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第二次世界大戦時のイタリア戦艦と艦長たち:その②

さて、今回は前回の続きという事で、引き続き第二次世界大戦時のイタリア戦艦の艦長たちを紹介したいと思う。前回の記事はこちら↓

 

associazione.hatenablog.com

 

今回は以下の三名について紹介する。

この3名はいずれもイタリア戦艦の艦長の中では結構有名な方である。というのも、スパルツァーニは休戦後はRSI海軍参謀長、ペコリ・ジラルディは戦後に海軍参謀長と要職を務め、デル・チーマ艦長は悲劇の戦死を遂げた人物であるからだ。

 

◆ジュゼッペ・スパルツァーニ GIUSEPPE SPARZANI
―戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」艦長 (1940.4.30-1942.2.17)

 

◆コルソ・ペコリ・ジラルディ CORSO PECORI GIRARDI
―戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」艦長 (1942.2.18-1943.11.4)

 

◆アドネ・デル・チーマ ADONE DEL CIMA
―戦艦「ローマ」艦長 (1941.9.20-1943.9.9)

 

◆ジュゼッペ・スパルツァーニ 
GIUSEPPE SPARZANI

1899.10.19-1964.2.13

―戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」艦長
 (1940.4.30-1942.2.17)

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イタリア社会共和国(RSI政権期)に撮影された写真で、右の人物が戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」艦長を務めたジュゼッペ・スパルツァーニ(Giuseppe Sparzani)。この時点ではイタリア社会共和国海軍(RSI海軍, MNR)の参謀長。RSI軍バルバリーゴ海兵大隊の閲兵。

戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」初代艦長。

1899年10月19日、ヴェネツィアにて生誕。1912年にリヴォルノ海軍士官学校に入学し、第一次世界大戦中の1916年に任官。戦時中は装甲巡洋艦「サン・マルコ」、戦艦「コンテ・ディ・カヴール」に乗艦してアドリア海での軍事作戦に参加した。大戦を通じて大尉に昇進。戦間期重巡洋艦「ポーラ」の副艦長(1924-25)砲艦「マレキアーロ」艦長(1925-26)を歴任。1928年に少佐に昇進後は、重巡洋艦トレント」の砲術長を1930年まで務め、その後は駆逐艦「ラ・マーサ」艦長を務めた。1933年に中佐に昇進。1936年-37年に掛けては装甲巡洋艦「サン・ジョルジョ」艦長を務め、スペイン内戦における軍事作戦に従軍した。

1938年には大佐に昇進し、同年に重巡洋艦「フィウーメ」艦長に就任。その後、当時建造中だった新造戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」の艤装員長に任命され、竣工と共に初代艦長に就任している。戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」の艦長として、テウラダ岬沖海戦やマタパン岬沖海戦といった主要な海戦で指揮をした。「ヴィットリオ・ヴェネト」は「リットリオ」がターラント空襲で大破してドッグ入りすると、イニーゴ・カンピオーニ提督(Inigo Campioni)、後にアンジェロ・イアキーノ提督(Angelo Iachino)が率いる主力艦隊の旗艦となったため、スパルツァーニ大佐は旗艦の艦長だった。

特にマタパン岬沖海戦では彼の指揮によって、英空母「フォーミダブル」艦載機からの攻撃を受けた際、艦のダメコンを適切に行って、損傷を受けたものの撃沈を免れて母港に帰港することが出来たテウラダ岬沖海戦での戦功も合わせて、戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」艦長として2度の戦功銀勲章、1度の戦功銅勲章を叙勲されている。

1942年2月より海軍総司令部(スーペルマリーナ)所属の海軍軍需局長に任命されたことで、艦を降りた。1943年1月には海軍准将に昇進している。熱心なファシストではなかったが、休戦後はイタリア社会共和国海軍(RSI海軍, MNR)に合流。アントニオ・レニャーニ提督(Antonio Legnani)が事故死した後、後任の海軍参謀長に就任。「デチマ・マス」のユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ中佐(Junio Valerio Borghese)との「政争」で海軍次官のフェッルッチョ・フェッリーニ大佐(Ferruccio Ferrini)が失脚した後、1944年2月より後任の海軍次官にも兼任海軍の再編と戦力補填に尽力した

終戦により連合軍によって捕らえられ、RSI側に付いていた事からパージ裁判によって公職追放された。1964年2月13日、ローマにて没。

 

◆コルソ・ペコリ・ジラルディ 
CORSO PECORI GIRARDI

1899.7.9-1964.5.17

―戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」艦長
 (1942.2.18-1943.11.4)

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戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」艦長、コルソ・ペコリ・ジラルディ大佐((Corso Pecori Girardi)。制服的におそらく戦後の共和政移行後に撮られた写真。

戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」艦長(1942.2-1943.11)。

1899年7月9日、ナポリ近郊のポッツオーリにて生誕ペコリ・ジラルディ家はフィレンツェ発祥の名門貴族。第一次世界大戦のイタリア陸軍の名将であり、伊陸軍元帥であったグリエルモ・ペコリ・ジラルディ将軍(Guglielmo Pecori Giraldi)は叔父。

1913年にリヴォルノ海軍士官学校に入学し、1917年に少尉として任官。第一次世界大戦中は新造戦艦である戦艦「カイオ・ドゥイリオ」に乗艦した。戦間期1921年に偵察艦「プレムダ」の砲術長に任命され、1923年まで務めた。1924年から25年までは海軍兵学校の副校長を務め、その後駆逐艦「クィンティーノ・セッラ」艦橋役員、続いてスポレート公アイモーネ・ディ・サヴォイア(Aimone di Savoia)の副官を務めた。

1928年、砲艦「アンドレア・バフィーレ」艦長に就任。初めて艦長に就任した。ロンドン海軍軍縮条約のイタリア海軍代表団や駆逐艦艦長などを歴任し、1937年には駆逐艦「ヴィンチェンツォ・ジョベルティ」艦長に就任、スペイン内戦における軍事作戦に参加している。1938年からは駐独イタリア大使館駐在武官として派遣された。これは、彼がドイツ語に非常に堪能だったことを買われたためである。第二次世界大戦開戦後も1941年まではベルリンで勤務していた。そういった経験から、ドイツ軍側からも信頼される人物であった。1941年1月からはギリシャ作戦における上部エーゲ海隊司令部の長官を務め、ドイツ海軍との共同作戦により、第1級及び第2級鉄十字章を叙勲された。

その後、スパルツァーニ大佐の後任として、1942年2月より戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」の第二代艦長に就任している。「ヴィットリオ・ヴェネト」艦長時代の彼の特に著名な戦果として、6月中旬の海戦(ヴィガラス作戦迎撃)では敵の攻撃に怯むことなく進撃を続け、空軍と共同作戦によって英艦隊の船団輸送を完全に失敗に追い込むことに成功したことが挙げられるだろう。この戦功によって、伊軍最高の名誉であるサヴォイア軍事勲章を叙勲されている。

休戦時も「ヴィットリオ・ヴェネト」艦長であり、旗艦「ローマ」が撃沈される中で無事にマルタまで辿り着くことに成功した。このため、そのまま共同交戦軍側に合流している。1943年11月に艦を降り、海軍准将に昇進した。昇進後は共同交戦海軍の軍令部作戦部長に就任し、共和政移行後も1947年1月まで職務を続けた。戦後も海軍の要職を歴任し、1955年には海軍参謀長に就任。1962年まで務め、戦後におけるイタリア海軍の再建で大きな役割を果たした。まさに、戦後イタリア海軍再建の立役者と言える人物。1964年5月17日、駐在武官時の任地であったドイツを訪問中に急死。

 

 

◆アドネ・デル・チーマ 
ADONE DEL CIMA

1898.6.7-1943.9.9

―戦艦「ローマ」艦長
 (1941.9.20-1943.9.9)

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戦艦「ローマ」艦長、アドネ・デル・チーマ艦長(Adone del Cima)。艦と運命を共にした「悲劇の艦長」として名を知られている。

戦艦「ローマ」の初代艦長にして、最後の艦長。

1898年6月7日、トスカーナのヴィアレッジョにて生誕。リヴォルノ海軍士官学校に入学後、1917年に任官。第一次世界大戦時は戦艦「レ・ウンベルト」に乗艦。戦時中の功績から中尉に昇進後、戦後間もなくアルバニア沿岸の機雷除去のため、掃海艇の艇長として作戦に従事している。戦間期戦艦「コンテ・ディ・カヴール」の砲術員を務めた後、ラ・スペツィア沿岸警備のMAS艇指揮官を務めている。

1932年、少佐に昇進した後、駆逐艦「フルミネ」艦長に就任。その後、戦艦「コンテ・ディ・カヴール」副艦長に任命され、中佐に昇進後は1939年より第8駆逐戦隊司令官(旗艦は駆逐艦「フォルゴレ」)。第8駆逐戦隊司令官としてはアルバニア侵攻における上陸艦隊支援に従事し、この活躍により戦功十字章を叙勲されている。

1940年6月10日、イタリアが第二次世界大戦に参戦すると、彼は水雷艇「アルタイル」を旗艦とする第12水雷戦隊の司令官だった。マルタ周辺における機雷敷設任務に従事し、英海軍に大きな損害を与えている。このため、二度目の戦功十字章を叙勲された。1940年11月には大佐に昇進、海軍総司令部(スーペルマリーナ)に異動となった。

1941年9月、建造中の戦艦「ローマ」の艤装員長に就任1942年6月に「ローマ」が竣工すると、そのまま初代艦長に就任している。「ローマ」は待望の新造戦艦として竣工したものの、訓練任務を終えた頃には地中海の制海権は連合国側に渡っており、更にイタリア海軍は燃料不足によって出撃すら困難な状態となっていた。そのため、「ローマ」艦長としてのデル・チーマ艦長の任務は訓練任務と、母港に襲来する連合軍機に対する防空任務であった。1943年6月5日のラ・スペツィア空襲では連合軍機の爆撃によって「ローマ」は損傷。続いて同月24日にも夜間の爆撃により被弾したため、ドッグ入りして修復。8月には戦列に復帰した。

1943年9月の休戦により、カルロ・ベルガミーニ提督(Carlo Bergamini)率いる主力艦隊の旗艦となっていた「ローマ」は姉妹艦と共に海軍総司令部の命令に従って、連合国側への降伏のためにマルタに向かった。しかし、「ローマ」はその道中であるサルデーニャ島近郊のアジナーラ島沖合にて、昨日までの友軍であるドイツ軍の爆撃を受け、轟沈全乗組員1946人のうち、艦長であるデル・チーマ大佐、艦隊司令官のベルガミーニ提督を含む乗組員1352人が犠牲となった。

最初で最後の、唯一の戦艦「ローマ」の艦長は悲劇の戦死を遂げたのである

 

さて、今回は「ヴィットリオ・ヴェネト」と「ローマ」の艦長たち3名を紹介してみた。次回の更新はいつになるかわからないが、「コンテ・ディ・カヴール」や「アンドレア・ドーリア」あたりを紹介したいと思っている。ではまた!アッリヴェデルチ!

 

◆主要参考文献
・Paolo Alberini, Franco Prosperini共著 "Uomini della Marina 1861-1946", 2016, UFFICIO STORICO DELLA MARINA MILITARE 
・Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori

第二次世界大戦時のイタリア戦艦と艦長たち:その①

ふと第二次世界大戦時のイタリア海軍を調べているときに気が付いたのだが、イタリア語の書籍を読んでいると、駆逐艦や潜水艦などの小型艦に関しては艦長の記述が多いのに対し、大型艦となると艦長に関する記述が極端に少ない...という事に気付いた。

ただでさえマイナー扱いされる第二次世界大戦時のイタリア海軍。海軍提督(艦隊指揮官、海軍将官)に関しての記述は多いけれども、戦艦の艦長となると地味で、著名なのは「悲劇の艦長」として知られる戦艦「ローマ」のアドネ・デル・チーマ艦長くらいのものである。当然だが、Wikipediaの個別記事なんぞもデル・チーマ艦長くらいしか存在しない!そんなこんなで困っていたら、伊海軍公式が発行している書籍でめちゃくちゃ良い本を発見したので、それを主な参考文献として艦長たちについて調べてみた。

というわけで、前々から地道に調べていた第二次世界大戦時のイタリア戦艦とその艦長たちについて紹介したいと思う。

 

数回に分けて投稿したいと思う。今回は以下の3名について。

◆アンジェロ・ヴァローリ・ピアッツァ ANGELO VAROLI PIAZZA
―戦艦「ジュリオ・チェーザレ」艦長 (1938.12.15-1941.7.19)

 

◆マッシモ・ジロージ MASSIMO GIROSI
―戦艦「リットリオ」艦長 (1940.5.6-1941.4.5)

 

◆ヴィットーリオ・バチガルーピ VITTORIO BACIGALUPI
―戦艦「リットリオ」艦長 (1941.5.15-1943.2.28)

 

◆アンジェロ・ヴァローリ・ピアッツァ

ANGELO VAROLI PIAZZA

1896.2.21-1959.12.31

―戦艦「ジュリオ・チェーザレ」艦長

(1938.12.15-1941.7.19)

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戦艦「ジュリオ・チェーザレ」艦長、アンジェロ・ヴァローリ・ピアッツァ大佐(Angelo Varoli Piazza)。左の人物は海軍参謀長のドメニコ・カヴァニャーリ提督(Domenico Cavagnari)。1940年に撮影された写真。

開戦時の戦艦「ジュリオ・チェーザレ」艦長。

1896年12月15日、エミリアロマーニャパルマにて生誕。1911年にリヴォルノ海軍士官学校に入学したため、伊土戦争時は練習船「フラヴィオ・ジョイア」に乗船していた。初の実戦は第一次世界大戦で、アドリア海戦役でオーストリア海軍の潜水艦を撃沈する等戦果を挙げ、海軍中尉まで昇進している。戦時中には三度の戦功銅勲章、戦功十字章、またフランス政府からも勲章を叙勲された。

戦間期MAS艇指揮官や海軍参謀本部付きなどを歴任した後、駆逐艦「ダニエーレ・マニン」艦長(1929-31)軽巡ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ」艦長(1932-35)駆逐艦「アルヴィーゼ・ダ・モスト」艦長(1935-36)を歴任。「ダ・モスト」艦長時代にはスペイン内戦における軍事作戦に参加した。1937年から短期間、重巡洋艦「ポーラ」艦長を務めた後、1938年12月15日に戦艦「ジュリオ・チェーザレ」艦長に就任している。そのまま、第二次世界大戦中盤まで「チェーザレ」艦長を務めている。

ヴァローリ・ピアッツァ艦長の著名な戦果と言えば、言わずもがな「プンタ・スティーロ海戦(カラブリア沖海戦)」だろう。イニーゴ・カンピオーニ提督(Inigo Campioni)が指揮する主力艦隊(第一艦隊)の旗艦として、1940年7月のプンタ・スティーロ海戦に参加英戦艦「ウォースパイト」からの直撃弾を受けたが、攻撃を緩めずに続けて英艦隊の撃退に成功、この武勲により戦功銀勲章を叙勲されている。その後もテウラダ岬沖海戦など主要な海戦に参加し、1941年7月まで「チェーザレ」艦長を務めた

艦を降りた後、1942年1月に海軍准将に昇進、1942年に海軍総司令部(スーペルマリーナ)付属の将官となった。1943年9月の休戦ではローマの海軍総司令部にいたため、進駐したドイツ軍によって捕らえられたが、新たに成立したファシスト側のイタリア社会共和国海軍(RSI海軍、MNR)への協力を拒否して抑留された

終戦により解放された後、1946年に予備役。1958年に海軍少将に昇進。その翌年である1959年12月31日、ローマにて没。

 

◆マッシモ・ジロージ
MASSIMO GIROSI

1899.4.10-1967.10.9

―戦艦「リットリオ」艦長
(1940.5.6-1941.4.5)

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戦艦「リットリオ」艦長、マッシモ・ジロージ(Massimo Girosi)

戦艦「リットリオ」の初代艦長。

1899年4月10日、ナポリにて生誕。1912年にリヴォルノ海軍士官学校に入学し、1916年に海軍少尉に任官。第一次世界大戦時はレジーナ・エレナ級戦艦「ローマ」の士官として活躍し、中尉に昇進して戦功十字章を叙勲される働きを見せた戦間期は潜水艦「N3」の艦長を1925年-26年まで務め、1927年に大尉に昇進。大尉に昇進後は重巡洋艦トリエステ」の砲術長を1930年まで務めた

1930年には再度潜水艦部隊に戻り、1933年に中佐に昇進。エリトリアのマッサワ軍港に展開する紅海潜水艦隊の司令官としてエチオピア戦争に参加。1936年の帰国後は一時的に駆逐艦「ラ・マーサ」艦長を務めた後、第四潜水戦隊司令官1937年に重巡洋艦「ゴリツィア」艦長を短期間務め、建造中の戦艦「リットリオ」の艤装員長に任命された。そして、1940年5月の竣工と共に「リットリオ」初代艦長に就任している。

開戦後、出撃準備が整っておらず、本格的な出動は1940年8月末-9月初めのハッツ作戦迎撃となっている。彼の主な戦果は実戦よりも、「リットリオ」の船員らに対する訓練で発揮された。1940年9月末-10月初めの英「MB.5」船団迎撃にも出撃したが、1940年11月のターラント空襲で「リットリオ」は3本の魚雷が命中し、大破。しかし、ジロージ艦長の指揮によって最悪の事態は免れたとして、戦功十字章を叙勲された。

艦を降りた後は海軍少将に昇進し、イタリア軍最高司令部(コマンド・スプレモ)付属の将官となり、様々な作戦の立案で活躍した。このため、友軍であるドイツ軍からも高く評価され、二級鉄十字章を叙勲されている。コルシカ島制圧後はコルシカ島の海軍司令官を務め、1943年8月から休戦までは海軍総司令部(スーペルマリーナ)の作戦司令室の長官を務めていた。

王国休戦後は地下に潜伏し、反ナチ・ファシストレジスタンス活動に身を投じている。連合国支配下南イタリアへの脱出を試みたが、RSI軍側によって捕らえられた。しかし、その後脱獄に成功し、パルチザンに合流終戦によって、ドイツ軍およびRSI軍の降伏交渉にも参加している。これらの戦功から、共和政移行後にイタリア最高位の名誉であるイタリア軍事勲章が叙勲されている。

戦後も海軍に残り、冷戦下のNATOにおいて重要な役割を果たした。1962年に予備役。1967年10月9日、ローマにて没。

 

◆ヴィットーリオ・バチガルーピ
VITTORIO BACIGALUPI

1898.5.15-?

―戦艦「リットリオ」艦長
(1941.5.15-1943.2.28)

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右で閲兵する国王に説明しているのが、「リットリオ」艦長のヴィットーリオ・バチガルーピ(Vittorio Bacigalupi)大佐。中央は国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世で、左は主力艦隊司令長官のアンジェロ・イアキーノ提督(Angelo Iachino)。

大戦期の主な期間で戦艦「リットリオ」の艦長を務めた人物

1898年5月15日、ラ・スペツィアにて生誕。書籍にも情報が少なく、開戦までの動向が自分が調べた限りでは殆どわからなかった。第二次世界大戦のイタリア参戦時(1940年6月10日)は極東艦隊旗艦・砲艦「レパント」艦で、天津租界を母港として日本や中国近郊で活動していた。

その後、帰国した後に1941年1月6日に軽巡洋艦「ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」艦長に任命されており、4月21日まで艦長を務めた軽巡洋艦「アブルッツィ」は第8巡洋戦隊(司令官:アントニオ・レニャーニ(Antonio Legnani)提督)の旗艦であり、悲惨極まる結果に終わったマタパン岬沖海戦にも「アブルッツィ」艦長として参加している。

1941年5月15日にはターラント空襲での損害の修復を終えた戦艦「リットリオ」艦長に就任。その後、「リットリオ」艦長として、数々の主要な海戦に参加した。特に1942年3月の第二次シルテ湾海戦では荒天という不利な状況にも拘わらず、正確な指揮で英艦隊に大損害を与えて勝利することに成功した。1943年2月に艦を降りてからの動向は不明。

 

次回は戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」や「ローマ」あたりの艦長を紹介したいと思う。ではまた!アッリヴェデルチ!

↓次回

 

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◆主要参考文献
・Paolo Alberini, Franco Prosperini共著 "Uomini della Marina 1861-1946", 2016, UFFICIO STORICO DELLA MARINA MILITARE 
・Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori