Associazione Italiana del Duce -ドゥーチェのイタリア協会へようこそ!-

同人サークル"Associazione Italiana del Duce"の公式ブログです。

一隻の損失も出さなかった「輸送船団の守護神」! ジョヴァンニ・ガラーティ提督と駆逐艦「ヴィヴァルディ」

f:id:italianoluciano212:20200827223510j:plain

ジョヴァンニ・ガラーティ提督(Giovanni Galati)

提督の戦歴シリーズも今回で三回目だ。さて、今回は「船団の守護神」たる若き名指揮官、ジョヴァンニ・ガラーティ(Giovanni Galati)提督の戦歴について見ていってみることにしよう。ガラーティ提督は駆逐艦「ヴィヴァルディ」を旗艦とする第14駆逐戦隊の司令官で、30回を超える船団護衛任務の中で、敵潜水艦の猛攻や、敵機からの激しい空襲に見舞われながらも、巧みな指揮によって一隻も護衛対象である輸送船を失わなかったという、世界的に見ても素晴らしい戦歴を持つ指揮官だ。

彼は任務を成功させるためには司令部の命令を無視することさえしてみせた、大胆不敵な指揮官であった。中央地中海における英軍の猛攻とイタリア輸送船団の損害を見ると、対照的に彼の戦歴の凄さがわかるだろう。また、休戦後はイタリア艦隊の降伏に対し、「海軍の名誉に反する」として熱烈に反対した指揮官の一人としても知られている。

過去回はこちら↓

第一回:アルベルト・ダ・ザーラ提督

associazione.hatenablog.com

 

第二回:フェルディナンド・カサルディ提督

associazione.hatenablog.com

 

 

◆その出自と大戦序盤の戦功

f:id:italianoluciano212:20200828102428j:plain

士官学校時代の若き日のガラーティ。

1897年9月19日、ジョヴァンニ・ガラーティは南イタリア最大の都市であり、「永遠の劇場」と謳われるナポリの砲兵将校の家に生まれた。ガラーティは父ロベルトとは違い海軍への道を進み、1916年4月、海軍大尉として任官、第一次世界大戦には新型戦艦「カイオ・ドゥイリオ」の艦橋要員となった。大戦後半にはその若さにしてモニター艦「カルソ」の艦長を務め、カポシレの前線に展開アオスタ侯爵(Emanuele Filiberto di Savoia-Aosta)率いる第三軍の進軍を支援した。この活躍により、銀勲章を叙勲されている。この頃から勇敢な若き指揮官として評判であった。戦間期には巡洋艦「クアルト」の副艦長として、エチオピア戦争やスペイン内戦に参加している。
第二次世界大戦参戦時、ガラーティは海軍大佐だった。彼は駆逐艦「ウゴリーノ・ヴィヴァルディ」を旗艦とする第14駆逐戦隊の司令官を務めた。ガラーティ大佐はこのナヴィガトーリ級駆逐艦4隻から構成された戦隊を率いて、地中海における船団護衛戦の「主人公」となったのである。しかし、彼が船団護衛戦に従事するのは主に1941年からであり、1940年の段階では主力艦隊の作戦援護対潜哨戒任務機雷敷設任務等が中心となった。

f:id:italianoluciano212:20200827234927j:plain

「ヴィヴァルディ」によって救出された英潜水艦「オズワルド」の水兵たち。

7月のプンタ・スティーロ海戦では援護艦隊の一員として参加、戦闘の際に雷撃を受けたが回避に成功している。対潜戦闘の指揮も優れ、8月にはスパルティヴェント岬沖にて対潜哨戒中に英潜水艦「オズワルド」を発見し、これを撃沈した。この際、撃沈した潜水艦の乗員を救助し、潜水艦の全乗員55名の内、大半の52名を救出することに成功している。これらの戦果から、プンタ・スティーロ海戦の援護艦隊における活躍で二度目の銀勲章を、「オズワルド」の撃沈によって三度目の銀勲章を叙勲されている。
10月にはボン岬沖の機雷敷設に従事。これは後に駆逐艦ハイペリオンを撃沈している。同月のパッセロ岬沖海戦では海戦後に生存者の救出任務に従事した後、戦線を離脱した英艦隊の捜索・追撃を行った。

 

◆「船団の守護神」の真骨頂

f:id:italianoluciano212:20200827234557j:plain

ガラーティの旗艦・駆逐艦「ウゴリーノ・ヴィヴァルディ」。ナヴィガトーリ級駆逐艦の一隻で、第14駆逐戦隊の旗艦として数々の船団護衛任務を成功に導いた武勲艦である。

ガラーティの本領発揮は1941年からである。何故なら、ガラーティの真骨頂たる「船団護衛戦」が開始されたのは1941年からであったからだ彼は1941年1月から、1942年1月までの約1年間に30回を超える船団護衛任務に従事したが、巧みな指揮によって一隻の損失を出さずに船団を守り抜いたのだ。ガラーティの手腕は司令部にも高く評価され、「決して船を失わない」とさえ言われた
しかし、ガラーティは船団護衛の成功のために時折司令部の命令を無視する事も厭わなかった。これは英軍の的確な襲撃とその高い輸送船団消耗率を不審に思い、司令部にスパイがいるとガラーティが考えていたからである(実際は英軍側による暗号傍受が原因だった)。結果的に彼の大胆さは功を奏し、船団護衛を成功させたのであった。命令違反をしても勝てばよかろう、ということだ。
1941年に入ると、前年に引き続き、再度ボン岬への機雷敷設任務に従事し、その後「真骨頂」である船団護衛に従事することとなった。1月末には初の船団護衛任務を実行し、ナポリからトラーパニへの船団護衛に従事道中で英潜水艦の襲撃に遭遇したが、これを撃退し、無傷で船団を到達させた。その後も6月までの間に幾度もナポリ-トリポリ間の船団護衛任務に従事したが、この間に英軍機の激しい爆撃や潜水艦による雷撃を経験したが、全て回避に成功し、船団に一切の損失を出さず、目的地に到着させた。4月16日にはタリゴ船団の海戦」の生存者救出にも従事している。4月の船団護衛任務では敵潜水艦を返り討ちにした戦果から、銅勲章を叙勲された。6月7日から8月4日は整備のため旗艦「ヴィヴァルディ」がドッグ入りしたため、ガラーティは久々の休暇を過ごした。

f:id:italianoluciano212:20200827235754j:plain

「ヴィヴァルディ」甲板で記念撮影を撮る水兵たち。

8月に入ってから再度任務を再開し、8月13日から15日、再度ナポリからトリポリへの船団護衛任務に従事したが、この時は特に困難な状況に遭遇した。この船団護衛戦では英軍機の激しい爆撃に加え、英潜水艦の襲撃にも遭遇するという、空と海中の両方からの激しい攻撃に晒されたのである。しかし、この状況の中でもガラーティは冷静に指揮し、英潜水艦を機雷で返り討ちにして撃退、対空砲火で雷撃機編隊も撃退している。この十字砲火の中でも船団の損失を一切出さずに無事目的地まで到達したのであった。この武勲により、二度目の銅勲章を叙勲された。その後も12月まで休みなく船団護衛任務に従事し、戦局の展開と共に、母港をナポリからメッシーナターラントに変更しながら、リビアへの船団を守り抜いた。

1942年1月3日から5日、ガラーティは第14駆逐戦隊での最後の船団護衛に従事した。シチリアメッシーナからトリポリへの船団護衛任務であった。当然、これも無傷で船団をリビアに到達させている。数々の船団護衛任務を成功に導いたその手腕は高く評価され、四度目の銀勲章を叙勲され、更にこれまでに六度の戦功十字章を叙勲された。第二次世界大戦において、ガラーティは3度の銀勲章(第一次世界大戦を含め累計4度)、2度の銅勲章、6度の戦功十字章を叙勲され、更にドイツ軍からも鉄十字章を叙勲されている。この勲章の多さからも、彼の武勲がわかるだろう。

 

◆不屈の精神、王への忠誠

f:id:italianoluciano212:20200828000104j:plain

ガラーティの最後の旗艦となった、軽巡洋艦ルイージ・カドルナ」。第二次世界大戦時は機雷敷設任務や高速輸送任務、兵員輸送などで活用された旧式の軽巡洋艦ターラントに赴任したガラーティの下で最後の旗艦となり、ターラント湾への機雷敷設任務に従事した。戦後は復員船として活動。

1月7日、旗艦「ヴィヴァルディ」を降りたガラーティはリビア隊司令部参謀長に就任した。司令官のジュゼッペ・ロンバルディ提督(Giuseppe Lombardi)を補佐する役目を担った。枢軸軍の反撃でトブルクが解放されると、トブルク軍港の司令官も兼任した。後にリビア艦隊の総司令部がベンガジから移転され、トブルクに新たなリビア艦隊総司令部が設置されている。ロンバルディ提督は英軍のトブルク軍港奇襲作戦(アグリーメント作戦)を完全に粉砕することに成功し、英軍側に甚大な被害を与えたが、ガラーティはこの作戦迎撃には関与していなかったようだ。とはいえ、戦闘や空襲で深く傷ついたトブルク軍港の復旧にガラーティは尽力した。
1943年2月1日からは第14駆逐戦隊の司令官に再度就任したが、最早地中海の制海権は連合軍側に奪われており、最早ガラーティが戦果を挙げられる場はなかった。7月25日に海軍少将に昇進し、提督となった。46歳での提督の就任は、イタリア海軍でも特に若い提督の一人でもあった。8月12日には軽巡ルイージ・カドルナ」「ポンペオ・マーニョ」「シピオーネ・アフリカーノ」の3隻から構成された軽巡戦隊(旗艦・軽巡「カドルナ」)の司令官に任命され、ターラント軍港に着任短い期間ながら、本土沿岸の機雷敷設任務に従事し、連合軍の本土侵攻に備えた。一応、この時に設置された機雷原は後の連合軍によるイタリア半島進撃時にいくつかの艦船を撃沈する戦果を挙げている。それはまさしく、「イタリア海軍最後の抵抗」と言えるだろう。

しかし、9月8日に突如休戦の知らせが届き、ド・クールタン参謀長から連合国への艦隊の降伏を命じられる。ガラーティはこの命令に対して拒否を宣言し、連合軍の進軍から逃れるために北部へ艦隊を移送するか、特攻覚悟の艦隊決戦、更には名誉のための自沈を主張した。上官であるブリヴォネージ提督は「王の命令である」とガラーティの説得に当たったが、ガラーティは頑なに命令の遂行を拒否し意見を曲げなかった。ブリヴォネージは仕方なく、ガラーティを軍港内で"命令拒否による叛逆罪"として「逮捕」することを決断し、軍港内の独房に閉じ込められた。連合軍がターラント軍港を制圧した後、ガラーティはブリンディジに移転した海軍司令部に連行されている。
ガラーティは軍事法廷で裁かれることとなったが、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世自ら裁判の停止を要請し、ガラーティを現役復帰させることを命じた。これを受け、ド・クールタン参謀長はガラーティに対し、何のペナルティも負わせずにそのまま現役に復帰させている。ガラーティは王党派であったが、このエピソードは彼の国王への忠誠心を更に高めることとなった
その後、チェファロニア島でドイツ軍の包囲下となっている「アックイ」師団の存在を知り、ド・クールタン参謀長の承認を得て、水雷艇「シリオ」及び「クリオ」医薬品、武器、弾薬、補給品を搭載し、救援に出発。しかし、連合軍側がこの出発に気付き、無許可の出撃を「救出は理由付けであり、実際は連合軍の支配下から逃れようとしている」と非難、任務を中止して帰還するよう警告した。ガラーティは立場上従わざるを得ず、これにより、「アックイ」師団の救出は連合軍側の介入で失敗することとなり、「アックイ」師団はドイツ軍によって虐殺された。もし、連合軍側の妨害がなく、彼が「アックイ」の救援に迎えていれば、5000人以上の命を救うことが出来ただろう。連合軍側は「アックイ」の将兵らを見殺しにしたのである。
その後、ティレニア艦隊司令官に短期間就任した後、海軍省付属となった。戦後、共和政移行に伴い、熱心な王党派であったガラーティは予備役となり、これまでの武勲を称えてイタリア軍事勲章が叙勲されているイタリア軍事勲章はサヴォイア軍事勲章と同格の「イタリア軍最高の名誉」とされる勲章であり、共和政移行後に王政時代のサヴォイア軍事勲章に替わる形で成立した。王党派であるガラーティが共和政となったイタリアの最高位の勲章を叙勲されたのは皮肉と言える。最終階級は海軍中将。1955年に退役し、1971年10月15日にローマにて没した。

 

◆主要参考文献
・Aldo Cocchia著 "Convogli -Un marinaio in guerra 1940-1942", 2004, Mursia
・Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori
・B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori
・Giuseppe Fioravanzo著 "La Marina Italiana nella Seconda Guerra Mondiale. Vol. V: La Guerra nel Mediterraneo – Le azioni navali: dal 1º aprile 1941 all'8 settembre 1943", Ufficio Storico della Marina Militare, 1960
・Giorgio Giorgerini著 "La guerra italiana sul mare. La Marina tra vittoria e sconfitta 1940-1943", 2002, Mondadori