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イタリア空母開発の迷走 ー未成空母「アクィラ」と「スパルヴィエロ」の"艦歴"ー

⬛︎商船改造空母

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2隻の空母(「アクィラ」及び「スパルヴィエロ」)の比較

 

以前書いた記事が自分で確認する時も長いな、と思ったので空母の項だけ別個の記事を作ってみました。

↓こちらの記事です(前半部分は旧式戦艦の大改装について)

 

associazione.hatenablog.com

 

 

第一次世界大戦前から戦間期に掛けてイタリアは世界的に見ても航空先進国として知られ、世界で初めて戦争に航空機を投入したのは伊土戦争時のイタリア軍だった。航空史において多大な功績を残したイタリアだが、それにもかかわらず、第二次世界大戦時にはドイツやソ連と共に空母を持たない主要国の一角であった。
しかし、第一次世界大戦時のイタリア海軍は多くの航空戦力を擁し、水上機母艦から発進した水上戦闘機が数多くの敵機を撃墜するなど戦果を挙げたジブリ映画『紅の豚』の主人公であるポルコも、第一次世界大戦時は海軍航空隊のエースパイロットという設定である)。

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イタロ・バルボ空軍元帥(Italo Balbo)。イタリア史上唯一の空軍元帥であり、「イタリア空軍の父」としてイタリア空軍の威信を世界に示した空軍の英雄。しかし、航空戦力の独占を進めたため、海軍に対しては空母保有を断固反対するだけでなく、有力な海軍航空隊すらも保有させなかった。空軍にとっては英雄であっても、海軍にとっては海軍航空隊を壊滅させた張本人である。

だが、そんな栄光のイタリア海軍航空隊も、ファシスト政権期には一変する。イタリア空軍が独立したからである。イタロ・バルボ空相(Italo Balbo, イタリア唯一の空軍元帥)率いるイタリア空軍は陸軍航空隊を前身としたが、航空戦力の独占を掲げ、海軍航空隊を吸収したのであった。バルボは政府内でも屈指の実力者であり、ムッソリーニも空軍贔屓であったため、海軍は冷遇されたのであった。まさに、ドイツにおけるゲーリング率いる空軍とヒトラーの関係によく似ていると言えよう。ファシストナチスの独裁者にとって空母というものは相性が悪いのかもしれない。
海軍航空隊は以前の1/10の規模まで縮小された上に、旧式機ばかりしか残されず、空母の建造計画を提案しようものなら、空軍の激しい反対に遭って計画は頓挫した。空軍としては地中海の中心に位置するイタリア半島は「不沈空母」であるから、イタリア海軍が地中海で活動する限り、海軍が空母を持つ必要は全くない、というスタンスであった(そもそも第二次世界大戦ではイタリア海軍は大戦初期から大西洋やインド洋など空軍の管轄外でも活動しているのだが...)。
だが、その一方でドメニコ・カヴァニャーリ参謀長(Domenico Cavagnari)率いる海軍側も健気にも空母の建造計画をあの手この手で計画し続けたどれもペーパープランのみで実現はしなかったものの、コスト削減のための双胴空母など、中々興味深い設計計画は多い

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ジュゼッペ・ヴァッレ空軍大将(Giuseppe Valle)。1933年から1939年まで空軍参謀長を務めた。バルボ空相の右腕として数々の空軍イヴェントを開催し、イタリア空軍の威信を世界に示した一方で、強硬的なバルボとは対照的に地中海戦略において海軍の必要性を認識し、空母建造や海軍航空隊の拡充に対して柔軟な対応を行った。

第二次世界大戦に近づくに連れて空母の有用性が再認識され、更に空軍参謀長に海軍の航空戦略に寛容なジュゼッペ・ヴァッレ空軍大将(Giuseppe Valle)が就任してからは、状況が変化していったが、結局国際情勢の著しい変化により、大戦勃発までに空母を建造することはなかった
イタリア海軍が空母建造に本格的に着手するのは第二次世界大戦が開戦してからである。ターラント空襲やマタパン岬沖の大敗で英海軍の空母の威力を見せつけられたイタリア海軍は、空母の有用性を再確認することになり(流石のムッソリーニもこれらの結果により「イタリア半島不沈空母論」を放棄している)、一からの建造では間に合わないため、従来から計画されていた商船改造空母計画を進めることになったのであった。
また、空軍はあれ程自信に満ち溢れていたにもかかわらず、実戦では海軍との連携を全く取れず、プンタ・スティーロ海戦では航空支援に間に合わないばかりか、帰路のイタリア主力艦隊に対して誤爆する有様であった。スペイン内戦で敵主力艦を撃沈した戦訓から艦船攻撃に水平爆撃を採用していたことも、戦果を減らす要因になった(しかし、その後雷撃機や急降下爆撃機の導入により多くの戦果を挙げられるように改善された)。これらの空軍の不手際が海軍の空母建造を決意させたと言えよう。また、空母建造に激しく反対していたバルボ空軍元帥が1940年6月末に味方からの誤射で戦死し、空母建造の障害が取り除かれたことも大きかっただろう。
こうして建造されたのが、同型の豪華客船「ローマ」及び「アウグストゥス」を改造した、空母「アクィラ」及び「スパルヴィエロ」である。残念ながら完成間近の状況でイタリア王国は突如休戦したため未完に終わったが、同じ設計の客船(姉妹艦同士)を改造した商船改造空母にもかかわらず、全く異なる見た目になった点は非常に興味深い。
もっとも、例え完成したとしても、連合軍に完全に制海権を握られた1943年中盤以降の地中海戦線ではロクに活躍も出来なかったと思われるが...


◆空母「アクィラ」

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終戦後の空母「アクィラ」。

第二次世界大戦のイタリア参戦後、当初は戦力が拮抗状態にあった伊英海軍だが、ターラント空襲に引き続き、テウラダ岬沖海戦でも英空母の機動的攻撃力を認めざるを得なかったカヴァニャーリ海軍参謀長は以前より計画していた客船「コンテ・ディ・サヴォイア」の空母改造計画をムッソリーニに進言したが、一連の敗北の責任を取る形でカヴァニャーリ提督は海軍参謀長の地位を更迭されたために、この計画案は頓挫した。
後任として海軍参謀長に就任したアルトゥーロ・リッカルディ海軍大将(Arturo Liccardi)はカヴァニャーリより柔軟に空母建造計画に対処した。リッカルディ参謀長はこれまで進められていた諸案をまとめ、客船「ローマ」及びその姉妹船である「アウグストゥス」の2隻の空母への改造案に絞った。このうち、「ローマ」を空母に改造したものが「アクィラ」である。

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空母「アクィラ」の前身となった、客船「ローマ」。1939年時には客船としての近代化改装も予定されていた。

「アクィラ」及び「スパルヴィエロ」の改装工事はマタパン岬沖海戦で「艦隊防空戦力の欠如」を深く認識したため、急速に建造が進められれことになったが、「アクィラ」の改装は1936年の緊急改造案を踏襲した「スパルヴィエロ」とは異なり、一から建造した空母に見違える程の徹底された改造であった。
まず、機関は建造中止となった2隻のカピターニ・ロマーニ級高速軽巡「パオロ・エミーリオ」及び「コルネリオ・シッラ」のものを流用した。なお、余った「コルネリオ・シッラ」の船体は空母に偽装されて、連合軍の爆撃のオトリとして使われた。実際、連合軍は「シッラ」を軽空母と誤認しており、連合軍側を欺くことに成功している。カピターニ・ロマーニ級は実に40ノットを超える高速を発揮した軽巡洋艦であり、その心臓部ともいえる機関2隻分を「アクィラ」は搭載することになった。これにより、客船「ローマ」時代は22ノットであった速力は30ノットにまで向上し、主力艦隊の随伴艦としても申し分ないスペックを発揮したのである。

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空中から撮影された空母「アクィラ」。ドイツ製のカタパルト2基が甲板上に見える。

航空艤装に関してはドイツ海軍からの支援により、国産カタパルトを装備するリットリオ級戦艦や「スパルヴィエロ」とは異なり、ドイツ製カタパルトが2基、艦種部に設けられたドイツ製の部品をいくつか用いたことにより、同じく未完で終わった空母「グラーフ・ツェッペリン」に設計が似ている。これは、ドイツ海軍は既に「グラーフ・ツェッペリン」の工事を中止しており、空母への興味を失っていたため、建造中止になった二番艦の「ペーター・シュトラッサー」の艤装品がイタリアに贈られたためである。
「アクィラ」の搭載機はレッジャーネ Re.2001OR戦闘爆撃機で、搭載数は51機であった。FIAT社のG.50も計画されたが、性能的にリットリオ級に搭載されていたレッジャーネRe.2000にも劣っていたため、Re.2001との比較審査で敗れてしまったRe.2001はRe.2000を上回る高性能を誇り、更に艦隊防空用の迎撃機としてのみならず、艦上攻撃機としても使用可能で、敵艦隊に対して爆撃及び雷撃も実施できるマルチロール機体として期待されたのであった。このため、搭載機は全て単一の機体のみで占められた折り畳み翼を採用すれば搭載数は15機増えて総計66機が搭載できるはずであったが、結局折り畳み翼は間に合わず、搭載数は51機のままであった。また、国産ヘリコプターのピアッジオ PD3も試験運用されたが、採用はされずに終わっている。なお、海軍艦艇の搭載機のパイロットは全て空軍所属となっている。

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空母「アクィラ」に搭載されていた64口径65mm単装高角砲。ラ・スペツィア海軍技術博物館にて、筆者撮影。

アイランド式空母として正規空母並みの見た目となった「アクィラ」は満載排水量27,800トン、全長は235.5mであった。兵装は45口径135mm単装砲8門、64口径65mm単装高角砲12門、65口径20mm六連装機銃が22基である。このうち、64口径65mm単装高角砲は戦後の解体時に外されたものが、ラ・スペツィアの海軍技術博物館にて展示されており、実物を見ることが可能だ。
「アクィラ」の改装が開始されたのはマタパン岬沖海戦後の1941年11月である。空母の航空隊としては空軍の第160航空隊の第393, 394, 375中隊が担当することになっており、訓練が1943年から開始された。これらの部隊はサルデーニャ島北部のオルビア・ヴェナフィオリータ基地所属の部隊である。順調に建造が進められていた「アクィラ」であったが、完成率が99%と完成間近のところで1943年9月に休戦を迎えた突如の休戦を迎えた「アクィラ」はドイツ軍によるジェノヴァ制圧により、ドイツ海軍に接収されることになった。
救出されたムッソリーニが北部・中部イタリアを支配する「イタリア社会共和国(RSI政権)」を誕生すると、潜水艦隊司令長官のアントニオ・レニャーニ提督(Antonio Legnani)、海軍最高司令部(スーペルマリーナ)のジュゼッペ・スパルツァーニ提督(Giuseppe Sparzani)、「デチマ・マス」のユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ中佐(Junio Valerio Borghese)らを中核としてRSI海軍(MNR)が発足「アクィラ」は未完成ながら形式上はこの新生ファシスト海軍の所属となった。
しかし、「アクィラ」の建造は以後も進められることはなく、作戦行動に出ることはなかった本来の計画では1943年9月に海上公試が行われる予定であったが、休戦の混乱で頓挫し、空母航空隊も解散した。1944年6月の連合軍によるジェノヴァ空襲を受けて「アクィラ」は損害を受け、更に1945年4月には共同交戦海軍(連合国側の「共同交戦国」として戦う王立イタリア海軍)の旧「デチマ・マス」隊員で構成された特殊部隊「マリアッサルト」の人間魚雷部隊の襲撃を受け、「アクィラ」は大破着底終戦時にはまだ浮いていたとする資料もある)する被害を受けたのであった。イタリア初の空母は、同胞の手によって撃破されるという哀れな末路を辿った
最終的に、戦後の1946年に浮揚され、1949年にラ・スペツィアに移動、客船「ローマ」として再改装するこもと考慮されたが、最終的にコストの高さからこの計画は見送られ、1952年に解体されている。「アクィラ」はドイツの「グラーフ・ツェッペリン」と同様に、完成間近でありながらも未完成で終わった悲しき空母と言えるだろう。

 

◆空母「スパルヴィエロ」

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空母「スパルヴィエロ」

「アクィラ」として改造された「ローマ」と共に、姉妹船の「アウグストゥス」も空母に改造された。それが「スパルヴィエロ」である。客船時代は殆ど違いが無かった2隻だが、「スパルヴィエロ」の設計は「アクィラ」のそれとは大きく異なっていた
設計は1936年時に提案された緊急改造空母案を基本とし、いくつかの改正が施されている。この案は元々エチオピア戦争に伴う世界情勢の変化により立案されたものだが、結局ムッソリーニが現航空兵力で十分に対応可能であると判断したためにお蔵入りになっていたものであった。
アイランド型を採用した「アクィラ」とは異なり、「スパルヴィエロ」はフルフラット空母であり、「アクィラ」のような正規空母並みの大改装ではなく、あくまで客船時代の構造を残す緊急改造となっている。そのため、機関は「アクィラ」とは違って客船時代のままであり、そのため速力は客船時代と殆ど変わらず19ノットと低速であった。防御力を増幅するためにバルジが設けられ、結果として客船時代よりも速力が低下したのである。そのためか「護衛空母」という艦種とされ、低速ゆえに艦隊の随伴艦は難しいことから、船団護衛を担当した。

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「アクィラ」及び「スパルヴィエロ」の搭載機として運用されたレッジャーネ Re.2001OR艦上戦闘爆撃機。基本的には艦隊防空用であるが、いざと言うときは敵艦隊への攻撃も行えるマルチロール機として期待された。空母航空隊の訓練も行われたが、肝心の空母が2隻とも完成しなかったため、結局お蔵入りになった。

搭載機は「アクィラ」と同じレッジャーネRe.2001OR戦闘爆撃機であり、搭載数は35機計画段階ではIMAM Ro.63連絡機も搭載して対潜哨戒も担当したが、戦局が進むに連れて連絡機による対潜作戦は不可能となり、「アクィラ」同様にRe.2001ORのみに絞られている。これ以外にも、16機の艦上戦闘機と共に9機の爆撃機/雷撃機を搭載する案もあったが、機体の選定は未定で終わった
特徴的な設計はその艦首部にある幅約5mの細長い発艦甲板だろう。ここにリットリオ級に装備されていたもの同様の圧縮空気式の国産カタパルト1基が装備され、搭載機を発進させる仕組みになっている。この特異な設計は世界でも類を見ないものである(運用は難しそうだが)。飛行甲板の前後に設けられたエレベーター2基も、飛行機の形をした十字形になっているのも興味深い設計だ。このエレベーターは格納庫と連絡している。

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「スパルヴィエロ」の前身となった客船「アウグストゥス」。「アクィラ」の前身となった「ローマ」とは姉妹船であり、構造は殆ど同じである。

全長は216.65m満載排水量は28,000トンである。兵装は対空重視で、採用された兵器は基本的に「アクィラ」とほぼ同じであり、45口径135mm単装砲8門、64口径65mm単装高角砲12門、65口径20mm六連装機銃4基となっている。

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ジェノヴァ港にて閉鎖艦として自沈させられた「スパルヴィエロ」。水面から出た艦首部分には、幅約5mの細長い発艦甲板の支柱の残骸が見える。

1942年7月にイタリア海軍に接収された「アウグストゥス」は、空母改造を見据えてまず「ファルコ」と改称された。その後、「スパルヴィエロ」と再度改称され、同年10月から空母への改装工事が開始されている。工事開始時点ではイタリア海軍が地中海の制海権を握っていたが、まもなく同年11月にはトーチ作戦によって米軍を主体とする連合軍が地中海に進出し、北アフリカ戦線は窮地に陥った。この結果、1943年半ばには地中海の制海権は再度連合軍側に渡り、イタリア海軍は燃料の枯渇も重なり、出撃すら困難になっていった。

「スパルヴィエロ」は資材や時間を節約した緊急改装であったが、「アクィラ」の改装に重点が置かれていたこともあり、その工事は遅れがちになっていた。客船時代の上部構造物は撤去され、全体の完成率は60%程度というところで1943年9月、突如の休戦を受け入れることになったのであった。
休戦後、「スパルヴィエロ」は他の残存艦と共にドイツ軍に鹵獲されている。形式上はイタリア社会共和国(RSI)海軍の管轄になった「アクィラ」とは異なり、「スパルヴィエロ」はドイツ軍に鹵獲された後もドイツ海軍籍のままとなり、改装が再開することもなく、1944年10月にジェノヴァ港にて閉鎖艦として自沈させられることになったのであった。こうして、「スパルヴィエロ」は完成することなく、戦後の1947年にイタリア海軍によって浮揚され、1951年にはスクラップとして売却されたのである。

 

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水上機母艦「ジュゼッペ・ミラーリア」。空母2隻が結局完成しなかったため、第二次世界大戦時のイタリア海軍唯一の航空機搭載母艦である。

「アクィラ」及び「スパルヴィエロ」の他にも、重巡ボルツァーノ」を艦隊防空用の航空巡洋艦として改装する案や、リットリオ級戦艦「インペロ」の本格的な空母改装案が存在したが、いずれも計画が進展せずにペーパープランのみで終わることになった。


空母ではなく水上機母艦であるが、「ジュゼッペ・ミラーリア」はイタリア海軍唯一の航空機搭載艦は戦間期第二次世界大戦期を通じて活躍した。元々客船として建造されていた「チッタ・ディ・メッシーナ」を建造途中でイタリア海軍が購入して水上機母艦に改造、1927年11月に竣工。Ro.43水偵やRo.63連絡機を用いた海上偵察/哨戒やRe.2000戦闘爆撃機のカタパルト実験、植民地等各基地への航空機輸送から上陸作戦時の戦車揚陸艦としての役割まで、多種多様な「多機能艦」として活躍した。
戦後は遠征地の将兵の復員に使われた「ジュゼッペ・ミラーリア」だったが、旧式の水上機母艦だったこともあり、講和条約でイタリアが空母の保有が禁止された後(後に冷戦により改訂)もイタリア海軍に所属し、工作艦として使用された。しかし、戦後間もない1950年には除籍され、イタリア海軍唯一の航空機搭載艦はその生涯を終えたのであった。なお、千歳型のように「ジュゼッペ・ミラーリア」を空母に改装する案はなかったようだ。というのも、「ジュゼッペ・ミラーリア」は他国の空母と比べてみても小型で、空母に改装するには向いていなかったためとされる。


ちなみに、空母「カヴール」が就役した2008年4月からイタリア海軍は空母保有数でアメリカ海軍に次ぐ世界第2位の地位にあった。しかし、2019年12月に英海軍の空母「プリンス・オブ・ウェールズ」、中国海軍(中国人民解放軍海軍)の空母「山東」が就役したことにより、単独ではなく同率2位になってしまった。

 

◆主要参考文献
・Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori
・Giorgio Giorgerini著 "La guerra italiana sul mare. La Marina tra vittoria e sconfitta 1940-1943", 2002, Mondadori
・B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori
・ Mario Avagliano, Marco Palmieri著 "L'Italia di Salò 1943-1945", 2017, il Mulino
・『世界の艦船』 1961年10月号 No.50号
・瀬名堯彦著『仏独伊 幻の空母建造計画』, 2016,
光人社NF文庫
吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939-1945』, 2006, イカロス出版
吉川和篤著『Viva! 知られざるイタリア軍』.2012, イカロス出版
・Luciano著『La Guida Italiana per gli Appassionati di Storia Militare e i Fascisti ―ミリオタとファシストのためのイタリア旅行ガイド―』, 2018, しまや出版
◆取材協力
ミラノ:「レオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館(Museo Nazionale della Scienza e della Tecnologia "Leonardo da Vinci")」<訪問日時2017/5/12>
ラ・スペツィア:「海軍技術博物館(Museo Tecnico Navale)」<訪問日時2016/2/9,2017/4/15>
ヴェネツィア:「海洋史博物館(Museo Storico Navale)」<訪問日時2016/2/4,2017/6/24,2017/9/3>
ローマ:「軍旗慰霊堂博物館(Museo Sacrario delle Bandiere)」<訪問日時2017/3/31>

ブラッチャーノ:「ヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館(Museo storico dell'Aeronautica Militare di Vigna di Valle)」<訪問日時2018/2/7>
バーリ:「バーリの海外戦没者祈念施設(Sacrario dei caduti d'oltremare di Bari)」<訪問日時2018/1/31>