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幸運艦か、不運艦か? 歴戦の駆逐艦「ヴィンチェンツォ・ジョベルティ」の波瀾の戦歴

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駆逐艦「ヴィンチェンツォ・ジョベルティ」

駆逐艦「ヴィンチェンツォ・ジョベルティ」はオリアーニ級駆逐艦の1隻(2番艦)で、1936年9月19日に進水、1937年10月27日に就役した。艦名の由来はリソルジメント期にサルデーニャ王国首相を務めた同名の哲学者に由来する。

 

◆1940年の戦歴

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プンタ・スティーロ海戦(Battaglia di Punta Stilo)

イタリア参戦時(1940年6月10日)は第9駆逐戦隊(旗艦:駆逐艦「アルフィエーリ」)に所属し、マッテウッチ提督率いる第一巡洋戦隊(旗艦:重巡「ザラ」)と行動を共にした開戦時の艦長はアウレリオ・ラッジョ中佐である。

開戦から2日後に第9駆逐戦隊の一員として、第一巡洋戦隊及び第八巡洋戦隊(旗艦:軽巡「アブルッツィ」)、第16駆逐戦隊(旗艦:駆逐艦「レッコ」)と共にイオニア海の哨戒任務に出撃したのが大戦時の初出撃である。
7月に入ると北アフリカ船団の護衛に従事した後、7月9日には地中海戦線初の大規模海戦となった「プンタ・スティーロ海戦(カラブリア沖海戦)」に参加カンピオーニ提督率いる第一艦隊(旗艦:戦艦「ジュリオ・チェーザレ」)と共に英艦隊と交戦、敵艦隊に対して雷撃を発射したが、距離が遠すぎて効果は無かった。同海戦はイタリア艦隊が英艦隊の撃退に成功し、伊海軍の勝利に終わった。

 

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テウラダ岬沖海戦(Battaglia di Capo Teulada)

7月末から翌月始めにかけて、再度北アフリカ船団の護衛に従事ターラント空襲の結果を受けて、母港をナポリに移動した後、11月27日に発生した「テウラダ岬沖海戦(スパルティヴェント岬沖海戦)」に参加イアキーノ提督率いる第二艦隊(旗艦:重巡「ポーラ」)と共に英艦隊と交戦。ホラント提督率いる英巡洋艦隊に対して戦局を有利に展開している。
12月にはギリシャ戦線の支援のために姉妹艦「アルフィエーリ」及び「カルドゥッチ」と共に出撃し、イオニア海沿岸からギリシャ軍部隊に対して艦砲射撃を実行、陸軍の作戦行動を空軍と共に支援した。

 

◆1941年の戦歴

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マタパン岬沖海戦(Battaglia di Capo Matapan)

1941年に入ると、ギリシャ戦線方面の海軍作戦が本格化したため、再度陸軍部隊の支援に出撃し、ギリシャ軍基地への直接の艦砲射撃を実行して陸軍を支援した。伊エーゲ海艦隊の連戦連勝によりギリシャ作戦における戦局が好転していたため、ドイツ海軍の要請でイアキーノ提督率いる主力艦隊(旗艦:戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」)が東地中海方面に派遣されると、「ジョベルティ」を含む第9駆逐戦隊は、カッターネオ提督率いる第一巡洋戦隊(旗艦:重巡「ザラ」)と共に出撃し、3月28日の「マタパン岬沖海戦」に参加したのである。

しかし、空母「フォーミダブル」の艦載雷撃機の攻撃を受け、重巡「ポーラ」が行動不能になり、その救援に第一巡洋戦隊及び第9駆逐戦隊が向かった。「ジョベルティ」はそこでイタリア海軍最大の悪夢を経験することになった。
夜間戦闘の中で、レーダーを持たないイタリア艦隊は敵艦隊の位置を補足できず戦艦3隻(「ウォースパイト」「ヴァリアント」「バーラム」)を含む英主力艦隊から十字砲火を受けることとなった。
「ジョベルティ」もこの十字砲火を受けたが、姉妹艦「カルドゥッチ」が脱出のために煙幕を張って英艦隊に立ち向かったことにより、最後尾の「オリアーニ」と共に運良く無傷で脱出することに成功した。この海戦では、姉妹艦である「カルドゥッチ」及び「アルフィエーリ」、そして重巡3隻(「ザラ」「ポーラ」「フィウーメ」)も撃沈され、マタパン岬沖海戦は悲惨極まる大敗北となったのであった。

 

マタパン岬の地獄から帰還した「ジョベルティ」は、4月から船団護衛任務に従事することになり、これは大戦終盤まで続くことになった。

以下、簡略にこれを説明する。


4月末-5月初旬:アウグスタ-トリポリ間の船団護衛

英軍雷撃/爆撃機編隊と潜水艦による連続の襲撃を受けたが、撃退に成功。船団(ドイツアフリカ軍団の支援物資)は無傷で目的地に到着

6月初旬:トリポリ北東沖の機雷原敷設

6月末:ナポリ-トリポリ間の船団護衛
英軍爆撃機編隊の襲撃を受けたが撃退、無傷で護衛成功

7月中旬:ターラント-トリポリ間の船団護衛
英潜水艦からの雷撃を受けたが回避、撃退に成功船団は無傷で目的に到着

8月初旬:ナポリ-トリポリ間の船団護衛
ランペドゥーザ島南方沖にて英軍機の襲撃を受け1隻の輸送船が撃沈残りの船団は無事に到着

8月中旬:ナポリ-トリポリ間の船団護衛
2隻の英潜水艦の襲撃に遭遇、2隻目(「ユニーク」)の雷撃が命中し、兵員輸送船1隻が撃沈。迅速な救助によって犠牲者を最小限(死者31名)に留め、1139人を救助することに成功している。

8月末-9月初旬:ターラント-トリポリ間の船団護衛
英潜水艦の雷撃を受けたが回避、撃退に成功。なお、この時船団を襲撃した潜水艦「アップホルダー」は英海軍潜水艦で撃沈トン数No.1を誇る潜水艦(総撃沈トン数:93,031トン)である。

9月中旬:ターラント-トリポリ間の船団護衛
英潜水艦4隻(「アップホルダー」「アンビーテン」「アップライト」「アーシュラ」)による集中攻撃を受け、2隻の輸送船が撃沈。迅速な救助活動により乗員計5818人のうち、5434人の救助に成功。

 

9月24日には英海軍の輸送船団「ハルバード」迎撃のため、イアキーノ提督率いる主力艦隊(旗艦:戦艦「リットリオ」)と共にナポリを出撃。イタリア側は雷撃機の攻撃によって英戦艦「ネルソン」を小破させ、また輸送船を撃沈するなど英船団に打撃を与えたが、戦力的に不利であったため撤退、船団を完全に阻止させることには失敗した。
ハルバード」船団迎撃の後、艦長が変更され、新たにヴィットーリオ・プラート中佐が新艦長に就任した。

 

10月初旬:ナポリ-トリポリ間の船団護衛
ミズラータ沖にて英軍雷撃機編隊の襲撃を受け、輸送船1隻が撃沈

10月中旬:ナポリ-トリポリ間の船団護衛
英潜水艦の襲撃を受けたが、輸送船は撃沈を免れて1隻が損傷したのみ。しかし、その後トリポリ近海にて英軍爆撃機編隊の攻撃により輸送船1隻が撃沈

11月中旬:トリポリ-ターラント間の船団護衛
英艦隊の存在を確認したが回避に成功無傷で到着

12月初旬:パトラ(ギリシャ)-デルナ間の燃料高速輸送
駆逐艦「マエストラーレ」と共に北アフリカ戦線用の燃料を緊急輸送無傷でこれを成功

 

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第一次シルテ湾海戦(Prima battaglia della Sirte)

12月13日はベルガミーニ提督率いる第五戦艦戦隊(旗艦:戦艦「カイオ・ドゥイリオ」)と共に北アフリカ戦線向けの「M41」船団を護衛し、ターラントを出発してベンガジを目指したが、合流予定であった戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」がアウグスタ沖にて英潜水艦の雷撃を受けたため、作戦は一時的に中断され撤退した。
12月16日にはイアキーノ提督率いる主力艦隊(旗艦:戦艦「リットリオ」)と共に再度出撃し、M42」船団の護衛任務に従事した。このため、船団護衛中に発生した「第一次シルテ湾海戦」にも参加したが、「ジョベルティ」は特にこれといった戦果は挙げていない。この海戦において、英艦隊は軽巡ネプチューン」及び駆逐艦「カンダハー」が撃沈、軽巡「オーロラ」「ペネロペ」及び駆逐艦キプリング」「ニザム」が損傷する被害に合った一方、イタリア艦隊は無傷で海戦を終了し、本来の目的である船団護衛に成功した。

 

◆1942年の戦歴

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パンテッレリーア沖海戦(Battaglia di Pantelleria)

1942年に入ると、年始から「ジョベルティ」は任務に従事した。ベルガミーニ提督率いる第五戦艦戦隊(旗艦:戦艦「ドゥイリオ」)と共に大規模船団「M43」を護衛し、トリポリまで無傷で船団を送り届けた
「ジョベルティ」はしばらく北アフリカ沿岸に留まった後、2月初旬にナポリ港に戻ったが、その後近代化改修を受けて武装が強化された。特に対潜装備と対空兵装が重点的に強化され、対潜ソナーの装備や対空機関銃・爆雷投下機の刷新は船団護衛戦の効率化が期待された

5月に改修を完了して再就役し、6月から再度任務に従事した。しかし、改修後の「ジョベルティ」は何とも幸先の悪いスタートを切った6月13日にはダ・ザーラ提督が指揮する第七巡洋戦隊に追従する第十駆逐戦隊の一員として、英「ハープーン」船団の迎撃に当たるはずであったが、カリャリを出港したものの、「ジョベルティ」と「ゼーノ」は機関の不調で速力が維持出来ず(輸送船の速度にすら及ばなかった)、パレルモ港に留まることとなったのである。なお、ダ・ザーラ艦隊はその後発生した「パンテッレリーア沖海戦」で戦艦1隻及び空母2隻を含む英主力艦隊を相手に圧倒的勝利を手に入れたのであったが、「ジョベルティ」はパレルモ港に留まったため、この勝利の海戦に参加すら出来なかったのである。

 

機関の不調を修理した「ジョベルティ」には新たにジャンロベルト・ブルゴス中佐が艦長に就任した。
さっそく8月中旬、ナポリ-トリポリ間の船団護衛に従事したが、ここでも「ジョベルティ」は不運に見舞われた。17機の英軍雷撃機編隊の襲撃に加えて、英潜水艦「P44」の襲撃を受けた。この襲撃により「ジョベルティ」艦長のジャンロベルト・ブルゴス中佐も重傷を負い、67名が負傷、18名が死亡している。副艦長のジュリオ・ルスキ中尉が何とか艦を指揮し、トラーパニ港まで撤退することに成功した。ブルゴス艦長は負傷のため艦の指揮を離れ、新たにピエトロ・フランチェスコ・トーナ中佐が艦長に就任している。


トーナ新艦長のもとで10月に任務を再開、10月中旬にナポリ-トリポリ間の船団護衛に従事した。し、英潜水艦3隻(「アンベンディング」「P32」「P37」)の襲撃を受け、輸送船1隻に加えて、同行していた駆逐艦「ヴェッラッツァーノ」も撃沈される被害に遭った。「ジョベルティ」は爆雷を投下したが、損傷を与えたものの撃沈することには失敗している。

11月初旬には再度ナポリ-トリポリ間の船団護衛に従事。英軍機編隊による連続の襲撃を受けたが、対空砲火によってこれを撃退し、船団を無傷で目的地に到着させた。この直後、トーチ作戦によってヴィシー・フランス領北アフリカが連合軍によって制圧されたため、地中海の制海権は連合軍有利になり、イタリア海軍は苦しい戦いを強いられることになってしまった。

 

◆1943年の戦歴
1943年1月初旬には、輸送船がカプリ島沖で機雷に接触して沈没したことを受けて、生存者の救出に出撃、これを迅速に救出することに成功している。1943年5月13日、北アフリカ方面軍司令官であるメッセ元帥が降伏したことを受け、北アフリカ戦線は完全に崩壊した。これに伴い「ジョベルティ」も主力艦隊と共にラ・スペツィア軍港に移動している。その後は連合軍機の度々の空襲に悩まされ、何度か損害を受けている。

制海権は連合国側に渡り、燃料も遂に枯渇しかけている状態のため、今まで幾度も出撃していた「ジョベルティ」の活動も消極的になった。7月初旬にはラ・スペツィアからラ・マッダレーナへ移動した際に英潜水艦の雷撃を受けたが回避に成功、爆雷を投下して潜水艦を撃退した。最早イタリア本土周辺ですら連合軍艦隊は我が物顔で航行する有様であった。
7月末に王党派クーデターによってムッソリーニが失脚、新たにバドリオ元帥による軍事政権が成立した。バドリオ政権は水面下では連合軍との和平交渉を進めたが、表面上は交戦継続を表明したために連合軍との闘いは終わらなかった(そもそも一部の高官を除き和平交渉は知らされていない)。

 

◆「ジョベルティ」の最期

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爆沈する駆逐艦「ヴィンチェンツォ・ジョベルティ」

8月初旬、新艦長としてカルロ・ザンパーニ中佐が就任した

8月9日、ザンパーニ新艦長の元で初任務に出撃したが、それは「ジョベルティ」の最後の航海となったのである。
フィオラヴァンツォ提督率いる第八巡洋戦隊(旗艦:軽巡ガリバルディ」)がラ・スペツィアからジェノヴァに移動するため、「ジョベルティ」は「カラビニエーレ」及び「ミトライエーレ」と共に巡洋戦隊を護衛することになった。

1943年8月9日午後18時24分、プンタ・メスコ沖にてイタリア艦隊を補足した英潜水艦「シムーン」は旗艦である軽巡ガリバルディ」に対して4本の魚雷を発射した。ガリバルディ」はこれを回避したが、不運なことにその先にいた「ジョベルティ」に通り過ぎた魚雷2本が命中、撃沈されたのであった。

「ジョベルティ」のその波瀾の戦歴はあっさりと幕を閉じたのである。