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「イタリアのレーダーの父」ウーゴ・ティベリオ博士とイタリア海軍のレーダー開発史

今回の更新は、イタリア海軍のレーダー開発史と、レーダー開発を主導した「イタリアのレーダーの父」こと、ウーゴ・ティベリオ博士について紹介します。

前回のブログ更新で説明したが、イタリアのレーダー開発は遅れていた。海軍参謀長であったカヴァニャーリ提督は保守的で、レーダーなどの新しい電子技術を信用しなかったからである。

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「イタリアのレーダーの父」ウーゴ・ティベリオ博士

イタリアのレーダー開発のパイオニアであったウーゴ・ティベリオ博士は1904年にモリーゼの中心都市、カンポバッソで生まれた。彼は電子工学のスペシャリストであり、天才的な科学者だった。彼の頭脳をイタリア海軍が最初から信じていれば、イタリア海軍は破滅的な敗北から救われただろう....しかし、そんなことを言っても意味はない。

この若き天才はイタリア海軍の研究所の教官を務めていたが、暗号通信のパイオニアだった陸軍のルイージ・サッコ博士が彼に注目し、共に軍部に働きかけて1936年にはレーダー開発の研究所「海軍電波通信研究所(Regio Istituto Elettrotecnico e delle Comunicazioni della Marina,通称RIEC)」の設立に成功する。

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RIEC所長を務めたジャンカルロ・バッラウリ博士

所長には強磁性の研究で知られるジャンカルロ・バッラウリ博士(海軍大佐)が就任し、イタリア海軍のレーダー研究は開始された。しかし、カヴァニャーリ提督率いる保守的な海軍首脳部によって資金はわずか(約2万リレ)しか与えられていなかった上に、人員も少なかった。なお、サッコ博士は陸軍にもレーダー開発を働き掛けたが、こちらはそもそも応じすらしなかった。研究所を設立するだけ海軍はマシだったのである。所長であったバッラウリ博士も数々のプロジェクトを手掛けていたため多忙であり、レーダー研究だけを重点的に携わるわけにはいかなかった。

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ティベリオ博士と共にレーダーを開発したネッロ・カッラーラ博士

しかし、少ない予算と人員の中、ティベリオ博士は共同研究者であるネッロ・カッラーラ博士と共に研究を進めた。カッラーラ博士は「マイクロ波」の名付け親である物理学者であり、電磁波関係の専門家だった。ティベリオとカッラーラ両名は共に海軍教官であったため、教鞭を取りながら研究を続けた。少ない予算、少ない人員、そして限られた研究時間が彼らを苦しめたが、2人はめげなかった。そして、2人は1936年にイタリア初のレーダー(E.C.1)開発に成功した。

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無線研究の大御所、グリエルモ・マルコーニ博士

しかし、その年にはレーダー開発に大きな影響力を持っていたグリエルモ・マルコーニ博士が病死してしまう。ムッソリーニ統帥とも親しかった大御所学者マルコーニの死によって彼が進めていた様々なプロジェクトは中止となり、レーダー開発研究も失速した。1939年には実用的なレーダー開発に成功したものの、これを重要視しなかった海軍は結局量産化を行わず、結局このレーダーは試作段階で終了した。

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マタパン岬の惨敗で撃沈されたザラ級重巡洋艦「ポーラ」

しかし、イタリア海軍はマタパン岬の惨敗でレーダーの必要性を痛感する。優れたレーダーを持つ英海軍は夜戦でイタリア艦隊を奇襲し、重巡洋艦「ザラ」「ポーラ」「フィウーメ」及び駆逐艦「アルフィエーリ」「カルドゥッチ」が撃沈され、約3000人の戦死者を出した悲惨な事態となったのである。

そこで、アルトゥーロ・リッカルディ海軍参謀長は冷遇されていたウーゴ・ティベリオ博士のレーダー研究を全面的に支持し、レーダー開発の予算が与えられた。

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海軍兵器の開発者、アルフェオ・ブランディマルテ技術大尉

レーダーの開発チームに海軍兵器の開発者であったアルフェオ・ブランディマルテ技術大尉が加わった。彼はドイツに派遣されてドイツ製レーダーの技術を得ていた。ブランディマルテ大尉は設計に携わり、ティベリオ博士とカッラーラ博士と共にイタリアのレーダー開発研究の主要人物となった。ティベリオ博士らは研究を大急ぎで進め、年内に新型レーダーの開発に成功した。なお、ブランディマルテ大尉は1943年の休戦以降はローマのレジスタンス組織に参加し、裏切りによってSSに逮捕、1944年に「ラ・ストルタの虐殺」の犠牲者の一人となった。

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艦艇用レーダー「グーフォ」

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陸上設置用レーダー「フォラーガ」

こうして完成した艦艇用レーダー「グーフォ(フクロウの意味)」と陸上設置用沿岸監視レーダー「フォラーガ(オオバンの意味)」は1942年から量産されたのである。

「グーフォ」は戦艦「ヴィットーリオ・ヴェーネト」や軽巡洋艦「カピターニ・ロマーニ級」などの軍艦に搭載され、「フォラーガ」は地上基地に設置された。

イタリア海軍は「グーフォ」を50機、「フォラーガ」を150機発注したが、結局イタリアの工業生産力の低さ故か、休戦時点で完成したのは「グーフォ」が13機、「フォラーガ」が14機のみであった。

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「グーフォ」レーダーを搭載した軽巡「アッティリオ・レゴロ」

しかし、「グーフォ」レーダーは優れた性能を発揮し、搭載された艦艇は効果的に戦果を挙げた。特にカピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦「シピオーネ・アフリカーノ」による戦果は有名で、夜間攻撃において「グーフォ」レーダーの威力をいかんなく発揮、メッシーナ海峡の封鎖作戦(シッラ作戦)を実行しようとする英海軍の魚雷艇部隊を襲撃して1隻を撃沈、2隻を大破させる事に成功し、連合国側の封鎖作戦を失敗させている。

 

優れた性能を持った「グーフォ」レーダーであったが、量産時期が遅れた故にイタリア海軍の窮地を救うには遅すぎた。それに加えて、イタリアの工業生産力の低さがたたり、更に戦果は限定的となったのである。イタリア海軍首脳部が仮にティベリオ博士らのレーダー開発を戦間期に重視していれば、イタリア軍はマタパン岬の惨敗を経験する事無く、英海軍とも夜戦で互角に戦うことが出来たと十分に言えるだろう。

 

なお、ウーゴ・ティベリオ博士は戦後にピサ大学で電子工学の教授として1974年まで教鞭をとり、1980年にリヴォルノで亡くなったようだ。

共同研究者であったネッロ・カッラーラ博士は戦後に海軍用レーダーの企業「SMA」(1943年にフィレンツェにて設立)でレーダー開発に携わっている。

ドメニコ・カヴァニャーリ海軍参謀長と第二次世界大戦開戦時のイタリア海軍の戦略

今回はドメニコ・カヴァニャーリ海軍参謀長と第二次世界大戦開戦時の王立イタリア海軍の戦略について紹介してみたいと思う。理由としては、Twitterのアイコンを変更して、せっかくカヴァニャーリ提督のアイコンにしてみたので彼の紹介をしてみたいなぁと思ったからである。

というか、カヴァニャーリ提督は第二次世界大戦のイタリア海軍を語るには欠かせない人物だ。何故か?それは、結果的に彼の戦略がイタリア海軍の敗北をもたらしたともいえるからである。

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ドメニコ・カヴァニャーリ提督

ドメニコ・カヴァニャーリ提督は1876年7月20日ジェノヴァで生まれた。

彼は1934年に海軍参謀長に就任し、そこから1940年のターラント空襲で辞任するまで海軍参謀長を務めた人物である。

つまりは、イタリア海軍の戦争準備を指導したのは彼であった。

カヴァニャーリ提督はファシスト政権、そしてムッソリーニ統帥に最も近しい海軍提督の一人であり、ファシスト政権による冒険的な膨張外交に対しても無批判だった。その忠実さ故にムッソリーニとの関係は実に良好で、ターラント空襲の失態でドゥーチェはカヴァニャーリ提督を海軍参謀長から解任したものの、ドゥーチェは彼の名誉を守り、尊重したことからもそれを伺える。

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イタリアの主力戦艦「リットーリオ」

カヴァニャーリ提督は戦艦と潜水艦を重要視する戦略に基づき、戦争準備を進めた。戦艦を重視したのは敵軍への心理的抑止力としての「現存艦隊主義」に基づくものであった。これに基づき、イタリア海軍は「リットーリオ」級4隻の建造を進め、それに加えて第一次世界大戦時に建造された「コンテ・ディ・カヴール」級戦艦2隻と「カイオ・ドゥイリオ」級戦艦2隻の大改装を行った。これらの戦艦の完成は1942年を予定としていたため、1940年のイタリア参戦時点で行動可能だったのは、1937年に改装が終わった「コンテ・ディ・カヴール」級二隻のみであった。

しかも、「現存艦隊主義」をカヴァニャーリ提督が採用していた理由はそれだけではない。第二次世界大戦開戦後、イタリア海軍は燃料不足に悩まされていた。開戦前からイタリア海軍は石油備蓄が少なかったことに悩んでいたが、それを思い知らされた。イタリアは同盟国であるドイツは石油のイタリアへの安定的な供給を約束したが、果たされなかったのである。燃料不足で大型艦を思うように運営できないイタリア海軍は「現存艦隊主義」に頼らざるを得なかったと言える。

しかし、「現存艦隊主義」によって軍港内でその存在感をアピールしていたイタリア海軍の戦艦は、逆に英海軍によるターラント空襲で狙われることになった。つまり、一か所に集まっていた伊戦艦は英海軍の航空攻撃で大打撃を被ったのである。ターラント空襲の結果、「コンテ・ディ・カヴール」「カイオ・ドゥイリオ」及び「リットーリオ」の三隻の主力艦は修復のためドッグ入りとなって行動不能になった。そのため、行動可能なイタリア海軍の主力艦は「ヴィットーリオ・ヴェーネト」と「ジュリオ・チェーザレ」、「アンドレア・ドーリア」のみとなったのである。その後、「カイオ・ドゥイリオ」と「リットーリオ」は数か月の修復を得て復帰したが、「コンテ・ディ・カヴール」は損傷が激しく、結局修復は終わらなかった。リットーリオ級戦艦「ローマ」は1942年に就役したが、「インペーロ」は未完で終わっている。

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潜水艦「グリエルモ・マルコーニ

続いて、潜水艦重視の戦略であるが、この戦略によってイタリア海軍は開戦時には実にソ連に次ぐ世界第二位の潜水艦保有数であった。潜水艦艦隊の運営には後にRSI海軍の参謀長となるマリオ・ファランゴラ提督が指揮している。彼もまた、ファシスト政権の熱狂的な支持者であった。

開戦時のイタリア海軍の潜水艦は計117隻(アドゥア級17隻、アルゴナウタ級7隻、ペルラ級10隻、シレーナ級12隻、アルキメーデ級2隻、アルゴ級2隻、バリッラ級4隻、バンディエーラ級4隻、ブラガディン級2隻、ブリン級5隻、カルヴィ級3隻、フィエラモスカ級1隻、フォカ級3隻、グラウコ級2隻、H(アッカ)級5隻、リウッツィ級4隻、マメーリ級4隻、マルチェッロ級11隻、マルコーニ級6隻、ミッカ級1隻、ピサーニ級4隻、セッテンブリーニ級2隻、スクァーロ級4隻、X級2隻)である。この潜水艦重視の戦略は成功したと言える。現に、イタリア海軍の潜水艦艦隊は各地の海域で多くの戦果を挙げた。

また、これに加えてイタリア海軍は敵泊地攻撃用の小型潜水艦の開発が進められた。これはいわゆる「ポケット潜水艦」であり、1938年にCA型が完成、1941年にそれを一回り大きくしたCB型が完成した。CB型は本格的に量産が進められ、22隻が発注された。CB型ポケット潜水艦は本来の用途では使われなかったが、黒海ではソ連海軍の潜水艦を次々と撃沈する戦果を挙げ、RSI海軍でも数少ない艦艇として活躍した。

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「イタリアのレーダーの父」ウーゴ・ティベリオ博士

カヴァニャーリ提督はレーダーを重要視せず、軽視した。彼は保守的であり、十分に長い期間を経て試験されていない新技術を導入する事には反対であったのだ。故に、ウーゴ・ティベリオ博士を始めとする優秀なレーダー技術者がイタリアにいたにもかかわらず、予算は与えられなかった。

しかし、これはマタパン岬の惨敗で間違いだとわかることになった。

マタパン岬の夜戦で、イタリア艦隊は優れたレーダーを持つ英艦隊に奇襲を受け、実に僅か一夜にして「ザラ」級重巡3隻と駆逐艦2隻を失い、乗員4000人のうち3000人が戦死するという悲惨極まる敗戦を経験したのである。「マタパン岬」の名はイタリア海軍史において汚名として残されたのであった。その結果、イタリア海軍はレーダー開発を大急ぎで進めることになるが、それはまた別の機会に紹介しよう。

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レジアーネ Re.2001OR艦上戦闘機

さて、このマタパン岬の敗北でイタリア海軍は空母の役割の重要性が改めて認識されたが、それ以前まではカヴァニャーリ提督率いる海軍首脳部によって海軍は「空母不要論」を採用していたのである。

これはムッソリーニが日ごろから主張していた「イタリア半島は巨大な不沈空母」であるという考えに基づくものであった。内海である地中海において、空母の必要性は低いと考えられていた。それに加えて空軍の威信を高めんとするバルボ空軍元帥の影響力も海軍の「空母不要論」に拍車をかけていた。つまりは、イタリア空軍を強化して地中海全体を網羅できるほどの力を持てば、空母などいらん!というわけである。ただ、海軍側も空母開発を全くしなかったわけではなく、新造空母の計画や、戦艦「インペーロ」の空母改装計画も存在した。

結局、イタリア海軍はマタパン岬の惨敗で空母の重要性を痛感したため、急いで空母建造に取り掛かった。客船「ローマ」は空母「アクィラ」に、客船「アウグストゥス」は空母「スパルヴィエロ」に改装されたが、結局未完に終わった。

 

結局、カヴァニャーリ提督の戦略は第二次世界大戦におけるイタリア海軍の失敗に繋がった。故に、カヴァニャーリ提督の解任後に新たに海軍参謀長に就任したアルトゥーロ・リッカルディ海軍大将は戦略の失敗を是正するために、新たに戦いに適した戦略を立てることを強いられたのである。

第二次世界大戦時の東アフリカ戦線 ―孤立した戦場で勇敢に戦ったイタリア将兵の物語―

第二次世界大戦の「アフリカ戦線」といえば、大多数の人はやはり北アフリカ戦線をイメージするだろう。砂漠の戦場、ロンメル将軍、エル・アラメイン....などなど。

逆に、東アフリカ戦線はその陰に隠れがちである。日本語ウィキペディアもない。しかし、そこでは本国から補給が一切無い中、イタリア軍が英軍を相手に激闘を繰り広げていたのである。

というわけで、今回はその「東アフリカ戦線」にスポットライトを当ててみよう。

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東アフリカ戦線を描いたポストカード

開戦時の東アフリカ戦線

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イタリア領東アフリカ帝国の行政区分

エチオピア併合後、イタリア領東アフリカ帝国(AOI)の行政区分はこうなっていた。西を英領スーダン、南を英領ケニア、北を英領ソマリランド及び仏領ジブチと国境を接していたのである。イタリア軍部は開戦に当たって、エリトリア防衛のためにスーダンのガダーレフ市及びカッサラー市への攻勢、そして仏領ジブチへの攻勢も決定していた。また、ケニアにおいては守勢、または状況によって攻撃に出る、となっていた。
開戦時は東アフリカに駐屯する伊陸軍部隊は植民地兵23個旅団の兵員27万人と、このほかアディスアベバ駐屯のサヴォイア師団、黒シャツ大隊などを合わせて5万4千人である。軍隊の配備は三つの作戦地区で防衛陣を敷き、北部地区はルイージ・フルーシィ将軍、東部地区はグリエルモ・ナージ将軍、西南部地区はピエトロ・ガッツェラ将軍、東部のジュバ川周辺地区はグスタヴォ・ペセンティ将軍がそれぞれ指揮に当たった。

紅海艦隊はマリオ・ボネッティ提督が指揮し、マッサワ基地を母港とし、駆逐艦7隻、水雷艇2隻、駆潜艇5隻、潜水艦8隻で構成されていた。

空軍はアッサバ基地の東アフリカ北航空コマンド、アディスアベバ基地の東アフリカ中央航空コマンド、モガディシオ基地の東アフリカ南航空コマンドで構成され、戦闘機・爆撃機など計約400機配備されていた。戦闘機は旧式機のみであったが、スペイン内戦で経験を積んだヴェテランも多かった。

そして、この東アフリカの最高責任者は、東アフリカ帝国副王の肩書を持つ同地軍総司令官である空軍大将アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ公であった。

開戦、そして英領植民地への進撃

1940年6月11日、イタリア王国は英国及びフランスに宣戦布告した。

しかし、開戦後東アフリカ戦線はすぐには動かず、伊英両空軍による爆撃が行われたのみであった。

紅海艦隊は潜水艦艦隊による英船団への攻撃を開始したが、ジーノ・スパゴーネ中佐率いる潜水艦隊は6月中に潜水艦「ガリレイ」「マッカレー」「トッリチェッリ」「ガルヴァーニ」の計4隻を失う大損害を被った。

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第二次世界大戦の東アフリカ戦線におけるイタリア軍の最大領域

陸軍の積極的行動は7月に入ってからであった。まず、1940年7月3日に英軍が伊領エチオピアのメテマを攻撃したが伊軍の防衛により失敗した。

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イタリア軍スーダン侵攻。イタリア軍指揮官はルイージ・フルーシィ将軍。英軍指揮官はウィリアム・プラット将軍。

7月4日、イタリア軍は攻勢に移り、反撃を実行、スーダン侵攻を開始した。フルーシィ将軍率いる部隊が国境近くのカッサラー市を制圧した。翌日、ガッツェラ将軍の部隊がガッラバト要塞及びクルムク要塞の制圧に成功している。

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イタリア軍ケニア侵攻。イタリア軍側の指揮官はピエトロ・ガッツェラ将軍。英軍側の指揮官はアラン・カニンガム将軍。

スーダンでの成功後、続いてガッツェラ将軍及びペセンティ将軍率いる部隊がケニア侵攻を開始。7月16日に国境都市のモヤレを制圧後、続けてマンデラ市を制圧。しかし、英軍の抵抗は激しく、国境から100km地点のブナ市まで侵攻したところでイタリア軍は進撃を中止、両軍は膠着状態となった。

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イタリア軍の英領ソマリランド侵攻。イタリア軍の指揮官はグリエルモ・ナージ将軍。英軍の指揮官はアーサー・レジナルド・チェイター将軍。

スーダン及びケニア侵攻後、8月3日からはグリエルモ・ナージ将軍率いる部隊が英領ソマリランド侵攻を開始した。イタリア軍は多くの犠牲を出しながらも、8月3日に首都ハルゲイサを制圧。トゥグ・アルガン峠での英軍による最後の抵抗を伊軍が撃破した後、8月19日に伊軍は港湾都市ベルベラを陥落させ、侵攻開始からわずか2週間足らずで英領ソマリランド全土を制圧した。英軍は海路で脱出した。

東アフリカ戦線におけるイタリア軍の連勝はムッソリーニにとって喜ばしいことであり、ヒトラーも絶賛する祝電を打った。その後、両軍はスーダンケニア国境での一進一退の攻防戦を繰り広げていた。

紅海艦隊は駆逐艦隊で英船団への攻撃を実行して戦果を挙げていたが、10月には英空軍の爆撃によって駆逐艦「フランチェスコ・ヌーロ」が撃沈されている。

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東アフリカの伊空軍トップエース、マリオ・ヴィシンティーニ大尉

空軍は東アフリカのトップエースであるヴィシンティーニ大尉をはじめとするパイロットが活躍した。11月には反撃に出た英空軍部隊を5機撃墜し、5か月間に25機の英空軍機を撃墜する戦果を挙げている。ヴィシンティーニ大尉は16機撃墜の戦果を挙げていたが、1941年2月に悪天候の為墜落死してしまった。

しかし、12月18日、英軍がソマリア北西部国境のエル・ウァク基地を襲撃し、これを陥落させた。これは小さな勝利ではあったが、ロンドンではイタリア軍崩壊の前触れとして大々的に宣伝された。

実際、それが当たったのか、これ以降イタリア軍は苦境に陥っていく。同基地の防衛に当たっていたペセンティ将軍は敗北の責任を取って辞任している。

暗雲、敗北の始まり

1941年に入るとイタリア軍にとって状況は暗転する。英軍が大規模な反攻作戦を開始したのである。それに加え、帝国内では英国の工作によってアマラ地区にてエチオピア人の叛乱が頻発していた。孤立した戦場であり、本国からの補給がない東アフリカ植民地軍は次第にジリ貧になっていた。

英軍はスーダン国境地帯を奪還し、遂にはカッサラー市を1月19日に奪回した。そして、エリトリアへの逆侵攻を開始したのである。伊軍は反撃を行ったが、激闘の末1月31日にアゴルダト、2月2日にバレントゥが陥落し、伊軍はケレンまで撤退した。アゴルダトの戦いではアメデーオ・グイレット大尉率いるアムハラ騎兵隊が活躍し、味方の撤退の血路を開くことに成功している。

他方、南部方面では英軍がケニア国境地帯を奪還し、2月初めにソマリアへの侵攻を開始した。南部の主要都市であるアフマドゥ市とキスマヨ市が陥落し、2月25日にはソマリア首都モガディシオが英軍の攻撃で陥落した。英軍はソマリアでの伊軍掃討戦に移り、わずか数日で英領ソマリランドも奪還している。

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ケレンの戦いを描いた絵画

ケレンは伊軍の守備隊と英軍の6週間にも渡る指揮官であるオルランド・ロレンツィーニ准将が戦死するなど激闘の末、これ以上の犠牲を避けるため伊軍司令部は撤退を命じ、3月27日に英軍はケレンを制圧した。英軍はケレンでのイタリア将兵の勇敢さを讃えている。ケレン陥落によって事実上エリトリア戦線は崩壊、4月1日には英軍がエリトリア首都アスマラを攻略した。

4月3日、英軍はイタリア紅海艦隊母港のマッサワ攻略を開始した。マッサワ軍港司令官ボネッティ提督は防衛の指揮を取り、状況の打開のために艦隊にポートスーダン攻撃及びスエズ運河攻撃を命令。しかし、結果は散々な結果に終わり、サウロ級駆逐艦3隻、レオーネ級駆逐艦3隻を失った。マッサワ防衛に当たった水雷艇「オルシーニ」「アチェルビ」は撃沈され、「MAS213艇」が英軽巡ケープタウン」を大破させたが、4月8日、英軍側の圧倒的攻勢に敗れ、鹵獲を防ぐために残存艦隊は自沈された。通報艦エリトリア」及び仮装巡洋艦「ラム1」「ラム2」は同盟国である日本に、潜水艦「アルキメーデ」「フェッラーリス」「ペルラ」はボルドーに目指して航行しており、難を逃れた(しかし、「ラム1」はモルディヴ沖でニュージーランド海軍の追撃により撃沈されている)。これにより、イタリア紅海艦隊は壊滅した。

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水雷艇「ヴィンツェンツォ・ジョルダーノ・オルシーニ」

マッサワ陥落後、エリトリアは完全に陥落。アッサバの空軍基地も制圧された。ソマリア方面では、駐ソマリア伊軍主力はエチオピアの城塞都市ハラルまで撤退していた。しかし、3月17日に英軍は侵攻を開始。ハラル陥落後も伊軍は山岳地帯で戦い続けたが、3月29日にディレ・ダワが陥落、伊軍ソマリア駐屯軍は降伏した。

東アフリカ戦線の崩壊と各地の籠城戦

東アフリカ戦線はもはや壊滅状態であった。伊軍第25植民地師団は帝都アディスアベバ東方のアワシュ渓谷地帯で防衛戦を繰り広げていたが、英軍の侵攻によって4月5日に力尽きた。これによって帝都への道が開かれ、伊軍司令部は帝都放棄を決定。翌日にはアディスアベバは英軍によって陥落したのである。

帝都を脱出した東アフリカの伊軍総司令官アメデーオ公は、アンバ・アラジ山岳地帯のトセッリ城塞での防衛戦をおこなった。4月17日にはデシエが陥落。イタリア軍は軍需物資の欠乏に悩まされながら戦ったが、5月15日に統帥からの降伏許可の電文が届き、17日にアメデーオ公は英軍に降伏、東アフリカのイタリア軍主力は降伏した。

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降伏する伊軍総司令官アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ公

アメデーオ公降伏後も、ナージ将軍率いる部隊が北西部のゴンダールを拠点にアマラ地方で、ガッツェラ将軍率いる部隊が南方のジンマを拠点にガッラ・エ・シダマ地方で抗戦を続けていた。5月19日にはティート・アーゴスティ将軍率いる部隊がシャシャマンマで連合軍の進撃を食い止めた後、降伏した。

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ジンマ防衛戦。イタリア軍指揮官はピエトロ・ガッツェラ将軍。自由ベルギー軍指揮官はオーギュスト=エドゥアール・ジリアールト将軍。

3か月に渡る籠城戦の末、6月21日にジンマは陥落。ガッツェラ将軍率いる残存部隊は西部に撤退していたが、オーギュスト=エドゥアール・ジリアールト将軍率いる自由ベルギー軍部隊の追撃を受け、7月3日にガッツェラ将軍は降伏した。ナージ将軍率いる部隊は7か月に渡って抗戦を続けたが、11月28日に遂にゴンダールは陥落し、徹底抗戦後、30日にナージ将軍は降伏した。

東アフリカにおけるゲリラ戦の開始

東アフリカ戦線はこれで終結したように思えた。しかし、降伏を拒否した約7000人のイタリア軍兵士によって、ゴンダール陥落後も各地でゲリラ戦が続けられたのである。

アムハラ騎兵隊司令官であったグイレット騎兵大尉は、神出鬼没のゲリラ戦を行って英軍を苦しめた。英軍からは「悪魔の司令官」と畏怖されたという。イタリア兵は英軍から武器を奪取するなどして軍備を整え、英軍への破壊活動をたびたび行った。

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アメデーオ・グイレット大尉とアムハラ騎兵隊

戦車エースとして知られるフランチェスコ・デ・マルティーニ中佐も、イエメン人の義勇兵と共に砂漠地帯でゲリラ戦をおこなった。SIM(陸軍諜報部)の工作員だった女性軍医のローザ・ダニエッリは、アディスアベバで積極的な破壊活動をおこなっている。

後に「エリトリア独立の父」と呼ばれるハミド・イドリース・アワテもゲリラ戦に参加していた。彼はアスカリ兵の指揮官であり、スーダン侵攻やケレンの戦いで戦っていた。これらのゲリラ戦は1943年のイタリア王国降伏まで続いた。

 

大雑把な東アフリカ戦線の顛末は以上である。これを機に、東アフリカ戦線について興味を持ってもらえたら幸いだ。それでは。

イタリア社会共和国海軍(MNR)の海上部隊 ―ファシストの艦隊―

さて、今回はRSI海軍について紹介しよう。

1943年の休戦後、王立イタリア海軍の艦艇の殆どはマルタ島で連合軍に引き渡された。また、その道中でドイツ軍に撃沈されてしまった。

そして、イタリアに残っていた艦艇もドイツ軍に接収されたものが多かった。駆逐艦や潜水艦はドイツ海軍によって軒並み接収されている。

故に、RSI海軍側に残った艦艇は本当に僅かであったのである。

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RSI海軍次官スパルツァーニ海軍少将からボルゲーゼ司令への軍旗授与式

RSI海軍というと、「陸戦部隊」としての「デチマ・マス」の活躍は割と知られている。しかし、海上部隊、すなわち「海軍」としてのRSI海軍の戦果はどうだろう?あまり知られていないように思う。

ここでは、そのRSI海軍の海上部隊の実態に迫ってみることにする。

 

RSI海軍の形成と所属艦艇

まずは、RSI海軍に合流した主な部隊を見てみよう。

ラ・スペツィア軍港の「デチマ・マス」(第10MAS艇部隊)

ラ・スペツィア軍港のウォーモ・ラーナ部隊及び駆潜艇部隊

ヴェネツィア軍港のアドリア海艦隊

◆フランス・ベータソム軍港の大西洋潜水艦艦隊

ルーマニア・コンスタンツァ軍港の黒海ポケット潜水艦艦隊

しかし、合流したこれらの艦隊にしても、ドイツ海軍はそのまま残存艦隊の指揮権を彼らには与えず、残存艦隊は基本的にドイツ海軍に接収された。

例えば、ベータソム基地の潜水艦「バニョリーニ」「ジュリアーニ」「カッペリーニ」「トレッリ」はそれぞれ「UIT-22」「UIT-23」「UIT-24」「UIT-25」としてドイツ海軍で就役している。

とはいえ、乗員がドイツ人のみで占められたわけではなく、これらの接収された艦艇はRSI海軍に忠誠を誓ったイタリア人乗員と、ドイツ海軍の乗員の混合であった。

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RSI海軍のCB型ポケット潜水艦

RSI海軍側に残ったのは、MAS艇(小型魚雷艇)、MS艇(大型魚雷艇)、VAS艇(駆潜艇)、MTM艇(爆装艇)、MTSM艇・MTSMA艇(高速魚雷)一部のコルベット、ポケット潜水艦、人間魚雷といった小型艇に限られていたのである。

しかし、例外として名目上RSI海軍側に残った大型艦艇もある。それは「建造中の艦艇」もしくは「修復中の艦艇」であった。

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空母「アクィラ」

建造中であった空母「アクィラ」及び空母「スパルヴィエロ」、リットーリオ級戦艦の「インペーロ」、カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦「カイオ・マリオ」、修復中の戦艦「コンテ・ディ・カヴール」、重巡洋艦ボルツァーノ」「ゴリツィア」など。

しかし、建造中のR級潜水艦のように、完成前にドイツ海軍に接収されたものもある。

 

RSI海軍に合流した提督たち

続いて、人員についてである。王立イタリア海軍の艦艇の殆どが連合軍側に渡ったために、RSI海軍は艦艇だけでなく人員も不足していた。

RSI海軍には、マリオ・ファランゴラ海軍上級中将、アントニオ・レニャーニ海軍中将、ウバルド・デッリ・ウベルティ海軍大将、ジュゼッペ・スパルツァーニ海軍少将、ローモロ・ポラッキーニ海軍中将といった将官らが参加した。

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RSI海軍に合流した海軍将官たち。左から、ファランゴラ海軍上級中将、レニャーニ海軍中将、デッリ・ウベルティ海軍大将、スパルツァーニ海軍少将、ポラッキーニ海軍中将。

それぞれ軽く説明をしておくと、ファランゴラ提督とレニャーニ提督は共にファシスト政権の熱烈な支持者で、潜水艦艦隊の司令官であった。RSI合流後はファランゴラ提督は海軍総司令官、レニャーニ提督は海軍大臣に就任したが、レニャーニ提督は就任数か月で交通事故で死亡している。なお、レニャーニ提督の息子であるエミリオ・レニャーニ海軍大尉は第18戦隊所属のMAS568艇の艇長として、黒海にてソ連海軍の重巡洋艦モロトフ」を大破させた戦果で知られる。
デッリ・ウベルティ海軍大将は中世の皇帝派(ギベッリーニ)貴族、ファリナータ・デッリ・ウベルティ(ダンテの『神曲』地獄編でも登場)の子孫。第二次世界大戦時は海軍総司令部の一員で、海軍の宣伝官として映画製作にも関わっている。アメリカの詩人エズラ・パウンドとも親密な関係であった人物だ。RSI海軍合流後も引き続き、海軍司令部の一員、そして海軍の宣伝官として活動した。

スパルツァーニ提督はRSI海軍の代表的な提督の一人。スパルティヴェント岬(テウラダ岬)沖海戦ではリットーリオ級戦艦「ヴィットーリオ・ヴェーネト」の艦長として参加。休戦時は海軍総司令部の一人であり、他の提督らがファシストと決別する中、RSI政権に合流。フェッリーニ大佐(レニャーニ提督死後の海軍次官)の後任として海軍次官に就任し、RSI海軍の地位向上に尽力した。

ポラッキーニ提督は第二次世界大戦開戦時はヴェネツィア軍港の司令官で、軽巡「カドルナ」を指揮してプンタ・スティーロ沖海戦で戦った。その後は、ポーラ軍港の潜水艦隊指揮官としてギリシャで指揮をした後、ベータソム基地司令官に就任。部下であるグロッシ艦長が指揮する潜水艦「バルバリーゴ」が米戦艦「メリーランド」及び「ミシシッピ」を立て続けに撃沈したという報告を受け、これに対して異議を唱えたが、ベータソム基地司令官を解任させられ、リヴォルノ軍港司令官に左遷(後任は皮肉にもグロッシ大佐だった)。なお、ポラッキーニ提督の指摘通り、グロッシの報告は「虚偽の報告」だった。休戦後、逮捕を恐れてRSI海軍に忠誠を誓ったが、密かにカドルナ将軍のCLN(国民解放委員会、レジスタンス組織)に協力する。後にRSI当局によって逮捕されたが、証拠不十分で釈放となっている。

 

「デチマ・マス(Xª Flottiglia MAS)」

だが、RSI海軍に合流した人物として名が知られているのは、将官らよりも「デチマ・マス」の面々であろう。実際、RSI海軍の中枢を担ったのは主に彼らであった。

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カリスマ的指導者、ユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ海軍中佐

RSI海軍の幹部であり、「デチマ・マス」の司令官であったユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ中佐が最も有名だろう。彼は名門貴族ボルゲーゼ家の出身という出自でありながら、熱烈なファシストという一風変わった人物だ。休戦までは潜水艦「シィレー」を旗艦として指揮を執り、特にアレクサンドリア港攻撃での戦艦「クイーン・エリザベス」及び「ヴァリアント」の撃沈を成功させた戦果で知られる。ニューヨーク攻撃作戦も計画していたこと(結局実行には移されなかったが)。休戦後は降伏を拒否し、いち早くドイツ軍に接触して「デチマ・マス」の兵員で海上部隊を創設、そして新設されたRSI海軍の幹部となった。カリスマ的な指導者として「デチマ・マス」を指揮し、陸戦部隊と海上部隊を率いて連合軍とパルチザンを苦しめた名指揮官である。なお、戦後はネオ・ファシストとして暗躍し、1970年にはクーデタ未遂事件を起こしている。そのため、イタリアでボルゲーゼ司令というと、「海軍の指揮官」というよりも「クーデタ未遂事件の首謀者」というイメージの方が強いようだ。

 

ボルゲーゼ中佐の部下として参加した人物も優秀な人物が多い。

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マリオ・アリッロ海軍大尉

副官のマリオ・アリッロ大尉は潜水艦「アンブラ」艦長として、英国海軍の軽巡「ボナヴェンチャー」撃沈やアルジェ港攻撃の指揮で知られる人物である。ラ・スペツィアの海軍技術博物館でも彼の展示があることから、彼の活躍はイタリア海軍に語り継がれているのだろう。

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ルイージ・フェッラーロ少尉

ルイージ・フェッラーロ少尉は潜水工作部隊「ガンマ」のスーパーエースとして知られる人物。1943年夏、駐土イタリア大使館の外交官としてトルコ領内に単独で潜入、イスケンデルン港やメルスィン港にて身一つで作戦を実行し、連合軍の船舶を時限爆雷で多数撃沈した(ステッラ作戦)。RSI海軍ではヴォルク中尉のもと、「ガンマ」部隊に引き続き参加している。

 

他にも、潜水艦「バルバリーゴ」の艦長として米戦艦二隻を撃沈した「戦果」で知られるベータソム基地司令官エンツォ・グロッシ大佐や、オトラント海峡海戦で仮装巡洋艦「ラム3」の艦長を務めたジョヴァンニ・バルビーニ大佐、さらには外交官出身という異色の経歴を持つブルーノ・ジェメッリ中佐といった人物らも参加している。

 

RSI海軍は艦艇と人員は不足したが、集まった人員は優秀な将兵が多かった。故に彼らは苦境の中で活躍する事が出来たのだろう。

 

RSI海軍海上部隊の活躍

さて、RSI海軍海上部隊の活躍を見てみよう。

RSI海軍海上部隊の主任務は基本的に沿岸の哨戒任務と機雷敷設であった。そんなRSI海軍海上部隊の初陣は、アンツィオ及びネットゥーノにおける防衛戦である。

「デチマ・マス」陸戦部隊はパルチザン掃討作戦での戦果で知られ、主にそのイメージで「デチマ・マス」自体も語られるイメージが多い。ウンベルト・バルデッリ中佐率いる海兵大隊「バルバリーゴ」及び砲兵大隊「サン・ジョルジョ」は、編成して間もなくアンツィオ及びネットゥーノにて上陸する連合軍部隊と死闘を繰り広げている。

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RSI海軍のM.T.S.M.A艇

海上部隊もこの時、アンツィオ防衛戦に参加しているのだ。「デチマ・マス」のM.A.S.艇や高速魚雷艇(MTSM艇とMTSMA艇)が繰り返し攻撃を行い、RSI空軍のカルロ・ファッジョーニ大尉率いる第一雷撃集団「ブスカーリア」と共に、連合軍の上陸舟艇や揚陸艦に対して雷撃、数多く撃沈する戦果を挙げている。

ルーマニア・コンスタンツァ基地で活動していた黒海のポケット潜水艦部隊は、休戦後に一度はルーマニア海軍に接収されたが、RSI海軍が編成された後、RSI海軍に再配備された。このポケット潜水艦部隊は黒海で活動を続けたが、休戦前のようにソ連艦隊を撃沈するといった目ぼしい戦果を挙げることはなく、ソ連軍の到着まで哨戒活動を続けたのみであった。残ったポケット潜水艦はソ連軍の到達前に自沈されている。

アドリア海沿岸のポーラ軍港に配備された数隻のCB型ポケット潜水艦も、RSI海軍所属となって活動を続けた。彼らの主任務は黒海同様に哨戒任務であった。

MAS艇部隊はティレニア海アドリア海で行動し、沿岸警備と哨戒任務中に連合軍の艦船8隻の撃沈に成功している。これは北イタリアの各紙で大々的に報道され、グラツィアーニ元帥は陸戦部隊の活躍を含め「デチマ・マス」の奮闘を讃えている。

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セルジョ・デンティ軍曹

RSI海軍海上部隊の最期の戦果は、1945年4月16日深夜から17日早朝にかけてリグーリア海のオネーリア沖で発生した海戦である(オネーリア沖海戦)。

これは、RSI海軍「デチマ・マス」のセルジョ・デンティ軍曹が駆るMTM艇(バルキーノ)が、フランス艦隊に対して攻撃を実行。その攻撃は成功し、フランス海軍の駆逐艦トロンベ」は大破し、航行不能になった。その後、「トロンベ」はトゥーロン軍港に牽引されて解体となった。デンティ軍曹はその後、フランス海軍の捕虜となった。

 

代表的な戦果は以上である。

優秀な人材が揃っていたRSI海軍ではあったが、海上部隊において圧倒的な装備不足を補うことは出来なかったのである。

イタリア社会共和国陸軍(ENR)の将軍 ―「祖国の名誉」のために戦う者たち―

1943年のイタリア王国の休戦後、イタリアは内戦状態に陥った。北部は「ファシスト政権の後継政権」たるイタリア社会共和国(RSI政権、通称サロ共和国)が誕生し、その元首にはグラン・サッソから救出されたムッソリーニ統帥が就任した。

南部にはローマを脱出したバドリオ元帥の政権、すなわちイタリア王国政府(通称南王国)が連合国側の「共同交戦国」としての立場を確立した。

 

RSI政権はドイツや日本をはじめとする枢軸国に承認され(フィンランドヴィシー政権下のフランスのように枢軸側でも承認しない国家もあったが)、正式にファシスト・イタリア政府の後継政権としての立場を確立し、三国同盟の一角として交戦を継続した。しかし、実態はドイツの傀儡政権であった。

 

今回は、このRSI陸軍に合流した将軍たちについて紹介しよう。

RSI軍は三軍全てにおいて人材が不足していた。高級将校は国王への忠誠からRSIへの参加を拒否した者も多く、南王国軍やレジスタンス運動に参加したり、ドイツ当局やRSI政府によって逮捕された者も多い。休戦前にはファシスト寄りだった将軍でも合流しない者も割といたのも事実であった。

 

そんな中、様々な理由でRSI軍に合流した将軍たちがいた。今回は、代表的なRSI陸軍の将軍9人について紹介しよう。

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今回紹介する9人。左から、ナヴァリーニ将軍、アーゴスティ将軍、カルローニ将軍、ガンバラ将軍、グラツィアーニ元帥、グッツォーニ将軍、プリンチヴァッレ将軍、ファリーナ将軍、デ・チア将軍だ。

ロドルフォ・グラツィアーニ

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ロドルフォ・グラツィアーニ陸軍元帥

まず最初は、RSI軍唯一の元帥、ロドルフォ・グラツィアーニ陸軍元帥だ。
RSI政権では国防大臣を務め、共和国軍の創設と立場向上に尽力した人物である。

グラツィアーニ元帥はバドリオ元帥と並ぶファシスト政権期におけるイタリア軍部の重要人物だ。植民地戦争や植民地統治ではその苛酷な手段で現地人に恐れられ、「現地人の破砕者」という異名も付けられている。

リビア再征服での悪名高い手法としては、「抵抗を続ける首長の手首を縛って飛行機からその居住地域に突き落とす」というえげつないことをしている。

エチオピア戦争では南部戦線を指揮し、1日30km以上も「捕虜を一切とらない」攻勢を行ったことで知られる。戦争終結後はエチオピア副王となり、恐怖政治でエチオピアを支配し、若いインテリの組織的な抹殺やムスリム兵による正教会聖職者虐殺を実行した。その苛酷な統治が祟って1937年2月には暗殺未遂事件が発生したが、さらに苛酷な統治を行う結果となり、報復としてアディスアベバで「エチオピア人に対する三日間の自由な略奪」をMVSNに許可した。

このような苛酷な植民地支配によってイタリアは終始反乱に悩まされ、15万人から25万人に駐留軍を増援することとなった。

第二次世界大戦のイタリア参戦時には陸軍参謀長の立場にあり、撃墜死したバルボ空軍元帥の後任としてリビア総督に就任、エジプト侵攻を指揮した。グラツィアーニは軍需物資の供給がないことや、インフラが脆弱であることから侵攻には反対していたが、ドイツのゼーレーヴェ作戦発動に焦る統帥の命令から侵攻を開始した。

結局、イタリア軍部隊は英軍の反攻作戦によって敗北し、その無謀な作戦計画の責任を取らされる形でグラツィアーニは辞任した。グラツィアーニとしては、自らの増援要請を拒否された結果この仕打ちであるため、不憫である。自らの計画を拒否されたにもかかわらず、ギリシャ戦線での失敗の責任を取らされたバドリオとは似通うものがある。しかし、バドリオとは異なり、ファシスト政権への忠誠は失わなかった。

グラツィアーニは休戦後、RSI政権に合流し、国防相に任命された。グラツィアーニは国王とバドリオの「裏切り」を厳しく非難し、共和国軍の創設に尽力した。まず、最初の問題はリッチGNR総司令官との意見の対立であった。リッチは全軍をGNRとして統轄することを考えていたが、グラツィアーニは逆にGNRを国軍の一部として編入することを主張していた。リッチはGNRの国軍への編入はその政治性が失われるとして反対し、両者の意見対立は長く続いていた。結局はリッチの主張が通る形になり、1943年12月にGNRは国軍とは切り離された独自の組織となった。GNRはMVSNとカラビニエリを統合した組織であったが、これは「縁結び」と取り沙汰された。

しかし、1944年8月14日の政令によって、グラツィアーニの意見が実を結び、GNRの国軍への合体が行われることになった。ムッソリーニはリッチがグラツィアーニの配下に置かれるのを不服とすることをわかっていたため、リッチをファシスト少年団の総裁に任命する事で、一応彼のメンツを守ったのであった。

こうして編成された新生ファシスト共和国軍は勇敢に戦い、多くの戦果を挙げた。グラツィアーニも「必ずや再びローマ進撃を成し遂げるだろう」と激励したが、共和国軍に戦局を変えるほどの力はなかった。1945年4月27日正午、コモ湖南部のチェルノッビオ司令部がパルチザンによって包囲され、遂にグラツィアーニは降伏した。

グラツィアーニは29日夕方、ミラノ東方のゲーティにて米軍の第四機甲軍団司令官クリッテンバーガー将軍の前で降伏文書に署名した。それから数日後、フィレンツェのラジオを通じてグラツィアーニはRSI軍に最後の令達を放送したのであった。

なお、戦後は戦犯として逮捕され、1950年の軍事裁判で19年の禁固刑に処されたが、トリアッティ法相の恩赦で同年8月には釈放となった。その後はネオ・ファシスト政党「イタリア社会運動(MSI)」に参加している。

 

ルフレド・グッツォーニ

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ルフレド・グッツォーニ陸軍大将

グッツォーニはマントヴァ出身の将軍。
ムッソリーニの娘婿である外相ガレアッツォ・チャーノとは非常に仲が悪く、彼の日記(所謂「チャーノ日記」)では、「濁った卑しいチビでデブな染めた髪の男(torbido, infimo, piccolo, grasso e coi capelli tinti)」と表現されていた。

エチオピア戦争に参加、征服後はエリトリア総督(1936~37)となる。アルバニア戦争においては遠征軍を指揮し、小規模な戦闘の後にアルバニア全土を制圧、併合後はアルバニア占領軍の司令官を務めている。

第二次世界大戦のイタリア参戦後、フランス侵攻において第4軍を率いたが、準備不足からフランス軍の要塞線攻略で多くの損害を被った(しかし、これはグッツォーニ将軍の責任というよりムッソリーニの無茶な戦争計画によるものである)。

バドリオ参謀総長の辞任後の人事異動で、カヴァッレーロ新参謀総長のもとで参謀副総長に任命される。また、ギリシャ侵攻の指揮を執るソッドゥ大将にかわり、陸軍次官にも任命された。1943年になると、第6軍と島嶼駐屯軍の司令官となっていたグッツォーニ将軍は、上陸する連合軍からシチリア防衛のために戦った。グッツォーニは連合軍のシチリア上陸目標は東南地帯であると確信していたが、ドイツ軍のケッセルリンクらはこの意見を無視し、西武地帯が上陸目標であると主張していた。結局、グッツォーニ将軍の予想が当たり、連合軍は東南地帯から上陸をおこなった。ミンスミート作戦の成功もあってドイツ軍は上陸目標はシチリアではなくサルデーニャギリシャであると考えていたため、シチリアの枢軸軍は総崩れとなったのである。

RSI政府樹立後は、RSIへの忠誠を誓ったがファリナッチらにシチリアでの敗北の責任を問われ、「裏切り者」と糾弾された。RSI政権によるシチリア防衛戦の将官への「裏切り者」としての糾弾は、グッツォーニ以外にも、パンテッレリーア島守備隊司令官だったパヴェージ提督や、アウグスタ軍港司令官のレオナルディ提督らに対しても行われた。彼らはRSIへの忠誠を誓わなかったため、欠席裁判で死刑となった。しかし、グッツォーニはRSI軍の人材を探すドイツ軍の助けによって処刑執行を免れた。結局、これらの糾弾は、シチリア戦での敗北責任のスケープゴートに過ぎなかった。実際は彼らが「背信行為によって連合軍に味方していた裏切り者」という事実は存在しない。こうして、グッツォーニはその後、RSI軍のリグーリア軍集団の司令官に任命された。

 

ガストーネ・ガンバラ

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ガストーネ・ガンバラ陸軍中将(左の人物)

ガストーネ・ガンバラ陸軍中将は、スペイン内戦の終盤でイタリア義勇軍「CTV部隊」の司令官(1938~39)を務めた人物で、最終局面のカタルーニャ制圧戦を指揮、共和国政府の首都であったバルチェロナを陥落させ、フランコ政権を勝利に導いた。
その後、国際的に承認されたスペイン・フランコ新政権のイタリア大使としてマドリッドに派遣され、イタリアの第二次世界大戦参戦までスペイン大使を務める。

第二次世界大戦のイタリア参戦後、彼はイタリアに呼び戻されてフランス侵攻軍の15軍団を指揮する。フランス降伏後はアルバニアに駐屯する第八軍団の司令官に任命され、ギリシャ侵攻に参加する。

ギリシャ降伏後は北アフリカ戦線に派遣、バスティコ元帥の元で参謀長を務め、トブルク包囲戦やビル・エル・ゴビの戦いを指揮した。ビル・エル・ゴビの戦いではファシスト青年大隊が少ない装備ながら連合軍相手に果敢に勇猛に戦っている。なお、ドイツアフリカ軍団司令官のロンメルとは他の伊軍将官同様に仲が悪かったらしい。

1942年になると、ガンバラはイタリアに召還され、バルカンに駐屯する第11軍団指揮官に任命され、パルチザン掃討作戦に参加している。

休戦後、ドイツ軍に逮捕されたが、RSI軍への合流によって釈放される。彼はグラツィアーニ元帥によってRSI陸軍(ENR)参謀長に任命された。

その後はRSI政権と運命を共にし、1945年に連合軍の捕虜となった。コルターノ収容所に抑留されたが、1947年にフランコ将軍の招きでスペインに移住した。なお、大戦中のパルチザン掃討作戦を指揮したため、戦後はユーゴスラビア政府に戦争犯罪人と指名されたが、イタリア政府はそれに応じなかった。

 

エネア・ナヴァリーニ

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エネア・ナヴァリーニ陸軍中将

エネア・ナヴァリーニ将軍はエチオピア戦争で南部戦線を指揮し、その功績で少将に昇格した。第二次世界大戦でイタリアが参戦した後は、ギリシャ侵攻に参加し、第56歩兵師団「カザーレ」の師団長を務めた。同師団はギリシャ軍への追撃戦で活躍している。

ギリシャ降伏後、北アフリカ戦線に派遣される。彼はドイツアフリカ軍団のエルヴィン・ロンメル元帥に信頼されたイタリア軍指揮官の一人であり、伊軍将官は基本的にロンメルとは不仲だったが、彼は信頼できる仲だったようだ。ロンメルを補佐し、エル・アラメインの戦いでは第11軍団を指揮。この活躍で中将に昇進した。

チュニジア戦線での敗北後、イタリアに戻った。本土戦に備えてカンパニアに駐屯する第19軍団の指揮官となるが、休戦発表後に北イタリアに移動し、RSI軍に合流する。RSI軍では特殊部隊の訓練指導を任せられていた。

 

マリオ・カルローニ

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マリオ・カルローニ将軍

マリオ・カルローニ陸軍准将は、ナポリ出身の将軍。

第二次世界大戦のイタリア参戦時にはアルバニア駐屯軍の指揮官で、ギリシャ侵攻に参加。その後、ロシア戦線で指揮するが、彼の息子ブルーノ・カルローニが1942年に戦死する。休戦後、ドイツ軍の捕虜となるが、RSI軍への合流を条件に解放される。

RSI軍に合流した後、ゴッフレード・リッチ将軍の後任として山岳(アルピーニ)師団「モンテローザ」の師団長に就任する。1945年にはグイード・マイナルディ大佐の後任としてベルサリエリ師団「イタリア」も率いた。両師団を率いて連合軍に果敢に戦い、連合軍の足止めに成功したが、戦い抜いた後にブラジル軍部隊に降伏した。

戦犯として逮捕されたが、1947に無罪となった。しかし、大佐に降格となり、全ての軍事勲章を剥奪された。戦後は妻と共にRSI軍のベルサリエリ兵とアルピーニ兵の慰霊施設の建設を働きかけたが、その要求は市議会によって拒否されている。

 

ティート・アーゴスティ

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ティート・アーゴスティ陸軍少将

ティート・アーゴスティ将軍は、ソマリアの叛乱鎮圧でエリトリア人部隊を率いて活躍した。エチオピア戦争ではソマリ人アスカリ兵部隊と騎兵部隊を率いてハラル制圧に成功し、その武勲によって大佐に昇進している。
第二次世界大戦のイタリア参戦後、東アフリカ戦線で軍を指揮する。英軍の反攻作戦後はオロミア地方のシャシャマンマ防衛戦を指揮する。残存部隊の撤退を成功させ、激戦の末に英軍の捕虜となった。この活躍によって三度目の銀勲章を受勲した。

休戦後、負傷していたため本国への帰還となったが、北部に逃亡してRSI政権に合流した。RSI軍では擲弾兵師団「リットーリオ」の師団長を任されることになった。エミリアロマーニャのゴチックラインで対パルチザン戦に従事し、その後はピエモンテに移動して国境の山岳地帯で米仏軍を中心とする連合軍に対して防衛戦を指揮した。

戦いの後、連合軍の捕虜となったが、収容所内で自殺を遂げた。

 

アミルカーレ・ファリーナ

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アミルカーレ・ファリーナ将軍

アミルカーレ・ファリーナ将軍は、休戦時はトゥーロン占領軍司令官であった。

休戦後にRSI軍に合流し、ドイツ軍との対立で辞任したプリンチヴァッレ将軍の後任として、海兵師団「サン・マルコ」の師団長に任命された。
リグーリア軍集団編入となった同師団を指揮し、連合軍上陸に備えてジェノヴァ防衛任務を従事している。

アルド・プリンチヴァッレ

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アルド・プリンチヴァッレ将軍

アルド・プリンチヴァッレ将軍は、サルデーニャ島の主要都市サッサリ出身の将軍。

エチオピア戦争ではエリトリア駐屯軍に所属し、SIM(陸軍諜報部)の将校だった。戦闘指揮には参加しておらず、後方で活動していた。

第二次世界大戦のイタリア参戦時はサッサリ旅団第152歩兵連隊の指揮官であった。ユーゴスラヴィア侵攻には第11歩兵師団の参謀長としてスロヴェニア制圧を成功させる。その功績により准将に昇進。その後はロシア戦線で歩兵師団の指揮を執った。

休戦後、RSI軍に合流した最初期の将軍の一人だった。新設された共和国軍の海兵師団「サン・マルコ」の師団長に任命されたが、ドイツ軍との意見対立から辞任に追い込まれる。その後、サルデーニャ島に逃亡し、連合軍側に降伏した。

 

アメデーオ・デ・チア

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アメデーオ・デ・チア陸軍少将

アメデーオ・デ・チア将軍はカラーブリアのロクリ出身のアルピーニの将軍。
第二次世界大戦のイタリア参戦後、ピントール将軍が指揮する第一軍に所属し、アルピーニ部隊を指揮してフランス侵攻に参加。

その後、ジョヴァンニ・エスポジート将軍の後任として山岳師団「プステリア」の師団長に就任、ギリシャ戦線で指揮をする。ユーゴスラヴィア侵攻では同師団を指揮し、モンテネグロ制圧を成功させた。この武勲により四度目の銀勲章を受勲した。

1941年夏になると、第58歩兵師団「レニャーノ」を指揮して、リグーリア海岸の防衛任務に就く。アントン作戦が発動されるとフランス南部に進駐し、ニッツァ(ニース)を本部とするプロヴァンス占領軍の司令官を務めた。

休戦後、ドイツ軍の包囲を受けてRSI軍への合流を決める。しかしこれは逮捕を免れるための合流であり、本心からではなく消極的な協力であった。リグーリア軍集団の司令官に任命されたが、一か月で解任され、軍事裁判所の所長に就任した。山岳師団「モンテローザ」が設立されたが、同胞(イタリア人)と戦いたくなかったため、指揮官への就任を拒否した。

 

以上である。他にもRSI軍に合流した将軍はいたが、写真資料が無かったり、そもそも資料自体が不足している例も多く、調べるのは中々大変である。

今度は海軍や空軍の高級将校についても紹介していきたい。ではまた。

 

 

 

戦艦「ローマ」爆沈の悲劇から75年

本日は2018年9月9日。戦艦「ローマ」の撃沈(1943年9月9日)から75年経ちました。
こちらは、イタリア海軍が公開した新しい「ローマ」の写真四枚です。

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下記のURLからは撃沈された「ローマ」の船体の映像が確認できます。
http://www.marina.difesa.it/conosciamoci/press-room/comunicati/Pagine/20180909_CS141_NUOVA_ESPLORAZIONE_RELITTO_ROMA.aspx


1943年9月9日、イタリア王国の休戦後、連合軍の引き渡しの為にマルタ島に向かっていた艦隊に対して、独空軍が爆撃し、戦艦「ローマ」、駆逐艦「ウゴリーノ・ヴィヴァルディ」、駆逐艦「アントニオ・ダ・ノーリ」が失われました。

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隊司令官であり、海軍総司令官のカルロ・ベルガミーニ海軍大将

元々、ベルガミーニ大将率いる戦艦「ローマ」を旗艦とする艦隊は、連合軍のサレルノ上陸艦隊への攻撃のために準備を進めていました。

しかし、秘密裏に行われた和平交渉によって急遽休戦が発表されたため、海軍参謀長のデ・コールテン提督は連合国への艦隊の引き渡しを決定しました。

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海軍参謀長・海軍大臣のラファエレ・デ・コールテン(ド・クールタン)提督

海軍参謀長であり、海軍大臣でもあったデ・コールテン提督も休戦協定の署名を初めて知ったのは当日であり、バドリオらから何の相談も受けていなかったのです。海軍総司令官のベルガミーニ大将に伝えられたのは更に後でした。そんな混乱の中、イタリア艦隊は連合国への引渡しのためにマルタへの出発を決定しました。

デ・コールテン提督は出発前にベルガミーニ提督に「アンブロージオ統合参謀総長が連合軍に対してマッダレーナ港への寄港を要請した」と伝えていたため、艦隊はマルタの前にマッダレーナへの寄港を決定しました。

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戦艦「ヴィットーリオ・ヴェーネト」

そして、戦艦「ローマ」「ヴィットーリオ・ヴェーネト」「イタリア(旧リットーリオ)」を含むイタリア艦隊は、ラ・スペツィア軍港を出発しました。この出発を知ったドイツ空軍のゲーリング元帥はすぐさま艦隊の追撃を命令、「フリッツX」を搭載した攻撃機15機がフランスの基地を飛び立ちました。

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「フリッツX」

最初に「フリッツX」の攻撃を受けたのは戦艦「イタリア」でしたが、致命的な打撃は免れました。しかし、アシナーラ島沖で今度は戦艦「ローマ」が「フリッツX」によって撃沈され、艦隊司令官であるベルガミーニ提督も戦死。それに加え、駆逐艦「ウゴリーノ・ヴィヴァルディ」と駆逐艦「アントニオ・ダ・ノーリ」も撃沈されています。

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駆逐艦「ウゴリーノ・ヴィヴァルディ」

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駆逐艦「アントニオ・ダ・ノーリ」

苦難の末に何とかイタリア艦隊はマッダレーナに到着しましたが、アンブロージオ参謀総長の要請を連合軍が拒否したため、連合軍はイタリア艦隊のマッダレーナ寄港を拒否、直ちにマルタへと向かうよう命じました。その後、オリーヴァ提督の命令を受けて、全艦隊がマルタへ航行、翌日朝に艦隊はマルタに到着しました。今度はドイツ軍の追撃が無かったのが不幸中の幸いでした。

 

「ローマ」爆沈の悲劇により、全乗組員1946人のうち、将官2人(ベルガミーニ提督とカラチョッティ参謀長)、士官86人、その他乗組員1264人が犠牲になりました。残る596人はイタリア艦隊の巡洋艦水雷艇によって救助されました。

第二次世界大戦時のイタリア軍を描いた戦争映画を見てみよう!

第二次世界大戦を描いた戦争映画といえば、イメージするのはどの国だろう。

スターリングラード』『フューリー』『ダンケルク』『男たちの大和』『Uボート』などなど、ドイツ軍、アメリカ軍、日本軍、ソ連軍、英軍....大体その辺が多いだろう。故にこれらの第二次世界大戦時の軍事は一般的によく知られている。

では、イタリア軍を描いた戦争映画はどうだろうか。

うん、マイナーだ。あまり知られていない。イタリア軍の実態を勘違いする人が多いのはこういうとこにも理由があるんだろう。

というわけで、ドイツ・日本と共に枢軸国の一角を担った主要交戦国イタリアの雄姿を描いた戦争映画を8つ紹介しよう!是非皆さんにも見てもらいたい!(宣伝)

 

砂漠の戦場エル・アラメン

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『砂漠の戦場エル・アラメン』

まず、最初に紹介するのは『砂漠の戦場エル・アラメン』。

1969年公開の映画で、原題は"La battaglia di El Alamein"のイタリア映画だ。

その名の通り、第二次世界大戦時の北アフリカ戦線における「エル・アラメインの戦い」を描いた映画である。

この映画で主役となるのは空挺師団「フォルゴーレ」である。「フォルゴーレ」の名をご存知の方も多いはずだ。

そう、エル・アラメインの戦いで装備が不足する中、圧倒的物量を誇る英軍に対して獅子奮迅の活躍をした部隊だ。イタリア軍のエピソードでも特に有名である。ラストシーンでは、史実の火炎瓶と地雷だけで英軍戦車と戦う空挺兵たちが描かれている。

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実物のイタリア戦車が動く!走る!撃つ!撃破される!

「フォルゴーレ」のほかにも、戦車師団「アリエテ」として実物のイタリア軍戦車が何輌か登場するのが見もの。本物のイタリア戦車が動くぞ!

「マカロニ作戦」っぽいものとか、やたら似てるモントゴメリー将軍とか、結構色々面白い作品だ。日本語版もあるのでぜひおすすめ。

 

炎の戦線エル・アラメイン

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『炎の戦線エル・アラメイン』

続いても、「エル・アラメインの戦い」を描いた作品だ。
『炎の戦線エル・アラメイン』。2002年公開の映画で、原題は"El Alamein - La linea del fuoco"。こちらでは、「フォルゴーレ」と同様に南部戦線で戦った歩兵師団「パヴィア」の戦いが描かれる。主人公は、新たに「パヴィア」師団に配属になった新兵。

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過酷な砂漠の前線の様子が詳細に描かれている。イタリア軍の戦いの実像や前線の物資不足がわかり、強烈な印象のあるシーンが多い。ラストシーンは非常にツラい。

「砂漠パスタ」発言をする人々に是非見せたい映画である。前線におけるイタリア兵の食事事情もよく描かれているからだ。

友軍であるドイツ軍との不和も描かれている。

 

好敵手

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『好敵手(I due nemici)』

次は、珍しい第二次世界大戦時の東アフリカ戦線を描いた映画、『好敵手』だ。原題は"I due nemici"。

1961年公開のガイ・ハミルトン監督の伊英合作映画で、伊軍と英軍の戦いと、伊軍将校と英軍将校の奇妙な友情をコメディ調を交えつつ描いている。

伊軍将校役はアルベルト・ソルディで、英軍将校役はデヴィッド・ニーヴン

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アスカリ兵やエチオピアレジスタンスも登場する。多くの人に楽しめる良い作品でオススメなのだが、TV放映はされたものの、日本版でDVDは出ていないのが難点。

AmazonでDVDを注文する事をおススメする。

 

I due colonnelli

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"I due colonnelli"

先日見た作品。せっかくなのでここで紹介。

前の映画に名前が似ているが、構成もよく似ている映画"I due colonnelli"。意味は「2人の大佐」。作中に登場する伊軍と英軍の大佐を表す。1963年公開。
伊軍大佐役の役者は現在でもイタリアで人気の高い喜劇俳優トト。

設定としては、1943年のギリシャ戦線を描いており、ギリシャアルバニア国境の山岳地帯での伊英両軍の攻防戦を描き、ドイツ軍も登場する。

1943年なので、ギリシャは既に降伏しており、イタリア軍ギリシャ占領統治を描いている。登場する英軍はギリシャに上陸した部隊だろう。

『好敵手』とよく似たシナリオの作品で、伊軍将校と英軍将校の間に奇妙な友情が芽生え、それに加え、イタリア映画あるあるの「頭の固い」ドイツ兵が描かれている。ドイツ軍将校が秒単位で時間を気にするって部分もステレオタイプで面白い。

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一番の見どころはクライマックスで、ピンチのところで英軍が助けに来て、「ドイツ軍はもう君らの同盟国ではない。9月8日、バドリオ元帥は英国、フランス、アメリカと休戦をした」って言うの最高に面白い。

伊兵「戦争は終わったー!」
英軍大佐「いや、戦争は終わらない。君らは我々と一緒に戦うんだ」

まぁ史実的に怪しい部分も結構あるが、映画の演出としてヨシとしよう。面白いし。基本はパロディ路線なので、「これが史実!」とは思わないでほしい。

ただ、この映画は日本語版がない。哀しい。

 

激動ヨーロッパ戦線

ファシズムムッソリーニの野望―

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『激動ヨーロッパ戦線―ファシズムムッソリーニの野望―』

2002年に放映された、テレビ映画『激動ヨーロッパ戦線―ファシズムムッソリーニの野望―』。原題は"La guerra è finita"。

前後編に分かれた映画で、前編は開戦~ギリシャ戦線~ロシア戦線までを描き、後編で休戦~イタリア内戦(RSI軍vsパルチザン)~戦後までを描く。

つまりは、戦時中にイタリア軍が体験した戦線の多くが描かれている。

戦時下のイタリアを生々しく描いた作品。パルチザン神話に基づくものでなく、RSI側にも光を当てている良い作品である。ヒロインが中々の悪女。

アレッサンドロ・ガスマンが演じるクラウディオは、MVSNの士官としてギリシャ戦線に出征する。ギリシャ戦線におけるイタリア軍の装備不足、英軍の増援によるイタリア軍の敗走が描かれている。アルピーニも出てくるぞ。

ギリシャ戦線で部下を失ったショックでクラウディオは記憶を失うが、その後病院を抜け出し、戦死した指揮官の名前を借りてロシア戦線に出征。興味深いことに、ソ連兵はドイツ兵ほど悪く描かれていない。ドイツ兵が友軍なのに助けてくれないのはいつものこと。クラウディオは再び部下を失うが、そのショックで記憶を取り戻すことに。

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ギリシャ戦線の塹壕内のシーン

前編はここまでで、後編では休戦からイタリア内戦、そして戦後が描かれる。休戦後、クラウディオはRSI軍側に属し、「デチマ・マス」に参加するが、友人のエットレや恋人のジュリア(ヒロイン)はパルチザン側に属することになる(この辺も紆余曲折ある)。そして、RSIとパルチザンの対立は戦後にまで及ぶこと...。

第二次世界大戦時のイタリアがどのような感じだったか」というのが非常にわかりやすく、ドラマチックに描かれている良い作品だ。オススメ。DVDも日本語版がある。

なお、日本語版のパッケージには何故かP40重戦車が描かれているが、P40重戦車は作中に登場しない。しかも表紙の兵士はイタリア兵ではなくドイツ兵。何故だ。

 

白い船

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白い船

陸軍の映画が続いたので、今度は海軍の映画を見てみよう。

紹介する映画は『白い船』。原題は"La nave bianca"。

イタリア映画の巨匠、ロベルト・ロッセリーニの長編第一作。1941年公開。

中盤まではスパルティヴェント岬沖(テウラダ岬沖)海戦を描き、そこからは病院船のシーンを描く。戦時中の映画なので、なんと戦艦「ヴィットーリオ・ヴェーネト」を始めとする実物の伊艦隊が登場。それだけでもめっちゃ興奮するぞ!

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実物の戦艦「ヴィットーリオ・ヴェーネト」が登場

「ネオレアリズモ」映画の先駆者ともいわれる作品であり、またファシスト政権のプロパガンダ映画という側面も持つ。

 

アルファ、タウ!

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『アルファ、タウ!』

海軍映画第二弾、『アルファ、タウ!(Alfa tau!)』。

潜水艦「エンリコ・トーティ」の活躍を描いた作品で、終盤の英潜水艦「トライアド」との死闘は見もの。1942年公開。

主演の一人として実際に潜水艦「シィレー」の艦長であるブルーノ・ゼリク少佐が出演している点も面白い。最近話題にしたイタリア海軍の食事風景も描かれているぞ。
なお、ゼリク少佐は撮影後にハイファ攻撃に参加するが、英海軍に潜水艦「シィレー」が撃沈されて戦死している。この「シィレー」の残骸は現在もローマのヴィットリアーノで見る事が出来る。

 

潜航雷撃隊

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『潜航雷撃隊』

イタリア映画ではなく英国映画だが、イタリア海軍を描いた映画として紹介。
1958年公開の英国映画『潜航雷撃隊』は、英海軍のライオネル・クラブ大尉を主人公にした作品で、主にジブラルタルでの英海軍と伊海軍の攻防戦を描く。

冒頭シーンではアレクサンドリア港攻撃での英戦艦「クイーン・エリザベス」と「ヴァリアント」の撃沈が描かれている。イタリア海軍の「デチマ・マス」が敵側で登場し、人間魚雷部隊やウォーモ・ラーナ部隊が脅威として描かれている。キャッチコピーには、「世界最強のイタリア潜水部隊」とまで書かれている。

これに対し、英海軍のクラブ大尉が練度も足りない潜水部隊を指揮しながらも、伊海軍のデチマからジブラルタルを守るために奔走する、という流れ。

アルヘシラスの工作船「オルテラ」も登場。しかし、オチを付けるためか、ラストシーンでは「オルテラ」の居場所が特定されて撃沈されている。なお、史実的には終戦まで「オルテラ」号の居場所を英軍は把握できなかった。

上に貼ったポスターでは伊海軍のウォーモ・ラーナ部隊によって空母が撃沈されているが、ジブラルタルで空母は撃沈されていない。

 

いかがだっただろうか?

是非皆さんにもイタリア戦争映画を見て、「イタリア軍って実際こんな感じだったのか」という感じを体験して欲しい。

他にも面白そうな映画を見つけたらどんどん紹介していきたいと思う。ではまた。