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第二次世界大戦参戦に至るまでのイタリア海軍通史②:海軍の拡大と伊土戦争での大勝

前回の続きで、今回もイタリア海軍の通史を扱います。参考文献は後日纏めて紹介します。前回の記事はこちら↓

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◆イタリア海軍、紅海に進出す

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イタリア紅海艦隊の母港、マッサワ。イタリア語ではマッサウア(Massaua)。「紅海の真珠」と謳われるエリトリアの古都で、アッサブに次いで紅海沿岸におけるイタリアの拠点として領有され、エリトリア植民地発足後は最初の首都が置かれた。筆者撮影。

リッサの敗北により、海軍は更に数年間停滞することになったが、1870年の教皇領併合、そしてチュニジア問題でフランスとの間に緊張関係が高まった。これを機に海軍は再び重要視され、再発展が開始された。
また、植民地獲得に遅れて参戦したイタリアは1869年のスエズ運河開通により、紅海方面に進出グリエルモ・アクトン提督(Guglielmo Acton)率いる船団は1869年11月15日にラハイタのスルタンからアッサブ湾を6000タレーロで購入する協定を秘密裏に調印した。1870年3月にはアッサブの領有を正式に宣言し、後のエリトリア植民地化(1890年1月)に繋がった。植民地獲得においても、海軍は重要な役割を果たした。その後イタリアはソマリアも植民地化し、インド洋にも進出するに至ったのである。

なお、グリエルモ・アクトン提督はナポリ海軍の発展に貢献したアイルランド系英国人貴族のジョン・アクトン(ジョヴァンニ・アクトン)提督の子孫である。アクトン家の子孫はナポリ海軍、両シチリア海軍、そしてイタリア海軍で重要なポストを占めた。

 

◆イタリア海軍の拡大

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19世紀後半のイタリア海軍の発展の立役者、ベネデット・ブリン提督(Benedetto Brin)。海相として海軍の発展に貢献し、また造船総監として数々の優秀な主力艦の設計を行った。主な功績としては海軍士官学校の統合、ターラントラ・スペツィアの二大海軍基地の建設などがある。軍艦の建造に必要な鋼鉄の調達のため、テルニ製鉄所の建設を提案したのも彼であり、海軍方面以外でイタリア工業の発展に貢献した。

これを機にアウグスト・リボティ提督(Augusto Riboty)シモーネ・サン・ボン提督(Simone Pacoret de Saint-Bon)ベネデット・ブリン提督(Benedetto Brin)三代の海相の元でイタリア海軍は大発展を遂げることになった。特にブリン提督は造船総監も務め、主力艦の建設でも偉大な功績を挙げた。また、議会の承認を得てリヴォルノに海軍士官学校を開設し、士官教育を統合したのもブリン海相であった。1889年にはイタリア海軍は英海軍に次いで、世界第2位の保有艦船を誇ったのである。

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20世紀初頭のイタリア海軍の近代化に貢献したカルロ・ミラベッロ海相(Carlo Mirabello)。イタリアを代表する物理学者であるグリエルモ・マルコーニ(Guglielmo Marconi)とは親友同士で、彼の無線電信の開発にも貢献した。海相就任後、潜水艦や駆逐艦を始めとする補助艦艇を中心に海軍の増強を図り、海軍を近代化させた。

 

しかし、1902年の伊仏合意によりフランスとイタリアの対立は解消され、また1896年にはアドゥア(アドワ)でエチオピア帝国軍に大敗して植民地獲得が停滞していたこともあり、軍事費は削減されて、海軍はその影響を大きく受けてしまった1902年時点でイタリア海軍の艦船保有量はフランス、ロシア、ドイツに次々と抜かされ、世界第5位へと転落。そして、急成長を遂げるアメリカや日本もそれに追いつかんとしていた。1903年に就任したカルロ・ミラベッロ海相(Carlo Mirabello)の手腕によりイタリア海軍は何とか勢いを立て直しているが、とはいえ他列強との艦隊保有量の差は中々埋まらなかった

 

◆伊土戦争での伊海軍の活躍

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アウグスト・オーブリー提督(Augusto Aubry)。ナポリ出身のイタリア海軍提督で、伊土戦争時は戦艦「ヴィットーリオ・エマヌエーレ」を旗艦として第一艦隊の指揮官を務めている。伊土戦争の勝利に貢献した人物だが、戦争終結後に自らの旗艦の甲板上で急死しており、彼を記念して「ヴィットーリオ・エマヌエーレ」の母港であるターラント軍港の施設には彼の名前が付けられている。

こうして、急発展を遂げたイタリア海軍は1911年-1912年にはオスマン帝国海軍と交戦した(伊土戦争)。イタリアの対岸に位置するトリポリタニア及びキレナイカの制圧を目論むイタリアは、その地を領有するオスマン帝国との戦争を開始したからである。両艦隊の戦闘はオスマン帝国が海岸線を持つ地中海、エーゲ海、紅海など広範囲で行われたアウグスト・オーブリー中将(Augusto Aubry)率いるイタリア第一艦隊(旗艦:戦艦「ヴィットーリオ・エマヌエーレ」)がリビアトリポリを砲撃し、陸軍兵士と共に海軍の海兵部隊もリビアの各拠点の制圧に参加している。

以下、代表的な海戦をいくつか紹介する。

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イオニア海での海戦を指揮した海軍少将、アブルッツィ公ルイージ・アメデーオ・ディ・サヴォイア(Luigi Amedeo di Savoia-Aosta, Duca degli Abruzzi)。イタリア王サヴォイア家の一員であり、伊土戦争ではイオニア海アドリア海方面にて水雷戦隊を率いた。第一次世界大戦時では主力艦隊を率いた海軍提督だが、登山家・探検家としても有名であり、戦間期にはソマリア植民地の農業開発で重要な役割を果たした。

 

伊土戦争開始直後の1911年9月に発生したプレヴェザ沖海戦は伊土戦争初の海戦となった。アブルッツィ公(Luigi Amedeo di Savoia-Aosta, Duca degli Abruzzi)率いるイタリア駆逐戦隊は、数的有利であったオスマン艦隊に完勝し、補助巡洋艦「タラーブルス」と魚雷艇3隻を撃沈したほか、艦砲射撃で陸上砲台の破壊にも成功した。アブルッツィ公は続いて10月に当時オスマン帝国支配下にあったアルバニアの港湾攻撃を行い、北部シェンジン港襲撃では2隻のオスマン輸送艦を拿捕している。

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海軍提督時代のオスヴァルド・パラディーニ大佐(Osvaldo Paladini)。伊土戦争では伊海軍の紅海派遣艦隊の司令官を務め、クンフィダ海戦でオスマン艦隊を壊滅させ、その戦功から伊軍最高位の名誉であるサヴォイア軍事勲章を叙勲されている。第一次世界大戦時は第三戦隊司令官を務め、第二次ドゥラッツォ湾海戦でオーストリア艦隊を撃破した。

 

エリトリアに進出していたイタリアは、アラビア半島に勢力圏を持つオスマン帝国と紅海においても対峙した。1911年10月初めにはオスマン帝国海軍の水雷巡洋艦「ペイキ・シェヴケト」をイタリア艦隊(水雷巡洋艦1隻・砲艦1隻)が追撃し、「ペイキ・シェヴケト」が撤退したフダイダ港を砲撃して港湾設備を破壊した。続いて1912年1月、紅海にて行われたクンフィダ湾海戦ではオスヴァルド・パラディーニ大佐(Osvaldo Paladini)率いる防護巡洋艦1隻・駆逐艦2隻から為るイタリア艦隊は、イタリアの補給線を脅かすオスマン艦隊を迎撃し、損害無しで砲艦7隻を撃沈して完勝オスマン帝国海軍の紅海艦隊は壊滅し、イタリアは紅海の制海権を完全に掌握したのであった。

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ベイルート海戦の勝利の立役者、パオロ・タオン・ディ・レヴェル少将(Paolo Thaon di Revel)。第一次世界大戦時は海軍参謀長を務め、伊海軍全体を指揮、アドリア海戦線を勝利に導いた。戦後、「海の公爵(Duca del Mare)」の称号を与えられ、イタリア海軍史上唯一の海軍元帥(Grande Ammiraglio, 大提督の意味)に昇進した。ムッソリーニ政権初期には海軍大臣を務めたが、コルフ島事件を契機にその職を辞した。

 

1912年2月には、パオロ・タオン・ディ・レヴェル少将(Paolo Thaon di Revel)率いる装甲巡洋艦2隻は大胆にもオスマン帝国海軍の主要港であるベイルート港に突入(ベイルート海戦)装甲艦「アヴニッラー」及び水雷艇アンゴラ」を撃沈した。「アヴニッラー」は旧式であったが、数年前にイタリアのアンサルド社で近代化改修をしたばかりの貴重な主力艦の一隻だった。また、レオーネ・ヴィアーレ提督(Leone Viale)率いる海軍分隊オスマン支配下にあったドデカネス諸島を制圧し、帝国本土を脅かしている。これはエーゲ海諸島としてイタリア領となり、東地中海における重要なイタリア軍拠点となった。

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ダーダネルス海峡襲撃を指揮したエンリコ・ミッロ大佐(Enrico Millo)。オスマン帝国側の激しい反撃によって作戦自体は失敗したが、敵国の首都に迫るその大胆な攻撃はイタリア世論を熱狂させた。第一次世界大戦時は偵察艦隊の司令官としてペラゴーサ島制圧を指揮。しかし、タオン・ディ・レヴェル参謀長とは海軍戦略を巡り対立した。

代表的なこれらの海戦の他に、エンリコ・ミッロ大佐(Enrico Millo)によるダーダネルス海峡への大胆な進撃なども実行され、海軍は終始オスマン艦隊を圧倒し、大勝利を挙げた。かつて地中海の覇者だったオスマン艦隊に苦戦したイタリア諸邦海軍だったが、今や逆にオスマン艦隊を圧倒する側に変わり、イタリア艦隊の成長と、オスマン艦隊の衰退を世界に印象付ける戦いとなったのである。伊土戦争でオスマン艦隊を圧倒したイタリア海軍は、大きく自信を付けることになった。

なお、この戦争では陸軍のジュリオ・ガヴォッティ大尉(Giulio Gavotti)が駆るエトリッヒ・タウベ機がオスマン帝国軍部隊に対して爆撃を敢行、「世界初の国家間戦争への航空機の投入」に加え、「世界初の航空機による爆撃」という偉業も果たしており、イタリアは航空史的にも歴史を刻んでいた。

 

次回は第一次世界大戦とイタリア海軍について!

 

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