Associazione Italiana del Duce -ドゥーチェのイタリア協会へようこそ!-

同人サークル"Associazione Italiana del Duce"の公式ブログです。

ジュネーヴとサヴォイア家の関係史 ―宗教改革にまで至ったジュネーヴにおける反サヴォイア闘争の根源―

アリスター・E・マクグラス著/芳賀力訳『ジャン・カルヴァンの生涯(上):西洋文明はいかにして作られたか』(キリスト教新聞社、2009年)は、北アイルランド出身の神学者アリスター・E・マクグラスによって書かれた、ジャン・カルヴァンの生涯を詳細に綴った革新的な書籍である(以下、本書と書く)。マクグラスは大学では化学と生物学を学び、若くしてマルクス主義に傾倒した異色の神学者だ。この書籍の魅力は、従来のカルヴァン・イメージである「冷酷なジュネーヴの独裁者」というイメージを切り崩し、そのようなカルヴァン・イメージを展開した歴史家や作家の無根拠さを追求、圧倒的な史料の読解によって本来のカルヴァンがどのような人物であったか、ということを明らかにしている点である。それに加え、私が本書を読んで非常に興味深いと思った点は、ジュネーヴで展開されたカルヴァン宗教改革が行われた背景に、サヴォイア家へのジュネーヴ支配への反感があったことである。
ジュネーヴがかつてはサヴォイアの版図の一部であったというのは今で考えると意外になるかもしれない。しかし、ジュネーヴサヴォイア家の支配下に置かれ、そしてジュネーヴサヴォイアの支配から逃れた後も、ジュネーヴサヴォイア、そしてイタリアの歴史とも盛んに関わった。当書評では本書で触れられた、サヴォイアジュネーヴの歴史的な関係を紐解き、本書の記述と自分で調べた内容を交えながら、ジュネーヴにおけるカルヴァン宗教改革が進展するきっかけになった両者の関係をより深く調べてみる事とする。
また、本書では翻訳過程で基本的に用語はフランス語表記、あるいはラテン語表記が用いられているが、一般的にサヴォイア家はイタリア的と見られることが多い為、ここでは基本的にイタリア語表記を用いることとする。

 

f:id:italianoluciano212:20210925092741j:plain

アオスタのローマ遺跡: サヴォイア伯領最初期から領地であったアオスタは、古代ローマ時代には重要な都市として多くの建築が造られた。現在でも多くの建築が残る。

ジュネーヴサヴォイア家の関係史

~宗教改革期に至るまで~

レマン湖の西の湖畔には古代ローマ時代に既に商業の中心地が作られており、これが後のジュネーヴとなった。2世紀後半にディオクレティアヌス帝の統治法改革によって、ジュネーヴガリア・ナルボネンシス地方の市(Civitas)の身分に昇格し、この頃から都市は「ジュネーヴ」の名を使うようになった。古代ローマ時代では、後のサヴォイア伯領もジュネーヴと同じガリア・ナルボネンシス地方の版図であり、アオスタは「アルプスのローマ」と呼ばれるほどの戦略的な要衝として栄えた。1153年、カトリック司教アルドゥートゥス(Ardutius de Faucigny, ?~1185)が「バルバロッサ」と呼ばれた神聖ローマ皇帝フェデリーコ1世(フリードリヒ1世)に取り入り、神聖ローマ帝国帝国都市(主権を持つ都市)の地位がジュネーヴに与えられたのである。
ジュネーヴ帝国都市の地位を与えられる丁度150年前、初代サヴォイアウンベルト1世ビアンカマーノによってサヴォイア辺境伯領が成立した。ブルグント王国崩壊後、サヴォイア伯ウンベルトは神聖ローマ皇帝コンラート2世に取り入った事で、彼から1032年に彼からサヴォイア伯を名乗る事を正式に認められたのである。彼の出自は詳しい事はわからないが、ザクセン人とバイエルン人の血が混じっているとも言われており、今でいうとドイツ系の人物であったようだ。

f:id:italianoluciano212:20210925093034j:plain

ピエトロ2世:サヴォイア伯(1263-68)、リッチモンド伯、フォシニー領主。「ピッコロ・カルロマーニョ(小シャルルマーニュ)」の異名を持った武人。イングランド王ヘンリ3世の王妃エレオノーラの伯父で、イングランド滞在時にロンドンにサヴォイ宮殿を造った事で知られる。そして、彼の時代にジュネーヴサヴォイアの影響下に置かれるようになった。

13世紀初期頃に、サヴォイア伯トンマーゾ1世はサヴォイア伯領を拡大し、現在のヴォー州一帯を支配下に置いた。1265年、ジュネーヴの司教はサヴォイア伯ピエトロ2世のサヴォイア家に司教領代官の事務所を置いた。サヴォイア伯ピエトロ2世はジュネーヴ司教によって、市内の一般信徒のために民放と刑法上の正義を維持する責任者の任命権を与えられたのである。これが、サヴォイア家によるジュネーヴ支配の始まりであった。
サヴォイア伯フィリッポ1世はカトリック教会との関係を強化し、13世紀後半からはジュネーヴではサヴォイア家の権力が非常に高まっていった。叔父であったフィリッポ1世の死によって伯を継承したアメデーオ5世(大公とも呼ばれる)は、ジュネーヴの見本市を重視した。彼はジュネーヴの見本市に向かう商人の安全を保証するように働きかけを行っている。
しかし、14世紀頃になってくると、ジュネーヴ市民とカトリック司教、そしてサヴォイア伯との対立が本格化してくる。丁度アメデーオ5世が即位した時ではサヴォイア伯領は内部が混乱しており、彼の子であるエドアルドとアイモーネの時代もフランスとの戦乱の世であった。この混乱と共に、ジュネーヴでの市民の力も上昇していく。ジュネーヴサヴォイア家の支配下にあったとはいえ、ジュネーヴは市民による議会の力が強く、自立心が非常に強かった。
アイモーネの子であったアメデーオ6世が即位すると、サヴォイア伯領はイタリア方面、すなわちピエモンテへの領土拡大を行う。サヴォイア伯アメデーオ6世は武人として名高く、東ローマ帝国の支援の為に軍を率いてオスマン帝国軍と戦い、1366年にサヴォイア軍はガリポリを奪還する事に成功した(Riconquista di Gallipoli)。サヴォイア艦隊はオスマン帝国艦隊を破ったのであった。アメデーオ6世は軍を率いる時に青い色の旗を使ったが、これは後にイタリアの象徴とも言える色となった。彼の名声は欧州に広がり、サヴォイア家の名声を高めた。ジュネーヴを始めとする支配下のスイス諸都市が自立心を高めていく中、彼は後のサヴォイア家の中心となるピエモンテ方面に力を注いだ。彼はフランスとの国境を確定し、イタリア方面の広大な領土を手に入れたのだ。つまりは、サヴォイア家の「イタリア化」の先駆けとなる人物とも言えるだろう。
しかし、アメデーオ6世の政策はサヴォイア伯領の国庫を圧迫した。彼の死後、伯を継いだ息子のアメデーオ7世は財政難に苦しむことになる。

 

サヴォイア家のジュネーヴにおける支配の強化

そしてその反動とジュネーヴの独立

アメデーオ7世の死後、その息子アメデーオ8世が伯を継いだ。1416年には神聖ローマ皇帝ジギスムントから公爵位を与えられ、以後サヴォイア伯領は「サヴォイア公国」となった。また、彼は1431年のバーゼル公会議教皇エウジェニオ(エウゲニウス)4世と対立し、フランス王国神聖ローマ帝国の支持を取り付け、公会議派の対立教皇フェリーチェ5世(フェリクス5世)として戴冠することになる。彼はサヴォイア家にとって中興の祖であった。
彼の治世になると、サヴォイア家の権力が増大するにつれ、ジュネーヴへの影響力も増した。ジュネーヴ周辺の地域はサヴォイア伯領の版図に完全に組み込まれていった。
アメデーオ8世が対立教皇の称号をやむなく手放し、世俗の君主に完全に戻った1449年、サヴォイア家はジュネーヴ教区の支配を事実上獲得した。彼は教皇の称号を手放したものの、ジュネーヴの司教領代官を含む多くの特権をそのまま保持した。
これ以降、ジュネーヴの司教は完全にサヴォイア家の傀儡となった。1451年に新たに任命された司教はアメデーオ8世の孫であり、まだ8歳になったばかりであった。しかし、サヴォイア家によるジュネーヴ支配の強化は、自立心の強いジュネーヴ市民にとっては非常に耐え難いものであった。
ジュネーヴ内部でも親サヴォイア派のマムリューク派と親ベルン(スイス連邦)派のエーギュノー派で対立が深まっていった。親ベルン派のエーギュノー派は勢力を増していき、彼らはファーレルやヴィレらプロテスタント勢力と結びついていった。

f:id:italianoluciano212:20210925093336j:plain

カルロ2世:サヴォイア公(1504~53)。ジュネーヴ宗教改革当時のサヴォイア公。「善人(IL BUONO)」の異名を持つ。軍事的に才能が無く、フランスとスペインのイタリア戦争に巻き込まれる形でジュネーヴだけでなく本土も失った。その後、唯一残った領土であるヴェルチェッリで一生を終えた。

宗教改革時代のサヴォイア公は1504年に戴冠したカルロ2世であった。カルロ2世は1490年から1496年まで即位したカルロ・ジョヴァンニ・アメデーオ(僅か2歳で戴冠するが、8歳で死去)をサヴォイア公に含む場合はカルロ3世と呼ぶが、イタリアでは一般的にカルロ2世と表記するため、当書評でもそちらに基づいてカルロ2世と表記する。
ジュネーヴでのエーギュノー派の勢力拡大に対して、サヴォイア公カルロ2世はマキャヴェッリ的な軍事的介入でそれに応じた。しかし彼は軍事的に才能が無く、弱かった。1536年、ベルンとフリブールの兵にスイス方面で敗れ、ジュネーヴを失った。そしてイタリア戦争ではサヴォイアスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)率いるスペイン・神聖ローマ帝国側であったため、フランソワ1世のフランス軍によってサヴォイアの都シャンベリーを含むサヴォイア領は陥落した。ジュネーヴ支配だけでなく、本土すらも失ったサヴォイア公カルロ2世は逃亡し、残りの人生を亡命して過ごした。
カルロ2世の敗北によって、ジュネーヴの親サヴォイア派であったマムリューク派は完全に崩壊、彼らと結びついていたカトリック教会も権威を失った。アメデーオ8世から始めるサヴォイア家とカトリック教会によるジュネーヴの支配の強化は、結果的にジュネーヴ市民の反感を買い、逆にジュネーヴの独立とそれに伴う宗教改革に繋がっていったのであった。サヴォイア公国の権威は失墜し、サヴォイア公国がスイス領内に領有していた領土は失われた。ベルン軍がジュネーヴに入城し、その後ジュネーヴカルヴァン宗教改革の舞台となる。すなわち、カルヴァン宗教改革ジュネーヴにおける反サヴォイア運動によって生まれた、と言えるだろう。

 

ジュネーヴを失った後のサヴォイア

カルロ2世の死後、息子のエマヌエーレ・フィリベルトが公位を継いだ。しかし、サヴォイアの地はフランスとスペイン・神聖ローマ帝国の戦場になっており、フランス軍の占領下に置かれていた。カトー・カンブレ講和条約の後、エマヌエーレ・フィリベルトは公国の再建のため、首都をサヴォイアのシャンベリーからピエモンテトリノに移した。再建されたばかりのエマヌエーレ・フィリベルト公率いるサヴォイア公国は、神聖同盟(レーガ・サンタ)の一員としてレパントの海戦に参加した。アンドレア・プロヴァーナ提督率いるサヴォイア艦隊はオスマン帝国艦隊に勝利し、サヴォイア伯アメデーオ6世以来の軍事的な名声を手に入れた。そして、首都がトリノに移された事でサヴォイア家の「イタリア化」が急速に進むこととなったのである。
首都がトリノに移されてからも、サヴォイアの地はサヴォイア公国領であり続けた。しかし、この領地はサヴォイア家(この時は既にサルデーニャ王国になっている)がイタリア統一、すなわちリソルジメントを進める過程で、ナポレオン3世率いるフランス第二帝政からの中部イタリア併合(トスカーナ大公国モデナ公国パルマ公国教皇領のエミリアロマーニャ地方の併合)への不干渉の代償として、ニッツァ(仏語読みはニース)と共にフランス領に割譲された。
このサヴォワ・ニースは、旧ジェノヴァ共和国領であったコルシカ(仏語読みはコルス)と共に「未回収のイタリア」とされ、第二次世界大戦時にはムッソリーニ率いるイタリア軍がフランスに侵攻した際に併合された。しかし、イタリアは第二次世界大戦で敗れ、これらの領土はフランスに返還、また新たにテンド(テンダ)を中心とする新たな国境地域がフランスに割譲されたのであった。このため、サヴォイア辺境伯領時代からの古い領地は現在ではアオスタのみとなってしまった。
イタリア王家となったサヴォイア家は、1870年に未だ残っていた教皇領に侵攻してこれを併合、ローマを陥落させて教皇領を消滅させた。翌年にはローマに首都を置いたことで、「ヴァチカンの囚人」となった教皇サヴォイア家との対立を深める事になった。対立教皇としてローマ教皇庁と対立したアメデーオ8世の子孫である、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は再びローマ教皇庁と対立する事になったのである。この対立関係は、ムッソリーニによって1929年にラテラノ条約が調印され、ヴァチカン市国が成立するまで続くことになった。今回の対立は、サヴォイア家自身の力では収束させることが出来なかった。

 

ムッソリーニの「サヴォイア帝国」とジュネーヴ

ジュネーヴサヴォイアの関係を、自分の専門である戦間期史で考えてみる。すると、ムッソリーニジュネーヴの奇妙な関係が見えてきたのである。
後にサヴォイア朝イタリア王国の独裁者となるムッソリーニは、社会主義者時代に祖国イタリアから亡命し、このジュネーヴレーニンやアンジェリカ・バラバーノヴァ、アンジェロ・オリヴィエロ・オリヴェッティ(後に重要なイデオローグとなるユダヤファシスト)らと出会い、後に「ファシズム」として完成するその思想を構築していった。ジュネーヴ時代は、ムッソリーニにとって非常に重要な時代となった。そして、彼はベルンやローザンヌで獄中生活も経験した。
 ムッソリーニは「ローマ進軍」によってサヴォイアイタリア王国の宰相となり、世界初のファシスト国家を成立、そして対外進出によって「新ローマ帝国」を作り上げた。これによって、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は「帝国皇帝」になり、サヴォイア家は絶頂期を迎えたのである。また、後に敵対関係になったレーニンは同じくジュネーヴから出発し、革命によってロシアで世界初の共産主義国家を成立させたのであった。
ムッソリーニの影響力を受けたファシズム運動はジュネーヴの地でも起こった。それがジョルジュ・オルトラマーレ(Georges Oltramare, 1896~1960)率いる「国家連合」である。同時にレオン・ニコール率いる社会主義政党「スイス労働党」も台頭した。かつてムッソリーニレーニンが出会った場所で、ファシスト社会主義者の衝突が起こったのであった。
しかし、ジュネーヴファシスト社会主義者の影響を受けようと、他国の支配下に落ちることは無かった。ムッソリーニはスイスのイタリア語圏を「帝国」に取り込むためにスイス侵攻を計画したこともあり、イタリア系スイス人の外相ジュゼッペ・モッタはそれに翻弄されたが、結局ムッソリーニは侵攻計画を実行には移されなかった。スイスは第二次世界大戦中、アンリ・ギザン将軍の元で「ハリネズミ」を連想させる武装中立を維持し、陣営を問わず領空を侵犯した航空機はスイス空軍によって撃墜された。連合軍によるスイス爆撃も行われたが、第二次世界大戦でスイスが他国の支配下に落ちる事は無かった。
しかし、スイス連邦政府はドイツに協力してユダヤ人難民をドイツに強制送還する処置をとり、国際的非難から国境を開放した後は、ユダヤ人難民を収容所で強制労働に従事させた。また、スイスはナチのマネーロンダリングを行っている。ジュネーヴでそのような反ユダヤ的なムードが起こったかは不明であるが、ドイツ語圏のカントンではナチの影響で反ユダヤ主義が加速し、それによってスイス連邦政府は中立を維持する一方で、枢軸国側への接近姿勢を見せていた。あくまで中立を維持しようとするギザン将軍ら軍部とは対立が生じた。
ミラノ陥落後にムッソリーニが逃げようとしたのも、かつて自分が拠点にしたジュネーヴであった。しかし、彼はスイスに辿り着く前にコモ湖畔でパルチザンに捕縛、殺害された。

 

◆表記から読み解く訳者の考え

本書ではサヴォイア家はサヴォワ家という表記であったが、これは宗教改革当時のサヴォイア家、そしてサヴォイア家の本質を表していると言える。おそらく、マクグラスの原著では英語表記の「サヴォイ」だっただろう。では何故訳者はイタリア語表記の「サヴォイア」ではなく、フランス語表記の「サヴォワ」を選択したのだろうか?私は、訳者が当時のサヴォイア家を「イタリア的」ではなく、「フランス的」と理解したから、と考えている。
サヴォイア家は確かにイタリアの統一事業を担い、後に統一イタリアの王家となる一族である。しかし、彼らはイタリア統一時でさえ、「イタリアの中心(ローマ)から離れた」トリノを中心地としていた。トリノは今でもフランス色が強い街であり、更に宗教改革当時はトリノ遷都前、即ち王宮は現在のフランス領サヴォワのシャンベリーに置かれていたので、なおさらである。
古くからのサヴォイア家の版図で、現在もイタリア領に残るアオスタだが、アオスタを州都とするヴァッレ・ダオスタはフランス語が話される地域であり、自治州である。電車の放送はフランス語でも流れ、町の名前はクールマイユールやコーニュなどフランス風のものが多い(ファシスト政権期に学者トロメイの指導でイタリア化が進められたが、戦後に戻った)。街の案内板もフランス語併記が基本だ。果てには軍事パレードにはイタリア軍ではなく、フランス軍が招かれる。もはやイタリア領であることが不思議であるが、かつて第二次世界大戦後に野心を燃やしたフランスがヴァッレ・ダオスタの併合を望んだことがあったが、アメリカによって阻止されている。
しかし、ヴァッレ・ダオスタはサルデーニャと並んでイタリアでは珍しく石炭が採れる地域であり、ムッソリーニは「アウタルキー」のためにこれを重視、以前は開発の進んでいなかったこの地域を開発した。これは後にイタリアがECSCに加盟する時に重要な役割を果たす。イタリアにとっては重要な役割を果たす地となったのである。しかし、ヴァッレ・ダオスタにおける反ファシズム気運は根強く、第二次世界大戦時は盛んなパルチザン闘争が行われ、RSI政権軍は迫りくる連合軍の攻撃だけでなく、激しいレジスタンスに悩まされたのだった。
話がそれたが、そういった理由で訳者はイタリア語表記のサヴォイアではなく、フランス語表記のサヴォワと訳したのだろう。しかし、アメデーオ8世に至っては何故かフランス語ではなく、ラテン語表記のアマデウスである。これに関して理由は不明である。何故フランス語表記で統一しなかったのか。フランス語表記にするとアメデ8世である。

 

◆主要参考文献
北原敦編『イタリア史』山川出版社・2008
藤澤房俊著『「イタリア」誕生の物語』講談社選書メチエ・2012
アリスター・E・マクグラス著/芳賀力訳『ジャン・カルヴァンの生涯下―西洋文明はいかにして作られたか―』キリスト新聞社・2010
ロマノ・ヴルピッタ著『ムッソリーニ』中公叢書・2000
INNOCENTI, Ennio, LA CONVERSIONE RELIGIOSA DI B.MUSSOLINI, 2005
MUSSOLINI, Benito, IL MIO DIARIO DI GUERRA, 2016
MARINI, Lino, CARLO II, DUCA DI SAVOIA, 1977
BINZ, Louis, BRÈVE HISTOIRE DE GENÈVE, 2000
SAVOIA, Maria José di, LE ORIGINI DI CASA SAVOIA, 2001 他