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「電気髭(barba elettrica)」アンニーバレ・ベルゴンツォーリ将軍 ―スエズを目指したスペイン戦役の名将―

エジプトへの一連の侵攻作戦は、イタリア軍にとって大敗に終わった。しかし、エジプト侵攻を指揮した将軍たちが無能だったわけではない。彼らは、スペイン内戦での指揮で活躍した手練れの将軍たちであった。結局、彼らの敗北は「戦争準備が整っていないのに無理な参戦をした」ファシスト政権の判断によるものである。とはいえ、エジプト侵攻自体はドイツの要請によるものであるが....

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アンニーバレ・ベルゴンツォーリ(Annibale Bergonzoli)

そのエジプト侵攻に参加した将軍の中に、その特徴的な顎鬚から「電気髭(barba elettrica, バルバ・エレットリカ)」と呼ばれた将軍がいた。彼の名前はアンニーバレ・ベルゴンツォーリ(Annibale Bergonzoli)。スペイン内戦では初期から終盤までスペインでCTV部隊(イタリア義勇兵部隊)の第四師団「リットーリオ」を指揮した将軍で、フランコ将軍率いる国粋派の勝利に多大な貢献をした、スペイン内戦時のイタリアの将軍を代表する人物である(その活躍から、イタリア最高位の勲章である金勲章(メダリア・ドロ)を叙勲されている)。逆に、共和国側からは評価されつつも憎まれ、彼の首に50万ペセタもの懸賞金がかけられた。彼はその後、スペインから帰国した直後に北アフリカに向かうことになり、そのまま第二次世界大戦に突入することとなった。

グラツィアーニ元帥の指揮の元でエジプトへの侵攻が開始されると、第23軍団の司令官として参加。ひとまずシディ・バッラーニまでの進撃を完了させたが、その後の英軍の反攻作戦によって追い詰められ、ベルゴンツォーリはバルディア守備隊を指揮して劣勢の中で決死の抵抗をしたのち、ベダ・フォムにて捕虜として捕らえられてしまった。捕虜となった後、インドの捕虜収容所に送られ、アメリカ参戦後は最終的にテキサスの捕虜収容所に収監された。イタリア休戦後は、連合軍側による協力要請を拒否したために、精神病棟に押し込められてしまった。更に、バドリオ政権は彼をファシストであると思っていたために非常に嫌っており、米軍による不当な扱いも容認したのであった。

今回は、そんな運命に翻弄されたベルゴンツォーリ将軍について調べてみよう。

 

◆「電気髭」と呼ばれた将軍

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アンニーバレ・ベルゴンツォーリ(Annibale Bergonzoli)

アンニーバレ・ベルゴンツォーリ(Annibale Bergonzoli)は、1884年11月1日北イタリア・ピエモンテ州マッジョーレ湖畔の町、カンノービオ(Cannobio)に、父ポンペオ・ベルゴンツォーリ(Pompeo Bergonzoli)と母フランチェスカブランカ(Francesca Branca)の間に生まれた。名前のアンニーバレ(Annibale)は、古代ローマに仇をなしたカルタゴの英雄、ハンニバルのイタリア語読みである。後に、彼が仕えることになるファシスト政権が、「古代ローマの復活」を謳ったことを考えると、非常に興味深い名前だ。出身地であるカンノービオは隣国スイスのイタリア語圏にほど近い国境の町で、19世紀以降は民需工場が多く建てられ、工業都市としても機能した町であった。

ベルゴンツォーリ少年は幼い頃から逞しい子どもで、7歳の頃にはマッジョーレ湖を泳いで渡るという並外れた偉業を成し遂げている。王党派が多く、高級軍人を数多く輩出していたピエモンテ州の人間らしく、高校卒業後はモデナの陸軍士官学校に入学し、高級軍人への道を目指した。1906年、ベルゴンツォーリは少尉に昇進し、第53歩兵連隊に配属となった。彼の初陣はオスマン帝国軍とのリビアを巡る戦争(伊土戦争)であり、第7歩兵連隊を率いたが、敵の激しい放火の中で大胆な偵察を成功させ、その武勲を表彰されている

第一次世界大戦では前線指揮官として優れた武勲を見せた。まず、最前線でオーストリア軍と戦い、その武勲から銀勲章を叙勲され、英軍からも武功十字章を叙勲された。更にマケドニア戦線に転戦してブルガリア軍と交戦、銅勲章を叙勲。アルマンド・ディアズ(Armando Diaz)将軍の命により帰国した彼は、ピアーヴェ川の戦いで工兵部隊を率いて活躍したが、敵の攻撃で重傷を負った。このため、二度目の銀勲章と戦功十字章を叙勲されている。最終的に、終戦までに中佐にまで昇進した。

第一次世界大戦後、怪我が治った後、リビアの反伊ゲリラ駆逐のため、トリポリタニアに派遣される。しかし、一時的にアラブ人勢力との停戦が成立したため、1919年には帰国して第25師団の参謀長に任命された。

 

エチオピア戦争と「電気髭」

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エチオピア戦争の地図。デ・ボーノ(後にバドリオ)が指揮する北部戦線はエリトリアから、グラツィアーニが指揮する南部戦線はソマリアからエチオピアに侵攻した。ベルゴンツォーリは南部戦線で指揮している。

ベルゴンツォーリはファシスト政権成立後、軍拡を続けるイタリア陸軍の中で地位を確立していった。第一次世界大戦で優れた前線指揮官として武勲を挙げたベルゴンツォーリは上官だけでなく、部下からも高く評価されている自ら最前線に立ち、兵士たちを鼓舞する姿を慕う部下たちは多かった。それに、彼の特徴的な「顎髭」は、彼のチャームポイントとなり、部下から「電気髭(barba elettrica)」と呼ばれ親しまれ、それが彼の愛称になったのである。

1935年、ムッソリーニエチオピア帝国との戦争を宣言し、エチオピアへの侵攻を開始した。この時、ベルゴンツォーリは陸軍准将であり、第二快速旅団「エマヌエーレ・フィリベルト・テスタ・ディ・フェッロ」の旅団長としてソマリアに派遣された。彼と、彼の旅団はロドルフォ・グラツィアーニ(Rodolfo Graziani)元帥率いる南部方面軍に配属となり、ラス・デスタ・ダムタウ(Destà Damtù)将軍率いるエチオピア帝国軍と対峙することになった。

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南部戦線のエチオピア帝国軍指揮官。ラス・デスタ・ダムタウ(Destà Damtù, ደስታ ዳምጠው)将軍(左)と、デジャズマッチ・ナシブ・ザマヌエル(Nasibù Zamanuel, ነሲቡ ዘአማኑኤል)将軍(右)。優れた指揮で防衛線を構築し、イタリア軍部隊を苦しめた。

エチオピア帝国軍側の将軍、デジャズマッチ・ナシブ・ザマヌエル(Nasibù Zamanuel, ነሲቡ ዘአማኑኤል)将軍は、トルコ人義勇兵ワヒブ・パシャ(Wahib Pascià)を参謀長として重用し、オガデン地方に防衛線「ヒンデンブルク防壁」を構築する事でイタリア軍の攻撃を効率的に防いでいた。これに対して、イタリア軍側は空軍が支援の航空爆撃を実行してエチオピア地上部隊を攻撃、混乱した敵軍に対して攻勢を実行した(ガナーレ・ドーリアの戦い)。

ベルゴンツォーリは自ら最前線に立って部隊を指揮し、帝国軍の拠点となっていたネゲッリ市を陥落させることに成功している。だが、将官でありながら最前線で戦い続けたために、敵弾に当たって重傷を負ってしまったため、治療のためイタリアに帰国することになった。エチオピア戦線での活躍から、ベルゴンツォーリはサヴォイア軍事勲章及びイタリア王冠勲章を叙勲されている。

 

◆スペインでの武功

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部下と共に移るベルゴンツォーリ。スペイン内戦で戦局に大きく貢献した名将は、その勇敢さから部下からの信頼も厚く、人望があった。

ベルゴンツォーリがイタリアで入院中に、1936年7月にエミーリオ・モラ(Emilio Mola)将軍を筆頭とする軍部の一派がスペイン植民地のモロッコで叛乱を起こし、これに呼応したフランシスコ・フランコ(Francisco Franco)将軍が叛乱軍の主導権を握り、それが引き金となってスペインで内乱が勃発した。これを受けて、イタリアはナショナリスト叛乱軍側に支援を開始し、義勇軍としてCTV部隊を編制、マリオ・ロアッタ(Mario Roatta)将軍を総司令官としてスペインに派遣した。

ベルゴンツォーリはこのCTV部隊の一員として編成された「リットーリオ」師団の師団長に任命された。同師団は3個歩兵連隊と1個砲兵連隊によって構成されており、大部分がMVSN(黒シャツ隊、ファシスト党民兵組織)で構成されていたCTV部隊であったが、「リットーリオ」師団は全て陸軍の義勇兵によって構成されていた。正規軍の将兵によって構成された同師団はMVSNの部隊よりも士気・練度共に高く、頼もしい戦力となったのである。

1937年2月より同師団はスペインでの行動を開始する。3月のグアダラハラの戦いに参加するが、ベルゴンツォーリ率いる「リットーリオ」師団の奮戦にもかかわらず、CTV部隊は大敗してしまった。「グアダラハラの大敗」は先例のない悪天候や、共和国軍の予想以上の健闘など、いくつもの悪運が重なったと言っていいだろう。更に、フランコによる「意図的な背信行為」も、大敗の大きな原因にあげられる。

そもそも、このグアダラハラの戦いは、苦境に陥ったフランコ側がイタリア軍に陽動を懇願してなされたものであった。だが、フランコは「グアダラハラ作戦」の同時実施についてロアッタ将軍と合意していたにもかかわらず、結局フランコはその合意を反故として、同時攻撃も援護もせず、イタリア軍側の救援要請も無視し、挙句イタリア軍が総崩れになったところでようやく戦線に兵を送った。更にファシスト政権に都合が悪かったのは、この戦いにおいてスペイン共和国側の勝利を演出したのは、国際旅団のイタリア人義勇兵部隊「ガリバルディ大隊」だったからである。つまりは、「反ファシストのイタリア人が、ファシストのイタリア人に勝った」と宣伝材料になってしまった。

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エットレ・バスティコ(Ettore Bastico)将軍。ロアッタ将軍の後任としてCTV部隊の司令官に就任し、優れた手腕で立て直しに尽力した。彼の手腕によってイタリア軍は打撃から立て直し、以後ナショナリスト叛乱軍側の主力として機能し、内戦の終結に向けて大きな貢献をした。

この大敗とフランコ側の行動を受けて、ムッソリーニは激怒し、フランコに利用されていることに気が付いたが、今更国粋派への支援を撤回するわけにもいかず、その大敗の責任を取る形でロアッタ将軍はCTV部隊の指揮官から解任された。新たな指揮官として白羽の矢が立ったのが、エットレ・バスティコ中将(Ettore Bastico)だった。バスティコは速やかにグアダラハラの大敗で大きな打撃を受けたCTV部隊の再編制を行い、立て直しを図った。ここでの手腕は高く評価され、バスティコのもとで上手く立て直したCTV部隊は国粋派の勝利に貢献していき、一度は地に落ちたフランコ側のイタリア軍への信頼も、ビルバオ攻略戦などにおける戦果によって再び取り戻していったのである。

新司令官バスティコ将軍のもとでベルゴンツォーリはサンタンデールの戦いに参加、「リットーリオ」師団を率いてその勝利に大きな貢献をした。「リットーリオ」師団は粘り強い攻撃で共和国軍の防衛戦を突破し、敵拠点であったサンタンデール市を陥落させることに成功したのである。このサンタンデールの勝利は共和国側に大きな打撃を与え、国粋派の勝利に大きく貢献することとなった。この時の武勲により、ベルゴンツォーリはイタリア軍最高位勲章である金勲章を叙勲されている

サンタンデール制圧後、共和国政府側についていたバスク自治政府の要人たちはサントーニャ港とラレドの町に集結し、バスティコ率いるイタリア軍に降伏した。これに対して、バスティコはバスク側との降伏協定に基づき、バスクの政治家など難民多数を英国船籍の貨客船に収容、国外への移送を認めた。しかし、フランコ率いる国粋派の軍艦が入港し、難民らに下船命令を出し、更にフランコがイタリア側に強硬にバスク難民の引き渡しを要求した。国粋派側は先の降伏協定を尊重すると約束したために、バスティコは仕方なく要求に応じて難民を国粋派側に引き渡したが、フランコは略式裁判で数百人の引き渡されたバスク難民を処刑したのである。

これに対し、バスティコは激怒してフランコに対して激しく抗議、イタリアの名誉にかかわると非難したが、フランコは真面目に取り合わずにムッソリーニに対してバスティコの更迭を要求。ムッソリーニフランコの行動に対して怒ったが、これに応ずるほかはなく、結局バスティコはCTV部隊の司令官を解かれ、後任のマリオ・ベルティ(Mario Berti)将軍に任せ、イタリアに帰国することとなったのである。フランコ側のこの行動は長い間バスクの人々に抜きがたい怨恨と不信感を植え付けることとなった。

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スペイン内戦終盤。中央がベルゴンツォーリ将軍、右でたばこを咥えた人物がガンバラ将軍である。

続いて司令官となったベルティ将軍のもとでベルゴンツォーリはアラゴンでの大攻勢に参加する。ベルティ将軍の後任として新たな司令官となったガストーネ・ガンバラ(Gastone Gambara)将軍のもとでカタルーニャ攻勢にベルゴンツォーリは参加し、共和派の首都であったバルセロナ(バルチェロナ)の陥落に大きな貢献をして、イタリア軍義勇兵を快く思っていなかったフランコもベルゴンツォーリを高く評価し、スペイン最高峰の軍事勲章であるサン・フェルディナンド軍事勲章をベルゴンツォーリに叙勲したベルゴンツォーリは実に21カ月の間スペインの前線で指揮をし続け、スペイン内戦の終結に大きな貢献をしたのであった。なお、スペイン内戦中、ベルゴンツォーリの「敵としての名声」は共和国政府側も認識しており、彼の首には50万ペセタもの懸賞金が掛けられていたという。まさしく、敵にも認められた名将と言えるだろう

 

スエズを目指して

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リビア総督イタロ・バルボ(Italo Balbo)空軍元帥。第二次世界大戦開戦時の北アフリカ戦線総司令官であったが、6月末にトブルク上空にて誤射を受けて戦死した。

1939年4月にスペインの戦地から帰還したベルゴンツォーリであったが、休む暇もなく第二次世界大戦に欧州は突入した。情勢の急速な変化を受けて、10月にはリビアに派遣され、新編成された第23軍団の司令官に任命された。第23軍団はトリポリ近郊の町で古代ローマの遺跡「レプティス・マグナ」があることで知られるオムス(フムス)に駐屯し、MVSNの第一黒シャツ師団「3月23日」(戦闘者ファッシの設立日(1919年3月23日)に由来)と第二黒シャツ師団「10月28日」(ローマ進軍(1922年10月28日)に由来)を含む45,000人の将兵によって構成されていた。

1940年6月10日にイタリアは英仏に宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦する。6月24日にはヴィッラ・インチーサ休戦協定が調印され、イタリアとフランスが休戦する。こうしてフランスが戦争から脱落すると、イタリアは北アフリカの全軍を英軍支配下となっているエジプト国境に張り付けることが可能となり、ベルゴンツォーリ率いる第23軍団もエジプト方面に移動したムッソリーニはエジプトへの侵攻を命令したが、6月28日にはリビア総督であったイタロ・バルボ(Italo Balbo)空軍元帥が味方からの誤射によって撃墜され、戦死してしまう事態となってしまった。

戦死したバルボの後任として、陸軍参謀長のロドルフォ・グラツィアーニ元帥がリビア総督を兼任した。グラツィアーニは準備不足からエジプト侵攻の延期を要請したが、ムッソリーニはあくまで侵攻を強行した。ムッソリーニとしては、ドイツ軍による英本土攻撃が始まらんとしているため、準備不足だろうがイタリア軍としては戦果を挙げて戦後の交渉を有利に進めようと思っていたのであるが、現実は厳しかった。

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レダ Ba.65攻撃機。ブレダ社が開発・生産した対地攻撃機である「マルチロール機(多用途機)」。武装は7.7mm機銃×2及び12.7mm機銃×2で、偵察機タイプの複座型はこれに加えて更に12.7mm機銃1挺が追加で装備されていた。爆弾の搭載量は最大で1000kg。スペイン内戦で戦局に大きく貢献した機体で、操縦性の劣悪さと機体の貧弱さという欠点を持っていたが、十分すぎる攻撃力を持ち、北アフリカ戦線においても英軍機甲部隊相手に善戦した。

仕方なく9月7日にグラツィアーニはエジプトへの侵攻命令を出した。この作戦にはベルゴンツォーリ率いる第23軍団を含め、第21軍団、第28軍団及び自動車化集団が加わり、空軍部隊が陸軍部隊を援護するとともに、敵空軍基地及び兵站施設、敵司令部爆撃任務を帯びた。空軍の戦闘爆撃機であるBa.88"リンチェ"は役に立たなかったが、対地攻撃機のBa.65"ニッビオ"は英軍地上部隊への攻撃で大きな戦果を挙げ、特にアドリアーノヴィスコンティ(Adriano Visconti)少尉は英国機甲部隊のマチルダII歩兵戦車を多数撃破する戦果を挙げている。Ba.65は操縦性の劣悪さと致命的な防御力の低さが目立ったが、武装は強力過ぎるほどであり、戦車部隊への攻撃で大きな戦果を挙げたのである。

ベルゴンツォーリ率いる第23軍団はスペイン内戦でも上官だったベルティ将軍率いる第10軍の隷下に置かれ、進軍を開始した。形式上は独立国であったが、英軍の支配下に置かれていたエジプト王国の首相ハサン・サブリー・パシャ(Hassan Sabry Pasha)イタリア軍のエジプトへの侵攻を受けてイタリアと断交(ただし、宣戦布告はせず、宣戦布告をしたのは大戦末期)している。アーチボルド・ウェーベル(Archibald Wavell)将軍率いる北アフリカの英軍部隊は準備は整っておらず、特に空軍は戦力が不足しており、エジプト侵攻における制空権は完全にイタリア側が掌握していた

 

エジプト侵攻時のベルゴンツォーリ率いる第23軍団の構成は以下の通り。

◆第62歩兵師団「マルマリカ」→戦車大隊を保有

:師団長ルッジェーロ・トラッキャ将軍(Ruggero Tracchia)

◆第63歩兵師団「チレーネ」→戦車大隊を保有

:師団長カルロ・スパトッコ将軍(Carlo Spatocco)アレッサンドロ・デ・グイーディ将軍(Alessandro de Guidi, 1940年9月23日~)

◆第一黒シャツ師団「3月23日」(MVSN)

:師団長フランチェスコ・アントネッリ将軍(Francesco Antonelli)

◆サハラ機械化集団

:司令官ピエトロ・マレッティ将軍(Pietro Maletti)

リビア師団集団(第一リビア師団及び第二リビア師団で構成)

:司令官バスティアーノ・ガッリーナ将軍(Sebastiano Gallina)

◇第一リビア師団

:師団長ルイージ・シビッレ将軍(Luigi Sibille)

◇第二リビア師団→戦車大隊を保有

:師団長アルマンドペスカトーレ将軍(Armando Pescatore)

 

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イタリア陸軍の「主力戦車」であったCV33豆戦車。武装が8mm機銃2丁という貧弱さから、戦車としての戦力は期待できなかった。一部、対戦車型として20mm対戦車ライフルを装備した車輛も存在した。

所属していた第二黒シャツ師団「10月28日」はトブルク司令部の防衛に回されて第23軍団から第21軍団に移っている。なお、第23軍団に所属する歩兵師団はCV35及びCV33豆戦車を主武装とする戦車大隊を保有していた他、11/39中戦車を主武装とする機甲部隊をマレッティ将軍率いる機械化集団が指揮していた

ベルゴンツォーリ率いる第23軍団はエジプト侵攻で前衛部隊として進撃を開始リチャード・オコンナー(Richard O'Connor)将軍率いる英国西方砂漠軍への攻撃を行った。9月13日、第23軍団に属する第一黒シャツ師団「3月23日」が英軍に奪われていた国境要塞のカプッツォ要塞を奪還し、エジプト国境を越えて前進を行う。英空軍の基地が置かれていたサルームへの攻撃を行い、15日には第一リビア師団が同拠点を制圧英軍側は戦車・装甲車合わせて50輌の損害を受けた。英軍は撤退時に軍需基地に火を放って焦土作戦を行ったが、撤退する英軍に対して伊空軍部隊は対地攻撃を行っている。

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シディ・バッラーニに進軍するFiat-SPA AS37で自動車化された部隊。

ベルゴンツォーリはサルーム制圧後も進撃を続けたが、マレッティ将軍率いる機械化集団の進撃は英軍砲兵部隊の攻撃によって阻まれてしまった。激闘の末、第一黒シャツ師団「3月23日」は9月16日夜間に国境から約100kmの距離の拠点シディ・バッラーニを占領することに成功し、イタリア軍はシディ・バッラーニを拠点として一旦進軍を停止し、兵站強化に勤しむこととなった。

エジプト侵攻におけるこれらの勝利は機甲部隊による戦果ではなく、ベルゴンツォーリ率いる第23軍団に属するリビア師団と黒シャツ師団の奮闘によるものであった。第23軍団は一日に20km前進することに成功し、英軍がイタリア軍側の予想に反していち早く退却したことによって、イタリア軍側は順調に進軍し、沿岸部を一気に短期間で制圧することが出来た。「砂漠という本来奇襲攻撃を想定しえない戦場において、わが軍はその実行に成功した」とグラツィアーニ元帥は評価している。

 

◆シディ・バッラーニ防衛戦

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北アフリカ戦線を指揮したロドルフォ・グラツィアーニ(Rodolfo Graziani)元帥。「砂漠のナポレオン」と呼ばれた将軍で、リビア平定やエチオピア帝国征服で活躍し、当時のイタリアでは既に英雄として有名だった。第二次世界大戦時のイタリア陸軍参謀長であったが、バルボ戦死後にリビア総督に就任し、北アフリカ戦線を指揮することとなった。

イタリア軍によるエジプト侵攻は成功したが、英軍は撤退時に焦土作戦を徹底的に行って、兵舎や水利施設、軍需倉庫などを破壊していたため、イタリア軍としては兵站を整えることが急務になった。そのため、グラツィアーニ元帥は進軍を停止した。シディ・バッラーニを前線基地として、まずは輸送強化のためにリビアのヴィア・バルビアから続く、ヴィア・デッラ・ヴィットーリア(勝利通り)の建設を勤しみ、また軍需物資の供給約束が果たされていないことに対して司令部に抗議した。また、砂漠という過酷な環境で将兵は疲弊しており、再編の必要があるとした。

バドリオ参謀総長はグラツィアーニの意見をインフラ、水、輸送手段、燃料の不足の観点からやむを得ないと判断したが、ムッソリーニとしてはエジプト制圧の遅延からグラツィアーニとバドリオに対して激しく憤りを感じていた。ムッソリーニはグラツィアーニをローマに召還してマルサ・マトルーフへの攻撃再開を協議したが、バドリオもその案には賛成せず、結局イタリア軍の進軍はシディ・バッラーニでストップした。しかし、イタリア軍兵站を整えている間に、英軍はその陰で反撃の準備を進めていた

10月28日にはムッソリーニギリシャに宣戦布告し、ギリシャ戦線が開幕した。だが、当初の計画では順調に制圧出来るはずであったが、ギリシャ戦線を指揮したプラスカ(Sebastiano Visconti Prasca)将軍ギリシャ軍を侮った結果、予想以上の反撃を被り、戦線は膠着状態となってしまった。一方で、海軍方面においても、英海軍雷撃機によるターラント港への奇襲攻撃が行われ、イタリア海軍の主力戦艦3隻(「コンテ・ディ・カヴール」「カイオ・ドゥイリオ」「リットーリオ」)が大きな被害を被り、行動不能に追い込まれた。この結果、イタリア軍ギリシャ方面への支援のために、北アフリカ戦線用の物資を送る羽目になった挙句、その貴重な北アフリカ戦線への物資も、伊艦隊が大きな被害を被ったことで地中海の制海権が英国側に移り、輸送船団への攻撃が活発化する事態となってしまった。

バドリオ参謀総長ギリシャ戦線の泥沼化の責任を取らされて辞任に追い込まれ、新たな参謀総長にはウーゴ・カヴァッレーロ将軍(Ugo Cavallero)が就任した。プラスカの更迭後にギリシャ戦線を指揮することになったウバルド・ソッドゥ(Ubaldo Soddu)将軍は泥沼化した戦線の立て直しを余儀なくされ、プラスカの尻拭いを任された。海軍においても海軍参謀長ドメニコ・カヴァニャーリ提督(Domenico Cavagnari)が更迭され、新たな海軍参謀長にアルトゥーロ・リッカルディ提督(Arturo Riccardi)が就任した。

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エチオピア戦争でも活躍した第一黒シャツ師団「3月23日」。ファシスト党民兵組織であるMVSN(黒シャツ隊)の兵員から構成された師団で、エジプト侵攻において前衛として活躍、シディ・バッラーニ戦で最初に市内に突入したのはこの師団である。

ギリシャ戦の泥沼化と伊艦隊の消極化は北アフリカ戦線の状況を英国側に有利にすることとなったムッソリーニはグラツィアーニに対してシディ・バッラーニでの停止がイタリアではなく英国側に得をさせたと難癖をつけたが、グラツィアーニとしてはただでさえ必要な物資がギリシャ戦線に吸い取られて装備が不足している中で、当然準備など整うはずもなく、進軍は不可能であると反論した。この間、ベルゴンツォーリ率いる第23軍団は前衛ではなくシディ・バッラーニ西方の後方に配備され、再編成された。これによって、第23軍団は1940年12月の段階で第一黒シャツ師団「3月23日」、第二黒シャツ師団「10月28日」、第62歩兵師団「マルマリカ」で編成されていた。

ムッソリーニとグラツィアーニの協議の結果、再侵攻開始は12月に決定され、それまでの間が準備期間とされた。しかし、グラツィアーニが必要とした物資はギリシャ戦線に流れて思うように北アフリカ戦線のイタリア軍の準備は進まなかった一方で、ギリシャ戦線の泥沼化を見てウェーベル将軍率いる英軍は、北アフリカイタリア軍がウィークポイントであると見抜き、反撃の準備を進めていたイタリア軍はサルームとシディ・バッラーニとの間に防衛陣地を配置したが、その陣地の間に無防備地帯があることに英空軍の偵察機が発見し、ウェーベル将軍は12月8日の夜間から9日にかけてこの無防備地帯の攻撃を決定した

イタリア軍部隊は攻撃の前夜に英軍機甲部隊の移動を察知し、直ちに警戒態勢に入ったが、英軍は陸海空全軍を動員した大反攻作戦「コンパス」を発動し、一気に反撃を開始した。英軍の奇襲は完全に成功し、これを受けてシディ・バッラーニのイタリア軍部隊は壊滅、前衛であったマレッティ将軍率いる機械化部隊は全滅(マレッティ将軍も戦死)し、同じく前衛を務めていた第二リビア師団も壊滅する事態となった。ベルゴンツォーリ率いる第23軍団は英軍の攻撃に対して抵抗したが、装備が不足する第23軍団は大きな損害を被り、撤退を余儀なくされたのである。

撤退したベルゴンツォーリ率いる第23軍団はハルファヤの防衛に当たっていた。グラツィアーニはムッソリーニに対して今まで軍需資材の増強を要求してきたのに対して、これが聞き入られなかったことに対する激しい抗議の電報を送った。グラツィアーニとしては以前から物資の増強を要請していたにもかかわらず、勝手に戦線を広げられた挙句、そちらを優先されたために北アフリカ戦線が手薄となり、英軍の攻撃を許してしまったのであるから怒るのは当然だと言えよう。

 

◆バルディア包囲戦

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クイーン・エリザベス級戦艦「ヴァリアント」。英海軍地中海艦隊の主力戦艦の1隻として活動し、姉妹艦と共にバルディア守備隊への艦砲射撃を実行した。後に1941年12月、伊潜水艦「シィレー」から発進した人間魚雷部隊によってアレクサンドリア港内にて攻撃を受け、撃沈された。

ベルゴンツォーリ率いる第23軍団は英軍の猛攻を受けてエジプトからの撤退を余儀なくされた。こうして、第23軍団は越えた国境を戻り、リビアの国境都市バルディアまで撤退した。ベルゴンツォーリはバルディアでの抵抗を組織し、地雷原や有刺鉄線、対戦車塹壕を設置して英軍の侵略に備えていた。バルディアの防壁は特に頑丈なものではなく、英軍側の攻撃によって容易に崩壊したためである。そのため、ベルゴンツォーリはこれらを駆使して少しでもバルディア防衛のために尽力した。

バルディア防衛に当たる第23軍団は以下の構成であった。

■北部方面防衛

◆第二黒シャツ師団「10月28日」

■中央方面防衛

◆第一黒シャツ師団「3月23日」

◆第62歩兵師団「マルマリカ」

■南部方面防衛

◆第63歩兵師団「チレーネ」

◆第62歩兵師団「マルマリカ」の一部

これらに加えて、ベルサリエーリ連隊、第64歩兵師団「カタンツァーロ」及び第60歩兵師団「サブラタ」の残存兵、騎兵連隊「ヴィットーリオ・エマヌエーレ」、国境警備隊(G.A.F.)が第23軍団の一員としてバルディア防衛に当たった。第23軍団は13輌のM13/40中戦車と115輌のCV35豆戦車(対戦車砲搭載型を含む)を保有していたが、防衛陣地の環境は劣悪で、食料と水が不足し、塹壕ではシラミと赤痢が蔓延していた包囲状態となったバルディアは飢えと渇き、昼は地獄のように暑く、夜は氷点下まで下がる苛酷な環境、そして不潔な衛生状態に襲われ、防衛するイタリア将兵の士気に大きな打撃を与える結果となってしまった。それに加え、英軍側は昼夜問わず常に激しい砲撃を行うのだからたまったものではない

12月末、英軍はバルディアへの激しい航空爆撃を実行した。この時点で、陸軍の後退と共に空軍部隊も機体を残して撤退を余儀なくされたため、戦力が不足して北アフリカ戦線の制空権は英国側に渡ってしまっていた戦力の不足は顕著であり、英軍側が約800機を擁していたのに対して、イタリア側は僅か130機程度であった。12月31日から翌年1月2日までにかけて計100回にもわたる航空爆撃がバルディアを襲っているヴィスコンティが駆るBa.65を始め、イタリア空軍部隊も奮戦して敵軍陣地や戦車部隊を激しく攻撃したが、防御性能に劣るBa.65は消耗率が激しかった

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バルディアに突入する英軍

更に、年が明けて1月3日、リビア沖に英国主力艦隊(戦艦「ウォースパイト」「ヴァリアント」「バーラム」)が展開し、艦砲射撃を実行更にモニターによる砲撃も行われ、戦闘が始まる時点までにバルディアの防衛陣地は甚大な被害を受けていたムッソリーニはベルゴンツォーリに対して「いかなる犠牲を払っても最後まで戦い抜くべし」と電報を送ったが、陣地がこの時点で壊滅状態となっていたバルディア守備隊の未来は既に見えていたと言える。

バルディア守備隊は果敢に抵抗したが、1月3日に英陸軍部隊(オーストラリア軍が中心)が遂にバルディアへの突入を開始する。こうして数日間に渡る激しい激戦が繰り広げられた後に、22日間にわたる激しい包囲戦の末にバルディアは陥落するに至ったのであった。こうして、英軍はバルディアを制圧するとともにリビアへの逆侵攻の地盤を固めたのである。このバルディア包囲戦の結果、約5,300人のイタリア兵が死傷し、約36,000人が捕虜となった。熱病に倒れたベルティ将軍に代わり第10軍司令官となったジュゼッペ・テッレラ(Giuseppe Tellera)将軍はバルディア戦線の崩壊を受けて、ベルゴンツォーリに撤退を許可し、ベルゴンツォーリを含む約1,000人は敵の包囲網を突破して徒歩による陸路もしくは脱出艇によって海路で脱出し、トブルクに撤退した。ベルゴンツォーリは約120kmの砂漠を徒歩で突破してトブルクに到達することに成功したが、既に長きに渡る包囲戦を経て彼は疲れ切っていた。

 

◆ベダ・フォムの崩壊

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「バビーニ」装甲旅団所属のM13/40中戦車。イタリア軍の貴重な装甲戦力として活躍したが、ベダ・フォムの戦いで英軍の十字砲火を受けて壊滅した。

しかし、英軍はイタリア軍の撤退すら許さず、続けて追撃を行った。バルディアの包囲戦で多大な損害を被ったイタリア軍は、もはやバルディアのような頑強な抵抗は不可能な状態に追い込まれてしまっていたのである。バルディア陥落後、1月9日には英軍は速やかにトブルク要塞を包囲下に置いた巡洋艦「サン・ジョルジョ」を含むイタリア軍部隊は最後まで抵抗したが、遂に1月22日にトブルクは完全に征服された。

トブルク陥落を受けてイタリア軍の命運は完全に決まった。グラツィアーニはアジェダビアへ後退する命令を出したが、機動力に勝る英軍によってその撤退戦は完全に封じられた。更に、英軍側は沿岸部のデルナではなく、内陸部の砂漠地帯を突破してキレナイカを横断し、トリポリタニア北東のシルテ方面への進軍を開始し、イタリア軍側はすぐにそれを察知したが、機動力に劣る伊軍はそれに上手く対応できなかった。内陸部のエル・メキリ要塞では英軍の侵攻をベルゴンツォーリ率いるイタリア軍部隊が首尾よく防衛し、ヴァレンティーノ・バビーニ(Valentino Babini)准将が殿を務め、イタリア軍の数少ない装甲戦力であった装甲旅団「バビーニ」が活躍して一時的に英軍の進撃は停止したが、グラツィアーニは敵兵力が実際より多いと誤った予測をしてベルゴンツォーリに撤退を命じ、イタリア軍残存兵力は撤退した。

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ジュゼッペ・テッレラ(Giuseppe Tellra)将軍。日本語では「テレーラ」と呼ばれることがあるが正しくはない。ベルティ将軍の後任として第10軍の司令官を務め、絶望的な状況ながら奮戦、最後は自ら戦車に乗って敵に突撃し、戦死を遂げた。その姿勢は英軍にも高く評価されている。

この結果、テッレラ将軍率いる第10軍は退路を断たれてベンガジ南方のベダ・フォムで完全な包囲下に置かれることとなる。ベルゴンツォーリ率いる第23軍団もこのベダ・フォムで包囲下に置かれたのであった。海上には英艦隊が展開し、ベダ・フォムのイタリア軍部隊は海上からの撤退も不可能な状態に追い込まれ、絶体絶命の状況に陥っていたベルゴンツォーリは撤退を強行するため、最後の望みをかけてヴィア・バルビアを通ってトリポリタニアへの突破を決めた。しかし、既にヴィア・バルビアに沿って英軍機甲部隊が展開しており、撤退する兵士たちは英軍部隊の餌食となった。その状態を知らなかったイタリア軍部隊は装甲旅団「バビーニ」を先頭にヴィア・バルビアを突破するために前進を開始する。案の定、英軍側の激しい十字砲火を浴びることとなり、包囲網を突破することは失敗した。自ら兵士を鼓舞するために戦車に乗って進軍していた第10軍司令官のテッレラ将軍もこの突撃時に被弾し、戦死してしまったのである。

南方への突破も不可能となり、装甲部隊も壊滅した第10軍残存兵力は最早打つ手は無かった。こうしてベルゴンツォーリは降伏を決断し、キレナイカでの戦いはイタリア軍の完全な敗北に終わったのである。英軍はキレナイカ制圧をもってコンパス作戦を終了し、一連の敗北を受けてイタリア軍はシルテまで撤退、キレナイカを完全に喪失した。この敗北後、グラツィアーニはリビア総督を辞任し、後任として2月11日にイタロ・ガリボルディ(Italo Gariboldi)将軍が就任、引き続き北アフリカの指揮をとった。結局、これらの敗北はイタリア軍将兵が劣っていたからではなく、英軍の装備が全てにおいて勝っていたことが理由であり、特にイタリア軍側は機甲部隊の不足が致命的となった。機動力に勝る英軍機甲部隊は撤退するイタリア軍を完全に壊滅させ、更に海軍・空軍との共同作戦で退路を封じて包囲し、これを撃破したのだった。イタリア軍部隊は機甲部隊を始めとして奮戦したが、要請した支援物資が届かないどころかギリシャ戦線に必要物資が吸われたことで希望は消え去ったのである

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ベダ・フォムの戦いで英軍の捕虜となったベルゴンツォーリ将軍。連合国側の協力要請を拒否し続け、降伏しても連合国側に屈することはなかった。

ベダ・フォムの戦いで捕虜として捕らえられたベルゴンツォーリはエジプト首都カイロに移送され、その後脱走を危惧されて英領インドの捕虜収容所に送られ、劣悪な環境の中で苦しんだ。1941年12月に日本軍が真珠湾を攻撃し、アメリカが連合国側で参戦すると、アーカンソー州のモンティチェロ捕虜収容所に移送となった。1943年9月にイタリア王国が休戦したことで、イタリアは北部・中部を支配するイタリア社会共和国(ムッソリーニ政権)と南部を支配する王国政府(バドリオ政権)に二分され、内戦状態となった。これを受けて、バドリオは共同交戦軍を組織し、連合国側との共闘を宣言する。アメリカ当局はベルゴンツォーリに連合国側への協力を持ち掛け、それを条件に解放することを提案したが、ベルゴンツォーリはそれを完全に拒否した。だが、この反応に怒ったアメリカ当局はベルゴンツォーリをロングアイランドの精神病棟の隔離した部屋に閉じ込めてしまったのである。

第二次世界大戦終結すると、ベルゴンツォーリは解放されイタリアへ帰国出来ることとなった。しかし、新たにイタリアの政権を担っていたメンバーはランドルフォ・パッチャルディ(Randolfo Pacciardi)を始め、スペイン内戦で共和国側の国際旅団に参加した反ファシストが多数いた。このため、スペイン内戦でCTV部隊の主力を率いたベルゴンツォーリは非常に疎ましい存在として映っており、帰国後のベルゴンツォーリを攻撃した。だが、ベルゴンツォーリは戦後のイタリア軍でも戦前の勇敢さや功績から人気のある将軍であり、帰国後は陸軍に迎えられて短い間であるが復帰し、1947年にはほぼ名誉階級として中将に昇進、その後予備役に移された。故郷のカンノービオで隠居したベルゴンツォーリは元部下たちに慕われ、部下たちと共にスペインに旅行すること持った。当地ではフランコの歓迎を受け、またスペイン内戦に参加したCTV部隊の元将兵らの協会組織を結成し、それを指揮した。部下に慕われ続けた将軍は1973年7月31日に死亡し、彼の葬儀には数多くのイタリア軍の高官たちが参加したのであった