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「電気髭(barba elettrica)」アンニーバレ・ベルゴンツォーリ将軍 ―スエズを目指したスペイン戦役の名将―

エジプトへの一連の侵攻作戦は、イタリア軍にとって大敗に終わった。しかし、エジプト侵攻を指揮した将軍たちが無能だったわけではない。彼らは、スペイン内戦での指揮で活躍した手練れの将軍たちであった。結局、彼らの敗北は「戦争準備が整っていないのに無理な参戦をした」ファシスト政権の判断によるものである。とはいえ、エジプト侵攻自体はドイツの要請によるものであるが....

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アンニーバレ・ベルゴンツォーリ(Annibale Bergonzoli)

そのエジプト侵攻に参加した将軍の中に、その特徴的な顎鬚から「電気髭(barba elettrica, バルバ・エレットリカ)」と呼ばれた将軍がいた。彼の名前はアンニーバレ・ベルゴンツォーリ(Annibale Bergonzoli)。スペイン内戦では初期から終盤までスペインでCTV部隊(イタリア義勇兵部隊)の第四師団「リットーリオ」を指揮した将軍で、フランコ将軍率いる国粋派の勝利に多大な貢献をした、スペイン内戦時のイタリアの将軍を代表する人物である(その活躍から、イタリア最高位の勲章である金勲章(メダリア・ドロ)を叙勲されている)。逆に、共和国側からは評価されつつも憎まれ、彼の首に50万ペセタもの懸賞金がかけられた。彼はその後、スペインから帰国した直後に北アフリカに向かうことになり、そのまま第二次世界大戦に突入することとなった。

グラツィアーニ元帥の指揮の元でエジプトへの侵攻が開始されると、第23軍団の司令官として参加。ひとまずシディ・バッラーニまでの進撃を完了させたが、その後の英軍の反攻作戦によって追い詰められ、ベルゴンツォーリはバルディア守備隊を指揮して劣勢の中で決死の抵抗をしたのち、ベダ・フォムにて捕虜として捕らえられてしまった。捕虜となった後、インドの捕虜収容所に送られ、アメリカ参戦後は最終的にテキサスの捕虜収容所に収監された。イタリア休戦後は、連合軍側による協力要請を拒否したために、精神病棟に押し込められてしまった。更に、バドリオ政権は彼をファシストであると思っていたために非常に嫌っており、米軍による不当な扱いも容認したのであった。

今回は、そんな運命に翻弄されたベルゴンツォーリ将軍について調べてみよう。

 

◆「電気髭」と呼ばれた将軍

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アンニーバレ・ベルゴンツォーリ(Annibale Bergonzoli)

アンニーバレ・ベルゴンツォーリ(Annibale Bergonzoli)は、1884年11月1日北イタリア・ピエモンテ州マッジョーレ湖畔の町、カンノービオ(Cannobio)に、父ポンペオ・ベルゴンツォーリ(Pompeo Bergonzoli)と母フランチェスカブランカ(Francesca Branca)の間に生まれた。名前のアンニーバレ(Annibale)は、古代ローマに仇をなしたカルタゴの英雄、ハンニバルのイタリア語読みである。後に、彼が仕えることになるファシスト政権が、「古代ローマの復活」を謳ったことを考えると、非常に興味深い名前だ。出身地であるカンノービオは隣国スイスのイタリア語圏にほど近い国境の町で、19世紀以降は民需工場が多く建てられ、工業都市としても機能した町であった。

ベルゴンツォーリ少年は幼い頃から逞しい子どもで、7歳の頃にはマッジョーレ湖を泳いで渡るという並外れた偉業を成し遂げている。王党派が多く、高級軍人を数多く輩出していたピエモンテ州の人間らしく、高校卒業後はモデナの陸軍士官学校に入学し、高級軍人への道を目指した。1906年、ベルゴンツォーリは少尉に昇進し、第53歩兵連隊に配属となった。彼の初陣はオスマン帝国軍とのリビアを巡る戦争(伊土戦争)であり、第7歩兵連隊を率いたが、敵の激しい放火の中で大胆な偵察を成功させ、その武勲を表彰されている

第一次世界大戦では前線指揮官として優れた武勲を見せた。まず、最前線でオーストリア軍と戦い、その武勲から銀勲章を叙勲され、英軍からも武功十字章を叙勲された。更にマケドニア戦線に転戦してブルガリア軍と交戦、銅勲章を叙勲。アルマンド・ディアズ(Armando Diaz)将軍の命により帰国した彼は、ピアーヴェ川の戦いで工兵部隊を率いて活躍したが、敵の攻撃で重傷を負った。このため、二度目の銀勲章と戦功十字章を叙勲されている。最終的に、終戦までに中佐にまで昇進した。

第一次世界大戦後、怪我が治った後、リビアの反伊ゲリラ駆逐のため、トリポリタニアに派遣される。しかし、一時的にアラブ人勢力との停戦が成立したため、1919年には帰国して第25師団の参謀長に任命された。

 

エチオピア戦争と「電気髭」

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エチオピア戦争の地図。デ・ボーノ(後にバドリオ)が指揮する北部戦線はエリトリアから、グラツィアーニが指揮する南部戦線はソマリアからエチオピアに侵攻した。ベルゴンツォーリは南部戦線で指揮している。

ベルゴンツォーリはファシスト政権成立後、軍拡を続けるイタリア陸軍の中で地位を確立していった。第一次世界大戦で優れた前線指揮官として武勲を挙げたベルゴンツォーリは上官だけでなく、部下からも高く評価されている自ら最前線に立ち、兵士たちを鼓舞する姿を慕う部下たちは多かった。それに、彼の特徴的な「顎髭」は、彼のチャームポイントとなり、部下から「電気髭(barba elettrica)」と呼ばれ親しまれ、それが彼の愛称になったのである。

1935年、ムッソリーニエチオピア帝国との戦争を宣言し、エチオピアへの侵攻を開始した。この時、ベルゴンツォーリは陸軍准将であり、第二快速旅団「エマヌエーレ・フィリベルト・テスタ・ディ・フェッロ」の旅団長としてソマリアに派遣された。彼と、彼の旅団はロドルフォ・グラツィアーニ(Rodolfo Graziani)元帥率いる南部方面軍に配属となり、ラス・デスタ・ダムタウ(Destà Damtù)将軍率いるエチオピア帝国軍と対峙することになった。

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南部戦線のエチオピア帝国軍指揮官。ラス・デスタ・ダムタウ(Destà Damtù, ደስታ ዳምጠው)将軍(左)と、デジャズマッチ・ナシブ・ザマヌエル(Nasibù Zamanuel, ነሲቡ ዘአማኑኤል)将軍(右)。優れた指揮で防衛線を構築し、イタリア軍部隊を苦しめた。

エチオピア帝国軍側の将軍、デジャズマッチ・ナシブ・ザマヌエル(Nasibù Zamanuel, ነሲቡ ዘአማኑኤል)将軍は、トルコ人義勇兵ワヒブ・パシャ(Wahib Pascià)を参謀長として重用し、オガデン地方に防衛線「ヒンデンブルク防壁」を構築する事でイタリア軍の攻撃を効率的に防いでいた。これに対して、イタリア軍側は空軍が支援の航空爆撃を実行してエチオピア地上部隊を攻撃、混乱した敵軍に対して攻勢を実行した(ガナーレ・ドーリアの戦い)。

ベルゴンツォーリは自ら最前線に立って部隊を指揮し、帝国軍の拠点となっていたネゲッリ市を陥落させることに成功している。だが、将官でありながら最前線で戦い続けたために、敵弾に当たって重傷を負ってしまったため、治療のためイタリアに帰国することになった。エチオピア戦線での活躍から、ベルゴンツォーリはサヴォイア軍事勲章及びイタリア王冠勲章を叙勲されている。

 

◆スペインでの武功

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部下と共に移るベルゴンツォーリ。スペイン内戦で戦局に大きく貢献した名将は、その勇敢さから部下からの信頼も厚く、人望があった。

ベルゴンツォーリがイタリアで入院中に、1936年7月にエミーリオ・モラ(Emilio Mola)将軍を筆頭とする軍部の一派がスペイン植民地のモロッコで叛乱を起こし、これに呼応したフランシスコ・フランコ(Francisco Franco)将軍が叛乱軍の主導権を握り、それが引き金となってスペインで内乱が勃発した。これを受けて、イタリアはナショナリスト叛乱軍側に支援を開始し、義勇軍としてCTV部隊を編制、マリオ・ロアッタ(Mario Roatta)将軍を総司令官としてスペインに派遣した。

ベルゴンツォーリはこのCTV部隊の一員として編成された「リットーリオ」師団の師団長に任命された。同師団は3個歩兵連隊と1個砲兵連隊によって構成されており、大部分がMVSN(黒シャツ隊、ファシスト党民兵組織)で構成されていたCTV部隊であったが、「リットーリオ」師団は全て陸軍の義勇兵によって構成されていた。正規軍の将兵によって構成された同師団はMVSNの部隊よりも士気・練度共に高く、頼もしい戦力となったのである。

1937年2月より同師団はスペインでの行動を開始する。3月のグアダラハラの戦いに参加するが、ベルゴンツォーリ率いる「リットーリオ」師団の奮戦にもかかわらず、CTV部隊は大敗してしまった。「グアダラハラの大敗」は先例のない悪天候や、共和国軍の予想以上の健闘など、いくつもの悪運が重なったと言っていいだろう。更に、フランコによる「意図的な背信行為」も、大敗の大きな原因にあげられる。

そもそも、このグアダラハラの戦いは、苦境に陥ったフランコ側がイタリア軍に陽動を懇願してなされたものであった。だが、フランコは「グアダラハラ作戦」の同時実施についてロアッタ将軍と合意していたにもかかわらず、結局フランコはその合意を反故として、同時攻撃も援護もせず、イタリア軍側の救援要請も無視し、挙句イタリア軍が総崩れになったところでようやく戦線に兵を送った。更にファシスト政権に都合が悪かったのは、この戦いにおいてスペイン共和国側の勝利を演出したのは、国際旅団のイタリア人義勇兵部隊「ガリバルディ大隊」だったからである。つまりは、「反ファシストのイタリア人が、ファシストのイタリア人に勝った」と宣伝材料になってしまった。

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エットレ・バスティコ(Ettore Bastico)将軍。ロアッタ将軍の後任としてCTV部隊の司令官に就任し、優れた手腕で立て直しに尽力した。彼の手腕によってイタリア軍は打撃から立て直し、以後ナショナリスト叛乱軍側の主力として機能し、内戦の終結に向けて大きな貢献をした。

この大敗とフランコ側の行動を受けて、ムッソリーニは激怒し、フランコに利用されていることに気が付いたが、今更国粋派への支援を撤回するわけにもいかず、その大敗の責任を取る形でロアッタ将軍はCTV部隊の指揮官から解任された。新たな指揮官として白羽の矢が立ったのが、エットレ・バスティコ中将(Ettore Bastico)だった。バスティコは速やかにグアダラハラの大敗で大きな打撃を受けたCTV部隊の再編制を行い、立て直しを図った。ここでの手腕は高く評価され、バスティコのもとで上手く立て直したCTV部隊は国粋派の勝利に貢献していき、一度は地に落ちたフランコ側のイタリア軍への信頼も、ビルバオ攻略戦などにおける戦果によって再び取り戻していったのである。

新司令官バスティコ将軍のもとでベルゴンツォーリはサンタンデールの戦いに参加、「リットーリオ」師団を率いてその勝利に大きな貢献をした。「リットーリオ」師団は粘り強い攻撃で共和国軍の防衛戦を突破し、敵拠点であったサンタンデール市を陥落させることに成功したのである。このサンタンデールの勝利は共和国側に大きな打撃を与え、国粋派の勝利に大きく貢献することとなった。この時の武勲により、ベルゴンツォーリはイタリア軍最高位勲章である金勲章を叙勲されている

サンタンデール制圧後、共和国政府側についていたバスク自治政府の要人たちはサントーニャ港とラレドの町に集結し、バスティコ率いるイタリア軍に降伏した。これに対して、バスティコはバスク側との降伏協定に基づき、バスクの政治家など難民多数を英国船籍の貨客船に収容、国外への移送を認めた。しかし、フランコ率いる国粋派の軍艦が入港し、難民らに下船命令を出し、更にフランコがイタリア側に強硬にバスク難民の引き渡しを要求した。国粋派側は先の降伏協定を尊重すると約束したために、バスティコは仕方なく要求に応じて難民を国粋派側に引き渡したが、フランコは略式裁判で数百人の引き渡されたバスク難民を処刑したのである。

これに対し、バスティコは激怒してフランコに対して激しく抗議、イタリアの名誉にかかわると非難したが、フランコは真面目に取り合わずにムッソリーニに対してバスティコの更迭を要求。ムッソリーニフランコの行動に対して怒ったが、これに応ずるほかはなく、結局バスティコはCTV部隊の司令官を解かれ、後任のマリオ・ベルティ(Mario Berti)将軍に任せ、イタリアに帰国することとなったのである。フランコ側のこの行動は長い間バスクの人々に抜きがたい怨恨と不信感を植え付けることとなった。

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スペイン内戦終盤。中央がベルゴンツォーリ将軍、右でたばこを咥えた人物がガンバラ将軍である。

続いて司令官となったベルティ将軍のもとでベルゴンツォーリはアラゴンでの大攻勢に参加する。ベルティ将軍の後任として新たな司令官となったガストーネ・ガンバラ(Gastone Gambara)将軍のもとでカタルーニャ攻勢にベルゴンツォーリは参加し、共和派の首都であったバルセロナ(バルチェロナ)の陥落に大きな貢献をして、イタリア軍義勇兵を快く思っていなかったフランコもベルゴンツォーリを高く評価し、スペイン最高峰の軍事勲章であるサン・フェルディナンド軍事勲章をベルゴンツォーリに叙勲したベルゴンツォーリは実に21カ月の間スペインの前線で指揮をし続け、スペイン内戦の終結に大きな貢献をしたのであった。なお、スペイン内戦中、ベルゴンツォーリの「敵としての名声」は共和国政府側も認識しており、彼の首には50万ペセタもの懸賞金が掛けられていたという。まさしく、敵にも認められた名将と言えるだろう

 

スエズを目指して

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リビア総督イタロ・バルボ(Italo Balbo)空軍元帥。第二次世界大戦開戦時の北アフリカ戦線総司令官であったが、6月末にトブルク上空にて誤射を受けて戦死した。

1939年4月にスペインの戦地から帰還したベルゴンツォーリであったが、休む暇もなく第二次世界大戦に欧州は突入した。情勢の急速な変化を受けて、10月にはリビアに派遣され、新編成された第23軍団の司令官に任命された。第23軍団はトリポリ近郊の町で古代ローマの遺跡「レプティス・マグナ」があることで知られるオムス(フムス)に駐屯し、MVSNの第一黒シャツ師団「3月23日」(戦闘者ファッシの設立日(1919年3月23日)に由来)と第二黒シャツ師団「10月28日」(ローマ進軍(1922年10月28日)に由来)を含む45,000人の将兵によって構成されていた。

1940年6月10日にイタリアは英仏に宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦する。6月24日にはヴィッラ・インチーサ休戦協定が調印され、イタリアとフランスが休戦する。こうしてフランスが戦争から脱落すると、イタリアは北アフリカの全軍を英軍支配下となっているエジプト国境に張り付けることが可能となり、ベルゴンツォーリ率いる第23軍団もエジプト方面に移動したムッソリーニはエジプトへの侵攻を命令したが、6月28日にはリビア総督であったイタロ・バルボ(Italo Balbo)空軍元帥が味方からの誤射によって撃墜され、戦死してしまう事態となってしまった。

戦死したバルボの後任として、陸軍参謀長のロドルフォ・グラツィアーニ元帥がリビア総督を兼任した。グラツィアーニは準備不足からエジプト侵攻の延期を要請したが、ムッソリーニはあくまで侵攻を強行した。ムッソリーニとしては、ドイツ軍による英本土攻撃が始まらんとしているため、準備不足だろうがイタリア軍としては戦果を挙げて戦後の交渉を有利に進めようと思っていたのであるが、現実は厳しかった。

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レダ Ba.65攻撃機。ブレダ社が開発・生産した対地攻撃機である「マルチロール機(多用途機)」。武装は7.7mm機銃×2及び12.7mm機銃×2で、偵察機タイプの複座型はこれに加えて更に12.7mm機銃1挺が追加で装備されていた。爆弾の搭載量は最大で1000kg。スペイン内戦で戦局に大きく貢献した機体で、操縦性の劣悪さと機体の貧弱さという欠点を持っていたが、十分すぎる攻撃力を持ち、北アフリカ戦線においても英軍機甲部隊相手に善戦した。

仕方なく9月7日にグラツィアーニはエジプトへの侵攻命令を出した。この作戦にはベルゴンツォーリ率いる第23軍団を含め、第21軍団、第28軍団及び自動車化集団が加わり、空軍部隊が陸軍部隊を援護するとともに、敵空軍基地及び兵站施設、敵司令部爆撃任務を帯びた。空軍の戦闘爆撃機であるBa.88"リンチェ"は役に立たなかったが、対地攻撃機のBa.65"ニッビオ"は英軍地上部隊への攻撃で大きな戦果を挙げ、特にアドリアーノヴィスコンティ(Adriano Visconti)少尉は英国機甲部隊のマチルダII歩兵戦車を多数撃破する戦果を挙げている。Ba.65は操縦性の劣悪さと致命的な防御力の低さが目立ったが、武装は強力過ぎるほどであり、戦車部隊への攻撃で大きな戦果を挙げたのである。

ベルゴンツォーリ率いる第23軍団はスペイン内戦でも上官だったベルティ将軍率いる第10軍の隷下に置かれ、進軍を開始した。形式上は独立国であったが、英軍の支配下に置かれていたエジプト王国の首相ハサン・サブリー・パシャ(Hassan Sabry Pasha)イタリア軍のエジプトへの侵攻を受けてイタリアと断交(ただし、宣戦布告はせず、宣戦布告をしたのは大戦末期)している。アーチボルド・ウェーベル(Archibald Wavell)将軍率いる北アフリカの英軍部隊は準備は整っておらず、特に空軍は戦力が不足しており、エジプト侵攻における制空権は完全にイタリア側が掌握していた

 

エジプト侵攻時のベルゴンツォーリ率いる第23軍団の構成は以下の通り。

◆第62歩兵師団「マルマリカ」→戦車大隊を保有

:師団長ルッジェーロ・トラッキャ将軍(Ruggero Tracchia)

◆第63歩兵師団「チレーネ」→戦車大隊を保有

:師団長カルロ・スパトッコ将軍(Carlo Spatocco)アレッサンドロ・デ・グイーディ将軍(Alessandro de Guidi, 1940年9月23日~)

◆第一黒シャツ師団「3月23日」(MVSN)

:師団長フランチェスコ・アントネッリ将軍(Francesco Antonelli)

◆サハラ機械化集団

:司令官ピエトロ・マレッティ将軍(Pietro Maletti)

リビア師団集団(第一リビア師団及び第二リビア師団で構成)

:司令官バスティアーノ・ガッリーナ将軍(Sebastiano Gallina)

◇第一リビア師団

:師団長ルイージ・シビッレ将軍(Luigi Sibille)

◇第二リビア師団→戦車大隊を保有

:師団長アルマンドペスカトーレ将軍(Armando Pescatore)

 

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イタリア陸軍の「主力戦車」であったCV33豆戦車。武装が8mm機銃2丁という貧弱さから、戦車としての戦力は期待できなかった。一部、対戦車型として20mm対戦車ライフルを装備した車輛も存在した。

所属していた第二黒シャツ師団「10月28日」はトブルク司令部の防衛に回されて第23軍団から第21軍団に移っている。なお、第23軍団に所属する歩兵師団はCV35及びCV33豆戦車を主武装とする戦車大隊を保有していた他、11/39中戦車を主武装とする機甲部隊をマレッティ将軍率いる機械化集団が指揮していた

ベルゴンツォーリ率いる第23軍団はエジプト侵攻で前衛部隊として進撃を開始リチャード・オコンナー(Richard O'Connor)将軍率いる英国西方砂漠軍への攻撃を行った。9月13日、第23軍団に属する第一黒シャツ師団「3月23日」が英軍に奪われていた国境要塞のカプッツォ要塞を奪還し、エジプト国境を越えて前進を行う。英空軍の基地が置かれていたサルームへの攻撃を行い、15日には第一リビア師団が同拠点を制圧英軍側は戦車・装甲車合わせて50輌の損害を受けた。英軍は撤退時に軍需基地に火を放って焦土作戦を行ったが、撤退する英軍に対して伊空軍部隊は対地攻撃を行っている。

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シディ・バッラーニに進軍するFiat-SPA AS37で自動車化された部隊。

ベルゴンツォーリはサルーム制圧後も進撃を続けたが、マレッティ将軍率いる機械化集団の進撃は英軍砲兵部隊の攻撃によって阻まれてしまった。激闘の末、第一黒シャツ師団「3月23日」は9月16日夜間に国境から約100kmの距離の拠点シディ・バッラーニを占領することに成功し、イタリア軍はシディ・バッラーニを拠点として一旦進軍を停止し、兵站強化に勤しむこととなった。

エジプト侵攻におけるこれらの勝利は機甲部隊による戦果ではなく、ベルゴンツォーリ率いる第23軍団に属するリビア師団と黒シャツ師団の奮闘によるものであった。第23軍団は一日に20km前進することに成功し、英軍がイタリア軍側の予想に反していち早く退却したことによって、イタリア軍側は順調に進軍し、沿岸部を一気に短期間で制圧することが出来た。「砂漠という本来奇襲攻撃を想定しえない戦場において、わが軍はその実行に成功した」とグラツィアーニ元帥は評価している。

 

◆シディ・バッラーニ防衛戦

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北アフリカ戦線を指揮したロドルフォ・グラツィアーニ(Rodolfo Graziani)元帥。「砂漠のナポレオン」と呼ばれた将軍で、リビア平定やエチオピア帝国征服で活躍し、当時のイタリアでは既に英雄として有名だった。第二次世界大戦時のイタリア陸軍参謀長であったが、バルボ戦死後にリビア総督に就任し、北アフリカ戦線を指揮することとなった。

イタリア軍によるエジプト侵攻は成功したが、英軍は撤退時に焦土作戦を徹底的に行って、兵舎や水利施設、軍需倉庫などを破壊していたため、イタリア軍としては兵站を整えることが急務になった。そのため、グラツィアーニ元帥は進軍を停止した。シディ・バッラーニを前線基地として、まずは輸送強化のためにリビアのヴィア・バルビアから続く、ヴィア・デッラ・ヴィットーリア(勝利通り)の建設を勤しみ、また軍需物資の供給約束が果たされていないことに対して司令部に抗議した。また、砂漠という過酷な環境で将兵は疲弊しており、再編の必要があるとした。

バドリオ参謀総長はグラツィアーニの意見をインフラ、水、輸送手段、燃料の不足の観点からやむを得ないと判断したが、ムッソリーニとしてはエジプト制圧の遅延からグラツィアーニとバドリオに対して激しく憤りを感じていた。ムッソリーニはグラツィアーニをローマに召還してマルサ・マトルーフへの攻撃再開を協議したが、バドリオもその案には賛成せず、結局イタリア軍の進軍はシディ・バッラーニでストップした。しかし、イタリア軍兵站を整えている間に、英軍はその陰で反撃の準備を進めていた

10月28日にはムッソリーニギリシャに宣戦布告し、ギリシャ戦線が開幕した。だが、当初の計画では順調に制圧出来るはずであったが、ギリシャ戦線を指揮したプラスカ(Sebastiano Visconti Prasca)将軍ギリシャ軍を侮った結果、予想以上の反撃を被り、戦線は膠着状態となってしまった。一方で、海軍方面においても、英海軍雷撃機によるターラント港への奇襲攻撃が行われ、イタリア海軍の主力戦艦3隻(「コンテ・ディ・カヴール」「カイオ・ドゥイリオ」「リットーリオ」)が大きな被害を被り、行動不能に追い込まれた。この結果、イタリア軍ギリシャ方面への支援のために、北アフリカ戦線用の物資を送る羽目になった挙句、その貴重な北アフリカ戦線への物資も、伊艦隊が大きな被害を被ったことで地中海の制海権が英国側に移り、輸送船団への攻撃が活発化する事態となってしまった。

バドリオ参謀総長ギリシャ戦線の泥沼化の責任を取らされて辞任に追い込まれ、新たな参謀総長にはウーゴ・カヴァッレーロ将軍(Ugo Cavallero)が就任した。プラスカの更迭後にギリシャ戦線を指揮することになったウバルド・ソッドゥ(Ubaldo Soddu)将軍は泥沼化した戦線の立て直しを余儀なくされ、プラスカの尻拭いを任された。海軍においても海軍参謀長ドメニコ・カヴァニャーリ提督(Domenico Cavagnari)が更迭され、新たな海軍参謀長にアルトゥーロ・リッカルディ提督(Arturo Riccardi)が就任した。

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エチオピア戦争でも活躍した第一黒シャツ師団「3月23日」。ファシスト党民兵組織であるMVSN(黒シャツ隊)の兵員から構成された師団で、エジプト侵攻において前衛として活躍、シディ・バッラーニ戦で最初に市内に突入したのはこの師団である。

ギリシャ戦の泥沼化と伊艦隊の消極化は北アフリカ戦線の状況を英国側に有利にすることとなったムッソリーニはグラツィアーニに対してシディ・バッラーニでの停止がイタリアではなく英国側に得をさせたと難癖をつけたが、グラツィアーニとしてはただでさえ必要な物資がギリシャ戦線に吸い取られて装備が不足している中で、当然準備など整うはずもなく、進軍は不可能であると反論した。この間、ベルゴンツォーリ率いる第23軍団は前衛ではなくシディ・バッラーニ西方の後方に配備され、再編成された。これによって、第23軍団は1940年12月の段階で第一黒シャツ師団「3月23日」、第二黒シャツ師団「10月28日」、第62歩兵師団「マルマリカ」で編成されていた。

ムッソリーニとグラツィアーニの協議の結果、再侵攻開始は12月に決定され、それまでの間が準備期間とされた。しかし、グラツィアーニが必要とした物資はギリシャ戦線に流れて思うように北アフリカ戦線のイタリア軍の準備は進まなかった一方で、ギリシャ戦線の泥沼化を見てウェーベル将軍率いる英軍は、北アフリカイタリア軍がウィークポイントであると見抜き、反撃の準備を進めていたイタリア軍はサルームとシディ・バッラーニとの間に防衛陣地を配置したが、その陣地の間に無防備地帯があることに英空軍の偵察機が発見し、ウェーベル将軍は12月8日の夜間から9日にかけてこの無防備地帯の攻撃を決定した

イタリア軍部隊は攻撃の前夜に英軍機甲部隊の移動を察知し、直ちに警戒態勢に入ったが、英軍は陸海空全軍を動員した大反攻作戦「コンパス」を発動し、一気に反撃を開始した。英軍の奇襲は完全に成功し、これを受けてシディ・バッラーニのイタリア軍部隊は壊滅、前衛であったマレッティ将軍率いる機械化部隊は全滅(マレッティ将軍も戦死)し、同じく前衛を務めていた第二リビア師団も壊滅する事態となった。ベルゴンツォーリ率いる第23軍団は英軍の攻撃に対して抵抗したが、装備が不足する第23軍団は大きな損害を被り、撤退を余儀なくされたのである。

撤退したベルゴンツォーリ率いる第23軍団はハルファヤの防衛に当たっていた。グラツィアーニはムッソリーニに対して今まで軍需資材の増強を要求してきたのに対して、これが聞き入られなかったことに対する激しい抗議の電報を送った。グラツィアーニとしては以前から物資の増強を要請していたにもかかわらず、勝手に戦線を広げられた挙句、そちらを優先されたために北アフリカ戦線が手薄となり、英軍の攻撃を許してしまったのであるから怒るのは当然だと言えよう。

 

◆バルディア包囲戦

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クイーン・エリザベス級戦艦「ヴァリアント」。英海軍地中海艦隊の主力戦艦の1隻として活動し、姉妹艦と共にバルディア守備隊への艦砲射撃を実行した。後に1941年12月、伊潜水艦「シィレー」から発進した人間魚雷部隊によってアレクサンドリア港内にて攻撃を受け、撃沈された。

ベルゴンツォーリ率いる第23軍団は英軍の猛攻を受けてエジプトからの撤退を余儀なくされた。こうして、第23軍団は越えた国境を戻り、リビアの国境都市バルディアまで撤退した。ベルゴンツォーリはバルディアでの抵抗を組織し、地雷原や有刺鉄線、対戦車塹壕を設置して英軍の侵略に備えていた。バルディアの防壁は特に頑丈なものではなく、英軍側の攻撃によって容易に崩壊したためである。そのため、ベルゴンツォーリはこれらを駆使して少しでもバルディア防衛のために尽力した。

バルディア防衛に当たる第23軍団は以下の構成であった。

■北部方面防衛

◆第二黒シャツ師団「10月28日」

■中央方面防衛

◆第一黒シャツ師団「3月23日」

◆第62歩兵師団「マルマリカ」

■南部方面防衛

◆第63歩兵師団「チレーネ」

◆第62歩兵師団「マルマリカ」の一部

これらに加えて、ベルサリエーリ連隊、第64歩兵師団「カタンツァーロ」及び第60歩兵師団「サブラタ」の残存兵、騎兵連隊「ヴィットーリオ・エマヌエーレ」、国境警備隊(G.A.F.)が第23軍団の一員としてバルディア防衛に当たった。第23軍団は13輌のM13/40中戦車と115輌のCV35豆戦車(対戦車砲搭載型を含む)を保有していたが、防衛陣地の環境は劣悪で、食料と水が不足し、塹壕ではシラミと赤痢が蔓延していた包囲状態となったバルディアは飢えと渇き、昼は地獄のように暑く、夜は氷点下まで下がる苛酷な環境、そして不潔な衛生状態に襲われ、防衛するイタリア将兵の士気に大きな打撃を与える結果となってしまった。それに加え、英軍側は昼夜問わず常に激しい砲撃を行うのだからたまったものではない

12月末、英軍はバルディアへの激しい航空爆撃を実行した。この時点で、陸軍の後退と共に空軍部隊も機体を残して撤退を余儀なくされたため、戦力が不足して北アフリカ戦線の制空権は英国側に渡ってしまっていた戦力の不足は顕著であり、英軍側が約800機を擁していたのに対して、イタリア側は僅か130機程度であった。12月31日から翌年1月2日までにかけて計100回にもわたる航空爆撃がバルディアを襲っているヴィスコンティが駆るBa.65を始め、イタリア空軍部隊も奮戦して敵軍陣地や戦車部隊を激しく攻撃したが、防御性能に劣るBa.65は消耗率が激しかった

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バルディアに突入する英軍

更に、年が明けて1月3日、リビア沖に英国主力艦隊(戦艦「ウォースパイト」「ヴァリアント」「バーラム」)が展開し、艦砲射撃を実行更にモニターによる砲撃も行われ、戦闘が始まる時点までにバルディアの防衛陣地は甚大な被害を受けていたムッソリーニはベルゴンツォーリに対して「いかなる犠牲を払っても最後まで戦い抜くべし」と電報を送ったが、陣地がこの時点で壊滅状態となっていたバルディア守備隊の未来は既に見えていたと言える。

バルディア守備隊は果敢に抵抗したが、1月3日に英陸軍部隊(オーストラリア軍が中心)が遂にバルディアへの突入を開始する。こうして数日間に渡る激しい激戦が繰り広げられた後に、22日間にわたる激しい包囲戦の末にバルディアは陥落するに至ったのであった。こうして、英軍はバルディアを制圧するとともにリビアへの逆侵攻の地盤を固めたのである。このバルディア包囲戦の結果、約5,300人のイタリア兵が死傷し、約36,000人が捕虜となった。熱病に倒れたベルティ将軍に代わり第10軍司令官となったジュゼッペ・テッレラ(Giuseppe Tellera)将軍はバルディア戦線の崩壊を受けて、ベルゴンツォーリに撤退を許可し、ベルゴンツォーリを含む約1,000人は敵の包囲網を突破して徒歩による陸路もしくは脱出艇によって海路で脱出し、トブルクに撤退した。ベルゴンツォーリは約120kmの砂漠を徒歩で突破してトブルクに到達することに成功したが、既に長きに渡る包囲戦を経て彼は疲れ切っていた。

 

◆ベダ・フォムの崩壊

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「バビーニ」装甲旅団所属のM13/40中戦車。イタリア軍の貴重な装甲戦力として活躍したが、ベダ・フォムの戦いで英軍の十字砲火を受けて壊滅した。

しかし、英軍はイタリア軍の撤退すら許さず、続けて追撃を行った。バルディアの包囲戦で多大な損害を被ったイタリア軍は、もはやバルディアのような頑強な抵抗は不可能な状態に追い込まれてしまっていたのである。バルディア陥落後、1月9日には英軍は速やかにトブルク要塞を包囲下に置いた巡洋艦「サン・ジョルジョ」を含むイタリア軍部隊は最後まで抵抗したが、遂に1月22日にトブルクは完全に征服された。

トブルク陥落を受けてイタリア軍の命運は完全に決まった。グラツィアーニはアジェダビアへ後退する命令を出したが、機動力に勝る英軍によってその撤退戦は完全に封じられた。更に、英軍側は沿岸部のデルナではなく、内陸部の砂漠地帯を突破してキレナイカを横断し、トリポリタニア北東のシルテ方面への進軍を開始し、イタリア軍側はすぐにそれを察知したが、機動力に劣る伊軍はそれに上手く対応できなかった。内陸部のエル・メキリ要塞では英軍の侵攻をベルゴンツォーリ率いるイタリア軍部隊が首尾よく防衛し、ヴァレンティーノ・バビーニ(Valentino Babini)准将が殿を務め、イタリア軍の数少ない装甲戦力であった装甲旅団「バビーニ」が活躍して一時的に英軍の進撃は停止したが、グラツィアーニは敵兵力が実際より多いと誤った予測をしてベルゴンツォーリに撤退を命じ、イタリア軍残存兵力は撤退した。

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ジュゼッペ・テッレラ(Giuseppe Tellra)将軍。日本語では「テレーラ」と呼ばれることがあるが正しくはない。ベルティ将軍の後任として第10軍の司令官を務め、絶望的な状況ながら奮戦、最後は自ら戦車に乗って敵に突撃し、戦死を遂げた。その姿勢は英軍にも高く評価されている。

この結果、テッレラ将軍率いる第10軍は退路を断たれてベンガジ南方のベダ・フォムで完全な包囲下に置かれることとなる。ベルゴンツォーリ率いる第23軍団もこのベダ・フォムで包囲下に置かれたのであった。海上には英艦隊が展開し、ベダ・フォムのイタリア軍部隊は海上からの撤退も不可能な状態に追い込まれ、絶体絶命の状況に陥っていたベルゴンツォーリは撤退を強行するため、最後の望みをかけてヴィア・バルビアを通ってトリポリタニアへの突破を決めた。しかし、既にヴィア・バルビアに沿って英軍機甲部隊が展開しており、撤退する兵士たちは英軍部隊の餌食となった。その状態を知らなかったイタリア軍部隊は装甲旅団「バビーニ」を先頭にヴィア・バルビアを突破するために前進を開始する。案の定、英軍側の激しい十字砲火を浴びることとなり、包囲網を突破することは失敗した。自ら兵士を鼓舞するために戦車に乗って進軍していた第10軍司令官のテッレラ将軍もこの突撃時に被弾し、戦死してしまったのである。

南方への突破も不可能となり、装甲部隊も壊滅した第10軍残存兵力は最早打つ手は無かった。こうしてベルゴンツォーリは降伏を決断し、キレナイカでの戦いはイタリア軍の完全な敗北に終わったのである。英軍はキレナイカ制圧をもってコンパス作戦を終了し、一連の敗北を受けてイタリア軍はシルテまで撤退、キレナイカを完全に喪失した。この敗北後、グラツィアーニはリビア総督を辞任し、後任として2月11日にイタロ・ガリボルディ(Italo Gariboldi)将軍が就任、引き続き北アフリカの指揮をとった。結局、これらの敗北はイタリア軍将兵が劣っていたからではなく、英軍の装備が全てにおいて勝っていたことが理由であり、特にイタリア軍側は機甲部隊の不足が致命的となった。機動力に勝る英軍機甲部隊は撤退するイタリア軍を完全に壊滅させ、更に海軍・空軍との共同作戦で退路を封じて包囲し、これを撃破したのだった。イタリア軍部隊は機甲部隊を始めとして奮戦したが、要請した支援物資が届かないどころかギリシャ戦線に必要物資が吸われたことで希望は消え去ったのである

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ベダ・フォムの戦いで英軍の捕虜となったベルゴンツォーリ将軍。連合国側の協力要請を拒否し続け、降伏しても連合国側に屈することはなかった。

ベダ・フォムの戦いで捕虜として捕らえられたベルゴンツォーリはエジプト首都カイロに移送され、その後脱走を危惧されて英領インドの捕虜収容所に送られ、劣悪な環境の中で苦しんだ。1941年12月に日本軍が真珠湾を攻撃し、アメリカが連合国側で参戦すると、アーカンソー州のモンティチェロ捕虜収容所に移送となった。1943年9月にイタリア王国が休戦したことで、イタリアは北部・中部を支配するイタリア社会共和国(ムッソリーニ政権)と南部を支配する王国政府(バドリオ政権)に二分され、内戦状態となった。これを受けて、バドリオは共同交戦軍を組織し、連合国側との共闘を宣言する。アメリカ当局はベルゴンツォーリに連合国側への協力を持ち掛け、それを条件に解放することを提案したが、ベルゴンツォーリはそれを完全に拒否した。だが、この反応に怒ったアメリカ当局はベルゴンツォーリをロングアイランドの精神病棟の隔離した部屋に閉じ込めてしまったのである。

第二次世界大戦終結すると、ベルゴンツォーリは解放されイタリアへ帰国出来ることとなった。しかし、新たにイタリアの政権を担っていたメンバーはランドルフォ・パッチャルディ(Randolfo Pacciardi)を始め、スペイン内戦で共和国側の国際旅団に参加した反ファシストが多数いた。このため、スペイン内戦でCTV部隊の主力を率いたベルゴンツォーリは非常に疎ましい存在として映っており、帰国後のベルゴンツォーリを攻撃した。だが、ベルゴンツォーリは戦後のイタリア軍でも戦前の勇敢さや功績から人気のある将軍であり、帰国後は陸軍に迎えられて短い間であるが復帰し、1947年にはほぼ名誉階級として中将に昇進、その後予備役に移された。故郷のカンノービオで隠居したベルゴンツォーリは元部下たちに慕われ、部下たちと共にスペインに旅行すること持った。当地ではフランコの歓迎を受け、またスペイン内戦に参加したCTV部隊の元将兵らの協会組織を結成し、それを指揮した。部下に慕われ続けた将軍は1973年7月31日に死亡し、彼の葬儀には数多くのイタリア軍の高官たちが参加したのであった

敵艦を撃沈せよ!王立イタリア空軍/イタリア社会共和国空軍(RSI空軍)の地中海における艦船攻撃の戦歴

イタリア空軍は地中海における艦船・輸送船団攻撃でも活躍した。潜水艦の運用が難しかった地中海において、空軍部隊による敵船団攻撃は非常に重要だった(第二次世界大戦時、イタリア潜水艦部隊は多くの戦果を挙げたが、その戦果の多くは大西洋や特殊作戦にいるものであり、地中海における戦果はあまり芳しくなかった)。特にSM.79やSM.84で構成された雷撃機部隊による活躍は華々しい戦果を挙げ、また急降下爆撃機部隊も少数精鋭ながら巧みな戦術を駆使して多くの戦果を挙げた

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雷撃を実行するカプロニ Ca.314-RA雷撃機

伊空軍部隊は地中海における艦船攻撃で、1940年から43年の間計72隻連合軍の軍艦と、計196隻輸送船撃沈する活躍を見せた。更に、休戦後イタリア社会共和国(RSI政権)空軍に参加した雷撃機パイロットたちは戦い続け、旧式の雷撃機(SM.79)かつ数的に圧倒的不利という絶望的な戦況下でありながらも計27隻(約115,000トン)もの敵艦船を撃沈するという特筆すべき戦果を残している。

今回はそんな地中海における艦船攻撃で活躍した伊空軍部隊の中でも、雷撃機部隊と急降下爆撃機部隊に注目して調べてみることとしよう。

 

雷撃機部隊の活躍

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サヴォイアマルケッティ SM.79S"スパルヴィエロ"雷撃機仕様。大戦を通じてイタリア空軍の主力雷撃機であり続け、その高い運動能力で連合軍船団を相手に猛威を振るった。

地中海における船団攻撃で最も多くの戦果を挙げたのは雷撃機部隊である。一方、爆撃機による艦船攻撃も行われていたが、思うように戦果はあがらなかった。その地中海における船団攻撃で活躍したのが、サヴォイアマルケッティ SM.79"スパルヴィエロ"である。このレース機から発展した機体は高い機動性を持ち、爆撃機型/雷撃機型双方で地中海戦線において運用され、多くの戦果を挙げた。後述する「雷撃機エース」の多くは、このSM.79機によって戦果を挙げた。その高い信頼性ゆえに、休戦後のRSI空軍でも使われ、既に旧式化していたが多くの戦果を挙げている。まさしく、イタリアが誇る傑作雷撃機と言えるだろう。

後継機としてサヴォイアマルケッティSM.84が開発されたが、こちらはSM.79に比べて信頼性が低く、逆にSM.79の優秀さを証明することとなった。とはいえ、SM.84も活躍しなかったわけではなく、この機体を愛用する雷撃機エースもいたし、1941年9月27日には英戦艦「ネルソン」に対して雷撃を実行、大破させる戦果を残している。

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FIAT G.55S"チェンタウロ"戦闘雷撃機。FIAT G.55戦闘機の戦闘雷撃機型で、試験運用段階で終了してしまったが、正式採用されればRSI空軍の雷撃機部隊の主装備となっていただろう。素体となっているG.55自体が「イタリア最高の戦闘機」と称される傑作機であるため、通常の空中戦でも戦果が期待出来た。

その他、CANT Z.506B"アイローネ"水上雷撃機カプロニ Ca.314-RA雷撃機FIAT G.55S戦闘雷撃機といった雷撃機が存在した。特に興味深いのはFIAT G.55S戦闘雷撃機で、これは第二次世界大戦時のイタリア最高の戦闘機」とも称されるFIAT G.55"チェンタウロ"戦闘機の雷撃機で、試験段階で終了したが、世にも珍しい戦闘雷撃機だった。RSI空軍において試験運用され、正式採用されれば主力雷撃機として機能するはずであったが、結局間に合わずに試験段階で終了することとなった。

だが、開戦時のイタリア空軍は雷撃機部隊を保有しておらず、英国に比べて雷撃機に関して遅れをとっていた(世界でも早い段階に雷撃機の試作型を作成していたにもかかわらず)。とはいえ、開戦後に新設された空軍雷撃機部隊は雷撃機型に改造されたSM.79を主装備として地中海戦線で猛威を振るい、連合軍艦船にとっては非常に大きな脅威として恐れられたのであった。しかし、その分消耗率も高く、攻撃の際に敵艦に接近するために常に撃墜される危険性を孕んでいた。

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イタリア空軍で最も知られている雷撃機エースであるカルロ・エマヌエーレ・ブスカーリア(Carlo Emanuele Buscaglia)。1942年11月、アルジェリア上空で英空軍のスピットファイアに撃墜された彼は、重傷を負ったものの奇跡的に助かり、捕虜となったが本国では撃墜された段階で戦死認定となっていた。休戦後、共同交戦空軍側で戦うことを条件に解放されるが、米国製新機材の試験飛行時の事故で戦死した。

第二次世界大戦時のイタリア空軍で最も有名な爆撃機エースカルロ・エマヌエーレ・ブスカーリア(Carlo Emanuele Buscaglia)である。彼は約10万トン敵艦船を撃沈し、多くの敵艦船を大破・損傷させる戦果を挙げた(特に英空母「イラストリアス」(23,000トン)を翌年まで航行不能に追い込んだ戦果は大きい)。特に彼の特筆すべき戦果は「6月中旬の戦い」における戦果で、アルベルト・ダ・ザーラ(Alberto Da Zara)提督率いる海軍艦隊(旗艦:軽巡「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」)との共闘のもとで駆逐艦ベドウィン」(2,519トン)を始めとする多くの敵艦船を撃沈し、数多くの戦果を挙げた。これを受け、ブスカーリアは伊軍最高の勲章である金勲章(メダリア・ドロ)をムッソリーニ統帥直々によって叙勲されるという名誉を受けたのである。

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「魚雷の双子(Gemelli del siluro)」と呼ばれた二人の雷撃機エース、カルロ・ファッジョーニ(Carlo Faggioni, 左)とジュリオ・チェーザレ・グラツィアーニ(Giulio Cesare Graziani, 右)。計20万トンもの敵艦船を撃沈する事に成功したが、休戦後は各陣営に分かれて戦った。ファッジョーニはアンツィオ戦で撃墜されて戦死し、グラツィアーニは戦後も空軍に属して空軍中将にまで昇進した。

また、カルロ・ファッジョーニ(Carlo Faggioni)ジュリオ・チェーザレ・グラツィアーニ(Giulio Cesare Graziani)「魚雷の双子(Gemelli del siluro)」と呼ばれた二人の雷撃機エースの戦歴も華々しい。ブスカーリア率いる第281雷撃飛行隊に所属した二人は、地中海で数多くの戦果を挙げ計20万トンもの敵艦船を撃沈することに成功している。また、1943年5月にはジブラルタル港の敵艦船に対して直接雷撃するという大胆な攻撃作戦も行った。1943年9月のイタリア休戦後、イタリアは南北に分かれて内戦化したが、ファッジョーニは枢軸側についたイタリア社会共和国空軍、グラツィアーニは連合国側の共同交戦空軍に付き、"双子"は分かれることとなった。ファッジョーニはRSI空軍の雷撃機部隊を率いてアンツィオ戦で戦死、グラツィアーニはバルカン方面で共同交戦空軍の一員として爆撃任務に従事(グラツィアーニは雷撃機部隊合流前は東アフリカ戦線で爆撃機パイロットとして活躍した)したのであった。

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ファッジョーニ戦死後にRSI空軍の第一雷撃集団を指揮したマリーノ・マリーニ(Marino Marini)。ジブラルタルへの大胆な攻撃作戦を始め、積極的に地中海における艦船攻撃を実行して戦果を挙げた。休戦前は何かと不評であったSM.84を駆り戦果を挙げている。

アンツィオ戦で戦死したファッジョーニの跡を継いで、RSI空軍雷撃機部隊(第一雷撃集団「ブスカーリア」)を指揮したのがマリーノ・マリーニ(Marino Marini)である。休戦前もSM.84雷撃機を駆って第282雷撃飛行隊を率いていた雷撃機エースで、1941年9月27日では英海軍の作戦「ハルバード」妨害のために出撃し、雷撃で英戦艦「ネルソン」(41,250トン)を大破することに成功した人物だ。彼のもとで第一雷撃集団は数多くの戦果を挙げ、前任者のファッジョーニがアンツィオ戦で挙げた戦果を含め計27隻(約115,000トン)もの敵艦船を撃沈するという戦果を挙げたのである。マリーニが指揮した作戦で興味深いものは、1944年6月5日に実行されたジブラルタル攻撃作戦だろう。10機のSM.79雷撃機によって実行されたこの作戦は、ジブラルタル港に停泊する6隻の輸送船を攻撃し、4隻の輸送船(計3万トン)を撃沈し、2隻を損傷させるという大戦果を挙げたのであった。

 

◆急降下爆撃機部隊の活躍

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イタリア空軍急降下爆撃機部隊で使用されたユンカース社のJu-87急降下爆撃機。ドイツを代表する傑作機で、イタリアでは「ピッキアテッロ(変人,変わり者)」という愛称が付けられていた。急降下爆撃機開発で遅れを取るイタリア空軍にとっては非常にありがたい存在であり、輸入機であるため数は少なかったが、少数精鋭の急降下爆撃機部隊は多くの戦果を挙げている。大戦終盤になってくると、ドイツからの戦力の補充が難しくなったことから、消耗した分は国産機で賄われることとなった。

イタリア空軍の急降下爆撃機部隊は少数精鋭ながら数多くの戦果を挙げ、雷撃機部隊に引けを取らない名声を手に入れている。しかし、その成立過程は前途多難であった。戦間期、航空理論家であるアメデーオ・メコッツィ(Amedeo Mecozzi)大佐らの意見やスペイン内戦時に得た教訓によって、他国の空軍同様にイタリア空軍でも急降下爆撃の有効性が認められるようになり、急降下爆撃機開発が開始された。しかし、急降下爆撃機は地上攻撃機の延長と考えられ、本格的には進んでいなかったその結果、開戦時のイタリア空軍は空軍先進国として世界的に見られていたにもかかわらず、ロクな急降下爆撃機保有していない、という事態に直面していた

「イタリア初の急降下爆撃機」であったサヴォイアマルケッティ SM.85によってパンテッレリーア島の第96急降下爆撃航空群が編制されていたが、この急降下爆撃機はその見た目から「翼の生えたバナナ」と呼ばれ、劣悪な性能に加えて、木金混合の機体はパンテッレリーア島の照り付ける強い日光と吹き付ける海風によって事故が多発、たちまち全機が使用不可能になるという悲惨な事態になってしまったのである。

改良型として開発されたSM.86急降下爆撃機も実地試験の結果、Ju-87に勝るところがないと判断され、採用されることはなかった。時の空軍参謀長フランチェスコ・プリーコロ(Francesco Pricolo)将軍はイタリア空軍の急降下爆撃機不足の改善のために、国内企業による生産を諦め、ユンカース社からJu-87"シュトゥーカ"の輸入に踏み切った。これによってレダ社のBa.201カプロニ社のCa.355などの国産急降下爆撃機は開発が中止された。イタリアの急降下爆撃機開発は完全に失敗に終わったが、一方でこの決断の結果、イタリア空軍に新たな精鋭部隊が生まれることになる

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レッジャーネ Re.2002"アリエテ"戦闘爆撃機。新型Ju-87Dの再配備計画がキャンセルされたことによって、急降下爆撃機部隊に配備された。休戦後に残っていた機体は、南部に残っていた機体は共同交戦空軍によって使われたが、北部・中部に残っていた機体はRSI空軍によっては運用されずに、全てがドイツ空軍に接収されて独空軍で運用されている。

大戦も終盤になってくると、急降下爆撃機部隊は新型Ju-87Dの再配備計画がキャンセルされたことによって、国産の機体が導入されることになった。そこで活躍したのがレッジャーネ Re.2002"アリエテ"戦闘爆撃機である。Re.2002は単座戦闘機としても敵戦闘機と互角に戦える優秀な機体で、更に頑丈な機体として評価も高かった短い期間ながらRe.2002はイタリア防衛戦において敵上陸艦隊に対して多くの戦果を挙げており、戦艦「ネルソン」に大きな損傷を与えたことでも知られている。また、Re.2002の陰に完全に隠れた存在であったが、IMAM Ro.57bis戦闘爆撃機も急降下爆撃機として運用され、イタリア防衛戦で敵上陸艦隊に攻撃を行った。

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イタリア空軍最高の急降下爆撃機エースとして知られる名パイロット、ジュゼッペ・チェンニ(Giuseppe Cenni)。スペイン内戦では戦闘機パイロットとして8機の個人撃墜スコアを達成し、更に第二次世界大戦では急降下爆撃機パイロットに転身して艦船攻撃を実行、多くの敵艦を撃沈するなど、イタリア空軍のパイロットの中でも特に「天才」と言える人物である。また、彼は空軍理論家でもあり、所謂「スキップ爆撃」の実用化に成功した人物でもあった。

Ju-87(イタリアでは「ピッキアテッロ(変人, 変わり者)」と呼ばれた)を導入したイタリア急降下爆撃機部隊は艦船攻撃で大きな活躍を見せた。そのパイロットの中で最も広く名が知られている人物は、やはりジュゼッペ・チェンニ(Giuseppe Cenni)だろう。チェンニはイタリア空軍最高の急降下爆撃機エースとして知られる人物で、元々は戦闘機エースとしても知られており、スペイン内戦では約3カ月の間で個人撃墜スコアは8機、共同撃墜は13機を撃墜するという戦果を挙げていた。急降下爆撃機エースとして知られる20代の若き天才は、優れた空軍理論家としても知られ、所謂「スキップ爆撃(反跳爆撃)」の実用化に成功した人物でもあった。

イタリア空軍の急降下爆撃機部隊はまず機体の絶対数が不足していたため、より効率的に戦果を挙げるためにもチェンニが実用化した「スキップ爆撃」が最も効果的であると考えられたのだ。パイロットの飛行技術に左右される非常に難しい方式であったが、1941年4月~12月にかけてチェンニは計10隻(計16,415トン、軍艦7隻・輸送船3隻)もの艦船を撃沈することに成功している。マルタ包囲戦では軽巡「カイロ」(4,190トン)を損傷(その後、伊潜水艦「アクスム」の雷撃で撃沈)させ、計6隻(軍艦2隻・輸送船4隻)敵艦船を撃沈したが、英空軍戦闘機の追撃を受けるなどして消耗率も激しく、数多くの戦死者を出す結果となった。

消耗の激しさの結果、一度本土に引き上げられたチェンニであったが、その後、Re.2002の導入によって再度戦場に向かい、イタリア防衛戦で戦果を挙げたシチリア防衛戦では輸送船「タランバ」(8,010トン)を撃沈し、モニター「エレバス」(8,450トン)に直撃弾を与えて大破させる戦果を挙げている。休戦直前となったベイタウン作戦(連合軍によるレッジョ・カラブリア上陸作戦)では、上陸艇4隻(計1,400トン)を撃沈するのみならず、上陸した敵部隊に対する機銃掃射も行ったが、連合軍機にチェンニは撃墜され、その波乱に満ちた生涯を終えたのであった。

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フェルナンド・マルヴェッツィ(Fernando Malvezzi)。大戦前半は急降下爆撃機エース、大戦後半は戦闘機エースとして活躍した人物。休戦後はRSI空軍に合流し、第三戦闘航空群「フランチェスコ・バラッカ」を指揮したが、再訓練中に欧州戦線は終結した。

後に戦闘機パイロットに転向し、エースパイロットとして知られるようになるフェルナンド・マルヴェッツィ(Fernando Malvezzi)急降下爆撃機パイロットとして艦船攻撃で活躍している。彼の戦果で最も重要なものは軽巡洋艦サウサンプトン」(11,350トン)の撃沈であろう。1941年1月10日、マルヴェッツィ率いる第236飛行隊はマルタ東部沖の中部地中海にて、英海軍のタウン級軽巡洋艦サウサンプトン」への攻撃を実行、マルヴェッツィとその僚機であるマッツェイ曹長(Sergente Maggiore Mazzei)ジャンピエロ・クレスピ軍曹(Giampiero Crespi)のJu-87"ピッキアテッロ"が250kg爆弾を次々と命中させ、サウサンプトン」の撃沈に成功したのである。マルヴェッツィはその後のトブルク港攻撃作戦での被撃墜(不時着し生還)を機に戦闘機パイロットに転向するが、部下のマッツェイとクレスピはそのまま急降下爆撃機パイロットを続け、特にクレスピはIMAM Ro.57bis戦闘爆撃機を駆り、シチリア防衛戦で連合軍上陸艦隊への急降下爆撃任務を敢行、敵艦船に損害を与えることに成功した。

 

イタリア空軍は1940年から43年の間計72隻連合軍の軍艦と、計196隻輸送船を撃沈し、休戦後もRSI空軍雷撃機部隊は計27隻(約115,000トン)もの敵艦船を撃沈するという戦果を挙げた。今回紹介したのは雷撃機部隊と急降下爆撃機部隊であったが、少なからず爆撃機部隊も艦船攻撃で戦果を挙げている(とはいえ、やはり爆撃機部隊が真価を発揮したのは地上基地・拠点や地上部隊に対する攻撃においてであった)。また、イタリア空軍は地中海のみならず、紅海においても艦船攻撃で戦果を挙げている。この際に活躍したのはアトス・マエストリ(Athos Maestri)カプロニ Ca.133偵察爆撃機部隊であった。旧式ながらCa.133は信頼性が高い万能機として戦場に貢献したのである。

映像作品(映画・ドラマ)で見るイタリア軍の将軍たち

第二次世界大戦時のイタリア軍を描いた映画は数多くあるが、やはり一兵卒が主人公の場合が多く、将軍たちがメインで出てくる作品はそんなに多くはない。今回は、そんな中で、調べうる限り史実の将軍たちが出てくる映画・ドラマを探し、それらをまとめてみた。以下はその表である。

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『映像作品で見るイタリア軍の将軍たち』

今回は10の作品に登場する、10人の史実の将軍たちを作中の描かれ方と史実ではどのような功績を残した人物だったのかを紹介しよう。

 

◆ロドルフォ・グラツィアーニ

(Rodolfo Graziani)

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ロドルフォ・グラツィアーニ(Rodolfo Graziani)

グラツィアーニ元帥はバドリオ元帥と並ぶファシスト政権期におけるイタリア軍部の重要人物だ。植民地戦争や植民地統治ではその苛酷な手段で現地人に恐れられ、「現地人の破砕者」という異名も付けられている。ド鬼畜。リビア再征服での悪名高い手法としては、「抵抗を続ける首長の手首を縛って飛行機からその居住地域に突き落とす」というえげつないことをしている。しかし、彼の迅速で強引な作戦によって、オマル・ムフタール率いるリビア叛乱軍は壊滅し、リビア植民地は平定に向かった

エチオピア戦争では南部戦線を指揮し、1日30km以上も「捕虜を一切とらない」攻勢を行ったことで知られる。航空機や戦車といった近代兵器を戦争に積極的導入をすることを推進した、軍事戦略の先駆者であったが、その「実験台」とされたのがリビアエチオピアの人々であった。戦争終結後はエチオピア副王となり、恐怖政治でエチオピアを支配し、若いインテリの組織的な抹殺やムスリム兵による正教会聖職者虐殺を実行した。その苛酷な統治が祟って1937年2月には暗殺未遂事件が発生したが、さらに苛酷な統治を行う結果となり、報復としてアディスアベバで「エチオピア人に対する三日間の自由な略奪」をMVSNに許可した。このような苛酷な植民地支配によってイタリアは終始反乱に悩まされ、15万人から25万人に駐留軍を増援することとなった。要するに、軍人としては優秀だが、植民地統治者としては無能としか言わざるを得ない。

第二次世界大戦のイタリア参戦時には陸軍参謀長の立場にあり、撃墜死したバルボ空軍元帥の後任としてリビア総督に就任、エジプト侵攻を指揮した。グラツィアーニは軍需物資の供給がないことや、インフラが脆弱であることから侵攻には反対していたが、ドイツのゼーレーヴェ作戦発動に焦る統帥の命令から侵攻を開始した。結局、イタリア軍部隊は英軍の反攻作戦によって敗北し、その無謀な作戦計画の責任を取らされる形でグラツィアーニは辞任した。グラツィアーニとしては、自らの増援要請を拒否された結果この仕打ちであるため、不憫である。自らの計画を拒否されたにもかかわらず、ギリシャ戦線での失敗の責任を取らされたバドリオとは似通うものがある。しかし、バドリオとは異なり、ファシスト政権への忠誠は失わなかった

グラツィアーニは休戦後、RSI政権(イタリア社会共和国)に合流し、国防相に任命された。グラツィアーニは国王とバドリオの「裏切り」を厳しく非難し、共和国軍の創設に尽力している。こうして編成された新生ファシスト共和国軍は勇敢に戦い、多くの戦果を挙げた。ナチの傀儡政権に過ぎなかったRSI政権であるが、絶望的な状況にあるにもかかわらず一定の戦果を挙げたRSI軍は高く評価されるべきだろう。グラツィアーニも「必ずや再びローマ進撃を成し遂げるだろう」と激励したが、共和国軍に戦局を変えるほどの力はなかった。1945年4月27日正午、コモ湖南部のチェルノッビオ司令部がパルチザンによって包囲され、遂にグラツィアーニは降伏した。

グラツィアーニは29日夕方、ミラノ東方のゲーティにて米軍の第四機甲軍団司令官クリッテンバーガー将軍の前で降伏文書に署名した。それから数日後、フィレンツェのラジオを通じてグラツィアーニはRSI軍に最後の令達を放送したのであった。戦後は戦犯として逮捕され、1950年の軍事裁判で19年の禁固刑に処されたが、トリアッティ法相の恩赦で同年8月には釈放となった。その後はネオ・ファシスト政党「イタリア社会運動(MSI)」に参加している。

◇映画『ブラック・シャツ(原題:Mussolini ultimo atto)』のグラツィアーニ

演:ロドルフォ・ダル・プラ(Rodolfo Dal Pra)

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映画『ブラック・シャツ(原題:Mussolini ultimo atto)』のグラツィアーニ

映画『ブラック・シャツ(原題:Mussolini ultimo atto)』では、イタリア社会共和国(RSI政権)国防相時代のグラツィアーニ元帥が登場する。つまりは、第二次世界大戦末期のグラツィアーニだ。先述した通り、第二次世界大戦開戦時に陸軍参謀長であったグラツィアーニはエジプト作戦の失敗の責任を取らされて解任されたが、大戦末期にRSI政権が成立すると国防相に任命され、RSI全軍の指揮を執り、軍の再建に尽力した。

この映画では、RSI政権崩壊からムッソリーニパルチザンに殺害されるまでが描かれているが、そのRSI幹部としてグラツィアーニが登場する。ロドルフォ・ダル・プラ氏が演じるグラツィアーニは、まるで本人が蘇ったかのように本人そっくりである。映画を見るとグラツィアーニを知っている人であれば驚くことだろう(しかも名前のロドルフォまでも同じである)。グラツィアーニの他、フランチェスコ・マリーア・バラック官房副長官など、他のRSI高官も中々の再現度である。RSI好きは見て損はない。

映画『ブラック・シャツ』は原題は"Mussolini Ultimo atto"で、1974年公開の映画だ。日本ではVHSで発売されているが、現在は入手が困難であろう。DVDはイタリア語版であれば手に入りやすいが、字幕はない。

◇映画『砂漠のライオン(原題:Lion of the Desert)』のグラツィアーニ

演:オリヴァー・リード(Oliver Reed)

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映画『砂漠のライオン(原題:Lion of the Desert)』のグラツィアーニ

映画『砂漠のライオン(原題:Lion of the Desert)』では、戦間期リビア再征服時のグラツィアーニが登場する。グラツィアーニにとって、戦間期において初の名声を手に入れる、つまりは彼が「ファシスト・イタリアの英雄」になっていく土台となった戦いを描いた。とはいえ、この作品は主にリビア叛乱軍側であるオマル・ムフタールら側の目線で描かれているため、グラツィアーニは「冷酷な悪役」として描かれている

というのも当然であり、グラツィアーニがリビア再征服で行った史実の行為はかなりえげつなく、映画でもそれが再現されている。国境線を封鎖して補給線を断ったり、残酷な報復、航空機や戦車など近代兵器を用いた制圧作戦、現地民を収容所にぶち込んで餓死者続出などなど、計り知れない。作中では描かれなかったが、反抗を続ける首長の手足を縛って飛行機からその首長の領地に突き落とす、ということもしている。

このグラツィアーニを演じるのは英国人の俳優オリヴァー・リード。ただ、やってることは史実そのままだが、立ち振る舞いなどを考えるとそんなにグラツィアーニっぽくない、というか「悪役さ」を強調し過ぎて偉そうな感じになっている。まぁ史実でこんな行いをするのだから、そういった扱いになるのは当然だが。

なお、この『砂漠のライオン』はイタリアでは「イタリア軍の名誉を傷つけている」とされて放送が禁止されており、しかも逆にリビアでは時の独裁者カッザーフィー大佐が資金援助しており、撮影もリビア領内で主に撮影されている。リビアによる反イタリア映画とも取れるが、そもそも史実で同様の行いをしているイタリア側に反論の余地はない。とはいえ、作品としての出来は良く、中々アクション性も高い

 

エミーリオ・デ・ボーノ

(Emilio De Bono)

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エミーリオ・デ・ボーノ (Emilio De Bono)

第一次世界大戦で武勲を挙げた将軍で、ファシスト党終身最高幹部である「クァドルンヴィリ(所謂ファシスト四天王)」の一人。現役のまま戦闘ファショの武装部隊に参加したため、軍規違反で現役を解除された。ファシスト政権成立後、警察長官、MVSN総司令官を務め、軍人として陸軍とファシストの仲介者となった。1925年にはマッテオッティ事件に関与したとして警察長官を解任されている。

その後、1925年7月にはトリポリタニア総督、1929年9月には植民地相となり、リビアの抵抗運動鎮圧も経験した。エチオピア戦争が勃発すると、遠征軍総司令官として任命されるが、エチオピア戦争勃発時は69歳の高齢であった。軍人としては古い固定観念を持ち、「戦闘には騎兵は不可欠で、歩兵は歩いて行進すべきだ」と主張し、近代戦の障害とさえ言われている。更に、「危険に喜びを感じないような計算づくの人間は危険である」というファシスト理念を持っていたため、彼の育てた狙撃兵団(ベルサリエーリ)は見境なく危険に飛び込むので悪評だった。

また、彼の植民地戦争の遂行方法は、道路や兵站基地を建設しながら現地勢力を懐柔し、不可避な場合のみ戦闘を行うという伝統的なもので、即決勝利が求められる全面戦争には不向きであった。軍の侵攻はアドゥアでの勝利の後、インフラ整備のために完全に停止している。なお、ティグレ占領時、デ・ボーノは「文明の使節」として奴隷解放宣言を行ってエチオピアの奴隷を解放しているが、彼ら解放奴隷に何らかの具体的支援はなされなかった。国際連盟からの経済制裁によって事実上の時間制限が課されたエチオピア戦では彼の慎重さはデメリットでしかなく、ムッソリーニからは進軍を促す電報が多い時で一日に百通も送られた。戦争の早期解決を望むムッソリーニによって解任され、後任には参謀総長であったバドリオが就任した。興味深いことに、司令官解任後のデ・ボーノはエチオピア側に対して同情的な意見を述べている。

第二次世界大戦にイタリアが参戦すると、1940年には南部方面軍司令官に任命され、シチリア防衛を担当したが、当時74歳の高齢であり、他のどの将軍たちよりも高齢であった。1943年のグランディ決議にはムッソリーニが国王に軍事指揮権を返還し、統帥を続けるという認識で解任に賛成票を投じた。このため、RSI政権が成立すると彼は逮捕され、1944年のヴェローナ裁判においてチャーノらと共に死刑が決定された。元帥でもある老人を銃殺することは異論も出されたが、結局処刑され、死亡した。

◇ドラマ『エッダ(原題:Edda)』のデ・ボーノ

演:マーク・フィオリーニ(Mark Fiorini)

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ドラマ『エッダ(原題:Edda)』のデ・ボーノ

ドラマ『エッダ(原題:Edda)』では、1943年のファシズム大評議会、すなわち、ムッソリーニ解任動議の時以降のデ・ボーノが登場する。このドラマはガレアッツォ・チャーノとエッダ・ムッソリーニ(ガレアッツォの妻でムッソリーニの長女)を主人公として描いているが、そのチャーノと共に処刑された人物の一人がデ・ボーノ元帥である。

ファシスト党終身最高幹部(クァドルンヴィリ)の一人であり、ローマ進軍時からの古参であったデ・ボーノは、この大評議会でグランディによるムッソリーニの解任動議に賛成し、後々RSI政権に逮捕されて処刑された。マーク・フィオリーニ演じるデ・ボーノは処刑までに兵士に手を引かれたり、その老衰具合がよく再現されている。

『エッダ』に登場する歴史人物は総じて再現度が高く、特にチャーノ、デ・ボーノ、グランディ、マリネッリあたりはそっくりである。2005年にイタリアで放送された歴史ドラマだが、ファシスト政権期の、しかも体制側の人物が主人公であるにもかかわらず、視聴率35%以上という数値を記録している人気ドラマだった。チャーノとエッダの人間的なメロドラマと悲劇的展開が視聴者の心を掴んだのだろうか?

 

◆ピエトロ・バドリオ

(Pietro Badoglio)

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ピエトロ・バドリオ (Pietro Badoglio)

グラツィアーニ元帥と並ぶ、ファシスト政権期のイタリア軍の最重要人物ファシスト政権期、1925年から1940年まで統合参謀総長を務めた人物であるが、第二次世界大戦時に生じたムッソリーニとの確執から、王党派のクーデターに加わり、ムッソリーニ失脚後は自ら軍事政権を組織し、連合国側と休戦した。そのため、日本での評価は「バドリオ=裏切者」というイメージが強いが、それはあくまで一面的である。

バドリオは狡猾な世渡り上手だった。1919年8月、副参謀総長就任後、ダンヌンツィオのフィウーメ占領事件が発生。この際、バドリオは国民的英雄詩人であるダンヌンツィオを直接刺激せず、封鎖状態を長期化させることで巧妙に内部崩壊へと誘導した。ファシスト政権成立後、反ファシスト的な人物だとしてムッソリーニによって1925年までブラジル大使として左遷されるが、軍とファシスト政府の隙間を埋めるため1925年5月には参謀総長に就任し、事実上の政治的亡命期間が終了。これによって、完全にバドリオは体制派となった

さらに第一次世界大戦時の武勲から元帥となった彼は、1929年1月にはトリポリタニアキレナイカ総督となり、リビア人抵抗運動の徹底的弾圧を実施した。この時、副総督としてリビア再征服を共に指揮したのが、かのグラツィアーニ将軍である。ベドウィン強制収容所送りにし、約10万人を餓死・病死させて抵抗運動を終結させた。こうしてリビア平定を終わらせることによりイタリアは新たな膨張に向かうことが可能になったのである(何故か映画『砂漠のライオン』ではバドリオは登場しない)。

バドリオは欧州での戦争勃発を恐れ、対英戦の回避を繰り返し進言するのと並行し、フランスとの対独軍事計画の秘密協定を締結させた。またブラジル左遷時に仲を深めたフランスのガムラン将軍と協議を行い、伊仏協力を再確認したうえでエチオピア戦争に臨んだ。デ・ボーノの解任によって、エチオピア遠征軍総司令官に就任。当初はデ・ボーノの戦争計画をそのまま踏襲したが、グラッツィアーニの進軍開始によってライバル心が刺激され、迅速な進撃を開始し、毒ガスの集中使用や無差別爆撃といった手段を選ばない方法でエチオピア軍を殲滅し、首都アジスアベバを陥落させている。戦後、バドリオは東アフリカ総督・エチオピア副王に就任するが、ほどなく反乱の勃発によりその職をグラッツィアーニに譲った。このため、グラツィアーニと並び、バドリオはリビアエチオピアの人々からは恐れられた人物であった。

第二次世界大戦では開戦時から陸軍参謀総長であったが、ギリシャ戦の泥沼化の責任を取らされ、カヴァッレーロにその座を譲って解任された。なお、1941年には空軍パイロットであった息子パオロが北アフリカ戦線で撃墜され戦死、程なく1942年には最愛の妻ソフィアも失くし、悲しみにくれていた。1943年7月にはグランディ決議で解任されたムッソリーニに替わって、国王の指名を受けて後任の首相となった。しかし、水面下で行っていた連合軍側との休戦交渉が上手くいかず、結局休戦後にイタリア半島の大半がドイツ軍の占領下に置かれ、そしてイタリアはバドリオ政府と北部・中部の「イタリア社会共和国」に分裂、内戦化する事態となってしまった

◇映画『元年(原題:Anno uno)』のバドリオ

演:ニコラ・モレッリ(Nicola Morelli)

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映画『元年(原題:Anno uno)』のバドリオ

映画『元年(原題:Anno uno)』イタリア共和国初代首相であるアルチーデ・デ・ガスペリの生涯を描いた作品である。監督はイタリアの巨匠ロベルト・ロッセリーニ監督。時代としては1944年から1954年までの10年間に焦点を当てている。ニコラ・モレッリ演じるバドリオ元帥が登場するが、ファシスト政権期を代表する人物であるにもかかわらず、バドリオが出てくる映画というのは極端に少ない。なお、このモレッリ氏は俳優でありながら、作家や古銭収集家としての側面を持つ人物でもあった。

 

◆エットレ・バスティコ

(Ettore Bastico)

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エットレ・バスティコ (Ettore Bastico)

バスティコ将軍は第二次世界大戦時の北アフリカ戦線の指揮官として知られている人物である。北アフリカ軍団のロンメルと比較されることで、対照的に低く評価されがちな彼であるが、その評価は正しくない。また、彼は第一次世界大戦後から軍事関係の執筆家として活動している。軍の再編について積極的に議論を交わし、1924年には全三部冊で『兵法の発展(L'Evoluzione dell'Arte della Guerra)』という本を出版した。この本の第三部にはこれから発展するであろう新兵器の戦車の運用も指摘されており、彼が先進的な戦術家であったことがわかるだろう。

エチオピア戦争では当初はデ・ボーノ将軍のもとで第一黒シャツ師団「3月23日」の師団長として、その後、新司令官バドリオ将軍のもとでエチオピア遠征軍の第三軍の指揮を任せられ、戦場で多くの戦果を挙げていった。有名なものは、アンバ・アラダムの戦い(エンデルタの戦い)と、第二次テンビエン会戦において、勝利に決定的な貢献をした戦果である。特に第二次テンビエン会戦では、ラス・カッサ将軍率いるエチオピア帝国軍を包囲し、帝国軍部隊を壊滅させる大戦果を挙げた

スペイン内戦ではロアッタ将軍がグアダラハラの大敗でCTV部隊司令官を解任された後、後任の新司令官として赴任し、CTV部隊の再編制を行い、立て直しを図ったここでの手腕は高く評価され、バスティコのもとで上手く立て直したCTV部隊は国粋派の勝利に貢献していき、一度は地に落ちたフランコ側のイタリア軍への信頼も、ビルバオ攻略戦などにおける戦果によって再び取り戻していったのである。特に、1937年8月~9月に起こったサンタンデールの戦いだ。バスティコ率いるCTV部隊はこのサンタンデールでの戦勝に決定的な役割を果たした。このサンタンデールの勝利は共和国側に大きな打撃を与え、国粋派の勝利に大きく貢献することとなったのである。スペイン側から高く評価され、フランコもこの武功からバスティコに戦功十字章を叙勲した。

サンタンデール制圧後、共和国政府側についていたバスク自治政府の要人たちはサントーニャ港とラレドの町に集結し、バスティコ率いるイタリア軍に降伏した。これに対して、バスティコはバスク側との降伏協定に基づき、バスクの政治家など難民多数を英国船籍の貨客船に収容、国外への移送を認めた。しかし、フランコ率いる国粋派の軍艦が入港し、難民らに下船命令を出し、更にフランコがイタリア側に強硬にバスク難民の引き渡しを要求した。国粋派側は先の降伏協定を尊重すると約束したために、バスティコは仕方なく要求に応じて難民を国粋派側に引き渡したが、フランコは略式裁判で数百人の引き渡されたバスク難民を処刑したのである。

これに対し、バスティコは激怒してフランコに対して激しく抗議、イタリアの名誉にかかわると非難したが、フランコは真面目に取り合わずにムッソリーニに対してバスティコの更迭を要求。ムッソリーニフランコの行動に対して怒ったが、これに応ずるほかはなく、結局バスティコはCTV部隊の司令官を解かれ、後任のベルティ将軍に任せ、イタリアに帰国することとなったのである。フランコ側のこの行動は長い間バスクの人々に抜きがたい怨恨と不信感を植え付けることとなった。バスティコとしては武勲を挙げたにもかかわらず、不当な理由で解任されることとなったのである。

第二次世界大戦にイタリアが参戦すると、ギリシャ作戦の失敗を受けてエーゲ海総督デ・ヴェッキが辞任し、その後任としてバスティコが新総督に就任した。エーゲ海総督としてのバスティコの主な仕事は、エーゲ海に浮かぶ大小12の島々を英軍やギリシャ軍から防衛する事だった。1941年2月、英海軍上陸部隊が密かにこの1つである最東端のカステルロッソ島(現ギリシャ領カステルリゾ島)に上陸し、占領下に置いた(アブステンション作戦)。しかし、バスティコは速やかにこれに対応し、イタリア軍守備隊の激しい反撃と陸海空軍による迅速な対応によって英軍を撃退し、防衛に成功している。その後もエーゲ海諸島での沿岸防衛を強化し、休戦まで敵軍の上陸を許さなかった。また、同時にギリシャ領のキクラデス諸島を始めとするエーゲ海の島々を上陸・制圧し、これらも伊領エーゲ海諸島に組み込んでいる。更に、エーゲ海諸島は空軍と海軍の重要な基地として使われ、中東油田爆撃やエーゲ海・東地中海における通商破壊作戦の中心基地として機能した。

1941年7月には、ガリボルディ将軍の後任としてリビア総督に任命され、北アフリカ戦線に派遣されたこの地でバスティコはロンメルと共に時に互いにいがみ合いながらも共闘し、ロンメルの独断専行な戦い方を、時にバスティコが軌道修正しながら戦果を挙げていった。バスティコ自身もロンメルと仲が悪かったが、それよりも幕僚のガンバラ将軍が極めてロンメル犬猿の仲であり、二人の喧嘩をバスティコが止めることもあったという。戦局は枢軸側に傾き、遂にエジプト再侵攻を行ったが、バスティコ自身もロンメルの無鉄砲な作戦に付き合わされ、参謀本部側との板挟みになっていたために、ロンメルとの仲が更に険悪になっていった。

しかし、バスティコが主張していたマルタ島制圧よりエジプト制圧が優先されたことで、彼が総司令官を務める北アフリカ総司令部はリビア総司令部に指揮系統が変更され、リビアの軍事のみを管轄することとなったのである。つまりは、バスティコは事実上、北アフリカの枢軸軍総司令官から退き、完全にリビア総督としての役割のみを果たすようになったのである。同時にバスティコは元帥に昇進となったが、事実上、形式上の北アフリカ戦線の司令官に落ちぶれてしまったのである。

結局、陥落寸前であったマルタ島攻略が棚上げされたことで英軍は再び息を吹き返し、エル・アラメインでの敗北によって北アフリカ戦線の命運は明らかとなった。結局、バスティコにとっては、自らの主張も退けられ、信頼していた統帥にも裏切られ、そして自らの与り知らぬところで行われたエル・アラメインで枢軸軍は敗北し、北アフリカ戦線は壊滅する事態となったのである。今までロンメルの独断専行な戦術についても、バスティコが補正をする形で作戦は成功していったが、エル・アラメインではその補正をする役割の人間がいなかったために失敗したとも受け取れるのだ。

既に命運が決まった北アフリカ戦線に未来はなかった。1943年が始まる頃には、北アフリカ戦線は四方八方から迫りくる連合軍によって、完全に崩壊していた。こうして、1943年1月23日には、リビアの首都トリポリが遂に陥落してしまった。これをもってして、イタリア領リビアは事実上壊滅したのである。バスティコ元帥はこれを受けて、1943年2月をもってリビア総督の職を解かれ、実権の無い「名誉リビア総督」という地位が与えられ、軍の指揮からも解かれてイタリアに帰国した。

1943年2月にイタリアに帰国したバスティコは、もはや軍務につくことはなかった。1943年9月の休戦以降、北部のイタリア社会共和国(RSI政権)にも、南部の王国政府にも協力せず、ドイツのローマ侵攻後はローマの町に潜伏し、1944年6月のローマ解放の日まで隠れて過ごしていた(形式上は王国軍元帥のまま)。1945年、正式に予備役となり、歴史の表舞台から完全に姿を消した。

戦後のバスティコは、かつてのように軍事史家として活動し、更に文芸活動にも積極的に参加した。1956年には国際軍装史学協会の責任者となり、この地位を1972年まで務めた(辞任の理由は老齢であったため)。博物館の創設や国際展示会の開催、そして研究活動で多くの功績を挙げた。1957年には時のイタリア大統領、ジョヴァンニ・グロンキからイタリア共和国功労勲章を与えられた。なお、グロンキはムッソリーニ政権初期に産業省次官を務めている。これは、彼が最後に叙勲された勲章だった。こうして96歳まで生きたバスティコは、1972年にこの世を去った。王族であるウンベルト2世を除けば、最も長生きしたイタリア軍の元帥だった。

◇映画『砂漠の戦場エル・アラメン(原題:La battaglia di El Alamein)』のバスティコ

演:マンリオ・ブゾーニ(Manlio Busoni)

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映画『砂漠の戦場エル・アラメン(原題:La battaglia di El Alamein)』のバスティコ

映画『砂漠の戦場エル・アラメン(原題:La battaglia di El Alamein)』では、北アフリカ戦線時のバスティコ将軍が登場する。作中冒頭ではバスティコとロンメルの作戦会議シーンがあり、この時、バスティコはドイツが石油を供給するという約束を守っていないので、イタリア主力艦隊が燃料不足で出撃出来ずに輸送船が英軍の攻撃でボコボコにやられていると言っているが、実際もそうであった。それに対して、ロンメルは「中東の油田さえとれば何とかなる」と反論しているが、結局この判断の誤りが後の大敗を生むことになる。このように、両者の対立もよく描かれている

『砂漠の戦場エル・アラメン』は所謂「マカロニ・コンバット」と呼ばれるイタリア戦争映画で、舞台設定は北アフリカ戦線のエル・アラメインの戦い、そして主人公はこの戦いで武勲を挙げた空挺師団「フォルゴレ」の兵士たちである。この映画には、史実の将軍たちも多く出てくるイタリア軍だとバスティコ元帥、ドイツ軍ではロンメル元帥を始めとして、シュトゥンメ将軍、バイエルライン将軍、フォン・トーマ将軍、更にロンメルが一時帰国した際のシーンではカナリス提督も出てくる。英軍ではオーキンレック将軍とモントゴメリー将軍が出てくる。モントゴメリー将軍役の俳優はやたら似ている。将軍たちの人間ドラマも面白い。これも見どころの一つ。あと、実際に第二次世界大戦時に将軍だったジュゼッペ・カステッラーノ将軍が脇役で出演しているらしい。

 

◆ジュゼッペ・ダオディーチェ

(Giuseppe Daodice)

ダオディーチェ将軍はアフリカ植民地での戦いで武勲を挙げた将軍であるが、ファシストで熱心な王党派として知られていた。貴族出身であった彼は両親によって神学校に入らされたが、後にこれに嫌気がさして軍人への道を目指し、士官学校に入学した。騎兵中尉となったダオディーチェは伊土戦争に出征し、トリポリタニアキレナイカの戦いで武勲を挙げ、第一次世界大戦では重傷を負いながらも多くの戦果を得た。

ファシスト政権成立後、彼はファシズムに懐疑的であったが軍人としての道を続けた。しかし、政権に敵対的とみられ、ポルトガルブダペスト駐在武官として派遣されたが、これは事実上の左遷であった。その後、エチオピア戦争ではバドリオの副官として数々の戦いを指揮し、戦後はグラツィアーニ総督のもとで植民地を運営した。グラツィアーニの残虐な統治法とは対照的に、エリトリア知事としてインフラ建設など生活環境の向上に力を注ぎ、同植民地を発展させた。彼のもとで、首都アスマラは「ピッコラ・ローマ」と呼ばれる繁栄を見せている。

第二次世界大戦時は東アフリカ戦線でアディスアベバ知事を務め、帝都防衛の指揮をとったが、最終的に連合軍の攻撃によって戦線が不利になってくると、義理の兄であったフランジパーニ侯爵に後任を任せ、航空機で本国に召還された。帰国後、准将から少将に昇進したが、軍を退役して隠居している。また、上院議員にも選ばれた。ムッソリーニ失脚後、反ファシズムの意思を露わにしたダオディーチェであったが、休戦でドイツ軍がイタリア半島に流れ込んでくると、南部への避難を余儀なくされた。

◇映画『砂漠のライオン(原題:Lion of the Desert)』のダオディーチェ大佐

演:ラフ・ヴァローネ(Raf Vallone)

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映画『砂漠のライオン(原題:Lion of the Desert)』のダオディーチェ大佐

映画『砂漠のライオン(原題:Lion of the Desert)』にはディオデーチェ大佐(Diodiece)という人物が登場するが、名前的にも彼はダオディーチェ将軍の大佐時代がモデルと考えていいだろう。なお、Diodieceはイタリア語風に読むならば「ディオディエーチェ」になるが。リビア再征服において、リビア叛乱軍側のオマル・ムフタールらに対して同情的な人物として描かれており、「悪役」として描かれているイタリア軍の"良心"となっている。映画だとよくある人物だろう。

ただ、史実のダオディーチェ大佐は伊土戦争ではオスマン帝国軍相手にリビアで戦っているが、リビア再征服には参加していない。また、グラツィアーニの副官として植民地運営にかかわったが、それはエチオピアでのことである。おそらくは、ダオディーチェが反ファシストであり、植民地運営においても悪名高いグラツィアーニとは対照に、生活環境の改善に尽力したことから、その要素を入れた「イタリア軍の"良心"」としてディオデーチェ大佐が作られたと考えられる。

彼を演じるのはイタリアの名俳優として知られるラフ・ヴァローネ。なお、彼は俳優であるが戦前はプロサッカー選手として知られており、特に古豪トリノFCでエース選手として活躍した経験を持っていた。また、南部のトロペーア出身でありながら、戦時中は共産党系のパルチザンとしてナチ・ファシストと戦った人物でもある。

 

◆ラッファエーレ・カドルナ

(Raffaele Cadorna)

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ラッファエーレ・カドルナ (Raffaele Cadorna)

ラッファエーレ・カドルナ将軍は、高名な軍人一家カドルナ家に生まれた若き将軍である。祖父は1870年の教皇領ローマへの侵攻作戦を指揮したラッファエーレ・カドルナ将軍(名前が同じ)で、父は第一次世界大戦中盤までイタリア軍参謀総長を務めたルイージ・カドルナ将軍であった。そんな彼は第二次世界大戦時にはローマ防衛司令官を務め、ムッソリーニにも深く信頼される優秀な軍人であったが、休戦と同時に反ファシストであったことから地下に潜伏し、連合軍に公式に承認されたレジスタンス組織「CVL」の総司令官として、ナチ・ファシストとの闘いの総指揮をとった

軍人一家の出らしく、若くして騎兵となったラッファエーレ・カドルナの初陣は伊土戦争であった。リビアの前線で戦い抜いた彼は、第一次世界大戦時では参謀総長であった父ルイージの補佐官となる。ファシスト政権が成立すると、彼は明確に反ファシストであることを主張したために、ドイツやチェコ駐在武官として左遷させられる。エチオピア戦争に関しては反戦運動を展開し、ファシストと対決姿勢を示した

しかし、第二次世界大戦が開戦すると、優秀な戦略家であったことを買われ、反ファシストでありながらもフランス戦での指揮を任せられ出征し、その後ピネローロの騎兵学校の校長に任命されている。その後、首都ローマの防衛軍司令官も務め、再編された機甲師団「アリエテII」の師団長として同師団の指揮を執った。1943年の休戦でドイツ軍がイタリア半島に侵攻を開始すると、ラッファエーレ・カドルナは「アリエテII」師団を率いて抵抗するが、敗北。地下に潜伏し、レジスタンス運動を開始する。同師団副司令官であったフェヌッリ将軍も共に解放運動に参加したが、後に部下の裏切りでドイツ当局に逮捕され、アルデアティーネで殺害された。

ラッファエーレ・カドルナが組織化したレジスタンス「CVL」はボノーミ政府及び連合軍側の承認を受けて正式な解放軍となった。こうして、RSI政権支配下となっていた北イタリアに空挺降下したラッファエーレ・カドルナは、RSI政権の事実上の首都であったミラノに潜伏し、CVL本部を設置し、抵抗運動を本格化させた。CVLはナチ・ファシストへの攻撃作戦だけでなく、情報収集や諜報活動、他パルチザンへの支援、反ファシストプロパガンダ放送などを行っている。こうしてレジスタンス運動を組織化し、イタリアの解放に尽力したラッファエーレ・カドルナは戦後、イタリア共和国キリスト教民主主義上院議員となった。

◇映画『ブラック・シャツ(原題:Mussolini ultimo atto)』のラッファエーレ・カドルナ

演:ジュゼッペ・アッドッバーティ(Giuseppe Addobbati)

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映画『ブラック・シャツ(原題:Mussolini ultimo atto)』のラッファエーレ・カドルナ

映画『ブラック・シャツ(原題:Mussolini ultimo atto)』では、CVL総司令官としてのラッファエーレ・カドルナが登場する。演じるのはジュゼッペ・アッドッバーティ口ひげを蓄えているが、実際のラッファエーレ・カドルナは口ひげはなく、そんなにハゲてもいないので雰囲気はだいぶ違うような気もする。作中では、ラッファエーレ・カドルナ率いるCVLと、ムッソリーニらRSI幹部の停戦交渉会談が行われる。

 

◆アントニオ・ガンディン

(Antonio Gandin)

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アントニオ・ガンディン (Antonio Gandin)

アントニオ・ガンディン将軍は、第二次世界大戦時のイタリア軍の将軍である。彼はドイツ語に堪能であったため伊独両軍間の連絡役として重要な人物であったが、特に彼の名が知られているのは休戦後の「チェファロニア島の虐殺」の被害者として知られている。「チェファロニア島の虐殺」とは、イタリア休戦後、旧同盟国であったナチス・ドイツはガンディン将軍と、彼が指揮する「アックイ」師団を虐殺し、計5千人を超える数の将兵が殺害された事件である。

ガンディン将軍は第二次世界大戦時、参謀本部付きの将官だった。ドイツ語に堪能であった彼は、カイテル元帥やヨードル将軍といったドイツ軍高官らとも親密な関係を築き、対立しがちだった独伊の将軍らの仲を取り持つ重要な存在として重宝され、東部戦線を始めとし、独伊の共同作戦の際は様々な戦場に派遣された

1943年6月、ガンディン将軍はギリシャのチェファロニア島に駐屯するイタリア軍の歩兵師団「アックイ」の師団長に任命された。チェファロニア島はギリシャ領であったが、イタリア軍の侵攻によって空挺部隊に制圧された島である。イタリアの休戦が発表されると、ドイツ語に堪能であったガンディン将軍は、チェファロニア島のイタリア軍武装解除を望むドイツ軍側と交渉を開始した。彼自身はドイツとの対立を避け、無益な血を流さずに問題を解決することを望んでいたが、部下らは武装解除を拒否し、交渉は失敗した。これを受けてドイツ軍は「アックイ」師団に猛烈な攻撃を加え、約5000人が殺害される事態となった。

不本意ながら旧同盟軍と戦うことになったガンディンであったが、ドイツ軍の猛攻を受けて一週間以上の抵抗も遂には力尽き、降伏した。伊軍側は連合軍側の支援に期待したが、連合軍が支援することは全くなく、絶望的な状況下で彼らは一方的に虐殺された降伏したガンディン将軍ら捕虜たちも処刑され、そのほかの捕虜も移送中に輸送船が連合軍機に撃沈され、約3000人が溺死してしまう悲劇となり、総計で約9000人近くが犠牲になる大惨事となってしまった。ガンディン将軍は処刑時、目隠しを付けることを拒否し、処刑の直前に「イタリア万歳!国王陛下万歳!(Viva l'Italia, viva il Re!)」と叫んだとされる。

◇映画『コレリ大尉のマンドリン(原題:Captain Corelli's Mandolin)』のガンディン将軍

演:ロベルト・チトラン(Roberto Citran)

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映画『コレリ大尉のマンドリン(原題:Captain Corelli's Mandolin)』のガンディン将軍

映画『コレリ大尉のマンドリン(原題:Captain Corelli's Mandolin)』は、まさに「チェファロニア島の虐殺」を描いた映画である。主人公であるアントニオ・コレリ大尉を演じるのがかのニコラス・ケイジ。その上司であるガンディン将軍を演じるのが、ロベルト・チトランである。先に言っておくと、チェファロニア島の虐殺を描いた作品はそこそこあるのだが、総じてガンディン将軍が似ていない。理由は知らないのだが、何故か髭が生えていたりして、似せる気が感じられないレヴェルである。

まぁそれはともかく、物語の大筋としては、イタリア軍ギリシャ侵攻によってチェファロニア島が制圧され、時間が経つにつれて、イタリア軍側と現地のギリシャ人住民らは親密になっていき、イタリアが休戦したことでチェファロニア島のイタリア兵たちは帰国の準備を進めるも、ドイツ軍の進撃を受けて旧同盟国との戦いをすることになり、虐殺される、という感じだ。

◇映画『愛と憎悪の日々(原題:I giorni dell'amore e dell'odio)』のガンディン将軍

演:リッキー・トニャッツィ(Ricky Tognazzi)

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映画『愛と憎悪の日々(原題:I giorni dell'amore e dell'odio)』のガンディン将軍

映画『愛と憎悪の日々(原題:I giorni dell'amore e dell'odio)』は『コレリ大尉のマンドリン』と同様に「チェファロニア島の虐殺」を扱った映画である。興味深いことに、公開年は『コレリ大尉のマンドリン』と同じ2001年。ガンディン将軍を演じるのはリッキー・トニャッツィで、実はこの人物、『コレリ大尉のマンドリン』でガンディン将軍役を演じたロベルト・チトランと共に仕事をすることが多い人物である。

まぁ、『コレリ大尉のマンドリン』と同様に全く似ていない。こちらも無精ひげを生やしているが、何故史実の人物にヒゲがないのにやたら生やしたがるのだろうか?『コレリ大尉のマンドリン』はイタリア映画ではないので、再現しなくても仕方ないのかもしれないが、こちらはイタリア映画だがこの再現度の低さである。

作品の大筋としては、主人公らはアルト・アディジェ出身のドイツ系イタリア人の兄弟である。アルト・アディジェは所謂「南チロル」で、第一次世界大戦でイタリアがオーストリアに勝利した後、イタリアに割譲された土地だ。そのため、ドイツ系住民が多く、彼らはイタリア人であるがドイツ語を話し、ドイツ民族としての民族認識を持っていた。兄弟は一人はドイツ軍に、一人はイタリア軍に入隊しており、チェファロニア島での混乱に巻き込まれることとなる。

 

ルイージ・カドルナ(Luigi Cadorna)

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ルイージ・カドルナ(Luigi Cadorna)

ルイージ・カドルナ将軍は先述したラッファエーレ・カドルナ将軍の父であり、第一次世界大戦時中盤までイタリア軍参謀総長を務めた人物である。しかし、山岳地帯に籠るオーストリア軍を相手に単調な正面攻撃を繰り返し、数えきれない犠牲者を出しておきながらも勝利を手に入れることが出来ず、結局カポレットの大敗を受けて参謀総長を更迭された。彼の後任として、イタリア軍を勝利に導いたとして高く評価されるアルマンド・ディアズ将軍とは対照的に、彼は中盤までイタリア戦線の停滞をもたらし、数え切れない犠牲者を出した人物として無能扱いされるのが現在の評価である。

第一次世界大戦後、ファシスト政権によって、大戦の英雄アルマンド・ディアズ将軍と共に元帥に昇進するが、これは彼の面目を保つための政権の配慮である。その後も新造艦である軽巡洋艦の名前にはディアズ将軍と共に艦名が付けられ、更に死後も出身地のパッランツァにファシスト建築の豪奢な廟が作られている。

◇ドラマ『国境(原題:Il confine)』のルイージ・カドルナ

演:マッシモ・ポポリツィオ(Massimo Popolizio)

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ドラマ『国境(原題:Il confine)』のルイージ・カドルナ

ドラマ『国境(原題:Il confine)』は去年放送された歴史ドラマで、第一次世界大戦時のイタリア戦線を描いている。丁度2018年が第一次世界大戦終戦100周年だから、それにちなんだ作品なのだろうか。視聴率は16.3%。ルイージ・カドルナ将軍はマッシモ・ポポリツィオが演じている。マッシモ・ポポリツィオ氏というと、聞き覚えがある人もいるんではないだろうか?そう、日本で今年公開となった話題作、『帰ってきたムッソリーニ(原題:Sono Tornato)』でムッソリーニを演じている俳優だ。ポポリツィオが演じるカドルナ将軍はヒゲがあるからか、『帰ってきたムッソリーニ』のムッソリーニとは大きくイメージが変わる。

 

 ◆イタロ・バルボ(Italo Balbo)

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イタロ・バルボ(Italo Balbo)

バルボは、イタリア史上唯一の「空軍元帥(Maresciallo dell'aria)」であり、数々の空軍イヴェントを開催してイタリア空軍の威信を高めた「空軍の父」。そして、ファシスト党終身最高幹部「クァドルンヴィリ(ファシスト四天王)」の筆頭格であり、ムッソリーニの後継者として見られながらも、両者が対立関係になると政治的なライヴァルの一人であるとも言われた人物である。

バルボはローマ進軍で重要な役割を果たし、ファシスト政権の成立に貢献したファシストであるが、空軍では現在も英雄として扱われ、ブラッチャーノの空軍博物館では彼の功績を讃えて大々的に展示されている。また、彼の大西洋横断飛行の出発地として知られ、数々の空軍イヴェントが開催されたオルベテッロには、彼の墓所や彼の指揮した空軍イヴェントを記念した公園もあり、現在も好意的に捉えられていることが多い。なお、空軍の近代化と、世界的にイタリア空軍の威信を広めたことでは高く評価されているものの、海軍の対立から逆に海軍の航空力の停滞をもたらす原因にもなったため、空軍関係者からの評価は高い一方で、海軍関係者からの評判は悪い。

僅か33歳の若さで空軍大臣となったバルボは、二度の地中海横断飛行と、二度の大西洋横断飛行を成功させ、欧州各国や新大陸でも評判の高い人物であった。そのため、アメリカではムッソリーニよりバルボの方が人気が高かったと言われ、彼が遠征空軍を率いて辿り着いたシカゴには、現在でも石碑が残っている(しかし、バルボを知る当時の世代が多く亡くなってしまった現在、「ファシスト」でために石碑を解体しようとする連中が増加しているとのこと)。これで知名度を上げたバルボの名は、第二次世界大戦が開戦するまで、各国の航空機編隊の「単位」として使われている(しかし、第二次世界大戦でイタリアが枢軸国側で参加したことにより、使われなくなった)。

この功績によって史上初の空軍元帥に昇進したバルボであったが、その絶大な人気はムッソリーニによって自らの権威を脅かすものとして見られ、事実上の左遷させんされることになる。リビア再征服によって平定され、新たにトリポリタニアキレナイカフェザーンの三地域を統合する形で誕生したリビア植民地」の初代総督として派遣された。こんな形でリビアに派遣されたバルボであったが、現地の開発に尽力し、リビアを「イタリアのアルジェリア」にすることを目指した

首都トリポリを始めとする数々の都市では大々的なファシズム建築が作られ、チュニジア国境からエジプト国境に至るまでの大動脈「ヴィア・バルビア」を始めとする自動車道路が整備され(ただ、対照的に鉄道の敷設は放置された)、入植者による新都市も沿岸部に多く作られ、そして植民地では自動車レースや国際見本市など様々なイヴェントが開催された。また、古代遺跡の整備と発掘、そしてそれを利用したオペラやショーも開催し、観光業も強化した。つまりは、リビアに追いやられたバルボであったが、今度は植民地で統治者としての名声を得たのである。

リビア総督となったバルボは明確にドイツとの枢軸路線を批判し、ムッソリーニを含む政府高官らを「ドイツ人の靴磨き」と非難している。彼はあくまで英仏との協調路線を主張し、これにはチャーノ外相やデ・ボーノ将軍、グランディ駐英大使といった賛同者もいたが、政府内では少数派であった。エチオピア戦争で傷ついたイタリア軍を再編させるためにも、スペイン内戦への介入に関しても反対的な意見を述べている。ユダヤ法案である「人種法」にも反対意見を示し、ナチズムへの接近に警笛を鳴らした

しかし、結局イタリアは第二次世界大戦においてドイツ側で参戦することとなった。バルボはリビア総督として北アフリカ戦線を指揮する立場にあり、英仏軍と戦わざるを得なくなった。バルボは英軍が高度に機械化されており、エジプトへの侵攻作戦は困難であるとローマの司令部に伝えたが、司令部はそれでもバルボにエジプト侵攻を命令した。だが、1940年6月28日、トブルク空港上空を飛行中であったバルボが乗るSM.79機が突如味方艦である巡洋艦「サン・ジョルジョ」から対空砲火を受け、続いて地上基地からも対空砲火を受けて撃墜され、バルボら乗組員は全員死亡してしまったのである。これは敵機だと誤認したとされているが、バルボの妻であるエマヌエーラは夫の死を政府の陰謀であると主張し続けた。

◇ドラマ『エッダ(原題:Edda)』のバルボ

演:ロレンツォ・マイノーニ(Lorenzo Majnoni)

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ドラマ『エッダ(原題:Edda)』のバルボ

ドラマ『エッダ』では空軍大臣時代のバルボが登場。大西洋横断飛行で絶大な人気を得た彼に対して、逆にムッソリーニが冷遇している描写が描かれている。しかし、ロレンツォ・マイノーニ演じるバルボは...そんなに似ていない。何か違う感がある。おそらく、この時期のバルボにしてはやや痩せているからであろう。寧ろエミーリオ・デ・マルキ(Emilio De Marchi)演じるグランディの方が、史実のバルボに似ている。

◇ドラマ『体制の殺人 ―ドン・ミンツォーニ事件―(原題:Delitto di regime - Il caso Don Minzoni)』のバルボ

演:ジュリオ・ブロージ(Giulio Brogi)

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ドラマ『体制の殺人 ―ドン・ミンツォーニ事件―(原題:Delitto di regime - Il caso Don Minzoni)』のバルボ

ドラマ『体制の殺人 ―ドン・ミンツォーニ事件―(原題:Delitto di regime - Il caso Don Minzoni)』は、ドン・ミンツォーニという反ファシストの神父がファシストによって殺害された、ファシスト政権初期の事件をメインに描いている。このドラマでは、この事件にかかわったとされている若きバルボが描かれている貴重な若バルボ。この頃は結構痩せて髪型もボンバーな感じなので、結構似ている。

◇オペラ『空の騎士、イタロ・バルボ(原題:Italo Balbo, Cavaliere del Cielo)』のバルボ

演:エドアルド・シロス・ラビーニ(Edoardo Sylos Labini)

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オペラ『空の騎士、イタロ・バルボ(原題:Italo Balbo, Cavaliere del Cielo)』のバルボ

空軍が主催した周年イヴェントで開催された、世にも珍しいバルボを主人公とするオペラ。驚いたことに、バルボが出てくる作品の中でも最も再現度が高い彼の生涯を劇的に描いたオペラで、流石は空軍が主催しているというだけあって、バルボを肯定的に描いている。このオペラの作詞家であり、バルボを演じるラビーニ氏はイデオロギー的な偏見を廃して彼の「空の騎士」としての生涯を語っている。中々興味深い作品だ。

 

◆アオスタ公(ドゥーカ・ダオスタ)アメデーオ・ディ・サヴォイア

Duca d'Aosta, Amedeo di Savoia

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アオスタ公(ドゥーカ・ダオスタ)アメデーオ・ディ・サヴォイア

イタリア王家であるサヴォイア家の分家、サヴォイア=アオスタ家の当主「アオスタ公(ドゥーカ・ダオスタ)」の称号を持つ人物戦間期には優秀な飛行家として知られ、また、第二次世界大戦時には東アフリカ戦線の総指揮を執ったことで知られるアオスタ公アメデーオ。東アフリカ戦線の敗北によって、捕虜となった彼はケニアの捕虜収容所の中で悲劇の病死を遂げた。「鋼鉄侯(Duca di Ferro)」と呼ばれ、王族とは思えない自由奔放な性格で知られた人物でもある。

王家の一員でありながら、彼は士官学校時代の友人らに自分を「君(tu)」と呼ばせることを勧め、形式だった関係を崩して柔軟な関係を築いている。その親しみやすい間柄によって多くの人間関係を築いた第一次世界大戦が開戦すると、アメデーオは僅か16歳で騎兵連隊「ヴォロイレ」の一員として戦うことになった。アメデーオの父エマヌエーレ・フィリベルト(第三軍司令官)は指揮官であるディ・ロレート将軍に対し、アメデーオを「特別扱いせず、他の人間と同じように」扱うことを求めた。第一次世界大戦を切り抜けたアメデーオは、武勲を挙げて最終的に中尉にまで昇進した。

第一次世界大戦が終わった後、アメデーオは叔父であるアブルッツィ侯ルイージ・アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタのアフリカ行きに付き従ったり、国王との些細な喧嘩からコンゴに「家出」して石鹸工場の労働者として働いたりと、王族とは思えない自由奔放な冒険を繰り返したコンゴの石鹸工場は当然環境が劣悪で、工場の労働者は海外からの出稼ぎ労働者や現地のコンゴ人たちであったが、見るからに育ちがよく、外国語を不自由なく話す長身の男(アメデーオ)が何故こんな場所に来たのか同僚のコンゴ人らは不思議に思ったという。

ファシスト政権成立後にイタリアに帰国したアメデーオは、かのアルトゥーロ・フェッラーリン(史上初の欧州-極東間飛行であるローマ-東京飛行を成功させた人物)の指導を受けて飛行士免許を所得した。飛行士としてのキャリアを開始したアメデーオは1929年に再びアフリカに戻った。今度は北アフリカリビアである。階級は大佐にまで昇進していた。アフリカに魅了された彼は再びアフリカの地に戻ったことに歓喜したという。当時、リビアではオマル・ムフタール率いるサヌーシー教団による大規模反乱が発生しており、グラツィアーニ将軍とバドリオ元帥が率いるイタリア軍はこれの徹底的な鎮圧を実行していた(リビア再征服)。リビアに渡ったアメデーオはグラツィアーニ将軍の指揮下に置かれ、キレナイカ戦線における航空偵察、そしてサヌーシー教団の軍勢への大胆な空爆を行って戦局に大きな影響を与えている。この輝かしい働きによって、アメデーオは銀勲章を叙勲された。

1931年に父エマヌエーレ・フィリベルトが死去すると、アオスタ侯の地位を受け継いで第三代アオスタ侯(ドゥーカ・ダオスタ)となった。その後、トリエステに駐屯する第23砲兵連隊の指揮をしたが、翌年1932年には遂に空軍に移籍した。今まで陸軍を離れられなかったのは、父エマヌエーレ・フィリベルトや王族の抵抗(王族は伝統的な陸軍に所属する事が好ましいと考えられたため)があったからだった。しかし、父の死を機にアメデーオは国王に空軍への移籍許可を迫り、国王はしぶしぶこれを了承したのであった。バルボ空軍元帥率いるイタリア空軍は、リビアで武勲を挙げた「空の貴公子」を歓迎した。アメデーオは堅苦しい陸軍の雰囲気から解放され、若く穏やかな空軍の環境に大変喜んだという。空軍に移籍した彼は空軍大佐の階級を得て、ゴリツィア基地の第21偵察航空団の司令官に任命された。1933年5月から翌年3月までは第四戦闘航空団の司令官を務め、空軍准将に昇進。

1937年12月末には、グラツィアーニの後任として、東アフリカ帝国副王に任命された。当時、東アフリカでは前任のグラツィアーニによる恐怖政治と武力による徹底的な弾圧が行われていたため、アメデーオはエチオピア統治に苦労することとなる。エチオピア人の抵抗に悩まされることとなるが、アメデーオは現地の大規模な開発を実行する。しかし、短い統治期間故に完了したものは少なかった。彼は第二次世界大戦時の東アフリカ戦線の崩壊まで東アフリカ帝国副王を務めた。
1940年にアメデーオは空軍大将に昇進する。これは事実上の空軍最高位であった(空軍元帥はイタロ・バルボ空軍大臣の名誉称号的なものだったため)。その後、同年6月にはイタリアが英国及びフランスに宣戦布告し、第二次世界大戦に突入した。この結果、アメデーオは東アフリカ戦線の総指揮を執ることとなる。東アフリカ戦線のイタリア空軍は旧式機こそ多いものの、ヴィシンティーニ大尉を始めとするスペイン内戦を経験したヴェテランパイロットも多く、英空軍相手に善戦した。マエストリ大尉ら爆撃機部隊も英仏軍の要塞や、紅海の輸送船団攻撃で大きな戦果を挙げ、東アフリカ戦線の制空権はイタリア側にあった。

アメデーオ率いるイタリア軍は英領ソマリランドを完全制圧し、スーダン南東部及びケニア北部を制圧するなど緒戦は善戦していたが、次第に物資の欠乏に悩まされ(東アフリカ戦線は本国から遠く支援物資の補給が来なかった)年明けの1941年から英軍の反抗作戦によって東アフリカのイタリア軍は崩壊していった。更に連合国側の支援によって、東アフリカ領内でエチオピアレジスタンスによる激しい攻撃が起こり、外部からも内部からもイタリア軍は脅威に晒される事態となった。征服地は手放すことになり、更に東アフリカの主要都市も次々と陥落していった。遂には、帝都アディスアベバの東方アワシュ渓谷地帯で防戦していた師団も力尽き、英軍によってアディスアベバへの道のりが開かれたのである。
1941年4月3日、英軍に追い詰められたアディスアベバでは、アメデーオ侯と幕僚であるトレッツァーニ将軍らが作戦会議を開いていた。そこではアディスアベバを放棄して、アンバ・アラジの山岳地帯のトセッリ要塞での籠城戦をすることを決定し、同日の午後にはアメデーオ侯らイタリア軍主力はアディスアベバを出発し、アンバ・アラジに向かった。一方、アワシュ渓谷でのイタリア軍守備隊を破った英軍はアディスアベバに入場し、その後エチオピア皇帝ハイレ・セラシエは帝都に帰還を果たした。トセッリ要塞に辿り着いたアメデーオ侯らは防衛陣地の構築を始めるが、その間も英軍は猛攻を続け、4月17日にはアディスアベバ北東のデシエが陥落している。英軍は次第にアンバ・アラジに迫りつつあった。アンバ・アラジの戦いは同日4月17日に始まった。英軍はアンバ・アラジを包囲し、アメデーオに無条件降伏を迫ったがアメデーオはこれを拒否し、徹底抗戦を決定した。戦闘は約1カ月間続き、イタリア軍は勇敢に英軍の猛攻に抗い続けたが、遂に水や弾薬も枯渇し、更に山岳の寒さが将兵を襲った
5月15日、遂にムッソリーニから降伏を許可する電報が届いたため、16日にアメデーオは英軍の勧告に応えて交渉を開始した。しかし、派遣されたボルピーニ将軍らイタリア軍代表は道中でエチオピアパルチザンに襲撃され、全員が殺害されるという思わぬ悲劇が発生した。このため、逆に英軍代表がアンバ・アラジに出向き、交渉を開始することとなった。その後、アメデーオらAOIイタリア軍主力部隊は降伏した。英軍の捕虜となったアメデーオはケニアに移送されたが、その地で熱病、チフスマラリアなどに侵され、闘病の末に1942年3月3日にナイロビの病院で結核のため死亡、同地の軍人墓地に葬られたのであった。こうして、「アンバ・アラジの英雄」と称された「鋼鉄侯」アメデーオはこの世を去ったのであった。

◇映画『砂漠のライオン(原題:Lion of the Desert)』のアオスタ公アメデーオ

演:スカイ・ダモント(Sky du Mont)

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映画『砂漠のライオン(原題:Lion of the Desert)』のアオスタ公アメデーオ

映画『砂漠のライオン(原題:Lion of the Desert)』には、リビア再征服時のアメデーオが登場する。演じているのはスカイ・ダモント特徴的な細長い顔と高身長、見事なまでにアメデーオそっくりである圧倒的再現率リビア再征服時のアメデーオは航空隊の指揮及び自らパイロットとして、オマル・ムフタール率いるサヌーシー教団に対して空爆を実行している。作中でもクフラ爆撃を実行している。

主に、作中ではグラツィアーニの副官のように描かれている。ディオデーチェ大佐ほどではないにしろ、「イタリア軍の良心」として表現されており、グラツィアーニの行為を咎める場面も存在する。とはいえ、彼もムフタールらに対する空爆を実行しているため、何とも言えない人物だ。

 

ざっとこんな感じである。本当は史実の海軍の提督(将官)が登場している作品があればそちらも紹介したかったのだが、史実の海軍軍人が出てくる映画は、『狂った血の女(原題:Sanguepazzo)』のデチマ・マス司令(元潜水艦「シィレー」艦長)のユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ中佐(演:Lorenzo Acquaviva)『大いなる希望(原題:La grande speranza)』の潜水艦「カッペリーニ」艦長のサルヴァトーレ・トダーロ少佐(演:Renato Baldini)、同じくトダーロ少佐(演:Paolo Conticini)が登場する『ラコニア号 知られざる戦火の奇跡(原題:The Sinking of the Laconia)』『アルファ、タウ!(原題:Alfa Tau!)』の潜水艦「トーティ」艦長のバンディーノ・バンディーニ少佐(演:Bruno Zelik)などであり、いずれにせよ、潜水艦の指揮官ばかりで佐官までであり、史実の将官まで登場する作品は今のところ未確認である。

映画『白い船(原題:La nave bianca)』はプンタ・スティーロ沖海戦を描いているため、作中にカンピオーニ提督役やブリヴォネージ提督役が出てきているのかもしれないが、人物及び役者の同定が出来ていないため、記していない。誰か史実のイタリア海軍の提督が出てくる映像作品を知っている方がいたら、是非教えてほしい。

第二次世界大戦時の主要7ヵ国の潜水艦隊の戦果(総撃沈トン数及び総撃沈隻数)の比較

気になって調べてみた「第二次世界大戦時の主要七ヵ国(枢軸:ドイツ・イタリア・日本、連合:アメリカ・英国・ソ連・フランス)の潜水艦隊の戦果(総撃沈トン数及び総撃沈隻数)の比較」がTwitterで貼ったら軽く反響があったので、今回のブログ更新は備忘録的な感じでこれについてちょっと書いてみようと思う。

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第二次世界大戦時の主要七ヵ国海軍の潜水艦隊の戦果(撃沈トン数及び総撃沈隻数)の比較。

上の図が第二次世界大戦時の主要七ヵ国の潜水艦隊の戦果の比較である(珍しくイタリア語ではなくわかりやすさを重視して英語(英語苦手なのだが)で書いてみた)。これを一応日本語にして表にしてみると以下のようになる。

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第二次世界大戦時の主要七ヵ国海軍の潜水艦隊の戦果の表

ざっとこんな感じだ。フランス海軍のみ事情が特殊で、分裂後の自由フランス海軍及びヴィシー・フランス海軍時代の戦果も含んでいる。イタリア海軍も1943.9の休戦以降に枢軸国側のイタリア社会共和国(RSI政権)海軍側と、連合国(共同交戦国)側の共同交戦海軍(王立海軍)側に分かれているが、RSI海軍の潜水艦隊はCB級ポケット潜水艦しかなく(通常潜水艦の残存艦はドイツ海軍に接収されている)、潜水艦戦による撃沈戦果は少ないため、1940.6~1943.9の「枢軸国側の王立イタリア海軍(レージャ・マリーナ)」としての戦果のみとした。

 

◇枢軸国

◆ドイツ海軍潜水艦隊(1939.9~1945.5)
:14,100,000トン(2779隻)

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第二次世界大戦時のドイツ潜水艦トップ、UボートVIIB型「U-48」。就役は1939年4月22日。 総撃沈トン数:321,000トン(計55隻)。

流石は潜水艦大国ドイツ、といったところか。実は言うと開戦時(1939.9.1)のドイツ海軍の潜水艦隊は準備不足故にUボートは僅か57隻程度にとどまっており、これは当時のイタリア海軍(108隻)より少ない(なお、イタリア海軍は当時ソ連に次ぐ世界第二位の潜水艦隊であった)。おまけに言うと、フランス海軍や英海軍にも及んでいなかった。これは後にデーニッツ元帥も批判している。

準備不足で戦争に突入したドイツ海軍だが、序盤のノルウェー戦で強引な艦隊運営によって、貴重な水上戦力の大半を失ってしまった。その後は海軍も潜水艦メインにならざるを得なくなったが、イタリア参戦時(1940.6.10)にはまだ潜水艦の建造はあまり進んでいなかった。その後からようやく本格的な潜水艦の増産に移り、日本が参戦する1941.12.7頃にはイタリア海軍の潜水艦隊を抜き、248隻のUボート保有するようになった。最終的に終戦までに1000隻以上ものUボートが作られている。

ドイツの潜水艦作戦は非常に高い戦果を挙げた。というのも、増産した潜水艦を英国本土付近や北大西洋といった英国の重要な航路に張り付け、輸送船団を襲撃しまくった。英国も本土周辺に張り付かれては迂回のしようがないので、その結果、ドイツ潜水艦に輸送船団が次々と襲われることになったのである。最も撃沈トン数を誇ったのは「U-48」で、実に321,000トン(計55隻)の戦果を挙げている。

 


イタリア海軍潜水艦隊(1940.6~1943.9)
:914,740トン(184隻)

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第二次世界大戦時のイタリア潜水艦トップ、マルコーニ級「レオナルド・ダ・ヴィンチ」。 就役は1940年3月5日。総撃沈トン数:120,243トン(計17隻)。

枢軸第二位の撃沈トン数はイタリア撃沈隻数は偶然にも日本海軍と同数である。王立海軍は最も参戦期間が短い(とはいえ、日本と数カ月しか違わないが)ため、十分高い戦果と言えるだろう。伊海軍はイタリア参戦時の段階では117隻の潜水艦を保有しており、これは当時、ソ連海軍に次ぐ第二位の規模であった。1930年代から海軍参謀長を務め、開戦時もその職にあったカヴァニャーリ提督が潜水艦を重要視したためである(対照的に空母や電子技術は冷遇された)。

しかし、フランス休戦後、大西洋に進出したイタリア海軍は大西洋での潜水艦による通商破壊戦に従事することになったものの、ドイツ海軍との確執の結果、輸送船団との遭遇率が低い(つまり連合国側にとっては重要な航路ではない)南大西洋を割り当てられてしまった。このため、ドイツ潜水艦部隊に比べて戦果が見劣りする形となる。とはいえ、そんな状況であるにも関わらず、No.1撃沈トン数の「レオナルド・ダ・ヴィンチ」(総撃沈トン数:120,243トン、撃沈隻数:17隻)No.1撃沈隻数の「エンリコ・タッツォーリ」(総撃沈トン数:98,433トン、撃沈隻数:19隻)を始めとする巡航潜水艦が南大西洋を中心に戦果を挙げた。なお、レオナルド・ダ・ヴィンチ」は第二次世界大戦時の潜水艦の中では、ドイツ潜水艦を除けば世界一位の撃沈トン数である。

また、イタリア潜水艦部隊のもう一つの主戦場は地中海である。しかし、地中海も輸送船団の遭遇率が低かった。というのも、英国は喜望峰回りのルートで地中海を迂回できたため、イタリア海軍が跋扈する地中海を船団は回避していた。地中海を通る船団はマルタ島の補給作戦だったり、限定された船団であった。また、地中海は外洋に比べて波が穏やかで水深が浅く、更に透明度も高いため潜水艦の運用が難しかったのも問題であった(とはいえ、伊英両国共に潜水艦を多用しているのだが)。

輸送船団との遭遇率が低い地中海であったが、潜水艦部隊は船団襲撃だけでなく、港湾攻撃といった特殊作戦でも活躍した。例えば、アレクサンドリア港攻撃では、潜水艦「シィレー」から発進した人間魚雷部隊が英戦艦「クイーン・エリザベス」及び同型艦「ヴァリアント」を爆沈させるという大戦果を挙げている。地中海や大西洋の他にも、イタリア潜水艦は紅海、黒海、インド洋、太平洋でまで活動した。

総評としては、輸送船団との遭遇率が低い海域、独日に比べて短い事実上の参戦期間、潜水艦運用が難しい地中海、そしてドイツ潜水艦には劣る装備など、不利な条件が多かったにもかかわらず、ここまで戦果を挙げられたことは高く評価出来るだろう。

 


日本海軍潜水艦隊(1941.12~1945.8)
:907,000トン(184隻)

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第二次世界大戦時の日本潜水艦トップ、伊9型「伊10」。 就役は1941年10月31日。総撃沈トン数:81,533トン(計14隻)。

撃沈隻数ではイタリア海軍と同数だが、総撃沈トン数ではイタリアよりやや少ない日本の潜水艦が意外と戦果が少ない(といっても十分多いのだが)のを意外に思う人もいるだろう(私もそうであった)。その原因として挙げられるのは、まず日本海軍の主戦場となった太平洋は広大であり、連合軍側との輸送船団との遭遇率が総じて低かった。それに加え、ドイツ海軍(日本参戦時248隻保有)、ましてやイタリア海軍(日本参戦時103隻保有)よりも潜水艦の保有数が少なかった日本海軍(参戦時65隻保有)にとっては、その広大な太平洋をカヴァーするだけの力は存在しなかった

しかも、日本海軍は艦隊決戦を重視し、通商破壊を軽視していた。つまりは、ドイツ潜水艦のように敵商船を狙ったのではなく、日本海軍は潜水艦を主に偵察艦として用いて、連合軍の機動艦隊を発見し、攻撃するために運用したのである。その結果、全体的な撃沈戦果が落ちた、というわけである。そのため、日本海軍の潜水艦で最も戦果が多い「伊10」も、総撃沈トン数は81,533トン、撃沈隻数14隻と、ドイツやイタリアのエース潜水艦の戦果に比べて見劣りする結果となった。

とはいえ、「伊19」による空母「ワスプ」撃沈など、連合軍側に与えた脅威は大きかったため、一概に運用方法に間違いがあるとは言えない。また、他国と異なる潜水艦の運用方法と言えば、航空機搭載型の潜水艦(所謂「潜水空母」)によって、アメリカ本土への航空爆撃を実行したことであった。各国でも同様の潜水空母は実験的に開発されたが、実戦で敵領土への爆撃を実行したのは日本海軍のみである。

 

◇連合国

アメリカ海軍潜水艦隊(1941.12~)
:4,650,000トン(1079隻)

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第二次世界大戦時のアメリカ潜水艦トップ、バラオ級「タング」。 就役は1943年10月15日。総撃沈トン数:116,454トン(計33隻)。

太平洋の王者、アメリカ海軍第二次世界大戦時では参戦時期に遅さにも拘わらず、日本船団を中心に大きな戦果を挙げ、ドイツ潜水艦隊に次ぐ撃沈トン数と撃沈隻数を誇った。通商破壊で日本軍の補給ルートを壊滅させただけでなく、その傍ら、日本海軍機動部隊の襲撃においても多くの戦果を挙げた。

その中でも特に知られたのがガトー級潜水艦やバラオ級潜水艦で、日本海軍を代表する主力空母「翔鶴」、日本初の装甲空母大鳳」、大戦時最大の空母であった「信濃」といった数々の日本海軍の主力艦を撃沈して猛威を振るった。バラオ級潜水艦「タング」はアメリカ海軍の潜水艦でトップの撃沈数(トン数及び隻数共に)を誇り、33隻(総撃沈トン数は116,454トン)もの日本の輸送船を撃沈している。

 

英国海軍潜水艦隊(1939.9~)
:1,520,000トン(493隻)

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第二次世界大戦時の英国潜水艦トップ、U級「アップホルダー」。 就役は1940年10月31日。総撃沈トン数:93,031トン(計14隻)。

英国は元々潜水艦をそこまで多く保有しておらず、1939年9月の第二次世界大戦開戦時の英国海軍の潜水艦戦力は85隻ほどであった。このうち、地中海に60隻、本土艦隊に21隻、大西洋に4隻が配備されていた。しかし、イタリアが第二次世界大戦に参戦し、地中海が戦場になると英国は潜水艦の大量製造に踏み切ることになり、こうして生産された潜水艦たちが地中海にバラ撒かれ、イタリア船団相手に猛威を振るった(とはいえ、イタリア参戦以前の北海方面においても、本国艦隊所属の潜水艦たちが約13万トン(計33隻)ものドイツ輸送船を撃沈している)。

一方で、対するイタリア海軍側も優秀な水雷艇を率いて対潜戦を展開し、英海軍潜水艦隊も苦しめられている。地中海が潜水艦の運用が難しかったのもあり、消耗率も激しかった英国海軍のトップエース潜水艦であった「アップホルダー」を撃沈したのも、イタリア水雷艇「ペガソ」である(なお、英海軍潜水艦を最も多く撃沈した枢軸国側の海軍は、当然ながらイタリア海軍であった)。

どちらにせよ、英国潜水艦部隊の主戦場は地中海であり、その次に北海であった。そのため、アジア方面での戦果はあまりない(とはいえ、アジア方面でも重巡「足柄」を撃沈するなどの戦果を挙げている)。最も多くの戦果を挙げた英国潜水艦はU級潜水艦「アップホルダー」である。地中海で活動した「アップホルダー」は、イタリア輸送船を中心に計14隻、合計トン数93,031トンを撃沈している。この中には輸送船だけでなく、エストラーレ級駆逐艦「リベッチオ」、スクアーロ級潜水艦「トリケーコ」、アンミラーリ級潜水艦「サン・ボン」といったイタリア軍も含まれていた。

 

ソ連海軍潜水艦隊(1941.6~)
:172,785トン(191隻)

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第二次世界大戦時のソ連潜水艦トップ、S級「S-13」。 就役は1941年7月31日。総撃沈トン数:44,138トン(計5隻)。

1939年の第二次世界大戦開戦時、ソ連海軍は世界第一位の潜水艦隊を保有していた(計165隻)。しかし、その戦果は意外にも少ない。とはいえ、撃沈隻数はイタリアや日本より多い...のだが、「あれ?なんか桁一つ間違ってない?」と思った人もいるだろう。私もそう思った。同じく撃沈隻数が184隻のイタリア海軍潜水艦隊と日本海軍潜水艦隊は、イタリアの場合は総撃沈トン数が914,740トン、日本は907,000トンである。それに対して、ソ連の場合は172,785トン。これには理由がある。

第二次世界大戦時、ソ連海軍にとって最大の敵はドイツ海軍である。1941.6に突如不可侵条約を破棄して侵攻してきたドイツ軍は次々とソ連領内を蹂躙していった。このため、ソ連潜水艦は侵攻する枢軸軍に対抗するための沿岸防衛を強いられ、近海での戦果に限定されることとなる。故に、大型輸送船ではなく、哨戒艇のような小型艇が戦果として多くなり、「撃沈隻数は多くても、撃沈トン数少ない」...ということになった。

また、ソ連海軍は大粛清の影響をモロに受けて多くの優秀な将兵を失っており、1933年に伊ソ不可侵条約を結んで以来、交流が盛んだったイタリア海軍の支援を受けて再建を進めていた最中であった。そのため、練度も低く、例えば黒海ではそのイタリア海軍のポケット潜水艦部隊の攻撃を受けて、浮上航行中の多数の潜水艦が失われている

第二次世界大戦時のソ連潜水艦隊はバルト海北極海黒海、そして太平洋の4つの戦域で戦ったバルト海ソ連潜水艦隊にとって最大の戦場となった。ドイツ海軍やフィンランド海軍の船艇を中心とする計107隻の敵船を撃沈している。一方で、その損失も多かった。第二の戦場は黒海で、ドイツ船を中心とする計45隻を撃沈している。ここでソ連海軍の脅威となったのが、対潜戦のノウハウを持つイタリア海軍であった。続いて、北極海では計35隻の敵船を撃沈し、最後に大戦末期の対日参戦時に、太平洋方面で4隻の日本船を撃沈している。こうして、計191隻の敵船を撃沈したのであった。

ソ連海軍の潜水艦で最も多くの戦果を挙げたのは、S級潜水艦「S-13」であった。バルト海で活動、1942年9月11日~18日の間の7日間で3隻の輸送船を撃沈し、その後フィンランド海軍の駆潜艇による爆雷で深刻な被害を受けてドッグ入りした後、修復後には大戦末期の1945年1月~2月にはドイツの大型輸送船2隻を撃沈し、計5隻、総撃沈トン数44,138トンもの輸送船を撃沈したのであった。しかし、ドイツ輸送船「ヴィルヘルム・グストロフ」の撃沈によって、民間人の難民らを含む約9,400人が犠牲になっており、海事史上最大の犠牲者を出すこととなってしまった。

 

フランス海軍潜水艦隊(1939.9~)

:38,838t(25隻)

※自由フランス海軍及びヴィシー・フランス海軍による戦果も含む(1940.6~1944.8)

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第二次世界大戦時のフランス潜水艦トップ、サフィール級「リュビ」。 就役は1933年4月4日。総撃沈トン数:21,000トン(計22隻)。

第二次世界大戦時のフランス海軍は、主要国の海軍の中で最も悲惨な目にあった海軍と言えるだろう。というのも、強力な艦隊を擁していたものの、陸軍の敗北の結果祖国が二分され、海軍もロクに活躍出来ずに両陣営からの攻撃を受けたり、鹵獲を防ごうと自沈するなどして艦隊は壊滅していった...という悲哀の海軍だ。そんなフランス海軍は、潜水艦隊も思うように活躍出来なかった

1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発する。フランスは直ちに英国と共にドイツに宣戦布告したが、この時点でのフランス海軍の潜水艦隊は計77隻の潜水艦を保有しており、当時で言うと世界第五位の潜水艦隊であった。当然、開戦時はドイツ海軍よりも潜水艦の保有数が多かった

フランス海軍は潜水艦隊を主に地中海で運用する予定であった。そして、フランスが世界中に保有する植民地帝国の防衛を担当した。当時、地中海戦域におけるライヴァルのイタリアは中立を宣言していたが、イタリアは既にドイツの同盟国であった。イタリア参戦後は地中海におけるイタリア船団を攻撃するのがフランス潜水艦隊の役目であった。しかし、1940年6月、陸軍が敗北したことで祖国が蹂躙され、ドイツ・イタリアの枢軸軍と安々と休戦したことでこの計画は狂うことになった。

休戦後、ロンドンに亡命したド・ゴール将軍が「自由フランス」の成立を宣言し、当時の本国政府であったペタン将軍率いるヴィシー政権と対立する形となった。ヴィシー・フランス(正式名称はエタ・フランセ)はドイツの傀儡政権と称されるが、形式上は中立国であり、枢軸国側への協力を強いられたが枢軸国側での参戦はしなかった。しかし、フランス艦隊が枢軸国側に渡ることを恐れた英国海軍によって攻撃を受けることとなる。フランス海軍も休戦によって、「自由フランス海軍」と「ヴィシー・フランス海軍」に二分されることになり、潜水艦隊も二分された

ヴィシー・フランス海軍と自由フランス海軍による「内戦」も発生し、シリア戦線では自由フランス海軍の輸送船と間違われて、ヴィシー・フランス海軍の潜水艦にトルコ海軍(中立)の兵員輸送船「レファー」が撃沈されるという痛ましい事故が起こっている(しかし、これは最近は伊潜水艦「オンディーナ」によるものだという説も出ている)。

第二次世界大戦時のフランス潜水艦で最も戦果を挙げたのはサフィール級潜水艦「リュビ」で、敷設した機雷と砲撃によって総撃沈トン数21,000トン、計22隻の撃沈数もの敵輸送船を撃沈している。これは同時に自由フランス海軍の艦艇でトップの撃沈数を誇る艦艇であった。結果、フランス潜水艦は第二次世界大戦時を通じて、25隻~30隻程度の敵艦を撃沈したとされている。また、フランス海軍の潜水艦というと203mm砲2門を搭載した大型潜水艦「スルクフ」(日本では英語読みのシュルクーフで呼ばれることも多い)が有名だが、特に目立った戦果を挙げることはなかった。

 

バルサモ提督、同盟国・日本へ行く! ―紅海艦隊を率いた侯爵と大戦期における日伊文化交流―

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日本にやってきたカルロ・バルサモ提督(Carlo Balsamo)のイメージ。ちなみに、イタリアが作成したプロパガンダポスターを見ると、当時のイタリア人が想像する日本は「サムライ」だったようだ。

第二次世界大戦時、日本とイタリアは同盟国同士であったものの、極東と欧州という遠く離れた地であることから、互いの人員の移動も困難だった。そんな中、イタリア領東アフリカからやってきた一人の海軍提督がいた。それが、カルロ・バルサモ提督(Carlo Balsamo)だ。第二次世界大戦時、イタリア海軍と空軍は同盟国の日本に艦船や航空機で物資や人員のやり取りをしているが、そんな中でもバルサモ提督のようなイタリア海軍の高位の将官がはるばるやってきたのは唯一の例であった。今回は、そんなバルサモ提督の生涯と共に、大戦期を通じて進展した日本とイタリアの両国間交流について調べてみることとしよう。

 

軍港都市に生まれた侯爵家の息子

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カルロ・バルサモ提督の出身地、ターラント南イタリアを代表する工業都市であり、イタリア最大の軍港都市でもある。現在も空母2隻を中心とするイタリア主力艦隊の母港となっており、統一後イタリアの歴史上、ラ・スペツィア軍港と共に最も重要な軍港都市であった。そのため、第二次世界大戦時には英軍雷撃機の奇襲を受け、戦艦3隻が大破着底する大損害を被った。

カルロ・バルサモは1890年4月20日軍港都市ターラントで生まれた。本名はカルロ・バルサモ・ディ・スペッキア・ノルマンディア(Carlo Balsamo di Specchia Normandia)と長く、その名前から想像がつくとは思うが貴族出身で、ナポリ発祥の侯爵家の出である。つまりは、正式に書くならばスペッキア・ノルマンディア侯爵カルロ・バルサモ(Marchese di Specchia Normandia)が正しい。流石に本名を全て書くと長いので、本記事では基本的に「カルロ・バルサモ」もしくは「バルサモ」と表記する。

父であるスペッキア・ノルマンディア侯爵ジョアッキーノ・バルサモ(Gioacchino Balsamo Di Specchia Normandia)ターラントに屋敷を構える貴族だったが、1898年に58歳で死亡してしまった。このため、息子のカルロ・バルサモは僅か8歳で家督を継ぎバルサモ家の当主としてスペッキア・ノルマンディア侯爵の爵位を継承することになった。幼き侯爵の誕生であったが、これは困難を伴っただろう。

彼が生まれた前年、イタリア国王ウンベルト1世(Re Umberto I)の尽力でターラント軍港に大規模な海軍工廠が完成した。この結果、ターラントは南部の軍需産業、特に海軍の軍港として発展し、その重要性を高めることとなった。軍港都市で育ったバルサモは貴族らしく海軍軍人を目指し、1907年にリヴォルノ海軍士官学校に入学する。こうして、1911年に卒業、海軍少尉として任官されたのであった。

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アウグスト・オブリー提督(Augusto Aubry)。ナポリ出身のイタリア海軍提督で、伊土戦争時は戦艦「ヴィットーリオ・エマヌエーレ」を旗艦として第一艦隊の指揮官を務めている。伊土戦争の勝利に貢献した人物だが、戦争終結後に自らの旗艦の甲板上で急死しており、彼を記念して「ヴィットーリオ・エマヌエーレ」の母港であるターラント軍港の施設には彼の名前が付けられている。

1911年9月に、イタリアがオスマン帝国に対して宣戦布告し、伊土戦争が開戦する。これによって、任官されたばかりのバルサモ少尉はアウグスト・オブリー提督(Augusto Aubry)の旗艦である、レジーナ・エレナ級戦艦「ヴィットーリオ・エマヌエーレ」に下士官として乗艦した。オブリー提督自身はナポリ出身で、バルサモ少尉の出自とゆかりがあったともいえる。オブリー提督はリッサ海戦も経験した老齢のヴェテラン提督で、ターラントを母港とする第一艦隊(主力艦隊)を指揮した。

なお、このオブリー提督は後にバルサモ少尉の出身地であるターラントの要塞などに名前が付けられたが、これは別にオブリー提督がターラント出身だったとかそういうわけではない。伊土戦争終結後の1912年に戦艦「ヴィットーリオ・エマヌエーレ」がターラント軍港に停泊中、オブリー提督は甲板上で急死してしまったからである。この戦艦「ヴィットーリオ・エマヌエーレ」はリビア戦線にてイタリア軍上陸部隊を支援し、戦局に貢献した。この武勲からバルサモは中尉に昇進している。

 

第一次世界大戦、潜水艦艦長としての戦歴

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最初の旗艦、F(エッフェ)級潜水艦「F1」。1916年4月2日就役。

1915年のイタリアの第一次世界大戦参戦までに、バルサモは大尉に昇進した。バルサモ大尉は新戦力として期待されていた潜水艦の指揮官として頭角を現すことになる。まず、彼が初の潜水艦艦長を務めたのは、F(エッフェ)級潜水艦「F1」である。潜水艦「F1」艦長となったバルサモ大尉は、中部イタリア・マルケ地方の港湾都市アンコーナの潜水艦基地に配備された。アンコーナというと、前回紹介したブリヴォネージ兄弟(Bruno Brivonesi, Bruto Brivonesi)の出身地でもある。バルサモ大尉は潜水艦「F 1」を駆り、アドリア海沿岸の中央同盟国側の輸送船団の通商破壊に従事した。

F級潜水艦は第一次世界大戦当時のイタリア潜水艦で最高のクラスと呼ばれ、優れた機動性と高い信頼性を誇っていた小型潜水艦だった。更に、無線とソナーを始めて搭載したイタリア製の潜水艦でもあった。主要敵国となったオーストリア海軍との戦場はアドリア海の狭い海域となったため、機動性が高い小型潜水艦には格好の戦場となったのである。F級は優秀な設計故に計21隻作られ、更にスペイン海軍やロシア海軍スウェーデン海軍といった諸外国の海軍からも購入されている。 

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第二の旗艦、H(アッカ)級潜水艦「H3」と同型艦の「H1」。

続いて、1917年頃にはバルサモ大尉はH(アッカ)級潜水艦「H3」の艦長となった。H級潜水艦は沿岸哨戒用の潜水艦で、興味深いことにカナダのモントリオールの工廠で建造されている。大きさとしては小型であり、F級潜水艦を多少大きくした程度であった。なお、第二次世界大戦時においても、旧式であったが、H級の「H8」と「H6」は現役の潜水艦として使われた(流石に戦闘用ではなく哨戒用や輸送用であったが)。バルサモ大尉率いる「H3」はブリンディジを母港として、アルバニア及びモンテネグロ沿岸で中央同盟国側の船団に待ち伏せ攻撃を実行した。

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第一次世界大戦時最後の旗艦、潜水艦「ノーティラス」。

最後に、大戦末期の1918年になってバルサモ大尉が艦長となった潜水艦は、ノーティラス級潜水艦のネームシップ、潜水艦「ノーティラス」である。艦名はフランスが開発した世界初の実用的な潜水艦「ノーティラス」に肖ったものである。潜水艦「ノーティラス」はバルサモ艦長が第一次世界大戦時に指揮した潜水艦の中では最も古いもので、1913年にヴェネツィア工廠で作られたものであった。というのも、F級もH級も、大戦勃発後に竣工した最新鋭の潜水艦だったからである。故に、「ノーティラス」の設計はやや時代遅れなものとなっていた。

そのため、バルサモ大尉が艦長となった潜水艦「ノーティラス」は、ガッリーポリ港に配備された後、戦闘任務ではなく船団護衛を務める「ミッサーナ」潜水艦隊に属することになった。こうして、第一次世界大戦を通して3隻の潜水艦を指揮したバルサモ大尉は戦功十字章を叙勲される働きを見せたのであった。

 

 戦間期と提督への昇進

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現在もトリノのヴァレンティーノ公園の一角に保存されているバルバリーゴ級潜水艦「アンドレア・プロヴァーナ」の船体の一部。艦名の由来となったアンドレア・プロヴァーナ提督はサヴォイア公国艦隊を代表する名提督で、レパントの海戦オスマン帝国艦隊に勝利した人物だ。

第一次世界大戦終結し、イタリアに平和が訪れた。バルサモ大尉は大戦期を通じて少佐に昇進していたが、戦後も再びF級潜水艦の艦長を務めた(最初は再び潜水艦「F1」で、後に潜水艦「F6」)。1922年まで「F6」艦長を務めたバルサモ少佐はその後1928年までの6年間で、魚雷艇「51 O.S.」、魚雷艇「63 O.L.」、ラ・マーサ級駆逐艦「ジュゼッペ・ラ・ファリーナ」(後に水雷艇に類別変更)、バルバリーゴ級潜水艦「アンドレア・プロヴァーナ」の艦長を経験した。

特にここで注目したいのはサヴォイア公国艦隊を代表する海軍提督の名を冠した潜水艦「プロヴァーナ」で、コルフ島危機でも出征した潜水艦の一隻だが、現在もトリノのヴァレンティーノ公園の一角に艦橋を含む艦体の中央部が保存されている。また、同名の潜水艦が第二次世界大戦時のマルチェッロ級にも存在するが、こちらは大戦序盤にフランス対潜艦隊と死闘を繰り広げた後に撃沈された。

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イタリア極東艦隊の旗艦・巡洋艦リビア」。1913年就役で、元々はオスマン帝国海軍が巡洋艦「ドラマ」としてアンサルド社に発注したものであったが、両国関係の悪化によって建造が中止となり、伊土戦争開戦によってイタリア海軍が接収した。

1928年、中佐に昇進したバルサモは中国にイタリアが保有する天津租界に派遣され、同地に駐屯している「イタリア極東艦隊」の司令官に任命された。彼にとってこの時が初の極東勤務となったが、後に訪れることになった日本や中国に関する知識をここで学んだのだろうか?なお、この時彼の旗艦であった巡洋艦リビア」は元々オスマン帝国海軍がイタリアに「ドラマ」という名前で発注していたが、両国関係が悪化したことで建造が中止され、伊土戦争開戦後に伊海軍に接収され「リビア」となった。ちなみに、この時「リビア」艦長だったヴラディミロ・ピーニ中佐(Vladimiro Pini)第二次世界大戦時にナポリを母港とするティレニア艦隊の司令官となる人物である。なお、1929年に上海沿岸で中国の輸送船「康泰」と衝突事故を起こしてしまった。

2年後の1930年に本国に召還されたバルサモ中佐は大佐に昇進し、地元であるターラント軍港の参謀長に任命された。駐在武官として同じくラテン系諸語のスペインやポルトガルに派遣されたりしたが、1939年末まではターラント軍港の参謀長兼、同地を拠点とする第三潜水艦隊の司令官を務めている。また、この期間に海軍准将に昇進しており、提督になった。時の海軍参謀長ドメニコ・カヴァニャーリ提督(Domenico Cavagnari)は潜水艦隊の拡充に力を注いだため、バルサモ提督を始めとする潜水艦指揮官出身の提督たちは待遇が良かったのかもしれない(なお、当時イタリアの潜水艦隊の規模はソ連に次いで世界第二位の規模であった)。

 

◇東アフリカへの赴任

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紅海艦隊司令長官時代のカルロ・バルサモ提督。

1939年末、バルサモ提督は突然東アフリカのマッサワ軍港へ赴任することになる。1939年5月、イタリアはドイツと「鋼鉄協約(Patto d'Acciaio)」と呼ばれる同盟条約を締結し、所謂「ローマ-ベルリン枢軸」が形成されていっていた。これと同時に、イタリアは英国及びフランスとの対立関係を加速させており、特に鋼鉄条約締結に先駆けて行われた4月のアルバニア侵攻で更に取り返しのつかないところまで進んでいた。

こういった状況を受けて、イタリア領東アフリカ副王であったアオスタ公アメデーオ空軍大将(Amedeo di Savoia-Aosta)「イタリア帝国を自国の軍隊だけで守り抜くために、あらゆる状況に備えなければならない」として戦争準備を進めることとなる。そもそも、東アフリカ植民地はリビア植民地と陸で繋がっておらず、仮に英仏側との戦闘が生じた場合は船もしくは航空機による輸送でしか補給が出来なかった。しかし、船に関しても英国にスエズ運河を封鎖されてしまえば、地中海からジブラルタルを抜けて喜望峰回りのルートしか存在せず、それはあまりにも遠すぎて現実的でなかった。

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第二次世界大戦初期(1940年6月~8月)の東アフリカ戦線におけるイタリア陸軍の攻勢。開戦後、カヴァニャーリ提督率いる海軍最高司令部(スーペルマリーナ)は紅海艦隊司令バルサモ提督に対して積極的な攻勢を命じた。

当時のエリトリア総督であったジュゼッペ・ダオディーチェ将軍(Giuseppe Daodice di Daodicca)は、反ファシズム思想の持ち主である熱心な王党派の軍人であったが、差し迫る脅威に備える必要性に駆られ、アオスタ公の命令通りマッサワ軍港を母港とする紅海艦隊の強化に踏み切った。そこで、東アフリカに呼ばれたのが潜水艦指揮官として知られていたバルサモ提督であった。補給が困難であるこの限られた戦場において、最も戦果を挙げられると考えられたのはやはり潜水艦であったからだ。

紅海とアデン湾という狭い海域、補給が困難である、そして、英国のインド-地中海航路の重要な海域...というわけで、このような状況では潜水艦隊が英国のシーレーンに攻撃を与えるには最も効果的だったからだ。東アフリカのフランス艦隊はジブチしか拠点を持っていなかったために、伊海軍にとって脅威ではなかった。そのため、地中海のイタリア艦隊とは反対に、英国艦隊を仮想敵として想定していた。こうして、元は東アフリカの守備艦隊として作られた紅海艦隊であったが、シーレーン妨害の役割として強化され、軍備の強化が図られた

こうして、新しく紅海艦隊の母港マッサワ(マッサウア)に赴任したバルサモ提督は、この小規模な植民地艦隊の戦力増強という大役を任せられた。

イタリア参戦時(1940年6月10日)の紅海艦隊の構成は以下の通りである。

 

◇イタリア紅海艦隊(Flotta del Mar Rosso)

(司令長官:カルロ・バルサモ提督)

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通報艦「エリトレア」

:旗艦・通報艦「エリトレア」

 

◆第三駆逐戦隊

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駆逐艦「フランチェスコ・ヌッロ」

駆逐艦「フランチェスコ・ヌッロ」

駆逐艦「ナザリオ・サウロ」

駆逐艦「ダニエーレ・マニン」

駆逐艦チェーザレ・バッティスティ」

 

◆第五駆逐戦隊

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駆逐艦「レオーネ」

駆逐艦「レオーネ」

駆逐艦「ティグレ」

駆逐艦「パンテーラ」

 

水雷戦隊

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水雷艇「ジョヴァンニ・アチェルビ」

水雷艇「ジョヴァンニ・アチェルビ」

水雷艇「ヴィンチェンツォ・ジョルダーノ・オルシーニ」

 

◆第21MAS艇戦隊

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「MAS213艇」

魚雷艇「MAS204艇」

魚雷艇「MAS206艇」

魚雷艇「MAS210艇」

魚雷艇「MAS213艇」

魚雷艇「MAS216艇」

及び武装小型艇7隻、サンブーキ艇数隻

 

◆第7潜水艦艦隊

■第81戦隊

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潜水艦「アルベルト・グリエルモッティ」

潜水艦「アルベルト・グリエルモッティ」

潜水艦「ガリレオ・フェッラーリス」

潜水艦「ルイージ・ガルヴァーニ

潜水艦「ガリレオ・ガリレイ

 

■第82戦隊

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潜水艦「アルキメーデ」

 

潜水艦「ペルラ」

潜水艦「マッカレー」

潜水艦「アルキメーデ」

潜水艦「エヴァンジェリスタ・トッリチェッリ」

 

◆仮装巡洋艦戦隊

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仮装巡洋艦「ラム2」

仮装巡洋艦「ラムI」

仮装巡洋艦「ラムII

 

◆補助船部隊

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砲艦「ジュゼッペ・ビリエーリ」

砲艦「ポルト・コルシーニ」

砲艦「ジュゼッペ・ビリエーリ」

機雷敷設艦「オスティア」

タンカー「ニオベ」

水船「シレ」

水船「セベト」

水船「バッキリオーネ

病院船「ラムIV」

タグボート「アウゾニア」等

 

構成としては通報艦1隻、駆逐艦7隻、水雷艇2隻、潜水艦8隻、仮装巡洋艦2隻、MAS艇5隻、武装小型艇7隻、砲艦2隻、機雷敷設艦1隻、その他補助船10隻程度、の計45隻といったところである。確かに、イタリアの植民地艦隊としては強化されてはいる方であったが、旧式艦も目立っており、問題点は多かった。そもそも、後に判明するが紅海の高温多湿の環境に向いていなかった地中海向けの設計をした艦船も存在しており、これは戦時中に悲劇を引き起こすこととなる(そもそも、イタリアの参戦は1942年頃と考えられていたため、とりあえずその場しのぎの艦船故にこの結果になったともいえる)。

 

◇紅海における戦いの始まり

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1939年頃のマッサワ市街。

1940年6月10日にムッソリーニ統帥は英国及びフランスに宣戦布告し、イタリア王国は枢軸国側で第二次世界大戦に参戦した。海軍参謀長カヴァニャーリ提督率いるイタリア海軍最高司令部(スーペルマリーナ)は、紅海艦隊に積極的な攻勢を命令した。紅海艦隊の司令官であるバルサモ提督もそれに応じることとなった。

しかし、現状は想像以上に最悪の状況であった。他のイタリア軍の例と同様に、紅海艦隊も準備不足の状態での参戦であったため、当然攻撃準備は整っていなかった。その上、地中海艦隊とは異なり、マッサワを根拠とする紅海艦隊は軍港設備も劣悪で、艦艇の整備も満足に出来なかった。更に開戦後は英国にスエズ運河を封鎖されるため、本国からの支援も一切期待できない(期待出来るとすれば、空軍による支援であったがそれも航空機であるために重量が限定された)。

バルサモ提督は最高司令部からの命令を了承したが、積極的な攻勢をすぐに行うことが不可能である事は理解していた。ひとまず、現状最も有効な策だと思われる方法でバルサモ提督は最高司令部からの期待に応えることにした。それは、先述したように、潜水艦戦隊による待ち伏せ攻撃による連合国船団への攻撃任務であった。

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英国東洋艦隊を指揮したラルフ・レーザム卿。1941年のイタリア紅海艦隊壊滅後は、マルタの司令官となって引き続きイタリア海軍との戦いを続ける。

敵側の海軍を見てみると、英国の東洋艦隊はイタリア紅海艦隊とは比べ物にならないほどに大規模であり、インド洋は「英国艦隊の裏庭」であった。フランス海軍は東アフリカ方面には海軍基地をジブチしか持っていなかったため、通報艦等6隻ほどしか所属しておらず、イタリア紅海艦隊にとっては脅威ではなかった。

潜水艦部隊には各地点での待ち伏せ攻撃を命じた。「マッカレー」はポートスーダン(6月10日出発)、ガルヴァーニ」はオマーン(6月10日出発)、ガリレイ」はアデン南部沖(6月12日出発)、「フェッラーリス」は紅海東部(6月12日出発)、「トッリチェッリ」はバブ・エル・マンデブ海峡(6月14日出発)、「アルキメーデ」はジブチ(6月19日出発)、「ペルラ」はジブチ・タジュラ湾(6月19日出発)での待ち伏せ攻撃を命じられた。潜水艦部隊では唯一「グリエルモッティ」だけ待ち伏せ攻撃には参加せず、マッサワ軍港での待機となった。

 

◇不運な悲劇、灼熱の海での死闘

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「トッリチェッリ」との戦闘の結果、爆沈した英駆逐艦ハルツーム

しかし、始まりは順調にはいかなかった。「フェッラーリス」「ペルラ」「マッカレー」「アルキメーデ」では高温多湿の環境によって空調設備の故障が発生し、塩化エチルの漏洩事故が発生した。地中海向けに作られていたこれらの潜水艦は、高温多湿の紅海の環境には不向きであった。しかも、これによる事故がよりにもよって参戦直後という最悪のタイミングで同時多発的に起こってしまったのである。これによって乗組員は中毒を起こし、体調不良で錯乱状態になっていった(「ペルラ」では艦内が64度にまで達した)。更に、船団攻撃を成功させていたガリレイ」も英海軍の駆潜艇の攻撃を受けて、塩化エチルの漏洩事故が発生した。その結果、「ガリレイ」は換気のために水上航行を強いられる結果となった。

こうした漏洩事故により、「アルキメーデ」はアッサブ港に避難して応急修理した後、マッサワ港に帰還してドッグ入りとなった。「ペルラ」は中毒と高温に苦しみながらも、軽巡「リアンダー」を中心とする英艦隊と交戦した結果、多くの船員が戦死し、応急修理の後マッサワ港に帰還してドッグ入りとなった。「フェッラーリス」もマッサワ港に帰還して修復を受け、「マッカレー」はポートスーダン南東沖のバル・ムーサ・ケビル島にて座礁し、英軍への降伏を拒否した乗組員たちはスーダンから陸路で司令部に救援要請を伝え、海軍と空軍の共同作戦によって、乗組員は救出された。待ち伏せ攻撃に参加していなかった「グリエルモッティ」はこれが初任務となり、「マッカレー」の生存者を救出し、英空軍の哨戒を振り切りマッサワ軍港に帰還した。

この結果、3隻が修復のため行動不能になり、1隻が喪失した。

塩化エチルの漏洩事故によって散々な結果の出だしとなったイタリア紅海艦隊であったが、潜水艦部隊は待ち伏せ攻撃によってまずまずの戦果を挙げた。1940年6月16日には、アデン南部沖にてガリレイ待ち伏せ攻撃によって、英軍の大型タンカー「ジェームズ・ストーヴ」を撃沈した。6月23日には、オマーン沖にて待ち伏せ攻撃したガルヴァーニ英領インドの哨戒艇「パターン」を撃沈している。更に同日、ペリム島沖での「トッリチェッリ」との戦闘の結果、英国海軍の駆逐艦ハルツームが爆沈している。少し間を開けて9月6日にはギリシャ船籍の大型タンカー「アトラス」「グリエルモッティ」が撃沈する戦果を挙げている。

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降伏後、英駆逐艦「カンダハー」に曳航される潜水艦「ガリレイ

ガリレイが船団攻撃の際に攻撃を受けて水上航行を強いられる結果となったと先述したが、この結果艦隊全体にまで影響が広がる悲劇が発生した。ガリレイでは塩化エチルの漏洩事故によって、大半の乗員が中毒を起こし、換気のため潜行時間が限られてしまい、更に中毒の影響で船員はマトモな判断すら出来なくなっていた

6月18日、輸送船を発見したガリレイは主砲を警告のために発射し、この輸送船を停止させた。この輸送船はユーゴスラヴィア船籍の「ドラヴァ」であったが、当時ユーゴスラヴィアは中立国であったため、ガリレイは航行を許可した。この時、輸送船を停止させるために警報で撃った主砲の音が、近くを航行していた英国海軍の砲艦「ムーンストーンに傍受されていた。ムーンストーントロール船を改造した砲艦で、ガリレイを発見した英軍機からの報告を受け、ガリレイ捜索のために駆り出されていた。ムーンストーンに捕捉されたガリレイは交戦したが、塩化エチルの漏洩は解決していなかったため、浮上しての戦いを強いられてしまった。そして、ムーンストーンの攻撃が直撃し、ナルディ艦長他多くの士官が戦死、戦闘指揮が不可能な状態となり、残りの船員は降伏を選択した

ガリレイはその後、アデンに曳航された。英海軍はガリレイから作戦命令書を手に入れ、イタリア潜水艦部隊の待ち伏せ作戦が完全に英海軍に知られる形となった。この情報をもとに、英海軍は6月24日、ガルヴァーニ駆逐艦部隊の爆雷攻撃で撃沈した。更に、6月21日には「トッリチェッリ」爆雷攻撃をするが、「トッリチェッリ」は損傷を受けたものの退避に成功。その後、「トッリチェッリ」はマッサワ軍港を目指したが、ペリム島沖にて英艦隊の追撃を受けて撃沈された。しかし、「トッリチェッリ」も最後まで抵抗し、英国海軍も駆逐艦ハルツーム」を失う損害を受けた

これらの不運な"事故"の結果、イタリア紅海艦隊は潜水艦全8隻のうち、4隻(「ガルヴァーニ」「トッリチェッリ」「マッカレー」「ガリレイ」)を失い、3隻(「ペルラ」「アルキメーデ」「フェッラーリス」)が修復で行動不能となった。つまりは、3隻の修復完了まで行動が可能だった潜水艦は待ち伏せ攻撃に参加していなかった「グリエルモッティ」のみとなったのであるバルサモ提督が戦力として期待していた紅海の潜水艦艦隊は戦闘開始から僅か3週間の間に事実上の壊滅状態に陥ったのであった。

 

◇紅海戦略の再考

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機雷敷設艦「オスティア」

バルサモ提督は、潜水艦8隻のうち7隻が行動不能となった事を受け、紅海における運用戦略の再考を迫られることとなった。バルサモ提督は残存艦隊による小艦隊を形成し、それによる英船団攻撃を実行するように方針転換した。しかし、制海権は完全に英軍に握られていたため、英船団攻撃は沿岸部における夜間攻撃に限られてしまった。また、海軍部隊が一気に劣勢となったため、その穴埋めのためにアトス・マエストリ大尉(Athos Maestri)ジュリオ・チェーザレ・グラツィアーニ大尉(Giulio Cesare Graziani)のような空軍爆撃機パイロットたちが紅海の英船団を攻撃して戦果を挙げた。

一方で、1940年6月~8月にかけて、東アフリカの陸軍部隊は積極的な攻勢を行い、これを成功させていた。まず、フランス戦においてアリ・サビエ要塞等のジブチ国境要塞を制圧し、ヴィッラ・インチーサ休戦協定でジブチ港の使用権を獲得し、ジブチ・フランス軍の武装解除を行った。その後始まった対英戦では、スーダン及びケニアに侵攻して国境の諸都市を制圧し、更に英領ソマリランド全土を完全に征服した。英領ソマリランドの征服によって、ベルベラ港を海軍が運用出来るようになっていたが、英軍は撤退時に港湾設備を徹底的に破壊していたため、イタリア軍はこれの復旧に追われることとなる(結局復旧は間に合わず、活用される前に英軍に奪還された)。

ここで、潜水艦以外の紅海艦隊の艦艇がどういった行動をしていたかを確認してみることとする。イタリアが第二次世界大戦に参戦した6月10日、機雷敷設艦「オスティア」バルサモ提督の旗艦・通報艦「エリトレア」の護衛のもとで、マッサワ沖からアッサブ沖にかけてのエリアに機雷原を設置した。仮装巡洋艦「ラムI」は商船に擬態して輸送船攻撃の任務に従事(または哨戒任務)することとなり、水雷艇「オルシーニ」MAS艇部隊はマッサワ軍港周辺の哨戒任務に従事した。準備が済んでいなかった仮装巡洋艦「ラムII」はマッサワ軍港の対空防衛任務を任され、病院船「ラムIV」は緊急時に負傷者をイタリア本国に移送する役目を担った。潜水艦「ペルラ」が英艦隊の追撃を受けると、第五駆逐戦隊の駆逐艦「パンテーラ」「レオーネ」及び水雷艇アチェルビ」、第三駆逐戦隊の駆逐艦「バッティスティ」「マニン」が救援に向かった。

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英空軍による爆撃で損傷した水雷艇アチェルビ」。三番目の煙突が大きく傾いていることがわかる。

潜水艦の喪失による方針転換後、残存艦隊による英船団攻撃を開始する。7月26日、駆逐艦「ヌッロ」を旗艦とする小艦隊(「ヌッロ」「バッティスティ」及び潜水艦「グリエルモッティ」)が英国船団捜索のためにマッサワを出発するが、発見できずに帰還した。

8月6日、英空軍がマッサワ軍港を爆撃し、水雷艇アチェルビ」が大破炎上した。アチェルビ」は修復が不可能なほどの重傷で、航行不能となり以後出撃出来ず、マッサワ軍港の対空任務のみに従事することとなった。仮装巡洋艦「ラム1」は任務を中断し、マッサワ軍港の対空防衛のために港での待機となった。英海軍・英空軍はマッサワキシマイオといったイタリア領東アフリカの沿岸都市への攻撃を度々実行していた。

8月頃、修復中だった潜水艦(「フェッラーリス」「ペルラ」「アルキメーデ」)の修復が完了し、任務に復帰した。8月14日に再就役した「フェッラーリス」アデン沖英戦艦「ロイヤル・サブリン(後のソ連戦艦「アルハンゲリスク」)」が通過するという情報を受けて、攻撃のために出撃した。バブ・エル・マンデブ海峡にて英駆逐艦を発見、再激するが反撃の爆雷攻撃を受けて8月19日にマッサワ軍港に帰還。その後、8月24日~31日にかけて第三駆逐戦隊及び第五駆逐戦隊、潜水艦部隊が連日夜間に船団捜索任務に従事したが、船団を発見できずに帰還した。

9月6日には潜水艦「グリエルモッティ」は哨戒中にファラサーン諸島沖にて英国のBN4船団を発見した。「グリエルモッティ」は魚雷を発射し、ギリシャ船籍のタンカー「アトラス」を撃沈する事に成功している。しかし、その後は駆逐戦隊・潜水艦部隊共に連日の出撃にもかかわらず、船団を発見する事は出来ず、戦果を挙げられなかった。空軍部隊も英船団の攻撃任務を実行しているが、大した戦果を挙げられていない。

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マリオ・ボネッティ(Mario Bonetti)提督。1888年3月3日、ペトラルカの出身地として知られるアレッツォで生まれた。第一次世界大戦時は潜水艦の艦長として銀勲章を受勲される活躍を見せている。日本に向かうこととなったバルサモ提督の後任としてマッサワ軍港の司令官に任命され、東アフリカ戦線の崩壊まで紅海艦隊を指揮した。彼が司令官に就任した頃、英軍は東アフリカ戦線で反撃を開始し、イタリア軍に有利であった戦況は変わりつつあった。年が明けてケレンでの攻防戦が始まると、東アフリカ帝国の崩壊は時間の問題となり、ボネッティ提督は最後の抵抗を試みる。

10月20日夜間、マッサワ沖にてイタリア艦隊と英国のBN7船団が遭遇した。イタリア艦隊は駆逐艦「ヌッロ」を旗艦とし、「サウロ」「パンテーラ」「レオーネ」で構成されていた。対する英国のBN7船団は32隻の輸送船で構成され、ニュージーランド海軍の軽巡「リアンダー」を旗艦として、駆逐艦1隻、スループ3隻、掃海艇2隻が護衛していた。23時21分に「パンテーラ」が英船団の煙を確認し、戦闘を開始した。6月21日早朝に両艦隊は衝突、その結果双方が損害を受けた。

イタリア側は駆逐艦「キンバリー」の雷撃によって、旗艦「ヌッロ」を撃沈され、第三駆逐戦隊司令官コンスタンティーノ・ボルシーニ少佐(Costantino Borsini)が戦死した。英国側はハーミル島のイタリア軍の沿岸砲台の攻撃を受けて駆逐艦「キンバリー」が大破・航行不能となり、その後「キンバリー」はポートスーダン港まで「リアンダー」に曳航された。また、輸送船1隻が損害を受けた。双方に損害があったものの、イタリア艦隊による船団攻撃は失敗に終わった。

結局、方針転換をしたものの、イタリア艦隊は大した戦果を挙げる事が出来なかった。更に、戦力不足の紅海艦隊にとって、駆逐艦1隻を戦闘で失ったのは打撃となった。この状況を受けて、12月にはバルサモ提督は紅海艦隊の司令長官を解任されることとなり、後任の司令官にはマリオ・ボネッティ提督(Mario Bonetti)が就任した。だが、この解任はバルサモ提督にとって転換点となった。

 

◇極東への旅

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1940年8月~12月の東アフリカ戦線のイタリア支配領域。しかし、1941年の年明けから英軍は大反攻作戦を開始し、イタリア軍優位の状況は一気に崩壊することとなる。

イタリアの第二次世界大戦参戦後、1940年9月27日に「日独伊三国同盟(Patto tripartito)」が締結され、イタリア・ドイツの軍事同盟(ローマ‐ベルリン枢軸)に日本が追加された。つまりは、「ローマ-ベルリン-東京枢軸(Asse Roma-Berlino-Tokio)」、通称"RoBerTo(ロベルト、"Ro"ma-"Ber"lino-"To"kioの頭文字を取った、イタリア版"日独伊"である)"が成立することになる。こうして、日本が正式に新たなイタリアの同盟国となったわけであるが、まだ日本は枢軸国側として参戦していなかった

紅海艦隊を解任されたバルサモ提督は、海軍総司令部(スーペルマリーナ)の意向によって、極秘に同盟国となった日本へ派遣されることになった。しかし、日本はまだ中立国であったため、強力な日本海軍がイタリア海軍を支援してくれるという期待は持てず、更に道中のインド洋は完全に英海軍の制海権にあり、日本への道のりは非常に困難であった。とはいえ、1941年の年明けから英軍は反攻作戦を開始し、東アフリカ戦線の戦況は一気に連合国有利の状況に陥っていた。それに加え、英軍の封鎖によって紅海艦隊の燃料は非常に少なくなっており、行動不能になる前に同盟国の元に辿り着く必要があった。こういったことから、バルサモ提督は同盟国である日本へ行く準備を進めた。

バルサモ提督の「極東への旅」は、旗艦だった通報艦「エリトレア」、仮装巡洋艦「ラムI」及び「ラムII」の3隻が選ばれた。旗艦・「エリトレア」艦長はマリーノ・イアンヌッチ中佐(Marino Iannucci)である(戦後も海軍に残り、提督になった)。バルサモ提督は"極東脱出艦隊"旗艦「エリトレア」に乗艦し、1941年2月19日の夜に密かにマッサワ軍港を出発、英国海軍の封鎖を突破してインド洋に脱出した。2月20日ソマリア沖のソコトラ島(現在はイエメン領)に駐屯する英兵から「エリトレア」は捕捉され、英艦隊が追撃に向かったが「エリトレア」は煙幕を展開して離脱に成功している。

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モルディヴ沖にてニュージーランド海軍の軽巡洋艦「リアンダー」に撃沈された仮装巡洋艦「ラムI」。

インド洋脱出までは英軍の追撃を回避して順調に進めていたがモルディヴ沖にて悲劇が起こった。2月27日早朝に先行して航行していた仮装巡洋艦「ラムI」が、ニュージーランド海軍の軽巡洋艦「リアンダー」に捕捉され、砲撃戦の末に撃沈されてしまったのである。こうして、極東脱出艦隊は3隻のうち1隻を失うこととなったが、残る通報艦「エリトレア」と仮装巡洋艦「ラムII」は連合軍艦船に捕捉されることなく、哨戒網をすり抜けることに成功している。こうして、3月18日に長い航海を終えて、「エリトレア」と「ラムII」は日本の神戸港にほぼ無傷で到着したのであった。

一方、紅海艦隊の残存潜水艦であった潜水艦「ペルラ」「グリエルモッティ」「フェッラーリス」「アルキメーデ」喜望峰をぐるっと回って大西洋に抜けてフランス・ボルドーベータソム基地(イタリア海軍大西洋潜水艦部隊の母港)を目指すこととなった。ボルドーを目指した潜水艦4隻は1隻の喪失も出すことなく、無事に全てボルドーに到着した。その後、4隻は大西洋艦隊所属となり、船団攻撃で活躍した。

 

◇日本での赴任と伊日交流の進展

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マリオ・インデッリ(Mario Indelli)駐日イタリア大使。第二次世界大戦時の駐日イタリア大使で、当時の日本では「インデルリ」という名前で知られた。

日本政府は神戸に突着した二隻を歓迎したものの、当時の日本はまだ第二次世界大戦に参戦しておらず(仮にイタリアが日中戦争において日本を支援しようとしても、中国が連合国側で参戦していないためにこちらも支援出来なかった)、神戸港にて二隻は抑留され、自由な行動を許されなかった。イタリアの同盟国であるが、形式上はいまだに中立国であった日本にとって、このイタリア艦隊の来訪というのは、微妙な事態となった。何故かというと、第二次世界大戦の交戦国の艦船が日本の港に来た際に、これに補給などをすれば中立違反となってしまうからである。

バルサモ提督はこれを機に日本に参戦するよう要請したが、日本側はこれを拒否した。日本来航前に、英国側の目を欺くために仮装巡洋艦「ラムII」に関しては商船「カリテアII」と名称変更され、通報艦「エリトレア」は外交使節の船とされた。イタリア側は駐日イタリア大使であるマリオ・インデッリ大使(Mario Indelli)を通じて日本側にインド洋における2つの艦の作戦許可、つまりは天津に展開するイタリア極東艦隊への合流を要請したが、やはり日本政府はこれを拒否した。日本政府は中立国として振る舞うために、些細なことにも気を回していたが、これはイタリア側としては予想外の態度であり、困った事態となった。

バルサモ提督は、東京の駐日イタリア大使館駐在武官として赴任することとなった。駐日イタリア大使館駐在武官というと、他にはリッカルド・フェデリーチ空軍少尉(Riccardo Federici)が駐在していたことでも知られている。彼はムッソリーニ統帥の愛人として、後に共にパルチザンに殺害されたクラレッタ・ペタッチ(Claretta Petacci)の夫である。フェデリーチ少尉の家庭内暴力で二人の夫婦仲は険悪であったが、当時のイタリアの法律では離婚が出来なかったため、離れるために自ら東京への赴任を希望したらしい(おそらくは、裏でムッソリーニの圧力があったと思われる)。

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アントニオ・カンチェーミ(Antonio Cancemi)氏。バルサモ提督付きの専属料理人として来日し、日本に初めて本格的なイタリア料理をもたらした人物として知られる。現在の日本でのイタリア料理のブームのルーツは彼にあると言えるだろう。

さて、バルサモ提督の来日において、もう一つ重要なことがある。それは、バルサモ提督が紅海艦隊司令長官だった頃からの専属料理人、アントニオ・カンチェーミ(Antonio Cancemi)氏も来日したということである。彼は、「日本で初めて本格的なイタリア料理」を振る舞った人物として歴史に名を残している。一応、この頃の日本でもイタリア料理は食べられていた。しかし、それはおよそイタリア本国のものとは異なるアレンジ料理であり、それは他の西洋料理も同様であった。なお、パスタに関しては明治期にフランス人神父のマルコ・マリー・ド・ロ(Marc Marie de Rotz)氏が長崎の外海でパスタの製法を伝え、国産のパスタ生産が開始されており、九州を中心に普及、後に日本海軍の食事としても採用されていたという。

カンチェーミ氏はシチリア出身の料理人。国立料理学校を首席で卒業するほどの腕前で、ムッソリーニ専属のシェフ候補にも名が上がるほどの実力者だった(本人は辞退した)。そして、紅海艦隊司令長官のバルサモ提督専属のシェフ及び同艦隊の総料理長として、マッサワ軍港で勤務。後にバルサモ提督らと共に日本にやってきて、イタリア休戦で一時的に抑留された後、管理下に置かれながらも解放、そんな中1944年に神戸の外国人居留地で料理を振る舞い、それが戦後に彼が開いたイタリアンレストラン「アントニオ」の発祥となった。

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カンチェーミ氏が開店したイタリアンレストラン「アントニオ」にて、現在まで続く開店当初の伝統メニュー「二色のパスタ」。「二色のパスタ」という名前ではあるが、実は三色。緑、白、赤(ピンク)の色なのは祖国イタリアの三色旗(トリコローレ)をイメージしているのだろうか?太麺でもちもちしていて美味しい手打ちのクリームベースパスタである。

つまり、彼は「日本で初めて本格的なイタリア料理を振る舞った人物」であり、更に「日本初のイタリアンレストラン」を開店した人物であった。それに加えて、イタリア製のエスプレッソマシンも導入したため、「日本で初めてエスプレッソを振る舞った人物」でもある。彼は戦後も祖国に帰らず日本に留まり、両国関係の親善に貢献した。現在、レストラン「アントニオ」は南青山に移転しているが、お店はカンチェーミ氏の孫であるアントニオ・ブルーノ・カンチェーミ氏(Antonio Bruno Cancemi)が切り盛りしている。1944年から続く拘りのメニューもあり、雰囲気も良いお店でおススメだ。気になる人は是非。

この時期に両国関係で進展したのは料理分野だけではない。東京にあるイタリア文化会館が開設されたのもこの時期である。1939年に三井財閥三井高陽男爵がイタリア政府に九段下の土地を寄贈し、1941年3月に初代館長となったミルコ・アルデマンニ(Mirco Ardemanni)氏のもとで落成式典が行われた。なお、現在の文化会館は老朽化によって建て替えられたもので、イタリア人建築家のガエ・アウレンティ(Gae Aulenti)氏の設計によって2005年に落成した。イタリアらしいスタイリッシュなデザインになっており、ホールや教室の名前にはイタリアの文化的な著名人の名前(プッチーニやアニェッリなど)が付いており、イタリア好きな人ならば訪れて損はないだろう。

靖国神社や皇居のすぐ近くの好立地と考えると、当時同盟関係であったイタリアとの関係を重視していたことがよくわかるインデッリ駐日大使らも積極的に協力して両国文化交流に貢献したが、東京大空襲で被害を受けた後、イタリア休戦を受けて同会館は戦後まで閉鎖された(休戦後に日本はイタリア社会共和国(RSI政権)を正式なイタリア政府として承認し、形式的にはイタリアは同盟国のままであるが、日本側による扱いはさほど変わらず同会館は活動を止められている)。

 

◇極東艦隊の発展

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マリーノ・イアンヌッチ中佐。通報艦「エリトレア」の艦長。

さて、話がだいぶ反れてしまったが、海軍関係の話に戻るとしよう。1941年12月に日本が正式に枢軸国側で参戦したため、遂に重い腰をあげた日本政府はバルサモ提督の要請を受け入れ、通報艦「エリトレア」及び仮装巡洋艦「カリテアII(元ラムII)」の作戦行動を許可した。こうして、この2隻は正式に天津を母港とするイタリア極東艦隊の一員となったのであった。バルサモ提督は東京駐在の武官として勤務を継続したため、「エリトレア」艦長のイアンヌッチ中佐が極東艦隊の指揮を執ることとなった。極東艦隊は主に元々の母港である天津、それに共同租界が存在する上海、そして神戸、更に日本軍支配下となっていた太平洋方面の島嶼部の基地を拠点として活動した。

第二次世界大戦も終盤となった1943年3月頃になると、イタリア海軍は物資や人員、兵器の青写真の移送のために遣日潜水艦作戦を発動する(これに加え、イタリアは空軍航空機によるローマ-東京間の連絡便を1942年6月~7月に実行した)。これにより、3隻の潜水艦(「ルイージ・トレッリ」「レジナルド・ジュリアーニ」及び「コマンダンテカッペリーニ」)が日本にやってきた。こうして、極東艦隊は休戦までに以下の7隻となった。

◆砲艦「エルマンノ・カルロット」(元々天津に所属)

機雷敷設艦レパント」(元々天津に所属)

通報艦「エリトレア」(紅海艦隊より合流)

仮装巡洋艦「カリテアII」(紅海艦隊より合流)

◆潜水艦「ルイージ・トレッリ」(遣日潜水艦作戦)

◆潜水艦「コマンダンテカッペリーニ」(遣日潜水艦作戦)

◆潜水艦「レジナルド・ジュリアーニ」(遣日潜水艦作戦)

2隻のみの状態から7隻にまで増えていた。これは快挙である。「エリトレア」や「カリテアII」は潜水艦への補給任務や物資の輸送任務に従事した。

 

◇イタリア休戦と抑留、受難の日々と解放

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イタリアの天津租界にあるエルマンノ・カルロット要塞。極東イタリア軍の総司令部に当たる。現在も旧イタリア租界に他のイタリア時代の建築と共に現存している。

しかし、1943年9月8日に極東におけるイタリアの状況は一変した。イタリア王国政府の休戦である。1943年7月26日にムッソリーニ統帥が王党派のクーデターで失脚した後、成立した開戦時の参謀総長ピエトロ・バドリオ元帥(Pietro Badoglio)率いる新政権は、表面上は枢軸国として戦闘を継続しているものの、裏では連合国側と講和交渉をしていた。それによって、9月8日に休戦宣言がなされた

極東イタリア軍の本部であったエルマンノ・カルロット要塞は日本軍に包囲され、小規模な戦闘の後に、後に成立するイタリア社会共和国(RSI政権)側へ忠誠を誓わなかったイタリア人は強制収容所送りとなった。イタリア租界は南京の中華民国国民政府(所謂汪兆銘政権)によって併合され、RSI政権もそれを認めた。後に1947年のパリ講和条約でイタリアは正式に天津のイタリア租界を放棄、中国に復帰することになる。RSI側に忠誠を誓ったイタリア軍人は日本海軍やドイツ海軍に協力することを「許可」された

日本及び日本占領下の地域では、イタリア人は「敵性外国人」として抑留されていった。しかし、彼らがRSI政権に忠誠を拒否して「裏切り者」のバドリオ政府に味方をした「敵性外国人」であったというのは疑わしい事実であった。既に「イタリア人は裏切り者」というムードが高まっていた日本において、RSI政権に忠誠を誓ったからといってイタリア人が信頼を得られたわけではない。軍人や外交官ならまだしも、民間人であればなおさらである。

実際、伊日の経済協定締結に尽力したイタリア商務参事官のローモロ・アンジェローネ氏(Romolo Angelone)ムッソリーニ統帥に忠誠を誓う熱烈なファシスト党員であったが抑留されており、彼は収容所から不当の抑留について抗議している。京大でイタリア語講師を務めていたフォスコ・マライーニ氏(Fosco Maraini)は収容所の悲惨な環境に抗議し、自らの小指を斧で切断し看守に見せつけた。このエピソードはよく知られている。収容所のイタリア人らには、生命を維持する最低限度の食糧しか与えられずその食糧すらも抑留者を管理する警察官によって横領されていた。栄養失調で痩せ衰えたイタリア人たちは外部からの差し入れなどによって飢餓と戦っていたのである。

インデッリ駐日大使や駐在武官バルサモ提督やフェデリーチ少尉のような東京の駐日イタリア大使館に勤務していた人々も逮捕された。RSI政権側に付くか、王国政府側に付くか、という所謂「宣誓式」が行われたが、殆どの大使館職員は王国政府側に宣誓したとされる。これはバルサモ提督もそうで、そのため日本当局に逮捕された。しかし、全員のイタリア人がずっと抑留され続けたわけではないようで、カンチェーミ氏のように一時的な抑留の後に解放され、神戸の外国人居住地での労働が許された人もいた(おそらく、当局に"無害"とされた外国人に対してだろう)。

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日本海軍に接収され、砲艦「興津」となった機雷敷設艦レパント」。上海-青島間の船団輸送中に撮影された写真である。戦後、中国海軍に接収され、「咸寧」となった。つまりは、イタリア→日本→中国の三か国海軍を渡り歩いた軍艦だった。

休戦発表時に船団護衛中であった通報艦「エリトレア」に関してだが、艦長のイアンヌッチ中佐は本国の海軍参謀長ラッファエーレ・ド・クールタン(Raffaele De Courten)提督からの指令に従い(「イタリア艦艇は連合国、もしくは中立国の港で武装解除を受ける。到達が不可能な場合は自沈せよ」)、日本海軍の追撃を振り切ってセイロンで英海軍に武装解除を受けた仮装巡洋艦「カリテアII」は神戸港で自沈機雷敷設艦レパント」及び「エルマンノ・カルロット」は上海港で自沈した。しかし、本国の命令を忠実に従ったイタリア人に対して日本人は激しく怒り、苛酷な扱いをしたのは言うまでもない。港湾内で自沈された「カリテアII」、「レパント」及び「エルマンノ・カルロット」は日本軍によって浮揚・修復され、「カリテアII」は「生田川丸」レパント」は「興津」「エルマンノ・カルロット」は「鳴海」として日本海軍で再就役を果たした。「生田川丸」は1945年に米軍の空爆で撃沈するが、「興津」と「鳴海」は終戦まで生き残り、中国海軍に接収された。

潜水艦「トレッリ」「カッペリーニ」「ジュリアーニ」の三隻は、ドイツ海軍に拿捕され、RSI海軍に忠誠を誓ったイタリア人乗員とドイツ人乗員の混合で運営された。なお、RSI政権とドイツが降伏した後は「トレッリ(UIT25)」「カッペリーニ(UIT24)」は日本海軍に接収されて、「伊504」「伊503」として就任している。なお、ジュリアーニ(UIT23)」は英海軍に1944年に撃沈され、戦没している。

バルサモ提督は日本にいたイタリア人らの中でも重要人物(高位の海軍将官)であったため、日本当局によって抑留が続けられていた。結局、彼が解放されるのは日本が連合国に降伏し、アメリカ軍の進駐によって1945年9月に解放された。そしてしばらく日本で過ごした後、1946年2月に帰国の許可が下りてイタリアに帰ったのであった。帰国後、1947年に海軍中将に昇進したバルサモ提督は、1948年から故郷ターラントの海軍軍事部長に任命された後、1951年に予備役となった。そして、1960年5月22日に、その波乱の生涯を終えたのであった。

 

第二次世界大戦時の日本とイタリアの関係は、休戦後に受難の時期があったとはいえ、文化的にも非常に交流が進んだ時期であった。本格的なイタリア料理の伝来や、イタリア文化会館の創設など、現在の日本における「イタリアンブーム」のルーツはこの時期にあるとも言えるだろう。そのブームの火付け役として、東アフリカから戦火を逃れてやってきた一人の海軍提督がかかわっていた、というのは非常に興味深い。

イタリア海軍の提督兄弟、ブリヴォネージ兄弟:後編(第二次世界大戦編) ―艦隊指揮官兄弟の苦悩と栄光―

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ブリヴォネージ兄弟。左が兄ブルーノ・ブリヴォネージ(Bruno Brivonesi)、右が弟ブルート・ブリヴォネージ(Bruto Brivonesi)。

今回は、前回のブリヴォネージ兄弟の記事の続きというわけで、前回の続きで第二次世界大戦の二人の戦歴を紹介しよう。ブリヴォネージ兄弟は第一次世界大戦までの歩みは、兄ブルーノは海軍航空隊、弟ブルートは海兵隊員と違うものの、戦間期を通じて同じ道を歩むこととなり、結果的に二人とも海軍提督として第二次世界大戦で艦隊を指揮することとなった。詳しくは前回の記事を参考にされたし。

 ↓前回の記事(前編)

associazione.hatenablog.com

 

 

◇地中海戦線初の大規模海戦

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コンテ・ディ・カヴール級戦艦のネームシップ、戦艦「コンテ・ディ・カヴール」。第一次世界大戦時の1915年に就役した戦艦で、WW1時はアブルッツィ公の旗艦として知られた。戦間期には姉妹艦の「ジュリオ・チェーザレ」と共に近代化改修を受け、新造艦と見違えるような徹底的な改修工事がなされている。

1940年6月10日、イタリアは第二次世界大戦に参戦した。ブルートが指揮する第五戦艦戦隊は、ターラント軍港を根拠地とする主力艦隊の一角であり、カンピオーニ提督が乗る艦隊旗艦・戦艦「ジュリオ・チェーザレ」と共に行動した。第五戦艦戦隊は「ジュリオ・チェーザレ」の姉妹艦である戦艦「コンテ・ディ・カヴール」を旗艦とし、駆逐艦8隻で構成されていた。これに加え、7月15日に戦艦「カイオ・ドゥイリオ」が近代化改修を終えて参入し、更に10月26日にはその姉妹艦である戦艦「アンドレア・ドーリア」が近代化改修を終えて加わった。これによって後に戦艦4隻構成になるが、開戦時の段階では戦艦2隻・駆逐艦8隻だった

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イニーゴ・カンピオーニ提督。大戦前半のイタリア第一艦隊司令長官。

イタリア海軍の活動が本格化することになったのはフランス休戦後からである。フランス海軍が大戦から脱落したことで、地中海はイタリア海軍と英海軍の戦場となった。7月9日にはこの伊英両主力艦隊による初の大規模海戦が発生する。開戦に参加した艦艇は以下の通り。

◇イタリア第一艦隊(戦闘艦隊)

(イニーゴ・カンピオーニ提督):旗艦・戦艦「ジュリオ・チェーザレ

◆第五戦艦戦隊(ブルート・ブリヴォネージ提督)

:旗艦・戦艦「コンテ・ディ・カヴール」

+第七駆逐戦隊

駆逐艦フレッチャ

駆逐艦「サエッタ」

駆逐艦「ダルド」

駆逐艦「ストラーレ」

+第十五駆逐戦隊

駆逐艦「アントニオ・ピガフェッタ」

駆逐艦「ニッコロ・ゼーノ」

◆第六巡洋艦戦隊(アルベルト・マレンコ提督 Alberto Marenco di Moriondo)

:旗艦・軽巡「アルベリーコ・ダ・バルビアーノ」

軽巡「アルベルト・ディ・ジュッサーノ」

◆第七巡洋艦戦隊(ルイージ・サンソネッティ提督 Luigi Sansonetti)

:旗艦・軽巡「エウジェニオ・ディ・サヴォイア

軽巡「ドゥーカ・ダオスタ」

軽巡「ライモンド・モンテクッコリ」

軽巡「ムツィオ・アッテンドーロ」

+第十三駆逐戦隊

駆逐艦「グラナティエーレ」

駆逐艦「フチリエーレ」

駆逐艦「ベルサリエーレ」

駆逐艦「アルピーノ」

◆第八巡洋艦戦隊(アントニオ・レニャーニ提督 Antonio Legnani)

:旗艦・軽巡「ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」

軽巡ジュゼッペ・ガリバルディ

+第十六駆逐戦隊

駆逐艦「ニコローゾ・ダ・レッコ」

駆逐艦「エマヌエーレ・ペッサーニョ」

駆逐艦「アントニオット・ウゾディマーレ」

駆逐艦「レオーネ・パンカルド」

 

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リッカルド・パラディーニ提督。重巡を主力とする第二艦隊の司令長官。プンタ・スティーロ沖海戦を指揮した後、心臓病で倒れたことによってイアキーノ提督と交代となる。その後、回復して再び軍務に戻ったが、再度容体が悪化し、1943年春に心臓発作で急死した。

◇イタリア第二艦隊(援護艦隊)

(リッカルド・パラディーニ提督 Riccardo Paladini):旗艦・重巡「ポーラ」

+第十二駆逐戦隊

駆逐艦「ランチエーレ」

駆逐艦「カラビニエーレ」

駆逐艦「コラッツィエーレ」

駆逐艦「アスカリ」

◆第一巡洋艦戦隊(ペッレグリーノ・マッテウッチ提督 Pellegrino Matteucci)

:旗艦・重巡「ザラ」

重巡「フィウーメ」

重巡「ゴリツィア」

+第九駆逐戦隊

駆逐艦「ヴィットーリオ・アルフィエーリ」

駆逐艦ジョズエ・カルドゥッチ

駆逐艦「ヴィンチェンツォ・ジョベルティ」

駆逐艦アルフレード・オリアーニ」

 

◆第三巡洋艦戦隊(カルロ・カッターネオ提督 Carlo Cattaneo)

:旗艦・重巡トレント

重巡ボルツァーノ

+第十一駆逐戦隊

駆逐艦「アルティリエーレ」

駆逐艦「カミーチャ・レーラ」

駆逐艦「アヴィエーレ」

駆逐艦「ジェニエーレ」

 

イタリア艦隊はナポリからベンガジへの輸送船を護衛し、その後ターラント軍港への帰路の途中に同じく船団護衛のためにアレクサンドリア港から出港した英艦隊に遭遇した。英艦隊は戦艦「ウォースパイト」を含む戦艦3隻、空母1隻、駆逐艦16隻で構成されていた。海戦は伊巡洋艦艦隊が空母「イーグル」から放たれた雷撃機を迎撃して始まり、相互の艦隊同士の砲撃戦が行われた。この時の砲撃戦で英艦隊の旗艦「ウォースパイト」から放たれた砲弾が伊艦隊の旗艦「ジュリオ・チェーザレ」に直撃したが、これは約26,000mも離れた距離から当たったため、「移動目標に対する最長の命中記録」として記録されている(ボイラー室が損傷したため速度が下がったが、迅速なダメコンによって被害自体は最小限に抑えることが出来た)。一方、英艦隊も戦艦「ジュリオ・チェーザレ」の砲撃で駆逐艦「デコイ」及び駆逐艦「へレワード」が中破、伊軽巡ジュゼッペ・ガリバルディ」の砲撃で軽巡ネプチューン」が中破して艦隊が損害を被ったため、イタリア艦隊の追撃を放棄してアレクサンドリア港に帰還する事を決めた。

イタリア空軍はこれの追撃を行ったが、出動が遅くあまり成果は上げられなかった(海軍と空軍の連携不足の結果と言える)。とはいえ、空軍のSM.79による爆撃によって英軽巡グロスター」が攻撃を受けて中破している。このプンタ・スティーロ沖の海戦は地中海での初めての大規模海戦であったが、両軍は双方に大した打撃を与える事が出来ず、お互いに損傷艦を出しただけの事実上引き分けで戦闘が終了した。損害はイタリア側が戦艦「ジュリオ・チェーザレ」、重巡ボルツァーノ」、駆逐艦「アルフィエーリ」の計3隻が損傷し、英国側が軽巡ネプチューン」及び「グロスター」、駆逐艦「デコイ」及び「へレワード」の計4隻が中破した。とはいえ、イタリア艦隊は英艦隊の撃退に成功したことから、ムッソリーニは一大勝利としてこれを讃えている。この武勲から、ブルートは銀勲章を叙勲された。イタリア海軍の認識としては、この初の大規模海戦は勝利に終わった

 

リビア艦隊の苦悩

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対空警戒するトブルク軍港の巡洋艦「サン・ジョルジョ」。

一方で、兄ブルーノが指揮するリビア艦隊は、リビア東部キレナイカの主都であるベンガジ軍港を母港とし、エジプト国境に近いトブルク軍港も指揮下としていた。開戦時、この二つの軍港に展開していた軍艦はベンガジ(駆逐艦4隻 機雷敷設艦1隻 砲艦1隻)トブルク(巡洋艦1隻 駆逐艦4隻 潜水艦10隻 砲艦5隻 補助船3隻)であった。

なお、6月28日に彼の指揮下であったトブルク軍港の対空巡洋艦「サン・ジョルジョ」とトブルク基地の対空砲火によって、敵機と間違えてリビア総督のバルボ空軍元帥が乗る機体が誤って撃墜される事件が起こっている(ブルーノが当時トブルクに駐在していたわけではないので、彼の責任とは言えない)。

ブルーノはリビア艦隊の司令官として、潜水艦による英海軍アレクサンドリア軍港の攻撃を計画した。8月18日に作戦は決行され、ブルーノは機雷敷設艦「モンテ・ガルガーノ」を旗艦として作戦を開始する。この作戦は潜水艦「イリーデ」と水雷艇カリプソ」によるアレクサンドリア港攻撃作戦で、ブルーノが乗る機雷敷設艦「モンテ・ガルガーノ」はその二隻の補給艦としての役割を果たした。

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雷撃されて撃沈・転覆した機雷敷設艦「モンテ・ガルガーノ」。ブルーノを含む乗組員は早く艦から脱出したため全員無事だった。

この作戦はWW2初のアレクサンドリア港攻撃作戦となったが、結果は散々たるものとなった。攻撃目標であるアレクサンドリア港に向かうために3隻が航行していたところ、英軍偵察機によって捕捉され、8月22日にボンバ湾で3隻は英軍雷撃機による攻撃を受けることとなり、潜水艦「イリーデ」と機雷敷設艦「モンテ・ガルガーノ」は爆沈したのであった。これによって作戦は失敗したが、「モンテ・ガルガーノ」は撃沈されたものの、ブルーノら乗組員は転覆する前の脱出に成功、全員が浅瀬に上陸できたため、何とか生還することが出来た。今回は失敗に終わったが、幾度もの挑戦は1941年12月のアレクサンドリア港攻撃でようやく実を結び、英戦艦「クイーン・エリザベス」及び戦艦「ヴァリアント」の二隻の主力戦艦の撃沈に成功したのであった。

1940年9月、ロドルフォ・グラツィアーニ元帥(Rodolfo Graziani)率いる陸軍がエジプト侵攻を開始し、本格的に北アフリカ戦線が開幕する。しかし、翌年には英軍の反攻作戦によってエジプトの占領地を失うどころか、リビアにまで侵攻され、トブルクはおろか、1941年2月までにはリビア艦隊の母港であるベンガジすらも失うこととなった。トブルク陥落時にはリビア艦隊所属の対空巡洋艦「サン・ジョルジョ」(艦長:ステーファノ・プリエーゼ中佐 Stefano Pugliese)が最後まで抵抗し、鹵獲を防ぐため最終的に自沈をした。これを受け、ブルーノはリビア艦隊の司令部を臨時的にトリポリに移したが、ベンガジ軍港が解放された後の1941年4月24日、サンソネッティ提督に後任を任せ、新たに重巡トリエステ」を旗艦とする第三巡洋戦隊の司令官に任命された。

 

ターラントの悪夢とホワイト作戦阻止

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ターラントの悪夢。ターラント軍港に集結していたイタリア主力艦隊に対して、英海軍雷撃機が一気に攻撃を実行、戦艦3隻が大破する大損害を被った。

一方で、弟ブルートの方はどうだったかというと、プンタ・スティーロ海戦後にイタリア海軍史上最悪の悪夢を経験することとなった。それは、1940年11月11日深夜から翌日早朝に掛けて、英空母「イラストリアス」から発艦した艦載雷撃機によってターラント軍港が爆撃された「ターラント空襲(ターラントの夜)」のことである。ブルート率いる第五戦艦戦隊の旗艦であった戦艦「コンテ・ディ・カヴール」、僚艦である戦艦「カイオ・ドゥイリオ」、更にカルロ・ベルガミーニ(Carlo Bergamini)提督率いる第九戦艦戦隊の旗艦であった最新鋭戦艦「リットーリオ」までもが大損害を被り、行動不能となったのであった。「カイオ・ドゥイリオ」と「リットーリオ」は後に修復を完了して戦線に復帰したが、「コンテ・ディ・カヴール」の被害は甚大であり、結局休戦までに修復は完了しなかったため、事実上全損(撃沈)扱いであった

この大損害を受け、海軍参謀長であるドメニコ・カヴァニャーリ(Domenico Cavagnari)提督は更迭され、後任にはアルトゥーロ・リッカルディ(Arturo Riccardi)提督が就任した。リッカルディ提督はイタリア海軍の遅れに柔軟に対応し、空母建造(空母「アクィラ」及び空母「スパルヴィエロ」)やレーダー開発を進めさせたが、レーダーは何とか間に合って量産出来たものの(メッシーナ海峡での夜戦で大きな戦果を示した)、空母は結局休戦まで完成しなかった。

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ターラント港内に大破着底した戦艦「コンテ・ディ・カヴール」。この攻撃によって、ブルートは旗艦を失うこととなった。

ターラントの奇襲によってイタリア主力艦隊の脅威を一掃した英軍は、マルタ防衛のために同島の航空機増強を計画した。1940年11月17日、英海軍はマルタ島への航空機輸送作戦「ホワイト」を発動、空母「アーク・ロイヤル」及び空母「アーガス」から艦載機がマルタに向けて発艦した。これを巡洋戦艦レナウン」及び軽巡2隻・駆逐艦7隻が護衛した。しかし、これに対してカンピオーニ提督率いるイタリア第一艦隊が出発。ブルートもターラントの空襲で旗艦「コンテ・ディ・カヴール」を失ったが、同艦隊参謀長として、戦艦「ジュリオ・チェーザレ」に同船している。

カンピオーニ提督率いる艦隊は戦艦「ジュリオ・チェーザレ」を旗艦とし、戦艦「ヴィットーリオ・ヴェネト」、2隻の重巡及び数隻の駆逐艦で構成されていた。このイタリア艦隊の登場は、英海軍の作戦妨害に効果的であった。発艦時間を早めた結果、様々な要因によって英海軍の作戦は失敗することとなったのである。発艦した14機の内9機が失われ、僅か5機しかマルタ島に到着できなかった。特に、経験豊富な戦闘機パイロットを失ったのは英国にとって打撃が大きく、サマヴィル提督は「凄まじい失敗である」と述べた。イタリア艦隊は英海軍の作戦阻止に成功したのであった

 

◇テウラダ岬とジェノヴァ砲撃

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攻撃を受ける英空母「アーク・ロイヤル」

英艦隊はホワイト作戦の失敗後、ターラント空襲でイタリア海軍が麻痺している間に、大輸送船団の地中海横断計画を立てた。これは11月24日から開始され、まず輸送船団がジブラルタル海峡を越えて地中海に入り、同じくジブラルタル出港の巡洋戦艦レナウン」及び空母「アーク・ロイヤル」を始めとする艦隊(巡洋戦艦1、空母1、巡洋艦2、駆逐艦9、コルベット4)がこれを護衛した。同時にアレクサンドリア港から「ラミリーズ」など戦艦5隻、空母2隻及び巡洋艦3隻が出港した。この計画はアレクサンドリア港を出た艦隊のうち、空母1隻と戦艦2隻はシチリア海峡を通過したところでアレクサンドリア港に引き返し、他の空母1隻と戦艦2隻は輸送船の護衛、残りの戦艦1隻と巡洋艦3隻は航行を続けてジブラルタルに入港することとなった。

11月26日、カンピオーニ提督はこの英艦隊への攻撃を決定し、艦隊を出発させた。ブルートも参謀長として同行している。カンピオーニ提督率いる第一艦隊は戦艦「ジュリオ・チェーザレ」を旗艦とし、戦艦「ヴィットーリオ・ヴェーネト」と7隻の駆逐艦で構成された。第二艦隊は指揮を執るリッカルド・パラディーニ提督が心臓疾患で倒れたため、後任司令官となったアンジェロ・イアキーノ(Angero Iachino)提督のもとで、重巡洋艦「ポーラ」を旗艦とし、重巡6隻、駆逐艦7隻で構成されていた。

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海戦中の重巡ボルツァーノ

11月27日には、サルデーニャ島南のテウラダ岬沖にて、イタリア艦隊はジェームズ・サマヴィル提督率いる英国艦隊と遭遇した。英国艦隊はサマヴィル提督率いるB部隊とランスロットホランド提督率いるF部隊で構成された。B部隊は戦艦「ラミリーズ」を旗艦とし、巡洋戦艦レナウン」、空母「アーク・ロイヤル」、駆逐艦9隻で構成された。F部隊は重巡1隻、軽巡4隻で構成されていた。イアキーノ提督率いる巡洋艦隊は戦闘を有利に進めていったが、戦闘中止命令を受けて撤退した。イタリア艦隊はホランド艦隊の重巡洋艦「ベリック」及び軽巡マンチェスター」に対して損害を与えた。他方、イタリア艦隊は重巡洋艦トリエステ」と駆逐艦「ランチエーレ」が被害を受けた。特に「ランチエーレ」の被害は大きく、基地に曳航された。海戦は戦艦「ヴィットーリオ・ヴェネト」が主砲斉射によって英艦隊を後退させたことで終結した。結局勝敗は付かずに両軍は撤退し、両艦隊は双方に被害を出した

テウラダ岬海戦後、慎重な指揮によって決定的な勝利を出せずにいたカンピオーニ提督は第一艦隊司令官から解任され、新たにイアキーノ提督が第一艦隊司令官となった。同時に第一艦隊参謀長だったブルートも第一艦隊参謀長の職から外れ、第五戦艦戦隊の司令官のみとなった。戦艦「コンテ・ディ・カヴール」の戦列復帰は困難であることから、正式に旗艦を戦艦「ジュリオ・チェーザレ」に変更した

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SIS(海軍諜報部)長官のフランチェスコ・マウジェリ提督。プンタ・スティーロ沖海戦では大佐で、軽巡ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ」の艦長を務めた。1941年からSIS長官となり、海軍の諜報活動を指揮する。戦後、ド・クールタン提督の後任として海軍参謀長に就任し、共和国海軍二代目の海軍参謀長となった。

1941年2月9日、戦艦「ヴィットーリオ・ヴェネト」を旗艦とするイアキーノ提督率いる第一艦隊は、フランチェスコ・マウジェリ(Francesco Maugeri)提督率いるSIS(海軍諜報部)の情報により、英国艦隊によるジェノヴァ攻撃作戦計画を知る。これを受け、イアキーノ提督率いる第一艦隊は出撃を迎撃を開始ブルートも第五戦艦戦隊の司令官として、旗艦「ジュリオ・チェーザレ」及び僚艦「アンドレア・ドーリア」と共に参加した。イタリア側の参加戦力は戦艦3隻(「ヴィットーリオ・ヴェネト」「ジュリオ・チェーザレ」「アンドレア・ドーリア」)と駆逐艦7隻(「マエストラーレ」「リベッチオ」「グレカーレ」「シロッコ」「グラナティエーレ」「フチリエーレ」「アルピーノ」)で構成された第一艦隊で、それにサンソネッティ提督率いる第三巡洋艦戦隊(旗艦・重巡トリエステ」)が合流した。この第三巡洋艦戦隊は重巡3隻(「トリエステ」「トレント」「ボルツァーノ」)と駆逐艦3隻(「コラッツィエーレ」「カラビニエーレ」「カミーチャ・レーラ」)で構成された。しかし、阻止には間に合わず、追撃しようとするもヴィシー・フランスの船団を誤認してしまったため、失敗に終わった

その後ブルート率いる第五戦艦戦隊は艦隊に復帰した戦艦「カイオ・ドゥイリオ」を迎え(ターラント空襲の被害でドッグ入りして修復していた)、戦艦3隻(「ジュリオ・チェーザレ」「カイオ・ドゥイリオ」「アンドレア・ドーリア」)の体制に戻り、中央地中海における北アフリカ船団護衛に従事した。

 

◇対潜水艦戦指揮における武勲

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ルイージ・リッツォ提督。第一次世界大戦時はMAS艇の艇長として、トリエステ港攻撃(海防戦艦「ウィーン」撃沈)やプレムダ沖海戦(戦艦「スツェント・イストファン」を撃沈)などで大勝利を手に入れた海軍の英雄である。第二次世界大戦では再度現役に復帰し、優れた戦略でシチリア方面における対潜水艦戦を指揮した。

1941年11月、ブルートは第五戦艦戦隊の指揮官を解任され、ローマの海軍最高司令部(スーペルマリーナ)に召還された。ブルートは新たに対潜艦隊の総監に任命され、リッカルディ海軍参謀長の元でイタリア海軍の対潜水艦戦を指揮した。そして、彼の元で第二次世界大戦のイタリア海軍の対潜水艦戦は優れた戦果を残した

第二次世界大戦時のイタリア海軍は特段対潜装備に優れていたわけではない。しかし、イタリア海軍は主に地中海で多くの敵潜水艦を沈めているという事実がある。しかも、沈めた英潜水艦の数は枢軸国(ドイツ・イタリア・日本)の中で最も多く、それに加え、王立イタリア海軍が事実上1940~43年の3年にも満たない期間しか活動をしてない、と考えるとかなりの戦果である。英国海軍と積極的に戦い、更に潜水艦を多く運用していた上に、交戦期間が1939~45年と最も長かったドイツ海軍よりも多い戦果というのは、高く評価出来る判断基準になるだろう。
何故イタリア海軍が効果的に対潜戦で戦果を挙げたか、というと、地中海は外洋に比べて透明度が高く、潜水艦の運用が難しかったのが理由の一つなようだ。開戦時、イタリア海軍はソ連に次ぐ世界第二位の潜水艦保有量であったが、イタリア海軍は潜水艦を強化し、それは多くの戦果を挙げた一方で、地中海という環境では運用が難しかったのである。イタリア海軍にとっては、対潜戦が優位な一方、潜水艦の運用は難しかった。これは、敵側の連合軍海軍でも同じ話であった

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スピカ級水雷艇の一隻、「チルチェ」。第二次世界大戦のイタリア海軍による対潜水艦戦で最も戦果を挙げた水雷艇で、開戦から戦没までの間に、英潜水艦「テンペスト」「グランパス」「ユニオン」「P38」の計4隻の潜水艦を撃沈している。1942年に戦没し、パルマス艦長含む65人の船員は死亡した。

ターラントの悪夢の後に海軍参謀長となったリッカルディ提督は、前任のカヴァニャーリ提督よりも柔軟に対応した。彼が力を入れたモノの一つが、まさに対潜水艦戦であった。英国海軍は元々潜水艦の保有量は少なかったが、開戦後、近距離哨戒用の潜水艦を大量生産し、地中海に送り込んだ。これらの潜水艦はイタリア船団の最大の脅威になった。こうして、船団護衛と同時に対潜戦が重視されるようになったのである。

新たに対潜水艦戦を指揮することになったブルートの元にはフェデリーコ・マルティネンゴ提督(Federico Martinengo)アルベルト・ダ・ザーラ提督(Alberto Da Zara)ルイージ・リッツォ提督(Luigi Rizzo)といった優秀な人材が揃っていた。特にダ・ザーラ提督は優秀な艦隊指揮官としても知られ、後に6月中旬の海戦で大きな戦果を挙げたことで知られる。更に、リッツォ提督も第一次世界大戦時のMAS艇部隊の英雄で、特にプレムダ沖海戦でオーストリア海軍の主力戦艦「スツェント・イストファン」を撃沈した大戦果で知られていた。彼らの優秀な指揮をブルートがまとめ上げ、主に水雷艇部隊による船団護衛と、それに伴う対潜水艦戦が展開され、多くの戦果を挙げていった...というわけであった。ブルートはこの職を1943年4月まで務めた。その後、ターラントに本部を置くイオニア海及び下部アドリア海隊司令部の司令官を任せられている。

 

◇「デュースブルクの敗北」

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トレント重巡洋艦2番艦の重巡トリエステ」。

ここで、兄ブルーノの行動を見てみよう。第三巡洋艦戦隊の指揮官となったブルーノは、重巡トリエステ」を旗艦とし、重巡3隻(「トリエステ」「トレント」「ボルツァーノ」)及び駆逐艦3隻(「コラッツィエーレ」「ランチエーレ」「アスカリ」)から構成される艦隊を指揮した。1941年5月24日には船団護衛中に英潜水艦「アップホルダー」によって襲撃を受け、貨客船「コンテ・ロッソ」が撃沈されてしまった。なお、「アップホルダー」は後に弟ブルート率いる対潜部隊の水雷艇「ペガソ」の爆雷攻撃で撃沈されており、仇討ちに成功している。

その後、同年9月下旬、戦艦「ネルソン」を旗艦とする英船団への攻撃のために、先ほどの重巡3隻と駆逐艦3隻に加え、新たにソルダーティ級駆逐艦「カラビニエーレ」を戦隊に追加して出撃したが、肝心の英船団とは会敵出来ずに帰還している。

続いて、11月にはブルーノはデュースブルク船団の戦い」を指揮した。これはドイツの輸送船「デュースブルク」を中心とする北アフリカ輸送船団を護衛していたブルーノ率いる第三巡洋艦戦隊と、それの到達を阻止しようとする英海軍部隊の戦いで、リビアのシルテ湾にて起こった偵察機からの情報で北アフリカ輸送船団の存在を知った英海軍は、2隻の軽巡と2隻の駆逐艦から為る艦隊を派遣したのであった。

ブルーノ率いる第三巡洋艦戦隊は、重巡トリエステ」を旗艦とし、僚艦の「ゴリツィア」と共に、駆逐艦10隻(その内4隻は直属(「グラナティエーレ」「ベルサリエーレ」「フチリエーレ」「アルピーノ」)6隻は分遣隊「マエストラーレ」「リベッチオ」「グレカーレ」「オリアーニ」「フルミネ」「エウロ」)で編成された。これが7隻から成る輸送船団を護衛することとなった。基本的には近接護衛を担当する分遣隊が輸送船団を護衛し、後方から遠距離で重巡2隻・駆逐艦4隻の護衛艦隊が追従した。

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攻撃を受けて炎上するイタリアの輸送船

11月7日、ブルーノ率いるイタリア船団はナポリを出発して北アフリカに向かった。英国側はこの情報を掴み、2隻の軽巡と2隻の駆逐艦から為る艦隊を差し向けてこの船団を攻撃することとした。英艦隊による船団攻撃は、イタリア艦隊が苦手とする夜間に実行された8日深夜から翌日早朝に掛けて行われ、レーダーを持っていないイタリア艦隊は奇襲を許し、大損害を被ったイタリア艦隊は駆逐艦「フルミネ」が撃沈されたが、英海軍側の損害は僅か駆逐艦1隻が小破したのみであった。ブルーノ率いる遠距離護衛部隊はこの攻撃を艦隊ではなく航空機による攻撃だと誤認したため、上手く対応できず、敗北を喫することとなったのである。

この敗北を受け、ブルーノは軍法会議にまでかけられたが、イアキーノ提督の助け舟によって無罪で済んだ。しかし、「デュースブルクの敗北」以降、ムッソリーニとブルーノの対立は酷いことになり、ブルーノは反ファシズムに傾倒することとなる。その後、海軍最高司令部(スーペルマリーナ)の副参謀長に任命されてリッカルディ提督を補佐しており、弟ブルートと同じ職場で勤務した。そして、ラ・マッダレーナに本部を置くサルデーニャ隊司令部の指揮官に新たに就任し、西部地中海方面の艦隊運営を指揮している。正直なところ、ブルーノは海軍航空の先駆者として名を知られていたものの、艦隊指揮能力があったかと言われると、かなり微妙なところである。

 

◇ラ・マッダレーナの悲劇

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海軍参謀長となったラッファエーレ・ド・クールタン提督。飛行船艦長時代のブルーノの部下であり、「チッタ・ディ・イェージ」副艦長だった人物。ムッソリーニ失脚後のバドリオ政権で海軍参謀長に抜擢されたが、休戦交渉の詳細は休戦発表の直前まで知らされず、その後の海軍の混乱につながった。

大戦末期になってくると、いよいよ燃料が底をつき、イタリア艦隊は大型艦の運用が不可能となった。そんな中、1943年4月25日に王党派クーデターでムッソリーニ統帥が失脚し、新たに開戦時の参謀総長であるピエトロ・バドリオ陸軍元帥(Pietro Badoglio)率いる新体制が誕生した。この影響で、海軍も指導部が改組されることになり、新たに海軍参謀長はリッカルディ提督からド・クールタン提督に交代となった。ド・クールタン提督はブルーノが飛行船艦長だった時代の部下であり、第一次世界大戦時は「チッタ・ディ・イェージ」の副艦長として参加、ポーラ軍港爆撃作戦で「チッタ・ディ・イェージ」が撃墜された後、ブルーノと共に捕虜になってマウトハウゼン収容所に収監された人物である。しかし、バドリオ政府が水面下で進めていた連合国との休戦交渉については、政権幹部に抜擢されておきながら殆ど知らされていなかった

一方、逮捕されたムッソリーニはというと、7月27日にガエータから政治犯流刑地とされていたポンツァ島に移送された。その後、8月7日にポンツァ島からムッソリーニはラ・マッダレーナ島に移された。ラ・マッダレーナはブルーノ率いるサルデーニャ隊司令部の管理下に置かれていたため、ブルーノはムッソリーニの管理を任されることとなった。

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ムッソリーニが幽閉されていたラ・マッダレーナの「ウェーバー邸」。元々は英国の富豪の別荘だった建物だが、後に競売に出されてイタリア王室の所有物になった。ムッソリーニ失脚後、彼の幽閉先として一時的に選ばれが、現在は無人の建造物となり、ほぼ廃墟化している。

デュースブルクの大敗でムッソリーニがブルーノを激しく非難して以降、両者の関係は非常に険悪なものであったが、ブルーノはムッソリーニの幽閉場所としてかつて英国人の別荘であった「ウェーバー邸(ヴィッラ・ウェーバー)」を選んだ。ウェーバー邸は城のような見た目をした豪奢な作りの別荘で、邸宅には警備隊約百人が24時間交代で警戒に当たった。というのも、裏でドイツ当局がムッソリーニの救出計画を練っていたからである。ヒトラーは7月29日のムッソリーニの誕生日に「ニーチェ全集」をプレゼントとして贈っていたブルーノはこれを破棄せず、ムッソリーニに届けたが、これによってドイツ軍はムッソリーニの幽閉場所がラ・マッダレーナだと突き止める

実際、8月中旬にはかのグラン・サッソ襲撃を指揮した武装SSのオットー・スコルツェニー大尉(Otto Skorzeny)が乗る水上機がラ・マッダレーナ上空に飛来し、ウェーバー邸上空を旋回、その後近海に不時着した(なお、この時点ではまだイタリア王国とドイツは同盟関係を維持している)。ブルーノはドイツ側がムッソリーニ救出を計画していると確信し、バドリオ政府に報告。このため、急遽ムッソリーニを再度救出不可能な場所に幽閉することを考え、ブルーノは8月末にCANT Z.506水上機を手配し、ムッソリーニを再びイタリア半島に移送することとなった。その後、ムッソリーニが幽閉されたのがかのグラン・サッソの山荘ホテル「オテル・カンポ・インペラトーレ」であった。

さて、9月にイタリア王国の休戦がなされたわけであるが、海軍参謀長であり、海軍大臣でもあったド・クールタン提督も休戦協定の署名を初めて知ったのはその当日であり、バドリオらから何の相談も受けていなかった。海軍参謀次長サンソネッティ提督を通じて他の提督らに伝えられたのは更に後であった。9月7日にド・クールタン提督はブリヴォネージ兄弟をローマに召集し、ドイツと交戦状態になる可能性を二人に説明し、翌日、それぞれがラ・マッダレーナとターラントに戻った。戻った直後、遂にイタリア休戦の宣言が発令されたのである。

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ガッビアーノ級対潜水コルベットの一隻、「ミネルヴァ」。1943年2月竣工。建造時期の遅さ故に戦歴は短いが、優れた対潜装備を持っていたため、英潜水艦「サラセン」を撃沈するなど活躍した。

当時、ラ・マッダレーナ軍港に停泊していた艦艇は、コルベット3隻(「ミネルヴァ」「ダナイデ」「イビス」)、潜水艦「フィリッポ・コッリドーニ」、潜水母艦「アントニオ・パチノッティ」であり、ブルーノはこれらの連合軍への引き渡しに同意した。一方で、ラ・マッダレーナに駐屯する海軍兵力はドイツ軍を上回っていたが、殆どが未訓練の兵士や、国王への忠誠が疑わしいMVSN(黒シャツ)であったため、ドイツ軍が急襲してきた場合は対抗は難しかった。更に、サルデーニャ駐屯軍司令官のアントニオ・バッソ将軍(Antonio Basso)サルデーニャ及びコルシカに駐屯するドイツ軍司令官のフリードリーン・フォン・ゼンガー・ウント・エッターリン将軍と交渉し、サルデーニャに駐屯するドイツ軍をラ・マッダレーナを通過してコルシカに避難させることに合意していた。このため、ブルーノも下手な抵抗はやめてドイツ軍をコルシカに逃がすことに同意したのであった。

しかし、ドイツ軍は約束を裏切り、ラ・マッダレーナの海軍司令部を制圧した。ブルーノらはドイツ軍に対して抵抗したが、ラ・マッダレーナ基地司令官のカルロ・アヴェーニョ大佐(Carlo Avegno)を含む部下たちがドイツ軍との戦闘で戦死し、9月12日にブルーノもドイツ軍の捕虜となったのである。

このラ・マッダレーナ制圧は更なる悲劇的な結果を齎した。ブルーノはここで休戦条約に関する書類を含む機密書類を第一艦隊司令長官であるベルガミーニ提督に渡すはずであったが、これはドイツ軍の手に渡ったのである。これは、アシナーラ島沖での戦艦「ローマ」撃沈の悲劇につながってしまった。結局、9月14日にドイツ軍はラ・マッダレーナを離れ、ブルーノは解放された。その後、正式に共同交戦海軍に合流したブルーノはサルデーニャ艦隊の指揮官を続けたが、ほぼ名目上の役割しか与えられなかった。

 

ターラント艦隊の降伏

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カピターニ・ロマーニ級軽巡の一隻、「シピオーネ・アフリカーノ」。1943年4月竣工。最新鋭の小型軽巡で、優れた国産レーダー「グーフォ」を搭載した。姉妹艦の「ポンペオ・マーニョ」と共にメッシーナ海峡の夜間突破作戦で活躍し、迎撃に来た英艦隊部隊4隻を1隻撃沈、2隻大破させて返り討ちにする大金星を挙げた。

一方、ターラント軍港の司令官であったブルートは、ド・クールタン提督の連絡を受けて残存艦隊の連合軍への投降を決定した。しかし、ターラント軽巡戦隊(旗艦:軽巡ルイージ・カドルナ」、「ルイージ・カドルナ」「ポンペオ・マーニョ」「シピオーネ・アフリカーノ」の軽巡3隻で構成)の司令官であったジョヴァンニ・ガラーティ提督(Giovanni Galati)休戦条約に対して抗議し、連合国側に艦隊を引き渡すべきではないと主張。そして、ガラーティ提督は北部に艦隊を移動させて交戦を継続するか、それか最後の艦隊決戦に出撃して連合国艦隊に特攻すべしとの意思を述べた

ブルートは王の命令であると説得したが、ガラーティはこれを受け入れず、仕方なくブルートは彼を要塞内で逮捕した。その後、ガラーティは命令違反として軍法会議にかけられることになったが、国王がこれを停止するように命令し、後にブルートとも和解している。第五戦艦戦隊司令官のダ・ザーラ提督も連合国への投降に拒否感を示したもの、イタリアの困難な状況を打開するにはこの選択しかない、とブルートの決断に同意することとなった

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「カイオ・ドゥイリオ」級戦艦2番艦「アンドレア・ドーリア」。元々第一次世界大戦中の1916年に就役したが、後に戦力増強のために近代化改修を受けて、イタリア参戦後の1940年10月末に再就役している。再就役が遅れたため、姉妹艦の「カイオ・ドゥイリオ」が巻き込まれたターラント空襲には巻き込まれず、就役後は主力艦隊の一隻として中央地中海での船団護衛に従事、第一次シルテ湾海戦等に参加した。

当時、ターラントに所属していた艦隊は以下の通り。

イオニア海及び下部アドリア海隊司令

(ブルート・ブリヴォネージ提督指揮)

◇第五戦艦戦隊(アルベルト・ダ・ザーラ提督指揮)

戦艦2隻(「アンドレア・ドーリア」「カイオ・ドゥイリオ」)

軽巡戦隊(ジョヴァンニ・ガラーティ提督指揮)

軽巡3隻(「ルイージ・カドルナ」「ポンペオ・マーニョ」「シピオーネ・アフリカーノ」)

◇第十五駆逐戦隊

駆逐艦4隻(「ニコローゾ・ダ・レッコ」「グラナティエーレ」「FR23」「FR31」)

◇第一水雷戦隊

水雷艇5隻(「シリオ」「サジッタリオ」「クリオ」「アレトゥーザ」「カッシオペーア」)

◇第四潜水戦隊

潜水艦3隻(「アトローポ」「ジョヴァンニ・ダ・プロチーダ」「ティート・スペーリ」)

◇第七潜水戦隊

潜水艦3隻(「エンリコ・ダンドロ」「ムレーナ」「スパリーデ」)

◇第三対潜コルベット戦隊

コルベット2隻(「ドリアデ」「フローラ」)

しかし、任務中などで準備が出来ていない艦が多く、連合軍への引き渡しのためにマルタに向かう準備が整っていた戦隊は第五戦艦戦隊と軽巡戦隊、及び第三対潜コルベット戦隊の「フローラ」のみであった。ブルーノは出撃準備が整った艦隊からすぐにマルタへの航行を始めたが、ドイツ海軍はこれを妨害すべくターラント湾への機雷敷設を開始している。これを避けて連合国側に無事艦隊を率いて投降したブルートは、この時の迅速な行動が評価され、イタリア軍事勲章を叙勲されている。その後共同交戦海軍に合流、戦後は海軍事務次官となった。

 

なんとか完走しました。これでも結構絞った感じだが、ブリヴォネージ兄弟は想像以上に興味深い戦歴を歩んでいたために前後編に分けて紹介することとなってしまった。まとめると、港町出身の兄弟が同じく海軍軍人の道を志し、第一次世界大戦では兄は海軍航空隊へ、弟は海兵隊の道を歩んだが、戦間期を通じて再び同じ道を歩むこととなり、第二次世界大戦では二人ともが海軍提督として艦隊を指揮した。しかし、艦隊指揮官としての力量は明らかに弟ブルートの方が勝っており、兄ブルーノは失敗続きで良い見せ場というものが存在しなかった...という感じだろうか。

イタリア海軍の提督兄弟、ブリヴォネージ兄弟:前編(伊土戦争・第一次世界大戦編) ―兄は空、弟は陸で戦った海軍士官兄弟―

第二次世界大戦時のイタリア軍では兄弟で高名な軍人となった人物も珍しくはない。例えば兄マリオ・ヴィシンティーニ(Mario Visintini)が空軍の戦闘機パイロットとして、第二次世界大戦時の複葉戦闘機トップエースになり、弟リーチオ・ヴィシンティーニ(Licio Visintini)が海軍の「デチマ・マス」士官としてジブラルタル攻撃のフロッグマン部隊指揮官だった、ヴィシンティーニ兄弟がいる。他にも空軍パイロット一家で高名な爆撃機エースとして知られたマエストリ兄弟(Fratelli Maestri)アンマンナート兄弟(Fratelli Ammannato)などが知られている。

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ブリヴォネージ兄弟。左が兄ブルーノ・ブリヴォネージ(Bruno Brivonesi)、右が弟ブルート・ブリヴォネージ(Bruto Brivonesi)。

しかし、兄ブルーノ・ブリヴォネージ(Bruno Brivonesi)と弟ブルート・ブリヴォネージ(Bruto Brivonesi)のように、高位の提督兄弟というのは実に珍しい。兄ブルーノ・ブリヴォネージは第二次世界大戦開戦時のリビア隊司令弟ブルート・ブリヴォネージは開戦時の第一艦隊第五戦艦戦隊司令官であった。私も調べているとき、あまりに名前が似過ぎているので同一人物の誤字かと思ったほどである。しかし、調べてみるとこの二人が兄弟であることがわかり、中々興味深い経歴を歩んでいることを知った。それも、第一次世界大戦時に兄ブルーノは空で、弟ブルートは陸で戦ったというのだ。というわけで、今回は、兄弟揃って海軍の提督となったブリヴォネージ兄弟について調べてみることとしよう。以下、兄はブルーノ、弟はブルートと名前で表記する。名前が似ているので間違えないように注意されたし。

 

アンコーナに生まれし兄弟

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中部イタリア・マルケ州の州都、アンコーナの港。ブリヴォネージ兄弟が生まれた町である。造船業が有名で、古くからアドリア海沿いの海運都市として発展した。ここの海鮮料理はイタリアでも屈指の美味しさなので、是非旅行の際はお試しあれ。

ブリヴォネージ兄弟は中部イタリア・マルケ地方の中心都市アンコーナで生まれた。父はベネデット・ブリヴォネージ(Benedetto Brivonesi)、母はイーダ・コスタンツィ(Ida Costanzi)だった。兄ブルーノは1886年7月16日生まれ、弟ブルートは1888年11月22日生まれであるため、2歳離れた兄弟であった。アドリア海に面するアンコーナの町で育ったブルーノとブルートのブリヴォネージ兄弟は、そういった環境の影響からか二人そろって海軍士官への道を志し、リヴォルノの海軍士官学校に入学する。

当時のリヴォルノの海軍士官学校の校長はかのパオロ・タオン・ディ・レヴェル(Paolo Thaon di Revel)大佐であった。タオン・ディ・レヴェルは後にイタリア海軍唯一の海軍元帥(Grande ammiraglio, 直訳では大提督)となる人物で、伊土戦争や第一次世界大戦におけるオスマン帝国海軍やオーストリア海軍を相手とする数々の海戦で華々しい勝利を手に入れ、「海の公爵(Duca del mare, ドゥーカ・デル・マーレ)」の称号を持った海軍の英雄である。ローマ進軍後にベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)政権が成立した際は、同じく第一次世界大戦の英雄であった陸軍のアルマンド・ディアズ将軍(Armando Diaz)と共に、ムッソリーニに協力的な立場を示し、海軍大臣に就任している(ディアズ将軍もタオン・ディ・レヴェル提督と同じく、ファシスト政権期に第一次世界大戦の戦功によって元帥となった)。

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パオロ・タオン・ディ・レヴェル(Paolo Thaon di Revel)提督。イタリア海軍史上唯一の海軍元帥(Grande ammiraglio)となった人物で、伊土戦争や第一次世界大戦の数々の海戦を指揮し、勝利に導いた名提督である。

こうして未来の海軍元帥タオン・ディ・レヴェルの元で海軍士官としての道を着々と歩んだブルーノとブルートの兄弟は、ブルーノは1907年に少尉として任官ブルートも二年遅れて(二歳離れているのだから当然だが)1909年に同じく少尉として任官した。こうして、二人は晴れてイタリア海軍士官となった。そんな中、1908年12月28日にシチリア島北東のメッシーナ震源として、マグニチュード7の大震災が起こる(メッシーナ地震)。この地震の影響は当時の南イタリアにとって壊滅的な被害をもたらし、シチリアの人口の半分と、対岸に位置するカラブリアの人口の1/3が犠牲となり、死傷者は12万人とまで言われる。イタリアは古代から地震大国であったが、近代欧州における最悪の犠牲者数を出す地震となった。

一足早く海軍士官となったブルーノは直ちにこの震災の救助活動に派遣された。特に震源に近い大都市であったメッシーナとレッジョ・カラーブリアは都市そのものが崩壊したも同然の状態で、街全体が再建するにはかなりの時間を有することとなる(地震そのものの被害だけでなく、津波による被害も甚大であった)。ブルーノの献身的な被災者への救助活動は高く評価され、当時の政府であるジョヴァンニ・ジョリッティ(Giovanni Giolitti)首相から銅勲章を叙勲されている。なお、この時のジョリッティ政権の対応はかなり迅速で、国家全体がシチリアカラブリアの被災民への援助活動を精力的に行った。この頃、近代イタリアで初めて「耐震」の基準が作られたという。

被災地の救助活動から戻ったブルーノは、当時海軍で注目されていた飛行船の操舵手としての教育を受けることとした(1910年1月)。イタリア海軍では1907年の気球による実験から航空戦力への期待が高まるようになり、これは伊土戦争期にいっそう高まった。ブルーノが飛行船の操舵手としての志願をした1910年、丁度同時期に新大陸のアメリカでは艦体からの世界初の飛行機発進を実現させていた。

イタリア海軍でも同様に、航空戦力に対する注目が存在した。ブルーノは現在空軍歴史博物館が置かれている、ローマ近郊ブラッチャーノ湖畔のヴィーニャ・ディ・ヴァッレにて、2月から本格的な訓練を開始した。ブルーノは海軍士官であったが、航空に関しても興味を持っており、以前から自作グライダーも制作している。翌年1911年8月に飛行船の操舵手として正式になったブルーノはさっそく、北イタリアのモンフェッラートで開催された、統合参謀総長アルベルト・ポッリオ将軍(Alberto Pollio)主催の大演習に参加することとなる。この時、ブルーノが操縦する海軍の飛行船「P.2」には国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(Vittorio Emanuele III)と、タオン・ディ・レヴェル提督が乗艦するという名誉を得た(云わばお召し艦)。

 

オスマン帝国との闘い、海と空での武勲

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レ・ウンベルト級2番艦戦艦「サルデーニャ」。1895年就役。伊土戦争では主力艦の一隻として活躍、リビア上陸艦隊の支援などの任務を果たした。第一次世界大戦にも参加したが、旧式艦故に限定的な任務のみしか果たせていない。1923年解体。

1911年9月に、イタリアがオスマン帝国に対して宣戦布告し、伊土戦争が開戦する。ブルーノは飛行船「P.3」の操舵手として、オスマン帝国領だったリビアに出征。負傷者の輸送に加え、トリポリタニア上空における諸任務を遂行した。その中には偵察任務や、爆撃任務も含まれている。陸軍と同様に、海軍も飛行船によるリビア爆撃を実行しており、これらの一連の飛行船による爆撃は「世界初の航空爆撃」として認識されている。この歴史的な偉業から、ブルーノは銀勲章を叙勲された。

その一方で、陸軍はそれに加え、ジュリオ・ガヴォッティ大尉(Giulio Gavotti)が駆るエトリッヒ・タウベ機が帝国軍部隊に対して爆撃を敢行、「世界初の国家間戦争への航空機の投入」に加え、「世界初の航空機による爆撃」という偉業も果たしたのであった。そう考えると、海軍の航空認識は陸軍より限定的であり、遅れていたともいえるだろう(例えば、イタリアを代表する航空理論家であるジュリオ・ドゥーエ(Giulio Douhet)将軍も陸軍の所属である)。

なお、遅れて海軍士官に任官した弟ブルートは、伊土戦争において兄とは異なり海軍航空隊への道は進まず、順当な海軍士官の道を歩んだ(1911年に中尉に昇進)。レ・ウンベルト級戦艦2番艦「サルデーニャ」の艦橋に乗艦し、同艦は姉妹艦であるレ・ウンベルト級3番艦「シチリア」を旗艦とするラッファエーレ・ボレーア・リッチ・ドルモ提督(Raffaele Borea Ricci D'Olmo)率いるイタリア主力戦艦の一隻として、戦艦「サルデーニャ」はリビア上陸艦隊の支援、地上部隊の支援、敵根拠地への砲撃などで活躍、この働きからブルートは大尉に昇進した。なお、この時、ボレーア・リッチ・ドルモ提督率いる主力艦隊は、実験的に気球部隊の実戦投入も行っている。海軍艦隊によるリビア砲撃の際に、気球部隊がリビア上空を偵察し、弾着観測をして戦局に大きく貢献した。

 

◇海軍航空隊の発足

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ブルーノが操縦した試作飛行機。1909年のローマにて。

伊土戦争が終結し、イタリアは勝利した。イタリアに帰国したブルーノとブルートの二人は、弟ブルートは引き続き戦艦「サルデーニャ」の艦橋要員を務め、「サルデーニャ」が属するヴェネツィア軍港に戻った。一方、兄ブルーノは南部イタリアのターラント軍港を根拠地とするイタリア海軍第一艦隊(戦艦を主力とする主力艦隊)の旗艦・戦艦「ダンテ・アリギエーリ」の第二砲術長として同戦艦の艦橋要員となった。戦艦「ダンテ・アリギエーリ」は1913年に竣工したばかりの新造戦艦である。

イタリア海軍はリビアでの航空戦力の有用性の認識によって、この戦艦「ダンテ・アリギエーリ」に水上機を搭載することを決定した。海軍では、陸軍同様に航空戦力に関する研究が進められており、海軍を代表する航空パイオニアであるアレッサンドロ・グイドーニ大尉(Alessandro Guidoni)を中心として、航空機の軍艦への搭載を計画していた。この計画は1912年から始まり、まずは巡洋艦ピエモンテ」に飛行甲板を設置するという話から始まった。また、同時に魚雷を搭載して投下可能な飛行機の開発も進められていた(当時はまだ雷撃機という概念は存在しない)。

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戦艦「ダンテ・アリギエーリ」。1913年就役。同型艦はない。第一次世界大戦開戦時のイタリア第一艦隊の旗艦で、大戦中はタオン・ディ・レヴェル提督の旗艦としてアドリア海で戦った。戦間期にはムッソリーニシチリア訪問にも使われたが、軍縮によって1928年に解体された。

こうして、正式にイタリア海軍航空隊が1913年に発足し、「ダンテ・アリギエーリ」第二砲術長となったブルーノもここに所属した。彼は以前より航空分野に関心があり、1909年にはローマにて試作飛行機のテストパイロットも務めている。「ダンテ・アリギエーリ」を始めとする主力艦に水上機が搭載されることが決定されると、ブルーノはヴェネツィアで訓練を行い、水上機パイロットとしての免許を所得した。

訓練中、アドリア海で彼の乗る水上機海上に墜落する事故が行ったが、怪我も負わずに帰還するという偉業を成し遂げている。訓練後、「ダンテ・アリギエーリ」にブルーノが操縦する水上機が搭載され、いくつかの記念飛行が行われたが、結局海軍首脳部は未だ信頼性がそこまで高くない水上機よりも飛行船を好み、更に運用上集中管理の方が有利と判明したため、「ダンテ・アリギエーリ」への水上機搭載は短期間で終了し、巡洋艦「エルバ」を水上機母艦として運用する案が採択されたのであった。

 

◇ポーラ軍港爆撃と収容所での経験

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イタリア海軍航空隊の飛行船「チッタ・ディ・イェージ」。艦長はブルーノが、副艦長はド・クールタンが務めた。竣工したばかりの新造飛行船であり、敵地への爆撃目的で建造された。

両者共に第一次世界大戦が開戦するまでに海軍大尉にまで昇進していたボスニアサライェヴォでオーストリア皇位継承者夫妻が暗殺される事件(サライェヴォ事件)が発生し、それを機に第一次世界大戦が勃発。イタリアは中立を宣言したが、海軍は戦争準備を進めた。戦艦「ダンテ・アリギエーリ」の水上機搭載中止を受け、ブルーノは海軍が保有する飛行船「チッタ・ディ・イェージ」の艦長に任命されている。

「チッタ・ディ・イェージ」は1913年に竣工したばかりの新造の飛行船で、総体積約15,000立方メートルの爆撃用の船体だった。イード・シェルージ(Guido Scelsi)大佐率いる海軍航空隊の設立と共に、ブルーノはその副司令官に任命されていたが、イタリアの参戦可能性が高まってくると彼はこの新造飛行船の艦長に任命された。「チッタ・ディ・イェージ」の設計者はロドルフォ・ヴェルドゥーツィオ(Rodolfo Verduzio)技師で、彼は後にカプロニ社に移籍し、「複葉機における最高高度」を記録したカプロニ Ca.161を開発した人物として知られることとなる人物だ。また、開発には後にイタリアのロケット・宇宙開発のパイオニアとして知られることとなるガエターノ・クロッコ博士(Gaetano Arturo Crocco)も技師として参加している。

1915年、イタリアはオーストリアに宣戦布告し、連合国側で第一次世界大戦に参戦することとなる。さっそく戦いが開始すると、ブルーノが艦長を務める「チッタ・ディ・イェージ」に重要な任務が下る。それは、アドリア海沿いに位置するオーストリア主力艦隊の軍港であったポーラ軍港の爆撃任務だった。オーストリア海軍の主力艦隊は基本的に港から出てこなかったため、アドリア海制海権は既にイタリア海軍側にあるとはいえ、オーストリア海軍の主力艦隊はイタリアにとって脅威であった。そのため、ポーラ軍港への航空爆撃を実行し、オーストリア艦隊を無力化することで安全を確保しようとしたのである。これには、イタリアも伊土戦争で航空爆撃の実戦経験があったことも大きく由来していた。なお、この時「チッタ・ディ・イェージ」艦長であるブルーノを補佐した副艦長は、のちに王国最後の海軍参謀長となるラッファエーレ・ド・クールタン中尉(Raffaele de Courten)であった。

「チッタ・ディ・イェージ」はフェッラーラを基地としてポーラ軍港の爆撃を決定する。偵察飛行船「P.4」から受けた情報を受けて、ブルーノとド・クールタンは天候が回復した夜間の8月4日深夜から翌日早朝に掛けてポーラ軍港の爆撃を計画した。夜間爆撃ならば鈍重な飛行船でも効率的に敵軍港を爆撃出来るだろうと考えられたためである。綿密に作戦計画は立てられ、遂に8月4日の夜9時に「チッタ・ディ・イェージ」はフェッラーラ航空基地を離陸し、ポーラ軍港の爆撃作戦に向かった

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ポーラ沖にて撃墜された「チッタ・ディ・イェージ」

「チッタ・ディ・イェージ」はポーラ軍港に到着し、闇に紛れて爆撃をすることには成功したが、予想以上にオーストリア海軍側の対応は早く、激しい対空砲火が「チッタ・ディ・イェージ」を襲った。ブルーノは急いで戦域を離脱し、何とか対空砲の範囲外から出たが、流れ弾が当たったことによってガス袋に穴が開いており、「チッタ・ディ・イェージ」はみるみるうちに高度を失うこととなった。こうして、「チッタ・ディ・イェージ」はポーラ沖にて遂に着水したが、ブルーノらはオーストリア側に鹵獲されないように急いで飛行船を破壊し、自沈した。こうして、直ちに駆け付けたオーストリア海軍の魚雷艇によって、ブルーノとド・クールタンを含む6人の乗組員は捕虜として捕らえられ、オーストリアのマウトハウゼン捕虜収容所に移送されたのであった。

マウトハウゼン収容所は苛酷な収容所として知られており、イタリア軍だけでなく、友軍のセルビア軍やロシア軍の捕虜たちも囚われ、オーストリア側は彼らを近郊の鉱山で強制労働をさせていた。食糧事情も酷く、飢餓と過労、更に疫病で捕虜約9000人(捕虜全体の25%にも及ぶ)がこの地で命を落としている。なお、このマウトハウゼン収容所は後にナチス・ドイツオーストリアを併合(アンシュルス)すると、ナチ体制の強制収容所として「再利用」されることとなる。そういった意味でも、二つの大戦において悪名高い収容所であり、収容所内に囚われたブルーノやド・クールタンたちも健康状態は著しく悪化することとなった。収容所内の重病人は捕虜交換で本国に帰還出来ることになったため、「チッタ・ディ・イェージ」の乗組員らは結核患者の"フリ"をして、何とか本国に帰ろうとした無事、彼らの名演技(?)がオーストリア側に認められ、大戦終盤となった1917年5月の捕虜交換によって、「チッタ・ディ・イェージ」の乗組員たちは何とか本国に帰ることが出来たのであった。

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ローマのヴィットリアーノ(ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂)内部にある海軍博物館に残る、飛行船「チッタ・ディ・イェージ」の軍旗。

本国に帰還したブルーノら「チッタ・ディ・イェージ」の乗組員はポーラ軍港の爆撃成功と、無事敵を欺いて帰還したことから、軍部から称えられ勲章を叙勲された。特に艦長であったブルーノはその功績から2回の銀勲章を叙勲されている。ブルーノは後にこの時の収容所での経験を自らの書籍に書いて出版している。

帰還したブルーノはすぐさまヴェネツィア基地でマッキ M.3水上偵察機パイロットとして戦線に復帰し、その後シチリアに移ってパレルモでテストパイロットも務めている。なお、この時弟ブルートもヴェネツィアを拠点とする海兵部隊に所属していたため、二人は感動の再会を果たした。大戦末期にブルーノはカプーアの新設された海軍航空隊基地の司令官を任せられ、カプロニ Ca.44重爆撃機で構成される爆撃機部隊を編制中、オーストリアがイタリアに降伏し、終戦を迎えることとなったのであった。

 

◇海軍士官、陸で戦う

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ジーナ・エレナ級戦艦のネームシップ「レジーナ・エレナ」。1907年就役。最高速度が21ノットで、当時の戦艦としては高速だった。第一次世界大戦時は主力戦艦の一隻であるが、潜水艦による攻撃を恐れて限定的な役割を果たすのみであった。1923年解体。

一方で、弟ブルートは開戦時は戦艦「サルデーニャ」の艦橋要員を務めていたが、その後ジーナ・エレナ級戦艦のネームシップである戦艦「レジーナ・エレナ」の艦橋要員に移動した。「レジーナ・エレナ」は大戦中、ターラントブリンディジアルバニアのヴロラ(イタリア語ではヴァロナ)の間の船団の護衛を行って転々としたが、イタリア海軍側がアドリア海制海権を有していることもあり、目立った戦闘もなかった。

また、オーストリア海軍の潜水艦の攻撃を恐れて、戦艦「レジーナ・エレナ」は戦闘任務には参加せず、専ら安全度の高いイオニア海及び下部アドリア海における船団護衛任務のみを主体として行動した。大戦序盤で兄ブルーノがオーストリア軍の捕虜になって以来、海軍の消極的な態度はブルートの精神を逆撫ですることとなった

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ピアーヴェ川の前線で戦う海兵隊員たち。後の「サン・マルコ海兵連隊」の母体となった。

1915年10に海軍では後の「サン・マルコ海兵連隊」の母体となる、「海兵連隊」が設立され、ブルートは戦艦「レジーナ・エレナ」を降りて陸に上がり、その「海兵連隊」の砲兵隊長となった。ブルートはピアーヴェ川での戦闘に参加し、海軍士官でありながら陸で砲兵指揮官として戦ったのである。この頃、何とか本国に帰還した兄ブルーノと再会し、その後一時的にブルーノも同じくヴェネツィアで活動していたことから、何度か会っていたと思われる。

「海兵連隊」は次第に規模を拡大し、1917年11月のカポレットでの大敗を契機として更に拡大した。ブルート率いる海軍砲兵隊はカポレット後の立て直しで活躍し、特に大戦末期の1918年7月のコルテッラッツォの戦いと、1918年10月から行われたオーストリア軍との決戦である、ヴィットーリオ・ヴェネトの戦いにおいて優れた指揮とその粘り強さで敵部隊の撃破に貢献し、銅勲章2つと戦功十字章を叙勲される活躍を見せたのであった。こうして、終戦までにブルートは少佐に昇進した。

 

◇二人の戦間期、そして提督へ

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ファシスト政権期初期の空軍次官、アルド・フィンツィ(Aldo Finzi)。ムッソリーニの側近の一人であり、古参のファシスト。独立空軍創立の立役者の一人であり、元陸軍航空隊のパイロットであった。ユダヤ系の出自であったことから、後に「人種法」成立によって党から追放され、休戦後はパルチザンに転向。ドイツ当局に逮捕され、尋問後にアルデアティーネ洞窟でローマ市民らと共に虐殺された。

第一次世界大戦終結し、イタリアに平和の時が訪れた。ブルーノは引き続き海軍航空隊の士官として、飛行船「M.6」の艦長を務めていた。その後、飛行船「PV.3」の艦長を務めたが、1922年7月、飛行中に嵐に巻き込まれ、南イタリアカラブリアのクロトーネ付近にて墜落してしまう事故が起きた。しかし、艦長ブルーノは嵐に巻き込まれた時に冷静に対処し、「PV.3」は全損したものの、乗組員は全員無事であり、この時の決断が高く評価された。後に銀勲章を叙勲されている。

その後、第一次世界大戦の賠償艦としてツェッペリン飛行船がイタリアに引き渡され、その艦長としてブルーノは再び飛行船に乗ったが、これは彼の飛行船艦長としての最後の任務となった。というのも、1922年10月にムッソリーニ政権が誕生すると、ムッソリーニは空軍力の強化に力を注ぎ、翌年1923年3月の政令「王立イタリア空軍(Regia Aeronautica)」が組織された。

この独立空軍は形式的に陸軍航空隊と海軍航空隊を合併することで生まれたが、事実上陸軍航空隊による海軍航空隊の併合である。このため、航空分野は空軍の独占事項となり、海軍の所属機も全て空軍の管理下に置かれるようになったのである。海軍航空隊のメンバーの多くがこの新設された空軍に移籍したが、ブルーノは海軍に留まることを選び、こうして事実上航空の道からブルーノは去ることとなったのであった。しかし、後の彼の失敗を考えると、艦隊指揮官としての道よりも、空軍に移って空軍指揮官としての道を歩んだ方が彼の才能を生かせたのではないか?と思ってしまう。

一方、弟ブルートは戦後中佐に昇進し、海兵部隊ではなく再度軍艦の指揮に戻り、防護巡洋艦「カンパニア」の副艦長に任命されていた。「カンパニア」は事実上植民地通報艦としての役割として運用され、イタリアが伊土戦争で征服して間もないリビアで任務を過ごしていた。ここで見てもわかると思うが、実は弟ブルートの方が海軍に入隊したのは遅かったが、海軍内での昇進は早かった。ブルーノは海軍を代表する飛行船艦長として知られていたが、海軍内での昇進はブルートに比べて遅かった。

その後は、航空の道から退いたブルーノは弟ブルートと同じ道を歩むようになった。少佐に昇進したブルーノはまず駆逐艦「ソルフェリーノ」の艦長を務め、その後駆逐艦「ニッコロ・ゼーノ」駆逐艦「カルロ・ミラベッロ」駆逐艦「インシディオーゾ」の艦長を務めた。1932年にはターラント軍港の防衛指揮を任せられたが、1933年2月8日に基地内に侵入した人物がブルーノの親類(親戚?)を射殺する事件が発生した。これに対して、怒りと悲しみを抑えながらブルーノは迅速に対処し、武装の状態で銃を持った犯人を屋根上で追い回し、遂には捻じ伏せて逮捕したのであった。この勇気を称えて海軍に銀勲章を叙勲されている。

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イタロ・バルボ空軍元帥。イタリア空軍史上唯一の空軍元帥であり、所謂「ファシスト四天王(クァドルンヴィリ)」と呼ばれるファシスト党終身最高幹部の一人。空軍の威信を高めた「空軍の父」であるが、その一方で航空戦力の独占を巡って海軍とは激しく対立、海軍航空力の近代化の妨げとなった。

その後、1934年9月から1935年3月までの間は、上海の共同租界に駐屯するイタリア極東艦隊(母港:天津租界)の分遣隊の指揮官に任命され、帰国後はかつて海軍航空隊だった経験を買われて、イタロ・バルボ空相(Italo Balbo)の台頭で仲が険悪になっていた空軍との連絡役を務めた。大佐に昇進したブルーノは1936年9月まで重巡トレント」の艦長を務めた後、ロンドンの駐英イタリア大使館駐在武官として勤務、特にスペイン内戦を巡って両国間が緊張した時に、英海軍側とのコネクションを使って両国間の関係悪化回避のために尽力した

1939年までロンドン勤務であったが、その間にブルーノは少将に昇進し、遂に海軍提督となったのであった。ロンドン勤務時代、訓練帆船「アメリゴ・ヴェスプッチ」と、同じく訓練帆船の「クリストーフォロ・コロンボ」をアイルランドに親善訪問させている。1939年に帰国後、リヴォルノの海軍士官学校の校長に任命されたが、欧州の戦局が目まぐるしく動くことによって、イタリアの参戦直前である1940年4月にはベンガジに本部を置くリビア艦隊の司令官として派遣され、イタリアの参戦に備えたのであった(この段階で中将に昇進している)。

一方で弟ブルートは巡洋艦「カンパニア」のリビア勤務を終えた後、駆逐艦「ロゾリーノ・ピーロ」駆逐艦「ダニエーレ・マニン」駆逐艦「インシディオーゾ」の艦長を務め、更に第一駆逐戦隊の参謀長も務めている。その後、大佐に昇進したブルートはラ・スペツィア軍港司令部の参謀長を務め、重巡ボルツァーノ」の艦長を務めた。1937年に少将に昇進し、海軍提督となった後、海軍省勤務となり、1938年から1939年までリヴォルノの海軍士官学校の校長を務めた。なお、この後任は先述した通り、兄ブルーノが務めている。1939年9月には中将に昇進し、再度海軍省勤務に戻ったが、イタリアの参戦が近付いてくると、ターラント軍港を母港とするイニーゴ・カンピオーニ提督(Inigo Campioni)率いる第一艦隊所属の第五戦艦戦隊(旗艦:戦艦「コンテ・ディ・カヴール」)の司令官に任命された。更に、それを維持しながら第一艦隊の参謀長も兼任し、カンピオーニ提督を補佐することとなった

 

ブリヴォネージ兄弟は第一次世界大戦までの歩みは違うものの、戦間期を通じて同じ道を歩むこととなり、結果的に二人とも海軍提督として第二次世界大戦で艦隊を指揮することとなったのである。あまりにも経歴が長すぎるので、第二次世界大戦の戦歴は次回に分けて紹介しよう。それでは、A dopo!(また後で!)

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