Associazione Italiana del Duce -ドゥーチェのイタリア協会へようこそ!-

同人サークル"Associazione Italiana del Duce"の公式ブログです。

敵艦を撃沈せよ!王立イタリア空軍/イタリア社会共和国空軍(RSI空軍)の地中海における艦船攻撃の戦歴

イタリア空軍は地中海における艦船・輸送船団攻撃でも活躍した。潜水艦の運用が難しかった地中海において、空軍部隊による敵船団攻撃は非常に重要だった(第二次世界大戦時、イタリア潜水艦部隊は多くの戦果を挙げたが、その戦果の多くは大西洋や特殊作戦にいるものであり、地中海における戦果はあまり芳しくなかった)。特にSM.79やSM.84で構成された雷撃機部隊による活躍は華々しい戦果を挙げ、また急降下爆撃機部隊も少数精鋭ながら巧みな戦術を駆使して多くの戦果を挙げた

f:id:italianoluciano212:20191025224642j:plain

雷撃を実行するカプロニ Ca.314-RA雷撃機

伊空軍部隊は地中海における艦船攻撃で、1940年から43年の間計72隻連合軍の軍艦と、計196隻輸送船撃沈・大破する活躍を見せた。更に、休戦後イタリア社会共和国(RSI政権)空軍に参加した雷撃機パイロットたちは戦い続け、旧式の雷撃機(SM.79)かつ数的に圧倒的不利という絶望的な戦況下でありながらも計27隻(約115,000トン)もの敵艦船を撃沈するという特筆すべき戦果を残している。

今回はそんな地中海における艦船攻撃で活躍した伊空軍部隊の中でも、雷撃機部隊と急降下爆撃機部隊に注目して調べてみることとしよう。以前の記事の記述を修正する形で再投稿します。

 

雷撃機部隊の活躍

f:id:italianoluciano212:20191025222532j:plain

サヴォイアマルケッティ SM.79S"スパルヴィエロ"雷撃機仕様。大戦を通じてイタリア空軍の主力雷撃機であり続け、その高い運動能力で連合軍船団を相手に猛威を振るった。

地中海における船団攻撃で最も多くの戦果を挙げたのは雷撃機部隊である。一方、爆撃機による艦船攻撃も行われていたが、思うように戦果はあがらなかった。その地中海における船団攻撃で活躍したのが、サヴォイアマルケッティ SM.79"スパルヴィエロ"である。このレース機から発展した機体は高い機動性を持ち、爆撃機型/雷撃機型双方で地中海戦線において運用され、多くの戦果を挙げた。後述する「雷撃機エース」の多くは、このSM.79機によって戦果を挙げた。その高い信頼性ゆえに、休戦後のRSI空軍でも使われ、既に旧式化していたが多くの戦果を挙げている。被弾に強い頑丈な機体だったため、対空砲火や迎撃機に撃墜されることは少なかったという。まさしく、イタリアが誇る傑作雷撃機と言えるだろう。後述する後継機のSM.84がパイロットに好かれず、結局SM.79が大戦末期まで改良を重ねながら使い続けられた。とはいえ、大戦末期となると流石に旧式化し、特にアンツィオ攻防戦では大きな損害を出してしまった。

f:id:italianoluciano212:20210930134330j:plain

ハルバード作戦」迎撃でSM.84雷撃機を駆り、戦艦「ネルソン」を大破させる大金星を挙げたアルドゥイーノ・ブーリ大尉(Arduino Buri)。戦時中に大佐まで昇進し、休戦後はRSI空軍に合流。雷撃機隊総監に就任し、RSI空軍雷撃機部隊再建の立役者となった。

後継機としてサヴォイアマルケッティSM.84が開発されたが、こちらはSM.79に比べて信頼性が低く、逆にSM.79の優秀さを証明することとなった。とはいえ、SM.84も活躍しなかったわけではなく、この機体を愛用する雷撃機エースもいたし、1941年9月27日には英戦艦「ネルソン」に対して雷撃を実行、大破させる戦果を残している。

f:id:italianoluciano212:20191025223417j:plain

FIAT G.55S"チェンタウロ"戦闘雷撃機。FIAT G.55戦闘機の戦闘雷撃機型で、試験運用段階で終了してしまったが、正式採用されればRSI空軍の雷撃機部隊の主装備となっていただろう。素体となっているG.55自体が「イタリア最高の戦闘機」と称される傑作機であるため、通常の空中戦でも戦果が期待出来た。

その他、CANT Z.506B"アイローネ"水上雷撃機カプロニ Ca.314-RA雷撃機FIAT G.55S戦闘雷撃機といった雷撃機が存在した。特に興味深いのはFIAT G.55S戦闘雷撃機で、これは第二次世界大戦時のイタリア最高の戦闘機」とも称されるFIAT G.55"チェンタウロ"戦闘機の雷撃機で、試験段階で終了したが、世にも珍しい戦闘雷撃機だった。RSI空軍において試験運用され、正式採用されれば主力雷撃機として機能するはずであったが、結局間に合わずに試験段階で終了することとなった。

だが、開戦時のイタリア空軍は雷撃機部隊を保有しておらず、英国に比べて雷撃機に関して遅れをとっていた(世界でも早い段階に雷撃機の試作型を作成していたにもかかわらず)。とはいえ、開戦後に新設された空軍雷撃機部隊は雷撃機型に改造されたSM.79を主装備として地中海戦線で猛威を振るい、連合軍艦船にとっては非常に大きな脅威として恐れられたのであった。しかし、その分消耗率も高く、攻撃の際に敵艦に接近するために常に撃墜される危険性を孕んでいた。

f:id:italianoluciano212:20191025223818j:plain

イタリア空軍で最も知られている雷撃機エースであるカルロ・エマヌエーレ・ブスカーリア(Carlo Emanuele Buscaglia)。1942年11月、アルジェリア上空で英空軍のスピットファイアに撃墜された彼は、重傷を負ったものの奇跡的に助かり、捕虜となったが本国では撃墜された段階で戦死認定となっていた。休戦後、共同交戦空軍側で戦うことを条件に解放されるが、米国製新機材の試験飛行時の事故で戦死した。

第二次世界大戦時のイタリア空軍で最も有名な爆撃機エースカルロ・エマヌエーレ・ブスカーリア(Carlo Emanuele Buscaglia)である。彼は約10万トン敵艦船を撃沈し、多くの敵艦船を大破・損傷させる戦果を挙げた(特に英空母「イラストリアス」(23,000トン)を翌年まで航行不能に追い込んだ戦果は大きい)。特に彼の特筆すべき戦果は「6月中旬の戦い」における戦果で、アルベルト・ダ・ザーラ(Alberto Da Zara)提督率いる海軍艦隊(旗艦:軽巡「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」)との共闘のもとで駆逐艦ベドウィン」(2,519トン)を始めとする多くの敵艦船を撃沈し、数多くの戦果を挙げた。これを受け、ブスカーリアは伊軍最高の勲章である金勲章(メダリア・ドロ)をムッソリーニ統帥直々によって叙勲されるという名誉を受けたのである。

f:id:italianoluciano212:20191025224854j:plain
f:id:italianoluciano212:20191025224940j:plain
「魚雷の双子(Gemelli del siluro)」と呼ばれた二人の雷撃機エース、カルロ・ファッジョーニ(Carlo Faggioni, 左)とジュリオ・チェーザレ・グラツィアーニ(Giulio Cesare Graziani, 右)。計20万トンもの敵艦船を撃沈する事に成功したが、休戦後は各陣営に分かれて戦った。ファッジョーニはアンツィオ戦で撃墜されて戦死し、グラツィアーニは戦後も空軍に属して空軍中将にまで昇進した。

また、カルロ・ファッジョーニ(Carlo Faggioni)ジュリオ・チェーザレ・グラツィアーニ(Giulio Cesare Graziani)「魚雷の双子(Gemelli del siluro)」と呼ばれた二人の雷撃機エースの戦歴も華々しい。ブスカーリア率いる第281雷撃飛行隊に所属した二人は、地中海で数多くの戦果を挙げ計20万トンもの敵艦船を撃沈することに成功している。また、1943年5月にはジブラルタル港の敵艦船に対して直接雷撃するという大胆な攻撃作戦も行った。1943年9月のイタリア休戦後、イタリアは南北に分かれて内戦化したが、ファッジョーニは枢軸側についたイタリア社会共和国空軍、グラツィアーニは連合国側の共同交戦空軍に付き、"双子"は分かれることとなった。ファッジョーニはRSI空軍の雷撃機部隊を率いてアンツィオ戦で戦死、グラツィアーニはバルカン方面で共同交戦空軍の一員として爆撃任務に従事(グラツィアーニは雷撃機部隊合流前は東アフリカ戦線で爆撃機パイロットとして活躍した)したのであった。

f:id:italianoluciano212:20191025225304j:plain

ファッジョーニ戦死後にRSI空軍の第一雷撃集団を指揮したマリーノ・マリーニ(Marino Marini)。ジブラルタルへの大胆な攻撃作戦を始め、積極的に地中海における艦船攻撃を実行して戦果を挙げた。休戦前は何かと不評であったSM.84を駆り戦果を挙げている。

アンツィオ戦で戦死したファッジョーニの跡を継いで、RSI空軍雷撃機部隊(第一雷撃集団「ブスカーリア」)を指揮したのがマリーノ・マリーニ(Marino Marini)である。休戦前もSM.84雷撃機を駆って第282雷撃飛行隊を率いていた雷撃機エースで、1941年9月27日では英海軍の作戦「ハルバード」妨害のために出撃して活躍した人物だ。RSI空軍合流後は彼のもとで第一雷撃集団は数多くの戦果を挙げ、前任者のファッジョーニがアンツィオ戦で挙げた戦果を含め計27隻(約115,000トン)もの敵艦船を撃沈するという戦果を挙げたのである。マリーニが指揮した作戦で興味深いものは、1944年6月5日に実行されたジブラルタル攻撃作戦だろう。10機のSM.79雷撃機によって実行されたこの作戦は、ジブラルタル港に停泊する6隻の輸送船を攻撃し、4隻の輸送船(計3万トン)を撃沈し、2隻を損傷させるという大戦果を挙げたのであった。

雷撃機部隊(SM.79及びSM.84)によって撃沈・大破させられた主な英海軍の軍艦のリストは以下の通り。輸送船への攻撃が多いが、軍艦の戦果も多かった。

駆逐艦ベドウィン」(1942.6.15撃沈)
駆逐艦「フォアサイト」(1942.8.13撃沈)
駆逐艦「フィアレス」(1941.7.23撃沈)
スループアイビス」(1942.11.10撃沈)
コルベットマリーゴールド」(1942.12.9撃沈)
・対空艦「ポザリカ」(1943.1.29撃沈)
・空母「イラストリアス」(1941.1.10損傷大)
・空母「インドミタブル」(1943.7.16損傷大)
・戦艦「ネルソン」(1941.9.27損傷大)
重巡「ケント」(1940.9.18損傷大)
軽巡グラスゴー」(1940.12.3損傷大)
軽巡マンチェスター」(1941.7.23損傷大)
軽巡「フィービ」(1941.8.27損傷大)
軽巡「アリシューザ」(1942.11.18損傷大)

 

◆急降下爆撃機部隊の活躍

f:id:italianoluciano212:20191025225727j:plain

イタリア空軍急降下爆撃機部隊で使用されたユンカース社のJu-87急降下爆撃機。ドイツを代表する傑作機で、イタリアでは「ピッキアテッロ(変人,変わり者)」という愛称が付けられていた。急降下爆撃機開発で遅れを取るイタリア空軍にとっては非常にありがたい存在であり、輸入機であるため数は少なかったが、少数精鋭の急降下爆撃機部隊は多くの戦果を挙げている。大戦終盤になってくると、ドイツからの戦力の補充が難しくなったことから、消耗した分は国産機で賄われることとなった。

イタリア空軍の急降下爆撃機部隊は少数精鋭ながら数多くの戦果を挙げ、雷撃機部隊に引けを取らない名声を手に入れている。しかし、その成立過程は前途多難であった。戦間期、航空理論家であるアメデーオ・メコッツィ(Amedeo Mecozzi)大佐らの意見やスペイン内戦時に得た教訓によって、他国の空軍同様にイタリア空軍でも急降下爆撃の有効性が認められるようになり、急降下爆撃機開発が開始された。しかし、急降下爆撃機は地上攻撃機の延長と考えられ、本格的には進んでいなかったその結果、開戦時のイタリア空軍は空軍先進国として世界的に見られていたにもかかわらず、ロクな急降下爆撃機保有していない、という事態に直面していた

「イタリア初の急降下爆撃機」であったサヴォイアマルケッティ SM.85によってパンテッレリーア島の第96急降下爆撃航空群が編制されていたが、この急降下爆撃機はその見た目から「翼の生えたバナナ」と呼ばれ、劣悪な性能に加えて、木金混合の機体はパンテッレリーア島の照り付ける強い日光と吹き付ける海風によって事故が多発、たちまち全機が使用不可能になるという悲惨な事態になってしまったのである。

改良型として開発されたSM.86急降下爆撃機も実地試験の結果、Ju-87に勝るところがないと判断され、採用されることはなかった。時の空軍参謀長フランチェスコ・プリーコロ(Francesco Pricolo)将軍はイタリア空軍の急降下爆撃機不足の改善のために、国内企業による生産を諦め、ユンカース社からJu-87"シュトゥーカ"の輸入に踏み切った。これによってレダ社のBa.201カプロニ社のCa.355などの国産急降下爆撃機は開発が中止された。イタリアの急降下爆撃機開発は完全に失敗に終わったが、一方でこの決断の結果、イタリア空軍に新たな精鋭部隊が生まれることになる

f:id:italianoluciano212:20191025230419j:plain

レッジャーネ Re.2002"アリエテ"戦闘爆撃機。新型Ju-87Dの再配備計画がキャンセルされたことによって、急降下爆撃機部隊に配備された。休戦後に残っていた機体は、南部に残っていた機体は共同交戦空軍によって使われたが、北部・中部に残っていた機体はRSI空軍によっては運用されずに、全てがドイツ空軍に接収されて独空軍で運用されている。

大戦も終盤になってくると、急降下爆撃機部隊は新型Ju-87Dの再配備計画がキャンセルされたことによって、国産の機体が導入されることになった。そこで活躍したのがレッジャーネ Re.2002"アリエテ"戦闘爆撃機である。Re.2002は単座戦闘機としても敵戦闘機と互角に戦える優秀な機体で、更に頑丈な機体として評価も高かった短い期間ながらRe.2002はイタリア防衛戦において敵上陸艦隊に対して多くの戦果を挙げており、戦艦「ネルソン」に大きな損傷を与えたことでも知られている。また、Re.2002の陰に完全に隠れた存在であったが、IMAM Ro.57bis戦闘爆撃機も急降下爆撃機として運用され、イタリア防衛戦で敵上陸艦隊に攻撃を行った。

f:id:italianoluciano212:20191025230750j:plain

イタリア空軍最高の急降下爆撃機エースとして知られる名パイロット、ジュゼッペ・チェンニ(Giuseppe Cenni)。スペイン内戦では戦闘機パイロットとして8機の個人撃墜スコアを達成し、更に第二次世界大戦では急降下爆撃機パイロットに転身して艦船攻撃を実行、多くの敵艦を撃沈するなど、イタリア空軍のパイロットの中でも特に「天才」と言える人物である。また、彼は空軍理論家でもあり、所謂「スキップ爆撃」の実用化に成功した人物でもあった。

Ju-87(イタリアでは「ピッキアテッロ(変人, 変わり者)」と呼ばれた)を導入したイタリア急降下爆撃機部隊は艦船攻撃で大きな活躍を見せた。そのパイロットの中で最も広く名が知られている人物は、やはりジュゼッペ・チェンニ(Giuseppe Cenni)だろう。チェンニはイタリア空軍最高の急降下爆撃機エースとして知られる人物で、元々は戦闘機エースとしても知られており、スペイン内戦では約3カ月の間で個人撃墜スコアは8機、共同撃墜は13機を撃墜するという戦果を挙げていた。急降下爆撃機エースとして知られる20代の若き天才は、優れた空軍理論家としても知られ、所謂「スキップ爆撃(反跳爆撃)」の実用化に成功した人物でもあった。

イタリア空軍の急降下爆撃機部隊はまず機体の絶対数が不足していたため、より効率的に戦果を挙げるためにもチェンニが実用化した「スキップ爆撃」が最も効果的であると考えられたのだ。パイロットの飛行技術に左右される非常に難しい方式であったが、1941年4月~12月にかけてチェンニは計10隻(計16,415トン、軍艦7隻・輸送船3隻)もの艦船を撃沈することに成功している。マルタ包囲戦では軽巡「カイロ」(4,190トン)を損傷(その後、伊潜水艦「アクスム」の雷撃で撃沈)させ、計6隻(軍艦2隻・輸送船4隻)敵艦船を撃沈したが、英空軍戦闘機の追撃を受けるなどして消耗率も激しく、数多くの戦死者を出す結果となった。

消耗の激しさの結果、一度本土に引き上げられたチェンニであったが、その後、Re.2002の導入によって再度戦場に向かい、イタリア防衛戦で戦果を挙げたシチリア防衛戦では輸送船「タランバ」(8,010トン)を撃沈し、モニター「エレバス」(8,450トン)に直撃弾を与えて大破させる戦果を挙げている。休戦直前となったベイタウン作戦(連合軍によるレッジョ・カラブリア上陸作戦)では、上陸艇4隻(計1,400トン)を撃沈するのみならず、上陸した敵部隊に対する機銃掃射も行ったが、連合軍機にチェンニは撃墜され、その波乱に満ちた生涯を終えたのであった。

f:id:italianoluciano212:20191025230844j:plain

フェルナンド・マルヴェッツィ(Fernando Malvezzi)。大戦前半は急降下爆撃機エース、大戦後半は戦闘機エースとして活躍した人物。休戦後はRSI空軍に合流し、第三戦闘航空群「フランチェスコ・バラッカ」を指揮したが、再訓練中に欧州戦線は終結した。

後に戦闘機パイロットに転向し、エースパイロットとして知られるようになるフェルナンド・マルヴェッツィ(Fernando Malvezzi)急降下爆撃機パイロットとして艦船攻撃で活躍している。彼の戦果で最も重要なものは軽巡洋艦サウサンプトン」(11,350トン)の撃沈であろう。1941年1月10日、マルヴェッツィ率いる第236飛行隊はマルタ東部沖の中部地中海にて、英海軍のタウン級軽巡洋艦サウサンプトン」への攻撃を実行、マルヴェッツィとその僚機であるピエトロ・マッツェイ曹長(Pietro Mazzei)ジャンピエロ・クレスピ軍曹(Giampiero Crespi)のJu-87"ピッキアテッロ"が250kg爆弾を次々と命中させ、サウサンプトン」の撃沈に成功したのである。マルヴェッツィはその後のトブルク港攻撃作戦での被撃墜(不時着し生還)を機に戦闘機パイロットに転向するが、部下のマッツェイとクレスピはそのまま急降下爆撃機パイロットを続け、特にクレスピはIMAM Ro.57bis戦闘爆撃機を駆り、シチリア防衛戦で連合軍上陸艦隊への急降下爆撃任務を敢行、敵艦船に損害を与えることに成功した。

急降下爆撃機部隊によって撃沈・大破した主な各国の軍艦は以下の通り。

・英軽巡サウサンプトン」(1941.1.10撃沈)
・豪駆逐艦「ウォーターヘン」(1941.6.29撃沈)
・英スループグリムスビー」(1941.5.25撃沈)
・英スループオークランド」(1941.6.24撃沈)
・米輸送艦「タランバ」(1943.7.10撃沈)
・英LCF型上陸艇(1943.9.4撃沈)
ギリシャ砲艦「ポッサ」(1941.4.4損傷大)
・英戦艦「ネルソン」(1943.7.16損傷大)
・英モニター「エレバス」(1943.7.10損傷大)
・ユーゴ水上機母艦「ズマイ」(1941.6.13損傷大)

 

イタリア空軍は1940年から43年の間計72隻連合軍の軍艦と、計196隻輸送船を撃沈・大破させ、休戦後もRSI空軍雷撃機部隊は計27隻(約115,000トン)もの敵艦船を撃沈するという戦果を挙げた。今回紹介したのは雷撃機部隊と急降下爆撃機部隊であったが、少なからず爆撃機部隊も艦船攻撃で戦果を挙げている(とはいえ、やはり爆撃機部隊が真価を発揮したのは地上基地・拠点や地上部隊に対する攻撃においてであった)。英海軍の軍艦だと、駆逐艦「ジュノー」(1941.5.21にZ.1007bisの爆撃で撃沈)や、駆逐艦ネスター」(1942.6.16にSM.79爆撃機型の爆撃で撃沈)の撃沈が有名な戦果だろう。また、イタリア空軍は地中海のみならず、紅海においても艦船攻撃を行った。この際に出撃したのはアトス・マエストリ(Athos Maestri)カプロニ Ca.133偵察爆撃機部隊であった。旧式ながらCa.133は信頼性が高い万能機として戦場に貢献したのである。