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イタリア海軍屈指の名指揮官!アルベルト・ダ・ザーラ提督と、パンテッレリーア沖海戦における大勝利

第二次世界大戦時のイタリア海軍の指揮官の中でも、特に高い戦果を挙げたアルベルト・ダ・ザーラ(Alberto Da Zara)提督第二次世界大戦時のイタリア海軍の提督の中で最も勇敢であるとされ、パンテッレリーア沖海戦(Battaglia di Pantelleria)」では僅か軽巡2隻と駆逐艦5隻の艦隊で、戦艦や空母を含む大規模な英艦隊相手に大勝利を手に入れたことで知られている。以前の記事で彼の女性遍歴について書いてみたが、今回は彼の戦歴とその生涯について書いてみることとしよう。

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アルベルト・ダ・ザーラ(Alberto Da Zara)提督


◆出自や趣味、女性遍歴

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青年時代のアルベルト・ダ・ザーラ

1889年4月8日、北イタリアのヴェネト州パドヴァ(Padova)の騎兵将校の家に生まれたパドヴァは現在でも著名な大学都市として知られている町である。弟グイード(Guido Da Zara)は父パオロ(Paolo Da Zara)と同じ騎兵将校の道を歩んだが、アルベルトは海軍士官への道を歩んだ。実家が騎兵一家であったことから、幼いころから馬に親しんだアルベルトは、海軍指揮官になってからも時折、愛馬との時を楽しんだ
彼はスポーツ万能で、特にセーリングで高い成績を収めた。一方で、詩が好きな文学愛好家であり、中国勤務時には中国文化にも触れ、漢詩を親しんだという。
パンテッレリーア沖海戦では敵艦隊に一度海域離脱を許した際に、「何も言うことはない。流石は海の巨匠だよ(Non c'è che dire: gli inglesi per mare sono maestri.)」と詩的なセリフを言ったのは、こういった経歴に由来するかもしれない。

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士官時代のダ・ザーラ(右)と、ウォリス・シンプソン(左)

文武両道と言えるダ・ザーラだが、彼を最も象徴するものがある。それは女性遍歴であった。彼は多くの女性と関係を持つプレイボーイで、特に海外勤務時には「現地妻」を作ることでも知られた。冒険的な性格であった彼は社交界での存在感も強く、よく女性にモテたそうだ。彼に「征服」された女性の数は数知れず。特に有名なエピソードとしては、後に英国王エドワード8世の妻となるウォリス・シンプソン(Wallis Simpson)と中国勤務時に一夜を共にしたことがあるエドワード8世とウォリス・シンプソンは「王冠を掛けた恋」で知られている。まだに、「絵に描いたようなイタリア男」であったが、そんな遊び癖があったからか、生涯独身を貫き、結婚することはなかった

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◆その戦歴とパンテッレリーア沖海戦

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閲兵するダ・ザーラ提督

第一次世界大戦時でペラゴーサ島制圧戦船団護衛などで武勲を挙げたダ・ザーラは順調に昇進していき、1939年までに海軍少将に昇進した。第二次世界大戦初期のダ・ザーラはまだ目立たない存在であり、軽巡戦隊の指揮官としてプンタ・スティーロ海戦に参加したが目立った戦果は挙げられていない。その後、いくつかの船団護衛や機雷敷設任務を指揮した後、1941年8月には対潜総監に任命された。
対潜戦の経験が全く無かった彼であったが、驚くほどの手腕を発揮し、対潜水艦戦の訓練や兵器開発が行われ大戦後期に開発された駆潜艇「VAS艇」や対潜能力が強化されたガッビアーノ級コルベットは彼の指導によって開発されたものであった。実際に彼の指導を受けた駆逐戦隊・水雷戦隊は対潜水艦作戦で高い戦果を挙げ、1942年4月14日にはイタリア水雷艇「ペガソ」は英海軍の撃沈数トップを誇る潜水艦「アップホルダー」を撃沈することに成功している。「アップホルダー」は船団の襲撃でイタリア側を大いに悩ませていた潜水艦であった。経験が無かったにも拘わらず、対潜総監として素晴らしい手腕を発揮したダ・ザーラ提督の技量は評価されるべきであろう(しかし、結果的には成果を挙げたため良かったことだが、経験のない人物を総監に任命したスーペルマリーナの判断には問題があったと言える)
1942年3月、第七巡洋戦隊(旗艦:軽巡「エウジェニオ・ディ・サヴォイア)の司令官に任命され、その後機雷敷設任務船団護衛任務に従事した。前年末に地中海の制海権を再度掌握(アレクサンドリア軍港襲撃)したことで、戦局は伊海軍側が有利となっており、しばらくは英海軍側も積極的な行動には出なかったため、大規模な交戦は無かった。しかし、6月中旬に自体は急速に動き出した。
1942年6月中旬、英海軍が大規模なマルタ救援船団を派遣したのである。これに対し、イタリア海軍は迎撃を実行。アレクサンドリアから出発した「ヴィガラス」船団に対してはイアキーノ提督率いる主力艦隊を差し向け、一方でジブラルタルから出発した「ハープーン」船団に対してはダ・ザーラ提督率いる第七巡洋戦隊を派遣した。

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軽巡洋艦「エウジェニオ・ディ・サヴォイア

6月13日、カリャリ港から第七巡洋戦隊が出撃した。軽巡「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」を旗艦とするこの戦隊は、軽巡2隻と駆逐艦7隻で構成されていたが、その内駆逐艦「ジョベルティ」「ゼーノ」の2隻の機関が不調を起こし、2隻は速力を維持できないためにパレルモ港に寄港した。結局2隻はパレルモ港に残り、戦隊は軽巡2隻・駆逐艦5隻と戦力を減らして英艦隊と交戦することになった。
一方、ジブラルタルから出港した英艦隊は戦艦と空母を含む大規模な艦隊であった。アルバン・カーティス(Alban Curteis)提督率いる「ハープーン」船団は、7隻の輸送船に対し、戦艦1隻(「マラヤ」)、空母2隻(「アーガス」「イーグル」)、軽巡4隻(「ケニア」「リヴァプール」「カリブディス」「カイロ」)、駆逐艦17隻掃海艇4隻魚雷艇6隻敷設艦1隻コルベット2隻という大艦隊であり、伊英両艦隊の間には圧倒的な戦力差があり、イタリア側が完全に不利な状況であった。
両艦隊の遭遇前に、伊空軍SM.79雷撃機が英船団を雷撃し、輸送船「タニンバー」を撃沈、軽巡リヴァプールを大破・航行不能にしている(その後「リヴァプール」は駆逐艦アンテロープ」に牽引され、戦線を離脱した)。
6月14日21時30分、海軍最高司令部(スーペルマリーナ)の命令を受け、ダ・ザーラはパレルモから再出撃した。戦力は先述した通り、軽巡2隻・駆逐艦5隻である。スーペルマリーナが傍受によって英船団の正確な位置を把握したことで、ダ・ザーラ艦隊は翌日6月15日の5時40分にパンテッレリーア沖にて英船団を発見「エウジェニオ・ディ・サヴォイア及び「モンテクッコリ」による主砲斉射によって海戦が開始、両艦隊は衝突した。

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旗艦「エウジェニオ」甲板で指揮を執るダ・ザーラ提督。彼のもっとも有名な写真と言えるだろう。

カーティス提督率いる護衛艦隊は船団を守るために煙幕を展開した。ダ・ザーラは速力の遅い駆逐艦「ヴィヴァルディ」及び「マロチェッロ」に別行動を取らせ、輸送船に対する攻撃を命令した。7時15分、駆逐艦「ヴィヴァルディ」「マロチェッロ」の主砲斉射によって、輸送船「オラリ」が直撃弾を受けて中破した。「エウジェニオ・ディ・サヴォイア及び「モンテクッコリ」も英護衛艦隊への砲撃を実行し、駆逐艦ベドウィンが直撃弾を受けて大破、駆逐艦「パートリッジ」は中破した。「パートリッジ」は自らも大きな損害を受けながらも、「ベドウィン」を牽引して戦線の離脱を図った。駆逐艦隊を支援していた軽巡「カイロ」「エウジェニオ・ディ・サヴォイアの主砲斉射を受け、艦首に被弾し中破している。しかし、駆逐艦隊は煙幕の中から「ヴィヴァルディ」「マロチェッロ」に対する反撃を行い、「ヴィヴァルディ」の甲板が炎上する事態となった。損傷を受けた「ヴィヴァルディ」を救援するため、駆逐艦「オリアーニ」「アスカリ」「プレムダ」が艦隊から切り離され、「マロチェッロ」と共に「ヴィヴァルディ」パンテッレリーア島に牽引した。一方、この煙幕によって8時頃にはダ・ザーラ提督は英船団を見失うこととなり、これに関してダ・ザーラ提督も「何も言うことはない。流石は海の巨匠だよ」と感嘆したという。しかし、ダ・ザーラは英船団の航路から機雷原に向かっていると予測し、パンテッレリーア沖の機雷原に向かった

ダ・ザーラ艦隊の追撃を振り切った英船団であったが、次は10時頃にシチリアから襲来するイタリア空軍機の攻撃を受けることとなり、船団は大きな被害を受け、輸送船「チャント」が撃沈された。ダ・ザーラ艦隊は英船団を追撃に向かっている最中にマルタから飛来する英軍機の襲撃を受けたが、全て回避することに成功した。11時頃、中破した「ヴィヴァルディ」をパンテッレリーア島に護送した駆逐艦「オリアーニ」「アスカリ」が帰還し、艦隊に合流している。正午過ぎに予測通りに英船団を再度発見したダ・ザーラ艦隊はこれを攻撃し、輸送船「ブルドワーン」軽巡「エウジェニオ・ディ・サヴォイア及び「モンテクッコリ」の砲撃で撃沈され、輸送船「ケンタッキー」駆逐艦「オリアーニ」の雷撃で撃沈された。駆逐艦「パートリッジ」は「ベドウィン」の牽引を断念し、ベドウィンはブスカーリア中尉(Carlo Emanuele Buscaglia, イタリア空軍を代表する雷撃機エース)が駆るSM.79雷撃機によってトドメを刺されて撃沈されている(既に午前中の戦闘で軽巡2隻の攻撃によって大破していた)。

軽巡「モンテクッコリ」13km離れた距離から長距離射撃を行い、掃海艇「ヘーベ」に直撃弾を食らわせて大破させたが、ダ・ザーラ艦隊は弾薬不足のためにスーペルマリーナからの撤退命令が出され、14時20分にトラーパニへの帰還を決定した。なお、退避に成功した残りの英船団も、ダ・ザーラ艦隊によって誘導された先で待ち構えていた機雷原によって大損害を受け、自由ポーランド海軍の駆逐艦「クヤヴィアク」が撃沈し、駆逐艦「マッチレス」「バッズワース」輸送船「オラリ」が大破する被害を被った。結果として、最終的にマルタに到達出来た輸送船は「トローイロス」と「オラリ」の2隻のみであった。しかし、「オラリ」は海戦による被害で貨物を失っていたため、事実上到着した輸送船は「トローイロス」1隻のみと言える。また、この輸送船2隻も直後の枢軸軍機による空襲によって港内で撃沈される事態となってしまった。

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腕を組むダ・ザーラ提督

ダ・ザーラ提督は圧倒的に戦力に勝る英船団を相手に勇敢に戦い、軽巡2隻と駆逐艦7隻(しかも海戦勃発前に2隻が離脱したため、事実上駆逐艦は5隻)という戦力で大勝利を挙げることに成功した。英艦隊は駆逐艦2隻(「ベドウィン」「クヤヴィアク」)輸送船4隻を撃沈され、軽巡リヴァプール」、駆逐艦「マッチレス」「バッズワース」、掃海艇「ヘーベ」、輸送船1隻が大破、軽巡「カイロ」及び駆逐艦「パートリッジ」が中破する大損害を被り、輸送船団も2隻しか到達出来なかった上に、1隻は海戦の損害で貨物を失い、もう1隻の貨物を補給できたが、結局2隻とも港内で撃沈されている。

その一方で、イタリア側の被害は駆逐艦「ヴィヴァルディ」が中破したのみで留まった。ダ・ザーラ提督の巧みな指揮によって実現したこの勝利は、第二次世界大戦におけるイタリア水上艦隊の戦いで最大の勝利と言っても過言ではないだろう。帰還した後、パンテッレリーア沖海戦の大勝を称え、イタリア軍最大の名誉とされる「サヴォイア軍事勲章」を叙勲されている。

 

◆海戦後のダ・ザーラとその最期

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マルタでの艦隊降伏時。手前がダ・ザーラ提督、奥は英海軍のアンドリュー・カンニンガム提督。

パンテッレリーア沖海戦の大勝の後、ダ・ザーラは「8月中旬の海戦」にも参加している。この時、アンジェロ・パローナ提督(Angelo Parona)率いる第三巡洋戦隊と共に、ダ・ザーラ提督率いる第七巡洋戦隊も参加したが、第三巡洋戦隊の重巡ボルツァーノ及び第七巡洋戦隊の軽巡「アッテンドーロ」が英潜水艦の雷撃で大破したため、会敵前にスーペルマリーナの命令により帰還する事態となった。ダ・ザーラ自身は戦果を挙げられなかったが、この海戦自体は潜水艦部隊と小型艇部隊が大きな戦果を挙げ、伊海軍の戦術的な勝利に終わっている。

1942年12月にはトーチ作戦に続く、米軍によるナポリ軍港空襲を受け、第七巡洋戦隊は「アッテンドーロ」が大破着底、「エウジェニオ」及び「モンテクッコリ」も損害を受けたダ・ザーラも爆撃により大怪我を負い、手術を受けている。そのため、1943年4月まで入院せざるを得なかった(その後は第七巡洋戦隊はロメオ・オリーヴァ提督(Romeo Oliva)が指揮を執っている)。
退院後、1943年8月には戦艦「カイオ・ドゥイリオ」を旗艦とする第五戦艦戦隊の司令官に任命され、ターラント軍港に着任。連合軍の上陸に備えて南部方面の防衛に従事したが、一カ月足らずで9月8日の休戦を迎えた。艦隊の降伏に悩みつつも、ド・クールタン参謀長の命令に従い、ターラント軍港の残存艦隊を率いてマルタ島に向かい、艦隊を降伏させた。数カ月間マルタに滞在した後、1944年8月にイオニア艦隊長官に就任し、海軍中将に昇進した。1946年9月に海軍を退役、その後は母の出身地であるフォッジャに引っ越し、1951年6月4日、同地で没した

 

◇主要参考文献

Alberto Da Zara, Pelle d'ammiraglio, Uff. Storico Marina Militare, 2014

Arrigo Petacco, Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale, Mondadori, 2013

B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori