第二次世界大戦参戦に至るまでのイタリア海軍通史③:第一次世界大戦、アドリア海での激闘
前回の続きで、今回もイタリア海軍通史です。私の通史では基本的に人物や戦史を中心に扱います。普段のブログと大して変わらんですね。兵器の設計思想云々は素人なので、下手に扱いません。その辺はご了承くださいませ。
さて、第三回目は第一次世界大戦です。個人的に今回注目して欲しいのは、第一次世界大戦時に活躍した指揮官の中には、伊土戦争時に活躍した指揮官も多い事です。まぁ数年しか経ってないから当然とも言えますが、「おっ、この人は前回見たな」と気付いてくれたら嬉しいですね。
前回まではこちら↓
◆第一次世界大戦開戦時のイタリア海軍
イタリアは一連の植民地獲得と伊土戦争での大勝により、北アフリカのトリポリタニアとキレナイカ(後にフェザーンと共にイタリア領リビアとして統合)、東アフリカのエリトリアとソマリア(ソマリア北部は英領ソマリランドとして英国が保護領化)、更にエーゲ海諸島(現ギリシャ領ドデカネス諸島)を領有し、義和団事変に介入する事で中国の天津にも租界を開設して中国権益にものめり込んだ。
広大な植民地帝国とそれに見合う軍事力を身に付けたイタリアは、自他共に「列強」と認識されるようになったのである。
イタリアは以前先述した通り、チュニジア危機にてフランスとの関係が悪化した結果、ドイツとオーストリアと共に1882年に三国同盟を締結していた。しかし、1902年の伊仏合意でフランスとの対立が改善されたのを契機に、イタリアは後に連合国と呼ばれる国々との協調関係を保つようになり、ロシアと1909年に伊露合意、1912年には日本と日伊協約を結んでいる。フランスとの関係が改善された今、イタリアは寧ろ"同盟国"であったオーストリアとの関係が険悪化していた。何故ならば、オーストリアは未だに「未回収のイタリア」と呼ばれる領域を保有し、イタリア側の要求にも応じなかったからである。
1914年の第一次世界大戦開戦時、イタリアは中立を宣言した。当時、イタリア海軍の戦力は世界第6位の規模であったが、保有戦艦の合計排水量は290,000トンに達しており、建造中のものは76,000トンであった。1915年4月のロンドン密約を契機に、イタリアは連合国側から「未回収のイタリア」の領有を保障されたことを受け、翌月には中立を破棄してオーストリアに宣戦布告。連合国側でイタリアは第一次世界大戦に参戦した。
オーストリアは海外植民地を持たず、海軍根拠地をアドリア海にしか持たなかったため、オーストリア海軍とイタリア海軍の戦いは殆どアドリア海の中に限定された。ただ、オーストリアの防護巡洋艦「カイゼリン・エリーザベト」は開戦時にドイツが支配する中国の青島・膠州湾租借地に停泊していたため、日本軍と交戦している。
イタリア海軍は戦争の全期間を通じてアドリア海で優位に立ち、数々の勝利を重ねた。オーストリア海軍はイタリア海軍の包囲により港湾に閉じ込められた状態であり、何度か攻撃を試みたがオトラント海峡海戦を除き大きな成功はなく、基本的に潜水艦メインの戦略を取らざるを得なかった。両国共に主力艦隊は基本的に積極的に運用せず、終戦まで「現存艦隊主義」を貫いた。そのため、ユトランド沖海戦のような主力艦同士の大規模海戦は遂に起こらなかったのである。
開戦時の海軍大臣はレオーネ・ヴィアーレ提督(Leone Viale)、海軍参謀長はパオロ・タオン・ディ・レヴェル提督(Paolo Thaon di Revel)であったが、参戦後にとある問題の発生により短期間で辞任に追い込まれた。この問題に関しては後に詳述しよう。
◆イタリア水上艦隊のアドリア海での活躍
参戦直後の1915年5月24日にはアルトゥーロ・チャーノ大尉(Arturo Ciano)が指揮するイタリア駆逐艦「ゼフィッロ」がオーストリア海軍の前哨基地であるポルト・ブーソ基地を襲撃(ポルト・ブーソ襲撃)。損害なしで同基地を制圧することに成功し、これが第一次世界大戦におけるイタリア海軍初の勝利となっている。開戦から僅か2時間後のことであった。同日、アントン・ハウス提督(Anton Haus)率いるオーストリア主力艦隊はイタリア参戦の報復として、港湾都市アンコーナに対する艦砲射撃を行った。
続いて、同年7月11日にはエンリコ・ミッロ少将(Enrico Millo)率いる伊海軍偵察艦隊がアドリア海の孤島であるペラゴーサ島を制圧し、ダルマツィア沿岸攻撃の前哨基地を築いた。12月の第一次ドゥラッツォ沖海戦ではエルネスト・プレスビーテロ中将(Ernesto Presbitero)率いるイタリア第二戦隊がオーストリア海軍の駆逐艦2隻を撃沈して、セルビア軍支援のための船団輸送を成功させている。
しかし、オーストリア海軍の潜水艦は攻撃作戦を開始し、7月7日には装甲巡洋艦「アマルフィ」を撃沈した。艦隊司令長官のアブルッツィ公ルイージ・アメデーオ・ディ・サヴォイア(Duca degli Abruzzi, Luigi Amedeo di Savoia-Aosta)はダルマツィア沿岸の艦砲射撃を命令し、エウジェニオ・トリーファリ提督(Eugenio Trifari)率いる第五巡洋戦隊(旗艦:装甲巡洋艦「ジュゼッペ・ガリバルディ」)が出撃したが、7月18日、これを発見したオーストリア海軍の潜水艦によって艦隊は攻撃を受け、旗艦「ジュゼッペ・ガリバルディ」が撃沈されている。なお、トリファリ提督は泳いで生還した。連続して巡洋艦が被害に遭ったことの衝撃は大きく、アドリア海における潜水艦の脅威により、イタリア海軍も主力艦隊の行動を制限する事態となった。
2隻の装甲巡洋艦が続けてオーストリア潜水艦による攻撃で撃沈されたことに対し、タオン・ディ・レヴェル海軍参謀長は潜水艦の重要性を理解していなかったとアブルッツィ公率いる海軍上層部を非難。タオン・ディ・レヴェル参謀長は元々艦隊決戦に否定的で、潜水艦や魚雷艇、航空機の導入がこれからの戦争で重要な役割を果たすと考えており、艦隊決戦を支持するヴィアーレ海相やアブルッツィ公らとは対立していた(後にタオン・ディ・レヴェル提督の戦略が正しかったことが証明される)。
海軍内における内輪揉めの結果に加え、2隻の装甲巡洋艦の撃沈の責任を国内メディアや内閣から問われたヴィアーレ海相は体調不良を理由に辞任する事態になり、タオン・ディ・レヴェル提督も参謀長を辞任し、ヴェネツィア方面の海軍司令官に事実上左遷された。後任の海相兼参謀長には第一艦隊司令のカミッロ・コルシ提督(Camillo Corsi)が就任した。コルシ海相兼参謀長は、同盟国である英仏と協力し、オトラント海峡を封鎖することでオーストリア海軍の封じ込めを図った。なお、ヴィアーレ前海相が進めていたカラッチョロ級戦艦の建造に関しては後回しにされ、小型艦艇の建造が優先されている。結局4隻が起工されたカラッチョロ級戦艦だったが、全て戦時中には完成せず、終戦後に全てが未完の状態で解体されている。
11月27日にはアドリア海南方、ブリンディジ港にて第三戦隊旗艦の戦艦「ベネデット・ブリン」が火薬庫の誘爆によって爆沈する事故が発生。第三戦隊司令のエルネスト・ルビン・デ・チェルヴィン提督(Ernesto Rubin de Cervin)含む456名が死亡している。19世紀の伊海軍の拡大を実現した海相の名を冠した戦艦、「ブリン」は第一次世界大戦でイタリアが初めて失った戦艦となった。オーストリア軍による工作とイタリア海軍は主張したが、実際は偶発的な火薬庫の誘爆が原因だったようだ。日本海軍でも第一次世界大戦時、戦艦「河内」を同様の事故で失ったことはよく知られている。爆沈した「ブリン」から艦砲のみが再利用され、後にヴェネツィアを防衛する沿岸砲として使われた。
1916年に入って、イタリア海軍も潜水艦によるダルマツィア海岸攻撃を行い、輸送艦を多数撃沈するなどオーストリア軍の兵站に打撃を与えたが、自軍も戦艦「レジーナ・マルゲリータ」を敵軍の機雷で失っている。「レジーナ・マルゲリータ」の撃沈によって、アルバニア派遣軍司令官のオレステ・バンディーニ将軍(Oreste Bandini)を含む675名が死亡する惨事となった。また、新型戦艦「レオナルド・ダ・ヴィンチ」が「ブリン」同様に港内にて火薬庫の誘爆にて爆沈する不手際を犯した。これはオーストリア軍による破壊工作と宣伝されたが、実際は不適切な管理が理由だったとされる。
イタリア海軍は戦時中を通して3隻の戦艦(「ベネデット・ブリン」「レジーナ・マルゲリータ」「レオナルド・ダ・ヴィンチ」)を失っているが、3隻のうち2隻が火薬庫の誘爆による偶発的な事故が原因だった。なお、オーストリア海軍も同数の3隻(「ウィーン」「スツェント・イストファン」「フィリブス・ウニティス」)を失ったが、これはいずれもイタリア海軍の攻撃によって撃沈されたものである。
正直なところ、第一次世界大戦のイタリア潜水艦の戦果は、オーストリアやドイツの戦果に比べて非常に乏しかったことは間違いないだろう。軍艦への攻撃作戦に関しては、マトモに敵軍艦に損害(大破)を与えたのは一度だけである。
イタリア海軍によるオトラント海峡封鎖は英仏と共同作戦を行うことでオーストリア海軍をアドリア海に封じ込める事に成功していたが、1917年にはホルティ・ミクローシュ提督(Horthy Miklós)率いるオーストリア巡洋艦隊は封鎖の突破を計画(オトラント海峡海戦)。イタリア海軍側はアルフレード・アクトン提督(Alfredo Acton)率いる艦隊に迎撃させたが、オーストリア艦隊はこれの突破に成功している。しかし、再び海峡の突破を目論んだオーストリア海軍はイタリア海軍の迎撃を受け断念した。
1918年10月2日、イタリア海軍はドゥラッツォ港のオーストリア軍を撤退させるために攻撃を実行(第二次ドゥラッツォ沖海戦)、戦艦「ダンテ・アリギエーリ」を旗艦とするオスヴァルド・パラディーニ提督(Osvaldo Paladini)率いるイタリア艦隊はオーストリア艦隊を撃破した。甚大な被害を受けたオーストリア軍はイタリア側の目論見通り完全に撤退し、後に同港は伊軍に制圧された。
主力艦隊の行動が伊墺両国ともに消極的だったために、どちらか片方の主力艦が海戦に参加することはあっても、戦艦同士による艦隊決戦はアドリア海では終戦まで結局起こらなかった。もっとも、積極的に運用したとしても、イタリア海軍の場合はオーストリア潜水艦の脅威が、オーストリア海軍の場合はイタリア魚雷艇の脅威があると思うと、現存艦隊主義は合理的な選択だったと言えるだろう。実際、オトラント海峡の突破を目指したオーストリア艦隊は、大戦終盤に伊海軍魚雷艇の攻撃で返り討ちにされている。
◆伊海軍航空隊、アドリア海の空を舞う
水上艦のみならず、グイード・シェルージ(Guido Scelsi)大佐率いる海軍航空隊もアドリア海において大活躍した。第一次世界大戦時のイタリアのエース・パイロットといえば陸軍航空隊の活躍が有名だが(陸軍航空隊のフランチェスコ・バラッカ少佐Francesco Baraccaは34機の敵機を撃墜した)、海軍航空隊も戦闘飛行艇で多数の敵機を撃墜している。代表的なエースはオラツィオ・ピエロッツィ(Orazio Pierozzi, 7機撃墜・9機未確認撃墜)、フェデリーコ・マルティネンゴ(Federico Martinengo, 5機撃墜)、ウンベルト・カルヴェッロ(Umberto Calvello, 5機撃墜)などが存在。ジブリ映画『紅の豚』の主人公ポルコ・ロッソは第一次世界大戦時にイタリア海軍航空隊のエースだった設定だが、まさに搭乗していた機体も同様のマッキ M.5戦闘艇であった。
ピエロッツィらはオーストリア海軍航空隊のトップエースであり、第一次世界大戦時の最高戦闘艇エースであるゴットフリード・フォン・バンフィールド男爵(Gottfried von Banfield, 9機撃墜)も撃墜する戦果を挙げた。なお、フォン・バンフィールド男爵は戦後にイタリアに帰化し、トリエステで海運会社を運営している。イタリア海軍は当初主力艦の艦載機として水上機を運用したが、後に2隻の水上機母艦(「エルバ」及び「エウローパ」)を運用して集中管理し、アドリア海作戦に従事した。
海軍航空隊は飛行船によるオーストリア軍拠点の爆撃も行っていた。ブルーノ・ブリヴォネージ艦長(Bruno Brivonesi)が指揮する飛行船「チッタ・ディ・イェージ」によるポーラ軍港空襲が有名だろう。発足当時は飛行船2隻と水上機15機しか持たなかった海軍航空隊は、戦時中に拡大していき、第一次世界大戦終戦時には飛行船39隻、航空機(陸上機含む)638機までに増強したのだった。
また、イタリア海軍は陸戦でも勇敢に戦った。1915年10月には海軍では後の「サン・マルコ海兵連隊」の母体となる「海兵連隊」が設立され、ピアーヴェ川の大激戦にて投入された。勇敢な海兵達はイタリアの勝利に陸戦でも大きく貢献したのであった。
◆伊海軍の秘密兵器、"MAS艇"と"人間魚雷"
そして、イタリア海軍の第一次世界大戦での勝利というと、やはり欠かせないのがMAS艇の活躍である。MAS艇とは、第一次世界大戦時に開発されたイタリアの高速魚雷艇で、Motobarca Armata SVAN(SVAN社製武装モーターボート)もしくはMotobarca Anti Sommergibile(駆潜モーターボート)の略称である。ヴェネツィアのSVAN社が1915年3月に試作型を開発。次第に実戦に投入されていったが、元々の駆潜艇としての役割よりも、魚雷艇として敵水上艦に対する攻撃で戦果を挙げたために、後にMotoscafo Armato Silurante(魚雷武装モーターボート)に正式名称を変更している。
イタリア海軍のMAS艇は第一次世界大戦後半にアドリア海で猛威を奮った。1916年には最初のMAS艇部隊が編成され、同年6月にはドゥラッツォ湾を襲撃、オーストリア軍の輸送艦を撃沈し、初の戦果を挙げた。参謀長を兼任していたカミッロ・コルシ海相の後任として、1917年2月9日に再び海軍参謀長に就任したタオン・ディ・レヴェル提督はMAS艇を重要視し、MAS艇部隊は急成長を遂げていった。
コルシ海相は6月16日に海相を辞任し、その後任には海軍参謀次長のマデルノ伯アルトゥーロ・トリアンジ提督(Conte di Maderno, Arturo Triangi)が就任したが、僅か一ヶ月で交代となり、後任の海相には海軍事務総長のアルベルト・デル・ボーノ提督(Alberto del Bono)が就任した。タオン・ディ・レヴェル参謀長とデル・ボーノ海相の二人体制によって、第一次世界大戦終盤における伊海軍の大勝は実現できたと言えよう。
1917年12月10日未明には、ルイージ・リッツォ中尉(Luigi Rizzo)が指揮する「M.A.S.9」艇と「M.A.S.13」艇がトリエステ湾に侵入(トリエステ湾海戦)。オーストリア海軍の戦艦「ウィーン」を撃沈する大戦果を挙げている。その後、1918年2月11日未明にはコスタンツォ・チャーノ中佐(Costanzo Ciano)率いるMAS艇戦隊がブッカーリ港を襲撃(ブッカーリ港奇襲)しており、カポレットの大敗で意気消沈したイタリア国民を鼓舞した。これにはかの英雄詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio)も同行しており、彼がブッカーリ港襲撃時に港湾内に引きこもるオーストリア艦隊を揶揄した詩を瓶に詰めて湾に流したことから、「ブッカーリの嘲り(Beffa di Buccari)」と呼ばれている。
イタリア海軍側にコケにされたオーストリア海軍は1918年春、温存していたホルティ・ミクローシュ提督率いる主力艦隊を出撃させ、オトラント海峡を突破して連合軍船団を叩く計画を立てた。これを察知したイタリア海軍参謀次長のロレンツォ・クザーニ・ヴィスコンティ提督(Lorenzo Cusani Visconti)は、リッツォ大尉が指揮する「M.A.S.15」艇とジュゼッペ・アオンツォ少尉(Giuseppe Aonzo)が指揮する「M.A.S.21」艇に対して敵艦隊の待ち伏せ攻撃を命令(プレムダ海戦)。プレムダ島北方のグルイツァ島の影に潜んだ2隻のMAS艇は、6月10日未明にオーストリア艦隊を発見し、攻撃を実行した。リッツォ大尉の「M.A.S.15」艇から発射された魚雷がオーストリア第二戦艦隊旗艦「スツェント・イストファン」右舷に直撃、これにより同艦は横転、撃沈したのであった。
小型の魚雷艇によって弩級戦艦が撃沈されたという事実は各国に衝撃を与え、オーストリア艦隊は再び港湾に撤退したのである。この勝利の日は後にイタリアの海軍記念日(Giornata della Marina Militare)として設定されたのであった。リッサ海戦が起きた場所にも程近いダルマツィア海岸の多島海にて、イタリア海軍がオーストリア海軍に対して大勝利したという戦果は、イタリア海軍にとって「リッサの雪辱」を晴らし、アドリア海の制海権の完全な掌握に繋がった重要な勝利であると記憶されている。
大敗したオーストリア海軍に追い討ちを掛けるように、タオン・ディ・レヴェル海軍参謀長はオーストリア海軍の根拠地であるポーラ軍港襲撃を考案。これに投入されたのが新兵器たる"人間魚雷"「ミニャッタ」で、1918年11月1日に設計者である技術将校ラッファエーレ・ロッセッティ少佐(Raffaele Rossetti)と軍医ラッファエーレ・パオルッチ中尉(Raffaele Paolucci)自ら搭乗した「ミニャッタ」は見事ポーラ軍港の潜入に成功(ポーラ軍港襲撃)。"人間魚雷"とは言え、後の日本海軍の特攻兵器「回天」のような自殺兵器ではなく、潜水工作員が水中を低速移動して敵艦に爆弾を仕掛け撃沈する、という攻撃法であった。戦艦「フィリブス・ウニティス」の艦底に設置した爆弾が爆発し、同艦は撃沈され、作戦は大成功に終わっている。この成功はイタリア海軍に強い影響を与え、第二次世界大戦時には「世界最強の潜水部隊」と称されるだけの戦果を得るに繋がっていくのであった。
長くなってしまったが、説明していく過程で時代が前後したため、最後に年表として主な出来事をまとめておこう。
1915年5月24日:イタリア、オーストリアに宣戦布告。
(第一次世界大戦への参戦)
同日:伊海軍、ポルト・ブーソ港を襲撃。
大戦における伊海軍初の軍事作戦。同基地の制圧に成功。
同日:オーストリア艦隊によるアンコーナ砲撃。
墺主力艦隊によるイタリア参戦の報復。アンコーナ市に甚大な被害。
1915年7月7日:伊装甲巡洋艦「アマルフィ」撃沈。
オーストリア潜水艦による雷撃。
1915年7月11日:伊偵察艦隊、ペラゴーサ島制圧。
1915年7月18日:伊装甲巡洋艦「ガリバルディ」撃沈。
オーストリア潜水艦による雷撃。伊海軍主力は出撃を制限。
1915年9月24日:ヴィアーレ海相辞任。暫定的にサランドラ首相が海相兼任。
1915年10月1日:タオン・ディ・レヴェル参謀長辞任。
コルシ海相が参謀長兼任。
1915年11月27日:伊戦艦「ブリン」、港内で爆沈。火薬庫の誘爆。
1915年12月28日-29日:第一次ドゥラッツォ湾海戦。
イタリア側がセルビア軍支援のための船団輸送に成功。
1916年6月12日:伊駆逐艦隊、パレンツォ港襲撃。
1916年6月25日:伊MAS艇部隊、ドゥラッツォ湾襲撃。
オーストリア輸送艦を撃沈。MAS艇部隊の初戦果。
1916年8月1日:伊潜水艦、墺駆逐艦を雷撃で大破。
WW1中の伊潜水艦の唯一の敵軍艦に対する戦果。
1916年8月2日:伊戦艦「レオナルド」、港内で爆沈。火薬庫の誘爆。
1916年12月11日:伊戦艦「マルゲリータ」、機雷に触雷沈没。
1917年2月9日:タオン・ディ・レヴェル提督、海軍参謀長に再就任。
1917年5月15日:オトラント海峡海戦。
オーストリア艦隊が海峡の封鎖を突破。
1917年6月16日:コルシ海相辞任、トリアンジ参謀次長が一時的に海相就任。
1917年7月16日:デル・ボーノ海軍事務総長が海相に就任。
1917年12月10日:トリエステ湾海戦。
伊MAS艇部隊、墺戦艦「ウィーン」の撃沈に成功。
1918年2月11日:伊MAS艇部隊、ブッカーリ港奇襲。
カポレットの大敗で沈んだ伊世論を回復。
1918年6月10日:プレムダ沖海戦。
伊MAS艇部隊、墺戦艦「スツェント・イストファン」撃沈。
1918年10月2日:第二次ドゥラッツォ湾海戦。
伊海軍の勝利。墺軍はドゥラッツォ港より撤退。
1918年11月1日:ポーラ軍港襲撃。
伊潜水部隊、墺戦艦「フィリブス・ウニティス」撃沈。
1918年11月3日:ヴィッラ・ジュスティ休戦協定署名。
オーストリア降伏。イタリア戦線の終結。
次は軍縮時代のイタリア海軍について紹介します。