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イタリア海軍の「魔改造」  ー旧式戦艦の大改装と商船改造空母ー

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イタリア海軍の「魔改造

第二次世界大戦時のイタリア海軍は世界第4位の規模と実力を持ち、欧州における枢軸国最強の海軍であった。しかし、その一方でイタリアは他列強のような工業の効率化が思うように進まず、仮想敵であるフランスにも及ばなかった。現在でこそ欧州随一の工業地帯を有し、欧州の軍事産業を牽引する北イタリアであるが、当時はそこまで発展していなかった。まぁ、南イタリアに比べれば工業化されていたが。
その結果、艦隊の増強に関しても、工業生産力の不足ゆえに、大型艦に関しては一から新造艦を作るのではなく、既存の艦船を大規模改装するやり方がしばしば取られた。戦争準備を進める上では新型建造は中型・小型艦が優先され、コストが掛かる大型艦は資材・時間を節約するため、一から建造するよりも、大規模な改装の方が効率的だったからだ。
そんなイタリア海軍の苦渋の選択としての大規模改装だが、その改装っぷりは他国のそれとは一線を凌駕する徹底的なものであり、改装前と改装後では面影すら残さない程であった。新造艦と見違える程の「魔改造」からもイタリアの建艦能力の高さが窺える。
今回は、そのイタリア海軍の「魔改造」の代表格とも言える、旧式戦艦(コンテ・ディ・カヴール級およびカイオ・ドゥイリオ級)の近代化改装と、商船改造空母(「アクィラ」及び「スパルヴィエロ」)の事例を紹介したいと思う。

 

⬛︎旧式戦艦の大改装
第一次世界大戦後、成立したムッソリーニ政権は、地中海の制海権を手に入れ「新ローマ帝国」の創設を目指した。この野望のためには艦隊の増強は不可欠であり、その膨張政策に伴い海軍予算も増えていき、海軍は旧式化した艦艇の刷新と新造艦の建造を進めることが出来るようになった。しかし、国際情勢の著しい変化により、イタリア海軍が一から主力艦を建造するには時間も資材も工業生産力も足りなかった第一の仮想敵であるフランス海軍は新造戦艦のダンケルク級を1932年に起工したが、イタリア海軍には第一次世界大戦時の旧型戦艦であるコンテ・ディ・カヴール級2隻(3隻が建造されたが、3番艦の「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は第一次世界大戦時に戦没した)とカイオ・ドゥイリオ級2隻のみであり、既に旧式化が否めなかったのである。イタリア海軍はこれに対抗するため、新造戦艦としてリットリオ級戦艦4隻(「リットリオ」「ヴィットリオ・ヴェネト」「ローマ」及び「インペロ」)の建造を進める一方で、旧式戦艦であるコンテ・ディ・カヴール級2隻及びカイオ・ドゥイリオ級2隻に対して急遽近代化改装を施し、主力戦艦8隻体制によって地中海の制海権掌握を狙ったのであった。


◆コンテ・ディ・カヴール級戦艦

■新造艦と見間違う大規模な近代化改装

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近代化改装後の戦艦「コンテ・ディ・カヴール」

一連の主力艦隊増強プロジェクトで最初に着手されたのが、当時就役していたイタリア戦艦の中で最も旧式であったコンテ・ディ・カヴール級2隻の近代化改装であった。コンテ・ディ・カヴール級は1番艦の「コンテ・ディ・カヴール」2番艦の「ジュリオ・チェーザレ、そして3番艦の「レオナルド・ダ・ヴィンチで構成されていたが、3番艦の「レオナルド」は先述した通り、第一次世界大戦時に戦没(ターラント軍港にて爆沈)して失われたために、「カヴール」と「チェーザレ」の2隻のみが戦後も生き残った。
2隻の近代化改装プロジェクトはフランチェスコ・ロトゥンディ技術中将(Francesco Rotundi)によって提案され、リットリオ級4隻の中継ぎとしてコンテ・ディ・カヴール級2隻の近代化改装が行われた。ネームシップである「コンテ・ディ・カヴール」は元々1910年8月に起工され、1915年4月に就役した。満載排水量は25,086トンで、全長は168.9m速力は21.5ノットと低速である。一方の2番艦である「ジュリオ・チェーザレ1910年6月に起工され、「カヴール」より早い1914年6月に就役した。満載排水量は「カヴール」と同じ25,086トンだが、全長は僅かに大きく176.1mである。速力は「カヴール」同様に21.5ノットと低速であった。「カヴール」と「チェーザレ」は共に第一次世界大戦時はイタリア主力戦艦の1隻として参加し、「カヴール」はアブルッツィ侯(軽巡の艦名の由来になったドゥーカ・デッリ・アブルッツィ)率いる主力艦隊の旗艦として栄光の戦歴を歩んでいる。

さて、コンテ・ディ・カヴール級2隻の改装で最も注目したいのは機関の変更である。当然、21.5ノットという低速では他列強の新戦艦に対抗することは出来ないため、主力艦隊に追従するためにもリットリオ級の30ノットに近い高速能力は欲しいと考えられた。燃料が石炭と重油の混合から重油に統一し、機関の変更によって馬力は従来の3倍を発揮、その結果速力は28ノットにまで向上し、イタリア海軍の柔軟な艦隊運用を可能としたのであった。

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改装前のコンテ・ディ・カヴール級戦艦。左が1番艦の「コンテ・ディ・カヴール」、右が2番艦の「ジュリオ・チェーザレ」である。

一方、防御に関しては新たに新型の「プリエーゼ式水雷防御システム」が導入された。ウンベルト・プリエーゼ造船大将(Umberto Pugliese)によって考案されたこの構造は複雑であるが画期的な水雷防御システムである。日本ではターラント港空襲時の「カヴール」の甚大な被害によって過小評価されつつあるが(というか古い認識が刷新されていない)、これは港湾内という水深が浅い環境故に雷撃の威力が増幅されたことと、プリエーゼ式水雷防御の範囲外である船底に攻撃を食らったことが原因であり、プリエーゼ式水雷防御システム自体の「欠陥」とは言えない。実際、実戦ではプリエーゼ式水雷防御システムは正常に効果を発揮し、特にリットリオ級は度々戦場で雷撃を受けているが、ダメージを軽減して自力の航行で帰港しているため、プリエーゼ式水雷防御は効果的な防御システムであったと評価出来るだろう。ただ、構造が複雑なためコストは掛かった

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コンテ・ディ・カヴール級戦艦に搭載されたIMAM Ro.43水偵。第二次世界大戦時の標準的なイタリア海軍の水上偵察機で、その汎用性と信頼性の高さから大戦期を通じて使用されている。派生として第二次世界大戦時のイタリアの主力水上戦闘機として使われたIMAM Ro.44水上戦闘機がある。ヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館にて、筆者撮影。

武装に関しては改装前は46口径305mm三連装砲が3基に加え、同連装砲が2基50口径120mm単装砲18基50口径76mm単装砲が22基を装備。更に450mm魚雷発射管を3基装備していた(この頃の戦艦には魚雷が搭載されたケースは珍しいものではなかった)。これが改修後は44口径320mm三連装砲2基及び同連装砲2基50口径120mm連装砲6基47口径100mm連装高角砲4基54口径37mm連装機関砲4基65口径20mm連装機関砲6基に変更され、更に魚雷発射管は撤去された。また、艦載偵察機としてIMAM Ro.43水偵が4機搭載され、国産のカタパルトを搭載し、カタパルト発進して水上偵察を担当している。
改装によって船体は大型化したが、高速性能を発揮するための形状に改装された。改修前の満載排水量が25,086トンだったのに対し、改修後は29,100トンまで増加。全長も改装前は「カヴール」は168.9m、「チェーザレ」は176.1mだったが、改装後は2隻とも186.4mにまで増えている。

 

■改装後のコンテ・ディ・カヴール級の戦歴

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近代化改装後の戦艦「ジュリオ・チェーザレ

こうして、コンテ・ディ・カヴール級は対抗するダンケルク級の就役に間に合わせる形で1937年6月に改装を終えて再就役を果たした。コンテ・ディ・カヴール級の改修終了と入れ替わる形でカイオ・ドゥイリオ級2隻の近代化改装が開始されたため、第二次世界大戦のイタリア参戦時(1940年6月)に至るまで、イタリア海軍で行動可能な主力戦艦2隻としてコンテ・ディ・カヴール級は機能している(参戦時点でリットリオ級2隻は竣工していたが、戦闘準備が整っていなかった)。そもそも、イタリア海軍は参戦が最短でも1942年頃と見越していたため、準備が整っていなかったのは当然と言えよう。
近代化改装を終えたコンテ・ディ・カヴール級は、早速1938年5月のナポリ沖の観艦式でお披露目となった。改修前の姿とは全く異なる外見の徹底的な近代化改装は、まるで新造戦艦と見違えるほどの「魔改造」であった。イタリア海軍特有の苦しい事情があったとはいえ、この「魔改造」からもイタリアの造船技術の高さが伺えるだろう。この観艦式にはイタリアに来訪したヒトラーも見学に参加し、この時、戦艦「コンテ・ディ・カヴール」には国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世ムッソリーニ統帥と共にヒトラーも乗艦している
ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が開戦すると、イタリアは当初は中立を宣言したが、ドイツ軍が英仏軍を圧倒(しているように見えた)すると、1940年6月にムッソリーニは英仏に宣戦布告し、準備不足のままイタリアは第二次世界大戦に参戦することになった。イタリアの参戦時点で、新造戦艦であるリットリオ級の「リットリオ」及び「ヴィットリオ・ヴェネト」は竣工はしていたが、出撃準備は整っておらず、出撃可能なイタリア海軍の戦艦はコンテ・ディ・カヴール級2隻に限られた

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イニーゴ・カンピオーニ提督(Inigo Campioni)。第二次世界大戦初期のイタリア主力艦隊の司令長官を務め、プンタ・スティーロ海戦やテウラダ岬沖海戦などの主要な海戦を指揮した。プンタ・スティーロ海戦の勝利により、「イタリア軍最高の名誉」であるサヴォイア軍事勲章を叙勲されている人物であるが、それと同時にサヴォイア軍事勲章と並ぶ「イタリア軍最高の名誉」とされる金勲章(メダリア・ドロ)を叙勲された最高齢の人物としても知られた。サヴォイア軍事勲章と金勲章を共に叙勲された軍人は珍しく、他の代表例としてはアレクサンドリア軍港襲撃の武勲で知られる「デチマ・マス」のユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ中佐(Junio Valerio Borghese)がいる。

イタリア第一艦隊司令長官イニーゴ・カンピオーニ提督(Inigo Campioni)はコンテ・ディ・カヴール級2番艦であるジュリオ・チェーザレ」を旗艦とし、僚艦の「コンテ・ディ・カヴール」も第一艦隊に所属した。6月末にフランスが降伏して地中海戦線が伊英両海軍の戦場に変化、7月には地中海戦線初の大規模海戦である「プンタ・スティーロ海戦(英語名ではカラブリア沖海戦)」が発生し、これに「ジュリオ・チェーザレ」及び「コンテ・ディ・カヴール」は参加した。旗艦「チェーザレ」の44口径320mm三連装砲の一斉射撃によって、英艦隊の駆逐艦「ヘレワード」及び駆逐艦「デコイ」が小破したが、チェーザレ」も敵艦隊旗艦である英戦艦「ウォースパイト」の砲撃が機関室に直撃するという被害を受けた。イタリア海軍側は既に船団輸送任務を成功させていた上に、英艦隊のマルタ到達を阻止したことから海戦自体はイタリアの戦略的勝利(ムッソリーニはこれを一大勝利として称えた)で終わったが、「チェーザレ」は海戦での損害からラ・スペツィア軍港で翌月の1940年8月までドッグ入りしている。なお、「プンタ・スティーロ海戦」の戦闘の様子はロベルト・ロッセリーニ監督の映画『白い船(La Nave Bianca)』にて詳細に描かれているので、気になる人は是非見て欲しい。近日中に日本語字幕版のDVDが発売するので、丁度良い機会だろう。なお、映画に登場する戦艦はコンテ・ディ・カヴール級の2隻ではなく、リットリオ級の2隻である。

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ターラント軍港内で沈んだ「コンテ・ディ・カヴール」。浮揚・修復されたが、戦列に復帰することはなかったため、事実上の喪失として扱われている。

その後も伊英海軍の地中海の内外での戦いは一進一退の状況であったが、1940年11月11日深夜から翌朝早朝に掛けて、英海軍は大胆にも空母艦載機によるターラント軍港への直接攻撃を実行。このターラント港空襲」によって、ターラント港に集結していた主力戦艦6隻の内3隻が被害を受け、「カヴール」「リットリオ」「ドゥイリオ」の3隻が大破してしまった。この結果、地中海の制海権は大きく英海軍側に傾くこととなった。「リットリオ」及び「ドゥイリオ」はその後修復されて戦列に復帰したが、「カヴール」は被害が甚大であったことから、修復と同時に再度の大規模な近代化改装が行われることになり、国産電探(レーダー)の設置を含む対空兵装の改装トリエステ海軍工廠で行われた。ターラント空襲の苦い経験を克服するための改装であったが、往々にして他の軍艦の建造や修復が優先されたために改装は遅れがちになり、結局1943年9月の休戦まで「カヴール」の修復は終わることはなかった。そのため、「カヴール」は第一次世界大戦時の輝かしい戦歴とは対照的に、第二次世界大戦時では目立った戦果を挙げられないままにその戦歴を終えることになったのである。休戦後、「カヴール」はドイツ軍に鹵獲された後、1945年2月の連合軍によるトリエステ空襲によって転覆、戦後に浮揚され、スクラップとして解体された。
一方の2番艦「チェーザレ」はターラント空襲で無傷であったことから、その後も主力戦艦の1隻として活躍した。ターラント空襲の結果、被害を受けなかった主力戦艦3隻(「チェーザレ」「ヴィットリオ・ヴェネト」「アンドレア・ドーリア」)はナポリ軍港に移されたが、ターラント空襲から一週間も経たない11月17日には、「チェーザレ」と「ヴィットリオ・ヴェネト」を主軸とする主力艦隊は英海軍のマルタ救援作戦「ホワイト」を迎撃し、この航空機輸送作戦を頓挫させることに成功した。英海軍は航空機14機の内9機を失う大損害を被っている。こうして、ターラント空襲の結果愉悦に浸っていた英海軍の出鼻を挫くことに成功した。
更に10日後の11月27日には「チェーザレ」を旗艦とするイタリア主力艦隊はマルタ輸送船団を護衛する英主力艦隊を迎撃し、交戦した。「テウラダ岬沖海戦」と呼ばれるこの海戦(「スパルティヴェント岬沖海戦とも呼ばれる」)は両艦隊の痛み分けに終わったが、イタリア海軍は未だ地中海における一大脅威であると英海軍に認識させるには十分な戦果を挙げている。テウラダ岬沖海戦後、旗艦は「チェーザレ」から「ヴィットリオ・ヴェネト」に変更されたが、主力戦艦の一隻としての立場は変わらなかった。
その後も英海軍のマルタ船団襲撃に他の主力戦艦と共に駆り出されている。1941年1月の英軍によるナポリ空襲で損害を受け2月までラ・スペツィア軍港で修復を受けた後、復帰直後に英海軍のジェノヴァ砲撃迎撃に参加した。1941年12月の第一次シルテ湾海戦ではチェーザレ」は戦艦「ドーリア」と共に主砲斉射によって、英駆逐艦キプリング」の甲板に攻撃を加え、中破させることに成功し、自軍の護衛対象であるリビア輸送船団を無事送り届けている1942年1月には再度リビア船団の輸送船団に参加したが、その後は燃料不足により戦闘任務としての出撃は制限されることになり、終戦までポーラ軍港での訓練任務に従事することになった。

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ソ連海軍の賠償艦として引き渡され、戦艦「ノヴォロシースク」として就役した戦後の「ジュリオ・チェーザレ」。ソ連海軍の軍艦機が艦首に確認できる。

1943年9月のイタリア王国の休戦時に、「チェーザレ」では休戦に反対して士官らの「叛乱」が発生したことで知られている。叛乱だけでなく、艦隊の降伏に対して絶望して自害する士官もいた。まるで映画『日本のいちばん長い日』のような惨状だったことは容易に想像が出来る。「チェーザレ」のヴィットーリオ・カルミナーティ艦長(Vittorio Carminati)の機転によってこの「叛乱」は鎮圧され、叛乱を主導した士官らは軍事裁判を受けて逮捕された(とはいえ、判決は軽く、その後海軍に復帰した)。結局、王の命令に従い、マルタにて連合軍に降伏した「チェーザレ」は連合軍によってエジプトのグレートビター湖に係留され、戦後はイタリア戦艦を求めるソ連海軍に賠償艦として引き渡されることになったのであった。
1949年2月、「チェーザレ」はソ連戦艦「ノヴォロシースク」と改称され、黒海艦隊に配属となった。しかし、1955年10月に謎の爆沈(イタリア海軍による破壊工作という説もある)を遂げ、その波乱な生涯を閉じたのであった。


◆カイオ・ドゥイリオ級戦艦

■二番目の近代化改装

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近代化改装後の戦艦「カイオ・ドゥイリオ」

コンテ・ディ・カヴール級2隻に次いで近代化改装が実行された戦艦が、カイオ・ドゥイリオ級の2隻であった。カイオ・ドゥイリオ級は1番艦の「カイオ・ドゥイリオ」2番艦の「アンドレア・ドーリアで構成された。カイオ・ドゥイリオ級は近代化改装が完了したコンテ・ディ・カヴール級と入れ替わる形で改装が開始され、フランチェスコ・ロトゥンディ技術中将の主導で近代化改装が行われている。カイオ・ドゥイリオ級2隻もリットリオ級4隻が竣工するまでの中継ぎとしての役目であった。
カイオ・ドゥイリオ級はコンテ・ディ・カヴール級の次級として第一次世界大戦中に就役した戦艦である。ネームシップである「カイオ・ドゥイリオ」は1912年2月に起工され、1915年5月に竣工2番艦の「アンドレア・ドーリア」は1912年3月に起工され、1916年6月に竣工した。第一次世界大戦時にはイタリア最新鋭の戦艦であったが、大戦中はさしたる活躍はせずに終戦を迎えている。アドリア海での戦いは小型艦が中心であったため、仕方がないかもしれない。
カイオ・ドゥイリオ級の2隻もコンテ・ディ・カヴール級の2隻同様に主力艦隊への随伴が出来る高速能力が求められた。元々の機関は21.5ノットと低速であったが、改装後は27ノットの高速能力を手に入れた。

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近代化改装前のカイオ・ドゥイリオ級戦艦。左が1番艦の「カイオ・ドゥイリオ」、右が2番艦の「アンドレア・ドーリア」。

武装に関して見てみよう。改装前の主砲は46口径305mm三連装砲が3基に加え、同連装砲が2基とコンテ・ディ・カヴール級の2隻と同じである。45口径152mm単装砲16門45口径76mm単装砲19門40口径76mm単装砲6門39口径40mm機関砲2門に加え、450mm魚雷発射管が3基が搭載された。改装後は44口径320mm三連装砲2基及び同連装砲2基45口径135mm三連装砲4基50口径90mm高角単装砲10基54口径37mm連装機関砲6基及び同単装機関砲3基65口径20mm二連装対空機関砲8基に変更され、魚雷発射管は撤去された。なお、アンドレア・ドーリア」に搭載されていた50口径90mm高角単装砲は現在もミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館にて展示されているため、実物を見に行くことが可能である。防御システムに関してはコンテ・ディ・カヴール級やリットリオ級と同様にプリエーゼ式水雷防御システムを搭載した。
改装によって船体は大型化し、満載排水量は改修前が25,200トンであったのに対し、改修後は29,000トンに増加全長は改修前が176.1mであったが、改修後は186.9mとなっている。

■カイオ・ドゥイリオ級の戦歴

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近代化改装後の戦艦「アンドレア・ドーリア

カイオ・ドゥイリオ級の戦歴を見てみよう。コンテ・ディ・カヴール級の近代化改装の終了に交代する形で、カイオ・ドゥイリオ級は1937年4月に近代化改装を開始した。しかし、改装の終了は第二次世界大戦には間に合わず、イタリアが参戦した後に戦列に復帰することになった。1番艦の「ドゥイリオ」は1940年7月に再就役し、2番艦の「ドーリア」は更に遅れて1940年10月に再就役している。再就役後、「ドゥイリオ」はカルロ・ベルガミーニ提督(Carlo Bergamini)率いる第五戦艦戦隊の旗艦となり、遅れて就役したドーリア」も再就役後は同戦隊所属となった。「ドゥイリオ」及び「ドーリア」はイタリアの主力戦艦の1隻として、英船団の迎撃や自軍輸送船団の護衛に駆り出された
「ドゥイリオ」は就役後、1940年8月にはアンジェロ・イアキーノ提督(Angelo Iachino)率いる主力艦隊と共に英海軍のマルタ輸送作戦「ハッツ」の迎撃に参加している。9月にも「ドゥイリオ」は英主力艦隊の迎撃に出撃し、西地中海に進出した。その後、10月には「ドーリア」が再就役し、第五戦艦戦隊に所属。戦力を追加された第五戦艦戦隊はギリシャ作戦の開始に伴い、東地中海に睨みを利かせるためにターラント軍港に他の主力艦と共に集結した。

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戦艦「アンドレア・ドーリア」の50口径90mm高角単装砲。ミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館にて。筆者撮影。

しかし、1940年11月11日深夜から12日早朝に掛けて、英空母搭載機がターラント軍港を襲撃し(「ターラント空襲」)、ドーリア」は無傷であったが、「ドゥイリオ」は魚雷を受けて大破する事態になった。この被害によって、「ドゥイリオ」は翌年1941年の5月まで修復することになり、行動不能に陥った。一方の「ドーリア」はターラント空襲を無傷で乗り切ったため、残存の主力艦と共にナポリ軍港に移った。ホワイト作戦やテウラダ岬沖海戦で「チェーザレ」及び「ヴィットリオ・ヴェネト」が迎撃に出撃する中、ドーリア」は母港の留守を守る役割を果たしている。
テウラダ岬沖海戦後、海軍首脳部が再編されたことにより、第五戦艦戦隊も再編され、「ドーリア」に加えて「チェーザレ」が第五戦艦戦隊の所属になっている。その後ドーリア」は英海軍のマルタ船団の迎撃に駆り出され、1941年1月にはエクセス作戦迎撃に参加。続いて、2月にはジェノヴァ砲撃作戦の迎撃任務にも従事している。

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カルロ・ベルガミーニ提督(Carlo Bergamini)。「ドゥイリオ」を旗艦とする第五戦艦戦隊の司令官で、船団護衛任務を中心とする数々の作戦を指揮した。一般的には休戦時のイタリア主力艦隊司令長官として知られ、リットリオ級戦艦「ローマ」と共に運命を共にしたことで知られる。昨日までの友軍であるドイツ軍に殺されたベルガミーニ提督であるが、彼自身も艦隊を連合軍に降伏させることは内心では反対しており、艦隊を連合軍に降伏させるのではなく、中立国の港に避難させるか、「名誉のため」に自沈する決意をしていた。

5月には「ドゥイリオ」がターラント空襲で受けた損害を回復し、第五戦艦戦隊に復帰。11月には「ドゥイリオ」を旗艦とし、軽巡1隻及び駆逐艦6隻で構成された護衛艦隊が輸送船団の護衛任務に従事し、リビアに船団を無事送り届けた。12月には再度大規模船団が編成され、「ドゥイリオ」及び「ドーリア」はイアキーノ提督率いる主力艦隊と共にリビアへの船団護衛任務に従事した。「ドゥイリオ」は輸送船団の直接護衛を担当し、「ドーリア」はその他の主力戦艦と共に先行する間接護衛艦隊に所属した。
この輸送作戦の際、シルテ湾でヴァイアン提督率いる英艦隊と遭遇し、第一次シルテ湾海戦が発生した。海戦では「ドゥイリオ」率いる直接護衛艦隊は船団の護衛を担当し、「ドーリア」を含む間接護衛艦隊が英艦隊との交戦を担当した。この海戦ではドーリア」が「チェーザレ」と共に英駆逐艦キプリング」に主砲斉射を命中させ、中破させることに成功している。英艦隊の撃退に成功したイタリア主力艦隊はリビア船団を無傷で送り届けることに成功したのであった。
「ドゥイリオ」及び「ドーリア」は、1942年1月初旬にリビアへの船団護衛任務を実行し、更に同月末にもリビア船団の護衛に従事した。いずれも船団を無傷で北アフリカまで輸送することに成功している。2月中旬には「ドゥイリオ」は英海軍のマルタ救援船団の迎撃に出撃し、船団を撃退して英海軍の作戦を頓挫させることに成功している。更には同月末にギリシャ方面とシチリアからの輸送船団の護衛に従事し、ターラントまで無事に送り届けた。
船団護衛を中心とする数々の作戦に参加した第五戦艦戦隊の「ドゥイリオ」と「ドーリア」であったが、燃料の不足によって「チェーザレ」と同様に出撃は抑制されることになり、ターラント軍港における訓練任務に従事している。しかし、連合軍がイタリア半島に迫ってくると、戦闘任務に復帰し、ベルガミーニ提督の後任として第五戦艦戦隊の司令官に就任したアルベルト・ダ・ザーラ提督(Alberto Da Zara)の指揮の下、ターラント軍港の防衛の要として作戦に従事、連合軍のイタリア侵攻に備えた
1943年9月の休戦を迎えたことにより、カイオ・ドゥイリオ級の2隻は他の主力艦と共にマルタで連合軍に降伏したが、他の主力艦とは異なりエジプトで抑留されず、マルタに留まった後、1944年6月には連合国側がカイオ・ドゥイリオ級の2隻をイタリアの港に戻ることを許可したため、戦争の残りの期間を南イタリアの海で過ごした。
波乱の戦争を終えたカイオ・ドゥイリオ級2隻であったが、旧式戦艦だったこともあり、1947年の講和条約でも連合国側の賠償艦に割り当てられることはなく、戦後もイタリア海軍に所属することが許された戦後は砲術訓練艦として使用された後、1956年に2隻とも除籍され、スクラップとして解体されたのであった。


⬛︎商船改造空母

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イタロ・バルボ空軍元帥(Italo Balbo)。イタリア史上唯一の空軍元帥であり、「イタリア空軍の父」としてイタリア空軍の威信を世界に示した空軍の英雄。しかし、航空戦力の独占を進めたため、海軍に対しては空母保有を断固反対するだけでなく、有力な海軍航空隊すらも保有させなかった。空軍にとっては英雄であっても、海軍にとっては海軍航空隊を壊滅させた張本人である。

第一次世界大戦前から戦間期に掛けてイタリアは世界的に見ても航空先進国として知られ、世界で初めて戦争に航空機を投入したのは伊土戦争時のイタリア軍だった。航空史において多大な功績を残したイタリアだが、それにもかかわらず、第二次世界大戦時にはドイツやソ連と共に空母を持たない主要国の一角であった。
しかし、第一次世界大戦時のイタリア海軍は多くの航空戦力を擁し、水上機母艦から発進した水上戦闘機が数多くの敵機を撃墜するなど戦果を挙げたジブリ映画『紅の豚』の主人公であるポルコも、第一次世界大戦時は海軍航空隊のエースパイロットという設定である)。
だが、そんな栄光のイタリア海軍航空隊も、ファシスト政権期には一変する。イタリア空軍が独立したからである。イタロ・バルボ空相(Italo Balbo, イタリア唯一の空軍元帥)率いるイタリア空軍は陸軍航空隊を前身としたが、航空戦力の独占を掲げ、海軍航空隊を吸収したのであった。バルボは政府内でも屈指の実力者であり、ムッソリーニも空軍贔屓であったため、海軍は冷遇されたのであった。まさに、ドイツにおけるゲーリング率いる空軍とヒトラーの関係によく似ていると言えよう。ファシストナチスの独裁者にとって空母というものは相性が悪いのかもしれない。
海軍航空隊は以前の1/10の規模まで縮小された上に、旧式機ばかりしか残されず、空母の建造計画を提案しようものなら、空軍の激しい反対に遭って計画は頓挫した。空軍としては地中海の中心に位置するイタリア半島は「不沈空母」であるから、イタリア海軍が地中海で活動する限り、海軍が空母を持つ必要は全くない、というスタンスであった(そもそも第二次世界大戦ではイタリア海軍は大戦初期から大西洋やインド洋など空軍の管轄外でも活動しているのだが...)。
だが、その一方でドメニコ・カヴァニャーリ参謀長(Domenico Cavagnari)率いる海軍側も健気にも空母の建造計画をあの手この手で計画し続けたどれもペーパープランのみで実現はしなかったものの、コスト削減のための双胴空母など、中々興味深い設計計画は多い

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ジュゼッペ・ヴァッレ空軍大将(Giuseppe Valle)。1933年から1939年まで空軍参謀長を務めた。バルボ空相の右腕として数々の空軍イヴェントを開催し、イタリア空軍の威信を世界に示した一方で、強硬的なバルボとは対照的に地中海戦略において海軍の必要性を認識し、空母建造や海軍航空隊の拡充に対して柔軟な対応を行った。

第二次世界大戦に近づくに連れて空母の有用性が再認識され、更に空軍参謀長に海軍の航空戦略に寛容なジュゼッペ・ヴァッレ空軍大将(Giuseppe Valle)が就任してからは、状況が変化していったが、結局国際情勢の著しい変化により、大戦勃発までに空母を建造することはなかった
イタリア海軍が空母建造に本格的に着手するのは第二次世界大戦が開戦してからである。ターラント空襲やマタパン岬沖の大敗で英海軍の空母の威力を見せつけられたイタリア海軍は、空母の有用性を再確認することになり(流石のムッソリーニもこれらの結果により「イタリア半島不沈空母論」を放棄している)、一からの建造では間に合わないため、従来から計画されていた商船改造空母計画を進めることになったのであった。
また、空軍はあれ程自信に満ち溢れていたにもかかわらず、実戦では海軍との連携を全く取れず、プンタ・スティーロ海戦では航空支援に間に合わないばかりか、帰路のイタリア主力艦隊に対して誤爆する有様であった。スペイン内戦で敵主力艦を撃沈した戦訓から艦船攻撃に水平爆撃を採用していたことも、戦果を減らす要因になった(しかし、その後雷撃機や急降下爆撃機の導入により多くの戦果を挙げられるように改善された)。これらの空軍の不手際が海軍の空母建造を決意させたと言えよう。また、空母建造に激しく反対していたバルボ空軍元帥が1940年6月末に味方からの誤射で戦死し、空母建造の障害が取り除かれたことも大きかっただろう。
こうして建造されたのが、同型の豪華客船「ローマ」及び「アウグストゥス」を改造した、空母「アクィラ」及び「スパルヴィエロ」である。残念ながら完成間近の状況でイタリア王国は突如休戦したため未完に終わったが、同じ設計の客船(姉妹艦同士)を改造した商船改造空母にもかかわらず、全く異なる見た目になった点は非常に興味深い。
もっとも、例え完成したとしても、連合軍に完全に制海権を握られた1943年中盤以降の地中海戦線ではロクに活躍も出来なかったと思われるが...


◆空母「アクィラ」

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終戦後の空母「アクィラ」。

第二次世界大戦のイタリア参戦後、当初は戦力が拮抗状態にあった伊英海軍だが、ターラント空襲に引き続き、テウラダ岬沖海戦でも英空母の機動的攻撃力を認めざるを得なかったカヴァニャーリ海軍参謀長は以前より計画していた客船「コンテ・ディ・サヴォイア」の空母改造計画をムッソリーニに進言したが、一連の敗北の責任を取る形でカヴァニャーリ提督は海軍参謀長の地位を更迭されたために、この計画案は頓挫した。
後任として海軍参謀長に就任したアルトゥーロ・リッカルディ海軍大将(Arturo Liccardi)はカヴァニャーリより柔軟に空母建造計画に対処した。リッカルディ参謀長はこれまで進められていた諸案をまとめ、客船「ローマ」及びその姉妹船である「アウグストゥス」の2隻の空母への改造案に絞った。このうち、「ローマ」を空母に改造したものが「アクィラ」である。

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空母「アクィラ」の前身となった、客船「ローマ」。1939年時には客船としての近代化改装も予定されていた。

「アクィラ」及び「スパルヴィエロ」の改装工事はマタパン岬沖海戦で「艦隊防空戦力の欠如」を深く認識したため、急速に建造が進められれことになったが、「アクィラ」の改装は1936年の緊急改造案を踏襲した「スパルヴィエロ」とは異なり、一から建造した空母に見違える程の徹底された改造であった。
まず、機関は建造中止となった2隻のカピターニ・ロマーニ級高速軽巡「パオロ・エミーリオ」及び「コルネリオ・シッラ」のものを流用した。なお、余った「コルネリオ・シッラ」の船体は空母に偽装されて、連合軍の爆撃のオトリとして使われた。実際、連合軍は「シッラ」を軽空母と誤認しており、連合軍側を欺くことに成功している。カピターニ・ロマーニ級は実に40ノットを超える高速を発揮した軽巡洋艦であり、その心臓部ともいえる機関2隻分を「アクィラ」は搭載することになった。これにより、客船「ローマ」時代は22ノットであった速力は30ノットにまで向上し、主力艦隊の随伴艦としても申し分ないスペックを発揮したのである。

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空中から撮影された空母「アクィラ」。ドイツ製のカタパルト2基が甲板上に見える。

航空艤装に関してはドイツ海軍からの支援により、国産カタパルトを装備するリットリオ級戦艦や「スパルヴィエロ」とは異なり、ドイツ製カタパルトが2基、艦種部に設けられたドイツ製の部品をいくつか用いたことにより、同じく未完で終わった空母「グラーフ・ツェッペリン」に設計が似ている。これは、ドイツ海軍は既に「グラーフ・ツェッペリン」の工事を中止しており、空母への興味を失っていたため、建造中止になった二番艦の「ペーター・シュトラッサー」の艤装品がイタリアに贈られたためである。
「アクィラ」の搭載機はレッジャーネ Re.2001OR戦闘爆撃機で、搭載数は51機であった。FIAT社のG.50も計画されたが、性能的にリットリオ級に搭載されていたレッジャーネRe.2000にも劣っていたため、Re.2001との比較審査で敗れてしまったRe.2001はRe.2000を上回る高性能を誇り、更に艦隊防空用の迎撃機としてのみならず、艦上攻撃機としても使用可能で、敵艦隊に対して爆撃及び雷撃も実施できるマルチロール機体として期待されたのであった。このため、搭載機は全て単一の機体のみで占められた折り畳み翼を採用すれば搭載数は15機増えて総計66機が搭載できるはずであったが、結局折り畳み翼は間に合わず、搭載数は51機のままであった。また、国産ヘリコプターのピアッジオ PD3も試験運用されたが、採用はされずに終わっている。なお、海軍艦艇の搭載機のパイロットは全て空軍所属となっている。

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空母「アクィラ」に搭載されていた64口径65mm単装高角砲。ラ・スペツィア海軍技術博物館にて、筆者撮影。

アイランド式空母として正規空母並みの見た目となった「アクィラ」は満載排水量27,800トン、全長は235.5mであった。兵装は45口径135mm単装砲8門、64口径65mm単装高角砲12門、65口径20mm六連装機銃が22基である。このうち、64口径65mm単装高角砲は戦後の解体時に外されたものが、ラ・スペツィアの海軍技術博物館にて展示されており、実物を見ることが可能だ。
「アクィラ」の改装が開始されたのはマタパン岬沖海戦後の1941年7月である。空母の航空隊としては空軍の第160航空隊の第393, 394, 375中隊が担当することになっており、訓練が1943年から開始された。これらの部隊はサルデーニャ島北部のオルビア・ヴェナフィオリータ基地所属の部隊である。順調に建造が進められていた「アクィラ」であったが、完成率が99%と完成間近のところで1943年9月に休戦を迎えた突如の休戦を迎えた「アクィラ」はドイツ軍によるジェノヴァ制圧により、ドイツ海軍に接収されることになった。
救出されたムッソリーニが北部・中部イタリアを支配する「イタリア社会共和国(RSI政権)」を誕生すると、潜水艦隊司令長官のアントニオ・レニャーニ提督(Antonio Legnani)、海軍最高司令部(スーペルマリーナ)のジュゼッペ・スパルツァーニ提督(Giuseppe Sparzani)、「デチマ・マス」のユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ中佐(Junio Valerio Borghese)らを中核としてRSI海軍(MNR)が発足「アクィラ」は未完成ながら形式上はこの新生ファシスト海軍の所属となった。
しかし、「アクィラ」の建造は以後も進められることはなく、作戦行動に出ることはなかった本来の計画では1943年9月に海上公試が行われる予定であったが、休戦の混乱で頓挫し、空母航空隊も解散した。1944年6月の連合軍によるジェノヴァ空襲を受けて「アクィラ」は損害を受け、更に1945年4月には共同交戦海軍(連合国側の「共同交戦国」として戦う王立イタリア海軍)の旧「デチマ・マス」隊員で構成された特殊部隊「マリアッサルト」の人間魚雷部隊の襲撃を受け、「アクィラ」は大破着底終戦時にはまだ浮いていたとする資料もある)する被害を受けたのであった。イタリア初の空母は、同胞の手によって撃破されるという哀れな末路を辿った
最終的に、戦後の1946年に浮揚され、1949年にラ・スペツィアに移動、客船「ローマ」として再改装するこもと考慮されたが、最終的にコストの高さからこの計画は見送られ、1952年に解体されている。「アクィラ」はドイツの「グラーフ・ツェッペリン」と同様に、完成間近でありながらも未完成で終わった悲しき空母と言えるだろう。

 

◆空母「スパルヴィエロ」

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空母「スパルヴィエロ」

「アクィラ」として改造された「ローマ」と共に、姉妹船の「アウグストゥス」も空母に改造された。それが「スパルヴィエロ」である。客船時代は殆ど違いが無かった2隻だが、「スパルヴィエロ」の設計は「アクィラ」のそれとは大きく異なっていた
設計は1936年時に提案された緊急改造空母案を基本とし、いくつかの改正が施されている。この案は元々エチオピア戦争に伴う世界情勢の変化により立案されたものだが、結局ムッソリーニが現航空兵力で十分に対応可能であると判断したためにお蔵入りになっていたものであった。
アイランド型を採用した「アクィラ」とは異なり、「スパルヴィエロ」はフルフラット空母であり、「アクィラ」のような正規空母並みの大改装ではなく、あくまで客船時代の構造を残す緊急改造となっている。そのため、機関は「アクィラ」とは違って客船時代のままであり、そのため速力は客船時代と変わらず20ノット程度(18ノットとも)と低速であった。防御力を増幅するためにバルジが設けられ、結果として客船時代よりも速力が低下したのである。そのためか「護衛空母」という艦種とされ、低速ゆえに艦隊の随伴艦は難しいことから、船団護衛を担当した。

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「アクィラ」及び「スパルヴィエロ」の搭載機として運用されたレッジャーネ Re.2001OR艦上戦闘爆撃機。基本的には艦隊防空用であるが、いざと言うときは敵艦隊への攻撃も行えるマルチロール機として期待された。空母航空隊の訓練も行われたが、肝心の空母が2隻とも完成しなかったため、結局お蔵入りになった。

搭載機は「アクィラ」と同じレッジャーネRe.2001OR戦闘爆撃機であり、搭載数は35機計画段階ではIMAM Ro.63連絡機も搭載して対潜哨戒も担当したが、戦局が進むに連れて連絡機による対潜作戦は不可能となり、「アクィラ」同様にRe.2001ORのみに絞られている。これ以外にも、16機の艦上戦闘機と共に9機の爆撃機/雷撃機を搭載する案もあったが、機体の選定は未定で終わった
特徴的な設計はその艦首部にある幅約5mの細長い発艦甲板だろう。ここにリットリオ級に装備されていたもの同様の圧縮空気式の国産カタパルト1基が装備され、搭載機を発進させる仕組みになっている。この特異な設計は世界でも類を見ないものである(運用は難しそうだが)。飛行甲板の前後に設けられたエレベーター2基も、飛行機の形をした十字形になっているのも興味深い設計だ。このエレベーターは格納庫と連絡している。

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「スパルヴィエロ」の前身となった客船「アウグストゥス」。「アクィラ」の前身となった「ローマ」とは姉妹船であり、構造は殆ど同じである。

全長は232.5m(216.65mという説も)満載排水量は30,418トン(28,000トン説もある)であり、未完で終わったことから資料によって数値にバラ付きがある。兵装は対空重視で、採用された兵器は基本的に「アクィラ」とほぼ同じであり、45口径135mm単装砲12門、64口径65mm単装高角砲12門、65口径20mm六連装機銃22基となっている。

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ジェノヴァ港にて閉鎖艦として自沈させられた「スパルヴィエロ」。水面から出た艦首部分には、幅約5mの細長い発艦甲板の支柱の残骸が見える。

1942年7月にイタリア海軍に接収された「アウグストゥス」は、空母改造を見据えてまず「ファルコ」と改称された。その後、「スパルヴィエロ」と再度改称され、同年9月から空母への改装工事が開始されている。工事開始時点ではイタリア海軍が地中海の制海権を握っていたが、まもなく同年11月にはトーチ作戦によって米軍を主体とする連合軍が地中海に進出し、北アフリカ戦線は窮地に陥った。この結果、1943年半ばには地中海の制海権は再度連合軍側に渡り、イタリア海軍は燃料の枯渇も重なり、出撃すら困難になっていった。

「スパルヴィエロ」は資材や時間を節約した緊急改装であったが、「アクィラ」の改装に重点が置かれていたこともあり、その工事は遅れがちになっていた。客船時代の上部構造物は撤去され、全体の完成率は60%程度というところで1943年9月、突如の休戦を受け入れることになったのであった。
休戦後、「スパルヴィエロ」は他の残存艦と共にドイツ軍に鹵獲されている。形式上はイタリア社会共和国(RSI)海軍の管轄になった「アクィラ」とは異なり、「スパルヴィエロ」はドイツ軍に鹵獲された後もドイツ海軍籍のままとなり、改装が再開することもなく、1944年10月にジェノヴァ港にて閉鎖艦として自沈させられることになったのであった。こうして、「スパルヴィエロ」は完成することなく、戦後の1947年にイタリア海軍によって浮揚され、1951年にはスクラップとして売却されたのである。

 

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水上機母艦「ジュゼッペ・ミラーリア」。空母2隻が結局完成しなかったため、第二次世界大戦時のイタリア海軍唯一の航空機搭載母艦である。

「アクィラ」及び「スパルヴィエロ」の他にも、重巡ボルツァーノ」を艦隊防空用の航空巡洋艦として改装する案や、リットリオ級戦艦「インペロ」の本格的な空母改装案が存在したが、いずれも計画が進展せずにペーパープランのみで終わることになった。
空母ではなく水上機母艦であるが、「ジュゼッペ・ミラーリア」はイタリア海軍唯一の航空機搭載艦は戦間期第二次世界大戦期を通じて活躍した。元々客船として建造されていた「チッタ・ディ・メッシーナ」を建造途中でイタリア海軍が購入して水上機母艦に改造、1927年11月に竣工。Ro.43水偵やRo.63連絡機を用いた海上偵察/哨戒やRe.2000戦闘爆撃機のカタパルト実験、植民地等各基地への航空機輸送から上陸作戦時の戦車揚陸艦としての役割まで、多種多様な「多機能艦」として活躍した。
戦後は遠征地の将兵の復員に使われた「ジュゼッペ・ミラーリア」だったが、旧式の水上機母艦だったこともあり、講和条約でイタリアが空母の保有が禁止された後(後に冷戦により改訂)もイタリア海軍に所属し、工作艦として使用された。しかし、戦後間もない1950年には除籍され、イタリア海軍唯一の航空機搭載艦はその生涯を終えたのであった。
ちなみに、空母「カヴール」が就役した2008年4月からイタリア海軍は空母保有数でアメリカ海軍に次ぐ世界第2位の地位にあった。しかし、2019年12月に英海軍の空母「プリンス・オブ・ウェールズ」、中国海軍(中国人民解放軍海軍)の空母「山東」が就役したことにより、単独ではなく同率2位になってしまった。

 

◆主要参考文献
・Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori
・Giorgio Giorgerini著 "La guerra italiana sul mare. La Marina tra vittoria e sconfitta 1940-1943", 2002, Mondadori
・B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori
・ Mario Avagliano, Marco Palmieri著 "L'Italia di Salò 1943-1945", 2017, il Mulino
・『世界の艦船』 1961年10月号 No.50号
・瀬名堯彦著『仏独伊 幻の空母建造計画』, 2016,
光人社NF文庫
吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939-1945』, 2006, イカロス出版
吉川和篤著『Viva! 知られざるイタリア軍』.2012, イカロス出版
・Luciano著『La Guida Italiana per gli Appassionati di Storia Militare e i Fascisti ―ミリオタとファシストのためのイタリア旅行ガイド―』, 2018, しまや出版
◆取材協力
ミラノ:「レオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館(Museo Nazionale della Scienza e della Tecnologia "Leonardo da Vinci")」<訪問日時2017/5/12>
ラ・スペツィア:「海軍技術博物館(Museo Tecnico Navale)」<訪問日時2016/2/9,2017/4/15>
ヴェネツィア:「海洋史博物館(Museo Storico Navale)」<訪問日時2016/2/4,2017/6/24,2017/9/3>
ローマ:「軍旗慰霊堂博物館(Museo Sacrario delle Bandiere)」<訪問日時2017/3/31>

ブラッチャーノ:「ヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館(Museo storico dell'Aeronautica Militare di Vigna di Valle)」<訪問日時2018/2/7>
バーリ:「バーリの海外戦没者祈念施設(Sacrario dei caduti d'oltremare di Bari)」<訪問日時2018/1/31>

英軍の夜間奇襲を返り討ち!トブルク防衛の「鉄壁」、ジュゼッペ・ロンバルディ提督の防衛戦術

提督の戦歴シリーズ第四回!今回はトブルク軍港防衛の手腕で知られる名指揮官ジュゼッペ・ロンバルディ(Giuseppe Lombardi)提督の戦歴を見て行こう。ロンバルディ提督は、英軍のコマンド部隊によって綿密に計画された海・陸双方からのトブルク軍港への夜間奇襲作戦「アグリーメント作戦」を迎撃し、巧みな指揮でこれを完膚なきまでに粉砕した戦果で知られている。自軍側の損害は戦死16名・負傷50名で抑えたのに対し、英軍側は軽巡「コヴェントリー」及び駆逐艦2隻(「ズールー」「シーク」)魚雷艇6隻揚陸艦他多数の艦艇を撃沈され、その他殆どの艦艇が損害を受け、上陸部隊に関しては戦死779名捕虜576名という大損害であった。不意打ちに対して冷静に対応し、自軍側の損害を最小限に抑える一方で、敵側には大損害を与えるというイタリア軍を舐めると痛い目に合う」というのを体現した人物と言えよう。

今までの記事はこちら

第一回:アルベルト・ダ・ザーラ提督

associazione.hatenablog.com

 

第二回:フェルディナンド・カサルディ提督

associazione.hatenablog.com

 

第三回:ジョヴァンニ・ガラーティ提督

associazione.hatenablog.com

 

 

◆「鉄壁」の出自と、大戦前半の戦歴

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ジュゼッペ・ロンバルディ提督(Giuseppe Lombardi)

1886年5月11日、ジュゼッペ・ロンバルディはフランス国境に近いピエモンテのドロネーロに三男として生まれた。長男のジャコモはアルピーニ(山岳兵)将校、次男のカルロは騎兵将校となり、ピエモンテ人らしい進路を歩んでいるが、ジュゼッペは海軍士官の道を目指した。1905年に少尉に任官され、海軍士官となった後、伊土戦争に従軍。戦艦「シチリア」に乗艦し、トリポリタニアにおける上陸作戦で活躍、この活躍により銀勲章を叙勲され、中尉に昇進した。
第一次世界大戦では駆逐艦「ストッコ」の副艦長を務め、アドリア海における数々の海軍作戦に従事。この武勲により戦功十字章を叙勲されている。終戦後、海軍少佐に昇進。ムッソリーニ政権成立後、間もなく発生したギリシャとの紛争(コルフ島事件)にて、エミーリオ・ソラーリ海軍大将(Emilio Solari)の指揮の下、コルフ島の上陸を指揮。イタリアの外交的勝利に貢献した。その後は極東や東アフリカ方面など植民地方面での中心に勤務した後、ラ・スペツィア軍港司令官に就任。第二次世界大戦開戦時にはエーゲ艦隊司令であった。

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軽巡洋艦「ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」。第八巡洋戦隊司令官時代のロンバルディ提督の旗艦。

イタリアの参戦直前に本国に召還され、海軍中将に昇進した。ロンバルディ提督の第二次世界大戦における最初のキャリアは海軍諜報部(SIS)の長官としてであった。当時、イタリアには陸軍、海軍、空軍で別々の諜報機関が存在し、諜報活動も一本化されているわけではなかった。しかし、ロンバルディ提督率いるSISは正確な情報収集/分析に尽力し、イタリア海軍の作戦全般の円滑な遂行に貢献している。
1941年6月、SIS長官の地位をマウジェリ提督(Franco Maugeri)に譲り、潜水艦隊司令官に任命されたレニャーニ提督(Antonio Legnani)の後任として、軽巡「ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」を旗艦とする第八巡洋戦隊司令官に任命されている。9月末には英海軍のマルタ補給作戦「ハルバード作戦」を妨害するためにイアキーノ提督(Angelo Iachino)率いる主力艦隊と共に出撃、ロンバルディ提督率いる第八巡洋戦隊は輸送船団に打撃を与えたが、阻止には失敗した。
ロンバルディ率いる第八巡洋戦隊はそれ以外に、何度か船団護衛に従事している。しかし、11月末の船団護衛任務時には英軍機の襲撃に遭遇船団への損害は防いだが、英軍機の雷撃を受けて旗艦「アブルッツィ」が小破、帰港後ドック入りすることとなった。

 

◆「アグリーメント作戦」の完全粉砕

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リビア隊司令長官時代のロンバルディ提督。トブルク軍港にて。

1942年に入ると、第八巡洋戦隊の指揮を離れ、ロンバルディはリビア隊司令長官に任命、トリポリ軍港に赴任した。なお、リビア艦隊の参謀長はガラーティ大佐(Giovanni Galati)である。北アフリカにおける戦局の好転により、リビア艦隊の司令部はまずベンガジ軍港、その後エジプト国境に近いトブルク軍港に移されている。本部をトブルクに移したリビア隊司令部は、小規模な艦隊しか有していなかったが、沿岸部の基地に展開したMAS艇部隊が大きな戦果を挙げている。例えば、8月29日に発生した「エル・ダバ沖海戦」では、イタリア軍が占領したエジプトのエル・ダバ空軍基地の艦砲射撃を実行しようとする英艦隊を迎撃し、魚雷艇の雷撃により駆逐艦「エリッジ」を撃沈、英艦隊の撃退に成功した。
9月には、英軍は軍全体の士気を回復するためにキレナイカイタリア軍陣地への夜間の同時的強襲作戦を計画した。これは4つの作戦で構成され、一つ目は本命である「ダフォディル作戦」ことトブルク港強襲作戦二つ目はスノードロップ作戦」ことベンガジ強襲作戦三つ目は「ヒヤシンス作戦」ことバルチェ強襲作戦四つ目は「チューリップ作戦」ことジャロ・オアシス強襲作戦で、これら4つを総称して「アグリーメント作戦」とした。すなわち、海上と陸上(砂漠)の双方からの同時攻撃によって進軍するイタリア・ドイツ軍の混乱を招く作戦だった。この大規模強襲作戦のそれぞれの詳細を説明すると、スノードロップ作戦」「ヒヤシンス作戦」「チューリップ作戦」は全て内陸の砂漠地帯を通って奇襲する陽動作戦であり、本命の「ダフォディル作戦」のみが陸上及び海上からの同時奇襲攻撃であった。

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リビア艦隊所属の水雷艇「カストーレ」。トブルク軍港の設備が未発達だったこともあり、リビア艦隊所属の艦艇は小型艦ばかりであった。

リビア植民地のイタリア軍港設備は総じて未発達であり、更に連合国との攻防戦による損害もかなり多かったリビア艦隊参謀長のガラーティ大佐は港湾設備の修復と改修に奔走することになった。そういった状況もあり、リビア艦隊の本部が置かれているトブルク軍港にも艦隊戦力は不足している状態であった。英軍のトブルク軍港襲撃時にトブルク軍港に展開していた艦隊は水雷艇3隻(「カストーレ」「カシーノ」「モンタナーリ」)哨戒艇・揚陸艇7隻MAS艇複数という実に小規模な艦隊のみであった。そして、海軍の「サン・マルコ」海兵と、カラビニエーリやリビア人兵士を含む陸軍部隊、基地防空を担う空軍部隊が港湾の防衛に従事していた。この小規模な艦隊と守備隊をリビア隊司令官のロンバルディ提督が指揮することとなった

英軍側の作戦はジョン・エドワード・ハーセルデン中佐(John Edward Haselden)によって考案・計画され、英海軍地中海艦隊のヘンリー・ハーウッド提督(Henry Harwood)はこの綿密に計画された特殊作戦を許可した。陸軍・海軍から成るA~Eの5つの戦隊に分けられ、これに空軍部隊が加わった。A戦隊ハイファ港から出発した海軍部隊で、駆逐艦「シーク」及び「ズールー」で構成され、2隻の駆逐艦はイタリア海軍の駆逐艦迷彩を使ってイタリア艦に見せかけて偽装した。この2隻に約400名の海兵隊が乗り込み、上陸作戦を担ったB戦隊は内陸のクフラ(自由フランス軍に制圧されたキレナイカ南部の拠点)から出発した陸軍部隊で、ドイツ軍部隊に偽装して港湾への侵入を試みた。C戦隊アレクサンドリア港から出発した海軍部隊で、18隻のMTB魚雷艇で構成された。これに陸軍の機関銃部隊と対空砲部隊が乗り込み、A戦隊とは別の上陸作戦を担ったD戦隊アレクサンドリア港から派遣された海軍部隊で、軽巡「コヴェントリー」を旗艦として、軽巡1隻・駆逐艦4隻で構成された。これは上陸艦隊の支援と戦隊の防衛を担っていた。更にE戦隊潜水艦「タク」による上陸支援ビーコンの設置を担当した。

これらの作戦はトブルク軍港を攻略する本命の「ダフォディル作戦」で、先述した通り、これと同時攻撃として他に3つの陽動作戦が同時進行させた。後述するが、陽動はいずれも伊軍側の反応で失敗している9月13日の夜20時30分、英空軍部隊がトブルク軍港を空襲した。この混乱の隙に20時45分、クフラから北上したB戦隊がドイツ軍部隊に偽装することで軍港内部に容易く潜入することに成功B戦隊は野戦病院を襲撃してドイツ軍負傷兵を殺害した後、沿岸砲台の制圧を試みるためにイタリア軍守備隊と交戦状態に入った。B戦隊の不意打ちに対して伊軍守備隊は応戦し、手榴弾で撃退した。

9月14日午前0時、A戦隊C戦隊の上陸部隊による攻撃をイタリア側は認識し、ロンバルディ提督はこれの迎撃と港湾の防衛を命令E戦隊潜水艦「タク」は海が荒れていたために上陸支援ビーコンの設置に失敗し、B戦隊とのコンタクトも取れなかった。B戦隊の失敗によってイタリア軍守備隊は強化され、イタリアの哨戒艇「Mz 733」C戦隊を発見。0時30分、今度はイタリア哨戒艇「Mz 756」C戦隊分隊を発見し、2隻の哨戒艇は分散したC戦隊を追撃する。B戦隊はイタリア軍守備隊との交戦のためC戦隊との連絡が取れず、結果としてC戦隊の上陸の前にA戦隊の上陸を命令した。しかし、海岸での戦闘によって指揮官であるハーセルデン中佐はヘッドショットを受けて戦死。作戦は混乱を極めた。3時頃、展開する英海軍上陸部隊を発見したリビア艦隊の水雷艇「カシーノ」「カストーレ」「モンタナーリ」の3隻は上陸部隊を迎撃し、魚雷艇揚陸艦の数々を撃沈している。

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英海軍のトライバル級駆逐艦「シーク」。8.8cm高射砲(所謂アハト・アハト)を受け大破するという、珍しい経験をしている。

英空軍の爆撃は3時40分に終了し、4時30分にA戦隊駆逐艦「シーク」及び「ズールー」は、潜水艦「タク」が設置する予定だった上陸支援ビーコンが無いため、計画とは異なるトブルク西側の海岸にて海兵隊部隊を上陸させてしまった伊海軍の「サン・マルコ」海兵とカラビニエーリは上陸部隊を発見してこれを攻撃、揚陸艇が次々と撃沈される事態となった。結果として上陸出来たのは150人に過ぎず、それらも降伏を余儀なくされた駆逐艦「シーク」及び「ズールー」は港からの探照灯に照らされて沿岸砲台の攻撃を受けた。また、イタリア軍守備隊は8.8cm高射砲(所謂アハト・アハト)を「シーク」に向けて発射し、「シーク」機関室に命中航行不能に陥った「シーク」は続けて砲弾を受けて大破した。

これを受けて駆逐艦「ズールー」「シーク」援護のために煙幕を展開し、大破して航行不能となった「シーク」を牽引、「ズールー」は自らも被弾しながらも海域の離脱を試みた。上陸部隊は完全に混乱に陥り、イタリア軍部隊の奮戦を受けて多くは戦死、もしくは捕虜となった夜明け頃には完全に英軍の上陸作戦は失敗し、上陸していない残存部隊は撤退を始めた。5時30分、ロンバルディ提督は水雷艇「カストーレ」「カシーノ」「モンタナーリ」に対して残存部隊の追撃を命令する。そして、イタリア空軍部隊も残存部隊の追撃に参加し(マッキ MC.200の戦闘爆撃機型が敵艦隊に多くの損害を与えた)、散り散りになった英海軍上陸艦隊は次々と撃沈されていった。結局、「ズールー」「シーク」、そして軽巡「コヴェントリー」艦隊と空軍の追撃で撃沈され、アレクサンドリア港まで帰還できた部隊は僅かであった。

朝7時にはロンバルディ提督は本部に撃退の完了を連絡した。結局、英軍側の「ダフォディル作戦」完全な失敗に終わることとなり軽巡「コヴェントリー」及び駆逐艦2隻(「ズールー」「シーク」)魚雷艇6隻揚陸艦他多数の艦艇を撃沈され、その他殆どの艦艇が損害を受けるという大敗北となった。上陸部隊に関しては戦死は779名捕虜576名という被害であった。一方のイタリア軍側はロンバルディ提督による巧みな防衛指揮によってこれだけの大勝利を挙げておきながらも、損害を戦死16名(イタリア兵15名、ドイツ兵1名)、負傷50名(イタリア兵43名、ドイツ兵7名)に抑えることに成功したのである。自軍側は少ない損害で抑え、敵軍側に大損害を与えたロンバルディ提督の指揮は高く評価された。ここまで一方的な勝利は、イタリア海軍の歴史の中でも珍しく、それも相手はかの強大な英軍であった(まして、海の上の戦いだけでなく、陸上での戦いも含んでいた)。ロンバルディ提督の手腕とトブルク軍港守備隊の勇敢さは評価されるべきであろう。

さて、英軍部隊はトブルク軍港を夜間強襲する「ダフォディル作戦」の他に、キレナイカの各拠点を襲撃する陽動作戦を同時に行っていたが、結果として全て完全に失敗した。ベンガジへの強襲作戦であるスノードロップ作戦」は英軍部隊が悪路のために夜明けまでに到達出来ずに夜間奇襲に失敗、任務を中止して撤退したがイタリア空軍部隊に発見され、対地攻撃を受けて約半数の車輛が破壊、10名の兵士が戦死した。バルチェへの強襲作戦「ヒヤシンス作戦」及びジャロ・オアシス攻略を目的とした「チューリップ作戦」もイタリア軍側の反撃によって撤退し、一連の作戦は英軍の敗北に終わった。この圧倒的な勝利を受け、ロンバルディ提督はイタリア軍最高の名誉」とされるサヴォイア軍事勲章を叙勲されたのであった。

 

リビア艦隊の崩壊、そして戦後

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ジュゼッペ・ディ・バルトロ中尉(Giuseppe Di Bartolo)。1943年1月19日のズアーラ沖海戦にてトリポリ港からの脱出を試みるが、英艦隊の襲撃を受けて戦死した。

しかし、彼とイタリア軍の栄光も長くは続かなかったエル・アラメインでの陸軍の大敗に続き、連合軍は仏領北アフリカへの上陸作戦(トーチ作戦)を実行したことにより、北アフリカ戦線は崩壊の一途を辿り、イタリア軍は挟撃される事態となった。こうして、リビア艦隊は撤退に伴い、再度司令部をトブルクからベンガジ、更にトリポリに移すことになった。地中海の制海権も連合軍側が再度掌握していき、小規模なリビア艦隊にそれを防ぐ術は無かった絶望的な状況下で1943年を迎えたロンバルディは、トリポリから出来るだけ多くの部隊や物資を撤退させるべく行動に出た。ズアーラ沖海戦のような悲劇も発生したが、概ね残存艦隊の本国への引き上げには成功している。結局トリポリタニアの陥落と同時に、リビア艦隊は名目上の存在となり、ロンバルディは北アフリカを離れ、本国に帰還した。
ムッソリーニが王党派のクーデターによって逮捕された後、1943年8月にはパトラ軍港に司令部を置く西部ギリシャ海軍司令部の長官に任命され、正式にリビア隊司令官を辞任した。短い期間であったが、駆逐艦水雷艇を中心とするギリシャ方面の伊艦隊を率いて、本国との船団護衛等を指揮している。しかし、一カ月と待たずして9月8日の突如の休戦発表を聞き、ドイツ軍が迫りくる中、ド・クールタン参謀長の命令に従い直ちに残存艦隊をマルタに向けて出港を命じた。自らはパトラ軍港に残ったため、ドイツ当局に逮捕されることになった。ドイツ側からRSI海軍への合流を迫られるが、いかなる協力も拒否したため、ポーランドにあるスコッケン収容所に移送。1945年1月にソ連軍に解放されるまで、その地で囚われていた。
1946年に本国に帰還したロンバルディは予備役に編入、1952年には海軍上級中将に昇進。戦後は外交官として活動し、アルゼンチンに派遣、サン・ミゲル・デ・トゥクマンのイタリア領事館にて領事を1957年まで務めた。なお、サン・ミゲル・デ・トゥクマンは『母をたずねて三千里』で主人公マルコが最後に母と巡り合う町として知られる。1957年に帰国したロンバルディは、1978年3月25日、ローマにて没した。

 

◆参考文献
・Aldo Cocchia著 "Convogli -Un marinaio in guerra 1940-1942", 2004, Mursia
・Aldo Cocchia著 "La Difesa del traffico con l'Africa Settentrionale.La Marina Italiana nella Seconda Guerra Mondiale.Volume VII", Ufficio Storico della Marina Militare, 1962
・Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori
・B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori
・Giuseppe Fioravanzo著 "La Marina Italiana nella Seconda Guerra Mondiale. Vol. V: La Guerra nel Mediterraneo – Le azioni navali: dal 1º aprile 1941 all'8 settembre 1943", Ufficio Storico della Marina Militare, 1960
・Giorgio Giorgerini著 "La guerra italiana sul mare. La Marina tra vittoria e sconfitta 1940-1943", 2002, Mondadori

一隻の損失も出さなかった「輸送船団の守護神」! ジョヴァンニ・ガラーティ提督と駆逐艦「ヴィヴァルディ」

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ジョヴァンニ・ガラーティ提督(Giovanni Galati)

提督の戦歴シリーズも今回で三回目だ。さて、今回は「船団の守護神」たる若き名指揮官、ジョヴァンニ・ガラーティ(Giovanni Galati)提督の戦歴について見ていってみることにしよう。ガラーティ提督は駆逐艦「ヴィヴァルディ」を旗艦とする第14駆逐戦隊の司令官で、30回を超える船団護衛任務の中で、敵潜水艦の猛攻や、敵機からの激しい空襲に見舞われながらも、巧みな指揮によって一隻も護衛対象である輸送船を失わなかったという、世界的に見ても素晴らしい戦歴を持つ指揮官だ。

彼は任務を成功させるためには司令部の命令を無視することさえしてみせた、大胆不敵な指揮官であった。中央地中海における英軍の猛攻とイタリア輸送船団の損害を見ると、対照的に彼の戦歴の凄さがわかるだろう。また、休戦後はイタリア艦隊の降伏に対し、「海軍の名誉に反する」として熱烈に反対した指揮官の一人としても知られている。

過去回はこちら↓

第一回:アルベルト・ダ・ザーラ提督

associazione.hatenablog.com

 

第二回:フェルディナンド・カサルディ提督

associazione.hatenablog.com

 

 

◆その出自と大戦序盤の戦功

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士官学校時代の若き日のガラーティ。

1897年9月19日、ジョヴァンニ・ガラーティは南イタリア最大の都市であり、「永遠の劇場」と謳われるナポリの砲兵将校の家に生まれた。ガラーティは父ロベルトとは違い海軍への道を進み、1916年4月、海軍大尉として任官、第一次世界大戦には新型戦艦「カイオ・ドゥイリオ」の艦橋要員となった。大戦後半にはその若さにしてモニター艦「カルソ」の艦長を務め、カポシレの前線に展開アオスタ侯爵(Emanuele Filiberto di Savoia-Aosta)率いる第三軍の進軍を支援した。この活躍により、銀勲章を叙勲されている。この頃から勇敢な若き指揮官として評判であった。戦間期には巡洋艦「クアルト」の副艦長として、エチオピア戦争やスペイン内戦に参加している。
第二次世界大戦参戦時、ガラーティは海軍大佐だった。彼は駆逐艦「ウゴリーノ・ヴィヴァルディ」を旗艦とする第14駆逐戦隊の司令官を務めた。ガラーティ大佐はこのナヴィガトーリ級駆逐艦4隻から構成された戦隊を率いて、地中海における船団護衛戦の「主人公」となったのである。しかし、彼が船団護衛戦に従事するのは主に1941年からであり、1940年の段階では主力艦隊の作戦援護対潜哨戒任務機雷敷設任務等が中心となった。

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「ヴィヴァルディ」によって救出された英潜水艦「オズワルド」の水兵たち。

7月のプンタ・スティーロ海戦では援護艦隊の一員として参加、戦闘の際に雷撃を受けたが回避に成功している。対潜戦闘の指揮も優れ、8月にはスパルティヴェント岬沖にて対潜哨戒中に英潜水艦「オズワルド」を発見し、これを撃沈した。この際、撃沈した潜水艦の乗員を救助し、潜水艦の全乗員55名の内、大半の52名を救出することに成功している。これらの戦果から、プンタ・スティーロ海戦の援護艦隊における活躍で二度目の銀勲章を、「オズワルド」の撃沈によって三度目の銀勲章を叙勲されている。
10月にはボン岬沖の機雷敷設に従事。これは後に駆逐艦ハイペリオンを撃沈している。同月のパッセロ岬沖海戦では海戦後に生存者の救出任務に従事した後、戦線を離脱した英艦隊の捜索・追撃を行った。

 

◆「船団の守護神」の真骨頂

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ガラーティの旗艦・駆逐艦「ウゴリーノ・ヴィヴァルディ」。ナヴィガトーリ級駆逐艦の一隻で、第14駆逐戦隊の旗艦として数々の船団護衛任務を成功に導いた武勲艦である。

ガラーティの本領発揮は1941年からである。何故なら、ガラーティの真骨頂たる「船団護衛戦」が開始されたのは1941年からであったからだ彼は1941年1月から、1942年1月までの約1年間に30回を超える船団護衛任務に従事したが、巧みな指揮によって一隻の損失を出さずに船団を守り抜いたのだ。ガラーティの手腕は司令部にも高く評価され、「決して船を失わない」とさえ言われた
しかし、ガラーティは船団護衛の成功のために時折司令部の命令を無視する事も厭わなかった。これは英軍の的確な襲撃とその高い輸送船団消耗率を不審に思い、司令部にスパイがいるとガラーティが考えていたからである(実際は英軍側による暗号傍受が原因だった)。結果的に彼の大胆さは功を奏し、船団護衛を成功させたのであった。命令違反をしても勝てばよかろう、ということだ。
1941年に入ると、前年に引き続き、再度ボン岬への機雷敷設任務に従事し、その後「真骨頂」である船団護衛に従事することとなった。1月末には初の船団護衛任務を実行し、ナポリからトラーパニへの船団護衛に従事道中で英潜水艦の襲撃に遭遇したが、これを撃退し、無傷で船団を到達させた。その後も6月までの間に幾度もナポリ-トリポリ間の船団護衛任務に従事したが、この間に英軍機の激しい爆撃や潜水艦による雷撃を経験したが、全て回避に成功し、船団に一切の損失を出さず、目的地に到着させた。4月16日にはタリゴ船団の海戦」の生存者救出にも従事している。4月の船団護衛任務では敵潜水艦を返り討ちにした戦果から、銅勲章を叙勲された。6月7日から8月4日は整備のため旗艦「ヴィヴァルディ」がドッグ入りしたため、ガラーティは久々の休暇を過ごした。

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「ヴィヴァルディ」甲板で記念撮影を撮る水兵たち。

8月に入ってから再度任務を再開し、8月13日から15日、再度ナポリからトリポリへの船団護衛任務に従事したが、この時は特に困難な状況に遭遇した。この船団護衛戦では英軍機の激しい爆撃に加え、英潜水艦の襲撃にも遭遇するという、空と海中の両方からの激しい攻撃に晒されたのである。しかし、この状況の中でもガラーティは冷静に指揮し、英潜水艦を機雷で返り討ちにして撃退、対空砲火で雷撃機編隊も撃退している。この十字砲火の中でも船団の損失を一切出さずに無事目的地まで到達したのであった。この武勲により、二度目の銅勲章を叙勲された。その後も12月まで休みなく船団護衛任務に従事し、戦局の展開と共に、母港をナポリからメッシーナターラントに変更しながら、リビアへの船団を守り抜いた。

1942年1月3日から5日、ガラーティは第14駆逐戦隊での最後の船団護衛に従事した。シチリアメッシーナからトリポリへの船団護衛任務であった。当然、これも無傷で船団をリビアに到達させている。数々の船団護衛任務を成功に導いたその手腕は高く評価され、四度目の銀勲章を叙勲され、更にこれまでに六度の戦功十字章を叙勲された。第二次世界大戦において、ガラーティは3度の銀勲章(第一次世界大戦を含め累計4度)、2度の銅勲章、6度の戦功十字章を叙勲され、更にドイツ軍からも鉄十字章を叙勲されている。この勲章の多さからも、彼の武勲がわかるだろう。

 

◆不屈の精神、王への忠誠

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ガラーティの最後の旗艦となった、軽巡洋艦ルイージ・カドルナ」。第二次世界大戦時は機雷敷設任務や高速輸送任務、兵員輸送などで活用された旧式の軽巡洋艦ターラントに赴任したガラーティの下で最後の旗艦となり、ターラント湾への機雷敷設任務に従事した。戦後は復員船として活動。

1月7日、旗艦「ヴィヴァルディ」を降りたガラーティはリビア隊司令部参謀長に就任した。司令官のジュゼッペ・ロンバルディ提督(Giuseppe Lombardi)を補佐する役目を担った。枢軸軍の反撃でトブルクが解放されると、トブルク軍港の司令官も兼任した。後にリビア艦隊の総司令部がベンガジから移転され、トブルクに新たなリビア艦隊総司令部が設置されている。ロンバルディ提督は英軍のトブルク軍港奇襲作戦(アグリーメント作戦)を完全に粉砕することに成功し、英軍側に甚大な被害を与えたが、ガラーティはこの作戦迎撃には関与していなかったようだ。とはいえ、戦闘や空襲で深く傷ついたトブルク軍港の復旧にガラーティは尽力した。
1943年2月1日からは第14駆逐戦隊の司令官に再度就任したが、最早地中海の制海権は連合軍側に奪われており、最早ガラーティが戦果を挙げられる場はなかった。7月25日に海軍少将に昇進し、提督となった。46歳での提督の就任は、イタリア海軍でも特に若い提督の一人でもあった。8月12日には軽巡ルイージ・カドルナ」「ポンペオ・マーニョ」「シピオーネ・アフリカーノ」の3隻から構成された軽巡戦隊(旗艦・軽巡「カドルナ」)の司令官に任命され、ターラント軍港に着任短い期間ながら、本土沿岸の機雷敷設任務に従事し、連合軍の本土侵攻に備えた。一応、この時に設置された機雷原は後の連合軍によるイタリア半島進撃時にいくつかの艦船を撃沈する戦果を挙げている。それはまさしく、「イタリア海軍最後の抵抗」と言えるだろう。

しかし、9月8日に突如休戦の知らせが届き、ド・クールタン参謀長から連合国への艦隊の降伏を命じられる。ガラーティはこの命令に対して拒否を宣言し、連合軍の進軍から逃れるために北部へ艦隊を移送するか、特攻覚悟の艦隊決戦、更には名誉のための自沈を主張した。上官であるブリヴォネージ提督は「王の命令である」とガラーティの説得に当たったが、ガラーティは頑なに命令の遂行を拒否し意見を曲げなかった。ブリヴォネージは仕方なく、ガラーティを軍港内で"命令拒否による叛逆罪"として「逮捕」することを決断し、軍港内の独房に閉じ込められた。連合軍がターラント軍港を制圧した後、ガラーティはブリンディジに移転した海軍司令部に連行されている。
ガラーティは軍事法廷で裁かれることとなったが、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世自ら裁判の停止を要請し、ガラーティを現役復帰させることを命じた。これを受け、ド・クールタン参謀長はガラーティに対し、何のペナルティも負わせずにそのまま現役に復帰させている。ガラーティは王党派であったが、このエピソードは彼の国王への忠誠心を更に高めることとなった
その後、チェファロニア島でドイツ軍の包囲下となっている「アックイ」師団の存在を知り、ド・クールタン参謀長の承認を得て、水雷艇「シリオ」及び「クリオ」医薬品、武器、弾薬、補給品を搭載し、救援に出発。しかし、連合軍側がこの出発に気付き、無許可の出撃を「救出は理由付けであり、実際は連合軍の支配下から逃れようとしている」と非難、任務を中止して帰還するよう警告した。ガラーティは立場上従わざるを得ず、これにより、「アックイ」師団の救出は連合軍側の介入で失敗することとなり、「アックイ」師団はドイツ軍によって虐殺された。もし、連合軍側の妨害がなく、彼が「アックイ」の救援に迎えていれば、5000人以上の命を救うことが出来ただろう。連合軍側は「アックイ」の将兵らを見殺しにしたのである。
その後、ティレニア艦隊司令官に短期間就任した後、海軍省付属となった。戦後、共和政移行に伴い、熱心な王党派であったガラーティは予備役となり、これまでの武勲を称えてイタリア軍事勲章が叙勲されているイタリア軍事勲章はサヴォイア軍事勲章と同格の「イタリア軍最高の名誉」とされる勲章であり、共和政移行後に王政時代のサヴォイア軍事勲章に替わる形で成立した。王党派であるガラーティが共和政となったイタリアの最高位の勲章を叙勲されたのは皮肉と言える。最終階級は海軍中将。1955年に退役し、1971年10月15日にローマにて没した。

 

◆主要参考文献
・Aldo Cocchia著 "Convogli -Un marinaio in guerra 1940-1942", 2004, Mursia
・Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori
・B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori
・Giuseppe Fioravanzo著 "La Marina Italiana nella Seconda Guerra Mondiale. Vol. V: La Guerra nel Mediterraneo – Le azioni navali: dal 1º aprile 1941 all'8 settembre 1943", Ufficio Storico della Marina Militare, 1960
・Giorgio Giorgerini著 "La guerra italiana sul mare. La Marina tra vittoria e sconfitta 1940-1943", 2002, Mondadori

 

スパダ岬沖の激戦!逆境のカリスマ指揮官、フェルディナンド・カサルディ提督の不屈の精神

最近は第二次世界大戦時に活躍したイタリア海軍の提督たちの趣味や出身地などを調べている。彼らの日常的なエピソードを知ることで、戦時の英雄たちの人間的な部分が垣間見えるのがとても好きなのだ。というわけで、前回は第二次世界大戦時のイタリア海軍の指揮官でも特に優秀な人物と言われる、アルベルト・ダ・ザーラ(Alberto Da Zara)提督の戦歴についてブログを更新した。今回はスパダ岬沖海戦の指揮官として知られる、フェルディナンド・カサルディ提督(Ferdinando Casardi)の一生について詳しく見て行くことにしよう。

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フェルディナンド・カサルディ提督(Ferdinando Casardi)

 

カサルディ提督はスパダ岬沖海戦の指揮官として知られている。が、スパダ岬沖海戦は一般的に「敗北エピソード」としての印象が強く、それに伴いカサルディ提督の評価もあまり良いとは言えない。しかし、実際のところはスパダ岬沖海戦の敗北は彼の人為的なミスとは言い難く彼自身の海戦における判断や、その後の戦歴からも十分に優秀な人物として考えられるのだ(そもそも彼自身の知名度自体が低いが)。

また、彼はカリスマ的な指揮官としても知られ、多くの部下からも慕われた人物だった。もし、彼が本当に無能な人物ならば、部下は彼を慕うことはなかったであろう。実際、スパダ岬沖海戦における彼の冷静な判断は、部下らの証言で明らかになっているものである。彼の故郷であるバルレッタでも息子のマリオ氏と共に「英雄」として高く評価されている。そもそも知名度が高いとは言えない人物であるが、今回はカサルディ提督の「再評価」という意味も込めて、彼の戦歴を見ていくこととしよう。

前回はこちら

associazione.hatenablog.com

 

 

◆「カリスマ指揮官」の出自と趣味

フェルディナンド・カサルディは1887年1月1日石油化学企業役員であり弁護士の父オロンツォ・カサルディ(Oronzo Casardi)と、医療従事者の母リヴィア・ボナミーチ(Livia Bonamici)の次男として、南部イタリアのプーリア地方のバルレッタに生まれた。バルレッタはアドリア海に面する港湾都市で、古代には「カンナエの戦い」が起こったことでも知られている(現地には当時の遺跡が残っている)。

スポーツに万能で、特にフェンシングと体操が得意だった。趣味はピアノで、見事な腕前だったという。また、語学にも堪能で、フランス語英語ドイツ語に堪能だった。貧しい南イタリアの出身であったが、彼の家は資産家であり、裕福な家庭であった。1904年、リヴォルノ海軍士官学校に入り、1907年には准尉に任官。その後、順調に海軍での出世を重ねていき、伊土戦争では後の海軍元帥であるパオロ・タオン・ディ・レヴェル提督(Paolo Thaon di Revel)の副官として活躍、銀勲章を叙勲された。第一次世界大戦では戦艦「ダンテ・アリギエーリ」の第二砲術長を務め、終戦時までに少佐にまで昇進している。戦間期は駐米イタリア大使館駐在武官(1933-36)、リビア隊司令官(1937-1940)を務め、その後第四巡洋戦隊司令官を1940年2月から5月まで務めている。

 

◆スパダ岬沖の逆境

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軽巡ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ」。第二次世界大戦時のイタリア海軍の武勲艦であるが、「メシマズ」エピソードがあった艦としても知られている。

第二次世界大戦開戦時は軽巡「バンデ・ネーレ」を旗艦とする第二巡洋戦隊の司令官を務め、リビアへの船団護衛に従事。イニーゴ・カンピオーニ提督(Inigo Campioni)率いる主力艦隊(旗艦:戦艦「ジュリオ・チェーザレ」)と共に船団護衛に従事し、プンタ・スティーロ海戦においては援護艦隊として間接的に参戦した。その際、艦載機であるRo.43水偵を使って偵察している他、駆逐艦8隻と水雷艇2隻を率いて対潜任務にも従事している。この海戦はイタリアの戦略的勝利に終わった。

プンタ・スティーロ海戦の余波が残っている中、イタリア海軍は東地中海における英船団攻撃の強化のため、エーゲ海諸島への艦隊派を決定した。イタリアは伊土戦争によってドデカネス諸島を獲得しており、東地中海を勢力圏とする英国、そして近隣諸国のギリシャとトルコにとっては大きな脅威となっていた。ルイージ・ビアンケーリ(Luigi Biancheri)提督率いるエーゲ海艦隊は小規模戦力ながら東地中海において船団攻撃を実行し、駐在空軍も英軍拠点や船団への爆撃を行い、英国側に打撃を与えていた。スーペルマリーナは英国の勢力圏である東地中海を脅かすため、戦力強化を決定した。

この戦力強化のため、カサルディ提督率いる第二巡洋戦隊がエーゲ海方面への派遣を命じられた。第二巡洋戦隊は旗艦である軽巡ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ」及び僚艦・軽巡「バルトロメオ・コッレオーニ」の軽巡2隻で構成された。トリポリ港を出港したカサルディ艦隊はエーゲ海諸島のレーロ軍港を目指した。英艦隊側はこの2隻の軽巡戦隊の移動を哨戒によって把握しており、軽巡シドニーを旗艦とする艦隊を出撃させた。この艦隊はジョン・コリンズ提督(John Collins)によって指揮され、軽巡1隻駆逐艦5隻で構成された。

スーペルマリーナはエーゲ海諸島駐屯空軍に航行の安全を確保するために航空偵察を要請した。空軍部隊は航空偵察を実行したが、敵艦隊を発見できなかった。この航空偵察の"欠如"は海戦の結果に大きな影響を与えることになる。一方、トリポリを出港した2隻のイタリア軽巡だったが、不幸にも「コッレオーニ」は機関の不調を起こしていた。そんな中、7月19日の夜明けにクレタ島東部のスパダ岬沖にてカサルディ提督率いる巡洋艦戦隊はコリンズ提督率いる英艦隊を発見し、突破のために交戦を開始した。

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英艦隊からの連撃を受けて炎上する軽巡「コッレオーニ」

当時、海は荒れており更に霧による視界不良により砲撃の命中率が下がった航空偵察の欠如機関の不調荒れた海、そして霧による視界不良と、イタリア艦隊にとっての不運が重なることになってしまった「コッレオーニ」は機関の不調により不動の状態の中で軽巡シドニーによる連続の砲撃、更に駆逐艦隊による雷撃3発の直撃を受けて撃沈された。「コッレオーニ」が瞬く間に撃沈された要因として、機関の不調だけでなく、イタリアの巡洋艦は高速能力を実現するために総じて軽装甲(英国側が言うには「紙装甲」)であったことが挙げられる。防御性能を持たない「コッレオーニ」は悪天候の中で敵艦隊に袋叩きにされるに至った。とはいえ、優秀な装甲を持っている軍艦であったとしても、3発の魚雷を食らえばそのダメージに耐えるのは難しかったであろう。
「コッレオーニ」が撃沈されたことを受け、「バンデ・ネーレ」単独で物量に勝る英艦隊を相手しなければならなかった。
カサルディ提督はこの絶望的な状況の中で冷静さを失わず「バンデ・ネーレ」53口径152mm連装砲による艦砲射撃により、シドニーの煙突が損傷を受け、小破させた。「バンデ・ネーレ」は英艦隊の旗艦・軽巡シドニー」に砲撃を命中させて損害を与え、巧みに敵艦隊の猛攻を回避し弾薬欠乏に追い込んだのであった。これによって英艦隊のコリンズ提督は弾薬不足と損害のため撤退を決断した。カサルディ提督は敵艦隊の撃退に成功し、その危機を乗り越えることに成功したのであった。勇敢さと冷静さ、そして危機に対する大胆さは当時の部下からも高く評価されている
英艦隊の追撃を振り切った「バンデ・ネーレ」はトブルクを目指すフリをして英海軍側の追跡を攪乱し、ベンガジに到着、その後母港に帰還した。英軍側は「バンデ・ネーレ」を撃沈するため追跡していたが、カサルディ提督の策略通りトブルクに向かったと勘違いしたため、追撃に失敗したのであった。空軍部隊の航空支援は今回も対応に遅れたが、爆撃によって駆逐艦「ハヴォック」が中破するなど英艦隊側も被害を受けている。しかし、イタリア空軍はスペイン内戦における戦訓から、敵艦船への攻撃を水平爆撃戦術に固執していたため、恐らく海戦の場に到着していても、英艦隊側に戦果を挙げるのは困難だったと分析されている(そのため、イタリア空軍は敵艦船への攻撃方法を急降下爆撃(スキップ爆撃)や雷撃に変更していったのである)

 

◆"船団の守護神"と「名誉の挽回」

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軽巡「ドゥーカ・ダオスタ」

帰港後、「コッレオーニ」の撃沈により、第二巡洋戦隊は改組された。1940年8月、カサルディ提督は第七巡洋戦隊の司令官に任命され、旗艦は軽巡「ドゥーカ・ダオスタ」に変更された。カサルディ提督はこの第七巡洋戦隊を率いて、数々の船団護衛任務機雷敷設沿岸部への艦砲射撃を実行して武勲を挙げた。バルカンや北アフリカへの船団護衛中には何度も敵潜水艦の襲撃を受けたが、巧みな戦術でこれを回避し、輸送船を1隻も失わなかった輸送船団で自軍の兵站を支えつつ、ギリシャ軍の沿岸拠点への艦砲射撃も度々実行して打撃を与え、後のギリシャに対する勝利に大きく貢献している。ギリシャ戦線での活躍は友軍であるドイツ軍からも高く評価された。
また、シチリア海峡における機雷敷設任務は第七巡洋戦隊の最も重要とも言える任務であり、敷設した機雷によって多くの連合軍艦船を撃沈することに成功した。特にこの機雷によって英海軍の潜水艦部隊は大きな被害を受けている
これらの武勲により、二度目の銀勲章サヴォイア軍事勲章に加え、ギリシャ戦における多大な活躍からドイツ軍からもドイツ鷲勲章を叙勲されているサヴォイア軍事勲章は金勲章(メダリア・ドロ)と並び、イタリア軍最高の名誉とされている勲章である。その勲章を叙勲されていることからも、彼の戦功の多さが伺えるだろう。スパダ岬沖海戦では惜しくも敗北を喫したものの、その後のカサルディ提督の武勲はスパダ岬の「敗北イメージ」を払拭させるには充分であった
1941年8月、第七巡洋戦隊の指揮を終え、ローマの海軍最高司令部(スーペルマリーナ)勤務となった。ムッソリーニ統帥が失脚した後、解任されたリッカルディ参謀長に替わって新たに海軍参謀長に就任したド・クールタン提督によって、休戦直前となる1943年8月にはナポリ軍港を拠点とする下部ティレニア艦隊の司令官に任命された。下部ティレニア艦隊司令部はナポリ軍港の他、ポッツォーリやガエータ、カステッランマーレ・ディ・スタービアといった軍港・造船工廠を管轄に置いていた。

こうして迫りくる連合軍の上陸艦隊に対抗するという重責を担うこととなったが、間もなく9月8日にはイタリア王国は突如の休戦を迎えることとなった。休戦の知らせを受けたカサルディ提督は管区内の軍艦に対して、出撃可能な場合は連合軍への降伏を命じ、修復中の艦に関しては自沈を命じた。いくつかの軍艦が自沈したが、即座に行動を開始したドイツ軍によって鹵獲された艦も多かった。また、ドイツ軍との戦闘も発生し、カステッランマーレ・ディ・スタービア海軍工廠では、カピターニ・ロマーニ級軽巡「ジュリオ・ジェルマニコ」の接収を望むドイツ軍が現地のイタリア海軍と交戦し、ドメニコ・バッフィーゴ(Domenico Baffigo)艦長含む船員の多くが戦死する悲劇も発生した。

ドイツ軍のナポリ進駐に対し、カサルディ提督はドイツ軍がナポリを撤退するまで地下に潜伏してレジスタンスに協力(所謂「ナポリの四日間」)、ナポリの解放に尽力した。連合軍の到着と共にナポリが解放された後、カサルディ提督は共同交戦海軍に合流し、継続して下部ティレニア艦隊の司令官を務め、終戦までその地位を維持している。

 

◆政治家デビューしたカリスマ指揮官

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政治家となったカサルディ提督

戦後は政治家として活動した。1948年にはキリスト教民主党所属の政治家として上院議員に選出されている。政治家として故郷であるバルレッタの発展に尽力し、特にインフラ整備の分野で功績を残したデ・ガスペリ政権では財務次官にも任命され、入閣も果たしている。また、海軍の退役軍人から構成される全国水兵協会(A.N.M.I.)の会長にも就任し、かつての部下らとも積極的に交流した。この頃は普段はローマに住み、時々故郷のバルレッタに滞在したそうだ。ちなみに、プーリア出身の軍人で政治家デビューした人物というと、第二次世界大戦時のイタリア陸軍最高の指揮官と名高いジョヴァンニ・メッセ(Giovanni Messe)元帥も知られている。
1975年1月11日、バルレッタの邸宅で心臓発作に襲われ、急死した。彼の葬儀にはフォルラーニ国防相ターラント軍港の司令官など海軍幹部も出席した。なお、彼の息子マリオ・カサルディ(Mario Casardi)も海軍提督で、諜報部の長官も務めた人物である。多くの部下から慕われたカリスマ的な指揮官は、こうして波乱の生涯を終えたのであった。享年88歳だった。

 

◆主要参考文献/参考サイト

・Aldo Cocchia著 "Convogli -Un marinaio in guerra 1940-1942", 2004, Mursia
・Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori
・Giorgio Giorgerini著 "La guerra italiana sul mare. La Marina tra vittoria e sconfitta 1940-1943", 2002, Mondadori
・B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori

http://www.ilfieramosca.it/periscopio/09_2015_50.html

(閲覧日:2020/08/27)

イタリア海軍屈指の名指揮官!アルベルト・ダ・ザーラ提督と、パンテッレリーア沖海戦における大勝利

第二次世界大戦時のイタリア海軍の指揮官の中でも、特に高い戦果を挙げたアルベルト・ダ・ザーラ(Alberto Da Zara)提督第二次世界大戦時のイタリア海軍の提督の中で最も勇敢であるとされ、パンテッレリーア沖海戦(Battaglia di Pantelleria)」では僅か軽巡2隻と駆逐艦5隻の艦隊で、戦艦や空母を含む大規模な英艦隊相手に大勝利を手に入れたことで知られている。以前の記事で彼の女性遍歴について書いてみたが、今回は彼の戦歴とその生涯について書いてみることとしよう。

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アルベルト・ダ・ザーラ(Alberto Da Zara)提督


◆出自や趣味、女性遍歴

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青年時代のアルベルト・ダ・ザーラ

1889年4月8日、北イタリアのヴェネト州パドヴァ(Padova)の騎兵将校の家に生まれたパドヴァは現在でも著名な大学都市として知られている町である。弟グイード(Guido Da Zara)は父パオロ(Paolo Da Zara)と同じ騎兵将校の道を歩んだが、アルベルトは海軍士官への道を歩んだ。実家が騎兵一家であったことから、幼いころから馬に親しんだアルベルトは、海軍指揮官になってからも時折、愛馬との時を楽しんだ
彼はスポーツ万能で、特にセーリングで高い成績を収めた。一方で、詩が好きな文学愛好家であり、中国勤務時には中国文化にも触れ、漢詩を親しんだという。
パンテッレリーア沖海戦では敵艦隊に一度海域離脱を許した際に、「何も言うことはない。流石は海の巨匠だよ(Non c'è che dire: gli inglesi per mare sono maestri.)」と詩的なセリフを言ったのは、こういった経歴に由来するかもしれない。

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士官時代のダ・ザーラ(右)と、ウォリス・シンプソン(左)

文武両道と言えるダ・ザーラだが、彼を最も象徴するものがある。それは女性遍歴であった。彼は多くの女性と関係を持つプレイボーイで、特に海外勤務時には「現地妻」を作ることでも知られた。冒険的な性格であった彼は社交界での存在感も強く、よく女性にモテたそうだ。彼に「征服」された女性の数は数知れず。特に有名なエピソードとしては、後に英国王エドワード8世の妻となるウォリス・シンプソン(Wallis Simpson)と中国勤務時に一夜を共にしたことがあるエドワード8世とウォリス・シンプソンは「王冠を掛けた恋」で知られている。まだに、「絵に描いたようなイタリア男」であったが、そんな遊び癖があったからか、生涯独身を貫き、結婚することはなかった

associazione.hatenablog.com

 

 

◆その戦歴とパンテッレリーア沖海戦

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閲兵するダ・ザーラ提督

第一次世界大戦時でペラゴーサ島制圧戦船団護衛などで武勲を挙げたダ・ザーラは順調に昇進していき、1939年までに海軍少将に昇進した。第二次世界大戦初期のダ・ザーラはまだ目立たない存在であり、軽巡戦隊の指揮官としてプンタ・スティーロ海戦に参加したが目立った戦果は挙げられていない。その後、いくつかの船団護衛や機雷敷設任務を指揮した後、1941年8月には対潜総監に任命された。
対潜戦の経験が全く無かった彼であったが、驚くほどの手腕を発揮し、対潜水艦戦の訓練や兵器開発が行われ大戦後期に開発された駆潜艇「VAS艇」や対潜能力が強化されたガッビアーノ級コルベットは彼の指導によって開発されたものであった。実際に彼の指導を受けた駆逐戦隊・水雷戦隊は対潜水艦作戦で高い戦果を挙げ、1942年4月14日にはイタリア水雷艇「ペガソ」は英海軍の撃沈数トップを誇る潜水艦「アップホルダー」を撃沈することに成功している。「アップホルダー」は船団の襲撃でイタリア側を大いに悩ませていた潜水艦であった。経験が無かったにも拘わらず、対潜総監として素晴らしい手腕を発揮したダ・ザーラ提督の技量は評価されるべきであろう(しかし、結果的には成果を挙げたため良かったことだが、経験のない人物を総監に任命したスーペルマリーナの判断には問題があったと言える)
1942年3月、第七巡洋戦隊(旗艦:軽巡「エウジェニオ・ディ・サヴォイア)の司令官に任命され、その後機雷敷設任務船団護衛任務に従事した。前年末に地中海の制海権を再度掌握(アレクサンドリア軍港襲撃)したことで、戦局は伊海軍側が有利となっており、しばらくは英海軍側も積極的な行動には出なかったため、大規模な交戦は無かった。しかし、6月中旬に自体は急速に動き出した。
1942年6月中旬、英海軍が大規模なマルタ救援船団を派遣したのである。これに対し、イタリア海軍は迎撃を実行。アレクサンドリアから出発した「ヴィガラス」船団に対してはイアキーノ提督率いる主力艦隊を差し向け、一方でジブラルタルから出発した「ハープーン」船団に対してはダ・ザーラ提督率いる第七巡洋戦隊を派遣した。

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軽巡洋艦「エウジェニオ・ディ・サヴォイア

6月13日、カリャリ港から第七巡洋戦隊が出撃した。軽巡「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」を旗艦とするこの戦隊は、軽巡2隻と駆逐艦7隻で構成されていたが、その内駆逐艦「ジョベルティ」「ゼーノ」の2隻の機関が不調を起こし、2隻は速力を維持できないためにパレルモ港に寄港した。結局2隻はパレルモ港に残り、戦隊は軽巡2隻・駆逐艦5隻と戦力を減らして英艦隊と交戦することになった。
一方、ジブラルタルから出港した英艦隊は戦艦と空母を含む大規模な艦隊であった。アルバン・カーティス(Alban Curteis)提督率いる「ハープーン」船団は、7隻の輸送船に対し、戦艦1隻(「マラヤ」)、空母2隻(「アーガス」「イーグル」)、軽巡4隻(「ケニア」「リヴァプール」「カリブディス」「カイロ」)、駆逐艦17隻掃海艇4隻魚雷艇6隻敷設艦1隻コルベット2隻という大艦隊であり、伊英両艦隊の間には圧倒的な戦力差があり、イタリア側が完全に不利な状況であった。
両艦隊の遭遇前に、伊空軍SM.79雷撃機が英船団を雷撃し、輸送船「タニンバー」を撃沈、軽巡リヴァプールを大破・航行不能にしている(その後「リヴァプール」は駆逐艦アンテロープ」に牽引され、戦線を離脱した)。
6月14日21時30分、海軍最高司令部(スーペルマリーナ)の命令を受け、ダ・ザーラはパレルモから再出撃した。戦力は先述した通り、軽巡2隻・駆逐艦5隻である。スーペルマリーナが傍受によって英船団の正確な位置を把握したことで、ダ・ザーラ艦隊は翌日6月15日の5時40分にパンテッレリーア沖にて英船団を発見「エウジェニオ・ディ・サヴォイア及び「モンテクッコリ」による主砲斉射によって海戦が開始、両艦隊は衝突した。

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旗艦「エウジェニオ」甲板で指揮を執るダ・ザーラ提督。彼のもっとも有名な写真と言えるだろう。

カーティス提督率いる護衛艦隊は船団を守るために煙幕を展開した。ダ・ザーラは速力の遅い駆逐艦「ヴィヴァルディ」及び「マロチェッロ」に別行動を取らせ、輸送船に対する攻撃を命令した。7時15分、駆逐艦「ヴィヴァルディ」「マロチェッロ」の主砲斉射によって、輸送船「オラリ」が直撃弾を受けて中破した。「エウジェニオ・ディ・サヴォイア及び「モンテクッコリ」も英護衛艦隊への砲撃を実行し、駆逐艦ベドウィンが直撃弾を受けて大破、駆逐艦「パートリッジ」は中破した。「パートリッジ」は自らも大きな損害を受けながらも、「ベドウィン」を牽引して戦線の離脱を図った。駆逐艦隊を支援していた軽巡「カイロ」「エウジェニオ・ディ・サヴォイアの主砲斉射を受け、艦首に被弾し中破している。しかし、駆逐艦隊は煙幕の中から「ヴィヴァルディ」「マロチェッロ」に対する反撃を行い、「ヴィヴァルディ」の甲板が炎上する事態となった。損傷を受けた「ヴィヴァルディ」を救援するため、駆逐艦「オリアーニ」「アスカリ」「プレムダ」が艦隊から切り離され、「マロチェッロ」と共に「ヴィヴァルディ」パンテッレリーア島に牽引した。一方、この煙幕によって8時頃にはダ・ザーラ提督は英船団を見失うこととなり、これに関してダ・ザーラ提督も「何も言うことはない。流石は海の巨匠だよ」と感嘆したという。しかし、ダ・ザーラは英船団の航路から機雷原に向かっていると予測し、パンテッレリーア沖の機雷原に向かった

ダ・ザーラ艦隊の追撃を振り切った英船団であったが、次は10時頃にシチリアから襲来するイタリア空軍機の攻撃を受けることとなり、船団は大きな被害を受け、輸送船「チャント」が撃沈された。ダ・ザーラ艦隊は英船団を追撃に向かっている最中にマルタから飛来する英軍機の襲撃を受けたが、全て回避することに成功した。11時頃、中破した「ヴィヴァルディ」をパンテッレリーア島に護送した駆逐艦「オリアーニ」「アスカリ」が帰還し、艦隊に合流している。正午過ぎに予測通りに英船団を再度発見したダ・ザーラ艦隊はこれを攻撃し、輸送船「ブルドワーン」軽巡「エウジェニオ・ディ・サヴォイア及び「モンテクッコリ」の砲撃で撃沈され、輸送船「ケンタッキー」駆逐艦「オリアーニ」の雷撃で撃沈された。駆逐艦「パートリッジ」は「ベドウィン」の牽引を断念し、ベドウィンはブスカーリア中尉(Carlo Emanuele Buscaglia, イタリア空軍を代表する雷撃機エース)が駆るSM.79雷撃機によってトドメを刺されて撃沈されている(既に午前中の戦闘で軽巡2隻の攻撃によって大破していた)。

軽巡「モンテクッコリ」13km離れた距離から長距離射撃を行い、掃海艇「ヘーベ」に直撃弾を食らわせて大破させたが、ダ・ザーラ艦隊は弾薬不足のためにスーペルマリーナからの撤退命令が出され、14時20分にトラーパニへの帰還を決定した。なお、退避に成功した残りの英船団も、ダ・ザーラ艦隊によって誘導された先で待ち構えていた機雷原によって大損害を受け、自由ポーランド海軍の駆逐艦「クヤヴィアク」が撃沈し、駆逐艦「マッチレス」「バッズワース」輸送船「オラリ」が大破する被害を被った。結果として、最終的にマルタに到達出来た輸送船は「トローイロス」と「オラリ」の2隻のみであった。しかし、「オラリ」は海戦による被害で貨物を失っていたため、事実上到着した輸送船は「トローイロス」1隻のみと言える。また、この輸送船2隻も直後の枢軸軍機による空襲によって港内で撃沈される事態となってしまった。

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腕を組むダ・ザーラ提督

ダ・ザーラ提督は圧倒的に戦力に勝る英船団を相手に勇敢に戦い、軽巡2隻と駆逐艦7隻(しかも海戦勃発前に2隻が離脱したため、事実上駆逐艦は5隻)という戦力で大勝利を挙げることに成功した。英艦隊は駆逐艦2隻(「ベドウィン」「クヤヴィアク」)輸送船4隻を撃沈され、軽巡リヴァプール」、駆逐艦「マッチレス」「バッズワース」、掃海艇「ヘーベ」、輸送船1隻が大破、軽巡「カイロ」及び駆逐艦「パートリッジ」が中破する大損害を被り、輸送船団も2隻しか到達出来なかった上に、1隻は海戦の損害で貨物を失い、もう1隻の貨物を補給できたが、結局2隻とも港内で撃沈されている。

その一方で、イタリア側の被害は駆逐艦「ヴィヴァルディ」が中破したのみで留まった。ダ・ザーラ提督の巧みな指揮によって実現したこの勝利は、第二次世界大戦におけるイタリア水上艦隊の戦いで最大の勝利と言っても過言ではないだろう。帰還した後、パンテッレリーア沖海戦の大勝を称え、イタリア軍最大の名誉とされる「サヴォイア軍事勲章」を叙勲されている。

 

◆海戦後のダ・ザーラとその最期

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マルタでの艦隊降伏時。手前がダ・ザーラ提督、奥は英海軍のアンドリュー・カンニンガム提督。

パンテッレリーア沖海戦の大勝の後、ダ・ザーラは「8月中旬の海戦」にも参加している。この時、アンジェロ・パローナ提督(Angelo Parona)率いる第三巡洋戦隊と共に、ダ・ザーラ提督率いる第七巡洋戦隊も参加したが、第三巡洋戦隊の重巡ボルツァーノ及び第七巡洋戦隊の軽巡「アッテンドーロ」が英潜水艦の雷撃で大破したため、会敵前にスーペルマリーナの命令により帰還する事態となった。ダ・ザーラ自身は戦果を挙げられなかったが、この海戦自体は潜水艦部隊と小型艇部隊が大きな戦果を挙げ、伊海軍の戦術的な勝利に終わっている。

1942年12月にはトーチ作戦に続く、米軍によるナポリ軍港空襲を受け、第七巡洋戦隊は「アッテンドーロ」が大破着底、「エウジェニオ」及び「モンテクッコリ」も損害を受けたダ・ザーラも爆撃により大怪我を負い、手術を受けている。そのため、1943年4月まで入院せざるを得なかった(その後は第七巡洋戦隊はロメオ・オリーヴァ提督(Romeo Oliva)が指揮を執っている)。
退院後、1943年8月には戦艦「カイオ・ドゥイリオ」を旗艦とする第五戦艦戦隊の司令官に任命され、ターラント軍港に着任。連合軍の上陸に備えて南部方面の防衛に従事したが、一カ月足らずで9月8日の休戦を迎えた。艦隊の降伏に悩みつつも、ド・クールタン参謀長の命令に従い、ターラント軍港の残存艦隊を率いてマルタ島に向かい、艦隊を降伏させた。数カ月間マルタに滞在した後、1944年8月にイオニア艦隊長官に就任し、海軍中将に昇進した。1946年9月に海軍を退役、その後は母の出身地であるフォッジャに引っ越し、1951年6月4日、同地で没した

 

◇主要参考文献

Alberto Da Zara, Pelle d'ammiraglio, Uff. Storico Marina Militare, 2014

Arrigo Petacco, Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale, Mondadori, 2013

B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori

「イタリア帝国」の地下資源 —ファシスト政権による本土と植民地のアウタルキー経済―

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「イタリア帝国」における鉱山マップ(第二次世界大戦時の伊軍占領地は含まない)

ムッソリーニ率いるファシスト政権のもと、「イタリア帝国」は絶頂期を迎えた。「輸入大国」であったイタリアは産業のテコ入れとアウタルキー政策によって、赤字続きだった貿易収支を黒字に転じさせることに成功した。ファシスト政権は様々な分野でアウタルキーを目指したが、今回はその中でも資源分野に注目したいと思う。

「イタリアは資源が乏しい」と考えられがちであるが、燃料資源においてはそうだったが、鉱物資源に関しては古くから豊富に採掘されていた。また、燃料資源の不足はファシスト政権も深く認識していたため、「帝国領内」における資源開発を急いだ。サルデーニャ島における炭鉱開発や、AGIPによる植民地における油田探鉱・開発(成功例はアルバニアくらいだったが)が例として挙げられる。

 

■イタリア本土の地下資源

サルデーニャ島における炭鉱開発

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カルボーニア:セルバリウ鉱山の坑道

サルデーニャ島における炭鉱開発ファシスト政権による資源アウタルキー政策の典型例として知られている。地中海に浮かぶサルデーニャ島古くから鉄や金銀などの採掘が行われており、イタリアではトスカーナと共に鉱物資源に恵まれた地域として知られていた。ファシスト政権期においても、アルジェンティエーラ鉱山(Argentiera)で産出される鉄鉱石や鉛オルメド鉱山(Olmedo)ボーキサイトなどは戦争を推し進める軍の軍需物資としても重宝されている。

サルデーニャ島では1870年代からバク・アビス(Bacu Abis)で石炭の採掘が開始されており、燃料資源に乏しいイタリアにとっては貴重な炭田であった。イタリアは燃料資源において完全に外国に依存しており、第一次世界大戦前は英国、第一次世界大戦後はドイツから石炭の輸入に頼っていた。外国に資源の輸入を依存するということのリスクの高さはムッソリーニも認識しており、それを少しでも改善するために国内の資源開発に力を注ぐことになった。1930年代になるとSMCSによってサルデーニャ島での新たな炭田開発を行ったが、こうして誕生したのがカルボーニア鉱山(Carbonia)である。

カルボーニアはその名の通り、この地で産出される石炭(Carbone)に由来した名前だ。建築を重視するファシスト政権はこの新鉱山の開発と同時に、鉱山労働者のための新都市建設を行った鉱山労働者として、イタリア各地の失業者がこの地に移住し、コミュニティを形成していったのである。カルボーニアは貴重な燃料鉱山だったために、大戦中には連合軍による空爆対象とされ、戦後にはイタリアのECSC入りに大きく貢献する存在となった。ただ、カルボーニアは約50万トンの石炭を産出した一方で、産出される石炭の質は悪かった

 

◆中部:鉱物資源の宝庫、トスカーナ

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マッサ・マリッティマの鉱山跡に残るかつてのトロッコ

トスカーナは古くから鉱物資源が豊かな地として知られ、その資源開発の歴史はエトルリア時代からとかなり古い。トスカーナ西部に広がるメタッリーフェレ丘陵(Colline Metallifere)銅や鉛、ボーキサイトなどの鉱物資源が豊富だ。この丘陵に位置する町々は鉱山と共に発展した歴史を持っている。

例えば、マレンマ地方のマッサ・マリッティマ(Massa Marittima)近辺は古代から鉄鉱石などの鉱物採掘と加工工業で栄えた。マレンマ地方は湿地帯故にマラリアに悩まされており、それに伴いマッサ・マリッティマも衰退していったが、ファシスト政権の下で農地を増やすことを目的とした大規模干拓(所謂「大地の戦い」)がマレンマ地方で行われたことと同時に、政権による積極的な鉱山開発が行われ、都市は再度鉱山の町として息を吹き返した。他には、ガヴォッラーノ(Gavorrano)の黄鉄鉱、そして貴重な石炭を産出するリボッラ(Ribolla)などがメタッリーフェレ丘陵に位置した。

また、トスカーナの鉱山で忘れてはならない存在として、エルバ島がある。ナポレオンが島流しになったことで知られるこの島は、現在はサルデーニャ島同様にリゾート地として知られているが、鉱山と共に発展した島である。エルバ島東部のリオ・マリーナ(Rio Marina)エルバ島の鉱物採掘の中心地であり、この地から鉄鉱石を中心とする産出された鉱物が積み出され、船で本土に運ばれた。故に、ジェノヴァやピサといった海洋共和国だけでなく、スペインやフランスといった大国もエルバ島を狙ったのである。

イタリアの鉱山企業で有名なモンテカティーニ社も、本社をフィレンツェに置いていた。元々は化学工業で発展した企業で、化学肥料に使う合成窒素や、弾薬用の火薬、医薬品、水力発電、化学繊維や染料などなど、さまざまな分野を手掛けていた。ファシスト政権期のイタリア経済発展において重要な役割を果たした企業として知られる。イタリアがECSC内で重要な役割を果たした理由の一つとして、トスカーナの鉱物資源の存在は大きかった。カッラーラ(Carrara)の大理石ヴォルテッラ(Volterra)のアラバストロなど、芸術品や建築に用いる石材の採掘も現在においても有名である。

 

◆南部:シチリアの硫黄と、プーリアのボーキサイト

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トラボネッラ(Trabonella)硫黄鉱山の坑道

鉱山開発を南部の方に目を向けてみよう。シチリア古代より硫黄の産出地として知られた。ローマ人は医療と軍事の分野で硫黄を重宝したのである。シチリアの硫黄鉱山の規模は非常に大きいシチリア中部のイメラ渓谷(Valle dell'Imera)を中心に数百もの硫黄鉱山がシチリアには存在し、その生産量はかつて世界一を誇ったほどである。

硫黄は火薬の原料として最も重要な軍需物資である。そういうこともあり、ファシスト政権はシチリアの硫黄鉱山開発に着目した。かの有名な作家、ルイージピランデッロも親がアグリジェントの硫黄産業に勤めていた。シチリアの硫黄産業は実に文化や芸術とも密接なかかわりを持ったのである。しかし、劣悪な労働環境故に鉱山事故が多発していたため、ファシスト政権は大規模なインフラ投資を行わざるをえなかった。

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プーリア:サン・ジョヴァンニ・ロトンドのボーキサイト鉱山

南部の地下資源としてもう一つ、重要な存在がある。それはプーリアボーキサイトである。ボーキサイトはアルミニウムの原料であり、軍需物資としても重宝された。ファシスト政権期における探鉱活動の結果、1935年にプーリアのスピナッツォーラ(Spinazzola)に大規模なボーキサイト鉱床が発見され、開発が開始された。ボーキサイトの発見は貧しいプーリア地方の重要な収入源となったのである。

1940年のイタリアのボーキサイト産出量は世界の産出量の12.3%を担い(世界五位)、またヨーロッパにおいては産出量の20.2%を占めた。イタリアでボーキサイト産出が強化された理由は、ファシスト政権がアルミニウムのアウタルキーを重要視したためである。アルミニウムは航空機の原材料として使われたためだ。ファシスト政権は空軍の増強に力を入れており、そのためにもアルミニウムの増産は重要だった。なお、アルミニウムの精製には大量の電力が必要であったが、これは水力発電で賄っている。

プーリア最大のボーキサイト鉱山は、サン・ジョヴァンニ・ロトンド(San Giovanni Rotondo)である。プーリア北部のガルガーノ半島に位置するサン・ジョヴァンニ・ロトンドは、モンテカティーニ社によって開発が進められ、政権による鉱山労働者のための都市開発も行われた。その他、中部にはプーリア最初のボーキサイト鉱山であるスピナッツォーラ(Spinazzola)鉱山、南部のサレント半島先端にはオトラント鉱山(Otranto)といったボーキサイト鉱山が存在した。当然ながら、第二次世界大戦時にはこれらの鉱山は連合軍の空爆対象となっている。

 

◆北部各地の資源開発

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リグーリア:ガンバテーザ鉱山。現在は博物館として公開されており、来訪者は鉱山労働者に扮してトロッコに乗ることが出来るとのこと。

イタリア北部の鉱山というと、ピエモンテバランジェーロ鉱山群(Balangero)は有名だ。バランジェーロはヨーロッパ最大の石綿(アスベスト)鉱床であり、世界初のアスベスト鉱山の一つとしても知られていた。また、バランジェーロは作家プリーモ・レーヴィが勤務していたことで知られ、彼はこの地にあるサン・ヴィットーレ(San Vittore)鉱山にて、化学者エンニオ・マリオッティの助手として、産出された鉱物からのニッケルの分離実験を行っている。ニッケルは当時軍需物資として大きな需要があったが、技術不足によって結局実用的な分離には至らなかった

リグーリアにあるガンバテーザ鉱山(Gambatesa)欧州最大のマンガン鉱山である。古くから鉄鉱石や銅鉱石の鉱山地帯として知られていたが、19世紀にマンガンの鉱床が発見され、その後は世界でも有名なマンガン鉱山として知られた。ファシスト政権期には鉱山の国有化が行われており、第二次世界大戦時のイタリア王国休戦後はドイツ当局に接収され、SSの占領下のもとで鉱山が操業されていた(しかし、ドイツ統治下では人材不足から産出量は大きく低下したという)

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ヴァッレ・ダオスタ:コーニュ鉱山遠景

フランス及びスイス国境に近いヴァッレ・ダオスタには鉄鉱石(磁鉄鉱)の鉱山として知られるコーニュ鉱山(Cogne)がある。鉱山は元々兵器開発で知られるアンサルド社が持っていたが、ファシスト政権期に政府によって国有化された。軍需物資としても重要であったため、コーニュの鉱山労働者は第二次世界大戦時には兵役を免除されている。また、ヴァッレ・ダオスタでは小規模ながら石炭も産出した。

ロンバルディアエルト山近辺(Monte Elto)では古くから鉄鉱石を産出していたが、近代において稼働中の鉱山は少なかった。ファシスト政権期にはカローナ(Carona)硫黄鉱山がアウタルキーのため再稼働させられたが、シチリアの硫黄の産出量に比べればごく小規模であり、終戦後まもなく閉山となっている。

 

■属国・植民地の地下資源

◆帝国領内唯一の油田地帯、アルバニア

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アルバニア:ペトロリア油田の石油タンク

アルバニア「イタリア帝国」領内で唯一の実用的な油田を擁していたことで知られている。ファシスト政権は時のアルバニア大統領であるアフメト・ゾグ大統領の後ろ盾となることで、アルバニアの石油利権の確保を目論んだ。1925年3月にはイタリア-アルバニア両国で石油研究に関する協定が結ばれ、アルバニア領内の47,000ヘクタールの領域でイタリアは油田開発をする権利を得た

これを受け、1925年7月にはAGIPの子会社としてアルバニア油田を開発・管理するAIPA社を設立した。AIPAによる油田開発の結果、1935年には油田パイプラインを完成させた。これを受け、油田地帯の中心地の名称を石油(Petrolio)に由来する「ペトロリア(Petrolia)」に改称し、「イタリア帝国」における石油生産の中心地となった。当時のアルバニアは独立国であったが、既に経済的にイタリアの属国と化していたのである。1939年4月のイタリア軍アルバニア侵攻でイタリアはアルバニアを完全な統治下に置いたことにより、油田も完全な制御下に置いている

ペトロリア油田は406,800トンの石油を生産していたが、その質は悪く、精製に手間が掛かったアルバニアで生産された石油は船で輸送され、バーリの精製所で精製されていた。とはいえ、質も生産量もサルデーニャの石炭同様にそこまで良くはなかったアルバニア油田であるが、イタリア国内の石油消費の1/3を賄っている。どんなに質が劣悪でも、戦時下のアウタルキー経済では最重要な存在だった。

また、アルバニアにおいて、セレニッツァ鉱山(Selenizza)天然アスファルトも石油と並び重要な資源の一つであった。年間15,000トンの生産量を持つこの鉱山で産出された天然アスファルトは、海外への輸出において重要な役割を果たしたのである。

 

◆期待外れに終わったリビアの資源開発

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リビアの油田開発の従事した地質学者、アルディート・デシオ

伊土戦争でイタリアの植民地となった北アフリカリビアリビアは現在では世界有数の産油国として知られているが、植民地時代のリビアは実に「貧しい地」であった。しかし、イタリア植民地時代のリビア(キレナイカ)で油田が発見されていなかったわけではないキレナイカにおける油田は1914年に井戸水を採掘していたイタリア当局によって、偶然にも発見されていたのである。

第一次世界大戦後、ファシスト政権が成立するとムッソリーニによるアウタルキー政策と共に、AGIPによる石油の国産化計画が浮上する。1929年にはトリポリ在住のイタリア人入植者が石油調査企業を設立し、リビアでの探鉱活動を再開した。探検家アルディート・デシオのもとで1936年からキレナイカにおける油田開発が開始キレナイカ西部のマラダ油田(Marada)では1938年までに18の井戸が掘られた。こうして、約1リットルの実験的な石油抽出に成功したが、石油は地下2000m以下にあり、当時のイタリアの技術では採掘することが不可能であることが判明してしまった。

リビア総督のバルボ空軍元帥のもと、アメリカの石油掘削技術を導入し、これらの油田から石油の抽出が計画としてあったが、大戦の勃発で技術導入は頓挫し、敗戦でイタリアがリビアを失ったことにより、結局イタリア植民地時代のリビアで実用的な油田開発が実現することはなかった。また、キレナイカでは硫黄資源の存在も期待されたが、こちらも探鉱活動の結果、僅かな埋蔵量と判明し、期待外れな結果となった。

1940年にはデシオはフランスから割譲されたアオゾウ地帯ティベスティ山地にてプラチナの採掘実験を行っているが、こちらは良い結果が得られたものの戦争の勃発により途中で中止となっている。なお、この地域は独立後のリビアとチャドの戦争の舞台となっており、現在でもウランなどの資源が豊富に存在すると考えられている。

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トリポリタニアにおけるリン酸塩鉱床の調査を行った地質学者、イグナツィオ・サンフィリッポ

また、トリポリタニアにおいては石油ではなく、リン酸塩の豊かな鉱床が期待されていた。ファシスト政権は当時、食糧増産を進める「小麦の戦い」を進めており、そのためにも化学肥料の原料となるリン酸塩の存在は非常に重要であった。化学肥料のアウタルキーを進める上で、窒素肥料はモンテカティーニ社の合成、カリ肥料はエリトリアのカリ岩塩で可能であったため、残るはリン酸塩が必要だった。当時、イタリアはリン酸塩を完全に海外からの輸入に頼っていたため、この解消がファシスト政権の狙いであった。こうして、豊かな鉱床が期待されるトリポリタニアでの開発が開始した。

1929年には地質学者イグナツィオ・サンフィリッポ率いる調査団によるトリポリタニアにおける調査が行われ、ガリアン、タルフーナ、シェメクといった各地で採掘が行われた。しかし、トリポリタニアにおけるリン酸塩の産出量は予想を遥かに下回る量であり、とても需要をカヴァーするだけの量はなかったのである。結果として、石油やリン酸塩など、リビアにおける資源開発は完全な失敗に終わったが、戦後にリビアが独立した後、技術導入によってリビアは世界的な産油国として成長したのであった。

 

◆「黄金郷」東アフリカの夢

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エリトリアアウガロ(ウガロ)の金鉱山

東アフリカ鉱物資源に恵まれていた。しかし、イタリア本土やリビア植民地から遠く離れた立地、そして地中海に至るには英国管理下のスエズ運河を通るか(通行料が高い)、遠回りの喜望峰ルートしか無く、一部の大量に採掘された資源を除いて、海外から輸入するよりも輸送コストが高かったために上手く活用出来なかった。それ故に、今日ではイタリアによる東アフリカの資源開発は失敗したとされている。

エリトリアはイタリアが最初に植民地化したエリアであることもあり、東アフリカで最も資源開発が進んでいたエリトリアは現在でも金を始めとする豊かな鉱物資源で知られており、独立後も外貨獲得のための大きな手段として使われている。最も代表的な鉱山はバレントゥ南方に位置するアウガロ(Augaro, ウガロUgaroとも)鉱山であり、エリトリア西方の鉱山開発の中心地として栄え、金鉱石を採掘した。このほか、エリトリア鉄道の終着駅であるビシア(Biscia)や、北部のナクファ近郊に位置するザラ(Zara)大規模な金鉱山として知られ、現在も稼働中である。

また、エリトリア中部のコルッリ鉱山(Colulli)東アフリカ最大のカリ岩塩鉱山として知られており、資源の積み出し港であるメルサ・ファトマ港とは鉄道で繋がっていた。カリ岩塩はカリ肥料の原材料として、食糧増産を推し進めるファシスト政権にとって非常に重要な資源の一つとなった。現在も稼働中の鉱山であり、鉄道は戦時中に解体されてしまっているが、エリトリア政府の下で鉄道復旧計画が進行中である。コルッリと同様にダナキル砂漠に位置するエチオピア北部のダロール鉱山(Dallol)カリ岩塩の採掘で知られ、鉄道でメルサ・ファトマまで運ばれた。

エリトリアは大規模な塩田が多い地域でもあった。著名なものはマッサワ(Massaua)アッサブ(Assab)の二カ所であるが、スーダン国境に近いヘルン塩田や、エチオピア北部のダナキル砂漠に位置するアッサーレ(Assale)でも岩塩が採掘されている。マッサワとアッサブはイタリア植民地時代も現在もエリトリア第一・第二の港湾でも知られる。特にマッサワの製塩業は有名で、かつては日本の食卓塩はマッサワ産で占められていた

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エチオピア:トゥッル・カピ鉱山

エチオピアは1935-1936年のエチオピア戦争でイタリアに征服された。侵攻前から鉱物資源が豊富であることが知られていたが、イタリアによる征服後もエチオピアレジスタンスによる抵抗が激しく、開発は思うように進まなかったエチオピア北部には先述したダロール鉱山やアッサーレ塩田があったが、北部を除けばイタリア植民地時代にマトモに資源開発が進んだのは西部のウォレッガ(Uollega)くらいである。

既存の鉱山を再活性化させる形で開発が進められジュブド鉱山(Jubdo)トゥッル・カピ鉱山(Tullu Capi)では金を始めとする鉱物の採掘が行われた。また、エチオピア南部でも雲母の実験的な採掘が行われている。しかし、いずれにせよレジスタンスの襲撃で鉱山労働者が殺害される事件も発生し、開発は困難を極めた

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ソマリア:ダンテ塩田

ソマリアは東アフリカにしては資源は乏しく、その多くは未開発であった。しかし、そんな中でも特筆すべきは北部のダンテ塩田(Dante)で、イタリアの詩人の名を冠したこの塩田はファシスト政権期に世界最大の塩田として発展した。ダンテ塩田の塩はケーブルカーで湾を越えて運ばれ、オルディオの製塩所に輸送されている。地下資源としてはあまり成功例はなく、石油掘削実験が行われたが失敗に終わった北部のガルカロ鉱山(Galcalo)では錫(スズ)が産出されたが、産出量はごく僅かである。

 

◆主要参考文献

Ciro Poggiali, ITALIA MINERARIA, Edizioni Roma, 1939
Francesco Manconi, LE MINIERE E I MINATORI DELLA SARDEGNA, Consiglio Regionale Della Sardegna, 1986
Orazio Cangila, STORIA DELL'INDUSTRIA IN SICILIA, Editori Laterza, 1995,
Andrea Francioni, IL MIRAGGIO DEI FOSFATI: LA MISSIONE SANFILIPPO IN TRIPOLITANIA (1929-1931), Rubbettino Editore, 1996

澤口恵一著『イタリアの炭鉱都市カルボニア その発展と衰退』大正大学研究紀要

世界の「海軍記念日」とその由来を見てみよう!

世界各国の海軍には、その国の海軍を祝う海軍記念日を設けている海軍がいくつかある。祝日だったり、祝日じゃなかったり、また公式には「海軍記念日」ではなかったり、扱いは国によってバラバラだ。その多くは各国の海軍を代表する海戦の勝利の日や、海軍に関わる日(海軍関係者の誕生日や海軍の設立日等)に由来している。

今回は様々な国の「海軍記念日」と、その由来を見ていってみよう。

 

日本海軍の記念日:5月27日

由来:日露戦争時の日本海海戦(1905年5月27日)

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日本海海戦

我が国の「海軍記念日」は日露戦争時の日本海海戦に由来している。大日本帝国海軍時代に記念日となったが、海上自衛隊は厳密には「海軍」ではないため公式には「海軍記念日」ではないものの祝祭イヴェントが開かれている。

日本海海戦日本海軍史において重要な役割を果たした強国ロシアの主力艦隊を相手に、東郷平八郎提督率いる日本艦隊がこれを撃破したことは、戦争の終結に大きく貢献しただけでなく、日本の列強入りに大きな影響をもたらしたのである。そういった意味でも「海軍記念日」に日本海海戦の日が選ばれたのは相応しいことと言えよう。

 

■イタリア海軍の記念日:6月10日

由来:第一次世界大戦時のプレムダ海戦(1918年6月10日)

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プレムダ海戦

イタリア海軍の「海軍記念日」は、第一次世界大戦時のプレムダ海戦に由来している。この海戦における大勝は地中海におけるイタリア海軍の勝利を決定的にするものであり、好敵手であったオーストリア=ハンガリー海軍に引導を渡すことになった。第一次世界大戦の戦勝により、アドリア海制海権は完全にイタリア側が掌握している。

イタリア海軍は国家統一直後の第三次独立戦争におけるリッサ海戦において、オーストリア=ハンガリー海軍相手に大敗を喫した。この事はイタリア海軍にとって屈辱として記憶に残っていたが、プレムダ海戦はリッサ島近くのプレムダ島近海で発生した海戦であったため、「雪辱を晴らす大勝利」という意味合いもあった。

この海戦はロレンツォ・クザーニ提督によって指揮され、MAS艇艇長のルイージ・リッツォ大尉が墺戦艦「スツェント・イストファン」を撃沈した大戦果で知られている。海軍を代表する「海軍記念日」が、主力艦隊の勝利の日ではなく小型艦艇の勝利の日、というのもイタリア海軍らしいと言えるだろう。

 

ロシア海軍の記念日:7月26日

由来:大北方戦争時のガングート海戦(1714年7月26日)

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ガングート海戦

ロシア海軍の「海軍記念日」は、大北方戦争時のガングート海戦に由来する。大北方戦争はロシアとスウェーデンが覇権を争った戦争で、この戦争でロシア側が勝利したことにより、スウェーデンの覇権は崩れ、ロシアは大国としての道を進むようになった。

この戦争で重要な役割を果たしたのが、ガングート海戦だ。歴史的にはロシア海軍の最初の重要な勝利の一つでもあり、この海戦でフョードル・アプラクシン提督率いるロシア艦隊がスウェーデン艦隊を撃破したことで、バルト海におけるスウェーデン海軍の優位は揺らぐこととなり、それがのちのスウェーデンの覇権の崩壊に繋がった

 

■英国海軍の記念日:10月21日

由来:ナポレオン戦争時のトラファルガー海戦(1805年10月21日)

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トラファルガー海戦

英国は正式には「海軍記念日」は存在しないが、事実上の「海軍記念日」である「トラファルガー海戦記念日(Trafalgar Day)」が存在している。これは皆さんご存じ、ナポレオン戦争時のトラファルガー海戦に由来している。

トラファルガー海戦ナポレオン戦争時の最大の海戦であり、ホレーショ・ネルソン提督率いる英艦隊が、歴史的な好敵手であるフランス艦隊に大勝した。これを受け、ナポレオンは英国本土への侵攻を断念せざるを得なくなったとされる。

 

アメリカ海軍の記念日:10月27日

由来:セオドア・ルーズベルト大統領の誕生日(1858年10月27日)

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セオドア・ルーズベルト大統領

アメリカの「海軍記念日」は特定の海戦の日ではなく、アメリカ海軍の発展に貢献したセオドア・ルーズベルト大統領の誕生日に由来する。そう、映画『ナイトミュージアム』でも出てくるあの人だ。

 

■トルコ海軍の記念日:9月27日

由来:第三次オスマン-ヴェネツィア戦争時のプレヴェザ海戦(1538年9月27日)

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プレヴェザの海戦

トルコ海軍の「海軍記念日」はかの有名なプレヴェザの海戦に由来する。今でこそ海軍強国のイメージがわかないものの、現在のトルコ共和国の前身となったオスマン帝国は文字通り「地中海の覇者」であった。オスマン帝国の地中海における覇権を決定打とした海戦が、まさにプレヴェザの海戦である。イタリア諸邦を始めとする欧州側からすると、歴史的な敗北の日として記憶されている。

ヴェネツィア共和国オスマン帝国は長らく地中海における覇権を巡り争っていた。これに対し、ヴェネツィア共和国は同じイタリアの海洋共和国であるジェノヴァ共和国、更にスペイン、ローマ教皇領、マルタ騎士団と手を組み、連合艦隊オスマン帝国艦隊に挑んだ。しかし、バルバロス・ハイレッディン提督率いるオスマン帝国艦隊はこれを撃破し、オスマン帝国の地中海における優位を見せつけられることとなった

なお、伊土戦争時には同じ海域で発生した「プレヴェザの海戦」があるが、こちらはイタリア艦隊にオスマン帝国艦隊が完敗している。イタリア海軍なりの数百年ぶりのリヴェンジマッチだったのかもしれない。

 

他の国々にも「海軍記念日」は存在するが、以下その一部を少しだけ紹介する。

チリ(5月21日):太平洋戦争時のイキケ海戦(1879年5月21日)に由来
ペルー(10月8日):太平洋戦争時のアンガモス海戦(1879年10月8日)に由来
台湾(9月2日):金門砲戦時の九二海戦(1958年9月2日)に由来
中国(4月23日):東海艦隊の設立日(1949年4月23日)に由来

 

なお、主要国だと、フランス海軍やドイツ海軍には記念日は存在しないようだ。