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第二次世界大戦参戦時のイタリア海軍の編制 ―各地軍港の指揮官と所属艦隊、所属艦艇―

今回は、第二次世界大戦参戦時(1940年6月10日)時点のイタリア海軍の軍港と、どの艦隊が誰に指揮され、どこの軍港に配備され、どの艦が所属していたか...というのをざっくりした感じで紹介しようと思う。

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第二次世界大戦参戦時のイタリア海軍参謀長ドメニコ・カヴァニャーリ提督。

1940年6月10日のイタリア参戦時、ローマの海軍参謀本部ドメニコ・カヴァニャーリ提督(Domenico Cavagnari)が率いていた。開戦時の海軍の艦艇は以下の通り。

◆戦艦

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開戦時の第一艦隊旗艦:戦艦「ジュリオ・チェーザレ

+「コンテ・ディ・カヴール」級戦艦2隻

+「リットーリオ」級戦艦2隻(未準備、戦闘不可能)

水上機母艦

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水上機母艦「ジュゼッペ・ミラーリア」

水上機母艦「ジュゼッペ・ミラーリア」

巡洋艦

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主力の重巡洋艦「ザラ」

+「トレント」級重巡洋艦3隻

+「ザラ」級重巡洋艦4隻

+「サン・ジョルジョ」級対空巡洋艦1隻

+「アルベルト・ディ・ジュッサーノ」級軽巡洋艦4隻

+「ルイージ・カドルナ」級軽巡洋艦2隻

+「ライモンド・モンテクッコリ」級軽巡洋艦2隻

+「エマヌエーレ・フィリベルト・ドゥーカ・ダオスタ」級軽巡洋艦2隻

+「ルイージ・ディ・サヴォイア・ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」級軽巡洋艦2隻

軽巡洋艦「バーリ」「ターラント

駆逐艦

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ソルダーティ級駆逐艦「カラビニエーレ」

+「レオーネ」級駆逐艦3隻

+「ナヴィガトーリ」級駆逐艦12隻

+「アルフレード・オリアーニ」級駆逐艦4隻

+「ソルダーティ」級駆逐艦12隻

+「マエストラーレ」級駆逐艦4隻

+「ダルド」級駆逐艦4隻

+「カルロ・ミラベッロ」級駆逐艦2隻

+「フォルゴレ」級駆逐艦4隻

+「トゥルビネ」級駆逐艦8隻

+「ナザリオ・サウロ」級駆逐艦4隻

+「クィンティーノ・セッラ」級駆逐艦2隻

水雷艇

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クルタトーネ級水雷艇「カラタフィーミ」

+「スピカ」級水雷艇30隻

+「オルサ」級水雷艇4隻

+「ロゾリーノ・ピーロ」級水雷艇7隻

+「ジュゼッペ・シルトリ」級水雷艇4隻

+「ジュゼッペ・ラ・マーサ」級水雷艇8隻

+「ジェネラーリ」級水雷艇6隻

+「パレストロ」級水雷艇4隻

+「クルタトーネ」級水雷艇4隻

+「インドミート」級水雷艇1隻

水雷艇「アウダーチェ」

◆潜水艦

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カルヴィ級潜水艦「エンリコ・タッツォーリ」

+「アドゥア」級潜水艦17隻

+「アルゴナウタ」級潜水艦7隻

+「ペルラ」級潜水艦10隻

+「シレーナ」級潜水艦12隻

+「アルキメーデ」級潜水艦2隻

+「アルゴ」級潜水艦2隻

+「バリッラ」級潜水艦4隻

+「バンディエーラ」級潜水艦4隻

+「ブラガディン」級潜水艦2隻

+「ブリン」級潜水艦5隻

+「カルヴィ」級潜水艦3隻

+「フィエラモスカ」級潜水艦1隻

+「フォカ」級潜水艦3隻

+「グラウコ」級潜水艦2隻

+「H(アッカ)」級潜水艦5隻

+「リウッツィ」級潜水艦4隻

+「マメーリ」級潜水艦4隻

+「マルチェッロ」級潜水艦11隻

+「マルコーニ」級潜水艦6隻

+「ミッカ」級潜水艦1隻

+「ピサーニ」潜水艦級4隻

+「セッテンブリーニ」級潜水艦2隻

+「スクァーロ」級潜水艦4隻

+「X」級潜水艦2隻

◆その他

機雷敷設艦、MAS艇(高速魚雷艇)、封鎖突破船、仮装巡洋艦、病院船等多数

 

ざっとこんな感じである。カヴァニャーリ提督の海軍計画通り、潜水艦隊は世界でも有数の戦力を誇ったが、主力艦隊は「リットーリオ」級2隻は竣工したものの戦闘準備が整っておらず未就役で、「カイオ・ドゥイリオ」級2隻も改装中であったため、「コンテ・ディ・カヴール」級2隻のみしか戦闘準備が整っていなかった。なお、空軍の方針により、イタリア海軍は空母を1隻も保有していない(航空機搭載艦は水上機母艦「ジュゼッペ・ミラーリア」と艦載機を搭載した軍艦のみ)。

開戦後、リットーリオ級戦艦「ローマ」や「カイオ・ドゥイリオ」級戦艦2隻、「カピターニ・ロマーニ」級軽巡洋艦、チクローネ級水雷艇、プラティーノ級潜水艦などを始めとする多くの艦艇がこれらに加勢する形で就役、戦力を増強している(しかし、工業生産力の不足故に、他列強に比べるとその数は少ない)。

 

◇軍港ごとの各艦隊の指揮官と所属艦艇

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1940年6月10日時点のイタリア海軍の軍港。開戦後に戦局が展開するにつれ、これに加えて軍港として使用される港が増えることとなる(ジェノヴァトリポリ、アッサブなど)。

+主要な二つの軍港

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イタリア半島周辺に展開する艦隊の指揮官たち。

ターラント(Taranto)

イタリア最大の軍港都市であり、主力艦隊である第一艦隊(I Squadra)の母港であるターラントイタリア半島の南部にあるプーリア地方にある工業都市で、イタリア半島を「ブーツ」に例えると「土踏まず」のターラント湾に位置する。

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第一艦隊の提督たち。左から第一艦隊指揮官のイニーゴ・カンピオーニ提督、第五戦艦戦隊ブルート・ブリヴォネージ提督、第九戦艦戦隊カルロ・ベルガミーニ提督、第一巡洋戦隊ペッレグリーノ・マッテウッチ提督、第四巡洋戦隊アルベルト・マレンコ提督、第八巡洋戦隊アントニオ・レニャーニ提督。

□第一艦隊(イニーゴ・カンピオーニ提督)
旗艦:戦艦「ジュリオ・チェーザレ

第一艦隊は戦艦を主力とする戦闘艦隊。第一艦隊は以下の5つの戦隊が所属する。
■第五戦艦戦隊(ブルート・ブリヴォネージ提督)
旗艦:戦艦「コンテ・ディ・カヴール」 

所属艦艇:戦艦2隻 駆逐8隻
■第9戦艦戦隊(カルロ・ベルガミーニ提督)
旗艦:戦艦「リットーリオ」(未就役) 

所属艦艇:戦艦2隻(未就役) 駆逐8隻
■第一巡洋戦隊(ペッレグリーノ・マッテウッチ提督)
旗艦:重巡「ザラ」 

所属艦艇:重巡3隻 駆逐艦4隻
■第4巡洋戦隊(アルベルト・マレンコ提督)
旗艦:軽巡「アルベリーコ・ダ・バルビアーノ」 

所属艦艇:軽巡4隻
■第8巡洋戦隊(アントニオ・レニャーニ提督)
旗艦:軽巡ルイージ・ディ・サヴォイア・ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」

所属艦艇:軽巡2隻 駆逐艦4隻
■その他
所属艦艇:水上機母艦「ジュゼッペ・ミラーリア」等補助船6隻

イオニア隊司令部(アントニオ・ペゼッティ提督)

イオニア海方面の防衛・哨戒等作戦行動を管轄する。

所属艦艇:軽巡2隻 潜水艦18隻 駆逐艦8隻 掃海艇10隻 砲艦2隻 機雷敷設艦2隻 補助船5隻

 

ラ・スペツィア(La Spezia)

北イタリアを代表する軍港都市。イタリア最大の港湾都市であるジェノヴァから東に行ったところにある。兵器生産を担う一大工業都市であり、休戦後もイタリア社会共和国(RSI政権)海軍の本部が置かれ、終戦まで軍港都市として機能した。また、イタリアご自慢の潜水艦隊の本部が置かれた。

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第二艦隊の指揮官たち。左から、第二艦隊総指揮官のリッカルド・パラディーニ提督、第三巡洋戦隊カルロ・カッターネオ提督、第二巡洋戦隊フェルディナンド・カサルディ提督、第七巡洋戦隊ルイージ・サンソネッティ提督。

□第二艦隊(リッカルド・パラディーニ提督)
旗艦:重巡「ポーラ」

所属艦艇:重巡1隻 駆逐4隻

第二艦隊は巡洋艦を中心とする戦闘艦隊。第二艦隊は以下の3つの戦隊が所属する。
■第三巡洋戦隊(カルロ・カッターネオ提督)
旗艦:重巡トレント」 

所属艦艇:重巡3隻 駆逐4隻
■第二巡洋戦隊(フェルディナンド・カサルディ提督)
旗艦:軽巡ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ」 

所属艦艇:軽巡2隻 駆逐4隻
■第七巡洋戦隊(ルイージ・サンソネッティ提督)
旗艦:軽巡「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」 

所属艦艇:軽巡4隻 駆逐4隻
■その他
所属艦艇:工作船「クァルナート」等補助船8隻

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上部ティレニア艦隊司令官のスポレート侯アイモーネ・ディ・サヴォイア=アオスタ提督と、潜水艦隊総指揮官のマリオ・ファランゴーラ提督。

□上部ティレニア艦隊司令

(アイモーネ・ディ・サヴォイア=アオスタ提督)

ティレニア海北部方面の防衛・哨戒等作戦行動を管轄する。

所属艦艇:水雷艇10隻 MAS艇20隻 砲艦1隻 補助船6隻

□潜水艦隊(マリオ・ファランゴーラ提督)

イタリア海軍に所属する全ての潜水艦部隊を管轄する。戦局が進むにつれて、潜水艦隊は地中海の他、大西洋、黒海、紅海、インド洋、更には太平洋でまで活動した。

※潜水艦隊はラ・スペツィアが総司令部だが、各地の軍港に展開している。

所属艦艇:潜水艦27隻(ラ・スペツィア港所属)

 

+西部地中海の軍港

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ナポリ及びサルデーニャ方面の指揮艦たち。左から下部ティレニア艦隊(ナポリ)指揮官のヴラディミーロ・ピーニ提督、サルデーニャ艦隊(ラ・マッダレーナ)指揮官のエットレ・スポルティエッロ提督。

ナポリ(Napoli)

南イタリア最大の都市で、「永遠の劇場」と謳われる地。ターラント空襲で大損害を被ったイタリア主力艦隊が後にこちらに母港を移すことになる。

□下部ティレニア艦隊司令

(ヴラディミーロ・ピーニ提督)

ティレニア海南部方面の防衛・哨戒等作戦行動を管轄する。

所属艦艇:潜水艦8隻 水雷艇6隻 機雷敷設艦パルテノーペ等補助船5隻

 

◆ラ・マッダレーナ(La Maddalena)

サルデーニャ島北部沖合に浮かぶラ・マッダレーナ島の中心地。サルデーニャ王国軍がナポレオン軍の侵攻を打ち破った地でもあり、建国の英雄ガリバルディ最後の地としても知られる。仏領コルシカ島に睨みをきかせる場所として防衛拠点になっている。

サルデーニャ隊司令

(エットレ・スポルティエッロ提督)

サルデーニャ及び西部地中海、リグーリア海方面の防衛・哨戒等作戦行動を管轄する。

所属艦艇:水雷艇8隻 MAS艇4隻 機雷敷設艦5隻

カリャリ(Cagliari)

サルデーニャ島の中心都市。サルデーニャ隊司令部の管轄に置かれる。

所属艦艇:潜水艦8隻

 

アドリア海方面の軍港

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アドリア海方面の提督たち。上部アドリア海軍司令部(ヴェネツィア)指揮官のフェルディナンド・サヴォイア=ジェノヴァ提督と、下部アドリア海軍司令部(ブリンディジ)のルイージ・スパラーチェ提督。

ヴェネツィア Venezia

皆さんご存じ「水の都」。かつてはヴェネツィア共和国の首都であり、海洋共和国の中心として発展した港町。第一次世界大戦までは主要仮想敵国であるオーストリアに睨みを効かせる場所として軍港が重要視されたが、オーストリア帝国崩壊後はその重要度は下がることとなった。
□上部アドリア艦隊司令部(ジェノヴァ侯フェルディナンド・サヴォイア=ジェノヴァ提督)

アドリア海北部方面の防衛・哨戒等作戦行動を管轄する。

所属艦艇:水雷艇4隻 機雷敷設艦3隻 訓練艦2隻 砲艦1隻 工作船1隻

◆ポーラ(Pola)

イストリア半島に位置する軍港。第一次世界大戦まではオーストリア海軍の主要軍港だった。上部アドリア艦隊司令部の管轄に置かれている。アドリア海は完全にイタリア海軍の制海権にあるため、その安全性の高さから潜水艦の練習艦部隊の基地となる。

所属艦艇:水雷艇1隻 MAS艇4隻 補助船5隻

ブリンディジ(Brindisi)

イタリア半島の「かかと」に位置する港町。休戦後、南部に逃れたバドリオ政権が臨時首都を置いた場所としても知られている。また、ブリンディジ軍港は上陸作戦などを担当する海軍の海兵隊部隊、海兵連隊「サン・マルコ」の本部が置かれる。

□下部アドリア艦隊司令部(ルイージ・スパラーチェ提督)

アドリア海南部方面の防衛・哨戒等作戦行動を管轄する。
所属艦艇:駆逐艦6隻 MAS艇2隻 潜水艦7隻 補助船2隻 

 

+中央地中海・東部地中海方面の軍港

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中央地中海・東部地中海に展開する艦隊の指揮官たち。
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中央地中海・東部地中海に展開する艦隊の指揮官たち。左からシチリア隊司令部(メッシーナ)のピエトロ・バローネ提督、エーゲ艦隊司令部(ロードス)のルイージ・ビアンケーリ提督、リビア隊司令部(ベンガジ)のブルーノ・ブリヴォネージ提督。

メッシーナ(Messina)

シチリア北東部に位置する、メッシーナ海峡に臨む港町。シチリア海軍司令部の本部が置かれる。海峡を越えるとイタリア半島カラブリア州
シチリア隊司令部(ピエトロ・バローネ提督)

シチリア・中央地中海方面の防衛・哨戒等作戦行動を管轄する。
所属艦艇:潜水艦7隻 水雷艇21隻 MAS艇16隻 掃海艇10隻 補助船8隻

パレルモ(Palermo)

シチリア島の中心都市。シチリア海軍司令部の管轄に置かれる。

所属艦艇:掃海艇9隻

◆アウグスタ(Augusta)

シチリア南東部の港町。シチリア海軍司令部の管轄に置かれる。

所属艦艇:潜水艦7隻 掃海艇9隻

◆トラーパニ(Trapani)

シチリア北西部の港町。シチリア海軍司令部の管轄に置かれる。
所属艦艇:潜水艦4隻 補助船3隻


◆ドゥラス(Durazzo)

アルバニア最大の港町であり、首都ティラナに次ぐアルバニア第二の都市。イタリアによる侵略前は王立アルバニア軍海軍部隊の母港であった。1939年にアルバニア王国がイタリア軍の侵略を受けたことで、イタリア海軍アルバニア艦隊の司令部が置かれることになった。形式上、アルバニアはイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が君主として君臨する同君連合となっているが、事実上の属国である。

アルバニア隊司令部(ヴィットーリオ・トゥール提督)

アルバニア方面の防衛・哨戒等作戦行動を管轄する。参戦直後は小規模であるが、ギリシャ侵略以降で戦力が大幅に強化される。

所属艦艇:補助船3隻

 

◆ロードス(Rodi)

イタリアが伊土戦争でオスマン帝国から獲得したイタリア領エーゲ海諸島(所謂ドデカネス諸島)の中心地、ロードス島。東部地中海・エーゲ海制海権維持のため、特にギリシャ侵攻を機に重視される。中東攻撃のために空軍基地も重要。
□エーゲ艦隊司令部(ルイージ・ビアンケーリ提督)

エーゲ海・東地中海方面の防衛・哨戒等作戦行動を管轄する。
所属艦艇:駆逐艦2隻 水雷艇4隻 MAS艇15隻 潜水艦8隻 砲艦3隻 機雷敷設艦2隻


ベンガジ(Bengasi)

北アフリカリビア植民地東部の中心都市。首都トリポリに次ぐリビア第二の都市である。リビア最大の軍港都市として発展する。行政区分的にはベンガジ県の県都
リビア隊司令部(ブルーノ・ブリヴォネージ提督)
リビア・中央地中海方面の防衛・哨戒等作戦行動を管轄する。なお、ブルーノ・ブリヴォネージ提督は第一艦隊に所属するブルート・ブリヴォネージ提督の兄。
所属艦艇:駆逐艦4隻 機雷敷設艦1隻 砲艦1隻

◆トブルク(Tobruch)

北アフリカリビア植民地東部の都市。リビア隊司令部の管轄に置かれる。エジプト国境に近いため、戦力が強化されている。
所属艦艇:巡洋艦1隻 駆逐艦4隻 潜水艦10隻 砲艦5隻 補助船3隻

 

+紅海・インド洋・太平洋方面の軍港

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紅海・インド洋・太平洋方面の指揮官たち。

◆マッサワ(Massaua)

エリトリア第二の都市であり、エリトリア最大の軍港都市。開戦時点では、東アフリカ方面の唯一のイタリア海軍の大規模軍港都市である。紅海艦隊の母港であり、インドから紅海を抜けて地中海に向かう英国のシーレーンを脅かすという任務が課せられた。開戦後はスエズ運河を封鎖されている以上、戦力増強が不可能となる。
□紅海艦隊司令部(カルロ・バルサモ提督)

紅海・インド洋方面の作戦行動を管轄する。

所属艦艇:駆逐艦7隻 水雷艇2隻 MAS艇5隻 武装小型艇7隻 潜水艦8隻 仮装巡洋艦2隻 通報艦1隻 砲艦2隻 機雷敷設艦1隻 補助船10隻

◆天津(Tientsin)

中国の主要都市の一つであり、義和団事件へのイタリア軍の介入後、イタリアは天津に租界を保有している。小規模ながら、イタリア海軍唯一のアジア・太平洋方面に展開する極東艦隊の司令部が設置されている。戦局が進むにつれて、紅海艦隊の残存艦や遣日潜水艦作戦でやってきた潜水艦を吸収するなどして、最終的に機雷敷設艦1隻、砲艦1隻、通報艦1隻、仮装巡洋艦1隻、潜水艦3隻の計7隻まで戦力を増強した。
□極東艦隊司令部(ジョルジョ・ガッレッティ大佐)

アジア・太平洋方面の作戦行動を管轄する。
所属艦艇:機雷敷設艦1隻 砲艦1隻

『帰ってきたムッソリーニ』の聖地巡礼! ―ドゥーチェが周ったルートを辿ってみよう―

昨日、イタリア文化会館で開催された『帰ってきたムッソリーニの一般試写会にお招きいただいたので、9月20日の本上映より一足早く見てきました!(といっても、既に4月の段階でイタリア映画祭にて先行上映を見ているので、かれこれ何回か見ています)。今回のブログ更新は、そんな『帰ってきたムッソリーニ』に登場する実際の場所を紹介しようと思います。所謂、聖地巡礼ですね!とりあえず、私が行ってきた範囲で!(一応念のためネタバレ気にするの人は見ない方がいいかも...)

 

:ローマ

◇ヴィッラ・トルローニア

―王国宰相時代のムッソリーニ一家の邸宅―

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ヴィッラ・トルローニア

まず、最初はやはりヴィッラ・トルローニア(Villa Torlonia)

この邸宅は、イタリア王国の首相となったムッソリーニが1925年から1943年まで借り受けた邸宅です。ムッソリーニ一家が住んだのが、この大きな敷地内の本館であるカシーノ・ノビレ(Casino Nobile)

元々は貴族のトルローニア家の邸宅だった建物で、当時のトルローニア家当主だったジョヴァンニ・トルローニア公爵が1年間1リラという安値でムッソリーニに貸し与えたものでした(ムッソリーニに貸した後、トルローニア公爵は敷地内の別の屋敷に移り住みました)。なお、このトルローニア公爵は元々ボルゲーゼ家の出身で、トルローニア家の娘と結婚したため、トルローニア家の跡継ぎになった...という形です。

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ヴィッラ・トルローニア本館1F:エントランスホール

さて、このヴィッラ・トルローニアは、現在は博物館として一般公開されています。映画の作中でも子どもたちが社会科見学で訪れていましたね。当然、元は貴族の屋敷であるため、内部は非常に豪奢な作り!1Fはエントランスや映像室など、2Fはドゥーチェの寝室、3Fは美術館室になっています。

作中ではドゥーチェが家に「帰る」シーンで登場します。まぁ博物館となっているため、当然すぐに出なければいけなくなるわけですが...

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ドゥーチェの寝室

勿論、ドゥーチェの寝室にも入ることが出来ます。なお、作中では邸宅の前に置かれた壺の下から鍵を取るシーンがありますが、実際はあそこには壺自体がありません(笑)。邸宅内部にはムッソリーニ一家が邸宅として利用していた頃の写真が数多く展示されており、更に映像室では当時の映像や、ムッソリーニの三男ロマーノ氏(ドゥーチェの孫娘アレッサンドラの父)へのインタビューも見ることが可能です。

アクセスとしてはローマ地下鉄B線「ポリクリニコ」駅から徒歩圏内で、バスでも行くことが可能です。アクセスが良く、しかも地球の歩き方にも載っている場所です。

 

◇エウル地区

ムッソリーニが万博のために造らせた新市街―

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エウル地区。正面に見えるのが、「四角いコロッセオ」こと文明労働宮。

エウル地区はローマ郊外に広がる新市街で、ムッソリーニが1942年に開催されるはずだったローマ万博(第二次世界大戦のため中止)のために造らせた場所です。ファシスト政権期の著名な建築家たち(テッラーニ、リーベラなど)の代表的な建築が立ち並ぶ地区で、ファシスト建築ファンにはたまらない場所!フォロ・イタリコとエウル地区はローマを訪れたらぜひとも行ってほしい場所です。

作中では、ムッソリーニがイタリア周遊の旅に出る出発点として登場します。カナレッティがあえてここを出発点として通ったのは、やはりムッソリーニがここの建設を命じたということを知っていたからでしょうか?

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ローマ文明博物館。作中終盤に登場する場所に似ている?

作中終盤のシーンでもそれっぽいところが出てきますが、ここかどうかはわかりません。場所を特定したいところですね...

エウル地区は広いため、ローマ地下鉄B線の駅が4つもあります。そのため、自分たちの行きたい場所に合わせて地下鉄を利用するのが良いでしょう。

 

ヴェネツィア

ムッソリーニが数々の演説をした場所―

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ヴェネツィア宮殿

ファシスト政権期、ムッソリーニの執務室が置かれ、事実上「イタリア帝国の中心」であったヴェネツィア

この宮殿のバルコニーでは、1940年の対英仏宣戦布告演説(第二次世界大戦へのイタリアの参戦演説)を始めとする、数々のムッソリーニの演説が行われたことで知られています。日本のエピソードだと、イタリアを訪れた松岡洋右外相がこのバルコニーからムッソリーニと共に集まったローマの民衆に挨拶していましたね。

作中では終盤に車でこの前をムッソリーニが通るシーンがあります。このヴェネツィア宮の前の広場がヴェネツィア広場で、ファシスト政権期はムッソリーニの演説を聞こうと多くの民衆がここに集まりました。

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ヴェネツィア宮とコロッセオを繋ぐ、フォーリ・インペリアーリ通り。

ファシスト政権期は事実上イタリアの心臓部と言える場所であり、更に「ファシズムというイデオロギーの中心」ともされました。そのため、ローマの都市開発もここを中心に行われ、例えばこのヴェネツィア宮からコロッセオを繋ぐフォーリ・インペリアーリ通りはファシスト政権期に「帝国通り」の名の下で作られた大動脈でした。

この道路の建設は、古代ローマ帝国の象徴たるコロッセオと、ファシズムの中心であるヴェネツィア宮を結びつけることで、視覚的に古代ローマ帝国ファシスト・イタリアの連続性を表現した...というわけです。この通りではファシスト政権期に数々の軍事パレードが行われました。

アクセスとしてはローマ地下鉄B線「コロッセオ」駅から徒歩でフォーリ・インペリアーリ通りを通ってヴェネツィア宮に向かうと、歴史を感じられて面白いです。

 

◇プレダッピオ

ムッソリーニの生まれ故郷―

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作中に登場した、プレダッピオ市の入り口の看板

エミリア・ロマーニャ州にある小さな山間の町、レダッピオ。ここは、ムッソリーニが生まれた町として知られています。作中ではムッソリーニのイタリア全土周遊の旅で、わずかなカットシーンが登場するのみですが、ムッソリーニ好きにとってはたまらない、まさに「聖地」と言える町です。

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ムッソリーニの生家

まず、プレダッピオ市のランドマークであるムッソリーニの生家」現在も保存されており、博物館として公開されています。内部の家具などはありませんが、ファシスト政権期のプレダッピオ市の発展(ムッソリーニは出身地であるプレダッピオにも数々のファシズム建築を作った)がよくわかる写真などが飾られています。

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ムッソリーニ廟。ドゥーチェの棺を中心として、家族の棺が配置されている(チャーノ家に嫁いだ長女エッダの棺は無い)。

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ムッソリーニ廟の外見。プレダッピオ郊外にある共同墓地の中心にずっしりと存在する。この中心の建物の地下にムッソリーニ一家の棺が置かれている。

次に、ムッソリーニ一家の廟。プレダッピオ郊外にある共同墓地の中心にあり、この地下にムッソリーニを含む一家の棺が置かれているのです。敗戦国の独裁者の墓所がここまで豪華、というのは珍しいでしょう。しかも、戦後に作られたもので、当時のイタリア政府(アドネ・ツォーリ政権)がOKを出しているのです。
当然、ネオ・ファシストらの「聖地」でもあり、彼の命日には多くの参拝客が訪れます。とはいえ、ファシストじゃなくともムッソリーニに同情的なイタリア人は映画で語られたように割と多く、例えばプレダッピオ市民には「地元から出た偉人」という扱いで好意的に捉えられています。

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レダッピオの土産店。ドゥーチェグッズがずらり!

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私が買ったドゥーチェグッズの数々。これ加えてワインも購入!

そして、何と言っても凄いのが、レダッピオ市の土産店何とドゥーチェグッズをずらりと揃えています!シャツや胸像、ペン、ポスター、オリジナルワイン(映画作中でもチラッと登場)、何でも来い、という感じ。中にはムッソリーニだけじゃなく、かのヒトラーのグッズ(ドイツには売っていません)や、更には旭日旗グッズなんかもあったり、めっちゃ枢軸のかほりがするお店です。お店の人がとても親切で、良いお店です!

ドゥーチェ好きにはたまらない!
一応、イタリア各地ではたまにムッソリーニグッズを売っているお店が存在しますムッソリーニゆかりの地に多く、例えば、北部イタリアのガルダ湖畔(イタリア社会共和国の中心)やグラン・サッソ(ムッソリーニが幽閉された場所)など。以前はもっといろんなとこで売っていたようですが...でも、プレダッピオの土産店の品ぞろえに勝てる店は、イタリアのどこを探しても存在しない

アクセスとしては、鉄道でフォルリ駅まで行き、そこからタクシーもしくはバスでプレダッピオに向かうのが最適です。バスは時間がシビアなので、タクシーがおススメ。フォルリ駅はボローニャ駅から約1時間程度の距離です。

 

◇ラティー

ムッソリーニ政権期の干拓事業で作られた新都市―

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ティーナ近郊に広がる広大な農地

ティーはローマ近郊の都市で、1930年代に新たに作られた若き都市。この都市はムッソリーニが主導した大規模干拓事業によってアグロ・ポンティーノ大湿地帯が干拓されたことによって建設されました。当時の名前はリットーリア」。これは、古代ローマの警士である「リークトルの~」を意味する形容詞に由来しています。

ファシスト政権期に作られた都市は結構ファシズム体制に関連する名前が付けられていて、例えば同じく干拓事業で建設されたサルデーニャ島のアルボレーア市は、ファシスト政権期には「ムッソリーニア」と呼ばれていました。

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ティーナのピアーナ・デッレ・オルメ歴史博物館に残る、ムッソリーニが農作業で使ったトラクター。

さて、このラティーナですが、作中ではムッソリーニがイタリア周遊の旅の最中で、農家の農作業を手伝うシーンで出てきます。ファシスト政権期もムッソリーニはここで農作業をしているので、そのオマージュという感じでしょうか。当時の国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世とのほほえましい農作業シーンもあります。

ティーナの農地開拓の歴史を知りたいならば、ピアーナ・デッレ・オルメ歴史博物館がおススメ。当時の映像や写真、更には等身大のジオラマファシスト政権期のラティーナの歴史を紹介しています。ただ、アクセスが滅茶苦茶悪いです。というか、この辺は車が無いとかなりしんどいでしょう(私は徒歩で行きましたが、確実におススメしません)。ローマ・テルミニ駅からラティーナ駅までは、Rで約40分程度。

 

ナポリ

―太陽降り注ぐ「永遠の劇場」―

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ゲリラ撮影でチラッと映る、ナポリの「卵城」

イタリア南部最大の都市で、イタリアではローマ、ミラノに次ぐ第三位の都市ナポリ作中のムッソリーニの全土周遊旅行でガッツリ登場します。作中で独裁への肯定的意見や、中央政府への不満が聞かれるように、南部は伝統的に反中央政府で、更にムッソリーニ及びファシスト政権への拒否感が少ない地域です。実際、私が滞在中や旅行中に出会った南部の人は概ねムッソリーニに肯定的でした。

例えばですが、シチリア出身の大家さんはプレダッピオで買ったドゥーチェの胸像を見ても怒るどころか「ドゥーチェ!」と言ってとても喜び、ナポリの鉄道で仲良くなった男性は「ファシスト政権史を調べている」と言ったら「ムッソリーニ好きなのかい?アイツはいい男だぜ!」と返してくれたり....と、いう感じです。

アクセスは簡単。ローマ・テルミニ駅からバビュッとアルタヴェロチタ(イタリアの新幹線)に乗れば約1時間でナポリ中央駅まで着きます。日帰り観光も可能ですが、ナポリは食の宝庫なので泊まるのがおススメ。ピッツァが安いし美味い!

 

フィレンツェ

―中部イタリアを代表するルネサンスの古都―

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作中に登場した、フィレンツェ中央市

中部イタリアの主要都市で、トスカーナ州の州都フィレンツェ。在伊日本人も多く暮らしており、日本人的にも馴染みの深い町。作中では、ムッソリーニのイタリア周遊の旅のシーンで、ヴェッキオ橋や中央市場などがガッツリ登場します。

ムッソリーニキアニーナ牛の純粋性を語るシーンは、フィレンツェ中央市場が舞台キアニーナ牛トスカーナのブランド牛で、最近は日本でも輸入されています。おススメは、中央市場のキアニーナ牛バーガー!ボリューム満点で美味いです。

なお、ファシズムムッソリーニに関しては、基本的にフィレンツェを含むトスカーナは否定的な意見が多い...というか、寧ろかなり嫌われています。それは、トスカーナが左派色が強く、旧パルチザン層がメインだからです。

アクセスは簡単!ローマ・テルミニ駅からアルタヴェロチタでバビュッと約1時間半程度でフィレンツェ・S.M.ノヴェッラ駅に着きます。

 

◇ミラノ

―イタリア経済を牽引する北部の中心―

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ファシスト政権期の代表的な建築である、ミラノ中央駅

北部イタリアの中心都市で、イタリア第二の都市ミラノ。イタリア経済の中心であり、イタリアの時代の最先端を行く街。日本人観光客的にはレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリーア・デッレ・グラツィエ教会があったり、ファッションブランドの店が数多くあることで知られていますね。

ファシズム的な観点で見ると、ミラノはファシズム発祥の地であり、更には1943年のイタリア分裂で成立したイタリア社会共和国」の中心として、最後の最後までファシズムの支配にあった街でした。戦後はキリスト教民主主義が支持層でしたが、現在は連立与党であるLegaの支持母体の街だったりと、結構右寄り。

ムッソリーニが殺害されたのちに吊るされたのは、このミラノのロレート広場。また、イタリア社会共和国時代に中心となったガルダ湖畔のサロや、ムッソリーニパルチザンに殺害されたコモ湖畔はミラノから鉄道で行くことが可能です。

アクセスは、ミラノまで直接成田空港からアリタリア航空の直行便が出ているほか、ローマ・テルミニ駅からアルタヴェロチタで約3時間程で着きます。ローマからミラノまで国内便を使うって手もあります。主要都市なので行き方色々。

 

これらの舞台の他にも、リッチョーネの浜辺や、場所の特定が出来ていない場所含めいろんな箇所が登場します。全部特定出来たら、「ドゥーチェのイタリア旅行の再現」も可能ですね!頑張って特定したいところです。

さてさて、『帰ってきたムッソリーニ劇場公開はもう来週、9月20日になりました!

私もまた見に行きますぞ~(勿論DVDも出たら買います買います)

日本では貴重なドゥーチェ映画なので、是非とも劇場に足を運んでみてください~

アズールレーン、イタリア艦実装記念!「サディア」艦の艦名の由来について

大人気艦船擬人化ソーシャルゲームアズールレーン。今まで存在は知っていたのですが、イタリア艦が実装されていないこともあり手を出していませんでした。

しかし、何と今日から始まるイヴェントイタリア艦が実装されるそうじゃないですか!

というわけで始めてみました。イタリア在るところに在り

今回は、そんな「アズレン」に登場するイタリア艦たちの艦名の由来について書こうと思います。っと、その前に「サディア」の名前の由来について。

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サルデーニャ島の航空写真

そもそも、アズレン世界のイタリアである「サディア」。これは、英語版の表記だと"Sardegna Empire(サルデーニャ帝国)"、本家である中国語版の表記では「撒丁(中国語でサルデーニャ)」となっているそうです。

この「サルデーニャ」を英語読みでは「サルディニア」になります。これを一文字間隔で取れば、「サ(ル)ディ(ニ)ア」。はい、「サディア」の出来上がり
つまりは、イタリア統一を成し遂げたサルデーニャ王国が名前の由来のようですね。となると他に両シチリア教皇領が出て来たり...?(出てこない)

まぁ現在のイタリアでは「サルデーニャ」と言えば、一般的に名前の由来となったサルデーニャ島を指すことが多いです。皆さんご存じ、シチリア島に次いでイタリアで二番目に大きい島ですね。サルデーニャ王国の領土は勿論この島も含んでいたわけですが、実は本拠地は島ではなく大陸部のピエモンテでした。これは、元々サルデーニャ王国の前進だったサヴォイア公国の本拠地がピエモンテだったからです(もっと言えば、サヴォイア家発祥の地は現フランス領のサヴォワ(伊語読みでサヴォイア)でした)。

 

◇戦艦「コンテ・ディ・カヴール

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KAN-SENの「コンテ・ディ・カブール」

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戦艦「コンテ・ディ・カヴール」

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艦名の由来となった、カヴール伯カミッロ・ベンソ(カミッロ・カヴール)。

戦艦「コンテ・ディ・カヴール」の艦名の元になったのは、初代イタリア王国宰相のカヴール伯爵カミッロ・ベンソ。カヴール伯爵の伊語読みが「コンテ・ディ・カヴール(Conte di Cavour)」です。イタリア語で伯爵はコンテ(Conte)。
優れた手腕で大国の間を渡り歩き、イタリア統一を成し遂げた偉大な人物!彼の巧みな手腕によって、イタリア北部の小国であるサルデーニャ王国が、イタリア諸邦を統一して、そして統一されたイタリアは列強にのし上がったわけです。いわば、現代のイタリアの基礎を築いた人物、としても言えるでしょう。日本の世界史の教科書でもガリバルディやマッツィーニと共に「イタリア統一の三傑」として登場するので、世界史選択者であれば知っている人も多いと思います。

 

◇戦艦「ジュリオ・チェーザレ

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KAN-SENの「ジュリオ・チェザーレ」

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戦艦「ジュリオ・チェーザレ

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艦名の由来となった、独裁官ユリウス・カエサル

戦艦「ジュリオ・チェーザレ」の艦名の由来は皆さん後存じ、古代ローマ独裁官ユリウス・カエサル!イタリア語読みが「ジュリオ・チェーザレ」です。
日本では読み間違いで定着してしまったために「チェザーレ」と慣例的に呼ばれていますが、実際の発音はチェーザレ!「チェーザレ」は現在のイタリアでもよく人名に使われています。中には苗字でもあったり。

 

◇戦艦「リットーリオ

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KAN-SENの「リットリオ」

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戦艦「リットーリオ」

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イタリアのファシスト墓所に残るファショ・リットーリオのレリーフ

戦艦「リットーリオ」の艦名の由来は、古代ローマの警士である「リークトルの~」を意味する形容詞から。ファシスト政権期には建築等に名前が付けられました。
例えば「リークトルのファスケス」である"ファショ・リットーリオ(Fascio littorio)"はファシズム体制の象徴(写真三枚目)。

 

駆逐艦カラビニエーレ

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KAN-SENの「カラビニエーレ」

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駆逐艦「カラビニエーレ」

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現在の軍警察「カラビニエーリ」

駆逐艦「カラビニエーレ」の艦名の由来は、イタリアの軍警察「カラビニエーリ」から。カラビニエーリは複数形で、単数形がカラビニエーレ。
黒と赤を基調とする制服が特徴的な「第四の軍」。
KAN-SENのカラビニエーレの服装もカラビニエーリの伝統的な制服がモデルです。よく「国家憲兵」と言われますが、実際はそうではありませんわかりやすく言えば、「有事の際は平時の際は警察」という感じの組織です。管轄は国防省であるので陸軍、海軍、空軍に続く「第四の」軍事組織になります(ファシスト政権期にはこれに加えてファシスト党民兵組織「MVSN(前身は黒シャツ隊)」が第五の軍で存在しました)。警察の場合、管轄は内務省になります。

 

重巡洋艦ザラ

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KAN-SENの「ザラ」

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重巡洋艦「ザラ」

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現在のクロアチア領ザダル市(イタリア語読みでザラ市)

重巡洋艦「ザラ」の艦名の由来は、ダルマツィア海岸の町であるザラ市(現クロアチア領ザダル市)から。 WW1まではオーストリア領で、戦間期に伊領の飛び地となりました。

第二次世界大戦時の連合軍による激しい絨毯爆撃を受けて町は完全に破壊され、「アドリア海ドレスデン」と呼ばれました。第二次世界大戦でイタリアが敗戦したことで領土はユーゴスラヴィア内のクロアチア領に組み込まれたため、現在はクロアチア領になっています。

 

重巡洋艦トレント

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KAN-SENの「トレント

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重巡洋艦トレント

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現在のトレント

重巡洋艦トレント」の艦名の由来は、イタリア北部トレンティーノの州都トレントから。元々はオーストリア領南チロルの中心都市で、WW1でイタリアが勝利したことによってイタリア領になりました。ドイツ語読みは「トリエント」。要するにトリエント公会議開いた町です。

 

さぁ、イヴェント開始まであと少し!楽しみですね!

昨日夕方に始めたばかりなのでどの程度行けるかわかりませんが、出来ることなら全部欲しいとこです!

イタリア領アフリカ植民地の行政区分と交通機関(自動車道路Autostradaと鉄道路線Ferrovia)

ファシスト政権期はイタリアの歴史の中でも、特に植民地が成長した時期と言える。北アフリカではオマル・ムフタール(Omar al-Mukhtar)率いるサヌーシー旅団を武力で平定した後(リビア平定)、東アフリカではエチオピア帝国を征服すると、それまでの地域行政区分が改訂されることとなる。リビアではそれまでのトリポリタニアキレナイカフェザーンという伝統的な地域区分が改められ、その三つが統合されてリビア(Libia Italiana)」となった。東アフリカは、エチオピア帝国征服によって、それまでイタリアが保有していたエリトリアソマリアを含めて統合し、イタリア領東アフリカ(Africa Orientale Italiana)」として改組された。

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イタリア領アフリカ植民地の行政区分と交通機関(自動車道路及び鉄道網)早見表。

こうして植民地が安定に向かうと、ファシスト政権はインフラ整備に力を注いだ。都市間の高速移動を可能とする「自動車道路(Autostrada, アウトストラーダ)」の建設を実行する(余談であるが、世界初の高速道路(都市間の自動車専用道路)はイタリアのアウトストラーダである)。これは世界的に見ても驚くべき速度で建設されたが、その一方で両植民地共に鉄道建設は遅れを取り、結果的に他の国のアフリカ植民地と比べても非常に貧弱な鉄道路線しかなかった

今回はそういったイタリア領アフリカ植民地(リビア及び東アフリカ)の行政区分と交通機関について、少し調べてみよう。

 

◆行政区分

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リビア(左)及び東アフリカ(右)の行政区分。リビアは4つの県(Provincia)と1つの軍管区(Territorio Militare)が置かれ、東アフリカには6つの総督府(Governatorato)が設置された。

リビアの行政区分

リビアは元々トリポリタニア(Tripolitania italiana)キレナイカ(Cirenaica italiana)の二つのイタリア植民地が存在し、それに加えてイタリアの支配が及ばないリビア内陸部のフェザーン(Fezzan)が存在した。それがファシスト政権によって平定され、1930年代には完全に征服されるに至った。この結果、1934年にはこのトリポリタニアキレナイカフェザーンの三地域を合併し、「イタリア領リビア(Libia Italiana)」が成立することになる。「リビア」という一つの領域となった三つの地域は、以下に再編された。

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リビア植民地の行政区分。

トリポリ県(Provincia di Tripoli)

県都トリポリ

リビア植民地の首都トリポリを含む県。旧枠組だと、トリポリタニア西部に当たる。

初代リビア総督として赴任した空軍元帥イタロ・バルボ(Italo Balbo)の元で、多くのイタリア人の入植が行われ、首都トリポリを中心としてファシズム建築が多く作られ、数々の国際的なイヴェントが開催されるなど発展した(トリポリ国際見本市、トリポリ・グランプリなどは有名)。軍事的にもリビア植民地の最重要地域(心臓部)と言える。西部はフランス領チュニジアと国境を接している。

県内には5つの地区(Circondario)が存在する(トリポリ地区、ザヴィア地区、メッラーア地区、ナールート地区、ガリアン地区)。

ミズラータ県(Provincia di Misurata)

県都ミズラータ

旧枠組だと、トリポリタニア東部に当たる県。

マグロ漁業で有名なシルテ湾沿岸部の西部を管轄する。トリポリ県と共に、バルボ総督の元で多くのイタリア人が入植し、開拓都市が作られた(多くは農業都市)。県内には3つの地区が存在する(ミズラータ地区、ズリテン地区、オームス地区)。

ベンガジ県(Provincia di Bengasi)

県都ベンガジ

リビア東部最大の都市であり、旧キレナイカ植民地の首都であるベンガジ県都とする県。旧枠組だと、キレナイカ西部に当たる。

シルテ湾沿岸部の東部を管轄。ベンガジはイタリア海軍リビア艦隊の本部が置かれている(ベンガジ制圧後はトリポリに一時的に移動)。県内には3つの地区が存在する(ベンガジ地区、アジェダビア地区、バルチェ地区)。

デルナ県(Provincia di Derna)

県都デルナ

旧枠組だと、キレナイカ東部に当たる県。

英国の支配下にあるエジプトと国境を接しており、第二次世界大戦時は激戦地となった。そのため、戦略的にも重要視されており、イタリア軍の国境要塞も築かれている。トブルクにはリビア艦隊の支部が置かれていた。また、古代遺跡も多く存在するため、考古学的にも重要な地方だった。県内には3つの地区が存在する(デルナ地区、アッポロニーア地区、トブルク地区)。

南部軍管区(Territorio Militare del Sud)

主都:オーン

リビア南部の広大な砂漠地帯を管轄する領域。平定後も軍政下にあり、主都オーンを本部とするイタリア空軍(第26独立サハラ航空隊)が管轄している。旧枠組では、フェザーン及びキレナイカ南部に相当する。

沿岸部の4つの県と比べてインフラが整っておらず、大部分が砂漠ということもあり、重要視されていない。領域的には西部をフランス領アルジェリア、南部をフランス領赤道アフリカ(チャド)、東部をエジプト及びスーダンに接する。広大なサハラ砂漠は防衛が困難であるため、第二次世界大戦時にはサハラ砂漠を越えて侵攻した自由フランス軍(ルクレール大佐指揮)に拠点が制圧された。

エチオピア危機における妥協の結果、フランス領チャドからアオゾウ地帯が、英・エジプト領スーダンからサッラ三角地帯がこの領域に割譲されている。領域内には5つの地区が存在する(オーン地区、ムルズク地区、クフラ地区、ブラーク地区、ガート地区)。

 

◆東アフリカの行政区分

エチオピア征服前のイタリアは、東アフリカにエリトリア(Eritrea italiana)ソマリア(Somalia italiana)の2つの植民地を保有していた。それが、1936年のエチオピア帝国征服によって「イタリア領東アフリカ(Africa Orientale Italiana)」に再編され、征服されたエチオピア領域に加えてエリトリアソマリアも統合、6つの行政区分(総督府)になった。つまりは、エチオピア領は4つに分割されることとなった。

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東アフリカ植民地の行政区分。

ショア総督府(Governatorato dello Scioa)

主都:アディスアベバ

イタリア領東アフリカの首都であり、旧エチオピア帝国の帝都であるアディスアベバを中心とする領域。6つの総督府の中では最も面積が小さいが、アディスアベバを含むため、最も重要な領域である。1936年から1938年までは「アディスアベバ総督府(Governatorato di Addis Abeba)」と呼ばれていた。入植したイタリア人らによって首都近郊にはワイン葡萄の畑を始めとする農場が数多く作られ、これはエチオピアのワイン生産に大きな影響を及ぼした(エチオピアは古代からキリスト教国家であるためワインは作られていたが、儀礼的なものであったために限定的な小規模生産のみだった)。

領域内に分割された地区は存在せず、単一の自治体で統治されている。周囲はアマラ、ガッラ・エ・シダマ、アラールの3つの総督府に囲まれている。

アマラ総督府(Governatorato di Amara)

主都:ゴンダール

エチオピア帝国のかつての帝都であり、エチオピア北西部の主要都市ゴンダールを中心とする領域。しかし、旧エチオピア帝国領北西部をすべて管轄するわけではなく、アクスムやアドゥアを含むティグレ地方はエリトリアに併合されている。

北部と東部はエリトリア、西部はスーダン、南部はアマラとショアに囲まれている。領域内は8つの地区(Commissariato)に分けられている(ゴンダール地区、ベゲメデール地区、デブレ・ベルアーン地区、西ゴッジャム地区、東ゴッジャム地区、ウァグ・ラスタ地区、ウォッロ・イェッジュ地区、ゼミエーン地区)。

ガッラ・エ・シダマ総督府(Governatorato di Galla e Sidama)

主都:ジンマ

エチオピア帝国の版図南部を管轄し、その中心都市であるジンマを中心とする領域。エチオピア帝国による征服で併合された旧イスラーム王朝が存在した地域であるため、ムスリム人口が多く、反エチオピア帝国機運が強い領域。故に、イタリア支配期にはムスリムの懐柔を狙った当局がモスクなどイスラーム建築を建設して優遇している。

西部はスーダン、南部はケニアに接する。計10個の地区が領域内に存在する(ジンマ地区、西部地区、バコ地区、ボラーナ地区、カッファ・エ・ギミッラ地区、グラゲー・エ・カンバッター地区、マジ・エ・シウーロ地区、オメート地区、シダモ地区、ウォッレガ・エ・グンドルー地区)。多民族の領域であるため、主に民族で地区を分けている。

アラール総督府(Governatorato di Harar)

主都:アラール

エチオピア帝国の版図北東部を管轄し、要塞都市アラール(ハラール)を主都とする領域。ジブチアディスアベバ鉄道はこの領域を主に走っている。東アフリカ植民地の中央部に位置するため、見事に全ての植民地と領域を接しており、更に北部はフランス領ソマリランド(ジブチ)と英領ソマリランドに接している。

交通の要衝であるため、軍事的にも重要な領域となっている。領域内には8個の地区が存在する(アラール地区、ディレ・ダウア地区、ジジッガ地区、アルッシ地区、チェルチェル地区、ギミル地区、ゴバ地区、アダーマ地区)。

エリトリア総督府(Governatorato dell'Eritrea)

主都:アスマラ

旧枠組ではエリトリア植民地に当たる。エチオピア征服により、エチオピア北部のティグレ地方を吸収しており、「大エリトリア」を実現している。なお、イタリア語的には発音は「エリトリア」ではなく、「エリトレア」が正しい。

イタリア植民地の中でも特に力が入れられた領域であり、主都アスマラは「ピッコラ・ローマ」と呼ばれ、多くのファシズム建築が作られて発展した。これらのイタリア近代建築はユネスコ世界遺産に登録されている。また、イタリア紅海艦隊の母港マッサワ(マッサウア)を始め、ケレンやアゴルダトなど重要な都市が多い。それらの主要都市を結ぶ鉄道も発展しており、鉄道が貧弱なイタリア植民地では例外的に鉄道が発展した。

1938年までは7個の地区に分けられていたが、1938年以降は12個の地区に再編された(アマジエン地区、低地西部地区、低地東部地区、ケーレン地区、ダンカーリア地区、マッカレー地区、アッケレー・グツァーイ地区、アディグラート地区、パエージ・ガッラ地区、ゼラエー地区、テンビエン地区、西部ティグライ地区)。

ソマリア総督府(Governatorato della Somalia)

主都:モガディシオ

旧枠組ではソマリア植民地に当たる。エチオピア征服により、エチオピア領内のソマリ人居住地域であったオガデン地方を吸収し、「大ソマリア」を実現した(後の第二次世界大戦時には更に英領ソマリランド(北部ソマリア)とケニア北部を併合している)。

エリトリアほどではないが、ファシスト政権期に大きく発展した植民地である。特にアブルッツィ公(Duca degli Abruzzi)による農業開発、デ・ヴェッキ(Cesare Maria De Vecchi)によるスルタン国の併合による植民地の拡大が広く知られる。現在においても、ソマリア領内にはファシスト政権期の建築が多く残っている。産業としてはヴィラブルッツィ市の農業や、ダンテ市の大規模塩田が知られ、これらの産業品の輸出港であったモガディシオ港は、非常に大規模であった。

1938年までは8個の地区に分けられていたが、1938年以降は10個の地区に再編された(モガディシオ地区、高地ジュバ地区、低地ジュバ地区、高地シェヴェッリ地区、低地シェヴェッリ地区、ミジュルティニア地区、ムドゥグ地区、オガデン地区、ウエビ・ジェストロ地区、ノガール地区)。これに加え、ヴィラブルッツィ市は独立した自治として扱われている。

 

交通機関

◇自動車道路網

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イタリア植民地の自動車道路網。

イタリア植民地の自動車道路網は非常に発展していた。流石は自動車先進国イタリアと言えよう(「海を見たことがあるイタリア人より、自動車に乗ったことがあるイタリア人の方が多い」と言われていた程、ファシスト政権期のイタリアは自動車が普及していた。もっとも、自家用車は安価な国民車「FIAT 500"トポリーノ"」があったとはいえ敷居が高く、多くの市民はレンタカーを使っていた)。

リビアの場合

リビア沿岸部の大動脈である幹線道路「ヴィア・バルビア(Via Balbia, バルボ通り)」がバルボ総督の指揮のもとで作られた。この幹線道路はチュニジア国境のラス・アジェディールから、エジプト国境のバルディアまでを完全に網羅(約1800km)し、リビア植民地の最重要部分である沿岸部諸都市間の高速移動を可能とした(1937年開通)。後にグラツィアーニ元帥が西部エジプトを征服した際は、このヴィア・バルビアから接続する「ヴィア・デッラ・ヴィットーリア(Via della Vittoria, 勝利の通り)」が敷設されている。沿岸部と比べると貧弱ではあるが、内陸部にも道路網は敷設された。

東アフリカの場合

エチオピア侵攻前の準備段階からエリトリアにおいて建設が開始され、エチオピア制圧後、東アフリカ植民地全土を網羅する自動車道路が一気に敷設された。何万人もの労働者を大量動員して驚くべき速さでこれらの道路の建設が進められ、1936年から1940年初頭までの僅か4年ほどの期間で建設が完了した。最も広く知られているのは、エリトリアの首都アスマラから、アディスアベバを結ぶ「ストラーダ・デッラ・ヴィットーリア(Strada della Vittoria, 勝利の道)」である(1938年開通)。このインフラ整備によって、各総督府の主都間は勿論、各地区の主要都市間の高速移動が可能になった。つまりは、紅海艦隊の母港マッサワから、ソマリアモガディシオまでの自動車での高速移動が可能となったのである。また、市民らの足としては、国営のバス会社による都市間の長距離バス(プルマン)が運用されていた

◇鉄道網

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イタリア植民地の鉄道網。実に貧弱である。

見てわかるように、イタリア植民地における鉄道網は実に貧弱である。これは英国やフランス、更には旧ドイツ帝国の植民地の鉄道網と比べてみても明らかである。これには大きな理由がある。

リビアトリポリタニアキレナイカでは、伊土戦争でオスマン帝国からリビアを奪い取った直後から莫大な資金が投入されて鉄道の敷設が開始されたものの、サヌーシー教団を始めとするリビア人らの抵抗が激しく、建設がイタリアが安定して統治していた狭い領域のみでストップしてしまったためであった。リビア平定後はバルボ総督の元で自動車道路網建設が優先されたために、鉄道網は発展しなかった。結局、開戦後に鉄道の重要性が明らかとなったために建設が進められたが、殆ど進展せずに敗戦を迎えることとなったのである。実に残念。

一方、東アフリカ植民地では、エチオピア支配期間が短い、つまりは東アフリカが統一された期間が短かったために、それぞれの鉄道を繋ぐためには期間が短すぎたためである。しかも、自動車道路建設リビア同様に優先されたことは大きい。個々の鉄道は建設されており、エリトリア各地の主要都市を結ぶエリトリア鉄道(エリトリア鉄道はエリトリア領内の主要都市を網羅していたため、例外的に充実していた)、ヴィッラブルッツィ市の農作物輸送を目的としたソマリア鉄道、そしてエチオピア帝国が敷設したジブチアディスアベバ鉄道を奪い取ったエチオピア鉄道が存在しており、それらを繋げるための時間は足りなかったのである。

リビア鉄道路線

リビアには5つの路線が存在した。3つはトリポリタニアトリポリ近郊、2つはキレナイカベンガジ近郊に敷設されていた。トリポリタニアの路線は首都トリポリを中心に、西部のズアーラ(トリポリ・ズアーラ線)、東部のタジュラ(トリポリ・タジュラ線)、南部のガリアン(トリポリガリアン線)までの路線が存在した。トリポリ・タジュラ線は大戦時にはオームスまでの延伸計画があったが、建設途中で連合軍に制圧されたため、計画は放棄された。トリポリガリアン線はリビア人の反乱激化によって、ガリアン手前の無人領域「ヴェルティーチェ31」でストップしており、この駅からガリアンまでは自動車などでの移動になった。

キレナイカの路線は、首都ベンガジを中心に南部のソルチ(ベンガジ・ソルチ線)、東部のバルチェ(ベンガジ・バルチェ線)までの路線が存在した。ベンガジ・バルチェ線はデルナ経由でトブルクまでの路線が計画されたものの、実現には至らなかった。これらのトリポリタニアキレナイカの路線はリビア統一後も、自動車道路建設が優先されたために発展せず、遂には接続もされずに終わった。第二次世界大戦でこれらの路線は連合軍の侵攻で破壊され、残った路線も非常に摩耗していたことから維持が困難とされ、リビア独立後に放棄されたため、現在リビアに残っている路線は存在しない

東アフリカの鉄道路線

東アフリカ植民地の路線は、先述した通り、エリトリアソマリアエチオピアで別々の路線が存在しており、それぞれ別々の用途で作られていたエリトリアの鉄道はイタリア植民地の鉄道では最も歴史が古く、最初の路線は1888年に敷設されたファシスト政権期に例外的に力が入れられた鉄道でもあり、紅海艦隊の母港である軍港都市マッサワ、古戦場のドガリ、エリトリアの首都アスマラ、主要都市であるケレンとアゴルダトを通り、ビシアまで延伸していた。つまりは、鉄道はエリトリアの主要都市を網羅しており、これは鉄道が貧弱であったイタリア植民地では珍しい例だった。スーダン国境都市のテッセネイまでの延伸計画があったが、建設が間に合わず手前のビシアまでで延伸は中止となっている。第二次世界大戦時に連合軍の侵攻でこれらの鉄道路線は破壊されて廃止されたが、エリトリア独立後、マッサワ-アスマラ間の鉄道を再建して復活させており、現状で世界で唯一現役で使われているイタリア植民地時代の鉄道となっている

ソマリアの鉄道は首都モガディシオと農業都市ヴィッラブルッツィ(現ジョハール)を結ぶ路線のみであったが、これはヴィッラブルッツィ市で生産された農作物をモガディシオ港に輸送する、という目的のために造られた鉄道だったからである。つまりは、農作物の輸送のためだけに作られた鉄道であった。そのため、農作物の大量輸送以外の用途には向かなかった。第二次世界大戦時に連合軍の侵攻で破壊され、戦後にソマリアがイタリアの信託統治下に戻った後も再建されなかったため、現存していない。なお、残った車輛はエリトリアに引き渡され、現在も現役で使われてる。

エチオピアの鉄道はイタリアが作ったものではなく、完全にエチオピア帝国が敷設したものを奪い取ったものであった。路線は首都アディスアベバから、フランス領ソマリランドジブチ港を結んでいた。皮肉なことに、イタリアが保有した植民地鉄道の中では最も長い区間だった(約800km)。元々イタリアが敷設した鉄道ではないため、その他のイタリア植民地の鉄道とは規格が違っている。東アフリカ植民地(エチオピア)内の区間アディスアベバ-デウェレ間の約700kmで、これにジブチ領内の約100kmの区間が追加される。東アフリカ戦線終結後、再度エチオピア帝国の手に戻り、現在も現役の主要路線として使われている。数年前に中国の出資で新しい路線になったため、見違えるような最新の路線が走っているそうだ。

 

第二次世界大戦時の植民地の成長

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第二次世界大戦時のイタリア植民地の最大領域。

一応、第二次世界大戦時に一時的にイタリア領のアフリカ植民地は更に拡大し、歴史的な最大版図を手に入れた。とはいえ、結局イタリアは敗北するため、あくまで一時的な領有であったこともあり、殆ど統治らしい統治はされておらず、軍政のままである。あえて例を挙げるならば、スーダンのカッサラー市の公共建築(「エリトリア独立の父」と呼ばれるハミド・イドリース・アワテ(Hamid Idris Awate)も同市の占領軍副司令官として統治に深く関わった)、ソマリランドのベルベラ港の修復工事、リビアからエジプト領内に向かうヴィア・デッラ・ヴィットーリアなどの建設が存在する。

具体的にはイタリア領リビアチュニジア(フランス領)、エジプト西部(英国支配下の形式上独立国)、アオゾウ地帯(フランス領赤道アフリカ(チャド)の一部)を領有した(そのため、「イタリア領北アフリカ(Africa Settentrionale Italiana)」と便宜上呼ばれている)。東アフリカは英領ソマリランド、仏領ソマリランド国境地帯、スーダン南東部、ケニア北部を領有し、更にジブチ港の使用権を得ている

これらの一連の拡大は、後に植民地が独立すると、「大〇〇主義」としての膨張主義の土壌を作り、戦争の原因に繋がったと言える。具体的には以下の通り。

エリトリアの場合

エリトリアエチオピアの国境紛争

:植民地時代にエリトリアエチオピア北部を領有

(エチオピア戦争後のイタリア領東アフリカ成立後)

エリトリアジブチの国境紛争

:植民地時代にエリトリアジブチ国境を領有

(ムッソリーニ・ラヴァル協定及び第二次世界大戦時)

エリトリアとイエメンの領土紛争(ハニーシュ群島紛争)

:植民地時代にエリトリアはハニーシュ群島を保有

ソマリアの場合

ソマリアエチオピアの国境紛争(オガデン戦争)

:植民地時代にソマリアエチオピア東部のオガデン地方を領有

(エチオピア戦争後のイタリア領東アフリカ成立後)

ソマリアケニアの国境紛争

:植民地時代にソマリアケニア北部を領有

(第二次世界大戦時)

リビアの場合

リビアとチャドの国境紛争(所謂「トヨタ戦争」)

:植民地時代にリビアはチャド北部のアオゾウ地帯を領有

(ムッソリーニ・ラヴァル協定)

これらのことから、植民地独立後の紛争の原因の一つとして、イタリアの植民地支配時の「記憶」というのは必ずしも無いとは言い切れないだろう。

今までの記事まとめ(~2019/8/18)

さて、記事も多くなってきたので見やすいようにジャンルごとにまとめようと思う。

◆イタリア陸軍

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◆イタリア海軍

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◆イタリア空軍

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◆イタリア政治史

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◆イタリア植民地・支配地/外交史関連

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◆イタリア映画関連

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◆イタリア旅行関連

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◆伊日交流史シリーズ

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◆他国史関連

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◆イヴェント関連

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C97申し込み完了しました!

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無事に当選出来れば4日目に参加出来ます。今回は、ブログ記事を基にしたイタリア軍人の戦歴紹介の本を出そうと思います。勿論、前回のコミケで予想以上の大反響を頂いたイタリア軍事博物館巡り本の増版もやるつもりです!

よろしくお願いいたします!

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C97

 

統帥(ドゥーチェ)と「チェファルーの魔術師」 ―アレイスター・クロウリーの「魔法学校」に対するファシスト政権の対応―

皆さんはアレイスター・クロウリー(Aleister Crowley)という人物をご存じだろうか。『とある魔術の禁書目録』を始めとする多くのサブカルチャー作品にも登場する、世界的に知られるオカルティストである。

イメージ的には「魔術師」だろうか?

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アレイスター・クロウリー(Aleister Crowley, 左)とムッソリーニ

そんなアレイスターが実はファシスト政権期のイタリアに「魔術学校」を設立して活動していたということはあまり知られていない。しかも、その「魔術学校」で死者も出る事態となり、ムッソリーニによってアレイスターは国外追放を受けることとなる。現実主義者のムッソリーニだが、図らずもこういった形でオカルティズムと接点を持つこととなった(当然、その後はそういったことは殆ど無いのだが)。

というわけで、今回はアレイスター・クロウリーイタリアでの活動と、それに対するファシスト政権の反応について少し調べてみることとしよう。

あっ、私は以前『禁書目録』シリーズが結構好きだったので敢えて「アレイスター」と呼んでいますが、彼のことを呼ぶならファミリーネームの「クロウリー」の方が本来は良いでしょう。単純に好きで読んでいるので気にしないでください。

 

◆「魔術師」アレイスターと「テレマ僧院

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アレイスター・クロウリー

アレイスター・クロウリーはいわゆる「テレマ思想(セレマ思想)」の創始者として知られている。彼自身が「エイワス」と呼ばれる存在から啓示を受け、それを記したものがテレマ思想の根本聖典とされる『法の書』だ。『禁書』でも出てきたアレである。アレイスターは魔術結社「銀の星」を設立し、このテレマ思想の伝道(というか、宗教としての「布教」に近い)に勤しむが、当然有名になるにつれて世間の冷ややかな目に晒され、その行動が問題視されるようになった。それゆえに、英国・イングランド出身であったアレイスターは、自らのユートピアとして故郷の英国ではなく、イタリアを選んだ

アレイスターがユートピアとして選んだのは、シチリア島チェファルー(Cefalù)であった。チェファルーはシチリアの州都パレルモからほど近く、現在では有名な観光地として知られている町だ。「イタリアの最も美しい村(I borghi più belli d'Italia)」協会にも所属している景勝地である。

アレイスターがイタリア滞在を開始した1920年は、実にイタリアは戦後の混迷を極める時期であった。アドリア海沿岸のフィウーメ(現クロアチア領リエカ)では、「英雄詩人」ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio)が同志とともに街を制圧し、更に国内でも政治は混乱し、ファシスト社会主義勢力が台頭していた。この混乱はむしろアレイスターにとっては都合がよく、この混乱に乗じてすんなりシチリアの地に移住することが出来た。当時のシチリアはマフィアを始めとする反社会的勢力も数多く存在し、非常に混沌としていたのである。

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チェファルーのビーチで瞑想する「テレマ僧院」の信者。ジェーン・ウルフ(Jane Wolfe)という人物で、アレイスターの信者になる前はアメリカの著名な映画女優だった。

さて、アレイスターはこうして1920年シチリア・チェファルーに「テレマ僧院(Abbazia di Thélema)」を設立する。英国から遠く離れたこの地にはアレイスターの知名度は低く、アレイスターを攻撃しようとする英国メディアの手は届かなかった。彼はこの地をユートピアとして、テレマ思想の布教と、魔術の探求に努めた。アレイスターを慕う信望者が多く集まり、その活動は徐々にシチリアの地元社会に知られていった。

こうして、アレイスターのシチリアでの生活は成功していったが、活動の拡大に伴い、ここでも再び世間から危険視されることとなる。チェファルーのビーチにはアレイスターの信望者たちが瞑想を行うなど、異様な光景が目に入るようになっていった。地元の住民たちはアレイスターらの異常な行動を騒ぎ立て、子どもを怪しげな儀式に使用しているとウワサを立て始める。これに対して、シチリアのイタリア当局も市民の訴えを受け、アレイスターを危険分子として目をつけることとなった

1922年10月末にローマ進軍によってムッソリーニ政権が誕生すると、状況は更に変化することとなる。当時のパレルモ知事がチェファルーでのアレイスターの行動を危険視、新たに政権を獲得したムッソリーニ首相に相談をした。しかし、ムッソリーニは駐伊・英国大使に報告するなどをしたが、実際に問題が起こったか定かではないためにこれを重要視せず、ひとまず静観する姿勢を示した

 

◆儀式の死者とイタリアからの追放

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死亡したラウル・ラヴデイ(Raoul Loveday)

だが、一つの事件でアレイスターの立場は非常に悪化することとなった。1923年2月、アレイスターの信望者であり、「テレマ僧院」の"学生"であったラウル・ラヴデイ(Raoul Loveday)という人物がテレマ僧院内で死亡したのである。ラヴデイは23歳のオックスフォード大学の学生で、アレイスターを崇拝してテレマ僧院に「入学」したのであった。彼の死因は病死儀式で使用した猫の血液を飲んだことでチフスに感染し、それによって死亡したのである。

ラヴデイの妻であるベティ・メイ(Betty May)はラヴデイの死を受けてアレイスターを激しく非難、バッシングしていた英国メディアに情報を流し、アレイスターは英国メディアから激しい攻撃を受けた。この死亡事故(事件?)によって、アレイスターの立場は極度に悪化し、一度は静観を決めていたムッソリーニも無視するわけにはいかなくなった。こうして、ファシスト政権は警察にテレマ僧院の家宅捜索を命じ、年内にはアレイスターらに対してイタリアからの国外追放を命じたのであったのである。

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テレマ僧院の廃墟の現在の外見。

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テレマ僧院の廃墟の内部。

そんなこんなで1923年のうちにテレマ僧院は完全に崩壊したわけであるが、現在もチェファルーにはテレマ僧院の廃墟が残っており、アレイスターのシンパらによって一種の「聖地」となっているそうだ。

 

◆参考文献

Marco Pasi著, Aleister Crowley e la tentazione della politica, Edizioni Franco Angeli, 1999

・Pierluigi Zoccatelli著, Aleister Crowley - un mago a Cefalù, Edizioni Mediterranee, 1998