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名提督はプレイボーイ? 伊海軍が誇る名指揮官、アルベルト・ダ・ザーラ提督の女性遍歴

久々の更新です。第二次世界大戦時のイタリア海軍提督たちの素性(?)を調べていく内に、興味深い情報を色々見つけたので備忘録的なノリで書いていこうと思います。

 

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アルベルト・ダ・ザーラ提督

第二次世界大戦時のイタリア海軍の提督の中で最も勇敢であるとされ、パンテッレリーア沖海戦では僅か軽巡2隻と駆逐艦7隻の艦隊で、戦艦や空母を含む大規模な英艦隊相手大勝利を手に入れた名指揮官、アルベルト・ダ・ザーラ提督(Alberto Da Zara)

そんなイタリア海軍を代表する名指揮官であるダ・ザーラ提督も興味深い話があった。それは女性遍歴である。

ダ・ザーラ提督は結構なプレイボーイだったそうで、特に海外勤務時には「現地妻」を作ることでも知られた。冒険的な性格であった彼は社交界での存在感も強く、よく女性にモテたそうだ。彼に「征服」された女性の数は数知れず。特に有名なエピソードとしては、後に英国王エドワード8世の妻となるウォリス・シンプソンと中国勤務時に一夜を共にしたことがある。エドワード8世とウォリス・シンプソンは「王冠を掛けた恋」で知られている。

イタリア海軍を代表する名指揮官が、「絵に描いたようなステレオタイプなイタリア人イメージというのは興味深い。まぁ、指導者であるムッソリーニも多くの愛人を作った女性遍歴で知られていることを考えると、別に不思議ではないか。なお、ダ・ザーラ提督はそんな遊び癖があったからか、生涯独身を貫き、結婚することはなかった

 

女性遍歴だけでも興味深いが、女性以外にもダ・ザーラ提督が愛したものはあった。それは馬と詩とスポーツである。実家が騎兵一家であったことから、幼いころから馬に親しんだダ・ザーラ提督は、よく愛馬と時を楽しんだ。父パオロ(Paolo Da Zara)は騎兵将校で、弟グイード(Guido Da Zara)も騎兵将校としての道を歩んだため、海軍軍人としての道を歩んだアルベルト(ダ・ザーラ提督のこと)は少し異例かもしれない。なお、弟グイード第二次世界大戦中、ダルマツィアでユーゴ・パルチザンの襲撃を受けて戦死している。

ダ・ザーラ提督は詩が好きな文学愛好家で、中国勤務時は中国文化にも触れて漢詩も親しんでいる。パンテッレリーア沖海戦では敵艦隊に一度海域離脱を許した際に、「何も言うことはない。流石は海のマエストロだよ(Non c'è che dire: gli inglesi per mare sono maestri.)」と詩的なセリフを言ったのは、こういった経歴に由来するかもしれない。

また、スポーツマンであったダ・ザーラ提督は、特にセーリングで高い成績を収めていた。運動も出来て、馬や文学を愛し、紳士的でアグレッシブだった人柄故に、女性からも好かれたのだろう。

 

◇参考文献

Alberto Da Zara, Pelle d'ammiraglio, Uff. Storico Marina Militare, 2014

Arrigo Petacco, Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale, Mondadori, 2013

地中海におけるイタリア海軍の熾烈な戦い ―1943年の海戦:絶望の船団護衛、本土防衛戦―

さて、今回は1943年の地中海の海戦を扱おう。前年1942年前半はイタリア海軍は地中海の制海権を確保して戦局を有利に展開していた。しかし、陥落寸前のマルタを放置するという戦略ミス(これはイタリア海軍の責任ではなく、ロンメルの戦略ミス)によって結果として北アフリカ戦線は崩壊、制海権と制空権を一挙に失ったことに加え、そして燃料枯渇によって艦隊は最早出撃も困難となった。

地中海戦線で最も転換点となったのは、アメリカ軍・英軍を中心とする連合軍によるフランス領北アフリカへの上陸(トーチ作戦)であった。その結果、イタリア軍は東西からの挟み撃ち、更にはリビア南部からは自由フランス軍も北上していたため、全方向からの攻撃に対応しなくてはならなくなった。その結果、北アフリカ戦線はまるでドミノ倒しのように崩壊していったのである。トーチ作戦を受け、イタリア主力艦隊はターラント軍港からナポリに引き上げ、最早出動の機会は無かった。ナポリも激しい空襲に合うようになった後は、ラ・スペツィア軍港に引きこもることとなった。しかし、ここも安全ではなく、度々の襲撃を受けていた。

1943年に入る頃、地中海における制海権は完全に連合軍側に奪われていた燃料を失ったイタリア海軍は最早小型艦艇による細々とした船団護衛や、「デチマ・マス」の泊地攻撃しか出来なかった。今まで戦果を挙げていた潜水艦隊も、連合軍側の対潜能力の飛躍的向上によって、最早マトモに戦うことは出来なくなった。

そして、ご存じの通り1943年にはイタリアにとって大きな転換点となる。本土防衛戦の開始、ムッソリーニの失脚とバドリオ政権の誕生、突然の王国政府の休戦、ドイツ軍のイタリア侵攻、イタリア社会共和国(RSI政権)の誕生と内戦化....と目まぐるしく状況は変化していくのであった。今回は休戦(1943年9月8日)までの海戦を扱い、休戦後(つまり内戦期)の海戦については次回扱うこととしよう。

 

1940年の海戦はこちら↓

associazione.hatenablog.com

 

1941年の海戦はこちら↓

associazione.hatenablog.com

 

1942年の海戦はこちら↓ 

associazione.hatenablog.com

 

 イタリア海軍の「欠点」についてはこちら↓

associazione.hatenablog.com

 

◆1943年:絶望の中の船団護衛戦

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1943年の地中海における主要な海戦(王国政府の休戦まで)。船団護衛戦と敵泊地攻撃に限定されている。

新年が明けたが、イタリア政府からの公のメッセージは何もなかった。ムッソリーニは戦況の悪化に無念と憤慨を感じ、日に日に胃痛が酷くなっていた。海軍では多少の人事異動があった。前年度末、1942年12月29日にイタリア大西洋艦隊司令官のローモロ・ポラッキーニ提督が更迭され、新たにエンツォ・グロッシ大佐(Enzo Grossi)が新司令官に就任した。グロッシ大佐は潜水艦「バルバリーゴ」艦長として大西洋における通商破壊・艦船攻撃で戦果を挙げた人物で、昨年5月にはブラジル沖でアメリカ海軍の戦艦「メリーランド」を、昨年10月にはシエラレオネ沖でアメリカ戦艦「ミシシッピ」を撃沈するという大挙を挙げたとされる人物だ(実際には誤認戦果であったことが戦後判明した)。グロッシ大佐の"大戦果"は伊独両国で高く評価されたが、「誤認では?」と疑問を抱いたのが大西洋艦隊司令で、グロッシ大佐の上官であったポラッキーニ提督である。しかし、劣勢の伊軍にとってその正論は不都合であったため、ポラッキーニ提督は更迭され、その後任に皮肉にもグロッシ大佐が就任した、というわけである。しかし、先述した通り、潜水艦隊は連合軍側の対潜能力の向上によって通商破壊が困難となったため、新司令官グロッシは同盟国である日本への物資輸送に潜水艦隊を使うこととした。所謂「遣日潜水艦作戦」であった。

一方、対ソ戦において派遣されたイタリア海軍部隊であったが、ドガ湖に派遣された第12MAS小艦隊に関しては地中海戦線の悪化に伴い撤退が決まった。この部隊は1942年7月末から10月末までの短い間にラドガ湖でソ連船団相手に戦い、ソ連海軍の砲艦「ビラ」及び輸送艀1隻を撃沈する戦果を挙げていた。撤退時、同戦隊に所属していた4隻のMAS艇はそのまま同盟国であるフィンランド海軍に引き渡されている。

一方で、黒海に派遣されたイタリア海軍艦隊はそのまま活動を続けた。この部隊は重巡モロトフ」や潜水艦等ソ連海軍艦艇を多数撃沈/大破させ、輸送船団攻撃でも活躍した。また、アジア・太平洋戦線では紅海艦隊の残存艦が極東艦隊に加わり、更に遣日潜水艦作戦で派遣された数隻のイタリア潜水艦が事実上極東艦隊の一員として日本軍と共闘した。これらの部隊は休戦まで戦い続けた後、休戦後にルーマニア軍や日本軍の襲撃を受け拿捕、もしくは自沈・連合国側に降伏している。

戦況は刻一刻と悪化していた。制海権と制空権を奪われたことで、連合軍部隊はイタリア海軍の軍港へ易々と攻撃出来るようになっていた。そんな中で英軍はとある新兵器を戦場に投入した。それは、イタリア海軍のSLC人間魚雷「マイアーレ」を完全にコピーした「チャリオット」と呼ばれる兵器だった。今までこの手の港湾への特殊攻撃はイタリア海軍が世界トップを独走する形であったが、遂に英軍もこれを導入したのである。1月3日、英海軍「チャリオット」部隊はパレルモ港内に潜入、昨年11月末に進水したばかりのカピターニ・ロマーニ級軽巡「ウルピオ・トライアーノ」を撃沈したのであった。今まで伊海軍部隊にしてやられた仕返しとも言えるだろう。

 

■1月19日:ズアーラ沖海戦

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1943年1月19日:ズアーラ沖海戦

北アフリカ戦線は崩壊寸前であった。他方、イタリア軍東部戦線でもソ連軍の反撃によって戦線が崩壊状態となっており、最早維持することは困難となっていた。リビアの陥落は時間の問題であり、イタリア軍が1943年1月の段階で支配しているリビア領はトリポリタニアに過ぎなかった。そのトリポリタニアですら厳しい状況になっていたため、イタリア軍トリポリから出来るだけ多くの部隊や物資を撤退させるべく行動に出た。その撤退作戦の護衛艦隊には駆逐艦の数が足りず、貧弱な掃海艇等も駆り出された。それらの小艦隊の内の一隻が、ジュゼッペ・ディ・バルトロ中尉(Giuseppe Di Bartolo)率いる掃海艇による戦隊であった。

地中海は完全に英海軍の制海権にあった。北アフリカ沿岸では連合軍の艦艇が哨戒しており、こういった小艦隊による撤退も満足に行えなかった。燃料枯渇によって巡洋艦すらも出動が難しく、結果として駆逐艦水雷艇はまだマシ、ほぼほぼ非武装の補助艦艇での戦闘を強いられた部隊もあった。英海軍の駆逐艦「ジャベリン」と「ケルヴィン」トリポリタニア沖を哨戒していた。2隻の役目はトリポリを脱出したイタリア輸送船団を襲撃し、これを沈めることだった。既に「ケルヴィン」は1月15日にトリポリを脱出した輸送船「ダンヌンツィオ」を撃沈している。

1月19日の夜間、ディ・バルトロ中尉率いる小艦隊は夜の闇に紛れてチュニジアへの撤退を開始、トリポリ港を出発した。この小艦隊は掃海艇「RD36」を旗艦とし、掃海艇4隻、輸送船・補助艦艇等7隻で構成された。この小艦隊はリビア艦隊・トリポリ軍港所属の掃海艇部隊で、トリポリタニア沿岸の掃海を担当していたが、鹵獲を防ぐためにチュニジア経由でイタリア本土への撤退が命じられていた。一方、英海軍「ジャベリン」及び「ケルヴィン」はトリポリから出発したこの小艦隊をレーダーで察知した。2隻はこれを輸送船団と認識(実際は掃海艇小艦隊)し、襲撃に向かった。

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駆逐艦「ジャベリン」

トリポリタニア・ズアーラ沖にて、2隻の英駆逐艦は伊艦隊を発見した。ズアーラはトリポリ西方の港町で、仏領チュニジアに近い軍事拠点でもあり、イタリア空軍部隊の基地が置かれた都市だ。リビア植民地の首都であったトリポリとは鉄道で繋がれており、地中海マグロ漁の水揚げ港でもあったため、植民地漁業の重要な漁港としても知られた。1月19日深夜、伊艦隊を発見した英駆逐戦隊はまず閃光弾を打ち上げ、イタリア船であることを確認後、攻撃を開始した。不幸なことに、掃海艇部隊の装備は貧弱であった。掃海艇4隻は76mm単装砲を一門装備していたが、それ以外の船は機関銃が装備されたのみであった。効果的な抵抗など出来ず、一方的に英駆逐艦によって小艦隊は殲滅させられた。結果として、夜明けまでにイタリア小艦隊は全滅。それに対して、英海軍側の損害は10名程度の負傷者のみであった。

ズアーラ沖海戦の後、1月23日にはイタリア軍トリポリを放棄。英軍部隊がトリポリ入城を果たしたのであった。イタリア・ドイツ軍はチュニジアへ撤退し、連合軍はリビアを制圧していった。2月4日までにリビア領内の枢軸軍は完全にチュニジア国境まで撤退。これをもって、リビアは完全に陥落し、イタリア領リビアの歴史は終止符が打たれることとなったのである。リビアトリポリタニアキレナイカを英国が、フェザーンをフランスが占領統治とする分割統治体制が行われ、この状態はリビア独立まで続くこととなったのである。リビアの失墜は、先の東アフリカ(エリトリアソマリアエチオピア)の崩壊と共に、19世紀から続いたイタリア植民地主義の消滅を意味した。

 

■4月16日:チーニョ船団の海戦

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1943年4月16日:チーニョ船団の海戦

東部戦線では遂にドン川戦線が崩壊し、更に地中海戦線の防衛のためにイタリア第八軍はソ連方面からの完全撤退を決定した。1月末にはムッソリーニ北アフリカ・ロシア両戦線の崩壊によって統合参謀総長であったカヴァッレーロ元帥の解任を決めた。ギリシャ戦で更迭されたバドリオ元帥に続き、大戦中2人目の参謀総長の解任である。後任にはユーゴスラヴィア侵攻で巧みな指揮を見せたヴィットーリオ・アンブロージオ将軍が任命されている。一方、海軍でも主力艦隊司令官のアンジェロ・イアキーノ提督は4月1日に辞任し、後任にカルロ・ベルガミーニ(Carlo Bergamini)提督が就任した。ベルガミーニ提督は戦艦「カイオ・ドゥイリオ」を旗艦とする第五戦艦戦隊の司令官として、数々のリビア船団護衛を成功させた指揮官であった。前年度初頭の一連の船団護衛や英船団妨害の活躍で特に知られている。

連合軍が制海権を握っており、英米艦隊や爆撃機による襲撃が度々行われた一方で、イタリア海軍によるこの時期の船団護衛は意外にも成功率は高かった兵員輸送の93%、物資の72%、燃料の72%はチュニジアまで届けられている損失が急増したのは1943年3月から5月に掛けてで、このためチュニジア戦線終盤の船団数は一気に減少した。チュニジア戦線において、イタリア艦隊はチュニス及びビゼルタへの輸送任務を担った。そんな数多の船団の一つが、今回の「チーニョ船団」である。

4月15日にシチリアのトラーパニ港を出発したイタリア護衛艦隊は、水雷艇「チーニョ」を旗艦とし、水雷艇2隻(「チーニョ」「カッシオペア」)で構成された。2隻の水雷艇1隻の輸送船「ベッルーノ」を護衛した。この輸送船はチュニジア戦線の枢軸軍のための弾薬が満載されており、護衛船団と共にチュニスに向かった。この「チーニョ船団」に続いて、後続でパレルモ港から水雷艇「ティフォーネ」「クリメーネ」が戦力強化のために出撃することになっており、また「ティフォーネ」は航空機用の燃料を積んでおり、ビゼルタ港に届ける役目を担っていた。一方で、通信傍受によってイタリア船団の出発を察知した英海軍は駆逐戦隊を差し向けた。これは駆逐艦「パケナム」を旗艦とし、駆逐艦2隻(「パケナム」「パラディン」)で構成された部隊であった。

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イタリア水雷艇「チーニョ」

イタリアでは既に国産レーダーである「グーフォ」が量産されていたが、船団の護衛艦隊には装備されていなかった。しかし、当時は満月であり、英海軍側が得意とする夜間の奇襲が難しかった4月16日2時38分、シチリア西方沖のエーガディ諸島に属するマレッティモ島沖にて、イタリア船団は接近中の英駆逐戦隊を発見した。このため、イタリア船団の司令官(「チーニョ」乗艦)であるカルロ・マッカフェッリ少佐(Carlo Maccaferri)は輸送船「ベッルーノ」に一時的にトラーパニへの撤退を命じ、その護衛を後続の「ティフォーネ」「クリメーネ」に任せ、「チーニョ」と「カッシオペア」は英艦隊の足止めのために戦うこととした。通信の後、光信号を合図にイタリア側は行動を起こし、それと共に「チーニョ」は英艦隊への攻撃を開始。英艦隊発見の10分後に2時48分に交戦が開始した。

交戦開始と共に発射した「チーニョ」の砲撃は英駆逐艦「パケナム」に命中更に続けて「チーニョ」は「パケナム」に主砲を命中させ、「パケナム」は大破、航行不能になった。しかし、航行不能となった「パケナム」は雷撃を発射「チーニョ」は回避を試みるが、2本が命中「チーニョ」は不運なことに当たり所が悪く、真っ二つに割れて撃沈された。しかし、完全に沈没するまでの間、「チーニョ」は「パケナム」への攻撃を継続し、「パケナム」に対して致命的なダメージを与えた

戦闘を終えた「パケナム」は応急処置で航行可能になり、損害は大きいが「パラディン」に合流し、残る「カッシオペア」との交戦を開始した。「カッシオペア」は大破した「パケナム」の機関室を砲撃で破壊、再度航行不能になった。「パケナム」は「チーニョ」「カッシオペア」との戦いの傷を受けて戦闘継続は不可能になり、最終的に「パラディン」によって雷撃処分されている。パラディン」も「カッシオペア」との交戦によって損害を受けたため、損害が多くなったことから4時半に撤退した。

「チーニョ」は撃沈されたが、「カッシオペア」は生還し、護衛対象であった輸送船「ベッルーノ」も後続艦隊の護衛のもとで一時的にトラーパニ港に避難したのち、再度チュニス港に目指して出発。更に「ティフォーネ」もビゼルタへの燃料輸送を完了させ、イタリア海軍は「チーニョ」1隻の代償によって船団護衛を成功させたのであった。圧倒的に不利な夜間戦闘であり、更に戦力的にも不利であったが、果敢に戦ったイタリア水雷戦隊は船団護衛を成功させたのであった。一方で、英艦隊は得意の夜戦にも拘わらず、満月で奇襲が失敗するという不測の事態によって、駆逐艦「パケナム」を撃沈され、更に輸送船も取り逃がすという失態をすることとなったのである。

 

■5月3日:カンポバッソ船団の海戦

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1943年5月3日:カンポバッソ船団の海戦

チュニジアのイタリア・ドイツ軍は追い詰められ、最早北アフリカ戦線の完全崩壊は目前となっていた。それに伴い、イタリア輸送船団の喪失率も非常に高くなっていたが、イタリア海軍は最後までチュニジアに輸送船団を派遣し続けた。 しかし、この「カンポバッソ船団」を含む4つの船団がイタリア海軍の最後のチュニジア船団となった。それはこの船団派遣の後、まもなくチュニジアは陥落したからである。

5月3日夕方、水雷艇「ぺルセオ」 によって護衛された船団(輸送船1隻)がパンテッレリーア島を出発した。この船団はチュニスに向かう船団で、サヴェリオ・マロッタ(Saverio Marotta)少佐によって指揮されていた。「ぺルセオ」によって護衛された輸送船「カンポバッソ」は弾薬や車輛など、イタリア軍にとって重要な物資を運んでいた。一方、英海軍の3隻の駆逐艦(「ヌビアン」「ペタード」「パラディン」)はシチリア海峡、ボン岬沖にてイタリア船団を待ち伏せしていた。

同日夜間、英駆逐戦隊のレーダーは「カンポバッソ船団」を察知。駆逐艦3隻はイタリア船団に奇襲攻撃を仕掛け、一方的に撃沈された。船団は全滅したが、その後派遣された水雷艇「ティフォーネ」に率いられた船団は英駆逐戦隊の追撃を回避し、チュニジアに航空燃料を届けることが出来た。これがチュニジアに届けられた最後の船団となり、5月12日をもってチュニジアは陥落。北アフリカ戦線は完全に崩壊したのである。

 

■5月8日:第四次ジブラルタル襲撃

地中海の制海権が奪われた後も、「デチマ・マス」は継続してジブラルタルへの襲撃作戦を実行していた。5月8日には悪天候の中、工作艦「オルテッラ」から出発した3隻のSLC人間魚雷「マイアーレ」が3隻の輸送船を撃沈して損害を与えている。 

 

■6月2日:メッシーナ船団の海戦

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1943年6月2日:メッシーナ船団の海戦

北アフリカ戦線の崩壊後、次に連合軍が標的と定めたのはシチリア島南方に浮かぶ、パンテッレリーア島とペラージェ諸島であった。パンテッレリーア島は連合軍側からムッソリーニマルタ島」と呼ばれ、堅牢な要塞で築かれた難攻不落の要塞島として認識されていた。 マルタ爆撃作戦においても開戦時からイタリア空軍の基地として知られており、イタリア軍にとって重要な軍事拠点であった。ランペドゥーザ島を含むペラージェ諸島も同様に要塞化された島であり、重要な軍事拠点であった。ただ、これらの島の問題点は、温泉は出るが、飲み水に乏しい点であった。すなわち、包囲戦を展開した場合、抗戦継続は可能であっても、先に飲み水が枯渇する可能性が戦ったのである。マルタの場合は海水を淡水化していたが、これらのイタリア領の島には存在しなかった。

北アフリカ戦線の崩壊後、5月初旬から連合軍はこれらのイタリア島嶼部の海上封鎖を行い、包囲戦を開始した。連合軍側はシチリア攻略のためにもこれらの島々を橋頭保として確保しようとしていたが、無茶な上陸作戦によって多大な損害を被ることは間違いないとされており、アイゼンハワー将軍を始めとする米軍参謀本部はパンテッレリーア島攻略には慎重な考えを見せていた。これは、1941年のエーゲ海作戦において、イタリア軍が英軍に制圧されたカステルロッソ島を迅速に奪還した経緯があったからだ。

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ジーノ・パヴェージ(Gino Pavesi)提督

パンテッレリーア島守備隊はジーノ・パヴェージ提督(Gino Pavesi)率いる約1万名以上の兵士たちで構成されていた。一方、ランペドゥーザ島を含むペラージェ諸島はオラツィオベルナルディーニ海軍大佐(Orazio Bernardini)率いる約4千名の守備隊によって守られていた。連合国側は上陸作戦の準備のため、海上封鎖を実行後、連日猛烈な爆撃を行うことで要塞島の戦力を削ごうとした。つまり、イタリア軍がかつてマルタ島に実行したことと同じことをやっていたのである。連合軍側は連日激しい爆撃を島嶼部に実行したが、パヴェージ提督は降伏勧告を拒否し続けた

島嶼部を巡り激しい戦いが繰り広げられる中、イタリア海軍はシチリアへの戦力強化のために水雷艇「カストーレ」に護衛された輸送船団(輸送船2隻で構成)を派遣した。マリーノ・ファサン少佐(Marino Fasan)によって指揮されたこの船団は5月31日の夜間にターラント軍港を出発し、メッシーナ港に向かった。しかし、連合軍は最早イタリア半島沿岸にも迫ってきており、6月1日に英駆逐艦ジャーヴィス」とギリシャ駆逐艦「ヴァシリッサ・オルガ」はスクイッラーチェ湾を哨戒中にこの船団を捕捉した。6月2日の夜1時45分、クロトーネ近郊沖合にて2隻の連合軍駆逐艦はイタリア船団を攻撃。これに対して、ファサン少佐は輸送船を逃がすべく、「カストーレ」1隻で駆逐戦隊の足止めに挑み、奮戦。結果、「カストーレ」は撃沈され、ファサン少佐も戦死したが、船団は無事退避することに成功し、メッシーナ港に到着した。すなわち、イタリア側の戦略的勝利であった。

一方で、奮戦を続けていた島嶼部のイタリア守備隊であったが(海外のメディアにもその勇敢さは評価されていた)、最終的に水の枯渇と連合軍の上陸作戦によって降伏する事態となり、6月11日にはパンテッレリーア島、6月12日にはランペドゥーザ島、6月13日にはリノーザ島、6月14日にはランピョーネ島と次々とシチリア海峡の島々が連合軍に攻略され、シチリアへの上陸作戦は秒読みという状態になった。しかし、連合軍側も布石を投じ、シチリアではなくサルデーニャ島エーゲ海諸島への攻略をチラつかせて枢軸軍の戦力の分散を図った(ミンスミート作戦)。

 

■6月30日:第一次イスケンデルン港襲撃 

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潜水服を着たフェッラーロ少尉

シチリア海峡の島々が陥落し、戦況が悪化していく中、「デチマ・マス」は大胆な泊地攻撃作戦を実行した。それは、たった一人の潜水工作員によって実行された、「ステッラ作戦」と呼ばれる一連のトルコ港湾における破壊作戦であった。トルコは枢軸と連合の間を揺れ動きながら、巧みに中立を維持していた。しかし、地中海戦線の戦況が明らかになってくると、トルコは連合国寄りの態度を取り始めた(トルコが正式に連合国側で参戦するのは1945年の最終局面になってからである)。

これに対し、「デチマ・マス」ガンマ潜水部隊のスーパーエースであるルイージ・フェッラーロ少尉(Luigi Ferraro)は単身でトルコに渡り、トルコ港湾に停泊する連合軍船舶への攻撃作戦を開始した。その一連の破壊作戦で最も最初に行われたものが、6月30日の第一次イスケンデルン港襲撃で、身一つでイスケンデルン港に潜入したフェッラーロ少尉は時限爆雷で停泊中の輸送船「オリオン」を撃沈する事に成功したのであった。

 

■7月9日:メルスィン港襲撃

7月9日、連合軍はシチリアへの上陸作戦を開始した。シチリア方面の海軍司令官はピエトロ・バローネ提督(Pietro Barone)提督であったが、海軍は最早上陸作戦の対抗に有効な行動を取れず、潜水艦部隊による迎撃を行わせたが、結局散発的な成功しか得られずに終わったシチリアでの激戦が繰り広げられている中、トルコではフェッラーロ少尉による破壊作戦がトルコ当局に発見されることなく継続され、連合軍のシチリア侵略と同日である7月9日に、フェッラーロ少尉はメルスィン港に潜入し、英軍の輸送船「カイトゥーナ」を時限爆雷で爆沈させたのであった。 

 

■7月12日:第一次メッシーナ海峡海戦

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1943年7月12日:第一次メッシーナ海峡海戦

連合軍のシチリア攻略戦が繰り広げる中、連合軍はメッシーナ海峡の封鎖を試みた。これに対する抵抗として行われたのが、メッシーナ海峡の封鎖突破作戦である、「シッラ作戦」である。この封鎖突破には最新鋭国産レーダーである「グーフォ」を搭載したカピターニ・ロマーニ級軽巡が用いられた。これは、イオニア海方面において高速巡洋艦が不足しているということもあり、それの戦力補充という意味合いもあった。

7月12日深夜、カピターニ・ロマーニ級軽巡「ポンペオ・マーニョ」は メッシーナ海峡の突破を試みた。この対応として、英海軍は5隻の魚雷艇による奇襲を試みたが、「グーフォ」レーダーの威力を発揮した「ポンペオ・マーニョ」はこれを撃退し、2隻を撃沈、1隻を大破させる働きを見せている。これらの「ポンペオ・マーニョ」の戦果は「シピオーネ・アフリカーノ」の戦果と混同されており、一説によるとこれらの戦果は「ポンペオ・マーニョ」ではなく「シピオーネ・アフリカーノ」単独の戦果とも言われている(「グーフォ」レーダーを搭載したカピターニ・ロマーニ級軽巡も「シピオーネ・アフリカーノ」のみという説があるため)。

 

■7月17日:第二次メッシーナ海峡海戦

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1943年7月17日:第二次メッシーナ海峡海戦

「シッラ作戦」発動に伴い、7月15日に「シピオーネ・アフリカーノ」はラ・スペツィア軍港を出発し、ナポリで一時停泊した後、7月16日18時15分にナポリを出発、メッシーナ海峡を通ってターラント軍港に向かった。「シピオーネ・アフリカーノ」艦長はエルネスト・デ・ペッレグリーニ・ダイ・コイ大佐(Ernesto De Pellegrini Dai Coi)であった。7月17日夜2時にメッシーナ海峡を通った「シピオーネ・アフリカーノ」は、デニス・ジャーメイン大佐(Dennis Jermain)率いる英海軍魚雷艇部隊の襲撃を受けた。しかし、「グーフォ」レーダーを生かして夜戦の主導権を握った「シピオーネ・アフリカーノ」はこれを見事に返り討ちにして、今までイタリア海軍が連戦連敗を繰り返していた夜間戦闘において、一方的な大勝利を得たのである。「グーフォ」レーダーの真価が発揮された数少ない戦いの一つでもあった。

「シピオーネ・アフリカーノ」を襲撃した英海軍の魚雷艇4隻は、イタリア海軍は3隻を撃沈と主張したが、実際は1隻を撃沈、2隻は大破であった。その後、「シピオーネ・アフリカーノ」は、軽巡洋艦ルイージ・カドルナ」と共に8月4日から17日までの間にターラント湾からスクイッラーチェ湾にかけてのイオニア海沿岸に4箇所の機雷原を敷設し、連合軍の侵攻の妨害に貢献したのであった。なお、この時「シピオーネ・アフリカーノ」の機関長を務めたのはウンベルト・バルデッリ少佐で、後にRSI軍「デチマ・マス」の海兵大隊「バルバリーゴ」の司令官を務めた人物である。

 

■8月1日:第二次イスケンデルン港襲撃

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新海軍参謀長ラッファエーレ・ド・クールタン提督

1943年7月は激動の月であった。7月19日には「永遠の都」ローマが米軍ドゥーリットル少将指揮下の連合軍機による初空襲を受けた。ローマ初空襲の熱が冷めやらぬ中で、ファシスト大評議会内部でのグランディらによる謀反、更に王党派と軍上層部が結託したムッソリーニ逮捕計画が実行され、7月25日に独裁者ムッソリーニは失脚することとなった。新たに国王に組閣を命じられたピエトロ・バドリオ元参謀総長は枢軸国側での戦闘継続を宣言したが、水面下では連合軍との休戦交渉を行っていた

ムッソリーニの失脚によって、海軍内部も人事異動が行われた海軍参謀長であるアルトゥーロ・リッカルディ提督が更迭され、新たな参謀長としてラッファエーレ・ド・クールタン(Raffaele de Courten)提督が就任した。ド・クールタン提督らスーペルマリーナの一部にも連合軍との休戦工作は伝えられていたが、休戦発表などの詳細事項は全く知らされておらず、海軍は本土防衛に伴う艦隊決戦の準備を進めていた。なお、ファシスト政権の崩壊によって、戦艦「リットリオ」は戦艦「イタリア(イターリア)」に改称されていた(バドリオ政権は一種の軍事政権であった)。

一方で、フェッラーロ少尉による一連のトルコでの港湾襲撃も最後の攻撃が行われた。8月1日に再度イスケンデルン港にて潜入、爆雷で輸送船「フェルンプラント」を撃沈し、爆弾を使い果たしたことで一連の作戦は終了し、イタリアに帰国した。フロッグマン一人で特殊作戦を損害無しで実行したことは高く評価され、フェッラーロ少尉はイタリア軍最高峰の金勲章を叙勲された。

 

■8月3日:第五次ジブラルタル襲撃

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1943年8月3日:第五次ジブラルタル襲撃

「デチマ・マス」のジブラルタル襲撃作戦はムッソリーニの失脚後も継続されていた。1943年8月のジブラルタル襲撃は、バドリオ政権下の枢軸イタリア唯一のジブラルタル襲撃作戦であり、 更に第二次世界大戦における伊海軍最後の連合軍軍港襲撃作戦となった。工作母艦「オルテッラ」から出発した3隻のSLC人間魚雷「マイアーレ」は英米軍の輸送船3隻を撃沈し、計2万3000トンの損害を与えることに成功した。結局、「デチマ・マス」によるジブラルタル襲撃は失敗したものも含めると計9回実行され、多大な損害を連合国側に与えたのであった。

 

■8月6日:パレルモ沖海戦

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1943年8月6日:パレルモ沖海戦

1942年末から休戦に至るまで、イタリア艦隊は効果的な出撃が出来ない一方で、度々連合軍機による軍港爆撃を受け、甚大な被害を受けていた。1943年6月のアメリカ軍によるラ・スペツィア空襲ではリットリオ級戦艦3隻は甚大な被害を受け、その後ジェノヴァで修復を受けることとなった。

ド・クールタン海軍参謀長率いる新海軍指導部は、連合軍との交渉に挑むバドリオ政権とは対照的に戦意は未だ高く、燃料枯渇ゆえの出撃不足であり、艦隊決戦の準備を進めていた。先の空襲で甚大な被害を受けたベルガミーニ提督率いる主力艦隊は修復を進め、修復が完了し次第イタリア半島に迫る連合軍艦隊相手に艦隊決戦を仕掛ける計画が立てられていたシチリアでの海軍の不手際とは対照的に、半島防衛における海軍の戦意は非常に高く、潜水艦までもを総動員した迎撃作戦が計画されていた。

ド・クールタン提督の後任として第八巡洋戦隊司令官に任命されたジュゼッペ・フィオラヴァンツォ(Giuseppe Fioravanzo)提督は、連合軍側の手に落ちたパレルモ港への艦砲射撃を命令されていた。フィオラヴァンツォ提督は6月中旬の海戦で戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」を旗艦とする第9戦艦戦隊の司令官として、海戦の大勝利に貢献した優秀な指揮官であったが、連合軍側によって制圧されていたとはいえ、シチリアの町に対して砲撃を行うことには乗り気ではなった。

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アメリ軽巡フィラデルフィア

8月6日夜間、フィオラヴァンツォ提督率いる第八巡洋戦隊はジェノヴァ港を出発した。これは軽巡ガリバルディ」及び「ドゥーカ・ダオスタ」の軽巡2隻で構成された巡洋艦戦隊であった。一旦ラ・マッダレーナに寄って、8月7日夕方にパレルモ港に連合軍船団が確認されたことからラ・マッダレーナを出発、パレルモに向かった。しかし、2隻の軽巡はいずれもレーダーが未装備であり、更に機関の不調により高速能力を発揮出来なかった。そんな中で航空偵察によってパレルモに向かう米海軍艦隊が確認された。

この米海軍艦隊はライアル・A・デヴィッドソン(Lyal A. Davidson)提督によって指揮された艦隊で、軽巡フィラデルフィア」を旗艦とし、軽巡2隻(「フィラデルフィア」「サバンナ」)、駆逐艦6隻で構成された艦隊であった。これによって、第二次世界大戦初となる、イタリア艦隊とアメリカ艦隊の本格的な衝突が起こるかと思われたが、フィオラヴァンツォ提督は劣勢の状態による艦隊の衝突(しかも例の如く夜間戦闘)は敵側に殆ど損害を与えられずに全滅する確率が高いと判断、艦隊の交戦開始前に撤退を命令した。これによって伊米両艦隊による衝突は防がれたが、イタリア艦隊は無益な犠牲を払わずに済んだのである。レーダー未装備の夜戦、機関の不調、更に数的不利というこの状況で仮に戦闘を行っていた場合、フィオラヴァンツォ提督の予想の通り、米軍側の圧倒的勝利によって海戦は決着がついていただろう

しかし、作戦を実行せずに帰還したフィオラヴァンツォ提督に対して、ド・クールタン海軍参謀長は激しく叱責し、フィオラヴァンツォ提督は第八巡洋戦隊司令官を解任される事態となった。後任にはエーゲ海作戦で武勲を挙げたビアンケーリ提督が就任しているが、その後は休戦まで本格的な作戦行動に出ることは無かった。

 

最終的に1943年9月8日にイタリア王国は連合国との休戦を宣言したが、ベルガミーニ提督率いるイタリア主力艦隊は連合軍の本土上陸に伴う迎撃の準備を進めている最中であり、8月末に修復が完了したリットリオ級戦艦3隻による出動を目前に控えていた。その最中の突如の休戦発表に対して、ド・クールタン提督は何も相談されていなかったことに対して国王に抗議したが、国王は不機嫌になるだけであった。海軍の長老であり、イタリア唯一の海軍元帥であるパオロ・タオン・ディ・レヴェル元帥(Paolo Thaon di Revel)は国王の側近であったが、休戦工作には一切関わっていなかった。すなわち、海軍は休戦工作に関して完全に蚊帳の外であったのである。

結局、ド・クールタン提督にすら相談されていなかった突如の休戦発表は、海軍に混乱を齎し、今まさに出撃せんとしていたベルガミーニ提督率いる主力艦隊に対しても休戦発表が知らされたのは更に後であった。国王の命令によって連合軍側への艦隊の降伏が命じられたが、未だ戦意が高い海軍内部では反発が多くビアンケーリ提督やガラーティ提督のように降伏に反対して自沈か北部への艦隊移動を要求する艦隊指揮官も多かった。更に、戦艦「ジュリオ・チェーザレ」では艦隊降伏への反発から水兵による叛乱も発生している。「デチマ・マス」のボルゲーゼ司令や大西洋艦隊のグロッシ司令を始めとして、休戦発表に抗議して独自にドイツ軍側と交渉する軍人たちもいた。

結局、この混乱の中で、連合軍への艦隊降伏が行われることとなり、更に降伏直後からドイツ軍はイタリア半島への「侵攻」を開始し、イタリア軍への攻撃を開始することとなった(極東では日本軍がその役割を担った)。その一連の攻撃の後、枢軸国側での戦闘継続を宣言したイタリア社会共和国(RSI政権)が成立したことで、イタリア海軍も二分され、内戦状態に陥っていくのであった。

 

1943年の海戦は劣勢の中の戦いを強いられ、最早イタリア海軍は有効な対応がとれていなかった。しかし、その一方で未だイタリア海軍の戦意が消えていなかったことは、明らかである。今回は1943年9月の休戦までの「枢軸国側の王立イタリア海軍としての連合国との戦い」を扱った次回は1943年9月の休戦から1945年の終戦に至るまでにおける、「休戦直後のイタリア海軍とドイツ軍の戦い」と「RSI海軍による連合国との戦い」、そして「内戦期のRSI海軍と共同交戦海軍の戦い」を扱うこととしよう。

 

■主要参考文献
Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori
B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori
Pier Paolo Battistelli/Piero Crociani著 "Reparti d'élite e forze speciali della marina e dell'aeronautica militare italiana 1940-45", 2013, LEG Edizioni
Giorgio Giorgerini著 "Uomini sul fondo", 2002, Mondadori
Aldo Cocchia著 "Convogli -Un marinaio in guerra 1940-1942", 2004, Mursia
吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939-1945』, 2006, イカロス出版
吉川和篤著『Viva! 知られざるイタリア軍』.2012, イカロス出版

 

地中海におけるイタリア海軍の熾烈な戦い ―1942年の海戦:マルタ島を巡る大海戦!―

さて、今回は遂に1942年の地中海の海戦だ。前年1941年の末のアレクサンドリア港攻撃によって英海軍は致命的な大打撃を受け地中海の制海権はイタリア参戦から1年半経ってようやくイタリア海軍が握ることとなった。イタリア側は北アフリカ戦線に安定して物資を輸送船団で供給できるようになったこの頃、対照的に英海軍はマルタへの物資補給が困難となっていた。空軍によるマルタ空爆も日々加速し、まさに地中海の要衝が無力化されようとしていた。そんな中で劣勢の英海軍はマルタ救援作戦を実行、それを止めんとするイタリア海軍と激戦を繰り広げるのである。また、制海権を握り優勢となったイタリア海軍であったが、一方で燃料不足の深刻化が加速していた。

1942年の海戦はマルタを周辺とする中央地中海が中心で行われ、基本的に英海軍のマルタ補給と、それを阻止せんとするイタリア海軍の戦いである。「イタリア水上艦隊最大の勝利」とも言える、パンテッレリーア沖海戦の栄光もこのマルタの攻防戦において行われた。イタリア海軍としては前年度以上に「勝利の年」と言えなくもないが、1942年後半になると燃料が遂に枯渇する事態となって艦隊が使用困難、そして北アフリカ戦線の崩壊によって結果的に制海権を奪われる事態となってしまった。

1940年(前々回)の記事はこちら↓

associazione.hatenablog.com

 1941年(前回)の記事はこちら↓

associazione.hatenablog.com

 イタリア海軍の「欠点」について↓

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◆1942年:中央地中海の激戦

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1942年の主要な海戦。敵泊地攻撃が行われた以外は中央地中海における戦いが基本となった。

地中海の戦局はイタリア側に傾いていたアレクサンドリア港攻撃で地中海における制海権を獲得したイタリア海軍は安定して補給物資をリビアに運び、陸軍はそれに伴い北アフリカで攻勢を進め、遂にエジプトへの再進撃を開始した。北アフリカ戦線・地中海戦線ともにイタリア側がイニシアチブを握りつつあったが、未だ地中海の要衝であるマルタが邪魔な存在であった。マルタが存在しうる限り、英軍の地中海における脅威は去らなかったからである。英海軍側もマルタの重要性を理解し、マルタを陥落させまいとして救援作戦を展開した。こうして、両艦隊は一つの島を巡り衝突した。

年が明けてから、イタリア主力艦隊は積極的に自軍側の船団護衛や、英船団妨害に度々出撃し、英海軍側を悩ませていた。年明けの1月3日には戦艦「リットリオ」を旗艦とし、戦艦4隻(「リットリオ」「チェーザレ」「ドーリア」「ドゥイリオ」)を含む大船団がリビアへの輸送を成功させた。3月までの間に最も頻繁に出撃した戦艦は「ドゥイリオ」で、1月22日には「ドゥイリオ」を旗艦とする船団がリビア輸送を成功させ、その後2月14日には軽巡2隻・駆逐艦7隻と共に英艦隊の船団妨害に出撃し、同月21日にもギリシャ方面からのターラントまでの船団護衛を行っている。

 

■3月22日:第二次シルテ湾海戦

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1942年3月22日:第二次シルテ湾海戦

制海権を獲得したイタリア海軍であったが、英海軍側はイタリア海軍側が燃料不足に陥っていることを見抜いてた。アレクサンドリアに使用できる戦艦が存在しない英海軍はジブラルタルからの支援艦隊を派遣した。3月20日に戦艦「マラヤ」、空母「アーガス」「イーグル」を含む戦隊がジブラルタルを出発し、包囲されたマルタへの補給に失敗し、翌日に作戦を中止して帰還した。そこで、対空能力と対潜能力が高い巡洋艦駆逐艦で構成された小艦隊による強行突破によるマルタ船団補給を計画した。こうして、3月21日に英海軍はアレクサンドリア港からマルタへの補給船団を出発させた。フィリップ・ヴァイアン提督が指揮するこの船団は軽巡クレオパトラ」を旗艦とし、軽巡5隻(「クレオパトラ」「ダイドー」「ペネロペ」「ユーライアラス」「カーライル」)と駆逐艦18隻輸送船4隻を護衛していた。

一方で、リビア隊司令官となったロンバルディ提督に代わって新たにSIS(海軍諜報部)長官に任命されたフランコ・マウジェリ(Franco Maugeri)提督は英艦隊側の行動を察知した。これを阻止するため、スーペルマリーナは主力艦隊の派遣を決定。「ヴィットリオ・ヴェネト」は前年末に潜水艦の雷撃を受けて修復中であったため、戦艦は「リットリオ」1隻のみであった。イアキーノ提督率いるこの主力艦隊は、戦艦「リットリオ」を旗艦とし、戦艦1隻(「リットリオ」)、重巡2隻(「ゴリツィア」「トレント」)、軽巡1隻(「バンデ・ネーレ」)、駆逐艦10隻で構成されていた。戦艦「リットリオ」を旗艦「リットリオ」と駆逐艦4隻はターラントから出港し、これにアンジェロ・パローナ提督(Angelo Parona)率いる残りの艦隊(第三巡洋戦隊)が合流した。パローナ提督は大西洋の戦いにおいて巧みな指揮によって多くの戦果を挙げた提督で、昨年のデュースブルク船団の海戦で解任されたブルーノ・ブリヴォネージ提督の後任として、第三巡洋戦隊の指揮を任せられていた。後任の大西洋艦隊司令官にはローモロ・ポラッキーニ提督(Romolo Polacchini)が任命され、大西洋の潜水艦作戦は全盛期を迎えた。

3月22日14時30分に両艦隊は衝突した。当時の中央地中海は悪天候で、両艦隊は嵐の中での戦いを余儀なくされた。しかし、この荒天は戦力が不利な英艦隊に有利に働いている。ヴァイアン提督はイタリア艦隊との遭遇後、「カーライル」と駆逐艦の半数に輸送船団の防衛を任せて、残りの戦力でイタリア艦隊の足止めを行った。英艦隊は煙幕を張ってそれに紛れて「カーライル」を中心とする輸送船団護衛部隊は南に航路を変更し、残りの艦隊はイタリア艦隊を引き付けるために行動を開始。両艦隊との激しい砲撃船と同時に、シチリアから出発した空軍部隊も英艦隊への攻撃を実行した。そのため、今までの海戦とは異なり、イタリア側にとっては海軍と空軍が上手く連携をとれた海戦とも言えるだろう(連携を取れるようになるまでが遅過ぎたが)。

英艦隊側は風上にいたため、不幸なことに煙幕は強風と共に全てイタリア側にやってきた。更に、英艦隊はレーダーを用いて煙幕の中からもイタリア艦隊を効率的に攻撃した。英艦隊が有利に戦況を展開したように思われたが、英艦隊側の魚雷を全てイタリア艦隊は回避し、イタリア艦隊側に損害はなかった。一方で、イタリア艦隊は煙幕と荒天によって視界不良の中での戦いを強いられたが、有利に戦局を進めていった。軽巡「バンデ・ネーレ」は主砲斉射で英海軍側の旗艦・軽巡クレオパトラ」の艦橋に直撃弾を食らわせ、「クレオパトラ」は大破、レーダーと無線通信が使用不可能となった

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イタリア戦艦「リットリオ」

この海戦で最も活躍したのは戦艦「リットリオ」であった。戦艦「リットリオ」の50口径381mm三連装砲の主砲斉射によって英艦隊側は大損害を被り、駆逐艦キングストン」が直撃弾によるダメージで撃沈され、駆逐艦「ライヴリー」も直撃弾を受けて大破したが、巧みなダメコンによって撃沈は免れた。軽巡「ユーライアラス」「ペネロペ」も「リットリオ」の砲撃で小破、また駆逐艦「リージョン」「サウスウォールド」も「リットリオ」の砲撃で大きな損害を受けたが、最終的に「リージョン」も空軍の攻撃で喪失、牽引しようとした「サウスウォールド」は機雷によって爆沈することとなった。これに加え、駆逐艦「シーク」「ズールー」も巡洋艦「ゴリツィア」と戦艦「リットリオ」の攻撃によって小破している。

煙幕と悪天候による視界不良の中でイタリア艦隊は不利な状況に置かれたが、英艦隊に対して一方的な勝利を挙げた。ヴァイアン提督は巧みな防衛戦術を展開したが、「リットリオ」の主砲斉射によって艦隊は多くの被害を受けることとなったのである。18時55分、イアキーノ提督は夜戦を避けるために戦闘を切り上げ、艦隊の追撃は空軍に任せてトブルクに撤退した。先述したように英船団は先に輸送船4隻を別行動をさせていたために、船団の防衛自体には成功したように思われたが、その後の空軍の追撃を受けて結局道中で輸送船「クラン・キャンベル」が撃沈され、生き残った3隻も物資を急いで運び出したが、全て港内で撃沈される事態となった。結局、輸送物資は80%以上が失われ、マルタ島に届いた物資は5000トンのみだった。そのため、この海戦は戦略的にも戦術的にも、イタリア艦隊側の勝利となったのである。

結果として、空軍の追撃を含めると英海軍側は駆逐艦3隻(「キングストン」「サウスウォールド」「リージョン」)・輸送船1隻が撃沈、軽巡クレオパトラ」及び駆逐艦「ライヴリー」大破、駆逐艦「ハヴォック」中破、軽巡2隻(「ユーライアラス」「ペネロペ」)及び駆逐艦2隻(「シーク」「ズールー」)小破、そして港内で輸送船3隻が撃沈されるという、悲惨極まる結果となった。一方のイタリア艦隊は無傷で海戦を終了するという一方的なワンゲームを繰り広げたのであったのである。気候条件によってイタリア艦隊は苦戦を強いられたが、大戦中において最もリットリオ級戦艦が活躍を見せた海戦と言えるだろう。結果として、英艦隊によるマルタ救援作戦は失敗し、マルタ島は連日の空爆によって更なる苦境に追い込まれた。

 

■6月15日:6月中旬の海戦

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1942年6月15日:6月中旬の海戦

第二次シルテ湾海戦で勝利を挙げたイタリア海軍であったが、戦局は有利である一方で、燃料問題がここにきて深刻になってきたため、燃料消費の関係から主力戦艦で行動可能なものは「リットリオ」と「ヴィットリオ・ヴェネト」の2隻のみとなり、「チェーザレ」「ドーリア」「ドゥイリオ」は出撃制限を受けることとなった(主力艦に使う燃料を駆逐艦や潜水艦などの出撃回数が多い小型艦に優先したため)。ドイツ側はイタリア海軍に安定した燃料補給を約束したが、地中海戦線を「第二戦線」と考えたドイツはイタリア海軍の約束を反故とし、東部戦線(対ソ戦)向けの燃料を優先した。このため、イタリア海軍側には僅かな量の燃料しか供給されず、結果としてイタリア海軍は行動を制限されて有利な状況を生かせなかったのである。

一方で、6月14日にはリットリオ級の三番艦である新鋭戦艦「ローマ」が竣工し、新たに就役した(姉妹艦「インペロ」が先に進水していることから、日本では「ローマ」が四番艦と呼ばれることもある)。これに伴い、イタリア海軍は戦艦6隻体制(「リットリオ」「ヴィットリオ・ヴェネト」「ローマ」「ドゥイリオ」「ドーリア」「チェーザレ」)となっていたが、先述した通り「ドゥイリオ」「ドーリア」「チェーザレ」は行動が制限され、「ローマ」は訓練が未完了であったため出撃準備が整わず、結局出撃可能な戦艦は「リットリオ」と「ヴィットリオ・ヴェネト」のみであった。年末の雷撃で大きな損害を受けた「ヴィットリオ・ヴェネト」であったが、プリエーゼ式水雷防御の効果もあり、損害を最小限に抑え、第二次シルテ湾海戦後に修復を完了して戦列に復帰した。なお、この6月までの地中海の戦いにおいて、イタリア海軍は戦艦1隻、巡洋艦10隻、駆逐艦29隻、水雷艇18隻、潜水艦44隻を失っている

さて、6月に入るとマルタへの空爆が一層強化された。北アフリカ戦線の輸送船団の強化もあって枢軸国側が有利になっており、順調に進軍を進めていた。マルタ島が事実上無力化されつつあったために、英海軍はマルタ島への救援船団を2方向から派遣することを決定した。一方はアレクサンドリアから出発した「ヴィガラス」船団で、もう一方はジブラルタルから出発した「ハープーン」船団である。無線通信傍受によって、スーペルマリーナはこの船団輸送を把握し、二方向から来る船団を妨害するために艦隊の派遣を決定。これにより、地中海戦線最大の大海戦が繰り広げられることとなった

「6月中旬の海戦(Battaglia di Mezzo Giugno)」はヴィガラス船団及びハープーン船団双方への戦いを総称したイタリア側での呼称だが、ここではヴィガラス船団とイタリア海軍の戦いのみについて書き、ハープーン船団との戦いは「パンテッレリーア沖海戦」として次の項で紹介する。スーペルマリーナはヴィガラス船団が本命の船団であり、ハープーン船団がオトリであると判断されたため、主力艦隊はヴィガラス船団妨害に差し向けられた。ヴィガラス船団はフィリップ・ヴァイアン提督が指揮し、旗艦・軽巡クレオパトラを始めとして、先のイタリア艦隊との戦いで損傷を受けた艦が多かったが、全て修復を終えて戦列に復帰していた。軽巡8隻(「クレオパトラ」「ダイドー」「ユーライアラス」「アレトゥーザ」「コヴェントリー」「ハーマイオニー」「ニューカッスル」「バーミンガム」)、駆逐艦26隻掃海艇9隻コルベット4隻輸送船11隻を護衛する、大船団であった。これに加え、既に武装が解除されて訓練艦として使われていた旧式戦艦センチュリオン」がキング・ジョージV世級戦艦「アンソン」に「偽装」されて対空砲が設置された。これは昨年のアレクサンドリア港攻撃の被害によって地中海艦隊に使用可能な戦艦が無かったためである。

一方で、イタリア艦隊はイアキーノ提督を司令官とし、戦艦「リットリオ」が旗艦を務めた。戦艦2隻(「リットリオ」「ヴィットリオ・ヴェネト」)、重巡2隻(「トレント」「ゴリツィア」)、軽巡2隻(「ガリバルディ」「ドゥーカ・ダオスタ」)、駆逐艦12隻で構成されていった。二度のシルテ湾海戦に続いて、イアキーノ提督vsヴァイアン提督という因縁の海戦となった。

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イタリア戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」

6月13日にアレクサンドリア港を出港した英艦隊はマルタに向かったが、出港直後すぐに艦隊は空軍の爆撃を受け、結果として1隻の輸送船が大破。速力を維持できないため、この輸送船はアレクサンドリア港への帰港を余儀なくされた。6月13日夜、英船団を嵐を受けたため掃海艇4隻をアレクサンドリア港に帰還させた。しかし、その内1隻が嵐で沈んだ。また、コルベット「エリカ」も機関に異常が出たため、マルサ・マトルーフ港に避難した。6月14日朝、再び空軍機による攻撃を受けたことにより、コルベットプリムラ」及び輸送船1隻が撃沈されている。同日午後、イアキーノ艦隊はターラントを出発し、英船団の迎撃に向かった。なお、この艦隊に所属したソルダーティ級駆逐艦「レジョナリオ」はこの戦いにおいてイタリア艦で初めてレーダーを実戦投入している。これに伴い、イタリア艦隊は不得意であった夜間戦闘において「レジョナリオ」は艦隊のサポートという重要な役割を担った

イタリア艦隊も出港直後から連合軍機に目を付けられていた。6月15日朝、マルタ島から襲来した英空軍雷撃機はイタリア巡洋艦隊を攻撃した。軽巡ガリバルディ」及び重巡「ゴリツィア」は魚雷を回避したが、トレント」は右舷に魚雷を受けて大破。航行不能となった「トレント」に対して、駆逐艦3隻(「ピガフェッタ」「サエッタ」「カミーチャ・ネーラ」)を救援に向かわせたが、トレント」は英潜水艦「ウンブラ」の雷撃によって撃沈されてしまった。「トレント」の雷撃を受けてヴァイアン提督はイタリア艦隊はこれ以上の損害を受けないために撤退するだろうと判断した(イアキーノと度々交戦していたヴァイアンは、イアキーノがマタパン岬の記憶によって慎重な行動を取ると看破していたため)。しかし、ヴァイアン提督の予想に反してイアキーノ提督は「トレント」撃沈後も、空襲を受けながらイタリア艦隊は英船団への進撃を続けた。これはまさにヴァイアンによって予想外であった。一方で、英艦隊も攻撃を受け、駆逐艦「ヘイスティ」が撃沈、英軽巡ニューカッスル」が大破する被害を受けている。

英艦隊と遭遇したイアキーノ提督は戦艦「アンソン」に偽装された「センチュリオン」に遭遇したが、これを偽装であると看破した。イタリア艦隊は「トレント」を失いつつも英船団への攻撃を続け英艦隊側は駆逐艦「エアデール」が撃沈、軽巡バーミンガム」及び輸送船2隻が中破した。駆逐艦ネスター」も大破し、駆逐艦「ジャベリン」が牽引を試みたが最終的に放棄されて撃沈された。ヴァイアン提督は今なお突撃を続けるイタリア艦隊の脅威と、ここまでに被った被害の多さ、そして燃料と弾薬の不足によって作戦を中止してアレクサンドリア港への反転を決定。これを受けて、イアキーノ艦隊は英船団による「ヴィガラス」作戦を完全な失敗に追い込むことに成功したのであった。帰還途中に「リットリオ」は英軍雷撃機からの攻撃を受けたが、プリエーゼ式水雷防御の効果もあり僅かな損傷を受けたのみであった。「リットリオ」はその後修復のためにドッグ入りし、8月27日に修復が完了した。英船団も帰還途中で潜水艦の雷撃を受け、軽巡ハーマイオニー」が撃沈している。

英海軍による「ヴィガラス」作戦は完全な失敗に終わり、英艦隊は多くの被害を受けた。英海軍は一連の海戦によって、軽巡ハーマイオニー」、駆逐艦3隻(「ヘイスティ」「ネスター」「エアデール」)、輸送船2隻、魚雷艇1隻が撃沈され、軽巡ニューカッスル」が大破、軽巡バーミンガム」及び輸送船2隻が中破する損害を被った上に、船団の到達にも失敗してアレクサンドリア港に帰還したのであった。対するイタリア艦隊の被害は重巡トレント」の撃沈と、戦艦「リットリオ」の小破であった。「トレント」の喪失は打撃であったが、船団襲撃の完全な成功によってその損失は補填されたといえるだろう。損害を受けながらも勇敢に進撃を続けて敵艦隊の船団輸送を完全失敗に追い込んだイアキーノは、この大勝利の立役者であった。マタパン岬の記憶から慎重な戦いを続けていた彼にとって、これは最大の勝利となったのである。また、空軍の活躍も目覚ましいもので、空軍と海軍の連携が上手くいった海戦とも言える。しかし、これはイアキーノ提督、そして主力艦隊にとって最後の海戦となってしまった。戦艦は燃料不足ゆえに出撃出来なくなってしまったからである。

 

■6月15日:パンテッレリーア沖海戦

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1942年6月15日:パンテッレリーア沖海戦

アレクサンドリアから派遣された「ヴィガラス船団」はイアキーノ提督率いるイタリア主力艦隊と空軍部隊の活躍によって完全に失敗に追い込まれた。一方で、英海軍はアレクサンドリアから「ヴィガラス船団」を出発させるのと同時に、ジブラルタルからも「ハープーン船団」を同時発進させてマルタ救援に向かわせた。スーペルマリーナは通信傍受によって完全にこの船団の出発の情報を把握していたが、「ヴィガラス船団」が本命であると判断して主力艦隊を差し向ける一方で、「ハープーン船団」にはオトリであるとして小規模の艦隊を差し向けた。しかし、新たに地中海に入った戦力によって護衛が強化されており、寧ろこっちが本命とも言える存在だった。

英海軍「ハープーン」船団はアルバン・カーティス(Alban Curteis)提督によって指揮されており、旗艦は軽巡ケニアであった。護衛艦隊は戦艦1隻(「マラヤ」)、空母2隻(「アーガス」「イーグル」)、軽巡4隻(「ケニア」「リヴァプール」「カリブディス」「カイロ」)、駆逐艦17隻、掃海艇4隻、魚雷艇6隻、敷設艦1隻、コルベット2隻という大艦隊であり、これが7隻の輸送船を護衛した。対するイタリア艦隊はアルベルト・ダ・ザーラ提督(Alberto Da Zara)が指揮しており、旗艦は軽巡「エウジェニオ・ディ・サヴォイアであった。ダ・ザーラ艦隊は軽巡2隻(「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」「モンテクッコリ」)と駆逐艦7隻で構成されており、主力戦艦2隻が存在することで優位に立っていたイアキーノ艦隊とは対照的に、こちらは伊英艦隊との間に圧倒的な戦力差があり、イタリア側が完全に不利な状態であった。

ダ・ザーラ提督は大戦前半には軽巡戦隊の指揮官として船団護衛や機雷敷設で活躍した後、対潜総監を務めて対潜戦の指導に努めた。対潜戦に経験が無かった彼であったが、驚くほどの手腕を発揮し、対潜水艦戦の訓練や兵器開発が行われ、大戦後期に開発された駆潜艇「VAS艇」や対潜能力が強化されたガッビアーノ級コルベットは彼の指導によって開発されたものであった。実際に彼の指導を受けた駆逐戦隊・水雷戦隊は対潜水艦作戦で高い戦果を挙げ、1942年4月14日にはイタリア水雷艇「ペガソ」は英海軍の撃沈数トップを誇る潜水艦「アップホルダー」を撃沈することに成功している。「アップホルダー」は船団の襲撃でイタリア側を大いに悩ませていた潜水艦であった。

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イタリア軽巡「エウジェニオ・ディ・サヴォイア

6月13日、カリャリ港からダ・ザーラ提督率いる第七巡洋戦隊が出発した。しかし、7隻の駆逐艦の内、駆逐艦「ジョベルティ」「ゼーノ」の2隻の機関が不調を起こし、2隻は速力を維持できないためにパレルモに寄港する事態となった。このため、2隻はパレルモに残り、戦隊は軽巡2隻・駆逐艦5隻の戦力となっている。一方で、ジブラルタルを出港した英船団はマルタに向けて航行中の6月14日早朝、イタリア潜水艦部隊からの攻撃を受けた。潜水艦「ウァルシエク」が雷撃したがこれは失敗。続いて潜水艦「ジャダ」が空母「イーグル」に魚雷3発を命中させているが、全て不発という不運に見舞われた。続いて、サルデーニャ島からイタリア空軍機が来襲し、船団を襲撃した。SM.79雷撃機の雷撃を受けた輸送船「タニンバー」が撃沈され、軽巡リヴァプール」は大破・航行不能となった。このため、「リヴァプール」は駆逐艦アンテロープ」に牽引され、ジブラルタルへ撤退している。

6月14日21時30分、スーペルマリーナの命令を受けて、ダ・ザーラ艦隊はパレルモからの再出撃を開始し、パンテッレリーア沖海域に向かった。駆逐艦2隻が港に残ったため、戦力は軽巡2隻・駆逐艦5隻であった。スーペルマリーナが傍受によって英船団の正確な位置を把握したことで、ダ・ザーラ艦隊は翌日6月15日の5時40分にパンテッレリーア沖にて英船団を発見、「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」及び「モンテクッコリ」による主砲斉射によって海戦が開始、両艦隊は衝突した。

護衛艦隊は船団を守るために煙幕を展開した。ダ・ザーラは速力の遅い駆逐艦「ヴィヴァルディ」及び「マロチェッロ」に別行動を取らせ、輸送船に対する攻撃を命令した。7時15分、駆逐艦「ヴィヴァルディ」「マロチェッロ」の主砲斉射によって、輸送船「オラリ」が直撃弾を受けて中破した。「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」及び「モンテクッコリ」も英護衛艦隊への砲撃を実行し、駆逐艦ベドウィン」は直撃弾を受けて大破、駆逐艦「パートリッジ」は中破した。「パートリッジ」は自らも大きな損害を受けながらも、「ベドウィン」を牽引して戦線の離脱を図った。駆逐艦隊を支援していた軽巡「カイロ」も「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」の主砲斉射を受け、艦首に被弾し中破している。しかし、駆逐艦隊は煙幕の中から「ヴィヴァルディ」「マロチェッロ」に対する反撃を行い、「ヴィヴァルディ」の甲板が炎上する事態となった。損傷を受けた「ヴィヴァルディ」を救援するため、駆逐艦「オリアーニ」「アスカリ」「プレムダ」が艦隊から切り離され、「マロチェッロ」と共に「ヴィヴァルディ」をパンテッレリーア島に牽引した。一方、この煙幕によって8時頃にはダ・ザーラ提督は英船団を見失うこととなり、これに関してダ・ザーラ提督も「何も言うことはない。流石は海の巨匠だよ」と感嘆したという。しかし、ダ・ザーラは英船団の航路から機雷原に向かっていると予測し、パンテッレリーア沖の機雷原に向かった

ダ・ザーラ艦隊の追撃を振り切った英船団であったが、次は10時頃にシチリアから襲来するイタリア空軍機の攻撃を受けることとなり、船団は大きな被害を受け、輸送船「チャント」が撃沈された。ダ・ザーラ艦隊は英船団を追撃に向かっている最中にマルタから飛来する英軍機の襲撃を受けたが、全て回避することに成功した。11時頃、中破した「ヴィヴァルディ」をパンテッレリーア島に護送した駆逐艦「オリアーニ」「アスカリ」が帰還し、艦隊に合流している。正午過ぎに予測通りに英船団を再度発見したダ・ザーラ艦隊はこれを攻撃し、輸送船「ブルドワーン」は軽巡「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」及び「モンテクッコリ」の砲撃で撃沈され、輸送船「ケンタッキー」は駆逐艦「オリアーニ」の雷撃で撃沈された。駆逐艦「パートリッジ」は「ベドウィン」の牽引を断念し、ベドウィン」はブスカーリア中尉が駆るSM.79雷撃機によってトドメを刺されて撃沈されている(既に午前中の戦闘で軽巡2隻の攻撃によって大破していた)。

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イタリア軽巡「モンテクッコリ」

軽巡「モンテクッコリ」は13km離れた距離から長距離射撃を行い、掃海艇「ヘーベ」に直撃弾を食らわせて大破させたが、ダ・ザーラ艦隊は弾薬不足のためにスーペルマリーナからの撤退命令が出され、14時20分にトラーパニへの帰還を決定した。なお、退避に成功した残りの船団も機雷原によって大損害を受け、自由ポーランド海軍の駆逐艦「クヤヴィアク」が撃沈し、駆逐艦「マッチレス」「バッズワース」と輸送船「オラリ」が大破する被害を被った。結果として、最終的にマルタに到達出来た輸送船は「トローイロス」と「オラリ」の2隻のみであった。しかし、「オラリ」は海戦による被害で貨物を失っていたため、事実上到着した輸送船は「トローイロス」1隻のみと言える。また、この輸送船2隻も直後の枢軸軍機による空襲によって港内で撃沈される事態となってしまった。

ダ・ザーラ提督は圧倒的に戦力に勝る英船団を相手に勇敢に戦い軽巡2隻と駆逐艦7隻(しかも海戦勃発前に2隻が離脱したため、事実上駆逐艦は5隻)という戦力で大勝利を挙げることに成功した。英艦隊は駆逐艦2隻(「ベドウィン」「クヤヴィアク」)と輸送船4隻を撃沈され、軽巡リヴァプール」、駆逐艦「マッチレス」「バッズワース」、掃海艇「ヘーベ」、輸送船1隻が大破軽巡「カイロ」及び駆逐艦「パートリッジ」が中破する大損害を被り、輸送船団も2隻しか到達出来なかった上に、1隻は海戦の損害で貨物を失い、もう1隻の貨物を補給できたが、結局2隻とも港内で撃沈されている。その一方で、イタリア側の被害は駆逐艦「ヴィヴァルディ」が中破したのみで留まった。ダ・ザーラ提督の巧みな指揮によって実現したこの勝利は、第二次世界大戦におけるイタリア水上艦隊の戦いで最大の勝利と言っても過言ではないだろう。しかし、この勝利を契機として、イタリア艦隊は燃料枯渇によって行動不能に追い込まれてしまう。大勝利の後に燃料枯渇で行動不能となるとは、なんとも皮肉である。

この「ヴィガラス」「ハープーン」両船団の粉砕による大勝利を受けて、イタリアの国営ステーファニ通信は次のように報道した。「今次の地中海における海空激戦は、英海軍が自称する海域の制海権に甚大な打撃を与えたものとして歴史に記憶されよう。英海軍は自らが被った無残な姿に対する国民の憤りを鎮めるため、我が艦隊の損害を大袈裟に宣伝して、自らの被害を隠すのに懸命だ。それにもかかわらず、海上に漂流する残骸や、我が国の救助隊が撃沈された艦船の乗組員を大勢助けた事実から判断して、敵の艦船が多数沈没したことは最早疑いようのない事実である」

イアキーノ提督率いる主力艦隊によってアレクサンドリア港を出発した「ヴィガラス」船団が完全に撃退され、ダ・ザーラ提督率いる巡洋戦隊によってジブラルタルを出港した「ハープーン」船団は僅かな物資しかマルタに届けることが出来ず、英海軍は両船団の派遣を完全に失敗し、マルタ島は完全なる包囲下に置かれて陥落も間近であった。そのため、ヴィットーリオ・トゥール提督率いるF.N.S.によってマルタ攻略作戦が計画されていたが、これは北アフリカ戦線の戦況が好転したことで中止となってしまう。6月29日、ムッソリーニが枢軸軍のマルサ・マトルーフ占領を受け、バスティコやカヴァッレーロが主張していたマルタ攻略を棚上げし、ロンメルが主張していたスエズ攻略を優先したためであった。用意周到に準備されたマルタ攻略作戦はこれによっておじゃんになってしまったが、これは後に明らかな戦略ミスだと明らかになるのである。

 

■7月13日:第二次ジブラルタル襲撃

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英戦艦「ネルソン」

ムッソリーニは伊軍参謀本部が主張するマルタ攻略を放棄し、エジプト征服という魅力に取りつかれてしまった。しかし、エジプトに進軍するロンメルであったが、結局のところ7月初めの段階でアレクサンドリアを目前とするエル・アラメインで足止めを食らった状態となった。ムッソリーニは結局、自らの選択に失望することとなった。しかし、それを気付く頃にはもう時は遅かったのである。

一方で、去年末のアレクサンドリア攻撃で大戦果を挙げた伊海軍「デチマ・マス」は、効率的にジブラルタルを襲撃するためにアルヘシラス港に停泊する工作母艦「オルテッラ」を母艦として作戦を開始するようになり、7月13日の第二次ジブラルタル襲撃では計4隻の輸送船を撃沈し、計5万4000トンの被害を連合軍は被った。更に、同年9月15日には第三次ジブラルタル襲撃が実行され、1隻の輸送船が撃沈されている。しかし、英主力艦隊(戦艦「ネルソン」及び空母「フォーミダブル」「フューリアス」他で編制)を狙った12月17日の襲撃作戦はライオネル・クラブ(Lionel Crabb)司令率いるジブラルタル守備隊の哨戒によって発見され、司令官のヴィシンティーニ中尉も戦死してしまった。

なお、この頃には黒海や極北のラドガ湖に派遣されたイタリア海軍の派遣艦隊が多くの戦果を挙げ、ソ連輸送船団やソ連艦艇への襲撃を実行している。特に知られているのは8月3日のケルチ南東沖海戦で、1隻のMAS艇が至近距離による雷撃でソ連重巡モロトフ」を大破させ、航行不能に追い込むという大戦果を挙げている。

 

■8月12日:8月中旬の海戦

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1942年8月12日:8月中旬の海戦

6月中旬の一連の大海戦の敗北によって英軍は細々とした空輸によってマルタの補給を繋いでいた。陥落寸前にまで追い込まれていたマルタであったが、枢軸軍の意識が北アフリカ戦線に移っており、マルタ攻略が放棄されたために首の皮一つで繋がっている状態であった。そんな中で英海軍は再度マルタへの大規模補給作戦を計画に移した。作戦名は「ペデスタル」で、同船団の護衛艦隊はネヴィル・サイフレット提督(Neville Syfret)の指揮に置かれた。旗艦は戦艦「ロドニー」で、戦艦2隻(「ロドニー」「ネルソン」)、空母4隻(「イーグル」「ヴィクトリアス」「フューリアス」「インドミタブルル」)、軽巡7隻(「シリアス」「フィービ」「カリブディス」「カイロ」「ナイジェリア」「マンチェスター」「ケニア」)、駆逐艦34隻潜水艦8隻掃海艇4隻コルベット4隻駆潜艇7隻という大艦隊であった。護衛対象の輸送船は13隻である。この船団輸送が失敗すればマルタの陥落は必須だったため、英海軍は船団の戦力を強化した。

一方のイタリア海軍は、戦艦「リットリオ」は先の戦いでの損害で修復中であり(8月27日に修復完了)、新造艦である戦艦「ローマ」は訓練中であり戦闘準備が整っていなかった(8月21日に戦闘準備完了)。そのため、出撃可能な戦艦は「ヴィットリオ・ヴェネト」のみであったが、こちらも燃料不足のために他の小型艦の出撃が優先されて出撃が許可されなかった。また、英船団の出発は把握していたが、船団の規模まではわかっておらず、スーペルマリーナは巡洋艦駆逐艦、潜水艦などの中型・小型艦艇による船団妨害を進めることとし、イアキーノ提督率いる主力艦隊ではなく、アンジェロ・パローナ提督率いる巡洋艦隊を派遣した。これはメッシーナ港を出発した第三巡洋戦隊(パローナ提督指揮、重巡3隻・駆逐艦7隻)と、カリャリを出発した第七巡洋戦隊(ダ・ザーラ提督指揮、軽巡3隻・駆逐艦4隻)が合流して形成され、これにアントニオ・レニャーニ提督(Antonio Legnani)率いる潜水艦隊18隻が加わった。これによって、戦力は重巡3隻(「ゴリツィア」「ボルツァーノ」「トリエステ」)、軽巡3隻(「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」「モンテクッコリ」「アッテンドーロ」)、駆逐艦11隻潜水艦18隻となった。この他、MS艇やMAS艇、空軍部隊が加わった。ドイツ軍部隊も加わったが、イタリア・ドイツ間の確執によって共同作戦は行われず、各々が独自の行動を取ったため全く連携を取れなかったことは問題であった。

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イタリア重巡「ゴリツィア」

サイフレット提督率いる英海軍の大船団は8月10日にジブラルタルを出港し、マルタに向けて出発した。8月11日、バレアレス諸島の南方沖にて、英空母「イーグル」が潜水艦の雷撃を受けて撃沈された。一方、駆逐艦ウルヴァリン」も反撃で潜水艦「ダガブール」を撃沈している。8月12日朝、サルデーニャから飛来した空軍部隊が船団を襲撃し、駆逐艦「フォアサイト」を撃沈、空母「インドミタブル」を大破させるなど、船団に損害を与えた。パローナ提督とダ・ザーラ提督はパンテッレリーア沖の海域に独自の判断で艦隊を出撃させたが、これはスーペルマリーナの命令とは別であり、スーペルマリーナが定める艦隊指揮官の裁量権を超えるものであった。夜間にはMS艇とMAS艇から構成されたイタリア魚雷艇部隊が英船団を襲撃し、軽巡マンチェスター」及び輸送船5隻(「ワイランギ」「グレノーチー」「アルメリア・ライクス」「サンタ・エリーザ」「ロチェスター・キャッスル」)を撃沈するという大戦果を挙げている。

潜水艦隊も船団襲撃で目覚ましい戦果を挙げた潜水艦「コバルト」が英駆逐艦「イシューリエル」の攻撃で撃沈されたが、潜水艦「アクスム」は雷撃で軽巡「カイロ」を撃沈させ、軽巡「ナイジェリア」が大破させた。大破して航行不能になった「ナイジェリア」は駆逐艦3隻の護衛によって牽引されてジブラルタルへ撤退した。更にタンカー「オハイオ」に致命的な攻撃を与え、後にこの時のダメージによって「オハイオ」は沈没した。潜水艦「ブロンツォ」は輸送船「クラン・ファーガソン」を撃沈潜水艦「アラジ」は軽巡ケニア」を大破させている。

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イタリア潜水艦「アクスム

英船団は一連の襲撃によって混乱状態に陥ったが、スーペルマリーナはパローナ提督に対して、英船団が遥かに戦力が勝っていることを指摘し、艦隊が活動範囲限度を超えたとして帰還を命じた。これを受けてパローナ提督率いるイタリア艦隊は帰還を決めたが、道中のメッシーナ海峡にて英潜水艦「アンブロークン」の雷撃を受けて重巡ボルツァーノ」及び軽巡「アッテンドーロ」が大破するという不幸な事態に陥った。ボルツァーノ」は沈没を防ぐためにパナレーア島の浜辺に座礁させ、「アッテンドーロ」は艦首を失う程の大損害を受けてしまったのである。巡洋艦隊は結局会敵前にスーペルマリーナの命令によって帰還する事態となったため、海戦によって戦果を挙げたのは潜水艦部隊とMS艇・MAS艇部隊、そして空軍部隊であった。

生き残った英船団はマルタに向けて航行を続けたが、翌日8月13日早朝にシチリアから飛来した空軍機の襲撃を受け、2隻の輸送船が撃沈された。結局、英艦隊はこの一連の海戦によって、空母「イーグル」、軽巡マンチェスター」「カイロ」、駆逐艦「フォアサイト」、輸送船9隻が撃沈され、空母「インドミタブル」、軽巡ケニア」「ナイジェリア」、駆逐艦3隻が大破する大損害を受けた。対して、イタリア海軍側の損害は潜水艦「コバルト」「ダガブール」が撃沈され、重巡ボルツァーノ」及び軽巡「アッテンドーロ」が大破する被害を受けた。この海戦後にムッソリーニは海戦においてイタリア艦隊と空軍が偉勲を立てたことを激賞し、「これまで海上支配を自惚れてきた英海軍を、僅か数カ月間に屈服させ、その威信を挫いたことにイタリア国民は大きな誇りを感ずるのである」と述べている。イタリア側にとって重要な戦術的な大勝利であったが、結局船団の完全な到達阻止は果たせず、その後船団は輸送船3隻をマルタに到着させ、マルタ島は息を吹き返すこととなったのであった。

6月中旬の海戦を終えた段階で陥落寸前にまで追い込まれていたマルタ島を放置し、エジプト侵攻に固執してしまったロンメルの判断と、それを支持したムッソリーニの決断は完全な誤りであったことが明らかとなった。カヴァッレーロ参謀総長、そしてリビア総督のバスティコ、ドイツ空軍のケッセルリンク兵站重視の観点からもマルタ島の攻略を主張し、実際に海軍を主戦力としてマルタ攻略が進められていたが、この誤りによって完全に頓挫し、8月中旬の海戦で英海軍が僅かな量と言えどもマルタに船団を到着させたことは、完全に地中海戦域の戦略失敗を意味すこととなったのである。

一方でイタリア艦隊は最早燃料が枯渇して出撃すら困難になっていき、陸軍もエル・アラメインの敗北によって北アフリカ戦線の崩壊を招くことになったのである。ロンメルの戦略ミスとムッソリーニの誤った決断によって招かれたマルタ攻略の失敗のツケは、地中海戦線の完全崩壊という形で代償を払うこととなったのである。だが、この海戦自体は明らかにイタリア側の戦術的勝利であることは認めなければならず、まだこの段階ではイタリア艦隊はリビアに船団を積極的に送ることが出来ていた(9月の段階でもイタリア船団の90%以上はリビアに無事到着しており、物資の補給も成功している)。先程も言及した通り、マルタ島の上陸作戦は実際に進められていた。当時のマルタ島の状況を見るに、仮にトゥール提督率いるF.N.S.による攻略作戦が実行されていれば、攻略出来た可能性は非常に高かったであろう(歴史にIFはないが)。

 

■9月13日:トブルク沖海戦

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1942年9月13日:トブルク沖海戦(ダフォディル作戦)

 先の8月中旬の海戦でマルタ島を何とか回復させた英軍であったが、全体として戦線において劣勢であるという事実は変わらなかった。そこで、英軍は軍全体の士気を回復するためにキレナイカの各イタリア軍陣地への夜間の同時的強襲作戦を計画した。これは4つの作戦で構成され、一つ目は「ダフォディル作戦」ことトブルク港強襲作戦二つ目は「スノードロップ作戦」ことベンガジ強襲作戦三つ目は「ヒヤシンス作戦」ことバルチェ強襲作戦四つ目は「チューリップ作戦」ことジャロ・オアシス強襲作戦で、これら4つを総称して「アグリーメント作戦」とした。すなわち、海上と陸上(砂漠)の双方からの同時攻撃によって進軍するイタリア・ドイツ軍の混乱を招く作戦だった。この大規模強襲作戦のそれぞれの詳細を説明すると、スノードロップ作戦」「ヒヤシンス作戦」「チューリップ作戦」は全て内陸の砂漠地帯を通って奇襲する陽動作戦であり、「ダフォディル作戦」のみが陸上及び海上からの同時奇襲攻撃であった。

対するキレナイカイタリア軍であったが、リビア陸上部隊リビア総督であるバスティコ元帥の指揮下にあり、リビアの港湾と艦隊はトブルク軍港に本部を移したリビア隊司令部の指揮下にあった(開戦時は本部はベンガジ軍港に置かれ、ベンガジ陥落後は一度トリポリに移り、エジプト侵攻後はトブルク軍港に本部が移された)。リビア艦隊の司令官は大戦前半にSIS(海軍諜報部)長官を務め、正確な情報収集と分析に務めたジュゼッペ・ロンバルディ(Giuseppe Lombardi)提督であった。彼は1941年の中盤に軽巡「ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」を旗艦とする第八巡洋戦隊の司令官に任命されて船団護衛に従事した後、北アフリカ戦線の戦局好転と共に1942年にリビア隊司令官に任命され、トブルク軍港に赴任していた。

リビア植民地の軍港設備は総じて未発達であり、更に連合国との攻防戦による損害もかなり多かった。それもあり、リビア艦隊の本部が置かれているトブルク軍港にも艦隊戦力は不足している状態であった。英軍のトブルク軍港襲撃時にトブルク軍港に展開していた艦隊は水雷艇3隻(「カストーレ」「カシーノ」「モンタナーリ」)、哨戒艇・揚陸艇7隻MAS艇複数という実に小規模な艦隊のみであった。そして、海軍の「サン・マルコ」海兵と、カラビニエーリやリビア人兵士を含む陸軍部隊、基地防空を担う空軍部隊が港湾の防衛に従事していた。この小規模な艦隊と守備隊をリビア隊司令官のロンバルディ提督が指揮することとなった

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イタリア水雷艇「カストーレ」

英軍側の作戦はジョン・エドワード・ハーセルデン中佐(John Edward Haselden)によって考案・計画され、英海軍地中海艦隊のヘンリー・ハーウッド提督(Henry Harwood)はこの特殊作戦を許可した。陸軍・海軍から成るA~Eの5つの戦隊に分けられ、これに空軍部隊が加わったA戦隊はハイファ港から出発した海軍部隊で、駆逐艦「シーク」及び「ズールー」で構成され、2隻の駆逐艦はイタリア海軍の駆逐艦迷彩を使ってイタリア艦に見せかけて偽装した。この2隻に約400名の海兵隊員が乗り込み、上陸作戦を担ったB戦隊は内陸のクフラ(自由フランス軍に制圧されたキレナイカ南部の拠点)から出発した陸軍部隊で、ドイツ軍部隊に偽装して港湾への侵入を試みた。C戦隊はアレクサンドリア港から出発した海軍部隊で、18隻のMTB魚雷艇で構成された。これに陸軍の機関銃部隊と対空砲部隊が乗り込み、A戦隊とは別の上陸作戦を担ったD戦隊はアレクサンドリア港から派遣された海軍部隊で、軽巡「コヴェントリー」を旗艦として、軽巡1隻・駆逐艦4隻で構成された。これは上陸艦隊の支援と戦隊の防衛を担っていた。更にE戦隊は潜水艦「タク」による上陸支援ビーコンの設置を担当した。

これらの作戦はトブルク軍港を攻略する本命の「ダフォディル作戦」で、先述した通り、これと同時攻撃として他に3つの陽動作戦が同時進行させた。後述するが、陽動はいずれも伊軍側の反応で失敗している。9月13日の夜20時30分、英空軍部隊がトブルク軍港を空襲した。この混乱の隙に20時45分、クフラから北上したB戦隊がドイツ軍部隊に偽装することで軍港内部に容易く潜入することに成功。B戦隊は野戦病院を襲撃してドイツ軍負傷兵を殺害した後、沿岸砲台の制圧を試みるためにイタリア軍守備隊と交戦状態に入った。B戦隊の不意打ちに対して伊軍守備隊は応戦し、手榴弾で撃退した。

9月14日午前0時、A戦隊とC戦隊の上陸部隊による攻撃をイタリア側は認識し、ロンバルディ提督はこれの迎撃と港湾の防衛を命令。E戦隊の潜水艦「タク」は海が荒れていたために上陸支援ビーコンの設置に失敗し、B戦隊とのコンタクトも取れなかった。B戦隊の失敗によってイタリア軍守備隊は強化され、イタリアの哨戒艇「Mz 733」がC戦隊を発見。0時30分、今度はイタリア哨戒艇「Mz 756」がC戦隊の分隊を発見し、2隻の哨戒艇は分散したC戦隊を追撃する。B戦隊はイタリア軍守備隊との交戦のためC戦隊との連絡が取れず、結果としてC戦隊の上陸の前にA戦隊の上陸を命令した。しかし、海岸での戦闘によって指揮官であるハーセルデン中佐はヘッドショットを受けて戦死。作戦は混乱を極めた。3時頃、展開する英海軍上陸部隊を発見したリビア艦隊の水雷艇「カシーノ」「カストーレ」「モンタナーリ」の3隻は上陸部隊を迎撃し、魚雷艇揚陸艦の数々を撃沈している。

英空軍の爆撃は3時40分に終了し、4時30分にA戦隊の駆逐艦「シーク」及び「ズールー」は、潜水艦「タク」が設置する予定だった上陸支援ビーコンが無いため、計画とは異なるトブルク西側の海岸にて海兵隊部隊を上陸させてしまった。海軍の「サン・マルコ」海兵とカラビニエーリは上陸部隊を発見してこれを攻撃、揚陸艇が次々と撃沈される事態となった。結果として上陸出来たのは150人に過ぎず、それらも降伏を余儀なくされた駆逐艦「シーク」及び「ズールー」は港からの探照灯に照らされて沿岸砲台の攻撃を受けた。また、イタリア軍守備隊は8.8cm高射砲(所謂アハト・アハト)を「シーク」に向けて発射し、「シーク」の機関室に命中航行不能に陥った「シーク」は続けて砲弾を受けて大破した。

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駆逐艦「ズールー」

これを受けて駆逐艦「ズールー」は「シーク」援護のために煙幕を展開し、大破して航行不能となった「シーク」を牽引、「ズールー」は自らも被弾しながらも海域の離脱を試みた。上陸部隊は完全に混乱に陥り、イタリア軍部隊の奮戦を受けて多くは戦死、もしくは捕虜となった。夜明け頃には完全に英軍の上陸作戦は失敗し、上陸していない残存部隊は撤退を始めた。5時30分、ロンバルディ提督は水雷艇「カストーレ」「カシーノ」「モンタナーリ」に対して残存部隊の追撃を命令する。そして、イタリア空軍部隊も残存部隊の追撃に参加し(マッキ MC.200の戦闘爆撃機型が敵艦隊に多くの損害を与えた)、散り散りになった英海軍上陸艦隊は次々と撃沈されていった。結局、「ズールー」「シーク」、そして軽巡「コヴェントリー」は艦隊と空軍の追撃で撃沈され、アレクサンドリア港まで帰還できた部隊は僅かであった。

朝7時にはロンバルディ提督は本部に撃退の完了を連絡した。結局、英軍側の「ダフォディル作戦」は完全な失敗に終わることとなり、軽巡「コヴェントリー」及び駆逐艦2隻(「ズールー」「シーク」)、魚雷艇6隻、揚陸艦他多数の艦艇を撃沈され、その他殆どの艦艇が損害を受けるという大敗北となった。上陸部隊に関しては戦死は779名、捕虜576名という被害であった。一方のイタリア軍側はロンバルディ提督による巧みな防衛指揮によってこれだけの大勝利を挙げておきながらも、損害を戦死16名(イタリア兵15名、ドイツ兵1名)、負傷50名(イタリア兵43名、ドイツ兵7名)に抑えることに成功したのである。自軍側は少ない損害で抑え、敵軍側に大損害を与えたロンバルディ提督の指揮は高く評価され、サヴォイア軍事勲章を叙勲された。ここまで一方的な勝利は、イタリア海軍の歴史の中でも珍しく、それも相手はかの強大な英軍であった。ロンバルディ提督の手腕とトブルク軍港守備隊の勇敢さは評価されるべきであろう。

さて、英軍部隊はトブルク軍港を夜間強襲する「ダフォディル作戦」の他に、キレナイカの各拠点を襲撃する陽動作戦を同時に行っていたが、結果として全て完全に失敗した。ベンガジへの強襲作戦である「スノードロップ作戦」は英軍部隊が悪路のために夜明けまでに到達出来ずに夜間奇襲に失敗、任務を中止して撤退したがイタリア空軍部隊に発見され、対地攻撃を受けて約半数の車輛が破壊、10名の兵士が戦死した。バルチェへの強襲作戦「ヒヤシンス作戦」及びジャロ・オアシス攻略を目的とした「チューリップ作戦」もイタリア軍側の反撃によって撤退し、一連の作戦は英軍の敗北に終わった。

英軍側による大規模な特殊作戦を完全に失敗に追い込んだイタリア軍であったが、一方で全体における戦況はじわじわと悪くなっていた。エル・アラメインを巡る戦いでは英軍の猛撃によってロンメルは進軍を中止せざるを得ず、更にマルタから飛来した英空軍の襲撃によって重要なタンカー船団が撃沈され、北アフリカ戦線の兵站に大きな影響を与えた。ここにきて、マルタ攻略を事実上放棄したことが仇となり、枢軸軍にとって補給路を断たれたことで戦局は急速に悪化していった。艦隊が燃料枯渇によって行動が制限される一方で、陸軍の戦局悪化に伴い、英海軍は地中海における制海権を急速に回復させていった。それに伴い、リビア船団は損失率が徐々に多くなり、北アフリカの戦況は日に日に悪化していったのである。今更マルタ攻略放棄を後悔した枢軸軍であったが、艦隊を出撃出来ないために有効な対策を取れず、結局マルタへの空爆を強化する以外になすすべはなかったのである。

 

■9月15日:第三次ジブラルタル襲撃

先述した通り、9月15日には第三次ジブラルタル襲撃が実行され、工作艦「オルテッラ」から発進したSLC人間魚雷部隊が1隻の輸送船を撃沈している。

 

■11月11日:コルシカ島制圧戦

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1942年11月11日:コルシカ島制圧戦

10月後半から11月初旬に掛けて第二次エル・アラメインの戦いが行われた。この大激戦でイタリア軍部隊は物資困窮の中で奮戦してみせたが、英軍は大きな損害を被った一方でイタリア・ドイツ軍の防衛線を突破した。エル・アラメインの大敗は北アフリカ戦線に決定的な崩壊を齎した。こうして、エル・アラメインは英軍によって奪還され、11月5日に英軍は撤退する枢軸軍の追撃を開始し、まもなくフーカが陥落、7日にはマルサ・マトルーフも英軍によって奪還させる事態となり、枢軸軍はエジプトから追いやられていった

エジプトでの撤退が続いている最中、アフリカ北西部においても急速に戦局が展開した。11月8日にアメリカ軍・英軍を中心とする連合軍部隊がヴィシー・フランス領北アフリカへの上陸作戦「トーチ」を発動し、ヴィシー・フランス海軍の戦艦「ジャン・バール」などが抵抗するが、勢いに勝る連合軍によって圧倒されていた。これを察知したムッソリーニは速やかにヴィシー・フランス支配下である南フランスとコルシカ島の制圧作戦を決定した。一方で10日には仏領北アフリカの司令官であるフランソワ・ダルラン海軍元帥(François Darlan)が連合国側と停戦を結んだ。これを受け、イタリア軍はドイツ軍と共にチュニジアへ遠征軍を派遣することとなり、これはリノ・コルソ・フージェ空軍参謀長(Rino Corso Fougier)率いる空挺部隊が担当した。空軍部隊は上陸部隊の妨害のために新鋭四発爆撃機のピアッジオP.108B爆撃機を含む部隊を送り込んだが、物量に勝る連合軍部隊を止めることは出来なかった。

南フランスへの進軍はマリオ・ヴェルチェッリーノ将軍(Mario Vercellino)率いる陸軍が担当した。これに伴い、ヴィシー・フランス領はイタリア軍とドイツ軍に分割統治された。なお、この際にドイツ軍はフランス艦隊の拿捕を狙ったが、その殆どがトゥーロンでドイツ軍に拿捕される前に自沈を選択した(トゥーロン港の自沈)。自沈を免れたフランス艦をイタリア海軍は接収しており、駆逐艦5隻と潜水艦8隻などを入手している。一方で、ヴィシー・フランスの支配下となっていたコルシカ島の制圧戦は、中止となったマルタ攻略を任されていたヴィットーリオ・トゥール提督率いるF.N.S.がその攻略を担うこととなった11月11日にトゥール提督率いるF.N.S.及び陸軍上陸部隊はコルシカ島の4つの重要な港湾(バスティアアジャクシオ、ボニファシオ、ポルトヴェッキオ)を同時攻撃し、これを制圧、上陸に成功して同島を制圧した。ヴィシー・フランスのコルシカ島守備隊は13日にまでに完全降伏している。

結果として、イタリア軍コルシカ島を占領下に置いた。しかし、既に北アフリカ戦線は崩壊状態に陥っており、11月9日にはシディ・バッラーニ、11月11日にはハルファヤが奪還され、枢軸軍はエジプトから完全撤退していた。そしてフランス領北アフリカチュニジアを除き連合軍の手に落ちていた。スーペルマリーナはこの事態を受けて攻撃から守るためにリットリオ級戦艦3隻(「リットリオ」「ヴィットリオ・ヴェネト」「ローマ」)をターラント軍港からナポリ軍港に移動した。制海権も制空権も一気に失ってしまったイタリア艦隊は、最早細々とした船団を北アフリカに送ることしか出来なくなってしまったのである。

 

■12月2日:スケルキ海峡海戦

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1942年12月2日:スケルキ海峡海戦

戦局は日に日に悪化していき、イタリア軍は英軍によるリビア逆侵攻を受けていた制海権と制空権を完全に奪われた状態でもイタリア海軍は北アフリカへの輸送船団を派遣し続けた。大型艦の運用が事実上不可能となったイタリア海軍は駆逐艦水雷艇といった小型艦艇による船団護衛を展開していたが、アルド・コッキア大佐(Aldo Cocchia)はそういった船団護衛の指揮官の一人で、英空軍の激しい攻撃や潜水艦隊の襲撃を回避し、数々の船団を北アフリカに送り届けることに成功していた。陸軍部隊はそういった海軍の船団輸送に支えられて劣勢の中で戦っていたが、そういった成功は常に続くものではなかった。

アルド・コッキア大佐はナヴィガトーリ級駆逐艦「ニコローゾ・ダ・レッコ」を旗艦とする第十六駆逐戦隊の司令官であった。第十六駆逐戦隊は制海権が失われた中央地中海において幾度も船団護衛を行い、イタリアやギリシャ方面から多くの物資を北アフリカに送り届けた12月1の夜間にコッキア大佐率いる第十六駆逐戦隊は4隻の輸送船を護衛し、チュニジアに向けて出発した。この護衛船団は駆逐艦「ダ・レッコ」を旗艦とし、駆逐艦3隻(「ダ・レッコ」「フォルゴレ」「カミーチャ・ネーラ」)、水雷艇2隻(「プロチョーネ」「クリオ」)の計5隻で構成されていた。航空偵察によってイタリア側はアルジェリア・アンナバ港を出発した英海軍部隊を発見した。この英海軍部隊は軽巡「オーロラ」を旗艦とし、軽巡3隻(「オーロラ」「シリウス」「アルゴノート」)と駆逐艦2隻(「キベロン」「クエンティン」)で構成されていた。この英海軍部隊はコッキア大佐率いるイタリア船団の妨害に出発した。

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イタリア駆逐艦「ダ・レッコ」

両艦隊はシチリアチュニジア間に位置する「スケルキ・バンク」と呼ばれる海域で衝突した。ここは古代から多くの船が難破する難所として知られており、イタリア空軍基地が近いために連合軍艦船は度々この場所で爆撃を受けて多数が撃沈されていたために「連合軍船団の墓場」としても知られていた。しかし、この時は既に制海権を奪われ、燃料も不足するイタリア空軍部隊は効果的に出動することは出来なかった。翌日の12月2日の深夜0時37分に英艦隊は第十六駆逐戦隊を発見し、攻撃を開始。海戦は開始した

コッキア大佐は船団の防衛のために迫りくる英艦隊への反撃を命令。しかし、大きな戦力差がある上に、不利な夜間戦闘が強いられていた。イタリア海軍では既に国産の「グーフォ」レーダーの量産が行われており、「リットリオ」級戦艦やカピターニ・ロマーニ級軽巡などいくつかの艦船に搭載されていたが、第十六駆逐戦隊に所属する艦艇にはレーダーは搭載されていなかった。一方で、当然の如く英艦隊はレーダーを完備しており、海戦開始時点で既に絶望的な状況となっていた。旗艦「ダ・レッコ」他第十六駆逐戦隊所属の全艦艇は英艦隊に向けて魚雷を一斉に発射した。しかし、イタリア艦隊の位置を完全に把握していた英艦隊はこれを全て回避することに成功している。「ダ・レッコ」は勇敢にも英艦隊に接近し視界不良の中で攻撃を行うが、逆に集中砲火を受けて中破、コッキア大佐も重度の火傷を負い、一時的に失明する事態となった。英艦隊の砲撃によって駆逐艦「フォルゴレ」は撃沈、「カミーチャ・ネーラ」も中破。海戦は英海軍側の一方的な勝利で終了している。英軍側の被害は空軍の追撃で駆逐艦「クエンティン」が撃沈されたのみであった。こうして、1942年最後の地中海における水上艦隊同士の衝突は、イタリア側の敗北に終わった。

 

■12月11日:アルジェ港襲撃

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1942年12月11日:アルジェ港襲撃

連合軍の北西アフリカ進出に伴い、イタリア潜水艦隊は西部地中海における襲撃を強化。多くの戦果を挙げていた一方で、急速に対潜能力を向上させた連合軍側の攻撃で多くの損害を受けることとなった。これによってイタリア大西洋艦隊の潜水艦作戦も限界が見え始めていたが、中には喜望峰を超えてインド洋にまで進出して通商破壊を実行する潜水艦も存在していた。一方で、「デチマ・マス」は昨年のアレクサンドリア港の襲撃以降も地中海において数々の破壊作戦を実行していた。先述した第二次・第三次ジブラルタル襲撃の他に、8月10日にはブルーノ・ゼリク(Bruno Zelik)少佐が艦長を務める潜水艦「シィレー」がハイファ港の襲撃を行ったが、英海軍側に捕捉されて撃沈されていた(「シィレー」の残骸は戦後に回収され、現在はローマのヴィットリアーノ内の博物館に展示されている)。8月29日にはエジプトのエル・ダバ沖にて「デチマ・マス」所属の高速魚雷艇MTSM艇が英駆逐艦「エリッジ」を雷撃で撃沈している。

「デチマ・マス」は仏領北アフリカ制圧後、チュニジア制圧のために集結した連合軍艦隊への打撃を目論んだ作戦はマリオ・アリッロ(Mario Arillo)大尉が艦長を務める潜水艦「アンブラ」によって実行された。アリッロ大尉は「アンブラ」艦長として地中海で数々の戦果を挙げたエースで、1941年3月31日にはエジプト沖にて英軽巡「ボナヴェンチャー」を撃沈することに成功し、1942年5月14日にはアレクサンドリア港を攻撃して英海軍の乾ドッグを撃沈した。これらの戦果を挙げていたアリッロ大尉に対して、ボルゲーゼ司令は次なる攻撃を命令した。次なる攻撃目標は連合軍に制圧され、数多くの連合軍艦船・輸送船がひしめくアルジェ港であった。

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イタリア潜水艦「アンブラ」

12月4日、アリッロ大尉率いる潜水艦「アンブラ」はラ・スペツィアを出発した。攻撃部隊はSLC人間魚雷「マイアーレ」3隻を駆る計6名の乗員と、計10名のガンマ潜水部隊の混成チームであった。しかし、作戦に向かった「アンブラ」は悪天候により作戦決行を1日送らせて行わざるを得なくなった。偶然にもアレクサンドリア港襲撃時と同じ状況である。12月10日夕方に港外で偵察を行った後、翌日12月11日17時頃に哨戒網を突破して「アンブラ」はアルジェ港内に潜入した。21時45分、目標となる大型輸送船数隻を確認し、22時20分にまずガンマ潜水部隊が、23時から3隻のSLC人間魚雷「マイアーレ」が「アンブラ」から出発した。

潜入した混成チームは輸送船4隻に時限爆弾を設置。その後、警戒態勢によって潜水部隊を発見したアメリカ海軍の哨戒艇によって全員が捕虜となったが、12月12日朝5時に爆弾が炸裂し、輸送船「オーシャン・ヴァンクィッシャー」(7174t)、輸送船「ベルト」(1493t)、輸送船「エンパイア・ケンタウル」(7041t)、輸送船「ハルマッタン」(4558t)の計4隻が撃沈されたのであった。港が攻撃によって厳重警戒になった後もアリッロ大尉の「アンブラ」は混成チームのランデブーポイントに待機していたが、結局全員捕虜となって母艦に帰還することが出来なかったため、19時45分に港を脱出してラ・スペツィアに無事帰還したのであった。

アルジェ港攻撃はアレクサンドリア港、ジブラルタル港、スダ湾、そして1943年のトルコ港湾における一連の破壊作戦と並ぶ、「デチマ・マス」による大成功の一つであった。アルジェ港の襲撃は連合軍側に大打撃を与えたが、物量に勝る連合軍側の勢いを止めることは最早出来なかった。このアルジェ港攻撃は1942年最後の、イタリア海軍による大規模作戦となったのであったのである。

 

1942年の海戦は前半はマルタを巡る一連の海戦でイタリア海軍水上艦隊にとっての大勝利を得たが、後半からは燃料枯渇による艦隊の行動制限、そして北アフリカ戦線の悪化によって急速に戦局が展開し、最終的に制海権を完全に奪われる形となってしまった。イタリア海軍の戦いはよく1942年までで終了するケースが多いが、1943年以降も小艦隊が中心となり絶望的な戦況下で勇敢な戦いを続けたのである。次回は、そういった絶望の中の戦いを紹介しよう。

次回(休戦までの1943年の海戦)はこちら↓

associazione.hatenablog.com

 

 

■主要参考文献
Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori
B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori
Pier Paolo Battistelli/Piero Crociani著 "Reparti d'élite e forze speciali della marina e dell'aeronautica militare italiana 1940-45", 2013, LEG Edizioni
Giorgio Giorgerini著 "Uomini sul fondo", 2002, Mondadori
Aldo Cocchia著 "Convogli -Un marinaio in guerra 1940-1942", 2004, Mursia
吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939-1945』, 2006, イカロス出版
吉川和篤著『Viva! 知られざるイタリア軍』.2012, イカロス出版

地中海におけるイタリア海軍の熾烈な戦い ―1941年の海戦:エーゲ海の激戦、そして"勝利の年"―

前回の続きで、今回は1941年の地中海の海戦を扱う。前年末に海軍首脳部が大改造され、リッカルディ提督率いる新指導部のもとで新たな戦いが始まった(前年度の戦いは下記リンクより過去記事を参照してください)。1941年はイタリア海軍の戦いを象徴するような戦いも多く、調べていても中々面白いだろう。一進一退の戦いを繰り広げていた伊英海軍であったが、1941年末には英海軍側は地中海戦線のイニシヤチブをイタリア海軍に奪われ、まさに英海軍にとっては悲劇の年になった。

1941年の海戦はざっくり言うと、前半は陸軍のギリシャ戦線に伴い、エーゲ海で激戦が繰り広げられ後半は北アフリカ戦線の熱が高まるにつれて「船団の戦い」が本格化し、戦場が中央地中海に移る。1941年の著名な戦いと言えば、何と言ってもマタパン岬の大敗と、アレクサンドリア港攻撃の成功だろう。前者はイタリア海軍の「欠点」を集めたような戦い、後者はイタリア海軍の真骨頂ともいえる戦いだ。勿論それだけでなく、イタリア海軍が勝利を収めた戦いも多い。

前回の記事はこちら↓

associazione.hatenablog.com

 前々回の記事はこちら↓

associazione.hatenablog.com

 

 ◆1941年:舞台はエーゲ海

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1940年の地中海の主要な海戦。前半は主にエーゲ海方面、後半は中央地中海が戦場となった。

前年度末の1940年12月8日に海軍指導部の大改造によって、海軍参謀長はアルトゥーロ・リッカルディ(Arturo Riccardi)提督、海軍参謀次長には前第一艦隊司令官のイニーゴ・カンピオーニ(Inigo Campioni)提督、そして第一艦隊と第二艦隊を合併した主力艦隊司令官にはアンジェロ・イアキーノ(Angelo Iachino)提督が就任した。

新参謀長であるリッカルディ提督は隊司令官の裁量権を増やし、臨機応変な戦い方を可能にした一方で、「艦隊の損失を防ぐために明確に数的有利な状況でなければ敵艦隊との交戦を回避するように」という命令を発した。一方で、今まで順調だった陸軍の戦況も、セバスティアーノ・ヴィスコンティ・プラスカ(Sebastiano Visconti Prasca)将軍による無策なギリシャ攻勢の失敗と、アフリカ戦線における英軍の反攻作戦によって崩れつつあった。イタリア軍部は北アフリカ戦線よりもギリシャ戦線を重視したため、海軍の行動もそれに影響を受けた。これにより、戦場はエーゲ海方面へと移った

 

■1月31日:カソス海峡海戦

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1941年1月31日:カソス海峡海戦

1940年6月のイタリア参戦時、ルイージ・ビアンケーリ(Luigi Biancheri)提督率いるイタリア海軍エーゲ海方面艦隊の戦力は、非常に限られたものであった。駆逐艦2隻(「フランチェスコ・クリスピ」「クィンティーノ・セッラ」)、水雷艇4隻(「ルーポ」「リブラ」「リンチェ」「リブラ」)、MAS艇5隻、潜水艦8隻(「スクァーロ」「デルフィーノ」「トリケーコ」「ナルヴァーロ」「アメジスタ」「ザッフィーロ」「イアレア」「イアンティーナ」)、機雷敷設艦2隻(「レニャーノ」「レーロ」)、砲艦3隻(「チェレーレ」「カボト」「ソンツィーニ」)で構成されていた。

明らかな戦力不足であったが、エーゲ海艦隊は東地中海を勢力圏とする英海軍やギリシャにとって脅威となっていた。ギリシャ海軍は中小国の中では強い海軍力を持っていたが、イタリア艦隊を恐れて潜水艦を除いて殆ど出撃しなかった(結果として航空攻撃で撃沈される艦艇が多くを占めていた)。そのため、エーゲ海艦隊の主要敵はギリシャ海軍ではなく、ギリシャを支援する英海軍となった。英軍によるギリシャ支援船団は、ギリシャ侵攻中のイタリア軍にとって邪魔以外の何物でもなかったのである。年明けに戦場が東地中海に移動することによって、エーゲ海艦隊の行動も活発化した。

ビアンケーリ提督は水雷艇「ルーポ」及び「リブラ」をカソス海峡に派遣し、対潜水艦哨戒を行わせていた。この2隻の旧式水雷艇戦隊の司令官はフランチェスコ・ミンベッリ(Francesco Mimbelli)少佐で、彼は後に第二次世界大戦時のイタリア海軍の指揮官の中でも特に優れた人物の一人として名を挙げている。彼の最初の活躍が、この「カソス海峡海戦」であった。一方、英海軍はギリシャ支援船団「AN14」をギリシャに向けて派遣した。これは計10隻の輸送船で構成され、この輸送船団を軽巡カルカッタ」を旗艦とし、軽巡3隻(「カルカッタ」「エイジャックス」「パース」)、駆逐艦2隻コルベット2隻から成る艦隊で護衛していた。この英船団はハーバート・アネスリー・パッカー提督(Herbert Annesley Packer)が指揮した。

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イタリア水雷艇「ルーポ」

輸送船団の大部分は1月28日からエジプトのポートサイードから出港し、軽巡カルカッタ」及びコルベット「ピオニー」、輸送船2隻は1月29日アレクサンドリアから出港、そこから少し遅れてギリシャ派遣英軍部隊の兵員輸送船と駆逐艦「ヘイスティ」がアレクサンドリア港から出港、これに合流した。一方、ミンベッリ少佐が指揮するイタリア水雷戦隊は1月31日レーロ基地を出発し、カソス海峡に向かった。

同日夕方、カソス海峡にてイタリア水雷戦隊は英船団を発見した。ミンベッリ少佐は「ルーポ」と「リブラ」を二手に分け、「リブラ」が英船団の注意をひいている隙に、「ルーポ」が船団への雷撃を行うこととした。これは見事に成功し、「ルーポ」は雷撃を行い、魚雷二発が輸送船団のタンカー「デスモーレア」に命中「デスモーレア」は爆沈した。一方で、「リブラ」も英巡洋艦隊に対して雷撃を行ったが、これは回避されてしまった。攻撃の後、「ルーポ」と「リブラ」は英艦隊の追撃を振り切り離脱。無傷でレーロ基地への帰港を成功させたのであった。

この海戦においてイタリア側はミンベッリ少佐の巧みな指揮により、旧式の水雷艇2隻のみで、物量も戦力も格上の巡洋艦隊が護送する船団の攻撃に成功し、一方的な勝利を無傷で手に入れたのである。エーゲ海方面の海軍作戦の幸先の良いスタートとなった。

 

■2月27日-28日:カステルロッソ島奪還戦

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2月27日-28日:カステルロッソ島奪還戦

カソス海峡海戦後、今度はイタリア潜水艦隊がエーゲ海で輸送船団を攻撃し、戦果を挙げていた。また、空軍の輸送船団攻撃も強化され、特にカルロ・エマヌエーレ・ブスカーリア(Carlo Emanuele Buscaglia)を始めとする雷撃機乗りや、ジュゼッペ・チェンニ(Giuseppe Cenni)やフェルナンド・マルヴェッツィ(Fernando Marvezzi)といった急降下爆撃機乗りが数多くの戦果を挙げていった。エットレ・ムーティ(Ettore Muti)率いる爆撃機部隊もローディ島を拠点としてキプロスパレスチナといった東地中海の英軍拠点への爆撃を度々敢行し(特にハイファの石油精製所への爆撃は脅威であった)、更にはペルシャ湾油田への長距離戦略爆撃さえも実行してみせていた。

1月11日にはマルヴェッツィとその僚機であるジャンピエロ・クレスピ軍曹(Giampiero Crespi)とマッツェイ曹長(Sergente Maggiore Mazzei)が英軽巡サウサンプトン」を250kg爆弾を急降下爆撃で次々と命中させ、撃沈させたのであった。チェンニも新たに編み出した新戦術「スキップ爆撃(反跳爆撃)」を用いてギリシャ艦艇を次々と撃沈することに成功し、これを受けたギリシャ海軍側は「雷撃を受けた」と勘違いした程であった。ブスカーリアも軽巡「ケント」、軽巡グラスゴー」、そして空母「イラストリアス」といった英海軍の主要な艦艇を次々と雷撃することに成功し、大きな損害を与えた。これらのイタリア空軍部隊に加え、支援空軍として派遣されたドイツ空軍部隊も大きな役割を果たした。

一方、英海軍は陸軍によるコンパス作戦の成功を受けて、脅威となっていたエーゲ海方面のイタリア軍の無力化を望んだ。ビアンケーリ提督率いるエーゲ海艦隊は小規模であるが脅威であることは変わらず、それに加えて空軍部隊は英軍にとって大きな脅威だったことが理由である。そのための橋頭保としてエーゲ海諸島東端のカステルロッソ島の制圧を計画した。チャーチルは同盟国たるギリシャ、そして中立国であるトルコとの間に摩擦を引き起こすと考えた(特にトルコ沿岸から僅か3kmの距離だったため)ため作戦には乗り気ではなかったが、カンニンガム提督の強い要請により作戦は実行されることとなった。カンニンガム提督は同地域のイタリア軍部隊の戦力を過小評価し、カステルロッソ島はローディ島から約130kmの距離にあるため、イタリア側は有効な対応が出来ないと予測していた。

2月24日、英海軍は計200名のコマンド部隊駆逐艦「デコイ」及び「ヘレワード」に乗艦させ、また24名の海兵隊を砲艦「レディバード」に乗艦させ出発した。その後、増援部隊として軽巡「パース」及び「ボナヴェンチャー」の護衛のもとで、武装商船「ロザウラ」に約150名の兵士を派遣した。潜水艦「パーシアン」は哨戒により、カステルロッソ島の守備隊が僅かな戦力であることを確認し、2月25日の夜明け前に英海軍はカステルロッソ島への強襲上陸を行った。約40名程度のイタリア軍守備隊は雑多な兵器しか持たずに有効な抵抗が出来なかったが、降伏前に近隣の島やローディ島の本部に英軍の襲撃を連絡していた。こうして、カステルロッソ島は英軍に制圧された。英軍による制圧戦により、イタリア軍側は戦死6名、負傷7名、捕虜35名を出した

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イタリア駆逐艦「フランチェスコ・クリスピ」

カステルロッソ島からの連絡を受けたビアンケーリ提督は迅速に同島への奪還を命じた。まず、空軍への派遣要請を行った。ローディ島のイタリア空軍部隊は直ちにカステルロッソ島の英軍部隊への攻撃作戦のため、FIAT CR.42戦闘機の護衛のもと、サヴォイアマルケッティSM.81爆撃機を派遣。英軍の上陸から数時間も経たないうちに、空軍部隊はカステルロッソ島の英軍部隊を強襲し、爆撃によって砲艦「レディバード」が損傷、数名の船員が負傷した。燃料が不足していた「レディバード」は海兵隊員24名を再度乗船させ、ハイファに撤退した。

翌日の2月26日の日没後、ビアンケーリ提督は反撃を開始した。派遣された水雷艇「ルーポ」及び「リンチェ」は英軍部隊に対して攻撃を実行。これにより、コマンド兵3名が戦死、7名が負傷した。一方で、港に集まった民間人らをイタリア海軍は救出し、これを避難させることに成功した。続いて、2月27日の夜明けにビアンケーリ提督はカステルロッソ島への上陸作戦を実行する。水雷艇「ルーポ」「リンチェ」に加え、ビアンケーリ提督は増援として駆逐艦「フランチェスコ・クリスピ」「クィンティーノ・セッラ」MAS艇「MAS 546」及び「MAS 561」を派遣し、同時に258名の陸軍兵士と80名のサン・マルコ海兵がカステルロッソ島に上陸を開始。英艦隊はイタリア軍の上陸を阻止しようとするが失敗し、英軍部隊は伊軍陸戦部隊の攻撃と、空軍による爆撃、伊艦隊からの砲撃に圧倒され、疲弊していった。アレクサンドリア港から増援部隊を載せた駆逐艦「ヒーロー」及び「ジャガー」が派遣されるも、最早戦線を維持することは出来ないと判断され、英軍はカステルロッソ島からの撤退を決定した。

英艦隊は上陸部隊の回収を行ったが、伊軍の攻撃によって回収が間に合わず、20名が取り残されて伊軍の捕虜となった。撤退中に英駆逐艦ジャガー」は駆逐艦「クリスピ」の砲撃を受け損傷、更に「クリスピ」は雷撃を行ったが、「ジャガー」は回避することに成功。一方で「ジャガー」も反撃を行ったが命中しなかった。辛うじて英艦隊は撤退し、英軍によるカステルロッソ島制圧作戦は完全な失敗に終わったのであった。

英海軍側はイタリア軍の戦力を過小評価していたことを改めなくてはならなくなり、エーゲ海方面のイタリア軍の反応の速さに驚いた。結局、英軍はエーゲ海諸島部におけるイタリア軍の防御の堅牢さを認識し、その後イタリアの休戦に至るまでエーゲ海諸島への上陸作戦は実行しなかった。一方で、この大勝利を演出したビアンケーリ提督は賞賛され、三度目の戦功銀勲章、サヴォイア軍事勲章を叙勲されたのであった。

 

■3月25日:スダ湾襲撃

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3月25日:スダ湾襲撃

クレタ島のスダ湾は天然の良港であり、ギリシャ軍の基地が置かれていた。ギリシャ参戦後、英海軍はスダ湾を基地として活用しており、 先のカステルロッソ島の奪還作戦によって英海軍側の出鼻を挫くことに成功したエーゲ海隊司令官のビアンケーリ提督は、スダ湾を攻撃して英海軍に打撃を与え、エーゲ海方面の制海権確保を望んだ。

こうして、スダ湾への襲撃作戦が計画された。航空偵察によってスダ湾には多くの海軍艦艇が確認されたため、実行が開始された。この作戦には海軍特殊部隊の「デチマ・マス」が投入された。これはイタリア海軍が「小型艇による特殊攻撃」のために創設した部隊で、SLC人間魚雷「マイアーレ」やMTM爆装艇「バルキーノ」といった特殊装備による敵泊地攻撃を主任務とした。イタリア側がこれに拘った理由は先の大戦において、MAS艇がオーストリア戦艦「スツェント・イストファン」の撃沈や墺軍港への一方的名奇襲攻撃を成功させたり、試作型人間魚雷が戦艦「フィリブス・ウニティス」を爆沈させることに成功していたからであった。

この作戦で使われた機材はMTM爆装艇「バルキーノ」である。これはスポレート侯アイモーネ提督の肝煎りで開発された対艦攻撃用の自爆艇で、最大時速30ノット以上、航続距離130km以上のスペックを持った。自爆艇というと、自らの命を犠牲に敵艦に突っ込む、日本軍の「震洋」をイメージするかもしれない。しかし、このバルキーノ」は脱出装置が付いているため、特殊部隊員が死亡することはない(敵に攻撃されてしまったら意味がないが)。つまり、敵艦に突撃する直前に脱出し、爆発の衝撃波をやり過ごて離脱する、という戦術を取った。そのため、かなり危険な任務であり、訓練も苛酷なものであった。とはいえ、この兵器でイタリア海軍は戦果を挙げ、戦後もイスラエル海軍が中東戦争で活用してエジプト海軍の旗艦を撃沈することに成功している。

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重巡「ヨーク」

3月25日の深夜駆逐艦「フランチェスコ・クリスピ」及び「クィンティーノ・セッラ」それぞれ3隻ずつMTM艇を搭載し、レーロ基地を出発。MTM艇の乗員はそれぞれ1人ずつであるため、「デチマ・マス」の操縦手が6人参加した。これらのMTM艇戦隊を「デチマ・マス」のルイージ・ファッジョーニ中尉(Luigi Faggioni)が指揮した。深夜23時半にスダ湾の湾外にて「クリスピ」及び「セッラ」からMTM艇6隻が発信し、スダ湾の湾内に高速で侵入した。湾内には三重の防御網が敷かれていたが、MTM艇戦隊はこれを突破し、港内に突入。6隻のMTM艇は停泊中の英重巡「ヨーク」及びタンカー「ペリクレス」を攻撃し、これを撃沈することに成功したのである。

6人の操縦手たちは英軍の攻撃や爆撃に巻き込まれることなく無事で、英海軍部隊の捕虜となった。英海軍側はこの攻撃を受けた時、空襲を受けたと勘違いして上空に対空砲火を行っている。当然であるが、上空にイタリア機はいなかった。MTM艇によって撃沈された重巡「ヨーク」は昨年のパッセロ岬沖海戦でイタリア駆逐艦「アルティリエーレ」を撃沈していたため、この攻撃は「アルティリエーレ」の仇討ちとなった。

このスダ湾攻撃は「デチマ・マス」にとって初の成功となった。そして、第二次世界大戦時のイタリア海軍による、初の敵泊地攻撃にもなった。MTM艇の操縦手6名は全員が金勲章を叙勲され、英海軍側のエーゲ海制海権にも大きな打撃を与えることに成功したのであった。しかし、このイタリア海軍による大勝利は英海軍側も強く受け止め、港湾襲撃に備えて各地の港湾の警戒態勢を強化することとなり、イタリア軍にとっては今後の港湾襲撃は一層難しいものとなってしまった。

 

■3月28日:マタパン岬沖海戦

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3月28日:マタパン岬沖海戦

年明けからの3カ月間、イタリア海軍はエーゲ海における戦いで英海軍相手に連戦連勝を重ねたが、英海軍側は2月に以前のフランス海軍同様にジェノヴァを砲撃しこれに対抗した。エーゲ海方面においてはイタリア海軍が勝利を重ねて戦局を有利に進めていた一方で、依然として英海軍による脅威は去っていなかった。2月にリッカルディ海軍参謀長はドイツ海軍のレーダー提督と初会談し、ドイツ海軍は英艦隊のギリシャへの航行に打撃を与えるため、主力艦隊の出動を提案していた。

3月19日、ドイツ海軍は再度イタリア側に主力艦隊の出動要請を出した。ドイツ海軍はイタリア海軍エーゲ海艦隊の連続の勝利によって、東部地中海方面において英海軍部隊は劣勢であると判断し、ここで主力艦隊を出撃して英艦隊を撃破することで、ギリシャ船団輸送を完全に停止させることが出来ると主張した。これを受け、スーペルマリーナはドイツ側の要請を受諾し、エーゲ海方面への主力艦隊の派遣を決定したのであった。主力艦隊の派遣には乗り気ではなかったスーペルマリーナであるが、イアキーノ提督もマタパン岬の海戦は「海軍史上に輝かしい1ページを飾るもの」として期待していたのであった。しかし、それは悪い意味で裏切られることとなった。

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イタリア重巡「ザラ」

3月25日戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」を旗艦とするイアキーノ艦隊はナポリから出発した。これは戦艦1隻(「ヴィットリオ・ヴェネト」)、軽巡2隻(「アブルッツィ」「ガリバルディ」)、駆逐艦10隻で構成された。これにターラントから出発したカルロ・カッターネオ提督(Carlo Cattaneo)率いる第一巡洋戦隊、メッシーナから出発したルイージ・サンソネッティ提督(Luigi Sansonetti)提督率いる第三巡洋戦隊が合流した。第一巡洋戦隊は重巡3隻(「ザラ」「ポーラ」「フィウーメ」)、第三巡洋戦隊は重巡3隻(「トリエステ」「トレント」「ボルツァーノ」)と駆逐艦3隻でそれぞれ構成されていた。合流した艦隊はギリシャの作戦海域に向かっていた

他方、英国海軍のカンニンガム提督は通信傍受によってイタリア艦隊の派遣を知った。このため、ギリシャへの輸送船団の航行を中止、イタリア艦隊との戦闘のために戦艦「ウォースパイト」を旗艦とするA戦隊をアレクサンドリア港から出発させた。この艦隊は戦艦3隻(「ウォースパイト」「ヴァリアント」「バーラム」)、空母1隻(「フォーミダブル」)、駆逐艦9隻で構成されていた。また、ウィッペル提督率いるB戦隊がピレウスから出港し、こちらは軽巡「オライオン」を旗艦とし、軽巡4隻(「オライオン」「エイジャックス」「グロスター」「パース」)、駆逐艦4隻で構成された。更に駆逐艦3隻から成るD戦隊もこれに合流し、ギリシャ南方海域のガウード島沖にて合流する計画を立てていた。

ドイツ側の情報提供により、英艦隊の主力艦は戦艦「ヴァリアント」1隻のみで、空母は不在であるとされていた。しかし、この事前情報は誤りで、実際の英艦隊の戦力は戦艦3隻、空母1隻と一大戦力となっていた。この誤りは戦局に大きな影響を与えることとなった3月28日未明、「ヴィットリオ・ヴェネト」はウィッペル提督率いるB戦隊を発見した。これを受け、イアキーノ提督はサンソネッティ提督率いる第三巡洋戦隊にB戦隊の追撃を命令した。これを受け、ウィッペル提督はカンニンガム提督率いるA戦隊にイアキーノの主力艦隊を引き付けるため、攻撃を逃れる作戦に出た。距離が遠すぎたためにイタリア艦隊はB戦隊に有効な攻撃を与えることが出来ず「ヴィットリオ・ヴェネト」の砲撃で軽巡「オライオン」が小破したのみであった。

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英空母「フォーミダブル」

砲撃戦の最中、9時38分にA戦隊の空母「フォーミダブル」はフェアリーアルバコア雷撃機6機を発進させた。一度目の攻撃はイタリア艦隊の対空砲火によって雷撃機は撃退された。しかし、雷撃機からの襲撃を受けイタリア艦隊はB戦隊への追撃を一旦中止した。その後、15時9分に二度目の攻撃が行われ、1機の雷撃機が対空砲火で撃墜される直前に魚雷を発射し、見事「ヴィットリオ・ヴェネト」に命中。プリエーゼ式水雷防御の効果もあり、雷撃のダメージが軽減されて自力航行は可能ではあったが、左舷後部が大きな損害を受け、速力を落とさざるを得なくなった。「ヴィットリオ・ヴェネト」の損害を聞いたカンニンガム提督は、イタリア艦隊の追撃を決定した。

夜間19時半頃、イタリア艦隊は三度目の攻撃を受けた。6機のアルバコア雷撃機と4機のソードフィッシュ雷撃機が来襲し、重巡「ポーラ」に雷撃が命中した。これにより、「ポーラ」は立ち往生したため、イアキーノ提督はカッターネオ提督に「ポーラ」の救援に向かうように命令した。カッターネオ提督率いる第一巡洋戦隊の重巡「ザラ」「フィウーメ」、駆逐艦4隻は「ポーラ」の救援に向かったが、これは悲劇の始まりだった。イタリア海軍最大の悪夢、マタパン岬沖の夜戦である。

夜20時15分、軽巡「オライオン」はレーダーで「ポーラ」の存在を確認した。戦艦「ヴァリアント」は「ポーラ」の救援に向かう残りの第一巡洋戦隊をレーダーによって捕捉したが、一方のイタリア第一巡洋戦隊はレーダーを搭載していなかったため、闇の中で敵を発見することは出来なかった。「ザラ」は夜22時20分にカンニンガム提督率いる英艦隊主力を発見したが、カッターネオ提督はこれをイタリア艦隊だと勘違いしてしまった。そんな中で、英艦隊の探照灯は第一巡洋戦隊を照らし出し、戦艦「ウォースパイト」「バーラム」「ヴァリアント」の3隻を含む艦隊は十字砲火を浴びせ、「ザラ」と「フィウーメ」は成すすべもなく撃沈されたのである。「フィウーメ」は砲撃で撃沈され、「ザラ」は最終的に駆逐艦ジャーヴィス」の雷撃で沈んだ駆逐艦「アルフィエーリ」「カルドゥッチ」も撃沈され、最後に「ポーラ」が雷撃で撃沈された。残る2隻の駆逐艦「ジョベルティ」及び「オリアーニ」は何とか戦線を離脱したが、この一連の夜戦によって重巡3隻・駆逐艦2隻が混乱の中の奇襲で一気に撃沈され、乗員数4000人の内3000人が戦死(司令官であるカッターネオ提督も戦死)するという、悲惨極まる大敗北を経験することとなったのであった。

この大敗北を受けて、ギリシャが完全に陥落するまでの間、エーゲ海艦隊や潜水艦隊を除いてイタリア艦隊は東地中海に進出することを中止した。マタパン岬沖の敗北は、イタリア艦隊の「欠点」を煮詰めたようなものであった。まず、イタリア艦隊はレーダーを持っていなかったことにより、夜間の戦闘において圧倒的に不利となった。イタリア艦隊はパッセロ岬沖海戦で既にそれを経験していたが、この時はまだ「英海軍はレーダーを持っているのではないか?」という予測に過ぎず、今回の夜間奇襲によって完全にそれは確信に繋がった。リッカルディ提督はレーダー開発計画を再開させたが、結局量産化されるのは1942年にまでずれ込むこととなった。同時に夜間戦闘に関するノウハウも圧倒的にイタリア艦隊は不足していた点も指摘された。

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イタリア空母「アクィラ」

また、例によって例の如く、今までの海戦同様にイタリア側は航空偵察と航空支援、艦隊の防空戦力が不足していた。すなわち、空軍との連携不足である。また、これに伴い、空軍の陸上基地だけでは艦隊の行動を支援することは不可能であると判断され、ムッソリーニも「イタリア半島不沈空母論」を放棄せざるを得なくなった。結果として、海軍は空軍の反対で実現出来ていなかった空母建造をようやく開始することが出来たが、こうして建造が開始された2隻の空母(「アクィラ」と「スパルヴィエロ」)は休戦までには完成しなかった

ただ、海戦におけるプリエーゼ式水雷防御の効果は今回の海戦で効果的であると証明された。「ヴィットリオ・ヴェネト」は雷撃の直撃ダメージを軽減して、艦体には大きな損傷があったが、自力航行でターラント軍港に到着することが出来た。3月29日にイアキーノ艦隊はターラントに帰港し、「ヴィットリオ・ヴェネト」は7月まで修復工事を受けることとなった。マタパン岬の大敗は良くも悪くも、イタリア側にとって多くの教訓を齎すこととなったのである。ムッソリーニはこの敗北を受けて、当面の主力艦隊の行動制限を行った。このため、地中海において英船団の妨害を担当するのは、従来通りに潜水艦と空軍が中心となったのである。

 

■4月16日:タリゴ船団の海戦

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4月16日:タリゴ船団の海戦

エーゲ海方面で激戦が続く中、中央地中海方面でもイタリア船団によるリビア輸送と、英艦隊による妨害が行われ、熾烈な戦いを繰り広げていた。イタリア船団の護衛は基本として駆逐艦水雷艇によって行われ、英国側は大量生産した潜水艦を地中海に送り込み、リビア輸送を阻止すべく船団を襲撃した。駆逐艦「ウゴリーノ・ヴィヴァルディ」艦長のジョヴァンニ・ガラーティ大佐を始めとする優秀な戦隊指揮官の奮戦により、イタリア艦隊は効果的に英国潜水艦との戦いを繰り広げていた。しかし、英軍側の通信傍受によって英潜水艦は次々とイタリア船団を効果的に襲撃していた。スーペルマリーナの指令に基本的に絶対服従を命じられていたイタリア戦隊にとって、通信傍受による待ち伏せ攻撃はかなり痛手となっていたのである。一方で、英船団に対してもイタリア側は激しく攻撃を行った。潜水艦隊はジブラルタル-マルタ間の仏領北アフリカ沿岸航路(西地中海)と、マルタ-スエズ間のエジプト沿岸航路(東地中海)で待ち伏せ攻撃を度々行っていた。それに加え、空軍機による攻撃も高い戦果を挙げていた。

イタリア軍北アフリカ戦線の戦力強化のために、度々輸送船団を派遣していた。伊英海軍の主戦場は東地中海であったため、この間におけるリビア船団輸送は効果的な防衛もあってイタリア側の成功が続いていた4月13日の夕方ピエトロ・デ・クリストファロ(Pietro de Cristofaro)中佐を司令官とし、駆逐艦3隻(「ルカ・タリゴ」(旗艦)、「バレノ」「ランポ」)で構成された駆逐戦隊は5隻の輸送船を護衛し、ナポリからトリポリに向けて出発した。当時の地中海は悪天候で、イタリア船団の出航は予定より遅れることとなった。一方で、英海軍側は無線傍受によってイタリア船団の出発を確認し、更に航空偵察によって敵の正確な位置を把握した。英海軍はマタパン岬の大勝利を機に、イタリア艦隊の行動が制限されたことから、水上艦隊によるリビア船団の積極的な妨害を計画した。これにより、マタパン岬の海戦で武勲を挙げたフィリップ・マック大佐(Philip Mack)率いる駆逐艦隊を迎撃に派遣した。ジャーヴィス」を旗艦とし、「ジェーナス」「ヌビアン」「モホーク」の駆逐艦4隻で構成されていた。

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イタリア駆逐艦「ルカ・タリゴ」

悪天候は船団の航行に大きな影響を及ぼし、目的地への到達が遅れた。スーペルマリーナも通信傍受によって英海軍側がタリゴ船団の迎撃に出発したことを知ったが、空軍への支援要請をしたものの、空軍は悪天候であるため支援は出来なかった。他方、レーダーと航空偵察によってタリゴ船団の位置を完全に把握していた英海軍はチュニジアのケルケナ諸島沖を航行中のタリゴ船団を的確に襲撃していたのである。これにより、4月16日午前2時20分に英艦隊は船団を襲撃、交戦が開始された。英海軍が得意とする夜間戦闘であった。

英海軍の奇襲は成功し、一方的に攻撃を進めていったが、旗艦「ルカ・タリゴ」は大破しながらも、沈没の寸前まで攻撃を続け雷撃で英駆逐艦「モホーク」を撃沈。一矢を報いたのであった。しかし、結局「ルカ・タリゴ」「バレノ」は撃沈され、「ランポ」は沈没を防ぐために座礁(後に回収・修復されて戦線復帰)。船団輸送は失敗し、デ・クリストファロ中佐も戦死した。海戦自体はイタリアの敗北であったが、海戦後、イタリア軍潜水部隊は撃沈した駆逐艦「モホーク」から重要文書を回収し、英海軍の重要な情報がイタリア側に漏れることとなった

 

■4月29日-5月4日:イオニア諸島制圧戦

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4月29日-5月4日:イオニア諸島制圧戦

 イタリア海軍は開戦後、地中海諸島部の制圧のために水陸両用部隊を設立した。これは「海軍特殊戦力(Forza Navale Speciale, F.N.S.)」と呼ばれ、ギリシャ侵攻を目前とした1940年10月に新設されている。アルバニア隊司令官であったヴィットーリオ・トゥール(Vittorio Tur)提督が司令官に任命され、軽巡「バーリ」を司令旗艦とし、軽巡2隻(「バーリ」「ターラント」)、駆逐艦2隻(「ミラベッロ」「リボティ」)、水雷艇11隻、仮装巡洋艦4隻、揚陸艦3隻、MAS艇4隻で構成され、上陸部隊は海軍陸戦部隊であった「サン・マルコ」海兵であった。これらの他に、他艦隊の駆逐戦隊が支援した。

コルフ島を始めとするイオニア諸島攻略は、ギリシャ侵攻と同時の10月28日に開始されたが、当時は悪天候であったため10月29日にトゥール提督は作戦を中止した。結局その後ギリシャ戦線の戦況は悪化してしまったため、戦線の安定まで上陸作戦は中止となっていた。春になってギリシャにおけるイタリア軍の戦局が有利になってくると、トゥール提督はイオニア諸島への上陸作戦再開を決定し、作戦中止から6カ月後に当たる4月29日にようやく作戦が実行されるに至ったのである。

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イタリア巡洋艦「バーリ」

アルバニアのドゥラス港を出港したF.N.S.はトゥール提督の指揮のもと、軽巡2隻(「バーリ」「ターラント」)、駆逐艦2隻(「ミラベッロ」「リボティ」)、水雷艇7隻、揚陸艦3隻で構成されていた。これに上陸部隊である「サン・マルコ」海兵部隊が乗っていた。4月29日には順調にコルフ島に上陸し、同島の拠点を次々と制圧。ギリシャ軍守備隊は混乱の中で抵抗したが、有効な反撃を出来ずに成すすべもなく降伏した。トゥール提督はコルフ島での成功を機に、チェファロニア島、ザンテ島などイオニア諸島を次々と制圧していき、更には重要な拠点であるコリントス運河も攻略した。これらの制圧作戦は5月9日までには完全に終了し、イタリア軍は完全に勝利した。

他方、エーゲ海方面でもビアンケーリ提督率いるイタリア軍部隊がキクラデス諸島などのギリシャ島嶼部への上陸作戦を行い、ギリシャ島嶼部はクレタ島を除いて次々と制圧されていった。これらのイタリア海軍に制圧されたギリシャ領の島々はイタリア領に組み込まれ、事実上の「植民地」の一部となったのであった。これらの成功を受け、イタリア海軍はトゥール提督による水陸両用作戦を高く評価し、次に行われるであろうマルタ島の上陸作戦の司令官として彼を任命したのであった。

なお、ギリシャ攻略と同時に4月にはユーゴスラヴィア侵攻も行われた。この際、イタリア海軍はアドリア海ユーゴスラヴィア艦隊との間に小規模な交戦が発生しているが、ユーゴスラヴィアは早期に陥落したためにアドリア海での戦いが大規模になることはなかった。アドリア海は開戦時から休戦までジェノヴァ侯フェルディナンド・ディ・サヴォイア提督(Duca di Genova, Ferdinando di Savoia)によって指揮されていたが、彼の巧みな指揮によって連合軍のアドリア海侵入を許さず、休戦までアドリア海制海権はイタリア側が握り続けている。

 

■5月21日:ルーポ船団の海戦

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5月21日:ルーポ船団の海戦

マタパン岬の大敗によってイタリア艦隊の東地中海進出は中止されたため、ビアンケーリ提督率いるエーゲ海艦隊は依然として小規模戦力で戦いを続けなくてはならなかった。春になると、ドイツ軍の介入とイタリア軍の攻勢によってギリシャは敗れ、更にイタリア海軍による島嶼部の制圧も行われてギリシャ本土と周辺の島嶼部は陥落した。ギリシャ首相であるイオアニス・メタクサス将軍(Ιωάννης Μεταξάς)は病死し、後を継いだアレクサンドロス・コリジス首相(Αλέξανδρος Κοριζής)も枢軸軍のアテネ市街戦時に拳銃で自殺を遂げた。職務を継いだエマヌエル・ツデロス首相(Εμμανουήλ Τσουδερός)の政府は陥落寸前のアテネから国王ゲオルギオス2世(Γεώργιος Βʹ)と共にクレタ島に脱出した。ドイツ軍はギリシャへの介入でイニシアチブを握っていたため、クレタ島の攻略はイタリア軍ではなく、ドイツ軍によって行われることとなったイタリア軍部はクレタ島攻略戦への参加を望んだが、ドイツ軍のヘルマン・ゲーリング元帥は自らのイニシアチブを取られることを嫌い、これを拒否した。

しかし、ドイツ軍にとってもクレタ島攻略においてはエーゲ海に展開するイタリア海軍の支援は必須であった。だが、マタパン岬の大敗によって大損害を受けていたスーペルマリーナはイタリア主力艦隊のエーゲ海派遣を拒否したため、ビアンケーリ提督は小規模戦力のみでドイツ軍のクレタ攻略戦を援護しなくてはならなくなった。ドイツ軍は空挺降下によって順調にクレタ島攻略を開始した。空挺降下作戦の後、海上からのドイツ軍部隊上陸を開始するため、エーゲ海艦隊は水雷艇部隊によるドイツ上陸船団輸送を担当することになったのである。

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軽巡ダイドー

5月21日、ドイツの輸送船・揚陸艦25隻を護衛し、水雷艇「ルーポ」は単独で出発した。指揮官はカソス海峡海戦やカステルロッソ島奪還作戦で活躍した「ルーポ」艦長のフランチェスコ・ミンベッリ中佐であった。一方で、英海軍は枢軸軍のクレタ島侵攻に対してこれに対応するべくアーヴァイン・グレンニー提督(Irvine Glennie)率いるD戦隊を派遣した。これは軽巡ダイドー」を旗艦とし、軽巡3隻(「ダイドー」「オライオン」「エイジャックス」)と駆逐艦4隻で構成されていた。

5月21日23時頃、「ルーポ」船団とD戦隊は遭遇した。これも英海軍が得意とする夜戦であった。それに加え、英海軍側が軽巡3隻・駆逐艦4隻という大戦力で、イタリア海軍側は旧式水雷艇1隻であることに加え、護衛対象である25隻の輸送船が存在した。英海軍側は圧倒的有利な状況で、一方的に勝利するかと思われたが、「ルーポ」は予想以上の奮戦を見せた。「ルーポ」は果敢に圧倒的な敵を相手に戦い、大きな損害を受けながらも戦いを続けて輸送船団の損害を10隻に抑え込み、更に軽巡「オライオン」に損害を与えて一矢を報いた。英艦隊の撃退に成功した「ルーポ」は、輸送船15隻と共に何とか帰還したのである。

結果として、英海軍は輸送船団の打撃に成功したが、旧式水雷艇1隻を相手に苦戦し、船団全てを撃沈出来たような状況にも拘わらず、それに失敗した。ミンベッリ艦長の巧みな指揮は高く評価され、イタリア軍最高位の金勲章を叙勲された。

 

■5月27日-28日:シティア港制圧戦

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5月27日-28日:シティア港制圧戦

ドイツ軍はイタリア軍クレタ攻略戦への参加を許可していなかったが、5月26日にドイツ軍の進軍が停滞したため、ようやくイタリア軍への支援要請を出した。イタリア軍はこれを受諾し、さっそくビアンケーリ提督率いるエーゲ海艦隊はクレタ島への上陸作戦を開始した。カステルロッソ島奪還作戦での成功もあり、イタリア海軍のクレタ島上陸は高い戦果を挙げられると期待出来た。

上陸艦隊は駆逐艦「フランチェスコ・クリスピ」を旗艦とし、水雷艇「リラ」「リンチェ」「リブラ」の3隻MAS艇2隻、揚陸艦・輸送船14隻の編制クレタ島東部への侵攻を開始した。グレンニー提督はこの船団攻撃を実行したが、失敗。 損害軽微でイタリア軍部隊はクレタ島東部の主要港シティア港を難なく制圧し、また「クリスピ」はクレタ島東端のシデロス灯台を砲撃で破壊し、連合軍の航行に打撃を与えた。上陸部隊は陸軍のエットレ・カッファーロ(Ettore Caffaro)将軍によって指揮され、計2500名の兵士で構成された。順調に上陸したイタリア軍部隊はクレタ島東部を制圧し、ドイツ軍部隊と合流して作戦を遂行した。

6月1日、遂にクレタ島は陥落し、枢軸軍部隊は全域の占領に成功したのであった。クレタ島攻略後、西部はドイツ軍、東部はイタリア軍の占領地域として分割されたのである。クレタ島の攻略完了によって、完全にギリシャ戦線は終了し、東地中海における英海軍の制海権も安定を失った。一方で、ギリシャ戦線の終結によって、イタリア海軍も、英海軍も、主要な戦場をマルタ船団とリビア船団が交わる中央地中海に移動することとなり、エーゲ海での激闘が中心であった1941年の前半期はこれにて終了することとなったのであった。

 

■7月25日:マルタ・ヴァレッタ港襲撃

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MTM爆装艇「バルキーノ」

ギリシャ戦線が終わり、地中海もひと段落ついたその頃、6月22日には突如ドイツが独ソ不可侵条約を破棄し、ソ連に侵攻を開始(バルバロッサ作戦)ムッソリーニは毎度毎度の事前通告無しのヒトラーの行動に怒り心頭であったが、同盟国としてバルバロッサ作戦発動の知らせを聞いた直後に対ソ宣戦布告を行った。イタリアはその後、ジョヴァンニ・メッセ(Giovanni Messe)将軍を司令官とする「ロシア派遣軍」をドイツ軍支援のために派遣し、更にリッカルディ提督は黒海及び極北のラドガ湖への支援艦隊派を決定した(ラドガ湖はフィンランド-ソ連国境の巨大な湖で、この地のフィンランド海軍戦力は旧式の魚雷艇1隻であったため、MAS艇戦隊の派遣が決定された)。これに伴い、イタリア海軍の活動範囲も東部方面に大きく広がることとなった

だが、イタリア海軍の主戦場は依然として地中海であることには変わりはなかった。この頃海軍においてもギリシャ戦線の終結に伴って人事異動が行われ、エーゲ海総督のバスティコ将軍がリビア総督として北アフリカ戦線を指揮することとなったため、海軍参謀次長カンピオーニ提督が後任のエーゲ海総督として派遣された。カンピオーニ提督の後任の参謀次長には第三巡洋戦隊司令官ルイージ・サンソネッティ(Luigi Sansonetti)提督が就任。彼のもとでリビア補給船団の総指揮が行われている。

クレタ島の陥落後、英海軍はマルタ島に戦力を補給した。偵察によって英艦隊がマルタ島ヴァレッタ港に集結していることを知ったイタリア海軍は、エーゲ海作戦のスダ湾襲撃で大きな戦果を挙げた「デチマ・マス」によるヴァレッタ港攻撃を計画した。

このマルタへの直接攻撃作戦は7月25日の深夜に実行された。しかし、これは完全なる失敗に終わったイタリア軍は攻撃によってヴァレッタ港にて火柱が高く上がっていたことから作戦は大成功に終わったと認識したが、「デチマ・マス」の突入部隊は英軍に発見されて機銃掃射を受けて全滅した。英軍側の損害はハリケーン戦闘機数機の撃墜と港湾設備の破壊程度であり、艦隊に損害はなかったのである。「デチマ・マス」のヴィットーリオ・モッカガッタ(Vittorio Moccagatta)司令や、SLC人間魚雷「マイアーレ」の開発者であるテゼオ・テゼイ(Teseo Tesei)中佐も戦死し、「デチマ・マス」は主要メンバーも戦死する手堅い敗北を経験することとなった。彼らは戦死後にイタリア軍最高位の金勲章を叙勲された。

 

■9月10日:第一次ジブラルタル襲撃

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9月10日:第一次ジブラルタル襲撃

ヴァレッタ港攻撃の失敗によって大打撃を受けた「デチマ・マス」であったが、新たに司令官に就任したユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ(Junio Valerio Borghese)少佐のもとで新たなる作戦を実行した。それは地中海と大西洋を繋ぐ要衝、ジブラルタルへの初の襲撃作戦であった。既にイタリア空軍によるジブラルタル爆撃作戦は度々実行されていたが、海軍による襲撃作戦は初となった(イタリア潜水艦によるジブラルタル周辺海域での通商破壊作戦は度々行われていたが)。

9月10日、ラ・スペツィアを出港した潜水艦「シィレー」は3隻のSLC人間魚雷「マイアーレ」を搭載した。SLC人間魚雷「マイアーレ」はヴァレッタ港攻撃で戦死したテゼオ・テゼイ中佐が設計・開発した新型兵器で、元々は第一次世界大戦時にポーラ軍港に侵入し、敵戦艦「フィリブス・ウニティス」を爆沈させた試作人間魚雷「ミニャッタ」を前進とした。魚雷に操縦桿をくっつけたような「ミニャッタ」に対して、「マイアーレ」は操縦性が向上した水中バイクのような見た目をしていた。勿論、「人間魚雷」と言えども、日本海軍の「回天」のような自殺兵器ではなく、所謂工作用の特殊潜航艇であった。潜水部隊(ウォーモ・ラーナ)を敵港湾内部に潜入させ、敵艦の船底に爆弾を仕掛け、離脱する、という攻撃手段であった。

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イタリア潜水艦「シィレー」

9月19日、情報収集によってジブラルタル港にネルソン級戦艦が発見されたために、ボルゲーゼ中佐は「シィレー」から計6人が駆るSLC人間魚雷「マイアーレ」3隻を出発させた。潜入部隊(ガンマ潜水部隊)のリーダーはリーチオ・ヴィシンティーニ隊長(Licio Visintini)が務めた。ヴィシンティーニ隊長は東アフリカ戦線の空軍トップエースであるマリオ・ヴィシンティーニ(Mario Visintini)の弟である。無事港湾に潜入したガンマ潜水部隊はネルソン級戦艦への攻撃は失敗したが、輸送船「ダーラム」及びタンカー「デンビデール」「フィオナ・シェル」の計3隻を一気に撃沈することに成功したのであった。この大戦果を受けてボルゲーゼ少佐は中佐に昇進し、ガンマ潜水部隊の6人は全員が戦功銀勲章を叙勲されたのであった。なお、攻撃後にフロッグマン6名はジブラルタル港を脱出することに成功し、無事帰還している。

イタリア海軍によるジブラルタル攻撃はこれが始まりとなり、その後も何度も行われることとなり、英海軍は大打撃を受けた。英海軍も対策として港湾防衛のために哨戒を強化するが、有力な対策をあまり取れずに休戦までに度々伊海軍部隊の侵入を許した。

 

■11月9日:デュースブルク船団の海戦

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11月9日:デュースブルク船団の海戦

ギリシャ戦線の終結後、新たにリビア総督に赴任したエットレ・バスティコ(Ettore Bastico)将軍は、ドイツから派遣された「ドイツアフリカ軍団」のエルヴィン・ロンメル将軍と共に、北アフリカの戦況を有利に進めていた。そんな中で重要視されたのはリビアへの補給船団である。バスティコ将軍は間近に備えた進軍のために大規模なリビア輸送船団を海軍に要請し、イタリア海軍は7隻の輸送船を派遣した。護衛にはブルーノ・ブリヴォネージ提督(Bruno Brivonesi)率いる艦隊が担当し、重巡2隻(「トリエステ」(旗艦)、「トレント」)、駆逐艦10隻で構成されていた。

ブルーノ・ブリヴォネージ提督は戦艦「ジュリオ・チェーザレ」を旗艦とする第五戦艦戦隊司令官ブルート・ブリヴォネージ(Bruto Brivonesi)提督の兄であり、前リビア隊司令官であった。弟ブルートはプンタ・スティーロ海戦やテウラダ岬沖海戦で活躍し、その後も「チェーザレ」を旗艦とする第五戦艦戦隊を率いて「ドゥイリオ」「ドーリア」と共に中央地中海における船団護衛を成功させていた。一方の兄ブルーノは大戦序盤にリビア隊司令官として水上艦隊によるアレクサンドリア港攻撃作戦を実行したが、自らの母艦「モンテ・ガルガーノ」を撃沈され、大失敗を経験していた。

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イタリア重巡トリエステ

イタリア艦隊は11月7日にナポリを出港した。既にこの段階で英海軍側は暗号解読によってこの情報を掴み、2隻の軽巡(「オーロラ」「ペネロペ」)と2隻の駆逐艦から為る艦隊を差し向けてこの船団を攻撃することとした。英艦隊による船団攻撃は、イタリア艦隊が苦手とする夜間に実行された。8日深夜から翌日早朝に掛けて行われ、レーダーを持っていないイタリア艦隊は奇襲を許し、大損害を被った。イタリア艦隊は駆逐艦「フルミネ」が撃沈されたが、英海軍側の損害は僅か駆逐艦1隻が小破したのみであった。ブルーノ率いる遠距離護衛部隊はこの攻撃を艦隊ではなく航空機による攻撃だと誤認したため、上手く対応できず、敗北を喫することとなったのである。
この船団輸送の失敗は北アフリカ戦線に重要な影響を及ぼし、戦局は再び英軍有利になっていった。ブルーノは軍法会議にまでかけられたが、イアキーノ提督の助け舟によって無罪で済んでいる。しかし、「デュースブルクの敗北」以降、ムッソリーニとブルーノの対立は酷いことになり、ブルーノは反ファシズムに傾倒することとなる。その後、海軍最高司令部(スーペルマリーナ)の副参謀長に任命されてリッカルディ提督を補佐しており、弟ブルート(スーペルマリーナ所属の対潜総監として勤務)と同じ職場で勤務した。そして、ラ・マッダレーナに本部を置くサルデーニャ隊司令部の指揮官に新たに就任し、西部地中海方面の艦隊運営を指揮している。ブルーノは以前より海軍航空の先駆者として名を知られていたものの、艦隊指揮能力があったかと言われると、かなり微妙なところである。なお、海戦で大勝利を挙げた英海軍であったが、5日後には空母「アーク・ロイヤル」、月末の25日には戦艦「バーラム」が潜水艦の攻撃で撃沈され、地中海における英海軍の制海権に動揺が生じた。

 

■12月13日:ボン岬沖夜戦

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12月13日:ボン岬沖夜戦

1941年12月7日、日本海軍は真珠湾攻撃を実行し、遂に日本が第二次世界大戦に枢軸国側で参戦した。一方で、連合軍の最大戦力であるアメリカが参戦し、既に日本と交戦状態であった中国も連合国側で参戦した。東アフリカ戦線の崩壊に伴い、神戸に来航していた旧イタリア紅海艦隊は日本の参戦によって自由な行動が許可され、日本海軍との共同作戦に従事するようになった。また、天津を母港とするイタリア極東艦隊もそれと共に行動を開始した。つまりは、イタリア海軍がアジア・太平洋戦線でも活動を開始したのである(既にインド洋では作戦を行っていたが)。ムッソリーニはドイツのソ連攻撃とは対照的に、日本の参戦を熱狂的に喜んでいたが、軍部としてはアメリカの参戦によってもう短期決戦の道は経たれてしまったと認識された。後に、イタリア海軍は潜水艦隊による日本向けの輸送作戦を行い、またイタリア空軍も敵地上空を通過してローマ-東京連絡便を実行している(大戦中の枢軸国では唯一の欧州-極東飛行)。

一方で、地中海においては依然として中央地中海を巡る戦いが繰り広げられていた。イタリア海軍はデュースブルクの大敗を受けて、今度は主力艦による船団護衛が行われ、11月29日には戦艦「カイオ・ドゥイリオ」を旗艦とする戦艦1隻(「ドゥイリオ」)、軽巡1隻(「ガリバルディ」)、駆逐艦6隻が護衛する船団が無事北アフリカに到着した(指揮官はカルロ・ベルガミーニ(Carlo Bergamini)提督)。しかし、北アフリカにおける燃料不足は追い付かず、海軍はこの急務に対応するため、北アフリカ戦線を支えるためにも高速航行が可能な艦艇による燃料輸送を提案。これに伴い、高速の巡洋艦による緊急燃料輸送作戦が実行された。第一陣として、12月2日に軽巡ルイージ・カドルナ」によって実行されたリビア燃料輸送は無事に成功し、トリポリに到着した。これの成功を受け、スーペルマリーナは第四巡洋戦隊アントニーノ・トスカーノ(Antonino Toscano)提督軽巡2隻による追加高速輸送を命令した。

トスカーノ提督率いる高速輸送戦隊は軽巡「バルビアーノ」と「ジュッサーノ」の2隻で構成されていた。2隻は12月5日の朝8時15分にターラント軍港を出発し、17時50分にブリンディジ港に到着。そこで物資を詰め込んだ。その後、12月8日にパレルモに到着し、航空機用の燃料を詰め込んだ。この輸送作戦は当然、かなり危険なものであった。燃料を搭載しているということは、航空攻撃を軽く受けただけでも大炎上になりかねない。更に、イタリアの巡洋艦は高速性能を発揮するために、例の如く装甲が薄かった。12月9日の17時20分に2隻はパレルモを出港して、トリポリに向けて出発した。しかし、2隻に護衛艦も航空支援も存在しなかった

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イタリア軽巡「アルベリーコ・ダ・バルビアーノ」

同日22時にパンテッレリーア島沖を航行中の2隻は英軍偵察機によって発見された。その後、シチリア海峡の中心にて荒れた海の中で英空軍部隊の空爆に遭遇。2隻は何とかこの空爆をやり過ごし、燃料も無傷であったが英軍側の追撃を恐れてトスカーノ提督は反転し、パレルモに戻ることを決めた。こうして、12月10日の8時20分に2隻はパレルモに到着したが、作戦の放棄に対してスーペルマリーナはトスカーノ提督を激しく叱責し、再出撃を命じた。これを受け、12月12日18時10分、2隻は再度パレルモから出港し、護衛の水雷艇「チーニョ」を加えて、トリポリに向けて出発した

イタリアの高速輸送艦隊に対して、英海軍はグラハム・ストークス中佐(Graham Stokes)率いる駆逐戦隊を差し向けた。この駆逐戦隊は英海軍の駆逐艦3隻(「シーク」「リージョン」「マオリ」)と、オランダ海軍の駆逐艦「イサーク・スウェールズ」で構成された。航空偵察によってトスカーノ艦隊の位置を把握した英艦隊はチュニジア・ボン岬沖にて待ち伏せることとした。北アフリカでは燃料不足に陥っていたため、伊艦隊の航空支援を北アフリカの空軍部隊が行うことは出来ず軽巡2隻は航空支援無しで戦闘海域に突入した(そもそもその航空機用の燃料を2隻の巡洋艦は運んでいたため)。

12月13日午前2時45分、トスカーノ艦隊は英軍偵察機を発見した。この偵察機はストークス中佐にトスカーノ艦隊の位置を知らせたが、偵察機に発見されたためにトスカーノ艦隊は反転し、全速力での海域突破を試みた。しかし、レーダー装備と航空偵察によって暗闇の中でトスカーノ艦隊を捕捉した英艦隊はトスカーノ艦隊を追撃奇襲は完全に成功し、「バルビアーノ」「ジュッサーノ」は成すすべもなく撃沈され、トスカーノ提督は戦死した。「チーニョ」のみが海戦を無傷で生き残り、生存者の救出に当たったが、2隻の轟沈によって800人以上が戦死している。

結局、この戦いにおいてもレーダー未装備での夜戦は不可能であることが明らかとなった。そして、中央地中海における輸送作戦を安定化させるためには、マルタ島の攻略が不可欠であると認識され、海軍によるマルタ島制圧作戦が進められることとなったのである。また、巡洋艦隊による高速輸送は困難であると判断され、結局主力艦隊による船団護衛が有効だと認識された

 

■12月17日:第一次シルテ湾海戦

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12月17日:第一次シルテ湾海戦

ボン岬沖夜戦による高速輸送失敗により、北アフリカ戦線には物資が届かず、兵站不足に陥った。そのため、連合軍側の攻勢を許すこととなり、再び北アフリカ戦線では連合国側が有利な戦況となっていた。これを受け、スーペルマリーナは主力艦隊による大規模船団輸送作戦を実行に移すこととした。マタパン岬の大敗によってムッソリーニは主力艦隊の出動を制限していたが、これを機に主力艦隊は活動を再度活発化させた。

船団輸送にはマタパン岬の傷を癒した戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」が参加予定であったが、12月13日シチリアアウグスタ港沖にて英潜水艦の雷撃を受けて損傷したため、修復のために参加しなかった。なお、この時も「ヴィットリオ・ヴェネト」はプリエーゼ式水雷防御の効果を発揮し、雷撃のダメージを軽減することが出来ている。12月16日イアキーノ提督率いる大船団はターラント軍港を出発した。この大船団は戦艦「リットリオ」を旗艦とし、戦艦4隻(「リットリオ」「ジュリオ・チェーザレ」「カイオ・ドゥイリオ」「アンドレア・ドーリア」)、重巡2隻(「トレント」「ゴリツィア」)、軽巡3隻(「ドゥーカ・ダオスタ」「アッテンドーロ」「モンテクッコリ」)、駆逐艦水雷艇20隻輸送船4隻という大規模な艦隊であった。後にも先にも、イタリア側が戦艦4隻を一挙に参加させた海戦はこれが唯一であり、「ヴィットリオ・ヴェネト」を除く当時就役中であった全戦艦が参加している(「カヴール」はターラント空襲で全損扱いである)。なお、ここまで強力な護衛をつけた理由は、航空偵察によって英艦隊に戦艦が確認されたためであったが、実際はこれは戦艦ではなく大型の輸送船「ブレコンシャー」であった(つまり、英海軍の護衛対象)。

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イタリア戦艦「アンドレア・ドーリア

一方、英海軍もマルタへの輸送船団を派遣した。フィリップ・ヴァイアン(Philip Vian)提督が指揮する護衛艦隊は軽巡「ナイアド」を旗艦とし、軽巡6隻(「ナイアド」「カーライル」「ネプチューン」「オーロラ」「ペネロペ」「ユーライアラス」)、駆逐艦6隻で、先程の大型輸送船「ブレコンシャー」を護衛した。12月15日にアレクサンドリア港を出発し、マルタに向かった。すなわち、伊英双方共に、それぞれの船団護衛中に敵艦隊と遭遇し、交戦する事態になったのである。

イタリア空軍の偵察機はエジプトのシディ・バッラーニ沖を航行する英艦隊を発見し、艦隊の位置を把握した。イアキーノ提督は船団を護衛するためにもこれを迎撃することを決定した。こうして、12月17日17時42分、リビアのシルテ湾にて両艦隊は衝突することとなった。シルテ湾はリビア東部(キレナイカ)のベンガジから、リビア西部(トリポリタニア)のミズラータに至る巨大な湾で、現在は石油基地が置かれることで知られている主要港シルテ(スルト)が湾の由来であり、湾の南西に位置している。海戦が発生した場所は正確にはシルテ湾の外部沖合であるが、第二次世界大戦においてはイタリアのリビア船団と英国のマルタ船団が丁度衝突するエリアとして知られた。英艦隊のヴァイアン提督は、イタリア艦隊側が圧倒的に戦力が勝っていることを認識し、交戦を避けるための行動を取った一方のイアキーノ提督も、夜が近づいていたために夜戦を避けるべく、英艦隊を短時間で撃退して船団護衛を優先する方針を決定した。イアキーノ提督には夜戦におけるマタパン岬の大敗の記憶がまだ新しく、レーダーを持たないイタリア艦隊は夜戦において圧倒的に不利だったことを知っていたのである。また、敵艦隊に戦艦が存在する(と誤認していた)ことも、イアキーノ提督の戦術を消極的にさせた(スーペルマリーナは圧倒的有利な状況以外の戦闘は避けるように命令したため)。

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イタリア戦艦「リットリオ」

英艦隊はイタリア艦隊を発見したのち、速やかに煙幕を張って海域の離脱を図った。しかし、イタリア艦隊は英艦隊への攻撃を開始、駆逐艦キプリング」は重巡「ゴリツィア」の砲撃を受け、無線アンテナが破壊されて通信が不可能となった。その後、戦艦「アンドレア・ドーリア」及び「ジュリオ・チェーザレ」の主砲斉射によって甲板に被弾、上部構造に損傷を受けたが煙幕に紛れて戦線の離脱に成功した。また、駆逐艦「ニザム」も駆逐艦「マエストラーレ」による近距離からの砲撃を受け損傷を受けた戦艦「リットリオ」は30数kmからの超遠距離砲撃を英艦隊に浴びせ、護衛対象である輸送船「ブレコンシャー」を含む英船団は砲弾の破片による損害を受けたものの、巧みな防衛戦術によって総じて軽微な被害で済んでいる。

煙幕に紛れて海域の離脱を試みた英艦隊であったが、そこで機雷原に遭遇するという悲劇が起こった。その結果、軽巡ネプチューン」及び駆逐艦「カンダハー」が爆沈し、軽巡「オーロラ」及び「ペネロペ」も大きな被害を受けたのである。結果として、この海戦で英艦隊は軽巡1隻・駆逐艦1隻が撃沈し、軽巡2隻・駆逐艦2隻が大きな損害を受けた。しかし、護衛対象の輸送船「ブレコンシャー」は戦艦「リットリオ」の超遠距離砲撃によって多少損傷を受けた程度で済み、無事マルタに到着することが出来た。一方のイタリア艦隊側は一切の損害を負わずに無傷で海戦を終了し、船団護衛を継続してトリポリベンガジの港に到着することが出来ている海戦自体はイタリア側の完全な勝利であったが、船団護衛という目的は伊英双方が達成することが出来た。なお、ベンガジに輸送船団が到着して物資が補給されたが、残念な事にその数日後にベンガジは英軍の攻勢によって陥落し、イアキーノの努力は無駄になってしまった。

 

■12月18日:アレクサンドリア港襲撃

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12月18日:アレクサンドリア港襲撃

1941年12月19日は第二次世界大戦におけるイタリア海軍最大の大勝利の日と記憶されている。まさに、イタリア海軍が得意とする特殊部隊による港湾攻撃において、最大戦果が挙げたのがこの日であった。英海軍は1941年12月、特に厳しい状況を迎えていた。地中海では既に空母1隻と戦艦1隻を始めとする多くの軍艦を失い、更に日本の参戦によって東アフリカ戦線崩壊以降、再びインド洋方面に脅威が出現した。そして、12月10日のマレー沖海戦では戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」が日本軍の航空攻撃で撃沈されるという大打撃を受けていた。このため、地中海艦隊司令官であるカンニンガム提督は特にアレクサンドリア港の襲撃を危惧して厳戒態勢を敷いていた。また、英海軍は地中海戦線の有利な状況を維持できれば、インド洋方面の日本軍への対応を強化しようとしていた。そんな中で、残る地中海艦隊の主力である旗艦・戦艦「クイーン・エリザベス」と姉妹艦「ヴァリアント」を狙ったのが、イタリア海軍の「デチマ・マス」だった。

アレクサンドリア港攻撃は1940年8月22日にリビア隊司令官ブルーノ・ブリヴォネージ提督の直接の指揮で行われていたが、大失敗に終わっていた。その後、先述した通り、「デチマ・マス」はスダ湾襲撃やジブラルタル港襲撃を大成功させて戦果を挙げており、英艦隊への大打撃を与えるためにアレクサンドリア港への攻撃を再度計画していた。綿密な準備をした潜水艦「シィレー」ジブラルタルで武勲を挙げたボルゲーゼ艦長のもとで12月14日にエーゲ海諸島のレーロ基地を出発し、12月17日のアレクサンドリア港湾攻撃作戦のためにエジプト沿岸に向かった。しかし、途中で暴風雨に遭遇し、到着が1日遅れて12月18日にアレクサンドリア港近辺に到着した。

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SLC人間魚雷「マイアーレ」(2017年3月31日筆者撮影)

同日深夜、「シィレー」から3隻のSLC人間魚雷「マイアーレ」が発進した。潜水工作部隊は2人乗り×3隻で6名、これをルイージ・ドゥランド・デ・ラ・ペンネ大尉(Luigi Durand de la Penne)が率いていた。夜の闇に紛れて潜入した3隻のSLC人間魚雷は厳戒態勢が敷かれたアレクサンドリア軍港に潜入し、何重もの魚雷ネットを潜り、哨戒艇の警備をかわして港内の深部へと進んでいった。英軍に気付かれることなく軍港内に潜入した3隻は、第一班は戦艦「ヴァリアント」、第二班は戦艦「クイーン・エリザベス」、第三班はタンカー「サゴナ」に狙いを定めて攻撃を実行戦艦「ヴァリアント」及び「クイーン・エリザベス」は撃沈され、タンカー「サゴナ」は大爆発し大破、側にいた駆逐艦ジャーヴィス」も爆発に巻き込まれて大破したのであった。

こうして、たった3隻の特殊潜航艇と、6人の工作部隊による攻撃で、英艦隊は戦艦2隻を撃沈され、タンカー1隻と駆逐艦1隻を大破する事態となったのであった。このイタリア海軍による大成功は英海軍の地中海の制海権に大きな影響を与えることとなった。すなわち、英海軍地中海艦隊には行動可能な主力戦艦が存在しなくなってしまったのである。英首相チャーチルは自らの回顧録「我が地中海艦隊は存在しないも同然」とまで述べており、事実上、地中海の制海権は完全にイタリア側に渡ることとなったのであった。この結果、英海軍は行動を制限され、イタリア海軍は北アフリカ戦線に向けて安定して船団を送れるようになったのであったのである。こうして、安定した物資輸送を受けて活力を回復した北アフリカの枢軸軍は翌年1942年の初めより大規模な攻勢を開始し、戦線のイニシアチブを奪還するのであった。

イタリア海軍としては、まさに1940年11月のターラント空襲の仕返しとも言える攻撃であった。あの時は少数の英軍雷撃機がイタリア主力艦隊に大打撃を与えたが、その約1年後の1941年12月には、今度は少数の伊軍特殊部隊が英主力艦隊に大打撃を与えたのである。長らく一進一退の戦いを続けていた地中海の伊英海軍だったが、ここにきてようやくイタリア海軍は「地中海の覇者」たる威光を手に入れようとしていた

 

1941年はマタパン岬の大敗を経験した一方で、最終的にはアレクサンドリア港攻撃の大成功によって英海軍は地中海の制海権を失った。1941年はまさに、イタリア海軍にとっては「勝利の年」、英海軍にとっては「悲劇の年」と言えるかもしれない。

地中海の制海権を握ったイタリア海軍であったが、翌年に入ると今度は英海軍の反撃を受けることとなり、マルタ島を巡る大激戦が繰り広げられることとなる。この海戦はイタリア艦隊の活躍が特に光る戦いとしても知られているのだが、この話は次回の1942年の海戦で紹介しよう。

次回の記事はこちら↓

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■主要参考文献
Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori
B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori
Pier Paolo Battistelli/Piero Crociani著 "Reparti d'élite e forze speciali della marina e dell'aeronautica militare italiana 1940-45", 2013, LEG Edizioni
Giorgio Giorgerini著 "Uomini sul fondo", 2002, Mondadori
Aldo Cocchia著 "Convogli -Un marinaio in guerra 1940-1942", 2004, Mursia
吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939-1945』, 2006, イカロス出版
吉川和篤著『Viva! 知られざるイタリア軍』.2012, イカロス出版

 

地中海におけるイタリア海軍の熾烈な戦い ―1940年の海戦:戦いの始まり―

前回から引き続き、地中海戦線におけるイタリア海軍の戦いについて書こうと思う。今回扱う範囲は1940年の地中海の海戦。すなわち、最初の一年となる。

基本的にこれらの記事は「海戦」に特化したものであり、潜水艦隊の戦いや船団護衛による対潜水艦戦、敷設機雷による戦果等については扱わないものとする(寧ろ戦果を考えればそっちの方がイタリア海軍の真価とも言えそうだが)。また、地中海の戦いのみを扱い、大西洋、紅海、黒海、ラドガ湖、インド洋、太平洋等のその他の海域におけるイタリア海軍の戦いに関しては基本的に扱わないこととする。

 前回の記事はこちら↓

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前回纏めた「欠点」を踏まえながら、イタリア海軍の戦いを見ていってみよう。 

 

◆1940年:地中海の戦いの始まり

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1940年の地中海の主要な海戦。最初の年は基本的にイタリア半島近海で行われた。

1940年6月10日、イタリアは枢軸国側での参戦を表明し、対英仏宣戦布告を行った。こうして、イタリア海軍も戦いを開始することとなったが、前回説明した通り、準備不足の参戦となった。そのため、海軍参謀長ドメニコ・カヴァニャーリ(Domenico Cavagnari)提督は基本方針として、主力艦隊に関しては燃料不足のため「現存艦隊主義」をドクトリンとして定め、潜水艦や小型艦艇による船団襲撃を決定した。戦間期から海軍を指揮するカヴァニャーリ提督は地中海における海軍戦力の格差を認識しており、様々な観点からこの方針が最良だとした。

第一の仮想敵とされ、戦力が拮抗するフランス海軍に加え、本来仮想敵として定められていなかった「格上」の英海軍をも敵に回したことを考えると、こうせざるを得ないのは当然ともいえる。そういった方針に基づき、海軍計画はその方針に沿って強化が進められ、海軍は戦艦と潜水艦を特に強化した。しかし、計画最中に第二次世界大戦に参戦することとなったため、1940年6月の時点で行動可能な戦艦はカヴール級2隻のみだった。こうして、イタリア海軍の戦いが始まった。

開戦時(1940年6月10日)のイタリア海軍の戦力を見てみると、

▣戦艦

:2隻(カヴール級)

水上機母艦

:1隻(ジュゼッペ・ミラーリア)

巡洋艦

:22隻(トレント級、ザラ級、サン・ジョルジョ、ジュッサーノ級、カドルナ級、モンテクッコリ級、ドゥーカ・ダオスタ級、アブルッツィ級、バーリ、ターラント)

駆逐艦

:59隻(レオーネ級、ナヴィガトーリ級、オリアーニ級、ソルダーティ級、マエストラーレ級、ダルド級、ミラベッロ級、フォルゴレ級、トゥルビネ級、サウロ級、セッラ級)

水雷艇

:69隻(スピカ級、オルサ級、ピーロ級、シルトリ級、ラ・マーサ級、ジェネラーリ級、パレストロ級、クルタトーネ級、インドミート級、アウダーチェ)

▣潜水艦

:117隻(アドゥア級、アルゴナウタ級、ペルラ級、シレーナ級、アルキメーデ級、アルゴ級、バリッラ級、バンディエーラ級、ブラガディン級、ブリン級、カルヴィ級、フィエラモスカ級、フォカ級、グラウコ級、H級、リウッツィ級、マメーリ級、マルチェッロ級、マルコーニ級、ミッカ級、ピサーニ級、セッテンブリーニ級、スクァーロ級、X級)

これに通報艦(アヴィゾ)、機雷敷設艦、MAS艇、仮装巡洋艦などが加わった。

 ↓参戦時の各艦隊の編制等はこちら。

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特筆すべきは潜水艦隊の規模で、開戦当時ではドイツ海軍より勝り(ドイツ海軍が潜水艦隊重視に本格シフトしたのは大戦中盤頃)、ソ連海軍に次ぐ世界第二位の潜水艦隊の規模を持っていた。この理由は先述したように、船団襲撃の戦力としてカヴァニャーリ提督は潜水艦を重要視したからである。

また、駆逐艦水雷艇部隊の実力も高く、船団護衛における対潜水艦戦の実力は枢軸国の中でも特に特筆するべき点だろう。ターラント空襲でカヴァニャーリ提督が失脚するまでは基本的に地中海におけるイタリア海軍の戦果は水雷艇駆逐艦による対潜水艦戦の戦果と、潜水艦による船団襲撃の戦果が主であることからも、それがよくわかる。

今回は詳述しないが、以前記事にちょろっと書いたのでよければどうぞ。

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 また、イタリアの参戦と共に紅海・インド洋におけるイタリア海軍の戦いも開始した。こちらは地中海戦線と違い、陸軍・空軍の前半の善戦とは対照的に、終始イタリア海軍が不利な状況で一方的に敗北している。

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■6月14日:ジェノヴァ沖海戦

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1940年6月14日:ジェノヴァ沖海戦

イタリア海軍は6月10日の参戦後、まず近海への機雷敷設任務に従事した。同時に潜水艦隊による船団攻撃が開始され、開戦二日後の6月12日には潜水艦「バニョリーニ」がクレタ島沖にて英軽巡カリプソを、潜水艦「ナイアデ」がアレクサンドリア沖にて英船団のタンカーを撃沈している(6月11日の段階で潜水艦「スメラルド」がアレクサンドリア沖にて英船団襲撃を行ったが、こちらは失敗に終わっている)。

6月における地中海の海戦は、「第一の仮想敵」たるフランス海軍を主要な敵として定めた。イタリアは参戦した一方で、「ドイツ軍が勝利すると思われるこの戦いにおいて、講和会議で勝者側に立つ」というムッソリーニの目論見による"形式的参戦"の部分があったため、主要敵であるフランス側への積極的な攻撃は行われず、特に陸軍に至っては発砲禁止命令が出ていた。その均衡が崩れたのが6月14日で、イタリア陸軍は伊仏国境を突破し、国境付近のフランス軍拠点を制圧している。しかし、すぐに守勢に戻っており、本格的な侵攻開始は6月21日まで待たねばならなかった。

陸軍の不甲斐ない戦いぶりが強調されるフランス戦だが、空軍はフランス本土/植民地の主要拠点を次々と爆撃し、航空戦でも多くの戦果を挙げた。一方で、海軍もフランス戦においてまずまずの戦果を挙げていると言える。第二次世界大戦のフランス海軍vsイタリア海軍の戦いの中でも特に知られているのが、6月14日に発生したジェノヴァ沖海戦」だ。というのも、これは第二次世界大戦時において唯一と言える、イタリア水上艦隊vsフランス水上艦隊の戦いだからである。

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イタリア水雷艇「カラタフィーミ」

イタリア参戦から3日後、1940年6月13日の夜にジュゼッペ・ブリニョーレ(Giuseppe Brignole)中尉が艦長を務める水雷艇「カラタフィーミ」は機雷敷設艦「エルバノ・ガスペリ」を護衛し、リグーリア海岸で機雷敷設任務に従事していた。その時、フランス海軍はリグーリア海岸工業都市に艦砲射撃(ヴァード作戦)を行うため、重巡艦隊を派遣していた。フランス第三艦隊司令官であるエミール・デュプラ(Émile Duplat)提督は重巡「アルジェリー」を旗艦とし、リグーリア海岸砲撃に向かった。

フランス艦隊は三つのグループに分けられており、一つ目のグループがデュプラ提督が直接指揮する「アルジェリー」を旗艦とし、重巡「フォッシュ」、そして6隻の駆逐艦で構成された。これは、サヴォーナ周辺の工業地帯を目標とした。二つ目のグループは、重巡デュプレクス」と重巡「コルベール」、そして5隻の駆逐艦で構成された。これは、ジェノヴァへの直接攻撃を目的とした。更に三つ目のグループは三隻の駆逐艦と四隻の潜水艦で構成されていた。このグループは後方支援を担当し、二つのグループをサポートしつつ、イタリア海軍の介入を妨害することを目的とした。

デュプラ提督率いる一つ目のグループはサヴォーナ及びヴァード・リーグレの工業地帯を砲撃した。ここではイタリア側の対応は遅れ、「アルジェリー」及び「フォッシュ」から放たれる砲弾によって工業地帯は被害を受けることになった。スポレート侯アイモーネ・ディ・サヴォイア(Duca di Spoleto, Aimone di Savoia-Aosta)率いるリグーリア隊司令部は直ちにMAS艇部隊を発進させたが、フランス艦隊に効果的なダメージを与える事は出来なかった

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フランス海軍の重巡デュプレクス

「カラタフィーミ」艦長ブリニョーレ中尉は、翌日となった6月14日の朝4時、双眼鏡でフランス艦隊を発見した。場所は丁度サヴォーナとジェノヴァの中間であった。この艦隊はジェノヴァ攻撃を目標とする第二グループのフランス艦隊で、重巡デュプレクス」「コルベール」、駆逐艦「ヴォートゥール」「アルバトロス」「ゲパール」「ヴァルミ」「ヴュルデン」の計7隻で構成されていた。
ブリニョーレ中尉は、機雷敷設艦「エルバノ・ガスペリ」を撤退させ、今まさにジェノヴァを砲撃している重巡2隻・駆逐艦5隻、計7隻から構成されるフランス艦隊に「カラタフィーミ」単艦で勝負を挑んだのである。戦闘はジェノヴァ沖で行われた。戦闘が開始されると、陸上側も行動を起こした。沿岸要塞と装甲列車が「カラタフィーミ」を援護したのである。しかし、「カラタフィーミ」は主砲と魚雷を活用して攻撃したが、高速能力を誇るフランス艦隊はそれを回避していった。「カラタフィーミ」は駆逐艦「ヴォートゥール」及び「アルバトロス」を追撃したが、その際に駆逐艦「アルバトロス」は砲弾が命中した。これをイタリア側は「撃沈」と確認したが、実際は撃沈まではしておらず、「アルバトロス」は中破した状態であった。
フランス艦隊司令官デュプラ提督はこの「カラタフィーミ」の突撃を受けて、イタリア海軍の増援が来ることを恐れ、砲撃艦隊に撤退を命令。これにより、「カラタフィーミ」は単艦でフランス艦隊に突撃し、これの撃退に成功したのであった。更にはリグーリア海岸への砲撃の被害も運良く小規模なものであった。旧式の水雷艇が、たった一隻で7隻(内2隻は重巡)の艦隊に立ち向かい、それの撃退に成功し、更には無事に帰還したという例は海軍史上でも中々無いだろう。ブリニョーレ艦長はこの功績によってイタリア軍最高名誉である金勲章を受勲されて英雄となり、LUCEによって彼の功績を讃える映画『Alba di guerra sul Mar Ligure(リグーリア海での戦争の夜明け)』も作られている。

とはいえ、隣国とはいえ自国の工業生産の中心地の沿岸まで敵艦隊の侵入を許したイタリア側の失態は大きく、今回の成功は運良く「カラタフィーミ」が敵艦隊を発見し、これを撃退したことによるものだった。イタリア空軍の航空偵察不足、そして海軍の哨戒不足が指摘され、当時のリグーリア隊司令部長であるスポレート侯アイモーネ・ディ・サヴォイア提督の失態と言える。

 

■6月28日:エスペロ船団の海戦

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1940年6月28日:エスペロ船団の海戦

ジェノヴァ沖海戦後も依然として地中海戦線では潜水艦による船団攻撃と、船団護衛中の対潜水艦戦が中心で、結局フランス休戦まで水上艦隊同士の海戦は発生しなかった。1940年6月24日、イタリアとフランスはヴィッラ・インチーサ休戦協定を調印し、翌日には両軍の戦闘は停止した。この休戦までにイタリア軍はフランス本土と植民地の仏領ソマリ(現在のジブチ)において攻勢を行い、ある程度の領域を占領地域としている。フランスの休戦により、地中海戦線からフランス海軍は離脱した。

フランス海軍の離脱後、地中海戦線は完全にイタリア海軍と英海軍の戦場となった。そんな中発生した、「伊英水上艦隊初の海戦」が6月28日のエスペロ船団の海戦である。この海戦はエンリコ・バローニ(Enrico Baroni)大佐が率いる駆逐艦エスペロ」を旗艦とするイタリア船団と、ジョン・トーヴィー提督(John Tovey)率いる軽巡「オリオン(オライオン)」を旗艦とする艦隊の衝突である。駆逐艦エスペロ」を旗艦とするイタリア船団は「エスペロ」の他、「オストロ」「ゼフィッロ」の駆逐艦3隻と北アフリカ戦線のための兵員及び兵器を輸送する輸送船で構成されていた。この船団はターラント港から出発し、リビアのトブルク港を目指していた。当時、北アフリカ戦線ではリビア総督であるイタロ・バルボ(Italo Balbo)空軍元帥がエジプト侵攻作戦を準備しており、その増強の一環として行われた輸送船団であった(しかし、この船団輸送と同日にバルボ元帥はトブルク上空にて味方の誤射で撃墜死している)。

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イタリア駆逐艦エスペロ」

一方で、英海軍側はアレクサンドリアに向かう船団護衛のためにクレタ島沖に展開していた。この艦隊は軽巡「オリオン」を旗艦とし、「シドニー」「グロスター」「ネプチューン」「リヴァプール」の軽巡5隻で構成されていた。航空偵察によってイタリア船団の位置を確認した英艦隊はこれの襲撃に向かった。逆に、イタリアは例の如く、空軍による航空偵察の不足によって、英艦隊を発見出来ていなかった。こうして、6月28日18時半にクレタ島西方沖にて英艦隊は伊船団を発見、交戦を開始した。

イタリア旗艦エスペロ」は機関に不調があり高速が発揮出来なかったため、バローニ大佐はこのままでは敵の圧倒的火力を前に撤退は不可能と判断、「エスペロ」を盾に他の船団を逃がすことを決めた。エスペロ」は煙幕を展開し、迂回行動を取って英艦隊を攪乱させて船団の逃亡を試みた。バローニ大佐の戦術は効果的であった。英艦隊は「エスペロ」との戦いに多くの弾薬を使い、弾薬不足に陥った

この間に、残る2隻の駆逐艦「ゼフィッロ」「オストロ」に護衛された船団はトブルク港に辿り着くことに成功している。軽巡シドニー」の攻撃によって「エスペロ」は撃沈、バローニ大佐も戦死したが、「エスペロ」も軽巡リヴァプール」を攻撃し、これを小破させて一矢を報いた。結局トーヴィー提督は弾薬欠乏のためにイタリア船団への追撃を中止し、アレクサンドリアへの帰港を決定したのであった。結果として、イタリア艦隊は駆逐艦1隻による捨て身の反撃によって、船団輸送に成功し、戦略的な勝利を得たのである。この海戦の結果により、イタリア側は航空偵察の不足を痛感し、英国側は昼間における高速艦隊との戦いは困難であると実感した。

 

■7月9日:プンタ・スティーロ海戦

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1940年7月9日:プンタ・スティーロ海戦

 地中海戦線最初の一カ月が終わり、7月に突入した。イタリア陸軍はこの月は東アフリカ戦線で攻勢を行い、スーダン南東部とケニア北部の制圧に成功した。一方で、地中海方面では同戦線初となる、主力艦隊同士の衝突が発生した。その海戦が「プンタ・スティーロ海戦(英語ではカラブリア沖海戦とも)」である。

バルボ元帥の戦死後、後任としてリビア総督を兼任した陸軍参謀長ロドルフォ・グラツィアーニ元帥(Rodolfo Graziani)はエジプト侵攻計画のために本土への増援要請を行った。海軍はリビアへの大規模輸送船団を組織し、リビアへの派遣を決定した。4隻の輸送船がナポリから、もう1隻の輸送船はカターニアから出発し、計5隻の輸送船団がリビアベンガジ港に向かった。この輸送船団をイニーゴ・カンピオーニ(Inigo Campioni)提督率いる戦艦「ジュリオ・チェーザレ」を旗艦とする主力艦隊が護衛した。この輸送船団は約2000人の兵員、72輌のM11/39中戦車、232輌の戦闘車両、更に約1万トンの物資と約6千トンの燃料を運ぶ大船団であった。

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イタリア戦艦「ジュリオ・チェーザレ

一方で、英海軍側は先のエスペロ船団の海戦の結果を受けてマルタ船団の出発を中止したため、アレクサンドリア港から主力艦隊を出港させ、マルタに向かわせていた。戦艦「ウォースパイト」を旗艦とし、アンドリュー・カンニンガム(Andrew Cunningham)提督の指揮下にあった。つまり、両艦隊の衝突は双方共に船団護衛任務中に発生した。ジュゼッペ・ロンバルディ(Giuseppe Lombardi)提督率いるSIS(海軍諜報部)は電波傍受によって英艦隊側の行動を把握しており、更にCANT Z.506による水上偵察により、敵艦隊の位置を把握していた。カンピオーニ提督は船団を護衛するために敵艦隊の迎撃を開始しようとしたが、カヴァニャーリ提督率いるスーペルマリーナは夜間戦闘で艦隊が損害を受けることを考慮し、敵艦隊への接触を避けるように命令した。英艦隊はエーゲ海諸島から出発したイタリア空軍のサヴォイアマルケッティSM.79及びSM.81爆撃機の攻撃を受け、軽巡グロスター」が大きな損害を受けた。「グロスター」は艦橋に爆弾が直撃し、艦長含む司令部が戦死。更に操縦桿と主砲が使用不能となった。こうして、イタリア艦隊は船団護衛を成功させ、7月8日の午後にトブルク港に到着した。

船団護衛を終えたカンピオーニ提督率いるイタリア艦隊はターラント軍港への帰路についたが、英海軍側もイタリア艦隊の位置を航空偵察で把握しており、7月9日の正午にカラブリア、プンタ・スティーロ沖にて両艦隊は遭遇した。イタリア艦隊はカンピオーニ提督率いる戦闘艦隊(第一艦隊)と、リッカルド・パラディーニ(Riccardo Paladini)提督率いる援護艦隊(第二艦隊)で構成されていた。第一艦隊戦艦「ジュリオ・チェーザレ」を旗艦とし、戦艦2隻(「ジュリオ・チェーザレ」「コンテ・ディ・カヴール」)、軽巡8隻(「バルビアーノ」「ジュッサーノ」「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」「ドゥーカ・ダオスタ」「モンテクッコリ」「アッテンドーロ」「アブルッツィ」「ガリバルディ」)、駆逐艦14隻で構成され、第二艦隊重巡「ポーラ」を旗艦とし、重巡6隻(「ポーラ」「ザラ」「フィウーメ」「ゴリツィア」「トレント」「ボルツァーノ」)、駆逐艦12隻で構成されていた。一方で、英艦隊は戦艦「ウォースパイト」を旗艦とし、戦艦3隻(「ウォースパイト」「マラヤ」「ロイヤル・サブリン」)、空母1隻(「イーグル」)、軽巡5隻(「オリオン」「リヴァプール」「グロスター」「シドニー」「ネプチューン」)、駆逐艦16隻で構成された。

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カラブリア州モナステラーチェに残るプンタ・スティーロ海戦の記念碑(2018年2月3日筆者撮影)

海戦は英空母「イーグル」の艦上雷撃機による雷撃によって始まったが、これは失敗した。その後、両艦隊による砲撃戦が開始。軽巡ガリバルディ」の砲撃を受け、軽巡ネプチューン」はカタパルトと艦載機を破壊される損害を受け、甲板が炎上した。戦艦「ジュリオ・チェーザレ」は主砲斉射により、駆逐艦「ヘレワード」及び駆逐艦「デコイ」に損害を与えた。イタリアの測距儀は英艦隊の測距儀より優れた性能を持っていたため、これは英艦隊にとって大きな脅威となった。

戦艦「ウォースパイト」は「ジュリオ・チェーザレ」に対して直撃弾を与えたが、これは約26,000mも離れた距離から当たったため、「移動目標に対する最長の命中記録」として記録されている(ボイラー室が損傷したため速度が下がったが、迅速なダメコンによって「チェーザレ」は被害自体は最小限に抑えることが出来た)。重巡ボルツァーノ」も敵艦隊との交戦で損害を受けた

この海戦は双方に損害を齎した後、決定的な勝敗がつかずに両艦隊は帰港を決定した(事実上の引き分け)。ムッソリーニはこれを英艦隊を撃退した一大勝利として称えた。更に、イタリア艦隊は既に大輸送船団のリビアへの護衛を無傷で成功させていた上英海軍のマルタ到達を阻止したため、戦略的な勝利とも言える。カンピオーニ提督は主力艦が旧式戦艦2隻(カヴール級)という状況で戦力に勝る英艦隊と拮抗した戦いを繰り広げた事に対して、大きな自信を得られたとしている。この海戦で、伊空軍の追撃を合わせると、イタリア側は英艦隊に対して軽巡グロスター」及び「ネプチューン」、駆逐艦「ヘレワード」及び「デコイ」に対して損害を与え自軍は戦艦「チェーザレ」及び重巡ボルツァーノ」を損傷した。一方で、主力艦が2隻しか行動不能である状態に「チェーザレ」が損害を受けたことは伊艦隊側の行動を抑制した。海戦後、「チェーザレ」はラ・スペツィアで修復され、翌月に戦線に復帰した。一方、この段階でリットリオ級2隻はまだ出撃準備が整っていなかったため、イタリアの主力戦艦は「カヴール」1隻のみという状態になった。

なお、プンタ・スティーロ海戦はイタリア映画の巨匠ロッセリーニ監督の『白い船』でも描かれている。気になる人はぜひ見てみてほしい。

 

■7月19日:スパダ岬沖海戦

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1940年7月19日:スパダ岬沖海戦

プンタ・スティーロ海戦の余波が残っている中、イタリア艦隊は東地中海における英船団攻撃の強化のため、エーゲ海諸島への艦隊派遣を決定した。イタリアは伊土戦争によってドデカネス諸島を獲得しており、東地中海を勢力圏とする英国、そして近隣諸国のギリシャとトルコにとっては大きな脅威となっていた。ルイージ・ビアンケーリ(Luigi Biancheri)提督率いるエーゲ海艦隊は小規模戦力ながら東地中海において船団攻撃を実行し、駐在空軍も英軍拠点や船団への爆撃を行い、英国側に打撃を与えていた。スーペルマリーナは英国の勢力圏である東地中海を脅かすため、戦力強化を決定した。

艦隊はフェルディナンド・カサルディ提督(Ferdinando Casardi)によって指揮され、旗艦である軽巡ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ」及び僚艦・軽巡「バルトロメオ・コッレオーニ」の軽巡2隻で構成された。トリポリ港を出港したカサルディ艦隊はエーゲ海諸島のレーロ軍港を目指した。英艦隊側はこの2隻の軽巡戦隊の移動を哨戒によって把握しており、軽巡シドニー」を旗艦とする艦隊を出撃させた。この艦隊はジョン・コリンズ提督(John Collins)によって指揮され、軽巡1隻駆逐艦5隻で構成された。

スーペルマリーナはエーゲ海諸島駐屯空軍に航行の安全を確保するために航空偵察を要請した。空軍部隊は航空偵察を実行したが、敵艦隊を発見できなかった。一方、トリポリを出港した2隻のイタリア軽巡だったが、「コッレオーニ」は機関の不調を起こしていた。そんな中、7月19日の夜明けにクレタ島東部のスパダ岬沖にてカサルディ提督率いる巡洋艦戦隊はコリンズ提督率いる英艦隊を発見し、交戦を開始した。

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イタリア軽巡ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ

当時、海は荒れており、更に霧による視界不良により砲撃の命中率が下がった。「コッレオーニ」は機関の不調により不動の状態の中で軽巡シドニー」による連続の砲撃、更に駆逐艦隊による雷撃を受けて撃沈された。「コッレオーニ」が瞬く間に撃沈された要因として、機関の不調だけでなく、イタリアの巡洋艦は高速能力を実現するために総じて軽装甲(英国側が言うには「紙装甲」)であったことが挙げられる。防御性能を持たない「コッレオーニ」は悪天候の中で敵艦隊に袋叩きにされるに至った。一方で、「バンデ・ネーレ」は「シドニー」に対して砲撃を命中させて損害を与えた。コリンズ提督は弾薬の欠乏と損害のために「バンデ・ネーレ」に対する追撃を中止し、「バンデ・ネーレ」はベンガジに辿り着いた。空軍部隊の航空支援は今回も対応に遅れたが、爆撃によって駆逐艦「ハヴォック」が中破するなど英艦隊側も被害を受けている。

この海戦においてイタリア巡洋艦の装甲の薄さ、空軍の航空支援の対応の遅さが露呈した。カサルディ提督はその後軽巡「ドゥーカ・ダオスタ」に旗艦を変更し、東地中海における船団護衛、ギリシャ沿岸部への艦砲射撃、機雷敷設といった数々の任務を成功させて活躍、スパダ岬の敗北イメージを払拭させることに成功した。

 

■8月15日:ティノス港攻撃

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1940年8月15日:ティノス港攻撃

1940年8月、地中海戦線では相変わらず潜水艦と水雷艇駆逐艦の戦いが継続され、戦局に大きな変化はなかった。なお、この月には潜水艦「マラスピーナ」がジブラルタル海峡を突破し、イタリア潜水艦として初めて大西洋で戦果を挙げた。また、陸軍の動向では東アフリカ戦線でグリエルモ・ナージ(Guglielmo Nasi)将軍率いる伊軍部隊が英領ソマリランド全域を完全制圧し、英軍は今大戦で初の自国領(植民地を含む)における決定的な敗北を喫することとなった。イタリア軍は戦局を有利に進めていた。

エーゲ海方面ではこの頃、「ティノス港攻撃」と呼ばれる事件が起こっている。ギリシャ侵攻計画に賛同し、対ギリシャ工作を実行していたエーゲ海総督のチェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキ(Cesare Maria De Vecchi)はエーゲ海における特殊作戦を命じた。ギリシャ領海を航行する連合軍側の輸送船を攻撃することであった。これは、スーペルマリーナからもたらされた情報に基づくものであったが、当時はギリシャは中立国であるため、この作戦は秘密裏に実行されることとなった。 

デ・ヴェッキの命令はティノス島及びシロス島近海とのことであった。このギリシャ領海における輸送船攻撃作戦はジュゼッペ・アイカルディ中尉が艦長を務める潜水艦「デルフィーノ」に任された。「デルフィーノ」はティノス港に入港するギリシャ軽巡「エリ」と輸送船2隻を発見した。この時、ギリシャでは「生神女就寝祭」と呼ばれる正教会の祭日であり、「エリ」はその式典参加のためにティノス島を訪れていた。アイカルディ艦長は「エリ」と共に航行していた輸送船が「中立国であることを示す旗を掲げていなかった」ために雷撃を実行し、「エリ」は撃沈された。

この問題はギリシャ・イタリア関係を極度に悪化させる事態となった。中立国であるギリシャ軍艦をイタリア潜水艦が撃沈したため、当然である。イタリア側は関与を否定して英国の仕業であると主張したが、英国はそれを否定し、イタリア側の仕業であると反論した。ギリシャ側は魚雷の破片がイタリア製であったことを確認していたが、関係悪化を恐れてイタリア側には通告しなかった。しかし、イタリア側のギリシャ侵略への意思は揺らぐことはなく、10月末にはイタリアは侵攻作戦を開始することとなる。

 

■10月12日:パッセロ岬沖海戦

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1940年10月12日:パッセロ岬沖海戦

1940年9月、グラツィアーニ元帥率いるイタリア軍はエジプトへの侵攻を実行し、シディ・バッラーニまでの制圧に成功した。東アフリカ戦線においても伊軍は戦局を有利に進め、更に9月27日には日独伊三国同盟が締結され、非参戦状態ではあるが日本はイタリアやドイツと同盟国となった。大西洋においてはアンジェロ・パローナ(Angelo Parona)提督率いるイタリア大西洋艦隊が発足し、潜水艦隊は着々と戦果を挙げていった。一方で、空軍は英国本土爆撃への参加やペルシャ湾油田への長距離爆撃を行うなど、その存在感を増していっていた。

マルタ島はイタリア参戦後からイタリア空軍による爆撃に晒されており、更に周囲はイタリアの制海権にあることから英海軍はこの拠点を失わない為にも必需物資の供給をしなければならなかった。シチリア島シラクーザ近郊、パッセロ岬にて哨戒中であったカルロ・マルゴッティーニ大佐(Carlo Margottini)率いる第11駆逐戦隊は、10月12日の夜明けにマルタに向かっていたデズモンド・マッカーシー大佐(Desmond McCarthy)率いる英艦隊を発見、交戦を開始した。伊英艦隊初の夜間戦闘であった。

イタリア側は駆逐艦「アルティリエーレ」を旗艦とし、駆逐艦8隻・水雷艇6隻で構成された。一方で、英国側は軽巡「エイジャックス」を旗艦とし、重巡1隻(「ヨーク」)、軽巡7隻、駆逐艦16隻で構成されていた。水雷艇「アイローネ」「アルチョーネ」「アリエール」は軽巡「エイジャックス」に雷撃を発射するが、「エイジャックス」はこれを回避。更に「アイローネ」は追加で雷撃を行い、砲撃も実行。これに関しては、雷撃は回避されたが、砲撃は「エイジャックス」に命中し、損害を与えた

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軽巡「エイジャックス」

「エイジャックス」は反撃を開始し、水雷艇「アリエール」「アイローネ」は連続で砲撃を受けて撃沈。「アルチョーネ」は攻撃を回避して撃沈を免れた。続いて、旗艦「アルティリエーレ」が「エイジャックス」と交戦。「アルティリエーレ」は雷撃と砲撃を行い、雷撃は「エイジャックス」によって回避されたが、砲撃は命中し、レーダーを破壊して使用不能にするなど損害を与えた。しかし、その後の追撃で重巡「ヨーク」の攻撃を受けて「アルティリエーレ」は撃沈されてしまった。残存イタリア艦隊は煙幕を展開し、アウグスタ港に帰港することに成功した。

この海戦を受けて、夜間戦闘においてイタリア艦隊は圧倒的に不利な状況にあると確信した。スーペルマリーナは英艦隊がレーダーを使用している可能性を疑ったが、この段階では推測に過ぎず、カヴァニャーリ提督はレーダーの開発再開を命じることはなかった。また、航空偵察の欠如はこの海戦においても指摘されていた。

 

■11月11日~12日:ターラント空襲

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1940年11月11日-12日:ターラント空襲

ターラントの夜(Notte di Taranto)」はイタリア海軍にとって、大戦を通じて最大の大惨事となった。カヴァニャーリ提督率いるイタリア海軍は依然として現存艦隊主義を掲げており、ターラント軍港にはリットリオ級戦艦「リットリオ」及び「ヴィットリオ・ヴェネト」、カヴール級戦艦「カヴール」及び「チェーザレ」、そしてドゥイリオ級戦艦「ドゥイリオ」及び「ドーリア」の6隻の主力戦艦が大集結していた。英海軍のカンニンガム提督はこの現存艦隊主義によって地中海の制海権が脅かされ、連合軍船団の航行が困難となっていることを考え、ターラント軍港を襲撃し、主力戦艦を一挙に行動不能とする計画を実行した。

空母「イラストリアス」から発進したソードフィッシュ雷撃機20機による攻撃が行われた。第一班は11月11日夜20時40分、第二班は夜22時に出動した。22時50分、ターラント軍港にて空襲警報が発令、照明弾によって主力艦隊がはっきりと照らし出され、まず「カヴール」への攻撃が行われた。「カヴール」はプリエーゼ式水雷防御システムの範囲外であり、急所である船底に雷撃が被弾し、更に港湾内という環境ゆえに雷撃の威力が増幅され、港湾内で撃沈された。しかし、雷撃機も「カヴール」の機銃掃射で撃墜されている。「リットリオ」に対しては左舷の艦尾と艦首に雷撃を食らった。「ヴィットリオ・ヴェネト」及び「ドーリア」に対しても攻撃が実行されたが、これは失敗した。

次いで、第二班による攻撃も連続で行われた。これを受け、「ドゥイリオ」は右舷艦首に雷撃を受け大破。更に「リットリオ」が再度攻撃を受けて大破、また「ヴィットリオ・ヴェネト」と重巡「ゴリツィア」も攻撃を受けたがこれは再度失敗している。また駆逐艦「リベッチオ」及び「ペッサーニョ」、重巡トレント」も被害を受けた

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イタリア主力艦隊が攻撃を受けた、ターラント軍港のマル・グランデ(Mar Grande)。現在もイタリア主力艦隊(空母2隻を主軸とする)の母港で、後方に主力空母「ガリバルディ」及び「カヴール」が見える(2017年5月27日筆者撮影)

これを受け、主力戦艦3隻が行動不能となる大惨事となってしまった。「カヴール」に至っては浮揚され、その後修復が開始されたが損害が酷く、結局修復は完了しなかった。「リットリオ」は翌年3月、「ドゥイリオ」は翌年5月までに修復を完了して復帰している。このターラント空襲の結果から、イタリア戦艦に搭載された「プリエーゼ式水雷防御」が欠陥と言われることがあるが、その評価は正しくない。最も被害の大きかった「カヴール」に至ってはそもそもプリエーゼ式水雷防御の範囲外である船底に攻撃を食らい、そこはそもそも船の弱点であった。それに加え、港湾は水深が浅いために雷撃の威力が増幅されたことが、「カヴール」がたった一発の雷撃で沈んだ原因である。

「ドゥイリオ」に関しては、カヴール級同様に旧式戦艦を改修してプリエーゼ式水雷防御を搭載したため、本来の性能を発揮出来ていなかった、と言われる。と言えども、撃沈は免れて翌年には復帰した。「リットリオ」は今回の攻撃で計3本もの雷撃を食らったが、受けた攻撃の被害は最大であったにもかかわらず、最短で修復が完了した。なお、実戦においてはリットリオ級は度々戦場で雷撃を受けているが、ダメージを軽減して自力の航行で帰港しているため、プリエーゼ式水雷防御は効果的な防御システムであったと評価出来るだろう(この海戦については後に説明する)。

ターラント空襲の被害を受け、海軍参謀長カヴァニャーリ提督は更迭され、新たな参謀長にはアルトゥーロ・リッカルディ(Arturo Riccardi)提督が就任した。彼の就任後、艦隊の基本方針(現存艦隊主義)は燃料不足から継続されたが、艦隊指揮官の裁量権の向上、保守的な兵器開発方針の変更などをおこなっている。また、被害を受けた戦艦の修復を巡り、設計者であったウンベルト・プリエーゼ(Umberto Pugliese)造船中将が復帰している(プリエーゼ式水雷防御の名前のもとになった人物)。プリエーゼ提督はユダヤ系の出自であったため、ファシスト政権による反ユダヤ諸法「人種法」によって失脚していたが、この非常事態によって「特例」として「人種法」適用外になり、海軍へ復帰させられたのであった。

 

■11月12日:オトラント海峡海戦

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1940年11月12日:オトラント海峡海戦

一方で、英海軍はターラント空襲と同時に、イタリア海軍への陽動のために、オトラント海峡への進出を行った。ヘンリー・プリダム・ウィッペル(Henry Pridham-Wippell)提督率いる英艦隊は軽巡「オリオン」を旗艦とし、軽巡3隻(「オリオン」「シドニー」「エイジャックス」)、駆逐艦2隻(「モホーク」「ヌビアン」)で構成された。丁度、南部アドリア海ではジョヴァンニ・バルビーニ(Giovanni Barbini)大佐率いる水雷艇「ファブリツィ」を旗艦とし、僚艦である仮装巡洋艦「ラム3」で構成された艦隊が4隻の輸送船を護衛し、アルバニアのヴロラ港(ヴァロナ港)に向かっていた。当時、イタリアはギリシャ侵攻を開始しており、アルバニアへの物資補給が急がれていた。

11月12日の深夜1時20分に艦隊は遭遇し、交戦を開始した。旧式の水雷艇軽武装仮装巡洋艦で構成された護衛艦隊では、軽巡3隻と駆逐艦2隻で構成された英軍陽動艦隊には太刀打ちすることも不可能であった。水雷艇「ファブリツィ」は大きな損害を受けて中破し、司令官であるバルビーニ大佐も重傷を受けた。バルビーニ大佐は重傷を負いながらも「ファブリツィ」で指揮を続け、何とか「ラム3」と共に撃沈を免れてバーリ港に避難した。イタリア空軍は即座に反応し、敵艦隊の捜索を行ったが見つからなかった。結果として、英海軍側の陽動は成功したのであった。

 

■11月17日:ホワイト作戦阻止

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1940年11月17日:ホワイト作戦阻止

ターラント空襲によって、英海軍地中海艦隊司令カンニンガム提督はイタリア艦隊は更に消極的になり、港に引きこもるだろうと予想していた。しかし、それは11月17日のっホワイト作戦発動により裏切られることとなった。 実際、イタリア艦隊は大きな損害を受けており、地中海における制海権は英国有利になっていたが、イタリア艦隊は英海軍側が思っていたようには臆病ではなかった

ターラントの奇襲によってイタリア主力艦隊の脅威を一掃したと考えた英軍は、マルタ防衛のために同島の航空機増強を計画した。ジェームズ・サマヴィル提督(James Somerville)は11月15日にジブラルタルを出港、1940年11月17日、英海軍はマルタ島への航空機輸送作戦「ホワイト」を発動、空母「アーク・ロイヤル」及び空母「アーガス」から艦載機がマルタに向けて発艦した。これを巡洋戦艦レナウン」及び軽巡2隻・駆逐艦7隻が護衛した。

しかし、ロンバルディ提督率いるSISはこの情報を入手し、英海軍の動向を把握したカンピオーニ提督率いる第一艦隊はナポリを出港し、これの迎撃に出撃した。戦艦「ジュリオ・チェーザレ」を旗艦とし、サルデーニャから出港した戦艦「ヴィットーリオ・ヴェネト」と合流し、2隻の重巡(「トレント」及び「ボルツァーノ」)、数隻の駆逐艦で構成されていた。このイタリア艦隊の登場は、英海軍側の完全な予想外であり、英海軍の作戦妨害に効果的であった。発艦時間を早めた結果、様々な要因によって英海軍の作戦は失敗することとなったからである。発艦した14機の内9機が失われ、僅か5機しかマルタ島に到着できず、英海軍による航空機輸送作戦は失敗した。特に、経験豊富な戦闘機パイロットを失ったのは英国にとって打撃が大きく、サマヴィル提督は「凄まじい失敗である」と述べたイタリア艦隊は英海軍の作戦阻止に成功し、「イタリア主力艦隊は港に引きこもっている」という英国側の予想は完全に外れることとなった

 

■11月27日:テウラダ岬沖海戦

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1940年11月27日:テウラダ岬沖海戦

先のホワイト作戦の大失敗により出鼻を挫かれた英艦隊であったが、ターラント空襲の余波でイタリア海軍が麻痺している間に、大輸送船団の地中海横断計画を立てた。これは11月24日から開始され、まず輸送船団がジブラルタル海峡を越えて地中海に入り、同じくジブラルタル出港の巡洋戦艦レナウン」及び空母「アーク・ロイヤル」を始めとする艦隊(巡洋戦艦1、空母1、巡洋艦2、駆逐艦9、コルベット4)がこれを護衛した。同時にアレクサンドリア港から「ラミリーズ」など戦艦5隻、空母2隻及び巡洋艦3隻が出港した。この計画はアレクサンドリア港を出た艦隊のうち、空母1隻と戦艦2隻はシチリア海峡を通過したところでアレクサンドリア港に引き返し、他の空母1隻と戦艦2隻は輸送船の護衛、残りの戦艦1隻と巡洋艦3隻は航行を続けてジブラルタルに入港することとなった。

11月26日、スーペルマリーナはこの英艦隊への攻撃を決定し、艦隊を出発させた。カンピオーニ提督率いる第一艦隊は戦艦「ジュリオ・チェーザレ」を旗艦とし、戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」の戦艦2隻と7隻の駆逐艦で構成された。第二艦隊は指揮を執るパラディーニ提督が心臓疾患で倒れたため、後任司令官となったアンジェロ・イアキーノ提督(Angelo Iachino)のもとで、重巡洋艦「ポーラ」を旗艦とし、重巡6隻(「ポーラ」「フィウーメ」「ゴリツィア」「ボルツァーノ」「トリエステ」「トレント」)及び駆逐艦7隻で構成されていた。この出撃によって、ホワイト作戦に続き、英海軍による「イタリア海軍引きこもり論(仮)」を最早意味のないものと化した。

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イタリア戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」

11月27日には、サルデーニャ島南のテウラダ岬沖(スパルティヴェント岬沖とも)にて、イタリア艦隊はサマヴィル提督率いる英国艦隊と遭遇した。これは、二度目の伊英主力艦隊同士の大規模海戦となった。英国艦隊はサマヴィル提督率いるB部隊とランスロットホランド提督(Lancelot Holland)率いるF部隊で構成された。B部隊は巡洋戦艦レナウン」を旗艦とし、戦艦「ラミリーズ」、空母「アーク・ロイヤル」、駆逐艦9隻で構成された。F部隊は重巡1隻(「ベリック」)、軽巡4隻(「マンチェスター」「サウサンプトン」「シェフィールド」「ニューカッスル」)で構成されていた。その他、軽巡「ディスパッチ」及び「コヴェントリー」、駆逐艦数隻が艦隊に加わった

戦闘開始後、イアキーノ提督率いる第二艦隊は戦闘を有利に進めていき重巡「ポーラ」及び「トレント」の砲撃を連続で受けて重巡「ベリック」は中破、後部砲塔が使用不能になった。一方で、巡洋戦艦レナウン」の攻撃を受けて「トリエステ」が小破、更にマンチェスター」の攻撃で駆逐艦「ランチエーレ」が大破。航行不能となった「ランチエーレ」は駆逐艦「アスカリ」によって基地に曳航されている。

戦闘を有利に進めていたイアキーノ提督率いる第二艦隊であったが、「ランチエーレ」の被害を受けてカンピオーニ提督は戦闘中止をイアキーノ提督に命令したため、撤退した。戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」の主砲斉射によって英艦隊は後退し、また「ヴェネト」の主砲攻撃によって「マンチェスター」も小破した。これを受けて、損害の拡大を望まなかった英艦隊は撤退を決定し、海戦はプンタ・スティーロ海戦同様に互角の戦いを繰り広げた上に、双方に被害を出す形で勝敗付かずに終了した。しかし、英艦隊を撃退し、その後英艦隊はジブラルタルへ帰港したため、イタリア側の戦略的勝利と言えなくもない。サマヴィル提督は一連の失敗によりチャーチルに叱責され、解任騒ぎにまでなったが、他の提督らが擁護したことで事なきを得た。

 

 

このテウラダ岬海戦の後、海軍を含む軍部の大改革が行われた。12月8日、先述したようにターラント空襲の結果を受けてカヴァニャーリ提督が海軍参謀長から解任され、新たにリッカルディ提督が就任した。また、海軍首脳部の人事異動も行われ、第一艦隊司令官のカンピオーニ提督は海軍参謀次長、第二艦隊司令官のイアキーノ提督は第一艦隊と第二艦隊が統合された「主力艦隊」の司令官に任命されたのであった。

1940年の海戦は伊英両艦隊は互角の戦いを繰り広げて勝敗をはっきりつけることが双方共に出来なかったが、2つの大規模海戦ではイタリア側が戦略的勝利を手に入れたと言える。11月のターラント空襲の結果を受けて地中海における制海権は英国側に揺れ動いたが、その後もイタリア艦隊は積極的に出撃して英海軍の行動を牽制し、英海軍側が思っていた程には有利に戦局が展開しなかった

こうして、ターラント空襲を機に行われた人事異動の結果、新たなる参謀長と艦隊指揮官のもとで、次の1941年の戦いを迎える事になったのである。というわけで、次回は1941年の海戦を紹介するとしよう。

↓次回(1941年の海戦)はこちら

associazione.hatenablog.com

 

■主要参考文献
Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori
B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori
Pier Paolo Battistelli/Piero Crociani著 "Reparti d'élite e forze speciali della marina e dell'aeronautica militare italiana 1940-45", 2013, LEG Edizioni
Giorgio Giorgerini著 "Uomini sul fondo", 2002, Mondadori
Aldo Cocchia著 "Convogli -Un marinaio in guerra 1940-1942", 2004, Mursia
吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939-1945』, 2006, イカロス出版
吉川和篤著『Viva! 知られざるイタリア軍』.2012, イカロス出版

地中海におけるイタリア海軍の熾烈な戦い ―イタリア海軍の「欠点」とは?―

皆さんこんにちは。Twitterでちまちま発信した情報とかをこっちでも纏めることにしました。しばらくは「イタリア海軍と地中海の戦い」について書きます。

 

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第二次世界大戦時の地中海戦線における主要な海戦(イタリア海軍が参加したもののみ)。海戦名の横にある旗は海戦の勝者側の旗である。これを見てわかるように、実際の勝率は言うほど悪くない、というか寧ろ結構勝っていることがわかる。今後のブログ更新でそれぞれの海戦について、年代ごとに解説していく予定だ。

第二次世界大戦における地中海戦線は、アジア・太平洋戦線に次いで激しい海戦が起こった戦場だった。地中海戦線の中心となった海軍は、枢軸国側はイタリア海軍(Regia Marina)、連合国側は英海軍(Royal Navy)である。通説として「イタリア海軍は弱い」と考えられがちだが、勝率としても実際はそんなことはないお世辞にも強力な海軍とは言いにくかったイタリア海軍だが、様々な欠点を抱えながらも、遥かに格上の相手である英海軍相手に互角の戦いを繰り広げた事は事実である。寧ろ、そういった「不利な状況においてよくここまで戦った」という点を評価するべきであろう。そもそも、英海軍はおろか、フランス海軍にすら劣ると開戦前に評価されていた伊海軍がここまでの活躍を見せたのは十分高い評価しても良いと思う(というかイタリア海軍側も元々「格上」過ぎる英海軍は仮想敵として定めておらず、専らフランス海軍を仮想敵として定めていた)。

しばらくは、イタリア海軍が参加した海戦を見ていって見よう。今回はその前に、イタリア海軍の「欠点」とは何だったのか、をここで論じることとする。私の行動がイタリア海軍全体の再評価に繋がれば幸いである。

 

■イタリア海軍の欠点とは?

イタリア海軍は多くの欠点を抱えている、と先述した。では、どんな欠点だったのか。海戦の説明の前に具体的に見ていってみることとする。これらの欠点はイタリア海軍が行動する上でかなりの足かせとなり、本来の実力を発揮出来ない大きな要因となった。

 

・スーペルマリーナ(海軍最高司令部)の命令が絶対

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大戦期の大半の海軍参謀長を務めたアルトゥーロ・リッカルディ提督。彼自身は前任者であるカヴァニャーリ提督の保守的な方針からの変更を試みたが、結局のところ作戦指揮における裁量権問題は依然として残っていた。

イタリア海軍では第二次世界大戦への参戦直前に「スーペルマリーナ(Supermarina)」が創設された。これは海軍の最高機関であり、最高司令部の役割を持った。これによって、イタリア艦隊のあらゆる指揮官は全てこのスーペルマリーナの命令を絶対順守することとなった。これの何が問題なのかと言うと、艦隊指揮官たちが戦場において柔軟な判断が出来なくなったということである。つまり、戦場における意思決定を完全にローマに本部を置くスーペルマリーナに握られていたということだ。

戦場で不測の事態が起こっても、ローマに通信して命令を待たなければならない。つまり、スーペルマリーナが判断を下す前に戦況が著しく変化した場合、その変化に適応出来ない、ということが多々あった。逆に英海軍側は現地司令官に意思決定の裁量権が大きく持たされていたために、柔軟に対応することが出来た。1940年末には海軍参謀長がアルトゥーロ・リッカルディ(Arturo Riccardi)提督に変更されたことにより、これも若干変更され、艦隊指揮官に裁量権を大きく付与した一方で、戦況が大きく有利な状況以外では敵艦隊との戦闘を避けるように、という制約が付けられていた

更に、英海軍側は暗号傍受によって、スーペルマリーナの指令を把握していた(完全に、とは言えないが)。こういったこともあり、スーペルマリーナの指令を順守するイタリア艦隊の行動は英海軍側に筒抜けであり、英海軍は伊船団を的確に襲撃した。結果として多くの被害を出す結果となった。イタリア海軍の中にもジョヴァンニ・ガラーティ(Giovanni Galati)提督のように首脳部の指令に疑問を抱き、スーペルマリーナの指令を無視して現地で柔軟な判断をする指揮官もいたが、これは明らかな命令違反であった(彼らによれば、連合国側に情報が筒抜けなのは首脳部にスパイがいると考えていたようだ)。この「命令違反」によって戦果を挙げる指揮官も多かったこともまた事実である。

 

・電子装備が不足、夜戦に弱い

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イタリア海軍が実用化した艦艇用レーダー「グーフォ」。1943年のメッシーナ海峡海戦においては「グーフォ」を装備した軽巡「シピオーネ・アフリカーノ」がその真価を発揮し、英艦隊の夜間襲撃を返り討ちにしている。性能は至って優秀で、イタリア側も優れた技術と理論を持っていたことがわかる。

戦間期から1940年まで海軍参謀長を務めたドメニコ・カヴァニャーリ(Domenico Cavagnari)提督は電子装備などの新装備には保守的であり、僅かな予算しか投じなかった。ウーゴ・ティベリオ博士(Ugo Tiberio)を始めとする優秀な海軍研究者らは1936年にはイタリア初のレーダー「E.C.1」を開発していたが、保守的な海軍はそれの導入は行わず、更にレーダー開発に大きな影響力を持っていたグリエルモ・マルコーニ博士(Guglielmo Marconi)が死亡したことで、彼が関わっていた様々なプロジェクトも中止になった。

カヴァニャーリ提督ら海軍首脳部はイタリア海軍は優れた測距儀と射撃統制システムを持つため、電子装備不要論を主張した。実際、昼間の戦闘においてはイタリア海軍は電子装備未装備の状況でも欠点を補填して戦闘を有利に進めたため、この理論はあながち間違いでは無く、英海軍側もそれを認めていた。しかし、夜間戦闘においては別である。レーダーを持たないイタリア海軍は夜間戦闘における圧倒的不利な状況を思い知ることとなった。それは1941年3月のマタパン岬沖海戦において、夜間の奇襲で重巡3隻を一気に失う結果となったためである。

マタパン岬の大敗によってレーダーの重要性を再認識したイタリア海軍は大急ぎでレーダー開発を再開させたが、最終的に国産レーダーが量産開始となるのは1942年にまでずれ込んだ。艦艇用レーダー「グーフォ(フクロウの意味)」と陸上設置用沿岸監視レーダー「フォラーガ(オオバンの意味)」が生産されているが、イタリアの工業生産力の低さゆえに、休戦時点で完成したのは「グーフォ」が13機、「フォラーガ」が14機のみであった。「グーフォ」レーダーを装備した艦艇が夜戦で敵艦隊の襲撃を返り討ちにしたケースもあるので、早くに導入されなかったことが悔やまれる結果となった。

 

・空軍との連携不足と空母の不在、航空支援の不足

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イタリア海軍の空母「アクィラ」。「スパルヴィエロ」と同様に客船を改造した空母だが、結局未完に終わっている。「アクィラ」に搭載されていた対空砲はラ・スペツィアの海軍技術博物館に展示されているので、気になる方はぜひ見に行って欲しい。

イタリアは世界で見ても早い段階で空軍を独立させた、「空軍先進国」である。しかし、これは海軍にとっては悲劇の始まりであった。ファシスト政権は空軍を先進的と見たため、航空戦力は空軍が独占することとなった。結果、陸軍航空隊が海軍航空隊を吸収する形で空軍が誕生したわけだが、これによって海軍の航空戦力が不足する事態となる。「イタリア空軍の父」と呼ばれるイタロ・バルボ空軍元帥(Italo Balbo)は航空戦力を求める海軍と激しく敵対し、海軍には旧式機しか配備しなかった。更に、その海軍に配備された航空機も空軍所属のパイロットによって管理された。空軍内部にもジュゼッペ・ヴァッレ参謀長(Giuseppe Valle)のように海軍に同情的な将官もいたが、ファシスト政権は空軍を優遇したために海軍は相対的に冷遇されることとなった。

カヴァニャーリ提督ら海軍首脳部は空母建造を希望したが、バルボらの反対によって実現しなかった。というのも、ムッソリーニ自身もイタリア半島不沈空母論」を支持したためだ。これは、イタリア半島は地中海の中心にあるのだから、陸上基地の航空支援だけで空母は不必要で予算の無駄、という理論だ。実際に空軍がマトモに航空支援してくれるならそうで良かったのかもしれない。しかし、現実はそうではなかった。開戦後、空軍と海軍は連携が上手く取れずに、敵艦隊への追撃も上手くいっていない。というのも、海軍側が空軍に支援要請を求める際に、いちいち空軍参謀本部の許可を得てからじゃないと空軍側も航空支援を行えなかった。許可を求めているうちに戦局は大きく展開し、航空支援が来た頃には時すでに遅し、という場合が多々発生した。また、航空偵察の不足もあり、敵艦隊の全容を把握できなかった、という点も痛い。更には味方艦に誤爆するケースも多々あり、空軍と海軍の対立は連携不足を加速させた。

レーダー不足同様に、航空支援不足でマタパン岬において手堅い敗北を喫したイタリアはここでようやく空母の重要性を再確認し、ムッソリーニも「イタリア半島不沈空母論」を放棄したことで、やっとこさ商船改造空母2隻の建造を開始した。こうして建造が開始された「アクィラ」と「スパルヴィエロ」だが、ほぼ完成してはいたが結局未完成の状態で休戦を迎えたため、就役することはなかった。一方で、空母に搭載される艦上機は生産されていたが、肝心の空母が未完に終わったため日の目を見ることはなかった。

 

・燃料不足、主力艦の出動が難しい

燃料不足はイタリア海軍にとって重い足かせとなった。そもそも、燃料不足はイタリアという国家が慢性的に抱えていた問題であり、エチオピア戦争期からそれは騒がれていた。というのも、エチオピア戦争時にイタリアは経済制裁を受けたため、ガソリンが高騰したのだ。イタリア政府はガソリンへの特別税も付与している。イタリアは勢力圏に有力な油田を持っておらず、基本的に燃料は輸入頼り(特にルーマニアから)だった。イタリアが保有する唯一の有力な油田はアルバニアの油田で、これはイタリア軍の石油総需要の1/3を賄ったが、生産量はさほど多いわけではなかった。

現在では産油国として有名なリビアは当時イタリア領だった。一応、リビア油田は1914年にイタリアが発見しており、1926年にファシスト政権が開設した「イタリア石油公団(AGIP)」によって開発と探鉱活動が進められていたが、リビア油田の深度は非常に深く、当時のイタリアの技術では掘削することは不可能であった。アメリカからの技術導入が予定されていたが、第二次世界大戦の開戦により結局計画倒れで終わったため、リビア油田が開発されることはなかった。そんな中で戦間期リビアエチオピア、スペイン、アルバニアと出征しまくった伊軍はWW2参戦時には既に燃料不足に陥っていた海軍は使用できる石油備蓄が約八か月分しかない、という事態であった。石油不足は海軍だけの問題ではなく、陸軍や空軍の戦闘にも影響が出ていた。

同盟国であるドイツはルーマニアから輸入した燃料をイタリア側にも供給することを約束していたが、殆どをドイツ軍側が持っていき、イタリア側に供給された石油は微々たるものであった。結果として燃料消費が激しい主力艦隊は積極的には行動することが難しく、1943年にもなると完全に燃料が底をついたために港に引きこもるしかなくなってしまった。海軍側も工夫を重ね、出撃する艦艇にのみ燃料を停泊中の艦艇から供給したり、合成燃料を開発したりもしたが、結局燃料不足は改善されなかった

一応、イタリア海軍は有事の際に備えて臨時用の備蓄燃料を用意しており、これは本土防衛の艦隊決戦のための主力艦隊用燃料だったと思われる。というのも、バドリオ政権による連合国との休戦発表に関して、海軍首脳部には発表されるまで相談がなく、海軍は本土防衛に際して連合軍との艦隊決戦の準備中だった(つまりは寝耳に水だった)。結局、休戦によってこの備蓄燃料は使われずにドイツ軍がイタリアを制圧した際に略奪されている(ヒトラーはこれに激怒したそうだが、そもそも燃料を独占したドイツ側に何も言う権利はないだろう)。

 

・全体的な工業生産力の低さ、準備不足の参戦

致命的な欠点である。低い工業生産力による弊害は海軍だけでなく、陸軍と空軍にも影響した。つまりは、イタリア軍の根本的な敗因はこれに尽きると言える。イタリア海軍は英海軍相手に互角な戦いを繰り広げた...が、工業生産力の低いイタリアは失った戦力を補填することすら困難だった。それは、開戦後に竣工した艦艇の少なさからもよくわかる。他国海軍と比べてもその差は歴然で(ドイツ海軍は潜水艦ばかりだが、建造数は桁違いだし)、しかも完成時期も休戦直前だったりする。つまり、仮に他の欠点が無くとも、イタリア海軍にとって戦闘が長引けば長引くほど、補填しきれなくなって戦局は不利になっていく、ということだ。

まず、工業生産力の不足故に艦艇の建造スピードも遅かった。結果として、戦争が近付くにつれて実行された海軍の強化計画すらも終了する前に戦争に突入する事態となった。参戦時の戦艦がカヴール級2隻のみだった点からも、海軍の準備不足がよくわかる。開戦後にやっとこさリットリオ級3隻、ドゥイリオ級2隻を竣工/改修完了させているが、戦時中は殆ど戦力を拡充出来ずに空母2隻やリットリオ級戦艦「インペロ」は結局完成していない。イタリア海軍も工業生産力不足はわかっていたため、大型艦の建造は後回しにして潜水艦や駆逐艦といった小型艦艇の建造を優先したが、それでも損失を補う事すら出来なかった。つまり、ジリ貧の海軍だったのだ。更に艦体設計も複雑だったこともあり、そういった様々な要因が建造を遅くしたのである。

 

結局のところ、これらの欠点がイタリア海軍の足を引っ張ったわけである。まぁ、欠点の無い海軍なんて存在しないとは思うが...

次回は「1940年の地中海の海戦」について書きます。お楽しみに~

↓次回はこちら

associazione.hatenablog.com

 

■主要参考文献
Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori
B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori
Pier Paolo Battistelli/Piero Crociani著 "Reparti d'élite e forze speciali della marina e dell'aeronautica militare italiana 1940-45", 2013, LEG Edizioni
Giorgio Giorgerini著 "Uomini sul fondo", 2002, Mondadori
Aldo Cocchia著 "Convogli -Un marinaio in guerra 1940-1942", 2004, Mursia
吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939-1945』, 2006, イカロス出版
吉川和篤著『Viva! 知られざるイタリア軍』.2012, イカロス出版

今後の方針について

皆さん、お久しぶりです。年末以降、更新が出来ず申し訳ございません。

 

更新が滞っていたことには、いくつかの理由があります。

 

・実生活が忙しくて更新が出来なかった

 

・精神状態的にも結構しんどい

 

・ブログ記事の効果が実感できない(反応が少ない)

 

Twitterで情報配信をした方が拡散力が高く、反応も多いためブログを更新することに価値を感じなくなってしまった

 

という感じです。

 

今後の方針ですが、少なくとも更新頻度は著しく減ると思います。現に3カ月以上振りの更新ですからね(こんな内容ですけど)

一応、備忘録的な感じでは機能していこうとは思っています。

 

それと余談ですが、数年前に作成して以来、ずっと放置していた「ファシスト・イタリアbot」の削除要請が"意外"と多かったことから、削除することを決定しました。今まで楽しんで頂いた方には本当に申し訳ありません。