後の「サン・マルコ海兵連隊」の母体となる、「海兵連隊」が設立され、ブルートは戦艦「レジーナ・エレナ」を降りて陸に上がり、その「海兵連隊」の砲兵隊長となった。ブルートはピアーヴェ川での戦闘に参加し、海軍士官でありながら陸で砲兵指揮官として戦ったのである。この頃、何とか本国に帰還した兄ブルーノと再会し、その後一時的にブルーノも同じくヴェネツィアで活動していたことから、何度か会っていたと思われる。

「海兵連隊」は次第に規模を拡大し、1917年11月のカポレットでの大敗を契機として更に拡大した。ブルート率いる海軍砲兵隊はカポレット後の立て直しで活躍し、特に大戦末期の1918年7月のコルテッラッツォの戦いと、1918年10月から行われたオーストリア軍との決戦である、ヴィットーリオ・ヴェネトの戦いにおいて優れた指揮とその粘り強さで敵部隊の撃破に貢献し、銅勲章2つと戦功十字章を叙勲される活躍を見せたのであった。こうして、終戦までにブルートは少佐に昇進した。

 

◇二人の戦間期、そして提督へ

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ファシスト政権期初期の空軍次官、アルド・フィンツィ(Aldo Finzi)。ムッソリーニの側近の一人であり、古参のファシスト。独立空軍創立の立役者の一人であり、元陸軍航空隊のパイロットであった。ユダヤ系の出自であったことから、後に「人種法」成立によって党から追放され、休戦後はパルチザンに転向。ドイツ当局に逮捕され、尋問後にアルデアティーネ洞窟でローマ市民らと共に虐殺された。

第一次世界大戦終結し、イタリアに平和の時が訪れた。ブルーノは引き続き海軍航空隊の士官として、飛行船「M.6」の艦長を務めていた。その後、飛行船「PV.3」の艦長を務めたが、1922年7月、飛行中に嵐に巻き込まれ、南イタリアカラブリアのクロトーネ付近にて墜落してしまう事故が起きた。しかし、艦長ブルーノは嵐に巻き込まれた時に冷静に対処し、「PV.3」は全損したものの、乗組員は全員無事であり、この時の決断が高く評価された。後に銀勲章を叙勲されている。

その後、第一次世界大戦の賠償艦としてツェッペリン飛行船がイタリアに引き渡され、その艦長としてブルーノは再び飛行船に乗ったが、これは彼の飛行船艦長としての最後の任務となった。というのも、1922年10月にムッソリーニ政権が誕生すると、ムッソリーニは空軍力の強化に力を注ぎ、翌年1923年3月の政令「王立イタリア空軍(Regia Aeronautica)」が組織された。

この独立空軍は形式的に陸軍航空隊と海軍航空隊を合併することで生まれたが、事実上陸軍航空隊による海軍航空隊の併合である。このため、航空分野は空軍の独占事項となり、海軍の所属機も全て空軍の管理下に置かれるようになったのである。海軍航空隊のメンバーの多くがこの新設された空軍に移籍したが、ブルーノは海軍に留まることを選び、こうして事実上航空の道からブルーノは去ることとなったのであった。しかし、後の彼の失敗を考えると、艦隊指揮官としての道よりも、空軍に移って空軍指揮官としての道を歩んだ方が彼の才能を生かせたのではないか?と思ってしまう。

一方、弟ブルートは戦後中佐に昇進し、海兵部隊ではなく再度軍艦の指揮に戻り、防護巡洋艦「カンパニア」の副艦長に任命されていた。「カンパニア」は事実上植民地通報艦としての役割として運用され、イタリアが伊土戦争で征服して間もないリビアで任務を過ごしていた。ここで見てもわかると思うが、実は弟ブルートの方が海軍に入隊したのは遅かったが、海軍内での昇進は早かった。ブルーノは海軍を代表する飛行船艦長として知られていたが、海軍内での昇進はブルートに比べて遅かった。

その後は、航空の道から退いたブルーノは弟ブルートと同じ道を歩むようになった。少佐に昇進したブルーノはまず駆逐艦「ソルフェリーノ」の艦長を務め、その後駆逐艦「ニッコロ・ゼーノ」駆逐艦「カルロ・ミラベッロ」駆逐艦「インシディオーゾ」の艦長を務めた。1932年にはターラント軍港の防衛指揮を任せられたが、1933年2月8日に基地内に侵入した人物がブルーノの親類(親戚?)を射殺する事件が発生した。これに対して、怒りと悲しみを抑えながらブルーノは迅速に対処し、武装の状態で銃を持った犯人を屋根上で追い回し、遂には捻じ伏せて逮捕したのであった。この勇気を称えて海軍に銀勲章を叙勲されている。

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イタロ・バルボ空軍元帥。イタリア空軍史上唯一の空軍元帥であり、所謂「ファシスト四天王(クァドルンヴィリ)」と呼ばれるファシスト党終身最高幹部の一人。空軍の威信を高めた「空軍の父」であるが、その一方で航空戦力の独占を巡って海軍とは激しく対立、海軍航空力の近代化の妨げとなった。

その後、1934年9月から1935年3月までの間は、上海の共同租界に駐屯するイタリア極東艦隊(母港:天津租界)の分遣隊の指揮官に任命され、帰国後はかつて海軍航空隊だった経験を買われて、イタロ・バルボ空相(Italo Balbo)の台頭で仲が険悪になっていた空軍との連絡役を務めた。大佐に昇進したブルーノは1936年9月まで重巡トレント」の艦長を務めた後、ロンドンの駐英イタリア大使館駐在武官として勤務、特にスペイン内戦を巡って両国間が緊張した時に、英海軍側とのコネクションを使って両国間の関係悪化回避のために尽力した

1939年までロンドン勤務であったが、その間にブルーノは少将に昇進し、遂に海軍提督となったのであった。ロンドン勤務時代、訓練帆船「アメリゴ・ヴェスプッチ」と、同じく訓練帆船の「クリストーフォロ・コロンボ」をアイルランドに親善訪問させている。1939年に帰国後、リヴォルノの海軍士官学校の校長に任命されたが、欧州の戦局が目まぐるしく動くことによって、イタリアの参戦直前である1940年4月にはベンガジに本部を置くリビア艦隊の司令官として派遣され、イタリアの参戦に備えたのであった(この段階で中将に昇進している)。

一方で弟ブルートは巡洋艦「カンパニア」のリビア勤務を終えた後、駆逐艦「ロゾリーノ・ピーロ」駆逐艦「ダニエーレ・マニン」駆逐艦「インシディオーゾ」の艦長を務め、更に第一駆逐戦隊の参謀長も務めている。その後、大佐に昇進したブルートはラ・スペツィア軍港司令部の参謀長を務め、重巡ボルツァーノ」の艦長を務めた。1937年に少将に昇進し、海軍提督となった後、海軍省勤務となり、1938年から1939年までリヴォルノの海軍士官学校の校長を務めた。なお、この後任は先述した通り、兄ブルーノが務めている。1939年9月には中将に昇進し、再度海軍省勤務に戻ったが、イタリアの参戦が近付いてくると、ターラント軍港を母港とするイニーゴ・カンピオーニ提督(Inigo Campioni)率いる第一艦隊所属の第五戦艦戦隊(旗艦:戦艦「コンテ・ディ・カヴール」)の司令官に任命された。更に、それを維持しながら第一艦隊の参謀長も兼任し、カンピオーニ提督を補佐することとなった

 

ブリヴォネージ兄弟は第一次世界大戦までの歩みは違うものの、戦間期を通じて同じ道を歩むこととなり、結果的に二人とも海軍提督として第二次世界大戦で艦隊を指揮することとなったのである。あまりにも経歴が長すぎるので、第二次世界大戦の戦歴は次回に分けて紹介しよう。それでは、A dopo!(また後で!)

 後編はこちら↓

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