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イタリア海軍の「魔改造」  ー旧式戦艦の大改装と商船改造空母ー

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イタリア海軍の「魔改造

第二次世界大戦時のイタリア海軍は世界第4位の規模と実力を持ち、欧州における枢軸国最強の海軍であった。しかし、その一方でイタリアは他列強のような工業の効率化が思うように進まず、仮想敵であるフランスにも及ばなかった。現在でこそ欧州随一の工業地帯を有し、欧州の軍事産業を牽引する北イタリアであるが、当時はそこまで発展していなかった。まぁ、南イタリアに比べれば工業化されていたが。
その結果、艦隊の増強に関しても、工業生産力の不足ゆえに、大型艦に関しては一から新造艦を作るのではなく、既存の艦船を大規模改装するやり方がしばしば取られた。戦争準備を進める上では新型建造は中型・小型艦が優先され、コストが掛かる大型艦は資材・時間を節約するため、一から建造するよりも、大規模な改装の方が効率的だったからだ。
そんなイタリア海軍の苦渋の選択としての大規模改装だが、その改装っぷりは他国のそれとは一線を凌駕する徹底的なものであり、改装前と改装後では面影すら残さない程であった。新造艦と見違える程の「魔改造」からもイタリアの建艦能力の高さが窺える。
今回は、そのイタリア海軍の「魔改造」の代表格とも言える、旧式戦艦(コンテ・ディ・カヴール級およびカイオ・ドゥイリオ級)の近代化改装と、商船改造空母(「アクィラ」及び「スパルヴィエロ」)の事例を紹介したいと思う。

 

⬛︎旧式戦艦の大改装
第一次世界大戦後、成立したムッソリーニ政権は、地中海の制海権を手に入れ「新ローマ帝国」の創設を目指した。この野望のためには艦隊の増強は不可欠であり、その膨張政策に伴い海軍予算も増えていき、海軍は旧式化した艦艇の刷新と新造艦の建造を進めることが出来るようになった。しかし、国際情勢の著しい変化により、イタリア海軍が一から主力艦を建造するには時間も資材も工業生産力も足りなかった第一の仮想敵であるフランス海軍は新造戦艦のダンケルク級を1932年に起工したが、イタリア海軍には第一次世界大戦時の旧型戦艦であるコンテ・ディ・カヴール級2隻(3隻が建造されたが、3番艦の「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は第一次世界大戦時に戦没した)とカイオ・ドゥイリオ級2隻のみであり、既に旧式化が否めなかったのである。イタリア海軍はこれに対抗するため、新造戦艦としてリットリオ級戦艦4隻(「リットリオ」「ヴィットリオ・ヴェネト」「ローマ」及び「インペロ」)の建造を進める一方で、旧式戦艦であるコンテ・ディ・カヴール級2隻及びカイオ・ドゥイリオ級2隻に対して急遽近代化改装を施し、主力戦艦8隻体制によって地中海の制海権掌握を狙ったのであった。


◆コンテ・ディ・カヴール級戦艦

■新造艦と見間違う大規模な近代化改装

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近代化改装後の戦艦「コンテ・ディ・カヴール」

一連の主力艦隊増強プロジェクトで最初に着手されたのが、当時就役していたイタリア戦艦の中で最も旧式であったコンテ・ディ・カヴール級2隻の近代化改装であった。コンテ・ディ・カヴール級は1番艦の「コンテ・ディ・カヴール」2番艦の「ジュリオ・チェーザレ、そして3番艦の「レオナルド・ダ・ヴィンチで構成されていたが、3番艦の「レオナルド」は先述した通り、第一次世界大戦時に戦没(ターラント軍港にて爆沈)して失われたために、「カヴール」と「チェーザレ」の2隻のみが戦後も生き残った。
2隻の近代化改装プロジェクトはフランチェスコ・ロトゥンディ技術中将(Francesco Rotundi)によって提案され、リットリオ級4隻の中継ぎとしてコンテ・ディ・カヴール級2隻の近代化改装が行われた。ネームシップである「コンテ・ディ・カヴール」は元々1910年8月に起工され、1915年4月に就役した。満載排水量は25,086トンで、全長は168.9m速力は21.5ノットと低速である。一方の2番艦である「ジュリオ・チェーザレ1910年6月に起工され、「カヴール」より早い1914年6月に就役した。満載排水量は「カヴール」と同じ25,086トンだが、全長は僅かに大きく176.1mである。速力は「カヴール」同様に21.5ノットと低速であった。「カヴール」と「チェーザレ」は共に第一次世界大戦時はイタリア主力戦艦の1隻として参加し、「カヴール」はアブルッツィ侯(軽巡の艦名の由来になったドゥーカ・デッリ・アブルッツィ)率いる主力艦隊の旗艦として栄光の戦歴を歩んでいる。

さて、コンテ・ディ・カヴール級2隻の改装で最も注目したいのは機関の変更である。当然、21.5ノットという低速では他列強の新戦艦に対抗することは出来ないため、主力艦隊に追従するためにもリットリオ級の30ノットに近い高速能力は欲しいと考えられた。燃料が石炭と重油の混合から重油に統一し、機関の変更によって馬力は従来の3倍を発揮、その結果速力は28ノットにまで向上し、イタリア海軍の柔軟な艦隊運用を可能としたのであった。

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改装前のコンテ・ディ・カヴール級戦艦。左が1番艦の「コンテ・ディ・カヴール」、右が2番艦の「ジュリオ・チェーザレ」である。

一方、防御に関しては新たに新型の「プリエーゼ式水雷防御システム」が導入された。ウンベルト・プリエーゼ造船大将(Umberto Pugliese)によって考案されたこの構造は複雑であるが画期的な水雷防御システムである。日本ではターラント港空襲時の「カヴール」の甚大な被害によって過小評価されつつあるが(というか古い認識が刷新されていない)、これは港湾内という水深が浅い環境故に雷撃の威力が増幅されたことと、プリエーゼ式水雷防御の範囲外である船底に攻撃を食らったことが原因であり、プリエーゼ式水雷防御システム自体の「欠陥」とは言えない。実際、実戦ではプリエーゼ式水雷防御システムは正常に効果を発揮し、特にリットリオ級は度々戦場で雷撃を受けているが、ダメージを軽減して自力の航行で帰港しているため、プリエーゼ式水雷防御は効果的な防御システムであったと評価出来るだろう。ただ、構造が複雑なためコストは掛かった

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コンテ・ディ・カヴール級戦艦に搭載されたIMAM Ro.43水偵。第二次世界大戦時の標準的なイタリア海軍の水上偵察機で、その汎用性と信頼性の高さから大戦期を通じて使用されている。派生として第二次世界大戦時のイタリアの主力水上戦闘機として使われたIMAM Ro.44水上戦闘機がある。ヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館にて、筆者撮影。

武装に関しては改装前は46口径305mm三連装砲が3基に加え、同連装砲が2基50口径120mm単装砲18基50口径76mm単装砲が22基を装備。更に450mm魚雷発射管を3基装備していた(この頃の戦艦には魚雷が搭載されたケースは珍しいものではなかった)。これが改修後は44口径320mm三連装砲2基及び同連装砲2基50口径120mm連装砲6基47口径100mm連装高角砲4基54口径37mm連装機関砲4基65口径20mm連装機関砲6基に変更され、更に魚雷発射管は撤去された。また、艦載偵察機としてIMAM Ro.43水偵が4機搭載され、国産のカタパルトを搭載し、カタパルト発進して水上偵察を担当している。
改装によって船体は大型化したが、高速性能を発揮するための形状に改装された。改修前の満載排水量が25,086トンだったのに対し、改修後は29,100トンまで増加。全長も改装前は「カヴール」は168.9m、「チェーザレ」は176.1mだったが、改装後は2隻とも186.4mにまで増えている。

 

■改装後のコンテ・ディ・カヴール級の戦歴

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近代化改装後の戦艦「ジュリオ・チェーザレ

こうして、コンテ・ディ・カヴール級は対抗するダンケルク級の就役に間に合わせる形で1937年6月に改装を終えて再就役を果たした。コンテ・ディ・カヴール級の改修終了と入れ替わる形でカイオ・ドゥイリオ級2隻の近代化改装が開始されたため、第二次世界大戦のイタリア参戦時(1940年6月)に至るまで、イタリア海軍で行動可能な主力戦艦2隻としてコンテ・ディ・カヴール級は機能している(参戦時点でリットリオ級2隻は竣工していたが、戦闘準備が整っていなかった)。そもそも、イタリア海軍は参戦が最短でも1942年頃と見越していたため、準備が整っていなかったのは当然と言えよう。
近代化改装を終えたコンテ・ディ・カヴール級は、早速1938年5月のナポリ沖の観艦式でお披露目となった。改修前の姿とは全く異なる外見の徹底的な近代化改装は、まるで新造戦艦と見違えるほどの「魔改造」であった。イタリア海軍特有の苦しい事情があったとはいえ、この「魔改造」からもイタリアの造船技術の高さが伺えるだろう。この観艦式にはイタリアに来訪したヒトラーも見学に参加し、この時、戦艦「コンテ・ディ・カヴール」には国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世ムッソリーニ統帥と共にヒトラーも乗艦している
ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が開戦すると、イタリアは当初は中立を宣言したが、ドイツ軍が英仏軍を圧倒(しているように見えた)すると、1940年6月にムッソリーニは英仏に宣戦布告し、準備不足のままイタリアは第二次世界大戦に参戦することになった。イタリアの参戦時点で、新造戦艦であるリットリオ級の「リットリオ」及び「ヴィットリオ・ヴェネト」は竣工はしていたが、出撃準備は整っておらず、出撃可能なイタリア海軍の戦艦はコンテ・ディ・カヴール級2隻に限られた

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イニーゴ・カンピオーニ提督(Inigo Campioni)。第二次世界大戦初期のイタリア主力艦隊の司令長官を務め、プンタ・スティーロ海戦やテウラダ岬沖海戦などの主要な海戦を指揮した。プンタ・スティーロ海戦の勝利により、「イタリア軍最高の名誉」であるサヴォイア軍事勲章を叙勲されている人物であるが、それと同時にサヴォイア軍事勲章と並ぶ「イタリア軍最高の名誉」とされる金勲章(メダリア・ドロ)を叙勲された最高齢の人物としても知られた。サヴォイア軍事勲章と金勲章を共に叙勲された軍人は珍しく、他の代表例としてはアレクサンドリア軍港襲撃の武勲で知られる「デチマ・マス」のユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ中佐(Junio Valerio Borghese)がいる。

イタリア第一艦隊司令長官イニーゴ・カンピオーニ提督(Inigo Campioni)はコンテ・ディ・カヴール級2番艦であるジュリオ・チェーザレ」を旗艦とし、僚艦の「コンテ・ディ・カヴール」も第一艦隊に所属した。6月末にフランスが降伏して地中海戦線が伊英両海軍の戦場に変化、7月には地中海戦線初の大規模海戦である「プンタ・スティーロ海戦(英語名ではカラブリア沖海戦)」が発生し、これに「ジュリオ・チェーザレ」及び「コンテ・ディ・カヴール」は参加した。旗艦「チェーザレ」の44口径320mm三連装砲の一斉射撃によって、英艦隊の駆逐艦「ヘレワード」及び駆逐艦「デコイ」が小破したが、チェーザレ」も敵艦隊旗艦である英戦艦「ウォースパイト」の砲撃が機関室に直撃するという被害を受けた。イタリア海軍側は既に船団輸送任務を成功させていた上に、英艦隊のマルタ到達を阻止したことから海戦自体はイタリアの戦略的勝利(ムッソリーニはこれを一大勝利として称えた)で終わったが、「チェーザレ」は海戦での損害からラ・スペツィア軍港で翌月の1940年8月までドッグ入りしている。なお、「プンタ・スティーロ海戦」の戦闘の様子はロベルト・ロッセリーニ監督の映画『白い船(La Nave Bianca)』にて詳細に描かれているので、気になる人は是非見て欲しい。近日中に日本語字幕版のDVDが発売するので、丁度良い機会だろう。なお、映画に登場する戦艦はコンテ・ディ・カヴール級の2隻ではなく、リットリオ級の2隻である。

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ターラント軍港内で沈んだ「コンテ・ディ・カヴール」。浮揚・修復されたが、戦列に復帰することはなかったため、事実上の喪失として扱われている。

その後も伊英海軍の地中海の内外での戦いは一進一退の状況であったが、1940年11月11日深夜から翌朝早朝に掛けて、英海軍は大胆にも空母艦載機によるターラント軍港への直接攻撃を実行。このターラント港空襲」によって、ターラント港に集結していた主力戦艦6隻の内3隻が被害を受け、「カヴール」「リットリオ」「ドゥイリオ」の3隻が大破してしまった。この結果、地中海の制海権は大きく英海軍側に傾くこととなった。「リットリオ」及び「ドゥイリオ」はその後修復されて戦列に復帰したが、「カヴール」は被害が甚大であったことから、修復と同時に再度の大規模な近代化改装が行われることになり、国産電探(レーダー)の設置を含む対空兵装の改装トリエステ海軍工廠で行われた。ターラント空襲の苦い経験を克服するための改装であったが、往々にして他の軍艦の建造や修復が優先されたために改装は遅れがちになり、結局1943年9月の休戦まで「カヴール」の修復は終わることはなかった。そのため、「カヴール」は第一次世界大戦時の輝かしい戦歴とは対照的に、第二次世界大戦時では目立った戦果を挙げられないままにその戦歴を終えることになったのである。休戦後、「カヴール」はドイツ軍に鹵獲された後、1945年2月の連合軍によるトリエステ空襲によって転覆、戦後に浮揚され、スクラップとして解体された。
一方の2番艦「チェーザレ」はターラント空襲で無傷であったことから、その後も主力戦艦の1隻として活躍した。ターラント空襲の結果、被害を受けなかった主力戦艦3隻(「チェーザレ」「ヴィットリオ・ヴェネト」「アンドレア・ドーリア」)はナポリ軍港に移されたが、ターラント空襲から一週間も経たない11月17日には、「チェーザレ」と「ヴィットリオ・ヴェネト」を主軸とする主力艦隊は英海軍のマルタ救援作戦「ホワイト」を迎撃し、この航空機輸送作戦を頓挫させることに成功した。英海軍は航空機14機の内9機を失う大損害を被っている。こうして、ターラント空襲の結果愉悦に浸っていた英海軍の出鼻を挫くことに成功した。
更に10日後の11月27日には「チェーザレ」を旗艦とするイタリア主力艦隊はマルタ輸送船団を護衛する英主力艦隊を迎撃し、交戦した。「テウラダ岬沖海戦」と呼ばれるこの海戦(「スパルティヴェント岬沖海戦とも呼ばれる」)は両艦隊の痛み分けに終わったが、イタリア海軍は未だ地中海における一大脅威であると英海軍に認識させるには十分な戦果を挙げている。テウラダ岬沖海戦後、旗艦は「チェーザレ」から「ヴィットリオ・ヴェネト」に変更されたが、主力戦艦の一隻としての立場は変わらなかった。
その後も英海軍のマルタ船団襲撃に他の主力戦艦と共に駆り出されている。1941年1月の英軍によるナポリ空襲で損害を受け2月までラ・スペツィア軍港で修復を受けた後、復帰直後に英海軍のジェノヴァ砲撃迎撃に参加した。1941年12月の第一次シルテ湾海戦ではチェーザレ」は戦艦「ドーリア」と共に主砲斉射によって、英駆逐艦キプリング」の甲板に攻撃を加え、中破させることに成功し、自軍の護衛対象であるリビア輸送船団を無事送り届けている1942年1月には再度リビア船団の輸送船団に参加したが、その後は燃料不足により戦闘任務としての出撃は制限されることになり、終戦までポーラ軍港での訓練任務に従事することになった。

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ソ連海軍の賠償艦として引き渡され、戦艦「ノヴォロシースク」として就役した戦後の「ジュリオ・チェーザレ」。ソ連海軍の軍艦機が艦首に確認できる。

1943年9月のイタリア王国の休戦時に、「チェーザレ」では休戦に反対して士官らの「叛乱」が発生したことで知られている。叛乱だけでなく、艦隊の降伏に対して絶望して自害する士官もいた。まるで映画『日本のいちばん長い日』のような惨状だったことは容易に想像が出来る。「チェーザレ」のヴィットーリオ・カルミナーティ艦長(Vittorio Carminati)の機転によってこの「叛乱」は鎮圧され、叛乱を主導した士官らは軍事裁判を受けて逮捕された(とはいえ、判決は軽く、その後海軍に復帰した)。結局、王の命令に従い、マルタにて連合軍に降伏した「チェーザレ」は連合軍によってエジプトのグレートビター湖に係留され、戦後はイタリア戦艦を求めるソ連海軍に賠償艦として引き渡されることになったのであった。
1949年2月、「チェーザレ」はソ連戦艦「ノヴォロシースク」と改称され、黒海艦隊に配属となった。しかし、1955年10月に謎の爆沈(イタリア海軍による破壊工作という説もある)を遂げ、その波乱な生涯を閉じたのであった。


◆カイオ・ドゥイリオ級戦艦

■二番目の近代化改装

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近代化改装後の戦艦「カイオ・ドゥイリオ」

コンテ・ディ・カヴール級2隻に次いで近代化改装が実行された戦艦が、カイオ・ドゥイリオ級の2隻であった。カイオ・ドゥイリオ級は1番艦の「カイオ・ドゥイリオ」2番艦の「アンドレア・ドーリアで構成された。カイオ・ドゥイリオ級は近代化改装が完了したコンテ・ディ・カヴール級と入れ替わる形で改装が開始され、フランチェスコ・ロトゥンディ技術中将の主導で近代化改装が行われている。カイオ・ドゥイリオ級2隻もリットリオ級4隻が竣工するまでの中継ぎとしての役目であった。
カイオ・ドゥイリオ級はコンテ・ディ・カヴール級の次級として第一次世界大戦中に就役した戦艦である。ネームシップである「カイオ・ドゥイリオ」は1912年2月に起工され、1915年5月に竣工2番艦の「アンドレア・ドーリア」は1912年3月に起工され、1916年6月に竣工した。第一次世界大戦時にはイタリア最新鋭の戦艦であったが、大戦中はさしたる活躍はせずに終戦を迎えている。アドリア海での戦いは小型艦が中心であったため、仕方がないかもしれない。
カイオ・ドゥイリオ級の2隻もコンテ・ディ・カヴール級の2隻同様に主力艦隊への随伴が出来る高速能力が求められた。元々の機関は21.5ノットと低速であったが、改装後は27ノットの高速能力を手に入れた。

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近代化改装前のカイオ・ドゥイリオ級戦艦。左が1番艦の「カイオ・ドゥイリオ」、右が2番艦の「アンドレア・ドーリア」。

武装に関して見てみよう。改装前の主砲は46口径305mm三連装砲が3基に加え、同連装砲が2基とコンテ・ディ・カヴール級の2隻と同じである。45口径152mm単装砲16門45口径76mm単装砲19門40口径76mm単装砲6門39口径40mm機関砲2門に加え、450mm魚雷発射管が3基が搭載された。改装後は44口径320mm三連装砲2基及び同連装砲2基45口径135mm三連装砲4基50口径90mm高角単装砲10基54口径37mm連装機関砲6基及び同単装機関砲3基65口径20mm二連装対空機関砲8基に変更され、魚雷発射管は撤去された。なお、アンドレア・ドーリア」に搭載されていた50口径90mm高角単装砲は現在もミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館にて展示されているため、実物を見に行くことが可能である。防御システムに関してはコンテ・ディ・カヴール級やリットリオ級と同様にプリエーゼ式水雷防御システムを搭載した。
改装によって船体は大型化し、満載排水量は改修前が25,200トンであったのに対し、改修後は29,000トンに増加全長は改修前が176.1mであったが、改修後は186.9mとなっている。

■カイオ・ドゥイリオ級の戦歴

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近代化改装後の戦艦「アンドレア・ドーリア

カイオ・ドゥイリオ級の戦歴を見てみよう。コンテ・ディ・カヴール級の近代化改装の終了に交代する形で、カイオ・ドゥイリオ級は1937年4月に近代化改装を開始した。しかし、改装の終了は第二次世界大戦には間に合わず、イタリアが参戦した後に戦列に復帰することになった。1番艦の「ドゥイリオ」は1940年7月に再就役し、2番艦の「ドーリア」は更に遅れて1940年10月に再就役している。再就役後、「ドゥイリオ」はカルロ・ベルガミーニ提督(Carlo Bergamini)率いる第五戦艦戦隊の旗艦となり、遅れて就役したドーリア」も再就役後は同戦隊所属となった。「ドゥイリオ」及び「ドーリア」はイタリアの主力戦艦の1隻として、英船団の迎撃や自軍輸送船団の護衛に駆り出された
「ドゥイリオ」は就役後、1940年8月にはアンジェロ・イアキーノ提督(Angelo Iachino)率いる主力艦隊と共に英海軍のマルタ輸送作戦「ハッツ」の迎撃に参加している。9月にも「ドゥイリオ」は英主力艦隊の迎撃に出撃し、西地中海に進出した。その後、10月には「ドーリア」が再就役し、第五戦艦戦隊に所属。戦力を追加された第五戦艦戦隊はギリシャ作戦の開始に伴い、東地中海に睨みを利かせるためにターラント軍港に他の主力艦と共に集結した。

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戦艦「アンドレア・ドーリア」の50口径90mm高角単装砲。ミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館にて。筆者撮影。

しかし、1940年11月11日深夜から12日早朝に掛けて、英空母搭載機がターラント軍港を襲撃し(「ターラント空襲」)、ドーリア」は無傷であったが、「ドゥイリオ」は魚雷を受けて大破する事態になった。この被害によって、「ドゥイリオ」は翌年1941年の5月まで修復することになり、行動不能に陥った。一方の「ドーリア」はターラント空襲を無傷で乗り切ったため、残存の主力艦と共にナポリ軍港に移った。ホワイト作戦やテウラダ岬沖海戦で「チェーザレ」及び「ヴィットリオ・ヴェネト」が迎撃に出撃する中、ドーリア」は母港の留守を守る役割を果たしている。
テウラダ岬沖海戦後、海軍首脳部が再編されたことにより、第五戦艦戦隊も再編され、「ドーリア」に加えて「チェーザレ」が第五戦艦戦隊の所属になっている。その後ドーリア」は英海軍のマルタ船団の迎撃に駆り出され、1941年1月にはエクセス作戦迎撃に参加。続いて、2月にはジェノヴァ砲撃作戦の迎撃任務にも従事している。

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カルロ・ベルガミーニ提督(Carlo Bergamini)。「ドゥイリオ」を旗艦とする第五戦艦戦隊の司令官で、船団護衛任務を中心とする数々の作戦を指揮した。一般的には休戦時のイタリア主力艦隊司令長官として知られ、リットリオ級戦艦「ローマ」と共に運命を共にしたことで知られる。昨日までの友軍であるドイツ軍に殺されたベルガミーニ提督であるが、彼自身も艦隊を連合軍に降伏させることは内心では反対しており、艦隊を連合軍に降伏させるのではなく、中立国の港に避難させるか、「名誉のため」に自沈する決意をしていた。

5月には「ドゥイリオ」がターラント空襲で受けた損害を回復し、第五戦艦戦隊に復帰。11月には「ドゥイリオ」を旗艦とし、軽巡1隻及び駆逐艦6隻で構成された護衛艦隊が輸送船団の護衛任務に従事し、リビアに船団を無事送り届けた。12月には再度大規模船団が編成され、「ドゥイリオ」及び「ドーリア」はイアキーノ提督率いる主力艦隊と共にリビアへの船団護衛任務に従事した。「ドゥイリオ」は輸送船団の直接護衛を担当し、「ドーリア」はその他の主力戦艦と共に先行する間接護衛艦隊に所属した。
この輸送作戦の際、シルテ湾でヴァイアン提督率いる英艦隊と遭遇し、第一次シルテ湾海戦が発生した。海戦では「ドゥイリオ」率いる直接護衛艦隊は船団の護衛を担当し、「ドーリア」を含む間接護衛艦隊が英艦隊との交戦を担当した。この海戦ではドーリア」が「チェーザレ」と共に英駆逐艦キプリング」に主砲斉射を命中させ、中破させることに成功している。英艦隊の撃退に成功したイタリア主力艦隊はリビア船団を無傷で送り届けることに成功したのであった。
「ドゥイリオ」及び「ドーリア」は、1942年1月初旬にリビアへの船団護衛任務を実行し、更に同月末にもリビア船団の護衛に従事した。いずれも船団を無傷で北アフリカまで輸送することに成功している。2月中旬には「ドゥイリオ」は英海軍のマルタ救援船団の迎撃に出撃し、船団を撃退して英海軍の作戦を頓挫させることに成功している。更には同月末にギリシャ方面とシチリアからの輸送船団の護衛に従事し、ターラントまで無事に送り届けた。
船団護衛を中心とする数々の作戦に参加した第五戦艦戦隊の「ドゥイリオ」と「ドーリア」であったが、燃料の不足によって「チェーザレ」と同様に出撃は抑制されることになり、ターラント軍港における訓練任務に従事している。しかし、連合軍がイタリア半島に迫ってくると、戦闘任務に復帰し、ベルガミーニ提督の後任として第五戦艦戦隊の司令官に就任したアルベルト・ダ・ザーラ提督(Alberto Da Zara)の指揮の下、ターラント軍港の防衛の要として作戦に従事、連合軍のイタリア侵攻に備えた
1943年9月の休戦を迎えたことにより、カイオ・ドゥイリオ級の2隻は他の主力艦と共にマルタで連合軍に降伏したが、他の主力艦とは異なりエジプトで抑留されず、マルタに留まった後、1944年6月には連合国側がカイオ・ドゥイリオ級の2隻をイタリアの港に戻ることを許可したため、戦争の残りの期間を南イタリアの海で過ごした。
波乱の戦争を終えたカイオ・ドゥイリオ級2隻であったが、旧式戦艦だったこともあり、1947年の講和条約でも連合国側の賠償艦に割り当てられることはなく、戦後もイタリア海軍に所属することが許された戦後は砲術訓練艦として使用された後、1956年に2隻とも除籍され、スクラップとして解体されたのであった。


⬛︎商船改造空母

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イタロ・バルボ空軍元帥(Italo Balbo)。イタリア史上唯一の空軍元帥であり、「イタリア空軍の父」としてイタリア空軍の威信を世界に示した空軍の英雄。しかし、航空戦力の独占を進めたため、海軍に対しては空母保有を断固反対するだけでなく、有力な海軍航空隊すらも保有させなかった。空軍にとっては英雄であっても、海軍にとっては海軍航空隊を壊滅させた張本人である。

第一次世界大戦前から戦間期に掛けてイタリアは世界的に見ても航空先進国として知られ、世界で初めて戦争に航空機を投入したのは伊土戦争時のイタリア軍だった。航空史において多大な功績を残したイタリアだが、それにもかかわらず、第二次世界大戦時にはドイツやソ連と共に空母を持たない主要国の一角であった。
しかし、第一次世界大戦時のイタリア海軍は多くの航空戦力を擁し、水上機母艦から発進した水上戦闘機が数多くの敵機を撃墜するなど戦果を挙げたジブリ映画『紅の豚』の主人公であるポルコも、第一次世界大戦時は海軍航空隊のエースパイロットという設定である)。
だが、そんな栄光のイタリア海軍航空隊も、ファシスト政権期には一変する。イタリア空軍が独立したからである。イタロ・バルボ空相(Italo Balbo, イタリア唯一の空軍元帥)率いるイタリア空軍は陸軍航空隊を前身としたが、航空戦力の独占を掲げ、海軍航空隊を吸収したのであった。バルボは政府内でも屈指の実力者であり、ムッソリーニも空軍贔屓であったため、海軍は冷遇されたのであった。まさに、ドイツにおけるゲーリング率いる空軍とヒトラーの関係によく似ていると言えよう。ファシストナチスの独裁者にとって空母というものは相性が悪いのかもしれない。
海軍航空隊は以前の1/10の規模まで縮小された上に、旧式機ばかりしか残されず、空母の建造計画を提案しようものなら、空軍の激しい反対に遭って計画は頓挫した。空軍としては地中海の中心に位置するイタリア半島は「不沈空母」であるから、イタリア海軍が地中海で活動する限り、海軍が空母を持つ必要は全くない、というスタンスであった(そもそも第二次世界大戦ではイタリア海軍は大戦初期から大西洋やインド洋など空軍の管轄外でも活動しているのだが...)。
だが、その一方でドメニコ・カヴァニャーリ参謀長(Domenico Cavagnari)率いる海軍側も健気にも空母の建造計画をあの手この手で計画し続けたどれもペーパープランのみで実現はしなかったものの、コスト削減のための双胴空母など、中々興味深い設計計画は多い

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ジュゼッペ・ヴァッレ空軍大将(Giuseppe Valle)。1933年から1939年まで空軍参謀長を務めた。バルボ空相の右腕として数々の空軍イヴェントを開催し、イタリア空軍の威信を世界に示した一方で、強硬的なバルボとは対照的に地中海戦略において海軍の必要性を認識し、空母建造や海軍航空隊の拡充に対して柔軟な対応を行った。

第二次世界大戦に近づくに連れて空母の有用性が再認識され、更に空軍参謀長に海軍の航空戦略に寛容なジュゼッペ・ヴァッレ空軍大将(Giuseppe Valle)が就任してからは、状況が変化していったが、結局国際情勢の著しい変化により、大戦勃発までに空母を建造することはなかった
イタリア海軍が空母建造に本格的に着手するのは第二次世界大戦が開戦してからである。ターラント空襲やマタパン岬沖の大敗で英海軍の空母の威力を見せつけられたイタリア海軍は、空母の有用性を再確認することになり(流石のムッソリーニもこれらの結果により「イタリア半島不沈空母論」を放棄している)、一からの建造では間に合わないため、従来から計画されていた商船改造空母計画を進めることになったのであった。
また、空軍はあれ程自信に満ち溢れていたにもかかわらず、実戦では海軍との連携を全く取れず、プンタ・スティーロ海戦では航空支援に間に合わないばかりか、帰路のイタリア主力艦隊に対して誤爆する有様であった。スペイン内戦で敵主力艦を撃沈した戦訓から艦船攻撃に水平爆撃を採用していたことも、戦果を減らす要因になった(しかし、その後雷撃機や急降下爆撃機の導入により多くの戦果を挙げられるように改善された)。これらの空軍の不手際が海軍の空母建造を決意させたと言えよう。また、空母建造に激しく反対していたバルボ空軍元帥が1940年6月末に味方からの誤射で戦死し、空母建造の障害が取り除かれたことも大きかっただろう。
こうして建造されたのが、同型の豪華客船「ローマ」及び「アウグストゥス」を改造した、空母「アクィラ」及び「スパルヴィエロ」である。残念ながら完成間近の状況でイタリア王国は突如休戦したため未完に終わったが、同じ設計の客船(姉妹艦同士)を改造した商船改造空母にもかかわらず、全く異なる見た目になった点は非常に興味深い。
もっとも、例え完成したとしても、連合軍に完全に制海権を握られた1943年中盤以降の地中海戦線ではロクに活躍も出来なかったと思われるが...


◆空母「アクィラ」

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終戦後の空母「アクィラ」。

第二次世界大戦のイタリア参戦後、当初は戦力が拮抗状態にあった伊英海軍だが、ターラント空襲に引き続き、テウラダ岬沖海戦でも英空母の機動的攻撃力を認めざるを得なかったカヴァニャーリ海軍参謀長は以前より計画していた客船「コンテ・ディ・サヴォイア」の空母改造計画をムッソリーニに進言したが、一連の敗北の責任を取る形でカヴァニャーリ提督は海軍参謀長の地位を更迭されたために、この計画案は頓挫した。
後任として海軍参謀長に就任したアルトゥーロ・リッカルディ海軍大将(Arturo Liccardi)はカヴァニャーリより柔軟に空母建造計画に対処した。リッカルディ参謀長はこれまで進められていた諸案をまとめ、客船「ローマ」及びその姉妹船である「アウグストゥス」の2隻の空母への改造案に絞った。このうち、「ローマ」を空母に改造したものが「アクィラ」である。

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空母「アクィラ」の前身となった、客船「ローマ」。1939年時には客船としての近代化改装も予定されていた。

「アクィラ」及び「スパルヴィエロ」の改装工事はマタパン岬沖海戦で「艦隊防空戦力の欠如」を深く認識したため、急速に建造が進められれことになったが、「アクィラ」の改装は1936年の緊急改造案を踏襲した「スパルヴィエロ」とは異なり、一から建造した空母に見違える程の徹底された改造であった。
まず、機関は建造中止となった2隻のカピターニ・ロマーニ級高速軽巡「パオロ・エミーリオ」及び「コルネリオ・シッラ」のものを流用した。なお、余った「コルネリオ・シッラ」の船体は空母に偽装されて、連合軍の爆撃のオトリとして使われた。実際、連合軍は「シッラ」を軽空母と誤認しており、連合軍側を欺くことに成功している。カピターニ・ロマーニ級は実に40ノットを超える高速を発揮した軽巡洋艦であり、その心臓部ともいえる機関2隻分を「アクィラ」は搭載することになった。これにより、客船「ローマ」時代は22ノットであった速力は30ノットにまで向上し、主力艦隊の随伴艦としても申し分ないスペックを発揮したのである。

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空中から撮影された空母「アクィラ」。ドイツ製のカタパルト2基が甲板上に見える。

航空艤装に関してはドイツ海軍からの支援により、国産カタパルトを装備するリットリオ級戦艦や「スパルヴィエロ」とは異なり、ドイツ製カタパルトが2基、艦種部に設けられたドイツ製の部品をいくつか用いたことにより、同じく未完で終わった空母「グラーフ・ツェッペリン」に設計が似ている。これは、ドイツ海軍は既に「グラーフ・ツェッペリン」の工事を中止しており、空母への興味を失っていたため、建造中止になった二番艦の「ペーター・シュトラッサー」の艤装品がイタリアに贈られたためである。
「アクィラ」の搭載機はレッジャーネ Re.2001OR戦闘爆撃機で、搭載数は51機であった。FIAT社のG.50も計画されたが、性能的にリットリオ級に搭載されていたレッジャーネRe.2000にも劣っていたため、Re.2001との比較審査で敗れてしまったRe.2001はRe.2000を上回る高性能を誇り、更に艦隊防空用の迎撃機としてのみならず、艦上攻撃機としても使用可能で、敵艦隊に対して爆撃及び雷撃も実施できるマルチロール機体として期待されたのであった。このため、搭載機は全て単一の機体のみで占められた折り畳み翼を採用すれば搭載数は15機増えて総計66機が搭載できるはずであったが、結局折り畳み翼は間に合わず、搭載数は51機のままであった。また、国産ヘリコプターのピアッジオ PD3も試験運用されたが、採用はされずに終わっている。なお、海軍艦艇の搭載機のパイロットは全て空軍所属となっている。

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空母「アクィラ」に搭載されていた64口径65mm単装高角砲。ラ・スペツィア海軍技術博物館にて、筆者撮影。

アイランド式空母として正規空母並みの見た目となった「アクィラ」は満載排水量27,800トン、全長は235.5mであった。兵装は45口径135mm単装砲8門、64口径65mm単装高角砲12門、65口径20mm六連装機銃が22基である。このうち、64口径65mm単装高角砲は戦後の解体時に外されたものが、ラ・スペツィアの海軍技術博物館にて展示されており、実物を見ることが可能だ。
「アクィラ」の改装が開始されたのはマタパン岬沖海戦後の1941年7月である。空母の航空隊としては空軍の第160航空隊の第393, 394, 375中隊が担当することになっており、訓練が1943年から開始された。これらの部隊はサルデーニャ島北部のオルビア・ヴェナフィオリータ基地所属の部隊である。順調に建造が進められていた「アクィラ」であったが、完成率が99%と完成間近のところで1943年9月に休戦を迎えた突如の休戦を迎えた「アクィラ」はドイツ軍によるジェノヴァ制圧により、ドイツ海軍に接収されることになった。
救出されたムッソリーニが北部・中部イタリアを支配する「イタリア社会共和国(RSI政権)」を誕生すると、潜水艦隊司令長官のアントニオ・レニャーニ提督(Antonio Legnani)、海軍最高司令部(スーペルマリーナ)のジュゼッペ・スパルツァーニ提督(Giuseppe Sparzani)、「デチマ・マス」のユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ中佐(Junio Valerio Borghese)らを中核としてRSI海軍(MNR)が発足「アクィラ」は未完成ながら形式上はこの新生ファシスト海軍の所属となった。
しかし、「アクィラ」の建造は以後も進められることはなく、作戦行動に出ることはなかった本来の計画では1943年9月に海上公試が行われる予定であったが、休戦の混乱で頓挫し、空母航空隊も解散した。1944年6月の連合軍によるジェノヴァ空襲を受けて「アクィラ」は損害を受け、更に1945年4月には共同交戦海軍(連合国側の「共同交戦国」として戦う王立イタリア海軍)の旧「デチマ・マス」隊員で構成された特殊部隊「マリアッサルト」の人間魚雷部隊の襲撃を受け、「アクィラ」は大破着底終戦時にはまだ浮いていたとする資料もある)する被害を受けたのであった。イタリア初の空母は、同胞の手によって撃破されるという哀れな末路を辿った
最終的に、戦後の1946年に浮揚され、1949年にラ・スペツィアに移動、客船「ローマ」として再改装するこもと考慮されたが、最終的にコストの高さからこの計画は見送られ、1952年に解体されている。「アクィラ」はドイツの「グラーフ・ツェッペリン」と同様に、完成間近でありながらも未完成で終わった悲しき空母と言えるだろう。

 

◆空母「スパルヴィエロ」

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空母「スパルヴィエロ」

「アクィラ」として改造された「ローマ」と共に、姉妹船の「アウグストゥス」も空母に改造された。それが「スパルヴィエロ」である。客船時代は殆ど違いが無かった2隻だが、「スパルヴィエロ」の設計は「アクィラ」のそれとは大きく異なっていた
設計は1936年時に提案された緊急改造空母案を基本とし、いくつかの改正が施されている。この案は元々エチオピア戦争に伴う世界情勢の変化により立案されたものだが、結局ムッソリーニが現航空兵力で十分に対応可能であると判断したためにお蔵入りになっていたものであった。
アイランド型を採用した「アクィラ」とは異なり、「スパルヴィエロ」はフルフラット空母であり、「アクィラ」のような正規空母並みの大改装ではなく、あくまで客船時代の構造を残す緊急改造となっている。そのため、機関は「アクィラ」とは違って客船時代のままであり、そのため速力は客船時代と殆ど変わらず19ノットと低速であった。防御力を増幅するためにバルジが設けられ、結果として客船時代よりも速力が低下したのである。そのためか「護衛空母」という艦種とされ、低速ゆえに艦隊の随伴艦は難しいことから、船団護衛を担当した。

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「アクィラ」及び「スパルヴィエロ」の搭載機として運用されたレッジャーネ Re.2001OR艦上戦闘爆撃機。基本的には艦隊防空用であるが、いざと言うときは敵艦隊への攻撃も行えるマルチロール機として期待された。空母航空隊の訓練も行われたが、肝心の空母が2隻とも完成しなかったため、結局お蔵入りになった。

搭載機は「アクィラ」と同じレッジャーネRe.2001OR戦闘爆撃機であり、搭載数は35機計画段階ではIMAM Ro.63連絡機も搭載して対潜哨戒も担当したが、戦局が進むに連れて連絡機による対潜作戦は不可能となり、「アクィラ」同様にRe.2001ORのみに絞られている。これ以外にも、16機の艦上戦闘機と共に9機の爆撃機/雷撃機を搭載する案もあったが、機体の選定は未定で終わった
特徴的な設計はその艦首部にある幅約5mの細長い発艦甲板だろう。ここにリットリオ級に装備されていたもの同様の圧縮空気式の国産カタパルト1基が装備され、搭載機を発進させる仕組みになっている。この特異な設計は世界でも類を見ないものである(運用は難しそうだが)。飛行甲板の前後に設けられたエレベーター2基も、飛行機の形をした十字形になっているのも興味深い設計だ。このエレベーターは格納庫と連絡している。

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「スパルヴィエロ」の前身となった客船「アウグストゥス」。「アクィラ」の前身となった「ローマ」とは姉妹船であり、構造は殆ど同じである。

全長は216.65m満載排水量は28,000トンである。兵装は対空重視で、採用された兵器は基本的に「アクィラ」とほぼ同じであり、45口径135mm単装砲8門、64口径65mm単装高角砲12門、65口径20mm六連装機銃4基となっている。

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ジェノヴァ港にて閉鎖艦として自沈させられた「スパルヴィエロ」。水面から出た艦首部分には、幅約5mの細長い発艦甲板の支柱の残骸が見える。

1942年7月にイタリア海軍に接収された「アウグストゥス」は、空母改造を見据えてまず「ファルコ」と改称された。その後、「スパルヴィエロ」と再度改称され、同年10月から空母への改装工事が開始されている。工事開始時点ではイタリア海軍が地中海の制海権を握っていたが、まもなく同年11月にはトーチ作戦によって米軍を主体とする連合軍が地中海に進出し、北アフリカ戦線は窮地に陥った。この結果、1943年半ばには地中海の制海権は再度連合軍側に渡り、イタリア海軍は燃料の枯渇も重なり、出撃すら困難になっていった。

「スパルヴィエロ」は資材や時間を節約した緊急改装であったが、「アクィラ」の改装に重点が置かれていたこともあり、その工事は遅れがちになっていた。客船時代の上部構造物は撤去され、全体の完成率は60%程度というところで1943年9月、突如の休戦を受け入れることになったのであった。
休戦後、「スパルヴィエロ」は他の残存艦と共にドイツ軍に鹵獲されている。形式上はイタリア社会共和国(RSI)海軍の管轄になった「アクィラ」とは異なり、「スパルヴィエロ」はドイツ軍に鹵獲された後もドイツ海軍籍のままとなり、改装が再開することもなく、1944年10月にジェノヴァ港にて閉鎖艦として自沈させられることになったのであった。こうして、「スパルヴィエロ」は完成することなく、戦後の1947年にイタリア海軍によって浮揚され、1951年にはスクラップとして売却されたのである。

 

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水上機母艦「ジュゼッペ・ミラーリア」。空母2隻が結局完成しなかったため、第二次世界大戦時のイタリア海軍唯一の航空機搭載母艦である。

「アクィラ」及び「スパルヴィエロ」の他にも、重巡ボルツァーノ」を艦隊防空用の航空巡洋艦として改装する案や、リットリオ級戦艦「インペロ」の本格的な空母改装案が存在したが、いずれも計画が進展せずにペーパープランのみで終わることになった。


空母ではなく水上機母艦であるが、「ジュゼッペ・ミラーリア」はイタリア海軍唯一の航空機搭載艦は戦間期第二次世界大戦期を通じて活躍した。元々客船として建造されていた「チッタ・ディ・メッシーナ」を建造途中でイタリア海軍が購入して水上機母艦に改造、1927年11月に竣工。Ro.43水偵やRo.63連絡機を用いた海上偵察/哨戒やRe.2000戦闘爆撃機のカタパルト実験、植民地等各基地への航空機輸送から上陸作戦時の戦車揚陸艦としての役割まで、多種多様な「多機能艦」として活躍した。
戦後は遠征地の将兵の復員に使われた「ジュゼッペ・ミラーリア」だったが、旧式の水上機母艦だったこともあり、講和条約でイタリアが空母の保有が禁止された後(後に冷戦により改訂)もイタリア海軍に所属し、工作艦として使用された。しかし、戦後間もない1950年には除籍され、イタリア海軍唯一の航空機搭載艦はその生涯を終えたのであった。なお、千歳型のように「ジュゼッペ・ミラーリア」を空母に改装する案はなかったようだ。というのも、「ジュゼッペ・ミラーリア」は他国の空母と比べてみても小型で、空母に改装するには向いていなかったためとされる。


ちなみに、空母「カヴール」が就役した2008年4月からイタリア海軍は空母保有数でアメリカ海軍に次ぐ世界第2位の地位にあった。しかし、2019年12月に英海軍の空母「プリンス・オブ・ウェールズ」、中国海軍(中国人民解放軍海軍)の空母「山東」が就役したことにより、単独ではなく同率2位になってしまった。

 

◆主要参考文献
・Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori
・Giorgio Giorgerini著 "La guerra italiana sul mare. La Marina tra vittoria e sconfitta 1940-1943", 2002, Mondadori
・B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori
・ Mario Avagliano, Marco Palmieri著 "L'Italia di Salò 1943-1945", 2017, il Mulino
・『世界の艦船』 1961年10月号 No.50号
・瀬名堯彦著『仏独伊 幻の空母建造計画』, 2016,
光人社NF文庫
吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939-1945』, 2006, イカロス出版
吉川和篤著『Viva! 知られざるイタリア軍』.2012, イカロス出版
・Luciano著『La Guida Italiana per gli Appassionati di Storia Militare e i Fascisti ―ミリオタとファシストのためのイタリア旅行ガイド―』, 2018, しまや出版
◆取材協力
ミラノ:「レオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館(Museo Nazionale della Scienza e della Tecnologia "Leonardo da Vinci")」<訪問日時2017/5/12>
ラ・スペツィア:「海軍技術博物館(Museo Tecnico Navale)」<訪問日時2016/2/9,2017/4/15>
ヴェネツィア:「海洋史博物館(Museo Storico Navale)」<訪問日時2016/2/4,2017/6/24,2017/9/3>
ローマ:「軍旗慰霊堂博物館(Museo Sacrario delle Bandiere)」<訪問日時2017/3/31>

ブラッチャーノ:「ヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館(Museo storico dell'Aeronautica Militare di Vigna di Valle)」<訪問日時2018/2/7>
バーリ:「バーリの海外戦没者祈念施設(Sacrario dei caduti d'oltremare di Bari)」<訪問日時2018/1/31>