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ドゥーチェは石油王の夢を見るか? ―ファシスト政権期のイタリアとリビア植民地の油田—

皆様、お久しぶりです。3月初めにちょいと四度目の南部イタリア遠征に行って参りました。やはり南イタリアは良いですね!天気が良くて、食事も美味しく、物価も安く...観光客にとっては本当に天国です。さて、今回は別に旅行の話をするわけではありません。それもそうで、今回の旅行は母を南イタリアに案内するのが目的だったので、軍事博物館とかは全く行っていないので(例外的にアマルフィのアルセナーレ博物館や、シラクーザの潜水艦「ブロンツォ」の慰霊碑とかがありますが)。

 

ファシスト政権期のイタリアと石油

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ファシスト政権期のAGIPの広告

今回はファシスト政権期のイタリアとリビアの油田について、ちょっと調べてみる事にします。ファシスト政権期のイタリアにとって、石油の不足問題は慢性的なテーマの一つでした。イタリアは国内消費する石油の殆どを従来から輸入に頼っており、そのためエチオピア戦争によって国際的に孤立していくにつれ、慢性的な石油不足に悩まされることとなりました

当時の国家の中でも早くから自動車の普及が進んでいたイタリアにとって、石油の不足というのは何も軍事的な問題だけではなく、国民生活にも影響をもたらしました。当時のレンタカー料金にはガソリン代も含まれていたために、エチオピア戦争の経済制裁によって燃料の輸入が制限されてしまうと、国内の燃料価格は高騰し、国民は苦しむことになります。

ファシスト政権期のイタリアは「イタリア石油公団」、すなわち「AGIP」を1926年に設立していました。これは国営の石油会社で、現在のEniに繋がる会社です(吸収合併された今でも、イタリア各地にはAGIPのロゴが残っています)。当時のAGIPは国内含め世界各地で探鉱活動を行っていましたが、正直な話芳しい成果を上げたとは言えない状況でした。その中で最も大きな成果を上げたのがアルバニアの油田で、アルバニア油田で産出された石油は当時のイタリアの石油消費の実に約3割を補っていたのです。「当時の」イタリア国内では石油を殆ど産出出来ていなかったため、イタリアにとってアルバニア油田は重要な存在でした。

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テンパロッサ油田。石油利権は海外企業に握られているため、イタリアにとっても、バジリカータにとっても、実はあまり美味しくない。その開発には日本企業も関わっている。

「当時の」というのは、現在のイタリアではヨーロッパ最大級の油田が発見されているからです。これは南部イタリア・バジリカータ州の州都ポテンツァ近郊に存在するテンパロッサ油田の恩恵によるもの。2018年現在のイタリアの石油産出量は伝統的な産油国ルーマニアよりも10万トンも多く、年間約400万トンです。この数値は、ノルウェー、英国、デンマーク北海油田諸国に次ぐ欧州第四位の数値。というか、北海油田を除けば欧州一位です。しかし、ファシスト政権期は発見されておらず、そもそも「景観を壊す」ということ反発が多く、そのことから開発が進んだのもかなり後のことでした。

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AIPAが建設した、石油運搬のための鉄道橋。

ファシスト政権期に重要な存在だったアルバニア油田。アルバニア油田を管理していたのは、AGIPの子会社であるAIPA(アルバニア・イタリア石油会社)。1935年に設立されたAIPAは、油田から港湾都市へのパイプラインを建設し、またアルバニアでの探鉱活動を実行しました。このAIPAはイタリア王国の休戦でアルバニアがドイツ軍の管理下に置かれるまで活動しています。最大の油田はフィエル州に位置するパトス市のパトス・マリンツァ油田でした。このパトス市は現在でも油田の恩恵で繁栄している都市で、この油田は1928年に発見され、ヨーロッパ最大級の油田としても知られていましたが、現在の生産量はそこまで多くないようです。AIPAはこの油田からヴロラ港までのパイプラインを建設し、その石油はイタリアに輸出されました。

 

ファシスト政権期によるリビア油田開発

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AGIPの石油精製施設(バーリ)

では、植民地での石油開発はどうだったのでしょうか。これが今回の主題です。私の元シェアメイトのイタリア人も「ムッソリーニリビアの油田を発見できさえすればな」とジョークで言っていましたが、ここからもわかる通り、ファシスト政権期のイタリアによる植民地における石油開発は進んでいませんでした。ですが、現在のリビアは世界有数の産油国として知られています。

とはいえ、ムッソリーニも国内の油田開発で手をこまねいていたわけではありません。私自身、「ファシスト政権期のイタリアはリビア油田を発見すらしていなかった」と思っていましたが、この認識はTwitterのフォロワーさんに指摘されて間違いだとわかりました。実は、ファシスト政権期のイタリアはリビアでの石油抽出には成功しているのです。それでは、何故ファシスト政権は油田開発が出来なかったのでしょうか。

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バドリオとグラツィアーニ

まず、リビアにおける石油の発見は、時を遡ること第一次世界大戦が勃発した1914年にまで至ります。この時、イタリアはオスマン帝国から奪い取ったリビアキレナイカとシルテ(現スルト)にて、現地に駐屯していたイタリア軍部隊が井戸水を掘っていたところ、少量の石油が発見されました。しかし、この直後に第一次世界大戦が発生し、イタリアも1915年に参戦したためそれどころではなく、第一次世界大戦終戦後もリビア植民地ではオマル・ムフタール率いるサヌーシー教団との大規模戦争による混乱により、次第に忘れ去られていきました。

しかし、1926年にAGIPが設立されると、リビアにおける石油開発は再加熱することとなります。同時に、リビアではバドリオ将軍とグラツィアーニ将軍による「リビア再征服」が行われたこともあり、徐々にイタリアによる植民地化が進んでいきました。そんな中、1929年にはトリポリ在住のイタリア人が石油調査企業を設立し、リビアでの探鉱活動を再開しました。

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探検家としても知られた、地質学者アルディート・デシオ。

そこで活躍したのが、探検家としても知られる地質学者のアルディート・デシオ氏でした。彼はムッソリーニからリビアにおける探鉱活動の許可を得て、AGIPの協力の元1936年からリビアにおける探鉱活動を開始しました。その結果、シルテ近郊で探鉱活動が進められ、1938年までに18の井戸が掘られています。そうして、約1リットルの石油抽出に成功しました。しかし、彼が発見した油田は地下2000m以下にあり、当時のイタリアの技術では採掘することが不可能であることが判明してしまいました。

デシオ氏は進んでいたアメリカの石油掘削技術を導入し、これらの油田から石油を抽出することを、新たにリビア総督に就任したイタロ・バルボ空軍元帥に要請。シカゴへの長距離飛行の経験もあり、アメリカ人から人気が高かった彼はデシオの提案に協力的で、更にAGIPによる合成燃料の精製も試され、1939年から本格的にイタリアの石油開発計画が始まろうとしていました第二次世界大戦の勃発によってこれは頓挫することになります。大きな協力者だったバルボも戦死をしてしまいました。

結局は、イタリアはリビアで油田を発見していたにもかかわらず、大規模な掘削には成功しませんでした。その結果、第二次世界大戦時のイタリアは石油不足に悩まされて軍事行動が大きく制限されることとなり、更にドイツによる燃料供給の約束も全く果たされることはなく、イタリアは敗北しました。逆に敵国であった英国は潤沢な油田を持っていたため、イタリア空軍は中東の油田地帯の爆撃を実行するなどしています。

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当時のカルボーニ

なお、ファシスト政権期のイタリアは油田開発には失敗しましたが、炭田開発には成功しましたサルデーニャとヴァッレ・ダオスタではムッソリーニアウタルキー政策によって炭田開発(特に有名なのはカルボーニア)が進められ、この時開発された炭田は戦後のECSC結成時も重要な役割を果たすこととなりました。

 

もし仮にリビア油田の開発に成功していたら、ファシスト・イタリアはどのような道を歩んでいたのでしょうか?それは永遠の謎です。

『ストライクウィッチーズ』に登場するロマーニャウィッチのモデルとなったエースたちの戦歴をまとめてみた!

アニメや漫画、小説などで展開される『ストライクウィッチーズ』のキャラクター(ウィッチ)達は、実在した第二次世界大戦時のエース・パイロットたちをモデルとしている。その中には王立イタリア空軍(Regia Aeronautica)をモデルとした「ロマーニャ空軍」のキャラクターたちも多数登場するのだ。

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ロマーニャ空軍のウィッチたち

というわけで、今回はこのロマーニャ空軍に所属する「ウィッチ」の中で、ヴィジュアルが判明しているキャラクターのみに絞って元ネタとなったパイロットを軽く紹介してみようと思う。紹介するのは以下の9名。また、その他でモデルになったイタリア人もおまけで最後に大まかに紹介しておく。

 

ロマーニャ公国空軍

フランチェスカ・ルッキーニ

フランコ・ルッキーニ(Franco Lucchini)

フェルナンディア・マルヴェッツィ

→フェルナンド・マルヴェッツィ(Fernando Malvezzi)

マルチナ・クレスピ

→ジャンピエロ・クレスピ(Giampiero Crespi)

ルチアナ・マッツェイ

→マッツェイ曹長(sergente maggiore Mazzei)

アドリアーナ・ヴィスコンティ

アドリアーノヴィスコンティ(Adriano Visconti)

ジュゼッピーナ・チュインニ

→ジュゼッペ・チェンニ(Giuseppe Cenni)

フェデリカ・N・ドッリオ

→フリオ・ニクロ・ドッリオ(Furio Niclot Doglio)

カルラ・ルースポリ

→カルロ・ルースポリ(Carlo Ruspoli)

エンリーカ・タラントラ

→エンニオ・タラントラ(Ennio Tarantola)

 

では、見てみよう。

 

フランチェスカ・ルッキーニ

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フランチェスカ・ルッキーニ

ロマーニャ公国の首都、ローマ出身のウィッチ。アニメ『ストライクウィッチーズ』の主役である第501統合戦闘航空団の一員で、ロマーニャウィッチの中では最も知名度があるキャラクターと言えるだろう。

モデル:フランコ・ルッキーニ(Franco Lucchini)

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フランコ・ルッキーニ(Franco Lucchini)

機体:FIAT CR.20戦闘機(1936~1937)→FIAT CR.32戦闘機(1937~1939)→FIAT CR.42"ファルコ"戦闘機(1940~1941)→マッキ MC.200"サエッタ"戦闘機(1941)→マッキ MC.202"フォルゴレ"戦闘機(1941~1943)

モデルとなったフランコ・ルッキーニ氏は、同じくローマ出身。1914年12月24日、鉄道員の息子としてイタリアの首都ローマに生まれた。子どもの頃から空に憧れ、16歳でグライダー免許を所得し、1935年に飛行学校に入学、翌年に無事卒業し、その後イタリア空軍の第4航空団第10航空群第91飛行隊に少尉として任官した。

第二次世界大戦時のイタリア空軍のエース・パイロットの中でも特に知名度が高い人物である。故郷ローマでは当時のメディアにもその戦果が紹介され、「イケメンエース」であったことから一種の「アイドル」として人気だった。個人撃墜スコアは22機(26機とも)で、共同撃墜スコアは52機。これは、第二次世界大戦時のイタリア空軍ではマルティノーリに次ぐ第二位であった。彼の戦友曰く、普段は臆病で生真面目だが、飛行時は闘争心を露わにし、性格が普段と飛行時で全く違ったようだ。

彼の撃墜王としての活躍は1937年に義勇兵として参加したスペイン内戦から始まる。CR.32戦闘機で1機(5機とも)のスペイン共和国機を個人撃墜、2機を共同撃墜してエースとしての道を歩み始めた。だが、自身も撃墜されてスペイン共和国側の捕虜収容所に6カ月間過ごす経験をしている。

内戦終結後に間もなく第二次世界大戦時が開戦。1940年6月10日にイタリアが参戦すると、「世界最強・最後の複葉戦闘機」として知られるCR.42"ファルコ"を駆り、14日には英軍機を共同撃墜し、更に21日には英四発飛行艇を撃墜して第二次世界大戦における初戦果を挙げる。その後も北アフリカで共同撃墜を重ねた後、1941年初頭に新型機MC.200"サエッタ"に転換。転換後、6月から9月までの3カ月間の間に英軍のハリケーン戦闘機を5機個人撃墜し、共同撃墜戦果も挙げていった。しかし、9月27日には不時着時に大怪我を負ったことで治療のため2カ月戦場を離れることとなった。

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ルッキーニとMC.202"フォルゴレ"戦闘機

怪我を治療した後、1941年12月にはイタリアを代表する傑作機と名高いMC.202"フォルゴレ"に転換。ルッキーニの本領が発揮されたのはここからだった。彼の個人撃墜スコア22機の戦果のうち12機は後半戦(1942年5月~1942年10月)までに挙げた戦果だったのだである。これは、優秀な英軍機相手に劣勢に置かれていたイタリア戦闘機部隊が、互角(あるいはそれ以上に)戦えるようになった時期でもあった。数において圧倒的に劣勢であったが、ルッキーニはこの新型機を駆り、スピットファイアやP-40といった米英機を多数撃墜していったのである。

しかし、10月24日には戦闘時に腕と足を撃たれ、何とか基地には帰還したものの機体は大破していた上に、彼自身も重症であったため本国に帰還となってしまった。傷が癒えた後の1943年6月、連合軍が迫るシチリア戦での最後の戦闘に従事する。7月5日の戦闘において、シチリア上空にて米軍のB-17爆撃機の迎撃に出発。B-17爆撃機3機を共同で撃墜し、護衛の英空軍スピットファイア戦闘機を1機撃墜したが、敵機に撃墜されて戦死を遂げたのであった。戦後にはイタリア軍最高位の金勲章を叙勲されている。

 

◆フェルナンディア・マルヴェッツィ

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フェルナンディア・マルヴェッツィ

赤ズボン隊(パンタローニ・ロッシ)の一員。劇場版や漫画「紅の魔女たち」などに登場。第504統合戦闘航空団の一員。部下の二人(ルチアナ・マッツェイとマルチナ・クレスピ)からは「フェル隊長」と呼ばれているウィッチ。元ネタ要素が結構含まれていて、急降下爆撃ウィッチ出身(モデルは急降下爆撃機パイロットから戦闘機パイロットに転身)、軽度の治癒魔法が使える(モデルが医学部中退)、部下の二人もモデルとなった人物の部下をモデルとしている(後に紹介)。

モデル:フェルナンド・マルヴェッツィ

(Fernando Malvezzi)

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フェルナンド・マルヴェッツィ

機体:IMAM Ro.1偵察機(1935~1936)→ユンカース Ju-87"ピッキアテッロ"急降下爆撃機(1940~1941)→マッキ MC.202"フォルゴレ"戦闘機(1941~43)→マッキ MC.205V"ヴェルトロ"戦闘機(1943)

モデルとなったフェルナンド・マルヴェッツィ氏は1912年10月22日、エミリアロマーニャのノチェートに生まれた。青年期は勉学よりスポーツを好み、パルマ大医学部に進学したのもの、大学を中退して空軍のパイロットとして志願している。初めての実践はエチオピア戦争で、IMAM Ro.1偵察機パイロットとして経験を積んだ。

第二次世界大戦開戦後は急降下爆撃機パイロットとなり、友邦ドイツから購入したユンカース Ju-87"シュトゥーカ"急降下爆撃機に転換。シュトゥーカはイタリアでは「ピッキアテッロ(「変人、風変わりな人」の意味)」と呼ばれ、これは「赤ズボン隊」の三人の通称「三変人」の元ネタとなっている。急降下爆撃機として最も有名な戦果は、部下であるクレスピとマッツェイと共に、英軽巡サウサンプトン」を撃沈した戦果だろう。

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戦闘機パイロットに転身した後のマルヴェッツィ(奥の人物)

1941年春に負傷して帰国した後、戦闘機パイロットに転身。その後、新型機MC.202"フォルゴレ"に乗り換え、戦闘機パイロットのエースとしての道を歩んだ。1941年11月22日にマルタ上空で2機のハリケーン戦闘機を撃墜したが、これが戦闘機パイロットとしての初の戦果となった。1942年10月までに個人撃墜スコアは10機まで達したが、撃墜されて治療のため一時的に帰国。その後再び北アフリカに戻り、原隊に復帰した。2度も撃墜されながら、2度とも軽傷で済んだというのは幸運の飛行士と言わざるを得ないだろう。

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RSI空軍第三戦闘航空群「フランチェスコ・バラッカ」司令官となったマルヴェッツィ

戦局が悪化してシチリアに移動した後は、「イタリア最高の戦闘機」として知られるMC.205V"ヴェルトロ"に転換したが、間もなくマルヴェッツィはマラリアに発症し、故郷ノチェートに近い温泉街サルソマッジョーレ・テルメの病院での療養生活を余儀なくされてしまった。その後、イタリア休戦の知らせを病院のラジオで聞いた後、ボット大佐の誘いでイタリア社会共和国(RSI)空軍に合流。第三戦闘航空群「フランチェスコ・バラッカ」の司令官に任命されるが、再訓練中に欧州戦線は終戦を迎えた。

戦後は故郷ノチェートで自動車運送会社を起業しているが、空への情熱は失っておらず、趣味として休みの日にはパルマの航空クラブに所属してSIAI-マルケッティ SF.260軽飛行機に乗って楽しんだ。2003年4月21日に亡くなった。

彼について詳しい戦歴は以前のブログの記事にまとめたので、以下のリンクを参照してほしい。

associazione.hatenablog.com

 

◆マルチナ・クレスピ

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マルチナ・クレスピ

赤ズボン隊の一員で、ルチアナ・マッツェイと共にフェルナンディア・マルヴェッツィ中尉の部下。劇場版や漫画「紅の魔女たち」などに登場。第504統合戦闘航空団の一員。元ネタとなったジャンピエロ・クレスピ氏とは誕生日(マルチナの誕生日は9月2日)や出身地などが大きく異なっていたり、戦闘ウィッチに転身していたり(クレスピ氏は急降下爆撃機パイロットから転身していない)するなど、異なる点が多い。

これはおそらく、元ネタのクレスピ氏の情報が少なかったことが由来するだろう(私自身ごく最近に元ネタとなった人物の存在を確認した)。マルチナはロマーニャ南部の名家出身という設定だが、これは苗字の名前が似ているイタリア首相フランチェスコ・クリスピの出身がシチリアのアグリジェント近郊だったことが関係ありそうだ。スポーツを好むという点は、フェル隊長の元ネタであるマルヴェッツィ氏に似ている。

元ネタ:ジャンピエロ・クレスピ(Giampiero Crespi)

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第96急降下爆撃航空群の"ピッキアテッロ"。ジャンピエロ・クレスピ氏本人のパイロット時代の写真はまだ確認していないので、こちらで代用。

機体:カプロニ Ca.100"カプロンチーノ"(1937)→IMAM Ro.41戦闘機(1938)→ブレダ Ba.65"ニッビオ"地上攻撃機(1938~1940)→ブレダ Ba.88"リンチェ"戦闘爆撃機(1939~1940)→ユンカース Ju-87"ピッキアテッロ"急降下爆撃機(1940~1942)→IMAM Ro.57bis急降下爆撃機(1942~1943)

モデルとなったジャンピエロ・クレスピ氏は1918年6月25日、北イタリアのカルナーゴという町に生まれた。1937年にシチリアにある飛行学校に入学し、カプロニ Ca.100"カプロンチーノ"軽飛行機を操り免許をすぐに習得、1938年にイタリア空軍に入隊する。第五航空団第19航空群第101飛行隊に配属となり、IMAM Ro.41戦闘機、続けてレダ Ba.65"ニッビオ"地上攻撃機に転換。1939年には新型機のレダ Ba.88"リンチェ"戦闘爆撃機に転換するが、この機体は「第二次世界大戦時の航空機の中でも特に失敗作」とまで言われるほどの駄作機であり、実際劣悪な性能のせいで大戦が開始しても戦果を挙げられていない。とはいえ、1940年6月10日にイタリアが第二次世界大戦に参加すると、クレスピはBa.88を駆ってフランス領コルシカ島の爆撃任務に従事している。

新しく導入されるJu-87"ピッキアテッロ"急降下爆撃機部隊のパイロットに選ばれたクレスピは、7月にはオーストリアグラーツで飛行訓練を受けた後、第96急降下爆撃航空群第236飛行隊に転属した。この飛行隊はフェル隊長のモデルとなったマルヴェッツィが隊長を務め、マッツェイも所属していた。こうしてクレスピは本格的に急降下爆撃機乗りとしての任務を開始し、地中海沿岸における敵艦船攻撃に従事した。この戦果で最も知られているのが、マルヴェッツィの項で紹介した「英軽巡サウサンプトンの撃沈」である。1941年1月10日、マルヴェッツィ隊長と共に、クレスピとマッツェイが続けて「サウサンプトン」に爆弾を直撃させたのであった

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IMAM Ro.57bis急降下爆撃機

4月になると、隊長であるマルヴェッツィがトブルク攻撃時に英軍側に撃墜され、不時着。幸い軽症で済んだが、数日後の攻撃作戦を最後に治療のため帰国し、急降下爆撃機部隊から離れて戦闘機パイロットに転身した。一方、部下であるクレスピはその後も急降下爆撃機乗りを続けたが、6月には彼も本国にて飛行教官を務めるために帰国することとなった。1942年1月には第209飛行隊に転属となり、5月から戦闘作戦を再開した。その後も飛行教官やテストパイロットを務めつつも、急降下爆撃機乗りとしての任務を続けた。1942年末には新型機のIMAM Ro.57bis急降下爆撃機に転換。この機体は重戦闘機として開発されたが、性能不足のため急降下爆撃機として利用された。クレスピはこの機体でムッソリーニ統帥失脚間近の1943年7月1日まで敵拠点への急降下爆撃任務を続け、その後は空軍を退役してヴェルチェッリの小規模航空機メーカーであるAVIA社でテストパイロットになった。休戦後はRSI空軍や共同交戦空軍には合流せず、終戦を迎え、戦後の1946年6月10日にテストパイロットを辞め、航空産業から去った。

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晩年のクレスピ氏

その後は「ファッションの都」ミラノ近郊のレニャーノにて、服飾繊維企業"フォデラーメ・ジャンピエロ・クレスピ(Foderame Giampiero Crespi)"を起業し、地元の名士となった。偶然かもしれないが、ルチアナ・マッツェイのファッション好きという設定はもしかしたらこれに由来するのかもしれない。1977年には連続強盗犯レナート・ヴァッランツェスカらによる誘拐も経験しており(身代金の支払いによって無事解放された)、中々の波乱の人生であった。2013年11月11日に95歳で亡くなったが、地元レニャーノではその死は新聞でも伝えられているほどである。そう考えると、レニャーノではそれなりの有名人であったのかもしれない。

以下はその時のネットニュース記事である。

CORDOGLIO PER L’EROE DI GUERRA GIAMPIERO CRESPI 

(戦争のヒーロー、ジャンピエロ・クレスピ氏のための追悼)

www.legnanonews.com

 

◆ルチアナ・マッツェイ

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ルチアナ・マッツェイ

赤ズボン隊の一員で、マルチナ・クレスピと共にフェルナンディア・マルヴェッツィ中尉の部下。劇場版や漫画「紅の魔女たち」などに登場。第504統合戦闘航空団の一員。クレスピ氏のところで説明したが、服飾デザインが趣味。これはクレスピ氏の要素が入っている可能性がある。

元ネタ:マッツェイ曹長(sergente maggiore Mazzei)

機体:ユンカース Ju-87"ピッキアテッロ"急降下爆撃機(1940~?)

残念ながら、ルチアナの元ネタであるマッツェイ曹長に関しての情報は、非常に断片的である。他の急降下爆撃機パイロットと同様に、6月終盤にこのドイツの急降下爆撃機パイロットとして選ばれ、7月にはオーストリアグラーツでシュトゥーカの飛行訓練を受けている。訓練を終えた後、マッツェイはクレスピと共にマルヴェッツィ率いる第96急降下爆撃航空群第236飛行隊所属となっている。その後は彼らと共に地中海に置ける敵艦船攻撃で戦果を挙げ、1941年1月10日にはマルヴェッツィ、クレスピと共に英軽巡サウサンプトン」を撃沈する大戦果を挙げている

しかし、わかっているのはこれくらいで、それ以外の経歴はおろか、フルネームすら判明していない。彼の詳細情報を調べるには更に資料を読み進めていく必要があるだろう。彼がその後どうなったかは釈然としていない。

 

◆アドリアーナ・ヴィスコンティ

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アドリアーナ・ヴィスコンティ

ミラノのヴィスコンティ家出身のウィッチ。小説「ノーブルウィッチーズ」に登場。スト魔女世界でもヴィスコンティ家はかつてミラノの支配者だったという設定のようだ。ただ、スト魔女世界のミラノはロマーニャ公国領ではなく、ギリギリでヴェネツィア公国領のようだが、彼女はロマーニャ空軍所属である(そもそも、ヴェネツィア空軍所属のウィッチは、現時点で元ウィッチのアンナ・フェラーラしか出てきていない)。第506統合戦闘航空団の一員。

元ネタ:アドリアーノヴィスコンティ

(Adriano Visconti)

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アドリアーノヴィスコンティ

機体:レダ Ba.25(1936~1939)→ブレダ Ba.65"ニッビオ"地上攻撃機(1939~1940)→カプロニ Ca.310"リベッチオ"偵察爆撃機(1940~1941)→マッキ MC.200"サエッタ"戦闘機(1941)→マッキ MC.202"フォルゴレ"戦闘機(1941~1943)→マッキ MC.205V"ヴェルトロ"戦闘機(1943~1945)→メッサーシュミット Bf109戦闘機(1945)

元ネタであるアドリアーノヴィスコンティ氏も、かつてはミラノ公国の支配者であった名家ヴィスコンティ家の出身であるが、父であるガレアッツォ・ヴィスコンティ伯が当時イタリアの植民地であったリビアに開拓団の一員として入植していたため、生まれはリビアの首都であるトリポリだった。1915年11月11日生誕。

ヴィスコンティはルッキーニと並び、第二次世界大戦時のイタリア空軍エースでは特に有名なパイロットであり、一説では伊空軍最高位エースとも言われる。『紅の豚』にも彼がモデルになった人物が登場した。優秀なパイロットでありながら、カリスマ的な指揮官でもあり、部下から広く慕われる人物であったという。

高校を卒業後、1936年10月に空軍士官学校に入学し、レダ Ba.25で訓練を積んで明渠を獲得した。1939年に卒業した後、少尉に任官。地上攻撃を担当する第50襲撃航空団第12航空群第159飛行隊に着任し、間もなく第二次世界大戦にイタリアが参戦したため、生まれ故郷であるリビアに移動、トブルク基地に配属となった。レダ Ba.65"ニッビオ"地上攻撃機による任務に従事したが、軍規違反で問題を起こしたために植民地防衛第2航空群第23飛行隊に飛ばされ、カプロニ Ca.310"リベッチオ"偵察爆撃機による偵察任務に就くこととなった。しかし、偵察中に3機の英戦闘機に襲撃されたが全て回避して帰還するなど、1940年6月から12月にかけての数々の戦功をあげ、銀勲章を2回、銅勲章を1回叙勲される活躍を見せている。優れた操縦技術を見せたヴィスコンティだったが、一方で彼が乗っていた機体自体はとても優れた機体とは言えなかった。そのため、部隊の消耗率も激しく、1941年1月には第50襲撃航空団は解体されることとなる。

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中央の人物がヴィスコンティ

その後、中尉となったヴィスコンティは第54戦闘航空団第7航空群第76飛行隊に配備となり、ここでマッキMC.200"サエッタ"戦闘機への機種転換訓練を受け、マルタ島への爆撃機護衛や強行偵察などに従事した。同年末には新型機MC.202"フォルゴレ"に転換し、さっそく12月には英ハリケーン戦闘機1機を撃墜しているが不確実戦果とされて認定されていない。正式な記録と認定されたのは、翌年6月にパンテッレリーア上空にて英ブレニム爆撃機を撃墜した戦果である。8月のマルタ島偵察時にはスピットファイア戦闘機4機と交戦、2機を撃墜、残り2機を損傷させて撃退し、この活躍から3度目の銀勲章を叙勲された。1943年3月に第76飛行隊の隊長に任命されたヴィスコンティは、チュニジアに派遣されて劣勢の中、強大な連合軍相手に果敢に出撃を繰り返した。3機を撃墜した後、チュニジア陥落直前にシチリアに脱出した。

チュニジアでの戦いを終えたヴィスコンティは、大尉に昇進して第310飛行隊の指揮官となっていた。新型機のマッキ MC.205V"ヴェルトロ"戦闘機に転換し、数々の強行偵察任務に従事している。休戦時はサルデーニャに駐屯していたが、本国に帰還してイタリア社会共和国(RSI)空軍に合流することとなる。新設された第1戦闘航空群「アッソ・ディ・バストーニ」の第一戦闘飛行隊長に任命され、再びMC.205Vを駆り、連合軍のイタリア本土爆撃を迎撃するために出撃した。RSI空軍パイロットとしての初戦果は1944年1月、クーネオ上空におけるアメリカ陸軍航空隊のP-38戦闘機1機の撃墜である。

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着色されたヴィスコンティの写真

4月には少佐に昇進し、第1戦闘航空群の司令官に任命された。こうして終戦までにP-38を2機、P-47を2機、計4機を撃墜した。大戦末期の1945年にはドイツ製のメッサーシュミットBf109戦闘機を受領している。大戦末期1945年3月15日のガルダ湖上空戦ではP-47戦闘機と正面攻撃で刺し違え、負傷しながらもパラシュート脱出して一命を取り留めた。ヴィスコンティはこれを受けて「統帥賞(Premio del Duce)」として賞金を受け取っている。しかし、4月29日にパルチザンとの降伏交渉中に背後から撃たれ、副官であるヴァレリオ・ステファニーニ中尉と共に殺害されるという悲惨な最期を遂げたのであった。非公式戦果を含めると26機の個人撃墜(この数値はWW2イタリア最高位のマルティノーリよりも上で、非公式戦果を含めればルッキーニと同数)を達成したイタリア屈指のエースは、こうして壮絶なその人生の幕を閉じたのであった。

 

◆ジュゼッピーナ・チュインニ

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ジュゼッピーナ・チュインニ

スオムス義勇独立飛行中隊、そしてその後の第507統合戦闘航空団の一員。小説「スオムスいらん子中隊」シリーズに登場。ヒスパニア戦役で既にエースとして経験を積んでおり、急降下爆撃部隊を率いて活躍した。スキップ爆撃を実用化した人物という点も、元ネタと同じである。戦闘中に墜落して奇跡的に生還するも記憶喪失となり、スオムス義勇独立飛行中隊(いらん子中隊)に配属となった。なお、元ネタであるチェンニはフィンランド方面では戦っていない。また、何故か名前がチェンニではなく、「チュインニ」であるが表記はチェンニと同じ"Cenni"なので、単純に表記ミスから繋がったのだろうと思う。

元ネタ:ジュゼッペ・チェンニ(Giuseppe Cenni)

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ジュゼッペ・チェンニ

機体FIAT AS.1(1935)→FIAT CR.20(1936)→FIAT CR.32戦闘機(1936~1938)→カプロニ Ca.310"リベッチオ"偵察爆撃機(1938~1939)→FIAT G.50"フレッチャ"戦闘機(1939~1940)→ユンカース Ju-87"ピッキアテッロ"急降下爆撃機(1940~1942)→レッジアーネ Re.2002"アリエテ"戦闘爆撃機(1942~1943)

モデルとなったジュゼッペ・チェンニ氏は、イタリア空軍最高の急降下爆撃機エースとして知られる名パイロットスペイン内戦では戦闘機パイロットとして8機の個人撃墜スコアを達成し、更に第二次世界大戦では急降下爆撃機パイロットに転身して艦船攻撃を実行、多くの敵艦を撃沈するなど、イタリア空軍のパイロットの中でも特に「天才」と言える人物である。また、彼は空軍理論家でもあり、所謂「スキップ爆撃」の実用化に成功した人物でもあった。ジュゼッペ・チェンニは1915年2月27日にラヴェンナ近郊のカーゾラ・ヴァルセーニオに生まれたパルマの芸術学校に通ったが、その際に後に戦友となるアドリアーノ・モンテッリと出会っている。幼い頃から空への憧れを持っていたチェンニは19歳でグライダー免許を所得し、20歳で空軍に入隊した。彼の天才的な能力はこの時点から発揮された。1935年7月30日にシエナにてFIAT AS.1を初操作で飛行したが、飛行教官も無しに乗りこなしてしまったのである。

こうして訓練をこなしていったチェンニは、1936年2月に第一航空団第三戦闘航空群第153飛行隊配属となった。フージェ将軍が設立したカンポフォルミドの曲芸飛行隊(後の「フレッチェトリコローリ」の前進)にも参加し、CR.20で過酷な曲芸飛行訓練を行っている。上官であるコッラード・リッチ中尉の指導もあり、チェンニは着実にその腕を挙げていった。この時、チェンニはCR.20のみならず、カプロニ Ca.100FIAT CR.30、そしてFIAT CR.32と、様々な航空機を使って訓練をする事が出来た。

6月に少尉となったチェンニは、7月に勃発したスペイン内戦に義勇兵の最初の部隊の一員として派遣された。チェンニのCR.32戦闘機はさっそく9月26日にスペイン共和国空軍のブレゲー19戦闘機を個人撃墜し、ポテ540爆撃機を共同撃墜して空中での最初の戦果を挙げた。それ以前の15日には2機の敵機を地上撃破している。チェンニは翌年1月までに個人撃墜スコアは8機、共同撃墜は13機を数えて名実ともにエースとなった。しかし、1937年1月29日に霧で編隊機同士で衝突事故を起こし、墜落。その結果一命を取り留めたものの、スペイン共和国軍側の捕虜となってしまった。スペイン側の捕虜への取り扱いや尋問は苛酷であったため、肉体的に大きく疲弊したが、赤十字の介入で行われた捕虜交換によって何とかイタリアに帰国する事が出来た。

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Ju-87と映るチェンニ

イタリアに英雄として帰国したチェンニは非常に弱っていたため、安静にすることを宣言されたが、彼はそれに従わずまた飛ぼうとした。このため、彼のような優秀なパイロットを失うことを恐れた空軍は1937年12月には彼を大尉に昇進させ、本国での飛行教官の職を用意したのであった。彼はこの際にカプロニ Ca.310"リベッチオ"偵察爆撃機などの機体を操縦した。1939年7月には幼馴染のティナ・ザロッティと結婚している。

1939年10月、FIAT G.50"フレッチャ"戦闘機配備の第51航空団第354飛行隊に配備され、ローマ防空の任務に就いた。1940年始めには長女ステファニアが誕生している。同年4月にはルーマニアに派遣され、飛行教官としてルーマニア空軍の戦闘機パイロットたちを育てている。しかし、6月にイタリアが第二次世界大戦に参戦したため、チェンニは速やかに帰国、新規編制された急降下爆撃機部隊に配属されたのであった。こうして急降下爆撃機乗りとなったチェンニは、数々の敵艦船を撃沈・損傷させ、イタリア軍最高の急降下爆撃機乗りとして名を挙げることとなった。

それ以降の彼の戦歴は過去のブログ記事に書いたのでこちらを参照。

associazione.hatenablog.com

 

◆フェデリカ・N・ドッリオ

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フェデリカ・N・ドッリオ

赤ズボン隊の一員で、フェル隊長らの先輩に当たるウィッチ。漫画「紅の魔女たち」や小説「アフリカの魔女 ケイズ・リポート」などに登場。第504統合戦闘航空団の隊長。航空技師志望でテストパイロット出身、そしてマルタ島で撃墜されているなど、元ネタ要素も多い。モデルとなったドッリオ隊長はマルタ戦での撃墜で戦死したが、彼女は重傷こそ負ったものの生存しており、その後は療養に専念しながらも第504統合戦闘航空団の司令として復帰した。ちなみに私が一番好きなウィッチ。

元ネタ:フリオ・ニクロ・ドッリオ(Furio Niclot Doglio)

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フリオ・ニクロ・ドッリオ

機体:FIAT AS.1(1931~1933)→CNA Eta(1933~1936)→ブレダ Ba.88"リンチェ"戦闘爆撃機(1936~1937)→FIAT G.50"フレッチャ"戦闘機(1940~1942)→マッキ MC.202"フォルゴレ"戦闘機(1942)

モデルとなったフリオ・ニクロ・ドッリオ(発音的にはドーリョが正しい)氏は、1908年4月24日にサヴォイア家のおひざ元として発展したイタリア王国最初の首都、ピエモンテ州トリノで生まれた。母のアマリアはピエモンテ出身だったが、父シルヴィオサルデーニャ島カリャリ出身だった。そのため、学生時代はカリャリで過ごしている。航空技師を目指して技術学校を卒業した後、民間パイロットの資格を得てテストパイロットとなる。その後はCNA社とブレダ社でテストパイロットを務め、通算9個の世界記録(CNA社3個、ブレダ社6個)を達成し、一躍時の人となった。海外の航空技術者からも注目され、国際航空連盟からはルイ・ブレリオ・メダルを贈られている。

1937年を機に一時航空業界から離れるが、第二次世界大戦勃発に伴い現役復帰を志願。FIAT G.50"フレッチャ"戦闘機を駆り、第51航空団第21航空群第355飛行隊の隊長としてローマ防空任務に就いた後、9月14日には「イタリア航空軍団(CAI, Corpo Aereo Italiano)」の一部となる第56戦闘航空団第20航空群第353飛行隊に配属され、英国本土航空戦(バトル・オブ・ブリテン)に参加した。

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MC.202"フォルゴレ"とドッリオ

英国での戦闘を終えた後、北アフリカ戦線に移動したドッリオは1941年6月30日に、護衛中に英空軍のハリケーン戦闘機1機を撃墜、2機を撃退し、初の個人撃墜戦果を挙げている。これがエースとしての始まりだった。翌年になると第151飛行隊の隊長を任せられ、機材も新型機のマッキ MC.202"フォルゴレ"に転換。他のエース同様に、MC.202に転換後に一気にスコアを伸ばすこととなる。その結果、7月の僅か10日ほどの間で一気にマルタ上空で6機の個人撃墜を達成し、個人撃墜スコアは通算7機に達した。特にMC.202で初戦火を挙げた7月2日は、僚機のタラントラ軍曹らと共に計8機のスピットファイア戦闘機を撃墜している。しかし、7月27日にはカナダ人エースのジョージ・F・バーリングのスピットファイアに撃墜され、エースとして早すぎる死を迎えた。なお、バーリングはウィッチ、エリザベス・F・ビューリングのモデルとなった人物でもある。

ドッリオについて詳しい戦歴は以前のブログの記事にまとめたので、以下のリンクを参照してほしい。

associazione.hatenablog.com

 

◆カルラ・ルースポリ

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カルラ・ルースポリ

漫画「紅の魔女たち」に登場。ロマーニャ空軍航空映画部部長で、アニメ本編の画像は彼女の撮影によるものという設定らしい。

元ネタ:カルロ・ルースポリ(Carlo Ruspoli)

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カルロ・ルースポリ

機体マッキ MC.200"サエッタ"戦闘機(1940~1943)→マッキ MC.205V"ヴェルトロ"戦闘機(1943~1945)

元ネタであるカルロ・ルースポリ氏も、イタリア空軍の航空映画部の部長だった人物。古代から続くとされる名家ルースポリ家の出身で、スイスのオーバーホーフェンにて1906年8月25日に生まれた。本名はカルロ・マウリツィオ・ルースポリ・ディ・ポッジョ・スアーザ(Carlo Maurizio Ruspoli di Poggio Suasa)と貴族らしく長い。彼が航空映画部部長になった理由は、自分用の記録のために機体のMC.200"サエッタ"に映画用の撮影機材を取り付けて撮影したところ、空軍から公式に撮影を許可され、イタリア空軍で航空映画部が設立されるとその部長に抜擢されたためであった。なお、彼の兄であるコスタンティーノとエマヌエーレもカプロニ Ca.313偵察爆撃機パイロットとしてこの航空映画部に参加している。

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カルロ・ルースポリの兄である、コスタンティーノとエマヌエーレ。いずれも空軍パイロットで、カルロが部長を務める航空映画部に所属した。しかし、2人とも大戦中に戦死している。

彼は元々貴族らしく、モデナにある王立陸軍士官学校に入学させられてエリート士官のコースを歩んでいたが、それを嫌った彼は1936年にパイロット免許を所得し、自由な雰囲気の空軍に入隊した。空軍パイロットとなったルースポリは、第6航空団第81戦闘航空群に配属となり、第二次世界大戦開戦後はマッキ MC.200"サエッタ"を駆り出撃した。この際に撮影機材を取り付けて飛行し、記録を収集する事が趣味となった。1940年10月27日、地中海上空にて初戦果を挙げている。

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おそらく、バドリオ元帥の左後ろにいる人物がルースポリ

1941年8月、ギリシャ戦線を終えたルースポリは第22戦闘航空群の一員として、東部戦線に派遣された。ルースポリは派遣された数日後にソ連のI-16戦闘機を2機撃墜したが、その後機材の故障によって不時着している。1942年6月には第4航空団第10戦闘航空群第91飛行隊「フランチェスコ・バラッカ」の隊長に任命され、北アフリカ戦線に移動。そこで7月17日に英ハリケーン戦闘機を1機、10月20日には3機の米カーチスP-40戦闘機を連続で撃墜した。最終的に彼の個人撃墜スコアは10機に達している。

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共同交戦空軍仕様のMC.205V"ヴェルトロ"戦闘機

少佐に昇進したルースポリは帰国し、ローマの空軍省勤務となった。彼は1943年9月8日のイタリア王国休戦後、空軍崩壊を防ぐために尽力している。休戦後は南部ブリンディジに遷都した王国政府の元で再形成された「共同交戦空軍」の一員となる。9月29日には、語学に堪能であった事から、戦艦「ネルソン」甲板にて行われたバドリオ元帥とアイゼンハワー将軍の会談の際には通訳として務めた。「共同交戦空軍」の一員としては、ルースポリはMC.205V"ヴェルトロ"戦闘機を駆り、RSI政権の名目的な首都で、ドイツの占領下にあったローマへのビラ撒きを敢行している。戦後、ブエノスアイレスにて1947年6月11日に死亡。41歳の若さであった。

 

◆エンリーカ・タラントラ

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エンリーカ・タラントラ

赤ズボン隊の一員。小説「アフリカの魔女 ケイズ・リポート」などに登場。実家が八百屋で、通称「バナーナ」。一時期ドッリオ少佐の僚機を務めていた。

元ネタ:エンニオ・タラントラ(Ennio Tarantola)

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エンニオ・タラントラ

機体FIAT CR.32戦闘機(1935~1940)→Ju-87"ピッキアテッロ"急降下爆撃機(1940~1941)→FIAT G.50"フレッチャ"戦闘機(1941~1942)→マッキ MC.202"フォルゴレ"戦闘機(1942~1943)→マッキ MC.205V"ヴェルトロ"戦闘機(1943)→FIAT G.55"チェンタウロ"戦闘機(1944)
モデルとなったエンニオ・タラントラ氏も、通称「バナーナ」でこれは元々故郷で果物売りとして働いていたため。1915年1月19日に、スイスに近い湖畔の療養地コモで生まれた。17歳でグライダー免許を所得し、空軍パイロットになるために飛行学校に入学。免許を所得後、1935年に空軍に入隊、第6航空団第20航空群第151飛行隊に配属。スペイン内戦では義勇パイロットの一員として参加。彼はまだ110時間の飛行経験しかなかったが、彼はCR.32戦闘機でスペイン共和国空軍のI-15戦闘機を1機撃墜し、エースとしての道を歩み始める事となる。スペイン滞在中に計400時間以上の飛行経験を得た。帰国後、第6航空団第3航空群第155飛行隊に配属となっている。

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飛行服姿でポーズをとるタラントラ

第二次世界大戦開戦後、タラントラは急降下爆撃機パイロットに転身し、ジュゼッペ・チェンニ率いる第97急降下爆撃航空群第239飛行隊の所属となる。Ju-87"ピッキアテッロ"急降下爆撃機を操り、地中海における艦船攻撃で戦果を挙げていく。1941年6月29日には、オーストラリア海軍の駆逐艦「ウォーターヘン」に直撃弾を喰らわせ、その撃沈に貢献するが、その翌日に自身も撃墜されてしまった。しかし、何とか一命を取り留め、救命艇で海上を18時間漂った後、哨戒中のCANT Z.501"ガッビアーノ"水上機によって発見されて救助された。その結果、この経験から急降下爆撃機部隊から戦闘機部隊に戻ることを申請した。

こうして戦闘機パイロットに戻ったタラントラは、1941年11月4日にドッリオ隊長率いる第20航空群第151飛行隊に転属。この部隊はFIAT G.50"フレッチャ"戦闘機を装備していた。12月5日には米カーチスP-40戦闘機を1機撃墜し、戦闘機パイロットに復帰後初の撃墜戦果を挙げる。翌年、同飛行隊の装備は新型機のマッキ MC.202"フォルゴレ"に転換となる。この時、彼が自分の機体に"Dài, Banana!(行け、バナナ!)"と書いたのが、以後彼のトレードマークとなった。こうして、ドッリオ隊長と共に僚機として地中海で多くの戦果を挙げていった。2人のコンビネーションは「カップル(Coppia)」と称されるほどであったという。しかし、戦果を挙げる一方で、1942年7月27日には英空軍のエースであるバーリングによってドッリオ隊長が撃墜され、自身も敵機の攻撃で足に重傷を負って戦線を離れざるを得なくなった。

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MC.202とタラントラ

同年12月には新型機のマッキ MC.205V"ヴェルトロ"への転換のためにローマに行く。1943年5月にはサルデーニャカリャリ近郊にあるカポテッラ基地での配属となったが、カリャリは偶然か戦死したドッリオ隊長の育った町だった。新型機への転換後も愛機のMC.202でP-40とP-38の2機を撃墜し、更に8月にはMC.205Vに乗り換え、休戦までの短い間に2機のP-38を撃墜した。彼は通算11機の個人撃墜スコアだった。

休戦後はイタリア社会共和国(RSI)空軍に合流し、FIAT G.55"チェンタウロ"装備の「モンテフスコ」補助飛行隊の所属となる。しかし、1944年4月25日、トリノのFIAT工場爆撃を目標としたアメリカ陸軍航空隊のB-24爆撃機の迎撃に向かったが、護衛機のP-47の攻撃で撃墜されてしまった。重傷を負ったが一命は取り留め、戦後は再びイタリア空軍に加わっている。戦後空軍では飛行教官を務め、また曲芸飛行隊「フレッチェトリコローリ」にも所属した。2001年7月30日、86歳で亡くなった。

 

ざっとこんな感じである。

その他、イタリア空軍のパイロットをモデルとした人物では、ロマーニャ空軍ではなく元ヴェネツィア空軍所属という設定だが、アンナ・フェラーラというキャラクターはおそらくアルトゥーロ・フェッラーリン(Arturo Ferrarin)をモデルにしていると思われる。ローマ・東京飛行を達成した人物で、日本とも関係が深い人物だ。

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アニメ「ストライクウィッチーズ」2期の隠れた魅力。イタリア艦艇やイタリア戦闘機が活躍するシーンが見れる!多分イタリア艦艇が登場する唯一のアニメであると思われる。他にも出てこい出てこい....

空軍以外では、ロマーニャ公国のマリア・ピア・ディ・ロマーニャ第一公女はイタリアのウンベルト王太子妃(後にイタリア王国最後の王妃となる)マリア・ジュゼッピーナ・ディ・サヴォイア(Maria Giuseppina di Savoia)がモデル。戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」艦長を務めるヴェネツィア海軍のレオナルド・ロレダン大佐と同名のヴェネツィアのドージェ、レオナルド・ロレダン(Leonardo Loredan)が存在する。また、ロマーニャ海軍「デチマ・マス」のデ・ラ・ペンネ中尉は、アレクサンドリア港攻撃の立役者であるイタリア海軍「デチマ・マス」のルイージ・ドゥランド・デ・ラ・ペンネ(Luigi Durand de la Penne)大尉がモデルである。

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ストライクウィッチーズ劇場版でルッキーニが言及した"ゴンドラのスピードレース"こと、「レガタ・ストリカ」。毎年9月の第一日曜にヴェネツィアで開催される祭りで、各部門に分かれた迫力満点のゴンドラのスピードレースのほか、歴史的な衣装に纏った人々のゴンドラのパレードもあって中々に楽しい。ヴェネツィアに訪れるなら是非この時期にどうぞ。

その他、名前のみ登場するロマーニャウィッチが何人かいるが、いずれもモデルが存在する。ロマーニャ最高のウィッチであるテレーザ・マルティノーリはイタリア空軍最高位エースのテレシオ・ヴィットーリオ・マルティノーリ(Teresio Vittorio Martinoli)氏、ロマーニャでは珍しいナイトウィッチであるルイーサ・トルキオは夜間戦闘での戦果が知られるルイージ・トルキオ(Luigi Torghio)氏、ユーナ・ドラーゴはRSI最高位エースのウーゴ・ドラーゴ(Ugo Drago)氏、ジョヴァンナ・ボネはジョヴァンニ・ボネ(Giovanni Bonet)氏、アウローラ・サンソンはアッティーリオ・サンソン(Attilio Sanson)氏がモデルとなっている。いずれも名だたるエースパイロットだ。

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ヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館は、数々のイタリア機を所蔵しているイタリア屈指の空軍博物館。空軍が直接管理する博物館なので、入館料は無料。第一次世界大戦から現在に至るまでのイタリア空軍の機体を展示している素晴らしい博物館だ。ローマから鉄道でブラッチャーノに向かい、そこからタクシーで向かうことが出来る。

アニメ2期や劇場版の舞台となったイタリアではローマやヴェネツィアなど、作中に登場した「聖地」がいくつもあるので、ファンは非常に楽しめるだろう。勿論、ファンでなくとも、イタリアは魅力たっぷりなので誰でも絶対に楽しめる。また、空軍ファンなら、ウィッチのモデルとなったエースが乗っていたイタリア機を見るのも良いだろう。ローマ近郊のヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館はアクセスも良く、数多くのイタリア機が展示されているので非常に楽しめるのでオススメである。

願わくば他にもロマーニャウィッチが出てきてほしいものだ。というかアルダーウィッチーズアニメ化してください。マジでお願いします。

「黒シャツを着たユダヤ人将軍」アルベルト・リウッツィ将軍 ―様々な「顔」を持った「忘れられた英雄」―

ファシスト政権下のイタリアでは、ナチス・ドイツへの接近に伴い、所謂「人種法(Leggi razziali)」と呼ばれる一連の反ユダヤ法案が成立した。しかし、ここで勘違いしてはいけないのは、それ以前のイタリアでは概して「イタリア・ファシズムユダヤ人の関係は良好だった」という点だ。これはイタリアにおけるユダヤ人問題と、ムッソリーニの対ユダヤ人認識から考えることが出来る。

イタリアでは反ユダヤ主義は浸透していたが、イタリア系ユダヤ人は完全に同化していた上に、国内のユダヤ人の数は約4万2千人と少なかった。その上、多くのユダヤ人はムッソリーニ政権成立後には熱狂的なファシストとなったため、ナチス・ドイツのような「人種主義政策の土壌となるようなユダヤ人問題」は存在しなかった。指導者であるムッソリーニ自身もバラバーノヴァやベルクソンといったユダヤ人知識人から強い影響を受けており、ユダヤ人を特に好いてはいなかったが、反ユダヤ的感覚も抱いていなかった。この姿勢が、ナチス・ドイツ成立後にヒトラーの人種主義との対抗という意味を込めて強調されることになる。また、この時期はユダヤ教の自由を保障する法律が制定され、ムッソリーニシオニズム運動に対して好意的な姿勢を示した

これらの「ユダヤ人への寛容ムード」も、エチオピア戦争を機に徐々に変化していくが、少なくとも「人種法」でユダヤ人が公職追放を受けるまで、多くのユダヤファシストが政権中枢にも多くいたことは事実である。そこで、今回はユダヤファシストの黒シャツ将軍で、軍人としてだけではなく、サッカー選手や海軍技師、政治家など様々な「顔」を持ったアルベルト・リウッツィ将軍という人物の経歴を見てみよう。

 

◆その出自と第一次世界大戦

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アルベルト・リウッツィ(Alberto Liuzzi)

1898年3月1日、アルベルト・リウッツィオーストリア国境にほど近いウーディネ県のアルタ・テルメという小さな温泉地で生まれた。彼の父トゥッリオ・リウッツィユダヤ系の出自の軍医師だった。しかし、当時のイタリアではユダヤ人は生活の中に溶け込み、ユダヤ系の出自を持っていても本人は意識していなかったし、周囲の人々も気にしていなかった。要するに、他の「イタリア人」に同化していた。

リウッツィはウーディネにある工業高校を卒業したが、第一次世界大戦の勃発後、父の影響でイタリア軍に参加する事になった。父トゥッリオは軍医としてイタリア軍に従軍していたのである。また、ウーディネは第一次世界大戦時はルイージ・カドルナ将軍のイタリア軍最高司令部が設置されており、「戦争の首都(capitale della guerra)」とも呼ばれていた。こういった環境がリウッツィを軍人の道に進ませることとなった。

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モデナのドゥカーレ宮殿。内部には陸軍士官学校が設置されている。原則非公開だが、ツアーに申し込むと内部見学が可能。また、特別展が開催されると一部が解放される。

リウッツィはモデナの陸軍士官学校(モデナのドゥカーレ宮殿内にある)に入り、訓練を経てアルピーニ(山岳兵)少尉として任官された。アルピーニ大隊「トルメッツォ」の第8連隊に所属し、山岳戦でオーストリア兵に果敢に戦った。カポレットの大敗でイタリア軍は一時壊滅状態になるも、アルマンド・ディアズ将軍の元で立て直しに成功し、遂にはヴィットーリオ・ヴェネトの戦いで宿敵オーストリアを完全に破ることに成功したのであった。リウッツィは戦時中の活躍によって、終戦までに3度勲章を叙勲され、中尉に昇進した

戦争が終わると、1919年にリウッツィはラッファエーラ・リグニャーナという女性と結婚した。彼らは幸せな家庭を築き、やがて4人の子ども(トゥッリオ、エンマ、アンナ・マリーア、アルベルト)が出来た。長男トゥッリオはアルピーニの将軍になった。末っ子のアルベルトは父の戦死後に生まれたため、父の名前が付けられた

 

◆スポーツ選手としてのリウッツィ

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1922年のウディネーゼ・カルチョのメンバー。リウッツィは弟ジュゼッペと共にこのチームに参加し、キャプテンとしてチームを率いた。

リウッツィはスポーツマンとしても知られていた。陸上競技ではフリウーリとヴェネトで数回トップの成績に輝いた経験を持っていたが、これはチャンピオンだった父の影響もあったようだ。また、1922-23シーズンではウーディネのサッカーチーム「ウディネーゼ・カルチョ」の選手として弟のジュゼッペ・リウッツィと共に参加し、キャプテンとしてこのチームを率いた。以前後に空軍参謀長となるリノ・コルソ・フージェ将軍がカルチョ・パドヴァで選手をしていたことを紹介したが、リウッツィとはシーズンが異なるため選手としては対戦しなかったようだ(フージェは1919-20のシーズン)。

なお、キャプテンとして「ウディネーゼ・カルチョ」を率いたリウッツィであったが、チームの成績は芳しいものではなかった。プリマ・ディヴィジオーネのグループBで、最下位の11位になってしまい、セコンダ・ディヴィジオーネに降格となったのだ。そういったことからか、キャプテンとしてのリウッツィの能力はあまり評価されていないようである。

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中央にいる高身長の人物が「歩く山岳」と呼ばれたプロボクサー、プリモ・カルネラ。彼の右に立っているのがリウッツィ将軍と思われる。

ボクシングについても熱心であり、同じフリウーリ出身のプリモ・カルネラとは親交があった。プリモ・カルネラは身長2mほどの巨体を持つ「歩く山岳(La montagna che cammina)」と呼ばれたプロボクサー選手で、世界ヘビー級チャンピオン。戦後には来日し、日本プロレスに参加、あの力道山とも対戦した人物だ。

 

◆黒シャツの将兵として、そして海軍技師、政治家として

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空軍創設に尽力したアルド・フィンツィ。彼もまたユダヤ系の出自を持つファシストで、第一次世界大戦時は陸軍航空隊のパイロットだった。ムッソリーニの側近の一人であったが、「人種法」によって公職追放を受ける。休戦後はイヴァノエ・ボノーミ率いる労働民主党に合流し、パルチザン闘争に加わった。1944年、SSに逮捕されてアルデアディーネの洞窟で殺害された。

1922年、ムッソリーニはローマ進軍で政権を手に入れた。1923年2月にはファシスト党の私兵であった「黒シャツ隊」は「国防義勇軍(Milizia Volontaria per la Sicurezza Nazionale、略称M.V.S.N.)」と改称し、陸軍・海軍・カラビニエリと共にイタリア軍を構成する「第四の軍」となった。この後、イタリア空軍(1923年3月独立)がこれに加わり、イタリア軍は五個の軍で構成されることとなる。

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アオスタ侯アメデーオ(ドゥーカ・ダオスタ)とリウッツィ

MVSN創設に伴い、リウッツィはMVSNに参加して黒シャツを着た。彼は陸軍大尉に相当する「百人隊長(centurione、ローマ軍のケントゥリオに由来)」の地位を手に入れ、黒シャツの中隊を率いる事となった。当然、ユダヤ人としての出自は意識されなかった。彼はカリスマ的な隊長で、また誰とでも親し気に会話が出来る外向的な人物だった。その人格から部下だけでなく、多くの人に慕われたようだ

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リウッツィ級潜水艦のネームシップ「コンソーレ・ジェネラーレ・リウッツィ」。同級の「アルピーノ・バニョリーニ」は第二次世界大戦時のイタリア海軍艦艇で一番最初に敵艦を撃沈した潜水艦として知られる(英軽巡カリプソ」の撃沈)。

リウッツィは黒シャツの将校だったが、技術者出身という経験を生かして海軍で技師として働いた。彼の名は特に優秀な潜水艦技師として知られ、14年間多くの潜水艦の設計に関わった。興味深いことに、彼が戦死した後に建造されたリウッツィ級潜水艦は彼の名前が付けられている。1934年に海軍参謀長となったドメニコ・カヴァニャーリ提督は潜水艦を重要視したため、リウッツィら潜水艦技師らは寵愛を受けたのだった。リウッツィは潜水艦だけでなく、石油掘削装置や民間の客船の設計にも関わったリットーリオ級戦艦などに搭載された「プリエーゼ式水中防護隔壁」の設計で知られるウンベルト・プリエーゼ提督とも、同じくユダヤ系という出自からも関係があったと思われる。

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執務室のリウッツィ将軍。30代という若さで准将に昇進した彼は、政治的に反対する人々にさえも好かれるカリスマ的な魅力を持っていた。その能力は様々な場面で発揮されることとなる。

リウッツィは政治にも参加した。1936年には故郷に近いウーディネ県のジェモーナ・デル・フリウーリという町の市長を務めた。この街は元々ジェモーナという名前であったが、1935年にファシスト政権によってジェモーナ・デル・フリウーリに改称されていた。市長となったリウッツィは自己の利益よりも他者、すなわちここでは市民の利益を優先する人として政治的に反対する市民にさえも広く慕われるようになった。これは上述した彼自身の人柄の良さが大きかった。また、ウーディネに駐屯する第13師団の指揮官も務めていた。

 

◆もう一人のユダヤ人将校、カミッロ・バーラーニ

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カミッロ・バーラーニ(Camillo Bárány)

エチオピア戦争ではカミッロ・バーラーニ(Camillo Bárány)というユダヤ系の出自を持つ黒シャツ将校がアンバ・アラダムの戦いで戦死した。余談だが、彼のこともここで少し紹介しよう。彼の祖先はハンガリー人亡命者で、ジュゼッペ・ガリバルディと共にシチリアで「ハンガリー軍団」の一員として戦った人物だった。

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ペッピーノ・ガリバルディ。「イタリア統一の英雄」ジュゼッペ・ガリバルディの孫。第一次世界大戦後は反ファシストとして活動した。

メキシコに住んでいた若きバーラーニはガリバルディの孫であるジュゼッペ・ガリバルディ(祖父と同名であるため、区別するためにペッピーノと呼ばれる)と共に独裁者ポルフィリオ・ディアスの打倒運動に加わり、フランシスコ・マデロら革命家たちと共に戦っている。第一次世界大戦が勃発によりヨーロッパに戻った彼は、フランス外人部隊に加わり、ペッピーノが率いるイタリア人義勇兵部隊「ガリバルディ軍団」に参加。イタリア軍第一次世界大戦に参戦すると、「ガリバルディ軍団」は解散し、メンバーはイタリア軍に入隊した。

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ティーナのピアーナ・デッレ・オルメ歴史博物館にあるアグロ・ポンティーノ大湿地帯の干拓の再現。こうした干拓事業にMVSNを含め多くのイタリア人が動員された。

アルピーニ中尉として大戦を戦い抜いたバーラーニはダンヌンツィオのフィウーメ進軍では「同志」として参加する。その後、ファシズムに接近して黒シャツ隊の一員となった彼はムッソリーニと共にローマ進軍に参加した。MVSNの一員となった彼はグラツィアーニ将軍率いる部隊の一員としてリビア再征服に従軍している。MVSNはファシスト政権が展開した「大地の戦い」と呼ばれる大規模干拓事業にも大量動員された。バーラーニはその一員として干拓に参加し、サルデーニャムッソリーニア(現アルボーレア)や、ラツィオリットーリア(現ラティーナ)といった新都市の建設にかかわった。

バーラーニは中隊長としてエチオピア戦争に従軍し、アンバ・アラダムの戦いの中でエチオピア兵の狙撃を受けて戦死してしまった。彼はユダヤ人の出自を持つファシスト軍人として広く知られていた彼は、政権によってイタリア軍最高位の金勲章を叙勲された。しかし、彼もまた「人種法」の制定により、「忘れられた英雄」となったのであった。

 

◆スペイン内戦への従軍

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CTV部隊を率いたマリオ・ロアッタ将軍。グアダラハラで大敗したことから軍事的な評価は低いが、SIM(陸軍諜報部)長官としてロッセッリ兄弟暗殺といった陰謀を指揮したり、第二次世界大戦中はユーゴ戦線でチェトニックとの協力関係を結ぶなど暗躍した。

リウッツィ将軍の話に戻すとしよう。イタリア軍は1936年にエチオピア帝国征服を完了したが、その直後にスペインで内乱が発生したため、ムッソリーニはこれの介入を決定した。これに伴い、MVSN准将(Console generale)にまで昇進していたリウッツィは、スペイン内戦に介入するマリオ・ロアッタ将軍率いるイタリア軍義勇兵部隊「CTV部隊(Corpo Truppe Volontarie)」に参加することとなる

翌年の1月にはリウッツィは第三黒シャツ師団「ペンネ・ネーレ」隷下の第11旅団隷下「バンデラス」の指揮を任され、スペインに派遣された。しかし、彼は二度と故郷イタリアの土を踏むことはなかった。1937年3月8日、イタリア軍側はグアダラハラでスペイン共和国軍に対して攻勢を開始し、リウッツィ率いる第11旅団も進軍した。

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ガリバルディ大隊」を率いたイリオ・バロンティーニ。反ファシストアナーキスト。フランス亡命期を経てソ連に渡り、そこで軍事訓練を受けた。その後、中国で毛沢東率いる中国共産党を支援している。スペイン内戦後はエチオピアに渡り、反伊活動家を支援した。

しかし、イタリア軍側の攻撃は霧による視界不良もあり成功せず、共和国軍側の反撃を許した。この反撃に参加した国際旅団にはイタリア人義勇兵の「ガリバルディ大隊」が参加しており、奇妙なことに「ファシスト政権に従ったイタリア人と、ファシスト政権に反抗したイタリア人」の戦いが起こっていた。この戦いはイリオ・バロンティーニ率いる「ガリバルディ大隊」の活躍によって国際旅団側はイタリア軍相手に大勝し、イタリア軍側はこの大敗の結果、「ファシズムの最初の敗北」として反ファシストの宣伝材料とされた。

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フィアット・アンサルド装甲車。こちらはAB.43と呼ばれる後期型。

国際旅団側が反撃を開始した3月12日、スペイン共和国空軍がイタリア軍部隊への爆撃を実行した。この爆撃は「ペンネ・ネーレ」師団を襲い、前線で指揮をしていたリウッツィ将軍のフィアット・アンサルド装甲車に爆弾が直撃、その結果リウッツィ将軍は運転手と共に戦死を遂げたのであった

この英雄の戦死に対して、ファシスト政権はイタリア軍最高位の勲章である金勲章を叙勲し、1939年~40年にかけて就役した潜水艦の名前にも彼の名をつけた(リウッツィ級潜水艦)。しかし、彼の戦死後の1938年7月にはイタリアで反ユダヤ法案である「人種法」が成立してしまう。こうして、イタリア人はアーリア民族であるとされ、ユダヤ系の出自を持つ人々はそれから除外されてしまったのだ。その後の法処置(これを総称して通称「人種法」と呼ばれる)によってユダヤ人とイタリア人の結婚の禁止、ユダヤ人の商業・産業活動の禁止、公職追放が決められ、ユダヤファシストや軍人らは追放されてしまった。このため、リウッツィ将軍というユダヤ系の出自を持つ英雄の存在も記憶から消し去られてしまったのである

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戦後に作られたリウッツィ将軍の廟。現在は解体されて残っていない。

戦後、リウッツィ将軍の妻ラッファエーラが中心となって、フランコ将軍の協力もあり戦死した場所に記念碑的な廟が作られ。しかし、後にフランコ政権下のスペインに多くの外国人観光客が訪れるようになると、老年のフランコはそれに配慮して1969年にリウッツィの記念碑の解体を命じた。これによってリウッツィ将軍は完全に「忘れられた英雄」となってしまったのであった。

 

リウッツィやバーラーニといった「黒シャツを着たユダヤ人」は、今となっては完全に「忘れられた存在」となってしまった。「人種法」の制定前は活躍したユダヤ人たちが数多くいたのは確かであるため、そんな「忘れられた存在」である彼らのことを調べてみたら面白いだろう。今後とも調べていこう。

「アンバ・アラジの英雄」アオスタ侯(ドゥーカ・ダオスタ)アメデーオ・ディ・サヴォイア —大空を舞った「鋼鉄侯」の軌跡—

戦間期には優秀な飛行家として知られ、また第二次世界大戦時には東アフリカ戦線の総指揮を執ったことで知られるアオスタ侯アメデーオ・ディ・サヴォイア(Amedeo di Savoia-Aosta, Duca d'Aosta)。東アフリカ戦線の敗北によって、捕虜となった彼はケニアの捕虜収容所の中で悲劇の病死を遂げた。今回は「鋼鉄侯(Duca di Ferro)」と呼ばれ、王族とは思えない自由奔放な性格で知られた彼の軌跡を辿ってみよう。

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アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ(Amedeo di Savoia-Aosta)

アメデーオは1898年10月21日にトリノにて、第二代アオスタ侯(Duca d'Aosta)のエマヌエーレ・フィリベルト(Emanuele Filiberto)の長男として生まれた。正式名はアメデーオ・ウンベルト・ロレンツォ・マルコ・パウロ・イサベッラ・ルイージ・フィリッポ・マリーア・ジュゼッペ・ジョヴァンニ・ディ・サヴォイア=アオスタ(Amedeo Umberto Lorenzo Marco Paolo Isabella Luigi Filippo Maria Giuseppe Giovanni di Savoia-Aosta)。王族らしく非常に長い名前である。彼は出生と同時にサヴォイア=アオスタ家の次期当主となった。サヴォイア=アオスタ家はイタリア王家であるサヴォイア家の分家に当たる血筋で、イタリア王族に含まれた。「プッリャ侯」の称号を得たアメデーオは僅か9歳で、英国・ロンドンにあるセント・アンドルーズに留学することとなり、その結果英語を完全に習得した。彼は英国でキツネ狩りやポロを楽しんだという。また、彼は初期段階の飛行機が町の上空を飛ぶのを見て、幼い頃から空に憧れを持っていた。様々な物語を通してアフリカへの冒険にも憧れていた。

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父である第二代アオスタ侯エマヌエーレ・フィリベルト。第一次世界大戦の英雄であると同時に、ムッソリーニの政権樹立の後押しをした人物として知られる。トリノのカステッロ広場には巨大な像があり、現在も残っている。

イタリアに戻ったアメデーオは15歳でナポリの王立士官学校に入学し、軍のキャリアを開始した。本当は海軍士官学校に入りたかったが、家族の反対で陸軍士官学校に入った。彼は友人に自分を「君(tu)」と呼ばせることを勧め、形式だった関係を崩して柔軟な関係を築いている。その親しみやすい間柄によって多くの人間関係を築いた。しかし、その翌年には第一次世界大戦が勃発する。アメデーオは僅か16歳で騎兵連隊「ヴォロイレ」の一員として戦うことになったアメデーオの父エマヌエーレ・フィリベルト(第三軍司令官)は指揮官であるカルロ・ペティッティ・ディ・ロレート将軍に対し、アメデーオを「特別扱いせず、他の人間と同じように」扱うことを求めた第一次世界大戦を切り抜けたアメデーオは、武勲を挙げて最終的に中尉にまで昇進した。

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トリノ・マダーマ宮前にあるエマヌエーレ・フィリベルト侯の像。周囲には彼の部下の兵士たちを模した像が配置されている。

第一次世界大戦が終わった後、アメデーオは叔父であるアブルッツィ侯ルイージ・アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタのアフリカ行きに付き従った。アブルッツィ侯はソマリアでの農業開発に尽力し、アメデーオもそれを手伝った。河川調査、綿花やサトウキビ栽培、食用油の精製などが行われ、後にヴィッラブルッツィ(現ジョーハル)と呼ばれる都市の建設にかかわった。更にはヴィッラブルッツィとモガディシオを繋ぐための鉄道の敷設の準備を進めた(本格的な建設開始は1924年)。冒険心に溢れた彼は帰国の際もわざわざ喜望峰を通って遠回りのルートで帰国しようとしたが、道中でマラリアに罹ったため、ザンジバルの病院で入院することとなる。

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アメデーオの叔父にあたるアブルッツィ侯ルイージ・アメデオ・ディ・サヴォイア=アオスタ。第一次世界大戦時のイタリア艦隊司令官であるが、それよりもアフリカへの探検とソマリアでの開発で知られている。

アフリカで経験を積んだアメデーオは高校を卒業した。1921年には軍を去り、ベルギー領コンゴに「家出」をした。本当かどうか定かではないが、これは国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が低身長であることを言ったため、国王の怒りを買ったことによる「追放」だったともされる。その結果、ベルギー領コンゴのスタンリーヴィル(現在のキサンガニ)に僅かな資金のみで行き、石鹸工場の労働者として働いた。環境は当然劣悪で、工場の労働者は海外からの出稼ぎ労働者や現地のコンゴ人たちであったが、彼らは見るからに育ちがよく、外国語を不自由なく話す長身の男が何故こんな場所に来たのか不思議に思ったという。

アメデーオがイタリアを離れている間、イタリアは激動の時代だった。ムッソリーニ率いるファシスト党が勢力を拡大し、遂に政権を樹立したからだ。アメデーオの父エマヌエーレ・フィリベルトはファシストの重要な支援者となり、ムッソリーニの政権樹立の後押しをした人物として知られている。第三軍を指揮した「第一次世界大戦の英雄」がムッソリーニの後押しをしたことは、彼の影響力の拡大に十分に役になった。興味深いことに、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世ムッソリーニを不支持だった場合、ムッソリーニはエマヌエーレ・フィリベルトに王位を継承させることを提案したという。なお、この結果、ファシスト政権成立後の1926年にはエマヌエーレ・フィリベルトはエンリコ・カヴィーリャ(第八軍司令官)、ピエトロ・バドリオ(陸軍参謀長)、ガエターノ・ジャルディーノ(第四軍司令官)、グリエルモ・ペコリ・ジラルディ(第一軍司令官)といった他の第一次世界大戦の指揮官たちと共にイタリア軍最高位である元帥の地位を与えられている。

 

◆飛行士としての「鋼鉄侯」のキャリア

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アメデーオとアンナ(アンヌ・ドルレアン)の結婚式の写真。

コンゴの石鹸工場の副所長にまで昇進した彼だったが、ファシスト政権が成立した後の1923年、アメデーオはイタリアに帰国して再び軍のキャリア(少佐)を再開した。父と同様にファシスト政権への支持を表明した。また、パレルモ大学で植民地問題で学士を所得して卒業している。同年、イタリア空軍が陸軍航空隊及び海軍航空隊を統合して誕生したが、1926年7月にアメデーオは飛行士免許を取ったものの、この段階ではまだ陸軍の所属であった。なお、彼の飛行士訓練を指導したのは、ローマ-東京飛行で知られるかのアルトゥーロ・フェッラーリンだったという。フェッラーリンはアメデーオの友人だった。翌年、オルレアン公ジャンの三女であるアンヌ(イタリア語ではアンナ)と結婚している

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バドリオ元帥(左)とグラツィアーニ将軍(右)。二人は仲が悪かったが、植民地戦争においては「名コンビ」とも言える関係だった。それはリビア人やエチオピア人にとってはまさしく「悪夢」そのものであり、二人による容赦ない攻撃によって数えきれない犠牲者を出した。

飛行士としてのキャリアを開始したアメデーオは1929年に再びアフリカに戻った。今度は東アフリカや中部アフリカではなく、北アフリカリビアに向かった。階級は大佐にまで昇進していた。アフリカに魅了された彼は再びアフリカの地に戻ったことに歓喜したという。当時、リビアではオマル・ムフタール率いるサヌーシー教団による大規模反乱が発生しており、ロドルフォ・グラツィアーニ将軍とピエトロ・バドリオ元帥が率いるイタリア軍はこれの徹底的な鎮圧を実行していた(リビア再征服)。リビアに渡ったアメデーオはグラツィアーニ将軍の指揮下に置かれ、キレナイカ戦線における航空偵察、そしてサヌーシー教団の軍勢への大胆な空爆を行って戦局に大きな影響を与えている。この輝かしい働きによって、アメデーオは銀勲章を叙勲された。

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ゴリツィア飛行場のアメデーオ侯。

1931年に父エマヌエーレ・フィリベルトが死去すると、アオスタ侯の地位を受け継いで第三代アオスタ侯(ドゥーカ・ダオスタ)となった。その後、トリエステに駐屯する第23砲兵連隊の指揮をしたが、翌年1932年には遂に空軍に移籍した。今まで陸軍を離れられなかったのは、父エマヌエーレ・フィリベルトや王族の抵抗(王族は伝統的な陸軍に所属する事が好ましいと考えられたため)があったからだった。しかし、父の死を機にアメデーオは国王に空軍への移籍許可を迫り、国王はしぶしぶこれを了承したのであった。

イタロ・バルボ空軍元帥率いるイタリア空軍は、リビアで武勲を挙げた「空の貴公子」を歓迎した。アメデーオは堅苦しい陸軍の雰囲気から解放され、若く穏やかな空軍の環境に大変喜んだという。空軍に移籍した彼は空軍大佐の階級を得て、ゴリツィア基地の第21偵察航空団の司令官に任命された。1933年5月から翌年3月までは第四戦闘航空団の司令官を務め、空軍准将に昇進。

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トリエステミラマーレ城。元々ハプスブルク家のマクシミリアンによって作られた城であった。

1930年から1937年までの間、アメデーオは家族と共にトリエステミラマーレ城で暮らしていた。余談だがこの頃アメデーオはトリエステのサッカーチーム「トリエスティーナ」の名誉会長に就任している。更にはトリエステとゴリツィアの名誉市民の称号も得た。王族とは思わせない雰囲気で人望もあった彼はトリエステ市民からも親しみを持たれていたのであろう。また、彼は個人的なアクロバット飛行を好み、よくやっていたが、彼は高身長であったため機体の座席は特別仕様だった。

1935年にムッソリーニエチオピア帝国との戦争を宣言し、エチオピア侵攻を開始した(エチオピア戦争)。これに対してアメデーオは空軍パイロットとして前線で戦うことを申し出たが、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はこの申し出を断った。空軍将官であり、王家の一員だったアメデーオが危険な前線で戦うことは国王は許さなかったのである(エチオピア側が強力な対空砲を持っていたことも理由の一つだろう)。失念した彼を国王は少将に昇進させ、前線パイロットではなく第一航空師団「アクィラ」司令官に任命することで妥協させた。エチオピア戦争の終結後、1937年11月にアメデーオは空軍中将に昇進している。

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アメデーオとFIAT CR.30。彼は身長が非常に高く、198cmもあったそうだ。

エチオピア戦争に続いてスペインにて内戦が勃発した。これに対してムッソリーニ統帥はイタリア軍を派遣し、介入することを決定した。そこで、アメデーオが新たなスペイン国王になる案が浮上した。これは初代アオスタ侯アメデーオ(つまり第三代アオスタ侯アメデーオの祖父に当たる人物)が一時的に「アマデオ1世」としてスペイン王となったことに由来するが、これはフランコ将軍によって拒否されたため立ち消えとなった。

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エチオピアの村を訪れたアメデーオ侯。

1937年12月末には、グラツィアーニの後任として、東アフリカ帝国副王に任命された。当時、東アフリカでは前任のグラツィアーニによる恐怖政治と武力による徹底的な弾圧が行われていたため、アメデーオはエチオピア統治に苦労することとなるエチオピア人の抵抗に悩まされることとなるが、アメデーオは現地の大規模な開発を実行する。しかし、短い統治期間故に完了したものは少なかった。彼は第二次世界大戦時の東アフリカ戦線の崩壊まで東アフリカ帝国副王を務めた。

 

第二次世界大戦と「アンバ・アラジの英雄」

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笑顔の「鋼鉄侯(Duca di Ferro)」アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ。

1940年にアメデーオは空軍大将に昇進する。これは事実上の空軍最高位であった(空軍元帥はイタロ・バルボ空軍大臣の名誉称号的なものだったため)。その後、同年6月にはイタリアが英国及びフランスに宣戦布告し、第二次世界大戦に突入した。この結果、アメデーオは東アフリカ戦線の総指揮を執ることとなる。東アフリカ戦線の詳細は別項目に詳述しているためここでは省略するが、東アフリカ戦線のイタリア空軍は旧式機こそ多いものの、ヴィシンティーニ大尉を始めとするスペイン内戦を経験したヴェテランパイロットも多く、英空軍相手に善戦した。ヴィシンティーニは大戦初期のイタリア空軍トップエースであり、更には大戦を通じて複葉戦闘機の世界トップエースだった

第二次世界大戦時の東アフリカ戦線では、アメデーオ侯率いるイタリア軍は英領ソマリランドを完全制圧し、スーダン及びケニア国境地帯を制圧するなど緒戦は善戦するが、次第に物資の欠乏に悩まされ(東アフリカ戦線は本国から遠く支援物資の補給が来なかった)、年明けの1941年から英軍の反抗作戦によってイタリア軍は崩壊していった。帝都アディスアベバの東方アワシュ渓谷地帯で防戦していた師団も力尽き、英軍によってアディスアベバへの道のりが開かれたのである。

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エチオピア北部、ティグレ地方のアンバ・アラジ山岳地帯。近代に入って、歴史上三度戦闘が発生した。一度目はアビシニア戦争時のイタリア軍エチオピア軍の戦い、二度目は第二次世界大戦時のイタリア軍と英軍の戦い、三度目は第二次世界大戦時のエチオピア軍とウォヤネ反乱軍の戦いだった。

1941年4月3日、英軍に追い詰められたアディスアベバでは、アメデーオ侯と幕僚であるクラウディオ・トレッツァーニ将軍らが作戦会議を開いていた。そこではアディスアベバを放棄して、アンバ・アラジの山岳地帯のトセッリ要塞での籠城戦をすることを決定し、同日の午後にはアメデーオ侯らイタリア軍主力はアディスアベバを出発し、アンバ・アラジに向かった。

アメデーオ侯がアンバ・アラジ山を選択したのは、ここが険しい山岳地帯であり防衛に適した場所であることによるものだった。また、同地のトセッリ要塞はアビシニア戦争中の1895年12月7日にイタリア守備隊のピエトロ・トセッリ少佐が壮絶な戦死を遂げた場所でもあった。アメデーオ侯らは最後まで徹底抗戦をすることを誓ったが、同地を包囲された場合、険しい山岳地帯故に外から支援物資を届ける事は不可能だった。しかし、そもそも現状として支援物資が本国から届く見込みはほぼ無かったために、この問題点は無視された。

一方、アワシュ渓谷でのイタリア軍守備隊を破った英軍はアディスアベバに入場し、その後エチオピア皇帝ハイレ・セラシエは帝都に帰還を果たした。トセッリ要塞に辿り着いたアメデーオ侯らは防衛陣地の構築を始めるが、その間も英軍は猛攻を続け、4月17日にはアディスアベバ北東のデシエが陥落している。英軍は次第にアンバ・アラジに迫りつつあった。アンバ・アラジの戦いは同日4月17日に始まった。英軍はアンバ・アラジを包囲し、アメデーオに無条件降伏を迫ったがアメデーオはこれを拒否し、徹底抗戦を決定した。戦闘は約1カ月間続き、イタリア軍は勇敢に英軍の猛攻に抗い続けたが、遂に水や弾薬も枯渇し、更に山岳の寒さが将兵を襲った

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英軍に降伏するアメデーオ侯(左から二番目)。

5月15日、遂にムッソリーニから降伏を許可する電報が届いたため、16日にアメデーオは英軍の勧告に応えて交渉を開始した。しかし、派遣されたボルピーニ将軍らイタリア軍代表は道中でエチオピアパルチザンに襲撃され、全員が殺害されるという思わぬ悲劇が発生した。このため、逆に英軍代表がアンバ・アラジに出向き、交渉を開始することとなった。その後、アメデーオ侯らAOIイタリア軍主力部隊は降伏した

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ヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館にあるアメデーオ侯の像。空軍の歴史上でも特に重要な人物の一人とされており、現在でも高く評価されている。

英軍の捕虜となったアメデーオはケニアに移送されたが、その地で熱病、チフスマラリアなどに侵され、闘病の末に1942年3月3日にナイロビの病院で結核のため死亡、同地の軍人墓地に葬られたのであった。こうして、「アンバ・アラジの英雄」と称された「鋼鉄侯」アメデーオはこの世を去ったのであった。

死後、イタリアの新聞は以下のように述べている。

「東アフリカ・イタリア軍総司令官アオスタ侯アメデーオ・ディ・サヴォイア空軍大将は、11カ月の激戦を通じ、圧倒的勢力の敵軍に包囲され、祖国からも孤立状態にあったが、賢明かつ勇壮な指揮官として、経験豊富な能力を十分発揮した。また勇敢な飛行士として活躍したほか、陸海空のいかなる戦闘においても、軍隊をたゆみなく指揮、激励し、数々の勝利をもたらした。アンバ・アラジの陣地では敵軍の包囲攻撃の中で陣頭に立って抗戦し、その人力を超越した奮戦ぶりは敵軍さえ称賛したのであった。アオスタ侯はサヴォイア王家の伝統たる武勇の継承者であり、植民地帝国を支配するファシスト・イタリアのローマ精神とその栄光を飾ったのである。」

 

サンマリノ共和国におけるファシスト政権史(1923-44) ―中立を宣言した山上の小国ファシズムの悲哀―

現在、イタリア半島には三つの国家が存在する。一つ目はイタリア共和国、二つ目はローマ市内にある「世界最小の国家」ヴァチカン市国、そして三つ目がサンマリノ共和国だ。サンマリノ共和国は周囲をイタリア領(エミリア・ロマーニャ州マルケ州)に囲まれた小国で、「現存する世界最古の共和国」である。国土面積的には世界で五番目に小さく、ワイン畑が広がるのどかな国だ。アクセスはイタリアのリミニ駅前からのバスで北部国境から入国するのが一般的だが、ウルビーノからのバスで南部国境から入国することも出来る(本数は少ない)。

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美味しいサンマリノワイン。後ろに見えるのは、サンマリノ共和国の国政を司るプブリコ宮。

ローマ皇帝ディオクレティアヌスによるキリスト教迫害を受け、マリーノ(マリヌス)というダルマチア出身の石工がティターノ山に籠城し、301年に建国したとされる。彼は後に聖人として「聖マリーノ(サン・マリーノ)」と呼ばれて国家の名前の由来となった。その後徐々に共和政と呼べるような国家形態が出来上がり、1291年に教皇ニコラウス4世(ニッコロ4世)が共和国を承認したことで、名実ともに国家として認められた

小さな共和国は歴史上様々な脅威に襲われたが、独立を現在まで維持してきた。これは独自の外交手腕によるものが大きい(特にナポレオン時代の外交官アントニオ・オノーフリは知られている)。それでも、歴史上に三度の占領統治を経験しているが、いずれも様々な理由によって短期間に終わっている。一度目はチェーザレ・ボルジアによって10カ月間占領されたが、彼の父である教皇アレクサンデル6世が死に、自らも重病となったため権威は失墜しサンマリノは解放された。二度目はジュリオ・アルベローニ枢機卿の軍勢によって約4カ月間占領されたが、ジローラモ・ゴジサンマリノ市民の抵抗運動と、教皇クレメンス12世が共和国の独立を尊重したことでサンマリノは解放されている。三度目は第二次世界大戦中に起こった。これは後に詳述しよう。

今回注目したいのは、サンマリノ共和国におけるファシスト政権史である。サンマリノ共和国は「自由」を尊重しているが、戦間期から第二次世界大戦時にかけてはファシスト政権が成立しており、イタリアに次いで世界で二番目に成立したファシズム体制であった。この小さな国のファシズム体制が、どのような変遷を辿っていったか見てみよう。

 

サンマリノにおけるファシズム体制の成立

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ジュリアーノ・ゴジ(Giuliano Gozi)

まず、サンマリノ共和国におけるファシズム体制の成立の前に、第一次世界大戦時のサンマリノ共和国について確認してみよう。サンマリノ共和国は第一次世界大戦時は他の戦争と同様に中立を宣言した。リソルジメント—すなわち、イタリア統一戦争の時と同じように、サンマリノ共和国は「同胞」たる義勇軍を派遣した。この義勇兵として参加したのが、サンマリノファシスト党の創設者であったジュリアーノ・ゴジ(Giuliano Gozi)だった。ゴジ家はサンマリノの名門といえる伯爵家で歴代執政を輩出し、「英雄」たるジローラモ・ゴジの家系でもあった。

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サンマリノ義勇兵の記念碑「アラ・デイ・ヴォロンターリ(Ara dei Volontari)」。ファシスト政権期にジュリアーノ・ゴジ外相の命で作られた。リソルジメント第一次世界大戦に参加したサンマリノ義勇兵の名が刻まれている。設計者はジーノ・ザーニ(Zino Zani)。

ジュリアーノ・ゴジは1894年8月7日に首都サンマリノ市で生まれた。彼は第一次世界大戦が始まった時はイタリアのボローニャ大学に在学中の学生だった。しかし、「同胞」であるイタリアがオーストリアに宣戦布告して参戦すると、ゴジはイタリア軍義勇兵に志願し、イタリア軍に入隊した。士官学校を経てアルピーニ(山岳兵)中尉に任官されたゴジは前線で奮戦し、イタリア軍最高名誉である金勲章を叙勲されている。

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ジュリアーノ・ゴジがアルピーニ兵として戦ったアルプス戦線の前線。

なお、このサンマリノ義勇兵であるが、いくつかの問題が発生した。「敵国」であったオーストリア=ハンガリーサンマリノのこの行動を「中立違反」として非難し、外交関係を断絶をさせた。また、「同胞」たるイタリアもサンマリノが正式参戦しなかったことから、オーストリアのスパイや脱走兵を匿っていると疑い、電話線を切断するという暴挙に出ている。とはいえ、サンマリノ義勇兵は戦場で戦って戦果を挙げた。特に野戦病院はイタリア戦線で重要な役割を果たしている。カポレットの敗戦で殆どの建物が破壊された後でさえも、新しい野戦病院が直ちに作られてイタリアの負傷兵の救助と援助を行った。ドイツ降伏後の1918年11月30日、サンマリノ義勇兵による戦時中の活動は終わり、サンマリノ国旗がトリエステ市長に贈呈された。

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伝統的な衣装のサンマリノ軍儀仗兵。サンマリノ共和国は国防には頼りないが、独自の軍隊を保有している。警察組織もイタリアとは別のものが存在している。

第一次世界大戦が終局に向かい、中央同盟国が崩壊に向かっていった1918年9月、ジュリアーノ・ゴジはサンマリノに帰国し、報酬金といくつかの勲章を贈られたが、報酬金の受け取りを拒否している。この数カ月前にジュリアーノ・ゴジはサンマリノ共和国の外相に任命された。彼は1943年に「一時的に」失脚するまで外相であり続けた。

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プブリコ宮前で記念撮影をするサンマリノファシスト党員。左からマリーノ・ロッシ教授(Marino Rossi)、ジュゼッペ・マステッラ(Giuseppe Mastella)、フランチェスコ・バルシメッリ(Francesco Balsimelli)。マステッラを除き執政経験者である。

第一次世界大戦後、サンマリノ義勇兵の帰還は国民から歓迎された。戦死した兵士は「偉大なる社会の家」にその名が刻まれたが、これはサンマリノ人の最高の名誉だったという。しかし、サンマリノ共和国はイタリア同様に経済不況に陥った。政治的にも不安定になり、もはや自由主義は機能しなくなっていたのである。一方、同様の事態に陥っていたイタリアではベニート・ムッソリーニ率いるファシズム運動が支持を急速に伸ばしつつあった。1921年には「イタリア戦闘者ファッシ」を母体として「国家ファシスト党」が誕生する。ジュリアーノ・ゴジ外相はこれを模倣し、1922年8月に「サンマリノファシスト党(Partito Fascista Sammarinese)」を成立させた。サンマリノファシストたちは中産階級の支持を取り付けて、社会主義者の家を襲撃して周った。

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サンマリノを訪れたムッソリーニ統帥。左の人物がジュリアーノ・ゴジ外相。

こうして大多数の支持を得ていったサンマリノファシスト党は、1922年10月に成立したイタリアのファシスト政権に続いて、1923年4月の選挙で大勝、世界で二番目のファシスト政権が成立したのであった。執政(サンマリノ国家元首)の一人にはジュリアーノ・ゴジ自身が選ばれ、ファシスト最初の執政となった。同年10月の選挙では執政が二人ともファシストから選出され、更にすべての社会主義組織が禁止された。事実上、ファシズム独裁政権が始まりを告げたのである。

 

戦間期サンマリノファシスト政権

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ファシスト政権期の執政就任式。サンマリノ共和国の国家元首は2人の執政で、任期は半年。3年間の再選は認められていない。このシステムはファシスト政権期でも維持された。

サンマリノ共和国におけるファシズム体制は、イタリアのファシズム体制とは異なり、最初から共和政ファシズムであった(イタリアはRSI政権期を除けば君主制ファシズムである)。更に、議会をファシスト党員による議会に改組しているものの、その枠組み自体は残され、半年ごとに選出される2人執政制度も維持されたままであった要するに、「自由主義の守護者」たる伝統的な共和政を維持しつつも、ファシスト体制を取り入れたという、世界でも類を見ないファシスト政権なのである。(ジュリアーノ・ゴジという有力者がいたとはいえ)個人独裁ではないという点も興味深いだろう。

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リミニ-サンマリノ鉄道。英軍による空爆によって破壊され、数十年間放置されていたが、車輛と一部路線が2012年に修復された。鉄道路線として今後復活させるプロジェクトが進められているという。

その後、サンマリノはイタリアのファシスト政権と密接な関係となり、ムッソリーニ統帥も何度かサンマリノ共和国を訪れている。1933年にイタロ・バルボ空軍大臣が二度目の大西洋横断飛行を成功させると、それを記念して彼をサンマリノ名誉市民に任命している。1932年にはイタリア政府の負担でサンマリノ史上唯一の鉄道である「リミニ-サンマリノ鉄道」が開通した。これは首都サンマリノ市とイタリアのリミニ市を繋ぐ鉄道であった。このほか、先述した「アラ・デイ・ヴォロンターリ」を始めとする数々の建築がファシスト政権期に作られ、現在も残っている。この時活躍した建築家がサンマリノ出身のジーノ・ザーニ(Gino Zani)だった。戦間期はイタリアと同様に、歴史の中で最も建築が加速した時期と言えるだろう。

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エチオピア戦争に派遣されるサンマリノ義勇兵部隊。

更に1935年に「同胞」であるイタリアがエチオピア帝国に侵攻を開始すると、サンマリノイタリア軍義勇兵を派兵している。続けて発生したスペイン内戦介入にも義勇兵は派遣された(アルバニア戦争は短期間に終わったため参加しなかった)。こういった「親イタリア外交」はジュリアーノ・ゴジ外相のファシスト政権期に強く行われ、外交的にサンマリノ共和国はイタリアの属国に成り下がったように見られた。とはいえ、フランスやアメリカとの伝統的な友好関係も維持されていた。

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エツィオ・バルトゥッチ(Ezio Balducci)博士。ボローニャ大医学部出身。サンマリノファシスト党の有力ファシストで、1929年10月から翌年4月まで執政を務めている。党内派閥の一派を率いたが、粛清により失脚した。

とはいえ、ファシスト体制も盤石とはいかなかった。国内の反ファシストはもはや力を持たなかったが、ファシスト党内に反体制派が存在した。1933年には元執政のファシスト党エツィオ・バルトゥッチ(Ezio Balducci)博士率いる一派が主流派ファシストへのクーデターを企てたが、ローマのイタリア当局に逮捕されて失敗に終わっている。この結果、特別法廷によってバルドゥッチら反体制派ファシストらは重労働刑が処され、ファシスト党内の反体制派は粛清された。

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ファシスト政権期に作られたジローラモ・ゴジ像。ジュリオ・アルベローニ枢機卿サンマリノ支配に市民を率いて抵抗した「救国の英雄」である。

ジュリアーノ・ゴジは計5回執政に選出されている(1923.4~10, 1926.4~10, 1932.4~10, 1937.4~10, 1942.4~10)。ジュリアーノ・ゴジ伯は外相と内相、そして党書記長を1943年の失脚まで務めただけでなく、マンリオ・ゴジ(Manlio Gozi)やフェデリーコ・ゴジ(Federico Gozi)といった同家の出身の人物を要職に就任させている。またゴジ家の祖先に当たる救国の英雄ジローラモ・ゴジの像もこの時に作られた。

 

◆「中立国」サンマリノ第二次世界大戦

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第二次世界大戦時のイタリア-サンマリノ国境。中立を示す看板が掲げられている。また、家屋の屋根には爆撃を防ぐために中立を意味する十字架が描かれた。

1939年、ナチス・ドイツポーランドに侵攻を開始し、第二次世界大戦が開戦した。友好国イタリアは準備不足から中立を宣言し、同じくサンマリノ共和国も中立を宣言した。翌年6月にイタリアは英国及びフランスに宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦したが、第一次世界大戦同様に中立を維持したままであった。同年9月17日にはサンマリノ共和国が英国に宣戦布告したという誤報が流れたが、サンマリノは中立を引き続き宣言した。

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イタロ・バルボ空軍元帥。数々の空軍イヴェントを開催し、イタリア空軍を精鋭として育て上げた「イタリア空軍の父」である。サンマリノ共和国名誉市民であり、出身地フェッラーラがサンマリノから比較的近かったことからサンマリノ市民にも親しまれた。

とはいえ、サンマリノファシスト政権であったため、中立といえども「親枢軸中立」であった。スイスやスペインに近いかもしれない。1939年にはイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世との間に友好善隣条約の更新を行っており、イタリアとの友好関係を再確認している。また、例の如く義勇兵イタリア軍に派兵していた。この義勇兵派遣とは別に、党から追放されたエツィオ・バルトゥッチ博士はイタリア軍の一員として参加したようである。医師出身である彼は北アフリカ戦線の野戦病院で従事したが、バルディアの戦いで英軍の捕虜となっている。1940年6月28日にサンマリノ共和国名誉市民であったイタロ・バルボ空軍元帥がトブルク上空で味方からの誤射によって戦死すると、哀悼の意を述べている。

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三つ山のタルト(Torta Tre Monti)。サンマリノの隠れた銘菓。実は第二次世界大戦中の1942年からドマニャーノの会社が販売を開始した。もしかしたら避難民にも振舞われていたかも?

中立国であったが、周囲をイタリア領に囲まれたサンマリノは、経済的にも厳しい状態となった。1941年1月10日、政権によって貧困者のための公営食堂がサンマリノ市に開設され、毎日約600食の食事が提供された。少ないように感じるが、サンマリノ市の人口(現在ですら4000人程度)からするとこれくらいで良いのかもしれない。こういった食事提供はファシスト党の女性団体によって主導された。2月5日にはボルゴ・マッジョーレとセッラヴァッレなど他のカステッロでも食事提供が開始されている。

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若き日のフェデリコ・フェリーニ

第二次世界大戦時のサンマリノ共和国は、人口をはるかに超える(当時の総人口は1万2000人程度)10万人もの難民を最終的に受けいれた。この難民の中にはイタリア映画の巨匠フェデリコ・フェリーニも含まれていた(彼はリミニ出身だった)。1943年の終わりには7000人以上のリミニ市民が共和国の領域に避難していた。翌年中旬になるとその二倍ほどにまで多くなり、結果的にリミニ以外からも多くの人が集まって10万人もの避難者を受け入れたのである。多くはエミリアロマーニャトスカーナ、ウンブリア、マルケといった周辺の地方から来た人々だった。また、1942年9月にはイタリアの「人種法」を模倣した反ユダヤ法案を制定したものの、そこまで効力はなかった。実際、け入れた10万人の難民のうち、約千人がユダヤ人難民だったのである。同時に、サンマリノ人は「アーリア人種」とされ、「アーリア人種」以外の人種(ユダヤ人など)との結婚は禁止され、外国人との結婚も厳しく制限された(しかしイタリア人は外国人には含まれない)。

外交関係にも変化が起こった。サンマリノとドイツは第一次世界大戦以降国交が成立していなかった(サンマリノは中立国故に講和会議に参加していなかったため)が、「準枢軸国」とも言える立場にいたサンマリノはナチ政権下のドイツと国交を成立させた。人種法案の成立もそこに由来していると言える。なお、同じく枢軸国だった日本とは国交が成立しておらず、両国が本格的な国交を開始するのは1961年の両国間の領事関係成立が初である(1996年に正式な外交関係が樹立)。

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サンマリノを守護する衛兵。その長い歴史において堅牢な城壁で独立を守っていたサンマリノ共和国だが、近代になると独立を維持するには十分とは言えない貧弱な武装だった。

国防に関しては、貧弱な装備であるがサンマリノ軍は防衛のために武装した。近代的な装備は4つの大砲(国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世からの寄贈)、80挺のカルカノ小銃、2挺の機関銃(アオスタ侯アメデーオからの寄贈)のみであり、残るは伝統的な石弓や刀剣、ランスなどであった。これらの武装は現在もサンマリノで見る事が出来る。

 

◆英軍によるサンマリノ空爆と侵攻

戦局は次第に連合国有利になっていった。遂にシチリア島に連合軍が上陸し、イタリア軍は敗北の色が濃くなっていた。1943年7月25日にはイタリアで王党派クーデターが発生し、ムッソリーニ統帥は失脚する。後任の政権は元イタリア軍参謀総長ピエトロ・バドリオ陸軍元帥によって組閣された。この政権は当初は枢軸国側での交戦維持を宣言したが、水面下では連合軍側との交渉を進めていた。

イタリアでのファシスト政権崩壊の煽りを受けて、3日後にはオノフリオ・ファットーリ(Onofrio Fattori)将軍らによるクーデターが発生し、サンマリノファシスト体制は一時的に崩壊するに至った。追放されたバルドゥッチ一派の裁判の無効が宣言され、政治犯の釈放なども行われた。また、イタリアとの外交関係を見直し、ファシスト政権下で失われた主権の一部をバドリオ政権との交渉で取り戻した。アメリカや英国との関係の悪化を改善するために様々な手段が取られたが、上手く機能していない。イタリア同様にファシストへの「復讐」—暴力行為も各地で発生し、サンマリノファシスト党書記長のジュリアーノ・ゴジも自宅に監禁された。

しかし、この「自由主義の復古」は短期間に終わった。9月8日にバドリオ政権は連合国と休戦し、速やかにドイツ軍がイタリア半島を制圧したからである。9月23日にはドイツ軍によって解放されたムッソリーニ統帥が新ファシスト政権、イタリア社会共和国(RSI政権)」の樹立を宣言する。10月25日、エルヴィン・ロンメル元帥率いるドイツ軍とサンマリノ共和国政府は協議し、中立と独立を再確認した。

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最後のファシスト執政、フランチェスコ・バルシメッリ(Francesco Balsimelli)。

この影響で、ジュリアーノ・ゴジらサンマリノファシストらは返り咲いた。1944年1月にジュリアーノ・ゴジらはサンマリノファシスト党の後継政党に当たる「サンマリノ共和ファッショ(Fascio Repubblicano di San Marino)」を創設し、復古ファシズム政権を作り上げた。これは完全にRSI政権の与党となった共和ファシスト党を模倣したものであった。いわば、サンマリノ版RSI政権とも言えるが、サンマリノは元々共和国であるため国家体制が変わったわけではない。

復古ファシズム体制はRSI政権を「正統なイタリア政府」として承認し、新たな協定を締結した。これによって、RSI政権から支援物資の補給を受け取っている。しかし、サンマリノの人口を25000人と見積もっていたため、避難民の数(約10万人)を合わせると圧倒的に物資が不足したサンマリノはイタリアからやってきた避難民によって溢れかえっていたのである。この食糧と物資の不足の中、避難民のための避難場所を提供するためにサンマリノ市民は尽力し、食糧が無料で配給された。2月には配給委員会が設立され、食糧及び生活必需品の輸出を禁止し、それらを徴発したファシスト政権期に新たに作られた慈善病院は避難民の患者を収容し、政府官邸や教会、衛兵の兵舎などさえも避難民の避難所となったのである。

4月には最後のファシスト執政、フランチェスコ・バルシメッリ(Francesco Balsimelli)サンツィオ・ヴァレンティーニ(Sanzio Valentini)が就任した。サンマリノ国内でもイタリア同様にパルチザン闘争が起こり始めた。国土の狭さ故に小規模ではあったが、サボタージュ運動も発生している。

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サンマリノ市の城壁にある空爆のモニュメント。

ただ、サンマリノはこんな状態でもドイツやRSI政権の傀儡政権ではなく、列記とした「中立国」として機能していた。しかし、英国はサンマリノがドイツ側の傀儡政権となっていると考え、最悪な行動を起こした(そもそも英国はサンマリノ共和国の中立を公式に承認したことはなかった)。英空軍による中立国サンマリノへの4回に渡る連続爆撃の実行である。1944年6月には約250発以上の爆弾が首都サンマリノ市に降り注ぎ、63人の一般市民が死亡し、数多くの市民が負傷した。建物への被害も甚大で、鉄道に関しては完全に破壊されて現在に至るまで復興していない。この空襲の時、防空壕として役に立ったのが、この鉄道のトンネルだった。戦火を逃れてサンマリノに難民としてやってきた人々はこのトンネルの中で戦争が終わるのを待っていた。トンネル内は衛生的に良い環境とは言えなかったが、献身的なサンマリノ市民の行動によって、彼らの命は守られたのである。この爆撃はサンマリノに大きな影響をもたらした。ファシスト政府はこれを反連合国のプロパガンダに利用したが、それでも中立を維持した。なお、戦後の1961年になってようやく、英国側はこの爆撃は誤った情報に基づくものだったことを認め、サンマリノ側に賠償金を払って謝罪している。

爆撃の影響は大きかった。電気も止まり、製粉所やパン工場は機能を停止、食糧供給も絶望的な事態となった。しかし、市民の尽力によって古いかまどや牛車といった「伝統的な方法」を使うことで食糧をなんとか賄った。

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サンマリノ領内の英兵。後ろにはサンマリノの象徴たるティターノ山が見える。

サンマリノへの中立侵害はこれだけには終わらなかった。1944年9月になると、連合軍の進撃に追われたドイツ軍とRSI軍は、サンマリノ領内を通って撤退した。これは共和国の中立を侵害するものであった。枢軸軍がサンマリノ領内を通るとなると、当然それを追撃するために連合軍もサンマリノ領内に侵入することとなる。こうして、サンマリノは戦場となったハリー・ホッペ将軍率いるドイツ軍及びRSI軍と、アーサー・ホルワージー大佐率いる英軍及び英領インド軍が、サンマリノ領内のファエターノ、モンテ・プリート小教区で衝突し、双方に600人近くの死者を出した。なお、ドイツ軍は撤退時に僅かに残っていた工場施設すらも破壊している。この戦いに勝利した英軍はサンマリノ共和国を制圧し、これによって復古ファシズム体制は崩壊、ジュリアーノ・ゴジらファシストらは逮捕されることとなった「中立国」であるはずのサンマリノ共和国のファシズム体制は、外国軍の進駐によって崩壊したのであった(サンマリノ史上三度目の外国軍による占領である)。なお、この英軍の侵入は先述した爆撃とは異なり、英政府は公式に謝罪を拒否している。理由は先にドイツ軍がサンマリノの中立を侵害したため、これは中立侵害には当たらない、という見解であった。英国占領下に置かれたサンマリノ共和国では、1944年11月の選挙で42票賛成、5票反対の結果、2000人ものファシストらの追放が決定された。こうして、サンマリノファシスト政権は完全に崩壊したのである。

 

意外と知られていないサンマリノ共和国史。小国における特異なファシズムは興味深いと思うし、中立を侵害された小国という歴史も興味深いだろう。ただ、現状として、日本語で確認できる資料はイタリア文化会館に置かれている1冊(ジュゼッペ・ロッシ著/マンリオ・カデロ、菅博訳『サンマリノ共和国—自由と平和を守り抜いた世界最古の共和国—』日高データバンク・1987)のみで、イタリア語文献も基本的にサンマリノに行かなければ手に入らないのがネックである(ただ、サンマリノの書店に行けば割と売っている)。インターネットで確認出来るものは断片的なものに過ぎず、正直全く役に立たない。「自由主義の守護者」たるサンマリノ共和国にとって、ファシスト政権期というのは一種の「黒歴史」に近いようで、観光ガイドにも載っていない。故に、専門書でしか確認出来ないのが難点である。TBSの番組で「600年間戦争なし」と紹介されたのも、明らかなウソである(大戦中に中立を侵害されて戦火に巻き込まれている以上、戦争なしとは言えない)。それでも、サンマリノファシズム史に興味がある!という人がいれば是非サンマリノ現地に行ってほしい。ファシズム体制期に作られた建築は残っているし、少ないものの名残も感じられるだろう。

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サンマリノ神社の鳥居。とてもイタリア半島にあるとは思えない風貌だ。

サンマリノ自体はそうでなくても、観光地としては素晴らしい場所だ。Twitterでも紹介したが、日本人としては是非とも「サンマリノ神社」に寄っておきたいところ。地味ではあるが、ヨーロッパ唯一の神社本庁公認の神社である。便が悪いのが難点だが、サンマリノに旅行に行かれた際は是非とも行ってみてほしい。ブドウ畑と大きな池に囲まれた「聖域」は、風の音だけが聴こえて来た人の心が洗われることだろう。

 

というわけで、皆さんもサンマリノ共和国に行こう!

伊日交流史・第三弾 ―イタリアと日本の航空交流史、両国を「空」で繋いだ4つの事例―

前回、イタリアが伝えた大砲技術が日本陸軍に大きな影響を与えたことを紹介した。今回も流れに乗って、日伊の交流関係について調べてみたいと思う。

今回注目するのは、ずばり「航空史」だ。イタリアと日本は、二度のローマ-東京飛行を始めとして「空」での繋がりが結構ある。当時、イタリアが世界的にも「航空先進国」であったことも大きな理由だろう。

今回扱う事例は主に以下の4つ

・アルトゥーロ・フェッラーリンによる史上初の欧州-極東間飛行

日本陸軍に輸出したフィアット BR.20"チコーニャ"爆撃機とその技術の影響

第二次世界大戦中のローマ-東京連絡飛行

日本海軍によるカプロニ社ジェット機のライセンス契約 

というわけで今回は日伊交流の歴史を「航空機」をテーマに探ってみよう。

 

◆日伊航空交流の始まり、史上初の欧州極東飛行

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アルトゥーロ・フェッラーリン(Arturo Ferrarin)

イタリアと日本の航空交流の始まりは、飛行士アルトゥーロ・フェッラーリンによる1回目のローマ-東京飛行だった。この飛行計画は元々、第一次世界大戦イタリア軍に従軍した文学者、下位春吉が親交のある「英雄詩人」ガブリエーレ・ダンヌンツィオに提案し、企画されたものであった。下位春吉はイタリア文学を専門とする文学者であったが、イタリア軍のアルディーティ部隊に従軍するという興味深い経歴を持つ人物だった(後に日本にムッソリーニファシズムを紹介した人物として広く知られている)。ダンヌンツィオも詩人でありながら、陸軍航空隊の一員として敵国の首都ウィーン上空でプロパガンダのビラ撒きをしたり、海軍の一員としてMAS艇で敵軍港ブッカーリを奇襲して大戦果をあげたりと英雄的な人物だった。

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ダンヌンツィオ(左)と下位春吉(右)

ダンヌンツィオと下位は国際空路開拓の一環として、互いの祖国であるイタリアと日本を繋ぐ長距離飛行を計画した。1919年3月にはこの飛行計画が発表され、イタリア政府や日本の新聞社がこの一大計画を支援した(一説にはムッソリーニの同乗も計画されたという)。同年10月に出発が予定され準備が進められたものの、その一カ月前に起きたフィウーメ進軍(イタリア系住民が多いフィウーメ(現リエカ)市がイタリアに編入にならなかったことに対して、ダンヌンツィオらが決起して同市を武力占領した事件)によって計画はオジャンになってしまった。

これを受けてイタリア政府はアンサルド社やカプロニ社から16機の航空機と機材を購入し、プロジェクトを国家規模に拡大して再出発させた。既に日本側の支持も取り付けている以上、後戻りは出来なかったのである。当時は、第一次世界大戦時に航空機が使用されたとはいえ、まだまだ初期段階であって極東飛行は非常に危険で冒険的な計画だった。更に、イタリアは第一次世界大戦前夜の1911年に起こったオスマン帝国との戦争(伊土戦争)において、世界初の航空機の軍事利用及び世界初の航空爆撃を行っており、世界的な「航空先進国」としての自負があったのである。

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ローマ-東京飛行の経路。第二次世界大戦時の二度目の極東飛行とは異なり、南周りのコースである。

このプロジェクトで重要な役割を果たし、世界初の同一機体によるヨーロッパ-極東間の飛行を成功させたのが、飛行士のアルトゥーロ・フェッラーリンであった。フェッラーリン中尉はダンヌンツィオと共にウィーンでのビラ撒き飛行に参加したフランチェスコ・フェッラーリンの従兄で、当時24歳の若き飛行士であった。

フェッラーリンは当初はあくまで予備飛行要員としての参加だった。彼が飛行士として乗るアンサルド S.V.A.9機には、共に機関士としてジーノ・カッパニーニ軍曹が乗った。この飛行は第一次世界大戦終結していたとはいえ、未だにきな臭い雰囲気の世界情勢の中を飛ぶもので、当時の航空技術も長距離飛行に関しては未知数であり、危険性は非常に高かった。ロシアでは白軍と赤軍の内戦が起こっていたため、北周りではなく南周りのルートを採用することとなったが、南周りも危険だった。当時、アナトリア半島では希土戦争が発生しており、不時着したパイロットがトルコ軍に捕らえられて機体が破壊される事態にも遭っている。フェッラーリンと共に飛行していたジーノ・マシェロ中尉の機体は同じく冷却器トラブルで不時着したものの、なんとかギリシャ側に着陸したため捕らえられずに済んだのである。

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北部イタリア、ダンヌンツィオの邸宅である「ヴィットリアーレ」に展示されたアンサルド S.V.A.機。フェッラーリンがローマ-東京飛行を達成した機体もこれと同タイプの機体である。

シリアのアレッポでは強風と積雪が阻み、バグダッド上空ではアラブ人からの狙撃を受けるなど困難を切り抜けたが、フェッラーリン機はパキスタンで嵐を避けるために緊急着陸してしまった。しかし、そこでインド人の反英武装組織に取り囲まれてしまったが、尾翼のトリコローレをブルガリア国旗(ブルガリア第一次世界大戦で英国と戦ったドイツの同盟国だったため)だと勘違いしたインド人らはフェッラーリンを解放し、それどころか機体の修理を手伝ってくれたという。

この冒険飛行で本来日本への飛行を担うはずであった本隊機が次々と事故で墜落したため、残った予備飛行隊のフェッラーリン機とマシェロ機がこの使命を受け継ぐこととなった。こうして広東に辿り着いた2機だったが、マシェロ機が水田に墜落し、乗員は無事だったものの機体は全損となった。マシェロは予備機が待機する上海に船で向かったが、遂に同一機体でここまで飛行したのはフェッラーリン機のみとなった

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長い飛行を終え、日本に到着したフェッラーリン。和服を着て日本刀を携えた彼は、すっかりサムライ気分である。

そうして、1920年5月31日、東京にフェッラーリンとマシェロの2機は到着し、ローマから東京にかけての約1万8000kmの超長距離飛行を達成したのであった。フェッラーリンの飛行は同一機体による世界初の欧州-極東間の飛行でもあり、世界的にも素晴らしい偉業であったのである。その後、フェッラーリンは航空機レースや長距離飛行などに参加して名声を集め、第二次世界大戦が勃発すると空軍パイロットとして復帰したが、1941年にSAIアンブロジーニ107機の試験飛行で事故死してしまった。

ちなみに、『紅の豚』には主人公ポルコの友人として空軍士官のフェラーリン少佐が搭乗するが、この人物は彼がモデルである。

 

日本陸軍フィアット社製の「イ式重爆撃機

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著書『制空』で知られる、世界的な航空理論家ジュリオ・ドゥーエ(Giulio Douhet)。伊土戦争での「世界初の航空爆撃」にも参加した彼は、戦略爆撃の重要性を説き、世界的の航空理論に大きな影響を与えている。

1922年にムッソリーニがローマ進軍で政権を掌握し、政権を樹立した。ムッソリーニは著書『制空』で知られる航空理論家のジュリオ・ドゥーエ将軍を招き、またダンヌンツィオのウィーンビラ撒き飛行にも参加したアルド・フィンツィを空軍次官に任命し、彼の元でイタリア空軍は世界的にも早い段階で1923年に独立した空軍として設立された。独立したイタリア空軍は陸軍航空隊と海軍航空隊を合併して誕生し、「イタリア空軍の父」イタロ・バルボ空軍元帥のもとで発展を遂げることとなる。

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中国に派遣されたイタリア空軍の顧問。左がロベルト・ロルディ将軍(1933-35)で、右がシルヴィオスカローニ将軍(1935-37)。イタリアは中国空軍の発展に大きな役割を果たしている。

時は進んで1930年代の極東。当時、イタリア空軍が影響を与えていたのは、日本ではなく中国だった。イタリアは中国市場を重要視し、中国での影響力拡大を推進していた。特に軍需関連分野の市場であり、1933年~35年にかけてはイタリアは中国に空軍顧問を派遣、その影響もあって総額4800万リレの軍用機と関連機器を売却している。1933年、最初に派遣された空軍顧問はロベルト・ロルディ将軍で、彼は蔣介石との信頼関係を構築して中国空軍の発展に重要な役割を果たしたが、イタリア政府と対立したため1935年に解任された。その後派遣されたシルヴィオスカローニ将軍は第一次世界大戦時のエースパイロットでもある人物だった。スカローニ将軍はロルディ将軍の突然の解任に気を悪くした蒋介石との関係を修復するのに苦労したという。日中戦争が開始された時点ではイタリア空軍の顧問はまだ中国に常駐しており、中国空軍の航空部品の大半がイタリア製であると日本側はたびたび指摘していた

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東條英機将軍。後の内閣総理大臣関東軍参謀長時代にイタリアの対日接近を高く評価し、イタリア航空技術の日本への導入のきっかけを作った。

イタリア政府の中国での影響拡大の方針は、ソ連の中国での影響拡大を防ぐ「反共的方針」に基づくものであり、これはドイツも同様であった。しかし、中国政府がエチオピア戦争での対イタリア経済制裁に賛同した事に対して、上海総領事として中国で勤務した経験もあったガレアッツォ・チャーノ外相は遺憾とし、日中戦争勃発後、1938年8月にイタリアは中国への航空機売却を停止し、12月には空海使節の完全撤退を決定、これによってスカローニ将軍はイタリア本国に帰国した。これ以降、イタリアは中国との関係重視政策を転換し、日本との関係を重視するようになる。11月29日にはイタリアは満州国を承認し、その姿勢を示した。日本側も、関東軍東條英機参謀長がイタリアの親日路線を評価し、100万ドル相当のフィアット社製の戦車を購入すると約束してそれに応えている。これを機に日本とイタリアは経済関係を強めていき、両国の経済協定、そして満州国とイタリアの経済協定につながった。

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日本に輸出されるフィアット BR.20"チコーニャ"爆撃機

1938年には日本はイタリアからフィアットBR.20"チコーニャ"爆撃機を85機輸入し、これは「イ式重爆撃機」として日本陸軍が中国戦線で使用した。運用指導のためにイタリア空軍の武官やフィアット社の技術者が派遣されたが、訓練期間は短期間ですぐに戦線に投入されたために日本陸軍航空隊のパイロットが当機を上手く運用出来なかった

しかし、当機の武装は現地部隊にも高く評価され、当機に搭載されたブレダ社製のSAFAT航空機関銃は陸軍の航空機関銃開発に大きな影響を与えている一式戦闘機「隼」や三式戦闘機「飛燕」、四式戦闘機「疾風」といった数々の陸軍の主力戦闘機に搭載されたホ103航空機関銃はSAFAT航空機関銃と同一規格の弾丸を使用している。また、その前に作られたホ102航空機関銃は完全にSAFAT航空機関銃のコピー品だった。

 

◆大戦時のローマ-東京飛行「G要求」

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1942年の極東飛行に使われたサヴォイアマルケッティSM.75RT。その前に立つのはモスカテッリ中佐他、イタリア空軍の搭乗員と日本当局の人々。

こうして経済的にも軍事的にも協力関係を進めていったイタリアと日本は、1940年9月にドイツ・イタリア・日本の間で締結された三国軍事同盟によって更に協力関係を強化し、正式な同盟国となったのである。大戦が進んでいくと、欧州方面での戦局の打開がドイツ・イタリア両国のみでは困難になっていき、日本からの戦略物資の輸入が求められた。当時はソ連は「連合国」としては参戦していなかったため、シベリア鉄道経由での輸送が可能でもあったが、東部戦線が開戦するとそれも不可能となった。

イタリア海軍とドイツ海軍はこれに対して潜水艦での「遣日潜水艦作戦」を開始し、イタリア海軍からは「カッペリーニ」「トレッリ」「ジュリアーニ」の3隻が極東まで辿り着くことに成功している。また、東アフリカ戦線の戦局の悪化により、イタリア紅海艦隊の残存艦(通報艦「エリトレア」及び仮装巡洋艦「ラム2(後にカリテア2と改称)」)が日本に辿り着き、日本の参戦と共にアジア・太平洋戦線で活動を再開している。更にイタリアは天津に租界を擁してたため、そこに所属する極東艦隊も活動した。

その海軍によるイタリア・日本の連絡とは別に、イタリア空軍はローマ-東京連絡飛行を計画した。これは1920年のフェッラーリンによるローマ-東京飛行に続き、2回目の飛行であり、十分なノウハウもあった。更にイタリア空軍はこれまでに、イタロ・バルボ空軍元帥による2回に渡る大西洋横断飛行や、エットレ・ムーティ空軍中佐によるバーレーン油田地帯への長距離爆撃も成功させており、長距離飛行のノウハウは十分だった。

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極東飛行を指揮したアントニオ・モスカテッリ(Antonio Moscatelli)中佐。

飛行にはサヴォイアマルケッティ社のSM.75輸送機が選ばれ、長距離飛行に耐えうるように改造されている。具体的には馬力アップしたアルファロメオ社製の128エンジンを搭載し、防弾装甲や大容量燃料タンクを搭載、更に尾翼デザインを変更して銃座も撤去した。この特別機はSM.75RT(Roma-Tokyoの頭文字)と呼ばれている。

機長にはアントニオ・モスカテッリ中佐が選ばれた。彼は大西洋往復22回の経験を持ち、イタリア空軍最高の急降下爆撃機エースであるジュゼッペ・チェンニが所属した第97急降下爆撃航空群を指揮していた人物でもあった。モスカテッリ中佐含め計5名の人員が選ばれ、出発の準備が進められた。

1942年6月29日、ローマを出発して日本に向かった。今回のルートは最短距離で日本に向かう関係から、フェッラーリンの時とは異なり南周りではなく北回り、つまりはロシア上空を通って日本に向かうルートだった。しかし、これには問題が生じた。イタリアはソ連と既に敵国の関係だったが、日本はソ連と日ソ中立条約を結んでおり、ソ連を刺激しないためにも事前協議で反対していた。イタリア側は日本側の強い要望を受けてこれを受け入れて南周りで向かうことにしたものの、燃料消費が激しく、倍近い飛行距離に加えて気象条件の悪い南周りルートは結局断念せざるを得なくなった。そのため、ソ連上空を通って日本に向かわざるを得なくなった。当然、ソ連とイタリアは交戦状態であるために激しい対空砲火を受けるなど危険にも度々晒されているが、何とか内モンゴルの包頭飛行場に到着している。同地で日本側の歓迎を受けたモスカテッリ中佐らは1日間の休養の後、再び出発して日本に向かった。

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ローマに到着し、無事帰国を果たしたSM.75RT機とモスカテッリ中佐ら

7月3日17時4分、東京にSM.75RT機は到着した。実に8300kmの距離を戦時中という危険な状態でありながら飛行を達成した。これは唯一の事例であり、ドイツ空軍も日本陸海軍航空隊も達成できなかった偉業である。

しかし、日本側ははるばる辿り着いたモスカテッリ中佐らを福生基地内の宿舎に軟禁した。理由は当然、ソ連上空を通ったからであった。日本側はソ連側を刺激しない為にこの事実を公表せず、更にやはり帰路に関しても南周りのルートを要請した。それに加えて特使として「作戦の神様」こと、辻政信陸軍中佐の同乗も要求したが、思わぬ冷遇に腹を立てたモスカテッリ中佐らは干渉を避けるため重量過多を理由に辻中佐の同乗を断り、7月16日の早朝に密かに東京を出発し、帰路についた。

当然ではあるが、結局帰りも北回りルートだった。帰路も約8000kmを飛行し、7月20日にローマに無事帰還したのである。ローマではムッソリーニ統帥らや日本陸海軍の武官が一行の帰還を歓迎したのであった。その後も再度極東飛行の計画が進められたが、日本側は南周りの要求を断固撤回しなかったため両者の折り合いが付かず、行われることはなかったのである。

 

日本海軍と、カプロニ社製ジェット機のライセンス契約

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「イタリアのジェット機の父」セコンド・カンピーニ技師。イタリア初のジェット機「カプロニ・カンピーニN.1(C.C.2)」を設計した人物である。

1943年9月、バドリオ首相率いるイタリア王国政府は連合国と休戦した。しかし、イタリアは戦争から離脱したわけではない。その後ドイツ軍に解放されたムッソリーニ統帥によって、北部及び中部イタリアにファシスト政権の後継政権たる「イタリア社会共和国(RSI政権)」が誕生し、イタリアは南北に分断され、内戦状態に陥った日本はRSI政権を「正統なイタリア政府」として承認し、「イタリア」は三国同盟を維持しつつ抗戦を再開したのである。

日本海軍はジェット機開発を進める上で、イタリアの休戦以前からイタリアのカプロニ社が開発したジェット機「カプロニ・カンピーニN.1(C.C.2)」と、開発中のターボジェットエンジンに興味を抱いていた。休戦後、日本海軍は1944年6月にRSI政権下のカプロニ社とこのジェット機とエンジンのライセンス契約を結んだ。更に9月には新型ガスタービンエンジンの購入も打診している。

このカプロニ社のジェット機自体の説明もしておこう。時を戻して1940年8月、カプロニ社はイタリア初のジェット機「カプロニ・カンピーニN.1(C.C.2)」の初飛行に成功していたこれは「世界で初めて飛行したジェット機」として国際航空連盟にも承認された...のだが、実はこの1年前にドイツのハインケル社が秘密裏にジェット機「ハインケル He178」の初飛行に成功しており、後に記録は覆されることとなった。

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イタリア初のジェット機「カプロニ・カンピーニN.1(C.C.2)」。ヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館に実物が保存されている他、地上試験機の残骸がミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館に保存されている。

とはいえ、当時は世界初の偉業として認定され、世界的にも有名になった。日本でもこの事実は伝えられ、日本の航空雑誌にもデカデカと書かれた日本ではこれのみならず、フェッラーリンの影響かイタリア機に対する評価は高かったようで、ドッリオ大尉がテストパイロットを務めて数々の世界記録を達成したレダ社のBa.88"リンチェ"戦闘爆撃機も非常に高く評価されていたようである。

さて、この「カプロニ・カンピーニN.1(C.C.2)」であるが、若き航空技師セコンド・カンピーニ氏によって設計されたモータージェット機で、カプロニ社によって作成された。カプロニ社は「世界初のジェット機」として知られる「コアンダ=1910」(ルーマニア人技師のアンリ・コアンダが設計し、カプロニ社の設備で生産された)を以前作成しており、その経験が買われてイタリアのジェット機開発を担ったのである。

ちなみに、1941年12月8日、日本海軍が真珠湾攻撃をした知らせがイタリアに渡ったその時、ムッソリーニ統帥はフージェ空軍参謀長を伴って当機の試験飛行に立ち会っていた。彼は日本の参戦を聞いて熱狂的に喜んだという。ドイツが対ソ侵攻した時とは反応が真逆であるのも興味深いが、アメリカという大国が敵に回った事に対する事の恐怖よりも、日本が完全に味方側になった事の方が彼としては嬉しかったようだ。

こうして試験飛行を繰り返した「カプロニ・カンピーニN.1(C.C.2)」であるが、その後はターボジェット化を目指した研究が行われ、またジェット戦闘機やジェット爆撃機への発展も計画されていった。しかし、開発途中でイタリアの休戦が訪れたため、開発プロジェクトは中止になってしまった。

その後、RSI政権が誕生すると他の航空企業と同様にカプロニ社は生産を再開し、RSI空軍やドイツ空軍向けに航空機を生産した。RSI政権支配下のイタリア航空企業は、生産効率が悪くなるどころか、寧ろ休戦前よりも生産効率が良くなったという。その後、休戦後の混乱から脱してRSI政権がようやく機能し始めると、極東でジェット機開発を進める日本はジェット機開発のノウハウがあるカプロニ社と先ほど述べたようにライセンス契約を結んだのであった。これは先述したように以前から日本国内でイタリアのジェット機開発が高く評価されていたためと考えられる。

イタリアに派遣されて航空機研究を行っていた庄司元三海軍中佐がカプロニ社から資料提供を受けて日本に持ち帰ることとなった。しかし、庄司中佐らが乗っていた潜水艦が欧州戦線の終結によって降伏することとなり、彼は睡眠薬で自殺を遂げたのであった。これにより、カプロニ社のジェット技術は日本に届くことはなかった

しかし、技術は届かなかったが、戦前から行われていたカプロニ社のジェット開発が日本のジェット開発に影響を与え、刺激を与えた事は事実である。なお、第二次世界大戦末期の1945年に初飛行した日本海軍開発の日本初のジェット機橘花は、ドイツのメッサーシュミット社が開発したMe 262の技術を参考にして作られたものだった。カプロニ社の技術が日本に届いていたら、これとは異なる形になっていただろう。

 

今回は両国の航空を結んだ4つの事柄について紹介してみたが、調べてみたらもっとあるかもしれない。今後とも調べていきたい。

伊日交流史・第二弾 ―ポンペオ・グリッロ少佐と、日本陸軍に伝わったイタリアの大砲技術―

以前、「伊日交流史」として日伊修好通商条約締結直後の伊日関係について紹介した。久しぶりに再びイタリア-日本関係についてまた堀進めてみようと思う。

両国関係で重要な役割を果たしたのは、他の欧州諸国と日本の関係同様に、軍事に関することが多かった。その軍事分野に関して、イタリアが日本に大きな影響をもたらしたのは、大砲技術に関してであった

日本に派遣された「お雇い外国人」である、イタリア陸軍のポンペオ・グリッロ(Pompeo Grillo)砲兵少佐の指導によって開発された「二十八糎榴弾砲(280mm榴弾砲)」は、日露戦争で日本軍の勝利に決定的な役割を果たし、日本軍を代表する大砲ともされた名兵器である。 

更に、その後派遣されたシピオーネ・ブラッチャリーニ(Scipione Braccialini)砲兵少佐によって、優れたイタリアの距離計の技術と弾道学の理論も日本にやってきた

今回はそんな日本陸軍に大きな影響を与えたイタリアの大砲技術について紹介してみることとしよう。

 

◆グリッロ少佐と「二十八糎榴弾砲

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ポンペオ・グリッロ(Pompeo Grillo)

ポンペオ・グリッロ少佐は、1843年にピエモンテ州のピネローロで生まれた。ピネローロは騎兵学校があることで知られている町である。

イタリア独立戦争で武勲を示し、また優れた大砲技術者として知られていた彼は、1883年に日本陸軍大山巌将軍の提案で日本に「お雇い外国人」として派遣されることとなった。何故イタリア人が日本の大砲技術の「お雇い外国人」となったのか?これは日本とイタリアの地形が似ていることにあった。イタリアも日本も山がちで細長く、海岸線が長かった。大山将軍はイタリアという「沿岸防衛が困難な地」の大砲技術を日本に持ち込むことで、同様に「沿岸防衛が困難な地」の日本の防衛を効率化させようと考えたのであった。

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大山巌将軍。後に日露戦争での勝利に重要な役割を果たした。

こうして、イタリア-日本間でグリッロ少佐の日本への派遣が合意され、1884年2月にグリッロ少佐はイタリアを出発し、日本に向かった彼は大阪砲兵工廠で製砲術教授と務めることとなった。なお、グリッロ少佐は日本側では「ポンペヲ・グリロ」や「ポンペオ・グリロー」などと書かれていたようである。彼は合意時点では1884年から1885年の契約であったが、グリッロ少佐はイタリア政府の承認を得て1888年まで「お雇い外国人」の職を継続している。

当時の日本では鋼鉄を作る設備が無かったため、グリッロ少佐はまず鋳造工場を作っている1884年9月には彼を手伝うためにイタリア本国からアントニオ・フォルネリス(Antonio Fornelis)ジャコモ・イッソ(Giacomo Hisso)という二人の技術者もやってきて日本政府と契約をしている。

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日本陸軍の「二十八糎榴弾砲

その後、鋳造設備が完成し、野戦砲や沿岸砲など様々な砲が作られていった。こうして作られたが「二十八糎榴弾砲」であった。これはアンサルド社の榴弾砲をモデルとし、グリッロ少佐自ら設計した榴弾砲であった1884年に試作、射撃試験で優秀な成績を収めた後1887年に制式審査を経て、グリッロ少佐が帰国した1892年から量産が開始された。元々のコンセプトは大山将軍の目論みからわかる通り、対艦用の沿岸砲台であったが、後の日露戦争ではこれが攻城砲として用いられることとなったつまりは、沿岸砲台のために作られたが、思わぬところで活躍して、日本陸軍を代表する大砲になった...という奇妙な経歴を持つ榴弾砲だったのである。

グリッロ少佐の指導によって開発された「二十八糎榴弾砲」は日露戦争で日本軍の勝利に決定的な役割を果たしただけでなく、その後も使われ続けた第一次世界大戦では連合軍側で参戦した日本軍によってドイツ軍の青島要塞攻略に使われ、更に日本の同盟軍だったロシア軍に譲渡され、東部戦線でのドイツ軍との戦いにも投入された。そして、既に旧式化しているにもかかわらず、日中戦争においても戦果を挙げており、まさしく「日本陸軍を代表する名兵器」と言えるだろう。イタリアからもたらされた技術で作られた大砲が、長い間日本陸軍の象徴だったと思うと感慨深いものがある。

 

1888年4月に惜しまれながらも、2人の技術者と共にグリッロ少佐はイタリアに帰った。イタリア政府はグリッロ少佐の後任の人材を派遣する事を日本陸軍に約束し、その結果アレッサンドロ・クァラテーツィ(Alessandro Quaratezi)砲兵少佐が後任として日本に派遣されたが、1890年に何故か突如帰国している。原因は不明。

イタリアに帰ったグリッロ少佐は最終的に少将にまで昇進し、第一次世界大戦後の1922年にこの世を去った。

 

◆ブラッチャリーニ少佐と弾道学理論

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石本新六将軍。1911年には薩長出身者以外で初めて陸軍大臣に就任した。ブラッチャリーニ少佐を日本に招聘し、イタリアの弾道学の理論を日本に伝えた。

グリッロ少佐帰国後、日本は沿岸砲台用の距離計を求めていた。イタリアに派遣された経験があった石本新六工兵中佐は、イタリア軍のシピオーネ・ブラッチャリーニ(Scipione Braccialini)砲兵少佐が制作した距離計を見て、「世界最高の距離計」を確信し、ブラッチャリーニ少佐の日本への招聘を依頼した。

こうして、日本を去ったクァラテーツィ少佐の後任として、ブラッチャリーニ少佐が日本に招かれた。1892年8月のことである。彼は弾道学の専門家であり、彼の指導の元で距離計が作成された。しかし、ブラッチャリーニが作成した距離計は軍事機密であったため、彼はほぼ同じであるが、僅かに設計が異なる距離計を設計している。また、日本陸軍士官学校でブラッチャリーニ少佐は弾道学の講義を行い、そして彼の弾道学に関する著作も日本語に翻訳されて日本で出版されている。

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ブラッチャリーニが設計した距離計

彼の設計した距離計は日本軍に採用され、長い間使用される事になり、また彼の弾道学の理論は日本陸軍に重要な影響を与えた。しかし、彼は1894年に罹患し、1895年で契約終了だったがその1年前にイタリア本国に帰国することとなってしまった。

 

イタリアの大砲技術が日本陸軍に強い影響を与え、それが日露戦争の勝利に繋がったというのは、イタリアと日本の意外な接点である。非常に興味深い。

一般的にイタリアと日本の関係は「マイナー」であるとされるが、調べてみると案外そういうわけではない(前回調べた日伊修好通商条約もそうだが)。更にどんどん調べていきたい。