バルサモ提督、同盟国・日本へ行く! ―紅海艦隊を率いた侯爵と大戦期における日伊文化交流―
第二次世界大戦時、日本とイタリアは同盟国同士であったものの、極東と欧州という遠く離れた地であることから、互いの人員の移動も困難だった。そんな中、イタリア領東アフリカからやってきた一人の海軍提督がいた。それが、カルロ・バルサモ提督(Carlo Balsamo)だ。第二次世界大戦時、イタリア海軍と空軍は同盟国の日本に艦船や航空機で物資や人員のやり取りをしているが、そんな中でもバルサモ提督のようなイタリア海軍の高位の将官がはるばるやってきたのは唯一の例であった。今回は、そんなバルサモ提督の生涯と共に、大戦期を通じて進展した日本とイタリアの両国間交流について調べてみることとしよう。
◇軍港都市に生まれた侯爵家の息子
カルロ・バルサモは1890年4月20日、軍港都市ターラントで生まれた。本名はカルロ・バルサモ・ディ・スペッキア・ノルマンディア(Carlo Balsamo di Specchia Normandia)と長く、その名前から想像がつくとは思うが貴族出身で、ナポリ発祥の侯爵家の出である。つまりは、正式に書くならばスペッキア・ノルマンディア侯爵カルロ・バルサモ(Marchese di Specchia Normandia)が正しい。流石に本名を全て書くと長いので、本記事では基本的に「カルロ・バルサモ」もしくは「バルサモ」と表記する。
父であるスペッキア・ノルマンディア侯爵ジョアッキーノ・バルサモ(Gioacchino Balsamo Di Specchia Normandia)はターラントに屋敷を構える貴族だったが、1898年に58歳で死亡してしまった。このため、息子のカルロ・バルサモは僅か8歳で家督を継ぎ、バルサモ家の当主としてスペッキア・ノルマンディア侯爵の爵位を継承することになった。幼き侯爵の誕生であったが、これは困難を伴っただろう。
彼が生まれた前年、イタリア国王ウンベルト1世(Re Umberto I)の尽力でターラント軍港に大規模な海軍工廠が完成した。この結果、ターラントは南部の軍需産業、特に海軍の軍港として発展し、その重要性を高めることとなった。軍港都市で育ったバルサモは貴族らしく海軍軍人を目指し、1907年にリヴォルノ海軍士官学校に入学する。こうして、1911年に卒業、海軍少尉として任官されたのであった。
1911年9月に、イタリアがオスマン帝国に対して宣戦布告し、伊土戦争が開戦する。これによって、任官されたばかりのバルサモ少尉はアウグスト・オブリー提督(Augusto Aubry)の旗艦である、レジーナ・エレナ級戦艦「ヴィットーリオ・エマヌエーレ」に下士官として乗艦した。オブリー提督自身はナポリ出身で、バルサモ少尉の出自とゆかりがあったともいえる。オブリー提督はリッサ海戦も経験した老齢のヴェテラン提督で、ターラントを母港とする第一艦隊(主力艦隊)を指揮した。
なお、このオブリー提督は後にバルサモ少尉の出身地であるターラントの要塞などに名前が付けられたが、これは別にオブリー提督がターラント出身だったとかそういうわけではない。伊土戦争終結後の1912年に戦艦「ヴィットーリオ・エマヌエーレ」がターラント軍港に停泊中、オブリー提督は甲板上で急死してしまったからである。この戦艦「ヴィットーリオ・エマヌエーレ」はリビア戦線にてイタリア軍上陸部隊を支援し、戦局に貢献した。この武勲からバルサモは中尉に昇進している。
◇第一次世界大戦、潜水艦艦長としての戦歴
1915年のイタリアの第一次世界大戦参戦までに、バルサモは大尉に昇進した。バルサモ大尉は新戦力として期待されていた潜水艦の指揮官として頭角を現すことになる。まず、彼が初の潜水艦艦長を務めたのは、F(エッフェ)級潜水艦「F1」である。潜水艦「F1」艦長となったバルサモ大尉は、中部イタリア・マルケ地方の港湾都市アンコーナの潜水艦基地に配備された。アンコーナというと、前回紹介したブリヴォネージ兄弟(Bruno Brivonesi, Bruto Brivonesi)の出身地でもある。バルサモ大尉は潜水艦「F 1」を駆り、アドリア海沿岸の中央同盟国側の輸送船団の通商破壊に従事した。
F級潜水艦は第一次世界大戦当時のイタリア潜水艦で最高のクラスと呼ばれ、優れた機動性と高い信頼性を誇っていた小型潜水艦だった。更に、無線とソナーを始めて搭載したイタリア製の潜水艦でもあった。主要敵国となったオーストリア海軍との戦場はアドリア海の狭い海域となったため、機動性が高い小型潜水艦には格好の戦場となったのである。F級は優秀な設計故に計21隻作られ、更にスペイン海軍やロシア海軍、スウェーデン海軍といった諸外国の海軍からも購入されている。
続いて、1917年頃にはバルサモ大尉はH(アッカ)級潜水艦「H3」の艦長となった。H級潜水艦は沿岸哨戒用の潜水艦で、興味深いことにカナダのモントリオールの工廠で建造されている。大きさとしては小型であり、F級潜水艦を多少大きくした程度であった。なお、第二次世界大戦時においても、旧式であったが、H級の「H8」と「H6」は現役の潜水艦として使われた(流石に戦闘用ではなく哨戒用や輸送用であったが)。バルサモ大尉率いる「H3」はブリンディジを母港として、アルバニア及びモンテネグロ沿岸で中央同盟国側の船団に待ち伏せ攻撃を実行した。
最後に、大戦末期の1918年になってバルサモ大尉が艦長となった潜水艦は、ノーティラス級潜水艦のネームシップ、潜水艦「ノーティラス」である。艦名はフランスが開発した世界初の実用的な潜水艦「ノーティラス」に肖ったものである。潜水艦「ノーティラス」はバルサモ艦長が第一次世界大戦時に指揮した潜水艦の中では最も古いもので、1913年にヴェネツィア工廠で作られたものであった。というのも、F級もH級も、大戦勃発後に竣工した最新鋭の潜水艦だったからである。故に、「ノーティラス」の設計はやや時代遅れなものとなっていた。
そのため、バルサモ大尉が艦長となった潜水艦「ノーティラス」は、ガッリーポリ港に配備された後、戦闘任務ではなく船団護衛を務める「ミッサーナ」潜水艦隊に属することになった。こうして、第一次世界大戦を通して3隻の潜水艦を指揮したバルサモ大尉は戦功十字章を叙勲される働きを見せたのであった。
◇戦間期と提督への昇進
第一次世界大戦が終結し、イタリアに平和が訪れた。バルサモ大尉は大戦期を通じて少佐に昇進していたが、戦後も再びF級潜水艦の艦長を務めた(最初は再び潜水艦「F1」で、後に潜水艦「F6」)。1922年まで「F6」艦長を務めたバルサモ少佐はその後1928年までの6年間で、魚雷艇「51 O.S.」、魚雷艇「63 O.L.」、ラ・マーサ級駆逐艦「ジュゼッペ・ラ・ファリーナ」(後に水雷艇に類別変更)、バルバリーゴ級潜水艦「アンドレア・プロヴァーナ」の艦長を経験した。
特にここで注目したいのはサヴォイア公国艦隊を代表する海軍提督の名を冠した潜水艦「プロヴァーナ」で、コルフ島危機でも出征した潜水艦の一隻だが、現在もトリノのヴァレンティーノ公園の一角に艦橋を含む艦体の中央部が保存されている。また、同名の潜水艦が第二次世界大戦時のマルチェッロ級にも存在するが、こちらは大戦序盤にフランス対潜艦隊と死闘を繰り広げた後に撃沈された。
1928年、中佐に昇進したバルサモは中国にイタリアが保有する天津租界に派遣され、同地に駐屯している「イタリア極東艦隊」の司令官に任命された。彼にとってこの時が初の極東勤務となったが、後に訪れることになった日本や中国に関する知識をここで学んだのだろうか?なお、この時彼の旗艦であった巡洋艦「リビア」は元々オスマン帝国海軍がイタリアに「ドラマ」という名前で発注していたが、両国関係が悪化したことで建造が中止され、伊土戦争開戦後に伊海軍に接収され「リビア」となった。ちなみに、この時「リビア」艦長だったヴラディミロ・ピーニ中佐(Vladimiro Pini)は第二次世界大戦時にナポリを母港とするティレニア艦隊の司令官となる人物である。なお、1929年に上海沿岸で中国の輸送船「康泰」と衝突事故を起こしてしまった。
2年後の1930年に本国に召還されたバルサモ中佐は大佐に昇進し、地元であるターラント軍港の参謀長に任命された。駐在武官として同じくラテン系諸語のスペインやポルトガルに派遣されたりしたが、1939年末まではターラント軍港の参謀長兼、同地を拠点とする第三潜水艦隊の司令官を務めている。また、この期間に海軍准将に昇進しており、提督になった。時の海軍参謀長ドメニコ・カヴァニャーリ提督(Domenico Cavagnari)は潜水艦隊の拡充に力を注いだため、バルサモ提督を始めとする潜水艦指揮官出身の提督たちは待遇が良かったのかもしれない(なお、当時イタリアの潜水艦隊の規模はソ連に次いで世界第二位の規模であった)。
◇東アフリカへの赴任
1939年末、バルサモ提督は突然東アフリカのマッサワ軍港へ赴任することになる。1939年5月、イタリアはドイツと「鋼鉄協約(Patto d'Acciaio)」と呼ばれる同盟条約を締結し、所謂「ローマ-ベルリン枢軸」が形成されていっていた。これと同時に、イタリアは英国及びフランスとの対立関係を加速させており、特に鋼鉄条約締結に先駆けて行われた4月のアルバニア侵攻で更に取り返しのつかないところまで進んでいた。
こういった状況を受けて、イタリア領東アフリカ副王であったアオスタ公アメデーオ空軍大将(Amedeo di Savoia-Aosta)は「イタリア帝国を自国の軍隊だけで守り抜くために、あらゆる状況に備えなければならない」として戦争準備を進めることとなる。そもそも、東アフリカ植民地はリビア植民地と陸で繋がっておらず、仮に英仏側との戦闘が生じた場合は船もしくは航空機による輸送でしか補給が出来なかった。しかし、船に関しても英国にスエズ運河を封鎖されてしまえば、地中海からジブラルタルを抜けて喜望峰回りのルートしか存在せず、それはあまりにも遠すぎて現実的でなかった。
当時のエリトリア総督であったジュゼッペ・ダオディーチェ将軍(Giuseppe Daodice di Daodicca)は、反ファシズム思想の持ち主である熱心な王党派の軍人であったが、差し迫る脅威に備える必要性に駆られ、アオスタ公の命令通りマッサワ軍港を母港とする紅海艦隊の強化に踏み切った。そこで、東アフリカに呼ばれたのが潜水艦指揮官として知られていたバルサモ提督であった。補給が困難であるこの限られた戦場において、最も戦果を挙げられると考えられたのはやはり潜水艦であったからだ。
紅海とアデン湾という狭い海域、補給が困難である、そして、英国のインド-地中海航路の重要な海域...というわけで、このような状況では潜水艦隊が英国のシーレーンに攻撃を与えるには最も効果的だったからだ。東アフリカのフランス艦隊はジブチしか拠点を持っていなかったために、伊海軍にとって脅威ではなかった。そのため、地中海のイタリア艦隊とは反対に、英国艦隊を仮想敵として想定していた。こうして、元は東アフリカの守備艦隊として作られた紅海艦隊であったが、シーレーン妨害の役割として強化され、軍備の強化が図られた。
こうして、新しく紅海艦隊の母港マッサワ(マッサウア)に赴任したバルサモ提督は、この小規模な植民地艦隊の戦力増強という大役を任せられた。
イタリア参戦時(1940年6月10日)の紅海艦隊の構成は以下の通りである。
◇イタリア紅海艦隊(Flotta del Mar Rosso)
(司令長官:カルロ・バルサモ提督)
:旗艦・通報艦「エリトレア」
◆第三駆逐戦隊
駆逐艦「ナザリオ・サウロ」
駆逐艦「ダニエーレ・マニン」
◆第五駆逐戦隊
駆逐艦「レオーネ」
駆逐艦「ティグレ」
駆逐艦「パンテーラ」
◆水雷戦隊
水雷艇「ヴィンチェンツォ・ジョルダーノ・オルシーニ」
◆第21MAS艇戦隊
魚雷艇「MAS204艇」
魚雷艇「MAS206艇」
魚雷艇「MAS210艇」
魚雷艇「MAS213艇」
魚雷艇「MAS216艇」
及び武装小型艇7隻、サンブーキ艇数隻
◆第7潜水艦艦隊
■第81戦隊
潜水艦「アルベルト・グリエルモッティ」
潜水艦「ガリレオ・フェッラーリス」
潜水艦「ルイージ・ガルヴァーニ」
潜水艦「ガリレオ・ガリレイ」
■第82戦隊
潜水艦「ペルラ」
潜水艦「マッカレー」
潜水艦「アルキメーデ」
潜水艦「エヴァンジェリスタ・トッリチェッリ」
◆仮装巡洋艦戦隊
仮装巡洋艦「ラムI」
仮装巡洋艦「ラムII」
◆補助船部隊
砲艦「ポルト・コルシーニ」
砲艦「ジュゼッペ・ビリエーリ」
機雷敷設艦「オスティア」
タンカー「ニオベ」
給水船「シレ」
給水船「セベト」
病院船「ラムIV」
タグボート「アウゾニア」等
構成としては通報艦1隻、駆逐艦7隻、水雷艇2隻、潜水艦8隻、仮装巡洋艦2隻、MAS艇5隻、武装小型艇7隻、砲艦2隻、機雷敷設艦1隻、その他補助船10隻程度、の計45隻といったところである。確かに、イタリアの植民地艦隊としては強化されてはいる方であったが、旧式艦も目立っており、問題点は多かった。そもそも、後に判明するが紅海の高温多湿の環境に向いていなかった地中海向けの設計をした艦船も存在しており、これは戦時中に悲劇を引き起こすこととなる(そもそも、イタリアの参戦は1942年頃と考えられていたため、とりあえずその場しのぎの艦船故にこの結果になったともいえる)。
◇紅海における戦いの始まり
1940年6月10日にムッソリーニ統帥は英国及びフランスに宣戦布告し、イタリア王国は枢軸国側で第二次世界大戦に参戦した。海軍参謀長カヴァニャーリ提督率いるイタリア海軍最高司令部(スーペルマリーナ)は、紅海艦隊に積極的な攻勢を命令した。紅海艦隊の司令官であるバルサモ提督もそれに応じることとなった。
しかし、現状は想像以上に最悪の状況であった。他のイタリア軍の例と同様に、紅海艦隊も準備不足の状態での参戦であったため、当然攻撃準備は整っていなかった。その上、地中海艦隊とは異なり、マッサワを根拠とする紅海艦隊は軍港設備も劣悪で、艦艇の整備も満足に出来なかった。更に開戦後は英国にスエズ運河を封鎖されるため、本国からの支援も一切期待できない(期待出来るとすれば、空軍による支援であったがそれも航空機であるために重量が限定された)。
バルサモ提督は最高司令部からの命令を了承したが、積極的な攻勢をすぐに行うことが不可能である事は理解していた。ひとまず、現状最も有効な策だと思われる方法でバルサモ提督は最高司令部からの期待に応えることにした。それは、先述したように、潜水艦戦隊による待ち伏せ攻撃による連合国船団への攻撃任務であった。
敵側の海軍を見てみると、英国の東洋艦隊はイタリア紅海艦隊とは比べ物にならないほどに大規模であり、インド洋は「英国艦隊の裏庭」であった。フランス海軍は東アフリカ方面には海軍基地をジブチしか持っていなかったため、通報艦等6隻ほどしか所属しておらず、イタリア紅海艦隊にとっては脅威ではなかった。
潜水艦部隊には各地点での待ち伏せ攻撃を命じた。「マッカレー」はポートスーダン沖(6月10日出発)、「ガルヴァーニ」はオマーン沖(6月10日出発)、「ガリレイ」はアデン南部沖(6月12日出発)、「フェッラーリス」は紅海東部(6月12日出発)、「トッリチェッリ」はバブ・エル・マンデブ海峡(6月14日出発)、「アルキメーデ」はジブチ沖(6月19日出発)、「ペルラ」はジブチ・タジュラ湾(6月19日出発)での待ち伏せ攻撃を命じられた。潜水艦部隊では唯一「グリエルモッティ」だけ待ち伏せ攻撃には参加せず、マッサワ軍港での待機となった。
◇不運な悲劇、灼熱の海での死闘
しかし、始まりは順調にはいかなかった。「フェッラーリス」「ペルラ」「マッカレー」「アルキメーデ」では高温多湿の環境によって空調設備の故障が発生し、塩化エチルの漏洩事故が発生した。地中海向けに作られていたこれらの潜水艦は、高温多湿の紅海の環境には不向きであった。しかも、これによる事故がよりにもよって参戦直後という最悪のタイミングで同時多発的に起こってしまったのである。これによって乗組員は中毒を起こし、体調不良で錯乱状態になっていった(「ペルラ」では艦内が64度にまで達した)。更に、船団攻撃を成功させていた「ガリレイ」も英海軍の駆潜艇の攻撃を受けて、塩化エチルの漏洩事故が発生した。その結果、「ガリレイ」は換気のために水上航行を強いられる結果となった。
こうした漏洩事故により、「アルキメーデ」はアッサブ港に避難して応急修理した後、マッサワ港に帰還してドッグ入りとなった。「ペルラ」は中毒と高温に苦しみながらも、軽巡「リアンダー」を中心とする英艦隊と交戦した結果、多くの船員が戦死し、応急修理の後マッサワ港に帰還してドッグ入りとなった。「フェッラーリス」もマッサワ港に帰還して修復を受け、「マッカレー」はポートスーダン南東沖のバル・ムーサ・ケビル島にて座礁し、英軍への降伏を拒否した乗組員たちはスーダンから陸路で司令部に救援要請を伝え、海軍と空軍の共同作戦によって、乗組員は救出された。待ち伏せ攻撃に参加していなかった「グリエルモッティ」はこれが初任務となり、「マッカレー」の生存者を救出し、英空軍の哨戒を振り切りマッサワ軍港に帰還した。
この結果、3隻が修復のため行動不能になり、1隻が喪失した。
塩化エチルの漏洩事故によって散々な結果の出だしとなったイタリア紅海艦隊であったが、潜水艦部隊は待ち伏せ攻撃によってまずまずの戦果を挙げた。1940年6月16日には、アデン南部沖にて「ガリレイ」が待ち伏せ攻撃によって、英軍の大型タンカー「ジェームズ・ストーヴ」を撃沈した。6月23日には、オマーン沖にて待ち伏せ攻撃した「ガルヴァーニ」が英領インドの哨戒艇「パターン」を撃沈している。更に同日、ペリム島沖での「トッリチェッリ」との戦闘の結果、英国海軍の駆逐艦「ハルツーム」が爆沈している。少し間を開けて9月6日にはギリシャ船籍の大型タンカー「アトラス」を「グリエルモッティ」が撃沈する戦果を挙げている。
「ガリレイ」が船団攻撃の際に攻撃を受けて水上航行を強いられる結果となったと先述したが、この結果艦隊全体にまで影響が広がる悲劇が発生した。「ガリレイ」では塩化エチルの漏洩事故によって、大半の乗員が中毒を起こし、換気のため潜行時間が限られてしまい、更に中毒の影響で船員はマトモな判断すら出来なくなっていた。
6月18日、輸送船を発見した「ガリレイ」は主砲を警告のために発射し、この輸送船を停止させた。この輸送船はユーゴスラヴィア船籍の「ドラヴァ」であったが、当時ユーゴスラヴィアは中立国であったため、「ガリレイ」は航行を許可した。この時、輸送船を停止させるために警報で撃った主砲の音が、近くを航行していた英国海軍の砲艦「ムーンストーン」に傍受されていた。「ムーンストーン」はトロール船を改造した砲艦で、「ガリレイ」を発見した英軍機からの報告を受け、「ガリレイ」捜索のために駆り出されていた。「ムーンストーン」に捕捉された「ガリレイ」は交戦したが、塩化エチルの漏洩は解決していなかったため、浮上しての戦いを強いられてしまった。そして、「ムーンストーン」の攻撃が直撃し、ナルディ艦長他多くの士官が戦死、戦闘指揮が不可能な状態となり、残りの船員は降伏を選択した。
「ガリレイ」はその後、アデンに曳航された。英海軍は「ガリレイ」から作戦命令書を手に入れ、イタリア潜水艦部隊の待ち伏せ作戦が完全に英海軍に知られる形となった。この情報をもとに、英海軍は6月24日、「ガルヴァーニ」を駆逐艦部隊の爆雷攻撃で撃沈した。更に、6月21日には「トッリチェッリ」に爆雷攻撃をするが、「トッリチェッリ」は損傷を受けたものの退避に成功。その後、「トッリチェッリ」はマッサワ軍港を目指したが、ペリム島沖にて英艦隊の追撃を受けて撃沈された。しかし、「トッリチェッリ」も最後まで抵抗し、英国海軍も駆逐艦「ハルツーム」を失う損害を受けた。
これらの不運な"事故"の結果、イタリア紅海艦隊は潜水艦全8隻のうち、4隻(「ガルヴァーニ」「トッリチェッリ」「マッカレー」「ガリレイ」)を失い、3隻(「ペルラ」「アルキメーデ」「フェッラーリス」)が修復で行動不能となった。つまりは、3隻の修復完了まで行動が可能だった潜水艦は待ち伏せ攻撃に参加していなかった「グリエルモッティ」のみとなったのである。バルサモ提督が戦力として期待していた紅海の潜水艦艦隊は戦闘開始から僅か3週間の間に事実上の壊滅状態に陥ったのであった。
◇紅海戦略の再考
バルサモ提督は、潜水艦8隻のうち7隻が行動不能となった事を受け、紅海における運用戦略の再考を迫られることとなった。バルサモ提督は残存艦隊による小艦隊を形成し、それによる英船団攻撃を実行するように方針転換した。しかし、制海権は完全に英軍に握られていたため、英船団攻撃は沿岸部における夜間攻撃に限られてしまった。また、海軍部隊が一気に劣勢となったため、その穴埋めのためにアトス・マエストリ大尉(Athos Maestri)やジュリオ・チェーザレ・グラツィアーニ大尉(Giulio Cesare Graziani)のような空軍爆撃機パイロットたちが紅海の英船団を攻撃して戦果を挙げた。
一方で、1940年6月~8月にかけて、東アフリカの陸軍部隊は積極的な攻勢を行い、これを成功させていた。まず、フランス戦においてアリ・サビエ要塞等のジブチ国境要塞を制圧し、ヴィッラ・インチーサ休戦協定でジブチ港の使用権を獲得し、駐ジブチ・フランス軍の武装解除を行った。その後始まった対英戦では、スーダン及びケニアに侵攻して国境の諸都市を制圧し、更に英領ソマリランド全土を完全に征服した。英領ソマリランドの征服によって、ベルベラ港を海軍が運用出来るようになっていたが、英軍は撤退時に港湾設備を徹底的に破壊していたため、イタリア軍はこれの復旧に追われることとなる(結局復旧は間に合わず、活用される前に英軍に奪還された)。
ここで、潜水艦以外の紅海艦隊の艦艇がどういった行動をしていたかを確認してみることとする。イタリアが第二次世界大戦に参戦した6月10日、機雷敷設艦「オスティア」はバルサモ提督の旗艦・通報艦「エリトレア」の護衛のもとで、マッサワ沖からアッサブ沖にかけてのエリアに機雷原を設置した。仮装巡洋艦「ラムI」は商船に擬態して輸送船攻撃の任務に従事(または哨戒任務)することとなり、水雷艇「オルシーニ」やMAS艇部隊はマッサワ軍港周辺の哨戒任務に従事した。準備が済んでいなかった仮装巡洋艦「ラムII」はマッサワ軍港の対空防衛任務を任され、病院船「ラムIV」は緊急時に負傷者をイタリア本国に移送する役目を担った。潜水艦「ペルラ」が英艦隊の追撃を受けると、第五駆逐戦隊の駆逐艦「パンテーラ」「レオーネ」及び水雷艇「アチェルビ」、第三駆逐戦隊の駆逐艦「バッティスティ」「マニン」が救援に向かった。
潜水艦の喪失による方針転換後、残存艦隊による英船団攻撃を開始する。7月26日、駆逐艦「ヌッロ」を旗艦とする小艦隊(「ヌッロ」「バッティスティ」及び潜水艦「グリエルモッティ」)が英国船団捜索のためにマッサワを出発するが、発見できずに帰還した。
8月6日、英空軍がマッサワ軍港を爆撃し、水雷艇「アチェルビ」が大破炎上した。「アチェルビ」は修復が不可能なほどの重傷で、航行不能となり以後出撃出来ず、マッサワ軍港の対空任務のみに従事することとなった。仮装巡洋艦「ラム1」は任務を中断し、マッサワ軍港の対空防衛のために港での待機となった。英海軍・英空軍はマッサワやキシマイオといったイタリア領東アフリカの沿岸都市への攻撃を度々実行していた。
8月頃、修復中だった潜水艦(「フェッラーリス」「ペルラ」「アルキメーデ」)の修復が完了し、任務に復帰した。8月14日に再就役した「フェッラーリス」はアデン沖を英戦艦「ロイヤル・サブリン(後のソ連戦艦「アルハンゲリスク」)」が通過するという情報を受けて、攻撃のために出撃した。バブ・エル・マンデブ海峡にて英駆逐艦を発見、再激するが反撃の爆雷攻撃を受けて8月19日にマッサワ軍港に帰還。その後、8月24日~31日にかけて第三駆逐戦隊及び第五駆逐戦隊、潜水艦部隊が連日夜間に船団捜索任務に従事したが、船団を発見できずに帰還した。
9月6日には潜水艦「グリエルモッティ」は哨戒中にファラサーン諸島沖にて英国のBN4船団を発見した。「グリエルモッティ」は魚雷を発射し、ギリシャ船籍のタンカー「アトラス」を撃沈する事に成功している。しかし、その後は駆逐戦隊・潜水艦部隊共に連日の出撃にもかかわらず、船団を発見する事は出来ず、戦果を挙げられなかった。空軍部隊も英船団の攻撃任務を実行しているが、大した戦果を挙げられていない。
10月20日夜間、マッサワ沖にてイタリア艦隊と英国のBN7船団が遭遇した。イタリア艦隊は駆逐艦「ヌッロ」を旗艦とし、「サウロ」「パンテーラ」「レオーネ」で構成されていた。対する英国のBN7船団は32隻の輸送船で構成され、ニュージーランド海軍の軽巡「リアンダー」を旗艦として、駆逐艦1隻、スループ3隻、掃海艇2隻が護衛していた。23時21分に「パンテーラ」が英船団の煙を確認し、戦闘を開始した。6月21日早朝に両艦隊は衝突、その結果双方が損害を受けた。
イタリア側は英駆逐艦「キンバリー」の雷撃によって、旗艦「ヌッロ」を撃沈され、第三駆逐戦隊司令官コンスタンティーノ・ボルシーニ少佐(Costantino Borsini)が戦死した。英国側はハーミル島のイタリア軍の沿岸砲台の攻撃を受けて駆逐艦「キンバリー」が大破・航行不能となり、その後「キンバリー」はポートスーダン港まで「リアンダー」に曳航された。また、輸送船1隻が損害を受けた。双方に損害があったものの、イタリア艦隊による船団攻撃は失敗に終わった。
結局、方針転換をしたものの、イタリア艦隊は大した戦果を挙げる事が出来なかった。更に、戦力不足の紅海艦隊にとって、駆逐艦1隻を戦闘で失ったのは打撃となった。この状況を受けて、12月にはバルサモ提督は紅海艦隊の司令長官を解任されることとなり、後任の司令官にはマリオ・ボネッティ提督(Mario Bonetti)が就任した。だが、この解任はバルサモ提督にとって転換点となった。
◇極東への旅
イタリアの第二次世界大戦参戦後、1940年9月27日に「日独伊三国同盟(Patto tripartito)」が締結され、イタリア・ドイツの軍事同盟(ローマ‐ベルリン枢軸)に日本が追加された。つまりは、「ローマ-ベルリン-東京枢軸(Asse Roma-Berlino-Tokio)」、通称"RoBerTo(ロベルト、"Ro"ma-"Ber"lino-"To"kioの頭文字を取った、イタリア版"日独伊"である)"が成立することになる。こうして、日本が正式に新たなイタリアの同盟国となったわけであるが、まだ日本は枢軸国側として参戦していなかった。
紅海艦隊を解任されたバルサモ提督は、海軍総司令部(スーペルマリーナ)の意向によって、極秘に同盟国となった日本へ派遣されることになった。しかし、日本はまだ中立国であったため、強力な日本海軍がイタリア海軍を支援してくれるという期待は持てず、更に道中のインド洋は完全に英海軍の制海権にあり、日本への道のりは非常に困難であった。とはいえ、1941年の年明けから英軍は反攻作戦を開始し、東アフリカ戦線の戦況は一気に連合国有利の状況に陥っていた。それに加え、英軍の封鎖によって紅海艦隊の燃料は非常に少なくなっており、行動不能になる前に同盟国の元に辿り着く必要があった。こういったことから、バルサモ提督は同盟国である日本へ行く準備を進めた。
バルサモ提督の「極東への旅」は、旗艦だった通報艦「エリトレア」、仮装巡洋艦「ラムI」及び「ラムII」の3隻が選ばれた。旗艦・「エリトレア」艦長はマリーノ・イアンヌッチ中佐(Marino Iannucci)である(戦後も海軍に残り、提督になった)。バルサモ提督は"極東脱出艦隊"旗艦「エリトレア」に乗艦し、1941年2月19日の夜に密かにマッサワ軍港を出発、英国海軍の封鎖を突破してインド洋に脱出した。2月20日、ソマリア沖のソコトラ島(現在はイエメン領)に駐屯する英兵から「エリトレア」は捕捉され、英艦隊が追撃に向かったが「エリトレア」は煙幕を展開して離脱に成功している。
インド洋脱出までは英軍の追撃を回避して順調に進めていたが、モルディヴ沖にて悲劇が起こった。2月27日早朝に先行して航行していた仮装巡洋艦「ラムI」が、ニュージーランド海軍の軽巡洋艦「リアンダー」に捕捉され、砲撃戦の末に撃沈されてしまったのである。こうして、極東脱出艦隊は3隻のうち1隻を失うこととなったが、残る通報艦「エリトレア」と仮装巡洋艦「ラムII」は連合軍艦船に捕捉されることなく、哨戒網をすり抜けることに成功している。こうして、3月18日に長い航海を終えて、「エリトレア」と「ラムII」は日本の神戸港にほぼ無傷で到着したのであった。
一方、紅海艦隊の残存潜水艦であった潜水艦「ペルラ」「グリエルモッティ」「フェッラーリス」「アルキメーデ」は喜望峰をぐるっと回って大西洋に抜けてフランス・ボルドーのベータソム基地(イタリア海軍大西洋潜水艦部隊の母港)を目指すこととなった。ボルドーを目指した潜水艦4隻は1隻の喪失も出すことなく、無事に全てボルドーに到着した。その後、4隻は大西洋艦隊所属となり、船団攻撃で活躍した。
◇日本での赴任と伊日交流の進展
日本政府は神戸に突着した二隻を歓迎したものの、当時の日本はまだ第二次世界大戦に参戦しておらず(仮にイタリアが日中戦争において日本を支援しようとしても、中国が連合国側で参戦していないためにこちらも支援出来なかった)、神戸港にて二隻は抑留され、自由な行動を許されなかった。イタリアの同盟国であるが、形式上はいまだに中立国であった日本にとって、このイタリア艦隊の来訪というのは、微妙な事態となった。何故かというと、第二次世界大戦の交戦国の艦船が日本の港に来た際に、これに補給などをすれば中立違反となってしまうからである。
バルサモ提督はこれを機に日本に参戦するよう要請したが、日本側はこれを拒否した。日本来航前に、英国側の目を欺くために仮装巡洋艦「ラムII」に関しては商船「カリテアII」と名称変更され、通報艦「エリトレア」は外交使節の船とされた。イタリア側は駐日イタリア大使であるマリオ・インデッリ大使(Mario Indelli)を通じて日本側にインド洋における2つの艦の作戦許可、つまりは天津に展開するイタリア極東艦隊への合流を要請したが、やはり日本政府はこれを拒否した。日本政府は中立国として振る舞うために、些細なことにも気を回していたが、これはイタリア側としては予想外の態度であり、困った事態となった。
バルサモ提督は、東京の駐日イタリア大使館の駐在武官として赴任することとなった。駐日イタリア大使館の駐在武官というと、他にはリッカルド・フェデリーチ空軍少尉(Riccardo Federici)が駐在していたことでも知られている。彼はムッソリーニ統帥の愛人として、後に共にパルチザンに殺害されたクラレッタ・ペタッチ(Claretta Petacci)の夫である。フェデリーチ少尉の家庭内暴力で二人の夫婦仲は険悪であったが、当時のイタリアの法律では離婚が出来なかったため、離れるために自ら東京への赴任を希望したらしい(おそらくは、裏でムッソリーニの圧力があったと思われる)。
さて、バルサモ提督の来日において、もう一つ重要なことがある。それは、バルサモ提督が紅海艦隊司令長官だった頃からの専属料理人、アントニオ・カンチェーミ(Antonio Cancemi)氏も来日したということである。彼は、「日本で初めて本格的なイタリア料理」を振る舞った人物として歴史に名を残している。一応、この頃の日本でもイタリア料理は食べられていた。しかし、それはおよそイタリア本国のものとは異なるアレンジ料理であり、それは他の西洋料理も同様であった。なお、パスタに関しては明治期にフランス人神父のマルコ・マリー・ド・ロ(Marc Marie de Rotz)氏が長崎の外海でパスタの製法を伝え、国産のパスタ生産が開始されており、九州を中心に普及、後に日本海軍の食事としても採用されていたという。
カンチェーミ氏はシチリア出身の料理人。国立料理学校を首席で卒業するほどの腕前で、ムッソリーニ専属のシェフ候補にも名が上がるほどの実力者だった(本人は辞退した)。そして、紅海艦隊司令長官のバルサモ提督専属のシェフ及び同艦隊の総料理長として、マッサワ軍港で勤務。後にバルサモ提督らと共に日本にやってきて、イタリア休戦で一時的に抑留された後、管理下に置かれながらも解放、そんな中1944年に神戸の外国人居留地で料理を振る舞い、それが戦後に彼が開いたイタリアンレストラン「アントニオ」の発祥となった。
つまり、彼は「日本で初めて本格的なイタリア料理を振る舞った人物」であり、更に「日本初のイタリアンレストラン」を開店した人物であった。それに加えて、イタリア製のエスプレッソマシンも導入したため、「日本で初めてエスプレッソを振る舞った人物」でもある。彼は戦後も祖国に帰らず日本に留まり、両国関係の親善に貢献した。現在、レストラン「アントニオ」は南青山に移転しているが、お店はカンチェーミ氏の孫であるアントニオ・ブルーノ・カンチェーミ氏(Antonio Bruno Cancemi)が切り盛りしている。1944年から続く拘りのメニューもあり、雰囲気も良いお店でおススメだ。気になる人は是非。
この時期に両国関係で進展したのは料理分野だけではない。東京にあるイタリア文化会館が開設されたのもこの時期である。1939年に三井財閥の三井高陽男爵がイタリア政府に九段下の土地を寄贈し、1941年3月に初代館長となったミルコ・アルデマンニ(Mirco Ardemanni)氏のもとで落成式典が行われた。なお、現在の文化会館は老朽化によって建て替えられたもので、イタリア人建築家のガエ・アウレンティ(Gae Aulenti)氏の設計によって2005年に落成した。イタリアらしいスタイリッシュなデザインになっており、ホールや教室の名前にはイタリアの文化的な著名人の名前(プッチーニやアニェッリなど)が付いており、イタリア好きな人ならば訪れて損はないだろう。
靖国神社や皇居のすぐ近くの好立地と考えると、当時同盟関係であったイタリアとの関係を重視していたことがよくわかる。インデッリ駐日大使らも積極的に協力して両国文化交流に貢献したが、東京大空襲で被害を受けた後、イタリア休戦を受けて同会館は戦後まで閉鎖された(休戦後に日本はイタリア社会共和国(RSI政権)を正式なイタリア政府として承認し、形式的にはイタリアは同盟国のままであるが、日本側による扱いはさほど変わらず同会館は活動を止められている)。
◇極東艦隊の発展
さて、話がだいぶ反れてしまったが、海軍関係の話に戻るとしよう。1941年12月に日本が正式に枢軸国側で参戦したため、遂に重い腰をあげた日本政府はバルサモ提督の要請を受け入れ、通報艦「エリトレア」及び仮装巡洋艦「カリテアII(元ラムII)」の作戦行動を許可した。こうして、この2隻は正式に天津を母港とするイタリア極東艦隊の一員となったのであった。バルサモ提督は東京駐在の武官として勤務を継続したため、「エリトレア」艦長のイアンヌッチ中佐が極東艦隊の指揮を執ることとなった。極東艦隊は主に元々の母港である天津、それに共同租界が存在する上海、そして神戸、更に日本軍支配下となっていた太平洋方面の島嶼部の基地を拠点として活動した。
第二次世界大戦も終盤となった1943年3月頃になると、イタリア海軍は物資や人員、兵器の青写真の移送のために遣日潜水艦作戦を発動する(これに加え、イタリアは空軍航空機によるローマ-東京間の連絡便を1942年6月~7月に実行した)。これにより、3隻の潜水艦(「ルイージ・トレッリ」「レジナルド・ジュリアーニ」及び「コマンダンテ・カッペリーニ」)が日本にやってきた。こうして、極東艦隊は休戦までに以下の7隻となった。
◆砲艦「エルマンノ・カルロット」(元々天津に所属)
◆通報艦「エリトレア」(紅海艦隊より合流)
◆仮装巡洋艦「カリテアII」(紅海艦隊より合流)
◆潜水艦「ルイージ・トレッリ」(遣日潜水艦作戦)
◆潜水艦「レジナルド・ジュリアーニ」(遣日潜水艦作戦)
2隻のみの状態から7隻にまで増えていた。これは快挙である。「エリトレア」や「カリテアII」は潜水艦への補給任務や物資の輸送任務に従事した。
◇イタリア休戦と抑留、受難の日々と解放
しかし、1943年9月8日に極東におけるイタリアの状況は一変した。イタリア王国政府の休戦である。1943年7月26日にムッソリーニ統帥が王党派のクーデターで失脚した後、成立した開戦時の参謀総長ピエトロ・バドリオ元帥(Pietro Badoglio)率いる新政権は、表面上は枢軸国として戦闘を継続しているものの、裏では連合国側と講和交渉をしていた。それによって、9月8日に休戦宣言がなされた。
極東イタリア軍の本部であったエルマンノ・カルロット要塞は日本軍に包囲され、小規模な戦闘の後に、後に成立するイタリア社会共和国(RSI政権)側へ忠誠を誓わなかったイタリア人は強制収容所送りとなった。イタリア租界は南京の中華民国国民政府(所謂汪兆銘政権)によって併合され、RSI政権もそれを認めた。後に1947年のパリ講和条約でイタリアは正式に天津のイタリア租界を放棄、中国に復帰することになる。RSI側に忠誠を誓ったイタリア軍人は日本海軍やドイツ海軍に協力することを「許可」された。
日本及び日本占領下の地域では、イタリア人は「敵性外国人」として抑留されていった。しかし、彼らがRSI政権に忠誠を拒否して「裏切り者」のバドリオ政府に味方をした「敵性外国人」であったというのは疑わしい事実であった。既に「イタリア人は裏切り者」というムードが高まっていた日本において、RSI政権に忠誠を誓ったからといってイタリア人が信頼を得られたわけではない。軍人や外交官ならまだしも、民間人であればなおさらである。
実際、伊日の経済協定締結に尽力したイタリア商務参事官のローモロ・アンジェローネ氏(Romolo Angelone)はムッソリーニ統帥に忠誠を誓う熱烈なファシスト党員であったが抑留されており、彼は収容所から不当の抑留について抗議している。京大でイタリア語講師を務めていたフォスコ・マライーニ氏(Fosco Maraini)は収容所の悲惨な環境に抗議し、自らの小指を斧で切断し看守に見せつけた。このエピソードはよく知られている。収容所のイタリア人らには、生命を維持する最低限度の食糧しか与えられず、その食糧すらも抑留者を管理する警察官によって横領されていた。栄養失調で痩せ衰えたイタリア人たちは外部からの差し入れなどによって飢餓と戦っていたのである。
インデッリ駐日大使や駐在武官のバルサモ提督やフェデリーチ少尉のような東京の駐日イタリア大使館に勤務していた人々も逮捕された。RSI政権側に付くか、王国政府側に付くか、という所謂「宣誓式」が行われたが、殆どの大使館職員は王国政府側に宣誓したとされる。これはバルサモ提督もそうで、そのため日本当局に逮捕された。しかし、全員のイタリア人がずっと抑留され続けたわけではないようで、カンチェーミ氏のように一時的な抑留の後に解放され、神戸の外国人居住地での労働が許された人もいた(おそらく、当局に"無害"とされた外国人に対してだろう)。
休戦発表時に船団護衛中であった通報艦「エリトレア」に関してだが、艦長のイアンヌッチ中佐は本国の海軍参謀長ラッファエーレ・ド・クールタン(Raffaele De Courten)提督からの指令に従い(「イタリア艦艇は連合国、もしくは中立国の港で武装解除を受ける。到達が不可能な場合は自沈せよ」)、日本海軍の追撃を振り切ってセイロンで英海軍に武装解除を受けた。仮装巡洋艦「カリテアII」は神戸港で自沈、機雷敷設艦「レパント」及び「エルマンノ・カルロット」は上海港で自沈した。しかし、本国の命令を忠実に従ったイタリア人に対して日本人は激しく怒り、苛酷な扱いをしたのは言うまでもない。港湾内で自沈された「カリテアII」、「レパント」及び「エルマンノ・カルロット」は日本軍によって浮揚・修復され、「カリテアII」は「生田川丸」、「レパント」は「興津」、「エルマンノ・カルロット」は「鳴海」として日本海軍で再就役を果たした。「生田川丸」は1945年に米軍の空爆で撃沈するが、「興津」と「鳴海」は終戦まで生き残り、中国海軍に接収された。
潜水艦「トレッリ」「カッペリーニ」「ジュリアーニ」の三隻は、ドイツ海軍に拿捕され、RSI海軍に忠誠を誓ったイタリア人乗員とドイツ人乗員の混合で運営された。なお、RSI政権とドイツが降伏した後は「トレッリ(UIT25)」「カッペリーニ(UIT24)」は日本海軍に接収されて、「伊504」「伊503」として就任している。なお、「ジュリアーニ(UIT23)」は英海軍に1944年に撃沈され、戦没している。
バルサモ提督は日本にいたイタリア人らの中でも重要人物(高位の海軍将官)であったため、日本当局によって抑留が続けられていた。結局、彼が解放されるのは日本が連合国に降伏し、アメリカ軍の進駐によって1945年9月に解放された。そしてしばらく日本で過ごした後、1946年2月に帰国の許可が下りてイタリアに帰ったのであった。帰国後、1947年に海軍中将に昇進したバルサモ提督は、1948年から故郷ターラントの海軍軍事部長に任命された後、1951年に予備役となった。そして、1960年5月22日に、その波乱の生涯を終えたのであった。
第二次世界大戦時の日本とイタリアの関係は、休戦後に受難の時期があったとはいえ、文化的にも非常に交流が進んだ時期であった。本格的なイタリア料理の伝来や、イタリア文化会館の創設など、現在の日本における「イタリアンブーム」のルーツはこの時期にあるとも言えるだろう。そのブームの火付け役として、東アフリカから戦火を逃れてやってきた一人の海軍提督がかかわっていた、というのは非常に興味深い。