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カルロ・ファッジョーニ大尉とイタリア空軍の雷撃機部隊 ―地中海で敵艦を撃沈した大空の稲妻― 

第二次世界大戦時の地中海ではイタリア海軍(Regia Marina)と英国海軍(Loyal Navy)が制海権を巡り熾烈な戦いを繰り広げていた。イタリア空軍(Regia Aeronautica)もこの戦いに参加し、雷撃機部隊や急降下爆撃機部隊などが多数敵艦を撃沈し、多くの貢献をした。チェンニ隊やマルヴェッツィ隊といった急降下爆撃機部隊については以前紹介したので、今回はイタリア空軍の雷撃機部隊について見てみよう。

今回はイタリア空軍を代表する雷撃機エースの一人として知られ、休戦後はRSI(イタリア社会共和国)空軍でも活躍したカルロ・ファッジョーニ大尉を中心にイタリア空軍の雷撃機部隊について堀進めていくこととする。

爆撃機乗りから雷撃機乗りへ

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雷撃機エース、カルロ・ファッジョーニ大尉

1915年1月16日、未来の雷撃機エースたるカルロ・ファッジョーニはリグーリア州との境に近いトスカーナのカッラーラで生まれた。カッラーラは大理石の生産地として古くから知られており、バリッラ少年団総裁を務めたレナート・リッチも同地の出身である。1935年、20歳となった彼は空軍パイロットに志願し、爆撃機パイロットとなった。彼にとって初の実戦はエチオピア戦争であり、爆撃機パイロットとして活躍し、銅勲章を受勲している

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ヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館のサヴォイアマルケッティSM.79"スパルヴィエロ"。レース機をベースに開発された、高い機動性を持つ優秀な機体だった。

第二次世界大戦が開戦すると、ファッジョーニは爆撃機から雷撃機仕様のサヴォイアマルケッティSM.79"スパルヴィエロ"に乗り換えた雷撃機乗りとして新たな訓練を受けたファッジョーニは、訓練を終えた後、1941年4月にイタリアが支配するエーゲ海諸島(現ギリシャ領ドデカネス諸島)のロードス島にあるガドゥッラー基地に展開する第281飛行隊に転属となった。この部隊は既に雷撃機エースとして多くの戦功を挙げていたカルロ・エマヌエーレ・ブスカーリア中尉によって指揮されていた。彼はファッジョーニの転属直前の1941年3月28日に発生したマタパン岬沖海戦にも参加し、英空母「フォーミダブル」を攻撃している。

エーゲ海への転属

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第281飛行隊のメンバー。中央が隊長のブスカーリア中尉。

ファッジョーニの雷撃機エースとしての始まりは順調ではなかった。転属直後、着陸の際にファッジョーニのSM.79は3機のFIAT CR.42"ファルコ"戦闘機と衝突事故を起こし、幸い4機はその後修理して事なきを得たが、隊長のブスカーリア中尉が激怒することとなった。4月18日、ファッジョーニは雷撃機エースとしての片鱗を見え始めた。彼はエーゲ海にて航行中の英国のタンカーを雷撃で撃沈し、雷撃機乗りとして初の戦果を挙げたのであった。その後、英空軍戦闘機の追撃を回避し、無事基地に帰投した。7月9日には、隊長のブスカーリア中尉と共にキプロスのファマグスタ湾で5000tの輸送船を撃沈する事に成功したが、英軍の対空砲火によってファッジョーニのSM.79は攻撃を受け、負傷している。

"魚雷の双子"

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戦艦「クイーン・エリザベス」及び「バーラム」に雷撃を行うファッジョーニとグラツィアーニのSM.79雷撃機

10月13日には、東アフリカ戦線で戦功を挙げて銀勲章を受勲したジュリオ・チェーザレ・グラツィアーニ中尉と共に、激しい対空砲火を受けながらも英戦艦「クイーン・エリザベス」及び「バーラム」に対して雷撃を実行し、両戦艦に損傷を与えた。イタリアの新聞はファッジョーニ中尉とグラツィアーニ中尉を"魚雷の双子(Gemelli del siluro)"と表現している。その後もファッジョーニはグラツィアーニと共に数多くの戦果を挙げていった

1942年4月になると、ラツィオ州リットーリア(現ラティーナ)空軍基地を拠点とする第132雷撃集団に所属となった。第132雷撃集団は第278飛行隊と第281飛行隊から成り立った。同雷撃集団の司令官はブスカーリア大尉だった。ファッジョーニはカターニア近郊のジェルディーニ空軍基地に配備となり、愛機のSM.79と共に数々の戦場に出撃していった。

地中海での艦船攻撃

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パンテッレリーア沖海戦のイタリア側の旗艦、軽巡「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」。名前の由来はドイツ語名のオイゲン公で知られるあの人だ。

1942年6月中旬になると、英海軍はマルタ補給作戦「ハープーン」及び「ヴィガラス」を発動する。「ハープーン」船団はアルベルト・ダ・ザーラ提督率いる軽巡「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」を旗艦とする艦隊が、「ヴィガラス」船団はアンジェロ・イアキーノ提督率いる戦艦「リットーリオ」を旗艦とする艦隊が迎え撃った。ファッジョーニは「ハープーン」船団の迎撃に参加し、ダ・ザーラ提督率いる巡洋艦艦隊と共に英艦隊とパンテッレリーア島沖にて戦った。ダ・ザーラ提督の巡洋艦艦隊は軽巡2隻(「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」及び「ライモンド・モンテクッコリ」)と駆逐艦5隻(「オリアーニ」「アスカリ」「ヴィヴァルディ」「プレムダ」「マロチェッロ」)で構成されていた。イタリア艦隊と、ファッジョーニやブスカーリアら率いるイタリア空軍雷撃機部隊の奮戦により、英艦隊は駆逐艦2隻、輸送船4隻を撃沈され、数多くの艦船が損傷した。海戦はイタリア海空軍の勝利に終わったのであった。8月中旬に地中海中部で発生した伊英海軍の大規模な海戦においても、空軍雷撃機部隊は活躍し、英海軍は空母1隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦1隻、輸送船9隻を失う大損害を被り、更に数多くの艦船が攻撃を受けて損傷している

第132雷撃集団司令官のブスカーリア大尉は、8月12日にこれまでの戦功によりローマでムッソリーニ統帥直々に叙勲されており、更に少佐に昇進した。この時、同時に統帥に叙勲された人物がいるが、それは「アフリカの星」として知られるドイツ空軍のエースパイロット、ハンス・ヨアヒム・マルセイユ大尉だった。

司令官の「死」

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ファッジョーニ大尉と共に活躍したジュリオ・チェーザレ・グラツィアーニ大尉。東アフリカ戦線帰りのヴェテランパイロットである。

1942年11月になると、連合軍は「トーチ」作戦を発動し、アメリカ軍がモロッコへの上陸を開始した。これを受けて、ファッジョーニら第132雷撃集団は迎撃に当たることとなった。しかし、ここで思わぬ悲劇が起こる。11月12日、司令官であるブスカーリア少佐のSM.79が、アルジェリアのブジーエ湾上空にて英空軍のスピットファイア戦闘機の攻撃を受けて撃墜されたのである。後に少佐は奇跡的に重傷を負いながらも生還していたことが判明するが、この段階で少佐は戦死認定され、新たな司令官にはグラツィアーニ大尉が就任した。これを受けて、ファッジョーニ大尉は第281飛行隊の司令官となったが、その後は戦闘で雷撃機部隊は多くの損害を出し、更に燃料不足によって出撃回数を減らすことを余儀なくされてしまったのであった。更に英米空軍は制空権を完全に確保し、イタリア空軍は苦戦を強いられていったのである。

ジブラルタル港への雷撃作戦

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サーチライトで照らされたジブラルタルの上空。ファッジョーニら雷撃部隊の攻撃以前にも、イタリア空軍は何度もジブラルタルに爆撃を行っていた。

しかし、その後もファッジョーニ大尉とグラツィアーニ大尉率いる雷撃機部隊はいくつかの戦果を挙げた。1943年5月、ファッジョーニ大尉は「スコーリョ(Scoglio)」作戦を計画し、アントン作戦でイタリア軍の占領下に置かれていた南仏のイストルに移動した。これは9機のSM.79によるジブラルタル攻撃作戦で、6月19日に実行された。雷撃機部隊はいくつかの戦果を挙げ、無事に帰投した。7月15日には英空母「インドミタブル」への雷撃を成功している。なお、ファッジョーニが1944年4月に戦死した後、マリーノ・マリーニ大尉によって指揮されたRSI空軍雷撃部隊のSM.79部隊は計2度のジブラルタル港への雷撃を実行し、敵艦数隻を撃沈する戦果を挙げた。

これらの奮戦の結果、9月のイタリア王国休戦までにファッジョーニとグラツィアーニは実に総重量約20万トンもの敵艦を撃沈することに成功したのであった。

休戦とRSI空軍への合流

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RSI空軍第一雷撃集団「ブスカーリア」の司令官となったファッジョーニ大尉の宣誓式。背後にはSM.79"スパルヴィエロ"雷撃機が見える。

1943年9月にイタリア王国が休戦すると、ファッジョーニ大尉はイタリア社会共和国(RSI)空軍参謀長であるエルネスト・ボット大佐の誘いで、RSI空軍(Aeronautica Nazionale Repubblicana, 略称A.N.R.)に合流した。ファッジョーニ大尉を司令官とする第一雷撃集団「ブスカーリア」が設立された。この雷撃機部隊は休戦前と同様にSIAI-マルケッティSM.79"スパルヴィエロ"爆撃機を主装備としていた。SIAI-マルケッティ社は元々王家であるサヴォイア家に由来するサヴォイアマルケッティ社であったため、RSI政権期に名前が変更されたのである。

アンツィオ防衛戦への参加、そして死

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アンツィオ上空のRSI空軍のSM.79"スパルヴィエロ"雷撃機

ファッジョーニ大尉率いる第一雷撃集団は、数か月の再訓練の後、連合軍が上陸を目論むアンツィオ及びネットゥーノでの防衛戦に投入された。第一雷撃集団はRSI海軍「デチマ・マス」の水上艦艇と協力し、敵上陸艦隊を多数撃沈する戦果を挙げている。しかし、英米軍の攻撃も激しく、その分損害も多かった。RSI空軍の攻撃を重く受け止めた連合軍司令部は3月18日にゴリツィアの第一雷撃集団基地を絨毯爆撃し、基地の設備を破壊して使用不可能にした。しかし、ファッジョーニ大尉はそれでも諦めなかった。彼は基地をロナーテ・ポッツァーロに移し、アンツィオ及びネットゥーノにおける上陸艦隊への攻撃を継続したのである。しかし、1944年4月6日には13機のSM.79がアメリカ陸軍航空隊のP-47"サンダーボルト"戦闘機の飛行戦隊の襲撃を受け、6機が撃墜されてしまった。これは第一雷撃集団にとって非常に大きなダメージとなり、ファッジョーニ大尉のSM.79も緊急着陸を余儀なくされたのであった。

1944年4月10日、遂に悲劇が訪れた。司令官であるファッジョーニ大尉自身も戦死することとなったのである。アメリカ艦隊の対空砲火によってファッジョーニ大尉のSM.79は撃墜されたが、RSI空軍では戦闘中に行方不明になったとされた。その後、戦死認定されたファッジョーニ大尉はRSI政権によって金勲章が受勲され、後に第一雷撃集団は「ファッジョーニ」と改名されることとなった。

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アンツィオ上陸作戦博物館に展示されたRSI空軍第一雷撃集団「ブスカーリア」のSM.79"スパルヴィエロ"雷撃機のプロペラ。

イタリア空軍の雷撃機部隊は、急降下爆撃機部隊と共に地中海で数多くの撃沈戦果を挙げた。これはファッジョーニ大尉やブスカーリア少佐、グラツィアーニ大尉やマリーニ大尉といった優秀な雷撃機エースの活躍もさることながら、戦時期を通して雷撃機部隊で使われたサヴォイアマルケッティ社のSM.79"スパルヴィエロ"雷撃機の設計の優秀さを示していると言えるだろう。SM.79の後継機としてSM.84が設計されたが、結局SM.79が継続して使われ続けており、RSI空軍でも主力雷撃機として終戦まで戦い続けたのであった。

イタリア潜水艦の戦果(撃沈艦)をクラスごとにまとめてみた!

第二次世界大戦時のイタリア海軍は潜水艦を重視し、数多くのイタリア潜水艦が地中海や大西洋、更に紅海、インド洋、太平洋において活動したことは以前の記事で紹介した。そこで、今回は第二次世界大戦におけるイタリア海軍の潜水艦の戦果(撃沈艦)をクラスごとでまとめてみたここでいう「戦果」は攻撃(雷撃及び砲撃)による撃沈艦のみで、特殊作戦(敵地への上陸作戦など)への投入による破壊工作や機雷敷設任務とそれによる戦果、輸送任務、攻撃による損傷(状況問わず)といったものは含まれないものとする。また、その「戦果」を挙げていないクラスについてはここでは紹介しない。

その結果、ピサーニ級(全4隻、旧式艦で特に戦果を挙げず)、フィエラモスカ級(全1隻、機関の故障)、バンディエーラ級(全4隻、特殊作戦や輸送任務に従事)、ブラガディン級(全2隻、機雷敷設)、セッテンブリーニ級(全2隻、スペイン内戦では戦果を挙げた)、ミッカ級(全1隻、機雷敷設)、フォカ級(全3隻、機雷敷設)、トリトーネ級(全11隻、休戦直前に就役・竣工)、R級(全4隻、輸送用)、X級(全2隻、輸送用)、H級(全5隻、哨戒・訓練任務に従事)については、今回は扱わない。

潜水艦の個別の戦果や行動、詳細については過去記事の「「潜水艦大国」イタリアの潜水艦隊の活躍・第一部~第三部」を参照。また、紅海艦隊の潜水艦部隊については、「東アフリカ戦線におけるイタリア海軍の役割(1940-41) ―イタリア紅海艦隊の孤独な戦い―」を参照。

 

◆バリッラ級(Classe Balilla)

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潜水艦「エンリコ・トーティ」

バリッラ級はイタリア海軍が第一次世界大戦後に初めて建造した大型潜水艦で、H級やX級を除けば、第二次世界大戦時のイタリア潜水艦では最も古い潜水艦である。1920年代後半に建造され、「バリッラ」「トーティ」「シエーザ」「ミッレリーレ」全4隻が就役した。また、同設計でブラジル海軍に「ウマイタ」として1隻就役している。

優れた航続距離と耐久性を持っていたが、第二次世界大戦時になると旧式化していた。時代遅れの潜水艦は戦争に投入されたが戦果を挙げることは出来なかった。

その中で、唯一撃沈戦果を挙げたのは「エンリコ・トーティ」である。

◆「トーティ」

:潜水艦1隻(総計1575t)

1940年10月15日

ターラント湾にて英潜水艦「トライアド」(1575t)撃沈

 

戦果を挙げた「トーティ」を含め、旧式化していたバリッラ級は戦時中に戦闘任務を外され、訓練艦としての任務や、輸送任務に従事することとなった。

 

 

◆マメーリ級(Classe Mameli)

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潜水艦「ゴッフレード・マメーリ」

マメーリ級は第一次世界大戦後に初めて建造された中型潜水艦で、言わば戦間期におけるイタリア中型潜水艦の祖とも言える存在である。1920年代後半に建造され、「マメーリ」「カッポーニ」「プロチーダ」「スペーリ」計4隻が就役した。優れた耐久性と速力を持っていたが、バリッラ級同様に第二次世界大戦時になると旧式艦だった。

マメーリ級では「マメーリ」「カッポーニ」の2隻が撃沈戦果を挙げた。

◆「マメーリ」

武装商船1隻(総計1044t)

1940年8月2日

:マルタ沖にてギリシャ武装商船「ラウラ」(1044t)を撃沈

◆「カッポーニ」

武装商船1隻(総計1888t)

1940年6月22日

:マルタ沖にて武装商船「ハルガ」(1888t)を撃沈

 また、「カッポーニ」は戦艦「バーラム」に対して雷撃を成功させ、損傷させている。

1941年3月末にストロンボリ沖で撃沈された「カッポーニ」を除き、3隻は1941年以降は旧式艦ゆえに訓練任務もしくはアドリア海での哨戒任務に回された。

 

◆スクアーロ級(Classe Squalo)

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潜水艦「スクアーロ」

スクアーロ級は優れた性能を持つ中型潜水艦で、この級の改良型としてアドゥア級を始めとする「クラッセ600」シリーズが生み出された。1930年初頭にかけて建造され、「スクアーロ」「デルフィーノ」「ナルヴァーロ」「トリケーコ」の全4隻。とはいえ、第二次世界大戦時には旧式化が否めなかった。

撃沈戦果を挙げたのは「スクアーロ」「デルフィーノ」「トリケーコ」の3隻である。◆「スクアーロ」

:タンカー1隻(総計10000t)

1941年7月23日

キレナイカ沖にて英国の大型タンカー(約1万t)を撃沈

◆「デルフィーノ」

軽巡洋艦1隻(総計2642t)

1940年8月15日

ギリシャ・ティノス港を攻撃、ギリシャ軽巡「エリ」(2642t)撃沈

◆「トリケーコ」

:潜水艦1隻(総計856t)

1940年10月8日

エーゲ海にて中型潜水艦(856t)を撃沈

(※後に味方潜水艦である「ジェンマ」だと判明。レーロ基地は「ジェンマ」への帰投を命令したため、「トリケーコ」含む他の潜水艦はエーゲ海で「ジェンマ」は活動してないものとした。しかし、実は「ジェンマ」には帰投命令は届いていなかったためエーゲ海で活動を続けており、暗闇だったこともあり味方艦であると識別できず、「トリケーコ」は「ジェンマ」を撃沈してしまった)

 

◆アルゴナウタ級(Classe Argonauta)

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潜水艦「セルペンテ」

アルゴナウタ級潜水艦はシレーナ級、アドゥア級、ペルラ級、プラティーノ級と共に「クラッセ600(セッテチェント)」シリーズの潜水艦である。1930年代前半に就役し、「アルゴナウタ」「フィザリア」「セルペンテ」「ヤンティーナ」「サルパ」「メデューサ」「ヤレア」の全7隻。地中海での作戦行動に適した中型潜水艦だが、第二次世界大戦時は「セルペンテ」を除き、大きな戦果は残していない。

◆「セルペンテ」

駆逐艦1隻(総計1913t)

1940年12月22日

:マルタ近郊にて、英駆逐艦ハイペリオン」(1913t)撃沈

 

◆アルキメーデ級(Classe Archimede)

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潜水艦「ガリレオ・ガリレイ

アルキメーデ級はバリッラ級以来の大型潜水艦で、航洋型潜水艦。1930年代前半に就役し、「初代アルキメーデ」「初代トッリチェッリ」「ガリレイ」「フェッラーリス」の4隻だったが、「初代アルキメーデ」は「ヘネラル・モーラ」、「初代トッリチェッリ」は「へネラル・サンフルホ」としてスペイン海軍に売却された。2隻はスペイン内戦中に多くの撃沈戦果を挙げている。残ったガリレイ」と「フェッラーリス」は引き続きイタリア海軍で活動し、第二次世界大戦時は紅海艦隊の一員として活躍した。第二次世界大戦時に撃沈戦果を挙げたのは「ガリレイ」のみで、「フェッラーリス」は東アフリカ戦線崩壊後も生き残り、大西洋で任務を継続したが、戦果は挙げていない。

◆「ガリレイ

:タンカー1隻(総計8215t)

1940年6月16日

:アデン南部沖にて、英タンカー「ジェームズ・ストーヴ」(8215t)を撃沈

 

◆シレーナ級(Classe Sirena)

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潜水艦「ガラテア」

シレーナ級はアドゥア級、ペルラ級、プラティーノ級、アルゴナウタ級と共に「クラッセ600」シリーズの潜水艦である。設計的にはスクアーロ級とほぼ変わりない。1930年年代前半に就役した中型潜水艦で、計12隻。例えば、「スメラルド」は1940年6月11日、アレクサンドリア沖にて第二次世界大戦で初めて魚雷を発射したイタリア潜水艦として知られているが、撃沈戦果は挙げていない。撃沈戦果を挙げたのは「ナイアデ」「オンディーナ」「ガラテア」「トパツィオ」の4隻。

◆「ナイアデ」

:タンカー1隻(総計8029t)

1940年6月12日

アレクサンドリア沖にて、ノルウェー・タンカー「オルカンゲル」(8029t)を撃沈

◆「オンディーナ」

:輸送船1隻(3805t)

1941年6月30日

キプロス沖にて、トルコ輸送船「レファー」(3805t)撃沈

◆「ガラテア」

:輸送船1隻(総計170t)

1942年3月16日

ベイルート沖にて、ギリシャ輸送船「ゾェドコス・ペゲ」(170t)撃沈

◆「トパツィオ」

:輸送船1隻(総計691t)

1941年9月10日

ベイルート沖にて、英輸送船「ミュレフテ」(691t)撃沈

 

◆グラウコ級(Classe Grauco)

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潜水艦「オタリア

グラウコ級はイタリアが開発した大型潜水艦で、航洋型潜水艦。「グラウコ」と「オタリア」の2隻が1935年に就役し、第二次世界大戦では2隻とも大西洋での作戦に投入された。元はポルトガル海軍が発注したもので、それがキャンセルとなったため、イタリア海軍で就役することとなった。「グラウコ」は戦果を挙げられなかったが、「オタリア」は大西洋で戦果を挙げた。また、いくつかの海上救援任務にも従事した。

◆「オタリア

:輸送船1隻(総計4662t)

1941年5月8日:大西洋にて、英輸送船「スタークロス」(4662t)撃沈

 

◆カルヴィ級(Classe Calvi)

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潜水艦「エンリコ・タッツォーリ」

カルヴィ級は1935年に竣工した航洋型潜水艦で、「カルヴィ」「タッツォーリ」「フィンツィ」の3隻が就役した。操縦性が悪く、船団への攻撃には不向きと判断されていたが、その評価に反して3隻は大西洋で数多くの撃沈戦果を挙げており、特に「タッツォーリ」はイタリア海軍の潜水艦では「レオナルド・ダ・ヴィンチ」に次ぐ第二位の撃沈トン数を誇り、撃沈数では計19隻で最高の数値。イタリア海軍の潜水艦で最も成功した潜水艦の一つである。これは「タッツォーリ」艦長のディ・コッサート少佐を始めとする優秀な潜水艦指揮官によるものだ。以下の戦果は全て大西洋上でのものである。

◆「カルヴィ」

:輸送船4隻、タンカー3隻(総計45239t)

1940年12月20日

:英武装商船「カールトン」撃沈(5162t)
1942年3月7日

:英輸送船「ハンティンドン」撃沈(10946t)
1942年3月29日

:英輸送船「トレディンニック」撃沈(4589t)
1942年3月31日

:米タンカー「マコブ」撃沈(7452t)
1942年4月9日

:米タンカー「ユージーン・V・R・セイヤー」撃沈(7138t)
1942年4月11日

ノルウェー船籍の輸送船「バルキス」撃沈(2261t)
1942年4月12日

:英タンカー「ベン・ブラッシュ」撃沈(7691t)

◆「タッツォーリ」

輸送船15隻、タンカー4隻(総計98433t)

1940年10月12日

ユーゴスラヴィア輸送船「オラオ」(5135t)
1940年12月27日

:英輸送船「オーダンバーン」(4980t)
1941年4月15日

:英輸送船「オーリヤック」撃沈(4734t)
1941年5月7日

ノルウェー輸送船「ファーン・レーン」撃沈(4310t)
1941年5月9日

ノルウェー・タンカー「アルフレッド・オルセン」撃沈(8817t)
1941年8月12日

:英輸送船「サンガラ」撃沈(5449t)
1941年8月19日

ノルウェー・タンカー「シルドラ」撃沈(7313t)
1942年3月6日

:オランダ輸送船「アストレア」撃沈(1406t)
1942年3月7日

ノルウェー輸送船「トンスベルクフィヨルド」撃沈(3156t)
1942年3月9日

ウルグアイ輸送船「モンテビデオ」撃沈(5785t)
1942年3月11日

パナマ輸送船「シグニット」撃沈(3628t)
1942年3月13日

:英輸送船「デイトニアン」撃沈(6434t)
1942年3月15日

:英タンカー「アセルクイーン」撃沈(8780t)
1942年8月1日

:オランダ輸送船「カストール」撃沈(1830t)
1942年8月7日

ノルウェー・タンカー「ハヴステン」撃沈(6161t)
1942年12月12日

:英輸送船「エンパイア・ホーク」撃沈(5032t)
1942年12月12日

:オランダ輸送船「オンビリン」撃沈(5658t)
1942年12月21日

:英輸送船「クィーン・シティ」撃沈(4814t)
1942年12月25日

:米輸送船「ドナ・オーロラ」撃沈(5011t)

◆「フィンツィ」

:輸送船5隻(総計30760t)

1942年3月6日

:英輸送船「メルポメネー」(7011t)撃沈
1942年3月7日

:英輸送船「スコーネ」(4528t)撃沈
1942年3月9日

:英輸送船「チャールズ・ラシーヌ」(9957t)撃沈
1942年3月28日

ギリシャ輸送船「グラニコス」(3689t)撃沈
1942年3月29日

:英輸送船「セルティック・スター」(5575t)撃沈

 

◆ペルラ級(Classe Perla)

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潜水艦「アンブラ」

ペルラ級はアドゥア級、シレーナ級、プラティーノ級、アルゴナウタ級と共に「クラッセ600」シリーズの潜水艦である中型潜水艦。アドゥア級とはほぼ同型。1936年頃に就役し、全10隻第二次世界大戦では主に地中海で活動し、「ペルラ」のみ紅海艦隊で活動し、インド洋、大西洋での活動後に地中海に戻った。「アンブラ」「イリデ」「マラキーテ」のように特殊作戦に投入されたものも多かったが、撃沈戦果を挙げたのは「アンブラ」と「コラッロ」の2隻のみである。アリッロ艦長の「アンブラ」はイタリア海軍の潜水艦でも特に成功した潜水艦の一隻で、アルジェ攻撃では人間魚雷部隊によって輸送船4隻を一度に撃沈している華々しい戦果を挙げた。

◆「アンブラ」

軽巡洋艦1隻、輸送船4隻(総計27116t)

1941年3月31日

クレタ島沖にて、英軽巡「ボナヴェンチャー」(6850t)撃沈
1942年12月12日

:アルジェ港攻撃にて搭載した人間魚雷部隊によって以下の4隻を撃沈
英輸送船「オーシャン・ヴァンクィッシャー」(7174t)
英輸送船「ベルト」(1493t)
英輸送船「エンパイア・ケンタウル」(7041t)
英輸送船「ハルマッタン」(4558t)

◆「コラッロ」

:輸送船3隻(総計205t)

1942年4月28日

チュニジア沖にて、仏輸送船「ダルエスサラーム」(138t)撃沈
1942年4月28日

チュニジア沖にて、仏輸送船「チュニス」(41t)撃沈
1942年6月7日

チュニジア沖にて、仏輸送船「ハディ・モハメド」(26t)撃沈

 

◆アドゥア級(Classe Adua)

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潜水艦「シィレー」

 アドゥア級は「クラッセ600」シリーズの潜水艦である中型潜水艦。ペルラ級とはほぼ同型で、1936年~38年頃にかけて就役した。全17隻第二次世界大戦では主に地中海で運用され、「シィレー」及び「ゴンダール」は特殊作戦に投入されている。また、「マッカレー」は紅海で活動、戦没した。同型の潜水艦3隻がブラジルにも輸出されている。この級の潜水艦は「シィレー」を始めとして地中海で戦果を挙げ、特にアレクサンドリア港攻撃は英首相チャーチルが「我が地中海艦隊は存在しないも同然」と言うほどであった。イタリアの中型潜水艦では最も成功した級と言えるだろう。撃沈戦果には至らなかったが、雷撃で大破・損傷させた軍艦も多い。

◆「シィレー」

:戦艦2隻、タンカー3隻、輸送船1隻(総計90282t)

1941年9月19日

ジブラルタル攻撃にて搭載した人間魚雷部隊によって以下の3隻を撃沈
英輸送船「ダーラム」(10893t)撃沈
英タンカー「デンビデール」(8145t)撃沈
英タンカー「フィオナ・シェル」(2444t)撃沈
1941年12月18日

アレクサンドリア港攻撃にて搭載した人間魚雷部隊によって以下の3隻を撃沈
英戦艦「クイーン・エリザベス」(33550t)
英戦艦「ヴァリアント」(27500t)
英タンカー「サゴナ」(7750t)
◆「アクスム

軽巡洋艦1隻、駆潜艇1隻、タンカー1隻(総計14154t)

1942年8月12日

:ビゼルタ沖にて、英軽巡「カイロ」(4190t)撃沈

1942年8月12日

:ビゼルタ沖にて、米タンカー「オハイオ」(9514t)大破後、マルタ港内にて沈没
1943年6月4日

チュニジア沖にて、米駆潜艇「PC-496」(450t)撃沈

◆「アラダム」

駆逐艦1隻(総計1913t)

1942年4月6日

:ケリビア東方沖にて、英駆逐艦「ハヴォック」(1913t)撃沈

◆「アシアンギ」

:掃海艇1隻(総計1040t)

1942年11月11日

アルジェリア沖にて、英掃海艇「アルジェライン」(1040t)撃沈

◆「アラジ」

駆逐艦1隻、タンカー1隻、輸送船1隻(総計13670t)

1942年6月8日

チュニジア沖にて、伊駆逐艦「ウゾディマーレ」(2600t)誤撃沈※味方艦
1942年7月9日

レバノン沖にて、トルコ船籍タンカー「アンタレス」(3723t)撃沈
1942年8月12日

チュニジア沖にて、英輸送船「クラン・ファーガソン」(7347t)撃沈

◆「ネゲッリ」

:輸送船1隻(総計7264t)

1941年1月19日

:エジプト沖にて、英輸送船「クラン・カミング」(7264t)撃沈

 

◆アルゴ級(Classe Argo)

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潜水艦「アルゴ」

 アルゴ級は優れた性能を持つ中型潜水艦で、トリトーネ級潜水艦の原型となった。元々はポルトガル海軍が発注したものであったが、イタリア海軍で就役した。「アルゴ」と「ヴェレッラ」の2隻で、1937年就役。中型潜水艦だが2隻とも大西洋でも活動している。「ヴェレッラ」は撃沈戦果を挙げられず、船団への損傷のみだったが、「アルゴ」は大西洋と地中海両方で戦果を挙げる事に成功した。

◆「アルゴ」

:輸送船2隻、砲艦1隻(総計20974t)

1941年12月5日

:大西洋にて、輸送船「シルヴァーパイン(5066t)」撃沈
1942年11月12日

アルジェリア沖にて、大型輸送船「アワテア」(13482t)撃沈

1942年11月12日

アルジェリア沖にて、対空砲艦「ティンワルド」(2376t)撃沈 

 

◆マルチェッロ級(Classe Marcello)

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潜水艦「アゴティーノ・バルバリーゴ」

 マルチェッロ級は優れた速力と操縦性を持った大型潜水艦で、大西洋での運用を念頭に置いて開発された航洋型潜水艦。1938年に11隻が就役したが、地中海で戦没した「プロヴァーナ」を除き、全てが大西洋で活動している。「ファー・ディ・ブルーノ」以外は全て大西洋で多くの戦果を挙げた武勲艦であるため、大西洋での運用について、マルコーニ級、カルヴィ級と並び最も成功したクラスの一つだと言えるだろう。撃沈戦果には至らなかったが、雷撃で大破・損傷させた軍艦も多い。「ダンドロ」や「モチェニーゴ」は大西洋から帰還した後、地中海でも戦果を挙げている。更には「カッペリーニ」のように極東戦線まで派遣された潜水艦も存在した。

◆「マルチェッロ」

:輸送船1隻(総計1550t)

1941年1月14日

:大西洋にて、ベルギー輸送船「ポルトガル」(1550t)撃沈

◆「バルバリーゴ」

:輸送船6隻、タンカー1隻、魚雷艇1隻(総計46173t)

1940年7月19日

ジブラルタル海峡にて、英輸送船「アギーラ」(3255t)撃沈
1941年5月15日

アイルランド沖にて、英輸送船「マンチェスター・ポート」(7071t)撃沈
1941年7月25日

ジブラルタル海峡にて、英輸送船「マーコン」(5135t)撃沈
1941年7月27日

:大西洋にて、英タンカー「ホーン・シェル」(8272t)撃沈
1942年1月23日

アゾレス諸島沖にて、スペイン輸送船「ナベマール」(5473t)撃沈
1942年5月29日

:大西洋にて、英輸送船「チャルベリー」(4836t)撃沈
1943年3月2日

:大西洋にて、米魚雷艇「スタグハウンド」(8591t)撃沈

1943年3月2日

:大西洋にて、ブラジル輸送船「アルフォンソ・ペンナ」(3540t)撃沈

◆「エーモ」

:輸送船3隻(総計15458t)

1940年9月14日

:大西洋にて、英輸送船「セイント・アグネス」(5199t)撃沈
1941年3月14日

:大西洋にて、英輸送船「イースタン・チーフ」(5759t)撃沈
1941年3月18日

:大西洋にて、英輸送船「クラン・マシバー」(4500t)撃沈

◆「モロシーニ」

:輸送船4隻、タンカー2隻、武装商船1隻(総計46651t)

1941年4月30日

:大西洋にて、英タンカー「バンクーバー」(5725t)撃沈
1941年7月15日

:大西洋にて、英輸送船「ルペルト・デ・ラニラガ」(5358t)撃沈
1941年7月15日

:大西洋にて、英武装商船「レディ・ソマーズ」(8194t)撃沈
1942年3月11日

:大西洋にて、英輸送船「スタンガース」(5960t)撃沈
1942年3月16日

:大西洋にて、オランダ輸送船「オシッラ」(6347t)撃沈
1942年3月23日

:大西洋にて、英タンカー「ペダー・ボーゲン」(9741t)撃沈
1942年7月19日

:大西洋にて、デンマーク輸送船「タイザ」(5327t)撃沈

◆「ダンドロ」

:輸送船3隻、タンカー2隻(総計21142t)

1940年8月16日

:大西洋にて、オランダ・タンカー「エルメス」(3768t)撃沈
1940年8月26日

:大西洋にて、英輸送船「アーヴィントン・コート」(5187t)撃沈
1941年1月31日

:大西洋にて、英タンカー「ピッツァッロ」(1367t)撃沈
1941年11月2日

:地中海にて、仏輸送船「タルヌ」(4220t)撃沈
1941年11月8日

:地中海にて、スペイン輸送船「カスティーリョ・デ・オロペーサ」(6600t)撃沈

◆「カッペリーニ

:輸送船3隻、タンカー1隻、武装商船1隻(総計31648t)

1940年10月15日

:大西洋にて、ベルギー輸送船「カバロ」(5186t)撃沈
1941年1月5日

:大西洋にて、英輸送船「シェイクスピア」(5029t)撃沈
1941年1月14日

:大西洋にて、英武装商船「ユーミーアス」(7472t)撃沈
1942年5月19日

:大西洋にて、スウェーデン輸送船「ティスナレン」(5747t)撃沈
1942年5月31日

:大西洋にて、英タンカー「ディンズデール」(8214t)撃沈

◆「ヴェニエロ」

:輸送船3隻(総計7113t)
1940年12月18日

:大西洋にて、ギリシャ輸送船「アナスタシア」(2833t)撃沈
1941年3月23日

:大西洋にて、デンマーク輸送船「アウネータ・マースク」(2104t)撃沈
1941年6月16日

:大西洋にて、英輸送船「アリオスト」(2176t)撃沈

◆「ナーニ」

駆潜艇1隻、輸送船1隻(総計1939t)
1940年10月5日

:大西洋にて、英駆潜艇キングストン・サンファイア」(356t)撃沈
1940年10月27日

:大西洋にて、スウェーデン輸送船「マギー」(1583t)撃沈

◆「モチェニーゴ」

:輸送船2隻、タンカー1隻(総計5244t)
1940年12月21日

:大西洋にて、スウェーデン輸送船「マンゲン」(1253t)撃沈
1940年12月22日

:大西洋にて、英輸送船「サラストーン」(2473t)撃沈
1942年3月15日

:地中海にて、仏タンカー「サン・マルサラ」(1518t)撃沈

 

◆ブリン級(Classe Brin)

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潜水艦「アルキメーデII」

ブリン級潜水艦はアルキメーデ級潜水艦の発展型で、ネームシップの「ベネデット・ブリン」を除き、開戦時は全て紅海のマッサワ基地に配備されていた。全5隻。紅海で活動した4隻は戦没した「トッリチェッリ」及び「ガルヴァーニ」を除き、東アフリカ戦線崩壊後は喜望峰を通ってボルドーのベータソム基地に到着。「ブリン」と共に大西洋艦隊に編入された。ブリン級は紅海及び大西洋にていくつかの戦果を挙げている。

◆「ブリン」

:輸送船2隻(総計7241t)
1941年6月13日

:大西洋にて、英輸送船「ジュールジュラ」(3460t)を撃沈
1941年6月13日

:大西洋にて、ギリシャ輸送船「エイリーニ・キリアキデス」(3781t)を撃沈

◆「ガルヴァーニ

哨戒艇1隻(総計661t)
1940年6月23日

オマーン沖にて、英領インド帝国哨戒艇「パターン」(661t)を撃沈

◆「グリエルモッティ」

:タンカー1隻(総計4008t)
1940年9月6日

:紅海にて、ギリシャ・タンカー「アトラス」(4008t)を撃沈

◆「トッリチェッリ」

駆逐艦1隻(総計2370t)
1940年6月23日

:ペリム島沖にて、英駆逐艦ハルツーム」(2370t)を撃沈

◆「アルキメーデII」
:輸送船1隻、兵員輸送船1隻(総計25629t)
1942年6月16日

:大西洋にて、パナマ輸送船「カルディーナ」(5586t)を撃沈
1942年10月9日

:大西洋にて、英兵員輸送船「オロンセイ」(20043t)を撃沈

 

リウッツィ級(Classe Liuzzi)

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潜水艦「アルピーノ・バニョリーニ」

リウッツィ級は1939年~1940年にかけて就役した大型航洋型潜水艦で、全4隻エーゲ海で戦没したネームシップの「リウッツィ」を除き、全てが大西洋艦隊で活動している。「バニョリーニ」は第二次世界大戦のイタリア海軍の潜水艦で最も早い段階で敵艦を撃沈したことで知られている(軽巡カリプソ」の撃沈)。また、「ジュリアーニ」はマルチェッロ級の「カッペリーニ」、マルコーニ級の「トレッリ」と共に極東に派遣された1隻でもあった。

◆「バニョリーニ」

軽巡洋艦1隻、輸送船2隻(総計11142t)
1940年6月12日

クレタ島沖にて、英軽巡カリプソ」(4180t)を撃沈
1940年9月18日

:大西洋にて、スペイン輸送船「カボ・トルトサ」(3302t)を撃沈
1940年12月19日

:大西洋にて、英輸送船「アミクス」(3660t)撃沈を撃沈

◆「タランティーニ」

:輸送船1隻(総計3040t)
1940年7月11日

:ハイファ沖にて、パナマ輸送船「ベーム」(3040t)を撃沈

◆「ジュリアーニ

:輸送船3隻(総計16104t)

1942年8月10日

:大西洋にて、英輸送船「メドーン」(5445t)を撃沈
1942年8月15日

:大西洋にて、米輸送船「カリフォルニア」(5441t)を撃沈
1942年8月16日

:大西洋にて、英輸送船「シルヴィア・デ・ラニラガ」(5218t)を撃沈

 

◆マルコーニ級(Classe Marconi)

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潜水艦「レオナルド・ダ・ヴィンチ

マルコーニ級は、マルチェッロ級と同様に大西洋での運用を想定して開発された大型航洋型潜水艦。1940年に就役し、全6隻。イタリア海軍No.1撃沈数を誇る「レオナルド・ダ・ヴィンチ」を始めとして、大西洋を中心に数多くの戦果を挙げ、イタリア海軍の潜水艦で最も成功した潜水艦のクラスであると言える。「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の戦果はドイツ潜水艦以外では最高の数値のため、同時期の世界各国の潜水艦の中でも成功した潜水艦と言えるだろう。また、「トレッリ」は極東に派遣された後、ドイツ海軍、日本海軍と渡り歩き、1945年8月30日にはアメリカ軍のB-25爆撃機を対空砲火で撃墜することに成功、これは第二次世界大戦時におけるイタリア潜水艦の最後の戦果として記録されている。

 ◆「レオナルド・ダ・ヴィンチ

:タンカー2隻、輸送船12隻、リバティ船2隻、兵員輸送船1隻(総計120243t)
1941年6月28日

:大西洋にて、英タンカー「オーリス」(8030t)を撃沈
1942年2月25日

:大西洋にて、ブラジル輸送船「カベデッロ」(3557t)を撃沈
1942年2月28日

:大西洋にて、ラトヴィア輸送船「エベラスマ」(3644t)を撃沈
1942年6月2日

:大西洋にて、パナマ輸送船「レイン・マリー・スチュワート」(1087t)を撃沈
1942年6月7日

:大西洋にて、デンマーク輸送船「チリ」(6956t)を撃沈
1942年6月10日

:大西洋にて、オランダ輸送船「アリオト」(5483t)を撃沈
1942年6月13日

:大西洋にて、英輸送船「クラン・マクアリー」(6471t)を撃沈
1942年11月2日

:大西洋にて、英輸送船「エンパイア・ジール」(7009t)を撃沈
1942年11月5日

:大西洋にて、ギリシャ輸送船「アンドレアス」(6566t)を撃沈
1942年11月10日

:大西洋にて、リバティ船「マーカス・ウィットマン」(7176t)を撃沈
1942年11月11日

:大西洋にて、オランダ輸送船「フェールハーヴェン」(5291t)を撃沈
1943年3月14日

:大西洋にて、カナダ兵員輸送船「エンプレス・オブ・カナダ」(21517t)を撃沈
1943年3月18日

:大西洋にて、英輸送船「ラルワース・ヒル」(7628t)を撃沈
1943年4月17日

:大西洋にて、英輸送船「スンビラン」(6566t)を撃沈
1943年4月18日

:大西洋にて、英輸送船「マナー」(8007t)を撃沈
1943年4月21日

:大西洋にて、リバティ船「ジョン・ドレートン」(7177t)を撃沈
1943年4月25日

:大西洋にて、英タンカー「ドルエッサ」(8078t)を撃沈

◆「マルコーニ」

駆逐艦1隻、輸送船7隻、タンカー1隻(総計24257t)
1940年7月11日

:地中海にて、英駆逐艦エスコート」(1970t)を撃沈

1940年9月19日

:大西洋にて、スペイン輸送船「アルミランテ・ホセ・デ・カランサ」(330t)を撃沈
1940年11月9日

:大西洋にて、英輸送船「ヴィンガランド」(2734t)を撃沈
1941年5月30日

:大西洋にて、英タンカー「カリンデール」(8129t)を撃沈
1941年6月1日

:大西洋にて、英輸送船「バロン・ロヴァット」(3395t)を撃沈

1941年6月1日

:大西洋にて、スウェーデン輸送船「タバーグ」(1392t)を撃沈

1941年6月1日
:大西洋にて、ポルトガル輸送船「エクスポルタドール・プリミエロ」(318t)を撃沈

1941年6月1日

:大西洋にて、名称不明の輸送船(3400t)を撃沈
1941年8月13日

:大西洋にて、ユーゴスラヴィア輸送船「スド」(2589t)を撃沈

◆「トレッリ」

:輸送船6隻、タンカー1隻(総計42968t)
1941年1月15日

:大西洋にて、ギリシャ輸送船「ネメア」(5198t)を撃沈
1941年1月15日

:大西洋にて、ノルウェー輸送船「ブラスク」(4079t)を撃沈
1941年1月16日

:大西洋にて、ギリシャ輸送船「ニコラス・フィニリス」(3111t)を撃沈
1941年1月28日

:大西洋にて、英輸送船「ウルラ」(5198t)を撃沈
1941年7月21日

:大西洋にて、ノルウェー・タンカー「イーダ・クヌドセン」(8913t)を撃沈
1942年2月19日

:大西洋にて、英輸送船「スコティッシュ・スター」(7224t)を撃沈
1942年2月25日

:大西洋にて、パナマ輸送船「エッソ・コペンハーゲン」(9245t)を撃沈

◆「ビアンキ

駆潜艇1隻、輸送船3隻(総計20065t)
1941年2月5日

:大西洋にて、英輸送船「ベルクレスト」(4517t)を撃沈
1941年2月23日

:大西洋にて、英駆潜艇マニスティー」(5360t)を撃沈
1941年2月24日

:大西洋にて、英輸送船「リナリア」(3385t)を撃沈
1941年2月27日

:大西洋にて、英輸送船「バルチスタン」(6803t)を撃沈

◆「バラッカ」

:輸送船2隻、タンカー1隻(総計9047t)
1940年10月1日

:大西洋にて、ギリシャ輸送船「アギオス・ニコラオス」(3687t)を撃沈
1940年11月18日

:大西洋にて、英輸送船「リリアンモーラー」(4866t)を撃沈
1941年9月5日

:大西洋にて、英タンカー「トリニダード」(494t)を撃沈

◆「マラスピーナ」

:輸送船5隻、タンカー1隻(総計24384t)
1940年8月12日

:大西洋にて、英タンカー「ブリティッシュ・ファーメ」(8406t)を撃沈
1941年7月8日

:大西洋にて、ギリシャ輸送船「ニコキリス」(3576t)を撃沈
1941年7月17日

:大西洋にて、英輸送船「グエルマ」(4402t)を撃沈
1941年9月

:大西洋にて、HG73船団輸送船3隻(約8000t程度)を撃沈

 

アンミラーリ級(Classe Ammiragli)

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潜水艦「アンミラーリオ・カーニ」

アンミラーリ級はイタリア海軍最大の排水量を持つ大型の潜水艦で、武装も魚雷発射管14門(前8門+後6門)、魚雷搭載本数36本を備え、主砲に47口径100mm二連装砲、更に対空砲としてブレダ社製の重機関銃を搭載した。これは実に、大戦間を通じて最大の数値であり、遠く孤立した海域でも通商破壊に従事できるようにと設計されていた。

計4隻が作られ、「カーニ」「カラッチョロ」「ミッロ」「サン・ボン」いずれも大戦勃発後の1941年に就役している。この大型潜水艦は多くの戦果を挙げることを期待されていたが、「カーニ」を除く3隻は、地中海では大型潜水艦の運用は極めて不向きだったにもかかわらず、大型のスペースを持つが故に輸送任務に従事することとなり、その結果大きな戦果を挙げることもなく地中海で戦没した。「カーニ」のみ、本来の任務地である大西洋で使われたが、戦果は僅か輸送船2隻の撃沈(+巡洋艦1隻の大破)にとどまっている。一方で、「カーニ」は136日間を海で過ごしてインド洋にまで進出し、これはイタリア潜水艦でも最長の航行任務期間となっている。

◆「カーニ」

武装商船1隻、輸送船1隻(総計5480t)
1942年11月3日

:大西洋にて、英武装商船「ダゴンバ」(3485t)を撃沈
1942年11月29日

:大西洋にて、ギリシャ輸送船「アルゴ」(1995t)を撃沈

 

◆プラティーノ級(Classe Pratino)

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潜水艦「プラティーノ

ラティーノ級はアドゥア級やペルラ級などと共に「クラッセ600」シリーズの潜水艦で、第二次世界大戦開戦後の1941年~1942年に掛けて就役した中型潜水艦だ。全13隻。そのため、様々な改良点が加えられており、就役時期故に戦争後半から活躍した。より強力な機関を搭載しており、速力が向上している。全てが地中海で活動しており、多くの戦果を挙げたが、連合軍側の対潜能力の向上によって苦戦を強いられた。

◆「プラティーノ

コルベット1隻、駆潜艇3隻(総計2242t)
1943年1月29日

アルジェリア沖にて、英コルベット「サンファイア」(1015t)を撃沈
1943年2月7日

アルジェリア沖にて、英駆潜艇3隻(409t×3=1227t)を撃沈

◆「アッチアイーオ」

駆潜艇2隻、敷設巡洋艦1隻(総計4818t)
1943年2月7日

アルジェリア沖にて、英駆潜艇「アーノルド・ベネット」(409t)を撃沈

1943年2月7日

アルジェリア沖にて、英駆潜艇「テルヴァーニ」(409t)を撃沈
1943年9月10日

ターラント沖にて、敷設巡洋艦「アブディール」(4000t)を撃沈

◆「アヴォリオ」

駆潜艇1隻(総計545t)
1943年2月5日

アルジェリア沖にて、英駆潜艇「ストロンゼー」(545t)を撃沈

◆「ブロンツォ」

:輸送船1隻(総計12668t)

1942年8月12日

チュニジア沖にて、輸送船「エンパイア・ホープ」(12668t)を撃沈

◆「ニケリオ」

魚雷艇1隻(総計115t)
1943年7月14日

メッシーナ海峡にて、英魚雷艇「MGB642」(115t)を撃沈

 

◆CB級(Classe CB)

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CB級ポケット潜水艦

CB級ポケット潜水艦は敵泊地攻撃の為に開発されたポケット潜水艦(僅か45t)で、1938年に開発されたCA級の発展型として1941年に開発されたものだ。航続距離も伸びて中距離攻撃作戦への投入も可能となった。対ソ戦が開始すると、イタリア海軍派遣部隊の一員として5隻のCB級ポケット潜水艦が陸路で黒海に派遣された。黒海では本来の用途である敵泊地攻撃を行わず、通常の潜水艦と同様に哨戒任務や待ち伏せ攻撃に従事し、CB級はそれなりの戦果を挙げた。黒海において活動した唯一のイタリア潜水艦である。

◆CB級ポケット潜水艦(CB-2, CB-3, CB-4)

:潜水艦5隻(総計4255t)

1942年6月15日

黒海にて、ソ連潜水艦「S32」(1070t)を撃沈
1942年6月18日

黒海にて、ソ連潜水艦「SHCH206”ネルマ”」(705t)を撃沈
1942年8月23日

黒海にて、ソ連潜水艦「SHCH208」(705t)を撃沈
1943年8月26日

黒海にて、ソ連潜水艦「SHCH203」(705t)を撃沈
1943年8月29日

黒海にて、名称不明のソ連潜水艦(1070t)を撃沈

 

クラスごとで撃沈戦果をまとめてみると以下の通り。

バリッラ級(全4隻) 総計1575t

:潜水艦1隻

マメーリ級(全4隻) 総計2932t
武装商船2隻

スクアーロ級(全4隻) 総計13498t
軽巡洋艦1隻、潜水艦1隻、タンカー1隻

アルゴナウタ級(全7隻) 総計1913t
駆逐艦1隻

アルキメーデ級(全2隻) 総計8215t
:タンカー1隻

シレーナ級(全12隻) 総計12695t
:タンカー1隻、輸送船3隻

グラウコ級(全2隻) 総計4662t
:輸送船1隻

カルヴィ級(全3隻) 総計174432t
:タンカー7隻、輸送船24隻

ペルラ級(全10隻) 総計27321t
軽巡洋艦1隻、輸送船7隻

アドゥア級(全17隻) 総計128323t
:戦艦2隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦2隻、駆潜艇1隻、掃海艇1隻、タンカー5隻、輸送船3隻

アルゴ級(全2隻) 総計20974t
:輸送船2隻、砲艦1隻

マルチェッロ級(全11隻) 総計176918t
駆潜艇1隻、魚雷艇1隻、武装商船2隻、タンカー7隻、輸送船26隻

ブリン級(全5隻) 総計39909t
駆逐艦1隻、哨戒艇1隻、兵員輸送船1隻、タンカー1隻、輸送船3隻

リウッツィ級(全4隻) 総計30286t
軽巡洋艦1隻、輸送船6隻

マルコーニ級(全6隻) 総計240964t
駆逐艦1隻、駆潜艇1隻、兵員輸送船1隻、リバティ船2隻、タンカー6隻、輸送船35隻

アンミラーリ級(全4隻) 総計5480t
武装商船1隻、輸送船1隻

ラティーノ級(全13隻) 総計20388t
敷設巡洋艦1隻、コルベット1隻、魚雷艇1隻、駆潜艇6隻、輸送船1隻

CB級(全5隻※黒海に派遣されたもののみ) 総計4255t
:潜水艦5隻

 


これを合計すると、
第二次世界大戦時のイタリア潜水艦による撃沈トン数は

総計914740tである。
内訳は、戦艦2隻、軽巡洋艦4隻、敷設巡洋艦1隻、駆逐艦5隻、潜水艦7隻、コルベット1隻、砲艦1隻、魚雷艇2隻、駆潜艇9隻、掃海艇1隻、哨戒艇1隻、兵員輸送船2隻、武装商船5隻、リバティ船2隻、タンカー29隻、輸送船112隻

 

とまぁこんな感じである。イタリア潜水艦はドイツ潜水艦同様に、主に外洋である大西洋で大きな戦果を挙げた。地中海は透明度が高いため、潜水艦の運用は不向き(であるにもかかわらず伊英両国共に潜水艦を多用したが)であるため、特殊作戦(ジブラルタル攻撃、アレクサンドリア港攻撃、アルジェ港攻撃)を除いてそこまでの撃沈数ではない。紅海については以前の記事で紹介したようなトラブルによって、本来の力を発揮できずに少数の戦果に留まった。

東アフリカ戦線におけるイタリア海軍の役割(1940-41) ―イタリア紅海艦隊の孤独な戦い―

久々の更新です。今回は、エリトリアのマッサワ港を母港に、紅海やインド洋で活動したイタリア海軍の紅海艦隊について詳しく紹介します。

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マッサワ軍港のイタリア紅海艦隊

1936年、エチオピア戦争が終盤になってくると、ムッソリーニは東アフリカ方面に展開した海軍部隊の支援のため、「アフリカの角」における海軍基地・港湾設備と艦隊の強化を命じた。これは、東アフリカへの物資輸送を円滑に行うためであり、エチオピア帝国完全制圧後、イタリア領東アフリカ帝国(A.O.I.)が成立すると、本国と植民地間の貿易の円滑化も図られた。また、英国の重要な通商路である紅海を抜けるスエズ―インドルートを脅かす意味合いもあった。これは英国との対立関係が徐々に浮き彫りになっていったからであるが、スエズを英国に抑えられている以上、仮に英国と戦争状態になった場合、イタリア本国からの補給が滞る危険性を孕んでいることは明らかであった。実際、第二次世界大戦時は東アフリカ戦線には本国からの補給は全く届かなかった

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エリトリアの地図(現在の領土)。紅海艦隊の母港マッサワ港は中心部に位置する。東端の港町がアッサブ港。

紅海艦隊の母港はエリトリア最大の港湾都市マッサワ(現在エリトリア第二の都市)で、またマッサワ以外にもエリトリア東部のアッサブ港も海軍の基地として使われていた。マッサワ陥落後は紅海艦隊最期の抵抗拠点としてアッサブが使われている。ソマリアモガディシオキスマヨ(キシマイオ)は封鎖突破船の母港だった。イタリア輸送船団は英海軍によるインド洋封鎖を突破しようと試みた。

イタリア参戦時(1940年6月10日)の紅海艦隊の構成は以下の通りである。

◆第三駆逐戦隊

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駆逐艦「フランチェスコ・ヌッロ」

駆逐艦「フランチェスコ・ヌッロ」「ナザリオ・サウロ」「ダニエーレ・マニン」「チェーザレ・バッティスティ」

◆第五駆逐戦隊

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駆逐艦「レオーネ」

駆逐艦「レオーネ」「ティグレ」「パンテーラ」

水雷戦隊

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水雷艇「ジョヴァンニ・アチェルビ」

水雷艇「ジョヴァンニ・アチェルビ」「ヴィンチェンツォ・ジョルダーノ・オルシーニ」

◆第21MAS艇戦隊

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「MAS213艇」

「MAS204艇」「MAS206艇」「MAS210艇」「MAS213艇」「MAS216艇」及び武装小型艇7隻、サンブーキ艇数隻

◆第7潜水艦艦隊

■第81戦隊

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潜水艦「アルベルト・グリエルモッティ」

潜水艦「アルベルト・グリエルモッティ」「ガリレオ・フェッラーリス」「ルイージ・ガルヴァーニ」「ガリレオ・ガリレイ

■第82戦隊

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潜水艦「アルキメーデ」

 

潜水艦「ペルラ」「マッカレー」「アルキメーデ」「エヴァンジェリスタ・トッリチェッリ」

◆仮装巡洋艦戦隊

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仮装巡洋艦「ラム2」

仮装巡洋艦「ラム1」「ラム2」

◆補助船部隊

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通報艦「エリトレア」

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砲艦「ジュゼッペ・ビリエーリ」

通報艦「エリトレア」、砲艦「ポルト・コルシーニ」「ジュゼッペ・ビリエーリ」、機雷敷設艦「オスティア」、タンカー「ニオベ」、給水船「シレ」「セベト」「バッキリオーネ」、病院船「ラム4」、タグボート「アウゾニア」

 

これ以外にも空軍から譲り受けた水上機数機や、海軍アスカリ兵が操作する武装小型艇、多数の輸送船なども存在したようである。

艦隊は旧式の駆逐艦と、潜水艦を中心とする小規模な艦隊であり、更に紅海の高温多湿の気候は艦艇に悪影響を及ぼしていた。整備環境も満足ではなく、このような状況での準備不足の参戦は紅海艦隊が限定的な役割しか果たせない原因となった。

 

次は、イタリア紅海艦隊の指揮官たちを見てみよう。

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紅海艦隊の2人の司令官。カルロ・バルサモ提督(1939年~1940年12月)と、マリオ・ボネッティ提督(1940年12月~1941年4月)。

第二次世界大戦時の紅海艦隊は二人の提督によって指揮された。

カルロ・バルサモ(Carlo Balsamo)提督は1890年4月20日軍港都市ターラントで生まれた。本名はカルロ・バルサモ・ディ・スペッキア・ノルマンディア(Carlo Balsamo di Specchia Normandia)と長く、その名前から想像がつくとは思うが貴族出身で、ナポリ発祥の侯爵家の出である。彼は1939年からマッサワ軍港の司令官となり、1940年12月に召還されるまで第二次世界大戦初期の紅海艦隊を率いた。バルサモ提督はボネッティ提督と交代で本国に召還された後、同盟国である日本に派遣され、東京に駐在する海軍の駐在武官として務めた。1943年9月のイタリア王国休戦後は、国王に忠誠を誓ったため日本当局に抑留されている。

マリオ・ボネッティ(Mario Bonetti)提督1888年3月3日、ペトラルカの出身地として知られるアレッツォで生まれた。第一次世界大戦時は潜水艦の艦長として銀勲章を受勲される活躍を見せた。本国に召還されたバルサモ提督の後任としてマッサワ軍港の司令官に任命され、東アフリカ戦線の崩壊まで紅海艦隊を指揮した。彼が司令官に就任した頃、英軍は東アフリカ戦線で反撃を開始し、イタリア軍に有利であった戦況は変わりつつあった。年が明けてケレンでの攻防戦が始まると、東アフリカ帝国の崩壊は時間の問題となり、ボネッティ提督は最後の抵抗を試みる。

 

では、第二次世界大戦におけるイタリア紅海艦隊の戦歴を見てみよう。

◆紅海艦隊、出撃開始

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バルコニーから英仏宣戦布告演説をするムッソリーニ統帥

1940年6月10日にムッソリーニ統帥は英国及びフランスに宣戦布告し、イタリア王国は枢軸国側で第二次世界大戦に参戦した。海軍参謀長ドメニコ・カヴァニャーリ提督率いるイタリア海軍最高司令部(スーペルマリーナ)は、紅海艦隊に積極的な攻勢を命令した。紅海艦隊の司令官であるバルサモ提督もそれに応じることとなった。

しかし、現状は想像以上に最悪の状況であった。他のイタリア軍の例と同様に、紅海艦隊も準備不足の状態での参戦であったため、当然攻撃準備は整っていなかった。その上、地中海艦隊とは異なり、マッサワを根拠とする紅海艦隊は軍港設備も劣悪で、先述した通り艦艇の整備も満足に出来なかった。開戦後は英国にスエズ運河を封鎖されるため、本国からの支援も一切期待できなかった。

バルサモ提督は最高司令部からの命令を了承したが、積極的な攻勢をすぐに行うことが不可能である事は理解していた。ひとまず、現状最も有効な策だと思われる方法でバルサモ提督は最高司令部からの期待に応えることにした。それは、潜水艦戦隊による待ち伏せ攻撃による連合国船団への攻撃任務であった。

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英国東洋艦隊を指揮したラルフ・レーザム卿。1941年のイタリア紅海艦隊壊滅後は、マルタの司令官となって引き続きイタリア海軍との戦いを続ける。

敵側の海軍を見てみると、英国の東洋艦隊はイタリア紅海艦隊とは比べ物にならないほどに大規模であり、インド洋は「英国艦隊の裏庭」であった。フランス海軍は東アフリカ方面には海軍基地をジブチしか持っていなかったため、通報艦等6隻ほどしか所属しておらず、イタリア紅海艦隊にとっては脅威ではなかった。

潜水艦部隊には各地点での待ち伏せ攻撃を命じた。「マッカレー」はポートスーダン(6月10日出発)、ガルヴァーニ」はオマーン(6月10日出発)、ガリレイ」はアデン南部沖(6月12日出発)、「フェッラーリス」は紅海東部(6月12日出発)、「トッリチェッリ」はバブ・エル・マンデブ海峡(6月14日出発)、「アルキメーデ」はジブチ(6月19日出発)、「ペルラ」はジブチ・タジュラ湾(6月19日出発)での待ち伏せ攻撃を命じられた。潜水艦部隊では唯一「グリエルモッティ」だけ待ち伏せ攻撃には参加せず、マッサワ軍港での待機となった。

 

◆塩化エチル漏洩事故の発生

しかし、始まりは順調にはいかなかった。「フェッラーリス」「ペルラ」「マッカレー」「アルキメーデ」では高温多湿の環境によって空調設備の故障が発生し、塩化エチルの漏洩事故が発生した。これによって乗組員は中毒を起こし、体調不良で錯乱状態になっていった(「ペルラ」では艦内が64度にまで達した)。更に、船団攻撃を成功させていたガリレイ」も英海軍の駆潜艇の攻撃を受けて、塩化エチルの漏洩事故が発生した。その結果、「ガリレイ」は換気のために水上航行を強いられる結果となった。

こうした漏洩事故により、「アルキメーデ」はアッサブ港に避難して応急修理した後、マッサワ港に帰還してドッグ入りとなった。「ペルラ」は中毒と高温に苦しみながらも、軽巡「リアンダー」を中心とする英艦隊と交戦した結果、多くの船員が戦死し、応急修理の後マッサワ港に帰還してドッグ入りとなった。「フェッラーリス」もマッサワ港に帰還して修復を受け、「マッカレー」はポートスーダン南東沖のバル・ムーサ・ケビル島にて座礁し、英軍への降伏を拒否した乗組員たちはスーダンから陸路で司令部に救援要請を伝え、海軍と空軍の共同作戦によって、乗組員は救出された。待ち伏せ攻撃に参加していなかった「グリエルモッティ」はこれが初任務となり、「マッカレー」の生存者を救出し、英空軍の哨戒を振り切りマッサワ軍港に帰還した。

この結果、3隻が修復のため行動不能になり、1隻が喪失した。

 

◆潜水艦部隊による戦果

塩化エチルの漏洩事故によって散々な結果の出だしとなったイタリア紅海艦隊であったが、潜水艦部隊は待ち伏せ攻撃によってまずまずの戦果を挙げた。

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「トッリチェッリ」との戦闘の結果、爆沈した英駆逐艦ハルツーム

1940年6月16日には、アデン南部沖にてガリレイ待ち伏せ攻撃によって、英軍の大型タンカー「ジェームズ・ストーヴ」を撃沈した。6月23日には、オマーン沖にて待ち伏せ攻撃したガルヴァーニ英領インドの哨戒艇「パターン」を撃沈している。更に同日、ペリム島沖での「トッリチェッリ」との戦闘の結果、英国海軍の駆逐艦ハルツームが爆沈している。少し間を開けて9月6日にはギリシャ船籍の大型タンカー「アトラス」「グリエルモッティ」が撃沈する戦果を挙げている。

 

◆「ガリレイ」の降伏と更なる悲劇の発生

ガリレイが船団攻撃の際に攻撃を受けて水上航行を強いられる結果となったと先述したが、この結果艦隊全体にまで影響が広がる悲劇が発生した。ガリレイでは塩化エチルの漏洩事故によって、大半の乗員が中毒を起こし、換気のため潜行時間が限られてしまい、更に中毒の影響で船員はマトモな判断すら出来なくなっていた

6月18日、輸送船を発見したガリレイは主砲を警告のために発射し、この輸送船を停止させた。この輸送船はユーゴスラヴィア船籍の「ドラヴァ」であったが、当時ユーゴスラヴィアは中立国であったため、ガリレイは航行を許可した。この時、輸送船を停止させるために警報で撃った主砲の音が、近くを航行していた英国海軍の砲艦「ムーンストーンに傍受されていた。ムーンストーントロール船を改造した砲艦で、ガリレイを発見した英軍機からの報告を受け、ガリレイ捜索のために駆り出されていた。ムーンストーンに捕捉されたガリレイは交戦したが、塩化エチルの漏洩は解決していなかったため、浮上しての戦いを強いられてしまった。そして、ムーンストーンの攻撃が直撃し、ナルディ艦長他多くの士官が戦死、戦闘指揮が不可能な状態となり、残りの船員は降伏を選択した

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降伏後、英駆逐艦「カンダハー」に曳航される潜水艦「ガリレイ

ガリレイはその後、アデンに曳航された。英海軍はガリレイから作戦命令書を手に入れ、イタリア潜水艦部隊の待ち伏せ作戦が完全に英海軍に知られる形となった。この情報をもとに、英海軍は6月24日、ガルヴァーニ駆逐艦部隊の爆雷攻撃で撃沈した。更に、6月21日には「トッリチェッリ」爆雷攻撃をするが、「トッリチェッリ」は損傷を受けたものの退避に成功。その後、「トッリチェッリ」はマッサワ軍港を目指したが、ペリム島沖にて英艦隊の追撃を受けて撃沈された。しかし、「トッリチェッリ」も最後まで抵抗し、英国海軍も駆逐艦ハルツーム」を失う損害を受けた

二つの「漏洩」の結果、イタリア紅海艦隊は潜水艦全8隻のうち、4隻(「ガルヴァーニ」「トッリチェッリ」「マッカレー」「ガリレイ」)を失い、3隻(「ペルラ」「アルキメーデ」「フェッラーリス」)が修復で行動不能となった。つまりは、3隻の修復完了まで行動が可能だった潜水艦は待ち伏せ攻撃に参加していなかった「グリエルモッティ」のみとなったのである。更に、この悲劇は戦闘開始から僅か3週間の間に起こっていた。

◆東アフリカ戦線初期の戦況

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1940年8月19日時点での東アフリカ戦線のイタリア軍の占領地域。これに加え、フランス降伏によってジブチ港の使用権を得ていた。

しかし、この段階では東アフリカ戦線はイタリア陸軍の善戦によって、イタリア軍有利の状態であった。アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ空軍大将率いるイタリア領東アフリカ軍(A.O.I.軍)はスーダンゲダレフ及びカッサラーへの攻勢を開始。7月4日、ルイージ・フルーシィ将軍率いる部隊がカッサラーを制圧し、7月5日にはピエトロ・ガッツェラ将軍率いる部隊が同じくスーダンガッラバト要塞及びクルムク要塞を陥落させた。更に、ガッツェラ将軍の部隊は英領ケニアに侵攻を開始。7月16日に国境都市のモヤレを制圧後、続けてマンデラを制圧。国境から100km地点のブナまで進軍した。

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イタリア領東アフリカ帝国副王、アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ空軍大将。東アフリカ方面軍の総司令官を務めた人物だが、優秀な飛行家としても知られていた。

8月3日からはグリエルモ・ナージ将軍率いる部隊が英領ソマリランド侵攻を開始し、イタリア軍は多くの犠牲を出しながらも、8月3日に首都ハルゲイサを制圧。トゥグ・アルガン峠での英軍による最後の抵抗をイタリア軍が撃破した後、8月19日にイタリア軍港湾都市ベルベラを陥落させ、侵攻開始からわずか2週間足らずで英領ソマリランド全土を制圧したのであった。

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フィアットCR.42"ファルコ"戦闘機(ヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館所蔵)

東アフリカ戦線のイタリア空軍は旧式機が目立ったが、マリオ・ヴィシンティーニ大尉(第二次世界大戦最高の複葉機エースで、東アフリカ戦線のトップエース)を始めとするスペイン内戦を経験したヴェテランパイロットが多く、戦闘機部隊は5カ月間の間に25機の英軍機を撃墜し、善戦していた爆撃機部隊も拠点爆撃や地上部隊攻撃で活躍し、更に海軍の救援任務(例:潜水艦「マッカレー」の生存者への食糧投下)にも従事している。アッサブ、グーラ、アディスアベバモガディシオなどに空軍基地を置き、戦闘機(フィアットCR.42"ファルコ"、フィアットCR.32など)と爆撃機(サヴォイアマルケッティSM.79"スパルヴィエロ"、サヴォイアマルケッティSM.81"ピピストレッロ"、カプロニCa.133"カプロナ"、カプロニCa.311など)を中心とした。10月にはロードス島を出発し、マナーマ油田(バーレーン)及びダーラン油田(サウジアラビア)への長距離爆撃を成功させた4機のサヴォイアマルケッティSM.82“カングーロ”がエリトリアのズーラに到着した。彼らはマッサワの飛行場に到着する予定であったが、英空軍がマッサワ爆撃を行ったため、迂回してズーラに到着した。4500kmもの距離を飛行してきた彼らは、その後出発し、道中でポートスーダンへの爆撃を実施し、ベンガジ経由で全員がイタリアに帰還することが出来た(詳しくは同ブログの過去記事「エットレ・ムーティ空軍中佐と中東への長距離爆撃作戦 ―中東油田地帯ヲ爆撃セヨ!」―を参照)。

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イタリア軍が制圧したジブチフランス軍国境要塞の一つ。

更に、エチオピア-ジブチ国境にて、イタリア陸軍・空軍とフランス陸軍・空軍の小規模な戦闘が発生していた。イタリア陸軍はフランス軍の国境要塞群を制圧し、空軍はジブチ港を爆撃していた(この際激しい対空砲火によって爆撃機2機が撃墜されている)。その報復としてフランス空軍もエチオピア国境のドゥアンレーを爆撃している。6月24日にヴィッラ・インチーサ休戦協定がイタリア・フランス間で署名されたことにより、6月25日には伊仏両軍は休戦を実現した。この結果、イタリア軍はフランスが支配していたジブチ港の使用権を手に入れジブチ-アディスアベバ鉄道を活用することで物資の円滑な輸送が可能となった。更にジブチの非武装化と全装備のイタリア軍への接収が行われた。しかし、駐ジブチ・フランス軍司令官であるポール・レジェンティオーム将軍はヴィシー政権に従うことを拒否し、アデンに脱出して自由フランス軍に合流した。
東アフリカ戦線におけるイタリア陸軍・空軍の連勝ムッソリーニにとって喜ばしいことであり、ヒトラーも絶賛する祝電を打ったほどであった。この結果、海軍は大敗北を喫していたが、紅海艦隊の役目は最初から限られていたが故に、どちらにせよ英海軍の優位は変わらないと見られており、現状での影響は少ないように感じられた

 

◆紅海戦略の再考

紅海艦隊司令官のバルサモ提督は、潜水艦8隻のうち7隻が行動不能となった事を受け、紅海における運用戦略の再考を迫られることとなった。バルサモ提督は残存艦隊による小艦隊を形成し、それによる英船団攻撃を実行するように方針転換した。しかし、制海権は完全に英軍に握られていたため、英船団攻撃は沿岸部における夜間攻撃に限られてしまった

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機雷敷設艦「オスティア」

ここで、潜水艦以外の紅海艦隊の艦艇がどういった行動をしていたかを確認してみることとする。イタリアが第二次世界大戦に参戦した6月10日、機雷敷設艦「オスティア」通報艦「エリトレア」の護衛のもとで、マッサワ沖からアッサブ沖にかけてのエリアに機雷原を設置した。仮装巡洋艦「ラム1」は商船に擬態して輸送船攻撃の任務に従事(または哨戒任務)することとなり、水雷艇「オルシーニ」MAS艇部隊はマッサワ軍港周辺の哨戒任務に従事した。準備が済んでいなかった仮装巡洋艦「ラム2」はマッサワ軍港の対空防衛任務を任され、病院船「ラム4」は緊急時に負傷者をイタリア本国に移送する役目を担った。潜水艦「ペルラ」が英艦隊の追撃を受けると、第五駆逐戦隊の駆逐艦「パンテーラ」「レオーネ」及び水雷艇アチェルビ」、第三駆逐戦隊の駆逐艦「バッティスティ」「マニン」が救援に向かった。

潜水艦の喪失による方針転換後、残存艦隊による英船団攻撃を開始する。7月26日、駆逐艦「ヌッロ」を旗艦とする小艦隊(「ヌッロ」「バッティスティ」及び潜水艦「グリエルモッティ」)が英国船団捜索のためにマッサワを出発するが、発見できずに帰還した。

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英空軍による爆撃で損傷した水雷艇アチェルビ」。三番目の煙突が大きく傾いていることがわかる。

8月6日、英空軍がマッサワ軍港を爆撃し、水雷艇アチェルビ」が大破炎上した。アチェルビ」は修復が不可能なほどの重傷で、航行不能となり以後出撃出来ず、マッサワ軍港の対空任務のみに従事することとなった。仮装巡洋艦「ラム1」は任務を中断し、マッサワ軍港の対空防衛のために港での待機となった。英海軍・英空軍はマッサワキスマヨといったイタリア領東アフリカの沿岸都市への攻撃を度々実行していた。

8月頃、修復中だった潜水艦(「フェッラーリス」「ペルラ」「アルキメーデ」)の修復が完了し、任務に復帰した。8月14日に再就役した「フェッラーリス」アデン沖英戦艦「ロイヤル・サブリン(後のソ連戦艦「アルハンゲリスク」)」が通過するという情報を受けて、攻撃のために出撃した。バブ・エル・マンデブ海峡にて英駆逐艦を発見、再激するが反撃の爆雷攻撃を受けて8月19日にマッサワ軍港に帰還。その後、8月24日~31日にかけて第三駆逐戦隊及び第五駆逐戦隊、潜水艦部隊が連日夜間に船団捜索任務に従事したが、船団を発見できずに帰還した。

9月6日には潜水艦「グリエルモッティ」は哨戒中にファラサーン諸島沖にて英国のBN4船団を発見した。「グリエルモッティ」は魚雷を発射し、ギリシャ船籍のタンカー「アトラス」を撃沈する事に成功している。しかし、その後は駆逐戦隊・潜水艦部隊共に連日の出撃にもかかわらず、船団を発見する事は出来ず、戦果を挙げられなかった。空軍部隊も英船団の攻撃任務を実行しているが、大した戦果を挙げられていない。

10月20日夜間、マッサワ沖にてイタリア艦隊と英国のBN7船団が遭遇した。イタリア艦隊は駆逐艦「ヌッロ」を旗艦とし、「サウロ」「パンテーラ」「レオーネ」で構成されていた。対する英国のBN7船団は32隻の輸送船で構成され、ニュージーランド海軍の軽巡「リアンダー」を旗艦として、駆逐艦1隻、スループ3隻、掃海艇2隻が護衛していた。23時21分に「パンテーラ」が英船団の煙を確認し、戦闘を開始した。6月21日早朝に両艦隊は衝突、その結果双方が損害を受けた。イタリア側は駆逐艦「キンバリー」の雷撃によって、旗艦「ヌッロ」を撃沈され、第三駆逐戦隊司令官コンスタンティーノ・ボルシーニ少佐が戦死した。英国側はハーミル島のイタリア軍の沿岸砲台の攻撃を受けて駆逐艦「キンバリー」が大破・航行不能となり、その後「キンバリー」はポートスーダン港まで「リアンダー」に曳航された。また、輸送船1隻が損害を受けた。双方に損害があったものの、イタリア艦隊による船団攻撃は失敗に終わった。失敗の理由として、イタリア艦隊は船団捜索のために速力で艦隊を二つ(一方は「ヌッロ」「サウロ」、もう一方は「レオーネ」「パンテーラ」)に分けていたことにより、英船団の護衛艦隊に立ち向かえるだけの火力が無かったことが挙げられる。

結局、方針転換をしたものの、イタリア艦隊は大した戦果を挙げる事が出来なかった。更に、戦力不足の紅海艦隊にとって、駆逐艦1隻を戦闘で失ったのは打撃となった。12月には紅海艦隊司令官であるバルサモ提督は本国に召還となり、後任の司令官にはマリオ・ボネッティ提督が就任した。年末も艦隊による船団捜索が行われたが、発見できずに帰還した。

 

◆1941年:東アフリカ戦線の崩壊

1941年に入ると、陸軍の状況も悪化していった英軍が大規模な反攻作戦を開始したのである。それに加え、東アフリカ帝国各地ではエチオピア人による反イタリア蜂起が頻発するようになり、イタリア軍を悩ませた。また、本国からの補給に期待出来ない東アフリカのイタリア軍は徐々に物資不足に悩まされることとなっていってしまった。

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英軍によるエリトリアへの逆侵攻(1941年)

英軍は1940年12月18日、英軍がソマリア北西部国境のエル・ウァク基地を襲撃し、これを陥落させた。これは小さな勝利であったが、イタリア軍崩壊の前触れとなったのであった。年が明けると、1月19日に英軍は占領地域の奪還を開始し、イタリア軍が占領していたスーダンカッサラーが陥落した。エリトリアへの逆侵攻を開始した英軍は、1月31日にはアゴルダト、2月2日にはバレントゥを陥落させ、イタリア軍ケレンまで撤退することとなった。

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ケニアの国境都市モヤレを解放した後、戦利品のイタリア軍旗で記念撮影をする南アフリカ軍の兵士たち。

他方、南部方面ではイタリア軍は占領していたケニアから追い出され、2月初めには英軍はソマリアへの侵攻を開始。アフマドゥキスマヨといった南部の主要都市が次々と制圧され、2月25日には遂にソマリア首都モガディシオが陥落する事態となった。英軍はソマリアでの伊軍掃討戦に移り、わずか数日で英領ソマリランドも奪還している。ソマリアに展開していたイタリア輸送船団は戦況悪化のため、インド洋の封鎖突破のために出港したが、その殆どは失われることとなった。封鎖突破船「ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」他いくつかの輸送船はヴィシー政権下のマダガスカルに到達した。イタリア輸送船団はそこから封鎖を突破して同盟国である日本やタイに向かいたかったが、実現せず、英軍によるマダガスカル侵攻によりこの安全な場所も無くなった。結局、イタリア輸送船(軍艦除く)で開戦後に極東に辿り着いたものは、開戦時に極東周辺やインド洋に展開していた輸送船のみであった。

イタリア空軍も陸軍の劣勢と共に劣勢になっていった。本国からの補給も途絶えた空軍部隊のパイロットたちは連日の出撃と空戦によって疲労困憊状態だった。2月にはトップエースであるヴィシンティーニ大尉が戦死し、多くのヴェテランパイロットが東アフリカの大空に散った。

紅海艦隊司令官のボネッティ提督も英海軍によるマッサワ攻撃も時間の問題であると考え、決戦に備えて準備を始めた。この結果、艦隊による船団攻撃任務は2月初めの作戦をもって終了した。2月2日夜間から3日早朝にかけて行われた船団攻撃では、駆逐艦「サウロ」「ティグレ」「パンテーラ」の三隻が、軽巡「カレドン」を旗艦として、駆逐艦1隻、スループ2隻で護衛されたBN14船団(計39隻の輸送船で構成)を攻撃し、2隻の輸送船に雷撃で損傷を与えたが、大きな影響は無かった。

 

◆艦隊の脱出、神戸とボルドーへの逃避行

ボネッティ提督は3月が決戦になると判断し、マッサワ港の陥落を考えて長距離航行能力を擁する艦はマッサワを脱出し、同盟国や中立国に避難し、それが無理な艦はマッサワ軍港に残り、艦隊決戦に利用される(無理な場合は自沈)こととなった。この結果、通報艦「エリトレア」及び仮装巡洋艦「ラム1」「ラム2」はインド洋を通って同盟国である日本の神戸港を目指し、天津を母港とするイタリア極東艦隊と合流することになり、潜水艦「ペルラ」「グリエルモッティ」「フェッラーリス」「アルキメーデ」喜望峰をぐるっと回って大西洋に抜けてフランス・ボルドーベータソム基地(イタリア海軍大西洋潜水艦部隊の母港)を目指すこととなった。通報艦「エリトレア」仮装巡洋艦2隻は2月19日にマッサワ軍港を脱出、潜水艦艦隊は3月初めにマッサワ軍港を脱出した。

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マッサワ軍港からボルドーまでの潜水艦部隊の脱出経路。

日本に向かった3隻は2月27日にモルディヴ軽巡「リアンダー」に撃沈された仮装巡洋艦「ラム1」を除き、3月に無事神戸港に到着した。日本は当時中立国であったため2隻は抑留され、1941年12月に日本が真珠湾攻撃後、正式に第二次世界大戦に参戦した事で、太平洋戦線での任務に従事した。ボルドーを目指した潜水艦4隻は1隻の喪失も出すことなく、無事に全てボルドーに到着した。その後、4隻は大西洋艦隊所属となり、船団攻撃で活躍した。

 

スエズ運河とポートスーダンへの特攻作戦

 マッサワに残った艦のうち、駆逐艦「パンテーラ」「ティグレ」「レオーネ」の第五駆逐戦隊はスエズ運河攻撃駆逐艦「サウロ」「バッティスティ」「マニン」の第三駆逐戦隊はポートスーダン攻撃が決定した。残りの艦は軍港の防衛任務に就いた。3月31日、第五駆逐戦隊はスエズ運河攻撃に出発するが、4月1日に「レオーネ」座礁したため、マッサワ軍港に引き返した。その後、「パンテーラ」及び「ティグレ」も第三駆逐戦隊と共にポートスーダン攻撃に参加することとなった。

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駆逐艦「パンテーラ」を先頭に航行する第五駆逐戦隊

2隻がマッサワ軍港に帰還した4月1日からは英軍によるマッサワ攻撃が開始した。翌日、第三駆逐戦隊(「サウロ」「バッティスティ」「マニン」)及び第五駆逐戦隊(「パンテーラ」「ティグレ」)はマッサワ軍港を出発し、ポートスーダン攻撃に向かった。結局、この攻撃は無謀なものであった。この攻撃作戦の結果、「サウロ」「マニン」は英海軍航空隊の攻撃を受けて撃沈、「パンテーラ」「ティグレ」も英海空軍の攻撃で撃沈された。「バッティスティ」は機関が故障したため、サウジアラビア沖にて自沈した。

 

◆マッサワでの最終決戦

連合軍によるマッサワ包囲戦は激化するが、紅海艦隊司令官ボネッティ提督は降伏勧告を二度拒否し、最後まで抵抗した。水雷艇「オルシーニ」「アチェルビ」砲艦「ビリエーリ」機雷敷設艦「オスティア」は空軍と砲撃で傷つきながらも、最後まで抵抗した後、閉鎖艦として港内に自沈したMAS艇部隊は3日間連続で一晩中英艦隊への攻撃を行い「MAS213艇」の雷撃によって軽巡ケープタウンは大破・航行不能となった。ケープタウンは沈まなかったが、約1年間修復することとなった。

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「MAS213艇」の攻撃で大破した英軽巡ケープタウン

最後の抵抗として、ボネッティ提督は英軍が使えないように港湾設備の徹底的な破壊を命じ、設備を出来るだけ破壊、残った資材を海に投げ捨てた。これによって再度マッサワ港が使えるようになるまで1年以上の歳月を有した。最後の抵抗の後、ボネッティ提督らマッサワ守備隊は連合軍に降伏した。その後、ボネッティ提督はインドの捕虜収容所に終戦まで収監され、戦後もイタリア海軍に所属した。

 

◆アッサブ港での最後の抵抗

5月にアンバ・アラジ要塞での抵抗が終わり、東アフリカ帝国副王であるアメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ空軍大将が連合軍に降伏したが、それですぐに東アフリカ戦線が終結はせず、ナージ将軍、ガッツェラ将軍、アーゴスティ将軍といった降伏を拒否した指揮官が各地で戦いを続けた。

アッサブ港に展開していた紅海艦隊の残存艦も例外ではなかった。アッサブ港には紅海艦隊の小型艇数隻が存在した他、大規模な空軍基地もあった。6月10日から11日にかけて軽巡「ディード」を旗艦とする英軍の上陸艦隊と空軍部隊はアッサブ港を攻撃、上陸を開始した。この結果、イタリア紅海艦隊は完全に消滅した。また、アッサブ戦にて、英領インド帝国哨戒艇パールヴァティが、機雷敷設艦「オスティア」が設置した機雷によって撃沈されている。これは、東アフリカ戦線最後の海軍での戦没艦であり、最後の紅海艦隊の戦果であった。

 

この結果、本国から遠く離れた戦場で孤独に戦い続けたイタリア紅海艦隊は、様々な理由から限られた役割のみに限定されてしまい、その戦果も小規模なものであった。

現状、確認できているイタリア紅海艦隊の主な戦果は

◆撃沈:5隻

・大型タンカー「ジェームズ・ストーヴ」

(アデン南部沖にて潜水艦「ガリレイ」の雷撃で撃沈)

・英領インド哨戒艇「パターン」

(オマーン沖にて潜水艦「ガルヴァーニ」の雷撃で撃沈)

駆逐艦ハルツーム

(ペリム島沖にて潜水艦「トッリチェッリ」と交戦、その後爆沈)

ギリシャのタンカー「アトラス」

(ファラサーン諸島沖にて潜水艦「グリエルモッティ」の雷撃で撃沈)

・英領インド哨戒艇パールヴァティ

(アッサブ沖にて機雷敷設艦「オスティア」の機雷で撃沈)

◆大破・航行不能:2隻

駆逐艦「キンバリー」

(ハーミル島の沿岸砲台の攻撃で大破・航行不能)

軽巡洋艦ケープタウン

(マッサワ沖にて「MAS213艇」の雷撃で大破・航行不能)

◆損傷:3隻他

・輸送船3隻他

(駆逐戦隊との戦闘の結果)

 

まとめると、非常に小規模な戦果である。これに対し、イタリア紅海艦隊は日本に脱出した2隻(通報艦「エリトレア」及び仮装巡洋艦「ラム2」)と、フランスに脱出した4隻(潜水艦「アルキメーデ」「フェッラーリス」「ペルラ」「グリエルモッティ」)を除いて全滅という結果となった。

このような結果に至った原因は、紅海という高温多湿な環境による機材故障の多発、それを改善する整備設備の不足、そして本国からの支援も期待できないという離れた戦場であったことが大きい。更に艦艇の多くは火力不足で、それに旧式艦であった。空軍との連携も他の戦場同様に上手くいっていなかった夜間戦闘が不利であるにもかかわらず、夜間戦闘を強いられたことも理由の一つに挙げられるだろう。

それに加えて、ガリレイ」降伏による情報漏洩によって、イタリア側の潜水艦作戦が完全に把握されたことは大きな問題であった。

冬コミお疲れ様でした!

遅ればせながら、冬コミお疲れ様でした!

同時にあけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。年始から体調を崩して5日間寝込んでいて更新遅くなり申し訳ございません。

 

冬コミでブースに来て頂いた方、本当にありがとうございました。まさか11時ちょいに完売になるとは思いませんでした・・・。初めての参加だったので、正直売れ残ると思って30部のみでしたが、50部刷っても大丈夫でしたね。来て頂いたのに新刊を渡せなかった人は申し訳ございません。次は増版出そうと思います。あと、データ販売を望む声が想像以上に多かったので、そちらにも手を出してみようと思います。

 

こちらのブログでも、新刊の内容を補完するような情報等を発信出来たらと思っています。新刊の内容で「ここってどうなの?」とか、ご意見ありましたらコメント欄に遠慮なくコメントください。ただ、コメントの返信方法とかよくわからないので返信忘れたりする可能性あるので、出来ればTwitterの方でリプとかくださるとわかるやすくて嬉しいです。

 

では、今年もよろしくお願いします!

第二次世界大戦時のイタリア軍用航空機企業とその代表機 ―イタリア空軍を支えた11社―

イタリアは航空機先進国であったが、第二次世界大戦時も大小様々な航空機企業が乱立しており、これは戦時体制には仇となって航空機生産の非効率化を生んだ。工業生産力が低かったイタリアにとって、多数の企業が多種多様な航空機を開発・量産するという事態は、整備や補給の面でも苦労することとなり、更に機体の種類は豊富だが全体の生産機数は低かった。イタリアにおける航空機企業の乱立はロマンではあったが、戦時量産体制には支障をきたすことになったのである。

さて、そんなイタリア航空機企業であるが、今回は第二次世界大戦時に軍用機を生産した11の航空機企業(カプロニ社、アエルマッキ社、フィアット社、サヴォイアマルケッティ社、レッジアーネ社、IMAM社、CANT社、ピアッジオ社、ブレダ社、SAIアンブロジーニ社、フラテッリ・ナルディ社)の歴史を各社の代表的な機体と共に紹介してみようと思う。

 

カプロニ社

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カプロニ・カンピーニN.1

+代表的な機体

・カプロニ・カンピーニN.1

(イタリア初のジェット機)

・カプロニ・スティパ

(特徴的な見た目の実験機)

・カプロニ Ca.309"ギブリ"偵察機

(スタジオ・ジブリの元ネタ)

・カプロニ Ca.311偵察爆撃機

(英国も購入しようとした最新鋭偵察機)

・カプロニ Ca.133"カプロナ"爆撃機

(東アフリカ戦線の主要爆撃機)

 

イタリアの代表的な航空機企業の一つ。航空パイオニアとして知られるジャンニ・カプロニ伯爵によって1908年にミラノ近郊のソンマ・ロンバルドで創業した。ソンマ・ロンバルドは現在ミラノ・マルペンサ空港が置かれている町である。なお、ジャンニ・カプロニ伯爵はスタジオ・ジブリのアニメ映画『風立ちぬ』にも登場している。もっと言ってしまえば、スタジオ・ジブリの名前の元になったCa.309"ギブリ"偵察機は、カプロニ社が開発した機体である(ジブリは宮崎監督が"Ghibli(ギブリ)"をジブリと読み間違えたことで名前が付いたらしい)。

カプロニ伯爵はイタリア初の国産飛行機「カプロニ Ca.1」を1909年に設計を完成させ、1910年に初飛行を遂げている。カプロニ・スティパやカプロニ Ca.60といったユニークな航空機の開発で知られる企業で、またイタリアでは唯一ジェット機開発に深くかかわった企業であった。世界初のジェット機「コアンダ=1910」はルーマニア人のアンリ・コアンダ技師が設計し、カプロニ社が開発した機体であり、イタリア初のジェット機(当時は「世界で初めて飛んだジェット機」と言われた)であるカプロニ・カンピーニN.1を開発したのもカプロニ社だ。ちなみに、真珠湾攻撃の知らせがイタリアに渡った時、ムッソリーニ統帥はフージェ空軍参謀長と共にカプロニ・カンピーニN.1の試験飛行に立ち会っていたそうだ。

カプロニ社は第一次世界大戦での爆撃機開発を経てイタリア有数の航空機企業に発展を遂げる。民間旅客機開発でも知られたが、軍用機開発においては、ユニークな機体を生み出す一方で他社との競争力は低く、フィアット社やアエルマッキ社に敗れていった。とはいえ、優秀な設計の航空機も多く、例えばCa.311偵察爆撃機は頑丈で使い勝手がよく、1940年には英国が購入しようとしたほどであった(同盟国ドイツが反対し、更にイタリアの参戦によって頓挫したが)。

一方で、航空機以外にも船舶の生産もおこなっており、軍艦の機関開発やMAS艇、CA級及びCB級ポケット潜水艦、人間魚雷「マイアーレ」といった小型海軍兵器を開発している。これらの小型兵器は第二次世界大戦時、海軍で利用されて多くの戦果を挙げている。

なお、日本海軍はカプロニ社のジェット機開発に興味を抱き、RSI政権下のカプロニ社とライセンス契約を結んだ。イタリアで航空機研究を行っていた庄司元三技術中佐がカプロニ社から資料提供を受け、日本に持ち帰ることとなったが、乗艦したUボートがドイツ降伏によって連合軍に拿捕されたため日本にカプロニ社の技術が届く事は無く、庄司中佐も自殺を遂げてしまったのであった。

 

アエルマッキ社

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マッキ MC.205V"ヴェルトロ"

+代表的な機体

・マッキ MC.205V"ヴェルトロ"戦闘機

(第二次世界大戦時のイタリア最優秀戦闘機)

・マッキ MC.202"フォルゴーレ"戦闘機

(大戦中期の主力戦闘機)

・マッキ MC.200"サエッタ"戦闘機

(大戦初期の主力戦闘機)

 

イタリアの代表的な航空機企業の一つ。第二次世界大戦時はイタリアを代表する数々の名戦闘機を生んだ企業として知られる。創設者は航空パイオニアのジュリオ・マッキ技師で、1913年にロンバルディア州ヴァレーゼで創業した。

第二次世界大戦時は全期間を通じて、イタリア空軍の主力戦闘機を開発した。イタリア空軍の最優秀戦闘機と称されるマッキ MC.205V"ヴェルトロ"戦闘機を始めとし、マッキ MC.202"フォルゴーレ"戦闘機やマッキ MC.200"サエッタ"戦闘機といった優秀な機体を生んだ。マッキの戦闘機はフィアット社の戦闘機と共に生産数も多く、イタリア空軍の主力戦闘機として活躍し、休戦後もRSI空軍で使われた。フィアット社と共にレース機の生産でも名を挙げている。

 

フィアット

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フィアット G.55 "チェンタウロ"

+代表的な機体

フィアット G.55"チェンタウロ"戦闘機

(RSI空軍でも活躍した傑作戦闘機)

フィアット CR.42"ファルコ"戦闘機

(世界最後の複葉戦闘機)

フィアット G.50"フレッチャ"戦闘機

(イタリア初の単葉戦闘機)

フィアット BR.20"チコーニャ"爆撃機

(日本にも輸出された双発爆撃機)

 

現在ではイタリア最大の自動車企業、そしてイタリアのみならず、世界有数の巨大企業として発展している大企業。1899年にジョヴァンニ・アニェッリによってトリノで自動車企業として設立された。

イタリア初の大衆車である初代FIAT 500(チンクエチェント)、通称"トポリーノ(子ネズミ)"を作ったことでも知られる。ちなみに二代目FIAT 500はルパン三世の愛車として有名だ。現在売られているのは三代目。ちなみに、アルファロメオ、ランチャ、マゼラーティといった他の主要なイタリア自動車メーカーはフィアット社の傘下にある。フェラーリ社も一時的に傘下に置かれていたが、少し前に独立した。

さて、このフィアット社であるが、当時はイタリア有数の航空機企業の一つでもあった。マッキ MC.205V"ヴェルトロ"戦闘機と並ぶ、イタリア最高の戦闘機、フィアット G.55"チェンタウロ"戦闘機の生産でも知られ、他にもイタリア最高の代表する機体を生産した。世界最後の複葉機であるフィアット CR.42"ファルコ"戦闘機、そしてイタリア初の単葉戦闘機フィアット G.50"フレッチャ"戦闘機はバトル・オブ・ブリテンにも参加している。ファルコはアフリカ戦線でも戦果を挙げ、複葉機の世界最高エースパイロットであるヴィシンティーニ大尉を生んだ傑作機だ。フィアット BR.20"チコーニャ"爆撃機は日本にも輸出され、「イ式重爆撃機」として使われている。

 

サヴォイアマルケッティ

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サヴォイアマルケッティSM.79"スパルヴィエロ"

+代表的な機体

サヴォイアマルケッティ SM.79"スパルヴィエロ"爆撃機

(イタリアを代表する高速爆撃機)

サヴォイアマルケッティ SM.82"カングーロ"爆撃機/輸送機

(バーレーンも爆撃した機体)

サヴォイアマルケッティ SM.81"ピピストレッロ"爆撃機

(スペイン内戦で活躍した爆撃機)

サヴォイアマルケッティ SM.75輸送機

(1942年のローマ-東京飛行を成功させた輸送機)

サヴォイアマルケッティ SM.85急降下爆撃機

(イタリア初の急降下爆撃機)

サヴォイアマルケッティ S.55

(大西洋横断飛行を達成した双胴の飛行艇)

 

イタリアの代表的な航空機企業の一つ。上部イタリア水上機会社(SIAI)として1915年にミラノで設立された。創業者は実業家のドメニコ・ロレンツォ・サントーニ。名前から分かる通り、当初は水上機専門の企業として造られた企業だった。社名に王家である「サヴォイア」の名を冠したため、RSI政権期には「SIAI-マルケッティ社」と改称され、戦後も王政が崩壊して共和政になったため、企業名はそのまま変わらなかった。

第二次世界大戦時において、優秀な爆撃機を生んだ企業として知られる。サヴォイアマルケッティ社を代表するサヴォイアマルケッティ SM.79"スパルヴィエロ"はイタリア空軍を代表する主力爆撃機で、イタリア空軍が参加した全ての戦線で戦った。

また、長距離飛行のノウハウがあった。戦間期にはイタロ・バルボ空軍元帥率いる遠征部隊がサヴォイアマルケッティ S.55で二度の地中海周遊飛行や、二度の大西洋横断飛行を達成した。大戦中はエットレ・ムーティ空軍中佐によるバーレーン及びサウジアラビアの油田への長距離爆撃任務(サヴォイアマルケッティ SM.82"カングーロ")や、1942年のローマ-東京長距離飛行も達成(サヴォイアマルケッティ SM.75)している。

 

レッジアーネ社

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レッジアーネ Re.2005"サジッタリオ"

+代表的な機体

・レッジアーネ Re.2005"サジッタリオ"戦闘機

(本土迎撃戦で活躍した傑作機)

・レッジアーネ Re.2002"アリエテ"戦闘爆撃機

(ドイツ空軍でも賞賛された戦闘爆撃機)

・レッジアーネ Re.2001OR艦上戦闘機

(試作された空母艦上戦闘爆撃機)

・レッジアーネ Re.2000"ファルコ"戦闘機

(艦載機としても使われた高性能機)

 

イタリアの航空機企業の一つ。1901年、ロマーノ・リーギ技師によってレッジョ・ネッレミリアにて創業した。レッジアーネ社の航空機は優秀であったが、マッキやフィアットとの競合で敗れ、中々空軍に採用されなかった。採用時期が遅く、量産数が少なかったものが多いのが悲しいところである。

レッジアーネ Re.2005"サジッタリオ"戦闘機は、フィアット G.55"チェンタウロ"戦闘機やフィアット G.55"チェンタウロ"戦闘機といったイタリア空軍最高峰の戦闘機と並ぶ機体とされ、休戦後はRSI空軍と共にドイツ空軍でも終戦まで使われ、ベルリン防空戦でも戦っている。優れた艦載機の生産でも知られ、レッジアーネ Re.2000"ファルコ"戦闘機は、カタパルト発進出来る機体として、戦艦「ヴィットーリオ・ヴェーネト」や水上機母艦「ジュゼッペ・ミラーリア」といった大型艦に搭載されている。また、イタリア唯一の空母艦載機としてレッジアーネ Re.2001OR艦上戦闘機も生産されたが、肝心の空母(空母「アクィラ」及び「スパルヴィエロ」)が休戦までに完成しなかった。

 

IMAM社

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IMAM Ro.43水上偵察機

+代表的な機体

・IMAM Ro.43水上偵察機

(海軍の主力水上偵察機)

・IMAM Ro.37"リンチェ"偵察機

(各国への輸出で成功を収めた複葉偵察機)

・IMAM Ro.57bis急降下爆撃機

(戦闘機として開発された急降下爆撃機)

・IMAM Ro.41訓練機

(実戦でも使われた訓練戦闘機)

 

イタリアの航空機企業の一つ。1923年、ナポリにてニコラ・ロメオ技師によって創業された航空機企業。珍しく南部に本社を置く航空機企業である。前進は鉄道企業で、オランダ・フォッカー社の航空機をライセンス生産して航空機産業に参入し、フィアット社の生産代行も行っている。IMAM社の航空機はそこまで成功したとは言えないが、IMAM Ro.43水上偵察機はイタリア海軍の主力水上偵察機として使われ、IMAM Ro.41訓練機は訓練機でありながら航空機不足により北アフリカの防空戦で戦い、更にRSI空軍でも使われるなど、多くの機体が活躍したのも事実であった。

 

CANT社

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CANT Z.506 "アイローネ"水上機

 +代表的な機体

・CANT Z.506B"アイローネ"水上機

(地中海で活躍した傑作軍用水上機)

・CANT Z.1007bid"アルチョーネ"爆撃機

(全木製の優秀な爆撃機)

・CANT Z.501"ガッビアーノ"水上機

(洋上偵察と海上救難で活躍した水上機)

・CANT Z.1018"レオーネ"爆撃機

(イタリア最高の爆撃機とも称された傑作)

 

イタリアの航空機企業の一つ。CANT(カント)は"Cantieri Aeronautici e Navali Triestini(トリエステ空軍・海軍工廠)"の略称で、元々はCNT("Cantiere Navale Triestino"、すなわちトリエステ海軍工廠)として1907年にフリウーリのモンファルコーネで造られた。造船所として出発し、1923年に航空事業に参入、CANTと改称。

CANT社はフィリッポ・ザッパータ技師のもとで、多くの優秀な航空機を生んだ。特に知られているのは水上機爆撃機である。CANT Z.1007bid"アルチョーネ"爆撃機は、全木製であるが、優れた運動能力と安定性を誇り、CANT Z.1018"レオーネ"爆撃機と共に「イタリア最高の爆撃機」とまで称されるほど優秀な機体であった。水上機も優秀で、CANT Z.501"ガッビアーノ"水上機第二次世界大戦時は既に旧式であったが、頑丈で扱いやすく、長距離偵察や海上救難、哨戒任務など様々な用途で使われた。CANT Z.506B"アイローネ"水上機は民間用水上機から発展した機体で、雷撃機や哨戒機としてギリシャ戦線などで活躍し、救難用にドイツ空軍でも使われていた隠れた傑作機だ。

 

ピアッジオ社

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ピアッジオ P.108

 +代表的な機体

・ピアッジオ P.108B爆撃機

(連合軍機に匹敵した優れた四発爆撃機)

・ピアッジオ P.50-I試作爆撃機

(特徴的なデザインをした試作四発爆撃機)

・ピアッジオ P.32爆撃機

(哨戒機として使われた全木製双発爆撃機)

・ピアッジオ P.23R記録機

(高速長距離爆撃機として宣伝された記録機)

・ピアッジオ P.16重爆撃機

(逆ガル翼の先進的な試作三発爆撃機)

 

イタリアの航空機企業の一つ。1884年にリナールド・ピアッジオが創設した。本社はトスカーナ州のポンテデーラに置く。一般的にはイタリアの国民的スクーター「ヴェスパ」で知られている企業で、現在ではオートバイメーカーとして広く知られており、イタリアのオートバイメーカーの最大手と言っても過言ではない。モト・グッツィやアプリーリアも傘下としており、本社が置かれるポンテデーラには大きな博物館(入館料無料!)もある。

元々ピアッジオ社は船舶用の部品メーカーとして創業された歴史のある企業で、その後20世紀に入って鉄道や航空機事業にも参入した。ピアッジオ社自身が開発した航空機の殆どは採用されず、あまり成功したとは言えないが、例えばピアッジオ P.108B爆撃機はイタリア空軍に採用された唯一の四発爆撃機として、連合軍機と匹敵する傑作機と言われた。また、ピアッジオ社が開発した航空エンジンは様々な軍用航空機に使われ、陰からイタリア空軍を支えた。大規模な工場を持っていたため、他社の航空機生産も行っている。

例えば、ポンテデーラのピアッジオ博物館にも展示されている航空機エンジン「ピアッジオ P.XI RC40」は、ピアッジオ社製の軍用航空機だけでなく、爆撃機「ブレダBa.88"リンチェ"」、爆撃機「カプロニ Ca.135 bis」、爆撃機「CANT Z.1007 bis"アルチョーネ"」、爆撃機サヴォイアマルケッティ SM.79"スパルヴィエロ"」などといった大戦期の多くの軍用航空機に使われた。

また、ヴェスパを生んだコッラディーノ・ダスカニオ技師は、イタリア初の近代ヘリコプター「D'AT 3」を1930年に開発し、その飛行記録は数年間破られることはなかった。

 

レダ

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レダ Ba.65"ニッビオ"地上攻撃機

 +代表的な機体

・ブレダ Ba.65"ニッビオ"地上攻撃機

(海外でも使われた低性能な多用途機)

・ブレダ Ba.88"リンチェ"戦闘爆撃機

(劣悪な性能の空軍近代化のシンボル)

・ブレダ Ba.201急降下爆撃機

(逆ガル翼の試作急降下爆撃機)

・ブレダ Ba.25訓練機

(イタリア以外にも世界各国で使われた複葉訓練機)

 

イタリアの航空機企業の一つ。1886年にエルネスト・ブレダ技師によってミラノで操業した機械工学・軍需企業。軍用機としての性能は劣悪なものが多く、例えばBa.88爆撃機は使い物にならないほど劣悪な性能で、空襲時のおとりとして使われている。しかし、一方で世界各地への輸出でまずまずの商業的成功を収めており、例えばブレダ Ba.25訓練機は軍の近代化を進めるエチオピア帝国に輸出され、帝国親衛隊の航空部隊で使われた。後にイタリア軍エチオピア帝国に侵攻を開始したが、もしかしたら両軍のイタリア航空機同士が航空戦で戦闘したのかもしれない。

航空機企業としてより、銃火器の生産で知られており、第二次世界大戦時にイタリア陸軍の主力装備となった「ブレダM30軽機関銃」や「ブレダM35機関砲」などを開発した。元々は鉄道や農業機械をメインに生産する機械工学企業で、イタリア農業の機械化にも一役買っている。第一次世界大戦を機にイタリアを代表する軍需企業に成長し、それはファシスト政権期に更に強められることとなった。

 

SAIアンブロジーニ

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SAIアンブロジーニ207

  +代表的な機体

・SAIアンブロジーニ207戦闘機

(全木製戦闘機の完全版)

・SAIアンブロジーニ403"ダルド"戦闘機

(優れたスピードを誇る試作全木製戦闘機)

・SAIアンブロジーニ S.7訓練機

(戦後も使われた洗練された訓練機)

・SAIアンブロジーニ S.S.4 戦闘機

(時代を先取りしたイタリア版震電)

 

イタリアの航空機企業の一つ。1922年、アンジェロ・アンブロジーニ技師によってウンブリア州トラジメーノ湖畔パッシニャーノ・スル・トラジメーノで創業。空軍で採用された機体は少ないものの(先進的な機体は保守的な空軍上層部にウケが悪かった)、洗練されたデザインや時代を先取りした設計など、優れた機体も多い。

例えば、イタリア空軍に採用され、RSI空軍にも使われたSAIアンブロジーニ207戦闘機は、全木製戦闘機の完全版とも言える存在で、僅か750馬力のエンジンで時速620km以上を出すという素晴らしい設計であり、さらに全木製であることから低コストで大量生産が可能と言う夢の機体であった。1939年に初飛行したSAIアンブロジーニ S.S.4 戦闘機は、完全に時代を先取りした設計で、カナード翼を持つイタリア版「震電」とも言える機体だった。しかし、その先進性故に当時は認められず、空軍には採用されずに試作機段階で終了となっている。

 

フラテッリ・ナルディ社

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ナルディ FN.305連絡機

+代表的な機体

・ナルディ FN.305練習機

(空気力学的に洗練された優れた高性能機)

 

イタリアの航空機企業の一つ。1935年にナルディ三兄弟(エウステ、エリオ、ルイージ)によってミラノにて創業。小さな航空機企業だが、ナルディFN.305は空軍に採用されて量産している。ナルディ社の工場は小規模であったため、量産はピアッジオ社やサヴォイアマルケッティ社で行われている。この機体は商業的にも成功し、ドイツやフランスなど、他の国々にも輸出された。小企業だが戦後も何とか生き残り、民間機であるナルディFN.333は現在でも使われている。

 

他にもロンバルダ社やウンブラ社、AVIA社といったいくつかの小企業があるが、殆ど採用されていない上に、多過ぎるのでここでは紹介しない。

調べてみて思ったが、イタリアは航空機企業が多過ぎる。これは戦争には向かないのは明らかである。航空機先進国であったが故、多くの企業が航空機産業に進出したのが仇となったと言えるだろう。

イタリアにおける急降下爆撃機開発史と、伊空軍"ピッキアテッロ(変人)"部隊の戦果 ―開発の失敗と部隊の成功―

イタリアの急降下爆撃機開発、それは結果として失敗に終わったと言って良いだろう。戦時中においては序盤を除き、イタリア空軍の急降下爆撃部隊は一貫してドイツのユンカース社製の急降下爆撃機、Ju-87"シュトゥーカ"(イタリアでは"ピッキアテッロ(変人)"という愛称が付けられていた)を一貫して配備していた。しかし、イタリアではは戦前から急降下爆撃機が開発されていたのは事実である。そこで、イタリアにおける急降下爆撃機開発がどのように失敗に向かっていったのか、そして逆に多くの戦果を挙げたイタリア空軍のJu-87"ピッキアテッロ"部隊の戦歴を辿ってみる事としよう。

 

初の国産急降下爆撃機サヴォイアマルケッティSM.85

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サヴォイアマルケッティSM.85

戦間期、航空理論家であるアメデーオ・メコッツィ大佐らの意見によって、他国の空軍同様にイタリア空軍でも急降下爆撃の有効性が認められるようになり、急降下爆撃機開発が開始された。設計はアレッサンドロ・マルケッティ技師が行うこととなり、サヴォイアマルケッティ社が開発した。その結果開発された、イタリア初の急降下爆撃機サヴォイアマルケッティSM.85は1936年にアドリアーノ・バクラによってテスト飛行され、初飛行を成功させたのであった。

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実戦部隊に配備されたサヴォイアマルケッティSM.85とSM.86

しかし、そのテスト結果は芳しくなく、機能的にとても優れた機体とは言えなかった。ピアッジオ社製のエンジンも力不足であった。とはいえ、急降下爆撃機が必要であったイタリア空軍はこの機体の量産を決定し、数十機が生産されてパンテッレリーア島(連合軍によって「ムッソリーニマルタ島」とも呼ばれた地中海の島で、政治犯流刑地であると同時に堅牢な要塞島であった)の実戦部隊に配備されたのである。

 

SM.85の改良型、サヴォイアマルケッティSM.86

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サヴォイアマルケッティSM.86

サヴォイアマルケッティ社はSM.85の改良型として、SM.86を開発した。これはSM.85と同様にアレッサンドロ・マルケッティ技師が設計した機体で、1940年に初飛行した。しかし、これはSM.85よりかは性能は全体的に上昇したが、劣悪な性能であることには変わりはなかった。機能テストのためにSM.85と同じマルタ爆撃のパンテッレリーア島駐屯の実戦部隊に配備されたが、ドイツのユンカース社製の急降下爆撃機、Ju-87"シュトゥーカ"を輸入することとなったため、試作機段階で終了し、開発は中止されたため、試作機2機のみの生産で終わった。マルタ爆撃、そしてギリシャ戦線での爆撃任務にも参加したとされているが、試作機しかないために大した戦果は挙げていない。

 

カプロニ社の急降下爆撃機、カプロニCa.355"トゥッフォ"

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カプロニCa.355"トゥッフォ"

話は戦前に戻るが、急降下爆撃機を欲したイタリア空軍に対して、サヴォイアマルケッティ社以外もアプローチをしていた。その例としてカプロニ社とブレダ社がある。まずはカプロニ社の方を紹介しよう。

ドイツの急降下爆撃機Ju-87と同じような機体を求めたイタリア空軍に対して、カプロニ社はカプロニCa.335"マエストラーレ"戦闘爆撃機から発展したカプロニCa.355"トゥッフォ"を開発した。その前身となったカプロニCa.335"マエストラーレ"戦闘爆撃機は、ベルギーのSABCA社でライセンス生産された優れた機体(ドイツ軍のベルギー侵攻によって生産は中止となったが)である。

設計者であるチェーザレ・パッラヴィチーノ技師はCa.335"マエストラーレ"の設計で得たノウハウを生かして、低コストで大量生産に向いた急降下爆撃機の開発を目指した。こうして開発されたCa.355"トゥッフォ"は1941年に初飛行し、テスト飛行で良好な結果を残した。しかし、空軍指導部はこれに満足せず同盟国ドイツ製のJu-87配備を決定したため、カプロニCa.355は試作機段階で終了となった。

 

レダ社の急降下爆撃機、ブレダBa.201

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レダBa.201

一方、ブレダ社もカプロニ社同様に急降下爆撃機開発を行った。ヴィットーリオ・カルデリーニ技師とマリオ・ピットーニ技師によって設計された。こうして開発されたブレダBa.201は1941年に初飛行を果たした。逆ガル翼が特徴的なこの急降下爆撃機は全金属製で、試験飛行でも良い結果を残していた。しかし、空軍指導部は防御力不足の問題などからBa.201を採用する事はなく、これもCa.355同様に試作機段階で終了となったのであった。

 

うつ伏せで操縦! サヴォイアマルケッティSM.93

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サヴォイアマルケッティSM.93

結果としてイタリアの航空機各社による急降下爆撃機開発は失敗に終わり、イタリア空軍参謀長のフランチェスコ・プリコロ将軍はドイツのユンカース社製Ju-87の配備を決定した。しかし、その後もイタリア企業による急降下爆撃機開発が停止したわけではなかった。その後、開発された急降下爆撃機で最も特殊なものはサヴォイアマルケッティ社のSM.93急降下爆撃機であろう。

この急降下爆撃機の面白い点は急降下爆撃時のGを耐えるために、うつ伏せになって操縦するというところである。実に奇妙である。当然、うつ伏せで操縦するとなると、会敵とは言えないし、視界不良、特に後方の視界が悪かった。とはいえ、空気力学を生かしたデザインは試験飛行で今までのサヴォイアマルケッティ社の急降下爆撃機とは異なり、優秀な結果を残した。

この機体は1942年に開発が開始され、SM.85やSM.86と同様にアレッサンドロ・マルケッティ技師によって設計された。しかし、試作機の完成は休戦後の1944年1月となり、同月初飛行となった。前述した通り、SM.93は試験飛行で優秀な結果を残したが、うつ伏せで操縦するという姿勢は、非常に困難で、パイロットの訓練にも他の急降下爆撃と違って多くの時間を有することとなるため、当機を接収したドイツ空軍当局(RSI空軍ではない)は開発を中止させることとなった。こうして、SM.93は優れた性能であったにもかかわらず、配備はされなかったのである。

 

急降下爆撃機に改造された重戦闘機、IMAM Ro.57 bis

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IMAM Ro.57 bis

イタリアの急降下爆撃機の中には、重戦闘機から転用したものもあった。ナポリのIMAM社は双発長距離戦闘機の開発を1930年代から開始し、それによって完成したIMAM Ro.57は1939年に初飛行した。ただ、試験飛行の結果は振るわず、その後急降下爆撃機への転用改造が模索されたが、イタリア空軍は採用しなかった。長らく試作機段階であったが、1942年終盤になると航空機不足に悩むイタリア空軍によって、急降下爆撃機IMAM Ro.57 bisとして採用されることとなり、量産が決定した。

しかし、量産決定の時期が遅かったために、休戦までにIMAM社は50機程しか完成しなかった。1943年には実戦部隊に配備されたが、元々性能的に劣っていた機体は特に活躍もしなかった。休戦後、残った機体がどうなったかは不明だが、おそらくは解体されたか、訓練用に使われたかどちらかであろう。

 

Ju-87"ピッキアテッロ(変人)"の伊空軍での配備とその活躍

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イタリア空軍仕様のJu-87"ピッキアテッロ"

結局、イタリアは第一次世界大戦(もっと言えば伊土戦争)からの航空機先進国であったにもかかわらず、急降下爆撃機開発に関して完全に出遅れた形となった。これによって、空軍参謀長フランチェスコ・プリコロ将軍は同盟国であるドイツのユンカース社からJu-87"シュトゥーカ"を輸入し、これをイタリア空軍の急降下爆撃機部隊に配備することとなったのである。イタリア空軍で使われたJu-87は"ピッキアテッロ(変人)"という愛称が付けられ、多くの作戦に用いられた。

イタリア空軍の急降下爆撃部隊は、ドイツ空軍の急降下爆撃部隊には及ばないものの、数々の作戦で多くの戦果を挙げ、ジュゼッペ・チェンニやフェルナンド・マルヴェッツィといった偉大なパイロットを生み出した。ここでは、イタリア空軍の"ピッキアテッロ"急降下爆撃部隊の戦果について軽く見てみよう。

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マルヴェッツィ大尉率いる急降下爆撃部隊に撃破された、英海軍の軽巡洋艦サウサンプトン

後にRSI空軍において第三戦闘航空群「フランチェスコ・バラッカ」の司令官を務めるフェルナンド・マルヴェッツィ空軍大尉は、戦闘機パイロットとしてエースになったが、1941年の夏以前は急降下爆撃機パイロットであった。

マルヴェッツィ大尉はマルタ島攻撃で初の実戦を経験し、その後はギリシャ戦線、北アフリカ戦線、そして地中海での敵艦攻撃任務に従事した。1941年1月10日には、部下のマッツェイ曹長、クレスピ軍曹と共に英海軍のタウン級軽巡洋艦サウサンプトン」に急降下爆撃を実行し、これを大破させることに成功した。その後、航行不能となった「サウサンプトン」は味方艦によって雷撃処分されている。

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「ワルツを踊る小人」ジュゼッペ・チェンニ

ギリシャ戦線における急降下爆撃機部隊による活躍はドイツ空軍によるものが有名だが、その戦果の中にはイタリア空軍の急降下爆撃部隊の戦果も交じっており、一説によればイタリア空軍の急降下爆撃によって、ギリシャ海軍の駆逐艦「プサラ」が撃沈されたとされる。イタリア空軍の急降下爆撃部隊は、ドイツ空軍の急降下爆撃部隊同様にギリシャ海軍には恐怖の対象であった。

そのギリシャ戦線での急降下爆撃部隊で特に活躍を見せたのが、イタリア空軍の急降下爆撃パイロットでは最も有名な人物と言える、ジュゼッペ・チェンニ空軍大尉であった。彼は反跳爆撃を実用化した人物としても知られ、これは実に高度なテクニックが必要であったが、成功すれば敵艦攻撃には有力な攻撃方法であった。なお、チェンニ大尉が所属した第97急降下爆撃航空群を指揮したアントニオ・モスカテッリ空軍中佐は、1942年にローマ-東京間の超長距離飛行を成し遂げたサヴォイアマルケッティSM.75RT機の機長を務めた人物である。なお、この戦時中のローマ-東京飛行は、ドイツ空軍も成し遂げられなかった、欧州-極東間の航空機による輸送任務であった。

チェンニ大尉は戦闘機パイロットとしてスペイン内戦で多くの戦果を挙げたヴェテランパイロットであったが、第二次世界大戦では急降下爆撃パイロットに転向した。そして、チェンニ大尉は1941年4月4日、コルフ島沖にてギリシャ海軍の輸送船団に対して反跳爆撃を敢行し、輸送艦「スザンナ」を撃沈し、更に同日別の攻撃で駆逐艦「ポッサ」を撃沈させることに成功したのである。ギリシャ海軍はこの攻撃に驚き、雷撃を受けたと勘違いしたほどであった。その後、ユーゴスラヴィア侵攻において、4月13日、チェンニ大尉の部隊はユーゴスラヴィア海軍の水上機母艦「ズマイ」を大破させ、チェンニ大尉自身もコルフ島沖にてギリシャ商船「イオアンナ」を撃沈している。Ju-87と反跳爆撃の組み合わせは非常に良く、イタリア空軍の急降下爆撃部隊は艦隊攻撃において多くの戦果を挙げていったのである。

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チェンニ大尉の部隊に撃沈されたオーストラリア海軍の駆逐艦「ウォーターヘン」

チェンニ大尉はバルカン方面での戦いが終結すると、北アフリカでの作戦行動に移り、地中海での船団攻撃を実行した。5月25日、チェンニ大尉の部隊はトブルク包囲戦で英船団を迎撃し、コルベットグリムスバイ」と大型タンカー「ヘルカ」を撃沈した。更に6月29日にオーストラリア海軍の駆逐艦「ウォーターヘン」を撃沈し、その翌日には英コルベットクリケット」を大破・航行不能にさせるが、部下であるエンニオ・タラントラが海上で撃墜された。タラントラは救命イカダで18時間も漂流した後にカントZ.501哨戒機によって救助されたが、この経験により急降下爆撃機から戦闘機部隊に復帰している(その後エースとして戦果を挙げた)。

これらの活躍の後、第102急降下爆撃航空群の司令官に任命されたチェンニ大尉は、引き続き船団攻撃に従事する一方、夜間はマルタ島への爆撃を敢行した。チェンニ大尉含む急降下爆撃部隊は、6月中旬の海戦において海軍と協力して多くの戦果を挙げ、連合軍船団は多数の艦船を撃沈されてマルタ補給作戦は失敗となった。これはダ・ザーラ提督とイアキーノ提督に指揮された艦隊による戦果も大きかったが、同時に空軍による支援も大きな役割を担っていたのである。しかし、消耗も大きかった。

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新たに配備されたレッジアーネRe.2002戦闘爆撃機

レッジアーネRe.2002"アリエテ"戦闘爆撃機に装備を更新したチェンニ大尉の部隊はシチリア防衛戦においても戦果を挙げ、輸送船「タランバ」を撃沈し、モニター艦「エリバス」に直撃弾を与える戦果を残している。その後、ムッソリーニ統帥は王党派クーデターで失脚したが、バドリオ元帥による政権樹立後もまだ連合軍との戦いは続いていた。少佐に昇進したチェンニ率いる部隊は、連合軍の上陸艦隊が迫るレッジョ・カラーブリア上空で戦い、揚陸艦4隻を撃沈、更に敵上陸部隊を機銃掃射でなぎ倒したが、チェンニ少佐は英空軍のスピットファイアに追撃され、戦死を遂げたのであった。

 

これらの結果から、イタリアは急降下爆撃機開発に失敗したのに対して、急降下爆撃機パイロットに関しては十分大きな戦果を挙げたと言っていいだろう。

 

余談であるが、イタリア空軍の急降下爆撃パイロットは何人かが『ストライクウィッチーズ』のロマーニャ公国のウィッチのモデルとなっている。劇場版にも登場する第504統合戦闘航空団「アルダーウィッチーズ」に所属する「フェル隊長」ことフェルナンディア・マルヴェッツィはマルヴェッツィ大尉がモデルで、その部下のルチアナ・マッツェイはマッツェイ曹長、マルチナ・クレスピはクレスピ軍曹がモデルとなっている。

「いらん子中隊」に登場するジュゼッピーナ・チュインニは、チェンニ大尉がモデル。更に赤ズボン隊(パンタローニ・ロッシ)に所属するエンリーカ・タラントラはタラントラ軍曹がモデルとなっている。

イタリア社会共和国空軍(ANR)の編制 ―祖国の空を守れ!大空の勇者たち―

今までRSI軍については、陸軍と海軍は記事を書いていたが、空軍についてはまだだったので紹介しよう。RSI空軍については今まで全くの無知といっても過言では無かったが、調べていくとそれが中々結構奥が深く面白い。

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RSI空軍仕様のフィアット G.55 "チェンタウロ"戦闘機(ブラッチャーノの空軍歴史博物館にて)。国籍マークが休戦前とは異なり、ファスケスが3本ではなく2本で、円形から四角に変わった。

休戦後、RSI政権が誕生すると、陸軍や海軍同様に再建が進められ、RSI空軍参謀長となったエルネスト・ボット空軍大佐らが、ドイツ空軍のヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン元帥の許可を得て再建されることとなった。RSI支配下であった北部イタリアは航空機の生産基地を含んでいたため、休戦後も引き続き航空機の生産が行われた。逆にドイツ占領下になったことで、工業生産力も上昇したとか。

こうして再建されることとなったRSI空軍は徐々に拡大し、三つの戦闘航空群、補助飛行隊(後に第一戦闘航空群に統合)、雷撃集団、更に輸送部隊、空挺部隊、対空部隊などを擁した。順を追って説明していこう。

RSI空軍の首脳部

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ANRの四人の空軍参謀長。左からエルネスト・ボット空軍大佐(1943-44)、アッリーゴ・テッサーリ空軍准将(1944)、マンリオ・モルフェーゼ空軍大佐(1944)、ルッジェーロ・ボノーミ空軍准将(1944-45)。

その前に、RSI空軍の首脳部について軽く触れておこう。RSI空軍最初の空軍参謀長となったエルネスト・ボット空軍大佐は、スペイン内戦とWW2での空軍エースの一人に数えられるヴェテランパイロット。スペイン内戦での負傷により、右足は義足となっていた。彼はムッソリーニ統帥やグラツィアーニ国防相の強力なバックアップを得て、空軍再建に尽力した。そんな彼を支えたのが、空軍副参謀長のジュゼッペ・バイロン空軍中佐であった。ボット大佐の誘いによってRSI空軍に参加したバイロン中佐は、バルボ元帥の大西洋横断飛行やスペイン内戦にも参加した腕利きのパイロット。第二次世界大戦ではプンタ・スティーロ沖海戦での英艦隊追撃や、バトル・オブ・ブリテンギリシャ戦線、北アフリカ戦線など各地で戦っていた。更に、戦闘機隊総監にはティート・ファルコーニ空軍大佐が任命された。彼は航空レースでも活躍した経験を持つフランス・ボーソレイユ出身ヴェテランパイロットで、当時の世界新記録も打ち上げている。エチオピア戦争、スペイン内戦にも参加し、第二次世界大戦ではフランス戦、マルタ包囲戦、北アフリカ戦線と各地で戦った。また、第一次世界大戦時のエースパイロットであるマルツィアーレ・チェルッティ空軍准将のような重鎮も参加していた。

このように、RSI空軍には名だたるヴェテランパイロットが多く揃っていた。しかし、彼らはドイツ空軍によるRSI空軍吸収の企てや、ファリナッチら党内過激派との対立によって苦しい思いをすることとなる。その結果、空軍参謀長が相次いで立て続けに辞任を余儀なくされた。ボット大佐の後任にはアッリーゴ・テッサーリ空軍准将、その後はマンリオ・モルフェーゼ空軍大佐が空軍参謀長に就任したが、ドイツ空軍との方針対立によっていずれも短期間で辞任した。両方共、第一次世界大戦やスペイン内戦に参加した経験豊富なヴェテランパイロットである。また、ボット大佐辞任後、空軍副参謀長であるバイロン中佐も辞任し、彼の後任としてレーモ・カドリンゲル空軍大佐が空軍副参謀長に就任した。彼はバルボ元帥の大西洋横断飛行にも参加した爆撃機パイロットであった。その後、ルッジェーロ・ボノーミ空軍准将が新参謀長に任命されると、ようやくRSI空軍は安定することになる。理由として、ドイツ空軍がドイツ本土防衛のために本国に引き上げたため、ANR併合の危険性は解消されたからであった。同時に、これはRSI空軍による防空任務が急務となっていることを意味していた。

RSI空軍の戦闘機部隊

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三つの戦闘航空群を率いた司令官たち。左から第一戦闘航空群「アッソ・ディ・バストーニ」司令官アドリアーノヴィスコンティ空軍少佐、第二戦闘航空群「ジジ・トレ・オセイ」司令官カルロ・ミアーニ空軍少佐、第三戦闘航空群「フランチェスコ・バラッカ」司令官フェルナンド・マルヴェッツィ空軍大尉。いずれも名だたるエースパイロットである。

さて、ここでRSI空軍を構成する部隊の説明に戻るとしよう。まずは、三つの戦闘航空群と補助飛行隊からだ。第一戦闘航空群「アッソ・ディ・バストーニ」、第二戦闘航空群「ジジ・トレ・オセイ」、第三戦闘航空群「フランチェスコ・バラッカ」、更に補助飛行隊「モンテフスコ・ボネ」が存在したが、これは後に第一戦闘航空群に吸収された。

第一戦闘航空群「アッソ・ディ・バストーニ(棍棒のエース)」を率いたアドリアーノヴィスコンティ空軍少佐は、第二次世界大戦のイタリア空軍を代表するエースパイロットである。イタリア空軍トップ・エースとも言われ、パイロットとしてだけでなく、カリスマ的な指揮官としても優秀な人物で、名門貴族ヴィスコンティ家の出身だった。この戦闘航空群には、ルイージ・ゴリーニ空軍准尉カルロ・マニャーギ空軍軍曹、更にイタリアでは珍しい夜間戦闘機パイロットとして知られるルイージ・トルキオ空軍中尉といったエースが存在した。

第二戦闘航空群「ジジ・トレ・オセイ」を率いたカルロ・ミアーニ空軍少佐は、スペイン内戦に参加した腕利きの戦闘機パイロット。第二次世界大戦ではギリシャ戦線やロシア戦線、更にシチリア防衛戦で活躍し、エースとなった。戦後は民間パイロットとなって1994年まで存命だった。なお、部隊名の「ジジ・トレ・オセイ」とは、「ジジ」は1942年にリビア上空で戦死したルイージ・カネッペレ中尉の愛称、「トレ・オセイ」は「三匹の鳥」を意味する。この戦闘航空群には、RSI空軍トップエースとして知られる2人のパイロット、ウーゴ・ドラーゴ空軍大尉マリオ・ベッラガンビ空軍大尉が所属した。

第三戦闘航空群「フランチェスコ・バラッカ」を率いたフェルナンド・マルヴェッツィ空軍大尉第二次世界大戦のイタリアを代表するエースの一人。第二次世界大戦中期まで、急降下爆撃機を操縦し、部下のマッツェイ曹長とクレスピ軍曹と共に英軽巡サウサンプトン」を撃破する戦果を挙げたことで知られる。後に戦闘機パイロットへ転身し、RSI空軍に参加した。戦後は運送会社を経営している。

後に第一戦闘航空群に吸収される補助飛行隊「モンテフスコ・ボネ」は、1943年11月に編制され、ジュリオ・トッレージ空軍大尉によって率いられた。ジョヴァンニ・ボネ空軍大尉エンニオ・タラントラ空軍軍曹といったエースが参加していたが、ボネ大尉が戦死した後に同飛行隊は第一戦闘航空群に吸収された。

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マッキMC.205V"ヴェルトロ"戦闘機(但し、これは休戦前仕様。ミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館にて)

これらの戦闘機部隊は、訓練終了時に終戦となった第三戦闘航空群を除き、イタリア本土防空で活躍し、圧倒的に数の優勢を誇る連合軍機に対して果敢に戦いを挑み、多くの戦果を得ている。そして、多くのエースも生まれたが、その分犠牲者も多かったのは確かであった。これらの戦闘機部隊にはフィアットG.55"チェンタウロ"戦闘機とマッキMC.205V"ヴェルトロ"戦闘機のようなイタリア機、更にドイツ機のメッサーシュミット社のBf109とBf110が使われた。北部に残っていたフィアットCR.42"ファルコ"、フィアットG.50"フレッチャ"、マッキMC.200"サエッタ"、マッキMC.202"フォルゴーレ"、レッジアーネRe.2001、レッジアーネRe.2005"サッジタリオ"、SAIアンブロジーニ207といった機体も使われていた。これらは一部は防空任務にも使われたが、主に訓練機として使われた。偵察機としては、カプロニCa.309ギブリ(スタジオ・ジブリの名前の元ネタ)が使われている。

RSI空軍の雷撃機部隊

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第一雷撃集団「ブスカーリア」を指揮した二人の司令官。カルロ・ファッジョーニ空軍大尉(1943-44)と、マリーノ・マリーニ空軍大尉(1944-45)。

続いては雷撃機部隊についてである。第一雷撃集団「ブスカーリア」は1年前に戦死したと思われていた雷撃機エースのカルロ・ブスカーリア少佐の名前に由来する。「思われていた」というのは、彼は撃墜された後に奇跡的に生き延び、休戦後は南部の王国政府の元で共同交戦空軍の一員として参加していたことが後に判明したからだ。

この部隊を率いたのは雷撃機パイロットとしてブスカーリア大尉と共に名を挙げ、地中海での英船団攻撃では総重量約20万トンもの敵艦を撃沈した経験を持つカルロ・ファッジョーニ空軍大尉であった。この雷撃機部隊はSIAI-マルケッティSM.79"スパルヴィエロ"爆撃機を主装備としていた。SIAI-マルケッティ社は元々王家であるサヴォイア家に由来するサヴォイアマルケッティ社であったが、RSI政権期に名前が変更され、戦後もそのままであった。ファッジョーニ大尉率いる第一雷撃集団は、連合軍が上陸を目論むアンツィオ及びネットゥーノでの防衛戦に投入され、RSI海軍の水上艦艇と協力し、敵上陸艦隊を多数撃沈する戦果を挙げている。しかしその分損害も多く、司令官であるファッジョーニ大尉自身も戦死することとなった。

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アンツィオ上空のSM.79"スパルヴィエロ"爆撃機

司令官であるファッジョーニ大尉が戦死し、更に部隊名の元となったブスカーリア大尉が敵側で参加していることが明らかになったことで、部隊名は戦死したファッジョーニ大尉の名前を取って「ファッジョーニ」に変更となった。後任の司令官はマリーノ・マリーニ空軍大尉が就任。彼の元で同部隊は新たな作戦に投入されていった。代表的なものはジブラルタルへの攻撃作戦である。休戦前からイタリア空軍はジブラルタルへの空爆を何度も実行していたが、休戦後もそれは継続された。RSI空軍の雷撃機部隊はジブラルタル港を攻撃し、敵艦数隻を撃沈した後、ほぼ無傷で帰還したのであった。更にその後も同集団は連合軍支配下の南部・中部イタリアや北アフリカの港湾・沿岸攻撃で戦果を挙げたのであった。

RSI空軍の輸送部隊

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SIAI-マルケッティSM.82"カングーロ"。RSI政権期には輸送機として使われている。エットレ・ムーティ空軍中佐が指揮したバーレーンサウジアラビア空爆はこの機体を使っていた。

輸送部隊としては、パンテッレリーア島上空で戦死したマリオ・トラブッキ軍曹の名を取った「マリオ・トラブッキ」部隊が存在した。これはドイツ空軍の制御下に置かれ、東部戦線への物資・兵員輸送にも使われ、1944年夏に解散となった。輸送機としては爆撃機が使われ、フィアットBR.20"チコーニャ"、SIAI-マルケッティSM.79"スパルヴィエロ"、SIAI-マルケッティSM.81"ピピストレッロ"、SIAI-マルケッティSM.82"カングーロ"、カントZ.501"ガッビアーノ"、カントZ.506"アイローネ"といった機体が使われた。

RSI空軍の空挺部隊

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最後の「フォルゴーレ」司令、エドアルド・サーラ空軍少佐。

最後に、空挺部隊についてである。RSI空軍は1943年12月にエドヴィーノ・ダルマス空軍中佐の指揮の元、空軍降下学校が設立されて訓練が実施された。翌年1月からは「アズッロ」大隊と改称されている。イタリア人義勇空挺兵はモンテ・カッシーノの戦いでもドイツ軍降下猟兵と共に勇敢に戦い、更に東部戦線にも派遣されている。アンツィオ・ネットゥーノ防衛戦が開始されると、休戦後に成立した義勇空挺団を前進とする「ネンボゥ」部隊が果敢に戦い、米軍上陸部隊に多くの損害を与えた。RSI空軍は戦力強化のために「アズッロ」大隊と「ネンボゥ」空挺団の統合を決定し、三つの大隊(「ネンボゥ」「フォルゴーレ」「アズッロ」)から成る「フォルゴーレ」空挺連隊が編成されたのであった。「フォルゴーレ」空挺連隊はローマ防衛戦に投入され、ローマ近郊のポンティーノ戦線で「デチマ・マス」と共に奮戦し、英軍はRSI軍の抵抗に苦戦し、多くの損害を受けることとなった。ローマ陥落後、空軍は空挺部隊の再編成を行い、更に「チクローネ」「フルミネ」の空挺大隊と、「ウラガーノ」砲兵団を編制した。

1944年秋から同空挺連隊は西アルプスの国境地帯に配備となり、山岳師団「モンテローザ」と共に、進撃する仏米連合軍に対して果敢に戦った。1945年1月にはカリスマ的指揮官として知られるエドアルド・サーラ少佐が最後の「フォルゴーレ」連隊長となり、5月にサン・ヴァンサン(ヴァッレ・ダオスタの温泉地)にて米軍に降伏するまで戦ったのであった。

 

こんな感じである。RSI空軍だけでなく、イタリア空軍について調べてみると結構面白い!全くの無知であるが、これからもどんどん調べていきたいところだ。