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地中海におけるイタリア海軍の熾烈な戦い ―1940年の海戦:戦いの始まり―

前回から引き続き、地中海戦線におけるイタリア海軍の戦いについて書こうと思う。今回扱う範囲は1940年の地中海の海戦。すなわち、最初の一年となる。

基本的にこれらの記事は「海戦」に特化したものであり、潜水艦隊の戦いや船団護衛による対潜水艦戦、敷設機雷による戦果等については扱わないものとする(寧ろ戦果を考えればそっちの方がイタリア海軍の真価とも言えそうだが)。また、地中海の戦いのみを扱い、大西洋、紅海、黒海、ラドガ湖、インド洋、太平洋等のその他の海域におけるイタリア海軍の戦いに関しては基本的に扱わないこととする。

 前回の記事はこちら↓

associazione.hatenablog.com

前回纏めた「欠点」を踏まえながら、イタリア海軍の戦いを見ていってみよう。 

 

◆1940年:地中海の戦いの始まり

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1940年の地中海の主要な海戦。最初の年は基本的にイタリア半島近海で行われた。

1940年6月10日、イタリアは枢軸国側での参戦を表明し、対英仏宣戦布告を行った。こうして、イタリア海軍も戦いを開始することとなったが、前回説明した通り、準備不足の参戦となった。そのため、海軍参謀長ドメニコ・カヴァニャーリ(Domenico Cavagnari)提督は基本方針として、主力艦隊に関しては燃料不足のため「現存艦隊主義」をドクトリンとして定め、潜水艦や小型艦艇による船団襲撃を決定した。戦間期から海軍を指揮するカヴァニャーリ提督は地中海における海軍戦力の格差を認識しており、様々な観点からこの方針が最良だとした。

第一の仮想敵とされ、戦力が拮抗するフランス海軍に加え、本来仮想敵として定められていなかった「格上」の英海軍をも敵に回したことを考えると、こうせざるを得ないのは当然ともいえる。そういった方針に基づき、海軍計画はその方針に沿って強化が進められ、海軍は戦艦と潜水艦を特に強化した。しかし、計画最中に第二次世界大戦に参戦することとなったため、1940年6月の時点で行動可能な戦艦はカヴール級2隻のみだった。こうして、イタリア海軍の戦いが始まった。

開戦時(1940年6月10日)のイタリア海軍の戦力を見てみると、

▣戦艦

:2隻(カヴール級)

水上機母艦

:1隻(ジュゼッペ・ミラーリア)

巡洋艦

:22隻(トレント級、ザラ級、サン・ジョルジョ、ジュッサーノ級、カドルナ級、モンテクッコリ級、ドゥーカ・ダオスタ級、アブルッツィ級、バーリ、ターラント)

駆逐艦

:59隻(レオーネ級、ナヴィガトーリ級、オリアーニ級、ソルダーティ級、マエストラーレ級、ダルド級、ミラベッロ級、フォルゴレ級、トゥルビネ級、サウロ級、セッラ級)

水雷艇

:69隻(スピカ級、オルサ級、ピーロ級、シルトリ級、ラ・マーサ級、ジェネラーリ級、パレストロ級、クルタトーネ級、インドミート級、アウダーチェ)

▣潜水艦

:117隻(アドゥア級、アルゴナウタ級、ペルラ級、シレーナ級、アルキメーデ級、アルゴ級、バリッラ級、バンディエーラ級、ブラガディン級、ブリン級、カルヴィ級、フィエラモスカ級、フォカ級、グラウコ級、H級、リウッツィ級、マメーリ級、マルチェッロ級、マルコーニ級、ミッカ級、ピサーニ級、セッテンブリーニ級、スクァーロ級、X級)

これに通報艦(アヴィゾ)、機雷敷設艦、MAS艇、仮装巡洋艦などが加わった。

 ↓参戦時の各艦隊の編制等はこちら。

associazione.hatenablog.com

特筆すべきは潜水艦隊の規模で、開戦当時ではドイツ海軍より勝り(ドイツ海軍が潜水艦隊重視に本格シフトしたのは大戦中盤頃)、ソ連海軍に次ぐ世界第二位の潜水艦隊の規模を持っていた。この理由は先述したように、船団襲撃の戦力としてカヴァニャーリ提督は潜水艦を重要視したからである。

また、駆逐艦水雷艇部隊の実力も高く、船団護衛における対潜水艦戦の実力は枢軸国の中でも特に特筆するべき点だろう。ターラント空襲でカヴァニャーリ提督が失脚するまでは基本的に地中海におけるイタリア海軍の戦果は水雷艇駆逐艦による対潜水艦戦の戦果と、潜水艦による船団襲撃の戦果が主であることからも、それがよくわかる。

今回は詳述しないが、以前記事にちょろっと書いたのでよければどうぞ。

associazione.hatenablog.com

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 また、イタリアの参戦と共に紅海・インド洋におけるイタリア海軍の戦いも開始した。こちらは地中海戦線と違い、陸軍・空軍の前半の善戦とは対照的に、終始イタリア海軍が不利な状況で一方的に敗北している。

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■6月14日:ジェノヴァ沖海戦

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1940年6月14日:ジェノヴァ沖海戦

イタリア海軍は6月10日の参戦後、まず近海への機雷敷設任務に従事した。同時に潜水艦隊による船団攻撃が開始され、開戦二日後の6月12日には潜水艦「バニョリーニ」がクレタ島沖にて英軽巡カリプソを、潜水艦「ナイアデ」がアレクサンドリア沖にて英船団のタンカーを撃沈している(6月11日の段階で潜水艦「スメラルド」がアレクサンドリア沖にて英船団襲撃を行ったが、こちらは失敗に終わっている)。

6月における地中海の海戦は、「第一の仮想敵」たるフランス海軍を主要な敵として定めた。イタリアは参戦した一方で、「ドイツ軍が勝利すると思われるこの戦いにおいて、講和会議で勝者側に立つ」というムッソリーニの目論見による"形式的参戦"の部分があったため、主要敵であるフランス側への積極的な攻撃は行われず、特に陸軍に至っては発砲禁止命令が出ていた。その均衡が崩れたのが6月14日で、イタリア陸軍は伊仏国境を突破し、国境付近のフランス軍拠点を制圧している。しかし、すぐに守勢に戻っており、本格的な侵攻開始は6月21日まで待たねばならなかった。

陸軍の不甲斐ない戦いぶりが強調されるフランス戦だが、空軍はフランス本土/植民地の主要拠点を次々と爆撃し、航空戦でも多くの戦果を挙げた。一方で、海軍もフランス戦においてまずまずの戦果を挙げていると言える。第二次世界大戦のフランス海軍vsイタリア海軍の戦いの中でも特に知られているのが、6月14日に発生したジェノヴァ沖海戦」だ。というのも、これは第二次世界大戦時において唯一と言える、イタリア水上艦隊vsフランス水上艦隊の戦いだからである。

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イタリア水雷艇「カラタフィーミ」

イタリア参戦から3日後、1940年6月13日の夜にジュゼッペ・ブリニョーレ(Giuseppe Brignole)中尉が艦長を務める水雷艇「カラタフィーミ」は機雷敷設艦「エルバノ・ガスペリ」を護衛し、リグーリア海岸で機雷敷設任務に従事していた。その時、フランス海軍はリグーリア海岸工業都市に艦砲射撃(ヴァード作戦)を行うため、重巡艦隊を派遣していた。フランス第三艦隊司令官であるエミール・デュプラ(Émile Duplat)提督は重巡「アルジェリー」を旗艦とし、リグーリア海岸砲撃に向かった。

フランス艦隊は三つのグループに分けられており、一つ目のグループがデュプラ提督が直接指揮する「アルジェリー」を旗艦とし、重巡「フォッシュ」、そして6隻の駆逐艦で構成された。これは、サヴォーナ周辺の工業地帯を目標とした。二つ目のグループは、重巡デュプレクス」と重巡「コルベール」、そして5隻の駆逐艦で構成された。これは、ジェノヴァへの直接攻撃を目的とした。更に三つ目のグループは三隻の駆逐艦と四隻の潜水艦で構成されていた。このグループは後方支援を担当し、二つのグループをサポートしつつ、イタリア海軍の介入を妨害することを目的とした。

デュプラ提督率いる一つ目のグループはサヴォーナ及びヴァード・リーグレの工業地帯を砲撃した。ここではイタリア側の対応は遅れ、「アルジェリー」及び「フォッシュ」から放たれる砲弾によって工業地帯は被害を受けることになった。スポレート侯アイモーネ・ディ・サヴォイア(Duca di Spoleto, Aimone di Savoia-Aosta)率いるリグーリア隊司令部は直ちにMAS艇部隊を発進させたが、フランス艦隊に効果的なダメージを与える事は出来なかった

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フランス海軍の重巡デュプレクス

「カラタフィーミ」艦長ブリニョーレ中尉は、翌日となった6月14日の朝4時、双眼鏡でフランス艦隊を発見した。場所は丁度サヴォーナとジェノヴァの中間であった。この艦隊はジェノヴァ攻撃を目標とする第二グループのフランス艦隊で、重巡デュプレクス」「コルベール」、駆逐艦「ヴォートゥール」「アルバトロス」「ゲパール」「ヴァルミ」「ヴュルデン」の計7隻で構成されていた。
ブリニョーレ中尉は、機雷敷設艦「エルバノ・ガスペリ」を撤退させ、今まさにジェノヴァを砲撃している重巡2隻・駆逐艦5隻、計7隻から構成されるフランス艦隊に「カラタフィーミ」単艦で勝負を挑んだのである。戦闘はジェノヴァ沖で行われた。戦闘が開始されると、陸上側も行動を起こした。沿岸要塞と装甲列車が「カラタフィーミ」を援護したのである。しかし、「カラタフィーミ」は主砲と魚雷を活用して攻撃したが、高速能力を誇るフランス艦隊はそれを回避していった。「カラタフィーミ」は駆逐艦「ヴォートゥール」及び「アルバトロス」を追撃したが、その際に駆逐艦「アルバトロス」は砲弾が命中した。これをイタリア側は「撃沈」と確認したが、実際は撃沈まではしておらず、「アルバトロス」は中破した状態であった。
フランス艦隊司令官デュプラ提督はこの「カラタフィーミ」の突撃を受けて、イタリア海軍の増援が来ることを恐れ、砲撃艦隊に撤退を命令。これにより、「カラタフィーミ」は単艦でフランス艦隊に突撃し、これの撃退に成功したのであった。更にはリグーリア海岸への砲撃の被害も運良く小規模なものであった。旧式の水雷艇が、たった一隻で7隻(内2隻は重巡)の艦隊に立ち向かい、それの撃退に成功し、更には無事に帰還したという例は海軍史上でも中々無いだろう。ブリニョーレ艦長はこの功績によってイタリア軍最高名誉である金勲章を受勲されて英雄となり、LUCEによって彼の功績を讃える映画『Alba di guerra sul Mar Ligure(リグーリア海での戦争の夜明け)』も作られている。

とはいえ、隣国とはいえ自国の工業生産の中心地の沿岸まで敵艦隊の侵入を許したイタリア側の失態は大きく、今回の成功は運良く「カラタフィーミ」が敵艦隊を発見し、これを撃退したことによるものだった。イタリア空軍の航空偵察不足、そして海軍の哨戒不足が指摘され、当時のリグーリア隊司令部長であるスポレート侯アイモーネ・ディ・サヴォイア提督の失態と言える。

 

■6月28日:エスペロ船団の海戦

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1940年6月28日:エスペロ船団の海戦

ジェノヴァ沖海戦後も依然として地中海戦線では潜水艦による船団攻撃と、船団護衛中の対潜水艦戦が中心で、結局フランス休戦まで水上艦隊同士の海戦は発生しなかった。1940年6月24日、イタリアとフランスはヴィッラ・インチーサ休戦協定を調印し、翌日には両軍の戦闘は停止した。この休戦までにイタリア軍はフランス本土と植民地の仏領ソマリ(現在のジブチ)において攻勢を行い、ある程度の領域を占領地域としている。フランスの休戦により、地中海戦線からフランス海軍は離脱した。

フランス海軍の離脱後、地中海戦線は完全にイタリア海軍と英海軍の戦場となった。そんな中発生した、「伊英水上艦隊初の海戦」が6月28日のエスペロ船団の海戦である。この海戦はエンリコ・バローニ(Enrico Baroni)大佐が率いる駆逐艦エスペロ」を旗艦とするイタリア船団と、ジョン・トーヴィー提督(John Tovey)率いる軽巡「オリオン(オライオン)」を旗艦とする艦隊の衝突である。駆逐艦エスペロ」を旗艦とするイタリア船団は「エスペロ」の他、「オストロ」「ゼフィッロ」の駆逐艦3隻と北アフリカ戦線のための兵員及び兵器を輸送する輸送船で構成されていた。この船団はターラント港から出発し、リビアのトブルク港を目指していた。当時、北アフリカ戦線ではリビア総督であるイタロ・バルボ(Italo Balbo)空軍元帥がエジプト侵攻作戦を準備しており、その増強の一環として行われた輸送船団であった(しかし、この船団輸送と同日にバルボ元帥はトブルク上空にて味方の誤射で撃墜死している)。

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イタリア駆逐艦エスペロ」

一方で、英海軍側はアレクサンドリアに向かう船団護衛のためにクレタ島沖に展開していた。この艦隊は軽巡「オリオン」を旗艦とし、「シドニー」「グロスター」「ネプチューン」「リヴァプール」の軽巡5隻で構成されていた。航空偵察によってイタリア船団の位置を確認した英艦隊はこれの襲撃に向かった。逆に、イタリアは例の如く、空軍による航空偵察の不足によって、英艦隊を発見出来ていなかった。こうして、6月28日18時半にクレタ島西方沖にて英艦隊は伊船団を発見、交戦を開始した。

イタリア旗艦エスペロ」は機関に不調があり高速が発揮出来なかったため、バローニ大佐はこのままでは敵の圧倒的火力を前に撤退は不可能と判断、「エスペロ」を盾に他の船団を逃がすことを決めた。エスペロ」は煙幕を展開し、迂回行動を取って英艦隊を攪乱させて船団の逃亡を試みた。バローニ大佐の戦術は効果的であった。英艦隊は「エスペロ」との戦いに多くの弾薬を使い、弾薬不足に陥った

この間に、残る2隻の駆逐艦「ゼフィッロ」「オストロ」に護衛された船団はトブルク港に辿り着くことに成功している。軽巡シドニー」の攻撃によって「エスペロ」は撃沈、バローニ大佐も戦死したが、「エスペロ」も軽巡リヴァプール」を攻撃し、これを小破させて一矢を報いた。結局トーヴィー提督は弾薬欠乏のためにイタリア船団への追撃を中止し、アレクサンドリアへの帰港を決定したのであった。結果として、イタリア艦隊は駆逐艦1隻による捨て身の反撃によって、船団輸送に成功し、戦略的な勝利を得たのである。この海戦の結果により、イタリア側は航空偵察の不足を痛感し、英国側は昼間における高速艦隊との戦いは困難であると実感した。

 

■7月9日:プンタ・スティーロ海戦

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1940年7月9日:プンタ・スティーロ海戦

 地中海戦線最初の一カ月が終わり、7月に突入した。イタリア陸軍はこの月は東アフリカ戦線で攻勢を行い、スーダン南東部とケニア北部の制圧に成功した。一方で、地中海方面では同戦線初となる、主力艦隊同士の衝突が発生した。その海戦が「プンタ・スティーロ海戦(英語ではカラブリア沖海戦とも)」である。

バルボ元帥の戦死後、後任としてリビア総督を兼任した陸軍参謀長ロドルフォ・グラツィアーニ元帥(Rodolfo Graziani)はエジプト侵攻計画のために本土への増援要請を行った。海軍はリビアへの大規模輸送船団を組織し、リビアへの派遣を決定した。4隻の輸送船がナポリから、もう1隻の輸送船はカターニアから出発し、計5隻の輸送船団がリビアベンガジ港に向かった。この輸送船団をイニーゴ・カンピオーニ(Inigo Campioni)提督率いる戦艦「ジュリオ・チェーザレ」を旗艦とする主力艦隊が護衛した。この輸送船団は約2000人の兵員、72輌のM11/39中戦車、232輌の戦闘車両、更に約1万トンの物資と約6千トンの燃料を運ぶ大船団であった。

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イタリア戦艦「ジュリオ・チェーザレ

一方で、英海軍側は先のエスペロ船団の海戦の結果を受けてマルタ船団の出発を中止したため、アレクサンドリア港から主力艦隊を出港させ、マルタに向かわせていた。戦艦「ウォースパイト」を旗艦とし、アンドリュー・カンニンガム(Andrew Cunningham)提督の指揮下にあった。つまり、両艦隊の衝突は双方共に船団護衛任務中に発生した。ジュゼッペ・ロンバルディ(Giuseppe Lombardi)提督率いるSIS(海軍諜報部)は電波傍受によって英艦隊側の行動を把握しており、更にCANT Z.506による水上偵察により、敵艦隊の位置を把握していた。カンピオーニ提督は船団を護衛するために敵艦隊の迎撃を開始しようとしたが、カヴァニャーリ提督率いるスーペルマリーナは夜間戦闘で艦隊が損害を受けることを考慮し、敵艦隊への接触を避けるように命令した。英艦隊はエーゲ海諸島から出発したイタリア空軍のサヴォイアマルケッティSM.79及びSM.81爆撃機の攻撃を受け、軽巡グロスター」が大きな損害を受けた。「グロスター」は艦橋に爆弾が直撃し、艦長含む司令部が戦死。更に操縦桿と主砲が使用不能となった。こうして、イタリア艦隊は船団護衛を成功させ、7月8日の午後にトブルク港に到着した。

船団護衛を終えたカンピオーニ提督率いるイタリア艦隊はターラント軍港への帰路についたが、英海軍側もイタリア艦隊の位置を航空偵察で把握しており、7月9日の正午にカラブリア、プンタ・スティーロ沖にて両艦隊は遭遇した。イタリア艦隊はカンピオーニ提督率いる戦闘艦隊(第一艦隊)と、リッカルド・パラディーニ(Riccardo Paladini)提督率いる援護艦隊(第二艦隊)で構成されていた。第一艦隊戦艦「ジュリオ・チェーザレ」を旗艦とし、戦艦2隻(「ジュリオ・チェーザレ」「コンテ・ディ・カヴール」)、軽巡8隻(「バルビアーノ」「ジュッサーノ」「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」「ドゥーカ・ダオスタ」「モンテクッコリ」「アッテンドーロ」「アブルッツィ」「ガリバルディ」)、駆逐艦14隻で構成され、第二艦隊重巡「ポーラ」を旗艦とし、重巡6隻(「ポーラ」「ザラ」「フィウーメ」「ゴリツィア」「トレント」「ボルツァーノ」)、駆逐艦12隻で構成されていた。一方で、英艦隊は戦艦「ウォースパイト」を旗艦とし、戦艦3隻(「ウォースパイト」「マラヤ」「ロイヤル・サブリン」)、空母1隻(「イーグル」)、軽巡5隻(「オリオン」「リヴァプール」「グロスター」「シドニー」「ネプチューン」)、駆逐艦16隻で構成された。

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カラブリア州モナステラーチェに残るプンタ・スティーロ海戦の記念碑(2018年2月3日筆者撮影)

海戦は英空母「イーグル」の艦上雷撃機による雷撃によって始まったが、これは失敗した。その後、両艦隊による砲撃戦が開始。軽巡ガリバルディ」の砲撃を受け、軽巡ネプチューン」はカタパルトと艦載機を破壊される損害を受け、甲板が炎上した。戦艦「ジュリオ・チェーザレ」は主砲斉射により、駆逐艦「ヘレワード」及び駆逐艦「デコイ」に損害を与えた。イタリアの測距儀は英艦隊の測距儀より優れた性能を持っていたため、これは英艦隊にとって大きな脅威となった。

戦艦「ウォースパイト」は「ジュリオ・チェーザレ」に対して直撃弾を与えたが、これは約26,000mも離れた距離から当たったため、「移動目標に対する最長の命中記録」として記録されている(ボイラー室が損傷したため速度が下がったが、迅速なダメコンによって「チェーザレ」は被害自体は最小限に抑えることが出来た)。重巡ボルツァーノ」も敵艦隊との交戦で損害を受けた

この海戦は双方に損害を齎した後、決定的な勝敗がつかずに両艦隊は帰港を決定した(事実上の引き分け)。ムッソリーニはこれを英艦隊を撃退した一大勝利として称えた。更に、イタリア艦隊は既に大輸送船団のリビアへの護衛を無傷で成功させていた上英海軍のマルタ到達を阻止したため、戦略的な勝利とも言える。カンピオーニ提督は主力艦が旧式戦艦2隻(カヴール級)という状況で戦力に勝る英艦隊と拮抗した戦いを繰り広げた事に対して、大きな自信を得られたとしている。この海戦で、伊空軍の追撃を合わせると、イタリア側は英艦隊に対して軽巡グロスター」及び「ネプチューン」、駆逐艦「ヘレワード」及び「デコイ」に対して損害を与え自軍は戦艦「チェーザレ」及び重巡ボルツァーノ」を損傷した。一方で、主力艦が2隻しか行動不能である状態に「チェーザレ」が損害を受けたことは伊艦隊側の行動を抑制した。海戦後、「チェーザレ」はラ・スペツィアで修復され、翌月に戦線に復帰した。一方、この段階でリットリオ級2隻はまだ出撃準備が整っていなかったため、イタリアの主力戦艦は「カヴール」1隻のみという状態になった。

なお、プンタ・スティーロ海戦はイタリア映画の巨匠ロッセリーニ監督の『白い船』でも描かれている。気になる人はぜひ見てみてほしい。

 

■7月19日:スパダ岬沖海戦

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1940年7月19日:スパダ岬沖海戦

プンタ・スティーロ海戦の余波が残っている中、イタリア艦隊は東地中海における英船団攻撃の強化のため、エーゲ海諸島への艦隊派遣を決定した。イタリアは伊土戦争によってドデカネス諸島を獲得しており、東地中海を勢力圏とする英国、そして近隣諸国のギリシャとトルコにとっては大きな脅威となっていた。ルイージ・ビアンケーリ(Luigi Biancheri)提督率いるエーゲ海艦隊は小規模戦力ながら東地中海において船団攻撃を実行し、駐在空軍も英軍拠点や船団への爆撃を行い、英国側に打撃を与えていた。スーペルマリーナは英国の勢力圏である東地中海を脅かすため、戦力強化を決定した。

艦隊はフェルディナンド・カサルディ提督(Ferdinando Casardi)によって指揮され、旗艦である軽巡ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ」及び僚艦・軽巡「バルトロメオ・コッレオーニ」の軽巡2隻で構成された。トリポリ港を出港したカサルディ艦隊はエーゲ海諸島のレーロ軍港を目指した。英艦隊側はこの2隻の軽巡戦隊の移動を哨戒によって把握しており、軽巡シドニー」を旗艦とする艦隊を出撃させた。この艦隊はジョン・コリンズ提督(John Collins)によって指揮され、軽巡1隻駆逐艦5隻で構成された。

スーペルマリーナはエーゲ海諸島駐屯空軍に航行の安全を確保するために航空偵察を要請した。空軍部隊は航空偵察を実行したが、敵艦隊を発見できなかった。一方、トリポリを出港した2隻のイタリア軽巡だったが、「コッレオーニ」は機関の不調を起こしていた。そんな中、7月19日の夜明けにクレタ島東部のスパダ岬沖にてカサルディ提督率いる巡洋艦戦隊はコリンズ提督率いる英艦隊を発見し、交戦を開始した。

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イタリア軽巡ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ

当時、海は荒れており、更に霧による視界不良により砲撃の命中率が下がった。「コッレオーニ」は機関の不調により不動の状態の中で軽巡シドニー」による連続の砲撃、更に駆逐艦隊による雷撃を受けて撃沈された。「コッレオーニ」が瞬く間に撃沈された要因として、機関の不調だけでなく、イタリアの巡洋艦は高速能力を実現するために総じて軽装甲(英国側が言うには「紙装甲」)であったことが挙げられる。防御性能を持たない「コッレオーニ」は悪天候の中で敵艦隊に袋叩きにされるに至った。一方で、「バンデ・ネーレ」は「シドニー」に対して砲撃を命中させて損害を与えた。コリンズ提督は弾薬の欠乏と損害のために「バンデ・ネーレ」に対する追撃を中止し、「バンデ・ネーレ」はベンガジに辿り着いた。空軍部隊の航空支援は今回も対応に遅れたが、爆撃によって駆逐艦「ハヴォック」が中破するなど英艦隊側も被害を受けている。

この海戦においてイタリア巡洋艦の装甲の薄さ、空軍の航空支援の対応の遅さが露呈した。カサルディ提督はその後軽巡「ドゥーカ・ダオスタ」に旗艦を変更し、東地中海における船団護衛、ギリシャ沿岸部への艦砲射撃、機雷敷設といった数々の任務を成功させて活躍、スパダ岬の敗北イメージを払拭させることに成功した。

 

■8月15日:ティノス港攻撃

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1940年8月15日:ティノス港攻撃

1940年8月、地中海戦線では相変わらず潜水艦と水雷艇駆逐艦の戦いが継続され、戦局に大きな変化はなかった。なお、この月には潜水艦「マラスピーナ」がジブラルタル海峡を突破し、イタリア潜水艦として初めて大西洋で戦果を挙げた。また、陸軍の動向では東アフリカ戦線でグリエルモ・ナージ(Guglielmo Nasi)将軍率いる伊軍部隊が英領ソマリランド全域を完全制圧し、英軍は今大戦で初の自国領(植民地を含む)における決定的な敗北を喫することとなった。イタリア軍は戦局を有利に進めていた。

エーゲ海方面ではこの頃、「ティノス港攻撃」と呼ばれる事件が起こっている。ギリシャ侵攻計画に賛同し、対ギリシャ工作を実行していたエーゲ海総督のチェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキ(Cesare Maria De Vecchi)はエーゲ海における特殊作戦を命じた。ギリシャ領海を航行する連合軍側の輸送船を攻撃することであった。これは、スーペルマリーナからもたらされた情報に基づくものであったが、当時はギリシャは中立国であるため、この作戦は秘密裏に実行されることとなった。 

デ・ヴェッキの命令はティノス島及びシロス島近海とのことであった。このギリシャ領海における輸送船攻撃作戦はジュゼッペ・アイカルディ中尉が艦長を務める潜水艦「デルフィーノ」に任された。「デルフィーノ」はティノス港に入港するギリシャ軽巡「エリ」と輸送船2隻を発見した。この時、ギリシャでは「生神女就寝祭」と呼ばれる正教会の祭日であり、「エリ」はその式典参加のためにティノス島を訪れていた。アイカルディ艦長は「エリ」と共に航行していた輸送船が「中立国であることを示す旗を掲げていなかった」ために雷撃を実行し、「エリ」は撃沈された。

この問題はギリシャ・イタリア関係を極度に悪化させる事態となった。中立国であるギリシャ軍艦をイタリア潜水艦が撃沈したため、当然である。イタリア側は関与を否定して英国の仕業であると主張したが、英国はそれを否定し、イタリア側の仕業であると反論した。ギリシャ側は魚雷の破片がイタリア製であったことを確認していたが、関係悪化を恐れてイタリア側には通告しなかった。しかし、イタリア側のギリシャ侵略への意思は揺らぐことはなく、10月末にはイタリアは侵攻作戦を開始することとなる。

 

■10月12日:パッセロ岬沖海戦

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1940年10月12日:パッセロ岬沖海戦

1940年9月、グラツィアーニ元帥率いるイタリア軍はエジプトへの侵攻を実行し、シディ・バッラーニまでの制圧に成功した。東アフリカ戦線においても伊軍は戦局を有利に進め、更に9月27日には日独伊三国同盟が締結され、非参戦状態ではあるが日本はイタリアやドイツと同盟国となった。大西洋においてはアンジェロ・パローナ(Angelo Parona)提督率いるイタリア大西洋艦隊が発足し、潜水艦隊は着々と戦果を挙げていった。一方で、空軍は英国本土爆撃への参加やペルシャ湾油田への長距離爆撃を行うなど、その存在感を増していっていた。

マルタ島はイタリア参戦後からイタリア空軍による爆撃に晒されており、更に周囲はイタリアの制海権にあることから英海軍はこの拠点を失わない為にも必需物資の供給をしなければならなかった。シチリア島シラクーザ近郊、パッセロ岬にて哨戒中であったカルロ・マルゴッティーニ大佐(Carlo Margottini)率いる第11駆逐戦隊は、10月12日の夜明けにマルタに向かっていたデズモンド・マッカーシー大佐(Desmond McCarthy)率いる英艦隊を発見、交戦を開始した。伊英艦隊初の夜間戦闘であった。

イタリア側は駆逐艦「アルティリエーレ」を旗艦とし、駆逐艦8隻・水雷艇6隻で構成された。一方で、英国側は軽巡「エイジャックス」を旗艦とし、重巡1隻(「ヨーク」)、軽巡7隻、駆逐艦16隻で構成されていた。水雷艇「アイローネ」「アルチョーネ」「アリエール」は軽巡「エイジャックス」に雷撃を発射するが、「エイジャックス」はこれを回避。更に「アイローネ」は追加で雷撃を行い、砲撃も実行。これに関しては、雷撃は回避されたが、砲撃は「エイジャックス」に命中し、損害を与えた

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軽巡「エイジャックス」

「エイジャックス」は反撃を開始し、水雷艇「アリエール」「アイローネ」は連続で砲撃を受けて撃沈。「アルチョーネ」は攻撃を回避して撃沈を免れた。続いて、旗艦「アルティリエーレ」が「エイジャックス」と交戦。「アルティリエーレ」は雷撃と砲撃を行い、雷撃は「エイジャックス」によって回避されたが、砲撃は命中し、レーダーを破壊して使用不能にするなど損害を与えた。しかし、その後の追撃で重巡「ヨーク」の攻撃を受けて「アルティリエーレ」は撃沈されてしまった。残存イタリア艦隊は煙幕を展開し、アウグスタ港に帰港することに成功した。

この海戦を受けて、夜間戦闘においてイタリア艦隊は圧倒的に不利な状況にあると確信した。スーペルマリーナは英艦隊がレーダーを使用している可能性を疑ったが、この段階では推測に過ぎず、カヴァニャーリ提督はレーダーの開発再開を命じることはなかった。また、航空偵察の欠如はこの海戦においても指摘されていた。

 

■11月11日~12日:ターラント空襲

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1940年11月11日-12日:ターラント空襲

ターラントの夜(Notte di Taranto)」はイタリア海軍にとって、大戦を通じて最大の大惨事となった。カヴァニャーリ提督率いるイタリア海軍は依然として現存艦隊主義を掲げており、ターラント軍港にはリットリオ級戦艦「リットリオ」及び「ヴィットリオ・ヴェネト」、カヴール級戦艦「カヴール」及び「チェーザレ」、そしてドゥイリオ級戦艦「ドゥイリオ」及び「ドーリア」の6隻の主力戦艦が大集結していた。英海軍のカンニンガム提督はこの現存艦隊主義によって地中海の制海権が脅かされ、連合軍船団の航行が困難となっていることを考え、ターラント軍港を襲撃し、主力戦艦を一挙に行動不能とする計画を実行した。

空母「イラストリアス」から発進したソードフィッシュ雷撃機20機による攻撃が行われた。第一班は11月11日夜20時40分、第二班は夜22時に出動した。22時50分、ターラント軍港にて空襲警報が発令、照明弾によって主力艦隊がはっきりと照らし出され、まず「カヴール」への攻撃が行われた。「カヴール」はプリエーゼ式水雷防御システムの範囲外であり、急所である船底に雷撃が被弾し、更に港湾内という環境ゆえに雷撃の威力が増幅され、港湾内で撃沈された。しかし、雷撃機も「カヴール」の機銃掃射で撃墜されている。「リットリオ」に対しては左舷の艦尾と艦首に雷撃を食らった。「ヴィットリオ・ヴェネト」及び「ドーリア」に対しても攻撃が実行されたが、これは失敗した。

次いで、第二班による攻撃も連続で行われた。これを受け、「ドゥイリオ」は右舷艦首に雷撃を受け大破。更に「リットリオ」が再度攻撃を受けて大破、また「ヴィットリオ・ヴェネト」と重巡「ゴリツィア」も攻撃を受けたがこれは再度失敗している。また駆逐艦「リベッチオ」及び「ペッサーニョ」、重巡トレント」も被害を受けた

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イタリア主力艦隊が攻撃を受けた、ターラント軍港のマル・グランデ(Mar Grande)。現在もイタリア主力艦隊(空母2隻を主軸とする)の母港で、後方に主力空母「ガリバルディ」及び「カヴール」が見える(2017年5月27日筆者撮影)

これを受け、主力戦艦3隻が行動不能となる大惨事となってしまった。「カヴール」に至っては浮揚され、その後修復が開始されたが損害が酷く、結局修復は完了しなかった。「リットリオ」は翌年3月、「ドゥイリオ」は翌年5月までに修復を完了して復帰している。このターラント空襲の結果から、イタリア戦艦に搭載された「プリエーゼ式水雷防御」が欠陥と言われることがあるが、その評価は正しくない。最も被害の大きかった「カヴール」に至ってはそもそもプリエーゼ式水雷防御の範囲外である船底に攻撃を食らい、そこはそもそも船の弱点であった。それに加え、港湾は水深が浅いために雷撃の威力が増幅されたことが、「カヴール」がたった一発の雷撃で沈んだ原因である。

「ドゥイリオ」に関しては、カヴール級同様に旧式戦艦を改修してプリエーゼ式水雷防御を搭載したため、本来の性能を発揮出来ていなかった、と言われる。と言えども、撃沈は免れて翌年には復帰した。「リットリオ」は今回の攻撃で計3本もの雷撃を食らったが、受けた攻撃の被害は最大であったにもかかわらず、最短で修復が完了した。なお、実戦においてはリットリオ級は度々戦場で雷撃を受けているが、ダメージを軽減して自力の航行で帰港しているため、プリエーゼ式水雷防御は効果的な防御システムであったと評価出来るだろう(この海戦については後に説明する)。

ターラント空襲の被害を受け、海軍参謀長カヴァニャーリ提督は更迭され、新たな参謀長にはアルトゥーロ・リッカルディ(Arturo Riccardi)提督が就任した。彼の就任後、艦隊の基本方針(現存艦隊主義)は燃料不足から継続されたが、艦隊指揮官の裁量権の向上、保守的な兵器開発方針の変更などをおこなっている。また、被害を受けた戦艦の修復を巡り、設計者であったウンベルト・プリエーゼ(Umberto Pugliese)造船中将が復帰している(プリエーゼ式水雷防御の名前のもとになった人物)。プリエーゼ提督はユダヤ系の出自であったため、ファシスト政権による反ユダヤ諸法「人種法」によって失脚していたが、この非常事態によって「特例」として「人種法」適用外になり、海軍へ復帰させられたのであった。

 

■11月12日:オトラント海峡海戦

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1940年11月12日:オトラント海峡海戦

一方で、英海軍はターラント空襲と同時に、イタリア海軍への陽動のために、オトラント海峡への進出を行った。ヘンリー・プリダム・ウィッペル(Henry Pridham-Wippell)提督率いる英艦隊は軽巡「オリオン」を旗艦とし、軽巡3隻(「オリオン」「シドニー」「エイジャックス」)、駆逐艦2隻(「モホーク」「ヌビアン」)で構成された。丁度、南部アドリア海ではジョヴァンニ・バルビーニ(Giovanni Barbini)大佐率いる水雷艇「ファブリツィ」を旗艦とし、僚艦である仮装巡洋艦「ラム3」で構成された艦隊が4隻の輸送船を護衛し、アルバニアのヴロラ港(ヴァロナ港)に向かっていた。当時、イタリアはギリシャ侵攻を開始しており、アルバニアへの物資補給が急がれていた。

11月12日の深夜1時20分に艦隊は遭遇し、交戦を開始した。旧式の水雷艇軽武装仮装巡洋艦で構成された護衛艦隊では、軽巡3隻と駆逐艦2隻で構成された英軍陽動艦隊には太刀打ちすることも不可能であった。水雷艇「ファブリツィ」は大きな損害を受けて中破し、司令官であるバルビーニ大佐も重傷を受けた。バルビーニ大佐は重傷を負いながらも「ファブリツィ」で指揮を続け、何とか「ラム3」と共に撃沈を免れてバーリ港に避難した。イタリア空軍は即座に反応し、敵艦隊の捜索を行ったが見つからなかった。結果として、英海軍側の陽動は成功したのであった。

 

■11月17日:ホワイト作戦阻止

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1940年11月17日:ホワイト作戦阻止

ターラント空襲によって、英海軍地中海艦隊司令カンニンガム提督はイタリア艦隊は更に消極的になり、港に引きこもるだろうと予想していた。しかし、それは11月17日のっホワイト作戦発動により裏切られることとなった。 実際、イタリア艦隊は大きな損害を受けており、地中海における制海権は英国有利になっていたが、イタリア艦隊は英海軍側が思っていたようには臆病ではなかった

ターラントの奇襲によってイタリア主力艦隊の脅威を一掃したと考えた英軍は、マルタ防衛のために同島の航空機増強を計画した。ジェームズ・サマヴィル提督(James Somerville)は11月15日にジブラルタルを出港、1940年11月17日、英海軍はマルタ島への航空機輸送作戦「ホワイト」を発動、空母「アーク・ロイヤル」及び空母「アーガス」から艦載機がマルタに向けて発艦した。これを巡洋戦艦レナウン」及び軽巡2隻・駆逐艦7隻が護衛した。

しかし、ロンバルディ提督率いるSISはこの情報を入手し、英海軍の動向を把握したカンピオーニ提督率いる第一艦隊はナポリを出港し、これの迎撃に出撃した。戦艦「ジュリオ・チェーザレ」を旗艦とし、サルデーニャから出港した戦艦「ヴィットーリオ・ヴェネト」と合流し、2隻の重巡(「トレント」及び「ボルツァーノ」)、数隻の駆逐艦で構成されていた。このイタリア艦隊の登場は、英海軍側の完全な予想外であり、英海軍の作戦妨害に効果的であった。発艦時間を早めた結果、様々な要因によって英海軍の作戦は失敗することとなったからである。発艦した14機の内9機が失われ、僅か5機しかマルタ島に到着できず、英海軍による航空機輸送作戦は失敗した。特に、経験豊富な戦闘機パイロットを失ったのは英国にとって打撃が大きく、サマヴィル提督は「凄まじい失敗である」と述べたイタリア艦隊は英海軍の作戦阻止に成功し、「イタリア主力艦隊は港に引きこもっている」という英国側の予想は完全に外れることとなった

 

■11月27日:テウラダ岬沖海戦

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1940年11月27日:テウラダ岬沖海戦

先のホワイト作戦の大失敗により出鼻を挫かれた英艦隊であったが、ターラント空襲の余波でイタリア海軍が麻痺している間に、大輸送船団の地中海横断計画を立てた。これは11月24日から開始され、まず輸送船団がジブラルタル海峡を越えて地中海に入り、同じくジブラルタル出港の巡洋戦艦レナウン」及び空母「アーク・ロイヤル」を始めとする艦隊(巡洋戦艦1、空母1、巡洋艦2、駆逐艦9、コルベット4)がこれを護衛した。同時にアレクサンドリア港から「ラミリーズ」など戦艦5隻、空母2隻及び巡洋艦3隻が出港した。この計画はアレクサンドリア港を出た艦隊のうち、空母1隻と戦艦2隻はシチリア海峡を通過したところでアレクサンドリア港に引き返し、他の空母1隻と戦艦2隻は輸送船の護衛、残りの戦艦1隻と巡洋艦3隻は航行を続けてジブラルタルに入港することとなった。

11月26日、スーペルマリーナはこの英艦隊への攻撃を決定し、艦隊を出発させた。カンピオーニ提督率いる第一艦隊は戦艦「ジュリオ・チェーザレ」を旗艦とし、戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」の戦艦2隻と7隻の駆逐艦で構成された。第二艦隊は指揮を執るパラディーニ提督が心臓疾患で倒れたため、後任司令官となったアンジェロ・イアキーノ提督(Angelo Iachino)のもとで、重巡洋艦「ポーラ」を旗艦とし、重巡6隻(「ポーラ」「フィウーメ」「ゴリツィア」「ボルツァーノ」「トリエステ」「トレント」)及び駆逐艦7隻で構成されていた。この出撃によって、ホワイト作戦に続き、英海軍による「イタリア海軍引きこもり論(仮)」を最早意味のないものと化した。

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イタリア戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」

11月27日には、サルデーニャ島南のテウラダ岬沖(スパルティヴェント岬沖とも)にて、イタリア艦隊はサマヴィル提督率いる英国艦隊と遭遇した。これは、二度目の伊英主力艦隊同士の大規模海戦となった。英国艦隊はサマヴィル提督率いるB部隊とランスロットホランド提督(Lancelot Holland)率いるF部隊で構成された。B部隊は巡洋戦艦レナウン」を旗艦とし、戦艦「ラミリーズ」、空母「アーク・ロイヤル」、駆逐艦9隻で構成された。F部隊は重巡1隻(「ベリック」)、軽巡4隻(「マンチェスター」「サウサンプトン」「シェフィールド」「ニューカッスル」)で構成されていた。その他、軽巡「ディスパッチ」及び「コヴェントリー」、駆逐艦数隻が艦隊に加わった

戦闘開始後、イアキーノ提督率いる第二艦隊は戦闘を有利に進めていき重巡「ポーラ」及び「トレント」の砲撃を連続で受けて重巡「ベリック」は中破、後部砲塔が使用不能になった。一方で、巡洋戦艦レナウン」の攻撃を受けて「トリエステ」が小破、更にマンチェスター」の攻撃で駆逐艦「ランチエーレ」が大破。航行不能となった「ランチエーレ」は駆逐艦「アスカリ」によって基地に曳航されている。

戦闘を有利に進めていたイアキーノ提督率いる第二艦隊であったが、「ランチエーレ」の被害を受けてカンピオーニ提督は戦闘中止をイアキーノ提督に命令したため、撤退した。戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」の主砲斉射によって英艦隊は後退し、また「ヴェネト」の主砲攻撃によって「マンチェスター」も小破した。これを受けて、損害の拡大を望まなかった英艦隊は撤退を決定し、海戦はプンタ・スティーロ海戦同様に互角の戦いを繰り広げた上に、双方に被害を出す形で勝敗付かずに終了した。しかし、英艦隊を撃退し、その後英艦隊はジブラルタルへ帰港したため、イタリア側の戦略的勝利と言えなくもない。サマヴィル提督は一連の失敗によりチャーチルに叱責され、解任騒ぎにまでなったが、他の提督らが擁護したことで事なきを得た。

 

 

このテウラダ岬海戦の後、海軍を含む軍部の大改革が行われた。12月8日、先述したようにターラント空襲の結果を受けてカヴァニャーリ提督が海軍参謀長から解任され、新たにリッカルディ提督が就任した。また、海軍首脳部の人事異動も行われ、第一艦隊司令官のカンピオーニ提督は海軍参謀次長、第二艦隊司令官のイアキーノ提督は第一艦隊と第二艦隊が統合された「主力艦隊」の司令官に任命されたのであった。

1940年の海戦は伊英両艦隊は互角の戦いを繰り広げて勝敗をはっきりつけることが双方共に出来なかったが、2つの大規模海戦ではイタリア側が戦略的勝利を手に入れたと言える。11月のターラント空襲の結果を受けて地中海における制海権は英国側に揺れ動いたが、その後もイタリア艦隊は積極的に出撃して英海軍の行動を牽制し、英海軍側が思っていた程には有利に戦局が展開しなかった

こうして、ターラント空襲を機に行われた人事異動の結果、新たなる参謀長と艦隊指揮官のもとで、次の1941年の戦いを迎える事になったのである。というわけで、次回は1941年の海戦を紹介するとしよう。

↓次回(1941年の海戦)はこちら

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■主要参考文献
Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori
B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori
Pier Paolo Battistelli/Piero Crociani著 "Reparti d'élite e forze speciali della marina e dell'aeronautica militare italiana 1940-45", 2013, LEG Edizioni
Giorgio Giorgerini著 "Uomini sul fondo", 2002, Mondadori
Aldo Cocchia著 "Convogli -Un marinaio in guerra 1940-1942", 2004, Mursia
吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939-1945』, 2006, イカロス出版
吉川和篤著『Viva! 知られざるイタリア軍』.2012, イカロス出版