イタリア諸邦、夢の連合艦隊!第一次イタリア独立戦争時のアドリア海における伊諸邦艦隊の海軍作戦
■イタリア諸邦、夢の連合艦隊!
仕事が忙しく、中々投稿も出来ない日々が続いておりましたが、久しぶりの投稿です。さて、皆さま、「第一次イタリア独立戦争」と呼ばれる戦争をご存じでしょうか?イタリア史を勉強した経験がある人であれば常識ではありますが、おそらく一般的にはあまり知られていないと思われます(高校世界史で扱われていたかはよく覚えていません)。
というわけでざっくり説明致しますと、要するに「イタリア諸邦がオーストリア帝国に戦いを挑んだ戦争」という感じです。とはいえ、イタリア諸邦と言えどもサルデーニャ王国やサン・マルコ共和国(ヴェネツィア共和国)が中心で、教皇領や両シチリア王国は初期を除き撤兵しているため何ともこの説明も微妙ではあるのですが...結果としてはイタリア側は敗北してしまいましたが、リソルジメント期においては最初の重要な戦争と言えるでしょう。この戦争の教訓を生かし、サルデーニャ王国側は単独ではなく、フランス(第二次独立戦争時の同盟国)やプロイセン(第三次独立戦争時の同盟国)と手を組み、オーストリアからの領土奪還を目指していくようになっていくわけです。
さて、この最初の戦争に当たる「第一次独立戦争」ですが、やはり知られているのは陸戦が中心です。当然っちゃ当然ではありますが。
では海軍は何をしていたか?当然、イタリア諸邦とオーストリアが争うとなれば、アドリア海も戦場になるわけです。というわけで、この「第一次独立戦争」においてもアドリア海は戦場になりました。
私がこの「第一次独立戦争」の海軍作戦について調べていて興味深いと思った点は、戦争の初期段階のみと言えど、サルデーニャ艦隊やヴェネツィア艦隊(1848年革命でヴェネツィア独立派が拿捕した旧オーストリア艦隊から構成された)だけでなく、両シチリア艦隊や教皇領艦隊すらも合流し、共に「イタリア連合艦隊」を形成して共同作戦を行っていたという点です。
この事実は日本は勿論、イタリアですらかなりドマイナーな分野のようで、やはり第一次独立戦争は陸戦が主体故に海軍は無視されがちのようです。確かに戦局には大きな影響を与えたとは言えないアドリア海における海軍作戦ですが、イタリア諸邦の海軍が連合艦隊を形成してオーストリア艦隊に対峙する、という事例はリソルジメント期において唯一の事例であり、中々に胸熱な展開だと思うのです。
そんなこんなで、ちょっとずつ資料を翻訳して調べていったので、今回はその知られざるイタリア連合艦隊について紹介していきたいと思います。
■1848年革命とヴェネツィアの「再独立」
1848年革命でヴェネツィアは再独立を宣言し、ミラノでは暴動によってオーストリア支配から解放されることになった。サルデーニャ国王のカルロ・アルベルトはこれを機にオーストリア支配下にあるロンバルディア地方及びヴェネト地方を併合し、王国領を拡大することを目論み、ヴェネツィアやミラノに協力する形でオーストリアに宣戦布告。この動きに他のイタリア諸邦(両シチリア王国や教皇領など)も連動し、サルデーニャ王国と共にオーストリアと戦う道を選んだ。
ヴェネツィアは当時のオーストリア海軍にとって最も重要な海軍基地だった。そして、オーストリア海軍の軍人らの大部分もヴェネツィア人であった。こうしたこともあり、オーストリア海軍にとってヴェネツィアの「独立」は非常に大打撃を受けることになった。ヴェネツィア独立派艦隊を率いたジョルジョ・ブーア提督(Giorgio Bua)も、元々はオーストリア海軍の所属であったことは言うまでもない。
しかし、革命当日に暫定的にオーストリア艦隊の指揮を執ったハンガリー人のジュライ・フェレンツ伯(Gyulai Ferenc)はオーストリア艦隊の主力をヴェネツィア基地から離れさせ、トリエステ港に戦力を温存させることに成功した。このため、ヴェネツィア独立派海軍は小型の軍艦を中心とした戦力しか拿捕出来なかったのである。
ヴェネツィア支援のため、アドリア海にはサルデーニャ王国、両シチリア王国、そして教皇領のイタリア諸邦三か国が艦隊を派遣した。サルデーニャ王国と両シチリア王国はイタリアにおける二大海軍国であり、この艦隊派遣はオーストリアにとって十分な脅威となった。ヴェネツィア艦隊を含むイタリア諸邦の連合艦隊は、数の上でもオーストリア艦隊を圧倒した。
■イタリア連合艦隊の編成
以下がイタリア諸邦艦隊の戦力(小型船を除く)である。順は排水量順に並べてある。
◆サルデーニャ王国海軍(計16隻)
フリゲート「サン・ミケーレ」(2386トン)
フリゲート「デス・ジェネイス」(1508トン)
フリゲート「ベロルド」(1510トン)
フリゲート「エウリディーチェ」(1450トン)
スループ「モンツァンバーノ」(900トン)
スループ「ゴイート」(850トン)
スループ「マルファターノ」(800トン)
スループ「アウティオン」(800トン)
コルベット「アクィラ」(750トン)
コルベット「トリポリ」(660トン)
コルベット「アウローラ」(642トン)
スクーナー「コロンボ」(480トン)
蒸気船「イクヌーザ」(450トン)
スクーナー「ダイーノ」(450トン)
蒸気船「グルナーラ」(450トン)
スクーナー「スタッフェッタ」(200トン)
サルデーニャ海軍は、サルデーニャ島北方に浮かぶラ・マッダレーナ諸島出身のジョヴァン・バッティスタ・アルビーニ提督(Giovan Battista Albini)によって指揮されていた。アルビーニ提督は第一次独立戦争の後も、クリミア戦争やリソルジメントでもサルデーニャ艦隊の司令官として活躍し、統一後も海軍軍人として活躍したが、有名なエピソードとしてはリッサ海戦において指揮官のペルサーノ提督に対して反目し、命令を無視して海戦に参加しなかったことが挙げられる。
サルデーニャ艦隊はイタリア諸邦艦隊で規模としては最大であるが、両シチリア艦隊に比べて大型艦が少なく、排水量が控えめなスループやコルベットが多い印象である。
◆両シチリア王国海軍(計8隻)
フリゲート「レジーナ」(2913トン)
フリゲート「イザベッラ」(2592トン)
コルベット「サンニータ」(1300トン)
コルベット「カルロ3世」(1300トン)
コルベット「ロベルト」(1200トン)
コルベット「グイスカルド」(1018トン)
コルベット「ルッジェーロ」(1018トン)
スクーナー「プリンチペ・カルロ」(400トン)
両シチリア海軍はナポレオン戦争でも活躍した歴戦のナポリ人指揮官、ラッファエーレ・デ・コーザ提督(Raffaele de Cosa)によって指揮されていた。デ・コーザ提督はフランス革命戦争ではナポリ海軍の一員として戦ったが、ナポレオン戦争ではミュラのナポリ王国の元で「スパルヴィエロ」艦長として戦い抜いた。捕虜となった後、再びブルボン朝復古後のナポリ王国(そして両シチリア)に戻った。第一次独立戦争ではサルデーニャ艦隊との共同作戦を指揮した後、国王からの命令によってシチリアの叛乱軍への艦砲射撃を命じられたが、同胞を攻撃することを嫌ったデ・コーザ提督は自ら退役することを申し出て、海軍軍人としての経歴を終わらせたのであった。
両シチリア艦隊の旗艦であるフリゲート「レジーナ」はイタリア諸邦艦隊の中で最大の排水量を持つ巨艦であった。両シチリア艦隊自体も大型艦中心で構成され、隻数ではサルデーニャ艦隊の方が多いが、大型艦の数では両シチリア艦隊の方が勝った。流石はイタリア諸邦最大の海軍国と言えるだろう。
◆教皇領海軍(計1隻)
蒸気船「ローマ」(80トン)
教皇領海軍はチヴィタヴェッキア出身のアレッサンドロ・チアルディ提督(Alessandro Cialdi)によって指揮されていた。とはいえ、アドリア海における海軍作戦に参加した教皇領海軍の艦船はたった1隻のみである。
チアルディ提督は1840年より教皇領海軍の司令長官に任命され、1870年のイタリア軍のローマ侵攻時まで司令官を務めた。つまり、教皇領海軍最後の司令官であった。教皇領がイタリアに併合された後は、教皇への忠誠から伊海軍への合流要請を拒否している。
◆ヴェネツィア海軍(計10隻)
フリゲート「イタリア」(2107トン) ※但し建造中
コルベット「チヴィカ」(594トン)
コルベット「カロリーナ」(約500トン)
コルベット「クレメンツァ」(約500トン)
コルベット「ヴェローチェ」(約500トン)
コルベット「リプシア」(約500トン)
スクーナー「ピラーデ」(500トン未満)
スクーナー「トリトーネ」(500トン未満)
スクーナー「ウッサロ」(500トン未満)
蒸気船「マリーア・アンナ」(500トン未満)
ヴェネツィア海軍は元オーストリア海軍のヴェネツィア人指揮官であるジョルジョ・ブーア提督によって指揮されていた。オーストリア艦隊の内、ヴェネツィア側によって拿捕された艦船で構成されている。
一方、オーストリア艦隊は14隻の軍艦(小型船を除く)を戦力として温存していた。
■アドリア海における海軍作戦
教皇領艦隊は蒸気船「ローマ」一隻のみの参加であるために自国の港湾であるアンコーナ近辺における船団護衛任務程度の参加にとどまったが、サルデーニャ艦隊と両シチリア艦隊は連携してオーストリア艦隊を牽制し、オーストリア領沿岸を航行し、トリエステ港沖にまで迫っている。更に、カオルレ基地への艦砲射撃も実行し、オーストリア側に打撃を与えた。両シチリア艦隊と教皇領艦隊が撤兵した後はサルデーニャ艦隊単独で海上封鎖を行っている。
イタリア連合艦隊の主な任務はオーストリア艦隊に対する海上封鎖であった。戦力的に優位に立っていたイタリア海軍側の海上封鎖によって、オーストリア艦隊側は港湾から出ることが出来なかった。こういった意味では、イタリア連合艦隊側のアドリア海における海軍作戦は成功したと言えるだろう。
とはいえ、戦力的に優位に立っていたにもかかわらず、イタリア連合艦隊側は積極的に攻撃に出ることはあまりなく、またオーストリア艦隊側による反撃も行われず、両艦隊による所謂「海戦」は発生していない。言ってしまえば第一次世界大戦時のアドリア海の状況に似通っている部分があったと言える。
ヴェネツィア海軍は拿捕した艦隊のみならず、保有していた商船も武装して戦闘に備えたが、結局これらのヴェネツィア艦隊はサルデーニャ王国軍が陸戦で敗北して撤退したのに伴い、艦隊もアドリア海から引き揚げたことで、オーストリア側によるヴェネツィア再占領時に再びオーストリア艦隊側によって拿捕された。
大規模な戦闘が発生したわけでもないため、目立たない第一次独立戦争時の「イタリア連合艦隊」であるが、イタリア諸邦が連合を組んで一つの敵に立ち向かう、という構図は中々にロマンがある...というか、レパントの海戦めいたものを感じるなぁと思ったりします。こういった事はリソルジメント期において最初で最後なので、そういった意味でも「束の間のイタリア連合艦隊」に魅力を感じました。機会がありましたら、もう少し深く調べてみても面白そうですね。
◆主な参考資料
Paolo Alberini編著 "Adriatico 1848: ricerca e significato della contrapposizione marittima", 1999, Commissione italiana di storia militare
エリトリアを旅するために ー旅行に関するお役立ち情報ー
エリトリアは情報が少ない!旅行したいけど情報収集してから行きたい!というそこのあなた!エリトリアを旅行する際にちょっと役に立ちそうな情報を乗っけておきます。いつかエリトリアに旅する人のお役に立てれば幸いです!
⬜︎エリトリアの基本情報
⬛︎正式国名
エリトリア国 State of Eritrea
⬛︎主要言語
ティグリニャ語、英語、イタリア語、アラビア語、ティグレ語など
※基本は英語で通じます(逆にイタリア語はアスマラ以外はあまり通じません)
⬛︎民族構成
主要2大民族はティグリニャ人(高地に住みティグリニャ語を話すセム語族、大部分は正教会信仰)と、ティグレ人(沿岸部に住みティグレ語を話すセム語族、大部分はイスラーム信仰)。その他、地域ごとにアファル人、クナマ人、サホ人、ビレン人など多種多様な民族で構成されている。
⬛︎首都
アスマラ Asmara
⬛︎国土面積
124,300㎢(日本の約1/3)
⬛︎人口
約650万人(2015年)
⬛︎国家元首
イサイアス・アフェウェルキ
(Isias Afewerki)
⬛︎通貨
エリトリア・ナクファ(Nkf)
現地ツアーや鉄道利用、一部ホテルなどの支払いはUSドルでも可能であるが、原則としてナクファでの支払いが推奨される。
紙幣のみで硬貨はない。外貨からの両替は各都市の銀行で可能。両替に使う外貨は基本的にUSドルが中心。
両替は各都市の銀行や空港、一部ホテルなどで可能。ガイドを雇っている場合は、ガイドを介して両替も。
⬛︎宗教
エリトリア正教会(テワフド)とイスラームが多数派でほぼエリトリアの人口を二分している。その他、カトリック、ユダヤ教、現地宗教など。
⬜︎エリトリアについて
⬛︎治安について
治安はアフリカ諸国とは思えない程に良好。未だに外国人観光客が多くない国であるが、観光客を狙った犯罪も殆どない。スリ、置き引き、強盗などもない。警官による賄賂要求もなく、クリーン。よく「独裁国家だから治安が良い」と言われるが、他のアフリカ諸国で独裁国家でも治安が悪い国はいくらでもあるので、単純に人々のモラルがしっかりしているのかもしれない。
テロ組織による攻撃、デモの発生も特にないので、安心して観光出来る。夜間も1人で外出している女性がいる程に安全。ただ、エチオピアとの国境地帯は戦時中の未処理地雷が多く残っているので危険。
⬛︎言語について
日常的に最も使われているのはティグリニャ語だが、ティグリニャ語が話せなくとも旅に支障はない。何故なら、アスマラだけでなく、マッサワやケレンといった地方都市でも基本的に英語が通じるからだ。ケレンやマッサワでは、外国人観光客に気さくに英語で話しかけてくれる人も多い。ティグリニャ語表記(ゲエズ文字)のみの案内版もたまにあるので、わからない場合は近くの人に意味を聞いてみよう。なお、ティグリニャ語で「こんにちは」は「サラーム」。アラビア語も広く使われているため、話せるならば英語と共に活用することが出来る。
また、アスマラの年配の方や学生を中心にイタリア語も通じる他、ティグリニャ語はイタリア語からの単語の借用も多い(例えば、椅子→Sedia, 酢→Acetoなど)。話せなくとも聞き取りは出来る人は多いので、イタリア語を使ってエリトリア旅行もアスマラだけなら十分イケる。とはいえ、英語を使った方が確実なので、イタリア語はあくまでサブ言語として活用した方が良い。
⬛︎物価について
一言で言うと、結構高い。感覚的にはアフリカ旅行というより、ヨーロッパ旅行のそれに近く、物価は日本やイタリアと全体的にあまり変わらない。アスマラに比べ、マッサワやケレンのような地方都市はやや安め。
⬛︎食事について
料理はどこで食べても美味しいので、心配はいらない。イタリアンとエリトリア伝統料理がメイン。旧イタリア植民地だったこともあり、パスタやピッツァといったイタリア料理も美味しい。エリトリア伝統料理はスパイスを多く使った料理が多く、やや辛めなものが多い傾向。苦手な人も多いインジェラだが、エリトリアのインジェラは酸味が控えめで食べやすい。地ビールのアスマラ・ビールをはじめ、酒類も美味しい。
⬛︎気候について
「2時間に3つの季節がある国」とはよく言ったもので、狭い国土に多種多様な気候環境が存在する。高地にあるアスマラでは朝晩は冷え込み、年中を通して昼間は17度程度の過ごしやすい気候。空気も乾燥している。一方で、低地にあるマッサワは12月でも蒸し暑く、湿度が高い。夏は40度を超える。都市間の移動は脱ぎ着出来る服装が便利。また、天候が悪くなると一気に冷え込む。更にアスマラは標高が高いために空気が薄く、走ると予想以上に疲れる。
天気は朝は晴れていても、午後から急速に天候が崩れることも多い。通り雨的に雨が急に降ることも多々ある。普通、乾季は雨は降らないのだが、最近は異常気象らしい。
⬛︎病気について
心配なのはマラリアだが、マッサワやアッサブといった紅海沿岸の低地を除き、心配はいらない。アスマラやケレンのような高地ではマラリアを媒介するハマダラカは発生しないからだ。紅海沿岸を旅行する際は、念のためマラリア予防薬や蚊の対策をしておくと良いが、感覚的にはそこまで深刻ではない。あと、エイズ流行地域でもあるので現地での性的接触は控えよう。その他、危険な伝染病は特に確認されていない。現地に病院や薬局も多いが、対策は万全に。
⬛︎インフラについて
電力や水道などインフラについて未発達、とよく言われるが2019年12月現在、アスマラとマッサワに滞在した限りでは一日中電気も問題なく使えて、事前に心配していた計画停電もなかった。時期によるのかも。
シャワー用のお湯も深夜や早朝、真昼間など一日を通して出る。季節によるかもしれないが、基本的にそこまで心配することではない。水道は石灰質が強いので、髪がバリバリになることもしばしば。
⬛︎ネット環境について
Wi-Fiがあるホテルもあるが、総じて通信速度が遅く、満足な通信は出来ないと思った方が良い。また、iPhoneよりアンドロイドのほうが繋がる傾向にある。そのため、情報収集は事前にやっておくか、現地で仕入れよう。一応、アスマラやケレンにはインターネットカフェも存在している。
⬛︎国内移動について
国内での移動は専ら車かバス。安く済ませるならバスだが、政府の声明では「外国人観光客は市民が利用する公共交通機関は使用してはいけない」としているため、グレーゾーン(ただ、外国人バッグパッカーはよく利用している)。車をチャーターするのは非常に高額にはなるが、行きたい場所に確実に行けるし、スケジュールに自由が効くのでオススメ。市内の移動に関しては、各都市は徒歩で充分回れるエリアに主要な見どころが詰まっているが、タクシーやバスの利用も便利。
鉄道に関しては2019年12月現在、マッサワ-アスマラ線のみ開通しており、アスマラ-ケレン-アゴルダト線及びメルサ・ファトマ-コルリ線は復旧工事中。しかし、観光客が利用出来る旅客路線に関してはマッサワ-アスマラ間も運休中で、アスマラ-ネファジット間の観光列車のみが運行している。ただ、人が集まらないと運行しないため、乗れるかは運次第。
飛行機に関して利用出来る国内定期便はアスマラ-アッサブ間のみ。船はマッサワからダフラク諸島など島嶼部に向かう際に利用可能。
アスマラ以外の街に行く場合は事前に市内にある観光庁から許可証を発行して貰う必要がある。逆に、アスマラのみに滞在する場合は許可証の必要はない。「入国した街」から別の街に行くのに許可証が必要なため、例えばアスマラからの入国ではなく、アッサブやマッサワから入国した場合は、その都市のみの滞在なら許可証は必要無いが、別の街に向かう際に許可証が必要になる。戦車の墓場も同様に許可証が必要。許可証は通常1日で発行されるため、基本的に受け取りは翌日になる。戦車の墓場は即日発行も可能。
都市間にはいくつかの検問があり、そこを越えるには許可証の提示が必要。
これらの手続きが面倒だと感じた場合、現地の旅行会社に申請するのが手っ取り早い。大体10万~15万円分程支払えば、ホテル代込みで希望通りの旅が出来る。
⬛︎ビザについて
渡航にはビザが必要。アライバルビザはないため、事前に日本で申請する必要がある。駐日エリトリア大使館の公式サイトから必要書類を印刷し、記入してパスポート、返信用封筒、英文推薦書と共に郵送にて提出。書類に不備が無ければ約1週間でビザが届く。
エリトリア大使館に申請をすれば、日本語の現地資料も届けてくれる他、公式サイトにはアスマラ、マッサワ、ケレンの観光情報や、マッサワやアッサブの地図などが公開されており、旅行前の情報収集には役に立つ。
⬛︎撮影禁止区域について
写真撮影に関しては基本的にOKであるが、政府関係や軍・警察関係、大使館関係は撮影が禁止されている。例えば、アスマラの総督宮殿(現在、大統領宮殿)や空港内部(軍民兼用)、大使館周辺エリア、マッサワ新市街の憲兵兵舎など。誤って撮影すると削除を求められる。また、宗教施設内でお祈りをしている人や、市民生活を無許可で撮影するのも避けるべきである。
⬛︎アスマラ国際空港
エリトリアの玄関口。エリトリアへ入国する場合、大多数の旅人はアスマラから入国することになるだろう。アスマラ国際空港はコンパクトで主要国の地方空港といった感じだ。作りが単純なため、入国時も出国時も迷うことはまずない。なお、アスマラ空港は軍民共用なので、撮影は禁止されている。気をつけよう。実際、着陸するときにエリトリア空軍の軍用機も見える。
◆入国の流れ
飛行機から出るとトランスポートのバスに乗り、空港のターミナルへ。順路に従えばすぐに入国審査だ。入国審査は意外と簡単。係員によるのかもしれないが、初めての渡航がどうかと、滞在先を答えるくらい。スタンプを押してもらったら、ベルトコンベアーで運ばれてくる自分の荷物を受け取り、空港から出よう。税関があるが、外国人観光客は特に何もせずにスルー出来るようだ。空港の外に出たら、ホテルの迎えを呼んでいる場合はそれで、呼んでない場合はタクシーを呼んでアスマラの街に向かおう。
◆出国の流れ
空港に入る前にナクファの所持を聞かれる。ナクファは一定額以上の外国への持ち込みは禁止されているからだ。だが、空港内の免税店はナクファを使うし、次回の旅行のために取っておきたい人もいるだろう。そういう場合はあまりにも多額で無ければ持ち込みが出来るようだ。
次に、空港内に入るためのセキュリティチェックがある。これは通常の空港のセキュリティチェック同様に赤外線チェックだ。
空港内に入るとチェックインカウンターがある。ここで搭乗機のチェックインをして機内荷物を預けよう。
これが終わると、次に出国審査。出国審査も入国審査同様に難しくはない。出国審査を終えて進むと、ちゃんとスタンプが押されているかチェックされる。
次が最後の関門だ。機内持ち込み手荷物の検査である。赤外線セキュリティチェックに加え、手荷物のバッグの中身を全て出され、一つ一つじっくりと確認される。お土産で持ち帰ろうとしたものもここでアウトになる場合がある。アウトな場合、当然廃棄だ。モノの扱いに関してはだいぶ雑なためイライラするが、大人な態度を取ろう。
さて、チェックが終わると後は搭乗機を待つだけだ。ロビーにはいくつかの免税店とバールがある。お土産雑貨や書籍、コーヒー豆などが買える。ロビーで買い物したい場合はナクファを多少取っておこう。余ったナクファを全て使ってしまうのもアリだ。
⬛︎日本からのアクセス
日本からエリトリアまでの航空直行便は無いため、第三国を経由する必要がある。最も手軽なものが、エチオピア航空で成田-アディスアベバ直行便(一旦仁川で降りて、荷物検査後再び同じ飛行機に乗る)を利用し、アディスアベバ経由でエリトリアに向かうことだ。エリトリア-エチオピア関係の悪化の結果、ずっと中断されていたが、両国の和平によってアディスアベバ-アスマラ便が再開された。運行はエチオピア航空、エリトリア航空提携便である。時間的なロスも少ないし、手っ取り早く東アフリカ気分が味わえる。
そのほかの方法ではエジプトのカイロ経由が今までの黄金ルート。