Associazione Italiana del Duce -ドゥーチェのイタリア協会へようこそ!-

同人サークル"Associazione Italiana del Duce"の公式ブログです。

地中海におけるイタリア海軍の熾烈な戦い ―イタリア海軍の「欠点」とは?―

皆さんこんにちは。Twitterでちまちま発信した情報とかをこっちでも纏めることにしました。しばらくは「イタリア海軍と地中海の戦い」について書きます。

 

f:id:italianoluciano212:20200311012700j:plain

第二次世界大戦時の地中海戦線における主要な海戦(イタリア海軍が参加したもののみ)。海戦名の横にある旗は海戦の勝者側の旗である。これを見てわかるように、実際の勝率は言うほど悪くない、というか寧ろ結構勝っていることがわかる。今後のブログ更新でそれぞれの海戦について、年代ごとに解説していく予定だ。

第二次世界大戦における地中海戦線は、アジア・太平洋戦線に次いで激しい海戦が起こった戦場だった。地中海戦線の中心となった海軍は、枢軸国側はイタリア海軍(Regia Marina)、連合国側は英海軍(Royal Navy)である。通説として「イタリア海軍は弱い」と考えられがちだが、勝率としても実際はそんなことはないお世辞にも強力な海軍とは言いにくかったイタリア海軍だが、様々な欠点を抱えながらも、遥かに格上の相手である英海軍相手に互角の戦いを繰り広げた事は事実である。寧ろ、そういった「不利な状況においてよくここまで戦った」という点を評価するべきであろう。そもそも、英海軍はおろか、フランス海軍にすら劣ると開戦前に評価されていた伊海軍がここまでの活躍を見せたのは十分高い評価しても良いと思う(というかイタリア海軍側も元々「格上」過ぎる英海軍は仮想敵として定めておらず、専らフランス海軍を仮想敵として定めていた)。

しばらくは、イタリア海軍が参加した海戦を見ていって見よう。今回はその前に、イタリア海軍の「欠点」とは何だったのか、をここで論じることとする。私の行動がイタリア海軍全体の再評価に繋がれば幸いである。

 

■イタリア海軍の欠点とは?

イタリア海軍は多くの欠点を抱えている、と先述した。では、どんな欠点だったのか。海戦の説明の前に具体的に見ていってみることとする。これらの欠点はイタリア海軍が行動する上でかなりの足かせとなり、本来の実力を発揮出来ない大きな要因となった。

 

・スーペルマリーナ(海軍最高司令部)の命令が絶対

f:id:italianoluciano212:20200311010435j:plain

大戦期の大半の海軍参謀長を務めたアルトゥーロ・リッカルディ提督。彼自身は前任者であるカヴァニャーリ提督の保守的な方針からの変更を試みたが、結局のところ作戦指揮における裁量権問題は依然として残っていた。

イタリア海軍では第二次世界大戦への参戦直前に「スーペルマリーナ(Supermarina)」が創設された。これは海軍の最高機関であり、最高司令部の役割を持った。これによって、イタリア艦隊のあらゆる指揮官は全てこのスーペルマリーナの命令を絶対順守することとなった。これの何が問題なのかと言うと、艦隊指揮官たちが戦場において柔軟な判断が出来なくなったということである。つまり、戦場における意思決定を完全にローマに本部を置くスーペルマリーナに握られていたということだ。

戦場で不測の事態が起こっても、ローマに通信して命令を待たなければならない。つまり、スーペルマリーナが判断を下す前に戦況が著しく変化した場合、その変化に適応出来ない、ということが多々あった。逆に英海軍側は現地司令官に意思決定の裁量権が大きく持たされていたために、柔軟に対応することが出来た。1940年末には海軍参謀長がアルトゥーロ・リッカルディ(Arturo Riccardi)提督に変更されたことにより、これも若干変更され、艦隊指揮官に裁量権を大きく付与した一方で、戦況が大きく有利な状況以外では敵艦隊との戦闘を避けるように、という制約が付けられていた

更に、英海軍側は暗号傍受によって、スーペルマリーナの指令を把握していた(完全に、とは言えないが)。こういったこともあり、スーペルマリーナの指令を順守するイタリア艦隊の行動は英海軍側に筒抜けであり、英海軍は伊船団を的確に襲撃した。結果として多くの被害を出す結果となった。イタリア海軍の中にもジョヴァンニ・ガラーティ(Giovanni Galati)提督のように首脳部の指令に疑問を抱き、スーペルマリーナの指令を無視して現地で柔軟な判断をする指揮官もいたが、これは明らかな命令違反であった(彼らによれば、連合国側に情報が筒抜けなのは首脳部にスパイがいると考えていたようだ)。この「命令違反」によって戦果を挙げる指揮官も多かったこともまた事実である。

 

・電子装備が不足、夜戦に弱い

f:id:italianoluciano212:20200311010621j:plain

イタリア海軍が実用化した艦艇用レーダー「グーフォ」。1943年のメッシーナ海峡海戦においては「グーフォ」を装備した軽巡「シピオーネ・アフリカーノ」がその真価を発揮し、英艦隊の夜間襲撃を返り討ちにしている。性能は至って優秀で、イタリア側も優れた技術と理論を持っていたことがわかる。

戦間期から1940年まで海軍参謀長を務めたドメニコ・カヴァニャーリ(Domenico Cavagnari)提督は電子装備などの新装備には保守的であり、僅かな予算しか投じなかった。ウーゴ・ティベリオ博士(Ugo Tiberio)を始めとする優秀な海軍研究者らは1936年にはイタリア初のレーダー「E.C.1」を開発していたが、保守的な海軍はそれの導入は行わず、更にレーダー開発に大きな影響力を持っていたグリエルモ・マルコーニ博士(Guglielmo Marconi)が死亡したことで、彼が関わっていた様々なプロジェクトも中止になった。

カヴァニャーリ提督ら海軍首脳部はイタリア海軍は優れた測距儀と射撃統制システムを持つため、電子装備不要論を主張した。実際、昼間の戦闘においてはイタリア海軍は電子装備未装備の状況でも欠点を補填して戦闘を有利に進めたため、この理論はあながち間違いでは無く、英海軍側もそれを認めていた。しかし、夜間戦闘においては別である。レーダーを持たないイタリア海軍は夜間戦闘における圧倒的不利な状況を思い知ることとなった。それは1941年3月のマタパン岬沖海戦において、夜間の奇襲で重巡3隻を一気に失う結果となったためである。

マタパン岬の大敗によってレーダーの重要性を再認識したイタリア海軍は大急ぎでレーダー開発を再開させたが、最終的に国産レーダーが量産開始となるのは1942年にまでずれ込んだ。艦艇用レーダー「グーフォ(フクロウの意味)」と陸上設置用沿岸監視レーダー「フォラーガ(オオバンの意味)」が生産されているが、イタリアの工業生産力の低さゆえに、休戦時点で完成したのは「グーフォ」が13機、「フォラーガ」が14機のみであった。「グーフォ」レーダーを装備した艦艇が夜戦で敵艦隊の襲撃を返り討ちにしたケースもあるので、早くに導入されなかったことが悔やまれる結果となった。

 

・空軍との連携不足と空母の不在、航空支援の不足

f:id:italianoluciano212:20200311010811j:plain

イタリア海軍の空母「アクィラ」。「スパルヴィエロ」と同様に客船を改造した空母だが、結局未完に終わっている。「アクィラ」に搭載されていた対空砲はラ・スペツィアの海軍技術博物館に展示されているので、気になる方はぜひ見に行って欲しい。

イタリアは世界で見ても早い段階で空軍を独立させた、「空軍先進国」である。しかし、これは海軍にとっては悲劇の始まりであった。ファシスト政権は空軍を先進的と見たため、航空戦力は空軍が独占することとなった。結果、陸軍航空隊が海軍航空隊を吸収する形で空軍が誕生したわけだが、これによって海軍の航空戦力が不足する事態となる。「イタリア空軍の父」と呼ばれるイタロ・バルボ空軍元帥(Italo Balbo)は航空戦力を求める海軍と激しく敵対し、海軍には旧式機しか配備しなかった。更に、その海軍に配備された航空機も空軍所属のパイロットによって管理された。空軍内部にもジュゼッペ・ヴァッレ参謀長(Giuseppe Valle)のように海軍に同情的な将官もいたが、ファシスト政権は空軍を優遇したために海軍は相対的に冷遇されることとなった。

カヴァニャーリ提督ら海軍首脳部は空母建造を希望したが、バルボらの反対によって実現しなかった。というのも、ムッソリーニ自身もイタリア半島不沈空母論」を支持したためだ。これは、イタリア半島は地中海の中心にあるのだから、陸上基地の航空支援だけで空母は不必要で予算の無駄、という理論だ。実際に空軍がマトモに航空支援してくれるならそうで良かったのかもしれない。しかし、現実はそうではなかった。開戦後、空軍と海軍は連携が上手く取れずに、敵艦隊への追撃も上手くいっていない。というのも、海軍側が空軍に支援要請を求める際に、いちいち空軍参謀本部の許可を得てからじゃないと空軍側も航空支援を行えなかった。許可を求めているうちに戦局は大きく展開し、航空支援が来た頃には時すでに遅し、という場合が多々発生した。また、航空偵察の不足もあり、敵艦隊の全容を把握できなかった、という点も痛い。更には味方艦に誤爆するケースも多々あり、空軍と海軍の対立は連携不足を加速させた。

レーダー不足同様に、航空支援不足でマタパン岬において手堅い敗北を喫したイタリアはここでようやく空母の重要性を再確認し、ムッソリーニも「イタリア半島不沈空母論」を放棄したことで、やっとこさ商船改造空母2隻の建造を開始した。こうして建造が開始された「アクィラ」と「スパルヴィエロ」だが、ほぼ完成してはいたが結局未完成の状態で休戦を迎えたため、就役することはなかった。一方で、空母に搭載される艦上機は生産されていたが、肝心の空母が未完に終わったため日の目を見ることはなかった。

 

・燃料不足、主力艦の出動が難しい

燃料不足はイタリア海軍にとって重い足かせとなった。そもそも、燃料不足はイタリアという国家が慢性的に抱えていた問題であり、エチオピア戦争期からそれは騒がれていた。というのも、エチオピア戦争時にイタリアは経済制裁を受けたため、ガソリンが高騰したのだ。イタリア政府はガソリンへの特別税も付与している。イタリアは勢力圏に有力な油田を持っておらず、基本的に燃料は輸入頼り(特にルーマニアから)だった。イタリアが保有する唯一の有力な油田はアルバニアの油田で、これはイタリア軍の石油総需要の1/3を賄ったが、生産量はさほど多いわけではなかった。

現在では産油国として有名なリビアは当時イタリア領だった。一応、リビア油田は1914年にイタリアが発見しており、1926年にファシスト政権が開設した「イタリア石油公団(AGIP)」によって開発と探鉱活動が進められていたが、リビア油田の深度は非常に深く、当時のイタリアの技術では掘削することは不可能であった。アメリカからの技術導入が予定されていたが、第二次世界大戦の開戦により結局計画倒れで終わったため、リビア油田が開発されることはなかった。そんな中で戦間期リビアエチオピア、スペイン、アルバニアと出征しまくった伊軍はWW2参戦時には既に燃料不足に陥っていた海軍は使用できる石油備蓄が約八か月分しかない、という事態であった。石油不足は海軍だけの問題ではなく、陸軍や空軍の戦闘にも影響が出ていた。

同盟国であるドイツはルーマニアから輸入した燃料をイタリア側にも供給することを約束していたが、殆どをドイツ軍側が持っていき、イタリア側に供給された石油は微々たるものであった。結果として燃料消費が激しい主力艦隊は積極的には行動することが難しく、1943年にもなると完全に燃料が底をついたために港に引きこもるしかなくなってしまった。海軍側も工夫を重ね、出撃する艦艇にのみ燃料を停泊中の艦艇から供給したり、合成燃料を開発したりもしたが、結局燃料不足は改善されなかった

一応、イタリア海軍は有事の際に備えて臨時用の備蓄燃料を用意しており、これは本土防衛の艦隊決戦のための主力艦隊用燃料だったと思われる。というのも、バドリオ政権による連合国との休戦発表に関して、海軍首脳部には発表されるまで相談がなく、海軍は本土防衛に際して連合軍との艦隊決戦の準備中だった(つまりは寝耳に水だった)。結局、休戦によってこの備蓄燃料は使われずにドイツ軍がイタリアを制圧した際に略奪されている(ヒトラーはこれに激怒したそうだが、そもそも燃料を独占したドイツ側に何も言う権利はないだろう)。

 

・全体的な工業生産力の低さ、準備不足の参戦

致命的な欠点である。低い工業生産力による弊害は海軍だけでなく、陸軍と空軍にも影響した。つまりは、イタリア軍の根本的な敗因はこれに尽きると言える。イタリア海軍は英海軍相手に互角な戦いを繰り広げた...が、工業生産力の低いイタリアは失った戦力を補填することすら困難だった。それは、開戦後に竣工した艦艇の少なさからもよくわかる。他国海軍と比べてもその差は歴然で(ドイツ海軍は潜水艦ばかりだが、建造数は桁違いだし)、しかも完成時期も休戦直前だったりする。つまり、仮に他の欠点が無くとも、イタリア海軍にとって戦闘が長引けば長引くほど、補填しきれなくなって戦局は不利になっていく、ということだ。

まず、工業生産力の不足故に艦艇の建造スピードも遅かった。結果として、戦争が近付くにつれて実行された海軍の強化計画すらも終了する前に戦争に突入する事態となった。参戦時の戦艦がカヴール級2隻のみだった点からも、海軍の準備不足がよくわかる。開戦後にやっとこさリットリオ級3隻、ドゥイリオ級2隻を竣工/改修完了させているが、戦時中は殆ど戦力を拡充出来ずに空母2隻やリットリオ級戦艦「インペロ」は結局完成していない。イタリア海軍も工業生産力不足はわかっていたため、大型艦の建造は後回しにして潜水艦や駆逐艦といった小型艦艇の建造を優先したが、それでも損失を補う事すら出来なかった。つまり、ジリ貧の海軍だったのだ。更に艦体設計も複雑だったこともあり、そういった様々な要因が建造を遅くしたのである。

 

結局のところ、これらの欠点がイタリア海軍の足を引っ張ったわけである。まぁ、欠点の無い海軍なんて存在しないとは思うが...

次回は「1940年の地中海の海戦」について書きます。お楽しみに~

↓次回はこちら

associazione.hatenablog.com

 

■主要参考文献
Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori
B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori
Pier Paolo Battistelli/Piero Crociani著 "Reparti d'élite e forze speciali della marina e dell'aeronautica militare italiana 1940-45", 2013, LEG Edizioni
Giorgio Giorgerini著 "Uomini sul fondo", 2002, Mondadori
Aldo Cocchia著 "Convogli -Un marinaio in guerra 1940-1942", 2004, Mursia
吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939-1945』, 2006, イカロス出版
吉川和篤著『Viva! 知られざるイタリア軍』.2012, イカロス出版