Associazione Italiana del Duce -ドゥーチェのイタリア協会へようこそ!-

同人サークル"Associazione Italiana del Duce"の公式ブログです。

「イタリアを救いたかった男」ヴィットーリオ・アンブロージオ将軍 ―ユーゴスラヴィア侵攻と「祖国の解放」への意志―

前回のギリシャ戦線の記事は時間を掛けた割に出来が悪かったので削除することとした。今回は、その削除した記事の中で後に紹介する、と言っていたユーゴスラヴィア侵攻を指揮したヴィットーリオ・アンブロージオ(Vittorio Ambrosio)将軍について調べてみることとしよう。ユーゴスラヴィア侵攻におけるアンブロージオ将軍の作戦指揮は、第二次世界大戦時のイタリア軍のエピソードの中でも特に高く評価出来るものの一つだ。ではあるのだが、如何せん東アフリカ戦線のナージ将軍と同様に知名度はあまり高いとは言えない。

f:id:italianoluciano212:20190513104352j:plain

ヴィットーリオ・アンブロージオ(Vittorio Ambrosio)将軍

ヴィットーリオ・アンブロージオ将軍は、それに加え中々に興味深い人物である第二次世界大戦での功績というと、ユーゴスラヴィア侵攻を指揮し、わずか短期間で迅速にユーゴスラヴィアの制圧を進めていった智将であると同時に、大戦終盤でカヴァッレーロ将軍の後任としてムッソリーニによって統合参謀総長に任命され、イタリア軍全体を束ねる立場となったが、その一方、水面下では戦争離脱とムッソリーニ政権の打倒を画策し、腹心のカステッラーノ将軍と共にクーデターを実行・成功させた人物なのだ。

しかし、この「救国クーデター」の後成立したバドリオ元帥の政権は上手く戦争離脱をすることが出来ず、結果的にイタリアは泥沼の内戦状態に陥る結果となった。つまりは、結果的に言うとこの「救国クーデター」が妥当であったかは微妙なところである(クーデター自体は首尾よく進んだのであるが)。それに、ファシスト側からすれば、「全軍を束ねる立場であるにもかかわらず、統帥を裏切った裏切り者」ということになる。だが、彼自身の「祖国イタリアを救いたかった信念」というのは評価したい。

今回はそんなアンブロージオ将軍について調べてみる事とする。

 

◆その出自と騎兵将校としての武勲

f:id:italianoluciano212:20190513104426j:plain

ヴィットーリオ・アンブロージオ(Vittorio Ambrosio)将軍

1879年7月28日、ヴィットーリオ・アンブロージオ(Vittorio Ambrosio)は北イタリア・ピエモンテの中心都市、トリノで生まれたトリノはアンブロージオが生まれる14年前まで統一イタリア王国の首都であり、更にはその前身となったサルデーニャ王国サヴォイア公国の首都として、サヴォイア王家のお膝元で栄えてきた都市であった。国境に近いことからフランスの影響も強いことで知られ、独特の文化が育っていった町だ。特に、Baratti & Milano(1875年創業)を始めとする老舗カフェテリアのチョコレートはイタリアで最も、いや世界で最も美味しいといっても過言ではないだろう。

また、トリノは後にFIAT社の城下町として栄え、ミラノやジェノヴァと並び、北イタリアの主要工業・産業都市として発展していった。現在においてはトリノオリンピックの開催地として知られているが、歴史的にもトリノは非常に重要な都市のひとつであった。この地で育ったアンブロージオは14歳の頃(1893年)に、南イタリアの中心都市であるナポリの王立士官学校に入学した。北イタリアのアルプスに抱かれた大地から、南イタリアの照り付ける太陽の元に向かった若きアンブロージオは、新鮮な気持ちを味わったことだろう。

f:id:italianoluciano212:20190513111709j:plain

トリノサヴォイア王宮。サヴォイア王家の本拠地であったトリノの市民は王党派が多く、伝統的に多くの高級軍人を輩出していた。アンブロージオもそういった高級軍人の一人であり、国王への忠誠心が非常に強い人物であった。

幼い頃から乗馬に親しんでいたアンブロージオは、騎兵将校となるべく士官教育を受けることとなった(ピエモンテは優秀な騎兵を輩出している地でもあった)。3年後、17歳のアンブロージオはバルサミコ酢で有名なモデナに移動し、モデナの陸軍士官学校に入学。19歳になった1898年、優秀な成績で卒業したアンブロージオは晴れて騎兵少尉として任官されたのであった。

彼の初の実戦参加は1911年に発生したオスマン帝国とのリビアを巡る戦争であった(伊土戦争)。アンブロージオはこの戦争に大尉として参加している。イタリア軍はこの戦争で世界で初めて航空機を投入し、世界初の航空爆撃を実行するなど、先駆的な手段でオスマン帝国軍を追い詰めた。アンブロージオは連隊長として騎兵連隊を率いて、トリポリ戦線で武勲を挙げたのであった。戦争終結後、第一次世界大戦が開戦する前年である1913年にイタリアに帰国している。

f:id:italianoluciano212:20190513112311j:plain

制圧したゴリツィア市のイタリア騎兵。

1915年に第一次世界大戦にイタリアが参戦すると、宿敵オーストリア=ハンガリー軍と戦うためにアルプス戦線に送られた。アンブロージオはこの世界大戦で軍参謀としての手腕を発揮し、頭角を現した。1916年の第六次イゾンツォ川の戦いでは、ゴリツィア市の制圧に貢献し、その武勲から少佐に昇進している。更に第3騎兵師団の参謀として活躍した一連の戦果から1917年2月には中佐に昇進、その後のカポレットの大敗後には部隊の立て直しに尽力し、1918年1月に大佐に昇進した。その後、第26歩兵師団の指揮を任せられ、オーストリア軍との決戦であるヴィットリオ・ヴェネトの戦いでは師団長として歩兵部隊を指揮、祖国の勝利に貢献したのであった

 

◆カステッラーノとの出会い

f:id:italianoluciano212:20190513120556j:plain

国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(Vittorio Emanuele III)とアンブロージオ将軍(左)。

第一次世界大戦は終わり、ヨーロッパに平和が訪れた。アンブロージオは戦後、第26歩兵師団「カターニア」の参謀長に任命され、新たにイタリアに併合されたボルツァーノ市に派遣された。1922年にはイタリア陸軍のエリート騎兵部隊として知られる、サヴォイア竜騎兵連隊の指揮も任せられている。その後、ピネローロの騎兵学校の教官として教鞭をとる傍ら、1926年には准将に昇進し、将軍となった。そして、ピネローロ騎兵学校の校長に就任している。1932年には少将に昇進し、第二快速師団「エマヌエーレ・フィリベルト・テスタ・ディ・フェッロ」の師団長となった。1935年にはパレルモを本部とするシチリア駐屯軍の司令官に任命されたのであった

このシチリアにいる時、アンブロージオはとある青年将校と運命的な出会いをする。それが、親しい友人となり、後に腹心となるジュゼッペ・カステッラーノ(Giuseppe Castellano)だった。カステッラーノはシチリア出身の両親の下で、トスカーナのプラートに生まれた青年将校だった。生年月日は1893年9月12日なので、アンブロージオとは一回り年下である。しかし、二人とも国王への忠誠心から、階級を越えた間柄になり、互いに信頼するような間柄になっていったのである。

f:id:italianoluciano212:20190513120911j:plain

ジュゼッペ・カステッラーノ(Giuseppe Castellano)。アンブロージオ将軍の親友であり、腹心であった若き青年将校第二次世界大戦時には若くして将軍となり、参謀としてアンブロージオ将軍を補佐、更には共に戦争離脱による「祖国の解放」を模索し、クーデターと休戦工作に尽力した。

カステッラーノも天才的な士官であった。モデナの陸軍士官学校を優秀な成績で卒業し、その後は砲術学校で戦術を学び、第一次世界大戦に出征後、戦後は戦術学校で学んだ。両親がシチリア出身で、シチリアに親しみを持っていたカステッラーノは任官された後、主な任地がシチリアであった。1935年にシチリアで敵軍の上陸作戦を想定した大規模な陸軍大演習が行われ、シチリア駐屯軍司令官であるアンブロージオ少将はこの指揮をとることとなった。カステッラーノはこの演習でアンブロージオ将軍の直属の部下として活動したが、既に親しい関係だった二人は、この僅か一週間の演習期間の間に、軍人としてだけでなく、個人的な友人としても親しい関係となったのであったのである。そして、この演習を経てアンブロージオは中将に昇進している。

 

◆イタリア・ユーゴスラヴィア関係の変遷

f:id:italianoluciano212:20190513123207j:plain

愛馬に乗る第二軍司令官ヴィットーリオ・アンブロージオ大将。

1938年までシチリア駐屯軍司令官を務めた後、彼はユーゴスラヴィア国境に展開する第二軍の指揮を任されることとなり、そのまま第二次世界大戦に突入した。アンブロージオ将軍はユーゴスラヴィアでの活躍が知られているが、ここでユーゴスラヴィア侵攻に至るまでのイタリアとユーゴスラヴィアを取り巻く環境について説明する。

イタリアにとって、バルカン半島というのは歴史的にも自らの勢力圏として認識しており、それはムッソリーニ率いるファシスト政権期に特に強化されることとなった。「英雄詩人」ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio)が同志と共に起こした「フィウーメ進軍(Impresa di Fiume)」は、イタリア人住民が多いフィウーメ(現クロアチア領リエカ)市がユーゴスラヴィア(1929年まではセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国(Stato degli Sloveni, Croati e Serbi)だが、便宜上ユーゴスラヴィアと表記)領になった事に抗議して起こされた行動だったが、結局イタリア軍に鎮圧され、1920年にイタリア・ユーゴ間で締結したラパッロ条約によってフィウーメ市は「フィウーメ自由市」となった。

f:id:italianoluciano212:20190513123033j:plain

「フィウーメ進軍(Impresa di Fiume)」を起こした「英雄詩人」ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio)とその同志たち。

このため、政権を手に入れたばかりのムッソリーニユーゴスラヴィア方面に目を向けた。当時のイタリア国民は今までの「弱腰外交」に落胆しており、1923年のコルフ島事件でギリシャに対して強硬的な外交を見せたムッソリーニに対して支持が集まっており、更に「骨抜きにされた勝利」の雪辱を晴らすという意志もあった。ムッソリーニはフィウーメのイタリアへの併合を実現するためにユーゴスラヴィア政府と交渉し、その結果両国の「友好条約」として1924年にローマ条約が締結、フィウーメはイタリアを割譲させる事に成功した。続く1925年のネットゥーノ条約にて、ラパッロ条約でイタリア領となった領土の再確認も含め、両国の国境が正式に確定したのである。これにより、両国関係は表面上安定したものとなり、イタリア人人口の多かったフィウーメの獲得もダンヌンツィオが武力で達成できなかったことを、ムッソリーニが外交で達成した、という目に見えるムッソリーニの成果であった

その後、アルバニア共和国の経済的な属国化、ギリシャのヴェニゼロス政権との友好条約締結、更にブルガリア王室との政略結婚と、ファシスト・イタリアはバルカン半島に急速に勢力圏を築いていった。しかし、そこで最大の障害となったのが、仮想敵フランスと緊密な友好関係を築いている、旧セルビア王家カラジョルジェヴィチ家が王家になっているユーゴスラヴィア王国であった。ムッソリーニユーゴスラヴィアとの表面上は友好関係を維持していたものの、ユーゴスラヴィア内部の民族対立を利用してユーゴスラヴィアの分裂を画策していた

f:id:italianoluciano212:20190513123354j:plain

ムッソリーニと「ウスタシャ」指導者アンテ・パヴェリッチ(Ante Pavelić)。パヴェリッチはイタリアの庇護下で活動し、第二次世界大戦時はイタリアのアイモーネ公を国王トミスラヴ2世とする「クロアチア王国」の事実上の指導者(ポグラヴニク)として君臨した。

それに利用されたのがアンテ・パヴェリッチ(Ante Pavelić)率いるクロアチア民族主義組織の「ウスタシャ」であった。1927年にパヴェリッチはイタリア側に初の接触をし、1929年にパヴェリッチがイタリアに亡命すると、パヴェリッチとウスタシャはイタリアの庇護下となり、マリオ・ロアッタ(Mario Roatta)将軍率いるSIM(陸軍諜報部)はウスタシャのテロリストを訓練した。ウスタシャの訓練官を務めたヴラド・チェルノゼムスキ(Владо Черноземски, マケドニア独立主義者でブルガリア国籍の男)はウスタシャ党員と共にユーゴスラヴィア国王アレクサンダル1世(Aleksandar I Karađorđević)の暗殺を計画したが、これにはロアッタ将軍率いるSIMも関わっていたとされる。
アレクサンダル1世はマルセイユに向かい、仏外相ルイ・バルトゥー(Louis Barthou)に迎えられた。チェルノゼムスキはそれを狙い、マルセイユにウスタシャ党員とともに潜伏していた。しかし、他の暗殺実行メンバーが準備不足と判断し、訓練官であったチェルノゼムスキ自身が暗殺を実行、車に乗っていたアレクサンダル1世と同乗していたバルトゥー外相を射殺したのである。チェルノゼムスキは暗殺の後にフランス警察と群衆によってリンチにされ、その場で死亡。死後、「欧州で最も危険なテロリスト」と呼ばれた。

f:id:italianoluciano212:20190513123656j:plain

ムッソリーニとユーゴ首相ミラン・ストヤディノヴィチ(Milan Stojadinović)。ストヤディノヴィチ政権の誕生はイタリア・ユーゴ関係を回復させたが、結局パヴレ摂政との方針対立でストヤディノヴィチ政権は崩壊することとなった。

この暗殺事件はイタリアの外交に大きな波紋を与えた。ウスタシャを支援していたイタリアと、フランス及びユーゴスラヴィアの関係は急速に冷却化していったのである。しかし、1935年にユーゴスラヴィアで新たにミラン・ストヤディノヴィチ(Milan Stojadinović)政権が成立すると状況は変化した。ストヤディノヴィチはセルビア中心主義的な「ユーゴスラヴィア急進同盟(JRZ)」を率いた銀行家であった。
ストヤディノヴィチは冷却化していたイタリアとの関係を改善し、後に友好不可侵条約を締結した。しかし、ストヤディノヴィチをただの親伊政権と考えるのは誤りである。ストヤディノヴィチはスイスのような中立外交を展開して国土を防衛する事を目的としたのである。ストヤディノヴィチ政権はイタリアとの協力と、ハンガリー及びブルガリアへの接近によって東南欧ブロック形成を目指し、ドイツとの友好関係やフランスとの伝統的な友好条約延長も行っている。そして、イタリア及びオーストリア(後にドイツ)との国境にはスロヴェニア人の将軍レオン・ルプニク(Leon Rupnik)将軍に命じて要塞線を構築し、クロアチア人の懐柔も行って国内の安定にも力を注いだ。
しかし、これらの外交方針はルーマニアとの同盟とバルカン協商の維持を求めるパヴレ摂政(Pavle Karađorđević)の方針と対立を引き起こす事になった。パヴレ摂政はルーマニアとの対立とバルカン協商の解体を恐れ、ストヤディノヴィチを解任に追い込んだ。後任の首相には親独派のツヴェトコヴィッチ(Dragiša Cvetković)が起用され、防共協定にも積極的姿勢を示していくことになる。ストヤディノヴィチの解任は再び伊・ユーゴ関係の悪化に繋がり、イタリアは再びウスタシャ支援を始めた。これに対し、ユーゴスラヴィア政府はアルバニアとの友好条約締結を画策し、イタリアからの自立を求めるアルバニア王ゾグ1世(Zogu I)にイタリアによるアルバニア分割案を暴露したのであった。

f:id:italianoluciano212:20190513155925p:plain

アルバニア領内に侵攻するイタリア軍部隊。

ユーゴスラヴィアアルバニアとの対立加速、ギリシャにおけるメタクサス政権の誕生、そしてドイツによるバルカンでの影響力の拡大はイタリアのバルカン外交を破綻させていったこうして、「ドイツの南下を防ぐため」に行われたアルバニア侵攻を契機とし、イタリアの対バルカン政策は完全に「外交での影響力の拡大」から「武力での影響力の拡大」に本格的にシフトさせたのであった。その結果、第二次世界大戦にイタリアが参戦するとギリシャへの侵攻を開始したのである。

ユーゴスラヴィアのパヴレ摂政は、1941年3月20日三国同盟への加盟に調印。その結果、ユーゴスラヴィアはイタリア・ドイツの同盟国となった。しかし、3月26日に突如として発生したドゥシャン・シモヴィッチ(Dušan Simović)将軍らによるクーデターによって、パヴレ摂政は失脚し、若き国王ペータル2世(Peter II)が親政を行った。このクーデターは英国の援助工作によって実行されたものであり、新たに成立したシモヴィッチ将軍の臨時政府は三国同盟加盟に署名したツヴェトコヴィッチ前首相ら閣僚を逮捕、同盟条約への加盟を破棄した。これによってユーゴスラヴィアと枢軸国の関係は急激に悪化することとなり、ムッソリーニヒトラー、更にはハンガリー首相テレキ・パール伯(Teleki Pál)ユーゴスラヴィアへの侵攻を決定したのであった。

 

ユーゴスラヴィア侵攻作戦

f:id:italianoluciano212:20190513140011j:plain

エミーリオ・グラツィオーリ(Emilio Grazioli, 右)と話すアンブロージオ将軍(左)。中央はカステッラーノ大佐。

ユーゴスラヴィア国境に展開する第二軍を指揮するアンブロージオ将軍は、ユーゴスラヴィア侵攻を指揮することとなった。こうして、「ユーゴスラヴィア遠征軍」となった第二軍の副参謀長は、アンブロージオ将軍の親友であるカステッラーノ大佐が務め、アンブロージオ将軍を補佐した。こうして、1941年4月6日にアンブロージオ将軍率いる第二軍はユーゴスラヴィアへの侵攻を開始したのである。

ユーゴスラヴィア国境に展開する第二軍は8個歩兵師団と1個山岳(アルピーニ)師団、2個機械化師団、戦車師団リットーリオ」、3個快速師団から編制されており、4月6日に迅速に国境を突破してスロヴェニア方面に侵攻を開始した。一方で、南部のアルバニア方面からはアレッサンドロ・ピルツィオ・ビローリ(Alessandro Pirzio Biroli)将軍率いる第九軍の4個師団モンテネグロ方面に進撃を開始。そして、既にイタリア領になっているザラ市(現クロアチア領ザダル)含むアドリア海沿岸地域はエミーリオ・ジリョーリ(Emilio Giglioli)将軍率いる9000人の守備隊(3個機関銃大隊や1個ベルサリエリ大隊などで構成されていた)が展開していた。

f:id:italianoluciano212:20190513155806j:plain

CANT Z.1007"アルチョーネ"三発爆撃機。優れた飛行性と安定性を持つ傑作機で、木製であったため東部戦線やアフリカ戦線での活動は不向きであったが、地中海戦線やバルカン戦線で活躍し「イタリア最高の爆撃機」の一つと称された。

イタリア陸軍の侵攻開始に呼応し、空軍と海軍も行動を開始した。空軍はジュゼッペ・チェンニ(Giuseppe Cenni)大尉ら急降下爆撃機部隊や、コジモ・ディ・パルマ(Cosimo Di Palma)中尉爆撃機部隊が活躍し、ユーゴ輸送船団や敵陣地への爆撃で戦果を挙げているアドリア海沿岸のスプリト(イタリア語ではスパラート)では港湾設備や船舶などを爆撃、モンテネグロのコトル港(イタリア語ではカッタロ)では港湾への爆撃だけでなく、近くの軍事基地も甚大な被害を与えた。4月9日にはユーゴスラヴィア海軍は陸軍と共同でイタリア領のザラ市への攻撃作戦を実行しようとしたが、駆逐艦ベオグラード」を旗艦とする派遣艦隊がシベニク沖にて伊空軍機の攻撃を受けたため撤退、陸軍部隊も守備隊の反撃に遭い、ユーゴ軍の作戦は失敗に終わっている。ザラ守備隊はその後ユーゴ軍部隊の包囲下に置かれたが、その後南下した第二軍によって解放された。

f:id:italianoluciano212:20190513155506p:plain

ユーゴスラヴィアの要塞線「ルプニク・ライン」。設計者はレオン・ルプニク将軍。建設はミラン・ストヤディノヴィチ政権期に始められ、第二次世界大戦時には大部分は完成していたが、まだ建設中だった。イタリア国境及びオーストリア(後にドイツ)国境にそって作られたが、イタリア軍とドイツ軍は難なく要塞線を突破している。

スロヴェニアに進撃を開始したアンブロージオ将軍率いる第二軍は6日のうちにサヴァ川沿いに達し、敵陣地を占領した第二軍はスロヴェニアの首都リュブリャナ(イタリア語ではルビアナ)を、第九軍はドゥブロヴニク(イタリア語ではラグーザ)の占領を目標としていた。ユーゴ軍側はスロヴェニア人の将軍であるレオン・ルプニク将軍の指揮で、要塞線「ルプニク・ライン」を建設していたが、アンブロージオ将軍率いる第二軍は順調にこの要塞線を突破することに成功し、4月11日にはイタリア軍によってリュブリャナは陥落し、制圧下に置かれたのであった。更に、翌日にはクロアチアのカルロヴァツも占領下に置いている。迅速な進撃によって、アンブロージオ将軍は第一目標をクリアすることが出来た

続いて、アンブロージオ将軍の目的はダルマツィア海岸を南下し、制圧することであった。また、ユーゴ軍部隊に包囲されているジリョーリ将軍率いるザラ守備隊の援護も目的となった。既にクロアチアの首都ザグレブ(イタリア語ではザガブリア)は制圧されていたため、パヴェリッチ率いるウスタシャはザグレブに「帰還」。クロアチア独立国家」の成立を宣言したのであった。ビローリ将軍率いる第九軍はアルバニア国境を越えたユーゴ軍部隊をシュコドラ(イタリア語名スクタリ)で迎撃し、これを壊滅させた。その後、南下してきたアンブロージオ将軍率いる第二軍と合流、モンテネグロツェティニェポドゴリツァを制圧していった。

f:id:italianoluciano212:20190513155413j:plain

ユーゴスラヴィアのイタリア兵(ベルサリエリ)。

合流した第二軍と第九軍は、4月15日にはシベニクとスプリト、4月17日にはドゥブロヴニクヘルツェゴビナモスタルを陥落させることに成功し、占領下に置いている。更に、ユーゴ軍包囲下に置かれたザラ守備隊も解放する事に成功した。こうして、迅速な進撃でダルマツィア海岸一帯を完全に制圧したイタリア軍は、4月16日にドイツ軍部隊と合流し、両独裁者の間で祝電が取り交わされた。この前日には国王ペータル2世とシモヴィッチ首相はユーゴスラヴィアを脱出し、英軍の支配下にあるパレスチナに逃れた。そうして、ユーゴ亡命政府を組織している。この結果、最早抵抗は無意味と感じたユーゴ軍参謀総長ダニロ・カラファトヴィチ(Danilo Kalafatović)将軍は4月17日に枢軸軍への降伏文書に調印し、ユーゴスラヴィアは完全降伏したのであった。

ユーゴスラヴィア侵攻におけるアンブロージオ将軍の指揮は素晴らしいものであり、迅速にユーゴ領内を進撃、各拠点を次々と抑え、ダルマツィア海岸一帯を完全制圧するという目的を完全に成功させたのであったユーゴスラヴィア侵攻におけるイタリア軍はドイツ軍及びハンガリー軍との共闘によって、まさに枢軸軍の結束を立証したモデルケースであり、ギリシャ戦線で雪辱を味わっていたイタリア軍にとっても、この迅速な進撃と目的達成は、「同盟国としての責務を果たす」という立場を示すのには十分な戦果であったと言えよう。この結果、アンブロージオ将軍はイタリア陸海空軍の最高位勲章である、サヴォイア軍事勲章をヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に叙勲されるという、非常に名誉の勲章を与えられたのであった

 

ユーゴスラヴィア分割

f:id:italianoluciano212:20190513150919p:plain

ユーゴスラヴィア分割の地図。イタリアはリュブリャナを含むスロヴェニア南部(ルビアナ県)、ダルマツィア海岸一帯(ダルマツィア県)とモンテネグロのコトル周辺(カッタロ県)を自国領として併合した。また、形式上独立したモンテネグロ王国はイタリアの同君連合となり、既に同君連合下であったアルバニアコソヴォマケドニア西部、モンテネグロ南部の国境地帯を併合し、「大アルバニア」を形成している。更にはサヴォイア=アオスタ家のアイモーネを君主とするクロアチア王国がクロアチアボスニア・ヘルツェゴヴィナを合わせた領域に誕生した。これらがユーゴスラヴィアにおけるイタリアの勢力圏となった。

ユーゴスラヴィアが降伏した後、ユーゴスラヴィアはまるでピッツァのように枢軸国に切り分けられることとなったユーゴスラヴィアで多くの貢献を果たしたイタリア(なお、死傷者は約3300人と枢軸軍の中で最も多い)は、ユーゴスラヴィアに大きな勢力圏を手に入れる事が出来た。

リュブリャナ(伊語でルビアナ)を中心とするスロヴェニア南部は「ルビアナ県(県都リュブリャナ/ルビアナ)」ダルマツィア海岸一帯(カッタロ県含む)は「ダルマツィア総督府(首都ザラ)」としてイタリア本土に併合された。ダルマツィア総督府はザラ県、スパラート県(県都スプリト/スパラート)、カッタロ県(県都コトル/カッタロ)の三県で構成され、元々支配していたザラ周辺を拡大するかたちで成立した。本土に併合された領域では、特に「イタリア化」が加速することとなり、ルビアナ県はエミーリオ・グラツィオーリ(Emilio Grazioli)、ダルマツィア総督府ジュゼッペ・バスティアニーニ(Giuseppe Bastianini)高等弁務官/総督を務めることとなった。これらの領域ではユダヤ系住民に対する保護は行われたが、それに対してパルチザンへの弾圧は非常に苛酷なものであった。特にグラツィオーリによるルビアナ統治はその苛酷さで知られている。

f:id:italianoluciano212:20190513155150j:plain

鉄条網で囲われたイタリア占領下のリュブリャナイタリア軍による苛酷なスロヴェニア統治は、現在のイタリア・スロヴェニア関係にも影を残しており、現在においても両国の関係は悪い。

更には、グラツィオーリはイタリア軍に降伏していたスロヴェニア人の旧ユーゴ軍将軍のレオン・ルプニク将軍(国境要塞「ルプニク・ライン」を作った人)が反共主義者であったことから、彼が共産パルチザンに襲撃された事件を契機に協力関係を持ち掛け、その結果ルプニク将軍はリュブリャナの市長として、イタリア当局に協力している。更には、スロヴェニア人の対パルチザン組織としてスロヴェニア白衛軍(ベラ・ガルダ)」と呼ばれた「MVAC,Milizia Volontaria Anti Comunista(反共義勇軍)」を組織。また、ユーゴスラヴィアの占領軍を指揮したアンブロージオ将軍とロアッタ陸軍参謀長は、共産パルチザンに対抗するために、旧ユーゴ軍のセルビア人兵残党を中心とするドラジャ・ミハイロヴィチ(Draža Mihailović)将軍率いる「チェトニク」とも協力関係を結ぶという独自の支配体制を構築した

f:id:italianoluciano212:20190513155118j:plain

クロアチア王トミスラヴ2世(Tomislav II)としてとして戴冠した、サヴォイア=アオスタ家出身のスポレート公アイモーネ(Duca di Spoleto, Aimone di Savoia-Aosta)。兄であるアオスタ公アメデーオが死亡すると、ケニアの捕虜収容所で病死すると、公位を次いでアオスタ公となる。

ザグレブに「帰還」したアンテ・パヴェリッチ率いるクロアチア民族主義者組織「ウスタシャ」は、「クロアチア独立国家」の成立を宣言していた。「ポグラヴニク(総統)」となったパヴェリッチはイタリア側と協議し、クロアチア王トミスラヴ2世(Tomislav II)として、サヴォイア王家の分家であるサヴォイア=アオスタ家出身のスポレート公アイモーネ(Duca di Spoleto, Aimone di Savoia-Aosta)を迎え入れることを要請し、この結果イタリアの影響下に置かれた「クロアチア王国」が成立したのである。

しかし、ダルマツィア沿岸部はイタリア本土に併合されたため、旧ユーゴ海軍提督のクロアチア人提督ジュロー・ヤクチン(Đuro Jakčin)海軍少将率いる新生クロアチア海軍は軍備を制限された。また、先述したように、ウスタシャと敵対していたチェトニクとも協力関係をイタリア当局は結んでいたため、クロアチア当局はやや複雑な関係にあった。しかし、多くのイタリア兵器がクロアチア側に供給されるなど、基本的には緊密な協力関係であった。

f:id:italianoluciano212:20190513195258j:plain

エレナ王妃(左)と国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(右)。こうして改めて見ると、エマヌエーレ3世が低身長だったことがよくわかる。

続いて、モンテネグロについてだ。イタリア軍の占領下に置かれたモンテネグロは、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の妃であるエレナ王妃(Elena di Savoia)が、最後のモンテネグロ王二コラ1世(Nicola I)の娘であったため、エレナ王妃は「祖国の再建」を望んだ(モンテネグロ第一次世界大戦の結果、セルビアによって無断で併合されてユーゴスラヴィアの一部となっていた)。そのため、ガレアッツォ・チャーノ(Galeazzo Ciano)外相は旧モンテネグロ王家の現当主ミハイロ・ペトロヴィチ=ニェゴシュ(Michael Petrović-Njegoš)に新モンテネグロ王位戴冠の打診をしたが、ミハイロはこれを拒否したため、モンテネグロ王位はヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が兼ねることとなり、モンテネグロはイタリアの同君連合となった

セクラ・ドルジェヴィッチ(Секула Дрљевић)率いる連邦党や、クルスト・ポポヴィッチ(Крсто Поповић)将軍率いるセルビア民兵組織「ゼレナシ(緑)」はイタリア当局に協力した。イタリアのモンテネグロ統治は、当初はモンテネグロ王国の復活としてモンテネグロ人によって歓迎されたが、実態は占領統治であり、独立と主権の回復を望んでいたモンテネグロ人は大きく落胆した。

f:id:italianoluciano212:20190513201121j:plain

モンテネグロのチェトニク指揮官パヴレ・ジュリシチ(Pavle Đurišić)の演説。右にいるのが、モンテネグロ知事兼占領軍司令官アレッサンドロ・ピルツィオ・ビローリ将軍。ビローリ将軍はモンテネグロで苛酷な統治を行い、パルチザンに対して容赦ない反撃を加えた。なお、ビローリ将軍はロンドンオリンピックのフェンシング銀メダリストである。

外交官のセラフィーノ・マッツォリーニ(Selafino Mazzolini)モンテネグロ知事に就任し、ドルジェヴィッチを議長とするモンテネグロ議会をツェティニェに設置するなど法整備を進めるが、共産パルチザンによる大規模叛乱が発生してしまう。その後、ビローリ将軍率いるアルバニア及びモンテネグロ駐屯軍(第九軍)がこれを制圧した後、軍政を開始した。ビローリ将軍はモンテネグロのチェトニクとの協力関係を結び、その他の対伊協力民兵組織と共に対パルチザン戦に投入している。

最後に、既にイタリアの同君連合下に置かれていたアルバニアは、コソヴォマケドニア西部、更にモンテネグロ国境地帯を併合し、「大アルバニア」を成立させたアルバニア首相シェフケト・ヴェルラツィ(Shefqet Vërlaci)はこれを喜び、更に国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世アルバニアに公式訪問をして両国の友好ムードが広く宣伝された。なお、ヴェルラツィはゾグ1世の政敵で、そのためにイタリアの協力者となったのである。

 

◆陸軍参謀長への就任

f:id:italianoluciano212:20190511002014j:plain

ウーゴ・カヴァッレーロ(Ugo Cavallero)将軍。バドリオ参謀総長の後任として参謀総長に就任し、第二次世界大戦時の大部分でイタリア軍の総指揮をとった。また、ギリシャ戦線では直接指揮をとり、英軍の支援を受けたギリシャ軍の進撃を抑えて防衛線を構築する事に成功、最終的に春の攻勢でギリシャ軍を降伏に追い込むことが出来た。

アンブロージオ将軍は第二軍の司令官として、ユーゴスラヴィア(特にスロヴェニア)での占領統治を指揮したしかし、1942年1月20日をもって、ロアッタ将軍と交代となり、ローマに戻って陸軍参謀長の職に就任することとなった。2月5日にはカヴァッレーロ(Ugo Cavallero)参謀総長が、アンブロージオ将軍の腹心であるカステッラーノ大佐をリュブリャナからローマに召還し、准将に昇進させると同時に、軍参謀本部で軍の重要問題についての検討・提案及び決定事項の確認という新任務を与えた。

このカステッラーノの召還には、当然ながらアンブロージオ将軍が関わっていた。陸軍参謀長となったアンブロージオ将軍は、気の許せる腹心のカステッラーノを「若いが有能な軍人」としてカヴァッレーロ参謀総長に強く推薦し、その結果、カステッラーノの召還が決められたのであった。なお、この時点でカステッラーノ准将は49歳であったが、40代での参謀本部将官はイタリア陸軍では初めてであり、「若き将軍」として話題になったという。

アンブロージオ将軍が陸軍参謀長になった頃、戦局は大きく変わっていた。特にドイツによるソ連侵攻と、日本とアメリカの参戦は大きかった。イタリアも同盟国としてソ連アメリカに宣戦布告、後の超大国を相手に戦わなければならなくなったのである。北アフリカ戦線と東部戦線ではイタリア軍は今のところ順調に軍を進めていたが、アンブロージオ陸軍参謀長はこの頃からイタリアの未来を悲観視し、万が一の時に備えて戦争終結のための策を模索していた。同志であったカステッラーノ准将も、アンブロージオのこの策に乗ったのであった。

f:id:italianoluciano212:20190513212642j:plain

イタリア軍モナコ公国侵攻。イタリア軍はヴィシー・フランス制圧作戦と同時に中立国であるモナコ公国に対しても軍を進軍させ、制圧している。

1942年秋になってくると、エル・アラメインでの敗北を受けて北アフリカ戦線は崩壊の一途をたどっていった。東部戦線においても、ドン川戦線でイタリア派遣軍はソ連軍を相手に苦戦していた。更に、ヴィシー・フランス領の北アフリカ(モロッコ及びアルジェリア)にアメリカ軍を中心とする連合軍部隊が上陸を開始し、戦線は拡大した。地中海戦線ではイタリア海空軍の奮戦でマルタ島が陥落寸前にまで陥ったが、賢明な英軍側の補給によってマルタ島はギリギリで持ちこたえ、エル・アラメインで枢軸軍が敗走したことで、イタリア軍が計画していたマルタ島の制圧は完全に失敗に終わった。

フランス領北アフリカへの連合軍の上陸は、イタリア軍指導部を非常に驚かせた。速やかにイタリア軍はヴィシー・フランスの支配下であったチュニジアと南フランス、更にコルシカ島に軍を進め、これを占領下に置いた。また、フランスの影響下に置かれていた中立国のモナコ公国にも軍を侵攻させ、モナコ国務大臣エミール・ロブロ(Émile Roblot)はイタリアの占領軍に従い、"傀儡政権"を成立させている。ドイツ軍と共同で実行したイタリア軍によるヴィシー・フランス全土制圧作戦は円滑に行われ、自沈を免れたいくつかの旧フランス艦艇がイタリア海軍に編入されるなどしたが、急速に戦局が変化したために、ムッソリーニも精神的に苦しくなっていった。

f:id:italianoluciano212:20190513212954j:plain

連合軍による爆撃で天井が粉砕したミラノの「ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア」。現在においてもミラノの観光名所であるが、第二次世界大戦時の爆撃で大きな被害を受けた建築の一つだ。ミラノ、ジェノヴァナポリ、ローマ、フィレンツェパレルモ、バーリなど、イタリアの主要都市は連合軍の連日の爆撃で多くの被害を受けている。昔の町並みが残っているように見えるのは、戦後の人々の熱心な修復のおかげなのだ。

更に、連合軍機によるイタリア主要都市への連日の空爆は更に多くなっていった。これによる被害は非常に大きく、市民の厭戦機運も日に日に高まるのに加え、軍需工場の被害も甚大であり、ただでさえ低い工業生産力が更に低くなっていった。そして、連合軍側によるプロパガンダも加速し、それがイタリア国内の厭戦・反ファシズム機運拡大に拍車をかけていったのである。アンブロージオ陸軍参謀長は、この戦局の急激な転換を受け、本格的に戦争離脱を模索することとなる

 

◆統合参謀総長アンブロージオ、戦争離脱への道

f:id:italianoluciano212:20190513213609j:plain

ローマにて。左からMVSN(黒シャツ隊)長官エンツォ・エミーリオ・ガルビアーティ(Enzo Emilio Garbiati)、空軍参謀長リノ・コルソ・フージェ(Rino Corso Fougier)、統合参謀総長ヴィットーリオ・アンブロージオ、ファシスト党書記長アルド・ヴィドゥッソーニ(Aldo Vidussoni)。

1943年に入ると、もはや戦局は絶望的になっていた。3月までにドン川戦線のイタリア派遣軍は壊滅した。更に北アフリカ戦線も1月23日にリビアの首都トリポリが連合軍によって遂に陥落し、北アフリカイタリア軍チュニジアに追い詰められたのである。この両戦線での敗北を受け、ムッソリーニはカヴァッレーロ参謀総長の解任を決定した。こうして、1月30日にカヴァッレーロ元帥はムッソリーニから参謀総長解任を通告され、2月1日をもって参謀総長から解任されたのである。

カヴァッレーロ元帥の後釜として、新たな統合参謀総長に選ばれたのはアンブロージオ陸軍参謀長だった。アンブロージオ将軍はユーゴスラヴィア侵攻での手腕を始め、軍人としては高く評価されていたが、ファシスト党員ではなく、更に党首脳とも親密な人物ではなかったため、次期参謀総長候補として有力視されてはいなかったが、戦局の打開に悩むムッソリーニはアンブロージオ陸軍参謀長を呼び出し、2月1日をもって参謀総長として任命することを伝えたのであった。

f:id:italianoluciano212:20190513232359j:plain

アンブロージオ参謀総長とウンベルト王子。ウンベルト王子の妃であるジョゼはベルギー王アルベール1世の娘であり、第二次世界大戦時のベルギー王レオポルド3世は兄であった。そのため、ベルギーに侵攻したドイツを憎んでおり、その同盟国となったイタリアのファシスト政権も同様に憎んでいた。なお、東アフリカ戦線でガッツェラ将軍率いるジンマ守備隊を降伏に追い込んだのは自由ベルギー軍のアフリカ軍団である。

アンブロージオ将軍自身もこの突然の任命に困惑したが、これを受け入れた。ムッソリーニから今後の方針を質し、参謀総長アンブロージオは遠征軍の本国への帰還と本土の防衛強化、最高司令部の権限の縮小、更に同盟国ドイツに対して然るべき態度を取ることを答えたムッソリーニ自身も、ヒトラーへの事実上の従属状態を苦々しく思っていたため、これに対して大賛成であった。ムッソリーニも、アンブロージオは信頼できる優秀な軍人として、大いに期待していたようである

しかし、アンブロージオとしては、既に腹の中では戦争離脱の道を模索していた。彼の中心にあるのは、他の陸軍主流派と同様に「王政の維持」であった。敗戦によって国内が混乱し、そして王政廃止に至ってしまうという状況を防ぐことが目的であった。それに加え、最早この戦争の敗北は「王政の廃止」どころの話ではなく、「イタリアという国家の滅亡」をも齎してしまうという危機感に駆られ、それを防ぐための「戦争離脱の道」をアンブロージオとその同志カステッラーノは模索していたのである。

かくして、東部戦線に派遣されたイタリア遠征軍は「一時的休養」の名目のもと引き揚げられることが決定したこれは、本土防衛強化が目的であったが、万が一休戦した時にドイツが攻撃してきた場合に備えるためという意味もあったチュニジアでは、ロシア帰りの名将ジョヴァンニ・メッセ(Giovanni Messe)将軍が帰国したエットレ・バスティコ(Ettore Bastico)元帥に変わってイタリア軍の立て直しに尽力することとなった。メッセ将軍はこの地で北アフリカでの最後の抵抗を行うこととなる。

ムッソリーニは統合参謀総長と陸軍参謀長だけでなく、政府閣僚も人事異動をして高まった厭戦機運を拭きとろうと考えた。戦局の悪化は、イタリア側とドイツ側の不和を次第に呼び起こし、ムッソリーニも日に日にドイツへの嫌悪感を募らせていった。しかし、「同盟国としての責務を果たす」ということで、三国同盟条約に違反する単独講和の考えは拒否していた。

f:id:italianoluciano212:20190513232750p:plain

ムッソリーニの娘エッダ(左)と、その夫であるガレアッツォ・チャーノ外相(右)。チャーノはムッソリーニの娘婿として最大の権力を発揮した人物で、ファシスト政権の事実上のNo.2であった。

人事異動によって外相を解任され、ヴァチカン駐箚大使となったチャーノはアンブロージオ参謀総長とカステッラーノ准将を私邸に招き、「ムッソリーニ逮捕計画」を明らかとした。これはアンブロージオとカステッラーノにとっても大きな衝撃であった。チャーノはムッソリーニの娘エッダの婿、言ってしまえばムッソリーニの義理の息子だったのである。そんな娘婿ですら、クーデターを計画するということは、ファシスト党の重鎮にも味方がいるということに喜びを持つのと同時に、深い感銘を受けたのである。こうして、「ムッソリーニ逮捕計画」が始動したのである

アンブロージオ参謀総長は逮捕計画を進める一方で、ムッソリーニ自身をドイツとの同盟解消に導くために定例報告で苦言を呈した。しかし、ムッソリーニ自身はこんな状況でありながらも枢軸側の勝利を信じており、アンブロージオの意見を聞き入れなかった。興味深いことに、ムッソリーニは日本軍が欧州にまで支援にやってきてくれると信じており、更に長期戦に耐えられないアメリカが戦争を離脱すると考えていたという。更には、スバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose)率いる自由インド仮政府と共にインド人らが決起し、枢軸側に加わるだろうと考えたムッソリーニが日本やインドへの大変な思い入れがあった、というのは興味深いだろう(実際、真珠湾攻撃の知らせを聞いた時のムッソリーニは狂喜乱舞したという。バルバロッサ作戦の知らせを聞いた時とは正反対の反応である)。

f:id:italianoluciano212:20190513232937j:plain

インドの独立運動家、スバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose)。枢軸国によって承認されたインドの暫定政権「自由インド仮政府」の主席であり、枢軸国側で戦ったインド人軍「インド国民軍」の総司令官。ボースは日本に渡る前は欧州で活動しており、イタリアでも活動していたため知名度も高かった。ムッソリーニと直接会うことは出来なかったが、ムッソリーニ自身は彼を高く評価していたようである。

1943年5月13日には、メッセ将軍率いる北アフリカ軍が遂に全面降伏した。 こうして、チュニジアは陥落し、北アフリカ戦線は完全に終結する事態となった。こうなると、残っているのはイタリア本土と島嶼部のみである。連合軍による激しい包囲戦の結果、「ムッソリーニマルタ島」と連合軍に呼ばれ、堅牢な要塞島となっていたパンテッレリーア島(6月11日)とランペドゥーザ島(6月13日)が遂に陥落した。ランペドゥーザと共にペラージェ諸島を構成するリノーザ島(6月13日)とランピョーネ島(6月14日)に陥落し、連合軍はシチリアに迫りつつあった

アンブロージオ参謀総長イタリア軍首脳部は連合軍の次の上陸地点をシチリアであると考えていたが、英軍の欺瞞作戦「ミンスミートにまんまと騙されたドイツ軍側はサルデーニャが次の上陸地点と認識していたため、シチリアではなくサルデーニャへの駐屯軍の強化を行った。現地を視察したアンブロージオ参謀総長は現実的にサルデーニャ上陸は考えられないだろうと分析している。帰国後、アンブロージオはムッソリーニにドイツによる資材供給の約束の反故を指摘し、ドイツとの関係再検討を迫ったが、これも徒労に終わった。その後、イタリア軍のバルカン及びフランスからの撤退を進言したが、これも却下されている。

f:id:italianoluciano212:20190513233629j:plain

連合軍による激しい爆撃で破壊された、カターニアのイタリア空軍基地。

シチリア防衛軍総司令官であるアルフレード・グッツォーニ(Alfredo Guzzoni)将軍は連合軍のシチリア上陸目標は東南地帯であると分析し、逆にドイツ軍のケッセルリンク元帥は西部地帯であると主張した。結局、連合軍は東南地帯に上陸を開始したため、グッツォーニ将軍の分析が正しかった結果となった。ミンスミート作戦の結果に加え、ここでもドイツ軍は裏をかかれる結果となった。こうして、7月9日の夜、連合軍の空挺降下が始まり、シチリア侵攻作戦「ハスキー」が宣言されたのであった

当初、アンブロージオ参謀総長が直接第12軍団の指揮官としてシチリア防衛を指揮することとなったが、結局はローマでの参謀総長としての任務が優先されたために、フランチェスコ・ジンガレス(Francesco Zingales)将軍が指揮する事態となった。とはいえ、状況は圧倒的に連合軍側が有利であった。イタリア軍はドイツ側からの約束が果たされない為に、遂に燃料が枯渇する事態となり、海軍に関しては大型艦はおろか、中型・小型艦の行動すらも制限されており、連合軍に制海権を奪われている状態では上陸部隊の迎撃すらも困難であった空軍も燃料の枯渇と、人員・機材の不足によって圧倒的物量を誇る連合軍の空軍部隊に対して不利な戦いを強いられていた。この頃になり、「イタリア最高の戦闘機」と称されるマッキ MC.205V"ヴェルトロ"、FIAT G.55"チェンタウロ"、レッジアーネ Re.2005"サジッタリオ"が部隊に配備されるが、時既に遅し。フランコ・ルッキーニ(Franco Lucchini)を始めとする優秀な空軍パイロットたちが、シチリア及び本土防空戦で空に散っていった。

f:id:italianoluciano212:20190513233725j:plain

史上初のローマ空襲で破壊された、サン・ロレンツォ地区の建築。ローマ空襲は実際の被害も大きかったが、それよりも心理的な被害が非常に大きかった。

シチリアイタリア軍は何とか連合軍の進撃に対抗していたが、最早戦局の行方は明らかであった。更に、それを畳みかけるように、1943年7月19日、首都ローマが初空襲を受けたムッソリーニも、イタリア軍首脳部も、更にはローマ市民も、ヴァチカンの存在と豊富な文化遺産から、「ローマは爆撃対象にはならない」と思っていたのだが、現実は甘くない。ローマ史上初の航空爆撃である。アメリカ陸軍航空隊のドゥーリットル少将指揮下の爆撃機隊、500機を越える四発爆撃機大編隊は3時間に渡ってローマを空爆したのであった古代ローマ時代の遺跡が多い歴史的中心部(Centro Storico)は避けられたが、約1000トンの爆弾が投下され、それに低空からの機銃掃射が加えられて約1500人の市民が死亡し、4万人もの人々が被害に遭った。この犠牲者の中には、カラビニエリ長官であったアツォリーノ・アーゾン(Azolino Hazon)将軍も含まれている。アーゾン将軍はアンブロージオ参謀総長の信頼の厚い友人であった上に、ムッソリーニ逮捕計画の協力者であったことから、アンブロージオにとっても非常に辛い出来事となった。

建物の被害も甚大で、兵站基地となっていたローマ・ティブルティーナ駅、大学地区に隣接するサン・ロレンツォ地区などの労働者街は爆撃地点となり、激しく破壊された。建物や人々への被害も甚大であったが、それより問題であったのは、イタリア全体への精神的なショックであった。空襲の翌日、ムッソリーニ、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世教皇ピオ12世がそれぞれ空襲の被災地を訪れた。統帥は自らの著書に、市民からはどこでも好意をもって迎えられたと書いている。国王の視察には、被災者は冷たい敵意のある視線を向けたという。そして、教皇の視察は市民から熱狂的な歓声で迎えられ、祈りの言葉が町に響いた。

ムッソリーニがローマ空襲の知らせを聞いた時、丁度フェルトレ郊外でヒトラーと会談をしている時だった。ローマ空襲はまさにムッソリーニにとっても青天の霹靂であり、その知らせを聞いたムッソリーニはすっかり青ざめてしまったが、同行していたアンブロージオ参謀総長ムッソリーニに戦争離脱の旨をヒトラーに伝えるべきと進言したが、それは拒否されることとなった。アンブロージオとしては再三に渡る進言も悉く拒否されたために、「イタリアを救う道はムッソリーニ逮捕しかない!」と決意し、逮捕計画を急ぐこととしたのであったのである

f:id:italianoluciano212:20190513234032j:plain

ディーノ・グランディ(Dino Grandi)。優れた陰謀家として知られており、駐英大使時代は反伊的な英国外相アンソニー・イーデンを解任に追い込んでいる。外相経験者。ファシスト党内の重鎮であり、王党派や軍部の動きとは別に、ファシスト党内のムッソリーニ解任動議を実行した。

こうして、7月24日ファシスト党の重鎮ディーノ・グランディ(Dino Grandi)によってファシズム大評議会(ファシスト政権期イタリアの最高諮問機関)でムッソリーニ解任動議が開始され、7月25日深夜に、賛成19票、反対7票、棄権1票という結果でムッソリーニの統帥解任と国王への統帥権の返上が決定されたのである(大評議会員ファリナッチはムッソリーニの解任に賛成であったが、グランディ案には反対するという特殊な立場を示した)。そして、午後に国王への謁見のためにサヴォイア離宮に向かい、謁見を終えたところでカラビニエリに逮捕され、ムッソリーニは失脚したのであった。こうして、アンブロージオとカステッラーノが中心となって計画したムッソリーニ逮捕計画が、グランディが仕組んだファシスト党内の謀反と合わさって、ムッソリーニの解任に繋がったのである。その後、国王は新たな首相にバドリオ元帥を指名、組閣を命じたのであった。この辺の紆余曲折は長くなるので省略する。

 

◆休戦と逃避行

f:id:italianoluciano212:20190513234417j:plain

レッジアーネ Re.2005"サジッタリオ"戦闘機。マッキ MC.205V"ヴェルトロ"やFIAT G.55"チェンタウロ"と並ぶ、「第二次世界大戦時のイタリア最高の戦闘機」と呼ばれる傑作戦闘機。生産数は少ないが、優れた性能で本土防空戦で活躍した。

ムッソリーニ失脚後も、ひとまずはバドリオ政権も枢軸国側での戦闘継続を表明したため、水面下では休戦交渉が進んでいるが、連合軍との戦いは続いた。アンブロージオは参謀総長の職を継続し、連合軍との最後の戦いに挑んだ。前の空襲から一か月も経たないうちに、1943年8月13日にローマは二度目の爆撃を受けている。8月17日には遂にシチリア最後の拠点であるメッシーナが陥落し、シチリアは完全に連合軍の占領下となったのであった。こうして、連合軍が支配するシチリアと、その対岸に位置するカラブリアで両軍のにらみ合いが続いた。

9月3日には連合軍がシチリア海峡を越えて、上陸作戦「ベイタウン」を発動、カラブリア最大の都市レッジョ・カラーブリアに上陸を開始した。これはイタリア半島の戦いの始まりとなったが、同日、密使としてアンブロージオ参謀総長が送り出したカステッラーノ准将がシチリアのカッシービレで連合軍代表団との休戦に調印していた。

f:id:italianoluciano212:20190513234659j:plain

米軍のアイゼンハワー将軍と握手するカステッラーノ将軍。こうして、イタリア王国は連合軍側との休戦を実現したが、これは泥沼の内戦の始まりだった。

こうして、9月8日にイタリア王国の休戦が発表されたが、アプヴェーアを通じて既にイタリアの休戦交渉を察知していたヒトラーはドイツ軍にイタリア侵攻を命令。ドイツ軍はイタリア本土及びイタリア軍占領下の地域を制圧していき、現地のイタリア軍部隊を武装解除していった。翌日、バドリオ元帥と国王一家はローマを脱出、アンブロージオ参謀総長もそれに追従し、ペスカーラからガッビアーノ級コルベット「バイオネッタ」に乗って南部のブリンディジに逃げたのであった。しかし、この行動は後に「ローマ防衛を放棄した」として、当時の軍首脳部や王家共々、アンブロージオは非難の対象となったのである。

f:id:italianoluciano212:20190513234851j:plain

イタリア社会共和国の国防大臣に就任した、ロドルフォ・グラツィアーニ(Rodolfo Graziani)元帥。RSI軍を束ねる存在として、RSI政権に加わった将兵たちで新生イタリア軍を優れた手腕で再編し、連合軍とパルチザンとの戦いを指揮した。イタリア参戦時の陸軍参謀長であった人物で、エジプト侵攻を指揮している。なお、RSI政権側についた理由はバドリオとの不仲とも言われている。

南部のブリンディジに遷都したイタリア王国政府は通称「南部王国政府」と呼ばれ、1943年10月13日には旧同盟国のドイツに宣戦布告、「共同交戦国」としての立場を確保した(連合国側ではあるが、「連合国」としての立場は得られず、幾分ドイツや日本に比べてマシにはなったが、戦後も敗戦国扱いであることには変わりない)。これに対して、イタリア北部にはガルダ湖畔のサロを中心として、ムッソリーニ率いるイタリア社会共和国(RSI政権)が誕生していた。これはファシスト・イタリアの後継政権として、枢軸国側での戦闘を継続したのである。こうして、イタリアは内戦状態となったが、王国政府の共同交戦軍の行動は限られ、事実上「RSI政権vs南部王国」という構図の内戦というより、「RSI政権vsパルチザン」という構図の内戦となった

11月18日には、アンブロージオ将軍は参謀総長を辞任し、新たな参謀総長にはチュニジア戦で連合軍の捕虜となり、イタリア分裂後は連合軍側への協力を条件に解放されたメッセ元帥が任命された。彼もアンブロージオ将軍と同じく熱心な王党派であった。結局、アンブロージオが模索した「戦争離脱による祖国イタリアの解放」は逆にRSI政権の誕生とパルチザン運動の勃発による泥沼の内戦化を引き起こすという結果となり、願いは果たされることはなかった。

その後、参謀総長を辞任したアンブロージオは半年のみ陸軍監察官を務め、引退した。こうして失意の中人知れず1958年11月19日、リグーリアの保養地アラッシオでこの世を去ったのであった。

 

アンブロージオ将軍とカステッラーノ将軍による「戦争離脱工作」は、志こそ立派であったが、実際はイタリアは悲惨な内戦状態に突入するきっかけを作ってしまい、現在の国内対立まで禍根を残す結果となってしまったのである。南北分裂は戦後のイタリアの立場を若干良くさせるのには役に立ったかもしれないが、その代償は大きかったため、結論を言えば失敗だった。そもそも、王政の維持も果たされず、寧ろ逆にパルチザン闘争の結果、王党派とは利害が一致しない、反ファシストらの政治闘争の勝利に終わったのである

 

 ◆主要参考文献

B.Palmiro Boschesi著, L'ITALIA NELLA II GUERRA MONDIALE, Mondadori, 1975
Stefano Fabei著, I cetnici nella seconda guerra mondiale - Dalla Resistenza alla collaborazione con l'Esercito italiano, LEG, 2017
Eric Gobetti著, L'occupazione allegra. Gli italiani in Jugoslavia (1941-1943), Carocci, 2007
Roberto Battaglia著, La Seconda Guerra Mondiale, Riuniti, 1960
Giulio Vignoli著, La vicenda italo-montenegrina. L'inesistente indipendenza del Montenegro nel 1941, ECIG, 2002
Giacomo Scotti著, Montenegro amaro. L'odissea dei soldati italiani tra le Bocche di Cattaro e l'Erzegovina dal luglio 1941 all'ottobre 1943, Odradek, 2013
Giacomo Scotti / Luciano Viazzi著, L'inutile vittoria. La tragica esperienza delle truppe italiane in Montenegro 1941-1942, Mursia, 2013
Mario Roatta著, Diario, Mursia, 2017
Galeazzo Ciano著, L'Europa verso la catastrofe, Castelvecchi, 2017
Galeazzo Ciano著, Diario, Castelvecchi, 2014
Teodoro Sala著, Il fascismo italiano e gli Slavi del sud, Trieste, IRSML, 2008
Cesare Amè著, Guerra segnata in Italia, 1940-1943, Bietti, 2011
Vincenzo Sottonella著, Caro compagno compagnevole, Ianieri Editore, 2007
木村裕主著『ムッソリーニを逮捕せよ』新潮社・1989
木村裕主著『誰がムッソリーニを処刑したか―イタリア・パルティザン秘史―』講談社・1992
吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939~1945 ―第二次大戦を駆け抜けたローマ帝国の末裔たち―』イカロス出版・2006
B・バルミーロ・ボスケージ著/下村清訳『ムッソリーニの戦い―第二次世界大戦―』新評論・1993
B・バルミーロ・ボスケージ著/下村清訳『イタリア敗戦記―二つのイタリアとレジスタンス―』新評論・1992
石田憲著『地中海新ローマ帝国への道 ―ファシスト・イタリアの対外政策1935-39―』東京大学出版会・1994
石田憲著『ファシストの戦争:世界史的文脈で読むエチオピア戦争』千倉書房・2011他

東アフリカ戦線の智将、グリエルモ・ナージ将軍 ―ソマリランドにおける大勝と、ゴンダールでの最後の抵抗―

前回のエットレ・バスティコ(Ettore Bastico)将軍について調べてみたが、今回もイタリア陸軍の将軍シリーズでやってみようと思う。今回はグリエルモ・ナージ(Guglielmo Nasi)将軍について調べてみる事とする。ナージ将軍は第二次世界大戦、本国から遠く離れた東アフリカ戦線で戦闘を指揮した将軍で、東アフリカ戦線初期には東部地区軍を統括し、英領ソマリランド制圧戦を大勝に導き、戦線崩壊後も西部のゴンダールを拠点に抵抗し、最後まで戦い抜いた将軍であった

そんな東アフリカ戦線きっての智将であるナージ将軍について、詳しくは知られていないように感じる。そもそも、東アフリカ戦線全体がそうかもしれないが。以前、紅海艦隊やアオスタ公アメデーオ空軍大将といった、海空での東アフリカ戦線のアプローチはしたが、陸軍でのアプローチはしていなかった。ということで、今回はナージ将軍の人生を紐解き、東アフリカ戦線の理解を進めることを目的とする。

f:id:italianoluciano212:20190429222005j:plain

白馬に乗るグリエルモ・ナージ(Guglielmo Nasi)将軍

 

◆その出自とアフリカでの戦いの始まり

f:id:italianoluciano212:20190429232759g:plain

グリエルモ・ナージ(Guglielmo Nasi)将軍

1879年2月21日、グリエルモ・ナージは首都ローマ近郊の港町、チヴィタヴェッキアに生まれた。チヴィタヴェッキアは「ローマの外港」とも言われる重要な港町で、日本の慶長遣欧使節団が上陸したのもこの町である。彼は1896年にモデナの陸軍士官学校を卒業後、砲兵少尉に任官された。1905年には砲兵中尉に昇進した。

1911年に伊土戦争が勃発すると、ナージ中尉は第8砲兵連隊の連隊長としてリビアに出征、1912年7月1日のアッ=サフサーフの戦いでオスマン帝国軍部隊を巧みな戦術で打ち破る活躍を見せた。この結果、その働きが認められ、銀勲章を叙勲され、大尉に昇進している。第一次世界大戦においては、第14歩兵師団の参謀長として活躍し、計3回銀勲章を叙勲される働きを見せた。その結果、終戦時までには中佐に昇進した。

第一次世界大戦終戦すると、政情は混乱していたが、イタリアに平和が訪れた。とはいえ、未だに混乱が続いていたリビアに派遣され、第81歩兵師団の参謀長を務めている。その後、1919年から1925年までトリポリタニア植民地(当時はリビア植民地は統一されておらず、キレナイカトリポリタニアフェザーンの三植民地に分かれて統治されていた)駐屯軍の首席補佐官として務め、エミーリオ・デ・ボーノ(Emilio De Bono)元帥を補佐した。1925年、大佐に昇進。1926年、パリの駐仏イタリア大使館駐在武官として派遣された。1928年になると、ナージはパリでの任務を終え、一度故郷のチヴィタヴェッキアに戻った。

 

◆「リビア再征服」

f:id:italianoluciano212:20190429232918j:plain

リビア再征服時のトリポリタニアキレナイカ知事のピエトロ・バドリオ元帥(Pietro Badoglio,左)と、副知事のロドルフォ・グラツィアーニ(Rodolfo Graziani, 右)。エチオピア戦争時でも、バドリオは北部戦線を、グラツィアーニは南部戦線を指揮した。優れた手腕で植民地戦争を遂行していったが、リビア人やエチオピア人にとっては「悪魔のコンビ」であった。

士官学校で教鞭をとった後、第三歩兵連隊の連隊長に任命。1931年にはナージは伊土戦争での活躍からリビア戦での実力が買われ、植民地省に勤務することになり、リビアに派遣された。当時、リビア植民地では「砂漠のライオン」オマル・ムフタール(Omar al-Mukhtar)率いるサヌーシー教団が大規模な叛乱を起こし、事実上の「戦争状態」となっていた(リビア再征服, Riconquista della Libia)。リビアに送られたナージ大佐は首席補佐官として、抵抗鎮圧のために新たにトリポリタニアキレナイカ知事に就任したピエトロ・バドリオ元帥(Pietro Badoglio)と、副知事のロドルフォ・グラツィアーニ(Rodolfo Graziani)将軍を補佐、キレナイカ方面での指揮で武勲を挙げた。1933年にはその働きにより准将に昇進し、将軍となった

リビア平定が終結した後、1934年にグラツィアーニ将軍の後任として、キレナイカ知事に就任しているが、その直後にリビアキレナイカトリポリタニアフェザーンの三地域が統合され、リビア総督に就任したイタロ・バルボ(Italo Balbo)空軍元帥のもとで「リビア植民地」として再編されたため、これはリビア平定に貢献したナージに贈られた一種の名誉称号的なものとなった。リビア平定後はエチオピア戦争に備え、キレナイカで第一植民地歩兵師団「リビア」を編成。

 

◆「ヒンデンブルク防壁」とオガデン戦線

f:id:italianoluciano212:20190429231519j:plain

南部戦線でエチオピア帝国軍を指揮した、デジャズマッチ・ナシブ・ザマヌエル(Nasibù Zamanuel, ነሲቡ ዘአማኑኤል)将軍。参謀長のトルコ人義勇兵ワヒブ・パシャと共に防衛線「ヒンデンブルク防壁」を構築し、イタリア軍に強固に対抗した。しかし、グラツィアーニによる容赦ない毒ガス攻撃を受けた結果、以後後遺症に苦しみ、亡命先のスイスで死亡した。

1935年にエチオピア戦争が勃発すると、グラツィアーニ将軍と共に南部戦線で戦うこととなる。ナージ将軍が指揮したのは先ほどの第一植民地歩兵師団「リビア」で、兵員の殆どがリビア人で構成されていた。これに対して、エチオピア帝国軍側の将軍、デジャズマッチ・ナシブ・ザマヌエル(Nasibù Zamanuel, ነሲቡ ዘአማኑኤል)将軍は、トルコ人義勇兵ワヒブ・パシャ(Wahib Pascià)を参謀長として重用し、オガデン地方に防衛線「ヒンデンブルク防壁」を構築する事で対抗している。

f:id:italianoluciano212:20190429232824j:plain

捕虜となったエチオピア帝国軍将軍、ラス・デスタ・ダムタウ(Destà Damtù)。ハイレ・セラシエ帝の義理の息子(テナグネウォルク皇女の婿)。エチオピア皇室の一員。エチオピア戦争時はナシブ・ザマヌエル将軍と共に、南部戦線の指揮官。皇帝に忠実であり、アディスアベバ陥落後も南部でレジスタンス運動を指揮、イタリア軍を苦しめた。しかし、グラツィアーニ暗殺未遂事件直後にナージ率いるイタリア軍に逮捕され、絞首刑で処刑された。

これにより、ナージ率いる「リビア」師団も多くの損害を受けるが、グラツィアーニによる容赦ない攻撃命令によってこれを突破する事に成功し、最終的にハラールを陥落させ、エチオピア戦争の終結を迎えている。終戦と共に、ナージは新たに設立されたハラール行政区の知事となった。また、少将に昇進。ハラール知事としては、レジスタンス鎮圧にも尽力し、最終的にデスタ・ダムタウ(Destà Damtù)将軍率いるレジスタンス軍を鎮圧する事に成功した。1938年には中将に昇進している。

また、ナージはハラール知事として、現地語のハラリ語を理解し、積極的に他種多少な民族構成の現地人との交渉を行って協力関係を結んでいったナージは軍人としてでだけでなく、他民族との「外交官」としても優れた交渉術を持っていたのである。彼はエチオピアのソロモン王朝に反対していた現地民らを懐柔し、イタリア軍の協力者にしていった。このナージの手法は、後にゴンダールでの最後の抵抗時でも発揮されることとなる。1939年5月に一度ハラール知事を辞めて、首都アディスアベバ周辺を統治するショア知事に任命された後、1940年6月10日、イタリアが第二次世界大戦に参戦したことによって速やかにハラール知事に戻っている。

 

ジブチを巡るフランス軍との戦い

f:id:italianoluciano212:20190430000526j:plain

イタリア軍が制圧した、ジブチ・ロワイヤダのフランス軍の国境要塞。フランス軍イタリア領東アフリカ帝国とフランス領ジブチとの国境にこのような要塞群を設置して防衛を強化していた。

イタリアが第二次世界大戦に参戦した後、ナージ中将はイタリア領東アフリカ帝国(A.O.I.)のハラール行政区の知事であった。そして、A.O.I.東部地区を統括する軍司令官として防衛線を敷いたのである。東アフリカ帝国副王の肩書を持つ東アフリカ方面軍総司令官アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ(Amedeo di Savoia-Aosta)空軍大将のもとで、東アフリカでの戦いは緩やかに始まった。

6月18日から、ナージ将軍はイタリア領エチオピア-フランス領ジブチ国境から軍を進撃させ、フランス軍の国境要塞群で小規模な戦闘が発生した。ナージ将軍率いる東部地区のイタリア陸軍は南部のアリ・サビエ要塞と北部のダッダート要塞を攻撃。更に、要塞群が開けている国境のアッベ湖周辺でも伊仏両軍による戦闘が開始された。フランス軍部隊が撤退したため、イタリア軍部隊は首尾よく国境の要塞群を制圧していった。とはいえ、フランス領ジブチ植民地への明確な攻撃命令はなされていなかったため、あくまでこれらは防衛の副産物であった。そのため、ナージ将軍はフランス領ジブチへの徹底的な攻撃は行うことはしなかった。

f:id:italianoluciano212:20190430000657j:plain

第二次世界大戦開戦後、ジブチにて兵士を閲兵する駐ジブチ・フランス軍司令官のポール・レジェンティオーム(Paul Legentilhomme)陸軍准将。休戦に反対してジブチを脱出後、自由フランス軍に合流。その後、東アフリカ戦線ではイタリア軍と戦い、シリア戦線ではヴィシー・フランス軍と交戦した。

6月21日、伊空軍部隊はジブチ港を爆撃(この際激しい対空砲火によってカプロニ Ca.133偵察爆撃機2機が撃墜されている)。また、夜間にはサヴォイアマルケッティ SM.81"ピピストレッロ"三発爆撃機が再度ジブチの港湾設備を爆撃し、その報復としてフランス空軍のポテ25戦闘爆撃機エチオピア国境のドゥアンレーを爆撃している。6月24日にヴィッラ・インチーサ休戦協定がイタリア・フランス間で署名されたことにより、6月25日には伊仏両軍は休戦を実現した

この結果、イタリアはフランスが支配していたジブチ港の使用権を手に入れ、ジブチ-アディスアベバ鉄道を活用することで物資の円滑な輸送が可能となった。更にジブチの非武装化と全装備のイタリア軍への接収が行われた。しかし、駐ジブチ・フランス軍司令官であるポール・レジェンティオーム(Paul Legentilhomme)将軍ヴィシー政権に従うことを拒否し、アデンに脱出して自由フランス軍に合流している。

 

ソマリランドでの大勝

f:id:italianoluciano212:20190430014446j:plain

英領スーダンのカッサラーに攻撃を開始するイタリア軍部隊。

フランス降伏後、イタリア軍は本格的に英国との戦いを開始した東アフリカ戦線もそれに呼応し、東アフリカ軍総司令官アオスタ公はスーダンのゲダレフ及びカッサラーへの攻勢を開始。7月4日、ルイージ・フルーシィ(Luigi Frusci)将軍率いる部隊がカッサラーを制圧し、7月5日にはピエトロ・ガッツェラ(Pietro Gazzera)将軍率いる部隊が同じくスーダンのガッラバト要塞及びクルムク要塞を陥落させた。更に、ガッツェラ将軍の部隊は英領ケニアに侵攻を開始。7月16日に国境都市のモヤレを制圧後、続けてマンデラを制圧。遂には国境から100km地点のブナまで進軍した。

イタリア軍は順調に戦線を有利に進めていたイタリア軍司令部はその後、英軍の紅海における補給路を脅かすために英領ソマリランドの制圧を決定した。英国の最重要植民地であるインドと、地中海を結ぶ紅海の補給路を遮断する事で、英軍に大打撃を与える、というものである。そのために、英軍の重要中継地となっているソマリランドを制圧するという作戦であった。そして、長期的に見て、北アフリカではスエズを落とし、地中海ではマルタとジブラルタルを落とし、植民地に頼り切る英国本土を干上がらせよう!という計画である。

f:id:italianoluciano212:20190430011928p:plain

ソマリランド侵攻の地図。左がベルトルディ将軍率いる左翼部隊、右がデ・シモーネ将軍率いる中央部隊で、途中分岐して最も右に行っているのがベルテッロ将軍率いる右翼部隊である。これらが各拠点を制圧した後、それぞれが連携してベルベラへの進撃を開始した。

このソマリランド進撃は東部地区を統括するナージ中将に任せられた。ナージ率いる兵員4万人は三縦隊に分かれ、左翼部隊はシスト・ベルトルディ(Sisto Bertoldi)中将、中央部隊はカルロ・デ・シモーネ(Carlo De Simone)中将、右翼部隊はアルトゥーロ・ベルテッロ(Arturo Bertello)准将がそれぞれ指揮に当たった。基本的に東アフリカ戦線のイタリア軍は旧式装備が目立ったが、デ・シモーネ将軍の中央部隊は12輌のM11/39中戦車と12輌のCV35豆戦車、更にFIAT 611装甲車も配備していた。それに加え、即席の装甲車両なども含んでいた。更にこれらの部隊にオルランド・ロレンツィーニ(Orlando Lorenzini)大佐率いる二個植民地旅団が追加された。

英領ソマリランドアーサー・レジナルド・チェイター(Arthur Reginald Chater)司令官率いる守備隊1万3000人が防衛していた。ナージ将軍は8月3日にソマリランド侵攻作戦を発動し、軍を進撃させる。そうして、国境地帯の拠点を制圧しつつ進軍を開始。8月5日には、サヴォイア快速師団や2個黒シャツ大隊(MVSNの部隊)を含むベルトルディ将軍率いる左翼部隊がアウダル地方の中心都市であり、重要な貿易湾であるゼイラを制圧した。これによって、ジブチ-ソマリランドのルートを完全に断つことに成功している。

同日、機甲部隊を含むデ・シモーネ将軍率いる中央部隊は、空軍の対地支援攻撃のもと、後の英領ソマリランドの首都ハルゲイサへの攻撃を開始翌日の8月6日にはハルゲイサを迅速に陥落させることに成功している。デ・シモーネ将軍はハルゲイサで中央部隊の再編制を行い、2日間進軍を停止した。

f:id:italianoluciano212:20190430013530j:plain

イタリア軍によって制圧された英領ソマリランドの首都、ベルベラ。東アフリカ戦線における一連の勝利は、イタリア軍の緒戦での戦いで最も成功した勝利と言える。

リビア人植民地兵のラクダ騎兵部隊を中心とするベルテッロ将軍率いる右翼部隊も、8月6日に首都ハルゲイサから東に120kmほど行った場所にある拠点、アドエイナを陥落させているこうして、三方面から進軍したイタリア軍部隊は揃い、首都ベルベラへの進撃を開始した。これに対して、東アフリカ軍総司令官のアオスタ公は進撃を急がせたが、ナージ将軍は雨の影響で路面に泥濘が多く、路面状態が悪化していたために進軍を遅らせ、デ・シモーネ将軍の中央部隊が再編成を終えた8月8日に再進軍を開始した。

ここまで順調に勝利を重ねていたナージ将軍であったが、英軍側がトゥガ・アルガン峠で最後の抵抗を試みた。英軍は防衛線を張り、イタリア軍を迎撃。このトゥガ・アルガン峠での激戦は8月11日から6日間も続き、イタリア軍側(現地のアスカリ兵を含む)は約2000人近い戦死者を出す結果となった。しかし、ナージ将軍率いるイタリア軍は英軍守備隊を激しく追撃し、英軍側は包囲を恐れて退却を余儀なくされたのである

f:id:italianoluciano212:20190430014352j:plain

ソマリランド征服時点(1940年8月19日)の東アフリカ戦線におけるイタリア軍の支配領域。赤色は開戦前からのイタリア領東アフリカ帝国(A.O.I.)、ピンク色がこの時点で占領している英国植民地(ソマリランドケニア北部、南スーダン)、橙色は使用権を得たヴィシー・フランス領ジブチ

こうして、チェイター司令官ら英軍ソマリランド司令部はソマリランドの放棄を決定し、8月16日に英軍部隊の多くは包囲される前に速やかに海路でアデンまで撤退したのであった。この結果、ナージ将軍率いるイタリア軍部隊は英軍の残存部隊を追撃・撃破した後、8月19日にソマリランド首都ベルベラに入城し、英領ソマリランド全土の制圧を完了したのであった

このナージ将軍による「ソマリランドでの大勝」の知らせはムッソリーニは勿論、ヒトラーも絶賛する祝電を打っている。ナージ将軍は砂漠と荒野の広がる戦場で巧みに軍を三分割して指揮し、各拠点を封じて英軍の補給路と退路を断った後に、三部隊が再び連携して首都を叩く、という戦略で輝かしい勝利を手に入れたのであった。

 

ソマリランドの占領統治

f:id:italianoluciano212:20190430015337j:plain

グリエルモ・ナージ(Guglielmo Nasi)将軍

ナージ将軍によって征服された英領ソマリランドであったが、形式上は東アフリカ帝国のソマリア行政区に組み込まれたが、「征服地」故にソマリア知事のグスタヴォ・ペセンティ将軍(Gustavo Pesenti)の指揮下ではなく、ナージ将軍が「ソマリランド軍事総督」として、旧英領ソマリランドの占領統治を管理した。

しかし、英軍は撤退時にソマリランドの港湾設備を徹底的に破壊していたために、利用するためのインフラ修復が急務となった。インフラ整備の傍ら、イタリア式の建築もソマリランドの占領地域で試みられているが、そのほかのスーダンケニアの占領地同様に短期間で支配が終わった事から、どうしても数は少なかった。

イタリア軍ソマリランドで大勝したものの、損害もそれなりに多かったため、軍需物資が不足してしまった。スエズが封鎖されているために海上輸送による大規模物資運搬が不可能であったため、アウレリオ・リオッタ(Aurelio Liotta)空軍将軍率いる空軍特別補給コマンド(S.A.S.)がエチオピアへの物資運搬をしていたが、航空機では装甲車両を始めとする軍需物資運搬は数がどうしても制限されてしまった。

 

◆反撃の狼煙、戦線の崩壊

f:id:italianoluciano212:20190430024412j:plain

装甲車両とイタリア兵。

結局、その後東アフリカ帝国軍総司令官であるアオスタ公は物資の不足からスーダンケニアへの再進撃を停止していた。しかし、この3カ月ほどの温存期間の結果、完全に敵に塩を送る結果となってしまったのである。伊軍が物資の補給の遅延故にゆっくりしたスピードで回復していたのに対して、英軍は急速に兵力を増強させて反撃の機会を狙っていた。更に、英軍はデブレ・マルコスを中心とするエチオピア北西部のゴジャム地方にて、エチオピア人によるイタリア当局への叛乱工作を行っていた。

英軍は反撃の狼煙をあげた。1940年12月18日、英軍がソマリア北西部国境のエル・ウァク基地を襲撃し、これを陥落させた。これは小さな勝利であったが、イタリア軍崩壊の前触れとなったのであった。この結果、敗北の責任を取らされてソマリア知事兼エル・ウァク基地司令官のグスタヴォ・ペセンティ将軍は解任、本国に送還された。

後任のソマリア知事には、ナージ将軍の後任としてソマリランドの占領統治をしていたデ・シモーネ将軍が就任した。この結果、名実ともにソマリア植民地が完全統一された。英領ソマリランドは再度英国に奪還されるまでの間、イタリア領東アフリカ帝国(A.O.I.)のソマリア行政区に編入され、ソマリアは「史上最大のソマリア領域」を手に入れたのであった。アジュラーン帝国の末裔で、イタリア当局に協力していた主要ソマリ人貴族のオロル・ディンレ(Olol Dinle)もこれを称賛した。

f:id:italianoluciano212:20190430024302p:plain

エリトリアにおける英軍による逆侵攻の地図。

年が明けると、1941年1月19日に英軍は占領地域の奪還を遂に本格的に開始し、イタリア軍が占領していたスーダンのカッサラーが陥落したエリトリアへの逆侵攻を開始した英軍は、1月31日にはアゴルダト、2月2日にはバレントゥを陥落させ、イタリア軍はケレンまで撤退することとなった。他方、南部方面ではイタリア軍は占領していたケニアから追い出され、2月初めには英軍はソマリアへの侵攻を開始。アフマドゥやキスマヨといった南部の主要都市が次々と制圧され、2月25日には遂にソマリア首都モガディシオが陥落する事態となった。英軍はソマリアでの伊軍掃討戦に移り、わずか数日で英領ソマリランドも奪還している。

東アフリカ戦線はもはや壊滅状態であった。伊軍第25植民地師団は帝都アディスアベバ東方のアワシュ渓谷地帯で防衛戦を繰り広げていたが、英軍の侵攻によって4月5日に力尽きた。これによって帝都への道が開かれ、伊軍司令部は帝都放棄を決定。翌日にはアディスアベバは英軍によって陥落したのである

帝都を脱出した東アフリカの伊軍総司令官アメデーオ公は、アンバ・アラジ山岳地帯のトセッリ城塞での防衛戦をおこなった。4月17日にはデシエが陥落。イタリア軍は軍需物資の欠乏に悩まされながら戦ったが、5月15日に統帥からの降伏許可の電文が届き、17日にアメデーオ公は英軍に降伏、東アフリカのイタリア軍主力は降伏した。

f:id:italianoluciano212:20190430023644j:plain

自由ベルギー軍のオーギュスト=エドゥアール・ジリアールト(Auguste-Édouard Gilliaert)陸軍少将と、ベルギー領コンゴ公安軍の兵士たち。ジリアールト将軍率いる自由ベルギー軍アフリカ軍団は、東アフリカ戦線に参加してガッツェラ将軍率いるジンマのイタリア軍を降伏に追い込んだ。

こうした結果、主力降伏後もいくつかの部隊が各地で籠城戦を繰り広げた。アメデーオ公の降伏によって、東アフリカ軍総司令官の役職を受け継いだガッツェラ将軍は4万人の兵を率いてエチオピア南部のジンマを拠点とした一方で、ナージ将軍はエチオピア北西部に位置する旧首都のゴンダールを拠点とすることとした。しかし、3か月に渡る籠城戦の末、6月21日にジンマは陥落。ガッツェラ将軍率いる残存部隊は西部に撤退していたが、オーギュスト=エドゥアール・ジリアールト(Auguste-Édouard Gilliaert)将軍率いる自由ベルギー軍部隊の追撃を受け、7月3日にガッツェラ将軍は降伏した

こうして、東アフリカ戦線で最後まで組織だった抵抗をしているイタリア軍部隊は、ゴンダールを拠点とするナージ将軍の部隊のみとなってしまった

 

ゴンダールでの最後の抵抗

f:id:italianoluciano212:20190430095216j:plain

ゴンダール戦における英軍の侵攻経路。

ガッツェラ将軍の降伏の後、ナージ将軍はその役職を引き継ぎ、最後の東アフリカ軍総司令官として就任した。更に、大将に昇進し、名誉職として上院議員の席も与えられている。こうして、ゴンダール周辺での最後の戦いは始まった

ナージ将軍配下の兵士は約4万人で、ゴンダールを最後の拠点として、エチオピア北西部のアムハラ地方にあるタナ湖北方の北西陣地に陣を構えた。ナージ将軍は、周囲を英軍に囲まれて支援物資も全く届かない状況において、物資が困窮する中で残された全てを利用するために努力した。食糧消費を管理して減らし、現地人との協力体制を築き、資材は全て余すところなく活用し、更にタナ湖の漁業区画を管理下において、効率的に食糧供給を行うことで、残されたもので最大限の活用を行った。特別航空補給コマンド(S.A.S.)による秘密空輸作戦によって、現地人から食料を買うための資金が届けられ、こうしてナージ将軍は現地人から食糧を奪い取るのではなく、合法的な手段で協力関係を結び、あくまで対等な交易関係として食糧を購入した

f:id:italianoluciano212:20190430005030j:plain

東アフリカ戦線のイタリア軍の即席装甲車両。東アフリカ戦線のイタリア軍は英軍によってスエズが封鎖されているために、本国からの海上輸送が出来ず、装甲車両が不足した。そのため、現地で即席でこういった装甲車両を作って戦力を補充した。

兵器に関しては、装甲車両が圧倒的に不足していたために、農業用トラクターを改造して即席の装甲車両を作り、戦力の増強に務めている航空戦力で稼働状態にあるものは、FIAT CR.42"ファルコ"戦闘機が2機、カプロニ Ca.133偵察爆撃機が1機、ゴンダールのアゾゾ空軍基地にあるのみであった。 

ナージ将軍の部隊には騎兵集団「アムハラ」の団長であるアメデオ・グイレット(Amedeo Guillet)大尉もいた。男爵家出身の騎兵将校グイレットは、エリトリア人やイエメン人から構成された騎兵集団「アムハラ」の指揮官として、数々の戦場で武勲を挙げ「悪魔の司令官」と呼ばれていた。アゴルダト撤退戦では騎兵突撃で歩兵部隊だけでなく、英軍のマチルダII歩兵戦車さえも数輌撃破して、味方の撤退の血路を開くと言う奇跡的な戦果を挙げている。

f:id:italianoluciano212:20190430092955j:plain

アメデオ・グイレット(Amedeo Guillet)大尉率いる騎兵集団「アムハラ」。左の人物がグイレット大尉。

ゴンダール北方に築かれたウォルケフィット要塞では、マリオ・ゴネッラ(Mario Gonella)中佐率いる二個黒シャツ大隊が最後まで抵抗した。一方はアンジェロ・サンテ・バスティアーニ(Angelo Sante Bastiani)曹長が、もう一方はエンリコ・カレンダ(Enrico Calenda)中尉が指揮した。今までイタリア軍側に協力していたエチオピア人貴族(ラス)の旧エチオピア帝国軍将軍アジャレウ・ブッル(Ajaleu Burrù)が連合軍側に寝返ったため、ウォルケフィット要塞は完全に英軍の包囲下に置かれた。5月10日、ゴネッラ中佐は英軍からの降伏勧告を拒否し、徹底抗戦する事を決定する

その後、ウォルケフィット要塞は英空軍の激しい空爆に襲われるが、6月22日のイタリア軍の反撃ではバスティアーニ曹長とカレンダ中尉の黒シャツ大隊が英軍拠点を陥落させ、制圧する事に成功している。英軍側に協力していたアジャレウ・ブッルは捕縛されたが、ナージ将軍は彼を殺さないように兵士らに命じた。バスティアーニはこれらの働きにより、イタリア軍最高位の金勲章を叙勲されている。

しかし、状況は再度厳しくなった。ウォルケフィット要塞は再度英軍の反撃を受け、2度目の降伏勧告を通告された。ゴネッラ中佐は再度拒否したが、チャールズ・クリストファー・フォークス(Charles Christopher Fowkes)少将率いる英軍部隊によってウォルケフィット要塞は完全に包囲される事態となり、8月25日の英空軍の激しい爆撃によって、カレンダ中尉も戦死してしまった。包囲下の中、駐屯軍は最後まで抵抗し、食糧が枯渇したゴネッラ中佐らウォルケフィット要塞守備隊は、9月28日に降伏した。英軍は彼らの勇気を称賛し、武装したままの降伏を許可している。

f:id:italianoluciano212:20190430090145j:plain

エリトリア人アスカリ兵を描いた絵ハガキ。東アフリカ戦線では、イタリア軍最高位の金勲章を叙勲したウナトゥ・エンディシャウ(Unatù Endisciau)伍長を始めとし、多くのエリトリア人・ソマリ人・エチオピア人・イエメン人の現地人兵(アスカリ)が活躍し、激戦の中で戦死した。

8月に入ると、アウグスト・ウゴリーニ(Augusto Ugolini)大佐率いる守備隊が守るクルクァルベール要塞に対する攻撃も開始された。ウゴリーニ大佐率いるクルクァルベール守備隊は、アルフレード・セッランティ(Alfredo Serranti)少佐率いるカラビニエリ部隊(イタリア人兵200名、現地人ザプティエー160名)、アルベルト・カッソーリ(Alberto Cassoli)少佐(老兵,Seniore)率いるMVSN(黒シャツ隊)部隊675名から構成されていた。アスカリ兵たちはエチオピアレジスタンスの拠点を襲撃して武器や弾薬を手に入れ、英軍はこれに対抗してクルクァルベール要塞への激しい爆撃を実行した。

英軍はクルクァルベール要塞への包囲を実行した。イタリア軍部隊は飢えと渇きに襲われ、苦しんだ。特に水の不足は深刻となっていた。しかし、イタリア軍部隊は最後まで抵抗した。デブレ・タボールの戦いでは、エリトリア人アスカリ兵のウナトゥ・エンディシャウ(Unatù Endisciau)伍長は英軍の降伏勧告を拒否し、致命傷を受けながらも英軍の陣地を突破して味方側を救うために情報を伝え、戦死した。彼はこの武勲から、イタリア軍最高位の金勲章を叙勲している。

f:id:italianoluciano212:20190430103813j:plain

クルクァルベール包囲戦でイタリア軍側が使った即席装甲車両。

残存イタリア空軍部隊のイルデブランド・マラヴォルタ(Ildebrando Malavolta)空軍少尉率いるCR.42戦闘機2機編隊は、約100機もの英空軍爆撃機部隊と、それを護衛する戦闘機部隊に対して絶望的な戦いを繰り広げたマラヴォルタ少尉のCR.42はこの状況で英空軍のウェルズレイ爆撃機グラディエーター戦闘機を数機撃墜するなど素晴らしい武勲を挙げたが、絶望的な戦力差は埋められず、10月24日にゴンダール航空戦にて3機の敵戦闘機の追撃を受けて撃墜、戦死した。こうして、東アフリカ帝国のイタリア空軍部隊は完全に壊滅したのである。

最終的に、11月21日までクルクァルベール要塞の抵抗は続き、激戦の中カラビニエリ隊司令官のセッランティ少佐と、MVSN部隊司令官のカッソーリ少佐は戦死し、生き残ったウゴリーニ大佐らは抵抗する術も失い、降伏した

クルクァルベール要塞の陥落によって、ゴンダールへの道は完全に開かれた。こうして、ナージ将軍率いるゴンダール守備隊は、11月中旬から最後の抵抗をすることとなった11月11日、英軍の第25アフリカ旅団及び第26アフリカ旅団はゴンダール市への攻撃を開始する。また、ゴンダール包囲戦にはエチオピア帝国皇太子(ハイレ・セラシエ1世の息子)のアスファ・ウォッセン・タファリ(Asfauossen Tafarì)率いる自由エチオピア帝国軍部隊も参加していた。アスファ・ウォッセン・タファリは後にアムハ・セラシエ(Amhà Selassié)として、後に名目上のエチオピア帝国最後の皇帝となった。

f:id:italianoluciano212:20190430103413j:plain

ナージ将軍が司令部としていたゴンダールのファシラデス城。17世紀にエチオピア皇帝ファシラデスが建造し、自らの宮殿に使っていた城。現在はユネスコ世界文化遺産に登録され、観光地として栄えている。

もう既にナージ将軍らイタリア軍部隊に抵抗する術はなく、武器・弾薬も使い果たしている状態であった11月27日、英軍の攻撃によって、抵抗を続けていたアゾゾ空軍基地が完全に陥落こうして、翌日11月28日、ナージ将軍が司令部を置いていたファシラデス城(エチオピア皇帝ファシラデスが建造し、王宮として使った城)を英軍は包囲その結果、最後まで抵抗したナージ将軍は現地民間人の被害を最小限に留めるために、英軍の降伏勧告を受け入れ、残っていた約2万2千人の将兵は降伏したのであった最終的に、二日後の11月30日に、最後まで抵抗していた残存部隊も降伏、完全に組織だったイタリア軍の抵抗は終わったのである

降伏したナージ将軍は東アフリカ帝国軍総司令官のアメデーオ公と共にケニアの捕虜収容所に送られた。1942年3月3日、アオスタ公が収容所内で病死すると、東アフリカのイタリア兵捕虜を束ねる存在となった。1943年の休戦後、バドリオ元帥率いる共同交戦軍に合流することを条件として解放され、帰国した。1947年のパリ講和条約の結果、ソマリアが新生イタリア共和国信託統治領として再度イタリアの管理下に置かれることとなった。これにより、英国との合意でナージ将軍はソマリアでの軍政長官に任命されたが、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエはこれに対して激しく非難し、その結果イタリア政府はこの決定を取り下げざるを得なかった。1971年9月21日、モデナにて92歳で死亡した

 

ナージ将軍については、イタリア人歴史家のアンジェロ・デル・ボカ(Angelo Del Boca)「王立イタリア陸軍最高の指揮官」と称している。デル・ボカは普段はイタリア軍の将軍たちの評価に結構辛辣であるが故に、ナージ将軍が優れた指揮能力を持っていたことがわかる。更には、占領地であったエチオピア側からもナージ将軍は高く評価された。ゴンダール生まれのエチオピア人歴史研究家ソロモン・アディス・ゲタフーン(Solomon Addis Getahun)は、デル・ボカのナージ将軍に対する評価を支持し、ゴンダール包囲戦におけるナージ将軍の民間人に対する行動と態度は素晴らしいものであったと評価した

東アフリカ戦線序盤では、フランス軍との小規模衝突から始まり、巧みな指揮でソマリランド制圧を達成、そして、東アフリカ戦線崩壊後も最後までゴンダール周辺での徹底抗戦を指揮し、現地人との協力体制などを駆使して限られた資材や装備のみで効率的に抵抗、英軍側を苦しめた。この手腕は、やはり高く評価出来る。間違いなく、第二次世界大戦イタリア軍の将軍らでは、トップクラスの名将と言えるだろう

 

◆主要参考文献

B.Palmiro Boschesi著, L'ITALIA NELLA II GUERRA MONDIALE, Mondadori, 1975

Gastone Breccia著, Nei secoli fedele, Le battaglie dei carabinieri (1814-2014), Mondadori, 2014

Indro Montanelli著, L'Italia delle grandi guerre, BUR Biblioteca Univ. Rizzoli, 2015

Angelo Del Boca著, Gli italiani in Africa orientale:2, Mondadori, 1999

Pietro Maravigna著, Come Abbiamo Perduto la Guerra in Africa, 1948

吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939~1945 ―第二次大戦を駆け抜けたローマ帝国の末裔たち―』イカロス出版・2006

吉川和篤著『Benvenuti!知られざるイタリア将兵録【上巻】』イカロス出版・2018

石田憲著『ファシストの戦争 ―世界史的文脈で読むエチオピア戦争—』千倉書房・2011

熱砂の将軍、エットレ・バスティコ元帥 ―灼熱の北アフリカ戦線で戦った戦術家の生涯―

本来は前回の続きで人名由来の潜水艦名を調べた方が良いと思うが、今回はちょっとお休みで久々に陸軍関係について書いてみようと思う。空軍軍人については結構紹介したが、陸軍軍人については全然紹介していなかったので。

今回紹介するイタリア軍人は、北アフリカ戦線の指揮を執ったことで知られる、エットレ・バスティコ(Ettore Bastico)元帥だ。個人的な話だが、イタリア軍の陸軍将軍の中では一番好きな人物である(イタリア軍の将軍関係で一番最初に買った本が彼の本だと言うのも大きい)。実は、私が初めてのイタリア旅行の時にボローニャに行ったのも、ボローニャが彼の出身地だったことが理由だ。

だが、バスティコ元帥は基本的に評価はあまり高いとは言えない。理由としては、北アフリカ戦線での指揮において、イタリア軍北アフリカ戦線の主力であるにもかかわらず、派遣されたドイツアフリカ軍団のロンメル元帥に事実上主導権を奪われ、ロンメルの名声が高まるにつれて、「派遣軍に頼り切り」に見える状況となってしまったためだ。また、ムッソリーニ統帥とバスティコ元帥は親しかったと言われ、それ故に「コネと幸運で元帥に昇進した」と考えられることが多いのも理由の一つと言えるだろう。

f:id:italianoluciano212:20190426231035j:plain

エットレ・バスティコ(Ettore Bastico)元帥

しかし、バスティコ元帥自身がどのような人物で、どういった経歴を歩んでいったかは一般的にあまり知られていない。"北アフリカの三将軍"(ロンメル、モントゴメリー、バスティコ)であるにもかかわらず、だ。これはイタリア映画の北アフリカ戦線モノを見ても、ロンメルがメインでバスティコはあくまでサブ、という立ち位置であることからも、イタリア本国でもあまり評価が高いとは言いにくい。言ってしまえば「地味」なのだ。完全に「ロンメルの陰に隠れた存在」である。とはいえ、バスティコがいかなる人物であったか?そもそも北アフリカ戦以外ではどのような行動をしていたのか?そもそも本当に上記のような評価は妥当なのか?それらに関しては知られていない

評価が高くない人物は、あまり注目されない。だが、だからこそ調べがいがあるというものだ。更に近年、ロンメルの再評価も行われ「ロンメル=名将」というイメージも崩れつつある(日本ではいまだに従来のイメージが強いが)。では、バスティコの再評価もしてみるのも良いだろう。私程度では再評価などは烏滸がましいため、今回はこの愛すべき陸軍元帥について、彼が歩んだ人生を改めて調べる事で、彼がいかなる人物であったか、その本質について迫ってみようと思う

なお、バスティコ将軍の第二次世界大戦時の立場をここにわかりやすく書いておくと、ローマ陸軍省勤務(1940.6-12)→エーゲ海諸島総督(1940.12-1941.7)→リビア総督(1941.7→1943.2)である。

 

◆「赤き街」に生まれた未来の元帥

f:id:italianoluciano212:20190426232003j:plain

1876年4月9日、エットレ・バスティコは「赤き街」ボローニャで、父アキッレ・バスティコ(Achille Bastico)と母マティルデ・ロイセッコ(Matilde Roisecco)の間に生まれた。彼が生まれた2年後の1878年、「統一の王」であった国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(Vittorio Emanuele II)崩御し、新たな国王であるウンベルト1世(Umberto I)が即位している。

彼の出身地ボローニャエミリア・ロマーニャ州の州都で、世界最古の大学の一つである、ボローニャ大学がある「大学都市」として広く知られている。また、エミリアロマーニャ一帯は「美食の地」として知られ、イタリアを代表する食糧生産地だった。代表的な町を挙げると、バルサミコ酢の生産で知られるモデナや、パルミジャーノ・レッジャーノやプロシュット・ディ・パルマ(所謂パルマハム)の生産地パルマがある。ボローニャは肉の集積地で、それ故に肉料理が有名である代表的なものは、やはりボロネーゼ(ボロニェーゼ)ソースだろう。日本でも親しまれている、ミートソースの母体となったソースだ。

f:id:italianoluciano212:20190427001409j:plain

バスティコの出身地、ボローニャ。「斜塔」というとピサが有名だが、この町のシンボルも「斜塔」である。

それに加え、ボローニャは「赤い街」として知られていた。これは、屋根が赤で統一されているためであったが、また「赤」を象徴とする左派運動が盛んな町でもあったためであるダブルミーニングだ。ボローニャで生まれ育ったバスティコ少年は、18歳の頃にモデナの陸軍士官学校に入って軍隊としてのキャリアを開始する。1896年10月、20歳の彼はモデナ士官学校を卒業し、第30ベルサリエリ連隊の少尉として配属された。1899年には中尉に昇進、1902年から1905年まではトリノの陸軍学校で訓練を受け、1906年にはフィレンツェ駐屯の第7軍団司令部、年内にクーネオ師団司令部に移り、1908年から1910年までは陸軍省で務めた。陸軍省時代の1909年に大尉に昇進している。

1910年から1913年まで首都ローマ駐屯の第二ベルサリエリ連隊の指揮を任せられ、この間に発生した伊土戦争(イタリア軍が世界で初めて戦争に航空機を投入した戦争である)にも派遣された。目立った活躍はしていないが、これにより伊土戦争従軍章を叙勲された。1913年の春にはオスマン帝国から獲得したばかりのリビアに飛行船での視察に同行している。その後、陸軍省勤務に戻ったが、1915年1月に発生したアヴェッツァーノ地震の救援に派遣され、そこでの迅速な対応とその功績が評価されたことで銅勲章を叙勲された

f:id:italianoluciano212:20190427001320j:plain

トレントを攻略したイタリア兵たち。

第一次世界大戦にイタリアが参戦すると、バスティコ少佐は参謀本部付きの士官として順調に昇進していく。1917年2月には中佐、8月には大佐に昇進。第50歩兵師団、第25歩兵師団、第28歩兵師団、第32歩兵師団の参謀長を歴任し、イタリア軍の勝利に貢献している。後に第二次世界大戦時の北アフリカ戦線で共闘するロンメルはイタリア戦線で山岳部隊を指揮しているが、この時両者は敵同士だった(これは後にロンメルも発言している)。ロンメルも優れた戦術家として知られているが、バスティコも負けじと奮戦した。勉強熱心なバスティコは過去の事例から独自に戦術や兵法を研究・分析し、自らの指揮に役立てた。この軍功によって、大戦を通じて銀勲章、銅勲章、戦功十字章を叙勲され、フランス軍からもクロワ・ド・ゲール勲章を叙勲された。後にイタリア統一記念勲章、戦勝勲章、伊墺戦争記念勲章も叙勲されている。間違いなく、バスティコは第一次世界大戦で英雄の一人だった

 

◆訪れた戦間期、戦術研究家としての活躍

f:id:italianoluciano212:20190427004309j:plain

バスティコ将軍の処女作、『兵法の発展(L'Evoluzione dell'Arte della Guerra)』。何度か重版されたため、表紙が変わっている。左から第一巻「過去の戦争」、第二巻「20世紀の戦争」、第三巻「未来の戦争」。

1918年に第一次世界大戦終結し、ひとまずイタリアに平和が訪れた。1919年からリヴォルノの海軍士官学校で兵法と軍事史について教鞭をとっているバスティコは第二次世界大戦後に軍事史家として活動したことが知られているが、この頃から軍事関係の執筆家として活動している軍の再編について積極的に議論を交わし、1924年には全三部冊で『兵法の発展(L'Evoluzione dell'Arte della Guerra)』という本を出版している。これは、第一部では古代の時代から始まる「過去の戦争」について、第二部では自らが体験した伊土戦争と第一次世界大戦を含む「20世紀の戦争」、第三部ではこれからを予想した「未来の戦争」と分かれており、それぞれの時代の戦術や兵法について分析されている。「未来の戦争」ではこれから発展するであろう新兵器の戦車の運用も指摘されており、彼が先進的な戦術家であったことがわかるだろう

f:id:italianoluciano212:20190427015940j:plain

ファシスト政権を成立させた統帥(ドゥーチェ)、ベニート・ムッソリーニ。バスティコは後にムッソリーニと個人的な交友関係を持ち親しくなる。

バスティコは第一次世界大戦で軍功を挙げたことからも、優れた戦術家として考えられていた。1940年までは、彼の論文の要約が陸軍士官学校の試験準備対策の推奨テキストとされており、軍事思想研究家としての多くの功績を残した。後に東部戦線での優れた指揮で戦果を挙げることとなるイタロ・ガリボルディ(Italo Gariboldi)将軍も、バスティコの講義を直接受けた人物の一人だった。なお、彼がリヴォルノで教鞭をとっている間、1922年10月にベニート・ムッソリーニ率いる国家ファシスト党がローマ進軍を実行し、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世ムッソリーニに組閣を命令、ムッソリーニ率いるファシスト政権(当時はまだファシスト独裁体制ではなかったが)が誕生している。バスティコの上官であり、第一次世界大戦の最大の英雄だったアルマンド・ディアズ(Armando Diaz)将軍も、ムッソリーニ内閣の国防大臣として入閣している。バスティコ自身もイタリアの国力を高めようとするムッソリーニを支持した。

1923年にはスプマンテ(スパークリングワイン)の生産で有名なアスティの町に駐屯する第9ベルサリエリ連隊の指揮を任せられ、これを1927年まで務めた後、ローマに戻って陸軍広報誌の編集長と中央体育学校の校長を1929年まで務めた。この時、1928年に陸軍准将に昇進した。こうして将軍となったバスティコは、1929年にゴリツィアに駐屯する第14歩兵旅団の旅団長に任命されている。1932年には陸軍少将に昇進、ウーディネに駐屯する快速師団「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」の師団長を務めた。翌年には、故郷ボローニャに駐屯する第16歩兵師団の師団長を務める。

 

エチオピア戦争での武功

f:id:italianoluciano212:20190427011335j:plain

エチオピア戦争で指揮をするバスティコ将軍。

1935年にエチオピア帝国との戦争(エチオピア戦争)が勃発すると、新たに編成された第一黒シャツ師団「3月23日」の師団長に任命された。この師団はMVSN(黒シャツ隊を前進としたファシスト党の党兵で、陸軍・海軍・空軍・カラビニエリと共にイタリア軍を構成する「第五の軍」だった)の師団で、師団名の3月23日とは、ファシスト党の前進となったイタリア戦闘者ファッシの結成日である。

f:id:italianoluciano212:20190427015403j:plain

中央の人物がエミーリオ・デ・ボーノ(Emilio De Bono)元帥。ファシスト党終身最高幹部「クァドルンヴィリ(ファシスト四天王)」の一人で、陸軍の老元帥。軍人としては古い固定観念を持つ守旧派で、イタリア軍の近代化の障害となった。左の人物は、イタリア軍側に降伏し、協力者となったエチオピア帝国軍の将軍ハイレ・セラシエ・ググサ。エチオピア皇室の一員で、皇帝ヨハンネス4世の曽孫に当たり、ハイレ・セラシエ帝の義理の息子(ゼネヴェウォルク皇女の婿)。

8月にエリトリアに派遣されたバスティコと「3月23日」師団であったが、エチオピア遠征軍司令官であるエミーリオ・デ・ボーノ(Emilio De Bono)元帥は旧来の植民地戦争の戦法で進めていたため、戦線に進展が無かった。当時、イタリアはエチオピアへの侵略行為が国際連盟で批判され、経済制裁を受けることとなった。このような状態でデ・ボーノの慎重な植民地戦略は不利なため、ムッソリーニはデ・ボーノを解任し、新たな司令官としてピエトロ・バドリオ(Pietro Badoglio)元帥を指名した。バドリオ元帥は植民地戦争で名を挙げた策士で、1925年以来から参謀総長を務める、軍部の重鎮中の重鎮であった。そして、新司令官バドリオは、新たに編成されたエチオピア遠征軍の第三軍の指揮をバスティコに任せたのである。

f:id:italianoluciano212:20190427015023j:plain

第二次テンビエン会戦時のイタリア軍部隊。

司令官の交代によって、エチオピア戦争の戦局は動き始めた。バスティコ率いる第三軍は戦場で多くの戦果を挙げていった有名なものは、アンバ・アラダムの戦い(エンデルタの戦い)と、第二次テンビエン会戦において、勝利に決定的な貢献をした戦果である。特に第二次テンビエン会戦では、ラス・カッサ(Ras Cassa Darghiè)将軍率いるエチオピア帝国軍を包囲し、帝国軍部隊を壊滅させてエチオピア側に大きな打撃を与えて勝利に導いた。これらの戦功はバドリオによって高く評価され、帰国後中将に昇進し、サヴォイア軍事勲章、イタリア王冠勲章、イタリア植民地星勲章を叙勲されている。

エチオピア戦争末期はインフラ整備や物資の輸送を指揮した。このエチオピア戦争での経験から、1937年には『頑強な東アフリカの第三軍(Il Ferreo Iii Corpo In A.O.)』という著書を出版している。いくつかの失敗した仮説も含まれていたが、エチオピア戦争に投入された戦車の運用法を含む戦術など、バスティコの指摘は興味深い点が多い。

 

◆CTV部隊とサンタンデールの戦勝

f:id:italianoluciano212:20190427030702j:plain

マリオ・ロアッタ(Mario Roatta)将軍。SIM(陸軍諜報部)長官として、各国への工作や諜報活動など情報戦を指揮したことで知られている。ロッセッリ兄弟暗殺やウスタシャへの支援などで暗躍した。しかし、野戦指揮官としての能力は低く、CTV部隊の指揮官としてスペインに派遣されたが、グアダラハラで大敗を喫する。第二次世界大戦ではグラツィアーニ元帥の後任として陸軍参謀長を務めた他、ユーゴスラヴィア戦線でウスタシャを支援する一方で、チェトニックとも独自の協力関係を結ぶなど暗躍した。

エチオピア戦争が終結し、イタリアに帰国したバスティコであったが、すぐに間もなくスペイン内戦が勃発する。これに対して、イタリア政府はフランシスコ・フランコ将軍率いる国粋派を支援することを決定し、義勇軍「CTV(Corpo Truppe Volontarie)」の派遣を決定する。このCTV部隊の司令官として、SIM(陸軍諜報部)長官のマリオ・ロアッタ(Mario Roatta)将軍が任命された。

しかし、ロアッタ将軍は情報戦における指揮官としては優秀だったが、野戦指揮官としての経験は殆ど無かったため、1937年3月のグアダラハラの戦いでCTV部隊は大敗してしまった。しかも、ファシスト政権に都合が悪かったのは、この戦いにおいてスペイン共和国側の勝利を演出したのは、国際旅団のイタリア人義勇兵部隊「ガリバルディ大隊」だったからである。つまりは、「反ファシストのイタリア人が、ファシストのイタリア人に勝った」と宣伝材料になってしまった。

f:id:italianoluciano212:20190427031243j:plain

フランコ将軍に勲章を与えられるCTV部隊のイタリア兵士。

この大敗を受けて、ロアッタ将軍はCTV部隊の指揮官から解任され、新たな指揮官として白羽の矢が立ったのが、バスティコ中将だったバスティコは速やかにグアダラハラの大敗で大きな打撃を受けたCTV部隊の再編制を行い、立て直しを図ったここでの手腕は高く評価され、バスティコのもとで上手く立て直したCTV部隊は国粋派の勝利に貢献していき、一度は地に落ちたフランコ側のイタリア軍への信頼も、ビルバオ攻略戦などにおける戦果によって再び取り戻していったのである

特に、バスティコのスペイン内戦における戦果で輝かしいものは、同年8月~9月に起こったサンタンデールの戦いだバスティコ率いるCTV部隊はこのサンタンデールでの戦勝に決定的な役割を果たしたこのサンタンデールの勝利は共和国側に大きな打撃を与え、国粋派の勝利に大きく貢献することとなったのである。スペイン側から高く評価され、フランコもこの武功からバスティコに戦功十字章を叙勲した。

しかし、サンタンデールでの勝利の後、バスティコはフランコ将軍と意見を対立させたため、この勝利を演出した後、後任のマリオ・ベルティ(Mario Berti)将軍に任せ、イタリアに帰国している。帰国後、スペインでの武功から、聖マウリツィオ・ラッツァロ勲章、二度目の植民地星勲章、二度目のサヴォイア軍功勲章、サヴォイア軍功大勲章を叙勲されたのであった。

f:id:italianoluciano212:20190427031344j:plain

1937年11月には陸軍大将に昇進。これは事実上陸軍最高位の階級だった(元帥は特別な理由が無い限りは昇進が不可能なため)。バスティコは陸軍師団の機械化を任せられた。1938年5月から同年11月まで第二軍、1938年11月から1940年5月までは再編成された第六軍を指揮している。この第六軍はヴェローナに本部を置く軍で、元々は第一次世界大戦時に編成された軍だったが、戦争に備えてバスティコ大将によって再編成された。当時イタリア軍の中では最も近代化された装備で知られており、「ポー軍」の通称で呼ばれた。なお、1939年5月にはある種の名誉職であった上院議員にもなっている。この時点で既に、ムッソリーニ統帥の「お気に入り」の将軍だったことは間違いない

 

第二次世界大戦の開戦とエーゲ海総督

f:id:italianoluciano212:20190427034835j:plain

チェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキ(Cesare Maria De Vecchi)。ファシスト党終身最高幹部「クァドルンヴィリ(ファシスト四天王)」の一人。ソマリア総督、国民教育相、エーゲ海総督などを歴任。バスティコの前任のエーゲ海総督で、エーゲ海諸島の急進的なイタリア化を行ったほか、対ギリシャ工作やイタリア・ファシズム様式の建築を指揮した。対ギリシャ宣戦を熱烈に支持したが、ギリシャ戦での一連の失敗によって自ら総督を辞職した。

1940年6月、イタリアは英仏に宣戦布告し、ドイツ側で第二次世界大戦に参戦した。戦争の勃発後、バスティコ大将は第六軍の指揮を離れ、ローマの陸軍省勤務となった。しかし、バスティアーノ・ヴィスコンティ・プラスカ(Sebastiano Visconti Prasca)将軍率いるイタリア軍部隊がギリシャ侵攻に失敗してしまったため、対ギリシャ工作を指揮し、ギリシャ侵攻の熱烈な賛成者であったエーゲ海総督チェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキ(Cesare Maria De Vecchi)が、自らの行動を後悔し、エーゲ海総督の辞職をムッソリーニに申し出た。これを受け、1940年12月、バスティコは後任のエーゲ海総督に任命され、イタリア領エーゲ海諸島(現ギリシャ領ドデカネス諸島)の中心地ロードス島(イタリア語ではローディ)に向かった。

f:id:italianoluciano212:20190427034635j:plain

カステルリゾ島での海軍による反撃を指揮したルイージ・ビアンケーリ(Luigi Biancheri)提督。速やかな反撃によって英軍の上陸作戦を失敗させ、同島を奪還する事に成功した。

エーゲ海総督としてのバスティコの主な仕事は、エーゲ海に浮かぶ大小12の島々を英軍やギリシャ軍から防衛する事だった。1941年2月、英海軍上陸部隊が密かにこの1つであるカステルロッソ島(現ギリシャ領カステルリゾ島)に上陸し、占領下に置いた(アブステンション作戦)。しかし、バスティコは速やかにこれに対応し、イタリア軍守備隊の激しい反撃と陸海空軍による迅速な対応によって英軍を撃退し、防衛に成功している。その後もエーゲ海諸島での沿岸防衛を強化し、休戦まで敵軍の上陸を許さなかった。

また、エーゲ海諸島は重要な空軍基地としても使われた。エットレ・ムーティ(Ettore Muti)中佐爆撃機部隊が中東の英軍石油基地爆撃の基地として使ったことは有名である(特に知られているのはバーレーンマナーマ油田及びサウジアラビア・ダーラン油田爆撃)。この爆撃機部隊はエーゲ海諸島の基地から頻繁に中東に向かい、テルアビブやハイファなどのパレスチナ諸都市を爆撃した。特に、ハイファは英軍の石油精製所が置かれたため重点的に爆撃が実行されている。それ以外には、カルロ・エマヌエーレ・ブスカーリア(Carlo Emanuele Buscaglia)大尉率いる雷撃機部隊がエーゲ海や東地中海で多くの敵艦を撃沈し、戦闘機部隊はイラク空軍支援も行っている。

f:id:italianoluciano212:20190427033856j:plain

ギリシャ侵攻の結果、新たに占領下に置いたキクラデス諸島のシロス島(伊語ではシロ島)に訪れたエーゲ海総督時代のバスティコ大将。

エーゲ海諸島の統治は、前総督のチェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキが頑迷なファシストであったため(そもそもデ・ヴェッキはファシスト党終身最高幹部「クァドルンヴィリ」の一人である大幹部であった)、急進的なイタリア化統治が行われていた。1941年4月のギリシャ完全制圧までに、イタリア軍はキクラデス諸島を始めとするエーゲ海に浮かぶギリシャ領の島々を征服していたため、それらもこの「イタリア領エーゲ海諸島」に組み込まれた。バスティコも征服地となったギリシャの島々に総督として視察をしている。しかし、結局短期間の統治で終わり、イタリアは第二次世界大戦で負けたために、全てのエーゲ海諸島がギリシャに割譲されている。

 

北アフリカへの派遣、ロンメルとの邂逅

f:id:italianoluciano212:20190427103428j:plain

左の人物がガストーネ・ガンバラ(Gastone Gambara)将軍。北アフリカ戦線でガリボルディ将軍、そしてその後任のバスティコ将軍のもとで幕僚を務めた。スペイン内戦終盤にCTV部隊の司令官を務め、共和派との最終決戦で活躍。休戦後はイタリア社会共和国(RSI政権)に合流した将軍の一人で、RSI軍の統合参謀総長に任命された。

バスティコのエーゲ海総督時代も、1941年7月に終わりを告げる。理由は、イタロ・ガリボルディ(Italo Gariboldi)将軍の後任のリビア総督として、北アフリカ戦線に派遣されることとなったからだ。ガリボルディ将軍は派遣されたドイツアフリカ軍団のロンメル側の独断専行的な姿勢から、初対面の時から双方の作戦に食い違いを感じ、対立していた。しかし、ガリボルディはロンメルがその強行策によって戦果を挙げていったことから、ロンメルの意向に沿って作戦を進めるべきだと考えるようになった。

このため、ガリボルディの幕僚であったガストーネ・ガンバラ(Gastone Gambara)将軍は、ガリボルディ将軍の低めの姿勢を批判し、立場上ガリボルディ将軍が北アフリカの枢軸軍の総司令官なのであって、ロンメルは支援軍の指揮官に過ぎないのであるからとして、相応の実権を行使すべきであると主張した。ガンバラ将軍はロンメルと特に仲が悪いイタリア側の将軍だった。これをロアッタ陸軍参謀長は問題視し、北アフリカ戦線の立て直しで多くの貢献をしたガリボルディ将軍を評価しつつも、リビア総督の職を解き、新たにバスティコ将軍を任命したのであった。

f:id:italianoluciano212:20190427111948j:plain

ロンメル将軍とバスティコ将軍。着色カラー写真。

バスティコ将軍は1941年7月19日にリビア総督に任命されると、すぐに北アフリカの現地を視察し、イタリア軍司令部やロンメルと会見した後、7月26日に一時帰国して、ローマで統合参謀総長ウーゴ・カヴァッレーロ(Ugo Cavallero)大将に現地の状況を視察した。この際、バスティコは北アフリカ戦線の現状は防衛には問題ないが、イタリア軍はあらゆる面で困窮し、攻撃力が劣っていると指摘。そして、環境の劣悪さもあるが、支援軍であるドイツ軍に比べ食糧は当然のこと、全ての物資について貧弱な状態に置かれているため、このような状態に陥っていると分析した。こうして、リビアへの輸送強化を訴えた。これはゆくゆくのマルタ攻略を前提に考えていた。

北アフリカ戦線はこれ以降、「振り子戦争」の様相となっていった。英軍の反撃に対して、イタリア軍側はバスティコの派遣と共に北アフリカに派遣された「ファシスト青年(ジョーヴァニ・ファシスティ)」大隊集団が少ない装備でありながら、奮戦し連合軍の進軍を食い止めた。「ファシスト青年」大隊集団はMVSNから編制された部隊で、ファシスト党の青年組織であるリットーリオ青少年団から志願した若き兵たちによって構成されていた。この部隊はバスティコの幕僚であるガンバラ将軍の指揮する機動装甲戦闘団に編入され、前線部隊として戦うこととなった。

f:id:italianoluciano212:20190427105438j:plain

イタリア軍屈指の精鋭であった戦車師団「アリエテ」を率いた名将、マリオ・バロッタ(Mario Balotta)将軍。1941年7月以降、エットレ・バルダッサッレ(Ettore Baldassarre)将軍から「アリエテ」師団の指揮を引き継ぎ、革新的な戦略で英軍側を苦しめた。1942年1月にはジュゼッペ・デ・ステファニス(Giuseppe De Stefanis)将軍に職を譲り、東部戦線に派遣された。

11月18日、オーキンレック将軍率いる英軍は「クルセーダー」作戦を発動し、反撃を開始した。イタリア軍側はこれに対してマリオ・バロッタ(Mario Balotta)将軍率いる戦車師団「アリエテ」がビル・エル・ゴビで迎撃し、40輌以上のクルセーダー巡航戦車を撃破、多くの捕虜を得た。そして、歩兵師団「パヴィア」とドイツ師団の防衛によって英軍側の進軍は食い止められたように思えた。

しかし、バスティコ将軍が指摘していたように、イタリア軍側は全ての物資が不足しており、弾薬と燃料が底をつく事態となった。英海空軍の活発化によって、地中海の海上輸送が困難になっており、多くの輸送船が撃沈されていた。そこで、イタリア海軍は巡洋艦による高速輸送を実行したが、英海軍側の襲撃を受け多くが撃沈されるなど、不利な状況に立たされていた。空軍の輸送部隊による迅速な補給も行われたが、輸送する重量などに制限もあり、最重要の物資しか補給が難しく、量も少なかった。

f:id:italianoluciano212:20190427111523j:plain

ビル・エル・ゴビ防衛戦で活躍した「ファシスト青年」大隊集団。少ない装備ながら奮戦し、英軍側に大損害を与えた。

こうして、伊独軍はトブルク包囲を解き、撤退を命じた。この時に活躍したのが先ほどの「ファシスト青年」大隊集団であった。同大隊集団は1941年12月3日から7にかけてビル・エル・ゴビで守備に就き、高地に陣を張り、捨て身の防衛を行った。味方側の稼働戦車はM13/40中戦車が1輌あるのみで、装備としては対戦車砲が14門、対戦車ライフル12門、迫撃砲8門があるのみであった。

これを火炎瓶や地雷でカバーしながら「ファシスト青年」大隊集団は果敢に戦い、ヴァレンタイン歩兵戦車など12輌の戦車を含む車輛50輌を撃破するという活躍を見せている。追撃する英軍インド第11旅団は戦死者約200名、負傷者約300名、捕虜71名という大損害を出して撤退した。一方で「ファシスト青年」側の損害も大きく、戦死者52名、負傷者117名、行方不明者31名であった。かれらの奮戦はロンメルも高く評価しており、「彼らはよく戦ってくれた。戦勝の暁にはベルリンで会おう!」と述べている

f:id:italianoluciano212:20190427131952j:plain

現地のリビア人たちと話すバスティコ将軍。

こうした部隊による奮戦もあったが、やはり全体としての劣勢はどうしようものかった。結果的に枢軸軍は再び撤退することとなったのである1942年に入るとロンメル将軍は反撃を決定し、バスティコ将軍もそれに合意した。こうして、イタリア第20自動車化軍団とドイツ軍部隊がマルサ・アル・ブレガを目標として突撃し、前進していた英軍をアジダビアへ退却させることに成功したのである。ロンメルはバスティコにこれ以上進撃しないことを打ち合わせていたが、ロンメルは勢いに乗って更に進撃し、1月22日のアジダビア攻略後、ベンガジ南方のアンテラトとサウンヌへの侵攻を迫った

 

◆熱砂の戦場での激闘

f:id:italianoluciano212:20190427113947j:plain

左から、ドイツアフリカ軍団のロンメル将軍、ガンバラ将軍の後任の幕僚クリオ・バルゼッティ・ディ・プルン(Curio Barbasetti di Prun)将軍、カヴァッレーロ参謀総長リビア総督及び北アフリカ枢軸軍総司令官バスティコ将軍。

これに対してバスティコ将軍は、今まで退却を余儀なくされてきた枢軸軍は未だに立ち直っておらず、このような無鉄砲な進撃は部隊に混乱を引き起こすと批判し、そもそも広範囲に渡って攻撃できるほどの軍需物資を枢軸軍側は備えていないし、遠方に攻略目標を置くことは不利な現状を更に悪化させると指摘した。これを受け、幕僚のガンバラ将軍がローマに打電し、カヴァッレーロ参謀総長の介入を求めた。

カヴァッレーロ参謀総長ムッソリーニから厳命を受けて直ちにリビアに飛び、ロンメルに会った後にバスティコ将軍に対してベンガジ奪還を命じ、同時に港湾の修復工事を進めてアジダビアに軍の主力を集中させることを伝えた。結局、これを受けてもロンメルの進撃は止まらず、バスティコ率いるイタリア軍側も第20軍団を進軍させて1月29日にはベンガジを奪還したのであった。

しかし、ベンガジ占領前日にロンメルとガンバラの間で激しい対立が起こった。これはロンメルが山岳の高台にイタリア歩兵部隊の増強を主張したのに対して、ガンバラが激しく反対したためであるが、これに対してロンメルは、自らの作戦に度々難癖をつけてくるガンバラ将軍に対して憤慨し、アフリカ軍団の指揮を放棄するとまで言い出したため、バスティコ将軍がこれを両者を仲介して、ロンメルの怒りをなんとか鎮め、ロンメルの作戦に同意した。こういったこともあり、後にガンバラ将軍は解任され、後任の幕僚にはクリオ・バルゼッティ・ディ・プルン(Curio Barbasetti di Prun)将軍が派遣されることとなったのである。

f:id:italianoluciano212:20190427120759j:plain

降伏した英軍側の捕虜たち。

戦局は枢軸側に有利になっていった。5月26日、枢軸軍は攻撃を開始し、アイネル・ガザラの戦いが開始された。ジュゼッペ・デ・ステファニス(Giuseppe De Stefanis)将軍率いる「アリエテ」戦車師団を先頭に、進軍を開始した。「アリエテ」師団は再度英軍側を圧倒した。しかし、ビル・アケムでマリー・ピエール・ケーニグ(Marie-Pierre Kœnig)将軍率いる自由フランス軍が奮戦し、足止めを食らうこととなった(ビル・アケムの戦い)。とはいえ、バスティコ将軍とロンメル将軍が率いる枢軸軍は多くの戦果を挙げていき、連合軍側の捕虜は3000人に上った。これはイタリア・ドイツ両軍の機甲師団による戦果であった。そしてついに、6月21日にトブルクが攻略され、英軍側のトブルク防衛司令官であるコップラー将軍が降伏文書に署名、トブルクの将兵2万5千人が捕虜となったのであった。

f:id:italianoluciano212:20190427121831p:plain

映画『砂漠の戦場 エル・アラメン(La battaglia di El Alamein)』のワンシーン。左がバスティコ将軍で、右がロンメル将軍。ロンメル将軍が進撃を主張するのに対して、バスティコ将軍は海上輸送が困難になっていることと、ドイツ側が燃料補給の約束を反故としていることを指摘し、それによって物資が困窮していると主張している。映画でも両者の対立は描かれた。

ロンメル将軍はこのまま勢いに乗ってエジプト攻略を実行しようとしたが、バスティコ将軍はカヴァッレーロ参謀総長の意向を受けてマルタ島攻略の重要性を主張し、エジプト攻略でマルタ島上陸のための物資を使い果たしてしまうことを恐れた。こういった両者の意見対立から、ロンメルはバスティコを裏で「爆弾(Bomba)」にちなんだ「Bombastico(ボンバスティコ)」と呼び、嫌っていたバスティコ自身も、ロンメルの無鉄砲な作戦に付き合わされ、参謀本部側との板挟みになっていたために、ロンメルとの仲が更に険悪になっていった

 

◆元帥への昇進、そして事実上の司令官解任

f:id:italianoluciano212:20190427233243j:plain

1942年8月11日、バスティコ大将は元帥に昇進した。こうして、11人目のイタリア王国陸軍元帥となったのである。バスティコの元帥の理由については、キレナイカ及びエジプト領内での戦闘において、ムッソリーニ統帥の訓令を忠実に守りつつ、ロンメル元帥との緊密な作戦を行い、指揮官として優れた手腕を発揮したためと発表された。更には、バスティコの昇進は枢軸軍に勝利をもたらすシンボルとされ、灼熱のアフリカ戦線で頑強な体力と比類ない自己犠牲的精神、そして卓越した戦術をもって奮戦する枢軸軍将兵の殊勲に報いた者であるとされた。

ただ、実際のところはあくまで派遣支援軍司令官の立場であるロンメルが元帥に昇進したために、立場上ロンメルがバスティコの指揮下に置かれている状況を考えると、「大将が元帥を指揮する」ということにならないための処置だったと言われている。

この元帥の昇進以降、枢軸側の最高指揮系統が変更されたバスティコ元帥が総司令官を務める北アフリカ総司令部はリビア総司令部となり、リビアの軍事のみを管轄することとなったのであるつまりは、バスティコは事実上、北アフリカの枢軸軍総司令官から退き、完全にリビア総督としての役割のみを果たすようになったのである。一方で、ロンメル元帥指揮下のドイツ・イタリア機甲軍はドイツ最高司令部に直属する事となり、ロンメルは今まで要求していた実戦の分野での自由を確保することとなった。

ディ・プルン将軍が管轄するイタリア最高司令部の北アフリカ代表部は、実戦以外のすべての問題を管轄することとなり、またカヴァッレーロ参謀総長北アフリカ代表部を通じて、全般的作戦を統括する任務を帯びたのである。

こうして、エジプトに進撃を行うイタリア・ドイツ軍の総指揮はロンメルがとることとなったのであったつまりは、その後起こったエル・アラメインの激戦はバスティコは形式上はイタリア軍の総指揮をとる立場であったが、事実上彼の与り知らぬところで行われていたのであるつまり、バスティコは「エル・アラメインの司令官」ではなかったのだ。それどころか、形式上の司令官という立場に落ちぶれてしまった

f:id:italianoluciano212:20190427234000j:plain

バスティコ将軍。その後ろにはロンメルの姿が見える。

バスティコ元帥やカヴァッレーロ参謀総長イタリア軍司令部は、マルタ島の存在が北アフリカ及び地中海における最大の障害であると認識し、この攻略を主張していた。こうして、イタリア海空軍を主力とする大規模包囲戦によってマルタは陥落寸前にまで陥ることとなった。しかし、ロンメルはエジプトへの徹底的攻撃を望み、ヒトラーもそれを望んだ。一方でドイツ軍内でも意見が分かれ、アルベルト・ケッセルリンク空軍元帥はロンメルの主張に反対し、「現在の兵力でトブルクを陥落させることは確かに可能であった。しかし、エル・アラメインを突破できるかといえば大いに疑問があり、それ以上の進撃は絶対に不可能だ」と現実的な分析をしている

マルサ・マトルーフを占領した枢軸軍はその後の進撃をムッソリーニの判断を待つこととなった。バスティコは自らの主張を統帥は受け入れていると思ったが、ムッソリーニはあれほど固執していたマルタ攻略をあっさりと棚上げし、スエズ運河攻略を最優先にするべきという考えに変わっていたのである。これを受けて、カヴァッレーロ参謀総長も諦め、マルタ上陸作戦をギリギリのところで断念するかたちとなった。しかし、これは枢軸軍崩壊の序曲となったことは間違いない。

f:id:italianoluciano212:20190427233628j:plain

右の人物がセラフィーノ・マッツォリーニ(Serafino Mazzolini)。ファシスト外交官で、エジプトやパラグアイなど各国の大使を歴任。第二次世界大戦時は新たにイタリアの同君連合となったモンテネグロ王国高等弁務官を務めた。エジプト制圧後は民政長官に任命される予定だったが、エル・アラメインの敗北によってこれは幻の計画に終わった。休戦後、イタリア社会共和国(RSI政権)に合流し、外務次官(外相はムッソリーニ)に任命。事実上RSI外務省のトップとして活動した。

この先に待ち受ける結果から考えれば、バスティコやカヴァッレーロらイタリア軍首脳部やケッセルリンク元帥の判断は正しかった。結局、ヒトラーロンメル、そしてムッソリーニの「結果的に間違っていた進撃」によって北アフリカ戦線は悲劇の結末を歩むこととなったのである。エジプトを征服できた場合、民政長官はファシスト外交官のセラフィーノ・マッツォリーニ(Serafino Mazzolini)、軍政長官をロンメル元帥が務めるということが予定されたが、結局アレクサンドリアもカイロも落とすことは失敗したため、幻の計画に終わってしまったのであった。

結局、バスティコにとっては、自らの主張も退けられ、信頼していた統帥にも裏切られ、そして自らの与り知らぬところで行われたエル・アラメインで枢軸軍は敗北し、北アフリカ戦線は壊滅する事態となったのである。今までロンメルの独断専行な戦術についても、バスティコが補正をする形で作戦は成功していったが、エル・アラメインではその補正をする役割の人間がいなかったために失敗したとも受け取れるのだ。

f:id:italianoluciano212:20190427235647j:plain

ジョヴァンニ・メッセ(Giovanni Messe)将軍。第二次世界大戦時のイタリア軍の将軍で最も優秀な将軍と言われる名将で、一兵卒からイタリア軍最高位の元帥、そして参謀総長にまで上り詰めたというたたき上げのリアルチート。東部戦線での軍功で知られるが、北アフリカ戦線末期のチュニジア戦線にて巧みな撤退戦を行い、多くの戦果を挙げた。

エル・アラメインの敗北をもってして、北アフリカ戦線の命運は完全に決まった。更には、1942年11月に英米軍を中心とする連合軍がフランス領北アフリカ侵攻作戦「トーチ」を発動したことで、状況は一層悪化していった。ドイツ・イタリアの枢軸軍は速やかにヴィシー・フランス支配領域に侵攻し、チュニジアも形式上はイタリア領北アフリカ植民地に組み込まれ、占領下に置かれることとなった。トーチ作戦発動後、リビア総督のバスティコ元帥に対して再び指揮権が戻ったが、もはや壊滅も時間の問題となった北アフリカ戦線でバスティコ元帥が為せることは何もなかったのである。

既に命運が決まった北アフリカ戦線に未来はなかった。1943年が始まる頃には、北アフリカ戦線は四方八方から迫りくる連合軍によって、完全に崩壊していた。こうして、1943年1月23日には、リビアの首都トリポリが遂に陥落してしまった。これをもってして、イタリア領リビアは事実上壊滅したのである。バスティコ元帥はこれを受けて、1943年2月をもってリビア総督の職を解かれ、実権の無い「名誉リビア総督」という地位が与えられ、軍の指揮からも解かれてイタリアに帰国した。この後、北アフリカの枢軸軍を立て直すために派遣されたロシア帰りの名将、ジョヴァンニ・メッセ(Giovanni Messe)将軍がバスティコ元帥の指揮権を引き継いでイタリア第一軍の司令官となり、病気で帰国したロンメルに代わり、チュニジアでの最後の戦いに挑んだのであった。

 

◆その後のバスティコ元帥

1943年2月にイタリアに帰国したバスティコは、もはや軍務につくことはなかった。1943年9月の休戦以降、北部のイタリア社会共和国(RSI政権)にも、南部の王国政府にも協力せず、ドイツのローマ侵攻後はローマの町に潜伏し、1944年6月のローマ解放の日まで隠れて過ごしていた(形式上は王国軍元帥のまま)。1945年、正式に予備役となり、歴史の表舞台から完全に姿を消した。

戦後のバスティコは、かつてのように軍事史家として活動し、更に文芸活動にも積極的に参加した。1956年には国際軍装史学協会の責任者となり、この地位を1972年まで務めた(辞任の理由は老齢であったため)。博物館の創設や国際展示会の開催、そして研究活動で多くの功績を挙げた。1957年には時のイタリア大統領、ジョヴァンニ・グロンキ(Giovanni Gronchi)からイタリア共和国功労勲章を与えられた。なお、グロンキはムッソリーニ政権初期に産業省次官を務めている。これは、彼が最後に叙勲された勲章だった。こうして96歳まで生きたバスティコは、1972年にこの世を去った。王族であるウンベルト2世を除けば、最も長生きしたイタリア軍の元帥だった

 

北アフリカのバスティコは、一言で言えば「無力な将」であったロンメルに主導権を奪われ、大した役割も担えず敗北の責を負わされた人物であったと言える。故に、評価が難しい。例えば、ギリシャのプラスカ将軍は対照的に評価がしやすい。彼はギリシャ軍を過小評価し、自らの間違った戦略によって、イタリア軍を窮地に追い込んでしまった「無能な将」であるのであるから。

バスティコの場合はそうは言えない。バスティコの役割はあくまでロンメルの方針の補正をする役割のみに限定され、名目上の北アフリカ軍司令官の立場にいた元帥昇進後はそれすらも失われ、自らの与り知らぬところで枢軸軍は敗北したそれ故に、「優秀な人物」であるとも、「無能な人物」であるとも、評価しづらい。そもそも、その二極で考えるのは愚かなことではあるのだが。

当然、ロンメルの大胆で、時に無鉄砲な戦術がなかったら、北アフリカの一連の勝利も難しかったかもしれないしかし、(ロンメル自身は忌み嫌っていたものの)ロンメルの無鉄砲な作戦に異議を唱え、度々軌道修正をしていたのは紛れもなくバスティコを始めとするイタリア軍の将軍たちだった。実際、ドイツ国防軍最高司令部総長のヴィルヘルム・カイテル(Wilhelm Keitel)元帥イタリア軍側の将軍が「癇癪持ちの」ロンメルに堪えて慎重に対策を講じ、均衡を失しない明確な決定を下しており、両者の違った性格が逆に良い戦果を上げていると評価している。あの時、ロンメルがもしバスティコらの意見を聞き入れていれば...いや、歴史のifを話しても意味はない。

ひとまず、実態についてあまり知られていないバスティコ元帥について、少しでもこのブログで参考になったというなら、幸いである。

 

◆主要参考文献

吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939~1945 ―第二次大戦を駆け抜けたローマ帝国の末裔たち―』イカロス出版・2006

吉川和篤著『Viva!知られざるイタリア軍イカロス出版・2012

吉川和篤著『Benvenuti!知られざるイタリア将兵録【上巻】』イカロス出版・2018

石田憲著『地中海新ローマ帝国への道―ファシスト・イタリアの対外政策 1935-39-』東京大学出版会・1994

B.Palmiro Boschesi著, L'ITALIA NELLA II GUERRA MONDIALE, Mondadori, 1975

Indro Montanelli著, L'Italia delle grandi guerre, BUR Biblioteca Univ. Rizzoli, 2015

Angelo Del Boca著, Gli italiani in Africa orientale:2, Mondadori, 1999

Cesare Maria De Vecchi著, Il quadrumviro scomodo, Mursia, 1983

Franco Fucci著, Emilio De Bono, il maresciallo fucilato, Mursia, 1989

Alberto Santoni著, Il vero traditore. Il ruolo documentato di Ultra nella guerra del Mediterraneo, Mursia, 2005

Evander Luther著, Ettore Bastico, Acu Publishing, 2011

Ettore Bastico著, L'Evoluzione dell'Arte della Guerra. -La guerra nel futuro-, 
Carpigiani & Zipoli, 1925

第二次世界大戦時のイタリア艦名の由来になった人物を調べてみた!第二弾:小型艦艇(駆逐艦・水雷艇)編

前回の更新に引き続き、今回のも第二次世界大戦時のイタリア海軍の艦名で人名由来のものについて調べる事とする。前回は大型・中型艦を扱ったため、二回目の今回は残りの小型艦艇(駆逐艦水雷艇)について扱う。次回の三回目に潜水艦を扱う予定だ。今回は前回に比べて数が非常に多いため、出来るだけ記述を簡略化して要点のみを述べる。そのため、戦歴に関してはかなり省略しているので注意。

前回のはこちら →

https://associazione.hatenablog.com/entry/2019/04/25/135135

 

駆逐艦(Cacciatorpediniere)

◆ナヴィガトーリ級(Classe Navigatori)

この級の艦名の由来は全て大航海時代の航海士で統一されている。

◇アルヴィーゼ・ダ・モスト(Alvise da Mosto)

f:id:italianoluciano212:20190425082950j:plain

駆逐艦「アルヴィーゼ・ダ・モスト(Alvise da Mosto)」

ナヴィガトーリ級駆逐艦の1隻。就役は1931年3月15日。

試験航海では42.7ノットの高速を記録した高速駆逐艦で、この数値はナヴィガトーリ級で最速である。第二次世界大戦時の主な任務は対潜哨戒、機雷設置、味方への支援、船団護衛及び沿岸都市への艦砲射撃であった。1941年12月1日、船団護衛中にトリポリ沖にて英巡洋艦隊の攻撃を受けて撃沈。

艦名の由来:

アルヴィーゼ・ダ・モスト(Alvise da Mosto)

f:id:italianoluciano212:20190425083716j:plain

アルヴィーゼ・ダ・モスト(Alvise da Mosto)

艦名の由来になったのは、ヴェネツィア共和国出身の航海士、アルヴィーゼ・ダ・モスト(Alvise da Monsto)大航海時代初期において活躍した人物で、ポルトガルエンリケ航海王子のもと、西アフリカのガンビアへの探検航海を行ったガンビア川を探検し、アフリカ側との交易をしている。カーボベルデの発見者とも言われるが、これはアントニオ・ダ・ノーリが発見したという説もある。

 

◇アントニオ・ダ・ノーリ(Antonio da Noli)

f:id:italianoluciano212:20190425084258j:plain

駆逐艦「アントニオ・ダ・ノーリ(Antonio da Noli)」

ナヴィガトーリ級駆逐艦の1隻。就役は1929年12月29日。

第二次世界大戦時の主な任務は船団護衛、対潜哨戒、機雷設置及び海難救助だった。休戦発表によってマルタに向かうが、道中でドイツ軍機の攻撃を受け回避行動をとった際に機雷に接触し、撃沈された。

艦名の由来:アントニオ・ダ・ノーリ(Antonio da Noli)

f:id:italianoluciano212:20190425085212j:plain

アントニオ・ダ・ノーリ(Antonio da Noli)

艦名の由来になったのは、ジェノヴァ共和国出身の航海士、アントニオ・ダ・ノーリ(Antonio da Noli)ジェノヴァ周辺のノーリ市の貴族出身の航海士で、ポルトガルに仕えてエンリケ航海王子のもと、大西洋とアフリカへの探検航海を行った。一般的にカーボベルデの発見者として知られている。


◇ニコローゾ・ダ・レッコ(Nicoloso da Recco)

f:id:italianoluciano212:20190425085718j:plain

駆逐艦「ニコローゾ・ダ・レッコ(Nicoloso da Recco)」

ナヴィガトーリ級駆逐艦の1隻。就役は1930年5月20日

第二次世界大戦時の主な任務は対潜哨戒、機雷設置、味方への支援及び船団護衛であった。休戦後は共同交戦海軍の一員として船団護衛任務に従事。戦後も新生イタリア海軍での保有が認められ、1954年まで現役。博物館船として保存されることが計画されたが、放棄され解体された。

艦名の由来:

ニコローゾ・ダ・レッコ(Nicoloso da Recco)

艦名の由来になったのは、ジェノヴァ共和国出身の航海士、ニコローゾ・ダ・レッコ(Nicoloso da Recco)ポルトガル王アフォンソ4世に仕え、フィレンツェ出身の航海士アンジョリーノ・デ・コルビッツィと共にカナリア諸島を探検した


◇ジョヴァンニ・ダ・ヴェラッツァーノ(Giovanni da Verrazzano)

f:id:italianoluciano212:20190425090531j:plain

駆逐艦「ジョヴァンニ・ダ・ヴェラッツァーノ(Giovanni da Verrazzano)」

ナヴィガトーリ級駆逐艦の1隻。就役は1930年7月25日。

第二次世界大戦時の主な任務は船団護衛任務や機雷設置任務である。1942年10月19日、英潜水艦「アンベンディング」の雷撃で撃沈された。

艦名の由来:ジョヴァンニ・ダ・ヴェラッツァーノ(Giovanni da Verrazzano)

f:id:italianoluciano212:20190425091042j:plain

ジョヴァンニ・ダ・ヴェラッツァーノ(Giovanni da Verrazzano)

艦名の由来になったのは、シエナ共和国領キャンティ地方出身の航海士ジョヴァンニ・ダ・ヴェッラッツァーノ(Giovanni da Verrazzano)。日本では慣例的にヴェラッツァーノと呼ばれる。フランスに仕え、北アメリ東海岸を初めて探検したヨーロッパ人として知られている人物(実際は既にそれ以前にヴァイキング東海岸に達していたため、初めてニューヨーク湾を探検した人物であるらしい)。その最期は不明であるが、バハマの食人部族に食い殺されたという説がある。


◇ランツェロット・マロチェッロ(Lanzerotto Malocello)

f:id:italianoluciano212:20190425092252j:plain

駆逐艦「ランツェロット・マロチェッロ(Lanzerotto Malocello)」

ナヴィガトーリ級駆逐艦の1隻。就役は1930年1月18日。

第二次世界大戦時の主な任務は対潜哨戒、船団護衛、機雷敷設、対空射撃及び海難救助。1943年3月24日、機雷に接触し沈没。

艦名の由来:

ランツェロット・マロチェッロ(Lanzerotto Malocello)

f:id:italianoluciano212:20190425092613j:plain

ランツェロット・マロチェッロ(Lanzerotto Malocello)

艦名の由来になったのは、ジェノヴァ共和国出身の航海士、ランツェロット・マロチェッロ(Lanzerotto Malocello)ジェノヴァ周辺のヴァラッツェ市出身で、カナリア諸島の発見者として知られている

 

◇レオーネ・パンカルド(Leone Pancaldo)

f:id:italianoluciano212:20190425093658j:plain

駆逐艦「レオーネ・パンカルド(Leone Pancaldo)」

ナヴィガトーリ級駆逐艦の1隻。

第二次世界大戦時の主な任務は対潜哨戒、機雷設置、味方への支援及び船団護衛であった。1943年4月30日、船団護衛中に爆撃を受けて撃沈。

艦名の由来:レオーネ・パンカルド(Leone Pancaldo)

f:id:italianoluciano212:20190425093817j:plain

レオーネ・パンカルド(Leone Pancaldo)

艦名の由来になったのは、ジェノヴァ共和国出身の航海士、レオーネ・パンカルド(Leone Pancaldo)ジェノヴァ周辺のサヴォーナ市出身で、ポルトガルの航海士フェルナン・ド・マガリャンイス(英名:フェルディナンド・マゼラン)率いる船団の一員として参加し、世界一周を達成した。


◇エマヌエーレ・ペッサーニョ(Emanuele Pessagno)

f:id:italianoluciano212:20190425094843j:plain

駆逐艦「エマヌエーレ・ペッサーニョ(Emanuele Pessagno)」

ナヴィガトーリ級駆逐艦の1隻。

第二次世界大戦時の主な任務は対潜哨戒、機雷設置、味方への支援及び船団護衛であった。1942年5月29日、英潜水艦の雷撃を受けて撃沈。

艦名の由来:

エマヌエーレ・ペッサーニョ(Emanuele Pessagno)

艦名の由来になったのは、ジェノヴァ共和国出身の航海士・海軍提督、エマヌエーレ・ペッサーニョ(Emanuele Pessagno)ポルトガル王ディニス1世に仕え、王立ポルトガル海軍の総司令官の地位を与えられた。また、ポルトガル造船工廠の責任者でもあった。アフォンソ4世時代にカスティーリャとの戦いを指揮するが、カスティーリャ艦隊に敗北して捕虜となった。両国の和解によって解放。


◇アントニオ・ピガフェッタ(Antonio Pigafetta)

f:id:italianoluciano212:20190425100123j:plain

駆逐艦「アントニオ・ピガフェッタ(Antonio Pigafetta)」

ナヴィガトーリ級駆逐艦の1隻。

第二次世界大戦時の主な任務は対潜哨戒、機雷設置、味方への支援及び船団護衛であった。休戦後、ドイツ海軍に拿捕され、ドイツ海軍籍で水雷艇「TA44」として就役。アドリア海での哨戒任務・機雷敷設に従事したが、1945年2月17日に連合軍機による爆撃で撃沈された。

艦名の由来:

アントニオ・ピガフェッタ(Antonio Pigafetta)

f:id:italianoluciano212:20190425100524p:plain

アントニオ・ピガフェッタ(Antonio Pigafetta)

艦名の由来になったのは、ヴェネツィア共和国ヴィチェンツァ出身の航海士、アントニオ・ピガフェッタ(Antonio Pigafetta)フェルナン・ド・マガリャンイス(フェルディナンド・マゼラン)の世界一周航海に同行した航海士で、彼の書いた詳細な記録が現在史料として役に立っている。翻訳者としても知られ、航海時にはフィリピン現地のセブアノ語翻訳も行っている。


◇ルカ・タリゴ(Luca Tarigo)

f:id:italianoluciano212:20190425101055j:plain

駆逐艦「ルカ・タリゴ(Luca Tarigo)」

ナヴィガトーリ級駆逐艦の1隻。

第二次世界大戦時の主な任務は機雷敷設及び船団護衛であった。1941年4月16日夜間、船団護衛中に英艦隊に遭遇・交戦(タリゴ船団の戦い)、デ・クリストファロ中佐率いる駆逐艦隊の旗艦として戦ったが、不意打ちを受けて撃沈された。しかし、満身創痍の状態でありながら最期に雷撃で英駆逐艦「モホーク」を撃沈し、一矢報いた

艦名の由来:ルカ・タリゴ(Luca Tarigo)

艦名の由来になったのは、ジェノヴァ共和国出身の航海士、ルカ・タリゴ(Luca Tarigo)黒海方面への探検航海を行った航海士で、クリミアのジェノヴァ植民市カッファ(現フェオドシヤ)を根拠地として、アゾフ海、ドン川、ヴォルガ川などを探検し、カスピ海にまで至った。その際、交易も行う一方で海賊行為も度々行っている。


◇アントニオット・ウゾディマーレ(Antoniotto Usodimare)

f:id:italianoluciano212:20190425102435j:plain

駆逐艦「アントニオット・ウゾディマーレ(Antoniotto Usodimare)」

ナヴィガトーリ級駆逐艦の1隻。

第二次世界大戦時の主な任務は機雷敷設及び船団護衛であった。1942年6月8日、味方潜水艦「アラジ」によって誤って撃沈された。

艦名の由来:

アントニオット・ウゾディマーレ(Antoniotto Usodimare)

艦名の由来になったのは、ジェノヴァ共和国出身の航海士、アントニオット・ウゾディマーレ(Antoniotto Usodimare)エンリケ航海王子のもとでアフリカ西海岸の探検航海を行った人物で、しばしばアントニオ・ダ・ノーリと同一人物であるという説が言われるが、歴史的な証拠はない。カーボベルデの島々、そしてガンビア川、現ギニアビサウを流れるジェバ川を探検している。


◇ウゴリーノ・ヴィヴァルディ(Ugolino Vivaldi)

f:id:italianoluciano212:20190425102852j:plain

駆逐艦「ウゴリーノ・ヴィヴァルディ(Ugolino Vivaldi)」

ナヴィガトーリ級駆逐艦の1隻。

第二次世界大戦時の主な任務は船団護衛、対潜哨戒、機雷設置及び海難救助だった。休戦発表によってマルタに向かうが、道中でドイツ軍機や沿岸砲台の攻撃を受け回避行動をとった際に機雷に接触し、撃沈された。

艦名の由来:

ウゴリーノ・ヴィヴァルディ(Ugolino Vivaldi)

f:id:italianoluciano212:20190425103151j:plain

ウゴリーノ・ヴィヴァルディ(Ugolino Vivaldi)

艦名の由来になったのは、ジェノヴァ共和国出身の航海士、ウゴリーノ・ヴィヴァルディ(Ugolino Vivaldi)。弟のヴァディーノ・ヴィヴァルディ(Vadino Vivaldi)と共に交易路確保のための探検航海を行った。大航海時代黎明期、インドまでの交易路を築くためにガレー船ジブラルタル海峡を通過し、アフリカ沿岸に沿って降下したが、そこで行方不明となった。一説によると、アフリカを一周して東アフリカ沿岸にまで辿り着き、エチオピア皇帝に謁見しているとも言われている。

 

◇ニコロ・ゼーノ(Nicolò Zeno)

f:id:italianoluciano212:20190425104006j:plain

駆逐艦「ニッコロ・ゼーノ(Nicolò Zeno)」

ナヴィガトーリ級駆逐艦の1隻。

第二次世界大戦時の主な任務は船団護衛、対潜哨戒、機雷設置及び海難救助だった。1943年9月9日、修復中であったが、拿捕を防ぐために自沈した。

艦名の由来:ニコロ・ゼーノ(Nicolò Zeno)

f:id:italianoluciano212:20190425104413j:plain

ニコロ・ゼーノ(Nicolò Zeno)

艦名の由来になったのは、ヴェネツィア共和国出身の航海士、ニコロ・ゼーノ(Nicolò Zeno)弟のアントニオ・ゼーノ(Antonio Zeno)と共にノルウェー王家に仕え、北極海北大西洋の探検航海を行った。シェトランド諸島オークニー諸島スヴァールバル諸島アイスランドグリーンランドのほか、カナダまで探検航海をしている。彼の弟であるカルロ・ゼーノ(カルロ・ゼン)はヴェネツィア海軍で提督を務め、ジェノヴァとのキオッジャ戦争で活躍した。

 

◆オリアーニ級(Classe Oriani)

この級の艦名の由来は全て作家・詩人で統一されている。そのため、Classe Poeti(詩人級,ポエティ級)とも称される。

アルフレード・オリアーニ(Alfredo Oriani)

f:id:italianoluciano212:20190425123910j:plain

駆逐艦アルフレード・オリアーニ(Alfredo Oriani)」

オリアーニ級駆逐艦ネームシップ。オリアーニ級では唯一戦後まで生き残ったが、賠償艦としてフランス海軍に引き渡され、「デスタン」となった。

艦名の由来

アルフレード・オリアーニ(Alfredo Oriani)

f:id:italianoluciano212:20190425125300j:plain

アルフレード・オリアーニ(Alfredo Oriani)

艦名の由来になったのは、ファエンツァ出身の詩人アルフレード・オリアーニ。1909年に死去し、その後も長らく評価されていなかったが、ファシスト政権期に再評価され、この時代に彼の生家も博物館として整備されている。

◇ヴィットーリオ・アルフィエーリ(Vittorio Alfieri)

f:id:italianoluciano212:20190425125806j:plain

駆逐艦「ヴィットーリオ・アルフィエーリ(Vittorio Alfieri)」

オリアーニ級駆逐艦の1隻。1941年3月28日、マタパン岬沖海戦で戦没。

艦名の由来:

ヴィットーリオ・アルフィエーリ(Vittorio Alfieri)

f:id:italianoluciano212:20190425130039j:plain

ヴィットーリオ・アルフィエーリ(Vittorio Alfieri)

艦名の由来になったのは、アスティ出身の詩人・劇作家ヴィットーリオ・アルフィエーリ(Vittorio Alfieri)。伯爵でありながらフランス革命を支持し、逆にフランス革命政府がロベスピエール独裁やナポレオン帝政に変質していくと、それに対して激しい嫌悪感を示して反対した。


ジョズエ・カルドゥッチ(Giosuè Carducci)

f:id:italianoluciano212:20190425130506j:plain

駆逐艦ジョズエ・カルドゥッチ(Giosuè Carducci)」

オリアーニ級駆逐艦の1隻。1941年3月28日、マタパン岬沖海戦で戦没。

艦名の由来:

ジョズエ・カルドゥッチ(Giosuè Carducci)

f:id:italianoluciano212:20190425130646j:plain

ジョズエ・カルドゥッチ(Giosuè Carducci)

艦名の由来になったのは、ノーベル文学賞を最初に受賞したイタリア人として知られている作家、ジョズエ・カルドゥッチ(Giosuè Carducci)近代イタリアを代表する国民的な詩人であると同時に教育者としても多くの功績を残しており、教会の管理下ではない寄宿学校の設置などを行っている(なお、ムッソリーニはここで学んだ)。


◇ヴィンチェンツォ・ジョベルティ(Vincenzo Gioberti)

f:id:italianoluciano212:20190425131256j:plain

駆逐艦「ヴィンチェンツォ・ジョベルティ(Vincenzo Gioberti)」

オリアーニ級の1隻。1943年8月9日、英潜水艦の雷撃で撃沈。

艦名の由来:

ヴィンチェンツォ・ジョベルティ(Vinzenzo Gioberti)

f:id:italianoluciano212:20190425131505j:plain

ヴィンチェンツォ・ジョベルティ(Vinzenzo Gioberti)

艦名の由来になったのは、トリノ出身の哲学者であるヴィンチェンツォ・ジョベルティ(Vinzenzo Gioberti)。リソルジメント期の重要人物の一人で、カルロ・アルベルト王のもとでサルデーニャ王国の宰相を務めている

 

◆ミラベッロ級(Classe Mirabello)

◇カルロ・ミラベッロ(Carlo Mirabello)

f:id:italianoluciano212:20190425132139j:plain

駆逐艦「カルロ・ミラベッロ(Carlo Mirabello)」

ミラベッロ級駆逐艦ネームシップ。1941年5月21日、機雷と接触し沈没。

艦名の由来:カルロ・ミラベッロ(Carlo Mirabello)

f:id:italianoluciano212:20190425132439j:plain

カルロ・ミラベッロ(Carlo Mirabello)

艦名の由来になったのは、イタリア海軍の提督カルロ・ミラベッロ(Carlo Mirabello)。若い頃にサルデーニャ王国海軍の水兵としてリソルジメントに参加。1904年から1906年まで海軍大臣を務め、イタリア海軍の近代化に尽力した。また、無線通信の大御所である科学者グリエルモ・マルコーニと交友関係を持ち、彼を支援して無線通信の発展に貢献している。

 


◇アウグスト・リボティ(Augusto Riboty)

f:id:italianoluciano212:20190425133332j:plain

駆逐艦「アウグスト・リボティ(Augusto Riboty)」

ミラベッロ級駆逐艦の1隻。第二次世界大戦時は島嶼部への上陸作戦を行う特殊部隊「海軍特殊集団(Forza Navale Speciale,FNS)」に所属。戦後まで生き残り、講和条約の結果ソ連への賠償艦となることが決まったが、旧式艦故に拒否された。1951年解体。

艦名の由来:アウグスト・アントニオ・リボティ(Augusto Antonio Riboty)

f:id:italianoluciano212:20190425134041g:plain

アウグスト・アントニオ・リボティ(Augusto Antonio Riboty)

艦名の由来になったのは、サルデーニャ王国海軍/イタリア海軍の提督、アウグスト・アントニオ・リボティ(Augusto Antonio Riboty)である。サルデーニャ王国海軍の指揮官としてクリミア戦争で戦い、更にイタリア統一後は第三次イタリア独立戦争に参加。装甲艦「レ・ディ・ポルトガッロ」の艦長として、オーストリア海軍の戦列艦「カイザー」に対して多くの打撃を与えた。1868年~1869年、1872年~1873年には海軍大臣を務め、海軍の技術開発を進めて艦隊の増強に尽力している

 

◆サウロ級(Classe Sauro)

◇ナザリオ・サウロ(Nazario Sauro)

f:id:italianoluciano212:20190425140839j:plain

駆逐艦「ナザリオ・サウロ(Nazario Sauro)」

サウロ級のネームシップ。紅海艦隊に所属し、1941年4月3日に英軍機の爆撃で戦没。

艦名の由来:ナザリオ・サウロ(Nazario Sauro)

f:id:italianoluciano212:20190425141058j:plain

ナザリオ・サウロ(Nazario Sauro)

艦名の由来になったのは、第一次世界大戦時の海軍軍人、ナザリオ・サウロ(Nazario Sauro)。戦後の潜水艦の艦名にも使われている。当時オーストリア帝国領であったカポディストリア(現スロヴェニア領コペル)のイタリア人家庭に生まれたが、第一次世界大戦時にはイタリア海軍に志願して、潜水艦「ジャチント・プッリーノ」に乗艦した。クヴァルネル湾での作戦時にオーストリア海軍の捕虜となったが、オーストリア領出身であることが判明したため「反逆罪」で処刑された。


◇フランチェスコ・ヌッロ(Francesco Nullo)

f:id:italianoluciano212:20190425142543j:plain

駆逐艦「フランチェスコ・ヌッロ(Francesco Nullo)」

サウロ級の1隻。紅海艦隊に所属し、1940年10月21日にハーミル島沖海戦で戦没した。

艦名の由来:

フランチェスコ・ヌッロ(Francesco Nullo)

f:id:italianoluciano212:20190425143031p:plain

フランチェスコ・ヌッロ(Francesco Nullo)

艦名の由来となったのは、ガリバルディの友人である義勇兵の将軍フランチェスコ・ヌッロ(Francesco Nullo)リソルジメント期はガリバルディ率いる「赤シャツ隊」の一員として戦った。ポーランド及びリトアニアで発生した反ロシア帝国蜂起である「1月蜂起」では、ポーランド蜂起軍を支援するイタリア人義勇軍の司令官として参戦し、戦死。ポーランドのために戦い、死んだ人物として、ポーランド独立後に称賛された。

 

◇ダニエーレ・マニン(Daniele Manin)

f:id:italianoluciano212:20190425144102j:plain

駆逐艦「ダニエーレ・マニン(Daniele Manin)」

サウロ級の1隻。紅海艦隊に所属し、1941年4月3日に英軍機の爆撃で戦没。

艦名の由来:ダニエーレ・マニン(Daniele Manin)

f:id:italianoluciano212:20190425144310j:plain

ダニエーレ・マニン(Daniele Manin)

艦名の由来になったのは、1848年革命でオーストリアから再独立したヴェネツィア共和国(サン・マルコ共和国)の大統領、ダニエーレ・マニン(Daniele Manin)ヴェネツィア共和国の復活を望み、独立運動を展開していたためにオーストリア当局に危険視されて投獄された。その後、民衆蜂起でヴェネツィアが一時的に解放された際に、ヴェネツィア共和国臨時政府の大統領に選出され、包囲するオーストリア軍に抵抗した。ヴェネツィア陥落後、パリに亡命し、その地で客死した。


チェーザレ・バッティスティ(Cesare Battisti)
 

f:id:italianoluciano212:20190425145053j:plain

駆逐艦チェーザレ・バッティスティ(Cesare Battisti)」

サウロ級の1隻。紅海艦隊に所属し、1941年4月3日に英軍機の爆撃で戦没。

艦名の由来:

チェーザレ・バッティスティ(Cesare Battisti)

f:id:italianoluciano212:20190425145231j:plain

チェーザレ・バッティスティ(Cesare Battisti)

艦名の由来になったのはチェーザレ・バッティスティ(Cesare Battisti)。当時オーストリア帝国領であったトレントのイタリア人家庭で生まれ、オーストリア社会民主労働党に所属した社会主義政治家。トレンティーノ地方の自治を求めて運動していたが、第一次世界大戦の発生でイタリアに亡命し、イタリア陸軍に志願してアルピーニ兵となった。しかし、アジアーゴの戦いオーストリア軍の捕虜となり、オーストリア出身であったことから「反逆罪」として処刑された。

 

◆セッラ級(Classe Sella)

クインティーノ・セッラ(Quintino Sella)

f:id:italianoluciano212:20190425150144j:plain

駆逐艦クインティーノ・セッラ(Quintino Sella)」

セッラ級のネームシップ第二次世界大戦時は主に船団護衛に従事した他、特殊作戦に従事した。スダ湾攻撃では姉妹艦の「クリスピ」と共にMTM艇(バルキーノ)の母艦として機能し、英重巡「ヨーク」及びタンカー「ペリクレス」の撃沈に成功した。また、英軍の占領下に置かれたカステルリゾ島の奪還作戦にも参加。休戦後、避難民を乗せてヴェネツィアを出港したが、1943年9月11日、ドイツの水雷艇「S54」に撃沈された。

艦名の由来:クインティーノ・セッラ(Quintino Sella)

f:id:italianoluciano212:20190425151109j:plain

クインティーノ・セッラ(Quintino Sella)

艦名の由来になったのは、経済学者のクインティーノ・セッラ(Quintino Sella)。ラッタッツィ内閣、ラ・マルモラ内閣、ランツァ内閣でそれぞれ財務相を務め、イタリアの財政再建に尽力した。科学者としても名高く、特に鉱業分野での功績が多いが、その他数学や歴史学にも精通しており、様々な分野で功績を残した。


◇フランチェスコ・クリスピ(Francesco Crispi)

 

f:id:italianoluciano212:20190425151554j:plain

駆逐艦「フランチェスコ・クリスピ(Francesco Crispi)」

セッラ級の1隻。第二次世界大戦時は主に船団護衛に従事した他、特殊作戦に従事した。スダ湾攻撃では姉妹艦の「クリスピ」と共にMTM艇(バルキーノ)の母艦として機能し、英重巡「ヨーク」及びタンカー「ペリクレス」の撃沈に成功した。また、英軍の占領下に置かれたカステルリゾ島の奪還作戦にも参加。休戦後、ドイツ海軍に拿捕されて水雷艇「TA15」として就役。1944年10月12日、連合軍機の攻撃で撃沈。

艦名の由来:

フランチェスコ・クリスピ(Francesco Crispi)

f:id:italianoluciano212:20190425151950j:plain

フランチェスコ・クリスピ(Francesco Crispi)

艦名の由来になったのは、第11代イタリア王国首相フランチェスコ・クリスピ(Francesco Crispi)。強権的な指導者として知られ、イタリアではムッソリーニと対比されることもある権威主義者。リソルジメント期の重要人物でもあり、1848年のシチリア革命で重要な役割を果たしている。統一後は首相だけでなく、外相、内相、財務相といった様々なポストを経験したが、アビシニア戦争での敗北で失脚した。

 

コマンダンティ・メダリエ・ドロ級(Classe Comandanti Medaglie d'Oro)

コマンダンティ・メダリエ・ドロ級はソルダーティ級駆逐艦の後継艦として開発された駆逐艦で、全24隻が建造予定であったが、1943年の休戦によって全て未完成に終わった。24隻のうち、20隻が命名されていた。艦名の由来になった人物は全て第二次世界大戦中に戦死し、イタリア軍最高位の金勲章(Medaglia d'Oro)を叙勲された海軍指揮官たちである。以下、簡潔に記述する。

コマンダンテ・トスカーノ(Comandante Toscano)

サルヴァトーレ・トスカーノ(Salvatore Toscano)
コマンダンテ・バローニ(Comandante Baroni)

エンリコ・バローニ(Enrico Baroni)
コマンダンテ・カザーナ(Comandante Casana)

コスタンツォ・カザーナ(Costanzo Casana)
コマンダンテ・デ・クリストファロ(Comandante De Cristofaro)

ピエトロ・デ・クリストファロ(Pietro De Cristofaro)
コマンダンテ・デッランノ(Comandante Dell'Anno)

フランチェスコ・デッランノ(Francesco Dell'Anno)
コマンダンテ・マルゴッティーニ(Comandante Margottini)

カルロ・マルゴッティーニ(Carlo Margottini)
コマンダンテ・ボルシーニ(Comandante Borsini)

コスタンティーノ・ボルシーニ(Costantino Borsini)
コマンダンテボッティ(Comandante Botti)

ウーゴ・ボッティ(Ugo Botti)
コマンダンテ・リータ(Comandante Ruta)

マリオ・リータ(Mario Ruta)
コマンダンテ・フォンターナ(Comandante Fontana)

ジュゼッペ・フォンターナ(Giuseppe Fontana)
コマンダンテ・ジョルジス(Comandante Giorgis)

ジョルジョ・ジョルジス(Giorgio Giorgis)
コマンダンテ・ジョッベ(Comandante Giobbe)

ジョルジョ・ジョッベ(Giorgio Giobbe)
コマンダンテ・モッカガッタ(Comandante Moccagatta)

ヴィットーリオ・モッカガッタ(Vittorio Moccagatta)
コマンダンテ・ロドカナッキ(Comandante Rodocanacchi)

ジョルジョ・ロドカナッキ(Giorgio Rodocanacchi)
コマンダンテ・コルシ(Comandante Corsi)

ルイージ・コルシ(Luigi Corsi)
コマンダンテエスポジート(Comandante Esposite)

スタニスラオ・エスポジート(Stanislao Esposito)
コマンダンテ・フィオレッリ(Comandante Fiorelli)

ウーゴ・フィオレッリ(Ugo Fiorelli)
コマンダンテ・ジャンナッタージオ(Comandante Giannattasio)

ヴィットーリオ・ジャンナッタージオ(Vittorio Giannattasio)
コマンダンテ・ミラーノ(Comandante Milano)

マリオ・ミラーノ(Mario Milano)
コマンダンテ・ノヴァーロ(Comandante Novaro)

ウンベルト・ノヴァーロ(Umberto Novaro)

 

 水雷艇(Torpediniere)

◆ジェネラーリ級(Classe Generali)

◇ジェネラーレ・アントニオ・カントーレ(Generale Antonio Cantore)

f:id:italianoluciano212:20190425154118j:plain

水雷艇「ジェネラーレ・アントニオ・カントーレ(Generale Antonio Cantore)」

ジェネラーリ級の1隻。第二次世界大戦時は主に船団護衛、対潜哨戒及び掃海任務に従事。1942年8月22日、機雷に接触し沈没。

艦名の由来:アントニオ・カントーレ(Antonio Cantore)

f:id:italianoluciano212:20190425154616j:plain

アントニオ・カントーレ(Antonio Cantore)

艦名の由来になったのは、アントニオ・カントーレ(Antonio Cantore)将軍。アルピーニの将軍で、第一次世界大戦時に前線視察中に敵弾に当たり戦死した。第一次世界大戦時で最も早く戦死したイタリア軍の将軍でもある。


◇ジェネラーレ・アントニーノ・カシーノ(Generale Antonino Cascino)

f:id:italianoluciano212:20190425210303j:plain

水雷艇「ジェネラーレ・アントニーノ・カシーノ(Generale Antonino Cascino)」

ジェネラーリ級の1隻。第二次世界大戦時は主に船団護衛、対潜哨戒及び掃海任務に従事。休戦後、ラ・スペツィア軍港で自沈した。

艦名の由来:アントニーノ・カシーノ(Antonino Cascino)

f:id:italianoluciano212:20190425210515p:plain

アントニーノ・カシーノ(Antonino Cascino)

艦名の由来になったのは、アントニーノ・カシーノ(Antonino Cascino)将軍。ピアッツァ・アルメリーナ出身の砲兵大将で、スロヴェニアのスカブリエル山攻略戦でオーストリア軍の手榴弾の爆発を受け戦死した。


◇ジェネラーレ・アントニオ・キノット(Generale Antonio Chinotto)

f:id:italianoluciano212:20190425211125j:plain

水雷艇「ジェネラーレ・アントニオ・キノット(Generale Antonio Chinotto)」

ジェネラーリ級の1隻。第二次世界大戦時は主に船団護衛、対潜哨戒及び掃海任務に従事。1941年3月28日、機雷に接触し沈没。

艦名の由来:アントニオ・キノット(Antonio Chinotto)

f:id:italianoluciano212:20190425211339j:plain

アントニオ・キノット(Antonio Chinotto)

艦名の由来になったのは、アントニオ・キノット(Antonio Chinotto)第一次世界大戦時のイタリア陸軍将軍だが、戦場で罹患して死亡。


◇ジェネラーレ・カルロ・モンタナーリ(Generale Carlo Montanari)

f:id:italianoluciano212:20190425212033j:plain

水雷艇「ジェネラーレ・カルロ・モンタナーリ(Generale Carlo Montanari)」

ジェネラーリ級の1隻。第二次世界大戦時は主に船団護衛、対潜哨戒及び掃海任務に従事。休戦後、ラ・スペツィア軍港で自沈した。

艦名の由来:カルロ・モンタナーリ(Carlo Montanari)

f:id:italianoluciano212:20190425212404j:plain

カルロ・モンタナーリ(Carlo Montanari)

艦名の由来になったのは、第一次世界大戦時のイタリア軍将軍、カルロ・モンタナーリ(Carlo Montanari)。前線でオーストリアの狙撃兵に撃たれて戦死。


◇ジェネラーレ・マルチェッロ・プレスティナーリ(Generale Marcello Prestinari)

f:id:italianoluciano212:20190425212703j:plain

水雷艇「ジェネラーレ・マルチェッロ・プレスティナーリ(Generale Marcello Prestinari)」

ジェネラーリ級の1隻。第二次世界大戦時は主に船団護衛、対潜哨戒及び掃海任務に従事。1943年1月31日、機雷に接触し沈没。

艦名の由来:

マルチェッロ・プレスティナーリ(Marcello Prestinari)

f:id:italianoluciano212:20190425212944j:plain

マルチェッロ・プレスティナーリ(Marcello Prestinari)

艦名の由来になったのは、第一次世界大戦時のベルサリエリ将軍、マルチェッロ・プレスティナーリ(Marcello Prestinari)エリトリア人アスカリ兵の指揮官としてアビシニア戦争で実戦を積んだ。アジアーゴの戦いにて、敵弾を受けて戦死。


◇ジェネラーレ・アキッレ・パーパ(Generale Achille Papa)

f:id:italianoluciano212:20190425213248j:plain

水雷艇「ジェネラーレ・アキッレ・パーパ(Generale Achille Papa)」

ジェネラーリ級の1隻。第二次世界大戦時は主に船団護衛、対潜哨戒及び掃海任務に従事。対潜戦で活躍し、特に英潜水艦「カシャロット」を体当たりで撃沈したことで有名。休戦後、ドイツ海軍に拿捕されて「SG20」として就役。1945年4月25日自沈。

艦名の由来:アキッレ・パーパ(Achille Papa)

f:id:italianoluciano212:20190425213604j:plain

アキッレ・パーパ(Achille Papa)

艦名の由来になったのは、第一次世界大戦時の歩兵少将アキッレ・パーパ(Achille Papa)。前線でオーストリアの狙撃兵に撃たれて戦死した。

 

◆ピーロ級(Classe Pilo)

◇ロゾリーノ・ピーロ(Rosolino Pilo)

f:id:italianoluciano212:20190425214306j:plain

水雷艇「ロゾリーノ・ピーロ(Rosolino Pilo)」

ピーロ級のネームシップ第二次世界大戦時の主な任務は船団護衛。1952年除籍。

艦名の由来:ロゾリーノ・ピーロ(Rosolino Pilo)

f:id:italianoluciano212:20190425215620j:plain

ロゾリーノ・ピーロ(Rosolino Pilo)

艦名の由来になったのは、1848年シチリア革命に参加したロゾリーノ・ピーロ(Rosolino Pilo)シチリア革命政権の陸軍大臣となったが、両シチリア王国軍との戦闘で戦死した。


◇ジュゼッペ・チェーザレ・アッバ(Giuseppe Cesare Abba)

f:id:italianoluciano212:20190425220238j:plain

水雷艇「ジュゼッペ・チェーザレ・アッバ(Giuseppe Cesare Abba)」

ピーロ級の1隻。第二次世界大戦時の主な任務は船団護衛だったが、マルタ上陸作戦の準備など特殊作戦にも従事している。休戦後は共同交戦海軍の一員として参加し、戦後も旧式艦故に新生イタリア海軍でも保有が認められた。1958年除籍。

艦名の由来:ジュゼッペ・チェーザレ・アッバ(Giuseppe Cesare Abba)

f:id:italianoluciano212:20190425220830g:plain

ジュゼッペ・チェーザレ・アッバ(Giuseppe Cesare Abba)

艦名の由来になったのは、ガリバルディと共に戦ったリソルジメント期の作家、ジュゼッペ・チェーザレ・アッバ


◇ジュゼッペ・デッツァ(Giuseppe Dezza)

f:id:italianoluciano212:20190425221907j:plain

水雷艇「ジュゼッペ・デッツァ(Giuseppe Dezza)」

ピーロ級の1隻。第二次世界大戦時の主な任務は船団護衛と対潜哨戒だった。休戦後、ドイツ海軍に拿捕され、「TA35」として就役。1944年8月17日、アドリア海にて機雷に接触し沈没。

艦名の由来:ジュゼッペ・デッツァ(Giuseppe Dezza)

f:id:italianoluciano212:20190425222207j:plain

ジュゼッペ・デッツァ(Giuseppe Dezza)

艦名の由来となったのは、リソルジメント期に活躍した将軍、ジュゼッペ・デッツァ(Giuseppe Dezza)。ミラノの蜂起に参加して、ロンバルディア臨時政府軍の一員としてオーストリア軍と戦った。その後、ガリバルディの「赤シャツ隊」に参加して戦った後、王立イタリア陸軍の将軍となった。


◇ジュゼッペ・ミッソーリ(Giuseppe Missori)

f:id:italianoluciano212:20190425222822j:plain

水雷艇「ジュゼッペ・ミッソーリ(Giuseppe Missori)」

ピーロ級の1隻。第二次世界大戦時の主な任務は船団護衛だった。休戦後、ドイツ海軍に拿捕され、「TA22」として就役。1945年5月3日自沈。

艦名の由来:ジュゼッペ・ミッソーリ(Giuseppe Missori)

f:id:italianoluciano212:20190425223100j:plain

ジュゼッペ・ミッソーリ(Giuseppe Missori)

艦名の由来となったのは、リソルジメント期に活躍した軍人、ジュゼッペ・ミッソーリ(Giuseppe Missori)。モスクワのボローニャ人の家庭に生まれた共和主義者で、ミラノの蜂起に参加してロンバルディア臨時政府軍に加わった。その後、ガリバルディの「赤シャツ隊」に合流している。


◇アントニオ・モスト(Antonio Mosto)

f:id:italianoluciano212:20190425223506j:plain

水雷艇「アントニオ・モスト(Antonio Mosto)」

ピーロ級の1隻。第二次世界大戦時の主な任務は船団護衛だった。休戦後、共同交戦海軍の一員として参加した後、戦後も新生イタリア海軍で保有が認められた。

艦名の由来:アントニオ・モスト(Antonio Mosto)

f:id:italianoluciano212:20190425223721j:plain

アントニオ・モスト(Antonio Mosto)

艦名の由来になったのは、リソルジメント期に活躍したジェノヴァ出身の軍人・政治家アントニオ・モスト(Antonio Mosto)サルデーニャ王国軍のカラビニエリ・ジェノヴェージの一員として戦った後、ガリバルディの「赤シャツ隊」に合流した。


◇フラテッリ・カイローリ(Fratelli Cairoli)

f:id:italianoluciano212:20190425224000j:plain

水雷艇「フラテッリ・カイローリ(Fratelli Cairoli)」

ピーロ級の1隻。第二次世界大戦時の主な任務は船団護衛だった。1940年12月23日、機雷に接触し沈没。

艦名の由来:カイローリ兄弟(Fratelli Cairoli)

f:id:italianoluciano212:20190425224223j:plain

カイローリ兄弟(Fratelli Cairoli)

艦名の由来になったのは、リソルジメント期に活躍したカイローリ兄弟。長男のベネデット・カイローリは後にイタリア首相になっている。


◇シモーネ・スキアッフィーノ(Simone Schiaffino)

f:id:italianoluciano212:20190425224434j:plain

水雷艇「シモーネ・スキアッフィーノ(Simone Schiaffino)」

ピーロ級の1隻。第二次世界大戦時の主な任務は船団護衛や沿岸哨戒だった。哨戒中にギリシャ船団を発見し、輸送船を撃沈している。1941年4月24日、機雷に接触し沈没。

艦名の由来:

シモーネ・スキアッフィーノ(Simone Sciaffino)

f:id:italianoluciano212:20190425224807j:plain

シモーネ・スキアッフィーノ(Simone Sciaffino)

艦名の由来になったのは、ガリバルディの「赤シャツ隊」に参加した兵士、シモーネ・スキアッフィーノ(Simone Sciaffino)。カラタフィーミの戦いで戦死。

 

◆シルトリ級(Classe Sirtoli)

◇ジュゼッペ・シルトリ(Giuseppe Sirtori)

f:id:italianoluciano212:20190425225002j:plain

水雷艇「ジュゼッペ・シルトリ(Giuseppe Sirtori)」

シルトリ級のネームシップ第二次世界大戦時は主にアドリア海での船団護衛に従事した。1943年9月14日、ドイツ軍機の空爆を受けた後、自沈。

艦名の由来:ジュゼッペ・シルトリ(Giuseppe Sirtori)

f:id:italianoluciano212:20190425225219j:plain

ジュゼッペ・シルトリ(Giuseppe Sirtori)

艦名の由来になったのは、リソルジメント期に活躍した将軍、ジュゼッペ・シルトリ(Giuseppe Sirtori)。「赤シャツ隊」の参謀長を務め、ガリバルディを支えた。


◇ジョヴァンニ・アチェルビ(Giovanni Acerbi)

f:id:italianoluciano212:20190425225442j:plain

水雷艇「ジョヴァンニ・アチェルビ(Giovanni Acerbi)」

シルトリ級の1隻。第二次世界大戦時は紅海艦隊に所属した。1941年4月4日、英軍機の爆撃によって撃沈。

艦名の由来:

ジョヴァンニ・アチェルビ(Giovanni Acerbi)

f:id:italianoluciano212:20190425225628p:plain

ジョヴァンニ・アチェルビ(Giovanni Acerbi)

艦名の由来になったのは、リソルジメント期に活躍した軍人、ジョヴァンニ・アチェルビ(Giovanni Acerbi)ガリバルディの「赤シャツ隊」に参加。


◇ヴィンチェンツォ・ジョルダーノ・オルシーニ(Vincenzo Giordano Orsini)

f:id:italianoluciano212:20190425225823j:plain

水雷艇「ヴィンチェンツォ・ジョルダーノ・オルシーニ(Vincenzo Giordano Orsini)」

シルトリ級の1隻。第二次世界大戦時は紅海艦隊に所属した。1941年4月8日、マッサワ軍港陥落直前に鹵獲を防ぐために自沈した。

艦名の由来:ヴィンチェンツォ・ジョルダーノ・オルシーニ(Vinzenzo Giordano Orsini)

f:id:italianoluciano212:20190425225957j:plain

ヴィンチェンツォ・ジョルダーノ・オルシーニ(Vinzenzo Giordano Orsini)

艦名の由来になったのは、リソルジメント期に活躍した将軍、ヴィンチェンツォ・ジョルダーノ・オルシーニ(Vinzenzo Giordano Orsini)。元々は両シチリア王国の士官だったが、シチリア革命に参加したため亡命を余儀なくされた。サルデーニャ王国軍に移った後、ガリバルディの「赤シャツ隊」に合流。


◇フランチェスコ・ストッコ(Francesco Stocco)

f:id:italianoluciano212:20190425230234j:plain

水雷艇「フランチェスコ・ストッコ(Francesco Stocco)」

シルトリ級の1隻。第二次世界大戦時は主にアドリア海での船団護衛に従事した。1943年9月24日、ドイツ軍機の空爆を受け撃沈。

艦名の由来:

フランチェスコ・ストッコ(Francesco Stocco)

f:id:italianoluciano212:20190425230450j:plain

フランチェスコ・ストッコ(Francesco Stocco)

艦名の由来になったのは、リソルジメント期に活躍した将軍、フランチェスコ・ストッコ(Francesco Stocco)ガリバルディの「赤シャツ隊」に参加。

 

総じて調べていて思ったこと。数が多い!!!

そりゃそうなんだけども、多い。元々の予定では、小型艦艇として潜水艦も一緒に紹介しようと思っていたのだが、あまりにも多すぎるので分割する。

次回は潜水艦やります。

第二次世界大戦時のイタリア艦名の由来になった人物を調べてみた!第一弾:大型・中型艦(戦艦・水上機母艦・巡洋艦)編

第二次世界大戦時のイタリア海軍では人名を用いた艦名が多く採用されているというか、第二次世界大戦時のイタリア海軍のみならず、欧州諸国やアメリカ諸国では人名を用いた艦名を採用する例は結構多い。寧ろ、人名を艦名に全く採用しない日本海軍が異質とも言えるが、そこは文化の違いであろう(戦艦「織田信長」とかあっても良さそうだとは思うけど)。

以前、とある萌えミリ本で「イタリア海軍はロクな海軍軍人がいないから艦名に芸術家の名前を使う」ということが書かれていたのを見たが、当然ながらこれは間違いである。というか、ヴェネツィア共和国ジェノヴァ共和国など、海洋共和国として栄えた国家がイタリアには多く存在し、当然その海軍は強力なものであった。アンドレア・ドーリアを始め、イタリア海軍の艦名に採用された海軍軍人も多い。逆に、芸術家の名前はレオナルド・ダ・ヴィンチくらいしか採用されていないため、完全に事実の誤認である(ジョークと受け取れなくもないが)。

そこで、今回は第二次世界大戦時のイタリア海軍の艦名に採用された人物が、どのような人物であったか調べてみる事としよう。数が多いので、ブログでは三回に分けて調べようと思う。今回は大型・中型艦の戦艦・水上機母艦巡洋艦について調べ、次回の第二回に小型艦艇(駆逐艦水雷艇)を、最後の第三回に潜水艦について調べてみることとする。

 

□戦艦(Corazzata)

◆コンテ・ディ・カヴール級

(Classe Conte di Cavour)

◇コンテ・ディ・カヴール(Conte di Cavour)

f:id:italianoluciano212:20190424144926j:plain

戦艦「コンテ・ディ・カヴール(Conte di Cavour)」

コンテ・ディ・カヴール級戦艦の1番艦。1915年4月1日竣工。第一次世界大戦を戦った後、大規模改修を受けて1937年6月1日に再就役した。

第二次世界大戦時はイタリア海軍の主力戦艦の一つで、ドゥイリオ級の再就役やリットーリオ級の就役まで、姉妹艦の「ジュリオ・チェーザレ」と共に主力艦隊の一翼を担った。1940年7月9日には、モナステラーチェ沖で発生した、地中海初の大規模海戦「プンタ・スティーロ沖海戦」にも参加している。

しかし、11月のターラント空襲で英軍雷撃機の攻撃を受け、大破着底。他の被害があった艦は修復を済ませて復帰したが、「カヴール」は損傷が激しく、結局休戦までに修復が終わらなかった(イタリア海軍は駆逐艦などを優先したため、修復も非常に遅れたため)。休戦後、ドイツ軍に接収され、名目上イタリア社会共和国(RSI政権)海軍籍の扱いになったが、修復は完了せず撤退時に爆破された。現在のイタリア海軍の航空母艦の1隻にも、「カヴール」の名前が付けられている。

艦名の由来:

カミッロ・カヴール(Camillo Benso di Cavour)

f:id:italianoluciano212:20190424150116j:plain

カミッロ・カヴール(Camillo Benso di Cavour)

艦名の由来になったのはカミッロ・カヴール(Camillo Benso di Cavour)。日本の教科書にも載っている、リソルジメント期の最重要人物の一人で、ガリバルディとマッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」イタリア王国初代首相で、サルデーニャ王国最後の宰相。卓越した外交手腕で大国の支持を取り付け、サルデーニャ王国によるイタリア統一(リソルジメント)を達成した人物だ。なお、Conte di Cavour(コンテ・ディ・カヴール)は「カヴール伯」の意味で、彼の爵位名である。

 

ジュリオ・チェーザレ(Giulio Cesare)

f:id:italianoluciano212:20190424150635j:plain

戦艦「ジュリオ・チェーザレ(Giulio Cesare)」

コンテ・ディ・カヴール級戦艦の2番艦。1914年5月14日竣工。第一次世界大戦を戦った後、大規模改修を受けて1937年6月3日に再就役した。

第二次世界大戦時はイタリア海軍の主力戦艦の一つで、ドゥイリオ級の再就役やリットーリオ級の就役まで主力艦隊司令官イニーゴ・カンピオーニ提督の旗艦となり、姉妹艦の「コンテ・ディ・カヴール」と共に主力艦隊の一翼を担った。1940年7月9日には、モナステラーチェ沖で発生した、地中海初の大規模海戦「プンタ・スティーロ沖海戦」にも参加している。

その後も、テウラダ岬沖海戦(スパルティヴェント岬沖海戦)や第一次シルテ湾海戦といった大規模海戦に参加。戦争を生き抜いたが、戦後はソ連に賠償艦として引き渡され、黒海艦隊の主力戦艦「ノヴォロシースク」として就役した。しかし、1955年10月29日に原因不明の爆沈で失われた(イタリア海軍の工作員による破壊工作が原因とも言われている)。

艦名の由来:

ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar)

f:id:italianoluciano212:20190424151614j:plain

ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar)

艦名の由来になったのは、ご存じローマの独裁官ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar)のイタリア語読み、ジュリオ・チェーザレ(Giulio Cesare)である。日本での知名度も非常に高く、古代ローマといったらこの人、という認識でもあるだろう。

 

◆カイオ・ドゥイリオ級

(Classe Caio Duilio)

◇カイオ・ドゥイリオ(Caio Duilio)

f:id:italianoluciano212:20190424151947j:plain

戦艦「カイオ・ドゥイリオ(Caio Duilio)」

カイオ・ドゥイリオ級の1番艦。竣工は1915年5月10日。第一次世界大戦を戦った後、大規模改修を受けて1940年7月15日に再就役した。

第二次世界大戦時はイタリア海軍の主力戦艦の一つとして、船団護衛任務に従事した。しかし、1940年11月のターラント空襲で英軍雷撃機の攻撃を受け、大破着底。その後、修復工事を受けて1941年5月に艦隊に復帰し、7月から任務を再開した。その後も主にリビア船団の船団護衛に従事し、第一次シルテ湾海戦でも主力戦艦の1隻として英艦隊と交戦している。大戦を生き抜いた後、戦後も旧式艦故に新生イタリア共和国海軍でも保有が認められ、1956年まで現役だった。

艦名の由来:

ガイウス・ドゥイリウス(Gaius Duilius)

f:id:italianoluciano212:20190424152851p:plain

ガイウス・ドゥイリウス(Gaius Duilius)

艦名の由来になったのは、ガイウス・ドゥイリウス(Gaius Duilius)共和政ローマの艦隊司令官で、紀元前260年の「ミラエ沖の海戦」でカルタゴ海軍を破り、ローマ海軍初の勝利を手に入れた提督だ。彼のイタリア語読みがカイオ・ドゥイリオ(Caio Duilio)である。すなわち、ローマの海戦史において最初の勝利を手に入れた人物である。

 

アンドレア・ドーリア(Andrea Doria)

f:id:italianoluciano212:20190424153224j:plain

戦艦「アンドレア・ドーリア(Andrea Doria)」

カイオ・ドゥイリオ級の2番艦。竣工は1916年3月13日。第一次世界大戦を戦った後、大規模改修を受けて1940年10月26日に艦隊に復帰した。

第二次世界大戦時はイタリア海軍の主力戦艦の一つとして、船団護衛任務に従事した。1940年11月のターラント空襲で英軍雷撃機の攻撃を受けたが、被害を受けなかった。そのため、リットーリオ級戦艦「ヴィットーリオ・ヴェネト」やコンテ・ディ・カヴール級戦艦「ジュリオ・チェーザレ」と共に、ターラント空襲で大打撃を受けたイタリア海軍にとって主力戦艦の1隻として重宝され、マルタ船団の妨害や英艦隊の迎撃に従事。

姉妹艦の「カイオ・ドゥイリオ」の復帰後は主にリビア船団の船団護衛に従事し、第一次シルテ湾海戦でも主力戦艦の1隻として英艦隊と交戦している。大戦を生き抜いた後、戦後も旧式艦故に「カイオ・ドゥイリオ」と共に新生イタリア共和国海軍でも保有が認められ、1956年まで現役だった。

艦名の由来

アンドレア・ドーリア(Andrea Doria)

f:id:italianoluciano212:20190424153844j:plain

アンドレア・ドーリア(Andrea Doria)

 艦名の由来になったのはアンドレア・ドーリア(Andrea Doria)ジェノヴァ共和国の代表的な海軍提督で、ジェノヴァの名門ドーリア家の出身。その勇ましさから「地中海のサメ」と呼ばれた優秀な海軍提督だったが、元は陸軍の軍人で海軍の指揮官となったのは40歳を超えてからだった。「海の傭兵」としてフランスや神聖ローマ帝国に仕え、80歳越えても現役で戦い、当時地中海の覇者であったオスマン帝国海軍と激しい戦いを繰り広げた。

 

航空母艦(Portaerei)

航空母艦に人名由来の艦名はない。

 

水上機母艦(nave appoggio idrovolanti)

同型艦なし

◇ジュゼッペ・ミラーリア(Giuseppe Miraglia)

f:id:italianoluciano212:20190424203806j:plain

水上機母艦「ジュゼッペ・ミラーリア(Giuseppe Miraglia)」

第二次世界大戦時のイタリア海軍が保有した唯一の水上機母艦同型艦はない。竣工は1927年11月1日。

元々はイタリア国鉄によって列車輸送船「チッタ・ディ・メッシーナ(Città di Messina)」として発注されたものの、途中でイタリア海軍が購入し、水上機母艦として完成した。1925年に船体がほぼ完成したが、暴風雨で転覆したために新たにプリエーゼ式水雷防御を搭載して1927年に竣工した。

水上機母艦であったが、水上機の運用のみならず多用途艦として使われ、戦車を始めとする兵器や人員の輸送にも使われている。艦載機に関しては水上機のみならず、艦上戦闘機(レッジアーネ Re.2000戦闘機)のカタパルト発進も可能であった。戦後、新生イタリア海軍は航空母艦保有を禁じられていたが、「ジュゼッペ・ミラーリア」の保有は認められ、復員輸送艦として使われた。1950年除籍。

艦名の由来:

ジュゼッペ・ミラーリア(Giuseppe Miraglia)

f:id:italianoluciano212:20190424205128j:plain

ジュゼッペ・ミラーリア(Giuseppe Miraglia)

艦名の由来になったのはジュゼッペ・ミラーリア(Giuseppe Miraglia)という海軍航空隊のパイロットである。「英雄詩人」ガブリエーレ・ダンヌンツィオの友人で、第一次世界大戦では水上機パイロットとしてアドリア海沿岸のオーストリア軍基地攻撃で活躍したが、1915年の試験飛行時に事故死してしまった。

 

装甲巡洋艦(Incrociatore corazzato)

◆サン・ジョルジョ級

(Classe San Giorgio)

◇サン・ジョルジョ(San Giorgio)

f:id:italianoluciano212:20190424210145j:plain

装甲巡洋艦「サン・ジョルジョ(San Giorgio)」

サン・ジョルジョ級装甲巡洋艦の1番艦。竣工は1910年7月1日で、第一次世界大戦を戦った後に練習艦として近代化改修を受け、1938年に再就役した。スペイン内戦にも派遣されている。

旧式艦であったが、第二次世界大戦時にトブルク軍港の防衛のために配備され、対空巡洋艦として防衛の要となった。イタロ・バルボ空軍元帥の誤撃墜事件にも関与しており、「サン・ジョルジョ」と陸上基地からの対空射撃がバルボ元帥の乗る航空機を敵機と誤認して撃墜してしまった。トブルク防衛戦でステーファノ・プリエーゼ艦長の元で「サン・ジョルジョ」は最後まで奮戦し、敵機からの激しい攻撃を受けて行動不能になった後、1941年1月22日、鹵獲を防ぐために自沈した。

艦名の由来:聖ゲオルギオス(San Giorgio)

f:id:italianoluciano212:20190424211148j:plain

聖ゲオルギオス(San Giorgio)

艦名の由来となったのは、キリスト教の聖人である聖ゲオルギオス。このイタリア語読みがサン・ジョルジョ(San Giorgio)である。世界各国で聖人として崇められており、モスクワの守護聖人としても知られている。イングランド国旗であるセント・ジョージ・クロスは聖ゲオルギオスのシンボル。イタリアでも様々な町の守護聖人になっている。

 

重巡洋艦(Incrociatore pesante)

重巡洋艦には人名由来の艦名はない。

 

軽巡洋艦(Incrociatore leggero)

◆ディ・ジュッサーノ級

(Classe Di Giussano)

◇アルベルト・ディ・ジュッサーノ(Alberto di Giussano)

f:id:italianoluciano212:20190424212058j:plain

軽巡洋艦「アルベルト・ディ・ジュッサーノ(Alberto di Giussano)」

ディ・ジュッサーノ級軽巡洋艦ネームシップ。就役は1931年1月1日。

第二次世界大戦参戦時はカンピオーニ提督率いる第一艦隊隷下第四巡洋艦隊に所属(母港はターラント)。第二次世界大戦初の地中海での大規模海戦である「プンタ・スティーロ沖海戦」にも姉妹艦の「アルベリーコ・ダ・バルビアーノ」と共に参加した。その高速能力を生かして「ダ・バルビアーノ」と共に北アフリカ戦線への燃料輸送任務についたが、1941年12月13日、ボン岬沖夜戦で撃沈されてしまった。

艦名の由来:

アルベルト・ディ・ジュッサーノ(Alberto di Giussano)

f:id:italianoluciano212:20190424213121j:plain

アルベルト・ディ・ジュッサーノ(Alberto di Giussano)

艦名の由来になったのは、ロンバルディア同盟軍を率いて、「赤髭王(バルバロッサ)」フリードリヒ1世率いる神聖ローマ帝国軍に勝利したという、伝説的な英雄アルベルト・ディ・ジュッサーノ(Alberto di Giussano)である。ロンバルディアの英雄とされ、2019年4月現在、イタリアの与党になっている政党「同盟(Lega)」は地域政党時代の「北部同盟(Lega Nord)」の頃からシンボルとして採用している。

 

◇アルベリーコ・ダ・バルビアーノ(Alberico da Barbiano)

f:id:italianoluciano212:20190424213715j:plain

軽巡洋艦「アルベリーコ・ダ・バルビアーノ(Alberico da Barbiano)」

ディ・ジュッサーノ級の1隻。就役は1931年6月9日。

第二次世界大戦参戦時、イニーゴ・カンピオーニ提督率いる第一艦隊隷下の第四巡洋艦隊(アルベルト・マレンコ提督指揮)の旗艦だった(母港はターラント)。第二次世界大戦初の地中海での大規模海戦である「プンタ・スティーロ沖海戦」にも姉妹艦の「アルベルト・ディ・ジュッサーノ」と共に参加した。その後、アントニーノ・トスカーノ提督率いる第四巡洋艦隊旗艦として、その高速能力を生かして「ディ・ジュッサーノ」と共に北アフリカ戦線への燃料輸送任務についたが、1941年12月13日、ボン岬沖夜戦で撃沈された。

艦名の由来:アルベリーコ・ダ・バルビアーノ(Alberico da Barbiano)

f:id:italianoluciano212:20190424214421j:plain

アルベリーコ・ダ・バルビアーノ(Alberico da Barbiano)

艦名の由来となったのは、14~15世紀のロマーニャ地方のコンドッティエーロ(傭兵隊長)であるアルベリーコ・ダ・バルビアーノ(Alberico da Barbiano)イタリア初の傭兵隊長として知られているサン・ジョルジョ傭兵団を率いた人物で、教皇ウルバヌス6世に雇われてアヴィニョン教皇庁の対立教皇であるクレメンス7世の軍勢と戦ったり、ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの元で戦ったりした。

 

◇バルトロメオ・コッレオーニ(Bartolomeo Colleoni)

f:id:italianoluciano212:20190424215326j:plain

軽巡洋艦「バルトロメオ・コッレオーニ(Bartolomeo Colleoni)」

ディ・ジュッサーノ級の1隻。就役は1932年2月10日。

第二次世界大戦参戦時はリッカルド・パラディーニ提督率いる第二艦隊隷下第二巡洋艦隊(フェルディナンド・カサルディ提督指揮)に所属(母港はラ・スペツィア)。主に北アフリカ船団の船団護衛任務に従事していたが、1940年7月19日、スパダ岬沖海戦での交戦の結果撃沈、戦没した。

艦名の由来:バルトロメオ・コッレオーニ(Bartolomeo Colleoni)

f:id:italianoluciano212:20190424220252j:plain

バルトロメオ・コッレオーニ(Bartolomeo Colleoni)

艦名の由来となったのは、15世紀のコンドッティエーロであるバルトロメオ・コッレオーニ(Bartolomeo Colleoni)ヴェネツィア共和国に雇われた傭兵隊長として知られ、ベルガモにある優美なコッレオーニ礼拝堂は彼に捧げられたものである。15世紀の代表的な戦術家とも言われる名将で、ヴェネツィア共和国の発展に貢献した。

 

ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(Giovanni delle Bande Nere)

f:id:italianoluciano212:20190424220749j:plain

軽巡洋艦ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(Giovanni delle Bande Nere)」

ディ・ジュッサーノ級の1隻。就役は1932年2月10日。

第二次世界大戦参戦時はリッカルド・パラディーニ提督率いる第二艦隊隷下第二巡洋艦隊(フェルディナンド・カサルディ提督指揮)の旗艦だった(母港はラ・スペツィア)。主に北アフリカ船団の船団護衛任務に従事していたが、1940年7月19日、スパダ岬沖海戦では交戦の結果姉妹艦である「バルトロメオ・コッレオーニ」が撃沈され、敵艦の攻撃で損傷するが、追撃を振り切ることに成功した。

その後、高速能力を生かして姉妹艦の「ディ・ジュッサーノ」や「ダ・バルビアーノ」などと共に北アフリカへの燃料輸送任務に従事する。姉妹艦が撃沈される中、唯一生き残り任務を成功させた。以降は船団護衛任務や機雷敷設任務などに従事。1942年3月22日の第二次シルテ湾海戦では英軽巡クレオパトラ」を砲撃で損傷させ、イタリア艦隊の勝利に貢献している。しかし、1942年4月2日、ストロンボリ島沖にて英潜水艦「アージ」の雷撃を受けて撃沈された。

艦名の由来:ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(Giovanni delle Bande Nere)

f:id:italianoluciano212:20190424221901j:plain

ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(Giovanni delle Bande Nere)

艦名の由来になったのは、16世紀のコンドッティエーロであるジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(Giovanni delle Bande Nere)。本名はルドヴィーコ・ディ・ジョヴァンニ・デ・メディチ(Ludovico di Giovanni de' Medici)で、その名の通りフィレンツェの名門メディチ家の出身である。初代トスカーナ大公コジモ1世の父。イタリア語で「黒帯」を意味するバンデ・ネーレは通り名だった。

 

 ◆カドルナ級(Classe Cadorna)

ルイージ・カドルナ(Luigi Cadorna)

f:id:italianoluciano212:20190424222600j:plain

軽巡洋艦ルイージ・カドルナ(Luigi Cadorna)」

カドルナ級軽巡洋艦の1番艦。就役は1933年8月11日。

第二次世界大戦参戦時はカンピオーニ提督率いる第一艦隊隷下第四巡洋艦隊に所属(母港はターラント)。第二次世界大戦時は主に船団護衛任務と機雷敷設任務に従事している。その高速能力を生かして北アフリカへの弾薬・燃料の輸送任務にも従事した

1942年からは訓練艦としてポーラ軍港を母港とした。1943年5月~6月には改装工事を受けた後、艦隊に復帰。兵員輸送任務にも従事した他、カピターニ・ロマーニ級軽巡と共に本土決戦に備えて南イタリア沿岸に機雷を敷設している。戦後まで生き残り、新生イタリア海軍でも保有が許されたが、旧式艦故に短期間訓練艦として使われたのみで、1951年に除籍となった。

艦名の由来:

ルイージ・カドルナ(Luigi Cadorna)

f:id:italianoluciano212:20190424223556j:plain

ルイージ・カドルナ(Luigi Cadorna)

艦名の由来になったのは、第一次世界大戦中盤までイタリア軍参謀総長としてイタリア軍の総指揮を取ったルイージ・カドルナ(Luigi Cadorna)将軍である。ファシスト政権期に第一次世界大戦時の戦果によって元帥に昇進した。父ラッファエーレは教皇領ローマ侵攻で活躍した軍人であり、軍人一家のカドルナ家出身。息子のラッファエーレJr.も第二次世界大戦時はローマ防衛司令官であり、休戦後にレジスタンス軍「CVL」を組織してその指揮を取っている。とはいえ、ルイージ・カドルナ自身は第一次世界大戦時の指揮で失敗し、カポレットの大敗でディアズ将軍と交代になったことから、評価は低い(言ってしまえば無能)。

 

アルマンド・ディアズ(Armando Diaz)

f:id:italianoluciano212:20190424224634j:plain

軽巡洋艦アルマンド・ディアズ(Armando Diaz)」

カドルナ級軽巡洋艦の2番艦。就役は1933年4月29日。

第二次世界大戦参戦時はカンピオーニ提督率いる第一艦隊隷下第四巡洋艦隊に所属(母港はターラント)。第二次世界大戦時は主に船団護衛任務に従事しているその高速能力を生かして北アフリカへの弾薬・燃料の輸送任務にも従事したが、1941年2月25日にケルケナ諸島沖にて英潜水艦「アップライト」によって撃沈された。

艦名の由来:

アルマンド・ディアズ(Armando Diaz)

f:id:italianoluciano212:20190424224924j:plain

アルマンド・ディアズ(Armando Diaz)

艦名の由来になったのは、第一次世界大戦中盤以降のイタリア軍参謀総長としてイタリア軍を指揮したアルマンド・ディアズ(Armando Diaz)将軍である。カドルナ将軍の指揮の結果起こったカポレットの大敗からイタリア軍を立て直し、最終的にヴィットーリオ・ヴェネトの戦いでオーストリア軍を完全撃破、第一次世界大戦におけるイタリアの勝利の最大の貢献者とも言える名将である。その戦果によって国王から「戦勝公(Duca della Vittoria)」という称号が与えられた他、ファシスト政権期にはムッソリーニ内閣初期の陸軍大臣を務め、更に元帥に昇進した。

 

◆モンテクッコリ級(Classe Montecuccoli)

◇ライモンド・モンテクッコリ(Raimondo Montecuccoli)

f:id:italianoluciano212:20190424230115j:plain

軽巡洋艦「ライモンド・モンテクッコリ(Raimondo Montecuccoli)」

モンテクッコリ級軽巡洋艦の1番艦。就役は1935年6月30日。

第二次世界大戦参戦時はリッカルド・パラディーニ提督率いる第二艦隊隷下第七巡洋艦隊(ルイージ・サンソネッティ提督指揮)所属(母港はラ・スペツィア)。主な任務は英船団への攻撃や、北アフリカへの補給支援などで、積極的に作戦行動に従事した。1940年7月9日には、モナステラーチェ沖で発生した、地中海初の大規模海戦「プンタ・スティーロ沖海戦」にも参加している。第一次シルテ湾海戦にも参加。

1942年6月中旬に発生したパンテッレリーア沖海戦では、ドゥーカ・ダオスタ級軽巡「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」と共に活躍し、英国の「ハープーン」船団を迎撃。英駆逐艦ベドウィン」及び大型タンカー「ケンタッキー」を撃沈する事に成功する活躍を見せた。8月中旬の「ペデスタル」船団攻撃にも従事している。

同年12月4日にはナポリ港停泊中に米軍機の爆撃を受け大破し、1943年の休戦直前に修復が完了している。その後、パレルモ沖の米船団を「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」と共に攻撃した後、休戦を迎えた。戦後まで生き残り、その高速能力を生かして復員輸送船として活躍している。新生イタリア海軍でも保有が認められ、1964年まで練習艦として機能した。解体後、船体の一部(マストと砲)はウンブリア州ペルージャにあるテーマパーク「チッタ・デッラ・ドメニカ」に保存されている。

 艦名の由来:

ライモンド・モンテクッコリ伯(Raimondo Montecuccoli)

f:id:italianoluciano212:20190424231938j:plain

ライモンド・モンテクッコリ伯(Raimondo Montecuccoli)

艦名の由来になったのは、17世紀に活躍した神聖ローマ帝国軍元帥ライモンド・モンテクッコリ伯(Raimondo Montecuccoli)神聖ローマ帝国軍を率いた将軍で、三十年戦争カストロ戦争、第四次墺土戦争、北方戦争ネーデルラント継承戦争など多くの戦いに参加した名将として知られている。なお、子孫のグラーフ・ルドルフ・モンテクッコリは第一次世界大戦直前までオーストリア=ハンガリー海軍の総司令官だった。

 

◇ムツィオ・アッテンドーロ(Muzio Attendolo)

f:id:italianoluciano212:20190424232835j:plain

軽巡洋艦「ムツィオ・アッテンドーロ(Muzio Attendolo)」

モンテクッコリ級軽巡洋艦の2番艦。就役は1935年8月7日。

第二次世界大戦参戦時はリッカルド・パラディーニ提督率いる第二艦隊隷下第七巡洋艦隊(ルイージ・サンソネッティ提督指揮)所属(母港はラ・スペツィア)。主な任務は英船団への攻撃や、北アフリカへの補給支援などで、積極的に作戦行動に従事した。1940年7月9日には、モナステラーチェ沖で発生した、地中海初の大規模海戦「プンタ・スティーロ沖海戦」にも参加している。第一次シルテ湾海戦にも参加。

中部地中海及びアドリア海方面での船団護衛任務に従事した後、1942年8月中旬に英「ペデスタル」船団攻撃に従事したが、英潜水艦「アンブロークン」の攻撃を受けて大きく損傷。メッシーナで応急修復を受けた後、ナポリ港にて本格的な修復のためにドック入りとなった。しかし、1942年12月4日、修復中に米軍機の攻撃を受けて港内で撃沈されてしまった。

艦名の由来:ムツィオ・アッテンドーロ・スフォルツァ(Muzio Attendolo Sforza)

f:id:italianoluciano212:20190424233740j:plain

ムツィオ・アッテンドーロ・スフォルツァ(Muzio Attendolo Sforza)

艦名の由来になったのは、スフォルツァ家の始祖であるムツィオ・アッテンドーロ・スフォルツァ(Muzio Attendolo Sforza)である。本名はジャコモ・アッテンドーロ(Giacomo Attendolo)。ロマーニャ地方出身で、兄弟らと共にアルベリーコ・ダ・バルビアーノの傭兵団に加わったが、後にフィレンツェ側に仕え、カザレッキオの戦いでボローニャフィレンツェ連合軍を率いた。しかし、元隊長のダ・バルビアーノに敗北した後、ナポリに仕える。ナポリで優れた才能を開花させたアッテンドーロは、イタリア最高の傭兵隊長と呼ばれるまでとなった。アッテンドーロはイタリア語で「威服者」を意味する"スフォルツァ"の称号を得、それが彼の家名となり、後にミラノを支配するスフォルツァ家の始祖となったのである。

 

◆ドゥーカ・ダオスタ級

(Classe Duca d’Aosta)

◇エマヌエーレ・フィリベルト・ドゥーカ・ダオスタ(Emanuele Filiberto Duca d'Aosta)

f:id:italianoluciano212:20190424225629j:plain

軽巡洋艦「エマヌエーレ・フィリベルト・ドゥーカ・ダオスタ(Emanuele Filiberto Duca d'Aosta)」

ドゥーカ・ダオスタ級軽巡洋艦の1番艦。就役は1935年7月13日。

第二次世界大戦参戦時はリッカルド・パラディーニ提督率いる第二艦隊隷下第七巡洋艦隊(ルイージ・サンソネッティ提督指揮)所属(母港はラ・スペツィア)。主な任務は輸送船団の船団護衛と、機雷原の敷設任務であった。1940年7月9日には、モナステラーチェ沖で発生した、地中海初の大規模海戦「プンタ・スティーロ沖海戦」にも参加している。第一次シルテ湾海戦や、ギリシャ領のコルフ島砲撃にも参加。

その後、英国のマルタ補給船団攻撃任務に積極的に従事する。1942年6月中旬にはダ・ザーラ提督の指揮下のもと、パンテッレリーア沖海戦に参加し、英「ハープーン」船団を迎撃する。8月中旬の英「ペデスタル」船団攻撃にも参加。更には東地中海の英軍基地砲撃の一環として、石油精製所がある英軍のハイファ港を砲撃した。休戦直前の1943年8月には、ジュゼッペ・フィオラヴァンツォ提督の指揮のもと、連合軍占領下に置かれていたパレルモへの砲撃を実行。

「ドゥーカ・ダオスタ」は第二次世界大戦時に多くの作戦に参加したが、敵軍機による航空攻撃や潜水艦による雷撃を受けなかったため、「幸運艦」と言われる。休戦後、共同交戦海軍の一員として中部大西洋における哨戒任務に従事した。戦後まで生き残ったが、平和条約の結果ソ連への賠償艦として引き渡されることとなり、1949年に「ケルチ」としてソ連海軍で就役した。1959年除籍。

艦名の由来:エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア・アオスタ(Emanuele Filiberto di Savoia-Aosta)

f:id:italianoluciano212:20190425000928j:plain

エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア・アオスタ(Emanuele Filiberto di Savoia-Aosta)

艦名の由来になったのは、アオスタ公(ドゥーカ・ダオスタ)エマヌエーレ・フィリベルトイタリア王家であるサヴォイア家の分家筋であるサヴォイア・アオスタ家の当主で、第一次世界大戦時にイタリア陸軍の第三軍を指揮した将軍である。第二次世界大戦時に東アフリカ戦線で全軍の指揮を取った空軍大将アメデーオや、「トミスラヴ2世」としてクロアチア国王となった海軍提督アイモーネの父でもあった。イタリア王族の中ではいち早くムッソリーニの支援者となった人物でもあり、ファシスト政権の成立の後押しをした。

 

◇エウジェニオ・ディ・サヴォイア(Eugenio di Savoia)

f:id:italianoluciano212:20190425001501j:plain

軽巡洋艦「エウジェニオ・ディ・サヴォイア(Eugenio di Savoia)」

ドゥーカ・ダオスタ級軽巡洋艦の2番艦。就役は1936年1月16日。

第二次世界大戦参戦時はリッカルド・パラディーニ提督率いる第二艦隊隷下第七巡洋艦隊(ルイージ・サンソネッティ提督指揮)の旗艦(母港はラ・スペツィア)。主な任務は輸送船団の護衛や機雷原の敷設などで、積極的に作戦行動に従事した。1940年7月9日には、モナステラーチェ沖で発生した、地中海初の大規模海戦「プンタ・スティーロ沖海戦」にも参加している。「ライモンド・モンテクッコリ」や、姉妹艦の「ドゥーカ・ダオスタ」と共にコルフ島砲撃も実行している。

何かと「ライモンド・モンテクッコリ」と共に戦果を挙げている。1942年6月中旬に発生したパンテッレリーア沖海戦では、アルベルト・ダ・ザーラ提督の旗艦として英「ハープーン」船団の迎撃に参加。「モンテクッコリ」と共に英駆逐艦ベドウィン」及び大型タンカー「ケンタッキー」を撃沈する働きを見せた。8月中旬に行われた英「ペデスタル」船団の迎撃にも参加している。

1942年12月4日にはナポリ港停泊時に米軍機の攻撃を受けたが、幸い損害は軽微であった。翌年1月には対空射撃で連合軍爆撃機2機を撃墜している。休戦後は共同交戦海軍の一員となり、訓練艦として使われた。1944年2月にはモナステラーチェ沖にて(おそらくかつて伊海軍が仕掛けた)機雷に当たり損傷したが、沈没は免れた。戦後、平和条約の結果、ギリシャ海軍に賠償艦として引き渡された。1951年、ギリシャ海軍の「エリ」として就役。「エリ」は第二次世界大戦時にイタリア潜水艦「デルフィーノ」によって撃沈されたギリシャ海軍の軽巡洋艦の名前でもあった。パパドプロス大佐の軍事政権では反体制派の牢獄として使われている。1973年除籍。

艦名の由来:エウジェニオ・ディ・サヴォイア(Eugenio di Savoia)

f:id:italianoluciano212:20190425003101j:plain

エウジェニオ・ディ・サヴォイア(Eugenio di Savoia)

艦名の由来は、日本ではドイツ語名のオイゲン公(オイゲン・フォン・ザヴォイエン)で知られるエウジェニオ・ディ・サヴォイア(Eugenio di Savoia)オーストリアに仕えた名将で、イタリア海軍のみならず、ドイツ海軍(アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦プリンツ・オイゲン」)、オーストリア海軍(テゲトフ級戦艦「プリンツ・オイゲン」)及び英国海軍(ロード・クライヴ級モニター「プリンス・ユージーン」)で艦名として採用されている。世界各国の海軍でここまで使われている人物は珍しい。なお、生まれはパリであるがフランス海軍の艦名には使われていない。

 

◆ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ級(Classe Duca degli Abruzzi)

ルイージ・ディ・サヴォイア・ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ(Luigi di Savoia Duca degli Abruzzi)

f:id:italianoluciano212:20190425004138j:plain

軽巡洋艦ルイージ・ディ・サヴォイア・ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ(Luigi di Savoia Duca degli Abruzzi)」

ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ級軽巡洋艦の1番艦。1937年12月1日就役。

やたら長い艦名で有名であるが、「ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」と呼ばれることが多い。第二次世界大戦参戦時はイニーゴ・カンピオーニ提督率いる第一艦隊隷下第八巡洋艦隊(アントニオ・レニャーニ提督指揮)の旗艦(母港はターラント)。主な任務は英船団への攻撃や、北アフリカへの補給支援などで、積極的に作戦行動に従事した。1940年7月9日には姉妹艦の「ジュゼッペ・ガリバルディ」と共に、モナステラーチェ沖で発生した、地中海初の大規模海戦「プンタ・スティーロ沖海戦」にも参加している。

1941年3月のマタパン岬沖海戦にも参加。同年9月には英「ハルバード」船団を迎撃し、戦艦「ネルソン」「ロドニー」を中心とするH部隊をジブラルタルに追い返す働きを見せているが、ボイラーの故障によって高速能力が出せず、行動が制限された。11月21日、北アフリカへの船団護衛中に英軍機の雷撃を受け、修復を受けた。ギリシャ制圧後、エーゲ海・東地中海方面での船団護衛ハイファ砲撃などに参加した。

休戦後、共同交戦海軍の一員として南部大西洋での対潜哨戒任務に従事。戦後も新生イタリア海軍で保有する事が認められ、王制廃止後に旧王族の移送を行った。練習艦ではなく、現役の巡洋艦として長く現役で、1961年に除籍となった。

艦名の由来:ルイージ・アメデーオ・ディ・サヴォイア・アオスタ(Luigi Amedeo di Savoia-Aosta)

f:id:italianoluciano212:20190425010632j:plain

ルイージ・アメデーオ・ディ・サヴォイア・アオスタ(Luigi Amedeo di Savoia-Aosta)

艦名の由来になったのは、アブルッツィ公(ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ)ルイージ・アメデーオ・ディ・サヴォイア・アオスタである。イタリア王族の一人で、サヴォイア家の分家に当たるサヴォイア・アオスタ家の人物スペイン王アマデオ1世として知られている初代サヴォイア・アオスタ公アメデーオ・フェルディナンド・マリーア・ディ・サヴォイア・アオスタの三男。先ほど紹介したエマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア・アオスタの弟でもある。探検家・登山家として広く世の中に知られている他、第一次世界大戦後は東アフリカのソマリア植民地での開拓事業に尽力し、多くの功績を残している第一次世界大戦時は海軍提督として、新型戦艦「コンテ・ディ・カヴール」を旗艦として、イタリア艦隊を指揮した

 

ジュゼッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi)

f:id:italianoluciano212:20190425011439j:plain

軽巡洋艦ジュゼッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi)」

ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ級軽巡洋艦の2番艦。就役は1938年6月13日。

第二次世界大戦参戦時はイニーゴ・カンピオーニ提督率いる第一艦隊隷下第八巡洋艦隊(アントニオ・レニャーニ提督指揮)所属(母港はターラント)。主な任務は英船団への攻撃や、北アフリカへの補給支援などで、積極的に作戦行動に従事した。1940年7月9日には姉妹艦の「ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」と共に、モナステラーチェ沖で発生した、地中海初の大規模海戦「プンタ・スティーロ沖海戦」にも参加している。

その後、積極的に英船団への攻撃を実行。1940年12月のターラント空襲時には、ターラント港に停泊していたが、被害には合っていない。ターラント空襲の陽動として発生したオトラント海峡海戦に対して、素早く英艦隊の迎撃に向かったが会敵はしなかった。1941年3月のマタパン岬沖海戦には「ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」と共に参加している。7月28日、マレッティモ島沖にて英潜水艦「アップホルダー」の雷撃を受けて損傷、大きく浸水したが船員の優れたダメージコントロールの結果、被害を最小限に抑える事が出来た。約4カ月の修復の後、艦隊に復帰。

その後、北アフリカへの船団護衛に積極的に従事。休戦後は共同交戦海軍の一員として、地中海や中部大西洋での哨戒任務に従事している。戦後も新生イタリア海軍での保有が認められ、更には1961年にはイタリア海軍初のミサイル巡洋艦として改修を受け、再就役しているポラリスミサイル発射筒が搭載されたが、核弾頭を搭載したポラリスミサイルの配備を巡ってイタリア国内は荒れ、結局は配備されなかった。1978年除籍。

艦名の由来:

ジュゼッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi)

f:id:italianoluciano212:20190425013431j:plain

ジュゼッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi)

艦名の由来になったのはジュゼッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi)。日本の教科書にも載っている、リソルジメント期の最重要人物の一人で、カヴールとマッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」イタリアの国民的な英雄であり、イタリア最大の名将と称される。イタリアだけでなく、南米でも軍事的な功績を挙げ、「二つの世界の英雄」と呼ばれた。最も有名な実績は、リソルジメントにおいて、赤シャツ隊を率いてシチリアに上陸し、そこからイタリア南部に攻め入り、両シチリア王国を征服したことである。その後、征服地をサルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上し、イタリア統一に大きく貢献した。

 

◆カピターニ・ロマーニ級

(Classe Capitani Romani)

◇アッティーリオ・レゴロ(Attilio Regolo)

f:id:italianoluciano212:20190425014228j:plain

軽巡洋艦「アッティーリオ・レゴロ(Attilio Regolo)」

カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦の1隻。就役は1942年5月14日。

就役時期的にはイタリア海軍と英海軍がマルタを巡って熾烈に争っていた頃で、「アッティーリオ・レゴロ」の就役から1カ月後には、英海軍の「ハープーン」船団及び「ヴィガラス」船団阻止のために、イタリア海軍は主力艦隊を派遣し、イアキーノ提督とダ・ザーラ提督の活躍で勝利を手にすることが出来た。就役後、「アッティーリオ・レゴロ」は機雷敷設の任務に従事することとなり、水雷艇数隻と共に11月7日にシチリア南部の海域に機雷の敷設に向かった。この頃、イタリア海軍の燃料は既に枯渇状態に近く、主力艦隊の運用はほぼ不可能であった。更に、今まで善戦していた北アフリカ戦線の状況も逆転しており、戦況は悪い方向に向かっていた。イタリア艦隊の出動は資源の少なさ故に困難、しかし戦況は悪化している、となるとシチリア防衛のためにも機雷原の敷設が急務となったのである。

「アッティーリオ・レゴロ」は機雷の敷設に成功し、母港に帰還する最中だった。そこで悪夢は起こった。シチリア島西部沖にて、英国海軍のU級潜水艦「アンラッフルド」の襲撃を受けたのである。「アンラッフルド」の魚雷攻撃によって、「アッティーリオ・レゴロ」の艦首は吹き飛ばされたが、不幸中の幸いにも撃沈には至らなかった。「アッティーリオ・レゴロ」は同行していた艦に曳航され、何とかメッシーナ港に辿り着いた。その後、修復のためにラ・スペツィア軍港に移動されたが、艦種の修復には建造中の同型艦「カイオ・マリオ」の艦首が使われたのであった。1943年5月に「アッティーリオ・レゴロ」は修復から回復したが、特に作戦に投入されることはなく、休戦まで目立った行動はしなかった。
1943年9月8日、イタリア王国政府は突如休戦を宣言した。しかし、海軍参謀長ラッファエーレ・ド・クールタン提督や、艦隊司令官カルロ・ベルガミーニ提督といった海軍首脳部はこれを当日まで知らされておらず、海軍内部は非常に混乱した。海軍首脳部でさえ情報を把握していなかった以上、当然現場の軍人たちは全くの無知であった。休戦当時、「アッティーリオ・レゴロ」はラ・スペツィア軍港にいた。「アッティーリオ・レゴロ」は戦艦「ローマ」を旗艦とするベルガミーニ提督の艦隊と共に連合軍への登降命令を守るために出発した。ドイツ空軍の襲撃を受けた「アッティーリオ・レゴロ」はバレアレス諸島のマオン湾に到着した。「アッティーリオ・レゴロ」は拿捕されることとなったが、北イタリアにイタリア社会共和国(RSI政権)が成立すると、「アッティーリオ・レゴロ」の船員の中でも南部の王国政府を支持する一派と、北部の社会共和国を支持する一派に分裂することになり、両陣営は対立した。バレアレス諸島を支配するスペインは中立国であったため、「アッティーリオ・レゴロ」の船員たちはそれぞれ自らが支持する陣営の方に合流することとなった。その後も「アッティーリオ・レゴロ」はスペイン当局によって拿捕されていたが、1945年に入ると王国政府の外交交渉の末に、ようやく「アッティーリオ・レゴロ」は解放され、ターラント軍港に帰還した。

こうして戦後まで生き残った「アッティーリオ・レゴロ」であったが、パリ講和条約によって「アッティーリオ・レゴロ」は同型艦「シピオーネ・アフリカーノ」と共にフランス海軍に賠償艦として引き渡された。その後、「シャトールノー」と改称され、1969年までフランス海軍に所属した後、解体された。

艦名の由来:マルクス・アティリウス・レグルス(Marcus Atilius Regulus)

f:id:italianoluciano212:20190425014503j:plain

マルクス・アティリウス・レグルス(Marcus Atilius Regulus)

艦名の由来になったのは、第一次ポエニ戦争でローマ軍を指揮したマルクス・アティリウス・レグルス(Marcus Atilius Regulus)のイタリア語読み「マルコ・アッティーリオ・レゴロ」から。カピターニ・ロマーニ級は古代ローマの人物名を由来としている。

 

◇シピオーネ・アフリカーノ(Scipione Africano)

f:id:italianoluciano212:20190425014840j:plain

軽巡洋艦「シピオーネ・アフリカーノ(Scipione Africano)」

カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦の1隻。就役は1943年4月23日。

「シピオーネ・アフリカーノ」が就役した頃、既に北アフリカ戦線は最終局面を迎えていた。もはやチュニジアで奮戦する枢軸軍に希望は無い状態であった。5月13日に北アフリカ全軍の司令官であったジョヴァンニ・メッセ将軍が降伏すると、北アフリカは完全に失墜した。北アフリカが連合国の手に落ちた以上、最早イタリア本土戦は秒読みとなっていた。連合国軍の猛攻によって、パンテッレリーア島やランペドゥーザ島といった地中海の島々が制圧され、遂に7月になるとシチリアにまで連合軍は上陸した。

この状態でも主力艦隊が石油の枯渇で出動出来ないイタリア海軍は、連合軍に制海権を奪われており、完全に手詰まりとなっていた。その状況で、封鎖されたメッシーナ海峡を突破する作戦がイタリア海軍で立案され、それを実行する艦として、軽巡洋艦「シピオーネ・アフリカーノ」が選ばれたのである。7月15日に「シピオーネ・アフリカーノ」はラ・スペツィア軍港を出発、メッシーナ海峡に向かった。7月17日の早朝に海峡の突破作戦「シッラ」が発動され、「シピオーネ・アフリカーノ」は早朝2時に英海軍が封鎖するメッシーナ海峡に侵入した。イタリア海軍は元々レーダー技術の不足から、夜間戦闘が大の苦手であった。そのため、マタパン岬の海戦では惨敗を喫し、巡洋艦3隻を一度に失う損害を被ったのである。

それ以降、イタリア艦隊は夜戦を避けていたのであるが、新鋭のレーダー「グーフォ」を備えた「シピオーネ・アフリカーノ」にはその必要は無かった。「シピオーネ・アフリカーノ」はメッシーナ海峡突破時、海峡を哨戒する4隻の英国海軍の魚雷艇に発見され、攻撃を受けたが、「シピオーネ・アフリカーノ」はその高速能力を生かして、レーダーの力で夜戦の主導権を握った。こうして「シピオーネ・アフリカーノ」は海峡の突破に成功し、ターラント軍港に到着したのであった。

「シピオーネ・アフリカーノ」を襲撃した英海軍の魚雷艇4隻は、イタリア海軍は3隻を撃沈と主張したが、実際は1隻を撃沈、2隻は大破であった。その後、「シピオーネ・アフリカーノ」は、軽巡洋艦ルイージ・カドルナ」と共に8月4日から17日までの間にターラント湾からスクイッラーチェ湾にかけてのイオニア海沿岸に4箇所の機雷原を敷設し、連合軍の侵攻の妨害に貢献したのであった。なお、この時「シピオーネ・アフリカーノ」の機関長を務めたのはウンベルト・バルデッリ少佐で、後にRSI軍「デチマ・マス」の海兵大隊「バルバリーゴ」の司令官を務めた人物である。

休戦後は南部の王国政府に合流し、共同交戦海軍の一員として主に輸送任務に従事した。戦後、パリ講和条約フランス海軍の賠償艦として引き渡されることが決定となり、その後フランス海軍で「ギシャン」として就任、1976年まで使われた。

艦名の由来:スキピオ・アフリカヌス(Scipio Africanus)

f:id:italianoluciano212:20190425015104j:plain

スキピオ・アフリカヌス(Scipio Africanus)

艦名の由来になったのは、第二次ポエニ戦争カルタゴハンニバルを打ち破った人物として知られているスキピオ・アフリカヌス(Scipio Africanus)。このイタリア語読みが「シピオーネ・アフリカーノ」である。漫画『ドリフターズ』にも登場。

 

◇ポンペオ・マーニョ(Pompeo Magno)

f:id:italianoluciano212:20190425015241j:plain

軽巡洋艦「ポンペオ・マーニョ(Pompeo Magno)」

カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦の1隻。就役は1943年6月24日。

「ポンペオ・マーニョ」は6月4日の竣工後、間もなく就役となった。ターラント軍港での配備となり、他の同型艦と同様に機雷敷設任務に従事。就任時期故に、同艦が任務に従事したのは休戦までの僅か3カ月となったが、ターラントを母港として10回の機雷敷設任務に従事した。7月12日深夜から13日早朝に掛けて、「ポンペオ・マーニョ」はメッシーナ海峡にて5隻の英国海軍の魚雷艇と遭遇したが、その性能を生かして、2隻を撃沈、1隻を大破させる活躍を見せた

9月8日の休戦時、「ポンペオ・マーニョ」はターラント軍港にいた。当時のターラント軍港には戦艦「カイオ・ドゥイリオ」及び「アンドレア・ドーリア」、そして「ポンペオ・マーニョ」と同型艦の「シピオーネ・アフリカーノ」、更に軽巡洋艦ルイージ・カドルナ」が停泊していた。その他、駆逐艦水雷艇、潜水艦、コルベットが16隻ほどあったが、多くは任務中で連合軍への引き渡しを遂行できる準備は出来ていなかった。

連合軍への引き渡し後、「ポンペオ・マーニョ」は共同交戦海軍に所属し、「シピオーネ・アフリカーノ」と共に主に輸送任務に従事した。戦後、「ポンペオ・マーニョ」はイタリア海軍で引き続き就役する事が許可された数少ない艦艇の一つであった。改修後、駆逐艦「サン・ジョルジョ」として1955年に再就役することとなり、1987年に解体された。

艦名の由来:グナエウス・ポンペイウス・マグヌス(Gnaeus Pompeius Magnus)

f:id:italianoluciano212:20190425015541j:plain

グナエウス・ポンペイウス・マグヌス(Gnaeus Pompeius Magnus)

艦名の由来となったのは、カエサルクラッススと共に三頭政治をやったグナエウス・ポンペイウス・マグヌスから。彼のイタリア語読みがニェオ・ポンペオ・マーニョである。マーニョ(マグヌス)は「偉大な」とか「大いなる」とかそういう意味で、例えば、カルロマーニョ(シャルルマーニュ)やマーニャ・グレーチャ(マグナ・グラエキア)といった感じで使われる。なお、戦間期ムッソリーニが日本に贈った白虎隊の慰霊碑は彼の廟の柱を使ったものらしい。

 

◇ジュリオ・ジェルマニコ(Giulio Germanico)

f:id:italianoluciano212:20190425015854j:plain

軽巡洋艦「ジュリオ・ジェルマニコ(Giulio Germanico)」

カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦の1隻
休戦時(1943年9月8日)にはまだ未完成の状態であったが、94%完成しており、既に艦長ドメニコ・バッフィーゴ少佐ら乗組員は乗艦していた。休戦時、「ジュリオ・ジェルマニコ」はナポリ近郊のカステッランマーレ・ディ・スタービアにいた。そろそろ艦の完成間近という段階で、イタリアの休戦が突如発表されたのであった。

イタリア休戦後、ドイツ軍はイタリア艦隊の拿捕のためにカステッランマーレ・ディ・スタービア港への攻撃を開始した。3日間の激しい戦闘の末、バッフィーゴ艦長らは降伏交渉の場に招かれた。しかし、ドイツ軍はバッフィーゴ艦長ら「ジュリオ・ジェルマニコ」の船員らを虐殺し、「ジュリオ・ジェルマニコ」を拿捕したのであった。

しかし、「ジュリオ・ジェルマニコ」がドイツ海軍の旗の下で使われる事は無かった。連合軍がイタリア本土に進撃を始めると、ドイツ軍はカステッランマーレ・ディ・スタービアから撤退を開始し、「ジュリオ・ジェルマニコ」はドイツ人の手によって自沈されることとなったからである。殺害されたバッフィーゴ艦長らは戦後、金勲章を受勲された。戦後、イタリア海軍によって浮揚・修復された「ジュリオ・ジェルマニコ」は、共和国海軍の一員として就任する事が講和条約によって許可されることとなり、駆逐艦「サン・マルコ」として1956年に再就役した。1971年に解体。

艦名の由来:ゲルマニクスユリウス・カエサル(Germanicus Julius Caesar)

f:id:italianoluciano212:20190425020151j:plain

ゲルマニクスユリウス・カエサル(Germanicus Julius Caesar)

艦名の由来は、アルミニウス率いるゲルマン軍と戦いを繰り広げたローマ帝国の指揮官ゲルマニクスから。有能な指揮官であり、非常に人気が高かった。彼のイタリア語読みがジェルマニコ・ジュリオ・チェーザレ

 

◇ウルピオ・トライアーノ(Ulpio Traiano)

f:id:italianoluciano212:20190425020450j:plain

軽巡洋艦「ウルピオ・トライアーノ(Ulpio Traiano)」

カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦の一隻。未完成。

進水は1942年11月30日。1943年1月3日、パレルモ港にて英海軍の人間魚雷「チャリオット」の攻撃によって撃沈された。戦後に浮揚、解体。

艦名の由来:トラヤヌス帝(Trajanus)

f:id:italianoluciano212:20190425020753j:plain

トラヤヌス帝(Trajanus)

艦名の由来になったのは、ローマ皇帝トラヤヌスのイタリア語読み「トライアーノ(Traiano)」から。ローマ皇帝の中でも特に名君と言われ、ローマ帝国最大の版図を実現した人物。現在もトラヤヌス時代に作られた建築は多く残っている。なお、属州ヒスパニアの出身であり、初の属州出身のローマ皇帝である

 

◇オッタヴィアーノ・アウグスト(Ottaviano Augusto)

f:id:italianoluciano212:20190425021142j:plain

軽巡洋艦「オッタヴィアーノ・アウグスト(Ottaviano Augusto)」

カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦の一隻。未完成。

進水は1942年5月31日。休戦時はアンコーナ港にいたが、連合軍に引き渡すには準備が出来ておらず、侵攻してきたドイツ軍によって拿捕された。1943年11月1日に連合軍のアンコーナ爆撃によって撃沈され、戦後に浮揚・解体された。

艦名の由来:アウグストゥス帝(Augustus)

f:id:italianoluciano212:20190425021329j:plain

アウグストゥス帝(Augustus)

艦名の由来は、言わずと知れた初代ローマ皇帝アウグストゥスのイタリア語読み「アウグスト(Augusto)」。また、元々の名前であるオクタヴィアヌスのイタリア語読み「オッタヴィアーノ(Ottaviano)」から。

 

以降のカピターニ・ロマーニ級軽巡は、

「カイオ・マリオ(Caio Mario)」

「コルネリオ・シッラ(Cornelio Silla)」

「クラウディオ・ドルソ(Claudio Druso)

「クラウディオ・ティベリオ(Claudio Tiberio)」

「パオロ・エミーリオ(Paolo Emilio)」

「ヴェプサニオ・アグリッパ(Vipsanio Agrippa)」

が存在するが、いずれも未完成。以下、モデルとなった人名のみを記載。

「カイオ・マリオ(Caio Mario)」

共和政ローマ時代の軍人ガイウス・マリウスのイタリア語読み。

「コルネリオ・シッラ(Cornelio Silla)」

共和政ローマ時代の軍人コルネリウス・スッラのイタリア語読み。

「クラウディオ・ドルソ(Claudio Druso)」

大ドルススのイタリア語読み。

「クラウディオ・ティベリオ(Claudio Tiberio)」

ティベリウスのイタリア語読み。

「パオロ・エミーリオ(Paolo Emilio)」

共和政ローマ時代の軍人ルキウス・アエミリウス・パウッルスのイタリア語読み。

「ヴェプサニオ・アグリッパ(Vipsanio Agrippa)」

アグリッパのイタリア語読み。

 

ざっと全体を見てみると、第二次世界大戦時のイタリア海軍の大型・中型艦(戦艦・水上機母艦巡洋艦)で人名由来の艦名だと、多いのは陸軍の司令官である。海軍軍人となると、カイオ・ドゥイリオ級戦艦の「カイオ・ドゥイリオ(ガイウス・ドゥイリウス)」と「アンドレア・ドーリア」、ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ級軽巡洋艦の「ルイージ・ディ・サヴォイア・ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」、あと海軍航空隊のパイロットであるが、水上機母艦の「ジュゼッペ・ミラーリア」くらいだ。

潜水艦や駆逐艦といった小型艦では、海軍提督や航海士の人名由来の艦名が多くみられるが、大型・中型艦では比較的少ないことがわかった。次回の更新でも引き続き人名由来の艦名について調べてみることとしよう。

続き

https://associazione.hatenablog.com/entry/2019/04/25/232400?_ga=2.28443068.1043879650.1556022395-676478106.1555152540

 

友軍の窮地を救え!イタリア空軍「特別航空補給コマンド(S.A.S.)」による戦場への物資・人員補給作戦

第二次世界大戦時、イタリア軍の戦場はしばしば孤立した。例えば、まず最初に挙げられるのは東アフリカ戦線。1936年にイタリアがエチオピア帝国を征服し、その結果それまで植民地として保有していたエリトリア及びソマリアと合併して誕生した「イタリア領東アフリカ帝国(A.O.I.)」だが、他にイタリアがアフリカに保有する植民地であるリビアとはその間に英国が支配するスーダンとエジプトがあるため、隔てられていた。また、北アフリカリビアさえも、英海軍の制海権が明らかになってくると本国からの輸送船による輸送が困難になっていってしまう。ロシアの東部戦線においてもそうだ。ソ連軍の包囲によって、イタリア軍部隊がしばしば孤立状態に陥ることがあった。

そこで、そういった孤立した戦場で苦しむイタリア陸軍部隊の生命線を紡いだのが、「特別航空補給コマンド(S.A.S., Comando servizi aerei speciali)」であった。これは、空軍特殊部隊の一つで、孤立してしまった戦場への補給任務を担当する輸送部隊である。略称は"Comando servizi aerei speciali"を略した"C.S.A.S."と、"Servizi aerei speciali"を略した"S.A.S."がある。文献では後者が良く使われるため、後者を選択する。

今回は、このS.A.S.について、ちょっと調べてみようと思う。

 

◆S.A.S.の構造

f:id:italianoluciano212:20190419114625j:plain

アウレリオ・リオッタ(Aurelio Liotta)将軍。イタリア空軍の主要な将軍の一人。「特別航空補給コマンド(SAS)」の司令官として、空軍の補給作戦を指揮。軍の航空機だけでなく民間企業の輸送機も集め、海上輸送が困難な領域への補給任務を実行した。エチオピア潜像時に敵軍の攻撃で重傷を負っており、そのため片目と片足を失っている。

S.A.S.を率いたアウレリオ・リオッタ(Aurelio Liotta)将軍はシチリアのサンターガタ・ディ・ミリテッロという町の貴族出身の空軍将軍で、第一次世界大戦時にベルサリエリ士官として参加した後、大戦中に飛行士となった人物だ。空軍創設にも関わっている。エチオピア征服後、東アフリカのイタリア空軍部隊の指揮を取ったが、アディスアベバで行われた式典の際にグラツィアーニ将軍らと共にエチオピアレジスタンスのテロ攻撃に遭遇し、その結果片足を切断しなければならない重傷を負った。また、片目の視力も失っている。重傷を負ったリオッタ将軍だったが、駐独イタリア大使館駐在武官として勤務した後、上院議員に選ばれた。

とはいえ、彼がのんびり上院議員として隠居するようなことはなかった。間もなく欧州に軍靴の音が聞こえてくると、リオッタ将軍は新たに創設される「特別航空補給コマンド(S.A.S.)」の司令官となったのである。S.A.S.は空軍参謀本部の直轄で、この部隊は孤立した戦場への補給任務を担当することを目的としたが、その編制は開戦時の段階で以下の通りである。

f:id:italianoluciano212:20190419152113j:plain

S.A.S.の輸送機部隊。

◆第147輸送航空群(第601飛行隊、第602飛行隊、第603飛行隊)

リットーリア(現ラティーナ)空港

サヴォイアマルケッティ SM.75輸送機×13機

◆第148輸送航空群(第605飛行隊、第606飛行隊)

:レッジョ・カラーブリア空港

サヴォイアマルケッティ SM.73輸送機×13機

◆第149輸送航空群(第607飛行隊、第608飛行隊、第609飛行隊)

ナポリ空港

サヴォイアマルケッティ SM.82"カングーロ"輸送機×12機

◆独立飛行隊(第611飛行隊、第615飛行隊、第616飛行隊)

レダ Ba.44輸送機×5機, サヴォイアマルケッティ SM.83輸送機×8機、サヴォイアマルケッティ SM.74×3機

北アフリカ輸送航空群(第146輸送航空群)

サヴォイアマルケッティ SM.75×14機、サヴォイアマルケッティ SM.81

◆東アフリカ輸送航空群

サヴォイアマルケッティ SM.73、カプロニ Ca.133T、カプロニ Ca.148C、IMAM Ro.10

◆その他(連絡飛行隊等)所属機

サヴォイアマルケッティ SM.83×13、サヴォイアマルケッティ SM.82×2、サヴォイアマルケッティ SM.86×1、サヴォイアマルケッティ SM.87×1、サヴォイアマルケッティ SM.79×2、サヴォイアマルケッティ SM.75×8、サヴォイアマルケッティ SM.73×1、サヴォイアマルケッティ S.71×2、カプロニ Ca.310×6、FIAT BR.20×3、FIAT APR.2×1、FIAT CR.42×4、FIAT G.12×3、FIAT G.18V×6、FIAT G.50×1、マッキ MC.94×6、マッキ MC.100×4、CANT Z.506×4、IMAM Ro.10×2、ユンカース Ju-52×6、ダグラス DC-2×2、ダグラス DC-3×1

これらの輸送機たちは軍用機のみならず、アラ・リットーリア航空を始めとした民間航空企業の保有の輸送機・旅客機もかき集められて使われた。そのため、SASは民間航空企業関係者の人員も多く存在した。

 

◆東アフリカへの補給作戦

f:id:italianoluciano212:20190419133814j:plain

ウンベルト・クリンゲル(Umberto Klinger)。バルボ元帥とも親しい友人だった飛行士で、元アルディーティ兵出身。ダンヌンツィオのフィウーメ進軍にも参加している。イタリア初の国営航空会社「アラ・リットーリア航空」の創設者として、民間航空路線の拡大に尽力した。

その一人が、ウンベルト・クリンゲル(Umberto Klinger)である。北イタリア・ピエモンテ州のサルッツォに生まれた彼は、「イタリア空軍の父」であるイタロ・バルボ空軍元帥の親しい友人である飛行士だ。その特徴的な名前から、おそらくドイツ系の家庭だと思われる。第一次世界大戦ではアルディーティ部隊の一員として山岳戦でオーストリア軍と戦い、ダンヌンツィオのフィウーメ進軍にも参加、更にはバルボと共にフェッラーラのファシスト党支部の一員として活動した。

空軍の威信を高めようとするバルボ元帥は民間航空路線の拡大を目指し、クリンゲルにそれを任せた。クリンゲルは6つの民間航空企業を合併し、イタリア初の国営航空企業「アラ・リットーリア航空」を創設する。クリンゲルは「アラ・リットーリア航空」の社長として、民間航空路線の拡大を目指し、地中海領域とアフリカ全域を結ぶ航空路線を作りだし、更に旅客路線だけでなく空輸便の貿易網を構築していった

f:id:italianoluciano212:20190419141401j:plain

バルボ(左)とクリンゲル(右)。二人は個人的な友人同士でもあった。

第二次世界大戦の開戦時、クリンゲルは空軍中佐の地位にあったが、S.A.S.の一員(後にS.A.S.の参謀長に就任)として活動することとなる。1940年6月、イタリアは英仏に宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦した。これに対し、英国はスエズ運河を封鎖し、東アフリカに植民地を持つイタリアは海上輸送が不可能となるため、東アフリカ戦線のイタリア軍は孤立することとなる。そこで、S.A.S.が活躍することとなるのだ。クリンゲルは輸送機を夜間の飛行や英軍が駐屯していない砂漠を飛行させることを駆使し、孤立した戦場である東アフリカ戦線への空の補給路を確立したのであった。

この実績は素晴らしいものだった。一般的に物資が殆ど補給されなかったと思われがちな東アフリカ戦線だが(私自身も今までそう思ってた)、この結果、約275トンもの物資と約8万通もの郵便、約1800人もの軍人及び民間人が東アフリカ戦線に運ばれたのである。これにより、クリンゲルは銀勲章を叙勲されている。

 

◆S.A.S.の発展

f:id:italianoluciano212:20190419143236p:plain

ヴィンチェンツォ・ヴェラルディ将軍(Vincenzo Velardi)。イタリア空軍の重要な将軍の一人。リオッタ将軍の後任としてS.A.S.の司令官に就任し、S.A.S.の発展に尽力した将軍。S.A.S.の主な功績は基本的に彼の指揮下で行われたものである。

1941年、S.A.S.の司令官はリオッタ将軍からヴィンチェンツォ・ヴェラルディ将軍(Vincenzo Velardi)に指揮権が引き渡された。新たな司令官であるヴェラルディ将軍のもとで更にS.A.S.は発展することとなる。ヴェラルディ将軍は第一次世界大戦で飛行士として活躍した人物で、中部マルケ州のマチェラータ出身。スペイン内戦では遠征空軍(Aviazione Legionaria)の司令官を務め、バルチェロナ空爆を指揮し、スペイン共和国側に大きな打撃を与えた。第二次世界大戦時は第一戦闘航空師団「アクィラ」の司令官であったが、リオッタ将軍の後任としてS.A.S.の司令官に選ばれた。

S.A.S.は現地部隊が必要とする「最も必要な物資」を迅速に届ける存在として信頼されていった遠く離れた戦線である東アフリカ戦線や東部戦線への食糧や医薬品、弾薬、燃料などの兵士にとって必要不可欠なものの輸送のほか、作戦資料など重要な書類の配達にも使われ、そういった離れた戦場のみならずギリシャ戦線や北アフリカ戦線など、各戦線でS.A.S.は重宝されたバルカンではユーゴスラヴィア戦線で孤立したクロアチア軍部隊にも補給をしており、北アフリカでは負傷したドイツ兵の輸送も行っており、同盟軍の援助にも尽力した

S.A.S.のパイロットたちは輸送機を駆り、様々な戦場にひっきりなしに荷物を届けたため、「疲れを知らない」とさえも言われた。しかし、彼らの任務は当然、楽なものではなかった。敵機や敵の対空砲火に捕捉され撃墜されたりする機体も少なくなく、危険な仕事であった。彼らの尽力がイタリア軍だけでなく、ドイツを始めとする同盟国軍の空の補給線を絶え間なく紡いだのである。

f:id:italianoluciano212:20190419144624p:plain

フルヴィオ・セッティ(Fulvio Setti)中尉の帰還。左から3番目がセッティ中尉。

このS.A.S.のパイロットたちは卓越した操縦能力の高さで知られていたが、その中で最も知られているのがフルヴィオ・セッティ(Fulvio Setti)中尉である。セッティ中尉はモデナ出身の飛行士。学生時代は優秀な陸上選手として知られており、1936年のベルリンオリンピックで障害物競走のイタリア代表として参加する予定であったが、練習中の怪我で出場を断念する。その後爆撃機乗りとして空軍に入隊した。

セッティ中尉は第二次世界大戦開戦後、S.A.S.に配属となる。サヴォイアマルケッティ SM.82"カングーロ"輸送機を駆り任務に従事したが、1942年に弾薬の輸送中に敵機の襲撃に遭遇し、機体は大きく損傷したが無事目的地に届ける事が出来た。この働きによって銀勲章を叙勲されているが、彼のエピソードはそれだけに終わらないチュニス陥落寸前の1943年5月には、燃料輸送中に米陸軍航空隊のP-38重戦闘機に撃墜され、カルタゴ付近の海岸に強制的に着陸する。既に敵の占領下に置かれていたが、セッティらはボロボロの機体を何とか離陸可能に修復、再度飛行し、一度干上がった湖に着陸して休憩した後、制空権が奪われた状態で何とかシチリアに帰還したのであった。

f:id:italianoluciano212:20190419151227p:plain

アッティーリオ・マトリカルディ(Attilio Matricardi)将軍。ヴェラルディ将軍の後任として、S.A.S.司令官に就任した。第一次世界大戦時は優秀なパイロットであり、エチオピア戦争時には爆撃機部隊を指揮している。

これは奇跡的な帰還であったが、これに対して、セッティの上官は任務中の軍規違反を指摘し、彼を叱責した。しかし、ヴェラルディ将軍の後任としてS.A.S.司令官になっていたアッティーリオ・マトリカルディ(Attilio Matricardi)将軍はセッティらの行動を讃え、イタリア軍最高位の勲章である金勲章を叙勲したのであった。

 

こうして、S.A.S.は1943年の休戦までに多くの任務を経験した。すべての戦場(アフリカ戦線、東部戦線、バルカン戦線、地中海戦線等)で計25114回の任務を経験し、17,845.318トンもの物資と4,323,289便もの郵便を運んだ。運んだ人員は民間人と軍人を合わせて336,904人。総移動距離は24,454,991kmにまで及んだのであった。

イタリア空軍はあまり知られていないものの、こういった「空の補給路」を持っていた。そう考えると、第二次世界大戦中に枢軸国で唯一欧州-極東の航空連絡便(1942年のローマ-東京飛行)を実行出来た理由も伺える。長距離飛行だけでなく、航空輸送便に関して十分なノウハウがあったのだ。

中国空軍の発展過程におけるイタリア空軍顧問団の影響 ―日本軍と戦った中国空軍のイタリア機たち―

ファシスト政権期のイタリアは中国市場を重要視し、中国での影響拡大を狙っていた特に軍需関連分野の市場、特にイタリアが得意とする空軍の分野で中国政府にアプローチを掛けている。1933年、イタリア空軍は「イタリア空挺部隊の父」と言われるロベルト・ロルディ(Roberto Lordi)将軍率いる空軍顧問団を中国に派遣した。ロルディ将軍は蒋介石主席との信頼関係を構築し、中国空軍の近代化に尽力、その影響もあって総額4800万リレの軍用機と関連機器を売却している(更にロルディ将軍は中国空軍の飛行隊長の地位まで与えられている)。

f:id:italianoluciano212:20190415212753j:plain

ロベルト・ロルディ(Roberto Lordi)。イタリア空軍将軍。「イタリア空挺部隊の父」と評価される人物だが、本人も優れた飛行士であり、サハラ最高峰であるティベスティ山地を世界で初めて飛行する事に成功している。1933年に空軍顧問として中国に派遣され、中国空軍の近代化に尽力した。

こうして、1930年代の中国空軍にとってイタリアは重要なサポーターだった周至柔将軍率いる中国空軍首脳部もイタリア側の姿勢を高く評価し、幹部をイタリアに派遣した。また、イタリア空軍顧問団によって中央航空学校でイタリア機を使ったイタリア式教育が行われた他、イタリアの技術者を杭州や南昌の航空機工廠に招き、航空機の組み立てに関する指導が行われている。空軍礼装の肩章がイタリア式なことからも、中国空軍がイタリアびいきだったことは伺えるだろう。

しかし、その後イタリアによるエチオピア侵攻と、それによる経済制裁への中国政府の支持により、伊中関係は悪化してしまう。更に、1935年にはロルディ将軍はファシスト政権と対立したために解任され帰国、その後任としてシルヴィオスカローニ将軍(Silvio Scaroni)を顧問団の団長としたが、中国側と信頼関係を結んでいたロルディ将軍の突然の解任に対し、蒋介石は不信感をあらわにしたという。とはいえ、その後もイタリア空軍の軍事顧問団による指導は行われた。

f:id:italianoluciano212:20190415232114j:plain

「イ式重爆撃機」として日本に輸出されるFIAT BR.20"チコーニャ"双発爆撃機。日本とイタリアの接近は中国とイタリアの関係悪化を呼び起こした。

結果的にガレアッツォ・チャーノ外相が中国との協力体制から日本との協力体制に舵を切った事で、1938年8月にイタリアは中国への航空機売却を停止し、12月には空海使節の完全撤退を決定した。こうして、イタリアは中国軍にとって重要な協力者ではなくなってしまったのである(ドイツと中国の協力体制である「中独合作」はその後も続いていた)。一方で、日本との関係を重視したイタリアのFIAT社は日本に85機のBR.20"チコーニャ"爆撃機を輸出し、「イ式重爆撃機」という名で日本陸軍によって中国戦線の主力爆撃機として使われている。こうして、中国空軍の重要なパトロンはイタリアからアメリカに変化したのであった。

故に、イタリアは中国空軍の近代化に重要な役割を果たしたものの、日中戦争ではイタリア機が「主力」として中国空軍で使われることはなかった。しかし、輸出されたイタリア航空機が、日中戦争時に日中両軍で使われたという点は興味深いだろう。

ということで、今回は日中戦争時に中国空軍で使われたイタリア機について調べてみようと思う。

 

◆FIAT CR.32戦闘機:24機

f:id:italianoluciano212:20190415215926j:plain

中国空軍仕様のFIAT CR.32戦闘機のCG。

FIAT社製の複葉戦闘機。初飛行は1933年

1936年に中国空軍は24機を購入している。イタリアでも戦間期の主力戦闘機として使われた機体で、優れた性能を持つ複葉戦闘機だった。コンパクトかつ丈夫で、操縦もしやすい好評の機体で、中国のみならず、オーストリアハンガリー、スペイン、ベネズエラにも輸出されている。中国に輸出された機体は整備を単純化させるために武装やエンジンを中国軍仕様に改造されている。首都南京周辺の防空を担当する、中国空軍でも指ぬきのエリート部隊に配備された。しかし、南京防衛戦で全機が失われている。

 

◆FIAT CR.30戦闘機:2機

f:id:italianoluciano212:20190415220406j:plain

FIAT CR.30戦闘機。

FIAT社製の複葉戦闘機。初飛行は1932年

中国空軍には伊中友好の証として、1933年にCR.32戦闘機とともに2機が売却された。CR.32と同様に中国空軍仕様に改造されている。CR.32と共に南京防衛戦で戦ったが、2機とも失われた。

 

◆ブレダ Ba.27戦闘機:12機

f:id:italianoluciano212:20190415221021j:plain

中国空軍仕様のブレダ Ba.27戦闘機。

レダ社製の単葉戦闘機。初飛行は1933年

イタリア空軍では採用されなかった機体だが、1937年に中国空軍が18機を発注し、その内12機(11機とも)が中国空軍に配備された日中戦争が開始し、航空機不足に悩む中国空軍と、イタリア空軍で採用されなかったために海外市場に取引先を探していたブレダ社の利害が一致し、中国に輸出された機体だった。そのため、中国空軍の主力戦闘機の一つとなったものの、実戦での評価は芳しくなく(パイロット曰く扱いづらい機体)、更には墜落事故の多発によって4人の飛行士が死亡している。これはイタリア機全体の中国空軍内での評価も下げる結果となってしまった。

 

サヴォイアマルケッティ SM.81B"ピピストレッロ"爆撃機:3機

f:id:italianoluciano212:20190415225016j:plain

サヴォイアマルケッティ SM.81"ピピストレッロ"爆撃機

サヴォイアマルケッティ社製の三発爆撃機。初飛行は1934年

SM.81BはSM.81の改良型で、馬力が780から840に上昇し、航続距離も長くなっている。中国空軍待望の新型爆撃機で、6機を発注したが、配備されたのはその内3機だった。機体が丈夫で耐久度が高く、防御火器も強力で信頼性が高かった。

 

サヴォイアマルケッティ S.72爆撃機:7機

f:id:italianoluciano212:20190415224240j:plain

中国空軍仕様のサヴォイアマルケッティ SM.72爆撃機

サヴォイアマルケッティ社製の爆撃機。初飛行は1932年

カプロニ Ca.111に置き換わる形で中国空軍に配備された爆撃機1935年に伊中友好の証として、サヴォイアマルケッティ社は試作品のS.72爆撃機を中国空軍に贈り、その性能を気に入った中国空軍側は20機を発注しかし、実際に中国に届いたのは6機のみだった。なお、イタリア空軍では採用されていない。日中戦争で主力爆撃機として使われたが、次第に旧式化したために輸送機として使われた。

 

◆カプロニ Ca.111偵察爆撃機:7機

f:id:italianoluciano212:20190415223319j:plain

中国空軍仕様のカプロニ Ca.111偵察爆撃機

カプロニ社製の偵察爆撃機。初飛行は1932年

デ・ベルナルディのローマ-モスクワ間長距離高速飛行でも知られる機体で、シンプルな設計であるが信頼性が高く、優れた性能を持った爆撃機だった。中国空軍は7機を購入し、日中戦争初期の主力爆撃機として機能した。その信頼性の高さから部隊からの評判も良く、日本軍陣地爆撃で重宝されている。

 

◆カプロニ Ca.101爆撃機/輸送機:14機

f:id:italianoluciano212:20190415222258j:plain

カプロニ Ca.101爆撃機/輸送機。

カプロニ社製の爆撃機/輸送機。初飛行は1928年

元々は民間輸送機として開発された機体だが、軍用機としてもイタリア空軍で使われた。エチオピア戦争では爆撃機として使われた他、偵察任務や輸送任務などにも使われた事実上の多用途機であった。毒ガス散布にも使われている。中国空軍は1933年に14機を購入したが、既に旧式化しており輸送機として使われている

 

◆FIAT BR.3偵察爆撃機:数機

f:id:italianoluciano212:20190415214209j:plain

FIAT BR.3偵察爆撃機

FIAT社製の偵察爆撃機。初飛行は1930年

中国空軍に輸出された数は不明であるが、実戦部隊に使われている日中戦争初期には敵陣地への爆撃や、中国陸軍の地上支援、更には軽巡「逸仙」含む中国艦隊との共同作戦も実行した。ただ、稼働率が低かったようで、アメリカ軍の航空武官が中国に到着した頃にはほぼ半数しか飛行が出来なくなっていたという。結局、時代遅れの機体であったため、時代が経つとともに使われなくなった。

 

◆ブレダ Ba.28練習機:18機

f:id:italianoluciano212:20190415213519j:plain

中国空軍仕様のブレダ Ba.28練習機。

レダ社製の練習機。初飛行は1935年

レダ Ba.25練習機から発展した複葉練習機。Ba.25は国際的に評価が高い練習機として知られ、中国空軍はその発展形であるBa.28を18機購入している。中国空軍の飛行学校での飛行訓練機として使われた。

 

結果的に、中国空軍が購入したイタリア機は
FIAT CR.32戦闘機:24機
FIAT CR.30戦闘機:2機
レダ Ba.27戦闘機:12機
サヴォイアマルケッティ SM.81B"ピピストレッロ"爆撃機:3機
サヴォイアマルケッティ S.72爆撃機:7機
カプロニ Ca.111偵察爆撃機:7機
カプロニ Ca.101爆撃機/輸送機:14機
FIAT BR.3偵察爆撃機:数不明
レダ Ba.28練習機:18機

であった。

結局、イタリアは中国空軍の近代化に重要な役割を果たしたものの、関係悪化によって早期に航空機の輸出を停止したために、中国空軍に輸出されたイタリア機は少数にとどまることとなったのであった

なお余談であるが、イタリアは軍事顧問として空軍顧問団だけでなく、海軍顧問団も派遣していた。これは蒋介石率いる国民政府の海軍ではなく、魚雷艇中心の海軍を作っていた広東軍閥の海軍に影響を与えたようで、2隻のMAS艇が広東軍閥に輸出されている。