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水雷艇「カラタフィーミ」の戦い ―フランス艦隊に単艦で立ち向かった海の勇者―

1940年6月10日、イタリア王国は英国及びフランスに宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦した。僅か2週間程で終了した対フランス戦において、イタリア陸軍は準備不足からフランス軍の要塞線攻略に多くの被害を被った事で知られているが、イタリア海軍の対仏戦における行動はあまり知られていない。そこで、フランス重巡艦隊に勇敢にも単独で立ち向かい、撃退することに成功し、更には無事に帰還したイタリアの水雷艇「カラタフィーミ」のエピソードを紹介しよう。

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海の勇者、水雷艇「カラタフィーミ」

「カラタフィーミ」はクルタトーネ級水雷艇の一隻で、1924年5月29日に就役した。建造当初は駆逐艦であったが、1938年に水雷艇に艦種変更となった。
第二次世界大戦時、艦長はジュゼッペ・ブリニョーレ(Giuseppe Brignole)中尉で、休戦まで彼が「カラタフィーミ」を指揮した。「カラタフィーミ」は開戦時に既に旧式艦であったが、他の水雷艇と同様に船団護衛、対潜水艦戦、機雷敷設任務に従事することとなった。

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「カラタフィーミ」の護衛対象であった機雷敷設艦「エルバノ・ガスペリ」

イタリア参戦から3日後、1940年6月13日の夜に機雷敷設艦「エルバノ・ガスペリ」を護衛し、リグーリア海岸で機雷敷設任務に従事していた。その時、フランス海軍はリグーリア海岸工業都市に艦砲射撃を行うため、重巡艦隊を派遣していた。フランス第三艦隊司令官であるエミール・デュプラ提督は重巡「アルジェリー」を旗艦とし、リグーリア海岸砲撃に向かった。

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リグーリア海岸攻撃艦隊を率いたフランス海軍の第三艦隊司令官、エミール・デュプラ海軍中将。

デュプラ艦隊は三つのグループに分けられており、一つ目のグループがデュプラ提督が直接指揮する「アルジェリー」を旗艦とし、重巡「フォッシュ」、そして6隻の駆逐艦で構成された。これは、サヴォーナ周辺の工業地帯を目標とした。二つ目のグループは、重巡デュプレクス」と重巡「コルベール」、そして5隻の駆逐艦で構成された。これは、ジェノヴァへの直接攻撃を目的とした。更に三つ目のグループは三隻の駆逐艦と四隻の潜水艦で構成されていた。このグループは後方支援を担当し、二つのグループをサポートしつつ、イタリア海軍の介入を妨害することを目的とした。

デュプラ提督率いる一つ目のグループはサヴォーナ及びヴァード・リーグレの工業地帯を砲撃した。ここではイタリア側の対応は遅れ、「アルジェリー」及び「フォッシュ」から放たれる砲弾によって工業地帯は被害を受けることになった。イタリア海軍は直ちにMAS艇部隊を発進させたが、フランス艦隊に効果的なダメージを与える事は出来なかった。

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「カラタフィーミ」艦長ブリニョーレ中尉(左の人物)

「カラタフィーミ」艦長ブリニョーレ中尉は、翌日となった6月14日の朝4時、双眼鏡でフランス艦隊を発見した。場所は丁度サヴォーナとジェノヴァの中間であった。この艦隊はジェノヴァ攻撃を目標とする第二グループのフランス艦隊で、重巡デュプレクス」「コルベール」、駆逐艦「ヴォートゥール」「アルバトロス」「ゲパール」「ヴァルミ」「ヴュルデン」の計7隻で構成されていた。

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ジェノヴァを砲撃したフランス重巡デュプレクス

ブリニョーレ中尉は、機雷敷設艦「エルバノ・ガスペリ」を撤退させ、今まさにジェノヴァを砲撃している重巡2隻・駆逐艦5隻、計7隻から構成されるフランス艦隊に「カラタフィーミ」単艦で勝負を挑んだのである。戦闘はジェノヴァ沖で行われた。戦闘が開始されると、陸上側も行動を起こした。沿岸要塞と装甲列車が「カラタフィーミ」を援護したのである。しかし、「カラタフィーミ」は主砲と魚雷を活用して攻撃したが、高速能力を誇るフランス艦隊はそれを回避していった。「カラタフィーミ」は駆逐艦「ヴォートゥール」及び「アルバトロス」を追撃したが、その際に駆逐艦「アルバトロス」は砲弾が命中した。これをイタリア側は「撃沈」と確認したが、実際は撃沈まではしておらず、「アルバトロス」は中破した状態であった。

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フランス艦隊と戦う水雷艇「カラタフィーミ」(映画『Alba di guerra sul Mar Ligure(リグーリア海の戦争の夜明け)』のワンシーン)

フランス艦隊司令官デュプラ提督はこの「カラタフィーミ」の突撃を受けて、イタリア海軍の増援が来ることを恐れ、砲撃艦隊に撤退を命令した。「カラタフィーミ」は単艦でフランス艦隊に突撃し、これの撃退に成功したのであった。更にはリグーリア海岸への砲撃の被害も小規模なものであった。旧式の水雷艇が、たった一隻で7隻(内2隻は重巡)の艦隊に立ち向かい、それの撃退に成功し、更には無事に帰還したという例は海軍史上でも中々無いだろう。ブリニョーレ艦長はこの功績によってイタリア軍最高名誉である金勲章を受勲されて英雄となった。LUCEによって彼の功績を讃える映画『Alba di guerra sul Mar Ligure(リグーリア海での戦争の夜明け)』も作られている。

 

イタリア海軍とフランス海軍の戦いは期間が短かった上に大規模な海戦が起こらなかったため、マイナーになりがちではあるが、こういった興味深いエピソードもあるのである。そして、「第二次世界大戦におけるイタリア最後の海戦」も、1945年にリグーリア海にてフランス海軍とイタリア社会共和国(RSI)海軍によって行われた。最初期の海戦と最後の海戦が、相手はフランス海軍で、場所はリグーリア海というのは何とも感慨深いものがある(個人的な感想ですが)。こういった両国海軍のエピソードでもっと面白いものがあったら、どんどん紹介していきたい。

「潜水艦大国」イタリアの潜水艦隊の活躍 ―海の狼、出撃せよ!―

第二次世界大戦時のイタリア海軍はあまり知られてはいないが、実は世界でも屈指の潜水艦大国であった。これは時のイタリア海軍参謀長ドメニコ・カヴァニャーリ提督の戦略によるもので、1940年の開戦時には実に計117隻(アドゥア級17隻、アルゴナウタ級7隻、ペルラ級10隻、シレーナ級12隻、アルキメーデ級2隻、アルゴ級2隻、バリッラ級4隻、バンディエーラ級4隻、ブラガディン級2隻、ブリン級5隻、カルヴィ級3隻、フィエラモスカ級1隻、フォカ級3隻、グラウコ級2隻、H(アッカ)級5隻、リウッツィ級4隻、マメーリ級4隻、マルチェッロ級11隻、マルコーニ級6隻、ミッカ級1隻、ピサーニ級4隻、セッテンブリーニ級2隻、スクァーロ級4隻、X級2隻もの総数を誇り、ソ連に次いで世界で二位の潜水艦保有数だった。これに戦時中に建造されたアンミラーリ級、トリトーネ級、プラティーノ級、R級、ポケット潜水艦のCA級とCB級、更にはフランス海軍とユーゴスラヴィア海軍から鹵獲した潜水艦が加わった。

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アンミラーリ級潜水艦「アンミラーリオ・カラッチョロ」

ドイツの潜水艦増産は開戦後で、英国も開戦前は潜水艦をあまり作っていなかった。しかし、イタリアの参戦後にS級やT級U級などの近距離哨戒用の潜水艦を大量生産することになる。

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イタリア潜水艦隊司令官(1940-41):マリオ・ファランゴーラ提督

なお、イタリア潜水艦隊の開戦時の総司令官はマリオ・ファランゴーラ提督であり、1941年12月にアントニオ・レニャーニ提督と交代するまで地中海で潜水艦作戦を指揮した。ファランゴーラ提督は海軍の練度不足、潜水艦の技術的な欠点、空軍との協力不足などを詳細に描いた報告書を報告した後、潜水艦隊司令官を解任され、沿岸警備隊の司令官に任命、休戦時もその職であった。

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イタリア潜水艦隊司令官(1941-43):アントニオ・レニャーニ提督

その後は後任のレニャーニ提督が休戦まで潜水艦隊の指揮を執った。レニャーニ提督は元々は軽巡洋艦ルイージ・ディ・サヴォイア・ドゥーカ・デッリ・アオスタ」を旗艦とする第八巡洋艦隊の司令官で、同艦隊の指揮を執り、プンタ・スティーロ沖海戦やマタパン岬沖海戦といった主要な海戦で戦った人物だった。

また、レニャーニ提督の息子であるエミーリオ・レニャーニ海軍大尉は第18戦隊所属のMAS568艇の艇長として、休戦前に黒海にてソ連海軍のキーロフ級重巡洋艦モロトフ」を大破させた戦果で知られる。

なお、このファランゴーラ提督とレニャーニ提督の二人は、両方共ファシスト政権の熱狂的な支持者であり、休戦後は二人とも北部のイタリア社会共和国(RSI)海軍に合流している。RSI海軍では、ファランゴーラ提督は艦隊司令官、レニャーニ提督は海軍参謀長となって海軍再建に尽力している。

イタリア海軍の潜水艦隊は地中海だけでなく、紅海や大西洋、更には黒海、果てにはインド洋や太平洋にまで活躍した。ここでは、特筆すべき戦果を挙げたイタリア海軍の潜水艦たちについて紹介しよう。

アドゥア級潜水艦「シィレー」 

特殊作戦に従事したボルゲーゼ公の母艦

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潜水艦「シィレー」

アドゥア級潜水艦の一隻。就役は1938年8月10日。
第二次世界大戦時のイタリア潜水艦では最も有名ではないだろうか。第二次世界大戦時のイタリア海軍最大の貢献者とも言える、ユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ中佐の指揮の元、アレクサンドリア港攻撃やジブラルタル攻撃で人間魚雷「マイアーレ」の母艦として作戦に従事し、作戦を無事成功させた潜水艦だ。

「シィレー」を含むアドゥア級潜水艦は優れた性能から、特殊作戦に運用されることになった。「シィレー」は敵泊地攻撃のため、主砲を撤去して人間魚雷用の輸送管を設置された。まずはジブラルタル攻撃に投入された。「シィレー」から発進した人間魚雷はジブラルタルの連合軍の輸送船や武装商船を数隻撃沈することに成功し、人間魚雷「マイアーレ」の初戦果を華々しいものに飾ったのである。しかし、敵海域で人間魚雷を発進させることは非常に危険であるため、効率よく戦果を挙げるためにもボルゲーゼ中佐はアルへシラス港に伊海軍の秘密基地を作る事を決定した。これについてはまた別の機会に述べるとしよう。

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アレクサンドリア港攻撃で撃沈された英戦艦「クイーン・エリザベス」

次に、アレクサンドリア港攻撃についてだ。これはイタリア海軍史上最も有名な大勝利の一つと言っても過言ではないだろう。1941年12月18日、「シィレー」から発進したデ・ラ・ペンネ大尉率いる3隻の人間魚雷部隊は、厳重な哨戒艇の監視をかわしながら無事港内への侵入に成功した。そして、英国地中海艦隊の主力戦艦である「ヴァリアント」及び「クイーン・エリザベス」、更には駆逐艦ジャービス」、タンカー「サゴナ」を攻撃し、これらを大破させ、航行不能にしたのである。英首相チャーチルもこの攻撃によって我が地中海艦隊は存在しないも同然となった、と後に回顧録で述べている。

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ローマ・ヴィットリアーノに残る潜水艦「シィレー」の残骸。

1942年にはボルゲーゼ中佐は艦を降り、「シィレー」の指揮はブルーノ・ゼリク少佐に移った。ゼリク少佐はパレスチナのハイファ港の攻撃作戦を実行した。この作戦は人間魚雷ではなく、潜行部隊「ガンマ」の工作員を用いて同港を攻撃する作戦であった。しかし、これは成功しなかった。英国側に捕捉された「シィレー」は撃沈され、ゼリク少佐を含む乗組員は戦死した。撃沈された「シィレー」の残骸は戦後にイスラエル海軍によって回収され、イタリアに返還、現在はローマのヴィットリアーノ内に展示されている。

 

マルコーニ級潜水艦「レオナルド・ダ・ヴィンチ

イタリア海軍最大の撃沈数を誇る潜水艦

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マルコーニ級潜水艦「レオナルド・ダ・ヴィンチ

マルコーニ級潜水艦の一隻。就役は1940年3月5日。
潜水艦「レオナルド」はイタリア海軍最大の撃沈数を誇る潜水艦で、計17隻、総重量12万243トンもの連合軍船舶を撃沈した。これらは地中海ではなく、大西洋で挙げられた戦果であった。イタリア海軍はフランス休戦後、アンジェロ・パローナ提督の指揮下で南仏ボルドーに大西洋潜水艦隊の基地、ベータソム(BETASOM)を建設した。ベータソム基地のイタリア潜水艦隊はドイツ海軍のUボートと共に大西洋で通商破壊作戦に従事した。しかしドイツ海軍から任されたのは、南大西洋からインド洋に掛けての作戦範囲であり、これは会敵機会が北大西洋に比べて少なかったため、イタリア側から不満が生じた。これは両海軍間の対立によるものであった。

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「レオナルド」を指揮したルイージ・ロンガネージ・カッターニ大尉

とはいえ、ベータソム基地のイタリア潜水艦は多くの戦果を挙げた。この代表例がこの潜水艦「レオナルド」であった。その指揮を執ったのはルイージ・ロンガネージ・カッターニ大尉で、潜水艦エースの一人として知られている。しかし、連合軍側の潜水艦索敵能力の向上によって、イタリア潜水艦が戦果を挙げるのも徐々に難しくなっていった。なお、日本ではレオナルド・ダ・ヴィンチを「ダ・ヴィンチ」と呼ぶが、イタリア本国では一般的に「レオナルド」と呼ぶ。これはダ・ヴィンチが固有の苗字ではなく、「ヴィンチ村(トスカーナ地方の村)の~」という意味だからである。イタリア人に彼のことを話す時は気を付けよう。

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右の人物が「レオナルド」を指揮したジャンフランコ・ガッザーナ・プリアロッジャ少佐。左の人物は同じく潜水艦エースのディ・コッサート少佐。

イタリア海軍「デチマ・マス」のボルゲーゼ司令は奇妙な作戦を計画した。それはマルコーニ級潜水艦にCA型ポケット潜水艦を搭載し、ニューヨークを攻撃する作戦という大胆な作戦だった。数々の特殊作戦を成功に導いたボルゲーゼ中佐はその母艦としてこの潜水艦「レオナルド」を選んだのである。そして、「レオナルド」はニューヨーク攻撃作戦のために改造を受けた。その後、「レオナルド」はニューヨーク攻撃作戦の決行前に通商破壊作戦に従事した。1942年10月にカッターニ大尉から艦長を受け継いだジャンフランコ・ガッザーナ・プリアロッジャ少佐は、1943年4月に僅か一週間で計6隻(29480トン)もの連合軍船舶を南アフリカ沖で撃沈する戦果を挙げた。しかし、「レオナルド」がベータソム基地に帰還する事は無かった。5月の帰還時にボルドー手前で英海軍に捕捉され、撃沈されたからである。こうしてイタリア海軍最大の撃沈数を誇る潜水艦はその歴史に幕を閉じたのであった。そして、「レオナルド」の撃沈によって、更にはイタリア休戦の混乱によって、ニューヨーク攻撃作戦は完全に中止となった。

 

カルヴィ級潜水艦「エンリコ・タッツォーリ」

イタリアNo.2の撃沈数を誇る潜水艦

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潜水艦「エンリコ・タッツォーリ」

カルヴィ級潜水艦の一隻。就役は1936年4月18日。
「エンリコ・タッツォーリ」はイタリア海軍では、先述の「レオナルド」に続き、第二位の撃沈数を誇る潜水艦だ。撃沈数は「レオナルド」と同じ17隻だが、総トン数は88318トンで、「レオナルド」より少ない。

この艦も「レオナルド」同様にベータソム基地を拠点に大西洋で戦果を挙げた潜水艦だ。この潜水艦を指揮したのはイタリアを代表する潜水艦エースとして名高いカルロ・フェチア・ディ・コッサート少佐であった。「レオナルド」艦長のジャンフランコ・ガッザーナ・プリアロッジャ少佐とは戦果を競い合う良いライバルだったという。

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「タッツォーリ」を指揮したディ・コッサート少佐

1942年からはディ・コッサート少佐はチクローネ級水雷艇「アリセオ」の艦長となったため艦を降り、ジュゼッペ・ガイート大尉に艦長が変わった。「タッツォーリ」は日本への輸送任務のために改造され、遣日潜水艦作戦に出発したが、1943年5月以降、「タッツォーリ」から連絡は途絶え、消息不明となった。

 

ペルラ級潜水艦「アンブラ」

軽巡「ボナヴェンチャー」撃沈と、アルジェ港攻撃

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潜水艦「アンブラ」

ペルラ級潜水艦の一隻。就役は1936年8月4日。
潜水艦「アンブラ」は大西洋ではなく、地中海で戦果を挙げた潜水艦だ。「アンブラ」を指揮したのは、卓越した指揮官であるマリオ・アリッロ大尉で、彼の活躍は現在もラ・スペツィアの海軍技術博物館で展示が見られる。

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RSI時代のマリオ・アリッロ大尉の写真(ラ・スペツィア海軍技術博物館所蔵)

「アンブラ」の主な戦果は二つある。一つは、英国海軍のダイドー級軽巡洋艦「ボナヴェンチャー」の撃沈で、もう一つはアルジェ港の攻撃作戦である。

まずは「ボナヴェンチャー」の撃沈であるが、これは「アンブラ」がアレクサンドリア港周辺を哨戒中、1941年3月31日にギリシャからアレクサンドリア港へ船団護衛に従事していた英海軍の軽巡洋艦「ボナヴェンチャー」をクレタ島沖で発見。「アンブラ」はこれに雷撃し、「ボナヴェンチャー」の撃沈に成功したのである。

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「アンブラ」に撃沈された英軽巡「ボナヴェンチャー

続いてアルジェ港への攻撃作戦である。これは1942年12月12日に行われた作戦で、「アンブラ」から発進された人間魚雷部隊によるアルジェリアのアルジェ港攻撃作戦であった。アルジェリア植民地はヴィシー政権下のフランス支配下にあったが、1942年11月に行われたトーチ作戦によって既に連合軍の支配下にあった。そこで、アリッロ大尉率いる「アンブラ」はアルジェ港の攻撃作戦を実行。「アンブラ」から発進した人間魚雷部隊は厳重な警戒態勢のアルジェ港に無事侵入に成功し、潜行部隊「ガンマ」の工作によって連合軍船舶が数隻撃沈されたのであった。

1943年6月、アリッロ大尉はドイツ海軍から譲り受けられたUボートの受け取りのためにドイツに向かう事になり、艦長はレナート・フェッリーニ少佐に変わった。フェッリーニ少佐は「アンブラ」でMTM艇(バルキーノ)を輸送し、連合軍の占領下になっていたシチリアシラクーザ港の攻撃作戦を実行した。しかし、これは連合軍側に捕捉されて失敗に終わり、「アンブラ」も損傷した。休戦時は「アンブラ」はラ・スペツィアで修復中で、ドイツ軍に接収された。しかし、1944年の連合軍によるラ・スペツィア爆撃によって「アンブラ」は港湾内で撃沈されたのだった。

 

バリッラ級潜水艦「エンリコ・トーティ」

死闘の砲撃戦の末に英潜水艦「トライアド」を撃沈

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潜水艦「エンリコ・トーティ」

バリッラ級潜水艦の一隻。就役は1928年9月20日

第二次世界大戦開戦時の段階で既に旧式艦になっていた潜水艦「エンリコ・トーティ」であるが、ある特異な戦歴で知られている。

それは、英国海軍の潜水艦「トライアド」との砲撃戦を繰り広げた後、同潜水艦を撃沈した、という戦歴である。艦長はバンディーノ・バンディーニ大尉。1940年10月15日、ターラント湾にて「エンリコ・トーティ」艦長バンディーニ大尉は、「トライアド」を発見し、戦闘を開始した。「トライアド」は「エンリコ・トーティ」に魚雷を発射したが、「エンリコ・トーティ」はこれを回避、その後、両艦は砲撃戦を開始した。約3時間に渡る長い砲撃戦の末に、「エンリコ・トーティ」は「トライアド」に魚雷を発射、雷撃は見事命中し、「トライアド」は撃沈されたのであった。これは、CB型ポケット潜水艦の黒海でのソ連潜水艦に対する戦果を除けば、イタリア潜水艦が潜水艦を撃沈した唯一の例であった。

このエピソードは1942年の映画『アルファ、タウ!』でも描かれており、この映画では後半が「トライアド」との戦いを描いている。イタリア語版しかないが、是非見て欲しい作品だ。「トライアド」の撃沈後は数回の攻撃任務に参加した後、1942年3月からはポーラ軍港で潜水艦学校の訓練艦となった。6月まで92回の訓練任務に従事した後、6月からは新たな艦長ジョヴァンニ・チェレステ中尉の元でリビアへの輸送任務を行った。

 

マルチェッロ級潜水艦「アゴティーノ・バルバリーゴ」

世界が驚愕する大戦果?米戦艦二隻の「撃沈」

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潜水艦「アゴティーノ・バルバリーゴ」

マルチェッロ級潜水艦の一隻。就役は1938年9月19日。
潜水艦「バルバリーゴ」は面白い戦歴で知られる。「バルバリーゴ」のエンツォ・グロッシ艦長は、1942年5月にはブラジル沖にてアメリカ海軍の戦艦「メリーランド」と輸送船、タンカーを撃沈し、更に同年10月にはアフリカ西岸シエラレオネフリータウン港沖にて、アメリカ海軍の戦艦「ミシシッピ」を撃沈する戦果を挙げたと主張した。これは当時、イタリア各紙によって「潜水艦“バルバリーゴ”の英雄的快挙、世界の反響を呼ぶイタリア海軍の威力」として大々的に報じられた。米戦艦二隻を立て続けに撃沈するという戦果によってグロッシ艦長はムッソリーニヒトラーに激励され、勲章(金勲章と騎士鉄十字章)を授与され、更には大佐にまで昇進し、ベータソム基地の司令官にまでなった。彼は一躍イタリアの英雄となったのである。

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撃沈されたと誤認されたアメリカの戦艦「メリーランド」

しかし、戦後になってそのような事実は一切無かったことが判明した。実際には、5月に「バルバリーゴ」が攻撃したのはアメリカ海軍のオマハ軽巡洋艦ミルウォーキー」であり、10月に攻撃したのは英海軍のフラワー級コルベットペチュニア」だった。いずれに対しても、雷撃は行われたが、撃沈には成功していない。グロッシはこの2隻をアメリカの戦艦だと誤認した事に加え、雷撃後に速やかに撤退した為に撃沈したと誤認していたのだ。なお、グロッシ大佐の虚偽の報告を疑問視する声は当時からあり、その例として、当時ベータソム基地の司令官であったローモロ・ポラッキーニ提督による指摘があるが、グロッシの戦果を宣伝に利用したいイタリア政府によってポラッキーニ提督は左遷され、その後任としてグロッシが就任したのであった。

 グロッシが「英雄」となり船を降りた後、新たな艦長にはロベルト・リゴーリ中尉がなり、大西洋で通商破壊任務に従事した。その後、新艦長に任命されたウンベルト・デ・フリオ大尉の元で「バルバリーゴ」は遣日潜水艦作戦に参加する事になった。日本陸軍の軍人である権藤正威大佐も乗せていたが、モロッコ沖で連合軍機の攻撃を受けて撃沈された。

 

スクアーロ級潜水艦「デルフィーノ」

秘密作戦、ギリシャ軍港への攻撃作戦

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潜水艦「デルフィーノ」

スクアーロ級潜水艦の一隻。就役は1930年10月11日。

「デルフィーノ」は一つの特殊任務に参加した事で知られる。それは、ギリシャ海軍のティノス軍港への攻撃作戦であった。これは、時のエーゲ海諸島総督チェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキが計画したものであった。デ・ヴェッキは「ファシスト四天王」と訳されるクァドルンヴィリ、すなわちファシスト党終身最高幹部の一人である人物で、ギリシャとの戦争に積極的に賛成していた。当時、ギリシャはまだイタリアとは開戦していなかったが、イタリアはギリシャへの侵攻を目論んでいた。すなわち、ギリシャはまだ中立国であった。そこで、デ・ヴェッキ総督は海軍参謀長カヴァニャーリ提督にこのティノス港攻撃を打診した。このティノス港攻撃は二つの意味があった。つまりは、ギリシャへの挑発行為であるのと同時に、ギリシャ海軍の戦力を事前に削いでおく意味があった。

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撃沈されたギリシャ軽巡「エリ」

海軍諜報部はギリシャ海軍の軽巡洋艦「エリ」がティノス港に式典への参列のために来港するという情報を入手し、これによって1940年8月15日に作戦は決行された。艦長はジュゼッペ・アイカルディ中尉であった。「デルフィーノ」は軽巡「エリ」の撃沈に成功したが、これは後にまでイタリア-ギリシャ関係に禍根を残すこととなった。

「エリ」の撃沈に関してイタリア側は関与を否定し、英国海軍の仕業だと断定し、英国を非難した。当の英国側は全く身に覚えが無いので、イタリアがやった事だとしてこれを非難した。なお、ギリシャ側は「エリ」撃沈後、「デルフィーノ」から発射された魚雷の断片を発見しており、これがイタリア製であることも判明していた。しかしギリシャ政府はイタリアとの戦争を避けるために事実を公表しなかったが、結局ギリシャの行動は無意味になった。その数か月後にムッソリーニギリシャに対して宣戦布告、侵攻を開始したからである。

「デルフィーノ」はその後、アルベルト・アヴォガドロ・ディ・チェッリオーネ大尉の指揮に移った。ギリシャ開戦後もギリシャ戦線に従事し、ギリシャ海軍の駆逐艦「プサラ」に雷撃したが、撃沈する事は出来なかった。その後は英国船団の妨害を行うために行動し、サルデーニャ島シチリア島マルタ島沖等で活動した。1942年2月から11月まではポーラ軍港で訓練艦任務を務め、1942年11月からはリビアへの輸送任務に従事している。

 

バンディエーラ級潜水艦「チーロ・メノッティ」

占領下のリビアへの極秘の上陸作戦!

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潜水艦「メノッティ」

バンディエーラ級潜水艦の一隻。就役は1930年8月29日。
第二次世界大戦参戦前では、フランコ政権側でスペイン内戦に秘密裏に参加しており、1937年1月31日には共和国政府側の輸送船を撃沈している。また、2月2日から3日にかけて、共和国政府側が支配するスペイン沿岸領域に1914年式102/35砲で艦砲射撃を実行、橋や道路などのインフラの破壊に成功した。

第二次世界大戦開戦後、初期は潜水艦エースとして名高いディ・コッサート少佐が艦長だったが、いくつかの攻撃任務の後、1940年秋ごろに彼がベータソム基地に配属となると、艦長は変更となった。その後、1942年1月まで地中海東部にて哨戒任務を行ったが、目立った会敵はなかった。5月からはリビアへの輸送任務に従事。1943年3月7日にはポーラ軍港にて訓練艦として使われている。

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リビアで戦う「サン・マルコ」連隊

「メノッティ」の注目すべき行動はその後である。1943年8月3日深夜、とある特殊作戦に「メノッティ」は参加した。それは、連合軍占領下にあったリビアベンガジへの秘密の上陸作戦である。これは連合軍が使用している軍事基地(特に空港)の破壊任務のためであり、ディ・マルティーノ中尉によって指揮された。海軍の陸戦部隊である海兵連隊「サン・マルコ」によって実行される事になった。兵員輸送のために、輸送任務に適していた「メノッティ」が選ばれたのである。作戦は決行され、「メノッティ」は兵員を輸送し、深夜にベンガジ近くの海岸に19人の「サン・マルコ」工作員が上陸に成功した。そして、工作員らは米軍及び英軍が使っているベンガジの飛行場にて、破壊工作に従事したのであった。

9月7日にはイタリア本土防衛のため、「プラティーノ」などと共に連合軍への待ち伏せ作戦「ゼータ」に参加する事になった。「メノッティ」はイオニア海にて敵艦隊を待ち伏せしていた。しかし、結局作戦は決行されず、休戦発表によってマルタで連合軍による武装解除を受けた。イタリア分裂後は共同交戦海軍の一員として戦い、終戦まで生き残った。

 

リウッツィ級潜水艦「アルピーノ・バニョリーニ」

第二次世界大戦における初戦果を挙げたイタリア潜水艦!

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潜水艦「バニョリーニ」

リウッツィ級潜水艦の一隻。就役は1939年12月22日。
「バニョリーニ」はイタリア海軍の潜水艦で一番最初に戦果を挙げた潜水艦であった。艦長は潜水艦エースのフランコ・トゾーニ・ピットーニ少佐。

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撃沈された英国海軍の軽巡洋艦カリプソ

1940年6月12日、すなわちイタリア参戦から2日後のことであった。ピットーニ少佐率いる「バニョリーニ」はクレタ島沖にて哨戒中、英国海軍の軽巡洋艦カリプソ」を発見した。「バニョリーニ」の雷撃により、「カリプソ」は撃沈され、これはイタリア潜水艦による、最初の戦果となった。もっと言えば、イタリア海軍艦艇による最初に戦果と言えるかもしれない。

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バニョリーニ艦長を務めたフランコ・トゾーニ・ピットーニ少佐

フランス休戦後、ベータソム基地が建設されると、「バニョリーニ」もベータソム基地の所属となり、大西洋での通商破壊任務に従事する事になった。ピットーニ少佐の元、再び戦果を挙げ、計3隻の撃沈数(総トン数は11142トン)の戦果を手に入れた。1941年になるとピットーニ少佐は艦を離れ、潜水艦「ミケーレ・ビアンキ」の艦長となった。夏には潜水艦「ビアンキ」は英駆逐艦に撃沈され、ピットーニ少佐は戦死してしまう。新たな「バニョリーニ」艦長はマリオ・テイ中尉だった。その後も大西洋での通商破壊に従事し、それは1943年まで続いた。1943年になると、日本への輸送任務を担う事になる。しかし、改装中にイタリア王国が休戦すると、ベータソム基地の司令官であるエンツォ・グロッシ大佐はRSIへの合流を宣言したため、「バニョリーニ」はドイツ・イタリアの混合の人員によって運営される事になった。この人員によって計画通り日本への輸送任務に就くことになったが、対潜能力を向上させた連合軍機によって捕捉され、1944年3月に撃沈された。

 

アドゥア級潜水艦

アクスム」「アラダム」「アシアンギ」

英海軍艦艇を撃沈した武勲艦たち

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アドゥア級潜水艦。上から「アクスム」「アラダム」「アシアンギ」

アドゥア級潜水艦は優れた性能を持っていたため、先述した「シィレー」を始め活躍した艦は多かった。その中でも特に特筆すべき活躍をした三つの艦を紹介する。
アクスム」の就役は1936年12月2日。

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アクスム」が撃沈した軽巡洋艦「カイロ」

1942年8月12日、「アクスム」は英国船団の攻撃の為に哨戒任務をしていた。その目標はペデスタル船団のマルタへの到達阻止であった。「アクスム」はビゼルタ沖にて船団を発見し、攻撃を行った。これにより、英国海軍の軽巡洋艦「カイロ」が撃沈され、軽巡洋艦「ナイジェリア」も中破した。

続いて、「アラダム」は1937年1月13日就役。

1942年4月6日、ケリビア東方沖にて英駆逐艦「ハヴォック」を発見し、撃沈した。

最後の「アシアンギ」は1938年3月25日就役。

地中海での船団襲撃任務で活躍した。1942年11月11日にはアルジェリア沖にて英掃海艇「アルジェライン」を撃沈。その後、シチリア防衛戦時の1943年7月23日、オーガスタ沖にて英軽巡ニューファンドランド」を雷撃で大破させた。しかし、反撃に速やかに行動した英海軍の駆逐艦隊によって爆雷で撃沈された。

 

ラティーノ級潜水艦

「プラティーノ」「アッチアイーオ」

「アヴォリオ」

戦時中に就役した新型潜水艦の戦果

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ラティーノ級潜水艦。上から「プラティーノ」、「アッチアイーオ」、「アヴォリオ」。

ラティーノ級はアドゥア級やペルラ級と共に「クラッセ600」シリーズの潜水艦で、開戦後に竣工・就役した潜水艦だ。そのため、様々な改良点が加えられている。プラティーノ級潜水艦は就役時期から、戦争後半から活躍した。

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「プラティーノ」に撃沈された英コルベット「サンファイア」

「プラティーノ」は1941年10月2日就役。

就役後、いくつかの攻撃任務に参加した後、1943年からヴィットーリオ・パトレッリ・カンパニャーノ中尉が艦長となった。カンパニャーノ艦長の元で、「プラティーノ」は英船団攻撃に従事、1943年1月29日深夜、アルジェリア沖にて「プラティーノ」は英国海軍のコルベット「サンファイア」を旗艦とする船団を発見する。「プラティーノ」はこれを攻撃し、「サンファイア」の撃沈に成功した。更には1943年2月7日、再びアルジェリア沖にて、英国海軍の駆潜艇3隻に遭遇した際、これを全て撃沈する事に成功したのである。その後、対潜哨戒機の反撃を受けたが、無事撤退する事に成功した。続いて2月18日に英船団を攻撃した後、9月7日にはイタリア本土防衛のため、連合軍への待ち伏せ作戦「ゼータ」に参加する事になった。しかし、休戦の発表によりそれが実行される事は無く、「プラティーノ」は海軍司令部の指示に従って連合軍に降伏した。

「アッチアイーオ」は1941年10月30日就役。

艦長はオットリーノ・ベルトラーミ中尉。1942年3月23日に初攻撃任務に従事した後、6月中旬には英国のマルタ輸送作戦「ハープーン」を妨害するために船団攻撃を実行。11月初めにはアルジェ沖にて「リアンダー」級軽巡を発見し、これを雷撃したが撃沈には成功しなかった。1943年2月7日には、アルジェリア沖にて英国船団を発見。これを攻撃し、英国海軍の駆潜艇「テルヴァーニ」及び「アーノルド・ベネット」、更に一隻のタンカーの撃沈に成功したのである。その後、艦長はヴィットーリオ・ペスカトーレ中尉に変わった。7月10日、シチリア防衛戦において連合国軍に対する哨戒任務に参加したが、7月13日、英潜水艦「アンルーリー」によって撃沈された。

「アヴォリオ」は1942年3月25日就役。

艦長はマリオ・プリジョーネ中尉。1942年8月11日が初任務であった。8月中旬、英国の「ペデスタル」船団のマルタ到達を阻止するため、船団攻撃に参加。1943年2月5日はアルジェリア沖にて英国海軍の駆潜艇「ストロンゼー」撃沈に成功している。しかし、2月9日にはカナダのコルベット「レジャイナ」の攻撃によって撃沈された。

 

CB級ポケット潜水艦

黒海で活躍した敵泊地攻撃用の小型潜水艦

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CB級ポケット潜水艦の一隻、ポケット潜水艦「CB-4」。

CB級ポケット潜水艦は敵泊地攻撃の為に開発された小型潜水艦で、1938年に開発されたCA級の発展型として1941年に開発されたものだ。航続距離も伸びて中距離攻撃作戦への投入も可能となった。
対ソ戦が開始すると、伊海軍派遣部隊の一員として5隻のCB級ポケット潜水艦が陸路で黒海に派遣された。黒海では本来の用途である敵泊地攻撃を行わず、通常の潜水艦と同様に哨戒任務や待ち伏せ攻撃に従事し、CB級はそれなりの戦果を挙げた。

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撃沈されたソ連潜水艦「S32」

1942年6月15日、「CB-2」がソ連海軍の潜水艦「S32」を雷撃で撃沈した。6月18日深夜には「CB-3」が同じくソ連の潜水艦「SHCH206 "ネルマ"」を撃沈している。更に8月には同じく「CB-3」がソ潜水艦「SHCH208」を撃沈、8月26日には「CB-4」がソ潜水艦「SHCH203」を撃沈する事に成功した。また、CB級は形状不明の潜水艦1隻も撃沈しており、実に休戦までに5隻のソ連潜水艦を撃沈したのである。潜水艦が潜水艦を撃沈した例は、イタリア海軍では先述した「エンリコ・トーティ」の例を除き、これのみであった。

CB級はその後も生産が続けられ、休戦後もRSI政権のもとで生産が続けられた。RSI海軍の数少ない艦艇として、引き続き黒海アドリア海で活動したのであった。ちなみに、先述したボルゲーゼ中佐が計画したニューヨーク攻撃作戦は、潜水艦「レオナルド」にCB級が搭載され、ニューヨーク攻撃を実行する計画であった。

 

いかがだったであろうか?潜水艦大国イタリアは、第二次世界大戦中に様々な活躍をしたのである。当然、ここで紹介したのはあくまで一部に過ぎず、私が独断と偏見でチョイスした潜水艦たちである。他にも魅力的な戦果を持つイタリアの潜水艦は沢山あるので、気になったら調べてみて欲しい。

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「永遠の都」ローマを防衛せよ! ―イタリア社会共和国(RSI)軍とアンツィオ・ローマの防衛戦―

1944年初頭、連合軍は枢軸国側の防衛線「グスタフ・ライン」に阻まれ、北上が出来ずにいた。とはいえ、名目上のRSI政権の首都であるローマは目前であった。連合軍はこの状況を打開するために、モンテ・カッシーノ戦に呼応するかのように、1月22日に「シングル」作戦を発動した。アメリカ第六軍がローマ南方約60kmの港町アンツィオに上陸を開始することになる。

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アンツィオに上陸する連合軍

アンツィオはローマの喉元に位置し、鉄道でも1時間程度で着くほど近い町だ。かつてローマ帝国時代はネロ帝やカリグラ帝の出身地として知られ、ネロの別荘の遺跡がある事でも知られている。イタリア社会共和国首脳部はアンツィオ防衛のために軍の派遣を決定したが、正規四師団は訓練中であったため、いくつかの独立部隊がドイツ軍と共に防衛戦に投入された。当時のローマはRSI軍第200地方軍司令部の本部が置かれ、その指揮をジュニオ・ルッジェーロ陸軍少将が執っていた。アンツィオもこの第200地方軍司令官の管轄となっていた。

アンツィオ戦に投入されたRSI軍の部隊は以下の通りである。

◆陸戦部隊
・空挺連隊「フォルゴーレ」大隊「ネンボゥ」
(司令官:コッラディーノ・アルヴィーノ空軍大尉)
・デチマ・マス海兵大隊「バルバリーゴ」
(司令官:ウンベルト・バルデッリ海軍大尉)
◆海軍部隊
・デチマ・マス海上部隊(MAS艇、MTSM艇等)
◆空軍部隊
・第一雷撃集団「ブスカーリア」

(司令官:カルロ・ファッジョーニ空軍大尉)

 

陸戦部隊は陸軍からではなく、空軍から「フォルゴーレ」空挺連隊、海軍デチマ・マスから「バルバリーゴ」海兵大隊が派遣された。ドイツ軍とRSI軍は連合軍上陸部隊を包囲する事に成功し、戦線を膠着状態に持ち込んだ。

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海兵大隊「バルバリーゴ」

アンツィオ防衛戦に参加したRSI海兵大隊「バルバリーゴ」は編成されてすぐの投入であり、装備も足りず博物館に展示されていたWW1時の野砲を引っ張り出してくるほどであったが、多くの犠牲を払いながらも奮戦し、その士気の高さと能力をドイツ軍に高く評価され、これはRSI軍全体の再評価に繋がった。

後に「サン・ジョルジョ」砲兵大隊も加わり、第29SS擲弾兵師団「第一イタリア」や、ドイツの第16SS師団と共に多くの犠牲を払いながら、5月末の残存部隊の撤退まで連合軍上陸部隊と死闘を繰り広げた。

海兵大隊「バルバリーゴ」と共にアンツィオ防衛戦に投入されたのが、空挺連隊「フォルゴーレ」のコッラディーノ・アルヴィーノ大尉が指揮する独立空挺部隊「ネンボゥ」で、白兵戦で果敢に戦い、連合軍部隊に多くの損害を与えた。しかし、部隊の損害も高く、実に70%に及ぶ多大な犠牲を払う事になったのである。これらの奮戦によって枢軸軍は連合軍を5月まで海岸線10kmの地点にまで押しとどめた。

続いて、海上部隊である。アンツィオ防衛線に駆り出されたRSI海軍「デチマ・マス」はM.A.S.艇や高速魚雷艇(M.T.S.M.艇とM.T.S.M.A.艇)を用いて繰り返し攻撃を行い、連合軍の上陸舟艇や揚陸艦を数多く撃沈する事に成功している。

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サヴォイアマルケッティSM.79"スパルヴィエロ"爆撃機とカルロ・ファッジョーニ大尉

雷撃の卓越した指揮官であったカルロ・ファッジョーニ大尉によって指揮されたRSI空軍の第一雷撃集団「ブスカーリア」も参加した。同部隊はサヴォイアマルケッティSM.79"スパルヴィエロ"爆撃機を用いた。海軍と協力し、連合軍の上陸舟艇や揚陸艦を数多く撃沈し、連合軍艦隊に対して多くの戦果を挙げたが、その一方で、殆どのパイロットが戦死し、指揮官であるファッジョーニ大尉自身も戦死している。ファッジョーニ大尉死後はマリーノ・マリーニ大尉が指揮官を継いだ。

 

5月になると枢軸軍の奮戦敵わず、連合軍は包囲網を突破した。枢軸軍はローマ近郊のポンティーノ平原に撤退し、ポンティーノ戦線が開かれた。ポンティーノ平原は元々は広大な湿地帯であり、古代からマラリアの発生源として人々を悩ませてきた。ムッソリーニは農地拡大のためにこの地で大規模干拓を実行し、ポンティーノ大湿地帯は平原となったのである。その後、リットーリア(現ラティーナ)やアプリリアといった新都市が作られたのであり、これはファシスト政権の成果の中でも特に大きなものとなった。

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「フォルゴーレ」のエドアルド・サーラ大尉

ローマ防衛戦は開始された。空挺連隊「フォルゴーレ」と海兵大隊「バルバリーゴ」はポンティーノ戦線で連合軍と激戦を繰り広げた。特に「フォルゴーレ」の奮戦は目を見張るものがあり、6月3日にはフェレット中尉が指揮する「フォルゴーレ」第三大隊「アッズーロ」第7中隊が英軍との激戦の末に、フォッソ・デッラックア・ブォーナを再占領することに成功した。その後オルテッリ中尉率いる第10中隊はローマ首都圏のアチリア地区で大損害を受けながらも敵軍の侵攻を食い止めた。激闘の末、チステルナやアプリリア、ポメツィア、リットーリアといった諸都市が陥落した。

オスティアではリッツァッティ少佐が指揮する第一大隊「ネンボゥ」は英軍戦車部隊に包囲されたが、最後まで戦線を維持し、これによってドイツ軍はテヴェレ川を渡って撤退する事に成功した。また同大隊の400人はローマ首都圏のカステル・ディ・デチマで英軍と激戦を繰り広げ、多くの犠牲を出している。リッツァッティ少佐の戦死後、副官のサーラ大尉が鹵獲した英軍戦車を使って残存部隊は脱出に成功した。

激闘の末、枢軸軍の撤退によって、連合軍が6月4日にローマに入城。イタリア社会共和国の「首都」は陥落したのであった。しかし、この戦いによってRSI側はドイツ軍に高く評価されることになり、「フォルゴーレ」のリッツァッティ少佐もイタリア軍で最高位の金勲章を授与されている。

イタリア社会共和国(RSI政権)陸軍の編制 ―4つの正規師団と11の地方軍司令部、そしてGNR―

イタリア休戦後、新たに成立した北部のイタリア社会共和国(RSI政権)にて、軍が再編されることになった。グラツィアーニ元帥、カネヴァーリ准将、ガンバラ中将を始めとするRSIに合流した将軍たちの尽力により再編が進められ、四つの師団の設立がドイツ側との協議によって認められた。しかし、ドイツ側で再訓練することになり、これはムッソリーニ含む首脳部は反感を抱くことになる。また、GNRのリッチ司令の主張により、GNRはグラツィアーニの国防省とは異なり、内務省の管轄となった。

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モンテローザ」師団を閲兵するムッソリーニ統帥とカルローニ将軍

新生ファシスト軍四師団がドイツでの再訓練が決定されると、軍事使節団はSIM(陸軍諜報部)出身のエミーリオ・カネヴァーリ准将が率いた。彼は軍事理論家として知られている人物で、プロイセン式の軍事教練の熱烈な支持者である彼はムッソリーニと意見を対立させて解任されていたが、ドイツにとって都合の良い人材だったため、四師団のドイツでの再訓練が決定されると軍事使節団の団長となった。

四師団は山岳師団「モンテローザ」、海兵師団「サン・マルコ」、擲弾兵師団「リットーリオ」、ベルサリエリ師団「イタリア」で構成されていた。「モンテローザ」はゴッフレード・リッチ少将、「サン・マルコ」はアルド・プリンチヴァッレ少将、「リットーリオ」はティート・アーゴスティ少将、「イタリア」はヴィンチェンツォ・ジャルディーナ少将が師団長を務める事になった。

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四師団の師団長。左から「モンテローザ」師団長カルローニ将軍、「サン・マルコ」師団長ファリーナ将軍、「リットーリオ」師団長アーゴスティ将軍、「イタリア」師団長マナルディ将軍。

しかし、「リットーリオ」師団を除き、訓練中に人事変更が行われ、訓練終了時には師団長は違う将軍となっていた。「モンテローザ」はマリオ・カルローニ准将、「サン・マルコ」はアミルカーレ・ファリーナ少将、「イタリア」はグイード・マナルディ准将に師団長が変更されたのである。

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地方軍の司令官たち。左から第201地方軍司令官アダーミ・ロッシ将軍、第204地方軍司令官エスポジート将軍、第205地方軍司令官ソリナス将軍(ブローリャ将軍の後任)、第208地方軍司令官モンターニャ将軍、第210地方軍司令官デ・チア将軍(ディアマンティ将軍の後任)。

また、RSIは地方の駐屯軍を管轄する「地方軍司令部(CMR)」を設置した。これは基本的にイタリアの各地方を管轄し、その中心都市に司令部が設置された。以下にその一覧を紹介すると、

◆第200地方軍司令部(ラツィオ):ローマ司令部

司令官:ジュニオ・ルッジェーロ将軍

◆第201地方軍司令部(トスカーナ):フィレンツェ司令部

司令官:エンリコ・アダーミ・ロッシ将軍

◆第202地方軍司令部(エミリアロマーニャ):ボローニャ司令部

司令官:ゲラルド・マガルディ将軍

◆第203地方軍司令部(ヴェネト):パドヴァ司令部

司令官:ウンベルト・ピアッティ・ダル・ポッツォ将軍

◆第204地方軍司令部(フリウーリ):トリエステ司令部

司令官:ジョヴァンニ・エスポジート将軍

◆第205地方軍司令部(ロンバルディア):ミラノ司令部

司令官:エンリコ・ブローリャ将軍

◆第206地方軍司令部(ピエモンテ北部及びヴァッレ・ダオスタ):アレッサンドリア司令部(後にトリノに変更)

司令官:フェリーチェ・ヴァッレッティ・ボルニーニ将軍

◆第207地方軍司令部(ウンブリア):ペルージャ司令部

司令官:ゴッフレード・リッチ将軍

◆第208地方軍司令部(マルケ):マチェラータ司令部

司令官:レンツォ・モンターニャ将軍

◆第209地方軍司令部(アブルッツォ):ラクィラ及びキエーティ司令部

司令官:イーロ・ジャコモ・ペルジーニ将軍

◆第210地方軍司令部(リグーリア及び南部ピエモンテ):ジェノヴァ司令部(後にアレッサンドリア)

司令官:フィリッポ・ディアマンティ将軍

 

以上は設立時のものである。RSI陸軍(ENR)には正規四師団のほかに様々な独立部隊が存在したが、これらはこの地方軍司令官の指揮下に置かれた。

また、ローマ陥落後、1944年に「リグーリア軍集団」という軍集団が作られた。これは西アルプスの国境地帯とリグーリア海岸防衛のための軍集団で、RSI軍とドイツ軍の混合であった。司令官はアルフレード・グッツォーニ大将で、RSI軍では「モンテローザ」「リットーリオ」、及び「サン・マルコ」が組み込まれていた。

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「エトナ」師団長ルイージ・ヴォランテ将軍

そして、1944年8月14日にはGNRが国軍の指揮下に組み込まれることになり、GNRも陸軍の指揮下に置かれることとなった。GNRの代表的な師団「エトナ」はルイージ・ヴォランテ将軍によって指揮され、同師団は空挺大隊「マッツァリーニ」や装甲集団「レオネッサ」、突撃大隊「ローマ」、少年兵大隊「フィアンメ・ビアンケ」などで構成された。これらのGNR部隊も、治安維持任務に関しては「黒い旅団(ブリガーテ・ネーラ)」に任せる事になり、連合軍との戦闘へと投入されることになった。なお、GNRは新たに「ヴェズヴィオ」師団の編制を行っていたが、休戦までに実現しなかった。

 

それぞれについて詳しく今後調べていくことにしよう。

イタリア社会共和国(RSI政権)による「ヨーロッパ共同体構想」 ―ファシストによる欧州統合―

「ヨーロッパ統合構想」。戦乱が絶えないヨーロッパから戦争を取り除き、平和な世界を作るために数多の欧州の思想家・活動家たちが考えてきた。今日における欧州連合(EU)が成立するまでの苦難は非常に長く、厳しいものであった。

欧州統合論は第一次世界大戦という壮絶な「ヨーロッパの内戦」の後に活発化、流行化していった。しかし、ファシスト政権期のイタリアではそれは見られない(私の調べ不足かもしれないが)。対して、ヒトラーは軍事力による欧州再編計画、つまり「ヨーロッパ新秩序」を構想していた。これはシュペーアを中心に計画されたものである。ムッソリーニがこのような計画を構想しなかったのは、現実主義者だったからだろう。現実的に、欧州統合構想はしばしば「理想主義」と批判され、「非現実的」だとされていた。汎ヨーロッパ論ならまだしも、軍事力によって欧州再編を行うなど不可能である。

イタリア社会共和国の「ヨーロッパ統合構想」

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RSI政権閣僚たち。ヴェローナ党大会にて。

しかし、1943年の休戦後に成立したイタリア社会共和国(RSI政権)では「ヨーロッパ共同体構想」というものが存在した。これは、1943年11月の共和ファシスト党ヴェローナ党大会にて宣言されたものであった。

このヴェローナ党大会にて、共和ファシスト党書記長アレッサンドロ・パヴォリーニは、社会共和国の外交基本方針として、「共和国の独立と統一」、「領土の保全」、「イタリア国民4500万人の生命圏(スパツィオ・ヴィターレ)の確保」を宣言し、その後、「ヨーロッパ共同体構想」を宣言した。

これによると、RSI政権による「ヨーロッパ共同体構想」は、「欧州への英国の勢力浸透に反対するヨーロッパ諸国」による連邦を組織、これによってヨーロッパ共同体の実現に努力する。更にこの共同体は、資本主義の廃止と、アフリカにおける天然資源の開発を主要目標とした。この主要な要素を他の同時期のヨーロッパ統合構想とも比較して見てみよう。

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イタリア社会共和国を国家承認した国家。橙がイタリア社会共和国、赤色がRSI政権を承認した枢軸国もしくは枢軸国占領下、茶色は枢軸国側だが非承認、紫は非公式の外交関係を持った。

①反英主義の欧州諸国による連邦の形成

まず、「欧州への英国の勢力浸透に反対するヨーロッパ諸国」による連邦という点を見てみよう。これは明らかにヨーロッパからの英国の排斥を目的としている。ナポレオンの大陸封鎖令に近いと考えられる。「ある一国よりも強い自国を作る」という意味では、RSI政権の「ヨーロッパ共同体構想」と、自由フランスの「戦後ヨーロッパ秩序の再編案」は似た特徴を持っている。

すなわち、RSIが「英国より強いイタリア」を求めたが、自由フランスも「ドイツより強いフランス」を求めたのである。自由フランスが「戦後ヨーロッパ秩序の再編案」に求めたのは、フランスの経済力強化と、安全保障の確保であった。具体的には「フランスが軍事的にも経済的にも勝てそうな国」との関税同盟の創設や、競争を防止するために欧州諸国間の石炭・鉄鋼業でのカルテルの創設を具体案として出していた。

「危険な他者」に対する防衛手段としてのヨーロッパ統合というのは、クーデンホーフ・カレルギーの「汎ヨーロッパ」でも見られる。あちらではアメリカとソ連に対する防衛であるが、こちらではそれの対象が英国となっただけだ。「欧州への英国の勢力浸透に反対する」とあるが、当然同じアングロサクソンアメリカは「危険な他者」に含まれるだろうし、ファシズム伝統の反共主義に基づき、ソ連も「危険な他者」と言えるだろう。ただ、明確にそれらは述べられていない。ソ連がドイツを弱体化させることをムッソリーニは望んでいたため、ソ連は必ずしも「敵」ではないのかもしれない。

また、当時(1943年11月)の欧州はまだ大部分が枢軸国側だったため、「欧州への英国の勢力浸透に反対するヨーロッパ諸国」による連邦形成は理論上可能であり、夢物語ではない。また、この共同体は連邦制を意識しているようだ。つまりは、「ヨーロッパ合衆国」のようなものを想定しているのだろうか?

②資本主義の廃止

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「欧州統合の父」アルティエーロ・スピネッリ

次に、「資本主義の廃止」についてだが、資本主義の廃止についてであるが、は個人の貯蓄に基づく私有財産は保障するが、国民全般の利益にかかわる資産は国の所管とするというヴェローナ宣言の方針に沿うものであろう。これに関してはムッソリーニが激しく批判している。理由としては「共産主義的過ぎる」ことであり、「我々が20年間も共産主義と戦ってきたのはなんだったのか」と嘆いている。そもそも、この党大会の主宰はムッソリーニは拒否している。

実際、同時期に発表されたアルティエーロ・スピネッリの「ヴェントテーネ宣言」第三部に似通うものがある。アルティエーロ・スピネッリは、「欧州統合の父」と呼ばれる人物の一人で、イタリアの共産主義者だ。ファシスト政権期は逮捕され、ヴェントテーネ島に流刑となっており、自由主義者エルネスト・ロッシらと共に欧州統合構想「ヴェントテーネ宣言」を書き上げた。これの第三部によると、私有財産は廃止・限定(しかし、原則を教条主義的に従うものではない)され、インフラは国家によって独占的に管理するべき、というスタンスが述べられた。第三部はスピネッリではなく、自由主義者エルネスト・ロッシらによって起草されたところが大きい。「ヴェントテーネ宣言」ほど過激ではないにしろ、似通うものがある。

③植民地開発

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「汎ヨーロッパ」クーデンホーフ・カレルギー

最後は、アフリカにおける天然資源の開発だ。植民地主義的、と思うだろうが、これは当時のヨーロッパ統合構想では何ら変なことではない。例えば、クーデンホーフ・カレルギー伯が論じた「汎ヨーロッパ」でも、植民地が含まれており、植民地支配を正当化する理論として「民主主義」や「平和主義」を用いた。つまりは、「文明の使節」として植民地拡大を正当化するやり口であり、デ・ボーノ将軍と大して変わらないのである。これに対し、クレマンソーは植民地は経済的に勝ちが無いとして批判していた。すなわち、「ヨーロッパ至上主義」的な「欧州統合構想」は何もファシスト独自なものでなく、当時の流行としては自然なものであった。しかし、あえてアフリカだけに限定しているのは、アジアに同盟国である日本やタイの存在があったからかもしれない。

 

では、この「ヨーロッパ共同体構想」の発案者は誰なのか?「資本主義の廃止」にはムッソリーニやファリナッチが反発しているため、少なくとも彼らではないのは確かだろう。では、ヴェローナ党大会を主宰したパヴォリーニなのだろうか?詳しく調べる必要があるだろう。

 

エットレ・ムーティ空軍中佐と中東への長距離爆撃作戦 ―中東油田地帯ヲ爆撃セヨ!―

地味に空軍関係について書くのは初めてである。理由としては、私自身、イタリア空軍を始めとする空軍自体に詳しくない、というか今まであまり興味がなかった。

ただ、そんな私でも面白いと思ったイタリア空軍の功績がある。第二次世界大戦中の中東への長距離爆撃だ。イタリア空軍は地味に長距離飛行で名を挙げている。二度のローマ-東京飛行、二度の大西洋横断飛行は有名だろう。特に、第二次世界大戦中のイタリア-日本間の長距離飛行はドイツ空軍も成し遂げなかった偉業であった(それなのにマイナーであるが)。それについてはまたの機会に述べるとしよう。

そんなイタリア空軍はその長距離飛行のノウハウを生かして、中東への長距離爆撃を実行していたのである。具体的にはパレスチナバーレーンサウジアラビアへの爆撃である。その長距離爆撃を指揮したのは、ファシスト党書記長だった空軍中佐、エットレ・ムーティだった。

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飛行服姿のエットレ・ムーティ空軍中佐

エットレ・ムーティ空軍中佐は、ファシスト党書記長という職でありながら、政治家としての才能に恵まれなかった。しかし、彼は飛行家として有り余る才能があった。エチオピア戦争やスペイン内戦での爆撃任務で武勲をあげ、「翼のエル・シッド」のニックネームを得た。大戦では中東への長距離爆撃を計画し、無事成功させたのである。

ムーティはフィウーメ進軍に参加した時にダンヌンツィオに「緑目のジム(Gim dagli occhi verde)」というニックネームを付けられたが、それは長く使われる彼の通称となり、スペイン内戦に義勇兵パイロットとして参加した時は、「Gim Valeri(ジム・ヴァレリ)」という偽名で参加している。

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政治家としてのムーティ(左)。右はチャーノ外相。

そもそも、彼が党書記長になった理由は、解任されたスタラーチェの後任として、友人であったチャーノの推薦で1939年に就任したのであった。彼は就任当初から「行動的ではない」この役職を嫌い、空軍軍人として戦う事を望んだ。結局彼は空軍中佐として、フランス侵攻での爆撃を皮切りに再びパイロットとして復帰したのであった。彼の早すぎる党書記長辞職は、ムーティを書記長として推薦したチャーノと、チャーノの岳父であるムッソリーニの関係を悪化させる結果となってしまった。それにより、チャーノとムーティ自身の関係も悪化することになってしまう。

 

中東への長距離爆撃!バーレーン・サウジ爆撃―

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サヴォイアマルケッティ SM.82爆撃機

爆撃機パイロットとして復帰したムーティは、フランス降伏後、中東への長距離爆撃作戦を計画した。この作戦はバーレーンの油田施設を攻撃し、英軍の石油供給を妨害する事が目的であった。これは実に往復4500kmという長距離であったが、ムーティ中佐はサヴォイアマルケッティSM.82“カングーロ”を長距離爆撃仕様に改造し、綿密な爆撃計画を立てた。

1940年10月19日、作戦は実行に移された。4機のSM.82爆撃機エリトリアの飛行場を出発し、バーレーンを目指した。バーレーンは19世紀に英国の保護国になって以降、英国の支配下にあった。バーレーンのハキム(首長)であるハマド・イブン・イーサ・アール・ハリーファ第二次世界大戦開戦に伴い、1939年9月に連合国側での参戦を宣言した。バーレーンは英国にとって重要な石油供給元であった。

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当時のバーレーン首長ハマド・イブン・イーサ・アール・ハリーファ

バーレーンは地理的に戦場からは遠く「安全」であるとされていた。しかし、突如イタリア空軍のSM.82が飛来し、バーレーン首都マナーマにあった油田施設が攻撃を受けたのである。イタリア空軍の爆撃は二つの製油所に大きなダメージを与え、「安全圏」への爆撃はバーレーンに大きな混乱をもたらした。この爆撃の結果、英国は「安全圏」と思われていたバーレーンの防衛を強化する事となった。

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サウジアラビアの油田

続いて、マナーマ油田爆撃に加えて、イタリア空軍の爆撃機部隊は当初爆撃予定ではなかったサウジアラビアのダーラン油田への爆撃を実行した。サウジアラビアは1930年代に油田が発見された事によって産油国となった。サウジ国王イブン・サウードは英国との関係を重視した他、ルーズベルト大統領とは個人的な友好関係があった。

WW2勃発後、サウジアラビアは中立を宣言したが、英国との関係を重視してドイツとの国交を断絶している。即ち、サウジアラビアは連合国寄りとはいえ、公式には中立国であった。また、イタリアの友好国であるイエメンとサウジアラビアは対立関係にあった。中立国サウジアラビアの油田攻撃を実行した理由はその辺があったのかもしれない。イタリア空軍部隊はダーラン油田への爆撃を実行し、サウジアラビアの油田パイプラインは被害を受けた。

イタリア空軍の長距離爆撃部隊は、バーレーンサウジアラビアへの爆撃作戦を無事成功させた上に、一切の被害を出さず無傷で全機が帰還したのであった。

 

 中東への長距離爆撃! ―パレスチナ諸都市への空爆

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「イタリア空軍の父」バルボ空軍元帥(右)と談笑するムーティ

ムーティ中佐はこれらのバーレーン・サウジ爆撃の一方で、もう一つの中東への長距離爆撃作戦を指揮していた。それは、パレスチナへの爆撃作戦であり、こちらは計画を立てるだけでなく、爆撃隊のパイロットとして直接作戦に参加している。
パレスチナ爆撃作戦はバーレーン・サウジ爆撃に先立ち、1940年7月から実行された。エーゲ海ロードス島を出発したイタリア空軍の爆撃機部隊は、ハイファに対して爆撃が行われ、ハイファへの爆撃は英国の重要な製油精製施設があったために実行された。この爆撃にムーティ中佐自らハイファの爆撃任務に参加している。

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爆撃されて炎上するハイファの石油精製施設

ハイファへの爆撃は数度行われたが、これによって英軍は甚大な被害を受けた。爆撃されて炎上した石油精製施設は数日間燃え続け、その結果石油精製施設は使用不可能になったのである。その後も爆撃が続けられ、石油パイプラインは被害を受けた。
ハイファ爆撃に加え、イタリア空軍は中心都市テルアビブや港湾都市アッコに対しても爆撃が実行された。テルアビブへの爆撃では英空軍の追撃を避けるため、イタリア爆撃機部隊が誤って市街地に爆弾を投下、多くの民間人死者を出している。これに加えて、ドイツ空軍やヴィシー・フランス空軍もテルアビブを爆撃している(シリア・レバノン戦線の余波)。これらのパレスチナ諸都市への爆撃は1941年6月まで行われた。

 

バトル・オブ・ブリテン、SIA、そして暗殺

ムーティは一連の中東への長距離爆撃作戦の成功によって多くの名声を得た。続けてムーティはCAIの爆撃機パイロットとして、バトル・オブ・ブリテンにも参加した。しかし、英空軍は優れたレーダー管制による迎撃戦を展開、イタリア空軍の爆撃機部隊は思うように戦果を挙げられず、25%の機体を失った。

イタリアに帰国したムーティは、1943年から空軍諜報部(通称SIA, Servizio Informazioni Aeronautica)に所属し、時にはスペイン領内に墜落した米軍機から機材回収(特にレーダー)の為にスペインへ向かう事もあった。しかし、7月25日にムッソリーニが失脚し、バドリオ政権が成立すると、ムーティは急遽イタリアに帰国する事になった。ムーティはローマに戻ったが、8月24日にカラビニエリ兵によって暗殺された。彼はその後2年間続く、ファシストに対する「報復」の最初の犠牲者となったのである。

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航空機とムーティ

ファシズムの殉教者」となったムーティは、その後成立したイタリア社会共和国(RSI政権)によって英雄視された。RSI政権で成立したフランチェスココロンボ大佐が率いるGNRの独立機動部隊にはムーティの名がつけられ、ラヴェンナ(ムーティの出身地)に展開した「黒い旅団(ブリガーテ・ネーレ)」にも彼の名が付けられている。

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ブラッチャーノの空軍歴史博物館に展示されたムーティの絵画

いかがだったであろうか。私がこの事実を知ったのは、ブラッチャーノの空軍歴史博物館で買ったムーティ中佐の本を読んだからであった。それまでムーティ中佐のことは知っていたものの、短期間書記長を務め、ムッソリーニ失脚後に暗殺された事くらいしか知らなかった。しかし、調べてみたら彼は第二次世界大戦時のイタリア空軍を代表する軍人の一人と言ってよいほど、空軍軍人として華々しい戦果を挙げていた。
このムーティ中佐の功績を知って、今まであまり興味が無かったイタリア空軍についても調べてみようと思えた、いわばきっかけを与えてくれた人物でもある。

今後は陸軍や海軍だけでなく、イタリア空軍についても調べていきたい。思えば、『紅の豚』の舞台にもなっているし、イタリアは戦間期において航空先進国だった。ならば、空軍について調べてみるのが、最も良いのかもしれない。これを機に、イタリア空軍についても(知識不足ではあるが)その本質をどんどん調べていきたい。