第二次世界大戦参戦に至るまでのイタリア海軍通史④:軍縮時代のイタリア海軍(1919-1935)
さて、今回もイタリア海軍通史について書いていきましょう。前回まではリソルジメント後のゴタゴタから、伊土戦争と第一次世界大戦の快勝まで書いていきましたが、今回で第一次世界大戦後の軍縮時代に突入します。同時に、イタリアではファシスト政権が成立しますが、軍縮時代はファシスト外交の「攻撃性」が鳴りを潜めているのがミソですね(とはいえ、コルフ島事件など攻撃性が垣間見える事もありますが)。
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◆"骨抜きにされた勝利"とワシントン海軍軍縮条約
第一次世界大戦での快勝はイタリア海軍の栄光を高めただけでなく、アドリア海における制海権を完全に確保させた。イタリアは戦勝により、トレンティーノ及びアルト・アディジェ(独語名は南チロル)、ヴェネツィア・ジュリア、そしてケルソ島やルッシーノ島、ラゴスタ島などアドリア海島嶼部等を獲得した。しかし、英仏も旧オスマン帝国領を領有する形で東地中海に勢力を拡大し、新たな脅威が出現してしまった。
東地中海では、英国はエジプトやパレスチナ、キプロスを領有し、フランスはシリア地域を領有した。一方、アドリア海地域はイタリアの完全な制海権に置かれた。アドリア海対岸に新たに生まれたユーゴスラヴィアの海軍力はかつてのオーストリアには遠く及ばず、イタリア海軍には全く脅威ではなかったのである。そのため、アドリア海の戦略的重要性は失われた。
第一次世界大戦後、戦勝国となったイタリアであったが、1915年のロンドン秘密条約で確約したはずの領土割譲(フィウーメ・ダルマツィアの獲得、アルバニアの保護国化)はパリ講和会議では反故にされ、イタリアでは「骨抜きにされた勝利」と言われ、イタリア国民に不満が広がった。それによって、英雄的詩人であったガブリエーレ・ダンヌンツィオらによるフィウーメ占領が発生し、国内は失業率の増大と不況の嵐が巻き起こった。ダンヌンツィオは前回も紹介したが、ブッカーリ奇襲にも参加している。
戦火が去ったことにより、イタリア海軍の予算は当然大幅に削減された。ジョヴァンニ・セーキ海相(Giovanni Sechi)はこれを受けて建造中のフランチェスコ・カラッチョロ級戦艦の建造を中止し、予算の関係的にも戦艦よりも巡洋艦・駆逐艦に重きを置く海軍戦略を採用するに至っている。
しかし、海軍の予算削減と建艦計画の停滞に対し、アルフレード・アクトン参謀長(Alfredo Acton)率いる海軍は不満を募らせた。このため、ダンヌンツィオの主張する「骨抜きにされた勝利」は海軍内部で強く支持され、それに伴うファシストの勢力拡大に対してもこれを支持している。前回紹介したブッカーリ襲撃の英雄であったコスタンツォ・チャーノ提督(Costanzo Ciano)がファシスト党の領袖となったため、その影響も強かった。彼は海軍次官や通信相を歴任した他、彼の息子であるガレアッツォ・チャーノ(Galeazzo Ciano)も宣伝相や外相を歴任し、ムッソリーニの娘婿として絶大な権力をふるった事で知られている。
1922年6月に締結されたワシントン海軍軍縮条約は英国、アメリカ、日本、フランス、イタリアの五大海軍国の艦隊比をそれぞれ5(英米):3(日):1.67(仏伊)と定めた。調印者はルイージ・ファクタ(Luigi Facta)政権の外相カルロ・スカンツェール(Carlo Schanzer)である。時のイタリア海相ロベルト・デ・ヴィート(Roberto De Vito)はこの軍縮に満足した。工業生産力が他列強に遅れをとるイタリアは他国との建艦競争に繋がれば厳しく、更に第一次世界大戦終戦後は戦時中の損害に対して賠償金が満足に得られなかったという事もあり、当時のイタリア経済は財政危機に陥っていたからである。
1919年から22年にかけて、海軍予算は1913年当時より20%も削られる有様であった。また、イタリア海軍は基本的地中海艦隊が戦力の中枢であり、地中海から離れた植民地は東アフリカ(と天津租界)程度であったため、世界各地に植民地を擁するフランスと同等の保有上限を手に入れたことは、地中海ではイタリア海軍が仮想敵たるフランス海軍に優位に立てる可能性があることを意味していた(まして、東アフリカ方面のフランス勢力圏はジブチのみだったため、対フランス戦略では事実上地中海のみに戦力を集中させておけば良い事になる)。当然、フランスはイタリアと比率が同等であった事に抗議している。フランス海軍はイタリア海軍に対抗するためにも、戦力の大半を地中海防衛に回さなくてはならなくなったからである。
オーストリア海軍が消滅した後、イタリア海軍の主要な仮想敵は専らフランス海軍であり、フランス海軍こそが対抗する相手になった。そのため、当時作られていたイタリア海軍の艦艇は基本的にフランス海軍の艦艇に対抗する設計となっている。
◆ムッソリーニ政権成立とコルフ島事件
国内情勢が不安定になる中、ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)率いるファシスト党は支持を拡大していき、1922年10月28日の象徴的な「ローマ進軍」を契機に、10月31日にはムッソリーニ政権が誕生した。第一次世界大戦時に海軍参謀長を務めた海軍の英雄であり、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(Vittorio Emanuele III)からも信頼が厚いパオロ・タオン・ディ・レヴェル提督(Paolo Thaon di Revel)はムッソリーニ政権において海相として入閣した。ムッソリーニはこの偉大な提督のために海軍の最高位の階級である「海軍元帥(Grande Ammiraglio)」を創設し、この名誉称号を授与された。彼はイタリア海軍史上唯一の海軍元帥となったのである(彼の後に海軍元帥に処された人物はいない)。
ムッソリーニ政権成立後、さっそくイタリア海軍は実戦を経験することになる。1923年8月27日、ギリシャ・アルバニア国境劃定委員会の委員長であった、イタリア陸軍のエンリコ・テッリーニ将軍(Enrico Tellini)が同行していたイタリア代表団と共に何者かによって殺害される事件が発生した(イオアニナの虐殺)。ギリシャ側はテッリーニ将軍を以前よりアルバニア側に有利な国境劃定をしていると非難しており、この暗殺はギリシャ側の関与が当然考えられた。
ムッソリーニはこの事件に対し、ギリシャ政府側を強く非難。その後、ムッソリーニはギリシャ側に最後通牒を通告したが、ギリシャ政府は部分的に受け入れたのみであったためムッソリーニは満足せず、イタリア海軍にギリシャ領イオニア諸島のコルフ島制圧を命令。タオン・ディ・レヴェル海相はこれに対し、これを契機にイタリア政府と国民に海軍の重要性を示し、海軍予算の拡大に繋がると考えたため、ムッソリーニの判断を全面的に支持している。
この「コルフ島事件」と呼ばれるイタリア・ギリシャ間の紛争では、イタリア海軍がその軍事衝突の主体となった。イタリア海軍はエミーリオ・ソラーリ海軍大将(Emilio Solari)率いる主力戦艦4隻を含む艦隊(旗艦:戦艦「コンテ・ディ・カヴール」)をコルフ島に派遣した。この作戦に参加した4隻の戦艦「コンテ・ディ・カヴール」「ジュリオ・チェーザレ」「カイオ・ドゥイリオ」「アンドレア・ドーリア」はいずれも第一次世界大戦時に就役したイタリア最新鋭の弩級戦艦であった。ソラーリ提督率いる主力艦隊はコルフ島の要塞を艦砲射撃した後、海兵部隊が同島を制圧した。
ギリシャ側が国際連盟に助けを求め、その後大使会議による審議の結果、ギリシャ側がイタリア側の要求を受け入れることで紛争は終結した。ギリシャ側はイタリア側に謝罪し、賠償金を支払った。これを受け、イタリア側はコルフ島から撤退し、外交危機は解決されたのである。イタリア世論はムッソリーニの強気の姿勢を高く評価し、ファシスト党の支持拡大へと繋がったのである。
この紛争の「勝利」の立役者となった海軍だが、この事態を受けてタオン・ディ・レヴェル海相はムッソリーニと距離を置くこととした。コルフ島事件により、英海軍の地中海艦隊増強を招き、伊英関係の悪化に繋がったからである。ムッソリーニの冒険的な外交は世界最大の海軍国を敵にしかねない、という判断によるものであった。実際、タオン・ディ・レヴェル提督の懸念は第二次世界大戦で現実のものとなった。
1924年6月のマッテオッティ事件を契機に更にムッソリーニへの警戒感を強めたタオン・ディ・レヴェル海相は1925年5月8日に海相を辞任。その後は首相であるムッソリーニが海相を兼ね、事実上の海軍の責任者としては新たに海軍次官に就任したジュゼッペ・ジリアンニ提督(Giuseppe Sirianni)がその役目を果たした。ジリアンニ提督は1929年9月から1933年1月の間は海相に就任している。
◆ファシスト政権の諸政策
ムッソリーニは今までのイタリア政府の「弱腰外交」を批判し、コルフ島事件を契機にその影響力を国際的に示した。ファシスト政権に対する他列強の反応は大方肯定的であり、例えば英国のオースティン・チェンバレン外相(Austen Chamberlain)やウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)などの人物がムッソリーニを高く評価した。この肯定的意見の理由は、イタリアの議会制民主主義に対する政治不安が原因であった。
ムッソリーニはフィウーメ問題を巡って対立関係にあったユーゴスラヴィア政府と交渉し、その結果両国の「友好条約」として1924年にローマ条約が締結、フィウーメをイタリアに割譲させる事に成功した。続く1925年のネットゥーノ条約ではラパッロ条約でイタリア領となった領土の再確認も含め、両国の国境が正式に確定した。これにより、両国関係は表面上安定したものとなり、イタリア人人口の多かったフィウーメの獲得もダンヌンツィオが武力で達成できなかったことを、ムッソリーニが外交で達成した、という目に見えるムッソリーニの成果であった。
続いて、ルーマニアとの友好条約締結(1926年9月)、イエメンとの友好条約締結(1926年9月)、アルバニアの経済的属国化(1927年11月)、エチオピアとの友好条約(1928年8月)、ギリシャとの友好条約締結(1928年9月)、ブルガリア国王とイタリア王女の政略結婚(1930年10月)、ブルガリアとの友好条約締結(1931年1月)、オーストリア及びハンガリーとの協力協定締結(1934年3月)、伊ソ友好不可侵条約締結(1933年9月)、伊仏友好協定(1935年1月)、英仏とのストレーザ戦線成立(1935年4月)、ユーゴスラヴィアとの友好不可侵条約締結(1935年6月)といった各国との協力関係を構築し、バルカン、中東欧、中東、アフリカに至るまでの勢力圏確保を目論んだ。この期間のファシスト政権はその「攻撃性」を隠し、諸国間との協調外交による勢力圏拡大を狙っていたのである。この時のファシスト政権は英仏ではなくオーストリア問題でナチス・ドイツと敵対関係にあったため、英仏やオーストリア及びハンガリー、更にはソ連までもを利用した対独包囲網の構築を進めていた。
また、ムッソリーニ政権の財務相として入閣したアルベルト・デ・ステーファニ(Alberto De Stefani)は超緊縮財政による財政再建と行財政改革を進め、戦後恐慌を脱して平均4%のGDP増加という目覚しい景気回復を示したことで、経済的な面でもファシスト政権の手腕は高く評価されることになった。経済の回復によって、海軍予算も増えており、イタリア経済の成長は海軍も無視出来ない話題だった。
通信相時代のコスタンツォ・チャーノ提督による鉄道改革も重要である。チャーノ通信相は「定時運行」をスローガンに掲げ、鉄道の近代化に取り組んだ。特に鉄道の電化に注力し、運用コストの削減と速達性・快適性の向上を実現している。非電化路線のローカル線にも「リットリナ」の愛称で親しまれる気動車が投入され、これは植民地でも運用された(エリトリアでは現在も使われている)。最大80%以上の割引率で運用される「人民列車」も運行され、イタリア国民は鉄道旅行を楽しんだ。ミラノ中央駅を始めとするイタリア各都市の主要駅舎も、この時に作られたものが多い。
ファシスト政権は植民地の「改革」を行った。ソマリア総督に就任したファシスト党終身最高幹部「クァドルンヴィリ」の一人であるチェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキ(Cesare Maria De Vecchi)はソマリア植民地の統一と集権化を実行。2つのスルタン国と英国から割譲されたオルトレジュバを併合し、「ソマリアの統一」を実現した。海軍もスルタン国の制圧作戦に参加し、海兵部隊が戦果を挙げている。
続いて、伊土戦争で獲得したトリポリタニア・キレナイカ及びフェザーンにおける大規模な叛乱鎮圧作戦(リビア再征服)がピエトロ・バドリオ元帥(Pietro Badoglio)とロドルフォ・グラツィアーニ将軍(Rodolfo Graziani)のもとで実行され、1934年にはトリポリタニア・キレナイカ・フェザーンの三地域を合併し、「イタリア領リビア」が成立した。こうして、植民地の平定に成功したファシスト政権は、新たな膨張戦争に向かうことが可能となったのである。
◆空軍の優遇、海軍の冷遇
ムッソリーニは強大な艦隊を作り上げることに熱心であったが、一方で空軍力の増強には更に熱心だった。しかし、それによって第一次世界大戦で輝かしい戦果を挙げたイタリア海軍航空隊は壊滅する事態となる。1923年3月、勅令によってイタリア陸軍航空隊を前身とする、イタリア空軍が成立した。当初は海軍航空隊との関係に変化はなかったが、1929年9月12日に後に空軍元帥に昇進するイタロ・バルボ将軍(Italo Balbo)が空軍大臣に就任すると、バルボ空相は全ての航空戦力を空軍の元に集中させるため、事実上海軍航空隊を完全吸収した。
バルボは政府内でも屈指の実力者であり(ファシスト党終身最高幹部である「クァドルンヴィリ」の一人)、ムッソリーニも空軍贔屓であったため、航空戦力的な観点では海軍は冷遇されたのであった。まさに、ドイツにおけるゲーリング率いる空軍とヒトラーの関係によく似ていると言えよう。ファシストやナチスの独裁者にとって空母というものはどうにも相性が悪いのかもしれない。
海軍航空隊は以前の1/10の規模まで縮小された上に、旧式機ばかりしか残されず、例えば空母の建造計画を提案しようものなら、空軍の激しい反対に遭って計画は頓挫した。空軍としては地中海の中心に位置するイタリア半島は「不沈空母」であるから、イタリア海軍が地中海で活動する限り、海軍が空母を持つ必要は全くない、というスタンスであった。僅かに残された海軍の所属機ですら、空軍の管理下にあり、パイロットも空軍の所属であった。海軍の指揮下には爆撃機も戦闘機もなく、艦載用の飛行艇と水上機が50機あるのみであり、第一次世界大戦終戦時に600機以上の機体を保有した海軍航空隊は無惨にも「壊滅」したのである。日本では陸軍と海軍の不仲っぷりがネタとして有名だが、イタリアの場合では海軍と空軍の不仲が深刻だった。
また、第一次世界大戦時に保有していた海軍の飛行船はウンベルト・ノビレ空軍少将(Umberto Nobile)が指揮した1928年の飛行船「イタリア」による北極遠征での遭難事故を受けて、空軍・海軍問わず採用されなくなり、実験や研究も中止となって姿を消した。
だが、その一方でジリアンニ海相率いる海軍側も健気にも空母の建造計画をあの手この手で計画し続けた。どれもペーパープランのみで実現はしなかったものの、海軍航空隊出身のアレッサンドロ・グイドーニ空軍少将(Alessandro Guidoni)が考案したコスト削減のための双胴空母など、中々興味深い設計計画は多い。結局、伊海軍がファシスト政権を通じて保有した航空機運用艦は、未完成の空母2隻(「アクィラ」及び「スパルヴィエロ」)を除けば、水上機母艦「ジュゼッペ・ミラーリア」しか存在しなかった。
ワシントン海軍軍縮会議を拡大させる形で試みられたロンドン海軍軍縮会議も実施され、イタリア代表はディーノ・グランディ外相(Dino Grandi)やジリアンニ海相が交渉役として参加した。主力艦の保有枠を決めたワシントン海軍軍縮会議に対して、ロンドン海軍軍縮会議は補助艦艇の保有枠を決めるものであった。イタリア側はフランス側と二国間交渉を行ったが、フランス側は一貫してイタリア側より多くの巡洋艦・駆逐艦の保有枠を主張したために交渉は決裂している。このため、イタリアとフランスは巡洋艦・駆逐艦の量的制限を受け入れないことを表明し、あくまで部分参加に留めることとなった。
次回はいよいよ戦間期の戦争とイタリア海軍についてです。