Associazione Italiana del Duce -ドゥーチェのイタリア協会へようこそ!-

同人サークル"Associazione Italiana del Duce"の公式ブログです。

第二次世界大戦のイタリアは「戦勝国」であったか?

第二次世界大戦のイタリアは途中で寝返り、戦勝国になった」というコピペがネットでは蔓延している。

当然であるが、これは大きな嘘である。

確かに1943年の休戦後のバドリオ政権(イタリア王国政府)とパルチザンは、北部を支配するムッソリーニイタリア社会共和国(RSI政権,サロ共和国)と(イタリアを占領する)ナチス・ドイツに対して、「イタリア内戦(Guerra civile in Italia)」で勝利した。つまりは、「ナチ・ファシスト」に対する勝利は手に入れたと言えよう。しかし、それは第二次世界大戦での戦勝を意味するものではないし、事実、イタリア王国政府(バドリオ政権→ボノーミ政権→パッリ政権)は「連合国」としてすら扱われてはいない

f:id:italianoluciano212:20190624224241j:plain

RSI政権期のムッソリーニ

1943年の休戦後、イタリアは北部・中部を支配するイタリア社会共和国(ファシスト側)と、南部のイタリア王国(王党派)として分かれ、内戦状態に陥った。しかし、ここで注意しなければならないのは、この「南部王国」は内戦の主体では無かった点だ。この「イタリア内戦」、そしてイタリア戦線で主体となったのは、英国やアメリカを中心とする連合軍と、それと敵対するドイツ軍及びRSI軍、そしてナチ・ファシストに抵抗するパルチザンたちだった。南部王国は「共同交戦国」としての立場を与えられたものの、「連合国」としての立場は与えられず、連合国側の信頼も得れなかった。故に、後方支援が主なものであった。

「共同交戦国」とは立場的に、降伏後のルーマニアブルガリアフィンランドあたりと同じだ。つまりは「旧枢軸国であるが、途中で連合国側に寝返った」国々というわけである。これらは確かに日本やドイツより立場は多少マシになったものの、結局戦後は「敗戦国」として扱われており、「戦勝国」としては扱われていない下に載せた講和条約の内容からしても明らかである。そもそも、「イタリアは"戦勝国"である」とか言ってる連中は、フィンランドルーマニアなどに対しても同じこと言っているか?と言われたら言っていない。所詮はそのほかのイタリアdisと同様の悪意を持った低質なデマであることがわかる。

 

結局、イタリアは「敗戦国」である。

 

☆1947年のパリ講和条約の内容(イタリアの講和条約)

イタリアは「共同交戦国」となり、新政権が戦犯を自ら裁き、処罰する権利を与えられていた。しかし、講和条約で与えられた条件は他の敗戦国と同様に厳しいものであった。そもそも、第二次世界大戦後に賠償金を事実上免除された日本とは違い、多額の賠償金の支払いも命じられている

では、ここで第二次世界大戦のイタリアの講和条約である、1947年のパリ講和条約の内容を軽く見てみよう。

まずは、領土の割譲である。当然であるが、第二次世界大戦中にイタリアが占領下に置いた地域は全て放棄することになった。

1940年6月以前の領域では、

フランスへ:テンダ(現フランス領テンド)を始めとする国境地域(フランスはヴァッレ・ダオスタも要求したが、アメリカの介入によって防がれた)の割譲

ユーゴスラヴィアへ:イストリア半島の大部分(トリエステには自由地域を設置)、ザラ市を始めとするアドリア海沿岸地域の割譲

アルバニアへ:全領土の解放、セサノ島(旧オスマン帝国領の島)の割譲

ギリシャへ:旧イタリア領エーゲ海諸島(ドデカネス諸島)の割譲

中国へ:天津租界の返還

植民地全植民地(リビア及び東アフリカ)の放棄

これらの失った領域にいるイタリア系市民は、イタリア市民権を失うこととなった。それに加え、特にユーゴスラヴィア領ではイタリア系住民への虐殺行為なども発生したために多くのイタリア人たちがイタリア本土に難民として押し寄せる結果となった

 

続いて、賠償金についてであるが、ソ連(約100万米ドル)ユーゴスラヴィア(約125米ドル)エチオピア帝国(約25万米ドル)ギリシャ(約105万米ドル)アルバニア(約5万米ドル)に対して合わせて約360万米ドル(当時のレート)が支払われた。

 

軍備制限も行われ、残存の殆どの艦艇は戦勝国賠償艦として引き渡されるか、スクラップとして解体された。フランスおよびユーゴスラヴィアとの国境地帯に建設された要塞群解体が命じられ、パンテッレリーア島などの島嶼部は武装化されている。海軍は空母や戦艦、潜水艦などの建造・保有が禁止となり、ミサイルや核兵器に関しても開発・保有・購入が禁止となった。しかし、これは西ドイツ同様に、後にNATO加盟によって大部分が緩和されることになる

 

☆イタリアにおける「戦犯」の定義

そして、最後に戦犯の拘束と裁判を義務付けられた。しかし、ここで重要になったのが、イタリアにおける「戦犯」の定義である。1922年にムッソリーニ政権が成立して以降、ファシスト党支配下にあったイタリアは、他国のように「ファシスト=コラボ(戦犯)」という意味合いで汚名を着せる事が難しかった
バドリオ内閣自体がかつてのファシスト党員で構成されていたのも問題であった。法相ガエターノ・アッツァリーティ(Gaetano Azzariti)と商業産業相レオポルド・ピッカルディ(Leopoldo Piccardi)はかつてユダヤ人の迫害法案である「人種法」の制定に重要な役割を果たし、この「人種法」の積極的な支持者だった。財務相イードユング(Guido Jung)はベネドゥーチェと共にIRI(産業復興機構)を創設したユダヤ人の元ファシストであり、内相ウンベルト・リッチ(Unberto Ricci)は公共事業省の幹部であり、デ・ボーノ元帥の元でファシスト警察長官を務めた経験があった。

ファシスト政権期にナポリの都市改造を指揮したピエトロ・バラトーノ(Pietro Baratono)は官房副長官に任命されたが、彼はムッソリーニに信頼されて直接ナポリ知事に任命された人物であった。為替・通貨相ジョヴァンニ・アカンフォーラ(Giovanni Acanfora)と財務相ドメニコ・バルトリーニ(Domenico Bartolini)は両者共に主要銀行の総裁だが、彼らとてファシストとの関係が深かったことは言うまでもない。人民文化相グイードロッコ(Guido Rocco)は、伝統的な外交官であったが、ファシスト政権期に外務省の広報官として国外向けのプロパガンダを指揮した人物であった。当然ながら、バドリオ新政権の「南王国軍」の幹部らは、1943年の休戦までイタリア軍の戦争指導者であり、連合軍と敵対する存在であった。このイタリア初の「反ファシスト」政権は、実に内閣の殆どが「元ファシスト」や「戦争指導者」であり、ムッソリーニに仕えた身であったのである。真の意味での「反ファシスト」政権が生まれるには、バドリオ政権後のイヴァノエ・ボノーミ政権の成立まで待たなければならない
そもそもバドリオ元帥自身もムッソリーニに仕えた身であったし、リビア再征服やエチオピア侵略といった植民地戦争、第二次世界大戦初期には参謀総長を務めていた戦争指導者であった。植民地戦争における悪行は、RSI国防相となったロドルフォ・グラツィアーニと並び非常に悪名高い。
その為、「ファシスト」を裁く事となれば、「新政府」の内部崩壊に繋がる危険性があった。故に、明らかに起訴が可能なファシスト党員の罪は「1943年9月8日(バドリオ政権による無条件降伏宣言)以降のコラボ行為」のみであった
その結果、告発を受けた人々の大半はバドリオ政権と敵対したRSI政権の関係者であったムッソリーニの解任に賛成したファシストに関しては、デ・ヴェッキ、グランディ、ボッタイといった大幹部であっても罪には問われなかったのである。つまり、裁かれるべき「ファシスト」は、ここで「サロ・ファシスト」に限定され、1943年以降RSI政権側に付かなかったファシストへの制裁は緩やかなものであった

1944年9月に設けられた最高裁の判事・弁護士たちは大半が元ファシスト党であり、RSI政権下で働いた下級職員を処罰するための臨時法廷の職員もまた同じであった。当然、このような状態での訴訟手続きでは一般市民の信認を得る事は難しかった。
1946年2月のパージ委員会廃止までに取り調べを受けたRSI政府職員39万4千人の内、解雇されたのはわずか1580人であった。尋問された者の大半はGattopardismo(豹変主義、Gatto(猫)とPardo(豹)を合わせた言葉)と述べ、ファシスト党の圧力の前で二重ゲームをやっていたと主張した。そもそもファシスト政権期において公務員はファシスト党員であることが義務付けられていたため、尋問する側も彼らの状況に同情的であった
ジャンピエトロ財務相らRSI政権幹部や、グラツィアーニ元帥やボルゲーゼ司令官らといったRSI軍上層部に対する鳴り物入りの裁判の後、政府や行政に対する粛清の約束はうやむやとなった。
しかし、その裁判を受けた人々でさえ、1946年のトリアッティ法相による特赦によって釈放される事となった。釈放されたファシストや政治家の中には、ネオ・ファシスト政党のMSI(イタリア社会運動)に合流する者も多かった。特にRSI海軍の幹部だったユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼは、1970年代にクーデター未遂事件を起こし、イタリアを揺るがした。
当初は行動党レジスタンス出身のフェッルッチョ・パッリ政権によって急進的なパージが行われたが、その暴力的な手段によって早くも1945年秋には反動化する結果となった。後にデ・ガスペリ政権が成立すると、1946年2月にはパージを指揮した高等弁務官事務所も閉鎖された。3カ月後には最初の特赦が行われ、5年以下の禁固刑は全て取り消しとなった。投獄されたイタリア人の大部分は獄中生活を殆ど経験しなかったのである

これらの新政府の判断は、ファシストと関係が深かったローマ教皇庁がイタリアにおける左派勢力の拡大を望まず、権威の安定の為にも事態を穏便に済ませようと新政府や占領軍に対して圧力を掛けていたということも、大きな理由の一つであった。

裁判で処刑されたのは50人程度(ローマ警察署長ピエトロ・カルーソや、フェラーラ知事エンリコ・ヴェッツァリーニらなど)だったが、私刑行為で虐殺された人々はこれに含まれない休戦後からデ・ガスペリ政権成立まで、レジスタンスによる私刑行為がイタリアでは横行した。休戦直後に元党書記長のエットレ・ムーティ空軍中佐(中東への長距離爆撃作戦を指揮した)が暗殺されたことを皮切りに、各地でRSI軍高官やファシストへの暗殺・襲撃行為が相次いだ。カルーソに対する裁判の際も、証人として出廷したドナート・カッレッタ(悪名高い「アルデアティーネの虐殺」に関わったレジナ・コエリ監獄の所長)が暴徒によって襲撃される事件が発生した。カッレッタは法廷で暴徒によって襲撃され、遂には殺害された。死体は監獄の外壁に逆さ吊りにされた後にテヴェレ川に投げ捨てられた。
有名なものでは、フィレンツェでの哲学者ジョヴァンニ・ジェンティーレの殺害や、コモ湖畔でのムッソリーニを含むRSI政権首脳部の処刑などが挙げられる。ムッソリーニらの殺害は正当な裁判プロセスを踏むものでも、パルチザン組織の命令でもなく、ヴァルテル・アウディシオという一人のパルチザンの命令によって行われたものであった
左派色が強いボローニャでは残虐な「ファシスト狩り」が行われ、ファシストでなくても、個人的な敵対関係や女性関係であってもレジスタンスと揉め事を起こせば誰でも裁かれる事態が発生した。これらの行為は当然ながら正しい裁判プロセスを踏んでいなかった。先述した「死の三角形」における殺戮も、このボローニャを中心に起こっている。
イタリアは枢軸国から連合国側へ何の痛みもなく移行(戦争を離脱)したと考えられがちだが、実際はそうではなく地獄のような内戦状態を経験していたのであった。

 

P.S.

というかまず、 講和条約でこれだけモリモリに色々課せられているのに、「戦勝国」なわけないだろって話なんですよね。どこの世界に、領土を奪われ、賠償金を払わされ、軍備を制限される「戦勝国」があるんだって話ですね。

 

◆主要参考文献
マーク・マゾワー著・中田瑞穂/網谷龍介訳『暗黒の大陸 ―ヨーロッパの20世紀―』未来社・2015
藤武著『イタリア現代史―第二次世界大戦からベルルスコーニ後まで―』中公新書・2016
フランコ・フェラレージ著/高橋進訳『現代イタリアの極右勢力―第二次世界大戦後のイタリアにおける急進右翼―』大阪経済法科大学出版部・2003
木村裕主著『誰がムッソリーニを処刑したか―イタリア・パルティザン秘史―』講談社・1992
マクス・ガロ著/木村裕主訳『ムッソリーニの時代』文藝春秋・1987
B・バルミーロ・ボスケージ著/下村清訳『ムッソリーニの戦い―第二次世界大戦―』新評論・1993
B・バルミーロ・ボスケージ著/下村清訳『イタリア敗戦記―二つのイタリアとレジスタンス―』新評論・1992
リチャード・クロッグ著/高久暁訳『ギリシャの歴史』創土社・2004
松村高夫/矢野久編著『大量虐殺の社会史―戦慄の20世紀―』ミネルヴァ書房・2007
河島英昭著『イタリア・ユダヤ人の風景』岩波書店・2004
石田憲著『地中海新ローマ帝国への道―ファシスト・イタリアの対外政策1935-39―』東京大学出版会・1994
大森実著『ムッソリーニ―悲劇の総統―』講談社文庫・1994
北原敦編『イタリア史』山川出版社・2008
GREENE, Jack, IL PRINCIPE NERO, 2015
AVAGLIANO, Mario, L’ITALIA DI SALÒ 1943-1945, 2017
BERNATI, Gianluigi, FASCISMO, 2017
ROATTA, Mario, DIARIO, 2017
SCOTTI, Giacomo, L’INUTILE VITTORIA, 2013
VIGNOLI, Giulio, LA VICENDA ITALO-MONTENEGRINA, 2004
FUCCI, Fucci, EMILIO DE BONO, 1989
ANSALDO, Araceli, ETTORE MUTI, 2007 他

今更ですが、「大イタリア祭2(Due)」お疲れさまでした!

今更ですが、「大イタリア祭2(Due)」お疲れさまでした!私はあの翌日から上五島旅行に向かったので、結構バタバタでした。

拙い私の発表でしたが、吉川先生と多田先生のお二人のフォローで助かりました。今回は、このような貴重な機会にお招き頂き、本当に感謝です...!改めて録画映像で確認したところ、自分の発表のアレっぷりで恥ずかしくなりました....

おかげさまで、物販の方も売り切れで、有難い限りです!冬コミに続き、想像以上の売れ行きでした。いやはや、イタリア・ミリタリー紀行の需要結構あるんですね....今回も買えない方が出てしまったので、本格的にDL販売した方が良いのかも....

今回発表したものや、同人誌に乗っけたもの以外にもイタリアにはまだまだ軍事博物館があるので、それらのまだ行ってないところにも近いうちに行けたらいいな、と思っています。とはいえ、やはり学生の分際では旅費とかキツいですが!

あと、これは全くの余談なのですが、私の職場がイタリアンレストランなのですが、イヴェントの開催も可能だそうなので、「第二次世界大戦時のイタリア軍の食事再現」の食事会、みたいなイヴェントを開けたら面白そうだな~と思っています。興味ある方が多ければやってみたら面白そうだと思っています。もし、本格的にやることになったらまた情報発信しますのでどうぞよろしくお願いいたします。

これからもよろしくお願いいたします!

 

f:id:italianoluciano212:20190617231417j:plain

P.S.

どうでもいいですが、Nutella(ヌテッラ/ヌテラ)の懸賞キャンペーン当たりました。

ヌテラ(正しい発音だとヌテッラ)はイタリアで人気のヘーゼルナッツチョコレートスプレッドで、日本ではまだまだ知名度は低いですが、イタリア人には超人気でお馴染みの商品です。とても美味しいのでもし売っていた時は是非是非。パンに塗ると朝食のランクが1ランク上がります(ダイマ)

今週末、6月8日(土)は「大イタリア祭2(Due)」!

今週末、6月8日(土)開催の「大イタリア祭2(Due)」まで、もう残り僅かになってまいりました。「イタリア先生」こと吉川和篤先生と、多田将先生が主催の濃~いイタリア軍関連のトークイヴェントになっております!

f:id:italianoluciano212:20190606215540j:plain

大イタリア祭2(Due)

↓大イタリア祭2(Due)のURLです。

http://tokyocultureculture.com/event/general/27479

第二回目の今回は、私も第二部でゲスト登壇させて頂く機会を頂きました。本当に感謝です!第二部は私がイタリアで回った数々のイタリア軍事博物館やファシスト・イタリア建築、ムッソリーニゆかりの地の中から、いくつかを紹介いたします。つまりは、イタリア・ミリタリー紀行、という感じでしょうか。

f:id:italianoluciano212:20190606214235j:plain

『ミリオタとファシストのためのイタリア旅行ガイド』データ版

流石に全ては紹介しきれないので、あくまで一部です!残りの周ってきた箇所は、冬コミ新刊『ミリオタとファシストのためのイタリア旅行ガイド』に載せています。こちらのデータ版で販売(1000円)致しますので、是非こちらをお買い求め頂けると嬉しいです。冬コミでは開場約1時間で完売となった同人誌ですので是非是非~(私としても予想以上の需要があって、とても嬉しかったのと同時に、買いに来て頂いて買えなかった方が結構いらっしゃったので大変申し訳ない気持ちになりました)。

では、会場でお会いしましょう! Ci vediamo alla festa!(祭でまた会おう!)

二つの戦線の「英雄」、アトス・マエストリ大尉 ―東アフリカと地中海で戦った爆撃機エースの気高き精神―

東アフリカ戦線、それは第二次世界大戦時の戦線で最も孤立した戦場といっても過言ではないスエズ運河を封鎖されてしまったイタリアにとって、この戦線への補給はS.A.S.の航空機による補給しか不可能であった。また、主戦場であった地中海戦線に比べ、東アフリカ戦線の装備は更に旧式化が目立っていた。それは空軍においてもそうであったが、戦闘機エースのマリオ・ヴィシンティーニ(Mario Visintini)を始めとする数々のエースはその状況でも屈することなく、連合軍と果敢に戦っていた

f:id:italianoluciano212:20190601140400p:plain

アトス・マエストリ(Athos Maestri)大尉

爆撃機パイロットのアトス・マエストリ(Athos Maestri)大尉もその一人である。彼は東アフリカ戦線においてカプロニ Ca.133偵察爆撃機パイロットとして、この孤立した戦場で戦い抜き、戦線崩壊後は敵への降伏をよしとせず、東アフリカを脱出、スーダン・エジプト上空を通って本国部隊に合流、地中海戦線でも継続して戦った不屈のパイロットである。彼は人生において数々の困難に直面したが、そのたびにその不屈の精神でそういった困難を乗り越えてきた、気高き精神を持った人物でもある。今回は、そんな二つの戦線で戦った英雄について紹介しよう。

 

◆小さな町に生まれた不屈の精神を持つ男

f:id:italianoluciano212:20190601143533p:plain

マエストリ一家。後列左から、兄フィリベルト(Filiberto)とその妻ティナ(Tina)、アトス、弟アニチェート(Aniceto)。前列が母アンジョリーナと父マリオである。

アトス・マエストリ(Athos Maestri)は1913年4月14日に、「美食の町」パルマ近郊のタリニャーノ(Talignano)という小さな町に、父マリオ・マエストリ(Mario Maestri)と母アンジョリーナ・ボンテンピ(Angiolina Bontempi)の間に生まれた。生まれた場所は母アンジョリーナの実家である。タリニャーノは現在はサーラ・バガンツァの分離集落(Frazione)となっている、人口50人の本当に小さな町...というか村だ。

少年期のマエストリは父方の祖母の家に預けられ、食品加工で知られるコッレッキオの町で過ごしたが、12歳の頃家族と共にアブルッツォ州の州都ラクイラに引っ越しており、そこの工業高校に通った。慣れない環境のマエストリは、更に彼が成績が良くなかっため中退を余儀なくされることとなり、どんどん苦境に追い込まれた。その後、仕方なく建設業の作業員として働き始めることとなったが、仕事は非常に苛酷な環境であり、今度は過労で病を患い倒れてしまったのであった

f:id:italianoluciano212:20190601143839p:plain

晴れて空軍パイロットとなった20歳の頃のマエストリ(1933年)。

踏んだり蹴ったりの状況であったが、この病を機に、マエストリは辞職し、再び学業に励むことにした。後に不屈の飛行士として、彼は名を馳せることとなるが、この頃から不屈の精神は宿っていた。こうして、マエストリはミラノのルイージ・ボッコーニ大学(Università commerciale Luigi Bocconi)の経済学部に入学した。マエストリは学業のためだけにミラノに向かったわけではなかった。自由な空に憧れを持ち、航空機に興味を持っていたマエストリは、その飛行免許を取るため、という目的もあったのである。
大学入学の翌年である1933年には空軍に志願。こうして、1934年7月にはブレダ社の運営する飛行学校で民間飛行士免許を所得した彼は、その後正式に空軍飛行士の資格を所得して正式に空軍に入隊となったのであった

なお、マエストリ兄弟は皆、航空関係の仕事についていた点も興味深い。兄フィリベルト(Filiberto Maestri)はイタロ・バルボ(Italo Balbo)空軍大臣が企画した地中海東部飛行に参加した水上機パイロットであり、戦後はアリタリア航空の旅客機パイロットとして活躍した(RAIのインタビュー映像も残っている)。弟のアニチェート(Aniceto Maestri)も民間航空会社に就職し技師として活躍、まさにパイロット一族という感じであった。

 

エチオピアでの武勲

f:id:italianoluciano212:20190601141802j:plain

エチオピア戦士とマエストリ(中央の人物)。

空軍に入隊して少尉に任官されたマエストリ第7爆撃航空団、第40航空群、第14飛行隊(カプロニ Ca.101爆撃機装備)に配属となり、彼はその後勃発したエチオピア戦争で初陣を飾った。イタリア空軍はエチオピア戦争において効果的に爆撃機部隊の運用を行い、戦局の進展に大きな影響を与えた。エチオピア帝国軍の帝国親衛隊(ハイレ・セラシエ皇帝直属の主力部隊)は航空部隊を作り、各国から購入した航空機だけでなくオーストリア人技師の協力で自国製の航空機までも生産していたが、イタリア空軍部隊に抗うのはほぼ不可能な状態であった。
マエストリエチオピア戦争で銀勲章と戦功十字章を叙勲している。銀勲章は、エチオピア帝国軍の対空砲火によって足に重傷を負うも、爆撃を成功させたことによって叙勲された(エチオピア帝国軍はスウェーデン駐在武官の協力で優れた対空砲を持っていた)。戦功十字章はこれらの事態に遭遇しながらも、不屈の精神で爆撃を成功させたためだった。

f:id:italianoluciano212:20190601144915j:plain

サヴォイアマルケッティ SM.81"ピピストレッロ"とマエストリ

アディスアベバ陥落後、東アフリカ帝国成立後もマエストリは東アフリカに留まり、エチオピア人ゲリラ(レジスタンス)掃討戦にも参加している(サヴォイアマルケッティ SM.81"ピピストレッロ"装備)。その際、ゲリラ兵の砲撃で彼のSM.81が被弾、エンジン火災を起こして飛行不可能となったが、上手く不時着させることで自らと乗組員の命を救ったことによって二度目の銀勲章を叙勲された

この負傷によって本国に治療のために一時帰還したマエストリは、「カプロンチーノ」と呼ばれたカプロニ Ca.100練習機でフェリーノという町で曲芸飛行をやってみせた。ソーセージ工場の娘であったコンチェッタ・ブランキ(Concetta Branchi)という女性は、このマエストリの飛行を見て、それに魅了されたのである。コンチェッタは後に、「彼が私に恋の爆弾を落としたんだわ」と表現している。コンチェッタは飛行を終えたマエストリに会いに行き、やがて二人は恋に落ちた。そうして、1939年7月3日には、マエストリとコンチェッタは結婚。二人の夫婦仲は非常に良好で、お似合いのカップルだった。

 

◆二つの戦線の英雄、東アフリカの戦い

f:id:italianoluciano212:20190530201000j:plain

カプロニ Ca.133偵察爆撃機。カプロニ社製の偵察爆撃機で、1935年からイタリア空軍に導入された。旧式機ではあったが、その高い汎用性と短距離離着陸(STOL)が可能なことから東アフリカ戦線では主力機の一つとして活躍した。

マエストリは怪我の影響から安静にすることを医者から言われていたが(実際、足の骨が怪我の後遺症で痛み、座りがちな活動を強いられた)、1940年6月にイタリアが英仏に宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦すると、マエストリは再び飛ぶ事を望んだ。彼は空軍大将であり、東アフリカの副王だったアメデーオ公(Amedeo di Savoia-Aosta)に懇願し、最愛の妻に別れを告げ、再び東アフリカの戦場に戻ることとなった。

こうして、マエストリは東アフリカ戦線で戦うこととなった。彼はエリトリアのグーラ基地に駐屯する第118偵察爆撃飛行隊(カプロニ Ca.133装備)の隊長として、スーダンやアデン、エジプトの英軍基地爆撃や、紅海での敵艦船爆撃を実行している。英国にとって、インド-地中海を繋ぐ紅海の補給路は非常に重要なものであり、マエストリ爆撃機部隊による英船団攻撃は、伊紅海艦隊が作戦に失敗した(潜水艦「ガリレイ」の拿捕により、作戦計画が英海軍側に漏れた)こともあり、非常に効果的であった。

また、初期のフランス軍との戦いにおいては、フランス領ソマリランド(現ジブチ共和国領)のジブチ港への爆撃も実行した。カプロニ Ca.133偵察爆撃機は「カプロナ(Caprona)」と呼ばれて親しまれ、旧式機であったが汎用性が高い万能機として戦場に貢献した機体だ。更に、開戦当時は、東アフリカ戦線の戦況はイタリア軍有利に進んでおり、陸軍部隊はスーダン及びケニアの国境地帯を突破し、英領ソマリランド全土を制圧下に置いていたため、未来の戦況は明るいものに見えた。

しかし、補給がS.A.S.の輸送機部隊による支援しかないという状況では、次第に東アフリカ戦線の戦況は悪化していった。マエストリを始めとする爆撃機パイロットたちは連日の攻撃を強いられたこうして、弾薬や燃料の欠乏、パイロットたちの疲労は日に日に苦しくなっていくマエストリの同僚も一人、また一人と戦死していった。英空軍側も、新型の戦闘機を東アフリカ戦線においても導入していくと、イタリア空軍の旧式爆撃機では非常に分が悪い戦況になっていった。

イタリア紅海艦隊は壊滅し、陸軍部隊も追い詰められ、もはや戦線の崩壊は時間の問題となっていったのである。この絶望的な状況であったが、マエストリグラツィアーニ(Giulio Cesare Graziani, 後に雷撃機エースとして名を馳せる名パイロット)らは英軍側に降伏することをよしとせず、戦線崩壊直前に東アフリカを脱出して、本国部隊に合流、地中海戦線で戦闘を継続することを望んだのであった

 

◆地中海戦線での活躍、そして最期の飛行

f:id:italianoluciano212:20190601150718p:plain

操縦席のマエストリ(左)。

本国への帰還はマエストリに束の間の休息を与えた。丁度、彼と妻コンチェッタの長女、アンナリータ(Annarita)が生まれたばかりであった。帰還したマエストリは1年ぶりに最愛の妻と再会し、生まれたばかりの愛しい我が子を抱いた。しかし、この休息はすぐに終わり、マエストリは再び空で戦うためにロードス島の基地に移動することになった。今度の戦場は地中海戦線であった。第47爆撃航空団、第106航空群、第261飛行隊に配属となり、同飛行隊の隊長を務めた
この飛行隊は新型機のCANT Z.1007"アルチョーネ"爆撃機を装備していた。このZ.1007はCANT社が開発した三発エンジンの中型爆撃機で、サヴォイアマルケッティ社のSM.79"スパルヴィエロ"やFIAT社のBR.20"チコーニャ"と共に、イタリア空軍の主力爆撃機として活躍した機体であった。ロベルト・ロッセリーニ監督の空軍映画『ギリシャからの帰還(原題:Un pilota ritorna)』でも、主人公が乗っている機体が、このZ.1007"アルチョーネ"である。優れた飛行性と安定性を持つ傑作機で、木製であったため東部戦線やアフリカ戦線での活動は不向きであったが、地中海戦線やバルカン戦線で活躍し「イタリア最高の爆撃機」の一つと称されたバトル・オブ・ブリテンで試験的導入されたZ.1007bisであったが、その後のギリシャ戦線以降本格的導入となった。

f:id:italianoluciano212:20190601155200p:plain

ロードス島の基地で乗機のZ.1007と記念撮影をするマエストリ隊長。

ロードス島の基地に移動したマエストリは、英国の地上拠点と海軍艦船への爆撃任務を担当。爆撃任務中、1941年9月10日に敵機に捕捉され、マエストリは負傷したが、これまで幾度の困難も乗り越えてきた彼の不屈の精神はこの程度では折れなかった。治療後、すぐに戦線に復帰、ここでマエストリはエジプトなどの英軍基地(主にアレクサンドリア軍港)への大胆な爆撃作戦を何度も成功させ、1942年1月には三度目の銀勲章を叙勲されている
しかし、そんな不屈の精神を持った英雄も、最期の時が突然現れた。1942年7月31日深夜、ローディ(ロードス)島の基地を出発したマエストリのZ.1007は、アレクサンドリア港への夜間爆撃任務に向かった。しかし、彼は基地に帰還しなかった。Z.1007は高性能な機体であったが、全木製であったため、極端な気候である北アフリカ沿岸の気候はZ.1007の飛行性能を著しく悪化させたのである。しかも、時は夏の地中海であり、連日猛暑を記録していた。更に、マエストリの機体は燃料と爆弾のため、重量が過負荷の状態となっており、基地の離陸すらもやっとの状態であった。すなわち、離陸の段階からかなり冒険的な作戦だったのである

この爆撃では、アレクサンドリア軍港を爆撃した後、燃料の関係上、シチリア経由で基地に帰還する予定とされていた。また、アレクサンドリア軍港の攻撃の際に、地中海側から攻撃するのではなく、一度エジプトの内陸部に移動し、そこから反転してアレクサンドリア軍港に向かった。これは、英軍側が地中海側への防衛は強化されているが、内陸側からの防衛が甘かったためである。実際、マエストリのこの作戦は後に見るように敵の目を欺くことに成功した。1942年8月1日早朝、マエストリは爆撃目標であるアレクサンドリア軍港の上空に到達した。

f:id:italianoluciano212:20190601154605j:plain

CANT Z.1007"アルチョーネ"三発爆撃機

英国守備隊は内陸側から入ってきたマエストリの機体を誤って友軍機であると誤認してしまった。完全にマエストリの策は英軍側の目を欺くことに成功したのである。その隙をついたマエストリアレクサンドリア軍港の海軍設備に対してすべての爆弾を投下、作戦は無事成功した。爆撃を受けた英軍側は慌てて敵機だと認識し、守備隊と艦艇による激しい対空砲火を開始させた。マエストリのZ.1007は急いで戦線離脱を図ったものの、迎撃に出撃した英空軍のボーファイター重戦闘機に捕捉され、ボーファイターの攻撃を受けたマエストリのZ.1007は撃墜されてしまったのであった。作戦は成功したが、帰還出来なかったというのは非常に皮肉である。

機体は空中で爆発し、遺体は発見されなかった。享年29歳の若さである。その後、戦死報告を受けて今までの成果を讃え、イタリア軍最高位の金勲章を叙勲され、更に四度目の銀勲章と二度目の戦功十字章を叙勲されたのであった

 

不屈の精神で数々の困難を乗り越えてきたマエストリ大尉。彼の爆撃機エースとしての輝かしい戦果も、この気高き不屈の精神によるところは大きかっただろう。私も、彼の不屈の精神を見習っていきたい。

 

◆主要参考文献
・Francesca D'Onofrio著, ATHOS MAESTRI Nel centenario della nascita, issuu, 2013
・Franco Pagliano著, Aviatori italiani 1940-1945, Mursia, 2004
・B.Palmiro Boschesi著, L'ITALIA NELLA II GUERRA MONDIALE, Mondadori, 1975
吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939~1945 ―第二次大戦を駆け抜けたローマ帝国の末裔たち―』イカロス出版・2006
吉川和篤著『Benvenuti!知られざるイタリア将兵録【上巻】』イカロス出版・2018

「空の航海士」ルイージ・クエスタ大佐と英国本土爆撃作戦 ―英国上空におけるBR.20M双発爆撃機の戦歴―

第二次世界大戦時、英国本土上空で激しい航空戦(所謂バトル・オブ・ブリテン)が繰り広げられ、ロンドンは空襲によって火の海になったことはよく知られている。この戦いの主役は防衛側の英空軍(Royal Air Force)と攻撃側のドイツ空軍(Luftwaffe)であったが、イタリア空軍(Regia Aeronautica)の派遣部隊、「イタリア航空軍団(Corpo Aereo Italiano)」も参加していた。しかし、派遣された頃には両空軍の戦いはほぼ終結しており、その活動期間は非常に短いものとなってしまった。

英国本土上空でのイタリア戦闘機部隊の活躍は、ジュゼッペ・ルッツィン(Giuseppe Ruzzin)を始めとするFIAT CR.42"ファルコ"を駆る複葉戦闘機エースの活躍が知られている。宿敵である英国の本土上空で、性能的に圧倒的に勝るハリケーン戦闘機やスピットファイア戦闘機に対して、「時代遅れ」とされていた複葉戦闘機CR.42はその軽快な運動性能を生かして、引けを取らない活躍を見せたのであった。それに対して、活躍が期待された単葉戦闘機のFIAT G.50"フレッチャ"はその航続距離の短さ故に、空戦に参加しないことも多かった。

f:id:italianoluciano212:20190531213923j:plain

ルイージ・クエスタ(Luigi Questa)大佐。第43爆撃航空団を率いて、BR.20Mによる英国本土爆撃作戦を指揮した。その操縦能力の高さから、史実の航海士アントニオ・ピガフェッタに因み、「ピガフェッタ」という愛称が付けられている。

では、イタリア爆撃機はどうだったのか?英国本土爆撃作戦に参加したイタリア空軍の爆撃機は、FIAT BR.20M"チコーニャ"双発爆撃機と、CANT Z.1007bis"アルチョーネ"三発爆撃機だった。新型機のZ.1007bisは第172偵察飛行隊の装備であり、試験的な運用であったため、主力の爆撃機はBR.20Mであった。そのBR.20Mを装備した第15爆撃航空旅団は、第13爆撃航空団と第43爆撃航空団で構成された。後者を指揮したのが、ルイージ・クエスタ(Luigi Questa)大佐である。彼自身、興味深い経歴を持っており、輸送船の船長から飛行機乗りになり、大西洋横断飛行を始めとする冒険的な飛行で名を馳せ、そして第二次世界大戦時では英国本土爆撃作戦に参加する...という感じで面白い。

今回は、英国本土航空戦(バトル・オブ・ブリテン)において、イタリア爆撃機部隊の一つを指揮したクエスタ大佐について、戦間期における水上機パイロットとしての活躍と、第二次世界大戦時の英国本土爆撃という、彼を象徴する二つの項目について紹介し、第二次世界大戦時のイタリア空軍による英国本土爆撃作戦を紐解いてみよう

 

◆輸送船の船長からの出発

f:id:italianoluciano212:20190531213014j:plain

ルイージ・クエスタ(Luigi Questa)

ルイージ・クエスタ(Luigi Questa)は1902年3月15日、リグーリア海岸に面するサン・テレンツォ(San Terenzo)という小さな海辺の町に生まれた。サン・テレンツォは現在はレーリチ(Lerici)市の分離集落(Frazione)となっている。サン・テレンツォは古くからワインとオリーヴオイルの交易港として知られており、十字軍ゆかりの地でもある。19世紀頃からは英国のロマン主義芸術家を中心に人気の避暑地となり、かの英国の詩人であるジョージ・バイロン卿もこの地にやってきている。
そんなちょっとした人気の避暑地に生まれたクエスタ少年は、その土地柄故に、まずは船乗りとしての道を歩むこととなった。1918年にはジェノヴァ近郊に位置するカモーリのクリストーフォロ・コロンボ航海学校を卒業、商船乗りとなった。こうして輸送船の若き船長として地中海航路で経験を積んだクエスタは、1920年に海軍からの招集を受けて1922年まで海軍少尉として従事した練習船アメリゴ・ヴェスプッチ」、駆逐艦「ラ・ファリーナ」、駆逐艦「アウグスト・リボティ」で勤務している。

なお、このうち「アメリゴ・ヴェスプッチ」は先代(1928年除籍)で、二代目の「アメリゴ・ヴェスプッチ」(1930年就役)は現在も練習船として現役である。イタリア海軍もお気に入りのようで、Twitterにはよく一般公開などがあると写真がよく載せられている。気になる人は是非チェックしてみよう。

海軍時代に海軍航空隊の水上機部隊を見たクエスタ青年は、飛行機の虜になったようだ。1923年に陸軍航空隊と海軍航空隊が合併されて、イタリア空軍(Regia Aeronautica)が成立した。これは、世界でも特に早い段階で成立した独立空軍である。1922年に海軍での任務を終えて再び商船乗りに戻ったクエスタであったが、空への憧れを捨てきれず、1925年に空軍への入隊を志願するこうして、飛行機乗りとしての彼のキャリアは出発することとなったのであった

 

水上機パイロットとしての活躍

f:id:italianoluciano212:20190531222804j:plain

イタリア海軍の軽巡洋艦アンコーナ」。元はドイツ海軍の巡洋艦「グラウデンツ」で、第一次世界大戦の結果賠償艦としてイタリアに渡った。甲板には艦載機の水上機が見える。クエスタ少尉はこの艦の艦載機のパイロットを務めた。

空軍に入隊したクエスタはまず、パッシニャーノ・スル・トラジメーノの飛行学校に入り、水上機の訓練を受けた。「イタリアの緑の心臓」と呼ばれるウンブリアにあるトラジメーノ湖畔は飛行機の飛行訓練によく使われており、水上機の訓練はこのトラジメーノ湖で行われている。1925年11月にクエスタは民間飛行士の資格を所得し、続いて、翌年2月には空軍飛行士としての資格を所得、無事軍のパイロットとなった

水上機飛行隊の一員となったクエスタは、マッキ M.7ter水上戦闘機を装備する第27水上機航空団の第163飛行隊に配備された。その後、クエスタはイタリア海軍の軽巡洋艦アンコーナ」の艦載機であるマッキ M.7ter水上戦闘機のパイロットとして勤務している。なお、この軽巡アンコーナ」は、第一次世界大戦の結果、ドイツ海軍からイタリア海軍に賠償艦として引き渡された巡洋艦「グラウデンツ」である。

f:id:italianoluciano212:20190531223949j:plain

フランチェスコ・デ・ピネード(Francesco De Pinedo)将軍。ナポリ貴族出身。水上機でのイタリア-オーストラリア-日本間の飛行を始め、数々の冒険的飛行を達成した優秀な飛行士である。しかし、長距離飛行の最中でアメリカで事故死した。

1928年4月、クエスタはシチリア・アウグスタ港を基地とする第184水上機飛行隊に転属された。彼はここで、新たに配備されたサヴォイアマルケッティ S.59水上偵察機に訓練を受けた後、転換した。この機体は、現在でも「イタリア史上最高の水上機」と言われるほどの優秀な機体であった。同年5月から6月にかけては、著名な飛行士フランチェスコ・デ・ピネード(Francesco De Pinedo)准将の指揮する地中海西部飛行に参加した。デ・ピネードは史上初の欧州-極東間の飛行(ローマ-東京飛行)を達成したアルトゥーロ・フェッラーリン(Arturo Ferrarin)の影響を受け、水上機で日本までの飛行を達成した人物としても知られており、日本でもその名声は知られていた。

この飛行の後、クエスタはオルベテッロ水上機基地に駐屯する第161飛行隊に配属された。1929年6月には、イタロ・バルボ(Italo Balbo)空軍大臣が指揮する東地中海横断飛行に参加した。これは後に見据えた大西洋横断飛行の予行練習であった。クエスタは新たなる翼である双胴飛行艇サヴォイアマルケッティ S.55の訓練を終え、横断飛行に出発した。一行はターラントを出発し、ギリシャアテネ、トルコのイスタンブールブルガリアのヴァルナ、ソ連(ウクライナ)のオデッサルーマニアのコスタンツァを経由し、再度イスタンブールアテネを通り、ターラント経由でオルベテッロに帰還した。

f:id:italianoluciano212:20190531231137j:plain

イタロ・バルボ(Italo Balbo)空軍大臣。ファシスト党終身最高幹部「クァドルンヴィリ(ファシスト四天王)」の一人であり、「イタリア空軍の父」として知られる人物。イタリア空軍を育て上げ、空軍大臣という立場でありながら、自ら遠征部隊の隊長として二度の大西洋横断飛行を始めとする数々の空軍イヴェントを成功に導いた。なお、イタリア史上唯一の空軍元帥(Maresciallo dell'aria)でもある。

こうして、予行練習を終えたクエスタは、イタリア空軍の一大イヴェントである第一次大西洋横断飛行(イタリア・オルベテッロ基地から、ブラジルのリオデジャネイロまでの飛行)に参加した。この冒険的飛行には今までの予行練習と同様に、国家の威信を掛けて、バルボ空軍大臣自ら遠征部隊の指揮をとった。この飛行の際に、エスタは優れた飛行能力を示し、史実の航海士アントニオ・ピガフェッタ(Antonio Pigafetta)に因み、「ピガフェッタ」という愛称が付けられた。アントニオ・ピガフェッタはフェルナン・デ・マガリャンイス(フェルディナンド・マゼラン)と共に世界一周航海に参加したヴィチェンツァ出身の航海士で、最後まで生き残ってヨーロッパに帰還した一人であった。また、フィリピン現地語を理解し、通訳としても務めた優秀な人物である。記録者としても知られ、彼の記録した航海日誌が後に重要な史料となった。

ブラジルへの飛行を無事成功させたエスタはバルボにその能力を高く評価され、次の第二次大西洋横断飛行(イタリア・オルベテッロからアメリカ・シカゴを目指した)への参加を指名された。ステーファノ・カーニャ(Stefano Cagna)と共にこの飛行の準備段階において重要な役割を果たし、アメリカまでの航路のため、経由地としてオランダや英国、デンマークに対して協力を要請して周った。こうして、エスタはオルベテッロ-シカゴ間の往復飛行に臨み、無事成功させたのであった。この功績から、クエスタは少佐に昇進している

一連の空軍イヴェントを経た後も、クエスタは偵察機部隊や水上機部隊の司令官を務めつつも、様々な航空イヴェントに参加した。アッティーリオ・ビゼオ(Attilio Biseo)ブルーノ・ムッソリーニ(Bruno Mussolini)らと共に、第205爆撃飛行隊"ソルチ・ヴェルディ(緑色のネズミ)"に所属し、航空レースにも参加している。

空軍イヴェントでFIAT社の新型機のBR.20"チコーニャ"と出会ったクエスタは、この機体を気に入ったようだ。なお、クエスタはエチオピア戦争やスペイン内戦には参加せず、ローマ・チャンピーノ基地でカプロニ Ca.100の飛行教官を務めていた。1939年には大佐に昇進したクエスタは、第二次世界大戦への参戦時は北イタリア・ピエモンテのカーメリ基地に所属する第43爆撃航空団の司令官であった。

1940年6月にイタリアが英国とフランスに宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦すると、クエスタはBR.20Mを装備する第43爆撃航空団を指揮し、フランス本土のトゥーロン軍港やイエール飛行場、ファイエンス飛行場への爆撃を実行した。また、陸軍の支援のためにフランス軍要塞への爆撃も実行している。

 

◆英国本土爆撃作戦への参加

f:id:italianoluciano212:20190601005935j:plain

英国本土上空で作戦行動中のFIAT BR.20M"チコーニャ"双発爆撃機。クエスタ大佐の指揮する第43爆撃航空団第99航空群第242飛行隊所属の機体。

イタリアが参戦した後、間もなくフランスが休戦すると、ドイツ空軍は英国本土への航空爆撃を強化、これに対して英空軍は迎撃を開始し、英国本土上空では両空軍による熾烈な航空戦が繰り広げられた(バトル・オブ・ブリテン)ムッソリーニ統帥はこれに対して、空軍部隊の派遣を命じた。1940年9月10月に創設されたリノ・コルソ・フージェ(Rino Corso Fougier)将軍率いる「イタリア航空軍団(C.A.I.)」は、2個戦闘航空団・2個爆撃航空団、そして偵察飛行隊と輸送機部隊で構成されていた。

この2個の爆撃航空団のうち、片方の爆撃航空団はクエスタが指揮する第43爆撃航空団であった。イタリア空軍は地中海やアフリカ戦線における制空権維持を重要視したため、英国本土航空戦への派遣は望まなかったが、これは英国本土を直接叩くと言うプロパガンダ的な意味合いも大きかったため、ムッソリーニ統帥はバトル・オブ・ブリテンへの参加を望んだのであった。ベルギーのシェーブル基地に派遣されたクエスタは、第43爆撃航空団を指揮して英国本土爆撃作戦に参加することになる

エスタの第43爆撃航空団はマリオ・テンティ(Mario Tenti)大尉率いる第98航空群(第240飛行隊と第241飛行隊で構成)と、サルデーニャ島出身のジャン・バッティスタ・チックゥ(Gian Battista Ciccu)大尉率いる第99航空群(第242飛行隊と第243飛行隊で構成)で構成されていた。そして、37機のFIAT BR.20M"チコーニャ"双発爆撃機を装備していたのである。また、シェーブル基地にはカルロ・ペレッリ・チッポ(Carlo Perelli Cippo)中佐率いる第172偵察飛行隊も所属しており、こちらは新鋭のCANT Z.1007bis三発爆撃機5機を装備していた。しかし、このZ.1007はあくまで試験的な導入であった。

f:id:italianoluciano212:20190601010240j:plain

シェーブル基地のBR.20M。先ほどの機体と同様に、第242飛行隊の機体。

第43爆撃航空団の英国上空での初任務は10月24日夜間であったシェーブル基地を飛び立った18機のBR.20Mは英国本土のハリッジ及びフェリックストーへの夜間爆撃に出発した。しかし、イタリア機は北海の気候に適していなかったことと、夜間飛行の訓練が不足していたこともあり、攻撃目標を発見できずに帰還するという事態となった。

5日後の10月29日には15機のBR.20Mが出発し、FIAT CR.42"ファルコ"複葉戦闘機39機とFIAT G.50"フレッチャ"単葉戦闘機34機の護衛を受けて、マーゲイト及びラムズゲートへの爆撃を実行した。今回は前回の反省を生かして昼間の爆撃任務であった。なお、CAI遠征空軍に参加した航空機は、偵察部隊のZ.1007bisと輸送部隊のCa.133を除き、全てFIAT社製の航空機である(CR.42, G.50, BR.20)。更に、ディールの英海軍施設を1機のBR.20Mが爆撃に成功し、英海軍側は犠牲者を出している(民間労働者を含む)。

11月5日、クエスタ率いる第43爆撃航空団は8機のBR.20Mでサフォーク州の州都イプスウィッチとハリッジへの夜間爆撃を実行。BR.20M編隊は損害を被ることなく目標への爆撃を成功させている。11月11日には再度第43爆撃航空団は爆撃作戦を実行した。同基地の第172偵察飛行隊のZ.1007bis編隊がグレート・ヤーマスへの爆撃に見せかけた陽動作戦を実行し、英空軍防空システムを引き付けているうちに、10機のBR.20Mが約40機のCR.42及びG.50に護衛されてハリッジへの爆撃を実行した

f:id:italianoluciano212:20190601010744j:plain

ジュゼッペ・ルッツィン(Giuseppe Ruzzin)曹長。英国本土航空戦において活躍したCR.42複葉戦闘機エースの一人。複葉戦闘機「だけ」にこだわりを持っていた人物でもあり、新型機のMC.202に転換した際はこれを好まず、全く戦果を挙げられていない(MC.202は数々のエースを生んだ機体であるため、機体の性能が悪いわけではない)。

この際、英空軍の戦闘機25機(スピットファイア及びハリケーン)が迎撃を実行し、護衛機であるCR.42と激しい空戦を繰り広げたジュゼッペ・ルッツィン(Giuseppe Ruzzin)曹長らCR.42部隊は9機の敵機を撃墜し、対するイタリア空軍側は3機のBR.20と2機のCR.42を撃墜されている。CR.42はこの空戦で素晴らしい戦果を残したが、G.50は航続距離の短さ故に不時着したり、途中で帰還した機体が多かったことと、部隊の損害(BR.20Mは敵機からの攻撃に非常に脆弱であることが証明された)から遠征空軍司令官のフージェ将軍は以降は昼間爆撃の中止を決定し、夜間爆撃のみとなった

その後の第43爆撃航空団による夜間爆撃は殆ど損害無く任務を達成させることが出来た11月17日には6機のBR.20Mがハリッジを夜間爆撃11月20日には12機のBR.20Mがハリッジ及びイプスウィッチを夜間爆撃11月29日には9機のBR.20Mがイプスウィッチに加え、更に遠方のローストフトとグレート・ヤーマスへの夜間爆撃を成功させている。これらの成功を受けて、12月中には12月14日、12月21日、12月22日と三度ハリッジへの夜間爆撃翌年1941年1月2日に連続でイプスウィッチへの夜間爆撃を成功させているが、1月3日には英国本土上陸作戦が棚上げとなったことから、フージェ将軍はCAI派遣空軍の任務を終了させ、機材と兵員をイタリアに戻し、一部の戦闘機部隊は北アフリカ戦線に移動させることとした。クエスタはその後、第43爆撃航空団の指揮から離れ、ローマの空軍省勤務となったが、これらの英国本土爆撃作戦の戦果から、銅勲章と戦功十字章を叙勲されたのであった

f:id:italianoluciano212:20190601005403j:plain

チェーザレ・トスキ(Cesare Toschi)少佐。イタリア軍最高位の勲章である金勲章(メダリア・ドロ)を叙勲された優秀な爆撃機パイロット。第二次世界大戦時はBR.20M"チコーニャ"双発爆撃機を駆り、バルカン戦線での任務の後、マルタ包囲戦に参加、マルタへの夜間爆撃作戦で多くの戦果を挙げた。その功績を讃えて現在のイタリア空軍の第37航空団は彼の名前が付けられている(第37航空団は彼が所属していた航空団でもあった)。

エスタ率いる第43爆撃航空団は英国本土爆撃でまずまずの戦果を挙げたが、参戦時期の遅さと稼働率の低さ(これは一番の問題であった)から全体で見ると評価は微妙なところである。とはいえ、宿敵英国を直接叩くというプロパガンダ的な目的は果たされたと言えよう。また、BR.20Mが優れていない機体か、と言われたらそういうわけではない。地中海戦線ではチェーザレ・トスキ(Cesare Toschi)少佐を始めとするBR.20Mを駆る爆撃機エースが活躍している。トスキは特にマルタへの夜間爆撃で多くの戦果を挙げた人物で、1941年11月19日に地中海上空で悪天候の中撃墜されて戦死した後、イタリア軍最高位の勲章である金勲章(メダリア・ドロ)を叙勲されている。

更に、BR.20は日本陸軍航空隊にも「イ式重爆撃機」として輸出され、中国戦線で使用されていることは有名だ。BR.20に搭載されていた武装が、日本陸軍の航空機関銃開発に与えた影響は非常に大きかったという点も評価が高い。ただ、やはりBR.20Mは防御力が欠ける機体であり、敵からの攻撃に非常に脆弱である点は難点であった。

 

今回はマイナーなイタリア空軍による英国本土爆撃作戦を扱ってみた(いや、そもそも私が扱う題材は大概マイナーか...)。ちまちま調べてみると、「意外と」イタリア空軍の爆撃機部隊は英国本土爆撃でも戦果を挙げている。もっと個人的には少ないと思っていたので。BR.20Mは好きな機体なので、今後も調べていきたい。

 

◆主要参考文献
・Franco Pagliano著, Aviatori italiani 1940-1945, Mursia, 2004
・Luca Guglielmetti/ Andrea Rebora著, La Regia Aeronautica nella battaglia d'Inghilterra, Uff. Storico Aeronautica, 2014
・B.Palmiro Boschesi著, L'ITALIA NELLA II GUERRA MONDIALE, Mondadori, 1975
・Indro Montanelli著, L'Italia delle grandi guerre, BUR Biblioteca Univ. Rizzoli, 2015
吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939~1945 ―第二次大戦を駆け抜けたローマ帝国の末裔たち―』イカロス出版・2006
吉川和篤著『Benvenuti!知られざるイタリア将兵録【上巻】』イカロス出版・2018

今までのイタリア空軍関係の過去記事まとめ

そろそろ記事が多くなってきたので、「どんなこと書いたっけ?」となることがしばしば起こるようになってしまった。記事の管理も難しい。

というわけで、今回は空軍関係の記事をここにまとめておこうと思う。

 

不屈の爆撃機エース、コジモ・ディ・パルマ大尉 
―CANT Z.1007を駆った、大胆不敵な名爆撃機乗りの生涯―

associazione.hatenablog.com

 

友軍の窮地を救え!
イタリア空軍「特別航空補給コマンド(S.A.S.)」による戦場への物資・人員補給作戦

associazione.hatenablog.com

 

中国空軍の発展過程におけるイタリア空軍顧問団の影響 
―日本軍と戦った中国空軍のイタリア機たち― 

associazione.hatenablog.com

 

イタリア戦略爆撃機編隊、ジブラルタルを爆撃せよ! 
―第274爆撃飛行隊とピアッジオ P.108B四発爆撃機の戦歴― 

associazione.hatenablog.com

 

米本土空襲計画「"S"作戦」とアッティーリオ・ビゼオ空軍准将 
―イタリア空軍、ニューヨークを爆撃せよ!― 

associazione.hatenablog.com

 

イタリア航空機が登場する戦争映画・アニメ作品と、登場する航空機をまとめてみた! 

associazione.hatenablog.com

 

「イタリア初の撃墜王」マリオ・デ・ベルナルディ
水上機レーサーとして、そしてイタリア初のジェット機パイロットとして― 

associazione.hatenablog.com

 

「空の果て」を目指した男、マリオ・ペッツィとカプロニ Ca.161 
―レシプロ複葉機による高高度飛行の世界記録達成― 

associazione.hatenablog.com

 

イタリア最強のエースパイロット、テレシオ・V・マルティノーリ 
第二次世界大戦における伊空軍トップエースの軌跡― 

associazione.hatenablog.com

 

カナード翼を持った推進式戦闘機「SAIアンブロジーニ S.S.4」 
―先進的「過ぎた」不遇の「イタリア版震電」― 

associazione.hatenablog.com

 

ストライクウィッチーズ』に登場するロマーニャウィッチのモデルとなったエースたちの戦歴をまとめてみた!

associazione.hatenablog.com

 

「アンバ・アラジの英雄」アオスタ侯(ドゥーカ・ダオスタ)アメデーオ・ディ・サヴォイア —大空を舞った「鋼鉄侯」の軌跡—

アメデーオ公の経歴。

associazione.hatenablog.com

 

伊日交流史・第三弾 
―イタリアと日本の航空交流史、両国を「空」で繋いだ4つの事例― 

イタリアと日本の航空交流史について。

associazione.hatenablog.com

 

英国本土航空戦で活躍した「鷹」のエース、ジュゼッペ・ルッツィン 
―複葉戦闘機乗りとしての「こだわり」― 

バトル・オブ・ブリテンで活躍した複葉戦闘機パイロット、ジュゼッペ・ルッツィンの戦歴。

associazione.hatenablog.com

 

フェルナンド・マルヴェッツィ大尉の戦歴 
―医学部出身の急降下爆撃機乗りから戦闘機エースに!― 

急降下爆撃機乗り出身の戦闘機エース、フェルナンド・マルヴェッツィ大尉の戦歴。

associazione.hatenablog.com

 

極北の空へ!東部戦線におけるイタリア空軍(1941-43) 
―ロシアの空に派遣された南欧の飛行隊の活躍― 

東部戦線に派遣されたイタリア空軍部隊の戦歴。

associazione.hatenablog.com

 

異色の経歴を持つ空軍将軍、リノ・コルソ・フージェ 
―コルシカ出身のプロサッカー選手から空軍参謀長に― 

第二次世界大戦時の空軍参謀長、リノ・コルソ・フージェ将軍の経歴。

associazione.hatenablog.com

 

マルタ上空に散った飛行士、フリオ・ニクロ・ドッリオ 
―テストパイロットからエースになった空の男― 

テストパイロット出身の戦闘機エース、フリオ・ニクロ・ドッリオ(フリオ・ニクロ・ドーリョ)大尉の戦歴。

associazione.hatenablog.com

 

カルロ・ファッジョーニ大尉とイタリア空軍の雷撃機部隊 
―地中海で敵艦を撃沈した大空の稲妻―

イタリアを代表する雷撃機エース、カルロ・ファッジョーニ大尉の戦歴。

associazione.hatenablog.com

 

第二次世界大戦時のイタリア軍用航空機企業とその代表機 
―イタリア空軍を支えた11社―

11社のイタリア軍用航空機企業について。機体についてまだ全く知識が無い頃に書いたので、説明が微妙な部分もある。

associazione.hatenablog.com

 

イタリアにおける急降下爆撃機開発史と、伊空軍"ピッキアテッロ(変人)"部隊の戦果 
―開発の失敗と部隊の成功―

イタリアの急降下爆撃機開発の失敗と、伊空軍急降下爆撃機部隊の紹介。

associazione.hatenablog.com

 

イタリア社会共和国空軍(ANR)の編制 
―祖国の空を守れ!大空の勇者たち― 

RSI空軍(ANR)の編制について。なお、この記事には書いていないが、RSI空軍には「第一爆撃集団"エットレ・ムーティ"」という爆撃機部隊も編制されていたそうだ。その辺について詳しいことがわかったら修正して新しい記事を書きたい。

associazione.hatenablog.com

 

エットレ・ムーティ空軍中佐と中東への長距離爆撃作戦 
―中東油田地帯ヲ爆撃セヨ!―

記念すべき空軍関係記事第一弾。ムーティ中佐は伊空軍の軍人でも特に好きなので、その内記事についての加筆や修正を加えて新しい記事を書きたい。

associazione.hatenablog.com

 

元々は空軍は専門外だったが、今じゃすっかり空軍にハマってしまった(とはいえ、まだまだ知識不足だが)。今後も空軍関係の記事をどんどん書いていきたい。

不屈の爆撃機エース、コジモ・ディ・パルマ大尉 ―CANT Z.1007を駆った、大胆不敵な名爆撃機乗りの生涯―

戦功金勲章(武勲黄金勲章とも, Medaglia d'oro al valor militare)は、イタリア軍最高位の勲章で、戦場で最も素晴らしい戦功を挙げた者に対して贈られる勲章である。1793年、サルデーニャ国王ヴィットーリオ・アメデーオ3世によって設立され、リソルジメントで統一王国が出来上がってからも存在し続け、共和政移行後の現在も存在している。RSI政権(イタリア社会共和国)時代にも王国政府とは別にRSI政権独自の金勲章が作成された。なお、一番最初にこの勲章が叙勲されたのは、王立サルデーニャ海軍の士官ドメニコ・ミッレリーレ(Domenico Millelire)で、彼はラ・マッダレーナでの防衛戦を指揮し、ナポレオン率いるフランス軍サルデーニャ島への到達を防いだ。

f:id:italianoluciano212:20190530195318p:plain

コジモ・ディ・パルマ(Cosimo Di Palma)

第二次世界大戦の軍人でも、金勲章(MOVMと略される)を叙勲した軍人は多い。当然、金勲章を叙勲していないから、といって「優れた軍人ではない」という指標にはならないが、金勲章を叙勲していることは「叙勲されるだけの武勲を戦場で挙げた人物」、という指標になる。また、戦死後に叙勲される場合も多々ある。

そこで、今回は金勲章を叙勲された飛行士の一人である、コジモ・ディ・パルマ(Cosimo Di Palma)という爆撃機エースについて紹介しよう。南イタリアのプーリア州(プッリャ州)で生まれた彼は、優秀な爆撃機パイロットとして名を挙げた人物だ。

彼は多くの戦果を挙げるだけでなく、大胆なエピソードをいくつか持っていたが、その中でも地中海戦線のエピソードは興味深い。彼は夜間爆撃任務時に英軍の夜間戦闘機(おそらくはモスキート)の追撃を受けた際に、しつこい敵機の追撃に対して大胆にも機体をぶつけて追い払うという荒業をやってのけたのだ。それでは、この不屈の爆撃機エースの波乱に満ちた生涯を見ていってみよう。

 

南イタリアに生まれた不屈の飛行士

f:id:italianoluciano212:20190530200514j:plain

ディ・パルマの出身地、カンピ・サレンティーナの市庁舎に捧げられた、彼の記念碑。

コジモ・ディ・パルマ(Cosimo Di Palma)は1915年7月18日、南イタリア・プーリア(プッリャ)地方のカンピ・サレンティーナという町で生まれた。カンピ・サレンティーナは「南イタリアバロックの町」として有名なレッチェ近郊の町で、肥沃な大地が広がり、良質なワインブドウを生産する農業の町として知られていた。ブドウ畑のみならず、オリーヴや様々な野菜も育てられ、少年期のディ・パルマは眩しい日差しが降り注ぐ、この緑豊かな大地で生まれ育ったのであった。

やがて成長したディ・パルマアルプス山脈を仰ぐピエモンテの中心都市で、「美食の街」トリノに引っ越す。太陽降り注ぐ南イタリアで生まれ育ったディ・パルマにとって、北部ピエモンテという環境の変化は心理的に大きな変化を齎したことだろう。彼はトリノ大学の芸術学部に進学し、そこで航空機の美しさに魅了されることとなったこうして、彼はパイロットへの道を志すこととしたのである

f:id:italianoluciano212:20190530201000j:plain

「カプローナ(Caprona)」と呼ばれ親しまれた、カプロニ Ca.133偵察爆撃機。設計者はジャンニ・カプロニ(Gianni Caproni)氏。エチオピア戦争時にイタリア空軍の主力爆撃機として使われ、ディ・パルマもこの機体で爆撃任務に従事した。第二次世界大戦は旧式機であったが、優れた設計であったため継続して使われ、東アフリカ戦線と東部戦線で主に活躍した。

エチオピア戦争が開始すると、ディ・パルマは空軍パイロットとして志願する。少尉として任官され、エチオピア戦争での爆撃任務で実戦経験を積んだ。1936年5月に帝都アディスアベバが陥落し、ひとまずエチオピア戦争は終結となるが、その後もエチオピアレジスタンスによる抵抗運動は起こっており、イタリア当局もゲリラ戦に苦しめられた。そのため、ディ・パルマエチオピア征服後も東アフリカに残り、エチオピアレジスタンスへの攻撃任務も実行することとなった

ディ・パルマは連続で任務に出撃、東アフリカでの飛行時間は420時間以上に達している彼は「疲れを知らない勇敢な飛行士」として知られるようになり、この働きによって2度表彰され、銅勲章を叙勲した。更にこの武勲によって中尉に昇進したのであった。中尉に昇進したディ・パルマは東アフリカでの任務を終了し、束の間の休暇を祖国で過ごした。しかし、世界大戦の足音はすぐ近くにまで来ていたのである。

 

◆ディ・パルマの愛機、CANT Z.1007"アルチョーネ"

f:id:italianoluciano212:20190414161613j:plain

CANT Z.1007"アルチョーネ"三発爆撃機。優れた飛行性と安定性を持つ傑作機で、木製であったため東部戦線やアフリカ戦線での活動は不向きであったが、地中海戦線やバルカン戦線で活躍し「イタリア最高の爆撃機」の一つと称された。

ここで、彼の愛機であった、CANT Z.1007"アルチョーネ"三発爆撃機について紹介しよう。Z.1007はCANT社が開発した三発エンジンの中型爆撃機で、サヴォイアマルケッティ社のSM.79"スパルヴィエロ"やFIAT社のBR.20"チコーニャ"と共に、イタリア空軍の主力爆撃機として活躍した機体である。ロベルト・ロッセリーニ監督の空軍映画『ギリシャからの帰還(原題:Un pilota ritorna)』でも、主人公が乗っている機体が、このZ.1007"アルチョーネ"であった。

Z.1007は優れた飛行性と安定性を持った傑作機と評価され、「イタリア最高の爆撃機」の一つであるとも称されている。後にZ.1007から発展したCANT Z.1018"レオーネ"も優れた性能を持った中型爆撃機として、高く評価されている(開発時期の遅さ故に配備が間に合わず戦果は残していないが)。Z.1007は拠点爆撃だけでなく、英駆逐艦「ジュノー」を撃沈するなど、地中海戦線における敵艦船への攻撃でも活躍した

f:id:italianoluciano212:20190530210230j:plain

Z.1007から発展したCANT Z.1018"レオーネ"双発爆撃機。「イタリア空軍最高の中型爆撃機」と呼べる非常に洗練されたデザインの高性能爆撃機であったが、配備が休戦直前の1943年にまで遅れたため、実戦には殆ど参加出来なかった。爆撃機型のほかに、重戦闘機型や夜間戦闘機型といった様々なバリエーションがあった。

Z.1007の興味深い設計は、全木製である点であるその結果、機体の軽量化に成功し、他の主力爆撃機であるSM.79やBR.20に比べ、最高速度・航続距離・武装などの全てにおいて優れていた。しかし、全木製であることの代償として、北アフリカ戦線や東部戦線といった、極端な気候である環境での使用が非常に困難であった。更に、この極端な気候の戦線がイタリア軍の主要な戦場であったため、Z.1007の活動領域は基本的に地中海戦線を中心とする欧州での戦いに限られた。

Z.1007は1940年の春に配備が開始されたが、6月の参戦時には出撃準備が整っておらず、緒戦におけるフランスとの戦いには参加しなかった。その後、リノ・コルソ・フージェ(Rino Corso Fougier)将軍率いるCAI遠征空軍がベルギーに派遣され、バトル・オブ・ブリテンに参加すると、新型機のZ.1007もその一員としてベルギーに派遣された。こうして、英国本土爆撃にZ.1007も参加したが、この時点での主力爆撃機はあくまでBR.20"チコーニャ"であったため、本格的な戦闘参加はギリシャ侵攻作戦からである。この英国本土爆撃ではZ.1007はカルロ・ペレッリ・チッポ(Carlo Perelli Cippo)中佐指揮下の第172偵察飛行隊(シェーブル基地)に5機が配備されており、爆撃・偵察・陽動など様々な作戦行動に参加した。

 

◆大戦の勃発、バルカンでの活躍

f:id:italianoluciano212:20190530205456j:plain

サヴォイアマルケッティ SM.79"スパルヴィエロ"三発爆撃機。高速爆撃機であったSM.79は雷撃機としても活躍し、地中海戦線で英艦隊を苦しめた。大戦期を通じて使われ、RSI空軍の第一雷撃集団でも主力として活躍した。

話をディ・パルマ中尉の戦歴に戻そう。1940年6月、イタリア王国は英国とフランスに宣戦布告、第二次世界大戦に参戦した。開戦後、ディ・パルマはまずフランス戦線で戦ったが、この時の乗機はまだサヴォイアマルケッティ SM.79"スパルヴィエロ"三発爆撃機である。ディ・パルマが所属する第47爆撃航空団(ゲーティ基地・ジュゼッペ・リドンニ(Giuseppe Lidonni)大佐指揮)には新型機のZ.1007はエンジンが既に4機受領していたが、エンジンの関係上、まだ出撃準備が整っておらず、依然として出撃可能な機体はSM.79であった。そのため、ディ・パルマも後の機体となるZ.1007ではなく、SM.79で出撃した。

SM.79はレース機から発展した高速爆撃機で、後には雷撃機としても使われ、地中海戦線で活躍した傑作機だ。ディ・パルマ含むイタリア爆撃機部隊は、積極的に出撃を繰り返し、短い間ではあったが、フランスの主要都市への効果的な爆撃任務を実行している。間もなく、フランスがイタリア・ドイツと休戦したことによって、フランスでの戦いは終わった。フランス戦後、第47爆撃航空団はシチリアに移動し、ディ・パルマギリシャに配備されるまでの数カ月間、地中海戦域での爆撃任務に従事、マルタやアレクサンドリアへの爆撃任務に従事した

同年10月、イタリアはギリシャに対して宣戦布告、ギリシャ戦線が開幕した。ディ・パルマの所属する第47爆撃航空団は次の戦場であるバルカン半島に向かい、ェッルッチョ・ランツァ(Ferruccio Ranza)将軍率いるアルバニア・イタリア空軍部隊の指揮下に入ったディ・パルマは英国本土爆撃での試験的な運用で戦果を挙げた新型機、CANT Z.1007"アルチョーネ"三発爆撃機を遂に受領した。こうして、後の愛機となるZ.1007に転換したディ・パルマは、ギリシャでの作戦行動を開始した。

アルバニアに駐屯するイタリア空軍部隊はギリシャ空軍部隊に対して、非常に優位に立っていたアルバニアのイタリア空軍部隊は約400機を擁しているのに対して、ギリシャ空軍は戦闘機38機、爆撃機27機などで構成され、フランス製のMB.150戦闘機やポテ630重戦闘機、英国製のバトル戦闘機、ポーランド製のP.24戦闘機などを始め、更に自国のKEA社でライセンス生産された機体もいくつか存在していた。しかし、ギリシャ空軍の戦力はイタリア空軍に対して劣勢であったものの、英空軍部隊がギリシャに派遣されたため、事実上この弱点はほぼ補強されていた。

f:id:italianoluciano212:20190530212709j:plain

ギリシャ戦線のイタリア空軍部隊を指揮したフェッルッチョ・ランツァ(Ferruccio Ranza)将軍(左から二番目)。第一次世界大戦時の戦闘機エースパイロットである。ギリシャ戦線で空軍は大きな戦果を挙げたが、陸軍と反目していたのは作戦行動を行う上で大きな障害となった。ギリシャ戦線では前線にてブレダ Ba.44輸送機で移動中に、味方戦闘機に敵機だと誤認されて攻撃を受けたが、不時着して何とか事なきを得た。

ディ・パルマギリシャ戦線開始後、Z.1007を駆りギリシャの諸拠点への爆撃任務に従事した10月30日、ディ・パルマは重要港湾都市であったパトラ港への爆撃任務に従事することになったが、生憎とこの日は悪天候による集中豪雨に見舞われてしまった。全木製であるZ.1007は極端な気候だけでなく、集中豪雨によるダメージも深刻であったため、機体性能は悪化する結果となった。

更に、ディ・パルマの駆るZ.1007はパトラ港でギリシャ軍の激しい対空砲火に遭遇、被弾によりディ・パルマは腹部を負傷してしまうしかし、こういった立て続けのアクシデントに見舞われながらも、ディ・パルマは不屈の精神で爆撃任務を成功させて基地に帰還したのであった。ディ・パルマらによるパトラ港爆撃は連合軍の輸送船団に打撃を与えたことに加え、負傷しているにも拘らず、任務を遂行して帰還したという偉業から、ディ・パルマは高く評価された。この武勲から、ディ・パルマは銀勲章と戦功十字章を叙勲されている。

f:id:italianoluciano212:20190530213513j:plain

ロベルト・ロッセリーニ監督の空軍映画『ギリシャからの帰還(原題:Un pilota ritorna)』のワンシーン。この映画の舞台も丁度ギリシャ戦線で、なおかつ主人公の機体はZ.1007だった。ディ・パルマ中尉を始めとする爆撃機乗りの活躍が、ロッセリーニ監督の作品に影響を与えたのだろう。

ギリシャ戦線におけるイタリア空軍の活躍は目覚ましく、爆撃機部隊がギリシャの港湾設備や鉄道、空軍基地などに損害を与えた。具体的には特にコリントス港、パトラ港、プレヴェザ軍港、エレフシナ空軍基地、ナフパクトス(レパント)軍港、ティアミス川沿いの軍事施設を爆撃して大きな損害を与える事に成功している。しかし、反目により、戦略爆撃は実行しても、地上部隊の支援は行っていなかった。とはいえ、戦局が悪化して陸軍部隊が壊滅状態に陥った際に、陸軍部隊を支援して戦線をギリギリで抑えたのは空軍の戦果であった

先述の戦闘における腹部の負傷のため、ディ・パルマは治療のため一時的に部隊を抜けた後、1941年2月に復帰した。復帰後、ユーゴスラヴィア戦線でも爆撃任務に従事したディ・パルマは4月6日にヘルツェゴヴィナモスタルへの爆撃を成功させている。イタリア空軍爆撃機部隊は、アドリア海沿岸のスプリト(イタリア語ではスパラート)では港湾設備や船舶などを爆撃、モンテネグロのコトル港(イタリア語ではカッタロ)では港湾への爆撃だけでなく、近くの軍事基地も甚大な被害を与え、ヴィットーリオ・アンブロージオ(Vittorio Ambrosio)将軍率いるユーゴ遠征軍の大勝に貢献したのであった。

 

◆地中海戦線での大胆なエピソード

f:id:italianoluciano212:20190530220216j:plain

CANT Z.1007"アルチョーネ"三発爆撃機

バルカンでの戦いを終えたディ・パルマの第47爆撃航空団は再び地中海戦線に移動した。こうして、再度シチリアのトラーパニ空港に配属となったディ・パルマは、激化していく中央地中海での伊英両空軍の戦いに参加していくのであった。こうして、休戦まで地中海戦線でディ・パルマは戦い、夜間爆撃を中心に多くの戦果を挙げ、二度の銀勲章、一度の銅勲章、一度の戦功十字章を叙勲される活躍を見せ、大尉に昇進している。特に、マルタ包囲戦における活躍は目覚ましい。ディ・パルマ爆撃機部隊の活躍は英軍のマルタ守備隊を苦しめ、降伏寸前まで追い込んだ。

ディ・パルマはこの戦線で、彼の戦歴の中で最も大胆なエピソードを経験した。1943年3月、ディ・パルマは地中海戦線での夜間爆撃任務時に、英空軍のモスキート夜間戦闘機の追撃を受けた。ディ・パルマは振り切るために飛行したが、モスキートの追撃はしつこく、中々振り切れなかった。ディ・パルマはこれに対し、大胆にもZ.1007の機体をモスキートにぶつけて追撃を振り払うという大胆な行動を取ったのである。この大胆な行動でZ.1007の機体は破損し、ディ・パルマ自身も負傷してしまったが、何とかトラーパニ基地に無事帰還したのであった。このエピソードにより、銀勲章を叙勲されている。その他、悪天候の状況での爆撃任務を成功させるなど、パイロットとしての技量は非常に高かった

 

◆不屈の飛行士、アドリア海に散る

f:id:italianoluciano212:20190414161805j:plain

共同交戦空軍仕様のCANT Z.1007"アルチョーネ"三発爆撃機

1943年9月のイタリア休戦の発表の知らせを聞いたディ・パルマは、即座に南イタリアに飛んでピエトロ・バドリオ(Pietro Badoglio)元帥率いるブリンディジ政権(南部王国政府, イタリア王国政府)の「共同交戦空軍(Aeronautica Cobelligerante Italiana)」に合流した。これはやはりディ・パルマ南イタリア出身だったことも大きいだろう。

こうして、1944年2月から、ディ・パルマは共同交戦空軍の第19爆撃飛行隊の指揮を執ることとなった。故郷に近いガラティーナ空軍基地に所属となり、バルカン半島での輸送任務や爆撃任務の指揮を任されたのである。しかし、1944年5月14日の任務は、ディ・パルマにとって最後のフライトとなった。この日、ディ・パルマのZ.1007はバルカン半島でのティトー・パルチザンへの補給任務に従事する予定だった。モンテネグロ北部の町コラシンに向かっていたが、約20機のドイツ空軍のメッサーシュミット Bf 109G編隊に捕捉され、ディ・パルマ機含め5機のZ.1007が撃墜された

f:id:italianoluciano212:20190530222135j:plain

ディ・パルマ大尉が戦死後に叙勲された金勲章(メダリア・ドロ)。

ディ・パルマは絶望的な状況でありながら、部下をパラシュート降下で堕ちる機体から逃がし、自らは最期まで諦めず操縦桿を握り、アドリア海への着水を試みたしかし、ドイツ軍機による損傷は致命的で、着水した機体は破壊され、ディ・パルマは戦死を遂げた。こうして、大戦期を通じて数々の戦果を挙げた名爆撃機乗りは28歳の若さでこの世を去ったのである。その勇気を讃え、後にイタリア軍最高の軍事勲章である、金勲章(メダリア・ドロ)を叙勲されている。その生涯で、彼は金勲章、2度の銀勲章、2度の銅勲章、2度の戦功十字章を叙勲されたのであった。

 

爆撃機パイロットの戦果は戦闘機パイロットの戦果と違ってわかりやすい指標がない(と私は思っている)ので、「勲章」という指標は実にわかりやすくて良い。特に、私のようなにわか空軍好きにとっては「戦果を挙げた爆撃機パイロット」を探すのに非常に役に立った。

 

◆主要参考文献・Web
・Franco Pagliano著, Aviatori italiani 1940-1945, Mursia, 2004
・B.Palmiro Boschesi著, L'ITALIA NELLA II GUERRA MONDIALE, Mondadori, 1975
・Indro Montanelli著, L'Italia delle grandi guerre, BUR Biblioteca Univ. Rizzoli, 2015
吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939~1945 ―第二次大戦を駆け抜けたローマ帝国の末裔たち―』イカロス出版・2006
吉川和篤著『Benvenuti!知られざるイタリア将兵録【上巻】』イカロス出版・2018

・Donne e Uomini della Resistenza: Cosimo Di Palma
(Associazione Nazionale Partigiani d'Italia, イタリアパルチザン協会の公式サイト)
http://www.anpi.it/donne-e-uomini/678/cosimo-di-palma