Associazione Italiana del Duce -ドゥーチェのイタリア協会へようこそ!-

同人サークル"Associazione Italiana del Duce"の公式ブログです。

ファシスト政権期のイタリアにおける対ユダヤ人政策の変遷

f:id:italianoluciano212:20210925094607j:plain
f:id:italianoluciano212:20210908152032j:plain
f:id:italianoluciano212:20210925094554j:plain
f:id:italianoluciano212:20210925094617j:plain
f:id:italianoluciano212:20210925094630j:plain
ファシスト政権期のイタリアで活躍したユダヤ系イタリア人の代表例:左からムッソリーニの側近の一人だったアルド・フィンツィ、財務相を務めたグイードユング、MVSN高官のアルベルト・リウッツィ将軍、ムッソリーニの愛人で芸術政策に携わったマルゲリータ・サルファッティ女史、数々の軍艦設計を主導したウンベルト・プリエーゼ提督。

今回私は、ファシスト政権期のイタリアにおける対ユダヤ人政策の変遷について論述したいと思う。まず、ファシスト政権期の対ユダヤ人政策は時期によって主に3つの段階に分けられる。「第一の時期」は「人種法」成立以前の政権初期~中期にかけての時期「第二の時期」は「人種法」成立後からイタリア休戦までの時期「第三の時期」は休戦後のRSI政権成立から終戦までの時期である。ファシスト・イタリアの対ユダヤ人待遇の変遷をこの三つの時期から整理して考えて行こうと思う。

 

◆「第一の時期」
「第一の時期」は、イタリアにおけるユダヤ人問題と、ムッソリーニの対ユダヤ人認識から考えることが出来る。イタリアでは反ユダヤ主義は浸透していたが、イタリア系ユダヤ人は完全に同化していた上に、国内のユダヤ人の数は約4万2千人と少なかった。その上、多くのユダヤ人はムッソリーニ政権成立後には熱狂的なファシストとなったため、ドイツのような「人種主義政策の土壌となるようなユダヤ人問題」は存在しなかった。

指導者であるムッソリーニ自身もバラバーノヴァやベルグソンといったユダヤ人から強い影響を受けておりユダヤ人を特に好いてはいなかったが、ユダヤ的感覚も抱いていなかった。この姿勢が、ナチス・ドイツ成立後にヒトラーの人種主義との対抗という意味を込めて強調されることになる。


実際、この時期にはムッソリーニの側近の一人であった内務次官フィンツィIRI創設者である財務相ユングファシスト・イデオローグのオリヴェッティ教授、そしてファシスト文化政策の重要人物でありムッソリーニの愛人の一人だったサルファッティといったユダヤ人のファシスト政権幹部も多く存在した。軍内部にも新型艦の設計に関わったプリエーゼ提督や、MVSNのリウッツィ将軍などのユダヤ系イタリア人の重役も多くいた。また、この時期はユダヤ教の自由を保障する法律が制定され、ムッソリーニシオニズム運動に対して好意的な姿勢を示した。実際、シオニストの中にはファシズムを信望とする活動家もいたほどである。

※以前ユダヤ系イタリア人のMVSN将官であるアルベルト・リウッツィ将軍の記事も書いたので、良ければご一読ください。今後他のファシスト政権期に活躍したユダヤ系イタリア人についても書いてみようと思っています。

associazione.hatenablog.com

 

 

◆「第二の時期」
1936年のエチオピア戦争はその体制の転換点となった。エチオピア戦争を契機にイタリアの人種主義が加速し、ナチへの接近が進んでいった。それにより、「第二の時期」に突入することとなる。人種主義に反対だったボッターイらが敗北し、反ユダヤ主義の先鋒だった非妥協派のファリナッチらが完全に勝利した。1938年7月にはイタリア人はアーリア民族であるとされ、ユダヤ人はそれから除外されてしまった

 

その後の法処置(これを総称して通称「人種法」と呼ばれる)によってユダヤ人とイタリア人の結婚の禁止ユダヤ人の商業・産業活動の禁止公職追放が決められた。これにより、先述したフィンツィやユングらは公職追放されてしまった。多くのイタリア系ユダヤ人は宗教教育に熱心でなかったため自らがユダヤ人であるという認識は薄かったが、これらの人種差別法案によってイタリア社会に同化していたユダヤ人は初めてその認識を持たされた


とはいえ、迫害はドイツやヴィシー・フランスなどに比べて非常に緩やかなものであった。これをドイツはイタリアがユダヤ人に好意的態度を取っていると非難したほどである(リッベントロップによる非難はよく知られている)。反ユダヤ主義の先鋒であったファリナッチでさえ、自らが雇っていたユダヤ人の女性秘書を最後まで保護したというエピソードがある第二次世界大戦が始まると、イタリア軍の占領区域でも同様の政策が取られたため、ユダヤ人達の「アサイラムとなった。特に南フランスのイタリア占領区域にはヴィシー・フランスやドイツ占領地域から多くのユダヤ人が流れ込んだ。バルカン半島でもユダヤ系住民の保護が軍によって行われている(一方、イタリア軍スロヴェニア人迫害を行っていた)。

 

◆「第三の時期」
しかし、1943年のイタリア休戦によって状況は一変する。休戦以降、北部はイタリア社会共和国(RSI政権)の支配下となり、イタリアは事実上の内戦に突入、「第三の時期」へと入った。北部のRSI政権は形式上にはファシスト政権の再興であったものの、実際はナチの傀儡政権であった。ドイツ軍が領内に進駐し、本来の首都ローマは「前線に近かった事から」ドイツ軍の支配下となり、臨時首都は北部の避暑地サロに置かれた。ドイツ軍は公然とイタリアでユダヤ人迫害が行い、それに政権の強硬派ファシストや対独協力者が積極的に加わった

 

ドイツ軍支配下のローマではユダヤ人街が襲撃され、多くのユダヤ人が絶滅収容所に移送された。悪名高いアルデアティーネの虐殺では元内務次官のフィンツィらを含めたローマ市内のユダヤ人が「数合わせ」として殺害された。対するユダヤ人達はレーヴィを始め対独レジスタンス活動を行うものも多くいたが、RSI軍はレジスタンス弾圧を徹底的に行ったため、レジスタンスに参加したユダヤ人の多くが対独協力者による苛烈な拷問の末に殺害された。ムッソリーニにはもはや発言する力はなく、これらのユダヤ人迫害を止めることも出来なかった。


このように、ファシスト・イタリアのユダヤ人政策は様々な要因によって大きく変化していった。今回調べたことで、同時期の欧州諸国の対ユダヤ人政策に対しても興味を持ったため、今後その他の国々についても調べてみたい。

 

参考文献
ロマノ・ヴルピッタ著『ムッソリーニ』中公叢書・2000
シモーナ・コラリーツィ著・村上信一郎監訳『イタリア20世紀史―熱狂と恐怖と希望の100年―』名古屋大学出版会・2010
竹山博英著『プリーモ・レーヴィアウシュヴィッツを考えぬいた作家』言叢社・2011
ジャン・フランコ・ヴェネ著・柴野均訳『ファシズム体制下のイタリア人の暮らし』白水社・1996
渡辺和行著『ナチ占領下のフランス―沈黙・抵抗・協力―』講談社選書メチエ・1994
マーク・マゾワー著・中田瑞穂/網谷龍介訳『暗黒の大陸―ヨーロッパの20世紀』未来社・2015