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スパダ岬沖の激戦!逆境のカリスマ指揮官、フェルディナンド・カサルディ提督の不屈の精神

最近は第二次世界大戦時に活躍したイタリア海軍の提督たちの趣味や出身地などを調べている。彼らの日常的なエピソードを知ることで、戦時の英雄たちの人間的な部分が垣間見えるのがとても好きなのだ。というわけで、前回は第二次世界大戦時のイタリア海軍の指揮官でも特に優秀な人物と言われる、アルベルト・ダ・ザーラ(Alberto Da Zara)提督の戦歴についてブログを更新した。今回はスパダ岬沖海戦の指揮官として知られる、フェルディナンド・カサルディ提督(Ferdinando Casardi)の一生について詳しく見て行くことにしよう。

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フェルディナンド・カサルディ提督(Ferdinando Casardi)

 

カサルディ提督はスパダ岬沖海戦の指揮官として知られている。が、スパダ岬沖海戦は一般的に「敗北エピソード」としての印象が強く、それに伴いカサルディ提督の評価もあまり良いとは言えない。しかし、実際のところはスパダ岬沖海戦の敗北は彼の人為的なミスとは言い難く彼自身の海戦における判断や、その後の戦歴からも十分に優秀な人物として考えられるのだ(そもそも彼自身の知名度自体が低いが)。

また、彼はカリスマ的な指揮官としても知られ、多くの部下からも慕われた人物だった。もし、彼が本当に無能な人物ならば、部下は彼を慕うことはなかったであろう。実際、スパダ岬沖海戦における彼の冷静な判断は、部下らの証言で明らかになっているものである。彼の故郷であるバルレッタでも息子のマリオ氏と共に「英雄」として高く評価されている。そもそも知名度が高いとは言えない人物であるが、今回はカサルディ提督の「再評価」という意味も込めて、彼の戦歴を見ていくこととしよう。

前回はこちら

associazione.hatenablog.com

 

 

◆「カリスマ指揮官」の出自と趣味

フェルディナンド・カサルディは1887年1月1日石油化学企業役員であり弁護士の父オロンツォ・カサルディ(Oronzo Casardi)と、医療従事者の母リヴィア・ボナミーチ(Livia Bonamici)の次男として、南部イタリアのプーリア地方のバルレッタに生まれた。バルレッタはアドリア海に面する港湾都市で、古代には「カンナエの戦い」が起こったことでも知られている(現地には当時の遺跡が残っている)。

スポーツに万能で、特にフェンシングと体操が得意だった。趣味はピアノで、見事な腕前だったという。また、語学にも堪能で、フランス語英語ドイツ語に堪能だった。貧しい南イタリアの出身であったが、彼の家は資産家であり、裕福な家庭であった。1904年、リヴォルノ海軍士官学校に入り、1907年には准尉に任官。その後、順調に海軍での出世を重ねていき、伊土戦争では後の海軍元帥であるパオロ・タオン・ディ・レヴェル提督(Paolo Thaon di Revel)の副官として活躍、銀勲章を叙勲された。第一次世界大戦では戦艦「ダンテ・アリギエーリ」の第二砲術長を務め、終戦時までに少佐にまで昇進している。戦間期は駐米イタリア大使館駐在武官(1933-36)、リビア隊司令官(1937-1940)を務め、その後第四巡洋戦隊司令官を1940年2月から5月まで務めている。

 

◆スパダ岬沖の逆境

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軽巡ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ」。第二次世界大戦時のイタリア海軍の武勲艦であるが、「メシマズ」エピソードがあった艦としても知られている。

第二次世界大戦開戦時は軽巡「バンデ・ネーレ」を旗艦とする第二巡洋戦隊の司令官を務め、リビアへの船団護衛に従事。イニーゴ・カンピオーニ提督(Inigo Campioni)率いる主力艦隊(旗艦:戦艦「ジュリオ・チェーザレ」)と共に船団護衛に従事し、プンタ・スティーロ海戦においては援護艦隊として間接的に参戦した。その際、艦載機であるRo.43水偵を使って偵察している他、駆逐艦8隻と水雷艇2隻を率いて対潜任務にも従事している。この海戦はイタリアの戦略的勝利に終わった。

プンタ・スティーロ海戦の余波が残っている中、イタリア海軍は東地中海における英船団攻撃の強化のため、エーゲ海諸島への艦隊派を決定した。イタリアは伊土戦争によってドデカネス諸島を獲得しており、東地中海を勢力圏とする英国、そして近隣諸国のギリシャとトルコにとっては大きな脅威となっていた。ルイージ・ビアンケーリ(Luigi Biancheri)提督率いるエーゲ海艦隊は小規模戦力ながら東地中海において船団攻撃を実行し、駐在空軍も英軍拠点や船団への爆撃を行い、英国側に打撃を与えていた。スーペルマリーナは英国の勢力圏である東地中海を脅かすため、戦力強化を決定した。

この戦力強化のため、カサルディ提督率いる第二巡洋戦隊がエーゲ海方面への派遣を命じられた。第二巡洋戦隊は旗艦である軽巡ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ」及び僚艦・軽巡「バルトロメオ・コッレオーニ」の軽巡2隻で構成された。トリポリ港を出港したカサルディ艦隊はエーゲ海諸島のレーロ軍港を目指した。英艦隊側はこの2隻の軽巡戦隊の移動を哨戒によって把握しており、軽巡シドニーを旗艦とする艦隊を出撃させた。この艦隊はジョン・コリンズ提督(John Collins)によって指揮され、軽巡1隻駆逐艦5隻で構成された。

スーペルマリーナはエーゲ海諸島駐屯空軍に航行の安全を確保するために航空偵察を要請した。空軍部隊は航空偵察を実行したが、敵艦隊を発見できなかった。この航空偵察の"欠如"は海戦の結果に大きな影響を与えることになる。一方、トリポリを出港した2隻のイタリア軽巡だったが、不幸にも「コッレオーニ」は機関の不調を起こしていた。そんな中、7月19日の夜明けにクレタ島東部のスパダ岬沖にてカサルディ提督率いる巡洋艦戦隊はコリンズ提督率いる英艦隊を発見し、突破のために交戦を開始した。

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英艦隊からの連撃を受けて炎上する軽巡「コッレオーニ」

当時、海は荒れており更に霧による視界不良により砲撃の命中率が下がった航空偵察の欠如機関の不調荒れた海、そして霧による視界不良と、イタリア艦隊にとっての不運が重なることになってしまった「コッレオーニ」は機関の不調により不動の状態の中で軽巡シドニーによる連続の砲撃、更に駆逐艦隊による雷撃3発の直撃を受けて撃沈された。「コッレオーニ」が瞬く間に撃沈された要因として、機関の不調だけでなく、イタリアの巡洋艦は高速能力を実現するために総じて軽装甲(英国側が言うには「紙装甲」)であったことが挙げられる。防御性能を持たない「コッレオーニ」は悪天候の中で敵艦隊に袋叩きにされるに至った。とはいえ、優秀な装甲を持っている軍艦であったとしても、3発の魚雷を食らえばそのダメージに耐えるのは難しかったであろう。
「コッレオーニ」が撃沈されたことを受け、「バンデ・ネーレ」単独で物量に勝る英艦隊を相手しなければならなかった。
カサルディ提督はこの絶望的な状況の中で冷静さを失わず「バンデ・ネーレ」53口径152mm連装砲による艦砲射撃により、シドニーの煙突が損傷を受け、小破させた。「バンデ・ネーレ」は英艦隊の旗艦・軽巡シドニー」に砲撃を命中させて損害を与え、巧みに敵艦隊の猛攻を回避し弾薬欠乏に追い込んだのであった。これによって英艦隊のコリンズ提督は弾薬不足と損害のため撤退を決断した。カサルディ提督は敵艦隊の撃退に成功し、その危機を乗り越えることに成功したのであった。勇敢さと冷静さ、そして危機に対する大胆さは当時の部下からも高く評価されている
英艦隊の追撃を振り切った「バンデ・ネーレ」はトブルクを目指すフリをして英海軍側の追跡を攪乱し、ベンガジに到着、その後母港に帰還した。英軍側は「バンデ・ネーレ」を撃沈するため追跡していたが、カサルディ提督の策略通りトブルクに向かったと勘違いしたため、追撃に失敗したのであった。空軍部隊の航空支援は今回も対応に遅れたが、爆撃によって駆逐艦「ハヴォック」が中破するなど英艦隊側も被害を受けている。しかし、イタリア空軍はスペイン内戦における戦訓から、敵艦船への攻撃を水平爆撃戦術に固執していたため、恐らく海戦の場に到着していても、英艦隊側に戦果を挙げるのは困難だったと分析されている(そのため、イタリア空軍は敵艦船への攻撃方法を急降下爆撃(スキップ爆撃)や雷撃に変更していったのである)

 

◆"船団の守護神"と「名誉の挽回」

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軽巡「ドゥーカ・ダオスタ」

帰港後、「コッレオーニ」の撃沈により、第二巡洋戦隊は改組された。1940年8月、カサルディ提督は第七巡洋戦隊の司令官に任命され、旗艦は軽巡「ドゥーカ・ダオスタ」に変更された。カサルディ提督はこの第七巡洋戦隊を率いて、数々の船団護衛任務機雷敷設沿岸部への艦砲射撃を実行して武勲を挙げた。バルカンや北アフリカへの船団護衛中には何度も敵潜水艦の襲撃を受けたが、巧みな戦術でこれを回避し、輸送船を1隻も失わなかった輸送船団で自軍の兵站を支えつつ、ギリシャ軍の沿岸拠点への艦砲射撃も度々実行して打撃を与え、後のギリシャに対する勝利に大きく貢献している。ギリシャ戦線での活躍は友軍であるドイツ軍からも高く評価された。
また、シチリア海峡における機雷敷設任務は第七巡洋戦隊の最も重要とも言える任務であり、敷設した機雷によって多くの連合軍艦船を撃沈することに成功した。特にこの機雷によって英海軍の潜水艦部隊は大きな被害を受けている
これらの武勲により、二度目の銀勲章サヴォイア軍事勲章に加え、ギリシャ戦における多大な活躍からドイツ軍からもドイツ鷲勲章を叙勲されているサヴォイア軍事勲章は金勲章(メダリア・ドロ)と並び、イタリア軍最高の名誉とされている勲章である。その勲章を叙勲されていることからも、彼の戦功の多さが伺えるだろう。スパダ岬沖海戦では惜しくも敗北を喫したものの、その後のカサルディ提督の武勲はスパダ岬の「敗北イメージ」を払拭させるには充分であった
1941年8月、第七巡洋戦隊の指揮を終え、ローマの海軍最高司令部(スーペルマリーナ)勤務となった。ムッソリーニ統帥が失脚した後、解任されたリッカルディ参謀長に替わって新たに海軍参謀長に就任したド・クールタン提督によって、休戦直前となる1943年8月にはナポリ軍港を拠点とする下部ティレニア艦隊の司令官に任命された。下部ティレニア艦隊司令部はナポリ軍港の他、ポッツォーリやガエータ、カステッランマーレ・ディ・スタービアといった軍港・造船工廠を管轄に置いていた。

こうして迫りくる連合軍の上陸艦隊に対抗するという重責を担うこととなったが、間もなく9月8日にはイタリア王国は突如の休戦を迎えることとなった。休戦の知らせを受けたカサルディ提督は管区内の軍艦に対して、出撃可能な場合は連合軍への降伏を命じ、修復中の艦に関しては自沈を命じた。いくつかの軍艦が自沈したが、即座に行動を開始したドイツ軍によって鹵獲された艦も多かった。また、ドイツ軍との戦闘も発生し、カステッランマーレ・ディ・スタービア海軍工廠では、カピターニ・ロマーニ級軽巡「ジュリオ・ジェルマニコ」の接収を望むドイツ軍が現地のイタリア海軍と交戦し、ドメニコ・バッフィーゴ(Domenico Baffigo)艦長含む船員の多くが戦死する悲劇も発生した。

ドイツ軍のナポリ進駐に対し、カサルディ提督はドイツ軍がナポリを撤退するまで地下に潜伏してレジスタンスに協力(所謂「ナポリの四日間」)、ナポリの解放に尽力した。連合軍の到着と共にナポリが解放された後、カサルディ提督は共同交戦海軍に合流し、継続して下部ティレニア艦隊の司令官を務め、終戦までその地位を維持している。

 

◆政治家デビューしたカリスマ指揮官

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政治家となったカサルディ提督

戦後は政治家として活動した。1948年にはキリスト教民主党所属の政治家として上院議員に選出されている。政治家として故郷であるバルレッタの発展に尽力し、特にインフラ整備の分野で功績を残したデ・ガスペリ政権では財務次官にも任命され、入閣も果たしている。また、海軍の退役軍人から構成される全国水兵協会(A.N.M.I.)の会長にも就任し、かつての部下らとも積極的に交流した。この頃は普段はローマに住み、時々故郷のバルレッタに滞在したそうだ。ちなみに、プーリア出身の軍人で政治家デビューした人物というと、第二次世界大戦時のイタリア陸軍最高の指揮官と名高いジョヴァンニ・メッセ(Giovanni Messe)元帥も知られている。
1975年1月11日、バルレッタの邸宅で心臓発作に襲われ、急死した。彼の葬儀にはフォルラーニ国防相ターラント軍港の司令官など海軍幹部も出席した。なお、彼の息子マリオ・カサルディ(Mario Casardi)も海軍提督で、諜報部の長官も務めた人物である。多くの部下から慕われたカリスマ的な指揮官は、こうして波乱の生涯を終えたのであった。享年88歳だった。

 

◆主要参考文献/参考サイト

・Aldo Cocchia著 "Convogli -Un marinaio in guerra 1940-1942", 2004, Mursia
・Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori
・Giorgio Giorgerini著 "La guerra italiana sul mare. La Marina tra vittoria e sconfitta 1940-1943", 2002, Mondadori
・B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori

http://www.ilfieramosca.it/periscopio/09_2015_50.html

(閲覧日:2020/08/27)