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ファシスト・イタリアの金融財政について(1922-1945)

お久しぶりの更新です。今回はファシスト・イタリアの金融財政について、財務相ごとに簡略的にまとめてみました。もしよければご一読ください。

 

◆アルベルト・デ・ステーファニ

Alberto De Stefani 

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アルベルト・デ・ステーファニ

イタリア王国財務相(1922-25)。

ファシスト政権期のイタリア(ムッソリーニ政権)初の財務相として就任した人物で、古参ファシスト党員の経済学者。経済的自由主義を信念としていた。国家の経済介入を排し財政負担を軽減させ、私的イニシアチブの解放と財政再建を目指している
超緊縮財政による財政再建行財政改革を進めて、戦後恐慌を脱して平均4%のGDP増加という目覚しい景気回復を示した。しかし、国民への負担を強いたために不満が高まり、政策の行き詰まりを理由に解任されることとなった。

解任後もファシズム大評議会員としての地位を維持し、国内の学術機関の要職や、中華民国(蒋介石政権)での経済顧問を務めるなど国内外で活躍したが、次第に反ムッソリーニ的言動を展開し、1943年のグランディ決議ではムッソリーニ解任を支持した。

 

◆ジュゼッペ・ヴォルピ
Giuseppe Volpi

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ジュゼッペ・ヴォルピ

イタリア王国財務相(1925-28)。
ヴェネツィアの開発で知られる実業家で、貴族(ミズラータ伯)。伊領トリポリタニア植民地総督を務めた後、デ・ステーファニの後任としてムッソリーニによって財務相に任命されている。

デ・ステーファニの経済的自由主義から保護政策へ転換し、国家による経済介入に舵を切り替えた穀物関税を復活させて、小麦の輸入量を抑えて貿易赤字を縮小させている。また、リラ通貨の安定と金本位制への復帰のためにデフレ政策を行い、大資本による生産の集中と合理化を推し進めた中間層の社会的安定を狙ったリラ切り上げも実行。しかし、デフレ政策は労働者の賃金カットと失業者の増大を同時にもたらした。

財務相辞任後はコンフィンドゥストリア(イタリア経団連)の代表を1943年まで務め、ファシスト・イタリアの生産体制確立の立役者となっている。

 

◆アントニオ・モスコーニ 
Antonio Mosconi

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アントニオ・モスコーニ

イタリア王国財務相(1928-32)。
ヴォルピ財政からの転換を求めるムッソリーニにより登用された。国家財政の再編成と、国家による経済介入の部分的縮小リラ通貨の安定化を目指した。所得申告の義務化と脱税防止策を導入地方財政を統合して既存の税金を合理化し、これにより地方自治体の予算に対する国家の統制を強化した。
リラ切り上げにより緊張化した経済界との関係改善や、外国資本の勧誘を推進
世界恐慌時、危機は一時的なものと判断し、イタリアは影響を受けないと判断したため、対応が不十分であった。そのため、結果的に金融の混乱を招く事になり、結果的にそれの対処が出来ずに解任に追い込まれた。解任後は国立農業銀行の総裁を務めた後、芸術協会「アッカデミーア・オリンピカ」の総長を1944年まで務めた。

 

◆グイードユング
Guido Jung

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イードユング

イタリア王国財務相(1932-35)。

ユダヤ系の出自を持つ古参のファシスト党員。所謂「ユダヤファシスト」の中でも特に政権にとって重要な役割を果たした人物だが、彼もまた1938年のユダヤ人差別法案である「人種法」の制定を受けて公職追放されてしまっている。以降は反ファシズムに転じ、バドリオ政権で財務相を務め、また自由イタリア軍にも加わった。
世界恐慌の影響に対応出来なかったモスコーニ財務相に代わり就任した。彼の財政政策の特徴は大規模なデフレ政策中央集権的な統合と合理化、更に経済顧問のアルベルト・ベネドゥーチェと連携し国家経済の国有化を推進、これによって世界恐慌の影響で混乱に陥った国家財政の救済を目指した。
IRI(イタリア産業復興校舎)の設立により、破産寸前だった大銀行を救済し、軍需産業や電気事業などをイタリア資本の21.49%を傘下に置き、国家の統制下に置いた国家がこれらの重要産業に長期投資をすることで、経済発展に重要な役割を果たしている。
また、軍事費を削減し、大規模な公共事業の建築資金を増加させた。しかし、エチオピア戦争に先駆けてイタリアが戦時体制に移行するとともに解任された。

 

◆パオロ・イニャツィオ

タオン・ディ・レヴェル
Paolo Ignazio Thaon di Revel

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パオロ・イニャツィオ・タオン・ディ・レヴェル

イタリア王国財務相(1935-43)。

名門貴族であるタオン・ディ・レヴェル家出身の古参ファシスト。フェンシング選手としての側面もあり、1920年アントワープ五輪ではイタリア代表として出場し、見事金メダルを獲得している。なお、イタリア海軍唯一の海軍元帥として知られるパオロ・タオン・ディ・レヴェル提督は叔父。よく両者は混同されがち。
エチオピアとの関係悪化により、侵攻計画が現実味を帯びてくると、それに伴い財務相に就任した。「経済ナショナリズム」の強化により、戦時即応体制の準備を進めた彼の財務相時代は、まさしくファシスト・イタリアが冒険的な膨張主義に手を出し、戦争への道を突き進む時代と一致する。

すなわち、戦時下にも対応出来るように、他国への依存を廃するアウタルキー経済を目指した経済と金融の「ファシズム化」を目指し、銀行改革によるシステム合理化、戦争費用で疲弊した財政の回復、新税制度の導入などを実行したが、これを実現するために大幅な増税をし、国民への負担を強いた戦時中は国債をベースに物価安定に尽力民間消費を抑制して物価を調整し、国債以外の投資を制限する事で、戦争経済によるインフレの回避を目的とした。

1943年2月の内閣改造を受けて辞任。その後はグランディ決議までアチェルボ法の提出として知られるジャコモ・アチェルボが財務相に就任したが、方針を定めることが出来ず短期間で辞任となっている。財務相辞任後のタオン・ディ・レヴェルは陸軍砲兵中佐としてシチリア戦に従軍し、休戦後は王国政府・RSI政府双方から距離を置いた。

 

◆ジャンピエトロ・ドメニコ・ペッレグリーニ
Giampietro Domenico Pellegrini 

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ジャンピエトロ・ドメニコ・ペッレグリーニ

 

イタリア社会共和国財務相(1943-45)。
イタリアが内戦状態に陥った事で、北部ファシスト政権(RSI政権)の財務相に任命された。イタリア社会共和国政府唯一の財務相である。ドイツとの金融協定の締結を迫られ、これにより占領軍の占領費負担を余儀なくされたナチ占領軍の搾取に悩まされながらも、北イタリア財政の破綻阻止に尽力した。